仙台-原町-今市-利府-松島-高城-小野-矢本-石巻
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道標 「南 江戸日本橋まで 69次 93里 奥州街道」 ここは仙台城の大手から城下を東西に貫く幹線大町と、南町、国分町を通る奥州街道の交差する十字路に当たり古くから「芭蕉の辻」と呼ばれてきた。この名称の由来は、かってここに芭蕉樹があったがためと言いまた繁華な場所ゆえの「場所の辻」の訛ったものだとし、更に藩祖政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたためとも言われ定かにはわからない。しかし正……
道標 「南 江戸日本橋まで 69次 93里 奥州街道」 ここは仙台城の大手から城下を東西に貫く幹線大町と、南町、国分町を通る奥州街道の交差する十字路に当たり古くから「芭蕉の辻」と呼ばれてきた。この名称の由来は、かってここに芭蕉樹があったがためと言いまた繁華な場所ゆえの「場所の辻」の訛ったものだとし、更に藩祖政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたためとも言われ定かにはわからない。しかし正式には「札の辻」であって、それはこの辻の西 大町3丁目の道路の中央に幕府の指令による忠孝・切支丹・捨馬などの制札が掲げられていたのに因る。 この位置からも察せられるように町割りの基点となり諸方への里程の基準ともなった。このたび由緒あるこの地に安田生命相互保険会社仙台ビルが建設されるに当たり里程標を復元し併せて記念碑を建てて旧蹟を永く後世に伝えるものである。 昭和46年1月 仙台市長 安田生命保険相互会社
仙台の中心街、国道4号から3筋西と、青葉通りの1筋北の交差点は「芭蕉の辻」とよばれ、ここが仙台宿の中心地であった。
明治安田生命の軒先をかりて、「芭蕉の辻」の碑と、「道標」が据えられている。道標には、「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」、「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」と記されている。日本最長の道である奥州街道は、日本橋から93里の道のりをきて、ここから奥道中と名前をかえて津軽三厩迄延々さらに107里の長い道程をゆく。南北に縦貫する奥州街道に加えて、ここからは東西にも重要な道が分かれていた。
西へはまっすぐに大橋で広瀬川をわたり青葉城大手門に通じる。東に向かう道はその目的地によって、塩釜街道、石巻街道、金華山街道と呼ばれている。石巻で更に東方の牡鹿半島に向かう金華山街道と、北に向かって奥州街道に合流する一関街道が分岐している。芭蕉は塩釜街道から船で松島にわたって石巻街道の後半部分に乗り、石巻で一関街道(最後の部分は別ルート)に移って平泉をたずね、奥の細道行脚の北限を記録した。

芭蕉の辻から東にむかうと、仙台駅にぶつかる。北にずれて、広瀬通りの東で線路をわたり開発工事の複雑な区域を通りこすと、鉄砲町に入る。藩政時代、鉄砲足軽組が置かれ総勢138人の足軽が居住していた。第4合同庁舎前で、二十人町と鉄砲町、それに国道45号線が交差し、東に一本の旧道がのびている。「原町(はらのまち)本通り」とよばれ、仙台城下東端につくられた最初の宿場町であった。

交差点の南側の一角に一里塚をおもわせる木立があり、そばに「石巻街道」の案内標が設けられている。図によれば、石巻街道は城下から鉄砲町を通って原町宿にはいっている。その後、岩切、利府を経て高城宿へ抜けている道筋になっていて、松島を通っていないように見える。利府街道あるいは現在の石巻街道とよばれる県道8号は高城宿の北方で国道45号に合流しているが、石巻街道の旧道は三陸道の松島海岸IC入口で県道8号とわかれ、県道144号で長老坂を経て松島海岸に出ていた。そこで、陸路なり海路をたどってきた塩釜からの道と合流する。芭蕉は松島で宿をとったが、松島が石巻街道の宿場であったのか、この図には明示されていない。

原町宿の西端にあたる第4合同庁舎の場所には原町御米蔵があり、原町宿は年貢米の集積地としてさかえていた。通りは米を運ぶ牛車であふれていたという。今も鳥山米穀店など古い米屋が現存している。宿場町は昭和20年の空襲でも全焼をまぬがれ、明治・大正時代の建物が往時の雰囲気を残している。

「錦湯」は昭和4年創業という老舗の銭湯である。原町郵便局の向かいに「原町・大源横丁」の石標がたっており、原町の由来が記されている。原町出身の豪商、大内源太右衛門が寄進した。原町は明治・大正時代に宮城郡役所があった場所でもある。
嘉永6年(1853)に建てられた市内随一の堂々たる道しるべ石である。ここは藩政期の要路であった塩釜街道の起点となったところで、原町は、仙台城下東端の宿場として明治に至る3百年の間繁昌した。 「西 御城下」 「南 長町宮城野以てふ道」 「北 塩可満松嶋」 「東 八幡八満ん七者満」 とあり、仙台城下入口の石標として街道の名物であったという。 「八幡八満ん」は現在の多賀城市八幡 「七者満(しちはま)」は……
嘉永6年(1853)に建てられた市内随一の堂々たる道しるべ石である。ここは藩政期の要路であった塩釜街道の起点となったところで、原町は、仙台城下東端の宿場として明治に至る3百年の間繁昌した。 「西 御城下」 「南 長町宮城野以てふ道」 「北 塩可満松嶋」 「東 八幡八満ん七者満」 とあり、仙台城下入口の石標として街道の名物であったという。 「八幡八満ん」は現在の多賀城市八幡 「七者満(しちはま)」は現在の七ヶ浜 平成15年10月 仙台市教育委員会
宿場の東端、原町3丁目の交差点に大きな道標が建っている。「苦竹の道しるべ」として知られる嘉永6年(1853)の古いもので、東西南北に行先と距離が刻まれている。芭蕉の辻からおよそ1里の地点にあたり、最初の(日本橋から数えて94番目の)一里塚があった。「北塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」とあり、松島までが6里15丁で、塩釜までは3里19丁というのであろう。松島に向かう道が石巻街道である。
街道は東北本線・新幹線に分断されるがその先で復活して県道8号仙台松島線(利府街道・石巻街道)に合流する。その後二度、部分的にのこる旧道をへて、「小鶴住宅入口」バス停で県道をはなれて、塩釜街道の古道にはいっていく。「東仙台営業所」バス停交差点を直進して、古道は比丘尼坂を上っていく。このあたりに芭蕉の辻から二番目(日本橋から95里目)の一里塚があった。燕沢3丁目の坂の曲がり角に石標があり、比丘尼坂の由来が記されている。
平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所をのがれてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽が内職として作った今市おこしなどとともに塩竃街道の名物となった。
古道といえど沿道の家並みは新しい新興住宅地である。峠近くの路傍に集められた数基の庚申塔にわずかな古道のにおいが残っていた。

国道4号仙台バイパスをまたいで坂をくだったところで、坂をさけて造られた新しい道と合流する。二股地点に多くの古い石碑にまじって大正八年地元青年団によって建てられた道標がある。

道標から七北田(ななきた)川にかけての今市地区は原町宿につぐ塩釜街道の宿場町であった。比丘尼坂の由来記にあるように、仙台藩の足軽の居住地であったために今も屋敷町の面影をしのぶことができる。

今市宿をでて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に東光寺がある。参道入口に「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つ。東光寺の前を七北田川に沿ってあった古道は「おくの細道」とよばれ、芭蕉はそれを紀行文の題名とした。今は車がはげしく行き交う県道35号だが、この道は国府多賀城に至る中世来の古道であった。

今市橋北詰角に「塩釜街道」の新しい標柱が立っている。
岩切若宮で石巻街道と分かれる街道である。
多賀城市南宮と市川の間で砂押川 多賀城政庁跡の北を通り、塩釜市大日向・赤坂を経て塩釜神社に至る。
赤坂橋を と元禄頃の遺構とされる越後屋があり、塩釜詣の客に土産品を売っていた。
母屋は 公の休息所とされたが、腐朽が甚だしく昭和52年に解体された。


今市橋から二つ目の信号で、右斜めに旧道に入る。古い建物が並んでいて、原町や今市よりも宿場らしいたたずまいである。岩切郵便局の隣に趣ある古い二階建ての建物がある。明治の洋館風の木造建築で、「キリスト教会岩切集会所」の看板があるが、郵便局の旧舎ではないかと思われた。その角で、塩釜街道から旧石巻街道が北に分かれている。安永3年(1774)の道しるべがあり、「右 塩釜道、左 松島道」と刻まれている。松島へは塩釜を経ずに石巻街道を通っていった。

塩釜街道と分かれて、旧石巻街道は仙台市岩切羽黒前から宮城郡利府町神谷沢にはいっていく。県道8号に並行してその西側に旧道が走っている。県道270号をよこぎった塚本あたりに一里塚があったと考えられている。「塚本」の地名と関係があるのかどうか知らない。旧道の名残りとして、菅谷に安政3年(1856)の「菅谷不動尊道」と刻まれた道標が立っていた。
ほどなく旧道は県道8号に合流する。そのあたりの地名には「長者」「長者前」「新長者」と、長者ばかりである。200mほど街道から北にはずれた小さな丘に伊豆佐比賣(いずさひめ)神社があって、そこに九門長者という豪農が住んでいた。神社参道に立っている案内板に記されている長者伝説を紹介しておこう。
九門長者屋敷跡の伝説について
ここには、今から約千百十余年前、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。
その時、造った外濠や長者の井戸が現在も残っている。
この長者屋敷跡について、次のような伝説がある。
『長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた。彼女はもと紀伊の国の斎大納言という公家の姫君でたいへん美しく頭のよい娘であったが、伊勢参詣の帰り、悪者どもにだまされ、この九門長者の召使として売られてきたのである。そこで、彼女は自分の身を守るため「普通の人には醜い女と見え、身分の高い人にはもとの美しい姫の姿に見えるように」と守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。時に征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、この九門長者の家のお立ちよりになり、彼女を見そめた。延暦十八年巳歳(七九九)八月一日、彼女は男子を出産、名を千熊丸といい、当時の人々は神童と呼んでいた。千熊丸は十三歳になった時、母と共に都に上り、父の将軍を親子の対面をし、二代目田村麻呂将軍となった』ということである。

街道は高速道路、新幹線をくぐり、砂押橋をわたって県道3号との交差点から利府の宿場にはいっていく。交差点より3号をわずかに東にはいったところのトヨタカローラ脇から宿内の旧道が残っている。最初の信号で左折して広い道(県道260号)を横切り次の十字路を右折していく。角に小さな八幡神社があった。通りは幹線道路からはずれた静かな住宅街で、屋敷風の家も見受けられた。

円城寺、長龍寺あたりが中心であったのか。宿場の東端あたりに味噌醤油醸造元丹野市右衛門商店がまぶしい青瓦の門を構えている。門には「○市」の商標が書かれた古い板看板が取り付けられていた。その先自動車学校あたりに「一里塚」の地名がのこっており、ここに芭蕉の辻から4番目、日本橋から97里目の一里塚があった。あと3里で、江戸日本橋から100里となる、記念すべき一里塚が待っている。

利府の宿場をでた旧街道はふたたび県道8号に合流して一路松島をめざす。途中、赤沼大日向地区に赤沼一里塚が現存していて、林と民家の庭先の間に標柱が立っている。どこから何里目の、とは書いていなかったが、順序からすれば日本橋から98里目にあたるはずだ。塚の崩れたような土盛が認められたが、崩壊寸前の体であった。
歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰が子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味がわからなかった……
歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰が子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味がわからなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれている。 (*桂男=美男子 *業=仕事 *冬萌きて夏枯れ草=麦) 平成17年6月 松島町教育委員会
街道は染殿神社を右手にみて、三陸道の松島海岸IC入口交差点で県道8号から分かれて県道144号に移る。長老坂とよばれる山間の道をたどると、利府町からいよいよ松島町にはいっていく。峠付近の林の中に江戸から99番目の一里塚が今も残っているとのことだったが、松島に気が向いていて、確認するのをわすれてしまった。次の100里目さえ見逃さなければよいとすることにしよう。

「長老坂」はもともと「眺浪坂」と呼ばれていた。坂上田村麻呂がこの坂より松島を展望し、「嗚呼眺浪の景、天下に冠絶す」と賛嘆したとか。のちに西行法師がこの地を訪れたときから長老坂と呼ばれるようになった。松島海岸にむかって下って行く坂の途中、右の山道に入っていくと「西行戻の松」とよばれる展望の地がある。松林から臨む松島の海はまさに眺浪の景であった。

街道にもどって坂をくだると、塩釜方面からやってきた国道45号に合流する。仙台から塩釜を経て松島で石巻街道に合流して金華山に至る道筋を広義の金華山道ともいう。狭義には石巻から金華山までの道のりであるが、仙台から金華山をめざすとき、利府-長老坂経由の石巻街道でなくて、多賀城-塩釜-松島経由の道筋を選んだ。物見遊山を兼ねた寺社詣の旅であれば、誰だって名所旧跡、歌枕に満ちた塩釜コースを選ぶであろう。仙台から石巻までいくのに、なぜ利府を通るのかがむしろ疑問である。岩切の分岐点から松島合流点までのふたつのルートを計算してみると、塩釜ルートの方がおよそ一里遠かった。効率を旨とする参勤交代、ビジネスでは利府ルートをとるのが正解ということになる。
松島湾に260もの大小さまざまな島が浮かぶ。天橋立、安芸の厳島にならぶ日本三景の一つとして名高い。芭蕉は何よりも松島を楽しみにしていた。実際に見た松島のすばらしい景観は筆舌に尽くしがたく感動のあまり一句もつくれなかったというが、それはナイーブな解釈というものだ。編集上のしたたかな計算があったにちがいない。
元禄2年5月9日(1689・陽暦6月25日)塩釜から舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞厳寺に参詣した。・・・・瑞岩(厳)寺に詣、当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て七堂甍改りて、金壁を輝、仏土成就の大伽藍(藍)とはなれりける。彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる。 「おくのほそ道」の行文は、簡潔に寺伝を述べ「金壁荘厳」の大伽藍の光景を、印象的に写……
元禄2年5月9日(1689・陽暦6月25日)塩釜から舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞厳寺に参詣した。・・・・瑞岩(厳)寺に詣、当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て七堂甍改りて、金壁を輝、仏土成就の大伽藍(藍)とはなれりける。彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる。 「おくのほそ道」の行文は、簡潔に寺伝を述べ「金壁荘厳」の大伽藍の光景を、印象的に写し出している。 瑞巌寺は九世紀、慈覚大師を開基とする天台宗の寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、(中略)伽藍を完成した。建築は、全休として禅刹の風格を保ち、内部に極彩色の彫刻や金碧画の襖などを収め、桃山芸術の粋をつくしている。本堂・庫裡・回廊は、国宝に指定されている。 雲居は瑞厳寺中興と言われる高僧で、政宗の招請を受け伊達忠宗のとき、同寺九十九世を継いだ、芭蕉参禅の仏頂の師でもある。瑞巌寺境内の、嘉永四年(1851)建立の は、芭蕉碑中でも屈指のものであろう。碑の側面の句中、乙二の句には、」「古今を壓して独り卓然」の子規評がある。
観光桟橋には塩釜との間を往復する芭蕉丸が絶え間なく出入りする。観光客の数は塩釜神社や多賀城跡の比ではない。晩秋の平日でこうだから、ハイシーズンの週末ならばいかほどだろうと、感心するばかりである。松島の観光名所をめぐる人ごみの流れに身をまかせて、街道や宿場のことはすっかり忘れてしまっていた。

芭蕉にかぎらず、松島に着いた人がまず向かうところは瑞巌寺である。平安時代初めの天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が建立、延暦寺と比肩すべきという意味で延福寺と命名され平泉藤原氏の外護を受けた。戦国時代に衰退していたものを伊達政宗の治世になって伊達家の菩提寺として再建され、このとき名も瑞巌寺に改められた。奥州随一の禅寺である。国宝の本堂内を一方通行に流れて各部屋の障壁画をのぞいて回る。すこし後戻りしようとして係員にしかられた。

本堂右にある庫裡も国宝である。切妻の大屋根に袴付入母屋造りの大きな煙出をのせた形が珍しい。こけら葺四脚門の中門、重厚な薬医門の御成門など、それぞれに見ごたえのある建物であった。帰りは長屋のようにつづく天然洞窟群の前を通っていく。その前に各地の札所から集められた千住観音石仏が順序良く立ち並んでいた。
平安時代初期の807年坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王像を安置する。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として……
平安時代初期の807年坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王像を安置する。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。 瑞巌寺
瑞巌寺から海岸に出て、五大堂をたずねる。波に削られた湾曲の岩島に、橋げたの間に海面がのぞく「すかし橋」で渡ると清楚ながら華麗なお堂が建っている。大同2年(807)坂上田村麻呂が東征の折に毘沙門堂を建立した後、慈覚大師円仁が瑞巌寺守護のため五大明王を安置してから五大堂と呼ばれるようになった。島は堂を背負うだけの大きさしかない。堂を一周してまたすかし橋をおもむろに渡って海岸に戻った。
この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設と……
この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていた。 併設の松島博物館には、伊達家の大名道具や生活用品等を陳列しております。 文化財指定 観瀾亭(建物)県重要文化財 昭和28年3月3日 障壁画 国重要文化財 昭和55年6月6日 松島町
最後に観瀾亭による。この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したものである。2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれる。戸を開け放した一室では茶がふるまわれ、すずしげな顔つきをした観光客が茶碗を手に海に向かって正座していた。紅葉がみごろであった。付属の博物館の入口に巨大な貝殻が飾ってある。塩釜神社でみたものと同じだったと思う。であれば貝の名は、シャコ貝だ。


国道45号にでて松島駅前で高城川をわたって高城の宿にはいった。本来ならば五大堂の前の路地をはいって、新富山のふもとを通る松島宿の旧道を行くべきであった。宿場の面影でも感じられたかもしれない。ところで、その松島旧市街と高城宿とは1kmほども離れていない。いまだに独立した宿場が松島にあったのか、確信がない。芭蕉も高城でなくて松島に泊まっているのだからもちろん宿はあっただろう。しかしそれは、観光地あるいは門前町としての旅籠で、人馬の継ぎ立てをする公式の宿場であったかどうか。あったとしても高城宿との合宿ではなかったかと思ったりする。
高城はまぎれもない石巻街道の宿場町である。バス停の広場は鉤の手のなごりであろう。そこが宿場の南口らしい。道の両側には贅沢なほどの幅をもった歩道が設けられていて、車は歩道のどこに止めてもよさそうなおおらかな商店街である。土蔵持ちの商家もあって歴史を感じさせる町並みでもあった。

北にもよりはっきりした鉤の手がある。直進方向には新しい道がつづいているので、鉤の手というよりは枡形をしている。中央に明和3年(1766)の自然石碑があり、庚申・供養・講中などの文字が読める。
おくの細道「石巻街道」 -道ふみたがえて、石巻ヘー 日本橋より 100里 東 小野 2里半 北西 吉岡 4里半 南 瑞巌寺まで 27町 この道は江戸時代より、仙台と石巻を結ぶ石巻街道と呼ばれ、この右先には里程を示す一里塚がありました。これが日本橋より百番目にあたる一里塚です。 元禄2年(1689)5月10日(陽暦6月26日)、松尾芭蕉は弟子の曽良を同行してこの道を通り、『おくの細道』には、ほとんど……
おくの細道「石巻街道」 -道ふみたがえて、石巻ヘー 日本橋より 100里 東 小野 2里半 北西 吉岡 4里半 南 瑞巌寺まで 27町 この道は江戸時代より、仙台と石巻を結ぶ石巻街道と呼ばれ、この右先には里程を示す一里塚がありました。これが日本橋より百番目にあたる一里塚です。 元禄2年(1689)5月10日(陽暦6月26日)、松尾芭蕉は弟子の曽良を同行してこの道を通り、『おくの細道』には、ほとんど人が通らず、猟師や木こりなどの往来する道で、道を間違えて石巻へ出た、と書いています。左坂(あてらざか)を経て上下堤(鳴瀬町)へ出ますが、この間に、 の「七むじり坂」も確認されました。この道は、こうした江戸時代の情景が偲ばれる特別名勝松島の貴重な旧街道です。いつまでも大切に残したいと思います。 平成15年3月1日 松島町教育委員会
右の道を進んでいくと松山高校の前に心待ちにしていた一里塚の案内板がたっていた。石巻街道として7里目のものである。芭蕉の辻の「江戸日本橋迄69次93里」の里程を継ぎ足して、日本橋より100里目の一里塚跡として人気を博している。私が国道100kmごとに記念写真を残している気分に通じているようだ。

説明板には一里塚もさることながら、小野宿までの旧街道、古道が残っていることを誇らしげに語っている。松島高校の先の二股を右にとり(左は県道8号から9号に乗って奥州街道吉岡宿に至る)、すぐ先の二股も右にとって道なりにいくと、広い交差点にでる。そこを直進するとしだいに山中のほそみちになっていく。山道といっても木立はさほど深くもなく、数百メートルごとに人家の前をとおっていくこともあって、気持ちよい街道歩きである。集落の部分だけは舗装されているが、家並みがとだえるや土道にもどるところなど、けじめは正しい。
左(あてら)坂からは国道をよこぎって十文字にむかう旧道がのこっている。左坂は桜の名所で茶屋もあったという。やがて山道は国道45号にもどる。宮城郡と桃生(ものう)郡(現東松島市)の境には一里塚があった。上下堤の平崎前から左にはいる旧道があることを知っていながら入口をみすごして、そのまま国道を突っ走って、気づいたときはもう堤防近くに来ていた。
歴史の道(芭蕉の道) 舟渡町を過ぎた芭蕉は、本町、田町を通って追分に至るのだが「安永五年の風土記」によると本町は宿場町として早くから発達していた。芭蕉が通った7年前の天和3年(1683)の「小野絵図」によると今の城内の下中屋敷(武家屋敷)に対し、本町、田町は町屋敷がならび今の町筋と変わりがない。本町の角から45号線を横切って田町に入りお預け足軽屋敷跡を過ぎ左に をみて に至る。 平成9年3月 鳴瀬……
歴史の道(芭蕉の道) 舟渡町を過ぎた芭蕉は、本町、田町を通って追分に至るのだが「安永五年の風土記」によると本町は宿場町として早くから発達していた。芭蕉が通った7年前の天和3年(1683)の「小野絵図」によると今の城内の下中屋敷(武家屋敷)に対し、本町、田町は町屋敷がならび今の町筋と変わりがない。本町の角から45号線を横切って田町に入りお預け足軽屋敷跡を過ぎ左に をみて に至る。 平成9年3月 鳴瀬町教育委員会 古くは笹谷街道と称されているが、一般には「石巻街道」と通称されている。なお、「曾良随行日記」によれば松尾芭蕉の通った道でもある。
東松島大橋で吉田川と鳴瀬川をわたり、しばらく堤防沿いの道(県道150号)を南下して、小野歩道橋の先で堤防より一筋内側の道にはいる。東松島大橋ができるまで、歩道橋に沿って小野橋がかかっていた。その100mほど下流に小野の渡しがあった。鳴瀬幼稚園の裏側あたりだと思われる。そこから現在の「町」区域に小野宿があった。旧道は「正寿司」の手前で左折する。角に歴史の道案内板が立っていて石巻街道の道筋が描かれている。

旧道はこれより県道150号(旧国道45号)を横切り道なりに右にまがって功岳寺門前を通って小野の追分にいたった。そこで気仙街道が分岐する。旧石巻街道はそこから南東方向に山裾の道をたどって三輪神社の西側で国道45号に合流していた。
追分から功岳寺にむかう路傍に小野小町が腰掛けたという石がある。小野の地名と引っ掛けたものであろう。町並みに宿場の面影はなかった。

開国間もない明治11年、オランダ人技術者の指導の下に、南北上運河と鳴瀬川の合流地点に近代的な港の建築が計画された。殖産興業政策の国家的事業であった明治三大築港の一つである。福井県三国市の三国港と、熊本県宇城市の三角港(現「三角西港」史跡公園)は完成をみたが、ここ野蒜港は大型台風で突堤が流され、工事は再開されることなく幻の港に終わった。現在は防衛省の管理地に、レンガ造りの橋台、市街地跡にのこされた石のローラーなど、その痕跡が残っている。
国道45号にもどり次の宿場矢本に向かう。仙石線の陸前小野駅と鹿妻(かづま)駅の中間あたりで、東浜街道(県道243号)が北に分岐している。東浜街道は明治時代に付けられた名称で、藩政時代は気仙道とよばれるものである。小野の追分からはじまる古道に対し、山を避ける新道が造られた。
建治2年(1276)板碑 芭蕉と弟子の曽良は元禄2年(1689)旧暦5月10日(太陽暦6月26日)松島を出発、小野を経て、石巻へ向かった。梅雨のあい問のむし暑い日であった。ここ町頭から七十七銀行あたりまでを馬箭町、それから先の中道あたりまでを新田町といった。新田町で二人は急に咽が渇いたので湯をもらおうと頼んだが、家ごとに断わられたと曽良の随行日記に書かれてある。この街道は寛文2年(1662)につく……
建治2年(1276)板碑 芭蕉と弟子の曽良は元禄2年(1689)旧暦5月10日(太陽暦6月26日)松島を出発、小野を経て、石巻へ向かった。梅雨のあい問のむし暑い日であった。ここ町頭から七十七銀行あたりまでを馬箭町、それから先の中道あたりまでを新田町といった。新田町で二人は急に咽が渇いたので湯をもらおうと頼んだが、家ごとに断わられたと曽良の随行日記に書かれてある。この街道は寛文2年(1662)につくられ、石巻街道といい、矢本の宿が生まれたのはそれから一年後のことである。 平成6年3月1日 矢本町教育委員会
鹿妻駅の手前で左の旧道にはいり、第二下村松踏切をわたってそのまま国道45号をななめに横切って直進する。笠松、一本杉をへて中田から矢本宿にはいる。入口の鉤の手であっただろう道筋に鎌倉時代の古い板碑、愛染院跡標柱とともに、歴史の道(奥の細道)案内板が立っている。矢本は低湿地が開発された新田地帯で、街道はまっすぐにのびている。

すぐ北側を国道がはしっているため幅が広い道のわりには車の往来がすくなく、沿道には歴史を感じさせる古い建物が散見される。なかでも桜井酒造店の二階建て千本格子造りは見事というほかない。東矢本駅入口で国道45号にもどる。

街道は定川をわたり大街道新橋で石巻市街にむかって国道398号に移る。橋下を通るのは北北上運河で、旧北上川と鳴瀬川を結ぶ運河のうち、定川までの部分をいう。定川から野蒜築港跡までの区間は南北上運河とよばれている。大きくは石巻から岩沼までの貞山掘り運河水系の東端を担っている。土手を歩いてみると両岸に松並木を配した運河とよぶには贅沢とも思える景観であった。岩沼で見た貞山掘に遜色ない。

双葉町五差路交差点で国道を左に分け、まっすぐに進む。鰐山墓地の前は松並木が美しく旧街道の情緒豊かな景観をみせている。街道はまもなく石巻小学校と永巌寺の間をとおり本町の終点に至る。永巌寺の前に金華山碑が立っている。どこが石巻街道の終点で、どこから金華山街道や一関街道がはじまっていたのか、問屋、本陣などはどこだったのかなど、宿場としての石巻情報がすくない。詮索はやめて、市内の見所を散歩する。

日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児(みこ)神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、『日和』を見る場所であることから、そ……
日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児(みこ)神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、『日和』を見る場所であることから、その名が付いたと伝えられています。 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の、曽良旅日記には 「日和山と云へ上ル石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 今ワタノハト伝 遠嶋尾鮫ノ牧山 眼前也 真野萱原も少見ゆル」 と日和山からの眺望が記されています。 また、「奥の細道』には 「・・・石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廼船入江につとひ 人家地をあらそひて、竈のけふり立つ けたり」 と表現されています。 「こかね花咲」とは、万葉集巻第18にある大伴家持の 「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」 の歌をふまえています。天平産金地は涌谷(わくや)町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である堂雨を中心として建立された『雲折く人を休める月見かな』という芭蕉の句碑があります。 また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折□信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。
石巻は江戸時代、南部藩・伊達藩・一関藩・八戸藩の米の積出港として旧北上川の河口に開けた港町である。石巻から江戸まで千石船が米を運んだ。河口をみおろす小高い丘は、鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えた石巻城址で、現在は日和山公園となっている。山上には鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)のほか、公園内には奥の細道ゆかりの地として芭蕉のほか、斉藤茂吉、宮沢賢治、石川啄木など多くの文人の碑がある。
小説の神様と畏敬される文豪志賀直哉は、明治16年(1883)2月20日、当時第一国立銀行石巻支店に勤務していた直温・銀夫妻の二男として住吉町で誕生しました。(中略)明治18年、直温の銀行辞職にともなって志賀家は東京の祖父母の元へ移ることとなりますが、それまでの約二年間を彼は石巻で過ごしています。志賀直哉が生まれた場所については諸説があり、はっきりしていませんが、現在の住吉町1丁目地内であるといわれ……
小説の神様と畏敬される文豪志賀直哉は、明治16年(1883)2月20日、当時第一国立銀行石巻支店に勤務していた直温・銀夫妻の二男として住吉町で誕生しました。(中略)明治18年、直温の銀行辞職にともなって志賀家は東京の祖父母の元へ移ることとなりますが、それまでの約二年間を彼は石巻で過ごしています。志賀直哉が生まれた場所については諸説があり、はっきりしていませんが、現在の住吉町1丁目地内であるといわれています。直哉自身は手紙や作品「白い線」の中で「探してみたが跡形もなく」「石巻時代の記憶はなく」というような記述をしており、石巻での生活や家の様子などは覚えていないようjですが、石巻へは数回訪れています。 彼が生まれた住吉町は、藩政時代には仙台藩の江戸廻米のための米蔵が建てられていたところでした。現在の住吉小学校の敷地が米蔵のあった場所で、享保2年(1717)には18棟の蔵があったことがわかっています。住吉町にある旧毛利家は、戊辰戦争のとき榎本艦隊が江戸湾を幕府軍艦7隻で脱出し、北海道へ向かう途中、榎本武揚、土方歳三等か滞在したといわれます。 また、福島・相馬藩主相馬家が建てたといわれる別邸も残されているなど、幕末から明治へと移り変わる時代を感じることができる町です。 平成13年3月 石巻市教育委員会
石巻小学校前の交差点にもどり、宿場の中心地と思われる通りを北に進んでいくと住吉公園にいたる。住吉地区は藩政時代に、各藩の米蔵が建ち並び、大いに賑わったところである。今も往時をしのばせる情緒あるたたずまいを見ることが出来る。志賀直哉の生家がこの地区にあった。
古くから歌枕の地として知られ、松尾芭蕉もこの地を訪れています。「みちのくの袖のわたりのなみだ川こころのうちに流れてぞ住む」相模(後拾遺和歌集)また、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に向かう途中にここを通り、船賃の代わりに自分の着物の片袖を与えたという伝説があります。 平成13年10月31日建立 石巻市教育委員会 石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、この街道から北部への道として、涌谷・登米道、気仙道が……
古くから歌枕の地として知られ、松尾芭蕉もこの地を訪れています。「みちのくの袖のわたりのなみだ川こころのうちに流れてぞ住む」相模(後拾遺和歌集)また、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に向かう途中にここを通り、船賃の代わりに自分の着物の片袖を与えたという伝説があります。 平成13年10月31日建立 石巻市教育委員会 石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、この街道から北部への道として、涌谷・登米道、気仙道が分かれていました。金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、金華山への参詣の道として利用されました。一関街道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り奥州街道と接続する道でした。
公園内にある石碑の一つに「袖の渡」と刻まれている。このあたりに北上川の対岸とを結ぶ渡しがあった。源義経が藤原秀衡を頼って平泉へ向かう途中、ここから船に乗って一関に向かう時、船賃の替わりに自分の片袖を船頭に与えたという。
巻石のことが最初にでてくる書物は天和2年(1682)に刊行された大淀三千風著「松島眺望集」です。「石巻 川中に大きなる岩あり、このかげ浪巴をなせり、この故にこの名あり」と書かれてあります。 元禄11年(1698)の「牡鹿郡万御改書上」には「川中 烏帽子石 東西一間半 南北三尺八寸 ただし石巻石と申し伝え候」(中略) 石巻の地名の由来についてはいろいろな説がありますが、江戸時代にはこの巻石が起源であ……
巻石のことが最初にでてくる書物は天和2年(1682)に刊行された大淀三千風著「松島眺望集」です。「石巻 川中に大きなる岩あり、このかげ浪巴をなせり、この故にこの名あり」と書かれてあります。 元禄11年(1698)の「牡鹿郡万御改書上」には「川中 烏帽子石 東西一間半 南北三尺八寸 ただし石巻石と申し伝え候」(中略) 石巻の地名の由来についてはいろいろな説がありますが、江戸時代にはこの巻石が起源であるとする説が一般によく知られていたようです。 烏帽子は住吉神社の正しい名飯石大島神社の「いびし」がなまってできたものと思われます。 現在羽黒山のふもとにある海石山寿福寺は正保2年(1645)住吉に仙台藩の米蔵が建設される前は大島神社の境内にありました。海石という山号は烏帽子石にちなんでつけられたものです。 昭和59年11月 石巻市教育委員会 協同組合 石巻商店会
また、公園の岸辺から朱色の小橋が架かる雄島に渡ると、「石巻」の地名の由来を記す説明板が立っている。傍の川中に一つの岩があり、干満の差によってこの岩のまわりを水が巻くことから、この岩が「巻石」と呼ばれるようになった。
芭蕉はここから北に向かった。私はせっかくここまで来たのだから東にむかって金華山に上ってから、芭蕉を追っかけようと思う。
(2007年12月)