全長 5km 歩き終えています 歩いた時期 2006年1月

松戸街道

松戸-矢切-国府台-市川

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

矢切

水戸街道の松戸成田街道の市川をむすぶ一里ほどの短い道を松戸街道とよんでいる。江戸川の千葉県側を南北にはしる道で、千葉県道1号(市川松戸線)に重なっている。松戸の起点は県道1号と国道6号との交差点、県道54号につながる松戸二中前といわれているが、旧道ベースの話になれば、浅間神社の西側を通って県道5号が松戸市内の角町で旧水戸街道に合流するあたりがふさわしいのではないかと思う。

他方、市川側の基点は成田街道である国道14号との交差点、市川広小路とされている。その間、県道からはずれてどこに旧道が残っているのかはしらない。特に矢切村あたりは県道から一筋西にはいった矢切神社か、野菊の墓の坂下あたりを通っている道が風情を残して、旧街道にふさわしいような気がする。

成田街道の寄り道とするにはあまりに線状に延びているので、街道として別に小ページをつくった。寄り道の目的は、矢切の渡しと野菊の墓、下総国府跡と国府台古戦場、そして国分寺・国分尼寺跡をたずねることにある。点をたずねる旅であって、線をもとめて道標や庚申塔を探しまわる旅でない。下総国の中心地だった歴史的に重要な土地を、どうしても見ておきたかった。

矢切

下矢切 県道1号
下矢切 県道1号

松戸からすぐに上矢切、中矢切、下矢切と矢切の集落が続く。江戸川と街道にはさまれた田園地帯だ。季節によるのだろうが葱畑が多かった。明治のはじめ下矢切村の農民が東京江東区北砂周辺からネギの種子を導入し、自家用として栽培したのがはじまりとされている。10年後には水田の裏作として定着し市場に出荷が行われるようになった。今では「矢切ネギ」として全国的に有名で、ネギの一大産地である。

矢切の渡し ( は柴又) 江戸川
矢切の渡し ( は柴又) 江戸川

矢切の渡しは松戸市矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは380余年前江戸時代初期にさかのぼります。当時、江戸への出入りは非常に強い規制のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。明示以……

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矢切の渡しは松戸市矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは380余年前江戸時代初期にさかのぼります。当時、江戸への出入りは非常に強い規制のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。明示以降は、地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され現在では唯一の渡しとなっています。この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の淡い恋物語の背景となっておりその小説の中で美しく描かれております。 平成10年3月

下矢切にくると「矢切宿」の看板がでている。宿場のなごりなのかどうか。渡しがあるところから旅籠があってもよさそうだが、矢切の渡しは農民渡船から始まったもので、旅人のいきかうルートではなかったことを思えば、少なくとも宿駅制度のもとでの宿場ではないようだ。そこから右の路地にはいって、台地が江戸川(古利根川)の低地へ落ちこむ坂を下っていく。

野菊苑から江戸川方面 下矢切 松戸市
野菊苑から江戸川方面 下矢切 松戸市

伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906)の主人公政夫はそんなところに生まれ育った。幼馴染の二つ年上の従姉民子と互いに恋心を育むようになった。台地上の西蓮寺の境内に文学碑が建てられている。陸橋をわたった野菊苑からは、文学碑にしるされた風景をかいまみることができる。空気がひえて澄みきっていた日には富士山のほぼ全景がみられるだろうほどに見晴らしがよい。

のぎくの小道 下矢切 松戸市
のぎくの小道 下矢切 松戸市

坂をおりるとネギ畑を縫うあぜみちを矢切の渡し場まで、「のぎくの小道」がつづいている。小道の入口に石標がたっていて、民子の嫁入り行列の様子が影絵で描かれている。人力車にひかれる民子の前後に提灯もちや長持ちの担ぎ人がついていく。みちばたには野菊の花が失意の民子を見送った。学校の寮にもどった政夫はその出来事を知らない。二人は二度と会うことがなかった。そんなにはかなくかなしい恋が矢切の村にあった。

「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・・・・」

「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」

「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」

「政夫さん・・・・・・私野菊の様だってどうしてですか」

「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」

「それで政夫さんは野菊が好きだって・・・・・・」

「僕大好きさ」

民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遥けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。

野菊の墓文学碑 西蓮寺 下矢切 松戸市
野菊の墓文学碑 西蓮寺 下矢切 松戸市

僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。 秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。 東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。 村はづれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。 ここから見おろすと少しの田圃がある。 色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打……

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僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。 秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。 東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。 村はづれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。 ここから見おろすと少しの田圃がある。 色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、胸のすくやうな眺めである。 伊藤左千夫著 野菊の墓より 昭和39年10月 門人 土屋文明識 野菊について 「野菊」という花は、山野に咲く数種の菊を総称したものであり、「野菊」という名の花はありません。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどがあり、いずれも白か淡青紫色で田のあぜや川べりに生える多年草です。 さて、小説『野菊の墓』には、正夫が「民子さんはどうみても野菊の風だ」民子が「正夫さんはりんどうのようだ」という記述がありますが、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうか。 矢切地区風致保存会

野菊を手にした二人の幸福な会話から、この結びに至る悲しい運命の物語を、涙なくして読むことはできなかった。

堤防をこえて河川敷のゴルフ場を横切ると木陰にかくれて矢切の渡し場があった。冬の季節とあって常駐の管理人の姿はなかった。舟は常に向かいの柴又側に泊めてあるようだ。

里見公園・国府台城跡

鴻之台とね川風景 広重 名所江戸百景
鴻之台とね川風景 広重 名所江戸百景下総国府の地。昔は国府台とも書いたが江戸時代には利根川(現・江戸川)の浅瀬に鵠(こう)の鳥が住み着いていたことから鴻の台の字が使われた。利根川東遷後も関宿から行徳の先の新川、小奈木川を通って江戸にゆく船運は盛んであった。西には江戸城、上野の山、浅草の森、さらには遠く富士山も眺められる展望のよい場所で、行楽地としても賑わった。

松戸市から市川市にはいると低地が次第にせばまり、坂川が江戸川にながれでるあたりでは台地が川岸にまでせまっている。この台地は国府台とよばれ、ここに下総国府がおかれた。眼下に川をみおろす国府台からは、江戸の方面が俯瞰でき、昔は江戸城、上野の山、浅草の森までもながめられたという。文明11年(1479)大田道灌は、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりである。その後天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二回にわたる里見・北条の国府台合戦をへて、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正18年(1590)徳川家康が関東を治めることになって、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城された。

国府台城跡 里見公園 国府台3丁目 市川市
国府台城跡 里見公園 国府台3丁目 市川市

文明11年(1479)7月大田道灌は千葉自胤を援け、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりと伝えられている。その後天文7年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭(よしたか)をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、……

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文明11年(1479)7月大田道灌は千葉自胤を援け、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりと伝えられている。その後天文7年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭(よしたか)をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、永禄7年(1564)正月、里見義尭の子義弘は、兵8千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の2万余騎を迎え討った。里見勢は緒戦において大勝をえたが、翌朝、里見勢の油断をついて国府台城に攻め込んだ北条軍のため、城中は大混乱に陥りたちまち5千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。以後、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正18年(1590)徳川家康が関東を治めるや国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり家綱のとき関宿より総寧寺を移した。その後明治になって陸軍教導団が移され、以来終戦に至るまで国府台上は兵舎の建ち並ぶ軍隊の街となったのである。昭和34年(1959)この地を公園とし、「里見公園」となづけた。現在、園内には二重に囲まれた土塁とその間に残る空濠の跡を窺うことができる。 これは天文、永禄の合戦に里見軍の構築したものと思われる。数千の戦死者を出したこの合戦に後世里見将士の霊を慰めるため三基の慰霊碑が建てられた。 江戸川から吹き上げる松籟は、ただ兵どもの夢の跡を追うのみである。 市川市教育委員会

昭和になって「里見公園」として整備された城跡地には土塁や空濠の跡を窺うことができる。また数千の戦死者を出した里見軍将士の慰霊碑が建てられてある。晩秋の紅葉と黄金色の銀杏の木々に囲われた静かな公園を散策しおえて帰ろうとしたとき、むこうから歩いてきた一人のおばあさんと目があった。

「あそこの紅葉はみられました?」

「モミジはもうおわりかけですね」

「あそこのはきれいですよ。一緒に行きましょう」

里見公園 国府台3丁目 市川市
里見公園 国府台3丁目 市川市

「ええ・・・。どこですか」

おばあさんと公園の奥にあるちいさな谷間まで歩いていった。

「ああ、終わっちゃってる。ごめんなさいね」

「いつもこのモミジをみにこられるのですか」

「ええ、毎年」

自宅は矢切の渡し近くで、バスでくるのだが、年間パスの期限がきれたので今日は歩いてきたのだという。

「3万円払うと一年乗り放題なの。申込書に写真が要るのを忘れてた。そうだ、あそこのバラの前で写真撮ってくださる?」

おばあさんはハンドバッグからコンパクト・デジタルカメラをとりだした。

「ああ、いいですよ、1、2枚」

「3枚!」

「はい」

国分寺・国分尼寺跡

えさに飛びつくユリカモメ じゅんさい池公園 国府台 市川 千葉
えさに飛びつくユリカモメ じゅんさい池公園 国府台 市川 千葉

里見公園の街道筋から台地をおりて真間川をわたるまでの区域は文教地区とでもいえそうな場所で、東京医科歯科大、和洋女子大、千葉商科大、千葉短大など大学のほか、中高学校、病院などが集まっている。国立病院前を左に入って道なりに進むと谷間のジュンサイ池公園に出た。鴨などの水鳥よりもユリカモメのほうが多い。えさを投げ上げる人の頭上を飛び回っている。

下総国分僧寺跡 国分3丁目 市川市
下総国分僧寺跡 国分3丁目 市川市

天平13年(741)春、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、一国一寺の建立を指令されました。下総では、市川に国府がありましたので、ここに国分寺が建立されたのです。その建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。 国分僧寺は過去数回の火災をうけて当時のおもかげはありませんが、発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されています。 昭和48年3月 市川市教……

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天平13年(741)春、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、一国一寺の建立を指令されました。下総では、市川に国府がありましたので、ここに国分寺が建立されたのです。その建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。 国分僧寺は過去数回の火災をうけて当時のおもかげはありませんが、発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されています。 昭和48年3月 市川市教育委員会

一つ目の信号を右にはいり和洋国府台女子中の瀟洒な時計塔をすぎた三叉路角に下総国分尼寺があった。さらに東南に細い路地をおしすすむと国分寺に至る。車は一台分の幅しかなく、対向車にであうと、どちらかが直前の交差点までバックするしかない。国分寺から南側は台地が急に落ち込んでいて、車の場合は遠く迂回しなければならなかった。現在の国分寺は新しいもので下総国分寺の遺構としては境内に塔の礎石が残されている。綿飴のような銀杏の木がふりまく葉が秋の斜めの陽射しを受けてきらめき落ちる。

真間

真間山から南の市川地区は江戸湾につながる砂州がひろがり、真間川にそって入り江が東に入り込んでいた。この地帯は手児奈伝説継橋、真間の井などの旧蹟が多い万葉の地である。成田街道の市川公民館横の大門通りが弘法(ぐほう)寺への正式な参道らしいが、距離的には松戸街道の真間山下交差点を東にはいるほうがよほど近い。

京成本線国府台駅の西をよこぎり市川広小路で成田街道国道14号に出る。

(2006年1月)