宿場 4次 全長 36km 歩き終えています 歩いた時期 2007年6月

御代参街道

五個荘-八日市-岡本- 石原-鎌掛-土山→ 東海道に合流

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五個荘小幡

五個荘小幡

山越商人像 八日市 滋賀
山越商人像 八日市 滋賀

鎌倉、室町の頃、鈴鹿の八風峠、千草峠を越えて近江と伊勢の間を往還する商人群があった。彼等は保内の野々郷(現八日市市金屋、中野、今崎、蛇溝、市辺、小今、)三津屋、玉緒そのほか石塔、沓掛、小幡などの人々で、世に山越商人と呼ばれている。 保内商人の活動が史料に出てくるのは平安末期からである。この平安から鎌倉期は、我国商工業の勃興期にあたっているから、ここに現れる近江商人こそ、日本商業史の第一頁に登場した……

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鎌倉、室町の頃、鈴鹿の八風峠、千草峠を越えて近江と伊勢の間を往還する商人群があった。彼等は保内の野々郷(現八日市市金屋、中野、今崎、蛇溝、市辺、小今、)三津屋、玉緒そのほか石塔、沓掛、小幡などの人々で、世に山越商人と呼ばれている。 保内商人の活動が史料に出てくるのは平安末期からである。この平安から鎌倉期は、我国商工業の勃興期にあたっているから、ここに現れる近江商人こそ、日本商業史の第一頁に登場した人達ということができよう。 この頃の商人は、後世の近江商人のように、一人二人が天秤棒を担いで行商をするというのでなく、多人数がキャラバンを組んで行動していた。応仁2年、京都の僧が千草越で道づれとなった近江商人の一行は、「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という盛んなものであった。このような集団としての団結と自治の気構えは、「今堀日吉文書」に残る多くの村掟からも推察することができる。 江戸期に入って、近江商人の活動が全国的に宣伝されたその前段階に、郷土から輩出した、不屈の行動力と、豊かな先見性、時代に先駆けた自治の精神を有した商人群があったことをこの群像建立により、長く記憶にとどめておきたいと念ずる。 昭和56年5月29日 創立20周年記念 八日市ロータリークラブ

近江を縦貫する中山道の愛知川宿と武佐宿の間に、五個荘という近江商人発祥の地がある。安土、日野、八幡などの城下町に楽市楽座が確立される以前、中世の商業活動を担っていたのは、延暦寺、園城寺、日吉神社など特定の寺社権門の庇護の下、座と呼ばれる職能集団を形成し、独占通商・販売権などの特権を与えられていた座商人であった。彼らは特定の街道の通商権を持つ商人として、固有の呼び方をされている。九里半街道を通って日本海側の若狭との間で、塩魚などの海産物を扱う卸売商は、小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市の商人によって独占され、彼らは五箇商人と呼ばれた。一方、太平洋側の伊勢へは八風・千草両街道を通って、小幡・保内・沓掛・石塔の商人が通商した。彼らは四本(しほん)商人、また鈴鹿山脈を越えるため山越商人とも呼ばれている。

常夜燈・旧中山道入口 小幡 五個荘 東近江市
常夜燈・旧中山道入口 小幡 五個荘 東近江市大神宮 常夜灯 維持文政八乙酉四月建之 大字中所有講中

五個荘小幡集落は愛知川御幸橋の西たもとから南西にのびる旧中山道にはいったところにある。中山道(東山道)という地の利を得て小幡商人は、五箇商人と四本商人とを兼ねる唯一の商人団として活躍していた。小幡商人は戦国時代になると、独占的地位を剥奪され、安土や八幡城下に移住していった。ちなみに江戸時代に活躍した近代五個荘商人の本宅群は小幡ではなく、中山道から西に外れた金堂・川並地区を中心に分布している。

近江商人発祥の地小幡はまた、中山道と伊勢とを結ぶ近道が分岐する交通の要衝でもあった。愛知川宿から伊勢に向かう場合、草津経由の東海道をいけば済む話ではあるが、三角形の二辺をゆくことになって非常に遠い。そこで中山道小幡から東海道の土山宿に通じる36kmのバイパスが開かれた。この道筋には五個荘のほか、八日市(保内)、日野など近江商人のふるさとがつながっていて、市(いち)道とも呼ぶ。(小幡商人ら四本商人は鈴鹿の関所を避けて、土山には出ず八日市から東進して八風・千草両街道を通って鈴鹿山脈を越えた。)

中山道-東海道の近道は、伊勢神宮と多賀大社を結ぶ参詣の道でもあった。多賀大社には伊勢神宮祭神である天照大御神の両親、伊邪那岐命・伊邪那美命が祀られている。「お伊勢参らばお多賀へおいやれ、お伊勢お多賀の子でござる」とうたわれたように、江戸時代伊勢神宮と多賀大社の参詣はパック旅行になっていた。なかでも寛永17年(1640)5月、三代将軍家光の乳母春日局が上洛の途中、伊勢から多賀への参詣をするにあたって、この道が大々的に整備された。さらに江戸時代中ごろになると、京都仙洞御所から毎年、正月、五月、九月に伊勢神宮と多賀大杜へ公卿を名代として参詣するようになり、伊勢道、北国多賀道などと呼ばれていたバイパスが後年「御参代街道」とよばれるようになった。

近江鉄道愛知川鉄橋 愛知川町 愛知郡 滋賀
近江鉄道愛知川鉄橋 愛知川町 愛知郡 滋賀

小幡から八日市、蒲生、日野を経て甲賀土山まで、約9里36kmの旧道を歩く。日野まで、湖東を走る1、2両編成の近江鉄道が付かず離れず付き合う。高校時代の通学電車である。なお、旧道の道筋ならびに沿道の旧跡等については岡井義明氏・日比野渥美氏の共同制作による『歩いてみよう 御代参街道 平成13年3月発行』を参考にさせていただいた。新旧街道を対比させつつ130枚もの写真に解説を付した貴重な折りたたみ式冊子である。

旧御代参街道起点 五個荘小幡町 東近江市
旧御代参街道起点 五個荘小幡町 東近江市

御代参街道は、東海道土山宿より笹尾峠を越え、鎌掛、石原、岡本、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡の間約9里の道のりである。 この道路は、寛永17年(1640年)5月、三代将軍家光の乳母として大奥を統率し内外に勢力を振るった春日局が上洛の途中、伊勢から多賀への参詣をするにあたって、正式に整備されたといわれる。 江戸時代京都から伊勢へ参拝し、その後、多賀大社への参詣に利用されたことから、御代参街道……

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御代参街道は、東海道土山宿より笹尾峠を越え、鎌掛、石原、岡本、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡の間約9里の道のりである。 この道路は、寛永17年(1640年)5月、三代将軍家光の乳母として大奥を統率し内外に勢力を振るった春日局が上洛の途中、伊勢から多賀への参詣をするにあたって、正式に整備されたといわれる。 江戸時代京都から伊勢へ参拝し、その後、多賀大社への参詣に利用されたことから、御代参街道と呼ばれるようになった。「1お伊勢参らばお多賀へおいやれ、お伊勢お多賀の子でござる」とうたわれたように、この道は庶民の参宮にも盛んに利用された。

文政8年(1825)の常夜灯から堤防の坂を下り、旧中山道にはいった最初の変則四辻で、左に旧御代参街道が出ていた。その先右手に、唯一の小幡人形窯元、九代目細居源悟氏の居宅があり、窓際にいくつかの完成品が街道に向かって並べられていた。旧道を歩き出すとまもなく、左手の空き地に厳島神社の小さな石鳥居を背にして芭蕉の句碑がある。近江に関係のある句ではない。

八九間空で雨降る柳かな 芭蕉

御代参街道追分道標 五個荘
御代参街道追分道標 五個荘左 伊勢、ひの、八日市道 右 京みち 上:1966年 下:2006年

旧道は県道52号をこえたところで工場の敷地に消えている。その先も工場がつづき、愛知川堤防と県道の間に延びていた旧道の面影はありそうもない。中山道にもどって、現代の御代参街道を歩いてみることにした。その分岐点にある道標は、もと旧道の起点に建っていたもので、「左 伊勢 ひの 八日市みち」「右 京みち」 とある。右の京道は中山道。

奥村神社 五個荘奥町 東近江市 旧御代参街道
奥村神社 五個荘奥町 東近江市 旧御代参街道

新幹線、近江鉄道を越え、「奥」集落の手前で左にカーブしたあたりの民家脇に旧道の痕跡らしき道すじをみかけた。はいってみたが、50mほどで林の中に消えていた。

奥村神杜の社務所の庭に道標が保管されている。「すぐいせ八日市道」「すぐたがゑち川道」と刻まれていて、もとは街道沿いに建っていた。「すぐ」とは「まっすぐ」の意。

奥集落をぬけ、建部下野にはいったところの五叉路で県道に合流する。そこから3つ目の民家脇の細道を右に入り、集落の中を蛇行して白漆喰の築地壁がまぶしい弘誓寺の前に出る。あたりは田植えが終わって緑の芝生を敷きつめたような水田が広がっている。田の脇にたつ小祠の横からあぜ道をたどっていく。旧道の道筋は近江鉄道をわたって大同川沿いに大塚の牛王神社前にでるのだが、あぜ道は線路のところで左に折れて線路沿いに南下していた

建部大塚古墳群 建部下野町 東近江市 旧御代参街道
建部大塚古墳群 建部下野町 東近江市 旧御代参街道

建部大塚古墳群は、平地に営まれたきわめてまれな群集墳であり、現在県下には匹敵する群集墳は知られていない。中でも建部大塚●古墳は玄室の長さが5.75mと市内最長で、石室の長さも11mを越えるものと推測される。近隣の後期古墳群においては、建部大塚古墳群があらゆる点において優勢を示しており、次に瓦屋寺古墳群あるいは池田古墳が続き、さらに布施社南古墳そして雪野山、岩倉山の各古墳へと政治、経済力の重層関係を……

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建部大塚古墳群は、平地に営まれたきわめてまれな群集墳であり、現在県下には匹敵する群集墳は知られていない。中でも建部大塚●古墳は玄室の長さが5.75mと市内最長で、石室の長さも11mを越えるものと推測される。近隣の後期古墳群においては、建部大塚古墳群があらゆる点において優勢を示しており、次に瓦屋寺古墳群あるいは池田古墳が続き、さらに布施社南古墳そして雪野山、岩倉山の各古墳へと政治、経済力の重層関係を反映している。

大塚集落の県道に出る。右手に埴輪を植えた小さな円墳があり、脇に「建部の郷 古墳の里大塚」と見出し書きされた図入り案内板が建っている。大塚地区には多数の古墳が密集しており群集墳とよばれている。県道を横切って集落の東端にのこる短いジグザグの旧道に入る。

建部下野町 東近江市 旧御代参街道
建部下野町 東近江市 旧御代参街道

県道に出る手前の民家の土壁に、落書きのような跡がのこっており、泥棒の符丁ではないかといわれている。「大」をさかさまにしてその下に十字を丸で囲んである。ターゲットは大逆(大阪)の丸十ではないかという。誰がいい出したのか、消すほどのことでもないからと、そのまま残されているのであろう。

吉住池・嫁取り橋伝説 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道
吉住池・嫁取り橋伝説 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道

昔、信濃の兵左衛門と、甲賀の太郎右衛門は親しい友人でありました。太郎右衛門には、十七歳になるお菊という美しい娘がおり、甲賀小町といわれておりました。兵左衛門は、これを聞くと早速息子の嫁に欲しいといいました。話はうまくまとまり、春三月の佳き日を選び、はるばる信濃へお輿入れとなりました。 準備万端調えて、いよいよ出発となり、日吉の溜に差しかかりました。突然、石橋の上にかわいい少女が行く手をさえぎり、「……

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昔、信濃の兵左衛門と、甲賀の太郎右衛門は親しい友人でありました。太郎右衛門には、十七歳になるお菊という美しい娘がおり、甲賀小町といわれておりました。兵左衛門は、これを聞くと早速息子の嫁に欲しいといいました。話はうまくまとまり、春三月の佳き日を選び、はるばる信濃へお輿入れとなりました。 準備万端調えて、いよいよ出発となり、日吉の溜に差しかかりました。突然、石橋の上にかわいい少女が行く手をさえぎり、「この橋を通ってはなりませぬ。ただいま、龍神様が大事な会合をなさっておいでです。お邪魔をされると崇りがあります。」 行列は立ち止まりました。 「天下の大道である。邪魔をするな!」 と怒鳴ってはみたが、少女は立ちはだかって通してくれません。 太郎右衛門は怒って太刀を振りかざし、少女を真二つに斬りつけました。これは不思議、少女の姿はたちまち消えうせ、橋の上には金欄の丸帯だけが残っていました。太郎右衛門は、これはよき賜り物と、長持に納めて出発しました。ところが大変です。花嫁を乗せた駕籠が軽いではありませんか。不思議に思って中をのぞいてみると、花嫁の姿は、影も形もありませんでした。一同はびっくり仰天、腰もぬかさんばかりで、近くの竹藪へ荷物を投げ捨てて、命からから逃げ帰りました。 その後、この石橋を嫁取り橋といって、お嫁入りの行列は、絶対に通ってはならないと言い伝えられ、守られてきました。 建部日吉町・建史会・八日市市うるおいのある街づくり推進協議会

一旦県道に出て50mほど進んだところで右手の民家の軒下を通って田んぼのあぜ道に出る。地図ではこの線が建部下野町と建部上中町の境界になっている。足元をたしかめながら水路を避けて田んぼを通りこし、農道にあがって左折する。ここは建部下野町と建部日吉町の境である。建部公民館横を直進し、日吉神社に寄る。入口に絵入りの大きな案内板があって、付近の住吉池にまつわる嫁取り橋伝説が解説されている。道をひきかえし、近江鉄道の踏切を渡った先にある吉住池によってみた。周囲は1kmもあろうかという大きな池だが、干しあがっていてただの草むらだった。水路をまたいでいる県道にかっては橋があったのだろうか。傍に迫力ある竜を描いた看板がある。

右蛇行する農道が旧道 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道
右蛇行する農道が旧道 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道

日吉神社の南側の道に入り金賞寺の山門前をすぎて、十字路をよこぎる。左手角の民家の生垣に「右ハいせみち」と彫られた道標がある。道なりに静かな日吉の集落をぬけ、田畑が広がったところの二股を右にとり、曲がりくねった土の道を一路八日市に向かってすすむ。あぜ道の真ん中に立ちはだかるようにある石地蔵は旧道の証でもあろう。右手に走るのは近江鉄道、その向こうは箕作山(みつくりやま)の丘陵が横たわる。北に瓦屋寺、南は延命山、その裏側には太郎坊がある。すべて小学校時代の遠足先だった。今そのふもとを歩いているのだが、丘陵の稜線近くにあるそれらのなつかしい場所には行こうとしない。

八日市

竹鼻商店街 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道
竹鼻商店街 建部日吉町 東近江市 旧御代参街道ここは建部日吉町ですが昭和41年に分離して通商竹鼻町といいます。御代参街道の八日市宿場また市場の北入口として二五八の市日には近郷近在から来る人達で大変な賑わいでした。竹鼻町も当時は道の両側に10数軒づつの商家が並んでいましたが今は両側に各1軒づつ残っているだけです。この絵図は昭和40年頃の図です。大凧通りより東は殆ど田畑で北小学校があるだけでした。

駐車場の敷地を抜けるようにして八日市駅前に出た。山小屋風の駅舎は様変わりだ。いつまでこの旧道がつかわれていたのか知らないが、明治時代にはもう竹鼻町経由の現在の街道が開けていたのではないか。日吉町の最後の二股を左にとると竹鼻町で現在の御代参街道に合流する。大きな町内絵地図が設けられていて、ここが八日市宿場・八日市場の北入口で賑わっていたと記されている。米屋、鋸屋、畳屋、刃物屋など、旧い商家が残る町並みをすすんでいくと浜野町から宿場の中心であった本町通りに至る。大正時代の本町通りの写真が手元にある。蔵造りの商家が黒々と軒を連ね、分厚い綿入れを着込んだ商人と荷車が通りを埋めている。庶民がショッピングする商店街というより、丁稚・手代が働く問屋街の風景である。

以下、「近江紀行」より八日市の歴史を紹介しよう。

万葉の森-船岡山 八日市 滋賀
万葉の森-船岡山 八日市 滋賀茜さす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖ふる(額田女王) 紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも(大海人皇子)

八日市市域が日本史の表舞台に登場したのは6~7世紀の古墳・飛鳥時代にあるといわれている。百済の移民千人以上が渡来し、蒲生野が開拓された。天智天皇が、この蒲生野で大がかりな遊猟を行ったことが「日本書紀」に記されている。蒲生野を舞台に繰り広げられた大海人皇子(のちの天武天皇)と額田女王の大人のエピソードは、「万葉集」に歌われているとおりである。

万葉ののどかな時代から数世紀を経たころ八日市は商業の舞台として登場する。その記念碑が八日市南小学校の付近に建っている。保内商人または鈴鹿山脈を越える「山越商人」といわれた近江商人の原型像である。キャラバンを組んで街道を往復したようすは、大河ドラマ「義経」で金売り吉次が一族郎党をひきつれて平泉と京の間を行き来した光景を思い浮かばせる。時代的にも鎌倉時代のことであった。

時代がさらに下り戦国をへて江戸時代にはいると商人のみならず甲賀の忍者や庶民やお公家など多様な人が行き交う交通の要衝として八日市は賑わった。八日市を避けるように湖東を西に中山道が縦走し南に東海道が横断している。江戸から関ケ原越えでやってきたお伊勢参りの人たちは、草津を経由する迂回をいやがり、三角形の二辺をむすぶ斜辺の近道に人気が集まった。中山道の愛知川宿をすぎて川をこえたところの五個荘小幡、小幡商人の発祥地から八日市、日野を経て東海道土山宿にでる道は、「北国街道安土越」ともよばれていた古道であるが、江戸中期になると、御所・大名の名代が伊勢神宮、多賀大社の参詣に利用する道として定着し、いつしか「御代参街道」と呼ばれるようになった。

八日市本町 東近江市 旧御代参街道
八日市本町 東近江市 旧御代参街道

八日市駅前アーケード商店街である本町通りは現在の御代参街道であり、旧道は本町通りから一筋駅よりの細い飲み屋街を通っていた。延命地蔵の横を通り過ぎ、すれ違えば肩も触れんばかりの路地裏にはいっていく。右手は明治元年創業の老舗高級懐石料理店招福楼の裏にあたる。

鉤の手にまがって金屋通りへ向かう。昼間はうつろな狭い空間だが、夜には酔い客の歌声と女の嬌声に満たされた歓楽の路地である。そんな中にも街道沿いの旅館を思わせるたたずまいが見られた。突き当りを清水橋の方に迂回する。橋のたもとに昔ながらの高札が立っていた。ゴミを川に捨てた者は処罰する、ときつい達し書である。

本町通り(御代参街道) 八日市 滋賀
本町通り(御代参街道) 八日市 滋賀
市神神社 八日市本町 東近江市
市神神社 八日市本町 東近江市

由緒、「市神ノ本紀」によれば推古天皇元年、聖徳太子四天王寺を造営し給ふ時、同郡白鹿山の東の麗において畿千万の瓦を造らせ難波津に運ばせたまふ。然るに太子かの山に渡らせられ新たに瓦屋寺を営し、且つ筏川の北に民家数百戸を置き事代主命の神像を刻し一祀壇に納め、同九年始めて市店を開き士農工商の別なく交易する事を教へ給ふ「其の後正暦の頃、安倍晴明白鹿山に詣で此の神像を拝し太子の遺志を継ぎ市店鎮護の祈りを奉り」……

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由緒、「市神ノ本紀」によれば推古天皇元年、聖徳太子四天王寺を造営し給ふ時、同郡白鹿山の東の麗において畿千万の瓦を造らせ難波津に運ばせたまふ。然るに太子かの山に渡らせられ新たに瓦屋寺を営し、且つ筏川の北に民家数百戸を置き事代主命の神像を刻し一祀壇に納め、同九年始めて市店を開き士農工商の別なく交易する事を教へ給ふ「其の後正暦の頃、安倍晴明白鹿山に詣で此の神像を拝し太子の遺志を継ぎ市店鎮護の祈りを奉り」云々とあり境円にりっぱな聖徳太子像がある。また万葉集最高の女流歌人、額田王立像をおまつりするのでその銘碑がある。さらこ、昭和60年4月29日には、万葉と風土の研究の第一人者、大阪大学名誉教授、犬養孝博士の筆になる額田王の歌碑が建った。 君待つとわが恋ひをれば わが屋外(やど)のすだれ動かし秋の風吹く 。(巻4-488)

本町通り商店街を歩く。八日市随一の繁華街で、昔弁当箱のバスにゆられてここにくることは、今電車で銀座や渋谷に出ることに等しかった。路地を東に入った市神神社に寄る。市神神社の由緒に八日市の起源が書かれている。推古天皇元年(593)聖徳太子が大坂四天王寺を建立するため、八日市で屋根瓦を造らせた。近辺に瓦に適した土と渡来系の技術者がいたのだろう。それが縁で箕作山に瓦屋寺を開き筏川の北に民を住まわせて、推古天皇9年(601)の8の日にはじめて市場を開かせた。その後8の日を市日に定めたことから八日市の地名が起こったといわれている。境内には八日市の開祖聖徳太子が直立不動の姿で建ち、祠の中では蒲生野のアイドル額田王が膝をおって女性らしいポーズを作っていた。

八日市清水追分 東近江市 旧御代参街道
八日市清水追分 東近江市 旧御代参街道

八風街道と栄町商店街入口の丁字路角に、文政9年(1826)の常夜灯道標が建っている。

左 いせひ乃みな口道(南:伊勢・日野・水口)

右 京むさ八まん道 (西:京・武佐・八幡)

右 多賀 ゑち川 ひこね道(東:多賀・愛知川・彦根)

五個荘を経て中山道で愛知川、多賀、彦根に向かうのは御代参街道の北方向である。ここに右(東方向)とあるのは鉤の手に本町通りにはいっていく道順を示しているのであろうか。だとすれば江戸後期には旧道は廃され、現在の道筋がひらかれていたのかも知れない。

笠屋地蔵堂 栄町 東近江市 旧御代参街道
笠屋地蔵堂 栄町 東近江市 旧御代参街道

街道は金屋、中野と昭和時代の家並みがつづく。国道421号(現八風街道)との交差点手前に、雨に難儀していた旅人に自分の笠を貸し与えたという笠屋地蔵がある。脇に道標があり、「左たか道」「右いせ道」と刻まれていてまさに御代参街道は多賀大社・伊勢神宮への参詣の道であったことがうかがえる。

国道をこえ中野地区にはいると大きな屋敷風の家が目を引く。高さのそろった切り妻屋根に白壁と黒格子が端正なたたずまいを見せている。

「レンガのえんとつとまれ」 西中野町 東近江市 旧御代参街道
「レンガのえんとつとまれ」 西中野町 東近江市 旧御代参街道

レンガつくりの高い煙突は醸造所の象徴だ。表札に「珠玖(しく)」とあった。八日市から通っている高校の同級生に同姓の男がいた。彼の実家であろう。、珠玖醤油(現マルハチ醤油)の旧醸造所である。江戸時代後期のものといわれる古醤油蔵を改造して、地元の女性たちがたちあげたNPO「レンガのえんとつとまれ」の活動拠点となっている。高齢者のために、惣菜、日替わりランチ、仕出し弁当などをつくっているという。

立派な門構えの宮路医院もこどものころによく聞いた名前だ。ヤクデン薬局は低い二階に虫籠窓を残す商家のたたずまいで、店先をかざる看板も書かれている薬の名も建物にあわせてレトロ色に仕上がっている。

中野神社 東中野町 東近江市 旧御代参街道
中野神社 東中野町 東近江市 旧御代参街道

左手に中野神社がある。勧請は延暦18年(799)に遡り、現存社殿は天明8年(1788)建立という古社である。境内に散らばって三基の江戸時代の道標が保存されている。享和3年(1803)が二基、一基が天保7年(1836)という古いもので、いずれも畑街道沿いにあったものだ。その畑街道を横切り今崎、今堀、蛇溝とすすんでゆく。

町並み 八日市金屋1丁目 東近江市 旧御代参街道
町並み 八日市金屋1丁目 東近江市 旧御代参街道

八日市宿場の北入口だったという竹鼻からはじまり、浜野・本町通りを経て、中野・今崎に至る御代参街道は農村地帯を通りながらも松並木や昭和時代の商店街の面影を色濃く残す町並みで、城下町だった近江八幡の朝鮮人街道のように鉤型をくりかえすのでなく、2.5kmにわたってほぼ一直線に南北に延びている。途中、駅前の再開発区域を除けば、非常によく保存された道の景観といってよい。

町並み 西・東中野町 東近江市 旧御代参街道
町並み 西・東中野町 東近江市 旧御代参街道

八日市の町は昭和の中ごろから高度経済成長期をへて今にいたるまで、御代参街道を中心に発展してきた商業地域を開発発展させるのでなく、新田を開くように東に向かって面を広げていった。かって町の東端に位置していた八日市高校はいまや、官庁街の西にある。どこが中心なのか、あいまいな町になってしまった。それだけに、開発を拒絶したかのような御代参街道筋の町並みはますます貴重な存在になりつつある。かといって、長浜、彦根、日野、八幡のように、旧宿場町・旧市場町・近江商人発祥の地をテーマとした町おこしの話はあまり聞かない。

蛇砂川をわたり今堀地区にはいると家並みは疎になって、万葉時代の蒲生野を彷彿とさせるのびやかな田園風景が広がってくる。南に横たわるのは布をひいたようにゆるやかな布引山である。鴨長明が「嵐吹く雲のはたての色薄み 村消えわたる布引の山」と詠った歌枕の地である。その丘陵の中に四本商人の一つである石塔があり、名神八日市CCがある。西は布施山で消え、東はそのまま鈴鹿山脈につながっている。北のふもとを布引街道(県道170号)がのびて甲津畑で山越えの千種街道に接続している。

左に大きな池がでてきて、その先の小山に小さな赤い鳥居が見える。道はゆるやかに曲がる坂になって、のぼるにつれ大規模な住宅団地がその全容を現した。ふと古代と中学時代をミックスした懐古気分から目覚めさせられ、この辺だと土地50坪建売でいくらくらいだろう、と思ってしまった。いつのまにか近江鉄道の長谷野と桜川の間に、大学前と京セラ前という二つの駅ができている。布引山に大学や工場と住宅の団地が誘致され、歌枕の情緒は確実に蝕まれつつある。

大きな池は三日溜、赤い鳥居は見送り稲荷。今堀老人会・八日市市うるおいのある街づくり推進協議会の連名で、「見送り稲荷の由来」案内板が立っている。

この周辺、長谷野は昔、原野であり、伊勢神宮参詣のための道、御代参街道として数多くの旅人が往来していました。また、樹木が繁茂して、往来する人々に不安を与え賊が潜んで旅人を妨害し、お金や持ち物を奪うなどの悪事をはたらいていました。その中でも、明治23年12月下旬、遠国の旅人がこの道にさしかかった時、賊が突然現れて、お金や持ち物を奪おうとしました。その時、山中の何処からとなく、大勢の人々がこの旅人を救おうとする声が響きわたり、これに驚いた賊は、一目散に逃げ去ったということです。このことは、その姿を見た者は誰一人としてありませんが、この原野に往古より一匹の白狐が住んでいるといわれており、まさしくその白狐である「見送り稲荷」の神威であったのでしょう。そこで永世に渡る保護を祈願するために、明治26年、周辺の篤志によってこの保護稲荷を築きました。

旧道はここで右にある道標の前を通って団地の中を逆くの字形に抜けて大きな蛇溝町交差点に出る。最初と最後にかすかな痕跡がのこるだけであとは団地の区画に整形されていた。住民の多くは近辺の企業にはたらく人達であろう。蒲生野には縁のなかった外部からの転勤組も多いにちがいない。ところで先ほどの道標は地元蛇溝出身の近江商人が寄付したものである。この周辺、中野・今堀・蛇溝を含む地域は中世時代、得珍保内と呼ばれた比叡山延暦寺の荘園で、各郷村は山門の保護の下で自立的惣経営を行っていた。延暦寺の僧、得珍が愛知川の水を引いて荒地を開いたといわれている。その中で発生してきたのが保内商人とよばれる商人団で、御代参街道・八風街道・千種街道の交わる地の利を生かして四本商人のリーダー格であった。保内商人を概して八日市商人とよぶこともあるが、宿場・市場町としての八日市からは大きく南にはずれた灌漑状態もよくない蒲生野の農村に生まれた商人である。

道標 蛇溝町 東近江市 旧御代参街道
道標 蛇溝町 東近江市 旧御代参街道

《南面》右た加 八日市 左 むさ 八まん 《東面)往来安全 《西面》蛇溝邑安全 《北面》弘化二年巳 孟秋 吉祥日 京都施主 御錫司 弥左衛門 弘化二年(西暦1845年)七月の銘のある道標で、入田屋形の屋根をもち、高さは2.8mあります。施主は京都の弥左衛門(別名奥田仁平)という蛇溝村出身の錫商です。京都で成功し、郷里に道標を寄進したと思われます。道標の上部には火袋かあり、昔は明りが入れられ、日暮れ……

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《南面》右た加 八日市 左 むさ 八まん 《東面)往来安全 《西面》蛇溝邑安全 《北面》弘化二年巳 孟秋 吉祥日 京都施主 御錫司 弥左衛門 弘化二年(西暦1845年)七月の銘のある道標で、入田屋形の屋根をもち、高さは2.8mあります。施主は京都の弥左衛門(別名奥田仁平)という蛇溝村出身の錫商です。京都で成功し、郷里に道標を寄進したと思われます。道標の上部には火袋かあり、昔は明りが入れられ、日暮れに帰ってきた人々がこの明りを見てほっと安心したそうです。 この道標は、蛇溝から御代参街道へ通じる道(阿賀社道)と、御代参街道から玉緒山の山際を通って蒲生町川合へ通じる道の交差点に位置していましたが、布引住宅団地の開発に際してこの場所に移されました。 八日市市で建立年のわかる最古の道標として享和三年(西暦1803年)銘のものが御代参街道と畑街道の交差点(グリーン近江農協中野支店角)にありました。江戸時代後期は商業経済が発達し、それにつれ信仰に伴う道行も増え、街道の往来が多くなった時代で、庶民の経済力が伸長した時代でもあり、八日市大凧が巨大化するのもこの頃です。以来鉄道が開通する明治31年にかけて、市内の街道の辻々に石製の道標 (方柱・自然石)が建てられ、御代参街道沿いにも多く建てられました。 八日市市教育委員会

蛇溝出身の保内商人の末裔が寄進した立派な道標を後に、布引台の団地を駆け抜け、大きな交差点角のポケットパークに明治27年の道標が建っている。その交差点の南で二股を左に入ると、林の木立で半ば隠れた地蔵堂と脇に道標がある。見送り稲荷の解説板と同じ「八日市市うるおいのある街づくり推進協議会」が地蔵堂と蛇溝町の由来を解説しているので読んでみよう。

昔々、この辺りは山渓がきわめて険しく、また、川は深くて淵となって長く連なって流れていました。淵には、大蛇が住んでおり、道行く旅人の通行を妨げていたといわれています。白鳳時代に行基という僧侶が、この大蛇を退治して一塊石(お堂前の蛇つなぎ石)を立てて、地蔵菩薩を彫刻し、安全を祈祷されたと伝えられています。後に、この溝淵を埋めて開墾したとき、お堂を建ててお祀りしたといわれたことから、この地を蛇溝というようになったそうです。また、地蔵菩薩は雨乞地蔵、子安地蔵、町内鎮護の地蔵として信仰を集め、かっては縁日に草競馬や草相撲が催され、露天も軒を並べていたということです。後略。

今堀にはいるとき蛇砂川をわたった。なんとなく蛇の多い土地柄だ。

その先の二股を右に入り、すぐ直角に右折して広い道路に合流し、名神高速道路をくぐって山を切り開いた工業団地の中をぬけていく。左に広大な京セラ工場の敷地がつづく。このために新駅を造ったくらいだから市をあげての誘致だったのだろう。母校玉園中学校の横に村田製作所の近代的な工場ができたころと同時期の話である。布引山の峠を越える。全農中央集乳場の前の二股を左にとって峠を下ると山から抜け出て豊かな桜川の田園が広がっている

岡本

大溜 大塚町 東近江市 旧御代参街道
大溜 大塚町 東近江市 旧御代参街道

坂を下り、栩原神社の前の弁天溜と堤尻溜の間の農道をすすんでいく。旧道はそこから斜めに東桜川集落にはいっていたようだが、今は田畑が長方形状に区画整理されており、蒲生東小学校前農道から桜川東町集落へと入っていった。手前の水路を「ほたるの住む川」にしようとする試みがなされている。桜川東町は小さな集落で、桜川の中心は近江鉄道桜川駅の西側に展開している。集落の南端の上小房バス停で県道524号を横断し、その先で県道46号に合流する。佐久良川をわたり、ゆるやかに左にカーブしたのち、大きな十字路を右折する。掛出溜に沿って左折して踏切を渡ると、大溜越しに大塚の家並みが現れる。

西堀酒造 小山市 栃木
西堀酒造 小山市 栃木

大塚にきて思い出すことがあった。日光街道で小山を歩いたときのこと、「三方よし」関係で、「近江屋ラーメン」とその後ろの「西堀酒造」をたずねたとき、西堀家の出身地は大塚だということだった。法事に帰ることがあるというから実家があるはずだ。地蔵堂の空き地でキャッチボールをしている子供に聞いてみようかとも思ったが、やめて脇に集められている石仏群の写真を撮って大塚を離れた。大塚が宿場だったらもう少しこだわっていたかもしれない。

岡本宿本陣・高札場跡付近 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道
岡本宿本陣・高札場跡付近 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道

御代参街道という名称の起こりは江戸時代中ごろより、天皇の代参として公卿が、毎年、正、5,9月に京都から伊勢神宮と多賀大社へ詣でた。それにならって、各宮家や諸国の大名小名、またその家臣たちが参詣のために通ったところから生まれた東海道土山宿から中山道小幡(五個荘町)までの九里(36km)の道のり。岡本宿は、延宝6(1678)年遊行上人が布教のため、この御代参街道を通行したおり、八日市、岡本、鎌掛を継立……

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御代参街道という名称の起こりは江戸時代中ごろより、天皇の代参として公卿が、毎年、正、5,9月に京都から伊勢神宮と多賀大社へ詣でた。それにならって、各宮家や諸国の大名小名、またその家臣たちが参詣のために通ったところから生まれた東海道土山宿から中山道小幡(五個荘町)までの九里(36km)の道のり。岡本宿は、延宝6(1678)年遊行上人が布教のため、この御代参街道を通行したおり、八日市、岡本、鎌掛を継立所としたことから、岡本が宿場としての機能を充実させていった。多くの民衆の宿泊所である旅籠だけでなく、大名の宿泊所であった本陣跡。他に荷物、人馬の継ぎ立てのための問屋場、触書の高札の跡が残る。岡本宿本陣は彦根藩主が度々利用した。天明6(1786)年に岡本宿で大火があり宿場のほとんどを焼失したが、ただちに復興し明治30年代に近江鉄道が整備されるまで、絵図のような旅籠を中心に、にぎわった。 平成17年1月 岡本夢プラン委員会

集落はずれにある高岡大塚行者堂の前を通り、県道46号に乗って南下、古川をまたいで岡本集落へ入る。入口で「御代参街道 ようこそ 岡本宿へ」と彫られた石碑が出迎える。岡本宿は延宝6(1678)年、遊行上人が布教のため、この道を通ったおり、八日市・岡本・鎌掛を継立所として整備したことにはじまる。ただし、岡本宿はつぎの石原宿との相宿で、機能を分担し、鎌掛に向かう旅人に継ぎ立てをおこない、八日市に行くときは石原宿が受け持った。集落内には数年前から整備された新しい標石があちこちに設けられている。角屋、尾張屋跡、煙草屋、本陣跡、特別郵便局跡、御代参街道分岐点、八幡街道など。県道41号との合流点には旧い道標もあり、「右たかみち 左八まん道」とある。多賀道が御代参街道(県道46号)で、八幡道とは県道41号のことだろう。

旧堀井新治郎家住宅 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道
旧堀井新治郎家住宅 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道堀井家は、中世には近江源氏佐々木氏の家臣であったが、佐々木家没落後に農商に転じたと伝えられ、江戸時代後期には関東で酒・醤油の醸造業を営み近江商人として活躍した。第38代を継いだ新治郎(1856~1932)は、明治27(1894)年に80年以上にわたる大ヒット商品となった謄写版を発明し、東京神田で謄写堂(のちに堀井謄写堂、(株)ホリイと社名変更)を開業した。以下略
蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道
蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道

合流点の道向かいは公民館前の広場になっていて、その一角に旧堀井新治郎家住宅「ガリ版伝承館」として保存されている。堀井家は江戸時代、関東で酒・醤油の醸造を営んでいた近江商人であるが38代目の新治郎がガリ版を発明して東京神田で謄写堂を開業した。当時は主屋をはじめ洋館、離れ、土蔵、小屋、回遊式庭園などを生垣や石垣で囲い、隣地には分家、親族の住宅が建ち並んで純農村にあって瓦葺きの町家の景観を呈していたという。白壁にツタが茂る土蔵も堀井家のものであろう。ガリ版といえば、手を青黒く汚しながら半年がかりで卒業文集を刷り上げたものだ。道具はドイツ人かイギリス人あたりが発明したものだろうと思っていた。

道標 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道
道標 蒲生岡本町 東近江市 旧御代参街道

本陣・問屋場跡をすぎ、高木神社入口に新旧の道標が建っている。古いのは「左いせミち」「右 水口いがミち」とあり新しい道標には「京街道起点」とある。「水口・伊賀道」が東海道経由の京街道のことだろうと思うが現在の道筋に該当するものがみあたらない。ともかく高木神社の前を通ってくる道は国道477号で、この角で南に方向をかえて御代参街道となっている。

石原

旧石原宿 辰巳屋酒店 石原 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
旧石原宿 辰巳屋酒店 石原 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

鋳物師町という、城下町のような地名の集落をとおりすぎ、鋳物師交差点の角に建つ徳本上人碑の先で東近江市から蒲生郡日野町に入る。近江鉄道朝日野駅の南にあたり、ここに岡本宿との相宿、石原宿場があった。左斜めにそれる国道に対し、直進して左折する鉤の手状の旧道が二箇所のこっている。その間の交差点にある辰巳屋酒店あたりが宿場の中心であったようで、向かい角にある道標とともに街道の面影をかすかに伝えている。

街道は二つ目の鉤の手のわずか先で国道477号とは別れて、左の旧道に入っていく。入口角の民家の敷地内に「右ステーション、左ひの道」と刻まれた道標がある。明治33年に完成した近江鉄道日野駅を記念して建てられたものらしい。誇らしげに英語で発音してみたあたり、近代日本の息吹が感じられる。

小谷集落をぬけたところの左手、田の畦わきに小谷畷の戦い供養碑があり、自然石に「南無阿弥陀仏 称阿、嘉永五壬子三月 願主 講中 世話方 小谷村 石原宿」と刻まれている。幕末1852年のものだ。どんな戦だったのか解説板はない。

近江鉄道 小御門 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
近江鉄道 小御門 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
道標 内池 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
道標 内池 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

田園のなかの農道を左折、右折して集落が途切れた所の五叉路を左斜め前へすすんで近江鉄道の踏切を渡る。五個荘小幡以来、つかず離れずつきあってくれた近江鉄道とは、この踏切を最後に別れる。小御門交差点で国道477号を横断し、出雲川をわたって内池交差点に出る。角に「左 いせミち 右 た加北国道」の道標がある。いずれの方向も御代参街道であって、今来た道が多賀北国道、これから向かうのが伊勢道。

日野

伊勢道(御代参街道)日野町 蒲生郡 滋賀
伊勢道(御代参街道)日野町 蒲生郡 滋賀

江戸時代の初期である延宝6年(1678) 東海道土山宿より中仙道愛知川宿までの間 に、脇街道として北国越安土街道が正式に現代でいう国道となり、それがいつの間にか 御代参街道 と呼ばれるようになった。この道が旧御代参街道である。その後、伊勢参宮が盛んになり、湖東地方の人々が伊勢参りに多くこの道を通り、文化9年(1812)に伊勢両宮へ奉納のこの大燈篭が建立されると、人々はこの分岐点の場所を 伊勢道 と……

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江戸時代の初期である延宝6年(1678) 東海道土山宿より中仙道愛知川宿までの間 に、脇街道として北国越安土街道が正式に現代でいう国道となり、それがいつの間にか 御代参街道 と呼ばれるようになった。この道が旧御代参街道である。その後、伊勢参宮が盛んになり、湖東地方の人々が伊勢参りに多くこの道を通り、文化9年(1812)に伊勢両宮へ奉納のこの大燈篭が建立されると、人々はこの分岐点の場所を 伊勢道 と呼び、それが通称地名となった。 日野観光協会・日野公民館

日野駅から出ているバス路線を東に約500m行くと、右手に松を従え石垣の上に建つ立派な常夜灯がある。文化9年(1812)の建立で、本体に「伊勢両宮 常夜灯」、台石に「左いせミち」と彫ってある。傍には別の道標があって「右 いセみち 馬見岡神社二十丁」、「左 ひの山王宮十丁 いセ道へ通りぬけ」と刻まれている。右が旧道で、左は日野商人関係旧跡が集中する日野町中心街を通って、大窪で県道41号に乗る現在の御代参街道である。新旧両街道は次の宿場鎌掛で再び合流する。「いセ道へ通りぬけ」とはそのことをいっているのであろうか。

家並み いせの 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
家並み いせの 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

大窪地区散策の旅は「近江紀行」に譲って、今は旧道の旅を急ぐ。常夜灯の横を南に向かう。旧道は上野田と十禅師の境界をなしている。すぐに集落をでて、農道が延びている。向こうに山並みが見えてきた。あのどこかが笹尾峠だ。

旧御代参街道 十禅師 日野町 蒲生郡
旧御代参街道 十禅師 日野町 蒲生郡

道なりに農道をすすんで、国道307号を横断したところで旧道は痕跡を失っている。方形に整地された農道を左折・右折して日野水口グリーンバイパスを横ぎり、木津集落へはいっていった。

旧道 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
旧道 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

雨引神社の前をとおって左に折れ、日野川堤防沿いの竹やぶの小道をたどっていく。轍はあるが一般公道ではない。路傍には採り残されたタケノコが初々しい若竹に成長している一方で、道路にまで頭をつき出しているおくてのタケノコもある。

茶屋まち・地蔵堂 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
茶屋まち・地蔵堂 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

道標: 右 長徳寺百くわん音一丁 ひのかち道 左 たが北国道 文化四丁卯 大字寺尻のこのあたりを茶屋まち。これは、ここを通るこの道が、江戸時代の国道でもある御代参街道であり、東海道土山宿を経て伊勢参りをする旅人が毎日多くこの道を通った。そんな旅人のために、街道筋に茶店や料亭などが設けられていたので、この名が生まれた。明治以降は年ごとに通行人も減り茶店も姿を消していった。今は道中安全のためのこの地蔵……

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道標: 右 長徳寺百くわん音一丁 ひのかち道 左 たが北国道 文化四丁卯 大字寺尻のこのあたりを茶屋まち。これは、ここを通るこの道が、江戸時代の国道でもある御代参街道であり、東海道土山宿を経て伊勢参りをする旅人が毎日多くこの道を通った。そんな旅人のために、街道筋に茶店や料亭などが設けられていたので、この名が生まれた。明治以降は年ごとに通行人も減り茶店も姿を消していった。今は道中安全のためのこの地蔵堂や、道標などが僅かに昔の面影をとどめている。 日野観光協会・日野公民館

旧道 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
旧道 寺尻 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

薄暗い藪道をぬけて寺尻集落に入ると左からくる道との合流点に地蔵堂と道標がある。御代参街道が賑わっていた時代、このあたりを茶屋町といった。位置的にも石原宿と鎌掛宿のおよそ半ばにあたり、人馬が足を休める立場であったのだろう。

再び堤防沿いの竹の道をすすんでいったが、ついに途切れてしまった。やむなく逆戻りして、東方を走っている現在の御代参街道、県道41号に出る。

鎌掛(かいがけ)

旧道鎌掛入口 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
旧道鎌掛入口 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

日野川を御代参橋で渡ったところで右に出ている細い農道をたどると、南砂川に沿って旧道が復活している。堤防沿いの道はやがて川から離れ、水田の真ん中を貫通して須原橋を渡り、鎌掛集落の中へはいっていく。途中、広域農道の手前に旧道を見守る小さな地蔵堂があった。

集落入口の丁字路に道標があり、「右 た加北国道」と刻まれている。そこを左折すると県道41号に合流する。お堂の脇に小さな石仏にまじって道標がひとつ、「右いせみち」と刻まれている。

鎌掛入口 鎌掛 日野町 蒲生郡 現御代参街道
鎌掛入口 鎌掛 日野町 蒲生郡 現御代参街道

合流点からすこし新道をさかもどってみた。北砂川をわたった先の三叉路に昭和3年の新しい道標が建っている。「右 御代参街道」「左 石楠木谷」今まで多くの道標をみてきたがその殆どが「伊勢道」であった。「御代参街道」と刻まれた道標はこれが初めてではないか。さすがに昭和になって「伊勢道」とよぶのは抵抗があった。石楠花は滋賀県の県花である。鎌掛の鈴鹿山脈よりにある2万株をこえる石楠花の群生地は国の天然記念物に指定されており、GWには多くの観光客で賑わう。先の道標は観光客用のものとも見える。

町並み 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
町並み 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

鎌掛の旧宿場街をあるく。鎌掛が八日市とならぶ御代参街道の二大宿場であったわりには町並みにその香りがすくない。静かで落ち着いた家並みであるが、どの家屋も整いすぎていて、旧い建物に特有な崩れた臭いが漂ってこない。基本的には農家の集落で、旅籠・商家風のたたずまいも見かけなかった。

角屋跡 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
角屋跡 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

この岡氏の家を角屋と呼ぶように、鎌掛の県道筋の家々は今も多く古くからの屋号が伝えられている。これは江戸時代の脇街道であった御代参街道の宿場である鎌掛宿の名残である。このあたり鎌掛宿の中心地であり、現在でいう旅館や料亭や商店が軒を並べて賑わっていた。御代参街道は江戸時代初期延宝6年(1678)に開かれ、その後湖東地方の人々の伊勢参りの道として多くの人に利用され、ここは大きな宿場町であった。 日野観光……

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この岡氏の家を角屋と呼ぶように、鎌掛の県道筋の家々は今も多く古くからの屋号が伝えられている。これは江戸時代の脇街道であった御代参街道の宿場である鎌掛宿の名残である。このあたり鎌掛宿の中心地であり、現在でいう旅館や料亭や商店が軒を並べて賑わっていた。御代参街道は江戸時代初期延宝6年(1678)に開かれ、その後湖東地方の人々の伊勢参りの道として多くの人に利用され、ここは大きな宿場町であった。 日野観光協会・鎌掛公民館

それでも、「角屋」の屋号を示す案内板があり、ここが宿場の中心であったとある。昭和12年建立の道標があり、ここにも石楠花谷への道が案内されている。街道は鎌掛集落の西端を南北にはしっており、集落は東に広がっている。古今の鎌掛の姿を見るには道標が示すように、左の道にはいって旧村役場あたりを歩いてみるのがよさそうだ。

鎌掛からも多くの近江商人が出ている。天明7年(1787)岡忠兵衛は赤城山に近い群馬大間々に出て醤油醸造・荒物販売を始めた。現在、東京町田に本社を置く(株)岡直三郎商店の群馬工場として、今も天然醸造による醤油造りにこだわり続けている。

南砂川・河原口橋 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
南砂川・河原口橋 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

鎌掛宿を出て、街道はいよいよ最後の行程に入った。河原口橋で南砂川をこえ、道はしだいに山道の様相を呈してくる。奥長野橋をわたったところで道は二手に分かれる。草むらに道標があり、「右前野 左土山道 昭和3年11月」とある。昭和3年11月とは鎌掛入口にあった道標と同時期に建てられたものである。「左土山道」が旧御代参街道であるが、ここからが実は大変悩ましい。

「歩いてみよう御代参街道」に、旧道は記されているが現在の街道をしめす緑色の線がないのだ。そして結局旧道は見つからなかった。右の県道41号をそのまま進むと鎌掛峠をこえて国道1号にでるが、そこは土山宿のかなり西方にあたる。ところでその県道は緑色に塗られていない。

緑の道筋は、旧道が笹尾峠をこえ緑ヶ丘ファイブ団地の開発区域にはいったところから復活している。つまりその間の区間については、通行不能の旧道にかわる現代の御代参街道は準備されなかったということになる。もっと現実的にいえば、県道41号のどこかの地点から緑ヶ丘団地に通じる車道がつくられていれば、その道はまちがいなく緑に塗られたにちがいない。地勢がそれをゆるさなかったのであろうか、獣道はあった。

旧道と思われた左の道は土砂採掘現場の入口付近で二手にわかれる。最初、現場から遠い左の舗装道路をのぼってみた。すぐに青深く澄みきった神秘的な鎌掛池があわられ、眼下に旧道らしき土の道がみえる。直感的に引き返し、現場の横を通る道へとすすんでいった。小橋があって、その先に道が左右に分かれている。枝に結ばれているピンクのリボンの誘惑にまけたのが命取りだった。登山道のしるしとばかり、リボンを頼って左の道をとり、ひたすら山道を進んで行ったが、冊子に書かれている地蔵にも出会わねば、峠らしきクライマックスもなく、素敵な池だなと感慨にふけっている間に、先に間違った鎌掛池の入口にもどってきたのだった。結局この道は鎌掛池を一周するハイキングコースか林道だったのだ。

消去法で、先ほどの二股道をリボンのない右方向に進むと、旧道筋の東をほぼ併走して、笹尾峠付近にいたることがわかった。また、旧道がまったく消滅したわけではない。砕石現場によって入口付近は消されてしまったが、その奥には意外と歩きやすい山道が残っているような気がする。ただ、そこへのアクセスがなくなった以上は道としての機能を失ってしまったといわざるを得ない。

土山

笹尾峠 日野町/土山町境界 旧御代参街道
笹尾峠 日野町/土山町境界 旧御代参街道

冊子の赤線(旧道)と、地図を詳細に見比べてみると、笹尾峠は日野町鎌掛と、土山町瀬ノ音、土山町頓宮との3地域が接する点であり、そこから緑ヶ丘団地までは、土山町瀬ノ音・土山町頓宮の境界線、つづいて土山町瀬ノ音・土山町野上野の境界のようである。境界がなんらかの地勢的形状を利用しているものと考えれば、この場合、昔の道が境界をなしていたと考えるのが最も自然に思われる。

写真集に笹尾峠として掲げているのは、上述の真正な峠ではなく、擬似旧道の先端が尾根の一点を越えて緑ヶ丘に入っていく通り抜けの道を示しているに過ぎない。地点としては笹尾峠の50mほど東だと思う。

緑ヶ丘ファイブ団地はバブル期に開発したものだろう。売却された敷地は半分以下で、家が建ってあるのはその1割程度か。敷地には開発業者管理地という立て札が多かった。人影少ない別荘地に犬の泣き声だけがやけにひびく。

緑ヶ丘をおりる急坂の遠く前方に土山の町が見えてくる。まぼろしの笹尾峠と県道41号のことをわすれれば、旅は終わったようなものだ。坂のおわり右手に句碑が立っている。かっては笹尾峠近くにあったものだという。

涼しさの 処得たれば はや不足

作者は煨芋(わいう)虚白という地元の俳人禅僧である。夏の街道歩きにぴったりの句だ。

御代参橋より野洲川上流 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道
御代参橋より野洲川上流 鎌掛 日野町 蒲生郡 旧御代参街道

坂下の広い道を横切ってまっすぐ農道をたどってゆくと、前にポケットパークがみえてきて車道に出る。左に折れて御代参橋で野洲川をわたり、すぐ右折して農道を下っていく。二股を左にとって林をぬけると北土山の集落に入ってくる。「あいの土山マラソン」コースの「御代参街道北口」地点の標識とおり、二差路を左にとってそのまま東海道、国道1号にゴールインする。右手に旧い道標が二基並び立っている。

東海道合流点 土山町北土山 甲賀市 旧御代参街道
東海道合流点 土山町北土山 甲賀市 旧御代参街道

道標 御代参街道起点 この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右糾めに進む道が旧東海道である。 御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川海手前の小幡まての十里余りの脇往還である。 この道は中世においても重要な間道てあったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。寛永17年(1640)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ……

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道標 御代参街道起点 この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右糾めに進む道が旧東海道である。 御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川海手前の小幡まての十里余りの脇往還である。 この道は中世においても重要な間道てあったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。寛永17年(1640)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。 江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明8年(1788)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち」文化4年(1807年)刻まれており、日野、八幡を経て多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。 土山の町並みを変する会 甲賀市教育委員会

「右 北国たが街道 ひの八まんみち」 文化4年(1807)

多賀大社、日野、八幡に通じる道である。

「瑞石山永源寺 たかのよつぎかんおんみち」 天明8年(1788)

永源寺へいくには八日市から八風街道で10km以上東にいかなくてはならない。永源寺は当時からそれほどに知られていた名刹であったことがうかがわれる。

土山 広重「東海道五十三次」
土山 広重「東海道五十三次」

国道1号の左50m前方に土山宿にはいる旧道が出ていて、右方50mからも西に向かう旧道が出ている。その中間に御代参街道の分岐点がある形になっているが、国道が分断する前はおそらく三者は有機的に結合していて一つの三叉路をなしていたものと思う。今は分岐点の両側は、片方が空き地で、片方は自動車販売店となっており、なんの情緒もないなかで、ただ二基の道標がけなげに自己存在を死守しているようで哀れであった。土山宿については写真を掲げるだけにして、案内は「東海道」にまかせることにする。

(2007年6月)