一関-岩ヶ崎(栗駒)-真坂(一迫)-岩出山 →(中山越出羽街道) =奥の細道
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迫(はさま)街道は、旧奥州街道(国道342号)と台町で分かれ南西に延びて岩ヶ崎(栗駒町)、真坂(一迫)の宿場を経て岩出山で中山越出羽街道に合流する街道である。岩手県では迫街道とよばれているが、宮城県に入ると陸奥(奥州)上街道という呼称が一般的である。他にも松山街道、山形街道、西街道などの別称がある。元禄2年(1689)5月14日(新歴6月30日)、芭蕉は一関で二泊した後、迫街道を通って岩出山へ向かった。
「寛永十九年(1642)伊達藩図」によれば、台町を起点とする街道は、迫(はさま)で、山形および仙台方面に分岐し岩ケ崎、迫に宿駅が置かれている。 また、「元禄十二年(1699)西磐井郡図」に西街道としるされ、一里塚が図示されている。 下って元文元年(1736)道しるべが立ち、 「これ従右ハはさま道、左ハせんだい道」 と刻まれておリ、文化十三年(1816)鬼死骸村絵図に迫街道としるされている。 真柴字……
「寛永十九年(1642)伊達藩図」によれば、台町を起点とする街道は、迫(はさま)で、山形および仙台方面に分岐し岩ケ崎、迫に宿駅が置かれている。 また、「元禄十二年(1699)西磐井郡図」に西街道としるされ、一里塚が図示されている。 下って元文元年(1736)道しるべが立ち、 「これ従右ハはさま道、左ハせんだい道」 と刻まれておリ、文化十三年(1816)鬼死骸村絵図に迫街道としるされている。 真柴字蔵主沢西側から、荻荘字刈又の平坦地を横切リ、西側の山を峰伝いに南下し、宮城県境を越えて岩ケ崎、迫、仙台、山形方面に通じている。藩政時代は奥州街道についで栄えたが現在は荒れ果てて見る影もない。 元禄二年(1689)芭蕉が門人曽良を伴ない一関でニ泊した後、五月十四日はさま街道を通って、岩出山(宮城県)へと行脚した。 (向って左側の小さい石碑) 一関市
一関宿の南はずれ、台町郵便局をすぎると光明寺への案内標識が立つ信号丁字路がある。そのすぐ先に右斜めに出る細道(車両進入禁止)がある。ここが迫街道の起点である。坂をあがっていくと左からの道との合流点に大きな文政2年(1819)の庚申塔と小さな元文元年(1736)に建てられた道標が並び、道標には「これ従 右ハはざま道、左ハせんだい道」と刻まれている。

すぐ右手に一関藩主田村家の菩提寺大慈山祥雲寺がある。山門前には左に「松尾芭蕉行脚の道(岩出山に至る)」の標柱が、右手には道標を兼ねた地蔵尊があり台座に「明和四年」(1767)、「右岩ヶ崎 左仙臺」と刻まれている。この地蔵は追分にあったものである。
祥雲寺の境内は広大で、多くの堂宇・石塔石碑類が配置されている。学者の顕彰碑が二基ある。幕末の数学者千葉胤秀と、蘭医学者建部清庵である。一関は教育水準が高く多くの学者を輩出した。

左手に漆喰土蔵の鞘堂に納められた一切経蔵がある。鞘堂の裾にほどこされた細かな亀甲模様が繊細な美をたたえている。経蔵は日本最大といわれる八角形の転輪経蔵だそうである。

観音堂の西側につけられた遊歩道を上がっていくと右手に赤穂市長の揮毫による「播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩公供養之塔」がある。「忠臣蔵」の時代に建てられたものと期待してきたのだが、昭和63年建立という新しさにガッカリ。殿中刃傷事件を起こした浅野内匠頭は一関藩田村家の江戸上屋敷で切腹した。それが縁で、赤穂市と一関市は姉妹都市を結んでいる。
時の太鼓 一関藩時代(1682~1868)一関田村家初代藩主田村建顕公は、時刻を民に知らせることは、民生の安定はもとより、文武産業の振興にもつながるものとして、 時の老中阿部豊後守に願い出て「時の太鼓」を打ち鳴らすことを特に許されたのである。 貞享3年(1689)7月1日より、一関の城下町に毎日子の刻、午の刻(午前0時と正午)二回、標準時刻を知らせる太鼓が鳴り饗いた。 当時、時を知らせる太鼓を打ち……
時の太鼓 一関藩時代(1682~1868)一関田村家初代藩主田村建顕公は、時刻を民に知らせることは、民生の安定はもとより、文武産業の振興にもつながるものとして、 時の老中阿部豊後守に願い出て「時の太鼓」を打ち鳴らすことを特に許されたのである。 貞享3年(1689)7月1日より、一関の城下町に毎日子の刻、午の刻(午前0時と正午)二回、標準時刻を知らせる太鼓が鳴り饗いた。 当時、時を知らせる太鼓を打ち鳴らしたのは、皇居、幕府、御三家(水戸、紀州、尾張)に限られていただけに、参勤交代で一関を通る大名や旅人たちは、この太鼓の音に驚き、又羨望の的だったといいます。以来田村家館の に太鼓楼を置き、昼夜二回打ち鳴らしたが、大太鼓のうえ「南蛮製瓔珞」入りのため、余韻はすばらしく藩内四十か町村に響き渡ったのである。そのため「一関には過ぎたるもの二つあり、時の太鼓に建部清庵」として、もてはやされたのです。藩民は、これを誇りに思い太鼓の音を生活の励みとしたが、時間を尊ぶ勤勉さと「打てば響く市民性」は、今も受け継がれている。造りは、一本のけやきの大木をくりぬいて作り、口径3尺2寸5分(97.5cm)胴長3尺3寸5分(105cm)重さ50貫(187kg)。木口の上下端に牛皮を張り、胴面に朱漆塗りを施してある。 一関市
少しいくと「時の太鼓」で知られる長昌寺がある。城下に時刻を知らせるのに「時の鐘」として特定の寺の鐘が突かれたことはよく聞くことだが太鼓を打ち鳴らすことは皇居、幕府、御三家のほかは禁じられていた。それだけに一関藩は特別な扱いを得たことになる。「一関には過ぎたるもの二つあり、時の太鼓に建部清庵」といわしめた所以である。

一関を後にして丘陵の裾をぬってのびるのどかな道を南西に向かう。やがて「なべ倉」バス停手前左手に「迫街道一里塚跡(新山)」の標柱が立っている。塚はなく、跡地をしめすのみである。

国道4号のガードをくぐった少し先に「芭蕉行脚の道」の白い標柱が立っている。奥の細道、元禄2年(1689)5月14日の行程を示すものである。

まもなく蔵主沢で道が二手に分かれ、その間に山中に入っていく山道が残っている。入口に「日本の道百選 奥の細道(蔵王沢)」がある。これが迫街道(奥の細道)の旧道で山を越え東北自動車道の西側で刈又一里塚に続いていた。この道は途中で消失しているため、右側の県道で迂回する。


東北自動車道のガードをくぐって左折、山間の舗装道路を南に向かってしばらく行くと左手に自動車道のもう一つのガードが見えてくる。蔵主沢から山に向かった旧道が山を下りこのガード下に出ていた。その道を逆にたどってみると轍の残る農道のようで、田圃の間を山に向かって続いていた。

元に戻って、車道との交差点角にいつもの「日本の道百選 奥の細道」標柱と刈又一里塚の説明板が建っている。一見広くて整備された道の先は二股になっており旧道は右の上り坂をゆく。入口に「芭蕉行脚の道」の標識がひん曲がって倒れている。柳沢で見たきれいな白い標柱はてっきり木柱だと思っていたが、どうやらトタン製四角柱のようだ。
ぬかるみがまじる山道となり深い雑木林に入っていく。この上り坂は「ひじまがり坂」とよばれているらしい。有壁からの旧道にも「ひじまがり坂」があった。横V字形に折れる鋭角の曲がり道の呼称だが、ここまでにそんな折れ道があったか、記憶にない。

峠の気配がするあたり、右手に「おくのほそ道」の冒頭を刻む文学碑がある。
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也・・
一里塚は、慶長九年(1604年)徳川幕府の命によって、全国の街道に一里毎に土を盛り里程標として築造されたものである。 この一里塚は迫街道に造られたもので、奥州街道を分岐し宮城県境を越え、岩ケ崎、迫、岩出山を経て、仙台、山形方面に通じ藩政時代は奥州街道に次いで栄えた。 築造は江戸時代初期のもので、二つとも鉢を伏せた原形をとどめている。 旅人の休憩場所、駕寵屋、乗馬賃などの基準点であり道路交通史上、生……
一里塚は、慶長九年(1604年)徳川幕府の命によって、全国の街道に一里毎に土を盛り里程標として築造されたものである。 この一里塚は迫街道に造られたもので、奥州街道を分岐し宮城県境を越え、岩ケ崎、迫、岩出山を経て、仙台、山形方面に通じ藩政時代は奥州街道に次いで栄えた。 築造は江戸時代初期のもので、二つとも鉢を伏せた原形をとどめている。 旅人の休憩場所、駕寵屋、乗馬賃などの基準点であり道路交通史上、生活文化史を知るうえで責重な存在である。 一関市教育委員会
その先に、お椀を伏せたような一対の丸い塚があらわれた。人も通らぬ見捨てられた山道で修験者のように毅然として長年の孤独に耐えてきた姿は神々しくもある。原形をとどめる一里塚を山中にみることじたいが稀有な例である。

道はさらにつづき左に木立の切れ間がみえるようになった。再び雑木林のなかにはいり、道が左右に分かれる手前で「この先通り抜けできません」と書かれた立て札があった。旧道はこの先、岩手県と宮城県の県境に沿って山を下り一関CC駐車場脇に出ていた。今も無理をすれば辿れるらしいが、ここで引き返し、最初の東北自動車道のガードまでもどり、県道で西側から回り込むようにしてゴルフ場に入った。

駐車場脇から旧道が復活している。ゴルフ場への導入路を下ってゆくと、県道との交差点手前に「奥州上街道 吉目木坂(よしめきさか)」の標識と数基の石塔がある。また交差点の東側に吉目木館跡の標柱が立っている。ここはもう宮城県である。街道の呼び方も迫街道は姿を消して「奥州上街道」にかわった。

交差点を直進していくとまた路傍に「奥州上街道」の標柱が立っている。牧場がみえる高原の快適な道をゆくとやがて峠を越えて平地にでる。右からきた道と合流した先で小川(金流川)を越える。

橋の脇に「芭蕉行脚の道 赤児大橋」の標識が立つ。

この先、右手にあぜ道が真直ぐにのびていて森の中に消えている。農道の途中に「芭蕉行脚の道」の標柱が立つ。これが旧道で、森の中を1kmほど県道に沿って西南にのびて町道片馬合普賢堂線の前で崖となって断絶している。この出口にも「芭蕉行脚の道」の標識と詳しい説明板が立っていて旧道であることを示している。
栗原郡誌によれば、平泉藤原秀衝は非常に歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば歌曲を舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいて、容貌が閑麗で、その舞も群をぬいて優れていたので衆人からいつも讃えられ秀衡も特に目をかけ賞めていた。他の舞童たちからはこれを妬み、ひそかに人手にかけて殺害しここに埋めたという。春風はいつも紅衣を着用していたことから後の人々が里の名を赤児と称したといわれる。また赤児……
栗原郡誌によれば、平泉藤原秀衝は非常に歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば歌曲を舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいて、容貌が閑麗で、その舞も群をぬいて優れていたので衆人からいつも讃えられ秀衡も特に目をかけ賞めていた。他の舞童たちからはこれを妬み、ひそかに人手にかけて殺害しここに埋めたという。春風はいつも紅衣を着用していたことから後の人々が里の名を赤児と称したといわれる。また赤児新山神縁起によれば元慶3年(878)8月17日に鎮守府将軍小野春風の妻が日野丹波という修験者の新山五神の加護により一子春若丸を恵まれたという。しかし不運にもその子が病死したので悲しんで墓としたことを記している。考古学的には葺石を上面に敷き詰めた経塚で、時代は平安末期から鎌倉初期といわれている。 昭和61年10月 金成町教育委員会
一方、赤児大橋から矢待沖バス停で県道182号に出て右折していくと、まもなく右手に八幡社、道が大きく右にまがるところに赤児塚がある。奥州藤原秀衡は歌舞を好み、そのなかで舞の上手な春風という少年を寵愛していた。他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたという。里人は春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから「赤児塚」と呼ぶようになった。

県道「金成野外活動センター」の案内標識が立つ町道との十字路交差点(ここを右折、100mの地点に旧道出口)を直進して一路栗駒をめざす。なだらかな下り坂から町並が見えるようになってきた。

民家の前に「和牛の里栗駒」の大きな看板が迎えてくれる。しばらくいくと市街地にはいり県道4号と合流、その後四日町信号を左折、一筋目を右折して広い八日町の通りを西進、栗駒岩ヶ崎保育所の裏側で駅前通りに突き当たる。ジグザグの町並は宿場当時と同じ形で残っている。
鶴丸城は、はじめ富沢氏の居館であった。富沢氏の祖右馬之助は葛西氏の出で南北朝時代の岩切城合戦に吉良方に味方して戦功あり、三迫の地にとみ沢の郷をもらい、この地に築城した。以来代々日向守を名乗り勢大いに振ったが、五代直景の代に至り豊臣秀吉の小田原征伐に不参の故を以て天正18年(1590)主家葛西氏とともに滅んだ。伊達氏の時代になり政宗公の五男宗綱六男宗信の居館となり茂庭周防の補佐により5万石の城下町を……
鶴丸城は、はじめ富沢氏の居館であった。富沢氏の祖右馬之助は葛西氏の出で南北朝時代の岩切城合戦に吉良方に味方して戦功あり、三迫の地にとみ沢の郷をもらい、この地に築城した。以来代々日向守を名乗り勢大いに振ったが、五代直景の代に至り豊臣秀吉の小田原征伐に不参の故を以て天正18年(1590)主家葛西氏とともに滅んだ。伊達氏の時代になり政宗公の五男宗綱六男宗信の居館となり茂庭周防の補佐により5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭折して成らず、その後石母田 田村 古内 茂庭 中村と移封された。中村氏は元新田氏を称し伊達家の累世一家の重臣で勲功により伊達公の旧姓を賜り中村日向の名を以て聞え岩ヶ崎城邑主として元禄7年より明治維新まで170年に及んだ。当館は東西650m、南北400mの壮大な連郭式山城で西に黒岩舘を控え本丸から東方に二ノ丸、三之丸 東舘と続き規模の壮大、近隣に比べるものがない 城跡に立っての眺望また絶佳 当時の勢威がしのばれる。 中村家13代宗三郎 孫

右にいけば岩ヶ崎小学校の裏山が鶴丸城跡になっている。小学校前を左におれて学校の西側から裏山に上がってく坂道をたどる。頂上に石碑がある。南方向に岩ヶ崎の町を展望でき見晴らしがよい。鶴丸城は南北朝時代葛西氏を祖とする富沢氏の居館として築かれた古い歴史をもつ。城主は転々とした後中村氏が明治維新まで170年にわたり居住した。石碑は中村家13代当主になるものである。


保育園南の丁字路にもどる。そこからわずかであるが右手に松並木がのこり昔の面影を伝えている。「奥の細道 岩ヶ崎鶴丸城跡」の標柱と、「鶴丸城跡」の説明板が立っている。右にでている道は大変広い。角に標柱があって、「桜馬場」とよばれる岩ヶ崎城主の馬場であり、領内最大の馬市が開かれていた場所である。街道はさらに一筋南の通りにはいって六日町を通り抜け国道457号を左折、茂庭町を通って岩ヶ崎大橋で三迫川をわたる。


名残の松並木からそのまま直進して旧くりはら田園鉄道栗駒駅に寄る。入口軒下に「みんなの足だよ栗鉄は 乗って残そう孫子のために」と大きく書かれた看板が掲げられ、その下のガラス戸には「この3月31日をもって旧栗駒駅は閉鎖いたします。なお、構内に市民バスは停車いたしませんのでご理解をお願いします。」の紙切れが貼られている。3月とは今年のことだろうか。無人の駅舎に近づく人はいないが数台のタクシーが駐車していた。線路はまだきれいだが1年もすれば草むらになるのだろう。

駅前の暗渠にそって土塁がすこし残っており、「大手橋跡」と刻まれた大きな石碑が立っている。当時はここに三迫川から取水した外堀が築かれ、鶴丸城(岩ヶ崎城)の大手門が構えていたものと想像した。
この辺りには「岩ヶ崎」と「栗駒」の地名が区別なく使われているようにみえる。岩ヶ崎が古名であろう。栗駒は栗駒山を含めた広域の地名なのだろうか。栗原市に吸収される前の栗駒町の中心地であった。

岩ヶ崎宿の出口茂庭町には古い家が残っている。円鏡寺の参道にめずらしい石碑をみつけた。
「杉並区高井戸第三国民学校 学童疎開50周年記念樹 わが故郷栗駒
平成6年10月9日建立 高三疎開学童の会 栗駒町」
都会の子供が田舎でどのくらいの期間をすごしたのか、戦時中とはいえ子供たちにとっては土や花や虫に囲まれての楽しい生活だったのではないか。

国道457号は真直ぐに南下し、尾松郵便局の交差点で右折して西に分かれていく。上街道は県道17・42号となって島巡橋で二迫川を渡る。はるか西方の山並みにそれぞれ形の違う三つの峰がながめられる。どれかが栗駒山だろう。栗駒という名は1年前の大地震で知ったものだ。
ところで、三、ニに次ぎこの先一の迫川がある。三本の流れは共に栗駒山に源を発して東流し宮城平野を潤している。金成の東方でニ迫と一迫が合流して一迫川となりさらに三迫川と一緒になって単に迫川となる。その先、旧北上川と合流して石巻湾に注いでいる。

県道はまもなく二手にわかれ、県道42号は南東方向へ、奥州上街道である県道17号は右に折れて西に向かう。700mほど行ったところに「史跡 奥州上街道入口」標柱が立つ丁字路にさしかかる。他の側面には「真坂を経て岩出山に至る。 約1000mの地点に芭蕉衣掛の松がある」と記してある。ここを左折するとすぐに「芭蕉衣掛けの松 直進900m先」の標柱が立つ。この道が旧街道、祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道である。

芭蕉が門人曽良を供に元禄2年5月16日(旧暦3月27日)江戸を旅立ちし、6月29日平泉で藤原三代の盛衰に涙し、一ノ関に再泊、翌30日一ノ関から上街道を岩出山へ向かった。岩ケ崎を経て真板への途中、ここ志登ケ森の頂上に着いた二人は、松の枝に衣を掛け、汗ばんだ肌に風を受けてしばし休息した。 松の根元の碑は昭和18年、芭蕉250年祭に建立したものである。南面に「芭蕉衣掛の松 通敬無一道人」 北面に「芭蕉は……
芭蕉が門人曽良を供に元禄2年5月16日(旧暦3月27日)江戸を旅立ちし、6月29日平泉で藤原三代の盛衰に涙し、一ノ関に再泊、翌30日一ノ関から上街道を岩出山へ向かった。岩ケ崎を経て真板への途中、ここ志登ケ森の頂上に着いた二人は、松の枝に衣を掛け、汗ばんだ肌に風を受けてしばし休息した。 松の根元の碑は昭和18年、芭蕉250年祭に建立したものである。南面に「芭蕉衣掛の松 通敬無一道人」 北面に「芭蕉は平泉の古跡を探りて道すがら5月14日(旧暦)ここに立ち寄りてこの松の樹に衣を掛けて息いければ芭蕉衣掛の松とぞ称しける」と彫られてある。 ここは昔、藩主の領内巡視の「お遠見場」で北に束稲山、東に石越観音、西から南に栗駒山、花渕山、舟形山、築館薬師山、涌谷箟岳山が望見される眺望絶佳の地である。 惜しい事に衣掛の松は先年虫害に倒れ、平成4年に二代目の松が移植された。 平成4年11月 一迫町教育委員会 栗駒町教育委員会 宮城県文化財保護協会
森の入口に「芭蕉衣掛けの松 ←徒歩20分」の立て札。左方向に森を入っていくと右手に雷神社参道入口に赤い鳥居がある。山道をのぼりやがて峠から車道との合流点におりていく左手に松の切り株を覆う東屋があった。ここで芭蕉は衣を松の枝に掛けて一休みしたという。この峠付近は眺望絶佳のところで、藩主の領内巡視の「お遠見場」で知られる。
上街道旧道と広域農道大又-割山線との合流点 志堂(志登)が森 元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、一関からこの街道(当時一里塚の設けられた藩道)を過ぎて真坂(一迫町)経由、岩出山へと向かったのである。「曽良旅日記」には、その折のことを、 一 十四日天気吉・・・真坂ニテ雷雨ス 乃晴、頓テ又曇リテ折々小雨スル也 としるしている。江戸時代の街道は、 や志……
上街道旧道と広域農道大又-割山線との合流点 志堂(志登)が森 元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、一関からこの街道(当時一里塚の設けられた藩道)を過ぎて真坂(一迫町)経由、岩出山へと向かったのである。「曽良旅日記」には、その折のことを、 一 十四日天気吉・・・真坂ニテ雷雨ス 乃晴、頓テ又曇リテ折々小雨スル也 としるしている。江戸時代の街道は、 や志堂(志登)が森を中心に稜線づたいにつづいていた。また峠付近は、御遠見場と称して、仙台藩主がこの街道を通行する際は、必ず休息して領内を遠望する場所とされていた。 後年、この街道は廃道となったが、反面このことは、旧道を保存する結果となった。現在頂上には「芭蕉衣がけの松」と伝える巨松がそびえているが、この松を中心に、当時の自然の環境がよく保たれている。 栗原郡のこの一帯は平安時代には姫松荘といわれ、藤原氏の荘園であた。江戸時代は、各村に分かれていたが、明治以降は姫松村となり、現在は栗原郡栗駒町・一迫町・築館町に含まれている。志堂(志登)が森は、栗駒町と一迫町の境にあたっている。元禄2年当時、真坂(一迫町)は、冨塚出雲重長(城は、上真坂上台)の所領であったが、享保3年(1718)領地没収となり、その後白河氏(千石余)の所領となり幕末まで続いた。現在の真坂と岩ヶ崎(栗駒町)を結ぶ街道は、この地方では「往還」と呼ばれている。
車道を右に進むとすぐ左手に「奥州上街道」の標識が立つ旧道が続いている。再び山道に入って祠堂ヶ森をぬけ、広域農道大又-割山線に出る。出口に「奥州上街道」、「奥の細道」の標柱に並んで、「祠堂ヶ森」の詳しい説明板が設けられている。
「栗原郡のこの一帯は平安時代には姫松荘といわれ、藤原氏の荘園であた。江戸時代は、各村に分かれていたが、明治以降は姫松村となり、現在は栗原郡栗駒町・一迫町・築館町に含まれている。志堂(志登)が森は、栗駒町と一迫町の境にあたっている。」

広域農道を右に折れて県道17号に出、次の宿真坂に向かう。
長い坂を下っていく途中、右手に町田館跡の標識がある。近寄ると側面に「自然の地形を利用した単郭の平山城で、年代や館主などについては、いっさい不明である」とあった。


坂を下りきったところに姫松小学校が、再び上り坂の峠手前に山神社がある。小高い丘に上がる参道の横に旧道風の草道がついてる。尾根に上がると狭い平地に銅版葺き一間切妻造りの社殿が建っている。小さいながら、彫刻をほどこし高覧付き回縁を備えた立派な神社だ。その横を街道とおなじ方向に山道が残っている。北側は上がり坂の端に出羽三山石塔などが並んでいてその先は崖で消失。南側は山中に消えているようにみえる。この部分が旧道なのか、神社神域の台地なのか、知らない。
この寺は、新潟県村上市の霊樹山耕雲寺4世?山宗虎大和尚が文明10年(14789に開山した。(中略)境内には仙台藩宿老冨塚家の廟、仙台藩一門白河家歴代の廟、等がある。特に、伊達騒動を戯曲化した「伽羅先代萩」に登場する政岡(白河志摩義実夫人)の墓とその子千代松(白河宗広)のあることで知られている。またこの寺には、冨塚氏が寄進した持仏堂、什器、鋏箱2個、短鎗、それに烈婦政岡の遺品である煙管、金襴の衣服の……
この寺は、新潟県村上市の霊樹山耕雲寺4世?山宗虎大和尚が文明10年(14789に開山した。(中略)境内には仙台藩宿老冨塚家の廟、仙台藩一門白河家歴代の廟、等がある。特に、伊達騒動を戯曲化した「伽羅先代萩」に登場する政岡(白河志摩義実夫人)の墓とその子千代松(白河宗広)のあることで知られている。またこの寺には、冨塚氏が寄進した持仏堂、什器、鋏箱2個、短鎗、それに烈婦政岡の遺品である煙管、金襴の衣服の残片等が保管されている。 一迫町教育委員会
県道にもどって真坂の町に降りていく。一迫川の手前右手に龍雲寺が、左には奥州藤原氏の重臣、井ノ山雅楽允の居城と伝わる姫松館跡がある。龍雲寺は伊達騒動をテーマとした「先代萩」に登場する政岡(白河志摩義実夫人)の墓があることで知られる。わが子を犠牲にして幼君を救ったという烈婦、政岡とはどんな女性か。

一迫川をわたり長崎川を渡ったところで県道17号から分かれて右の旧街道に入っていく。真直ぐに南北にのびる通りが真坂宿である。真坂・一迫は岩ヶ崎・栗駒の関係と対応するようで、真坂が旧名、一迫町は栗原郡時代の町名だろう。街道の説明に単に「迫(宿)」と出てくる場合があるが、「迫」とは三本ある迫川流域のことで、主に一関以北からみた広域概念と思われる。ここでは宿名として、岩ヶ崎-真坂で統一しておこう。

真坂宿は北から本町、中町、荒町、南町と続く。所々に旧街道筋の雰囲気が残っている。伊長自転車店は門の屋根を突き破るようにそびえる松の木が立派だ。中町の若生明文舎は白ペンキ塗りの板壁が大正時代の洋風建物の雰囲気を与えている。「印刷と製本」と浮き彫りした板看板も趣ある。

荒町はみごとに高さをそろえた家並みが続き、個性をおさえ和風建築を思わせない中立的な景観もまた全体としての一つの個性であろう。

南町の右手に芭蕉の時雨塚が建つ秋葉神社がある。この塚は、寛政12年(1800)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで「時雨塚」としたものである。

今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを 野は仕付けたる麦の新土 許六 春も時にとりてやしぐれ塚 午夕
曽良随行日記に「真坂ニテ雷雨ス」とある。時雨塚を、この時の芭蕉雨宿りの場所と結び付けたいが、付近にそれを暗示するものは見当たらなかった。
この神社は「明神社」とお伝えられ「雨乞いの神」として信仰されたが勧請等については不明である。しかし永承6年(1051)の前九年の役に陸奥守鎮守府将軍源頼家が阿倍貞任征伐のためこの地を訪れた時、すでに祠堂があったといわれているので、その歴史は古いようである。「眼病の神」という説もあるが、これは「後三年の役」で義家の家臣鎌倉権五郎景政が負傷した目を祠堂の近くの泉で治したという伝記とのかかわりがあるよう……
この神社は「明神社」とお伝えられ「雨乞いの神」として信仰されたが勧請等については不明である。しかし永承6年(1051)の前九年の役に陸奥守鎮守府将軍源頼家が阿倍貞任征伐のためこの地を訪れた時、すでに祠堂があったといわれているので、その歴史は古いようである。「眼病の神」という説もあるが、これは「後三年の役」で義家の家臣鎌倉権五郎景政が負傷した目を祠堂の近くの泉で治したという伝記とのかかわりがあるようだが詳細は明らかでない。なお、この神社のそばに樹齢3百年を越す老松「赤鳥井の松」があったが、昭和60年松食虫の被害にあって枯死してしまった。 一迫町教育委員会
真坂宿をでた街道は再び県道17号に合流しやがて二股で県道59号を左に分岐して、自らは南西に向かう。右手の沼のほとりに水神社の説明板と「赤鳥居の松」の標柱が立っている。雨乞いの神として信仰された神社で、11世紀にはすでに祠堂があったという古い歴史をもつ。
街道は栗原市一迫から大崎市岩出山にはいる。

街道は堂の沢から天王寺一里塚まで、県道17号の北方に旧道が断続的に残っている。旧岩出山町はこれらの旧道を昭和53年(1978)から4年にわたり「歴史の道」として整備・保存事業を行なった。対象区間は9km、農林道とかさなる部分が半分、のこる約4kmが草深い山道である。草を狩り、標識を設け、東屋を建てて独りでも歩けるようになった。ただし、マムシと熊に対する保障はない。1kmを越える部分が二箇所あるほかは200mから500mの比較的短い山道である。それらのいくつかを歩いてみた。
潜松坂には、三墓の古墳があり、この塚がそのひとつです。これは、今からおよそ1300年前に、この地方を支配した豪族の墓で、棺の上に円形に土を盛ったもので円墳とよばれています。又、ここより南方約100にある古墳は、正方形に土を盛ったもので方墳とよばれています。ここは、昔、道の両側に植えられた松の枝が、交差し合ってトンネル状になり、松の枝の下をくぐり抜けるような姿から「潜松」とよばれています。 宮城県 ……
潜松坂には、三墓の古墳があり、この塚がそのひとつです。これは、今からおよそ1300年前に、この地方を支配した豪族の墓で、棺の上に円形に土を盛ったもので円墳とよばれています。又、ここより南方約100にある古墳は、正方形に土を盛ったもので方墳とよばれています。ここは、昔、道の両側に植えられた松の枝が、交差し合ってトンネル状になり、松の枝の下をくぐり抜けるような姿から「潜松」とよばれています。 宮城県 岩出山町

真山御上バス停付近に「歴史の道」の全体像を示した案内板がある。ここが第1の旧道入口である。石畳で整備された入口から杉木立の山中にはいり県道に沿って1.2kmの山道をいく。山道といっても県道から50mほど林に分け入った側道という感じで、なにかあれば県道に飛び出せるという安心感があった。杉木立の中を歩いていくと県道とをつなぐ丁字路をすぎたあたりに「潜り松古墳群」の案内板がある。石段をおりて県道に出る。

S字状カーブを経て「千本松長根300m」の標識が立つ丁字路にさしかかる。このあたりは馬館と呼ばれる所で、「馬館跡」、「馬館古墳群」の標柱が建っている。馬館はかつて真山地区の中心地で、駅舎を置いて駅馬の継立を行ったほか、馬市も開かれていた。
丁字路を右折してしばらくいくと千本松長根入口に臨時駐車場が用意されている。民家の軒先を通って石畳を上がっていくと、見事な赤松並木が現れる。杉のように真直ぐに伸びた姿勢のよい松木立だ。
「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ」とあります。その古道の面影を残しこの尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消しましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。 宮城県 岩出山……
「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ」とあります。その古道の面影を残しこの尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消しましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。 宮城県 岩出山町
この道は源頼朝も通ったという古道である。東山道は多賀国府より現在の奥州街道より西側のルートを取って、中山越出羽街道の色麻から岩出山より奥州上街道を北上し、玉造駅(旧岩出山町葛岡)、栗原駅(旧栗駒町)を経て津久毛から金成町で現奥州街道に合流していた。上街道は平安、鎌倉時代の幹線道路だったのである。
1500mにわたって植えられた松並木も戦時中は「松根油」採取のために伐採され、現在みる松は昭和27年ごろ小中学生の手によって植えられたものである。「松根油採取跡」の立て札がその歴史を伝えている。

第二次世界大戦中、燃料として使用するため、松の大木を切り倒し、根株を掘り起こして油を採取しました。それが松根油です。松根油は、主に航空機の燃料として使用され、根株の堀起し作業は、地区民や学生の奉仕によって行なわれました。今でも、掘起された松の大木の根株が、あちこちに見られ、戦争中の窮迫した姿がうかがわれます。 宮城県 岩出山町
並木道の中間地点に東屋が設けられそばに「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」と刻まれた「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して建立された。

松並木の終わりに「歴史の道上街道案内図」と、磯良神社(オカッパサマ)への案内標識が立っている。矢印に従って「鼻こくり坂」とよばれる急な坂を下ると林道にでる。左折してしばらくいくと蛇行する林道を端折る形で150mほどの短い山道が残っている。山から出てくると農道の十字路があって、直進すると再び200mほどの旧道を経て県道に出る。
磯良神社は、カッパの虎j吉を祀ったものと言い伝えられています。虎吉は、陸奥の豪族、藤原秀郷の馬屋に仕え、主人に大変気に入られていましたが、ふとしたことからカッパの正体がばれ、暇をもらって主家をでました。主人から持仏の十一面観音をもらい平泉をあとにした虎吉は、諸方を転々とし、ここを永住の地と定めました。その後、敬神の念厚き氏子たちがお堂をつくって祀ったと伝えられています。 例祭は、旧暦の6月15日で……
磯良神社は、カッパの虎j吉を祀ったものと言い伝えられています。虎吉は、陸奥の豪族、藤原秀郷の馬屋に仕え、主人に大変気に入られていましたが、ふとしたことからカッパの正体がばれ、暇をもらって主家をでました。主人から持仏の十一面観音をもらい平泉をあとにした虎吉は、諸方を転々とし、ここを永住の地と定めました。その後、敬神の念厚き氏子たちがお堂をつくって祀ったと伝えられています。 例祭は、旧暦の6月15日です。 宮城県 岩出山町
十字路を右におれると池の中に磯良神社がある。藤原秀郷に仕えていたカッパ虎吉を祀ってある。近づいて池をみやると木立の間からなにやら青い地蔵風の物体が見えて、一瞬ギクリとした。虎吉か? 横からちかづくと釣り竿がみえて、安心した。梅雨時で、青い合羽を着ていたのだ。

「何が釣れますか?」 「鮒。」
ビニール袋から大き目の鮒を一匹出して見せてくれた。鮒鮨用の鮒ではなさそうだ。
静まり返った森と池。些細な水音も臆病な訪問者をおどろかせるには充分なセッティングである。

県道17号を西に歩いていくと、町道との丁字路にさしかかる。西:岩出山、東:一迫、北:上街道の道路標識が立つ。右折して町道に入る。このあたり、岩出山葛岡には古代東山道の駅家玉造駅があったと考えられている。
葛岡高田の集落から南に下る舗装道をたどると小松川にかかる高見橋の手前に「上街道」の標石がある。橋をわたって「葛岡第一生活センター」の前を右折する。

山に入って行き、二股の左の草道が古道である。約500mほどいったところ、右手に狼塚がある。かってはここにお堂があって、毎年3月3日に狼祭りが行なわれていたという。
古道は牧場経営主の敷地を通り抜けて県道17号十文字丁字路交差点に出る。
「歴史の道上街道」もおわりに近づき、まもなく天王寺一里塚に至る。ほぼ直角に左折する県道を対角線状に端折る400mほどの古道が残っているようだが、入口を見過ごしてしまった。

一里塚は左右共に保存するため、県道改修の際には一方通行単線道路を二本つけた。東海道で松並木を保存するためこうした配慮がなされている例を見たことがあるが、一里塚については初めてではないか。岩ヶ崎(一関方面)へ向かう車が両塚の間を通る。

一里塚からほどなく天王山に残る逆くの字形の旧道を経て、県道を横切って右斜めの坂を下っていくと、上街道の終点天王寺追分に出て出羽街道中山越に合流する。
昔の街、出羽街道と上街道の分岐点。大正の初期までは茶屋があり、馬を乗り換えた場所です。俳聖松尾芭蕉と曽良は、小黒ヶ埼と美豆(みつ)の小島を尋ねようと、ここを西に折れ一栗(ひとつぐり)の宿まで足を運んだが日が暮れかかったので岩出山に泊まったと曽良日記に記されています。ここのある山神塔は、江戸時代に建てられたもので道標を兼ねています。 宮城県 岩出山町 陸奥上街道 上街道(松山街道)と出羽街道(水戸街……
昔の街、出羽街道と上街道の分岐点。大正の初期までは茶屋があり、馬を乗り換えた場所です。俳聖松尾芭蕉と曽良は、小黒ヶ埼と美豆(みつ)の小島を尋ねようと、ここを西に折れ一栗(ひとつぐり)の宿まで足を運んだが日が暮れかかったので岩出山に泊まったと曽良日記に記されています。ここのある山神塔は、江戸時代に建てられたもので道標を兼ねています。 宮城県 岩出山町 陸奥上街道 上街道(松山街道)と出羽街道(水戸街道)の分岐点・・・芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日9に上街道と別れ小黒崎・みずの小島を訪れようとして出羽街道を西に向かったが、途中から引き返し岩出山に泊まった。おくの細道には「南部道遥かに見やりて岩手(出)の里に泊まる」とある。
分岐点には道標を兼ねた山神塔のほか、「おくのほそ道」の案内板、上街道の石柱などが建てられている。ここで「奥州」でなくて「陸奥」上街道となっている。ここには大正初期まで「たまを茶屋」という茶店があって、鳴子温泉に往来する旅人で賑わっていたという。

出羽街道の北西方向を眺めてみる。鳴子温泉あたりには出羽街道、というより奥の細道の旧道が整備されていて観光ルートになっているみたいだ。奥州街道吉岡宿から、再びこの道を歩いてくることになるだろう。
迫街道はここでおわるわけだが、芭蕉が一泊したという場所をたずねるついでに岩出山の町を散策しておこうと思う。
推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺のーつであると伝えられている。当時の七堂伽藍は焼失し、元暦元年(1184)に、平泉藤原秀衡によって再建され、運慶作の聖観音像と聖徳太子像を安置した。 天正18年(1590)の大崎一揆の際に、再度火災にあい寺院は焼失したが、仏像は岩手沢城に移され、翌年伊達攻宗が米沢から岩手沢城に移った際に再建され、仏像も本寺に戻った。しかし明治38年(1……
推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺のーつであると伝えられている。当時の七堂伽藍は焼失し、元暦元年(1184)に、平泉藤原秀衡によって再建され、運慶作の聖観音像と聖徳太子像を安置した。 天正18年(1590)の大崎一揆の際に、再度火災にあい寺院は焼失したが、仏像は岩手沢城に移され、翌年伊達攻宗が米沢から岩手沢城に移った際に再建され、仏像も本寺に戻った。しかし明治38年(1905)にまたも火災にあい、聖観音像と聖徳太子像を失った。現在は室町時代に作られた如意輪観音と四天王像が、町の有形文化財に指定され安置されている。 境内には、正和、建武、康暦等の鎌倉・室町時代の年号板碑がある。
旧出羽街道の南側に萱葺屋根の大きな農家がある。追分の名前となった天王寺に寄って行く。推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。三度の火災にあって七堂伽藍も運慶作の聖観音像と聖徳太子像も焼失した。
ここから岩出山の市街地まで、出羽街道の旧道がどのようにたどっていたのか、調べていない。地図でみる限りではここから国道47号に並行して南東に向かい、県道17号を横切り針生でわずかに県道165号に乗った後、右に分かれて一栗浄化センターの先で江合川に消えている道筋が自然にみえる。しかしそれでは川向こうの岩出山の町を過ぎてしまうことになり、どこかもっと手前で江合川をわたっている必要がある。
とりあえず今回は天王寺をみて県道17号で国道47号の要害交差点をわたり県道226号(羽後街道)をたどって街中に入ろうと思う。
散策は出羽街道を歩く気分で、南から北へとたどる。

岩出山散歩の出発点は伊達家霊廟である。県道226号が蛭沢川にぶつかるところを左に折れ松窓寺橋を渡った左手の山中にある。天正19年(1591)米沢から移ってきた伊達政宗が12年後仙台青葉城に移ってから岩出山領主となった政宗第4子宗泰をはじめとして歴代岩出山領主の墓がある。

北の方角に岩出山の町が展望できる。中央を縦走する広い通りが県道226号で、出羽街道の道筋であろう。仲町、本町の区間が一段と幅広く整備されている。
おくのほそ道と岩出山 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸を出発し、歌枕を訪ねる旅に向いま した。一ケ月余りで現在の宮城県に入り、仙台、松島などを経て、現在の岩手県、一関、平泉に至りました。5月14日、一関を立って南下した芭蕉は、その日、ここ岩出山に宿泊し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る」と書き残しています。 この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出……
おくのほそ道と岩出山 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸を出発し、歌枕を訪ねる旅に向いま した。一ケ月余りで現在の宮城県に入り、仙台、松島などを経て、現在の岩手県、一関、平泉に至りました。5月14日、一関を立って南下した芭蕉は、その日、ここ岩出山に宿泊し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る」と書き残しています。 この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出山町真山地区に残っており、現在は「国指定史跡陸奥上街道」として整備され、いにしえを偲ぶことができます。 芭蕉に同行した門人、曾良の日記によると、14日のうちに小黒ヶ崎、美豆の小島(岩出山町と鳴子町の境)を見ようと足を進めましたが、二里(約8km)ほど先であるため、岩出山に戻り宿泊し、翌15日に訪れたことがわかります。 当時の岩出山の様子については「岩手山。やしきも町も平地。上の山は政宗の初の居城なり。杉茂り、東の方、大川なり。玉造川という。岩山なり。」と記しています。 なお、芭蕉が宿泊したのは石崎屋という旅篭で、現在の岩出山交番所付近にあったといわれています。
仲町交差点北東角の交番あたりに旅籠石崎屋があり、元禄2年(1689)5月14日芭蕉と曽良が一泊した。一筋北の右手ポケットパークに芭蕉像と奥の細道案内板、岩出山町道路元標などが建っている。

内川に架かる岩出山橋にさしかかると県道の景観は一変して、道幅も狭くなり沿道の家並みも旧街道の面影をただよわせている。内川沿いに西へ寄り道する。

二ノ溝(にのかまえ)橋界隈は情緒あふれる一角である。内川に沿って遊歩道が整備されている。橋は木橋で、欄干を横板で覆った珍しい造りである。

北角を占めるのは森民酒造店で、冠木門の内側にレンガ造りの煙突がそびえている。ちょうど店の雨戸が開けられるところだった。

南に目をむけると、こちらはかっての武家町で、水路がついて緑の多いしっとりした路地である。門に板塀を構える屋敷は阿部東庵記念館である。阿部東庵は伊達邦直公に仕えた典医で、長崎や京都で医学や蘭学を学んだだけでなく、茶道や歌道にも通じていた文化人であった。

城山公園に上る。途中にSLが展示されている。JR陸羽東線を引退した昭和14年製の蒸気機関車である。頂上広場に城址碑がある。
政宗公立像は、もと仙台市 にあったもので昭和39年9月仙台市から岩出山へ、寄贈されたものです。戦後空になった台座に、小野田セメント会社が彫刻家柳原義達氏に託し製作し仙台市に寄贈されたもので平服を着ているところから平和像と呼んでいます。岩出山は政宗公が天正19年(1591)9月23日山形県米沢から移り慶長8年(1603)8月まで、12年の間城を構えたところです。25才から38才までの充実した年代で、……
政宗公立像は、もと仙台市 にあったもので昭和39年9月仙台市から岩出山へ、寄贈されたものです。戦後空になった台座に、小野田セメント会社が彫刻家柳原義達氏に託し製作し仙台市に寄贈されたもので平服を着ているところから平和像と呼んでいます。岩出山は政宗公が天正19年(1591)9月23日山形県米沢から移り慶長8年(1603)8月まで、12年の間城を構えたところです。25才から38才までの充実した年代で、その間文禄の役関ケ原の戦等に出陣しました。この像の建立を記念し毎年9月の第二土曜日と日曜日に、政宗公まつりを催しています。
左奥に平服姿の伊達政宗立像が立つ。青葉城址にあった政宗騎馬銅像が戦時中に供出された。空になった台座に小野田セメントが平服立像を寄贈した。この像はセメント像だろうか。仙台市民はこの像を余り喜ばなかった。昭和39年になって青葉城址に新しい騎馬像が出来上がったので、平服像は政宗ゆかりの岩出山城址に寄贈されたものである。右目が痛々しい。武将というよりもキリスト教徒が立っているように見える。不評だったわけがわかるような気がする。
国指定史跡 名勝旧有備館及び庭園 伊達改宗は、天正19年(1591)に米沢から岩手沢に居城を移し、岩出沢を岩出山と改めました。慶長6年(1601)さらに仙台に移り、岩出山は政宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達家が代々伊達一門として治めました。有備館は江戸時代に岩出山伊達家の家臣子弟の学問所となった建物で、伊達家当主が時折講義に臨むための場所であった とその付属屋が現在までその姿を伝えています。有備……
国指定史跡 名勝旧有備館及び庭園 伊達改宗は、天正19年(1591)に米沢から岩手沢に居城を移し、岩出沢を岩出山と改めました。慶長6年(1601)さらに仙台に移り、岩出山は政宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達家が代々伊達一門として治めました。有備館は江戸時代に岩出山伊達家の家臣子弟の学問所となった建物で、伊達家当主が時折講義に臨むための場所であった とその付属屋が現在までその姿を伝えています。有備館の建物(主屋)は、二代宗敏の隠居所として延宝5年(1677)頃に建てられたとする説が有力です。その後、下屋敷、隠居所、学問所として使用されてきました。 庭は正徳5年(1715)頃、四代村泰の時代に整備されたと伝えられています。仙台藩茶道頭、石州流三代清水道竿の作庭で岩出山城本丸の断崖を借景として池中に島を配した回遊式池泉庭園で、中には300年以上の樹木があり四季を通じた縁や花等で庭の変化を楽しむことができます。 大崎市教育委員会
岩出山最後の訪問場所は有備館である。有備館は伊達家の家臣子弟の学問所として使用された、江戸期のものとして残る最古の藩校建築である。萱葺の格式を備えた美しい建物である。岩出山城本丸の断崖を借景としてつくられた回遊式池泉庭園も名園とされている。開園前の準備をしていたおじさんに無料で入らせてもらった。
入口の向かいが陸羽東線有備館駅である。朝霧の中を二両編成の電車がやってきた。