日光東往還 2区間のうち2番目

日光東往還(2)

仁連-諸川-武井-結城-多功-雀宮 (日光・奥州街道に合流)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

仁連(にれい)

仁連(にれい)

歌碑 東山田 古河市 茨城県
歌碑 東山田 古河市 茨城県筑波嶺の男女の流れ 千代かけて 渡し結ばむ 縁のかけ橋

山田十字路で県道54号と交差する。交差点の北東角のブロック塀窪みに大きな石碑が隠れていた。史跡ではなく歌碑のようで、表面には「筑波嶺の男女の 流れ 千代かけて 渡し結ばむ 縁のかけ橋」と刻まれている。裏面には八俣(やまた)村の発起人の名が連ねられている。40名ほどある発起人の中で「鈴木」姓が圧倒的に多かった。八俣(やまた)村は明治22年(1889)、山田村・東山田村・北山田村・谷貝村・長左衛門新田が合併して成立した。地理的には筑波山のほぼ真西約30kmにある。歌碑建立の由来は記されていない。粋人の記念碑か。

民家長屋門 東山田 古河市 茨城県
民家長屋門 東山田 古河市 茨城県
東山田 古河市 茨城県
東山田 古河市 茨城県

左手に立派な長屋門を構える農家がある。右手にも長い塀を巡らせた民家があって屋敷林の大木は街道の目印として十分に空高く聳えている。

街道は直角に右折して仁連の旧宿場街に入っていく。街道をはさんで右に東漸寺、左に妙厳寺がある。

旧鈴木本陣 仁連 古河市 茨城県
旧鈴木本陣 仁連 古河市 茨城県

すぐ先左手に塀で囲まれた奥に四脚門が凛として構えその背後に鈴木本陣跡の家がひっそりと建っていた。無人のようすである。右手の曲屋は式台を備えた立派な玄関で本陣の風格を留めている。当主は山田十字路にあった歌碑の発起人鈴木氏の一人であろう。

街道は県道17号を北上して三和庁舎西信号の先で諸川に入る。

諸川

一里塚跡付近 諸川 古河市 茨城県
一里塚跡付近 諸川 古河市 茨城県

諸川小学校周辺に一里塚があったというが痕跡はない。諸川信号で交国道125号を横切ると諸川旧宿場街である。

左手向龍寺には室町時代の板石塔婆が多数残されている。

その先信号丁字路前後の200mほどが宿場の中心だったのか、土蔵をふくめた古い家並みが続いている。

染谷商店 諸川 古河市 茨城県
染谷商店 諸川 古河市 茨城県創業大正7年

右手染谷商店は大正7年の創業で黒漆喰壁の重厚な蔵店である。「下総国諸川 米穀肥料」と金文字屋根看板が老舗を誇る一方で、一階のガラス戸に貼られた「英会話教室」「留学相談無料」の張り紙が時代の変遷を象徴していた。

左手奥まったところにある中村家が諸川宿本陣を勤めていた。住宅はモダンな建物で本陣の面影は留めていない。

旧脇本陣小林藤兵衛商店 諸川 古河市 茨城県
旧脇本陣小林藤兵衛商店 諸川 古河市 茨城県
旧脇本陣小林家長屋門 諸川 古河市 茨城県
旧脇本陣小林家長屋門 諸川 古河市 茨城県

街道沿いの電柱に「小林藤兵衛商店」の看板が掛かっている路地の奥に長屋門が立ちはだかっている。左手には土蔵が建ち長屋門の内部をうかがうと広大な屋敷が続いていた。脇本陣の小林家住宅である。清酒茂ろ川の蔵元だったが廃業した模様である。街道に面して立ち並ぶ重厚な黒壁蔵造りの店舗と立派な門塀の奥に小林家の本宅屋敷がある。

大橋醤油店 諸川 古河市 茨城県
大橋醤油店 諸川 古河市 茨城県

小林家の道向かいに構える「昔しょうゆ」の幟を立てた格子造りの大橋醤油店は江戸末期創業の老舗である。趣きある店の中をドア越に覗こうとしたら自動ドアが開いて、半被を着た女店員から「いらっしゃいませ!」と元気な声がかかってあわててしまった。

小林家の横の三和諸川郵便局も蔵造りである。小林家の蔵の一棟なのかもしれない。

舘野家住宅 諸川 古河市 茨城県
舘野家住宅 諸川 古河市 茨城県

その北隣にも薬医門に長い塀をめぐらせた屋敷がある。古河市との合併当時の三和(みわ)町長舘野家である。間口も奥行きもながい広大な敷地である。ここまで通ってきた日光東往還の宿場のなかで諸川のこの一角は突出した存在感を示していた。

旧道跡 諸川 古河市 茨城県
旧道跡 諸川 古河市 茨城県

西仁連川手前右に旧道がのこる。右手に大きな記念碑と大洪水位石標が地中から頭だけを出している。県道17号で宝来橋をわたると結城市に入る。右手に残っている旧道はすぐに県道に合流する。

武井

家並み・馬頭観音 七五三場 結城市 茨城県
家並み・馬頭観音 七五三場 結城市 茨城県

橋を渡ると七五三場(しめば)集落である。七五三(しめ)は注連縄に由来する。珍しい名だ。坂を上った丁字路角に馬頭観音がある。かなり痛んでいてよく読めない。

民家 七五三場 結城市 茨城県
民家 七五三場 結城市 茨城県

七五三場はしっとりとした感じのよい家並みである。左手、音楽教室の看板を掲げた家は立派な門塀を構えている。その先の民家は大きな煙だしを乗せた土壁造りの趣きある建物が目を引く。

公民館のあるバス停脇に3基の石塔がならんでいる。右は七五三村女人講中による延命観世音塔で、中央は寛政6年(1794)建立の十九夜供養塔が平成11年に再建されたもの。左の大きな石碑は不明。

石碑 北南茂呂 結城市 茨城県
石碑 北南茂呂 結城市 茨城県

街道は北南茂呂で県道124号と交差する。すぐ左手道端に二基の石碑がある。ともに何だかよくわからない。

資料によると右手に一里塚跡があるとのことで注意して歩いていったが、結局何も見つからなかった。

旧武井宿町並 武井 結城市 茨城県
旧武井宿町並 武井 結城市 茨城県

右手にしもふさ東部CCをみて県道54号を横切る。この交差点は「大戦防」という。意味ありげな名だが、昔は「台仙坊」「大仙坊」などと書かれていたものが、明治時代に現在の当て字がつかわれるようになったとか。この場所は小高い丘で、かって南西角に「遠見の松」があった。樹齢350年、高さ20mの大木は街道の目印となっていたが昭和33年老朽のため伐採された。

石碑群・武井公民館前 武井 結城市 茨城県
石碑群・武井公民館前 武井 結城市 茨城県
官軍の墓 旧泰平寺境内 武井 結城市 茨城県
官軍の墓 旧泰平寺境内 武井 結城市 茨城県

武井集落にはいっていくが家並みは概して新しい。宿場の中心は泰平寺跡の前あたりで高札があった。現在は街灯に「武井公民館」(武井集落田園都市センター)の標識がかかる一角に地蔵、十九夜塔がブロックで囲まれてある。半鐘が立つ路地をはいっていくと旧泰平寺墓地に戊辰戦争で戦死した二人の官軍兵士の墓がある。「官軍」の文字が認められるが他は判読しがたい。その墓以上に立派な墓が「武井家」、「斉藤家」の先祖代々墓である。武井家は本陣、斉藤家は問屋を勤めた家柄である。

武井本陣跡 武井 結城市 茨城県
武井本陣跡 武井 結城市 茨城県
旧問屋斉藤家長屋門 武井 結城市 茨城県
旧問屋斉藤家長屋門 武井 結城市 茨城県

武井家宅は公民館の道向かいで長いブロック塀が廻らされた広い敷地である。建物は新しく本陣往時の姿を感じさせるものはない。

問屋の斎藤家は武井上(ふじや前)バス停隣りに長屋門を構えている。門は太い白木材が使われ、打ち込まれた鉄鋲が歴史を感じさせる。

鎌倉街道 武井 結城市 茨城県
鎌倉街道 武井 結城市 茨城県

集落の北端近くで左の路地をはいっていくと、切り開かれた土地との交差点に「歴史街道鎌倉街道」の立て札を見つけた。左におれて鎌倉街道を道なりにすすむと集落の西縁に出た。農道を南にたどっていくと熊野・香取神社にたどりついた。

大日如来堂 武井 結城市 茨城県
大日如来堂 武井 結城市 茨城県

鎌倉街道の標識にもどり北に進むと畑の向こうに大日如来堂が見える。近づくためには鎌倉街道からすこし県道側にもどった十字路を北にはいらなければならない。かろうじてアクセスが残された程度に孤立している。

結城

農家長屋門 田間 結城市 茨城県
農家長屋門 田間 結城市 茨城県

県道を北に向かい田間集落にはいる。右手に豪壮な長屋門を構えた家がある。池田家住宅で裏にまわってみると門や白壁土蔵がみられ大きな屋敷である。

一里塚跡 上成 結城市 茨城県
一里塚跡 上成 結城市 茨城県

上生集落にはいるろ右手竹やぶにこんもりとした土のふくらみがみえる。一里塚跡で、板切れが落ちていた。どうやら一里塚跡を示す朽ちた標識のようであった。

十九夜塔 上成 結城市 茨城県
十九夜塔 上成 結城市 茨城県

すぐ先左手のゴミ収集所前に二基の十九夜塔が並んでいる。如意輪観音の思惟ポーズがいかにものどかで、風景に溶け込んでいる。

長屋門 結城作 結城市 茨城県
長屋門 結城作 結城市 茨城県

作ノ谷交差点で県道292号を横切る。角に岩崎家の堂々とした長屋門がある。黒漆喰塗りで重厚な造りだ。重要建造物であって不思議ないようだが特段の説明板もなかった。

結城朝光の墓・称名寺 結城 結城市 茨城県
結城朝光の墓・称名寺 結城 結城市 茨城県

国道50号を横切り旧道は城南小北交差点からすぐ先で県道17号を左に分けて右手の吉田用水に沿って結城宿にはいっていく。大橋町交差点で用水路を離れJR水戸線の踏切をわたる。右手の称名寺は鎌倉時代の開基で結城家初代朝光の菩提寺である。室町時代のものといわれる山門をくぐると左手に結城朝光の墓がある。参道両側に建っていた石燈篭が倒壊していた。東日本大震災がここまで及んでいる。

武勇酒造 結城 結城市 茨城県
武勇酒造 結城 結城市 茨城県

街道は突き当たりを右折して結城宿内を巡る。角に構える清酒「武勇」蔵元保坂酒造の見世蔵は江戸末期の建築である。煉瓦煙突も健在で、周りをまぶしく光る白壁の酒蔵が取り巻く。壁、屋根ともに新しく見える。

秋葉糀味噌醸造見世蔵 結城 結城市 茨城県
秋葉糀味噌醸造見世蔵 結城 結城市 茨城県

国登録有形文化財 秋葉家の結城での創業は天保3(1832)年といわれており、かっては醤油の醸造も手掛けていましたが、現在は味噌の醸造・販売を行っ ています。 見世蔵は、大正13年に建設されたもので、工事を請負ったのは地元の立堀慶美といわれています。当初は、正面向って左側が切妻・平入り、右側が寄棟・妻入りとなる大規模な見世蔵でしたが、昭和9(1934)年の結城駅に通じる県道拡幅の際に、前面約一間半を……

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国登録有形文化財 秋葉家の結城での創業は天保3(1832)年といわれており、かっては醤油の醸造も手掛けていましたが、現在は味噌の醸造・販売を行っ ています。 見世蔵は、大正13年に建設されたもので、工事を請負ったのは地元の立堀慶美といわれています。当初は、正面向って左側が切妻・平入り、右側が寄棟・妻入りとなる大規模な見世蔵でしたが、昭和9(1934)年の結城駅に通じる県道拡幅の際に、前面約一間半を切り取り改修されました。そのため、内外部とも当初の姿とはかなり異なり、外観は、二階建・桟瓦葺で、間口7間半の正面には桟瓦葺の庇を設け、右側の半切妻部分の軒に蛇腹を廻すなど、見世蔵の特徴を留めながらも他に例を見ない特異な正面外観になりました。内部は、柱や梁等の主要構造部材と土蔵造の壁の一部などに、築造当時のものが残されており、北端に設けられた座敷部分や西側の元使用人室、二階の座敷などはほぼ当初の面影を留めています。

結城は古い建物が多く残る町であるが、多くは明治時代のもので蔵造りの商家も川越ほどには重厚でない。結城紬の問屋として財をなした豪商の見世蔵が多い。結城宿場めぐりはこれらの蔵めぐりと言ってよい。

駅前通りとの交差点手前左手に明治41年築の会津屋本店、交差点を右におれたところに甘酒を売る秋葉糀味噌醸造は天保3年(1832)の老舗だが建物は道路拡幅のため正面間口を一間半切り取られた悲運を負う。

家並み 結城 結城市 茨城県
家並み 結城 結城市 茨城県左より:奥順見世蔵、奥順店舗、キヌヤ薬舗店舗 いずれも明治時代建築

結城地方の総鎮守、健田須賀神社をみて浦町交差点を直進、突き当りを左折した先の信号交差点右手に結城町道路元標がある。反対角に不動尊堂と二十三夜塔がある。この通りの見世蔵並は圧巻だ。最初が明治中期建造のキヌヤ薬舗である。庇下の板看板に「六神丸」の名を見つけた。日野からやってくる薬屋が置いていく常備薬で、私も子供の頃服用したものだ。小粒だが苦い漢方錠剤である。元祖亀田家は甲賀出身の近江商人で、京都で呉服商を営んだ後薬業に転じた。

つむぎの館 結城 結城市 茨城県
つむぎの館 結城 結城市 茨城県

隣りは結城随一の豪商、結城紬問屋奥順の店舗と見世蔵である。明治40年創業、屋号は2代目社長奥澤順一の名から来る。つむぎの館も奥順の所有である。最近結城紬はユネスコ世界無形文化遺産に指定された。一筋北の通りからつむぎの館に入る。奥順の土蔵、「鳩子の海」の舞台となった離れを含む数棟からなるコンプレックスで、土産売りや草木染め・はたおりが体験できるコーナーもある。ザーッとみてまわるだけにした。

玉日(たまひ)姫の墓 結城 結城市 茨城県
玉日(たまひ)姫の墓 結城 結城市 茨城県

結城城の北に、玉日という地名が今も伝わります。この地名は、ここに眠ると伝わる玉日姫にちなんだものです。墓所に建つ碑は、浄土真宗の篤学の高僧・島地黙雷により綴られ、次のようなことが記されています。 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻となりますが、越後に流された聖人が、赦されて関東に向かったとの知らせを開いて、侍女の白河の局を伴ない関東に下りました。 玉日姫は、こ……

説明の全文を読む(約350字)

結城城の北に、玉日という地名が今も伝わります。この地名は、ここに眠ると伝わる玉日姫にちなんだものです。墓所に建つ碑は、浄土真宗の篤学の高僧・島地黙雷により綴られ、次のようなことが記されています。 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻となりますが、越後に流された聖人が、赦されて関東に向かったとの知らせを開いて、侍女の白河の局を伴ない関東に下りました。 玉日姫は、この地方一帯で布教を続ける聖人を助け、自らも剃髪します。やがて、聖人が京に戻ることになる際も、その教えを広めんがために結城に留まり、ここに草庵を結び生涯を送ったということです。 現存する、石の玉垣に囲まれた宝篋印塔は、近世になってから、江戸の講中(玉日講)により再建されたものです。 結城市教育委員会

ここからすこし離れているが結城が城下町でもあったことから城跡を見ていかねばなるまい。結城小学校前から県道204号で川をわたり右にカーブしたところの左手に、玉日(たまひ)姫の墓なるものを見つけた。親鸞の妻となった女性の墓で、立派な宝篋印塔が建てられている。

城跡は公園になっており何の遺構も残っていなかった。

街道にもどる。旧道は大町交差点を右折して結城宿を北にぬけていくが、交差点をそのまま西にすすんで追分道標と結城酒造を見ていくことにした。

追分道標石燈籠 木町交差点 結城 結城市 茨城県
追分道標石燈籠 木町交差点 結城 結城市 茨城県向、水戸海道 右 小山 左 さかい

道は木町交差点で曲尺手になっている。木町の名はここに木戸があったことに由来する。つきあたりの毘沙門天山門脇に二基の石燈篭があって、左の燈篭台石には「向、水戸海道」、右には「 右 小山 左 さかい」と彫られている。水戸海道と小山をあわせて水戸―小山間の結城街道を意味し、境は日光東往還を指している。ところでここの燈篭も頭の部分が砕け落ちて痛々しい姿であった。

結城酒造 結城 結城市 茨城県
結城酒造 結城 結城市 茨城県

国登録有形文化財 年代 江戸末~明治時代 結城酒造は、安政6(1859)年の酒造鑑札を持ち、この安政蔵は酒造業を始めた安政年間の建築と考えられています。切妻造・瓦葺の長大な建物で、内部は釜場・発酵場・麹枯らし場や広い土間及び畳敷の奥など、近世以来の酒蔵の様子を今に残しています。中略 高さ10mの煉瓦煙突は、安政蔵の北側にあり、明治36年の建設と伝わります。安政蔵の釜場と地下の煙道で結ばれており、酒……

説明の全文を読む(約270字)

国登録有形文化財 年代 江戸末~明治時代 結城酒造は、安政6(1859)年の酒造鑑札を持ち、この安政蔵は酒造業を始めた安政年間の建築と考えられています。切妻造・瓦葺の長大な建物で、内部は釜場・発酵場・麹枯らし場や広い土間及び畳敷の奥など、近世以来の酒蔵の様子を今に残しています。中略 高さ10mの煉瓦煙突は、安政蔵の北側にあり、明治36年の建設と伝わります。安政蔵の釜場と地下の煙道で結ばれており、酒造施設の近代的な工夫を見ることができます。これらの建物は、結城の街が商業都市として栄え、酒造業も盛んであったことを今に伝えています。

小山道にはいった右手に安政時代創業の老舗結城酒造がある。裾を朽ちらせた縦板塀が古い歴史を感じさせる。屋根が大きくブルーシートで覆われ職人が痛んだ主屋を修理中であった。煉瓦煙突がその後ろに何事もなかったように頭を出している。

大町交差点にもどり県道35号を北に向う。

中澤商店 結城 結城市 茨城県
中澤商店 結城 結城市 茨城県

国登録有形文化財 中澤商店見世蔵及び主屋(一棟) 構造及び形式 土蔵造・二階建・瓦葺 年代 明治時代末期 登録年月日 平成17年2月9日 中澤家は代々この地の大地主で、かつては肥料商を営んでいたといわれ、県道を挟んで斜め向かいに位置する中潭本家がその店舗でした。中澤商店見世蔵及び主屋は、明治末期に本家の別邸兼隠居所として建てられ、大正9(1920)年頃、本家から分家してここに移り住んだと伝わります……

説明の全文を読む(約470字)

国登録有形文化財 中澤商店見世蔵及び主屋(一棟) 構造及び形式 土蔵造・二階建・瓦葺 年代 明治時代末期 登録年月日 平成17年2月9日 中澤家は代々この地の大地主で、かつては肥料商を営んでいたといわれ、県道を挟んで斜め向かいに位置する中潭本家がその店舗でした。中澤商店見世蔵及び主屋は、明治末期に本家の別邸兼隠居所として建てられ、大正9(1920)年頃、本家から分家してここに移り住んだと伝わります。そして、戦後になって結城紬の卸売商を始め、現在に至っています。見世蔵は切妻・平入りの二階建・桟瓦葺で、間口四間・奥行二間半で、半間の下屋庇が前面に張り出しています。一階正面は、両端を半間の袖壁(戸袋)とし、中央に三間のガラス戸と格子戸を建てています。内部は、一般の見世蔵と同じように一階が店舗`二階が14畳の蔵座敷(当初は板敷)となっています。一階店舗は特に保存状態がよく、ほぼ当初の状態を保っており、一段高い帳場の奥には土塗りの防火引戸を設け、箱階段や土間と二階前面外壁下の帳場境に設けられた降し戸(揚げ戸)の設備もそのまま残されています。

次ぎの交差点角にある渡辺菓子店、向かいの福井薬局ともに趣きある建物である。福井薬局の漆喰壁が大きく剥がれているのも地震のせいだろう。

街道の両側に建つ蔵造りの建物は中澤家の店舗と主屋である。中澤家はこの地の大地主で肥料を商った後結城紬の卸商として栄えた。

安穏寺 結城 結城市 茨城県
安穏寺 結城 結城市 茨城県

小さな曲尺手の先に立派な楼門を構える安穏寺がある。天平宝字年間(757~765)に下野薬師寺の祚蓮律師が開祖といわれる律宗の古刹である。室町時代初期の応安4年(1371)に結城家8代直光が源翁心昭を会津示現寺から招き禅宗に改修し中興開山した。源翁禅師は、九匹の狐が化けた那須野ケ原の殺生石を砕いて石にこもる妖狐のうらみを封じたことで知られる。それ以降石を砕く槌をゲンノウと言うようになった。

一里塚跡 結城 結城市 茨城県
一里塚跡 結城 結城市 茨城県

左に分岐する県道147号、右におれていく県道35号とわかれて旧道はそのまま直進して細道にはいる。神明神社の向かい、水川商店の裏手に一里塚が残っている。個人所有の畑地になだらかな盛り土が認められた。

日光東往還旧道?? 結城 結城市 茨城県
日光東往還旧道?? 結城 結城市 茨城県

道は新しい住宅街を通り抜けて水路沿いのフェンスで行き止まりとなっている。その先をみると水路の右側に土の道が続いている。これが旧道だろう。水川商店まで引き換えして県道147号に出、神明橋を渡ってすぐに右に分かれて吉田用水沿いの道をとる。300mほどすすんで用水をわたり先に見た土道をいく。右にも用水(結城用水)があらわれその間を縫う細い道だ。土手道のようでもある。結局車道に出て左折、神明橋で分かれた道に合流した。どうやら考えすぎでこの道は旧道ではなさそうだ。

多功

民家長屋門 仁良川 下野市 栃木県
民家長屋門 仁良川 下野市 栃木県

五叉路を右折して県道146号に合流、栃木県小山市に入る。

大規模な工業団地を通り抜ける。やがて小山市から下野市に入り田園風景が広がるようになる。県道44号をよこぎって仁良川地区に入る。ここに秋田佐竹藩の陣屋があった。陣屋跡は右手、ブロック塀内のプレス工業仁良川寮だという。街道からは普通の民家の家並みを見るだけである。

宝篋印塔 仁良川 下野市 栃木県
宝篋印塔 仁良川 下野市 栃木県

町内の個人造立以外の宝篋印塔では最古のもので享保時代(1729)に造立された比較的大型な塔である。 宝篋印塔は宝篋印陀羅尼というお経を納めた供養塔で塔身の四方に四仏、または梵字を刻む。 この塔は塔身部の四面に金剛界仏が梵字で彫られ、基礎部には陀羅尼経奉納のま趣並びに韮川村、台秤山村、東根村光明講中と造立者の銘が彫られている。 笠部には隅飾突起がついており若干外側にそっており、関東型式で江戸時代の様……

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町内の個人造立以外の宝篋印塔では最古のもので享保時代(1729)に造立された比較的大型な塔である。 宝篋印塔は宝篋印陀羅尼というお経を納めた供養塔で塔身の四方に四仏、または梵字を刻む。 この塔は塔身部の四面に金剛界仏が梵字で彫られ、基礎部には陀羅尼経奉納のま趣並びに韮川村、台秤山村、東根村光明講中と造立者の銘が彫られている。 笠部には隅飾突起がついており若干外側にそっており、関東型式で江戸時代の様相をよく留めた塔である。平成11年3月 下野市教育委員会

民家 仁良川 下野市 栃木県
民家 仁良川 下野市 栃木県

街道沿いに重厚な長屋門や四脚門を構える農家が見られる。

仁良川下公民館の周囲には宝篋印塔や十九夜塔、薬師堂が集められて集落の古い歴史を感じさせる一角をなしている。

満福寺の山門左手に樹齢300年といわれる椿の大木がある。3月には無数の花を咲かせるという。さぞかし壮観であろう。

右手に愛宕神社をみて道は鍵の手状に折れていく。この先薬師寺南信号で新4号バイパスに分断され、先の二股で旧道が復活する。左の旧道をすすみ突き当たりを右折して県道146号にもどる。

龍興寺・道鏡塚 薬師寺 下野市 栃木県
龍興寺・道鏡塚 薬師寺 下野市 栃木県

龍興寺(下野薬師寺別院)略縁起(抜粋) ○天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳8年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、直末37ケ寺の本寺である。 O日本三戒壇を開いた鑑真和尚(688~763)は、天平宝字5年(761)唐の楊州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺と名づく。 ○太政大臣弓削道鏡禅師(708~772)は、宝亀元年(770)8月造下野薬師寺別当職……

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龍興寺(下野薬師寺別院)略縁起(抜粋) ○天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳8年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、直末37ケ寺の本寺である。 O日本三戒壇を開いた鑑真和尚(688~763)は、天平宝字5年(761)唐の楊州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺と名づく。 ○太政大臣弓削道鏡禅師(708~772)は、宝亀元年(770)8月造下野薬師寺別当職として着任したが、宝亀3年(772)4月7日歿する。 ○元亀元年(1570)北条氏政の兵火に遭い、龍興寺焼失。 ○真言宗智山派総本山智積院第四世化主 元寿僧正(1578~1648)は、龍興寺檀那田中の野口家から出家す。 ○現本堂は、安政7年(1860)3月3日再建。 弓削道鏡について いまを去る千二百余年前、奈良時代の高僧・弓削道鏡の墓所が当所です。 道鏡は、若くして仏道に精進し、厳しい修行を積み重ね、高度な医学も身につけた立派な人です。 孝謙天皇に仕えて十年余り、天皇が崩御されますと、上層社会に権力を振う者たちの陰謀によって、ここ下野薬師寺別当職に移されました。 道鏡は、都を遠く離れたこの霊場において、天皇のご冥福と人々の幸わせを祈りながら、772年4月7日不遇の生涯を閉じました。 従来の正史は、その時々の権力者の都合で記されたもので、決してありのままでなかったことを遺憾に思います。 私たちは、歴史の真実性を尊重する立場に立って活躍された故・横嶋斜月先生や、故・古田清幹先生の遺志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざします。 1994年4月7日 道鏡を守る会

薬師寺集落の中ほど、信号丁字路を右にはいったところ、薬師寺小学校の北側に龍興寺がある。白鳳8年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院である。安政7年(1860)再建の本堂脇には樹齢500年樹高20mというシラカシの大樹が茂り、その下に道鏡塚がある。説明板は極めて道鏡に対して極めて好意的であった。歴史では平城京の終焉をもたらした怪僧とされている。

野口家 薬師寺 下野市 栃木県
野口家 薬師寺 下野市 栃木県

県道に戻る。郵便局手前右手に薬師寺村道路元標があった。

県道310号との交差点手前左手に立派な門塀を構え、まるで大名屋敷のような野口家邸宅がある。薬師寺村では春と秋に馬市が行なわれ、はるばる奥州から馬主が馬を曳いて集まってきたという。野口家とその道向かいの大門家はかっての馬問屋だといわれる。

下野薬師寺伽藍礎石 薬師寺 下野市 栃木県
下野薬師寺伽藍礎石 薬師寺 下野市 栃木県

この礎石は民家の人が東塔跡付近から掘り出されたものと言われており、どの堂塔の礎石か明らかではありません。礎石面の中心にみられる円形状の穴は、ほぞ穴で柱根に出ほぞを造り、ここにはめ込んであったものと推定されます。凝灰石製とみられるこの形式の礎石は、白鳳時代に盛行したものと言われています。 隆盛期の下野薬師寺の壮大な伽藍も現今ではおずかに礎石と古瓦などが残っているだけで、往時を再現する手がかりとして貴……

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この礎石は民家の人が東塔跡付近から掘り出されたものと言われており、どの堂塔の礎石か明らかではありません。礎石面の中心にみられる円形状の穴は、ほぞ穴で柱根に出ほぞを造り、ここにはめ込んであったものと推定されます。凝灰石製とみられるこの形式の礎石は、白鳳時代に盛行したものと言われています。 隆盛期の下野薬師寺の壮大な伽藍も現今ではおずかに礎石と古瓦などが残っているだけで、往時を再現する手がかりとして貴重な資料の一つにもなっています。 昭和61年9月 下野市教育委員会

交差点から400mほどすすむと右手に薬師寺八幡宮、左手に安国寺薬師寺跡がある。このあたりは古代東山道の道筋である。東山道は下野国府から東にすすみ、ここで北に方向転換して次ぎの駅家、田部駅(上三川町上神主)に繋いでいた。日光東往還がほぼその道筋に近い。

薬師寺八幡宮 薬師寺 下野市 栃木県
薬師寺八幡宮 薬師寺 下野市 栃木県

八幡宮の起源は古く、主祭神は誉田別命で貞観17年(875)京都の石清水八幡宮の祭神を勧請して東北守護の大神としたと伝えられている。また一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。 天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中当社に立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失したといわれている。その後近世に入って、新たにこ……

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八幡宮の起源は古く、主祭神は誉田別命で貞観17年(875)京都の石清水八幡宮の祭神を勧請して東北守護の大神としたと伝えられている。また一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。 天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中当社に立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失したといわれている。その後近世に入って、新たにこの地を支配地とした佐竹右京大夫(秋田藩三代藩主)の援助によって寛文2年(1662)に本殿及び拝殿が再建されたものとされる。現存する本殿と拝殿はまさにその時代の特徴を留めており、17世紀にまで遡り得る県内でも数少ない神社建築として貴重なものである。 薬師寺の八幡宮は歴史も古く、常にこの地域のシンボルとして崇敬され深い信仰をあつめている。 平成8年3月 下野市教育委員会

薬師寺八幡宮は9世紀にまで遡る古社で、現在の社殿は寛文2年(1662)に再建されたものである。彩色豊かで古さを感じさせない。天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中に立ち寄って戦勝を祈願した。

六角堂 薬師寺 下野市 栃木県
六角堂 薬師寺 下野市 栃木県

安国寺の六角堂は、かつての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。江戸時代には、釈迦堂と呼ばれ、その姿は、分化2年(1805)に刊行された『木曾路名所図絵』によっても確認できます。 現存する建物は、近年に修繕された部分も少なくありませんが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。また、その名の通り建物の形、さらに屋根・外回りの柱・礎石までが正六角形造りの県内でも珍しい仏堂です。現在で……

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安国寺の六角堂は、かつての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。江戸時代には、釈迦堂と呼ばれ、その姿は、分化2年(1805)に刊行された『木曾路名所図絵』によっても確認できます。 現存する建物は、近年に修繕された部分も少なくありませんが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。また、その名の通り建物の形、さらに屋根・外回りの柱・礎石までが正六角形造りの県内でも珍しい仏堂です。現在では、下野薬師寺跡のシンボル的な存在にもなっています。 内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されており、両脇には、木造の不動明王像・韋駄天像などが祀られています。 平成7年10月 下野市教育委員会

下野薬師寺は奈良の東大寺、九州の筑紫観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。六角堂はその戒壇跡だとされる。広い敷地には回廊が復元されていた。下野の古代を偲ばせる土地である。

民家 多功 上三川町 河内郡 栃木県
民家 多功 上三川町 河内郡 栃木県

県道を一路北上し、下野市薬師寺から河内郡上三川町多功に入る。この道は古代東山道の道筋に当っている。下多功信号で国道352号を横切る。下多功バス停の後ろに大きな長屋門がある。この街道では実に多くの長屋門を見かけた。

街道が右にまがったさき右手に宝光院がある。

旧本陣・問屋(谷中家) 多功 上三川町 河内郡 栃木県
旧本陣・問屋(谷中家) 多功 上三川町 河内郡 栃木県

その先左手に建つ門構えの家が本陣兼問屋を勤めた谷中家住宅である。

谷中家の直ぐ先の信号を右に行くと左手、石橋ゴルフガーデンの標識が立つ路地をはいると駐車場脇に多功城跡がある。1248年、宇都宮頼綱の四男宗朝によって築城された。 以降多功氏を名乗り15代にわたって宇都宮氏を支えてきた。土塁や堀跡が残っていたがゴルフ場建設のために城の遺構の大半が破壊された。石碑の足元にわずかに石垣の残骸が置かれている。

街道にもどり県道をひきつづき北上する。沿道風景はしだいに市街化してくる。天神町で道幅が広くなる。左にはいるとJR東北線石橋駅だ。天神町をすぎるとまた地名は多功にもどり道は細くなる。石橋駅入口近辺だけ広くしたようだ。

日光東往還終点道筋 鞘堂 上三川町 河内郡 栃木県
日光東往還終点道筋 鞘堂 上三川町 河内郡 栃木県

街道は線路にかぎりなく接近してシーボン工場の先で地下に下りて信号を左折、JR 東北線・新幹線をくぐって日光街道(国道4号)に出る。200mほど北にすすんで星宮神社の向かいを右折すると線路際から復活している旧道に交差する。その十字路を左折し、パチンコ屋イクサムの駐車場縁を通り抜け左にまがって国道4号(旧日光街道)に合流する。

目の前を北関東道が横切っている。合流地点は日光街道でいえば石橋宿と雀宮宿のほぼ中間点にあたり、辺りに家並みもない。道標も案内板もなく、街道踏破の達成感が沸いてこない。

下総台地の官牧地、利根川東遷の原点、結城紬のふるさと、古代東山道跡等、日光東往還には古の風景が目立たぬ姿で残されている。結城を除き、控えめな度合いは北に進むほど強かった。

(2011年1月)

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