宿場 3次 全長 19km 歩き終えています

伊勢別街道

関-楠原-椋本-窪田-津(江戸橋) (伊勢街道に合流)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

東海道関宿から分れて、江戸橋で伊勢参宮街道に合流する街道で、江戸時代には「いせみち」「参宮道」などといわれ、「伊勢別街道」と言われるようになったのは明治10年(1877)以降のことといわれている。この伊勢別街道という名は、四日市市から伊勢市にいたる街道を「伊勢街道」と名付けたのに対し、その街道の支道という意味で名付けられた。江戸時代には、楠原・椋本・窪田に宿揚が設けられ、おもに京都方面からの伊勢参宮道者の道であった。

これは伊勢別街道の終点近く、一身田小学校西側の十字路付近の旧道沿いに立つ案内板の記述である。街道の総距離は4里26町、ちょうど一日の街道歩きにふさわしい。

JR関西本線 関駅 関町 亀山市 三重県
JR関西本線 関駅 関町 亀山市 三重県

JR関西本線で関駅に降り立つ。二両編成のかわいらしい電車があった。ディーゼル機関車だ。前回は亀山から東海道を歩いてきたので駅前の風景は初めてである。大きな観光案内板が立っていた。「壬申の乱」の舞台、「斎王群行の道」、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」など多くの史実に恵まれた宿場である。

東海道関宿 関町 亀山市 三重県
東海道関宿 関町 亀山市 三重県

関宿の歴史 関は緑豊かな鈴鹿国定公園の山麓に位置し古代日本三関の一つ「鈴鹿の関」のおかれていたところで古今東西交通の要衝である。古くは「壬申の乱」の舞台、「斎王群行の道」、一休禅師による「関地蔵開眼話」、さらには、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」など街道にまつわる話が実に多い。 江戸時代には、東海道五十三次屈指の宿駅として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わった。天保14年(184……

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関宿の歴史 関は緑豊かな鈴鹿国定公園の山麓に位置し古代日本三関の一つ「鈴鹿の関」のおかれていたところで古今東西交通の要衝である。古くは「壬申の乱」の舞台、「斎王群行の道」、一休禅師による「関地蔵開眼話」、さらには、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」など街道にまつわる話が実に多い。 江戸時代には、東海道五十三次屈指の宿駅として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わった。天保14年(1843)の記録には本陣、脇本陣4軒、旅籠42軒、酒食店99軒となっている。関宿は今なお、東西追分の間(1.8km)に古い町家が軒をつらね、宿場町の景観をのこしている。

東海道まで少し歩き坂道を上がり、東にむかって東の追分まで早朝の旧宿場街をあるく。人気のない道を一台の車が音を立てずに走っていった。

東の追分(伊勢別街道分岐点) 関町木崎 亀山市 三重県
東の追分(伊勢別街道分岐点) 関町木崎 亀山市 三重県

関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また……

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関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。 ここ東の追分は 伊勢別街道 の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮まで15里(60キロメートル)と刻まれています。

追分に伊勢神宮一の鳥居が立つ。内宮宇治橋の南詰めの鳥居が遷宮の時に移設されたものである。京都や奈良方面からの参宮者はここで伊勢別街道にはいって津で伊勢街道に出た。他方、江戸や名古屋方面からの参宮客は七里の渡しを経て桑名で上陸する。そこにも伊勢神宮一の鳥居がある。

鳥居脇の塚上に一里塚跡と常夜燈が立つ。他にも「是より外宮十五里」「右さんぐうみち 左江戸橋」と刻まれた道標が2基あったそうだが、見当たらない。ちょうど庭掃きに出てきた隣のおばさんに聞いてみた。「みなさん、(道標がないと)いわれます。前はあったのですけどね」と、気のない返事だった。(その後の調べで関中学の北隣の関文化交流センターの駐車場にあるらしい)

勧進橋 関町木崎 亀山市 三重県
勧進橋 関町木崎 亀山市 三重県

鳥居をくぐって坂道を下る。風景は一変して車の往来が激しい県道10号となる。関西本線のガードをくぐり、勧進橋鈴鹿川を渡る。橋は勧進による浄財で架けられた。

御厩の松 古厩 関町 亀山市 三重県
御厩の松 古厩 関町 亀山市 三重県

大化の改新(645年)の後、諸国の道路が整備され駅制が設けられた。駅制は早馬の制度で、「うまやの制」と呼ばれたのでる。ここ古厩は、集落にその名を残すように 古代の駅家跡 で、垂仁天皇の御代、皇太神宮遷宮のおり、この大井神社に神馬を駐められたと古記録にある。県の天然記念物に指定されていた先代の松は、樹齢470年を数え、幹まわり6m、高さ15mに達し、そびえ立つ姿は人々に仰がれ親しまれた。その老松も松……

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大化の改新(645年)の後、諸国の道路が整備され駅制が設けられた。駅制は早馬の制度で、「うまやの制」と呼ばれたのでる。ここ古厩は、集落にその名を残すように 古代の駅家跡 で、垂仁天皇の御代、皇太神宮遷宮のおり、この大井神社に神馬を駐められたと古記録にある。県の天然記念物に指定されていた先代の松は、樹齢470年を数え、幹まわり6m、高さ15mに達し、そびえ立つ姿は人々に仰がれ親しまれた。その老松も松喰虫に侵され、懸命の防除も及ばず昭和58年伐採の止むなきに至った。かかる由緒ある地を後世に伝えんがため、昭和59年1月に第二世御厩の松を植栽した。先代の如く成長を願うものである。なおこの由緒書の基板は、先代の松の幹の一部である。 すずかねのはゆま駅(うまや)のつつみ井の 水を賜へな妹か直手よ 万葉集 昭和59年 亀山市教育委員会

まもなく、県道と分かれて旧道が左に分岐する。その分岐点付近の地名を古厩(ふるまや)といい、古代鈴鹿駅があった。分岐点の角地には石垣の上に駅跡標柱、大井神社跡碑、昭和58年までそびえ立っていた松の巨木の幹、常夜燈などが集められている。

都追美井(つつみい) 古厩 関町 亀山市 三重県
都追美井(つつみい) 古厩 関町 亀山市 三重県

延喜式内社に比定される大井神社の御神体の井戸である。大井神社は、明治42年に熊野皇大神社や笛吹大神社、宇佐八幡宮と合祀され、関神社となっている。ここ関町古厩(ふるまや)は、その地名から古代駅制の馬家(交通・通信に利用する早馬を乗り継ぐための施設)があったとされ、古代以降、参宮路として、また鈴鹿川渡河点として交通史上重要な地である。都追美井の名称は万葉集巻14の駅家に関する次の歌が由来とされる。 鈴……

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延喜式内社に比定される大井神社の御神体の井戸である。大井神社は、明治42年に熊野皇大神社や笛吹大神社、宇佐八幡宮と合祀され、関神社となっている。ここ関町古厩(ふるまや)は、その地名から古代駅制の馬家(交通・通信に利用する早馬を乗り継ぐための施設)があったとされ、古代以降、参宮路として、また鈴鹿川渡河点として交通史上重要な地である。都追美井の名称は万葉集巻14の駅家に関する次の歌が由来とされる。 鈴が音の駅家(はゆまうまや)のつつみ 井の水を賜へな妹が直手(ただて)よ 詠み人知らず (早馬のいる駅の井戸の清水を頂戴したいものだ。乙女の手からじかに。) 平成21年3月 亀山市教育委員会

分岐点手前の左手には都追美井(つつみい)がある。かって駅跡にあった大井神社の神体で、万葉集にも歌われている井戸で、古代から旅人の喉を潤わせてきた。

家並み 古厩 関町 亀山市 三重県
家並み 古厩 関町 亀山市 三重県

古厩の集落は小さいながら連子格子のある家がみられ、風情ある家並みが残されている。集落内の二股を右にとって坂を登り県道10号にもどって名阪国道のガードをくぐると亀山市関町から津市芸濃町に移る。

屋根にシマウマの像を飾った趣味の悪いラブホテルが景観を損ねている。

楠原

庚申塚 楠原 芸濃町 津市 三重県
庚申塚 楠原 芸濃町 津市 三重県三面六忿怒刑の青面金剛石像。台座に三猿。

まもなく左手の大きな木立の中に庚申塚と呼ばれている塚があって、三面六忿怒刑の青面金剛石像を祀る祠がある。

中ノ川・童子谷の城跡 楠原 芸濃町 津市 三重県
中ノ川・童子谷の城跡 楠原 芸濃町 津市 三重県

道の反対側に移ると中ノ川が見下ろせる。対岸の竹が生い茂る段丘には応仁期の童子谷城跡があるという。

民家 楠原 芸濃町 津市 三重県
民家 楠原 芸濃町 津市 三重県

その先の二股で右の旧道にはいると、最初の宿場楠原である。蔵や連子格子が美しいすばらしい家並みが続いている。

旧楠原宿町並み 楠原 芸濃町 津市 三重県
旧楠原宿町並み 楠原 芸濃町 津市 三重県

楠原公民館のあたりが問屋垣内と呼ばれる宿場の中心だった。道にでていた女性に問屋や本陣のことをきくと、隣り合わせの二軒の家を教えてくれた。坂博家が問屋で、東隣の山田家宅は庄屋であったと。切妻平入りの家が圧倒的な家並みの中で、新しい山田宅は妻入りで屋根はわずかに丸みをおびた起(ムク)り屋根になっている。

鍵の手 楠原 芸濃町 津市 三重県
鍵の手 楠原 芸濃町 津市 三重県

鍵の手におれるところに小さな道標があった。「是より山下道」と読める。側面には「右 さんぐう道」とでもあるのかと覗き込んだが、何もなさそうだった。

民家 楠原 芸濃町 津市 三重県
民家 楠原 芸濃町 津市 三重県ツバメ糞受け

まだ朝早くて人通りのない街道に一人の女性が入り口を掃除していた。玄関口に新聞を敷いた器が置いてある。どこかでこのような供え物を見たことがあった。婦人に聞くと、ニヤリと微笑んで軒を指差した。見上げるとツバメの巣があってあたりは泥と糞で白く汚れている。器は巣の真下に置かれていた。ツバメの糞受けはその家だけでなく、楠原宿を通り抜けるまで各所で見られた。巣を取り除くでなく、毎日糞を掃除し続けている。

民家 楠原 芸濃町 津市 三重県
民家 楠原 芸濃町 津市 三重県

街道は緩やかに坂を下っていく。家並みのつきるあたり、右手に大きな蔵をもち低いレンガ煙突がのぞく家があった。総黒板張りの重厚なたたずまいである。

旧道 楠原 芸濃町 津市 三重県
旧道 楠原 芸濃町 津市 三重県

道は県道に出て中ノ川に架かる新玉橋を渡る。右側に旧道の跡が残っていた。

家並み 林 芸濃町 津市 三重県
家並み 林 芸濃町 津市 三重県

橋をわたってまもなく左の山道に入っていく。急な坂を上り杉林を抜けると、林の集落である。ここも静かな集落で人も車も通ってこない。注連縄が飾ってある民家があり、伊勢地方の風習はここにも及んでいる。

左手のわずかな空き地に庚申堂の小祠と石仏が縦に並んでいた。

芸濃町資料館 林 芸濃町 津市 三重県
芸濃町資料館 林 芸濃町 津市 三重県

道は集落の中央あたりで左に大きくカーブして芸濃町資料館前の十字路で右折する。直進するのは蛭谷街道とよばれ県道648号で伊勢街道白子宿に至る。

角に建つ下見板張りの洋風二階建て資料館は旧明村(明村は忍田・楠原・中縄・楠平尾・林・萩原・福徳の大字からなっていた)役場で、大正5年(1916)に建てられた。角地を利用して南西角に入口を設置し石の門柱を配し、建物も同じ角に正面玄関を設け、ポーチを張り出して二階はバルコニーとしている。角地の特性をいかした粋な建築物である。

旧家(駒田宅) 林 芸濃町 津市 三重県
旧家(駒田宅) 林 芸濃町 津市 三重県

右におれて歩を進めると更に板張りの門塀が見事な整然とした家並みが続いていく。

その中でも右手に長い塀と長屋門を配した駒田家住宅は圧巻であった。

道標常夜灯 林 芸濃町 津市 三重県
道標常夜灯 林 芸濃町 津市 三重県「右 さんぐう道」「左り 京道」「安永五丙申年(1776)」

県道を渡るところに道標をかねた常夜燈が立っていて、「右 さんぐう道」「左り 京道」「安永五丙申年」と刻まれている。もとは芸濃町資料館付近にあったものがここに移された。

椋本

家並 中縄 芸濃町 津市 三重県
家並 中縄 芸濃町 津市 三重県

県道をわたると中縄集落である。この集落も板張りの民家長屋門をもった大きな家を見ることができ、落ち着いた家並みである。

横山池 中縄 芸濃町 津市 三重県
横山池 中縄 芸濃町 津市 三重県横山池は文久2年(1862)この地の駒越五良八翁が二万両の私財を投じて着工し慶応2年(1866)に竣工したもの。この池により、この辺り二百町歩の灌漑が可能になった。

集落を抜けると、横山池の堤にぶつかる。高い堤に駆け上がる。大きな池が満々と水を湛えて、街道が堤の下を一直線に伸びている。池の水が潤す田畑がかなり低く見え、天井池かと思わせるほどである。文久2年(1862)駒越五良八が私財を投じて着工し慶応2年(1866)に竣工した。安濃川上流より導水し、このあたり200町歩の灌漑が可能になった。

石碑 椋本 芸濃町 津市 三重県
石碑 椋本 芸濃町 津市 三重県左: 仁王経碑(文化2年(1805)) 右: 駒越翁彰功碑(昭和9年)

椋本宿場の手前あたり、堤の下に駒越翁彰功碑がある。

その横に文化2年(1805)の自然石の仁王経塔が立つ。町に侵入しようとする病魔を退散させようというもので、『仁王経』上下2巻の経文を一字一石に写し、塔の下に埋蔵した。

ちょうど宿場の出入り口にあたる2ヶ所に建てられ、西にあるこの塔が「上の塔」、宿場の東入り口に「下の塔」がある。

鍵の手・問屋跡 椋本 芸濃町 津市 三重県
鍵の手・問屋跡 椋本 芸濃町 津市 三重県

街道は左に折れて椋本宿場街に入っていく。表札には駒田姓が多く見かけられる。椋本宿は西から西町、中町、横町、新町からなっていて、それぞれが鍵の手で区切られている。楠原宿に比べれば家並みは新しい。西町から中町に移る最初の鍵の手あたりに高札場と問屋があった。

左折した右手の井筒屋は元旅籠であった。

家並 椋本 芸濃町 津市 三重県
家並 椋本 芸濃町 津市 三重県

千本格子の美を競うように二棟の古い中二階建物が並んでいる。

右手巴屋製菓舗脇の細い路地入り口に「霊樹大椋 従是南二丁」と記された石標が立っている。国の天然記念物で樹齢1500年以上というムクノキで高さ18mの巨木があり、椋本の地名はこの霊樹からきた。

左手の広い空き地に石積みの一部が残されている。ここに本陣駒越五貞氏の大屋敷があった。明治天皇が宿泊したという。であるなら普通「明治天皇御宿泊所跡」の石碑があるものだが、見当たらなかった。

道標 椋本 芸濃町 津市 三重県
道標 椋本 芸濃町 津市 三重県

この道は、東海道と伊勢街道を結ぶ伊勢別街道にあたります。ちょうど中町から横町へ曲がる角に道標と木製標柱がみられます。目然石の道標には「左さんくう道」と大書されており、年紀はありませんが江戸時代後期のものと思われます。右側面には、小さく「右榊原」とあります。木製標柱(道路里程標)には、「津市元標へ三里三拾三丁目八間」 「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」 「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されています。……

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この道は、東海道と伊勢街道を結ぶ伊勢別街道にあたります。ちょうど中町から横町へ曲がる角に道標と木製標柱がみられます。目然石の道標には「左さんくう道」と大書されており、年紀はありませんが江戸時代後期のものと思われます。右側面には、小さく「右榊原」とあります。木製標柱(道路里程標)には、「津市元標へ三里三拾三丁目八間」 「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」 「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されています。これは、明治時代に道路の起点、終点、分岐点、などに知事の定める位置に設置されました。この地には、明治43年(1910)7月に建立されました。 現在の木製標柱は二代目)

その先で道は直角に左折し、横町に入る。角に自然石の道標と里程標が立っている。道標は江戸後期のもので、自然石に「左さんくう道」「右榊原」と刻まれている。里程標は明治43年の道路里程標を復元したもの。木柱に「津市元標へ三里三拾三丁目八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。

地図を見ていると横町の北西に「駒五町」という地名をみつけた。駒越家に由来する町名だと思われる。

町並み 椋本 芸濃町 津市 三重県
町並み 椋本 芸濃町 津市 三重県

街道はその先で右に折れる。大型の鍵の手である。左手の電気工事店はいかにも旅籠風の建物で伊勢地方の風習である注連縄を飾っている。

角屋 椋本 芸濃町 津市 三重県
角屋 椋本 芸濃町 津市 三重県

そのはす向かいには現役の角屋旅館がある。こちらの注連縄は一段と大きく立派なものだ。入り口軒下にはずらりと伊勢講の講札が並び掛けられている。暖簾、駒寄せ、連子格子を備えた二階建て建物で、江戸中期に建てられた。間口が5間と大きく、庶民向けの旅籠だった。

延命地蔵堂 椋本 芸濃町 津市 三重県
延命地蔵堂 椋本 芸濃町 津市 三重県正徳5年(1715)建立 文政4年(1821)

左手に正徳5年(1715)建立の延命地蔵堂があり、その脇に文政4年(1821)の手水鉢がある。

仁王経 椋本 芸濃町 津市 三重県
仁王経 椋本 芸濃町 津市 三重県

宿場の家並みが終わりに近づいた辺り左手に「仁王経」碑がある。疾病除けに宿場の東西出入り口に立てられた。横山池のほとりにあった西の「上の塔」に対し、東の塔は「下の塔」と呼ばれている。

窪田

つつじ畑 高野尾町 芸濃町 津市 三重県
つつじ畑 高野尾町 芸濃町 津市 三重県

旧街道は県道10号と合流して現代的な沿道風景の中を黙々と進み、伊勢自動車道をくぐりぬける。

二股に差し掛かり左の旧道に入るあたり、右手につつじ畑が広がっていた。低いつつじの苗木がまるで野菜畑のように広がっている。花木の苗木もこれほどに大量栽培できるとは驚きだった。

家並み 高野尾町 津市 三重県
家並み 高野尾町 津市 三重県
民家 高野尾町 津市 三重県
民家 高野尾町 津市 三重県

高野尾とよばれるこの地域はかっては広大な原野で街道沿いには松並木が続いていたという。造園農家が多く見られるのは原野を開拓した歴史を反映したものであろうか。家並みにはそれぞれ意匠をこらした生垣が築かれこの地の特性を見るようである。

その中にあって瓦屋根を置いた板塀と門を備えた端正な旧家があった。

旧道に入ってまもなく、高野尾クリニックの向かいに小さな地蔵が祀られている。

銭掛松 高野尾町 芸濃町 津市 三重県
銭掛松 高野尾町 芸濃町 津市 三重県昔、病気になった参宮道者が、旅半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ、松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲い掛かったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じくらいのご利益があるという民話が残る。

2km近くに及ぶ長い高野尾集落が尽きて県道と合流する手前右手に、小さな広場がありお堂の前に文政5年(1822)の常夜燈やいくつかの石碑が集まっている。その中の一つには「ぜに可け松」と刻まれている。昔、病気になった参宮道者が旅半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じくらいのご利益があるという。

野崎地蔵堂 大里睦合町 津市 三重県
野崎地蔵堂 大里睦合町 津市 三重県
常夜灯 大里睦合町 津市 三重県
常夜灯 大里睦合町 津市 三重県

高野尾町から大里睦合町にはいって県道10号に合流するが500mほどで再び左の旧道に戻る。西睦合集会所前の三叉路左手に野崎地蔵堂と二基の常夜燈がある。常夜燈の方向に直進する道がいかにも旧道にみえるが、ここを右折して中の川を渡っていくのが旧街道である。

青木地蔵 大里窪田町 津市 三重県
青木地蔵 大里窪田町 津市 三重県

街道は中の川に架かる向沖橋を渡って大里窪田町に入った。窪田宿の入り口にそびえ立つ大木の袂に青木地蔵が祀られている。地蔵は豊里公民館から街道沿いに移されてきた。

右手田んぼを隔てて一本の道が竹藪に消えている。この坂は汐見坂と呼ばれ、親鸞聖人がここから一身田の浜を見たという伝承がある。

旧窪田宿町並み 大里窪田町 津市 三重県
旧窪田宿町並み 大里窪田町 津市 三重県

宿場街は一直線の広い車道で家並みはかならずしも密でないが、それでも所々に連子格子の古い家が残っており、旧道の面影を偲ぶことができる。

窪田宿本陣・問屋・庄屋(国府家) 大里窪田町 津市 三重県
窪田宿本陣・問屋・庄屋(国府家) 大里窪田町 津市 三重県

歩道橋のある三叉路を越えたあたりの右手に本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねた国府家の家が残り、玄関に「明治天皇窪田御小休所」の石柱が立っている。中二階平入りの大きな家に門と塀の一部が残されていて、格式の高さをうかがわせる。

大里窪田町出口交差点で国道23号中勢バイパスを渡り、JR紀勢本線の踏み切り手前の丁字路を右に折れていく。

窪田常夜燈 大里窪田町 津市 三重県
窪田常夜燈 大里窪田町 津市 三重県

この常夜灯は、高さ約8.6mもあり市内最大です。文化14年(1817)につくられたもので、伊勢別街道(江戸橋ー関)の宿場町であった窪田の東端の近江屋・大和屋といった旅籠(宿屋)の近くにつくられました。燈籠の竿には「江州」の文字がきざまれ、これは近江国(滋賀県)の商人が伊勢神営へ寄進したことを示しています。台座には琵琶湖の東の地域を表わしたと思われる波模様がきざまれ、その下には、ぎっしりと千余をこえ……

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この常夜灯は、高さ約8.6mもあり市内最大です。文化14年(1817)につくられたもので、伊勢別街道(江戸橋ー関)の宿場町であった窪田の東端の近江屋・大和屋といった旅籠(宿屋)の近くにつくられました。燈籠の竿には「江州」の文字がきざまれ、これは近江国(滋賀県)の商人が伊勢神営へ寄進したことを示しています。台座には琵琶湖の東の地域を表わしたと思われる波模様がきざまれ、その下には、ぎっしりと千余をこえる寄進者の名前がきざまれ、蒲生郡・愛知郡・野州郡などの商人であったことがわかります。では、何故ここに建立したのでしょうか。言い伝えによりますと、近江から大勢の人で伊勢神宮へ寄進する際ここまで常夜燈を運んできましたが、苛車が壊れたり疲労などで困りはて、窪田の人々とも相談したところ、宿屋の近江屋の協力によりこの地に建立したと言われています。その後、この常夜燈は地震によって三回も倒れましたが、地元・関係者の協力で再建されました。 平成2年9月11日

窪田集落の家並みが尽きるあたりに大きな常夜燈が建っている。昔はこの付近に近江屋、大和屋といった旅籠があった。文化14年(1817)の建立で、八日市を中心とする蒲生・愛知・野州地域の近江商人が伊勢神営へ寄進したものである。高さ8.6mもある大きなもので近隣の屋根よりも高い。灯籠の竿の部分には大きく江州という文字が、また台座には琵琶湖を表わす波模様が刻まれていて、近江色がつよい。それがなぜここに建っているのかについては、にわかには信じがたいような話が伝わっている。どうやら旅籠近江屋が一役買っていたようである。

道はその先の二股を左にとって踏み切りを渡り、一身田の駅前に出る。旧道は先の二股を直進し線路の西側の細道を南下して、一身田小学校西端の交差点で現旧道につながっていたようである。今は線路の前後が消失している。

専修寺 一身田町 津市 三重県
専修寺 一身田町 津市 三重県

この寺は、もと栃木県二宮町高田にありました。親鸞聖人の関東地方教化によって生まれた門弟たちの中心道場として建てられた寺で今もそこに伽藍が残っていて、国の史跡に指定されています。 15世紀になって、第10代住職真慧上人という方が、東海・北陸・近畿の各地へ積極的な布教を行い、多くの末寺がでさたので、その中心寺院として一身田に建立きれたのがこの寺で、やがて教団の中心が関東からこちらへ移土され、ここが本山……

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この寺は、もと栃木県二宮町高田にありました。親鸞聖人の関東地方教化によって生まれた門弟たちの中心道場として建てられた寺で今もそこに伽藍が残っていて、国の史跡に指定されています。 15世紀になって、第10代住職真慧上人という方が、東海・北陸・近畿の各地へ積極的な布教を行い、多くの末寺がでさたので、その中心寺院として一身田に建立きれたのがこの寺で、やがて教団の中心が関東からこちらへ移土され、ここが本山となりました。 伽藍は創建以来2度の火災に遭い、現在は3度目の再建で御影堂I(本尊は親鸞聖人座像)と如来堂(本尊は阿弥陀如来立像)とが国指定の重要文化財、山門・唐門・御廟が県指定文化財で、堂の背後にある庭園は県指定名勝になっています。また宝物館には国宝三姑和讃を始め、多数の親鸞聖人真筆が保存されています。一身田商工振興会 左: 右: 前に

一身田の駅前通りをすすむと県道55号に出る。ここを右折するのが旧街道筋であるが、まっすぐ行って浄土真宗高田派の本山専修寺を見ていくことにした。

専修寺如来堂 一身田町 津市 三重県
専修寺如来堂 一身田町 津市 三重県

御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像を安置している。「如来堂御建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まったといい、資金不足のために工事は30年近くを要し、寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事が行われた。 (中略)屋根は二重になっているが、二階はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしており、正面には唐破風の向拝が付いている。上の屋根……

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御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像を安置している。「如来堂御建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まったといい、資金不足のために工事は30年近くを要し、寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事が行われた。 (中略)屋根は二重になっているが、二階はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしており、正面には唐破風の向拝が付いている。上の屋根の軒裏は「扇垂木」といって、垂木が扇を広げたように放射状に作られている。以下略 津市教育委員会

突き当たりに専修寺境内や周辺の案内板が立っている。一身田は環濠の町として知られるように、専修寺は東西500m、南北450mとほぼ正方形の形で濠と南側を流れている毛無川によって囲まれている。濠内を寺内町とよび一向宗の門徒自治体をなしていた。

専修寺御影堂 一身田町 津市 三重県
専修寺御影堂 一身田町 津市 三重県

専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の開祖親鸞聖人の坐像と歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので御影堂といわれる。正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主藤堂高次から土地の寄進を得て、境内地がそれまでの3倍の約3万坪に拡がった。その境内地の中央に万治2年(1659)から建立が始められ、寛文6年(1666)に完成した。間口約42m、奥行約33mという巨大な建築で、……

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専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の開祖親鸞聖人の坐像と歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので御影堂といわれる。正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主藤堂高次から土地の寄進を得て、境内地がそれまでの3倍の約3万坪に拡がった。その境内地の中央に万治2年(1659)から建立が始められ、寛文6年(1666)に完成した。間口約42m、奥行約33mという巨大な建築で、国指定重要文化財建造物のなかでは5番目の大きさであり、木造建造物では県内最大である。屋根瓦は約19万枚使われ、中の畳も内陣の板の間をのぞいて725畳も敷かれている。外観は和様という日本的で重厚な建築様式になっているが、内部は金欄巻きの柱、極彩色の天井、欄間の牡丹の彫刻など豪快さが目立つ。 本体と向拝をつなぐ虹梁上.の構造が長野の善光寺本堂などと同じ構造なのも特徴の1つである。大工の主棟梁は江戸坂本三左衛門であったと伝えられているが、この人物は江戸幕府の御用大工だったらしく、藤堂藩を介して専修寺御影堂の建設に加わったと思われる。また脇棟梁のひとり森万右衛門は一身田の人で、その後幕府作事方の一員として活躍したことも知られている。 津市教育委員会

安楽橋をわたると広い寺町通りが一直線にのびていて左手の本山に向き合って右手には末寺が並んでいる。唐門をくぐって境内にはいると総本山の風格を表わすように広々とした大伽藍が展開していた。高田派の総本山はもともと栃木県真岡市高田にあったが15世紀に関西に移ってきたものである。

専修寺山門 一身田町 津市 三重県
専修寺山門 一身田町 津市 三重県

如来堂、御影堂、二基の銅燈籠をみて山門から出る。

一筋南の通りは向拝(ごはい)前通りと呼ばれる。お寺に向かって門前で拝するという意である。

下村四郎氏宅(旅籠) 一身田町 津市 三重県
下村四郎氏宅(旅籠) 一身田町 津市 三重県屋号を伊賀屋といい、この建物の建てられた時期は不明であるが、幕末までに(各時代に対応して改造されている)建てられたと考えられる。近隣にも同時期の建物が殆ど無くなった現在、旧態を示す遺構として見逃せない。 一身田寺内町祭り実行委員会

正面に元旅籠伊賀屋の建物が残っている。二階の欄干が一階の屋根とともにかすかに波打っているのが手作りの味を見せて面白い。

向拝前(ごはいまえ)通り 一身田町 津市 三重県
向拝前(ごはいまえ)通り 一身田町 津市 三重県向こうの専修寺を拝むということで向拝前と名づけられた。

通りには金物屋、雑貨屋、和菓子屋、それに仏壇屋が多く線香の香りが漂ってくる。うだつを上げ軒には大垂を付け連子格子造りの古い家も見ることができる。まるで京都の路地を歩く感じである。

高札場跡と道標 一身田町 津市 三重県
高札場跡と道標 一身田町 津市 三重県ここは寺内町の交通の要衝なので、為政者からの通達を人々に周知する高札が建てられる場所でした。また、火の見櫓も立っていて、火事の際に半鐘を打ち鳴らしました。いまも天保8年(1837)に作られた石の道標が立っていて、昔の名残をとどめています。

突き当たりの丁字路角が高札場跡で、天保8年(1837)の道標には「右さんくう道」「左御堂并京道」「右江戸みち」と刻まれている。ここには火の見櫓も建っていたという。

黒門跡 一身田町 津市 三重県
黒門跡 一身田町 津市 三重県ここは寺内町一身田の正面出入口で石橋のたもとに、番小屋と門があり、門は明六つ(午前6時)に開かれ、暮六つ(午後6時)には閉じられて、夜は人を通さず、町の治安を守る役目をしていました。門は黒色に塗られていたので俗に「黒門」と言われていました。

右に折れると毛無川に朱塗りの常盤橋が架かっている。ここに寺内町とその外(地下)を区切る黒門があった。午後6時から翌朝6時までは門が閉ざされ、人の出入りができなかった。

橋向通 一身田町 津市 三重県
橋向通 一身田町 津市 三重県京都から伊勢神宮への参宮道と、寺内一身田とをつなぐ道路沿いに発達した集落で、一身田の門前町となっています。万治元年(1658)以来、25軒の家が水茶屋として営業することを許されて、客にサービスさせていましたので、遊郭街として繁昌しました。滝沢馬琴は参宮旅行記の中で、 、松坂に次ぐ第3の遊郭と評しています。現在も妻入り造りの家の中に、その形をとどめている家があります。

黒門を出た通りを橋向といい、飯盛り女を抱えた茶屋(水茶屋)が軒を連ねる歓楽街を形成していた。

外濠 一身田 津市 三重県
外濠 一身田 津市 三重県この川は毛無川といい、この地域の灌漑用水路ですが、一身田寺内町ではこの川を利用して、町の外濠としました。北岸には有力な商家の土蔵が立ち並び、江戸時代の風情をよく残していますので、かっては時代劇映画のロケ地になったこともありました。

毛無川に沿って街道に戻る。川には寺内町とを結ぶ橋がいくつも架けられ、北岸には商家の土蔵が立ち並んでいたという。今でも情緒ある風景を残している。

桜門跡 一身田町 津市 三重県
桜門跡 一身田町 津市 三重県寺内町一身田の西端にあって、京都方面への出入口になっていた門。門の外に桜並木があったので、桜門と呼ばれていました。他の二つの門と同じように、明け六つ(午前6時)に開門し、暮六つに閉じられ、一身田の治安を守りました。

川沿いの道は小学校に突き当たり、寺内町にもどって西に向かって歩いていくと、赤い橋が架かる桜門跡にたどり着いた。ここが寺内町の西端にあたり京都方面からの入り口であった。そこから駅前の伊勢別街道にもどる。

環濠 一身田町 津市 三重県
環濠 一身田町 津市 三重県

一身田寺内町を特徴付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っているところは一身田のほかにはあまり例がない。元禄13年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。 一、東 長百九拾九間半(359m)、・・・・ 一、西 長貳百三十貳間半(418m)、・・・・ 一、北 長貳百四拾間(432m)、・・・・ 一、南 長貳百六十五……

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一身田寺内町を特徴付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っているところは一身田のほかにはあまり例がない。元禄13年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。 一、東 長百九拾九間半(359m)、・・・・ 一、西 長貳百三十貳間半(418m)、・・・・ 一、北 長貳百四拾間(432m)、・・・・ 一、南 長貳百六十五間半(478m)、・・・・ ここに記された濠の長さは、現在の環濠の規模と完全に一致する。ただ、濠幅はその後の改修等でかなり狭くなっている。また、濠に沿って1間ないし3間の土居(堤)があったようであるが、寛政4年(1792)の惣絵図では、専修寺境内の西側と北側で濠に面する部分だけに描かれている。この部分の土居(堤)は現在もその形跡を留めているが、他は早くから屋敷の中に取り込まれていったものと考えられる。 津市教育委員会

街道から見る毛無川は環濠集落の一端をよく表わしている。当時の濠幅は現在よりも広かったようで、また濠に沿って土塁が築かれていた。

左手に石鳥居の立つ小社を見て変則十字路に出る。駅の手前で別れた古道はここにつながっていた。旧街道は県道と分かれて左斜めに進んで行く。左手に伊勢別街道の案内板が立っている。内容は冒頭で引用した。

民家 一身田大古曽 津市 三重県
民家 一身田大古曽 津市 三重県

大古曽集落には新しい家に混じってうだつ、虫籠窓、連子格子造りの家や土蔵を持った古い家並みが散見される。左手に伊勢木綿の織布工場がある。この路地が橋向の歓楽街を通り抜けて黒門跡に通じる伊勢方面からの専修寺参道である。あるいは寺内町の道標にあったように、専修寺の参詣を終えて伊勢神宮に向かう「さんぐう道」であった。

民家 一身田中野 津市 三重県
民家 一身田中野 津市 三重県

伊勢鉄道の高架をくぐった先の変則五差路を右斜めに曲がっていく。

上浜町3丁目 津市 三重県
上浜町3丁目 津市 三重県

一身田中野集落の中で突き当たりを左折して中野の家並みを通り抜け、近鉄名古屋線踏切をわたり、江戸橋駅の東側を南下して上浜町の江戸橋交差点に到達する。

伊勢別街道終点 上浜町3丁目 津市 三重県
伊勢別街道終点 上浜町3丁目 津市 三重県常夜燈は安永6年(1777)建立。

伊勢街道で見てきたばかりの二棟続きの民家と合流点に建つ常夜燈に再会した。

(2012年6月)