成田街道(佐倉道) 2区間のうち1番目

成田街道(佐倉道)(1)

千住-新宿-市川-八幡-船橋

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

千住

江戸と佐倉藩城下をむすぶ道を佐倉道と呼んだ。佐倉の北東12kmあまりのところに成田山新勝寺がある。江戸時代後期に成田詣が盛んになるにつれて佐倉道は成田道(街道)と呼ばれるようになった。今「成田街道」といえば船橋を起点とする国道296号線をいう。

ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡 しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』 の伊予田村の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所とも云う」と書かれています。 御番所町は、『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。 現在も残る角屋旅館のほか、筑前屋、清水屋など、旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋 などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関 所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。 御番所町跡 案内板 角屋旅館前 北小岩3丁目 江戸川区
ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡 しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』 の伊予田村の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所とも云う」と書かれています。 御番所町は、『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。 現在も残る角屋旅館のほか、筑前屋、清水屋など、旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋 などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関 所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。 御番所町跡 案内板 角屋旅館前 北小岩3丁目 江戸川区

江戸から成田へ通じる道はいくつもあったが、多くは陸路2つと海路1つのどれかを利用した。佐倉藩主が参勤交代につかった公式ルートは千住を経由して水戸街道の新宿でわかれる道である。小岩で江戸川を渡って市川、小幡、船橋を経由する。

他の陸路は千住宿が公認されるまえのルートで、日光街道浅草橋から両国橋を渡り、竪川通りを東進して旧中川の逆井の渡しから四股、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩へ出る。現在の国道14号(千葉街道)にあたり、「元佐倉道」と呼んでいた。

このほかに、更に便利な水路があった。日本橋小網町から船に乗り、小名木川、新川の掘割水路を利用して本行徳へ上陸し、行徳街道を北上して八幡や船橋へ向かうルートである。成田までは、陸路の佐倉道に合流する方法と、八幡から木下街道で利根川にでて安食まで川を下る方法があった。後者は芭蕉が鹿島紀行で通ったルートである。

ここでは水戸街道経由の公式ルートを歩く。

千住

水戸街道分岐点 北千住
水戸街道分岐点 北千住
旧水戸街道入り口 北千住
旧水戸街道入り口 北千住

北千住、宿場町通りを北にぬけると、4丁目と5丁目の境の大きな交差点にでる。ここで水戸街道は奥州・日光街道と分かれ、右(東側)の細い道に入る。ここにかっては「水戸海道」と刻まれた古い道標があったが、現在は足立区立郷土博物館(大谷田5-20-1)の中庭に保管されている。

清亮寺 北千住
清亮寺 北千住

千代田線・常磐線のガードをくぐり東武線のガードの手前に清亮寺がある。境内に、明治5年斬罪に処せられ腑分けされた11名の墓があるという。迷路のような墓地を歩いてまわったがそれらしき墓石を見つけることはできなかった。

荒川 北千住
荒川 北千住

東武線のガードをくぐると道は荒川の堤防に行き当たる。ここは昔、古隅田川に「弥五郎橋」がかかり、千住宿と小菅村を結んでいた。明治44年に荒川放水路の工事が始まり、これが川と橋を洗い流した。土手に登ってみる。左にいくつもの鉄橋が並行している。数えてみると5つもあった。千代田線と東武伊勢崎線の上下線とJR常磐線である。その下の葦の茂みはホームレスのキャンプ場だ。水戸街道は正面の対岸から再出発することになる。

小菅

万葉公園 古隅田川 小菅
万葉公園 古隅田川 小菅

東武伊勢崎/地下鉄日比谷線の小菅駅で降りる。荒川土手に出る手前に小さな「万葉公園」がある。入口に歌があった。どういう意味なのかわからない。

小菅ろの 浦吹く風の 何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを 思い過(すご)さむ(万葉集・巻14東歌3564)

公園を流れる細い水路は古隅田川で、ここから中川まで総延長5kmにわたって残っており、足立区と葛飾区の境界線をなしている。その一部に水戸橋を渡った所で再び出会う。

公園の南隣りは東京拘置所である。正門の鉄格子の向こうに灯籠が置かれている。

旧小菅御殿石灯籠 所在地 葛飾区小菅一丁目35番 登録年月日 平成元年(1989)3月20日

旧小菅御殿石灯籠 小菅東京拘置所内
旧小菅御殿石灯籠 小菅東京拘置所内

円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝寿珠を頂いた総高210cmの御影石製の石灯籠です。

もとは数行の刻銘があったとみられますが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も詳かではありません。ただし当地は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっていることから、灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられます。もとは裏庭にありましたが、現在は手水鉢・庭石とともに、拘置所正門脇に移して保存されています。

なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。 葛飾区教育委員会

寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。その後曲折を経て東京拘置所となった。

小菅稲荷大明神
小菅稲荷大明神

拘置所の南側を歩いている。有刺鉄線の壁越しに見える建物は意外なほど開放的な雰囲気だった。ベランダには布団が干してあり、下着などの洗濯物が気持ちよさそうに風を受けている。職員の寮であろうか。子供や妻もいちいち厳重な正門から出入りするのだろうか。余計なことを考えながら歩いているうちに、T字路の角に赤い柵に囲まれた小菅稲荷大明神の小祠が見えてきた。社額はぎっしり詰まった漢文で、どうしようもない。「武蔵葛飾郡西葛西領小菅村伊奈半左衛門」という書き出しだけ読み取れた。

右に折れる広い道は、小菅御殿の正門から水戸街道に出る御成道であった。見事な松並木で松原通りとよばれたが今は小菅稲荷大明神の前にある「松原児童遊園」という標札にその名ごりをみるのみである。

松原通りの一筋東の細い路地をはいり、草津湯の銭湯の前を通り過ぎると西小菅小学校がある。その校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があった。校門脇にその由緒書きがある。

小菅銭座(ぜにざ)跡 西小菅小学校内
小菅銭座(ぜにざ)跡 西小菅小学校内

小菅銭座(ぜにざ)跡

所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校 指定年月日 昭和58年(1983)2月21日

安政6年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000m2 約4,600坪)を持ち、この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。 今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。

葛飾区教育委員

水戸橋-綾瀬川 小菅
水戸橋-綾瀬川 小菅

小菅御殿跡の東側は綾瀬川である。その昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没した。元禄8年(1695)水戸黄門がこの橋のたもとで妖怪を退治し、「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」と自ら筆をとったものといわれている。柳の枝が妖しく手招きをする川のほとりに架けられた小振りの木橋を期待していたが、見た物は高速道路に虐げられたように淀む綾瀬川に架かる、青いペンキで塗り込められた無機的な橋だった。

古隅田川 鵜森橋 小菅
古隅田川 鵜森橋 小菅

橋を渡った右手に小菅神社がある。境内を除いてみたが縁起らしき物は見当たらなかった。

街道にもどる。すこし行くと小菅交番所の手前左手に鵜乃森橋がみえて、その両側はボードウォークが設けられ遊歩道として整備されていた。流れているのは古隅田川である。川岸の民家には花が咲き乱れ、川面では水鳥が遊ぶなごやかな景色が隠されていた。

314号という大通りに出た。標識に「右:四つ木、左:綾瀬、直進:西亀有」とある。道幅が広くなりきれいに舗装された道が真っ直ぐに延びている。ほどなく左斜めに入っていく枝道がでてきた。これが旧道にちがいない。住宅地に入り込み、道なりにすすんでいくとJP常磐線の高架に近づいた。駅でもないのに高架下に店が並んでいる。道はすぐに線路を離れ、大きく蛇行して西亀有3丁目の交差点に出、そこから再び真っ直ぐの道で亀有駅前商店街に入って行く。西亀有は昔、葛西郡砂原村とよばれた地域である。古隅田川の蛇行にあわせるようにその南方に広がっていた砂原だったのだろう。

亀有

四ツ木通用水引ふね 広重 名所江戸百景
四ツ木通用水引ふね 広重 名所江戸百景用水(現:曳舟側親水公園)沿いの街道は水戸街道脇道、亀有で本道に合流。

亀有は水戸街道と水路とが交差する交通の要所であった。JR亀有駅近く、道上小東交差点は昭和の終りころまでは曳船古上水橋とよばれた場所である。曳船川は越谷市のしらこばと橋で逆川(遠く羽生市川俣で利根川に発し、葛西用水→古利根川と名をかえる)から引かれた東京葛西用水の別名である。亀有から四つ木で綾瀬川にいたる葛飾区域を曳船川とよんだ。今は暗渠となって、四つ木までを曳船川親水公園として整備されている。親水公園を少し南に歩いてみた。左に木造の船着場休憩所、右に小川の流れを配してある。水辺に蝶がたよりなく舞い、水面にはへたばった蚊のようなアメンボが徘徊する。水がきれいなのに驚いたがやがて図入りの説明板をみて納得した。ろ過機、滅菌機を経由して水道水が秒速10cmで循環しているという贅沢な公園だった。

この用水に沿ってずっと北へあがり環7を越えてまっすぐいくと足立区郷土博物館の前に行き着く。その辺は暗渠ではなく、「東京葛西用水」は地表に出て公園化されていた。博物館は白壁の大屋敷をおもわせる立派な建物だった。その中庭に多くの道標、記念碑、地蔵などの類が陳列されている。いずれも道路開発や都市計画の工事に絡んで、ここに避難してきたものである。お目当てのものは、北千住の水戸街道入り口にあったという「水戸海道」という道標だった。おまけも見つけた。現在の千住新橋が架かる前まで、南詰にあったという「千住新橋」と彫られた威厳のある石門柱だった。

亀有 一里塚跡碑
亀有 一里塚跡碑

所在地 葛飾区亀有三丁目12番地先 葛飾区亀有一丁目28番地先 一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。 中略 亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋から三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。……

説明の全文を読む(約240字)

所在地 葛飾区亀有三丁目12番地先 葛飾区亀有一丁目28番地先 一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。 中略 亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋から三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。塚の位置は、ここから東へおよそ10m先にありました。 葛飾区教育委員会

曳舟川親水公園をわたったところにまだ新しい「旧水戸街道 亀有上宿」の石柱がある。街道をすこし進むと右手歩道脇に、2年前に建てられたばかりの記念碑を見つける。

「旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会」とあり反対側の面には渋い顔つきの水戸黄門とすけさん、かくさんがいた。商店会地域表示の石柱とは一里塚跡のことか。これも新しい。

新宿(にいじゅく)

中川橋 亀有-新宿
中川橋 亀有-新宿

7号環状線をよこぎるとすぐに中川橋である。工事中のおじさんに訪ねてみた。

「ここ旧街道ですよね。なにか、中川橋にまつわる由来とか、なにか書いてあるような石碑とか、説明板とか、一里塚とか、なにかこの辺にありませんかねえ」

「ないねえー」

ほどよい川幅で水質もまずまずのようだった。眺めのよい明るい川である。

にい宿のわたし 広重 名所江戸百景
にい宿のわたし 広重 名所江戸百景亀有-新宿間、中川をわたる。 水戸街道

橋を渡った所が新宿である。千住と松戸宿の間にあって大名たちは泊まらなかった。本陣もなく町自体は小さい。道が桝形構造になっているようで、直角に右に曲がって、道なりに今度は90度左にまがる。昔、凹形のうち側は沼であったため、結果的に枡形のようになったのが真相のようだ。途中で、西念寺によってみた。墓地に一組の墓参り客がいる他、よく手入れされた境内は静まり返って、一角に凌霄花(のうぜんかずら)が青い空につき出すように咲き誇っている。傍らには、華やかなハスのつぼみが満開の時をまち、おおらかに天をあおぐ葉は今朝がたの通り雨のなごりを宿していた。

水戸街道石橋供養道標 新宿 葛飾区
水戸街道石橋供養道標 新宿 葛飾区

葛飾区指定有形文化財 水戸街道石橋供養道標 所在地 新宿2丁目20番25号 指定年月日 昭和52年2月13日 水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773)から5か年を費やし27か所の石橋を架けました。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変な大……

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葛飾区指定有形文化財 水戸街道石橋供養道標 所在地 新宿2丁目20番25号 指定年月日 昭和52年2月13日 水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773)から5か年を費やし27か所の石橋を架けました。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。 新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る)。この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく元禄(1688)以降、民間の信仰が盛んになると、成田山新勝寺や千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました。 葛飾教育委員会 左面:安永六 丁酉年八月吉日 石橋供養塔 正面:左 水戸街道 右 なりたちば寺道 右面:成田山 さくらみち 万人 不動 女中

左にまがった突き当たりに「金阿弥橋」という埋め立てられた橋の欄干が残っていた。北に向かって草に覆われた幅2mほどの水路の窪みが認められる。6号線「中川大橋東」交差点角の「あづまや」というそばやの店脇に、求めていた道標があった。ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれる。左が水戸街道で、右が佐倉・成田街道とあるが、ここが分岐点であるかは定かでない。「(水路に沿った道を左に)」という説明書きが私を悩ませた。ここから50mほど東に行ったところで、数年前まで水元公園から引いてきた上下之割用水が6号線を横切っていた。

佐倉街道入り口 新宿 葛飾区
佐倉街道入り口 新宿 葛飾区

さて、佐倉街道であるが、説明書きの(現在の水戸街道を越えて右に入る)とは、ガソリン・スタンドの角で6号線を横切って、埋めたてられた上下之割用水をたどるのか、それともあずまやの真南に口を出している車進入禁止の細い道のことなのか、よくわからなかった。葛飾区教育委員会へ電話して、文化財保護係の人に一連の疑問をぶつけてみた。結論は、旧水戸街道はジョモで左に入る道、佐倉街道はその手前の中川大橋東交差点で南に向かう細道だということだった。

角柱三猿浮彫道標 高砂6丁目13-21 葛飾区
角柱三猿浮彫道標 高砂6丁目13-21 葛飾区

元禄6年(1693)に建てられた区内に現存する最古の道標です。道標上部の正面、左右側面にかなり磨滅している仏形坐像又は三猿と思われる浮彫があります。碑文は、正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面は「これより左 下の割への道」と書かれ、左面には年号が記されています。 千住宿から分かれる水戸佐倉街道は、新宿町の南で常陸国水戸と下総国佐倉へ向かう道に分かれます。「下川原村」は新宿町の小字名、……

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元禄6年(1693)に建てられた区内に現存する最古の道標です。道標上部の正面、左右側面にかなり磨滅している仏形坐像又は三猿と思われる浮彫があります。碑文は、正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面は「これより左 下の割への道」と書かれ、左面には年号が記されています。 千住宿から分かれる水戸佐倉街道は、新宿町の南で常陸国水戸と下総国佐倉へ向かう道に分かれます。「下川原村」は新宿町の小字名、「下の割」は東葛西領の南の地域(現在の江戸川区)をさします。都内及び下総方面の各地における道標は、現在のところ元禄または宝永年間のものが最も古いようです。 葛飾区教育委員会

亀田橋派出所の先を左におれたところに、下河原北向地蔵と並んで元禄6年(1693)の古い道標がある。葛飾区内最古の道標で、三猿が浮き彫りされている。磨耗がはげしいが文字は「是より右ハ下河原町 左さくら海道」「これより左下の割への道」と読むらしい。下川原村は今の新宿の小字名、下の割りとは現江戸川区をいう。

新金貨物線の高砂踏切をわたり、高砂地区の商店街へはいっていく。高砂8丁目交差点を右にはいると京成たかさご駅、左におれてまっすぐいけばトラさんでなじみの柴又帝釈天へ通じ、さらに進むと江戸川の堤防を越えて、矢切の渡しに達する。一時間ほどの寄り道を決行した。

柴又

柴又帝釈天参道
柴又帝釈天参道

明るい帝釈天の境内とレトロな空気が詰まった参道商店街を楽しんだ。浅草仲見世通りのような人ごみはなくて、客層は高年者が圧倒的だ。草だんご、寅さん煎餅、うなぎの蒲焼など、食べ物屋が多い。客を相手に話をしている店の人たちは、どこかで「男はつらいよ」にそれとなく出演していたキャストなのだろう。昭和44年(1969)から平成7年(1995)まで、26年にわたり48本のシリーズものを成り立たせた渥美清はたしかに特異な俳優だった。ちかくに「寅さん記念館」がある。

柴又帝釈天 帝釈堂
柴又帝釈天 帝釈堂

帝釈天の縁起、沿革は公式ホームページにまかせよう。日光東照宮陽明門を模したといわれる二天門は総ヒノキ造りに壮麗な彫刻を施した重厚な山門である。極彩色の陽明門にくらべ、優美ですがすがしい。門をくぐると、瑞竜の松が枝を拡げ、正面に帝釈堂の偉容が現れる。中にはいらないで外回りを一周した。見事な彫刻がふんだんにあるらしい。内外二重のガラス張りの回廊が設けられ、観客は水族館のトンネルを歩くように、ガラス越しに彫刻美を鑑賞する。

野菊の墓文学碑 西蓮寺 下矢切 松戸市
野菊の墓文学碑 西蓮寺 下矢切 松戸市

僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。 秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。 東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。 村はづれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。 ここから見おろすと少しの田圃がある。 色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打……

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僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。 秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。 東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。 村はづれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。 ここから見おろすと少しの田圃がある。 色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、胸のすくやうな眺めである。 伊藤左千夫著 野菊の墓より 昭和39年10月 門人 土屋文明識 野菊について 「野菊」という花は、山野に咲く数種の菊を総称したものであり、「野菊」という名の花はありません。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどがあり、いずれも白か淡青紫色で田のあぜや川べりに生える多年草です。 さて、小説『野菊の墓』には、正夫が「民子さんはどうみても野菊の風だ」民子が「正夫さんはりんどうのようだ」という記述がありますが、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうか。 矢切地区風致保存会

帝釈天の横の道をそのまま進むと江戸川堤防にぶつかり、土手をおりて広い河川敷公園をよこぎると矢切の渡しにでる。江戸時代初期、地元民の生活向けに設けられた渡し場で、現在も運行されている数少ない渡しだ。片道100円と手ごろな上に手漕ぎの船に乗せてくれるので観光客にも人気がある。この渡しは伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906)によって全国的に有名になった。15歳の政夫と二つ年上の従姉民子との純真可憐な恋物語である。川向こうの松戸市矢切側に文学碑が建立されている。60ページほどのその短い小説をはじめて読んだ。二人の会話は思春期の初恋そのものだ。

野菊を手にした二人の幸福な会話から、この結びに至る悲しい運命の物語を、涙なくして読むことはできなかった。

矢切の渡し 柴又7丁目
矢切の渡し 柴又7丁目矢切の渡しは、江戸時代初期、地元民専用に耕作・日用品購入・社寺参詣などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつです。この渡しが全国的に有名になったのは、明治時代に入り、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906)によって。現在 にこの小説の が建立されています。 「葛飾区産業情報ホームページ」より

乗り場の柳の枝影に一人のおじさんが花火などを並べながら、船待ちの学生風の若者と、ゆったりと話をしていた。いつ船が来るという時刻表もないようだ。

「あと3分くらいでくるよ」

江戸川の川幅は意外とせまく感じられ、おじさんは対岸の渡し舟の様子がよくわかるらしい。この若者は向こう岸についてから徒歩でどこへ向かおうというのだろう。政夫は学校が休みになるたびに、民子にであえる喜びにみちて、この渡し船で矢切の実家に帰省した。

佐倉道道標 京成自動車学校前 柴又4丁目
佐倉道道標 京成自動車学校前 柴又4丁目

佐倉街道はかって江戸から佐倉に通じる街道として栄えていました。 日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(江戸川区)をぬけ、江戸川を渡しで越え、下総の村々を経て佐倉に達していました。 東海道等の五街道に匹敵する程の重要な道でありました。 当時、この佐倉街道を通行した大名は下総佐倉藩の堀田氏をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。 なお……

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佐倉街道はかって江戸から佐倉に通じる街道として栄えていました。 日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(江戸川区)をぬけ、江戸川を渡しで越え、下総の村々を経て佐倉に達していました。 東海道等の五街道に匹敵する程の重要な道でありました。 当時、この佐倉街道を通行した大名は下総佐倉藩の堀田氏をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。 なお、この街道は江戸中期以降、江戸から成田山や千葉寺に参詣する大勢の旅人があったので成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれていました。 現在は柴又七福神めぐりのコ-スとしても利用され、また防災避難広場である江戸川河川敷へのルートに指定もされています。

街道にもどって、京成金町線踏切をこえる。佐倉道を校名にしたような「桜道中学校」の前の路傍に、「さくらみち」「旧佐倉街道」の新しい石標がたっている。柴又七福神めぐりのコースでもあるためか、七福神を乗せた宝船の浮き彫りを施して、その下に街道の説明が記されていた。佐倉藩主をはじめ、房総十数藩の大名が通った他、成田へ通じる参詣道であり、成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれたとある。おなじ石標がこの後二か所でも見かけた。

小岩

親水さくらかいどう 北小岩8丁目 江戸川区
親水さくらかいどう 北小岩8丁目 江戸川区

この道は、江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交替の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されて来ました。 また、水路は明治に入り永年水不足に苦しんでいた農民の願いを、石井善兵衛氏が中心となって、江戸川の水を取り入れたものです。 その後農業用水路から排水路として利用され、下水道の整備によりその使命を終えました。 このように歴史的由緒ある水路は、魚の泳ぐせせら……

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この道は、江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交替の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されて来ました。 また、水路は明治に入り永年水不足に苦しんでいた農民の願いを、石井善兵衛氏が中心となって、江戸川の水を取り入れたものです。 その後農業用水路から排水路として利用され、下水道の整備によりその使命を終えました。 このように歴史的由緒ある水路は、魚の泳ぐせせらぎと桜並木の散策路として生まれかわりました。 平成元年4月

北総鉄道の高架をくぐり柴又街道と交差して江戸川区に入る。昔の柴又村・鎌倉新田の境界であった。「親水さくらかいどう」の標識があって、街道の北側が並木と細い水路を配した遊歩道に整備されている。もともと街道沿いに、利根川から引いていた農業用水路が流れていた。

小岩水上バス乗り場 小岩菖蒲園川端
小岩水上バス乗り場 小岩菖蒲園川端

静かな住宅街をとおりすぎると「親水さくらかいどう」は江戸川の土手に出ておわる。天祖神社の手前の二股道を右にとるのが旧街道。ただし車は北行き一方通行で入れない。京成江戸川駅を越える。北野神社を右に見て、そのさきの角地にかっての旅籠屋だった角屋旅館がある。ブロック塀を背にして「御番所町跡」の案内板が立っている。このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の渡しと関所があった。今はその北よりの河川敷が小岩菖蒲園として整備され、その川縁には葦に隠れるようにして水上バスの乗り場があった。京成線の上手にあたり、絶え間なく鉄橋を電車が渡って、風景を厭きさせない。

またここは、水戸街道から下りてきた佐倉道と、浅草橋からの近道、元佐倉道が合流したところでもある。今で言えば、佐倉道の細道と、国道14号の千葉街道・元佐倉道が江戸川交差点でぶつかり、ともに東に折れて市川橋をわたることになっている。

御番所町跡 角屋旅館 道標 北小岩3丁目 江戸川区
御番所町跡 角屋旅館 道標 北小岩3丁目 江戸川区

御番所町の慈恩寺道石造道標 江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東33観音もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹 は、12番札所として関東各地から参詣者を集めていました。このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の関所がありました。 この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ……

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御番所町の慈恩寺道石造道標 江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東33観音もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹 は、12番札所として関東各地から参詣者を集めていました。このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の関所がありました。 この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えたと思われます。銘文は安永4年(1775)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の三方向を示しています。 銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左り江戸本所ミち 右面 左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 平成15年2月 江戸川教育委員会

角屋旅館の斜め前に、安永4年(1775)に建てられた道標があって、岩附・江戸・市川の三方向を示している。

正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左り江戸本所ミち

右面 左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛

左面 右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門

「岩附志おんじ」とは「岩槻慈恩寺」のこと。日光御成り街道から1kmほど離れたところに寄り道していったものだが、はるかここから道しるべのターゲットになるほどの有名なお寺とは知らなかった。近くの宝林寺境内に、もと小岩市川渡の江戸川岸に建てられていた立派な常灯明が保存されている。

市川

市川関所跡
市川関所跡

江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し舟と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文「東路の津登」のなかで、市川に渡があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。 やがて、江戸に幕府が置かれる……

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江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し舟と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文「東路の津登」のなかで、市川に渡があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡し場で旅人を調べる「定船場(じょうふなば)が設けられた。 古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。 これらの関所には取締りが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、 名主の能勢家 が取り調べをする役人を補佐した。 また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2~3隻の船を用意し、川端に小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。 そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍との激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行はじ続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。 平成16年7月 市川市

市川橋で江戸川を渡り土手を左にはいったところに市川関所跡の石碑が立っている。渡しがあった方面を見渡すと、京成線鉄橋の下を若者が白波を立てて水上スキーに興じていた。この付近は遠く奈良・平安の時代から渡し舟と馬継の施設があったという古い土地柄だ。市川公民館横の大門通りを北に進むと、万葉集にちなんだ案内板や史跡があちこちにみられる。このあたりは砂州を縫って真間の入江がはいり込んでいた。通行のために、入江の杭に継板を渡した「継橋」が転々とつづいていた。

葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の 船人騒ぐ波立つらしも 第14巻 3349

真間の紅葉手児那の社継ぎ橋 広重 名所江戸百景
真間の紅葉手児那の社継ぎ橋 広重 名所江戸百景真間の紅葉とは の北、 の境内にあった楓の木(この絵の前景)。昔このあたり一帯は真間の入江で砂州がつらなり、その間を がつないでいた。

真間の浦廻とは、現在の市川市域の海岸線を指したものです。しかし、万葉時代の海岸線は今日とはまったく異なった地形だったと考えられます。

当時、下総国府の置かれた国府台をはじめ市域に属する下総台地の前面には、東西に長く市川砂州がつくられていました。そして台地と砂州との間には真間の入江が奥深く入り込んでいたのです。

さらに江戸川は上流から土砂を運んで、行徳の地域が形成されていきました。このような海岸線を当時は真間の浦廻と呼んでいたのです。

海に近い下総国府には、国府の外港としての国府津が、この浦廻の何処かに置かれていたのでしょう。だから船人の騒ぎの様子も知ることが出来たのであり、其処はさぞかし出船、入船で賑わいを極めていたことでしょう。

平成2年3月 市川市教育委員会

手児奈(てこな)霊堂 真間
手児奈(てこな)霊堂 真間

大門通りの入江橋を渡り、真間の継橋を通って、手児奈霊堂をたずねる。

万葉の時代、真間には手児奈(てこな)というたいそう美しい女性がいた。多くの男性から言い寄られて、悩んだ末に海に身を投げたという。美女の悲運伝説はその後山部赤人他多くの歌人に詠われた。

大門通りの正面は国府台地にぶつかり、背の高い石段を大股で上りつめると仁王門のうしろに弘法寺がある。奈良時代の天平9年(737)、行基が真間の地を訪れたとき、手児奈の霊を供養して建てたものだ。「求法(ぐほう)寺」と名づけられたが、その後弘仁13年(822)に弘法大師(空海)が七堂伽藍を整備して「真間山請弘法寺」と改めた。

国府台城跡 里見公園 国府台3丁目 市川市
国府台城跡 里見公園 国府台3丁目 市川市

文明11年(1479)7月大田道灌は千葉自胤を援け、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりと伝えられている。その後天文7年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭(よしたか)をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、……

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文明11年(1479)7月大田道灌は千葉自胤を援け、臼井に籠もる千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起こりと伝えられている。その後天文7年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭(よしたか)をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、永禄7年(1564)正月、里見義尭の子義弘は、兵8千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の2万余騎を迎え討った。里見勢は緒戦において大勝をえたが、翌朝、里見勢の油断をついて国府台城に攻め込んだ北条軍のため、城中は大混乱に陥りたちまち5千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。以後、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正18年(1590)徳川家康が関東を治めるや国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり家綱のとき関宿より総寧寺を移した。その後明治になって陸軍教導団が移され、以来終戦に至るまで国府台上は兵舎の建ち並ぶ軍隊の街となったのである。昭和34年(1959)この地を公園とし、「里見公園」となづけた。現在、園内には二重に囲まれた土塁とその間に残る空濠の跡を窺うことができる。 これは天文、永禄の合戦に里見軍の構築したものと思われる。数千の戦死者を出したこの合戦に後世里見将士の霊を慰めるため三基の慰霊碑が建てられた。 江戸川から吹き上げる松籟は、ただ兵どもの夢の跡を追うのみである。 市川市教育委員会

弘法寺の北側は千葉商科大学をはさんで国府台公園があり、その東方には下総国分寺がある。江戸川沿いの里美公園から国分寺にかけては、下総国府を中心とする古代の政治の中心地であっただけでなく、中世には伊豆から逃れた源頼朝が千葉氏を頼って再起を図った場所であり、室町末期には足利・北条・里美各氏をまきこんだ国府台の戦いの戦場跡であり、近世では戊辰戦争の激戦地でもあった。『野菊の墓』文学碑が立つのどかな矢切り村からさほど遠くもはなれていない市川村は、激動の歴史を包んだ忙しい土地であった。

街道に戻って八幡の宿に足をすすめる。市川西消防署の先の歩道に、建物から離れて道標が立つている。天明元年(1781)の建立で、正面には「青面金剛」とあり、側面には、それぞれ「東 八わた十六丁、中山一里」「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」と刻まれている。「江戸両国」とは「元佐倉道」を想定してのことだろう。

住宅街 新田5丁目 市川
住宅街 新田5丁目 市川

新田地区にはいると左手に松並木とおもえるほど黒松の姿が目に付く。もしかすると旧道ではないかと疑って、住宅街にはいってみた。黒松を塀でとりこんだ大きな屋敷が続いている。建物じたいはモダン造りで、街道筋の豪農を思わせる旧家という雰囲気ではない。高度経済成長期の昭和年代には企業の社長宅や妾宅が多くあったという高級住宅街だ。松は旧街道の松並木ではなくて、市川海岸の松原の名残りだろうか。

諏訪神社 平田2丁目 市川
諏訪神社 平田2丁目 市川平田緑地保全地区 本緑地は、諏訪神社の境内林と一連の樹林より成り、かっての海辺地の黒松林の様相を呈して、地域を代表するすぐれた景観を有していることから、都市住民の良好な生活環境を確保するため、都市緑地保全法に基づいて指定したものです。指定区域 市川市平田町2丁目の一部 千葉県・市川市 昭和57年2月設置

京成線菅野駅に入る道の入口に二基の道標をみて、平田地区に入る。

左右に黒松が立ち並ぶせ細い参道をすすんで諏訪神社を見る。東隣りの空き地は外環高速道路建設予定地である。三郷から松戸までは工事中だが、このあたり民家の立ち退きが完了したふうにもみえない。この空き地にも松の木は残っていた。一連の黒松景観は「松平田緑地保全地区」として保護されている。

八幡

都営新宿線本八幡駅のあたりから市川市役所をすぎて真間川までが八幡宿だったらしいが、街道筋の家並みに宿場の面影をもとめることはできない。江戸から来る旅人の多くは遊郭で賑わった船橋宿をめざし、八幡は通過するだけだったという。本陣、脇本陣はなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという記録がのこっている。

下総国総鎮守葛飾八幡宮 八幡4丁目 市川
下総国総鎮守葛飾八幡宮 八幡4丁目 市川

寛平年間(889~898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬された。治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190~1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。 また、文明11年(1479)大田道灌は臼井城の千葉考胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正1……

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寛平年間(889~898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬された。治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190~1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。 また、文明11年(1479)大田道灌は臼井城の千葉考胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印52石を供御して崇敬している。 (中略)山門の仁王像は(行徳の徳願寺に)移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随神門とよばれるようになった。 以下略 昭和54年3月 市川市教育委員会

八幡2丁目の歩道橋の手前に葛飾八幡宮の案内板が立っている。京成線の踏切を越えると銀杏並木のうしろに朱色の随神門があらわれる。元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に門の名前もかえられた。葛飾八幡宮は9世紀末の創建で、下総国総鎮守の古社である。伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。境内には多数の樹幹が寄り集まった「千本公孫樹」とよばれる銀杏の大樹が、目通し周囲10mをこす重量感で他を圧倒している。

参道にはこの地に梨栽培をひろめた川上善六(1742~1829)の「川上翁遺徳碑」が建っている。18世紀の半ば、善六は岐阜から良種の梨を持ち帰り梨園を開いた。江戸市場で人気を得て、八幡一帯には多くの梨園がひろがった。八幡は市川梨の発祥の地である。

不知八幡森(八幡の藪知らず) 八幡2丁目 市川
不知八幡森(八幡の藪知らず) 八幡2丁目 市川

(抜粋) 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。・・・一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。入ってはいけない理由については・・・いろいろ言われてきました。・・・その理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生(……

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(抜粋) 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。・・・一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。入ってはいけない理由については・・・いろいろ言われてきました。・・・その理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生(ほうじょう)池」の跡地であったからではないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。・・・「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。 平成16年3月 市川市教育委員会

街道に戻る。道の反対側に広がる竹薮は八幡不知森(八幡の藪知らず)として古くから全国に知られていた。いったん入り込むと出てこられないという伝承があるが、その理由については諸説があって定まっていない。

道は真間川をわたり鬼腰2丁目のT字路にさしかかる。左に木下(きおろし)街道(県道59号)が分岐している。右手に煉瓦造りの蔵をかまえる古い屋敷は中村邸で、木下街道に立ちはだかるようにある。芭蕉が鹿嶋神社に詣でたときは、行徳で船をおりて、陸路ここを通って利根川まであがっていった。

日蓮宗大本山 法華経寺 中山 市川
日蓮宗大本山 法華経寺 中山 市川

正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が……

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正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並び立って一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文14年(1545)以後のことです。(中略)寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉に向けて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国的に知られています。 平成10年12月 市川市教育委員会 祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中2年(1325)に上棟した小規模な五間堂でした。その後、焼失などのため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝6年(1678)に上棟されたものです。建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。(中略)昭和62年から始まった解体修理は10年の歳月を費やして平成9年に完了し、建立当初の姿に復元されました。 平成11年3月 市川市教育委員会

船橋市にはいって、すぐに人通りの多い中山駅交差点にくる。右は総武本線の下総中山駅。左におれると京成中山駅の踏切を越えて、日蓮宗大本山中山法華経寺に向かう。中山参道商店街を進み総門、山門をくぐりぬけると世界を別にしたような一大寺院コンプレックスが現れる。参道の両側の樹林に、いくつもの寺院が潜んでいる。

日蓮宗大本山 法華経寺 中山 市川
日蓮宗大本山 法華経寺 中山 市川

奥に控えるのが法華経寺の大伽藍だ。掃き清められた境内の左手隅に、傾きはじめた逆光のなかで白菊の反射をうけてたたずむ観音菩薩の神々しい姿があった。中央の祖師堂は入母屋造りの屋根を比翼にならべて優雅な佇まいをみせている。右手の林のなかには青銅大仏の威容と、紅色の繊細な細身の五重塔が対照的な美を競っている。

船橋

東中山1丁目 船橋
東中山1丁目 船橋

道は東中山地区にはいってはじめて旧街道らしい気配をみせた。車の流れは相変わらずだが、道はゆるやかな蛇行を描き、道に沿って板塀と門を配した趣のある民家をいくつか見ることが出来た。それも中山競馬場入口交差点までの、つかの間の幸せだった。

武蔵野線の高架をくぐる。西船橋駅付近の歩道は自転車が氾濫していた。

右からJRの地下道を抜け出てきた県道179号船橋行徳線が合流する。

念仏堂・元禄7年銘道標 海神1丁目17 船橋
念仏堂・元禄7年銘道標 海神1丁目17 船橋

この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に明暦3年(1657)の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられている。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐治右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の寺院の形を整えたものと思われる。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来像は寄木造り、鎌倉時代初期前後(……

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この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に明暦3年(1657)の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられている。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐治右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の寺院の形を整えたものと思われる。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来像は寄木造り、鎌倉時代初期前後(12世紀頃)の作である。端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手になるものと考えられる。縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にあったが寺が廃絶し、一時小金の東漸寺に移されたものを、高麗屋佐治右衛門がこの堂に納めたといわれている。墓地内には戊辰戦争(1868)の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もある。 1992年3月 船橋市教育委員会

海神交番前で、旧道は左手に入っていく。総武本線の陸橋をわたり終わったところを鋭角に右に入っている道がある。陸橋の下あたりで旧行徳街道と成田街道が合流していた。その地点にあった道標が、行徳街道をすこし進んだところにある海神念仏堂に移されている。元禄年間に江戸神田の高麗屋佐治右衛門が寄進したという観音堂の前に、三角頭の道標が大きな字で「右いち川みち 左行とくみち」と示していた。市川道とは他ならぬ佐倉・成田道のことである。

船橋新地 元遊郭 本町2丁目19-7 船橋
船橋新地 元遊郭 本町2丁目19-7 船橋

青少年センター前の信号と、国道14号沿いの船橋郵便局にはさまれた本町2丁目の一角は、江戸時代の遊郭が移転してきた新地である。昔は成田山参詣の客をあつめ、昭和の時代も東京ベッドタウンの歓楽街として賑わっていた。現在も郵便局の正面路地には小さなスナックや小料理屋が長屋をなしている。旧道をひとすじなかに入ったところに若松劇場という、いまどきなつかしいストリップ劇場がある。前には若い女性の写真をかかげた宣伝カーが手持ち無沙汰なふうでとまっていた。日が傾く頃になれば出動するのだろう。その近くに、かっての吾妻屋という妓楼だった建物が残っている。立ち入り禁止の貼り紙がしてあり、木造二階建ての建物はかなりいたんではいるが、それでも二階をめぐる勾欄は当時の遊郭の面影を偲ぶことが出来る。江戸から来るものも、成田詣でから帰るものも、もっぱらこの宿場で一泊していったという背景には遊郭の存在があった。

西向地蔵尊 本町2丁目 船橋
西向地蔵尊 本町2丁目 船橋昔の船橋宿の入口で、地元の伝承では罪人のお仕置き場であったという。ここには市内最古の石仏である万治元年(1658)の地蔵がある。

船橋宿の入口にあたる場所に西向地蔵堂がある。宿場の出入り口に地蔵を立てるのは、そこで疫病、厄災を防ぎとめ宿内に入り込まないようにという願いがこめられていた。京成・JRの船橋駅前通りから海老川までの区間が最もにぎやかな通りである。船橋は、佐倉道(成田道)をはじめ、御成街道、木下街道の陸路が交錯する交通の要衝であった。

船橋御殿跡と東照宮 本町4丁目 船橋
船橋御殿跡と東照宮 本町4丁目 船橋

徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永7年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続……

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徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永7年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。 1992年3月 船橋市教育委員会

道の両側に宿場街を象徴するような古い商家が向かい合っている。南側は広瀬直船堂、北側には森田呉服店。本町4丁目の信号を左にまがると正面に御蔵稲荷神社がみえる。その前の路地を御殿通りといい、家康が鷹狩に行った際に立ち寄った御殿があった。今は、二筋目の右手奥に日本で一番小さいといわれる東照宮がある。本陣や高札場跡は残っていないがこのあたりが宿場の中心地だったものと思われる。

船橋地名発祥の地 海老川 長寿の橋 本町-宮本 船橋
船橋地名発祥の地 海老川 長寿の橋 本町-宮本 船橋

古い伝説によれば、船橋という地名の起こりは、この海老川の渡しに由来する。古代の英雄が東征の途次 此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたという。海老川は長く住民に親しまれてきた。春堤に風吹けば花蝶遊び秋淵に水澄めば魚麟踊るといった時代を経、近年の都市化の中で浸水被害が繰り返され流域住民にとって恨みの川となったが、今、市制50周年の記念すべ……

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古い伝説によれば、船橋という地名の起こりは、この海老川の渡しに由来する。古代の英雄が東征の途次 此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたという。海老川は長く住民に親しまれてきた。春堤に風吹けば花蝶遊び秋淵に水澄めば魚麟踊るといった時代を経、近年の都市化の中で浸水被害が繰り返され流域住民にとって恨みの川となったが、今、市制50周年の記念すべき年に当り国、県の御協力を得、市の総力を結集し、河川及び橋梁を改修。希望の川として蘇ることとなった。 昭和62年7月25日 船橋市長

海老川をわたる。橋の欄干に船橋という地名の由来を記したプレートが設置されている。古代の英雄が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたという。海老川の河口が船橋湊である。

船橋大神宮意富比(おおい)神社 宮本5丁目 船橋
船橋大神宮意富比(おおい)神社 宮本5丁目 船橋景行天皇の御代40年に皇子日本武尊が東国御平定の途次この地に到らせられ、伊勢皇大神宮の御分霊と奉斎なされ、同53年に天皇御東行の砌、日本武尊の御事蹟を御追憾、意富比神社の称号を賜る。 以下略 宮司

街道は京成電鉄の踏み切りを渡り、船橋大神宮の鳥居前に出る。意富比(おおい)神社とよばれ、縁起は日本武尊の東征のころにまでさかのぼる由緒ある神社だという。縁日であろうか、参道には屋台が出て、境内で植木市が開かれていた。釜、包丁などの刃砥や鍬、鋤など農具の修理をする店が地方色をそえている。松の茂みから顔だけ出しているのは明治時代につくられた東京湾最古の木造灯台である。城郭風の建物の上に洋風の燈塔を頂いて、船橋湊のシンボルだった。

成田街道入口 御成街道(県道69号)起点 前原西1丁目 船橋市 千葉県
成田街道入口 御成街道(県道69号)起点 前原西1丁目 船橋市 千葉県

御成街道(東金街道)について 御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。家康の東金への鷹狩等のために作られたとも言われ、船橋から東金までほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り東金周辺で鷹狩等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになると言うのでお成り街道と呼ばれたと言います。(前……

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御成街道(東金街道)について 御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。家康の東金への鷹狩等のために作られたとも言われ、船橋から東金までほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り東金周辺で鷹狩等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになると言うのでお成り街道と呼ばれたと言います。(前原西1丁目)は御成街道と 東金街道* との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面には「成田山 従是房総街道」(御成街道を房総街道としています。) 左側面には「成田山道」と刻まれています。江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次の様におかれていました。 東金街道* は成田街道の誤り ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ 殿山 東金市黒田

大神宮の北側の坂道をあがり、中野木交差点を真っ直ぐ東にすすむと、やがて成田街道入口の丁字路に出る。東北角に輪宝を乗せた石柱道標がたっている。大きな文字で三面に「成田山道」と彫られた立派なものだ。成田街道(国道296号)はここで左におれ、大和田宿(八千代)にむかう。他方、直進して上総東金までほぼ直線に通じる道は「御成街道」とよばれ、家康が東金で鷹狩りをするために、慶長19年(1614)、佐倉城主土井利勝に造成させたものである。街道沿いの村々総出で、1ヶ月足らずの突貫工事でつくらせたもので、「一夜街道」とも呼ばれた。鷹狩道路とは表向きであって、実際は半島の南端、館山に拠する外様勢力里見氏を牽制するための軍用目的も兼ねたものであったといわれている。

庚申塔群・道標(右なりた道) 前原西1丁目
庚申塔群・道標(右なりた道) 前原西1丁目

庚申様の由来 朱雀天皇の天慶2年(939)庚申のお遊びありと「貞丈雑記」に考証しxxxり、平安の昔より大宮人が夜を徹して行われxx言う。江戸中期延宝5年xxx前原新田開発の祖、東野新助村人に信仰心の必要をとき庚申を祭り庚待ちと称し開墾に従事xx者を会し饗応し農談をなし農事を奨励せしという。 (中略) 現代で言う住民のコミュニケーションと産業振興に寄与された先覚者の政治力に敬服せねばならない。 昭和……

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庚申様の由来 朱雀天皇の天慶2年(939)庚申のお遊びありと「貞丈雑記」に考証しxxxり、平安の昔より大宮人が夜を徹して行われxx言う。江戸中期延宝5年xxx前原新田開発の祖、東野新助村人に信仰心の必要をとき庚申を祭り庚待ちと称し開墾に従事xx者を会し饗応し農談をなし農事を奨励せしという。 (中略) 現代で言う住民のコミュニケーションと産業振興に寄与された先覚者の政治力に敬服せねばならない。 昭和53年4月16日 農事奨励事蹟より 札場町会

丁字路を成田道にすこし入ったバス停の後ろに、庚申塔などの石仏群があり、右端の不動明王像の台石に、大きな文字で「右なりたみち」と刻まれている。道標の上に小さな不動明王が乗っかっているといったほうが似つかわしい。そばの立て札には札場町会による「庚申様の由来」が記されていた。平安時代の昔から行われてきた民俗信仰だという。

江戸時代、ここから先前原から薬円台にかけては広大な原野が広がっていた。幕府が設けた小金牧の一つで下野牧という。明治時代、この原で明治天皇をむかえて近衛兵の演習がおこなわれ、その折この地を「習志野」と名づけられたという。薬円台にある船橋市立郷土資料館の駐車場の奥に、その記念碑が建てられた。

習志野地名発祥の地 附明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処の碑

この地域一帯は、江戸時代には徳川幕府の下総小金五牧のうちの下野牧の一部で、小金原あるいは大和田原といわれ、野馬の放牧が行われていた。明治6年、この原で近衛兵の天覧演習が行われ、明治天皇は4月29日、県下に初めての行幸をされた。(中略)天皇は翌30日に演習をご覧になり5月1日皇居へ還御された。同13日、天皇より勅諭をもって、この原に「習志野の原」の名を賜り、これが現在の「習志野」の地名の発祥とされている。「習志野ノ原」は昭和20年まで陸軍演習地として使用された。以下略

1994年(平成6)8月 船橋市教育委員会

血流れ地蔵道道標 新木戸交差点 大和田新田
血流れ地蔵道道標 新木戸交差点 大和田新田

これは、貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標です。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)に、ここ新木戸三叉路に建てられました。次のような銘文が刻まれています。 (正面) 血流地(蔵)道 (左面) 貞(福寺) (右面) 右江成田 左江江(戸)道 貞福寺は、ここから左に入り木下街道を4kmほど進んだ吉橋にあります。吉橋には「吉橋城主高木伊勢守胤貞が後北条氏に滅ぼされたあと、主君の守り……

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これは、貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標です。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)に、ここ新木戸三叉路に建てられました。次のような銘文が刻まれています。 (正面) 血流地(蔵)道 (左面) 貞(福寺) (右面) 右江成田 左江江(戸)道 貞福寺は、ここから左に入り木下街道を4kmほど進んだ吉橋にあります。吉橋には「吉橋城主高木伊勢守胤貞が後北条氏に滅ぼされたあと、主君の守り本尊を遺臣が血流地蔵として貞福寺にまつった」という伝承があります。この道標は、今まで上部だけがここに置いてあり、下半分は道路工事のために側溝の下に埋まっていました。 以下略 平成14年5月 八千代市郷土歴史研究会

その後、演習地は陸軍-陸上自衛隊に受け継がれ、街道の右側には習志野駐屯地が延々と続いている。八千代市に入ると、すぐ新木戸の三叉路がある。左にいく道(県道57号線)は鎌ヶ谷を経て木下街道に合流する旧道だ。交差点角の電柱の足元に、上下をセメントで繋いだ古い道標がたっている。説明板には貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標とある。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)に建てられた。右面の表示が成田道である。

(正面) 血流地(蔵)道

(左面) 貞(福寺)

(右面) 右 江 成 田

左 江 江(戸)道

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