堺田-笹森-向町(最上)-鵜杉-野(長沢)-舟形→(羽州街道)
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

旧道は国道47号を横切って再び山道に続いている。足元をよくみると落葉の下に石畳が敷かれていた。石の古さからみて遊歩道で整備されたものだろう。
国道に沿って北上し、まもなく合流する。道向かいに八幡神社があった。
一重寄棟造りの茅葺で桁行24.755m、梁間9.999m、平面積269。18㎡(約81坪)の大型民家である。山形県東北部に、江戸時代から見られた広間型民家の代表例として、重要文化財に指定された最上町の建造物。この住宅は創建後、300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であった。昭和46~48年の解体復元工事によって、創……
一重寄棟造りの茅葺で桁行24.755m、梁間9.999m、平面積269。18㎡(約81坪)の大型民家である。山形県東北部に、江戸時代から見られた広間型民家の代表例として、重要文化財に指定された最上町の建造物。この住宅は創建後、300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であった。昭和46~48年の解体復元工事によって、創建当時そのままの姿が現在に伝えられている。住宅内部は床の間、いりの座敷、中座敷、ご座敷、納戸の5部屋と水屋、土間(内庭)、ろうじ及び内馬屋に分かれている。建物の大きさ、3つもある出入り口、畳敷きで天井のある床の間といりの座敷、3つの内馬屋と広い内庭などが、庄屋役の外に問屋と旅宿の機能も兼ね、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史上の多様な役割を物語っている。通称の「封人の家」とは、国境を守る役人の家という意味であるが、この名称は俳聖松尾芭蕉の『おくの細道』に由来する。元禄2年(1689)5月15日(太陽暦7月1日)、門人の曽良を伴い仙台領を抜けた芭蕉は、その夕暮れ時に堺田村にたどりついた。芭蕉師弟は、梅雨時の風雨のために、その晩から2泊3日にわたって「封人の家」に逗留した。そのゆかりの宿がこの住宅である。芭蕉は「封人の家」に滞在中、「 蚤虱馬の尿する枕もと 」という句を詠んだ。この句には、この住宅の構造そのものと、かって馬産地であった最上町の歴史的地域性が読み込まれている。 昭和61年10月 山形県最上町
堺田集落の家並みがはじまるとすぐ右手に大きな茅葺の建物がどっしりと構えていた。堺田村の庄屋、有路(ありじ)家の住宅である。有路家は藩境の守役(封人)を勤める傍ら宿場の問屋も兼ねていた。
岩出山を発って尿前の関でいじめられ、難所中山越えでヘトヘトになって国境を越えてきた芭蕉と曽良はここに宿を頼んで2泊し体力の回復を図ったのであった。

料金を払って中へ入る。愛想のよい管理人のおじさんが早速お茶を出してくれた。ほどなくご婦人の一団が囲炉裏に仲間入りしたのを機に座を離れて屋内を一周する。昭和46年に解体・復元されたという大型農家の建物はつかわれている木材が太くて黒光りした光沢を放ち、重厚な趣のある建築物である。芭蕉は中座敷に泊めてもらったらしい。馬屋にはよくできた張子の馬が首を出していて、一瞬ドキッとした。最上は馬の産地である。
ござ敷きにもどるとますます座が盛り上がっている。記念写真を一枚撮らせてもらって出た。

家の西側に句碑がある。
蚤虱馬の尿する枕もと
馬屋と座敷は十分に離れていたはずだが、強烈な臭いは馬が目の前にいると錯覚するほどだった。芭蕉一流の誇張である。

道向かいの駐車スペースに分水嶺の案内標識を見つけた。親水公園風に整備されていて、溝のような細い水流をたどって駅の方向に向っていくと、三叉路にぶつかって水が左右に分かれていく。右側の方(日本海側)が勢いがよい。これで分水嶺なのだ。平地にある分水嶺として珍しがられ密かな人気を集めている。
堺田を離れ笹森にむかう。途中、左に弓状の旧道が残っている。枯れ草の中ののどかな道である。

笹森の集落入り口に目を見張るような大きな屋根の民家が建っている。小豆色の屋根は赤瓦か、瓦形の銅板なのか、よくわからないが、元は見事な茅葺屋根であったに違いない。玄関によってみると「立春大吉」と書いた札で表札を隠しているように見えた。

笹森は国道から山側の高台にかけて集落がある。高台の一角に国分大明神があり、その隣りに笹森の口留番所があった。番所跡の標識などは見当たらない。跡地は畑になっていて、その後ろを枯葉マークをつけた陸羽東線が走っている。

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行うところで、村人が武器を所持して自宅でその任に当たっていた。笹森では佐藤家が世襲で番人を勤めたという。街道沿いの大きな家は佐藤家ではあるまいか。

集落の中ほどで旧道は南に折れて明神川を渡る。渡ったところに追分標識があって、「笹森口留番所跡・堺田」方面と、「新屋・明神」方面の二方向を示している。「新屋・明神」方面は明神川に沿って田圃の中を通っていく。雑草が深いあぜ道をしばらくいくと道は二手にわかれる。川沿いの道は前方で通行不能状態のようで、左の道を選んで進む。

曲折しながら小さな水路にかかる橋をわたり、右折左折するうち明神橋がみえるところまできた。
新屋聖観音は、古くから新屋の村人の守り神として祀られてきた観音様である。ご神体の聖観音像は像高約40cm、一本造りの立像で、微笑をたたえ優しい面相をしているものの、全体的に粗削りで素朴な彫り物である。作者と製作年はともに不明であるが、そう古い彫り物ではない。新屋聖観音の由来について、小国開闢の伝説に登場する主税介(田沢内匠介の弟)が祀ったとの言い伝えもあるが、疑問である。「新庄領村鑑」の記載とか堂……
新屋聖観音は、古くから新屋の村人の守り神として祀られてきた観音様である。ご神体の聖観音像は像高約40cm、一本造りの立像で、微笑をたたえ優しい面相をしているものの、全体的に粗削りで素朴な彫り物である。作者と製作年はともに不明であるが、そう古い彫り物ではない。新屋聖観音の由来について、小国開闢の伝説に登場する主税介(田沢内匠介の弟)が祀ったとの言い伝えもあるが、疑問である。「新庄領村鑑」の記載とか堂宇内に納められた文化元年(1804)の「覚」(木札)から見て、この観音様が祀られたのは宝暦年間(1751~1764)から文化元年までの間と言えそうである。文化期からの新屋聖観音の信仰を伝えるものとして、文化10年(1813)奉納の絵馬、文政年間(1818~1830)建立の石灯籠などがある。新屋の人々は、長い間、この聖観音を「金神様」として崇めてきたという。昭和51年以後、新屋に人家はなくなったが、その後も例年、8月18日に新屋にゆかりある人びとによって祭りがたてられ、聖観音信仰が絶えることなく続いている。また、観音堂内には小国西国三十三観音の第24番、11面観音も合祀されており、三十三観音参り、あるいは7観音参りの信者も少なくない。 昭和61年10月 山形県最上町
ちょっとした十字路があって右は国道につながっている。その十字路を左にたどっていくと杉木立の下に新屋聖観音があった。新屋の守り神として信仰されていたが、今となっては新屋の集落自体がなくなって、廃村の象徴となってしまった。この前を通っているのが旧道なのか定かではない。明神集落へ通じているのであればこれが奥の細道なのかも知れない。
他方、最上をめざす出羽街道としては方向違いであって、国道47号に戻る道を探らねばならない。結局川沿いの道にもどって明神橋の南詰めあたりで県道28号に出た。岩出山以来つきあってきた奥の細道とはここで別れる。

国道47号にもどり、赤倉温泉を通り過ぎる。富沢集落に奥羽三大馬頭観音の一つ富山馬頭観音がある。奥羽三大馬頭観音とは一関市舞草、宮城県東和町鱒淵そして山形県最上町富山を呼ぶ。桜並木参道をすすんで仁王門をくぐる。金網に防護された仁王が多いなかで、この山門は解放的であった。鍵のかかっていない引戸をあけると、彩色豊かな金剛像がたち、足元には沢山の絵馬が奉納されている。最上は小国馬の産地として知られている。絵馬に混じって鳴子こけしがいくつか置かれているのが微笑ましい。津軽と南部の間ではこういう光景は期待できないであろう。

国道47号最上町本城交差点で右の旧道にはいる。陸羽東線の高架手前に「十日町」と書かれた標識が立っている。最上には向町に加え十日町にも継立があったとする資料もある。十日町は本城とよばれる小国城下の中心地であった。現在の最上町の中心である向町はその地名が示唆するように絹出川の向こう側にある。

十日町バス停の背後に巨大な石碑が二つ並んでいる。招魂碑と湯殿山碑である。「湯殿山」の文字は深く彫られていて、「山」の字穴に三本のローソクが入り込んでいた。二つの巨碑にはさまれて小さな馬頭観音碑がいじけた姿で立っている。

「本城→」の標識に従って路地をたどっていくと左手に小国城跡の案内板があった。残念ながら下半分が破れていて肝心な城跡へのアクセス経路がわからない。下部には「…小国城は、戦国時代細川氏の岩部館であった。天正8年に小国日向守の居城となり42年間城下町をはじめ小国郷(最上町)を統治した城山である。ここから山頂に登れば小国郷が眺望できる。」との説明書きがある。後ろの山に向って進んでいったが、畑に遮られて山に入っていく道を見つけることができなかった。

バス通りにもどって先にすすむと道は左に曲がって絹出川にむかう。曲がり角に右にのびている道があって、入っていくと果たせるかな十日町公民館から城跡に通じる道が整備されていた。

山道を上がっていくと、途中に山の神があり、その先に「本城」「山頂」の案内標識があった。「本城」方面に行くと先ほどの畑の何処かに下りるのだろう。
山頂が本丸跡だが、堀や土塁などの遺構は残っていない。説明書きにあったように、北方角に最上町が一望できた。最上は山に囲まれた美しい盆地である。

山を下りて絹出橋を渡る。県道63号を横切ると旧向町宿場跡である。宿場街はまっすぐに延びて1kmほどで国道47号に合流する。町並みに昔の面影はないが、宿場の入り口に当る場所に一軒、趣きある家があった。飛鳥姓で、もとは旅籠であったらしい。

最上は小国馬産の地であることは何度も触れた。向町宿はその馬市で賑わったところである。裏街道より一筋東の通りにある旧農協が馬市跡である。この辺りには役場のほか最上町の公共施設が集まっていて、商店街の街道筋よりも雰囲気のある通りになっている。

「この通りが旧街道でしょうか」と尋ねると
「いいえ。これは裏通りです。表通りが街道です」と、明快な答えが返ってきた。
国道に合流して北に進む。


若宮で国道の南側を並走する旧道にはいる。道の両側に水が流れる落ちついた集落である。国道と合流する手前右手に享保16年の観音碑、安政元年の水神社碑などの古碑群がある。

国道で白川を渡り清水町を通り抜け陸羽東線の南側に移るとまもなく次の宿駅鵜杉に至る。鵜杉の宿場は現国道沿いにあって、旧道はない。「鵜杉」バス停と、そのすぐ北にある「鵜杉駅」が鵜杉集落のわずかな手がかりで、うっかりすれば集落そのものを見逃してしまうほどにめだたない存在である。とはいえ、JRの駅があるからにはそれなりの由緒があるところなのだろう。

駅近くの踏切りで「奥の細道湯けむりライン」の電車を間近に見ることができた。正面に「奥の細道」と書かれた二枚の葉が老人ドライバー用の枯葉マークに似ていた。

鵜杉を出て街道は山間部にはいっていく。小国川が西から南に大きく流れを変えるに伴って陸羽東線と国道も方向転換する。川の駅もがみで休憩した。小国川にヤナが設けられたこぎれいな休憩所である。

旅を再開するとまもなく水が落ちる音がしてくる。川の向こう岸に二筋の水量豊かな滝が落ちている。しばらく自然の景色に見とれていたが、後でそれは発電所だったと知った。美しい発電所だ。
観光温泉リゾート「お湯トピア瀬見」を目指した道づくり 本事業は、建設省のマイロード事業に認定され、瀬見温泉の由来「義経伝説」を道路部・橋梁部の構造物にデザイン化して取り入れ、地域の財産とシンボルとして後世まで残し、観光地瀬見温泉及び地域の活性化を推し進めるものである。 瀬見温泉の由来 文治3年(1187年)春、兄頼朝の追討の手を逃れ、奥州平泉に落ち延びる義経主従13名は、亀割山中で一夜を過ごした。……
観光温泉リゾート「お湯トピア瀬見」を目指した道づくり 本事業は、建設省のマイロード事業に認定され、瀬見温泉の由来「義経伝説」を道路部・橋梁部の構造物にデザイン化して取り入れ、地域の財産とシンボルとして後世まで残し、観光地瀬見温泉及び地域の活性化を推し進めるものである。 瀬見温泉の由来 文治3年(1187年)春、兄頼朝の追討の手を逃れ、奥州平泉に落ち延びる義経主従13名は、亀割山中で一夜を過ごした。ところが、予てより身重の北の方が急に産気づき、 で亀若丸を出産した。その若君の産湯を求め、弁慶が沢を下り瀬を渡って、 に辿り着き、大岩を薙刀で突き破るとふつふつと熱い湯が噴き出したという。若君の産湯としたこの湯こそが、瀬見温泉の開湯と今に伝えられている。 数日この地で滞在し、北の方の回復を待って、一行は再び平泉へと向かったのだという。 鎌倉時代の英雄、義経と弁慶のロマンに満ちた瀬見温泉は、江戸時代には新庄領内随一の温泉場として賑わい、また歴代の新庄藩主の入湯場ともなっていた。明治以降も瀬見温泉は今日までずっと、義経・弁慶ゆかりの温泉として人々に愛され、親しまれ続けている。 和子めでて瀬見わたりゆく武者のかげ 最上町
瀬見温泉駅の南に温泉街に通じる道がついている。街道の道筋として、このまま国道をいくのがよいのか、温泉街を通るのが旧道なのか知らないまま、左に入った。道端に公園が設けられていて瀬見温泉案内板がある。義経伝説の色濃いところであることが強調されている。
まずこの道は「義経通り」である。出羽街道ではないようだ。小国川に架けられた橋を義経大橋といい、欄干の上で義経が横笛を吹いている。
このほか公園には弁慶の硯石や弁慶の投げ松があったようだが見落とした。

瀬見温泉は温泉宿が10軒余の小さな温泉である。亀割山で産気づいた義経の北の方のために産湯を求めて川におりた弁慶が偶然浅瀬で湯煙をあげる岩場を発見した。薙刀で岩を砕くと湯が出てきた。今も川の岸辺に湯煙を漂わせる薬研湯(やげんのゆ)がある。露天風呂にはなっていないようで客の姿はみえない。

温泉街の入り口に湯前神社、斉藤茂吉の歌碑などがある。温泉街は古い木造の宿が並び鄙びた情緒を漂わせている。200mほどで宿街をすぎて、川の対岸にわたり国道を左折する。

すぐ右手に亀割子安観音がある。祠の前に杉の大木がたちはだかり、その脇に男根石と女陰石が置かれていた。子安観音を盛りたてている。
北の方が出産したのはこの奥の院だそうだ。立て札に1.6kmもあると記されている。追っかけるには遠すぎる。
国道47号を南下する。大堀をすぎると舟形町である。終点が射程内に入ってきた。


国道が松原橋に向う手前で出羽街道は国道と分かれて県道56号に入る。老の沢川をわたると野集落である。県道の左側に二本の道がのびている。ひとつは県道と並行にでている道で、他の一つは県道からほぼ直角にでて杉並木の中に入っていく。
県道に沿った道が旧道だろうと入っていくと脚立の最上部に腰掛けて柿の採取に余念がないおじさんに出会った。
「みごとな柿の木ですね」
「渋柿なんだよ。渋を抜いて食べる」
「ところでこの道は旧街道ですか?」
「そう。でも駕籠をかついて通った道はあの杉林の中を通っているやつだ。鍵の手になってそこに出てくる」

ほぼ直角に出ていた道が江戸時代からの道ということだ。後戻りして杉並木をいく。林はすぐに出て、左前方にすばらしい里山の風景が広がっていた。中央の細い緑の筋が老の沢川だろう。

四季それぞれに手前の田圃と背景の山の色彩が移り変わるのを想像した。どれをとっても絵になるセッティングである。怖しげな山でないのがよい。山菜を採りに、栗を拾いに、あるいは松茸がみつかるかも知れない…・
「いつでもおいで」と、そんなやさしい表情をしている。

おじさんが言った通り集落に入って、右折し大きな農家のまえで県道に出て左折した。おじさんはもういなかった。
鵜杉で気付いたことだが、庭木の一本一本に板を円錐形に結わえた雪除けを施している。手間のかかる仕事だが、ほれほどに雪の深さを思わせた。県道沿いの家並みは何の趣もない。

すぐ先が幅集落で、ここも左に旧道が延びている。はいったすぐ左手に地蔵堂がある。川流れ地蔵という。詳しい由緒は見当たらないが、川を流れてきた地蔵を拾い上げて祀ったというのが一般的な川流れ地蔵の話である。

次ぎの大谷(だいや)で左手すこし奥に鳥居とお御堂らしいものが見えた。ちかづいてみると庚申塔と馬頭観音が並んでいた。

街道は左に山、右は小国川にはさまれた狭い場所を通る。道と川が接するところに観光ヤナ場があった。川原に下りて無人のヤナ場まで行ってみた。ここも清流と田園と山並みが絵になる風景である。
山形は観光地と銘打っていなくてもさりげなく極上の景色を秘めた奥ゆかしさがある。

長沢の大きな集落を県道右側の旧道で通り抜ける。一ノ関には最初に左に入って県道を斜めに横切った後一ノ関信号で再び斜めに渡って一直線の道にはいる。

舟形小学校の前を通り過ぎいよいよ舟形の町内に入る。寺の脇で曲尺手に曲がり中央公民館の辻で羽州街道の旧道と合流する。出羽街道中山越の終点である。

舟形はいずれ羽州街道として訪れる。すこしだけ旧街道を南に歩いてみた。すぐ左手にある「みなさまの店 本陣商店」が本陣跡である。

さらに駅前をみて現在の羽州街道である国道13号にも出てみた。舟形町役場前・舟形十字路が三つの異なるバス乗り場になっている。町営バスと山交バスのほかに東京八重洲通り行きの夜行バスがあるのには驚いた。なんでここから…と思ったが、ここからではなく新庄からだった。最上川下り用であろう。
今回の旅で初めて山形県を見た。最上地方という県東北部の一部をみただけだが、もう私は山形県が好きになった。
完(2010年11月)