近江紀行 6区間のうち6番目

近江紀行(6)

湖東:愛知川・豊郷・高宮・多賀・彦根・湖東三山

豊郷

豊郷

八日市から2両編成の近江鉄道にのって豊郷でおりた。そこから中山道の旧道を五個荘まで歩く予定だ。高校時代毎日乗っていた電車だが豊郷の駅でおりるのはこれが初めてである。当時豊郷について知っていたことといえば伊藤忠兵衛の故郷であることと、豊郷病院という、田舎にしては近代的な病院があることくらいだった。

駅で案内マップを手に入れて、旧道を高宮の方へもどる。駅をでるとすぐに「犬上の君遺跡公園」をよこぎる。古代からこの土地を犬上君とよばれる豪族が支配していた。なかでも犬上御田鍬は、614年に遣隋使として、また630年には遣唐使として派遣された有能者であったという。ふるい土地柄であることを記した記念碑があった。

旧道に出てこの1、2年マスコミでも話題になった豊郷小学校までたどり着いた。阿自岐(あじき)神社までいくべきだったが、すこし遠い。阿自岐神社は名からもわかるように渡来人を祀る神社である。近江は国一帯に渡来人の足跡がのこされているが、中でも湖東に多い。

旧豊郷小学校 豊郷町 犬上郡 滋賀
旧豊郷小学校 豊郷町 犬上郡 滋賀昭和12年、伊藤忠兵衛商店(現在の商社「丸紅」)の専務だった古川鉄次郎氏の寄贈により、ヴォーリズが設計し、竹中工務店が施工、東洋一の小学校といわれた。

豊郷小学校は昭和12年に、丸紅の番頭だった古川鉄治郎の寄付によってボーリスが東洋一といわれた鉄筋コンクリートの校舎を建てたものである。新校舎の建設にあたり、取壊し派と保存派の対立は町長のリコール問題にまで発展した。かってはまぶしいような白亜の建物であったろう校舎も今は薄汚れをみせて、両翼を地上に休める老鳥をおもわせる寂しさを漂わせていた。

やりこの郷 豊郷 滋賀
やりこの郷 豊郷 滋賀

やりこの由来 安食(あじき)南には、古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らして頂くようお願いしたところ「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささりました。そ……

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やりこの由来 安食(あじき)南には、古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らして頂くようお願いしたところ「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と言われるようになったと思われます。今日、その大木の生えていたところが「矢り木」という地名になって伝わっており、はるか昔の名残をとどめています。 平成7年2月 安食南区

街道をへだてた田んぼのそばに弓矢を天に向けたモニュメントをみつけた。「やりこの郷」と書いた看板が興味をそそる。ここの地名が安食(あじき)で阿自岐とおなじだ。その神社にまつわる雨乞い伝承が伝わっている。阿自岐神社はぜひ見ておかねばならない。

八幡神社(那須城跡)石畑 豊郷町 犬上郡 滋賀
八幡神社(那須城跡)石畑 豊郷町 犬上郡 滋賀

私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民武大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都・・石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉2年)に創建した称名寺があります。 また、……

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私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民武大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都・・石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉2年)に創建した称名寺があります。 また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場(たてば)茶屋が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。

集落の家並みにはいるとバス停の場所に「一里塚の郷」の石標がたっている。もう少し先の交差点あたりに一里塚があったらしい。豊郷は中山道にあって、高宮宿と愛知川宿の間の宿だった。背後に見えるそれらしき盛土は演出だろう。そばにあるのは延応元年(1239)、京都の男山八幡宮から勧請したという八幡神社である。境内は那須与一の次男・石畠民武大輔宗信が築いた那須城の跡地であるらしい。

伊藤長兵衛家屋敷跡 豊郷町 犬上郡 滋賀
伊藤長兵衛家屋敷跡 豊郷町 犬上郡 滋賀

7代目(1868~1941)伊藤長兵衛翁の偉業 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の次男として生まれ、幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店に入り、22歳のとき、6代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年その次女やすと結婚、翌年7代目伊藤長兵衛を襲名した。そして先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。 翁……

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7代目(1868~1941)伊藤長兵衛翁の偉業 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の次男として生まれ、幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店に入り、22歳のとき、6代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年その次女やすと結婚、翌年7代目伊藤長兵衛を襲名した。そして先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。 翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条として企業家としても成功し、1925年自ら巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して豊郷病院を創設した篤志の人としても世の尊敬を集めた。この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、1997年に財団法人豊郷病院へ寄付されたものである。 財団法人豊郷病院 (注) 6代目伊藤長兵衛 の弟が初代伊藤忠兵衛。 紅忠(後の伊藤忠合名会社)を興す。 2代目伊藤忠兵衛は伊藤忠合名会社紅忠を伊藤忠商事と伊藤忠商店に分割して、初代伊藤忠商事社長に就任。 伊藤忠商店は伊藤長兵衛商店と合併して丸紅商店を設立。

静かなたたずまいの町並みを歩いていくと、豊郷を代表する近江商人伊藤家関係の史跡がつづいて登場する。まず初代丸紅社長となった第7代伊藤長兵衛家屋敷跡と彫られた顕彰碑が豊郷病院の駐車場の石垣台に建っている。昭和元年(1925年)、彼は多額の資金と敷地を寄付して「豊郷病院」を創設した。鉄筋コンクリート造りで左右対称な両翼をもつ箱型建物は、その11年後に同社専務が建てた豊郷小学校の建物を小ぶりにしたよう相似形になっていて、親子と思うほど似ている。

伊藤忠兵衛記念館 豊郷町 犬上郡 滋賀
伊藤忠兵衛記念館 豊郷町 犬上郡 滋賀

伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代および二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、”近江商人”忠兵衛の……

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伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代および二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、”近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重子夫人の活躍を偲ぶことができます。 以下略

次に見えるのが黒塀に見越しの松を配した伊藤忠兵衛の生家である。塀の内側には白壁土蔵が垣間見える。屋敷自体は切妻屋根で豪商の実家としては簡素なたたずまいにだ。ここに生まれた2代目伊藤忠兵衛は初代伊藤忠商事社長に就任した。初代伊藤忠兵衛は6代伊藤長兵衛の弟で、伊藤長兵衛家の分家にあたる。

又十屋敷・豊会館 豊郷町下枝 犬上郡 滋賀
又十屋敷・豊会館 豊郷町下枝 犬上郡 滋賀

当地は日吉神社文書に依る中世の枝村商人の発祥地である。文書による又三郎なる者、広く美濃紙元売の商人としてあり、記録ある又十家もその系統の商人として、江戸中期 藤野喜兵衛 喜昌は若くして北海道松前に渡り漁場を開き、廻船業者として活躍。苗字帯刀の近江商人としての誠実は信用を博しこの礎を築いた。天保7年(1836)の天変地異は、稀代の大凶作にて大飢饉が起こり餓死するにいたるものであった為に、二代藤野四郎……

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当地は日吉神社文書に依る中世の枝村商人の発祥地である。文書による又三郎なる者、広く美濃紙元売の商人としてあり、記録ある又十家もその系統の商人として、江戸中期 藤野喜兵衛 喜昌は若くして北海道松前に渡り漁場を開き、廻船業者として活躍。苗字帯刀の近江商人としての誠実は信用を博しこの礎を築いた。天保7年(1836)の天変地異は、稀代の大凶作にて大飢饉が起こり餓死するにいたるものであった為に、二代藤野四郎兵衛良久は莫大なる金員を投じ窮民救済の一策として、当地の寺院「千樹寺」の建立と当家の大改築工事を行った。(中略) 現在は当時約20棟近くあった家、土蔵も長屋門文庫蔵本家だけになった。以下略 同館パンフレットより

その先右手に「又十屋敷」の大きな看板が見えてくる。屋敷の前に一里塚跡の石柱が置かれている。ここにもう一人の近江商人が住んでいた。名は藤野喜兵衛、屋号を又十という。藤野喜兵衛は、江戸時代から明治時代にかけて、蝦夷に渡り根室を中心とする道東・千島の漁場を開拓して財をなした。藤野家は昭和の初めに北海道に移住し、残された屋敷が「会豊館」として維持されている。休館日に拘わらず、前庭を掃除していた管理人のおじさんが館内を案内してくれた。晩年の藤野氏は彦根藩主井伊直弼と懇意にしており、直弼は藤野邸に宿泊している。玄関をあがると正面に、直弼から拝領したという鎧が飾ってあった。裏には「松前庭園」とよばれている立派な庭がある。この屋敷は天保飢饉のとき窮民救済の一策として二代目四郎兵衛が建てたもので「飢饉普請」といわれるものである。自分の屋敷のほかに、近くの日吉山千樹寺の改築も行った。

江州音頭発祥の地 千樹寺 豊郷 犬上郡 滋賀
江州音頭発祥の地 千樹寺 豊郷 犬上郡 滋賀

観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源 天正14年(1586)今から405年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄11年5月7日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦7月17日であった。当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦。波羅僧羯諦。等経文の二、三句を節面白く歌いつつ、……

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観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源 天正14年(1586)今から405年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄11年5月7日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦7月17日であった。当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦。波羅僧羯諦。等経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り躍らせ、来観の群集もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。その後、毎年7月17日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。 弘化3年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて躍らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年8月17日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。 竣工 平成3年10月 (写真 上:2006年 下:1966年)

千樹寺の参道入口に「江州音頭発祥の地」という石碑が建っている。じつはちょうど40年に中山道を歩いたときにこの場所に立っており、はがれた土蔵と舗装工事中の参道の写真が残っていた。江州音頭の起源は天正14年(1586)に遡る。観音堂再建を祝う余興に、地元の老若男女が経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて円陣を作り躍ったのがはじまりと伝えられる。弘化3年にも火災にあって、このとき藤野四郎兵衛は飢餓普請として漢音堂を改築した。

道は宇曽川にかかり歌詰橋を渡って愛知川宿に向かう。

愛知川

歌詰橋・宇曽川(遠景に伊吹山) 愛知川町 愛知郡 滋賀
歌詰橋・宇曽川(遠景に伊吹山) 愛知川町 愛知郡 滋賀

宇曽川 宇曽川は、泰川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみではなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は丸太のまま上流から流したという。このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。 歌詰橋 宇曽川に架けられていたこの橋は、かっては十数本の長い丸太棒を土台にし……

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宇曽川 宇曽川は、泰川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみではなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は丸太のまま上流から流したという。このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。 歌詰橋 宇曽川に架けられていたこの橋は、かっては十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗りこめた土橋であった。天慶3年(940)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上がるために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。

川をわたって堤防を右に入ったところの案内板に、「宇曽川」と「歌詰橋」という二つの一風変わった名前の由来が書かれている。「宇曽」は舟運の「運槽」から来たといい、「歌詰」は平将門伝説からきていて、藤原秀郷を追っかけてきた将門の首が、秀郷に歌一首を問われ、歌に詰まった将門の首は橋上に落ちたという。怨念の出会いでも形に雅をわすれない日本という美しい国の伝説だ。

山塚古墳 愛知川町 愛知郡 滋賀
山塚古墳 愛知川町 愛知郡 滋賀当古墳は小字名に見られるように、古くから平将門の伝説があり、将門塚とも呼ばれています。高さ4.3m、直径25mで愛知川町最大のものです。本格的な発掘調査によるものではないですが、試掘調査により5世紀末~6世紀始めに築造された円墳です。埋葬施設の調査は実施していなく、その内容は不明です。古墳の地形には、盗掘の跡がなく貴重な副葬品が埋葬されているに違いありません。 平成2年3月 愛知川町教育委員会
民家 山塚古墳付近 愛知川町 愛知郡 滋賀
民家 山塚古墳付近 愛知川町 愛知郡 滋賀

まもなく、街道をすこし東にはずれたところに「山塚古墳」がある。「将門塚」とも呼ばれているようで、歌に詰まって恥をかいた将門の首塚かもしれない。発掘調査はしていないが、掘れば貴重な副葬品がでてくるだろう、とのんびりしたものだ。絵本からぬき出てきたようなかわいい萱葺きの農家が道をへだてて建っている。周囲の瓦葺家屋がなければ古代住居の復元かとも錯覚しそうな、古墳の隣家にふさわしい佇まいであった。

愛知川宿にはいる手前は沓掛地区で、ここは五個荘小幡、八日市保内、蒲生石塔とともに四本商人とよばれた中世近江商人の拠点であった。四本商人は八風・千草両街道を通って鈴鹿山脈を越え伊勢と通商していたため、山越商人ともよばれている。

ポケットパーク 愛知川町 愛知郡 滋賀
ポケットパーク 愛知川町 愛知郡 滋賀
近江商人亭 愛知川中宿 愛知郡 滋賀
近江商人亭 愛知川中宿 愛知郡 滋賀初代・田中源治(1791-1864)は、現在の秦荘町の生まれ。愛知川に移住したのち、蚊帳の行商を行い、京都、江戸へと展開。現在の(株)田源の基礎をつくった。

街道は中宿にはいり、木戸を模ったアーチの下を通っていくと左の角地に広大な敷地を板塀でめぐらせた屋敷が見えてくる。「近江商人亭」という料亭だが、東京日本橋に本社をかまえる婦人服卸商社、「田源」の創始者田中源治の本宅である。通りはいよいよ町の中心にはいってきたようだ。交差点にポケットパークがあり、「高宮宿2里、武佐宿2里半」と刻んだ道標と、歌川広重の木曽街道にある「恵智川」「むちんはし」の絵が記念碑に描かれている。愛知川宿は、愛知川の渡し場として設けられた東山道時代からの宿駅で、江戸時代に中山道の66番目の宿場町として整備された。

竹平楼(たけへいろう) 愛知川町 愛知郡 滋賀
竹平楼(たけへいろう) 愛知川町 愛知郡 滋賀
八幡神社 愛知川 愛知郡 滋賀
八幡神社 愛知川 愛知郡 滋賀滋賀県指定有形文化財 八幡神社本殿 一間社流造、 正面軒唐破風付、檜皮葺 江戸時代 八幡神社の草創は明らかではないが、隣接する宝満寺の位置に居館があった愛智氏の守護神として勧進したと伝える。本殿は、社蔵の文書によると、寛文11年(1671)頃、大阪の大工により建立されたと伝え、様式や手法からも17世紀後期の建築と考えられる。 以下略 平成8年3月 滋賀県教育委員会

八幡神社あたりが宿場の中心地だったのだろう。参道入口の常夜燈の脇に、高札場跡の石標があるほか、付近に脇本陣、問屋があった跡をしめす標石柱が建ててある。いずれも最近整備されたようで新しいものだ。洋館の日本生命の建物が本陣跡だ。本陣は弘世(ひろせ)家が勤めた。7代助三郎は「日本生命」の創始者である。歩をすすめていくと旅籠然とした建物があらわれた。屋根つき提灯には堂々とした墨字で「恵智川宿 旅籠竹の子屋平八」と書かれている。宝暦8年(1758)創業の元旅籠「竹の子屋」である。明治天皇が気に入って二度も立ち寄った。記念の明治天皇御聖蹟碑が立つ。4代目平八のとき「鯉のあめ煮」でしられる料理旅館として「竹平(たけへい)楼」に改称、現在7代目に受け継がれている。

近江鉄道愛知川鉄橋 愛知川町 愛知郡 滋賀
近江鉄道愛知川鉄橋 愛知川町 愛知郡 滋賀

街道はこの先で不飲川(のまずがわ)をわたり南口をでて国道に合流する。不飲川も将門伝説と関係があるらしく、川の水を飲まないのはなんでも水源の池で首を洗ったためといわれている。

常夜燈 御幸橋袂 愛知川町 愛知郡 滋賀
常夜燈 御幸橋袂 愛知川町 愛知郡 滋賀

この常夜燈は、高さ4.75メートル(積石部分は除く)、笠部の幅が2メートルもあり中山道にふさわしいものです。 これには、弘化3(1846)年2月の銘があり、愛知川・五箇庄の寄進者・世話方・石工などの名が多く見え、彼らの努力によって建立されたものです。また、現在のものは、以前にあったものを立て直したものと考えられています。 愛知川の川越えは、この常夜燈や「むちん橋」により安全に川を越えることができる……

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この常夜燈は、高さ4.75メートル(積石部分は除く)、笠部の幅が2メートルもあり中山道にふさわしいものです。 これには、弘化3(1846)年2月の銘があり、愛知川・五箇庄の寄進者・世話方・石工などの名が多く見え、彼らの努力によって建立されたものです。また、現在のものは、以前にあったものを立て直したものと考えられています。 愛知川の川越えは、この常夜燈や「むちん橋」により安全に川を越えることができるようになりました。愛知川町教育委員会

国道8号の合流点に一里塚跡碑がたっている。国道をしばらくすすむと愛知川に架かる御幸橋に着く。「無賃橋」といわれた昔の木橋は少し上流、近江鉄道の鉄橋あたりに架かっていた。高宮宿の南、犬上川に架かる橋も「むちん橋」といわれており、地元有力者による出資で建設された無料の橋につけられる愛称のようだ。

「御幸橋」は明治11年天皇巡幸にあたり車馬が通れるように架け替えられたのを記念して名付けられた。橋の袂に大きな常夜灯が建っている。対岸、五個荘小幡の堤防にも常夜灯があり、それらを結んで「無賃橋」があった。

草むらに座って一両編成の電車が八日市方面から橋を渡ってくるのを待つ。

(2008年5月)

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