美濃路 2区間のうち2番目

美濃路(2)

起-墨俣-大垣-垂井 →中山道に合流

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

萩原宿を出た先の変則交差点を右折したところ右手に婦人運動家市川房枝(1893~1981)の生家跡があった。菅直人はかって市川房枝の選挙スタッフだったことがある。海鼠壁の地さな土蔵が残っており市川姓の表札がうめこまれた門柱が立っている。説明文の最後を載せておく。

生前、房枝は自伝の中で八十年の生涯を振り返ったとき、第一にまぶたに思い浮かぶは母の面影であり、暴力に耐える母の姿であったと回想している。房枝の父藤九郎は子供には優しかった一方で、母たつには厳しかったという。母は「女に生まれた

のが因果だから」と房枝に語ったといわれる。幼い房枝の頭に『なぜ女は我慢しなければならないのか」という疑問が刻み込まれ、後の婦人運動の原点になったという。一宮市教育委員会

家々の表札を注意して歩をすすめると市川姓が非常に多いことに気付く。

孝子佐吾平遭難遺跡 明地新田橋上南 一宮市 愛知県
孝子佐吾平遭難遺跡 明地新田橋上南 一宮市 愛知県天保年間に江戸参勤のため萩原宿近くを通りかかった明石藩主松平斉宣の行列の前を暴れ馬を取り押さえようと横切った萩原宿の馬方佐吾平を先駆の武士が無礼打ちにした。佐吾平は吉藤村風張に生まれ家は貧しかったが盲目の老母によく仕え孝子の誉れが高かった。村人は佐吾平の死をいたみこの地に小祠を建て後世に伝えた。

信号交差点の先の右側空地に、小さな祠と「孝子佐吾平遭難遺跡」と書かれた大きな石碑が立っている。明石藩士によって理不尽な無礼打ちにあった孝子を弔うものだ。尾張藩は以後、明石藩が藩領を通行するときは夜間に葬式の装いをしてのみの往来を許した。当時でも正義が通った事例として貴重だ。

冨田一里塚 冨田立石 一宮市 愛知県
冨田一里塚 冨田立石 一宮市 愛知県国指定史跡 前略 東海道の宮(熱田)宿と中山道の垂井宿を結ぶ美濃路には、13ヶ所の一里塚が設置されていました。しかし今では街道の両側に原形をとどめるのはここ冨田一里塚のみとなりました。全国でも数少ない貴重な史跡のひとつです。 尾西市教育委員会

道なりに美濃路県道136号を進んでいくと道の両側に冨田の一里塚が残っている。美濃路で両塚が現存する唯一のものである。左は塚木とともに塚がきれいな姿をなしている。右は塚木が朽ちかけているのか、多くの支柱に支えられて痛々しい。石碑はこちらの方が立派だ。

駒塚道追分・庄屋中嶋邸 冨田立石 一宮市 愛知県
駒塚道追分・庄屋中嶋邸 冨田立石 一宮市 愛知県「左駒塚道 船渡 五丁」 美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡守が名古屋へ参勤するために駒塚道を開きました。この道標は美濃路との追分に慶応3年(1867)に建てられました。

一里塚の先左手丁字路に駒塚道標がある。尾張藩の家老石河佐渡守が名古屋へ参勤するために開いた道だそうだ。ここから左に折れて、駒塚の渡しで木曽川を渡り、羽島市の駒塚へ至る。

道向かいに長々とのびる塀は元庄屋の中嶋家屋敷である。瓦屋根の土塀に黒い腰板が張られ小さな格子の覗き窓が数箇所開けられている。格調高いたたずまいである。塀の先には小ぶりの門と土蔵がつながっていた。

脇本陣跡旧林家住宅 起下町 一宮市 愛知県
脇本陣跡旧林家住宅 起下町 一宮市 愛知県

尾西市歴史民俗資料館別館 明治24年(1891)の濃尾震災で、この場所にあった脇本陣林家の建物は倒壊しました。そののち建て直されたのがこの住宅で、江戸時代の伝統的な町屋建築の様式をよく伝えています。 江戸寄りの方に玄関入りロの潜り戸のついた大戸、正面一階の窓に取り付けられた連子格子、土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低いニ階など、幕末の起宿に見られた町屋の造りを偲ぶことができます。 また、外回り……

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尾西市歴史民俗資料館別館 明治24年(1891)の濃尾震災で、この場所にあった脇本陣林家の建物は倒壊しました。そののち建て直されたのがこの住宅で、江戸時代の伝統的な町屋建築の様式をよく伝えています。 江戸寄りの方に玄関入りロの潜り戸のついた大戸、正面一階の窓に取り付けられた連子格子、土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低いニ階など、幕末の起宿に見られた町屋の造りを偲ぶことができます。 また、外回りをすべてガラス戸で囲むなど、文明の建材も巧みに取り入れられています。 尾西市教育委員会

美濃路は木曽川に向って進み起宿に入る。すぐ左手に一宮市尾西歴史民族資料館がある。その別館が脇本陣林家住宅である。脇本陣林浅右衛門は船庄屋と村庄屋をも兼ね、三ヶ所の渡船場を管理する実力者であった。建物は明治時代に再建されたものだが、潜り戸・駒寄・格子窓など伝統的な町屋建築物である。裏の庭園も素晴らしい。

起渡船場跡・船橋跡 起堤町 一宮市 愛知県
起渡船場跡・船橋跡 起堤町 一宮市 愛知県

愛知県指定文化財 船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。木曽川の起の船橋河戸に架けられた船橋は、全長850m前後、船数は270艘を超える日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。 宝暦14年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなっ……

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愛知県指定文化財 船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。木曽川の起の船橋河戸に架けられた船橋は、全長850m前後、船数は270艘を超える日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。 宝暦14年(1764)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなったものの、『尾張名所図会』は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も、船橋の壮大さを記録している。一宮市教育委員会

すぐ右手に問屋場・本陣跡の石碑と国学者加藤磯足邸跡の碑が並んでいる。問屋と本陣職を兼ねていた加藤家11代当主加藤磯足は本居宣長の高弟であった。

街道から堤防に出る道に船橋跡碑が建っている。起宿は木曽川の渡船場として栄えた宿場町で、渡船場は、将軍・朝鮮通信使用の船橋河戸、伊勢用の宮河戸と常渡船場の三か所があった。

旧家 起堤町 一宮市 愛知県
旧家 起堤町 一宮市 愛知県

古い町屋が残る街道筋をすすむと右手に二つ目の渡船場、宮河戸跡がある。大藩の大名行列などで常渡船場が混雑するような場合の臨時渡船としても使用された。

丹羽家住宅 起堤町 一宮市 愛知県
丹羽家住宅 起堤町 一宮市 愛知県定渡船場に向う往還の角に、幕末に建てられた商家の旧湊屋文右衛門家の主屋があります。明治24年(1891)の濃尾地震は、起宿のほとんどを全壊させましたが、この家は残った数少ない建物です。

濃尾大橋のガードをくぐり堤町に出る。重厚な土蔵をもった旧家がみられ風情ある一角をなしている。十字路角の古い建物は旧湊屋文右衛門家の主屋、丹羽家住宅である。明治24年(1891)の濃尾地震にも耐えた。

起渡船場跡~定渡船場跡 起堤町 一宮市 愛知県
起渡船場跡~定渡船場跡 起堤町 一宮市 愛知県

美濃路の起渡船場には、上流から上・中・下の三ケ所の渡し場があり、定渡船場、宮河戸、船橋河戸と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。 江戸時代初期から、渡船場には定渡船二艘・置船一艘・御召渡船一艘の合計四艘が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理……

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美濃路の起渡船場には、上流から上・中・下の三ケ所の渡し場があり、定渡船場、宮河戸、船橋河戸と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。 江戸時代初期から、渡船場には定渡船二艘・置船一艘・御召渡船一艘の合計四艘が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理は起宿の船庄屋が行い、船頭二十人がいた。昭和31年(1956)に現在の濃尾大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。 一宮市教育委員会

十字路を左におれると堤防手前に金刀比羅社があり、脇に起渡船場跡の石柱がある。ここが三つ目の渡し場で、一般の旅人が利用した定渡船場跡である。ここから対岸の羽島市新井の燈明河戸に渡った。

人柱観音 起堤町 一宮市 愛知県
人柱観音 起堤町 一宮市 愛知県慶長の昔、起境の小信川口では、木曽川本流築堤が難工事であった。この時、小信中之坊門徒で篤信の念仏 行者、与三兵衛は報謝の一念により、慶長16(1611)年盆夏中の第4日自ら進んで渦巻く濁流に身をしずめて人柱となり、 ついに堤防堰止めを完成せしめた。 この菩提をとむらうため人柱与光観世音菩薩を建立した。

金刀比羅社の裏側に人柱観音とよばれる観音石像が立っている。慶長16年(1611)、木曽川本流築堤が難工事であった為、篤信の念仏行者与三兵衛は進んで渦巻く濁流に身をしずめて人柱となり、ついに堤防堰止めを完成せしめたという。 この菩提をとむらうため人柱与光観世音菩薩が建立された。

濃尾大橋・木曽川 起堤町 一宮市 愛知県
濃尾大橋・木曽川 起堤町 一宮市 愛知県

濃尾大橋で木曽川を渡り、愛知県尾張国から岐阜県美濃国に入る。

起渡船場石灯台 正木町新井 羽島市 岐阜県
起渡船場石灯台 正木町新井 羽島市 岐阜県

起渡船場(新井側)は尾張藩の御船手奉行の支配下におかれ、渡し船は常時二艘のほか旅人の多い時に備えて置船一艘、合わせて三艘常置されていた。 この石灯台は明和7年(1770年)に建てられたものである。伝承によれば竹鼻町伊勢屋の祖先の力士がある夜起町から木曽川を渡り新井の堤防へあがろうとしたが、道も方角もわからず大変困ってしまった。そこで堤防の上に石灯台並びにその油代として田2反(1990㎡)をも併せて……

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起渡船場(新井側)は尾張藩の御船手奉行の支配下におかれ、渡し船は常時二艘のほか旅人の多い時に備えて置船一艘、合わせて三艘常置されていた。 この石灯台は明和7年(1770年)に建てられたものである。伝承によれば竹鼻町伊勢屋の祖先の力士がある夜起町から木曽川を渡り新井の堤防へあがろうとしたが、道も方角もわからず大変困ってしまった。そこで堤防の上に石灯台並びにその油代として田2反(1990㎡)をも併せて寄付されたものです。碑文は京都伏見の人で荻生徂徠や太宰春台に学んだ竜公美(1714-92)のものである。 平成7年6月 羽島市教育委員会

岐阜羽島側の堤防上に「おこし川渡場」と刻まれた常夜燈が立っている。明和7年(1770)に竹鼻町伊勢屋の祖先の力士が建立したものと伝わる。柱には彦根藩の儒者、龍公美の漢詩が刻まれている。

美濃路旧道 正木町大浦 羽島市 岐阜県
美濃路旧道 正木町大浦 羽島市 岐阜県

石灯台から堤防中腹の道を500mあまり上流に向って歩いていくと林にぶつかり、東縁の道をそのまま進むと左斜めに下る道につながっている。これが旧道で、堤防を下りたところに金比羅宮がある。

大浦(三ツ屋)の道標 正木町大浦 羽島市 岐阜県
大浦(三ツ屋)の道標 正木町大浦 羽島市 岐阜県

大浦金比羅神社前から西に進んで、、美濃路は旧木曽川堤防上にあがっていた。 徳川将軍たちが通行した船橋河戸へは更に1kmほど南下しなければならないが、定渡船場からあがった大多数の旅人たちは、この地点で堤防にのぼり右折していた。そこにあった道標が、現在は旧堤防跡地に建つ個人宅の門前に、当時の美濃路を示して残されている。これは昔、江戸の御典医が旅の途中、起宿で倒れて亡くなり、その医師が世話になったお礼と……

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大浦金比羅神社前から西に進んで、、美濃路は旧木曽川堤防上にあがっていた。 徳川将軍たちが通行した船橋河戸へは更に1kmほど南下しなければならないが、定渡船場からあがった大多数の旅人たちは、この地点で堤防にのぼり右折していた。そこにあった道標が、現在は旧堤防跡地に建つ個人宅の門前に、当時の美濃路を示して残されている。これは昔、江戸の御典医が旅の途中、起宿で倒れて亡くなり、その医師が世話になったお礼として残していった路銀で、この辺りの医師達が相談して建てたものだと伝えられている。 碑文には「右いせみち、左おこし舟渡 寛延三庚午年(1750)、医師講中」と記されている。 羽島市 歴史・史跡検証委員会

旧道は小川を岩田橋で渡り突き当りを右折する。角の民家門前に『右いせみち 左おこし舟渡』と刻まれた道標がある。

街道は北に向って進む。少し行くとY字分岐点に小堂があって脇に道標があった。「右 起道 左 笠松 墨俣道」と読み取れる。別面には「御成婚記念」とあるから新しいものだろう。

墨俣

一里塚跡 正木町坂丸4丁目 羽島市 岐阜県
一里塚跡 正木町坂丸4丁目 羽島市 岐阜県

羽島市指定史跡 一里塚跡 羽島市正木町不破一色六六番地 一里塚は一里(四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、そこに榎の木を植えて旅行者の目じるしとし距離感を確かにさせ、大きな便利を与えた。 慶長9年(1604年)徳川統一政権の確立に伴って、東海道をはじめおもな街道におかれた。 当地に残る一里塚跡は中仙道と東海道を結ぶ美濃路にある。この道をはさんで東西に、たて・よこ9m、高さ3mの土盛りをしてあったが……

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羽島市指定史跡 一里塚跡 羽島市正木町不破一色六六番地 一里塚は一里(四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、そこに榎の木を植えて旅行者の目じるしとし距離感を確かにさせ、大きな便利を与えた。 慶長9年(1604年)徳川統一政権の確立に伴って、東海道をはじめおもな街道におかれた。 当地に残る一里塚跡は中仙道と東海道を結ぶ美濃路にある。この道をはさんで東西に、たて・よこ9m、高さ3mの土盛りをしてあったが現在はその跡のみである。 平成5年8月建之 羽島市教育委員会

県道165号を斜めに渡った先、正木小学校の敷地内に美濃路の説明板と一里塚跡の石碑が建っている。

及が橋石燈篭 正木町須賀 羽島市 岐阜県
及が橋石燈篭 正木町須賀 羽島市 岐阜県

足近川(現在・松枝排水路)は昭和初期まで、出水すると氾濫を繰り返すほどの水量があって、六月ころの出水時の通行は渡船により維持されていた。 美濃路が水没したときに利用するために、この先の南宿村(羽島市足近町南宿)に対し御用船2艘が江戸幕府から預託されていた。 ここにある石燈篭は、「 灯篭」(文政9〈1826〉年6月建立)と呼ばれ、出水時の渡河の安全を願い、今はなき輪中堤防上の松並木の間にあって、地元……

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足近川(現在・松枝排水路)は昭和初期まで、出水すると氾濫を繰り返すほどの水量があって、六月ころの出水時の通行は渡船により維持されていた。 美濃路が水没したときに利用するために、この先の南宿村(羽島市足近町南宿)に対し御用船2艘が江戸幕府から預託されていた。 ここにある石燈篭は、「 灯篭」(文政9〈1826〉年6月建立)と呼ばれ、出水時の渡河の安全を願い、今はなき輪中堤防上の松並木の間にあって、地元の人によって建てられていたものがここに移設されている。 この石灯篭には、正面に「金比羅山大権現」、側面に後藤機(頼山陽の高弟)の詩が刻まれている。 羽島市 歴史・史跡検証委員会

正木町小松西交差点手前左手に金毘羅山大権現と刻まれた及ヶ橋灯籠がある。文政9年(1779)の建立で、元は輪中堤防の松並木にあった。

及が橋 足近町市場 羽島市 岐阜県
及が橋 足近町市場 羽島市 岐阜県

中世には、これより1.6km上流に「鎌倉街道」が通っており、足近川の支流「及川」」に架けられていたのが「及が橋」である。 江戸時代になって街道が美濃路に付け変わり橋の位置が下流に変わっても、鎌倉街道の頃の名称が引き継がれていた。(江戸時代は、土橋で長さ16m、幅3.6m) 尾張地名考には「・・・及川は今はなし・・・北及(笠松町北及)の南にいま美濃街道と呼ぶ細道あり。その道に小さき土橋あり。これを逮……

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中世には、これより1.6km上流に「鎌倉街道」が通っており、足近川の支流「及川」」に架けられていたのが「及が橋」である。 江戸時代になって街道が美濃路に付け変わり橋の位置が下流に変わっても、鎌倉街道の頃の名称が引き継がれていた。(江戸時代は、土橋で長さ16m、幅3.6m) 尾張地名考には「・・・及川は今はなし・・・北及(笠松町北及)の南にいま美濃街道と呼ぶ細道あり。その道に小さき土橋あり。これを逮(および)の橋の古跡という。むかしの橋は出水に流れて失せたり。いま墨俣街道南宿村(足近町南宿)の丁場にかかる橋にこの名あり」と記されている。 鎌倉街道の及が橋が、出水により及川から押し流されてきてこの地で止まったことから、美濃路の橋を「及が橋」と呼ぶようになったとも伝えられている。 羽島市歴史・史跡検証委員

名鉄竹鼻線の踏切を渡った先の松枝排水路は旧足近川である。昔は水量が多くよく氾濫した為、江戸幕府は南宿村に対し渡し船二艘を与え、水が氾濫したときには渡船により美濃路を維持させた。水路をまたぐ小さな石橋が及が橋で、先にみた石燈篭はこの辺りにあったものか。なおこの橋より1.6kmほど上流に鎌倉街道が通っていた。

高札場跡・西方寺道標 足近町南宿 羽島市 岐阜県
高札場跡・西方寺道標 足近町南宿 羽島市 岐阜県親鸞聖人御旧跡 寺田山渋谷院西方寺 従是北六丁

旧道は変則4差路で県道165号と分かれ水谷商店の前を通って南宿集落をぬけていく。このあたりは起宿と墨俣宿のほぼ中間にあたり間宿として小休所が設けられていた。足近分団消防車庫の横に西方寺道標があり、「親鸞聖人御旧跡 寺田山渋谷院西方寺 従是北六丁」と刻まれている。西方寺は推古天皇時代の創建とされる法相宗の古刹で、鎌倉時代に親鸞がしばらく滞在したとき浄土真宗に改宗したと伝わる。

間の宿 足近町南宿 羽島市 岐阜県
間の宿 足近町南宿 羽島市 岐阜県

美濃路の史跡 この地は元町と呼ぱれ、南宿の枝村(現・足近町南宿)で、美濃路の起宿と墨俣宿のほぼ中間地点にあったため、間の宿(あいだの宿の意味)と呼ばれる小休所が繁盛していた。 この東北にあった南宿村・北宿村には、かつて鎌倉街道の宿駅があったが、その南西に美濃路が開かれると、ここに間の宿が置かれた。間の宿で休息できたのは、大名・貴人・高僧などで、駕籠屋などが一息入れた立場(小休所)は、一里塚と間の宿……

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美濃路の史跡 この地は元町と呼ぱれ、南宿の枝村(現・足近町南宿)で、美濃路の起宿と墨俣宿のほぼ中間地点にあったため、間の宿(あいだの宿の意味)と呼ばれる小休所が繁盛していた。 この東北にあった南宿村・北宿村には、かつて鎌倉街道の宿駅があったが、その南西に美濃路が開かれると、ここに間の宿が置かれた。間の宿で休息できたのは、大名・貴人・高僧などで、駕籠屋などが一息入れた立場(小休所)は、一里塚と間の宿の中間地点におかれた。 間の宿の休息所となっていた加藤家は、問口20間、奥行4間で、8畳の間が10間、6畳の間が3間、3畳の間が三間の構えで、今もここで休息した大名などの休息札が残されている。羽島市歴史・史跡検証委員会

道標の道向かいに建つ古い門構えの家が間の宿小休所だった加藤家である。間宿の説明板に「消えた美濃路」についての記載があった。ここから県道1号に出て、坂井集落までの約800mの旧道が土地改良事業で消失した。

美濃路旧道入口 足近町2丁目 羽島市 岐阜県
美濃路旧道入口 足近町2丁目 羽島市 岐阜県阿遅加神社参道入口から二筋目を右へ。 県道165号から右の旧道に入り坂井集落を抜ける。

県道1号を北に向かい足近町2丁目信号を左折して県道165号に戻る。

式内阿遅加神社標石と常夜燈が立つ参道入口を通過して二筋目の丁字路を右に入る。やや斜めに集落内に向う道が美濃路旧道である。坂井集落内の道角に立つ小学校集団登校集合場所の標識の傍で古びた時計が黙々と時を刻んでいた。坂井は江戸時代美濃路立場であった。

西方寺道標 足近町坂井 羽島市 岐阜県
西方寺道標 足近町坂井 羽島市 岐阜県

道はそのまま境川の堤防に上がる。境川はかっては木曽川の本流であり、美濃国と尾張国の国境を分ける川であった。堤防に上がったところの二股に西方寺道標がある。南宿にあったと同じもので「親鸞聖人御旧跡 従是東五丁」と刻まれている。ここは鎌倉街道と美濃路の合流点で、鎌倉街道であった堤防道をそのまま東にたどると阿遅加神社や西方寺に至る。

美濃路 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県
美濃路 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県

東への寄り道はやめて美濃路を西に向う。東境川橋の南袂、桜の木の下に石仏を祀った祠がうららかに座っている。

美濃路 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県
美濃路 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県美濃路街道 この道路は、昔の東海道と中山道を結ぶ脇街道の美濃路であります。街道の起こりは関ケ原合戦後、 徳川家康がこの道を通って帰ったことによるもので、宮(名古屋)から垂井までのこの街道は東海道の鈴鹿峠と中山道の木曽越えの難所をさけることができ、大名行列も通り交通はさかんでありました。東小熊西入口の一里塚跡や正木町新川堤防上の渡しの石燈台は、そのころの面影をとどめています。

堤防の道は近代になってからの造成道路で昔ながらの集落は堤の下につらなる例が多いなかで、この堤防道は両側を民家に囲まれてれっきとした旧街道の風景を残している。鎌倉街道以来の古道であるには境川の流れが古来から変わっていない必要がある。あるいは川筋と共に堤防上の街道もその道筋を変えていったのか、ともかく家並みと満開の桜並木に彩られた美濃路は車も通らない素晴らしい堤道である。

一里塚跡 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県
一里塚跡 小熊町東小熊 羽島市 岐阜県江戸時代に大名行列、朝鮮通信使旅人らが、往来した美濃路街道の一里ごとに設けられた塚と榎がこの地にあった。 平成11年3月吉日 地域おこし協議会 建立

右手東小熊霊苑に美濃路の案内板があり、この道が旧美濃路であることを示し、その査証としてすぐ先左手に西小熊の一里塚碑が設けられている。

小熊の渡し跡・境川 小熊町西小熊 羽島市 岐阜県
小熊の渡し跡・境川 小熊町西小熊 羽島市 岐阜県

小熊川の渡し 美濃路が脇往還として定められた頃、境川は「小熊川」と呼ばれ、この渡河には定渡船二艘に船頭7人があたり、大名や貴人の行列が通行する時は、船28艘を並べた長さ22間の船橋が架けられた。小熊川と並んで流れている「大江川」は、現在の道路橋より50m程下流に土橋が架かり、ここから茶屋新田(岐阜市)の集落を経て墨俣川(長良川)を渡船で越え、墨俣宿へと至っていた。 小熊川(境川)は、その昔「尾張川……

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小熊川の渡し 美濃路が脇往還として定められた頃、境川は「小熊川」と呼ばれ、この渡河には定渡船二艘に船頭7人があたり、大名や貴人の行列が通行する時は、船28艘を並べた長さ22間の船橋が架けられた。小熊川と並んで流れている「大江川」は、現在の道路橋より50m程下流に土橋が架かり、ここから茶屋新田(岐阜市)の集落を経て墨俣川(長良川)を渡船で越え、墨俣宿へと至っていた。 小熊川(境川)は、その昔「尾張川」と呼ばれ、美濃と尾張の国境の大河であった。 天正14年(1586)6月に発生した大洪水で、流れが現在の木曽川筋へ移動すると、この木曽川が美濃と尾張の国境となり、羽島市の全域が尾張国から美濃国へ編入された。 また、尾張川はこの頃より土地の名にちなんで「小熊川」と呼ばれるようになった。 羽島市歴史・史跡検証委員会

小熊高桑大橋南交差点で県道165号から153号に移る。秋葉神社を右手に見て境川堤防を進むと二股に指しかかり分かれ目に朽ちた祠と二基の道標があった。文字は判読しがたい。右の道をとって堤防を下ると境川橋南詰に出る。「小熊の渡し」の説明板が立っている。渡しは、現在の境川橋より50m程下流にあったといわれ、渡し船2艘に船頭7人があたり、大きな大名行列の際には船橋が架けられた。

長良川 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
長良川 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県

境川と大江川を一跨ぎして羽島市小熊町から岐阜市茶屋新田に入る。岐阜市はその西南端をかすめるだけで、長良大橋を渡ると大垣市墨俣町である。墨俣の渡しは橋から200mほど上流にあった。

墨俣橋をわたり堤防を200mほど歩いて墨俣渡し跡の地点に向う。左下は寺町で犀川堤防はかっての河端町である。ちょうど桜祭りの只中であった。当時長良川堤上には茶屋があって賑わっていたという。さしずめ桜祭りで堤の両側を占めている出店が現代版茶屋の風景だろうか。

長良川堤防 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
長良川堤防 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県

犀川橋西詰めが札の辻で高札場があった。ここは中町に当る。右手には美濃路、高札場跡の石碑、左手には墨俣本陣跡の碑がある。本陣は代々沢井家が勤めた。ここから旧道が堤防下の宿場町に延びている。墨俣宿は河端・中町・本町・西町・横町からなっていた。

墨俣城 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
墨俣城 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県

戦国の頃尾張の織田信長は美濃進出の足場とするため州俣に砦を築こうと企て佐久間信盛柴田勝家等に築城を命じたが相次ぎ失敗したので大いに怒った。時に木下藤吉郎秀吉進んでこれに当たる。永録9年9月蜂須賀小六等の野武士二三千人を率いて大小の長屋十棟櫓十棟塀二千間木柵五万本分人夫一千人を使い夜を日に次いで普請を急がせた。7日程にて大かた城もでき一夜の内に塀櫓を押し立て塗り立て完成したように見せかけたので攻撃中……

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戦国の頃尾張の織田信長は美濃進出の足場とするため州俣に砦を築こうと企て佐久間信盛柴田勝家等に築城を命じたが相次ぎ失敗したので大いに怒った。時に木下藤吉郎秀吉進んでこれに当たる。永録9年9月蜂須賀小六等の野武士二三千人を率いて大小の長屋十棟櫓十棟塀二千間木柵五万本分人夫一千人を使い夜を日に次いで普請を急がせた。7日程にて大かた城もでき一夜の内に塀櫓を押し立て塗り立て完成したように見せかけたので攻撃中の井の口の斎藤竜興の城兵八千余騎は驚いて敗走した。信長はその功を賞し秀吉を城主とした俗に一夜城という。秀吉出世の由緒ある城である。

堤防をさらに北に進んで墨俣一夜城址を訪ねる。木下藤吉郎が一夜で築いたという墨俣城は木造の砦で、現在の城はふるさと創生資金1億円を使って大垣城を模した天守と金のしゃちほこが創られ墨俣一夜城歴史資料館として公開したものである。

天守入口左手に秀吉の馬印である千成ヒョウタンが飾られている。川沿いに西行と阿佛尼の歌碑があった。

春くればうぐいすのまた 梅に来て みのなりはじめ 花のおわり

春がやってきてうぐいすが梅に止まり梅の実が成り始めて花が散って終わる頃に美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の境にある洲俣に来たという意味である。

かりの世のゆきゝとみるも はかなしや身をうき舟の浮き橋にして

阿佛尼が有名な旅日記「十六夜日記」の中で詠んだ歌である。 墨俣の渡舟場でまさきの綱にてかけとどめた非常に危ない舟を浮かべた浮橋をわたる心境をはかない浮世の旅路にかけて歌った。

脇本陣跡 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
脇本陣跡 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県脇本陣は、本陣のみにて大名などが泊まれない時に利用した休泊施設で脇本陣役は一時加野家が勤めた時以外は、美濃三人衆の一人北方城主安藤伊賀守守就の子孫にあたる安藤家が代々勤めた。 現在の建物は明治24年(1891)の濃尾大震災で崩壊した直後に脇本陣時代とほぼ同様の構造で再建されたものである。 脇本陣の門は明治末年に本正寺に移築され、現在は として残っている。
岐阜屋百貨店 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
岐阜屋百貨店 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県

札の辻にもどり本町へと西に向かう。古びた商店街は昭和の雰囲気を漂わせている。岐阜屋百貨店の隣に墨俣宿脇本陣池田屋がある。脇本陣は代々安藤家が勤めた。現在ある建物は、明治24年(1891)の濃尾大震災で崩壊後に再建されたものである。江戸時代の脇本陣正門は本正寺に移築され山門となっている。

琉球使節通行記念灯篭 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県
琉球使節通行記念灯篭 墨俣町墨俣 大垣市 岐阜県寛政3年正月琉球国使節一行通行の際奉納する石燈篭に刻銘文を願い、儀衛正、毛廷柱が執筆する。

本町の大垣信金の前、津島神社・秋葉神社の鳥居の脇に「文化財 琉球使節通行記念灯籠」の標柱が建っている。鳥居の右奥に石灯籠があった。寛政3年(1791)正月、琉球使節の一行が通行した際、神社に奉納する石灯籠に刻銘文を願い出て、儀衛正、毛廷柱が執筆したというものである。

美濃路 墨俣町さい川堤外地 大垣市 岐阜県
美濃路 墨俣町さい川堤外地 大垣市 岐阜県

突き当たりの電気屋がある交差点を右折して墨俣宿西町にはいる。美濃路は八幡神社を過ぎて犀川の堤防に上がる。途中に「史跡 美濃路」の石柱があった。

犀川遊水地 墨俣町さい川堤外地 大垣市 岐阜県
犀川遊水地 墨俣町さい川堤外地 大垣市 岐阜県

堤防に上がると右手河川敷は広い駐車場となっており花見客の車で一杯である。遠くに一夜城が見え見晴らしがよい。この広い土地は長良川の犀川遊水地となっており、その説明板が立っていた。

大垣

東結一里塚跡 安八町東結 安八郡 岐阜県
東結一里塚跡 安八町東結 安八郡 岐阜県前略 昔、町屋から先入方に至る約1300mの間は立派な松並木でありました。松は「いがみしゃしゃくれ」といって、曲がりくねっていました。三つ又のところに「左大垣道」の道しるべが建っていて、道の両側に一里塚がありました。 安八町教育委員会

道なりに堤上の道を歩いていく。右手は新興住宅地だ。大垣市から瑞穂市にはいった先で左に下りていく道をたどると堤下の交差点に美濃路東結一里塚跡の石碑があった。このあたり瑞穂市から安八郡安八町東結に入る境目で、一里塚の説明板は安八町教育委員会によるものだ。

町屋観音堂 安八町西結 安八郡 岐阜県
町屋観音堂 安八町西結 安八郡 岐阜県

この観音堂は、嘉応年間(1169年頃)創建の結神社と共に参道東側に建立されていましたが明治24年(1891)の濃尾地震で本堂が倒壊し、又揖斐川の改修(1904)にて其の地地は河川敷となり、その為約29年間民家に御本尊は預けられていましたが大正8年にこの地に本堂が再建されました。然し老朽化とこの度の歴史の道整備事業の関係で平成6年(1994)現在地に再建されました。 この十一面観世音は聖徳太子の頃の……

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この観音堂は、嘉応年間(1169年頃)創建の結神社と共に参道東側に建立されていましたが明治24年(1891)の濃尾地震で本堂が倒壊し、又揖斐川の改修(1904)にて其の地地は河川敷となり、その為約29年間民家に御本尊は預けられていましたが大正8年にこの地に本堂が再建されました。然し老朽化とこの度の歴史の道整備事業の関係で平成6年(1994)現在地に再建されました。 この十一面観世音は聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された観世音で、頭上の一寸八分(約6cm) の黄金仏は照手姫の守本尊であります。郷土の文学者、岡田垣斎氏の古文書並びに古来よりの伝えによれば、その昔、応永30年(1424)頃、当地に霊告により、照手姫は小栗判官との再開を願望し結大明神へ七日間の祈願をした。明神が姫に告げられるのに、「願望叶えさすべし。然し、守本尊は我に有縁の尊像なれば当社に納めよ」といわれ、姫は願望成就することを喜び、名残惜しくも明神(結神社)に納められた。 その後明神は村民に「この尊像は当地に有縁の像なれば観音の頭上に載せ、諸人に拝ませよ」と告げられる。以後、守本尊は十一面観音の頭上に祭り結神社と共に縁結び、安産の神として村民等しく崇拝の的であります。 祭日 8月10日

県道171号を渡った角に「歴史の道 鎌倉街道 美濃路」と書かれた板標識が立っている。車止めが設けてあるのはどうやら歴史の道として整備された結果であろう。犀川支流に沿ったのどかな道をたどる。遠くに光る冠雪の峰は近江の国とにまたがる伊吹山である。右手に「倉稲魂神 米の宮之趾」の石碑、左に白山神社をみて町屋観音堂に至る。照手姫ゆかりの十一面観音が祀られている。脇に立つ「歴史の道」案内板には、鎌倉街道・町屋の由来についても触れている。

鎌倉街道

今からおよそ800年ぐらい前のことです。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉の道路が整備されました。京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ッ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路でありました。(史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る)私たちの郷土を行く鎌倉街道は、東西の伝統・文化が行きかい、人々の生活を支えはぐくんできた歴史の道であり、こころの道であります。

待合(町屋)

中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、ある時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名がつけられたといいます。結出身の蓑虫山人(天保7年(1836)東結上村に生まれる)の絵日記の中にも待合とか待合川とかの名が記されています。また、この地には大垣と名古屋とを結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くには渡し場や結神社があり、旅館や店などがならび宿場町をなしていたということから、いつの世からか、待合が町屋と地名が改名されたようです。

結神社 安八(あんぱち)町西結 安八郡 岐阜県
結神社 安八(あんぱち)町西結 安八郡 岐阜県

祭神は、高御産霊尊 天御中主尊 神御産霊尊 猿田彦命 猿田彦命は江戸時代に合祀され、明治初年の神社改めにより、神代最初の三神と猿田彦命の四柱に決定され「銀弊社結神社」と申します。昔は『結大明神―』といわれ、その創建は第八十代高倉天皇の御代嘉応年間(1169)と伝えられております。 結村の「むすぶ」はご三神の「むすび」に由来し縁結びの他諸願成就に霊験あらたかで、遠国からも沢山の人々が參詣されました。……

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祭神は、高御産霊尊 天御中主尊 神御産霊尊 猿田彦命 猿田彦命は江戸時代に合祀され、明治初年の神社改めにより、神代最初の三神と猿田彦命の四柱に決定され「銀弊社結神社」と申します。昔は『結大明神―』といわれ、その創建は第八十代高倉天皇の御代嘉応年間(1169)と伝えられております。 結村の「むすぶ」はご三神の「むすび」に由来し縁結びの他諸願成就に霊験あらたかで、遠国からも沢山の人々が參詣されました。建治3年(1277)十六夜日記の作者阿仏尼が京から鎌倉へ下る途中、この社をたずね、和歌一首をよみ祈願いたしました。 守れただ契りむすぶの神ならば とけぬ恨にわれ迷はさてで この他多くの大宮人、名士、高僧の祈願をこめられた古歌が残っております。 天正3年(1575)織田信長か結大明神へ七日間祈願し、朱印状を下したと伝えられております。 永享の頃(1430)照手姫は結大明神へ七日間祈願し、小栗判官と再会し守り本尊一寸八分の黄金をこの社に納められました。以下略

美濃路は町屋観音堂の先の二股を直進してそのまま揖斐川の佐渡(さわたり)の渡しに出ていた。右におれて近くにある結神社によっていく。創建は第80代高倉天皇の嘉応年間(1169)と伝えられる古社である。建治3年(1277)、十六夜日記の作家、阿仏尼が京から鎌倉に下る途中この社を訪ね、「守れただ 契りむすぶ神ならば とけぬうらみに われ迷はさで」と詠んでいる。墨俣城でも彼女の歌碑を見たところだ。

揖斐川(佐渡の渡し跡)・新揖斐川橋 安八町西結 安八郡 岐阜県
揖斐川(佐渡の渡し跡)・新揖斐川橋 安八町西結 安八郡 岐阜県かってこのあたりの揖斐川を佐渡(さわたり)川といい、美濃路の渡船場も佐渡の渡しといいました。川幅は50間余(約91m)渡船2艘、鵜飼船2艘、船頭は10人、将軍や朝鮮通信使の通行時には80艘ほどの船橋が臨時に架けられました。

佐渡の渡しは川幅50間余(約91m)、渡船2艘、予備として鵜飼船2艘、船頭は10人が配置されていた。将軍や朝鮮通信使の通行時には80艘ほどの臨時の船橋が架けられた。現在はその上流にある新揖斐川橋を渡る。伊吹山が美しい。

佐渡常夜燈 東町(あずまちょう)1丁目 大垣市 岐阜県
佐渡常夜燈 東町(あずまちょう)1丁目 大垣市 岐阜県

この常夜燈は、嘉永7年(1854)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立されました。 佐渡の渡しは、佐渡川(現揖斐川)で隔てられた美濃路を佐渡村(現大垣市東町)の渡船場と対岸の西結村(現安八町西結)の渡船場で結ぶ航路であり、当時の川幅は堤から堤まで約143間(約259m)、常水時は約50間(約90m)余りでした。通常は渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されてお……

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この常夜燈は、嘉永7年(1854)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立されました。 佐渡の渡しは、佐渡川(現揖斐川)で隔てられた美濃路を佐渡村(現大垣市東町)の渡船場と対岸の西結村(現安八町西結)の渡船場で結ぶ航路であり、当時の川幅は堤から堤まで約143間(約259m)、常水時は約50間(約90m)余りでした。通常は渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されており、その新造や修理は大垣藩の費用で賄われていました。 また、将軍や朝鮮通信使が通行する際には、渡船場のやや下流に船をつなぎとめ、その上に板を敷いて橋とする船橋が架設されました。大垣市教育委員会

橋を渡って堤防を300mほど下流にもどったところに佐渡常夜灯がある。嘉永7年(1854)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立された。すんなりとした上品な石燈篭である。そこから堤防を下りたところで旧道が復活している。

枡形に折れながら進むと右手に宮脇酒造が堂々とした長屋門を構え、敷地内に樹齢200年という楠がみごとな枝振りを見せている。

美濃路家並み 三塚町 大垣市 岐阜県
美濃路家並み 三塚町 大垣市 岐阜県

道なりに市街地にはいっていく。小野信号交差点で県道50号を横断し今宿地区を通り抜ける。今宿は鎌倉街道の宿駅が置かれたことに由来する。高橋骨折院前で左折すると三塚町の端正な家並みがつづいている。広い車道に出たあたりで旧道はとぎれ、東中学校の北側に沿って西進し小学校に突き当たって再び車道に出る。

新規川の手前の道路際に、三塚の一里塚碑があった。側面には「使者場跡」とも刻まれている。東方から大垣城下に入る諸侯を出迎える茶屋屋敷があったところだろうか。説明札は見当たらなかった。

大垣城東総門跡 本町1丁目 大垣市 岐阜県
大垣城東総門跡 本町1丁目 大垣市 岐阜県

三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから名古屋口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を架けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。 門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀……

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三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから名古屋口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を架けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。 門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。ここには中山道赤坂宿へ向かう街道の門も併設されていた。

いよいよ伝馬町にはいり街道は一層都市的装いを強めていく。桜並木がその盛りを楽しんでいる。伝馬町西信号から二筋目の変則的交差点が大垣城下への入り口、美濃路名古屋口御門跡である。大垣宿は戸田氏十万石の城下町で美濃路中最大の宿場であった。また松尾芭蕉「奥の細道」結びの地としても有名である。

高札場跡 本町1丁目 大垣市 岐阜県
高札場跡 本町1丁目 大垣市 岐阜県

美濃路は大垣城下の町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町を縫うように通っていた。名古屋口門から西の総門の京口門まで、10町59間(約1km)の長さだが、城を避けるようにその間に10の曲がりがあったという。ここが最初の曲がりである。

突き当りを右折(2の曲がり)。最初の十字路を左折(3の曲がり)。本町商店街通りである。この交差点あたりが札の辻であった。交差点の北側に高札場跡の説明札があり、昭和初期ころの高札場の写真が掲示されている。瓦屋根付きの立派なものだ。

大垣宿脇本陣跡 本町2丁目 大垣市 岐阜県
大垣宿脇本陣跡 本町2丁目 大垣市 岐阜県脇本陣は、本陣の補助的役割を果す休泊施設である。大垣宿では本町大手北側にあって、もと関ケ原の戦いで大垣城二の丸を守った七騎の一人松井喜右衛門によって創立されたといわれてきたが、成立は戸田家の大垣入封に随従した上田家が勤めるようになった元禄頃である。 この脇本陣は、「本町本陣」とも呼ばれ、間ロ12間半余、奥行き16間半余で坪数127坪半余もの格式ある建物であった。

本町商店街を南に歩いていくと右手、交差点角に老舗田中屋煎餅総本家があり、その前に美濃路大垣宿脇本陣跡の標柱が建っている。松井喜右衛門によって創立され、後上田家が勤めるようになった。この脇本陣は本町本陣と呼ばれ、間口12間半、坪数127坪余もある格式高い建物だった。

本町道標 本町2丁目 大垣市 岐阜県
本町道標 本町2丁目 大垣市 岐阜県この道標は、旅人の便を図るため美濃路と竹鼻街道の分岐点に建てられたものである。竹鼻街道は、当初、大垣と竹鼻の往来に利用されたが、宝暦治水工事の完成と、宝暦11年に駒塚の渡しの開設により、美濃路の短絡道として盛んに利用されることになった。その経路は、竹島から平の渡し、本郷の渡しを通り、竹鼻・駒塚の渡しを経て尾張の富田で美濃路に合流した。 美濃路はここを右折

県道237号を横切って最初の交差点を右折する(4の曲がり)。交差点の南東角に本町道標がある。「左江戸道 右京道」とわかり易く刻まれている。北西角(太田屋呉服店壁)に美濃路の標識があり旧道筋であることを確認できる。

大垣宿問屋場跡 竹島町 大垣市 岐阜県
大垣宿問屋場跡 竹島町 大垣市 岐阜県宿場において人馬の継立の業務を行った所が問屋場である。ここへは問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。 大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃にここ竹島町に移った。幕末には問屋後は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。

すぐさきの交差点を左折(5の曲がり)、二筋目を右折(6の曲がり)する。右角に問屋場跡の立て札と標柱がたっている。角の建物の前には宿場関係の札、板看板類が雑然と飾られている。個人の趣味だろうか。この通りは竹島町で、問屋や本陣があって繁華な場所だったことが窺われる。

大垣宿本陣・明治天皇行在所跡 竹島町 大垣市 岐阜県
大垣宿本陣・明治天皇行在所跡 竹島町 大垣市 岐阜県

駅前大通り(県道57号)にでる手前右手にある竹島会館が本陣跡である。明治天皇行在所跡の石碑もある。大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が初めて本陣を創立した。以後、本陣役は玉屋岡田藤兵衛を経て、天保14年(1843)以降は飯沼家が問屋を兼ねて勤めた。明治天皇は、明治11年(1878)10月に宿泊している。

つちや 俵町 大垣市 岐阜県
つちや 俵町 大垣市 岐阜県柿羊羹 つちや 創業宝暦5年(1755年)

県道57号にでて左折(7の曲がり)する。角にある家は、街路樹で妨げられて良く見えないが、大きく立派な町屋である。一筋目の信号交差点を右折(8の曲がり)する。右手の白壁に卯建が上がった町屋は、創業宝暦5年(1755)の柿羊羹槌屋(つちや)本店である。瓦屋根の門に守られた屋根看板が歴史の風格を感じさせる。

美濃路は広くなった道をそのまま西にすすみ最初の信号を左折する(9の曲がり)。交差点の反対側には本草学者飯沼慾斉の胸像が建っていた。

大垣城・戸田氏鉄銅像 郭町2丁目 大垣市 岐阜県
大垣城・戸田氏鉄銅像 郭町2丁目 大垣市 岐阜県

大垣城由来 大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後天文4年宮川安定が城郭を築き永禄2年大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。 天正13年9月豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正16年7月になって完成し……

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大垣城由来 大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後天文4年宮川安定が城郭を築き永禄2年大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。 天正13年9月豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正16年7月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。 寛永12年(1635)戸田氏鉄(うじかね)が入城し、戸田家が11代にわたり10万石の大垣藩を支配しました。 昭和11年国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり昭和33年5月着工翌34年4月昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。

ここで大垣城に寄っていく。大垣城は天文4年(1535)、美濃守護だった土岐氏一族の宮川安定により創建された。関ケ原合戦では西軍石田三成の本拠地となり壮絶な攻防戦がくり広げられた。四層四階総漆喰塗りの優美な天守閣は天正16年(1588)豊臣秀吉の命で完成したものである。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和34年(1959)に再建されたものである。

大垣城西総門(京口門)跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県
大垣城西総門(京口門)跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県

三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京ロ門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。 この門を設け、総堀に橋を架けることによって、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡……

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三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京ロ門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。 この門を設け、総堀に橋を架けることによって、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。

街道に戻り美濃路は南に下って京橋に至る。手前左側に大垣城西総門跡(美濃路 京口御門跡)の石柱が建っている。西総門は大垣城下の京口門で、門の近くには二重の櫓を組み、周りには土塀が巡らされていた。

橋を渡ると船町である。水門川の両岸は桜並木が美しい大垣市最大の観光スポットになっている。貝殻橋の東袂に大きな船町道標があり、「左江戸道 右京みち」と深く刻まれている。

芭蕉船下り乗り場 馬場町 大垣市 岐阜県
芭蕉船下り乗り場 馬場町 大垣市 岐阜県
水門川・船町港跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県
水門川・船町港跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣ー桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。 大垣市教育委員会

水門川は江戸時代には大垣城の外濠になっていた。貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館があり、その北側には観光船の船着場になっている。ちょうど舟下り芭蕉祭りの最中で、花見をかねた観光客で賑わっていた。

美濃路は貝殻橋から水門川の左岸に沿って下る。途中に架かる朱色の住吉橋からながめると、上も下も川の流れと並木の桜が春を謳歌している。

住吉燈台・船町港跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県
住吉燈台・船町港跡 船町1丁目 大垣市 岐阜県

船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河 の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣ー桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。 住吉燈台は、元禄年間(1688~1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸……

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船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河 の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣ー桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。 住吉燈台は、元禄年間(1688~1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。 大垣市教育委員会

住吉橋の下流左岸に一隻の船が繋がれているのは船町港跡である。そばに木造の住吉燈台が高い板袴をはいて八頭身の美形を誇っている。船町港は大垣と桑名を結ぶ水門川の川港で、江戸から明治にかけて交通の要衝として栄えた。明治16年には大垣と桑名を結ぶ蒸気船が運航している。水門川から揖斐川を経て伊勢や桑名へ結んでいた。

美濃路家並み 船町1丁目 大垣市 岐阜県
美濃路家並み 船町1丁目 大垣市 岐阜県

住吉神社あたりの美濃路左手には往時の船町の賑いを偲ばせる商家の佇まいが残っている。街道はその先の高橋交差点を右折する。これで大垣城下10曲がりの完成である。

奥の細道むすびの地 船町1丁目 大垣市 岐阜県
奥の細道むすびの地 船町1丁目 大垣市 岐阜県「蛤のふたみに別行秋そ」 俳聖松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。元禄2年(1689)3月27日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曽良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。9月6日には、俳友の谷木因や近藤如行ら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ舟で下りました。

水門川に架かる高橋を渡った右手に奥の細道むすびの地の記念碑がある。芭蕉生誕360記念として2004年に建てられた。松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)、深川を出て8月下旬大垣に到着し長旅を終えた。大垣にしばらく逗留した後9月6日(新暦10月18日)、伊勢神宮遷宮参拝のため大垣を後にした。

芭蕉句碑・谷木因俳句道標 船町1丁目 大垣市 岐阜県
芭蕉句碑・谷木因俳句道標 船町1丁目 大垣市 岐阜県

芭蕉句碑 「蛤のふたみに別行秋そ」 俳聖松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です 谷木因俳句道標 貞享元年(1684)の冬、俳聖松尾芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ、俳友谷木因の家に泊まりました。この道標は、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられており、道しるべの方向を俳句で表している全国的にも珍しく貴重なものです。 表面には「南いせくわなへ十り ざいがうみち」の句……

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芭蕉句碑 「蛤のふたみに別行秋そ」 俳聖松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です 谷木因俳句道標 貞享元年(1684)の冬、俳聖松尾芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ、俳友谷木因の家に泊まりました。この道標は、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられており、道しるべの方向を俳句で表している全国的にも珍しく貴重なものです。 表面には「南いせくわなへ十り ざいがうみち」の句が刻まれ、「くわなへ」は伊勢の「桑名へ」と季語の「桑苗」を掛詞にしています。 なお、この道標は複製であり、実物は奥の細道むすびの地記念館で保存・展示されています。

伊勢へ旅立つ芭蕉とそれを見送る木因の銅像の奥に、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ谷木因の家に泊まった時に、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられる道標(複製)と、芭蕉の奥の細道結びの句が彫られた句碑がある。私は芭蕉を追って2003年4月19日に深川を発った。まだ鳴子をこえたところでウロウロしている内に途中を端折って終点に来てしまった。まだ見てはならないものを見てしまった気がしている。

船町家並み 船町6丁目 大垣市 岐阜県
船町家並み 船町6丁目 大垣市 岐阜県

美濃路はここから県道31号を西に向って進む。沿道には漆喰壁・格子造りで虫籠窓、駒寄、卯建を設けた古い町屋が多く残っていて趣きある家並みを見ることができる。

歩を進めるにつれて歩道に「ふたつめはし」、「みつめはし」の石柱が立ち現れる。

芭蕉・.木因遺跡 正覚寺 船町7丁目 大垣市 岐阜県
芭蕉・.木因遺跡 正覚寺 船町7丁目 大垣市 岐阜県

大垣市指定史跡 芭蕉・.木因遺跡 俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤知行ら多くの俳人を芭蕉門下とした。 元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑……

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大垣市指定史跡 芭蕉・.木因遺跡 俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤知行ら多くの俳人を芭蕉門下とした。 元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。 大垣市教育委員会

船町交番交差点を越えた愛宕神社隣の正覚寺入口に「史跡 芭蕉木因遺跡」の標柱が建っている。狭い路地を入ると正覚寺本堂前の一角に多くの石碑が集められていて、その中に芭蕉翁追悼碑と芭蕉の俳友木因の碑があった。芭蕉の大垣来遊は4回に及び、そのたびに北村季吟門下の友である木因と親交が深かった。自然石に芭蕉翁と刻まれた追悼碑は、芭蕉没後百日目の追善法要として建立されたものである。

杭瀬川・塩田橋 若森町4丁目 大垣市 岐阜県
杭瀬川・塩田橋 若森町4丁目 大垣市 岐阜県

養老鉄道の踏切を渡り、久瀬川4丁目交差点の先で山王用水を渡ったところの路地を左にはいって杭瀬川の土手下の道を進んでいく。土手の桜と左手の古い民家の家並みが郷愁をそそる。このあたりは昔、杭瀬川の塩田港があったところで、土手下に建ち並ぶ商家風の建物が当時の店並を偲ばせる。

塩田の常夜燈 静里町 大垣市 岐阜県
塩田の常夜燈 静里町 大垣市 岐阜県

大垣市指定重要有形民俗文化財 静里町塩田常夜燈 この常夜燈は、高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)で、明治13年(1880)日月に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、そして伊勢両宮への献燈として塩田港の西岸に建立された。 当時は、杭瀬川の水運がこの地方の物資輸送に重要な役割を果しており、特に赤坂港と桑名港との間で船の航行が盛んであった。 その中継港として塩田港は、常に20~30隻の船が……

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大垣市指定重要有形民俗文化財 静里町塩田常夜燈 この常夜燈は、高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)で、明治13年(1880)日月に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、そして伊勢両宮への献燈として塩田港の西岸に建立された。 当時は、杭瀬川の水運がこの地方の物資輸送に重要な役割を果しており、特に赤坂港と桑名港との間で船の航行が盛んであった。 その中継港として塩田港は、常に20~30隻の船が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ大変賑やかであった。 大垣市教育委員会

杭瀬川に架かる旧塩田橋を渡ると左手に立派な常夜燈が建っている。特に銅板葺き(当初は茅葺き)の木造屋根は彫刻が施された豪華なものである。明治13年(1880)に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識と伊勢両宮への献燈として、塩田港の両岸に建立された。塩田港は中山道赤坂宿と東海道桑名宿とを結ぶ川運の中継港として常時20~30隻の船が停泊し、大変賑やかだったという。

美濃路家並み 静里町 大垣市 岐阜県
美濃路家並み 静里町 大垣市 岐阜県

県道31号を横切る手前左手に蔵・門を配した豪商を思わせる大きな佐久間家住宅が目を引いた。

久徳一里塚 久徳町 大垣市 岐阜県
久徳一里塚 久徳町 大垣市 岐阜県徳川家康は幕政の基盤を固めるため、全国主要街道の整備に努め、慶長9年(1604)には、その路程標として一里塚を築かせた。中略 この一里塚は、東海道と中山道を結ぶ美濃路に築造されたもので、 南側だけであるが榎が残るなど、ほぼ原形に近く貴重な史跡である。 大垣市教育委員会

道は県道を渡って左に折れて西進する。300mほど歩くと、左手に久徳一里塚が現存している。塚の形もよく保存されていて塚木の榎も残っている。

この先旧街道は太平洋工業内で消失している。県道に出てしばらく県道を歩き大垣自動車学校の東側、荒川町東信号の路地を右に入ると一筋目で旧道が復活している。そこを左折して200mあまり進むと変則十字路の北西角に石灰岩自然石に谷汲道と刻んだ道標がある。谷汲道とはここから北へ20数キロもはなれた谷汲山華厳寺へ至る道である。桓武天皇の延暦17年(798)創建という岐阜の名刹で秘仏十一面観世音を本尊とし、古来より朝廷、皇室の帰依篤く広く信仰を集めてきた。桜と紅葉の名所としても知られる。

道標 長松町 大垣市 岐阜県
道標 長松町 大垣市 岐阜県従是南宮社江近道 ← 大垣 岐阜 →垂井 京都 道

道は大谷川に突き当たり県道に合流、橋を渡ってすぐ右の旧道にもどる。南宮社参道入口に二基の道標がある。南宮社とは垂井にある神社である。近道という道を少し入ったところに南宮大社元鳥居址の柱が建っていた。垂井宿を経由しない近道があるのだろう。

垂井

美濃路 垂井町綾戸 不破郡 岐阜県
美濃路 垂井町綾戸 不破郡 岐阜県

旧美濃路は左右に折れながら北に向かい、国道21号のガードをくぐって左に曲がり、国道に合流したのち綾戸口交差点で右斜めの旧道に戻る。私にとっての故郷の山伊吹山を正面に眺めながら落ち着いた綾戸集落の中を終点に向って歩を進める。途中に「熊坂長範物見の松200m→」の案内標識を見たが寄らなかった。

美濃路松並木 垂井町綾戸 不破郡 岐阜県
美濃路松並木 垂井町綾戸 不破郡 岐阜県

まもなく美濃街道で唯一の松並木が現れる。約1kmにわたって両側にかなりの数の松の木が残っている。

垂井追分道標 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
垂井追分道標 垂井町垂井 不破郡 岐阜県

垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目……

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垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保3年(1718)の角柱の道標もあった。 平成21年1月 垂井町教育委員会

松並木がおわると風景は市街地に変わる。垂井郵便局を通りすぎるとさりげなく美濃路の終点、中山道との追分が現れた。角に宝永六年(1709)の追分石や解説板があって、それなりの達成感を与えてくれた。そばに建つ蕎麦屋風の美濃路追分庵は休業中か。

相川 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
相川 垂井町垂井 不破郡 岐阜県前方右は伊吹山

相川橋を渡る。この堤でもさくら祭りで大勢の人が出ていた。川をまたいでコイノボリが翻っている。背景の山並みの後ろに伊吹山が白い嶺を覗かせている。

橋を渡った左手、垂井宿の東見付に大きな宿場案内板が出迎えてくれる。実は45年前にここを歩いていたのだ。その時にこんな案内板なぞなかった。垂井の宿で何をみたのか、垂井の泉だけはおぼえている。古い写真ファイルをみると垂井では2枚のディジタル化した写真が残っていた。

紙屋塚 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
紙屋塚 垂井町垂井 不破郡 岐阜県古来紙は尊重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し室町頃まで存続したと考えられる。又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯から集められた紙の検査所の役割もはたしていたものと考えられる。一説には美濃紙の発生地とも言われている。 垂井町教育委員会

郷愁を覚えながら垂井の宿を歩き直す。

垂井には古い町並みが残っている。一々の建物の案内は省略する。街道をすこし奥まったわかり難い場所に紙屋塚があった。垂井は美濃紙という古紙の故郷であるという。

曲尺手角に今も旅館として営業を続けている亀丸屋がある。立て札には2階に鉄砲窓が残るとあったが、見つけることはできなかった。

丹波屋 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
丹波屋 垂井町垂井 不破郡 岐阜県

丹波屋の屋号札がかかる松井家住宅も旅籠であった。45年前に撮った写真の1枚がこれであった。比べてみても植木を除いてはあまり変わっていない。

垂井の泉・芭蕉句碑 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
垂井の泉・芭蕉句碑 垂井町垂井 不破郡 岐阜県

この泉は、県指定の天然記念物である、大ケヤキの根元から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀」天平12年(740)12月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近隣の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原降経は 昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花衆』 と詠ん……

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この泉は、県指定の天然記念物である、大ケヤキの根元から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀」天平12年(740)12月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近隣の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原降経は 昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花衆』 と詠んでいる。のちには芭蕉も 「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな 」 という一句を残している。 岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。 この大ケヤキは、樹齢妁800年で、高さ約20m、目通り約8.2m。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。

南宮大社の鳥居をくぐって垂井の泉を再訪する。大ケヤキの根本から湧出している泉であることに変わりはないが、冷水が流れ出る溝にヤカンが漬けられている風景から、高価そうな鯉が池を遊泳している景色に変わっていた。

元禄4年、芭蕉が垂井の本龍寺で詠んだ「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句碑があった。

街道にもどり西に歩を進める。右手の長浜屋も元旅籠で皇女和宮の一行、総数3200名が垂井宿に宿泊したおり、御輿担ぎ23名が泊まったという記録が残っている。

高札場跡・芭蕉句碑 本龍寺 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
高札場跡・芭蕉句碑 本龍寺 垂井町垂井 不破郡 岐阜県本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれている。松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職規外を訪ね、冬篭りもして「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを詠んだ。 「作り木の庭をいさめる時雨かな」
西見付跡 垂井町垂井 不破郡 岐阜県
西見付跡 垂井町垂井 不破郡 岐阜県垂井宿の西の入口で大行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。 広重がこの付近から西を見て雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。

本龍寺第八世住職規外は芭蕉の門人であった。芭蕉は奥の細道を終えた2年後の元禄4年(1691)の10月、この寺の規外を訪ね、冬篭りもして「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを詠んだ。本堂の脇に作り木塚がある。

いよいよ垂井宿の西端まで来た。西の見付である。安藤広重の絵のプレートが置かれている。現在の家並みも広重絵の茶屋の面影を伝えていた。

(2011年4月)

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