宿場 1次 全長 30km 歩き終えています 歩いた時期 2011年2月

鮮魚(なま)街道

布佐-藤ヶ谷-松戸

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

布佐

鮮魚(なま)街道は利根川中流の布佐河岸から松戸の江戸川納屋河岸までを結ぶ約30kmの物資輸送路である。夏は銚子から利根川を関宿までのぼり、江戸川で行徳船航路を経由して日本橋行徳河岸まで船輸送された鮮魚だが、大型高瀬舟が関宿まで遡れない渇水期には布佐河岸で陸揚げされ駄馬で陸路松戸納屋河岸まで輸送された後、そこから江戸川を下って江戸に送られた。夕暮れに銚子をでた鮮魚は夜明けに布佐で積み替えられ、その日の午前中に松戸に到着、翌朝には日本橋魚市場に並べられたという。

布佐からの鮮魚街道は、木下河岸からの木下街道と鮮魚駄送をめぐって激しく競争したが、正徳6年(1716)に幕府により布佐から松戸への通し馬が認められてからは、宿場ごとに荷を積み替えるわずらわしさから木下街道が敬遠されて鮮魚街道が主流となった。鮮魚街道は鉄道輸送に取って代わられる明治30年代まで活躍した。

布佐

観音堂 都 我孫子市 千葉県
観音堂 都 我孫子市 千葉県

出発点は利根川布佐河岸である。布佐鮭漁場として知られた網代場跡の土手下に馬頭観音を本尊とする観音堂がある。布佐は旧水戸街道から銚子までをつなぐ銚子道の宿場であり、また網代場や魚河岸を備えた鮮魚の集積地として栄えた。観音堂はそれらの継立問屋や馬主が駄送馬慰霊のため建立したものである。

河岸跡 布佐 我孫子市 千葉県
河岸跡 布佐 我孫子市 千葉県

土手下を西に延びる銚子道旧道に沿って石井家の古い蔵などが往時の余韻を留めている。芭蕉が鹿島紀行で布佐の魚問屋に宿をかりたが、あまりの生臭さに夜中飛び出して船で鹿島に向ったという。石井家も銚子の鮮魚を扱っていた荷宿であった。

観音堂境内に文化4年の手洗鉢に「東京魚がし」と刻んである。無論「東京」は明治になって追刻されたものである。日本橋魚問屋の寄進であろうか。

生(鮮魚)街道起点(観音堂裏) 布佐 我孫子市 千葉県
生(鮮魚)街道起点(観音堂裏) 布佐 我孫子市 千葉県

江戸時代、銚子や鹿島灘などで水揚げされた鮮魚は江戸日本橋の魚市に送られていました。旧暦の五月から七月の夏季には関宿を回って全て船便で送られました。それ以外の季節は銚子から木下、布佐の河岸に送られ、そこで馬に積み替えられて陸路、木下からは行徳へ(行徳みち)、布佐からは松戸へ(松戸みち)送られ、再び船に積み替えられて日本橋へ送られていました。布佐のこの付近は松戸みちの出発点でした。銚子で夕刻に出発した……

説明の全文を読む(約410字)

江戸時代、銚子や鹿島灘などで水揚げされた鮮魚は江戸日本橋の魚市に送られていました。旧暦の五月から七月の夏季には関宿を回って全て船便で送られました。それ以外の季節は銚子から木下、布佐の河岸に送られ、そこで馬に積み替えられて陸路、木下からは行徳へ(行徳みち)、布佐からは松戸へ(松戸みち)送られ、再び船に積み替えられて日本橋へ送られていました。布佐のこの付近は松戸みちの出発点でした。銚子で夕刻に出発した鮮魚は翌日の夕刻から夜に日本橋に到着したそうです。 なま街道で鮮魚の輸送がはじまったのは慶安三年(1650)頃からです。布佐から松戸に至る道筋は時代により変わりましたが享保12年(1727)以降は、布佐一発作一亀成一浦部一平塚一富塚-藤ケ谷一佐津問一金ケ作一松戸の道筋をたどって送られました。 明治になり馬にかわって鉄道が使われるようになると、なま街道もその役割を終えました。2004年11月 我孫子市教育委員会

観音堂の裏側が鮮魚街道の起点である。地図入りの説明板が建っている。地図に寄れば街道はそのまま南西に真っ直ぐ向ってJR成田線「発作(ほっさく)踏切」をわたることになっているが、別資料では松島薬局の信号の先で左折し、すぐに右折する旧道筋が示されている。実際に歩いてみると一筋東に県道4号の延長線上にあたる道が廃道となっていて、線路をまたいだ工事が進行中であった。

旧鮮魚街道 布佐 我孫子市 千葉県
旧鮮魚街道 布佐 我孫子市 千葉県

更に東に進むと公園に突き当たって右折する道筋があるが、これもすぐ線路に分断されていて渡ることができない。迂回して宗教団体集会所脇の復活地点にもどると線路から旧道らしき細道がのびていて、国道356号を横ぎり小さな集落の中をぬけて手賀川に向っている。布佐南集会所の前を通って県道に合流し関枠橋を渡る。途中、農家の婦人に鮮魚街道のことを聞いてみたが新たな情報は得られなかった。この道筋が旧道であるかは定かでない。

若山牧水歌碑 大森 印西市 千葉県
若山牧水歌碑 大森 印西市 千葉県はるけくてえわかざりけり沼の上や 近づき来る鷺にしありけり 牧水 この歌は大正14年8月22日歌人若山牧水夫妻一行が「創作社」社友で当地歌人腰川一麿氏の案内で愛弟子鈴木菱花(大森)の墓参のあと美しかった手賀沼で舟遊びをした時に詠んだものです。第15歌集「黒松」にこのときの歌16首が収載されています。以下略 平成12年8月22日 若山牧水来郷記念歌碑建立委員会
手賀川 発作 印西市 千葉県
手賀川 発作 印西市 千葉県

手賀川が我孫子市布佐と印西市発作の境界をなす。

橋を渡って左手に若山牧水歌碑がある。大正14年、当地歌人腰川一麿氏の案内で牧水は手賀沼で舟遊びを楽しんだという。腰川家といえば元禄2年(1689)手賀沼新田地を購入して発作に移住した江戸商人村田屋嘉兵衛(腰川)の末裔であろうか。今も発作に堂々たる屋敷を有している。

旧鮮魚街道 発作 印西市 千葉県
旧鮮魚街道 発作 印西市 千葉県手賀川からの旧道復活地点

橋をわたって土手を西に50mほど進むと、土手から降りて発作集落を県道に並行して貫く旧道が残っている。

海野作兵衛氏顕頌碑 発作 印西市 千葉県
海野作兵衛氏顕頌碑 発作 印西市 千葉県

すぐ右手に海野(かいの)作兵衛頌徳碑がある。海野作兵衛は江戸時代初期に江戸小田原町(現日本橋)の諸大名に出入りする鮮魚御用商人であった。寛文11年(1671)幕府の許可を受け手賀沼開拓に着手した。重なる水害により堤防の決壊を繰り返し、幕府から多額の借金をするとともに自分の財産を売り払って事業を継続したと伝えられる。事業は子、孫に受け継がれ、160年間に1290ヘクタールの新田を開拓して飢えに苦しむ農民を救ったという。この石碑は周辺10町村、約400人の農民の寄付によって建てられた。

大杉神社・石碑群 発作 印西市 千葉県
大杉神社・石碑群 発作 印西市 千葉県

家並がまばらになって左手県道との間の低地には黒々とした田畑がのびて、街道の右側に生垣に囲まれ門を構えた大きな農家がつづく。鮮魚街道は干拓地に造られた街道で、水害から守るために建物敷地は石垣で一段高くしてある。

大杉神社のある四辻角に「南江戸道」と刻まれた道標があり、横道沿いには十九夜塔がずらりと並べられている。

旧鮮魚街道 発作 印西市 千葉県
旧鮮魚街道 発作 印西市 千葉県

すぐ先にひと際目を引くのは石垣台に建つ堂々とした長屋門である。今は瓦屋根だがかっては美しい茅葺の威容を誇っていたにちがいない。

民家 発作 印西市 千葉県
民家 発作 印西市 千葉県

薬医門を構え武家屋敷の品格を漂わせる家も立派である。共に手賀沼開拓者の血を引く旧家であろう。

発作区集落をぬけ亀成川に架かる下前川橋をわたると広大な新田がひろがり区画整理のため旧道筋は途絶えている。直線的な農道をたどり変則十字路の一つ手前を左折して県道59号に出る。右折して西に向うとすぐ左に細い道が出ている。

浦部

庚申塔群 亀成/浦部 印西市 千葉県
庚申塔群 亀成/浦部 印西市 千葉県

旧亀成村と浦部村の村境をなす道で、50mほど入った左手に享保元年(1716)、安永3年(1774)など多くの古い庚申塔が建っている。

県道にもどり松山下公園信号二股を直進する。県道59号は永治(えいじ)郵便局の角を右折して永治集落の旧道に入る。入り口に「大六天神社0.2K」「月影の井0.4K」の案内標識とともに地図が設けられている。

大六天神社 浦部 印西市 千葉県
大六天神社 浦部 印西市 千葉県

地図を頼りに大六天神社に寄る。台地の北縁にこんもりとした土盛があって樹木の根元に小さな第六天社の祠があった。盛り上がりは古墳だといわれる。小祠の中に祀られた石塔には「大六天」「安永二年」の文字が読み取れる。木立の左手に「手賀沼干拓発祥之地」の大きな石碑がある。農林大臣の名があった。

大六天神社より浦部村新田(下手賀沼干拓地) 浦部 印西市 千葉県
大六天神社より浦部村新田(下手賀沼干拓地) 浦部 印西市 千葉県

奥は公園風に整備されていて、段丘の下には浦部村新田が広がり遠方に下手賀沼が望まれる。江戸時代初期から始まった手賀沼干拓の試みは幾度の挫折を経て、結局昭和の時代第二次大戦後に政府事業として完成した。

永治集落旧鮮魚街道 浦部 印西市 千葉県
永治集落旧鮮魚街道 浦部 印西市 千葉県

旧道は永治小学校の裏手を行きその先道は二股に分かれる。立ち話をしていた二人の婦人にどちらが旧道かと聞くと、右が昔の商店街だったという。このあたりでは鮮魚街道といっても通じず道は木下街道だという。確かに県道59号が現在の木下街道である。

月影の井 浦部 印西市 千葉県
月影の井 浦部 印西市 千葉県

市指定史跡 月影の井 昭和43年4月25指定 月影の井は、鎌倉の星の井、奥州二本松の日の井とともに、日本三井の一つであったと伝えられています。昔はきれいな水がこんこんと流れ出ていたといわれます。これより西方200mの所には、大菅氏の龍崖城があり、この井は大菅豊後守正氏のうぶ湯行水の井とも伝えられています。 大菅氏は千葉氏の一族で妙見菩薩を信仰し現存する城址には、空堀・大門・根古屋・龍の間(一番奥ま……

説明の全文を読む(約290字)

市指定史跡 月影の井 昭和43年4月25指定 月影の井は、鎌倉の星の井、奥州二本松の日の井とともに、日本三井の一つであったと伝えられています。昔はきれいな水がこんこんと流れ出ていたといわれます。これより西方200mの所には、大菅氏の龍崖城があり、この井は大菅豊後守正氏のうぶ湯行水の井とも伝えられています。 大菅氏は千葉氏の一族で妙見菩薩を信仰し現存する城址には、空堀・大門・根古屋・龍の間(一番奥まった所)・水堀と思われる所があり、面積は約200アールです。正氏は武将には希れな風流人であったので月影の井の名声が当時一段と高まったのでしょう。平成2年4月 印西市教育委員会

右の道を進んでいくと左手に月影の井があった。鎌倉の星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井の一つと伝わっている。金網でふさいだ井戸がそうなのか、中を覗くことができなかった。

月影の井の先の三叉路を右に折れていく道が鮮魚街道の古い道筋だった。手賀沼の南縁に沿って台地上を平塚まで通じていたという。何時の時点で阿夫利神社経由の道筋に変わったのか知らない。恐らくはいくつもの抜け道があったのであろう。後に藤ヶ谷金毘羅宮にある説明板の地図でこの様子がわかる。

百庚申 浦部 印西市 千葉県
百庚申 浦部 印西市 千葉県

永治集落から竹林の小径を通り抜けて県道にもどる。

まもなく右手に出羽三山碑に続いて百庚申が一列に並んでいる。天保10年(1839)の年号が刻まれている。いずれも赤く塗られていて異様な風景である。文字や浮彫の部分を中心に塗られているところからみて、どうも拓本目的ではないかと思われるが今だに理由がわからずじまいだ。最初にみたのは木下街道の神々廻(ししば)であった。千葉県外でこのような庚申塔をまだ見たことがない。

新旧鮮魚街道 浦部 印西市 千葉県
新旧鮮魚街道 浦部 印西市 千葉県左:県道59号(現木下街道) 右:旧鮮魚街道 白幡バス停付近

その先JAの手前で右の旧道に入る。県道には「木下街道」と記された標識が取り付けられている。角に「石尊道」と刻まれた小さな道標があった。阿夫利神社への道である。

庚申塔群 浦部 印西市 千葉県
庚申塔群 浦部 印西市 千葉県

旧道はすぐに三叉路にさしかかり鋭角に左折して県道に戻る。三叉路の右手にはまたあの赤く塗られた大きな庚申塔群があった。ここでは文字と浮彫だけが塗られている。

鮮魚街道分岐点 高西新田 印西市 千葉県
鮮魚街道分岐点 高西新田 印西市 千葉県県道57号(現木下街道) 左100mで十余一交差点

県道を600mほど進むと阿夫利神社の鳥居にたどり着く。県道からわかれて右に入っていくのが鮮魚街道である。かっては鳥居が旧道を跨いで建っていた。

十余一交差点 十余一 白井市 千葉県
十余一交差点 十余一 白井市 千葉県手前:木下街道(布佐村道) 前方:木下街道(行徳方面) 手前左:旧木下街道(大森村道)

県道をそのままいくと250mほどで木下街道の十余一追分に出る。行徳から出た木下街道はこの交差点を直進して千葉ニュータウンを横切って県道4号につながっていた。行徳からここまで道を同じくしていた県道59号はこの交差点で旧木下街道と分かれて北上し、布佐の手前で右にそれて西方から木下市街地に入っている。

芭蕉は鹿島紀行で布佐に出るなら、ここを通ったのではないかと思うのである。

阿夫利神社 高西新田 印西市 千葉県
阿夫利神社 高西新田 印西市 千葉県御祭神 石凝留命、石裂命、日本武尊、根裂命。 由 緒 明和元年、海上郡銚子海底より青石二個取上しに、其の石往々奇怪のことあり。其の土地に於て、住民之を崇敬する者多し。 其の後祈願も其の願いに応じ利益少からず、のち住民共之を名づけて世直し石尊と尊称す。すなわち悪風を直し正に帰せしむるが故なり。以下略 平成4年7月吉日阿夫利神社社務所

鳥居から林の中を西にすすんでいくとやがて右手に「石尊参道」の石標がある神社入口に差し掛かる。阿夫利神社は白木造りの清楚な社殿である。明和元年(1764)銚子海岸より取上げた2個の青石に奇怪のことあり、その石を石尊様と呼んで祀るようになった。

街道にもどり西に歩を進め印西市高西新田から白井市十余一に入る。十余一は小金牧・佐倉牧開拓の第11番目入植地として名付けられた地名である。

平塚

鮮魚街道旧道合流点・道標 平塚 白井市 千葉県
鮮魚街道旧道合流点・道標 平塚 白井市 千葉県東白井道 西松戸東京道 明治29年10月建立

平塚地区に入り、えびや商店の丁字路角に明治29年建立の道標が立つ。「西 松戸 東京道」「東 白井道」と刻まれている。発作から手賀沼南岸に沿って造られた鮮魚街道の古い道筋がこの丁字路に出てきていた。手賀沼あたりまでその旧道を遡ってみる。

鮮魚街道旧道 平塚 白井市 千葉県
鮮魚街道旧道 平塚 白井市 千葉県

阿夫利神社からここまでの雑然とした沿道風景とはうってかわって平塚集落は落ちついた雰囲気の中にあった。バス停小屋に「金町青果市場 初荷1月5日10時集荷」の連絡札が正月の気分をつないでいる。古い店構えの建物が残り旧街道の趣を感じさせる町並みである。

延命寺観音堂 平塚 白井市 千葉県
延命寺観音堂 平塚 白井市 千葉県

千葉県指定有形文化財 延命寺は真言宗豊山派の寺院で、寺伝によると寛弘二年(1005)の開基とされる。その後幾度か寺地が移動し、元和元年(1602)に平塚村の大火で焼失した後、万治3年(1660)に現在地に本堂が再建されたことが火伏せの札の発見により確認された。また、平成14年12月には第二次大戦で供出した梵鐘が新たに鋳造され、鐘楼も再建された。(中略) 観音堂の構造は、方三間堂と呼ばれる形式である……

説明の全文を読む(約440字)

千葉県指定有形文化財 延命寺は真言宗豊山派の寺院で、寺伝によると寛弘二年(1005)の開基とされる。その後幾度か寺地が移動し、元和元年(1602)に平塚村の大火で焼失した後、万治3年(1660)に現在地に本堂が再建されたことが火伏せの札の発見により確認された。また、平成14年12月には第二次大戦で供出した梵鐘が新たに鋳造され、鐘楼も再建された。(中略) 観音堂の構造は、方三間堂と呼ばれる形式であるが、全体に木割が細いことや唐様三手先の組物を巧みに利用するなど、同時期の千葉県内の方三間堂にはみられない特徴を有し、棟札に記載された金沢の大工の手による建築であることを裏付けている。また、屋根は入母屋づくりで、もとは茅葺きであったが、昭和30年に鉄板葺きに、昭和57年には銅板葺きに改められるとともに、建具や縁回りの改修が行われた。 本観音堂は、禅宗様式をとる古建築の作例として、また、他国の大工が建てた遺例として、学術的価値が高い建造物である。 平成15年1月31日 白井市教育委員会

集落の中ほどに延命寺がある。寛弘2年(1005)開基と伝わる古刹で、ベンガラ塗りの山門を潜ると左手に江戸期の観音堂がある。細い木割りを駆使した繊細な方三間堂形式で、擬宝珠付き高欄をめぐらせた清楚で優美な御堂であった。

すぐ先左手に鳥見神社が、そのさきに八幡宮がある。旧い道筋はそこから林の中を通って手賀沼河岸にあった滝田家に通じていた。今は林中の坂を下って手賀沼干拓地南端に造られた新しい車道にでる。

滝田家住宅長屋門 平塚 白井市 千葉県
滝田家住宅長屋門 平塚 白井市 千葉県

丁字路を右にまがった右手に国重要文化財の滝田家住宅がある。滝田家は手賀沼干拓が始められた寛永年間(1624~1644)にこの地に定住し組頭を務める名家であった。

滝田家住宅 平塚 白井市 千葉県
滝田家住宅 平塚 白井市 千葉県

国指定重要文化財 指定年月日昭和44年6月20日 滝田家は、江戸時代前期以来手賀沼湖畔のこの地に居住を続ける平塚地区の旧家である。この住宅は、間口9間・奥行き5間の茅葺寄棟造で、東側に土間、西側に玄関を設け、正面中央に縁側をつける。床上は 「ざしき」「かって」「なんど」「なかのま」「おく」と明治になってから増築された新座敷からなる。 構造は、四方下屋造りで扠首組棟束をたてることを特微とし、現在、外……

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国指定重要文化財 指定年月日昭和44年6月20日 滝田家は、江戸時代前期以来手賀沼湖畔のこの地に居住を続ける平塚地区の旧家である。この住宅は、間口9間・奥行き5間の茅葺寄棟造で、東側に土間、西側に玄関を設け、正面中央に縁側をつける。床上は 「ざしき」「かって」「なんど」「なかのま」「おく」と明治になってから増築された新座敷からなる。 構造は、四方下屋造りで扠首組棟束をたてることを特微とし、現在、外部は軒回りに出桁をまわして「せがい造」としているが、これは18世紀後半に式台玄関をつけた際に改造されたものとみられる。 建築年代は滝田家初代とされる天和元年(1681)の位牌が残されていることや建築手法からみて17世紀後半から末頃と推定される。 (注意事項) 見学に際しては、所有者の許可を得てください。 平成12年3月31日 白井市教育委員会

長屋門から中にはいると左手に土蔵と煙出しのある茅葺寄棟造りの母屋が建っている。江戸時代初期の豪農民家の典型とされている。

手賀沼釣り船センター 平塚 白井市 千葉県
手賀沼釣り船センター 平塚 白井市 千葉県

主人が出てこられて話をうかがう事ができた。昔は沼がここまできていて滝田家の敷地内に河岸があったという。利根川から船がここまで入ってきていた。今も船戸という地名が残っている。湖岸までいってみると、ボートが一隻繋がれた無人の釣り船センターがかっての船戸河岸の面影を留めていた。

鮮魚街道旧道 平塚 白井市 千葉県
鮮魚街道旧道 平塚 白井市 千葉県

滝田家前の新道は昔の湖畔で、発作からの旧道は背後の丘陵上に造られていたという。その痕跡を教えてもらった。新道から右に入って坂をあがると右手に農道が出ている。傍の墓地は滝田家のものだそうだ。畑をとおりぬけて林の中に入る。100mほどの山道をたどると田圃にでて道は途絶えた。田の向こう側では八幡宮、鳥見神社を経て平塚集落に通じる道にもどる。

石仏群 平塚 白井市 千葉県
石仏群 平塚 白井市 千葉県

旧道入り口まで戻りすこし発作方面に歩を進めてみた。次の集落の手前右手に集会所のような建物があって前に石仏群と小さな祠がある。石仏は総てが子を抱いた観音像である。中央にひと際大きな昭和66年建立の子育て観音像が建ち、台石の正面には「女人講中」、裏面には多数の名前が刻まれている。その多くが「滝田」「船田」「海老原」姓であった。

旧道探索はそこまでとしてえびや商店脇の丁字路にもどる。

交通の激しい街道を西に進んでいくと大和製作所の道向かいに大きな出羽三山碑が建つ。

子安観音堂・庚申塔群 中 白井市 千葉県
子安観音堂・庚申塔群 中 白井市 千葉県

街道は白井工業団地に入って京葉プラントの先の二股を左に入り河原子(かわらご)集落を通り抜ける。河原子台交差点を過ぎたあたり右手に中地区共同墓地があり手前に子安観音堂、その先路傍に文化10年の他10基ほどの古い庚申塔が整列している。

その先の逆Y字路信号角に寛政6年(1794)の青面金剛王碑と庚申塔が並んでいる。

富塚・藤ヶ谷

街道は中地区から富塚地区にはいり、国道16号と県道280号を横切る。

県道を越えた右手、石段の上に金毘羅神社の石祠がある。

旧街道は松屋商店の先の丁字路を右折する。この角に最近まで茅葺の民家が残っていたそうだが、現在は解体されて建替工事中であった。古めかしい井戸だけが残っていた。

道標 富塚 白井市 千葉県
道標 富塚 白井市 千葉県
曲尺手 富塚 白井市 千葉県
曲尺手 富塚 白井市 千葉県

道は変則五叉路にさしかかる。その中を旧道は曲尺手状に左折・右折していく。最初の角、右手に安政3年(1856)の道標を兼ねた成田不動尊が立ち、正面に「右成田山道」側面に「右きおろし道」と刻まれている。きおろし(木下)道が鮮魚街道のことだろう。

鳥見神社 富塚 白井市 千葉県
鳥見神社 富塚 白井市 千葉県

白井市指定有形文化財(建造物) 富塚鳥見神社本殿 富塚地区の産土様で、創建の時期は不明だが、慶安3年(1650)、享保19年(1734)、寛政9年(1797)、文化9年(1812)、明治8年(1875)の5枚の棟札が残る。本殿の建造・修築の来歴がはっきりとしている貴重な神社建築である。現在の本殿は文化9年(1812)のものと考えられ、一間社流造で、総ケヤキの素木造りである。以下略 平成20年3月3……

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白井市指定有形文化財(建造物) 富塚鳥見神社本殿 富塚地区の産土様で、創建の時期は不明だが、慶安3年(1650)、享保19年(1734)、寛政9年(1797)、文化9年(1812)、明治8年(1875)の5枚の棟札が残る。本殿の建造・修築の来歴がはっきりとしている貴重な神社建築である。現在の本殿は文化9年(1812)のものと考えられ、一間社流造で、総ケヤキの素木造りである。以下略 平成20年3月31日 白井市教育委員会

道向かいの民家は竹垣と庭木が懐かしいたたずまいをみせて風情ある一角をなしている。左に折れると二股が二度続く。いずれも右にとるのが旧街道筋であるが、最初の二股を直進して鳥見神社に寄った。300mほど進んで右に曲がった突き当たりに鳥居が立つ。

庚申塔群 鳥見神社 富塚 白井市 千葉県
庚申塔群 鳥見神社 富塚 白井市 千葉県

参道をすすむと左手に庚申塔がずらりと並ぶ。その最後の一基の右側脇腹に鋭い切り込みがある。宝永3年(1706)のもので、「切られ庚申」とよばれている。銚子から鮮魚を輸送中の男がこのあたりで火の玉に襲われ刀を振り降ろしたところこの庚申塔に当ってしまったという話が伝わる。切り口は上斜めからと下斜めから切り込まれていて確かに鋭い切り傷である。伝わる話はかなりあやしい。まず、鮮魚運び人足が刀を持っていたか? 次に、名石工でもこれだけ鋭く石を切り刻むことはできないだろう。ましてや荷駄人足の一振りにおいてをや。

歓喜天 鳥見神社 富塚 白井市 千葉県
歓喜天 鳥見神社 富塚 白井市 千葉県

白井市指定有形民俗文化財 鳥見神社の歓喜天 歓喜天は大聖歓喜天または聖天と呼ばれ、人身象頭の特異な姿をもつ。像は男女二天が抱擁する双身像が最も多く造られ、男女和合・縁結び・子恵みの神とされている。 この石塔は安山岩製で、塔身高96cm、幅40cm、厚さ22cmを測リ、正面には抱擁する双身像が陽刻されている。 中略 左側面に「明和8辛卵天 下総州印旛郡冨塚村 腰急雨山西輪寺圓乗院貫随」と文字が刻まれ……

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白井市指定有形民俗文化財 鳥見神社の歓喜天 歓喜天は大聖歓喜天または聖天と呼ばれ、人身象頭の特異な姿をもつ。像は男女二天が抱擁する双身像が最も多く造られ、男女和合・縁結び・子恵みの神とされている。 この石塔は安山岩製で、塔身高96cm、幅40cm、厚さ22cmを測リ、正面には抱擁する双身像が陽刻されている。 中略 左側面に「明和8辛卵天 下総州印旛郡冨塚村 腰急雨山西輪寺圓乗院貫随」と文字が刻まれ、この塔が富塚村の西輪寺の関偉者によって、客殿の造り替えを記念して明和8年(1771)に造立されたことが確認できる。以下略 平成10年3月31日 白井市教育委員会

その奥に密かな祠が見える。内をうかがうとエレファントマンとエレファントウーマンが抱き合って接吻しているではないか。歓喜天だという。鳥見神社によったのはこれを見るためだった。

成田山碑 藤ケ谷 柏市 千葉県
成田山碑 藤ケ谷 柏市 千葉県

街道にもどり矢の橋台霊園を過ぎ坂を降りて行く。車両止めのブロックをこえて白井市と柏市を分ける広い車道の脇に庚申塔などがある。車道をこえるとまた新しい道がよこぎっている。このあたりは住宅開発にともなって新しい道が惜しげもなく造られている。その二つ目の新道を横切った右手路傍に文政13年(1831)の小さな道標があり不動明王が彫られ「成田道」とて刻まれている。

金毘羅宮 藤ヶ谷 柏市 千葉県
金毘羅宮 藤ヶ谷 柏市 千葉県

この金毘羅宮は、幕末の嘉永5年に造立されたものです。江戸時代から明治時代の初めにかけて、主に銚子沖で捕れた魚を江戸の河岸まで運ぶ道があり、鮮魚街道と呼ばれていました。藤ヶ谷地区台町はその中間点にあたり格好の休憩所として賑わい、この金毘羅宮や常夜燈が造られました。荷駄人足たちは、ここで食事をとり魚に水をかけて鮮度を回復し、また江戸へと急いだのです。金毘羅神社(本宮は香川県琴平町鎮座)はもともと水運の……

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この金毘羅宮は、幕末の嘉永5年に造立されたものです。江戸時代から明治時代の初めにかけて、主に銚子沖で捕れた魚を江戸の河岸まで運ぶ道があり、鮮魚街道と呼ばれていました。藤ヶ谷地区台町はその中間点にあたり格好の休憩所として賑わい、この金毘羅宮や常夜燈が造られました。荷駄人足たちは、ここで食事をとり魚に水をかけて鮮度を回復し、また江戸へと急いだのです。金毘羅神社(本宮は香川県琴平町鎮座)はもともと水運の守護神で、鮮魚街道に暮らす人々によって信仰されました。以下略 平成15年11月20日 柏市教育委員会

旧街道はすぐに三叉路を左折する。すぐ右手、竹やぶ脇の階段の上に無残にうち捨てられた金毘羅宮がある。祠の残材がシートにまとめられていた。階下には儒学者大沼枕山の立派な撰碑と、鮮魚街道の全体像がわかる詳しい説明板があった。金毘羅宮は、幕末の嘉永5年(1852)に鮮魚道の中間点として賑わったここ藤ヶ谷台町に造立されたとある。荷駄人足たちはここで休息をとりつつ魚に水をかけて鮮度を回復したというのが面白い。

地図は利根川から陸路、江戸川経由で行徳まで、そこから日本橋までの航路を示している。これをみれば距離的には木下から行徳まで陸路を直送した木下街道ルートの方が、布佐より松戸―江戸川で行徳に下った鮮魚街道ルートよりも短かったことがよくわかる。鮮魚街道にだけ通し馬が認められたことがその距離的ハンディを補って余りあったと見るほかない。地図は手賀沼が「つ」の字にまだひとつにつながっていた時代を示していて鮮魚街道(赤点線)は永治から手賀沼南端に位置する船戸河岸を通っている。後年、このルートが木下街道と再接近して西進する現在の道筋にかわった。その位置関係を知る上でもこの地図は参考になった。

鮮魚街道常夜燈・相馬屋 藤ヶ谷 柏市 千葉県
鮮魚街道常夜燈・相馬屋 藤ヶ谷 柏市 千葉県

鮮魚街道は、銚子でとれた海産物を江戸に運ぶためにできた交通路です。銚子から利根川をさかのぼって木下河岸(印西町)で陸揚げされ、荷駄で松戸河岸まで輸送し、江戸川を下り江戸の魚河岸に入ります。木下・松戸間は、江戸時代を通じて、コースの変更がありますが、藤ヶ谷台町はちょうどこの中間点にあって、昼夜兼行の輸送の道標として、また、安全の願いをこめて常夜燈が建立されました。また、ここには茶店も開かれていました……

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鮮魚街道は、銚子でとれた海産物を江戸に運ぶためにできた交通路です。銚子から利根川をさかのぼって木下河岸(印西町)で陸揚げされ、荷駄で松戸河岸まで輸送し、江戸川を下り江戸の魚河岸に入ります。木下・松戸間は、江戸時代を通じて、コースの変更がありますが、藤ヶ谷台町はちょうどこの中間点にあって、昼夜兼行の輸送の道標として、また、安全の願いをこめて常夜燈が建立されました。また、ここには茶店も開かれていました。この常夜燈には「紀元2539年6月説之」と銘記され、明治12年(1879)の建立であることがわかります。寄進者には、藤ヶ谷の有力者、東京・木下などの問屋・輸送業者にまじって金毘羅講の人々の名も列記されています。

旧道は丁字路を右折して坂を上がりきったところに鮮魚街道常夜燈が建つ。「紀元2539年6月設之」と銘記されており、明治12年の建立である。説明版で鮮魚街道の起点を布佐ではなく木下と反復しているのが気になった。両者を同一視している向きがないでもない。常夜燈の寄進者も布佐ではなくて木下の者としている。

そばの相馬商店は元茶屋であった。金毘羅宮の説明板に記されていたように、ここ藤ヶ谷は布佐―松戸の中間地点にあたり、途中宿場のなかった鮮魚街道で一服するには都合のよい立場だったようである。

なだらかな坂道を上りつめた右手に馬頭観音をみて道なりに坂を下り、街道は海上自衛隊下総航空基地に突き当たって途切れてしまう。

海上自衛隊下総航空基地 藤ヶ谷 柏 千葉県
海上自衛隊下総航空基地 藤ヶ谷 柏 千葉県

基地周辺の道を通って一旦県道280号に出、すぐ先の二股を左にとって基地の北縁を西にすすむ。藤ヶ谷バス停傍の基地滑走導入路で、上空を二機の訓練機が降下してきた。模型飛行機のようなかぼそい姿だが一人前の爆音を響かせていた。

基地の北西角で左折して沼南高柳高校前を通り柏市から鎌ヶ谷市に入っていく。

六実・五香

右に幼稚園のある丁字路で鮮魚街道にもどる。念のため左折して基地からの旧道復活地点を確認しておく。有刺鉄線が張り巡らされているだけで街道であった痕跡は何もない。

佐津間城跡 中佐津間1丁目 鎌ケ谷市 千葉県
佐津間城跡 中佐津間1丁目 鎌ケ谷市 千葉県

佐津間城跡は東側に大津川をのぞむ標高25mの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9mの比高がある。土塁と空堀をめぐらせて、周囲をを台地から遮断して曲輪を形成する短郭構造の城跡である。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の櫓台と、その櫓台を利用した横矢構造が確認され、曲輪の入り口となる虎口の跡も残っている。.また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定さ……

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佐津間城跡は東側に大津川をのぞむ標高25mの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9mの比高がある。土塁と空堀をめぐらせて、周囲をを台地から遮断して曲輪を形成する短郭構造の城跡である。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の櫓台と、その櫓台を利用した横矢構造が確認され、曲輪の入り口となる虎口の跡も残っている。.また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定される。 城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側(主郭)は東西2lm、南北35mある。周囲には屋敷裏、北根郷屋、南木戸などの城に関係する小字名も残っている。 築造された時期は戦国時代(16世紀中~後半頃)と推定されている。戦国時代に造られた城跡は東葛地方でも数多く確認されているが、市内で明らかに城跡として確認されているのはこの佐津間城だけである。平成22年12月 鎌ヶ谷市教育委員会

街道を西に向うと道が左にカーブするあたり右手に立派な石垣を配した民家がある。その手前の路地を入っていくと竹やぶが繁る台地の崖に突き当たる。ここに戦国時代佐津間城が築かれた。50m四方ほどの小さなものだった。藪の中にそれらしき地形の凹凸が残っているように見えた。

鮮魚街道旧道・馬頭観音 佐津間 鎌ケ谷市 千葉県
鮮魚街道旧道・馬頭観音 佐津間 鎌ケ谷市 千葉県

旧街道は渋谷重兵衛米店の信号を左に行く。旧道に入った左手畑の縁に小さな馬頭観音がある。

鮮魚街道旧道(右)・道標 南佐津間10 鎌ケ谷市 千葉県
鮮魚街道旧道(右)・道標 南佐津間10 鎌ケ谷市 千葉県

その先の十字路を右折して坂を上がっていくと右手に鳥居があり二体の道祖神石塔を祀る小祠がある。

その先の三叉路角に「南無大師遍照金剛」の碑があり、側面に「左 松戸・江戸道」と刻まれて道標を兼ねている。

道標の立つ三叉路を右にとって県道8号を横切って鎌ヶ谷市から松戸市にはいり、繁華な県道281号に合流する。ここまでの鮮魚街道は工場が入り混じりながらも梨畑を含む田園を基調としたのどかな風景であった。以降は松戸まで、商店街と住宅地が混在する市街地である。鮮魚街道も終盤にはいってきた。

きもの川久 六実6丁目 松戸市 千葉県
きもの川久 六実6丁目 松戸市 千葉県

私達のふるさと東葛飾地方は、平安時代の頃から野生の馬が棲む広大な放牧場でした。江戸時代から「小金牧」と呼ばれ、馬は一般に小荷駄用とか農耕用に供給されました。またこの牧場は第八将軍吉宗を初めとして三人の将軍のお鹿狩りの舞台として利用されました。さらに牧場の一部は畑や集落地に開放され、今日の台地内陸部の多くの街の基礎がつくられます。(中略)11代将軍家斉は寛政7年(1795)に、12代の家慶は嘉永2年……

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私達のふるさと東葛飾地方は、平安時代の頃から野生の馬が棲む広大な放牧場でした。江戸時代から「小金牧」と呼ばれ、馬は一般に小荷駄用とか農耕用に供給されました。またこの牧場は第八将軍吉宗を初めとして三人の将軍のお鹿狩りの舞台として利用されました。さらに牧場の一部は畑や集落地に開放され、今日の台地内陸部の多くの街の基礎がつくられます。(中略)11代将軍家斉は寛政7年(1795)に、12代の家慶は嘉永2年(1849)に計4回五香六実のお立場でお鹿狩りを行いました。家慶のときは時局がら部隊訓練も行っています。将軍がお立場に立った時の様子が描かれています。

東部野田線六実(むつみ)駅北側の踏み切りをわたる。右手に建つ漆喰海鼠壁、虫籠窓の老舗呉服店きもの川久には小金牧で行われた鹿狩りの様子が大きく描かれている。明治に入って幕府の野馬放牧場は開拓され困窮した江戸の武士や市民が入植してきた。入植順に1番から13番まで縁起のよい名前がつけられた。六実は6番目で、この先の五香(ごこう)は5番目だった。

高お神社・史跡香実会所跡 六高台1丁目 松戸市 千葉県
高お神社・史跡香実会所跡 六高台1丁目 松戸市 千葉県

由来 東京の窮民8千余人が、政府の企画により小金牧・佐倉牧に入植したのは明治2年秋から冬にかけての頃である。その人たちの一部はこの周辺にも移住し、初めて五香六実の村落が誕生した。香実会所はこれら開墾民の統率者である開墾会社社員詰所の別称であり、開墾民の生活物資などの支給所でもあった。明治5年春、事業の失敗により会社は解散したので開墾民の歴史に密接な関係のあった香実会所もまたその機能を停止した。この……

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由来 東京の窮民8千余人が、政府の企画により小金牧・佐倉牧に入植したのは明治2年秋から冬にかけての頃である。その人たちの一部はこの周辺にも移住し、初めて五香六実の村落が誕生した。香実会所はこれら開墾民の統率者である開墾会社社員詰所の別称であり、開墾民の生活物資などの支給所でもあった。明治5年春、事業の失敗により会社は解散したので開墾民の歴史に密接な関係のあった香実会所もまたその機能を停止した。この香実会所についての開墾民の印象は必ずしも良いものではなかったが、ともかく五香六実近代化のさきがけ的役割を果たしたことは事実である。入植以来ここに百年、これを記念してこの地に碑を建立するものである。

街道沿いの高お神社香実会所跡で、五香六実の村落開拓の中心となった所である。傍に開墾百年記念碑がその歴史を伝えている。

右手に五香稲荷神社を見て五香十字路にさしかかる。旧道はすぐ先の二股を右に入る。新京成線で分断されるが線路の向こう側に旧道は続いている。

お立場跡 五香西1丁目21 松戸市 千葉県
お立場跡 五香西1丁目21 松戸市 千葉県

由来 源頼朝の富士裾野の巻狩りにならって徳川氏が小金牧で御鹿狩りを行ったのは八代将軍吉宗の享保10年、同11年と、11代家斉の完成7年、12代家慶の嘉永2年と前後4回にに及んだ。御立場はこの時の将軍上覧所で、高さ約10m、頂上平坦部には15m四方桧造りの御座所を設けたという大きな塚であった。御鹿狩りの規模も動員された百姓勢子10万人、その地域は下総、上総、武蔵、常陸、下野など五か国にわたったことか……

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由来 源頼朝の富士裾野の巻狩りにならって徳川氏が小金牧で御鹿狩りを行ったのは八代将軍吉宗の享保10年、同11年と、11代家斉の完成7年、12代家慶の嘉永2年と前後4回にに及んだ。御立場はこの時の将軍上覧所で、高さ約10m、頂上平坦部には15m四方桧造りの御座所を設けたという大きな塚であった。御鹿狩りの規模も動員された百姓勢子10万人、その地域は下総、上総、武蔵、常陸、下野など五か国にわたったことからでも推察できよう。昭和15年、逓信省中央航空機乗員養成所開設の時、お立場は飛翔障害物として取り除かれ湮滅した。以下略

五香駅の西側にでて県道281号の変則十字路を南に下って五香公園にある御立場跡へ寄ることにした。松戸四中の西側の道を南にすすみ二つ目の信号を左折、あさひ幼稚園の東南にある公園の東端に跡碑が立つ。徳川将軍家が小金牧で鹿狩を行った際、将軍がその模様を眺めた場所で、高さ10mの塚を築きその上に座所を設けたという大がかりなものだった。

鮮魚街道旧道 常盤平6丁目 松戸市 千葉県
鮮魚街道旧道 常盤平6丁目 松戸市 千葉県
子和清水 常盤平7丁目 松戸市 千葉県
子和清水 常盤平7丁目 松戸市 千葉県

母馬が番して呑ます清水かな 一茶 むかし、この近くに酒好きな老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに、外から帰るときには、酒に酔っている。息子がいぶかって父の後をつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って、さもうまそうに「ああうまい酒だ」といって飲んでいた。父の去ったあと子が飲んでみると、ただの清水であった。この話を聞いた人々が、「親は古酒、子は清水」というようになった。各地にある子和清水、古和清水……

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母馬が番して呑ます清水かな 一茶 むかし、この近くに酒好きな老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに、外から帰るときには、酒に酔っている。息子がいぶかって父の後をつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って、さもうまそうに「ああうまい酒だ」といって飲んでいた。父の去ったあと子が飲んでみると、ただの清水であった。この話を聞いた人々が、「親は古酒、子は清水」というようになった。各地にある子和清水、古和清水などはこうした伝説による清水です。 昭和56年3月 松戸市教育委員会

街道にもどり県道の一筋北を並走する旧道を歩いていく。裏通りは静かな住宅街だ。旧道は常盤平中学の先で広いけやき通りにでて県道281号に合流する。合流三角地帯に小公園が整備され、清水と一茶句碑(「母馬が番して呑ます清水かな」)、水を掬って飲んでいる少年像がある。子和清水といい、酒好きの父親とその息子の話が伝わっている。この話を聞いた人々が「親は古酒、子は清水」と言うようになった。

金ヶ作陣屋跡 常盤平柳町 松戸市 千葉県
金ヶ作陣屋跡 常盤平柳町 松戸市 千葉県かって東葛地方には、使役や軍役に用いる馬を確保するために小金牧という大規模な放牧場がありました。金ヶ作陣屋は牧の管理を司る在地の役所でした。
新京成線八柱駅付近 金ヶ作 松戸市 千葉県
新京成線八柱駅付近 金ヶ作 松戸市 千葉県

県道をすこし歩いて常磐平柳町交差点で再び右の旧道に入る。新京成線の手前にある「さくら通り」を右にすこし入ったところ左手に江戸幕府が置いた金ヶ作陣屋跡を示す標柱が立っている。小金牧の管理を司る役所である。

松戸

庚申塔 和名ケ谷 松戸市 千葉県
庚申塔 和名ケ谷 松戸市 千葉県

街道は道なりに進みかっぱ横丁を通って新京成線みのり台駅脇で踏切を渡り県道に戻る。左手工業団地を過ぎたところの変則五叉路交差点を左斜めに入っていく。左手に湯楽の里というスーパ銭湯がある。

鮮魚街道旧道(右) 和名ケ谷/松戸新田 松戸市 千葉県
鮮魚街道旧道(右) 和名ケ谷/松戸新田 松戸市 千葉県

次の交差点の左手前脇に文化11年(1814)の庚申塔がある。その先細い道路が二本出ているが右側の道が旧道筋。総合卸売市場の裏通りをすぎると道幅が広くなって、まもなく国道464号との交差点に出る。

鮮魚街道旧道 松戸 松戸市 千葉県
鮮魚街道旧道 松戸 松戸市 千葉県

ここを右折してすぐ左斜めの細道に入る。国道に沿った400mほどの旧道だが、車が通らず裏道の雰囲気が濃い一角である。

竹内啓の墓 松戸 松戸市 千葉県
竹内啓の墓 松戸 松戸市 千葉県

維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓 竹内 啓 文政11年(1828)~慶応3年(1867年) 本姓を小川といい、武蔵野国(埼玉県)入間郡竹内村の生まれで、生家は代々名主の家柄でした。若くして江戸に出て、国学、儒学、医学を広く学び、国元に帰ってからは、医者として働くかたわら、村の子供たちを教えたり、父親の死後、名主も勤めました。西暦1867年11月下野国(栃木県)出流山で、小川節斉と名乗り赤報隊の一……

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維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓 竹内 啓 文政11年(1828)~慶応3年(1867年) 本姓を小川といい、武蔵野国(埼玉県)入間郡竹内村の生まれで、生家は代々名主の家柄でした。若くして江戸に出て、国学、儒学、医学を広く学び、国元に帰ってからは、医者として働くかたわら、村の子供たちを教えたり、父親の死後、名主も勤めました。西暦1867年11月下野国(栃木県)出流山で、小川節斉と名乗り赤報隊の一派を率いて尊王討幕の兵を挙げました。 しかし、12月12日から13日にかけての戦いで、幕府方に敗れ、現在の茨城県古河市に逃れましたが、捕まってしまい、江戸へ護送されることになりました。 世の中は江戸幕府崩壊による混乱のさなかで何が起こるかわからない状態で、松戸の宿まで来たところで、いつ逃げ出されるかわからないという不安から、節斉は宿内をひきまわされたうえ、この地で処刑されました。享年40歳、慶応3年12月24日のことでした。なお、後年に従五位を追贈されました。 平成7年6月3日 松戸西ロータリークラブ

国道にもどり松戸隧道交差点を斜めに渡って千葉大園芸学部の南側を回り込んでいく。途中左に降りていく道があるが、そのまま山裾を進み突きあたって左折したところ、右手の土手に「維新の志士 従五位 竹内啓先生の墓」がある。千葉大園芸学部の学生、職員が土手回りの清掃作業中であった。落ち葉がひどい。

道はJR常磐線に突き当たる。線路を歩道橋で渡り県道5号(流山街道)に合流する。右折して角町交差点に出る。旧水戸街道、松戸宿に到着した。

渡船場河岸跡・御領傍示杭 下横町 松戸
渡船場河岸跡・御領傍示杭 下横町 松戸

「是より御料松戸宿」碑の建立由来 江戸時代後期に幕府によってまとめられた「水戸佐倉道宿村大概帳」によると、松戸宿の「傍示杭(境杭)は宿の前後境にあり、建替えは支配代官が取扱う」とあります。「宿の前後境」とは、北側が根本村境、南側が江戸川を隔てて対岸金町松戸関所に相対する下横町渡船場のことで、水戸道中松戸宿の出入口を指しています。(中略)なお、本来この「御料傍示杭」は木製で、位置も道を挟んだ反対側(……

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「是より御料松戸宿」碑の建立由来 江戸時代後期に幕府によってまとめられた「水戸佐倉道宿村大概帳」によると、松戸宿の「傍示杭(境杭)は宿の前後境にあり、建替えは支配代官が取扱う」とあります。「宿の前後境」とは、北側が根本村境、南側が江戸川を隔てて対岸金町松戸関所に相対する下横町渡船場のことで、水戸道中松戸宿の出入口を指しています。(中略)なお、本来この「御料傍示杭」は木製で、位置も道を挟んだ反対側(南側)で、現在堤防から河川敷になっている付近に建てられていました。 平成7年6月3日 松戸市教育委員会

すぐ先の路地を左に入って利根川土手まで行くと渡船場河岸(下河岸)跡で、天領松戸宿の入り口を示す「是より御料松戸宿碑」が建っている。水戸街道の渡し場であった。

旧街道を東へ進み松戸郵便局のあるあたりに問屋場・本陣・脇本陣などがあって宿場の中心街を形成していた。

やまだ屋 宿場大通り 松戸
やまだ屋 宿場大通り 松戸

坂川に沿って北に歩くと松戸神社である。日本武尊が東征の際に従者と待ち合わせた地に建てられた祠がその発祥だという。待つ土(地)から松戸の名が出たという伝えもある。

街道をよこぎる坂川にかかる春雨橋の周辺には古い商家が多い。建物だけ保存されているものもあれば人が出入りする現役の店もある。

柳 旧平潟遊廓大通り 松戸
柳 旧平潟遊廓大通り 松戸
納屋河岸 松戸
納屋河岸 松戸銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代松戸の主産業は舟運であり、ここが重要な基地になっていました。 松戸市教育委員会

西蓮寺の角を左折して鮮魚街道終点の納屋河岸に到着する。土手下に復元された黒板塀が船問屋を営んでいた青木家跡である。布佐で利根川から荷揚げされた鮮魚は鮮魚街道を通ってここから再び船で江戸川を下り江戸へ運ばれた。

納屋河岸の北に隣接して平潟河岸があった。この一帯には材木・鮮魚を扱う商人や水運業者があつまり、彼らを相手とする飯盛女を抱える旅篭が数多くでき平潟遊廓が形成された。

完 (2011年2月)