全長 8km 歩き終えています

成田街道(行徳ルート)

行徳-妙典-田尻-原木-印内-山野-海神

江戸から成田へ通じる道はいくつもあったが、多くは陸路2つと海路1つのどれかを利用した。佐倉藩主が参勤交代につかった、千住を経由して水戸街道の新宿でわかれる公式ルート、日光街道浅草橋から両国橋を渡り、竪川通りを東進する「元佐倉道」、そして日本橋小網町から船に乗り、小名木川、新川の掘割水路を利用して本行徳へ上陸し、行徳街道~寺町通りから妙典へ向かい船橋海神で、成田街道本道に合流するルートである。船旅が魅力で、最も人気が高かった。

常夜燈 行徳4丁目 市川市 千葉県
常夜燈 行徳4丁目 市川市 千葉県

行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永9年(1632)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当所16艘であったが、寛文11年(1671)には53艘となり、嘉永年間(1848~54)には62艘にふえた。 これらの船は明け六ツ(午前6時)から暮れ六……

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行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永9年(1632)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当所16艘であったが、寛文11年(1671)には53艘となり、嘉永年間(1848~54)には62艘にふえた。 これらの船は明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで から、ここ行徳新河岸の間を往復したので、行徳船と名づけられ、その間3里8丁(12.6km)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。 行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡邊崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化、文政(1804~30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は非常に賑いをきわめたのである。 今に残るこの常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して新勝寺に奉納したものである。高さ約4.5m 現在の位置は堤防構築のため、多少移動はしているが、かって繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。 市川市教育委員会

伊勢宿から二つ目の鉤の手を通り越したところで、左にはいる道の突き当たりに、行徳のシンボルである常夜燈が立っていた。ここが日本橋小網町との間を往復していた行徳船の発着場である。堤防越しに旧江戸川をのぞきこむと、近くに船着場跡らしき接岸場所を見たような気がした。

笹屋うどん跡 行徳4丁目
笹屋うどん跡 行徳4丁目

本行徳の笹屋は、江戸時代うどん屋として繁盛した店でした。船着場近くに位置していたため立ち寄る旅人も多く、紀行文などにも記されています。 市川教育委員会 「行徳の里に到り笹屋といへるにやすらひはべる。此處は饂飩の名所にて、往来の人足を留め、饂飩、蕎麦切たうべんことを、せちに乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、未だそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、御亭主の手打ちの饂飩待ち兼ねていづれも首を……

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本行徳の笹屋は、江戸時代うどん屋として繁盛した店でした。船着場近くに位置していたため立ち寄る旅人も多く、紀行文などにも記されています。 市川教育委員会 「行徳の里に到り笹屋といへるにやすらひはべる。此處は饂飩の名所にて、往来の人足を留め、饂飩、蕎麦切たうべんことを、せちに乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、未だそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、御亭主の手打ちの饂飩待ち兼ねていづれも首を長くのばせり」 『南総紀行旅眼石』 十返舎一九

船からおりて行徳街道に向かう人、船の出発時間を待つ旅人の多くが利用したという「笹屋うどん」の店が街道沿いに残されている。江戸時代といわず、古くは源頼朝が安房に逃れてきたときに寄ったという伝えもあるほどの老舗だった。古川柳が伝わっている。

行徳を下る小舟に干しうどん

さあ船が出ますとうどんやへ知らせ

田中邸・芭蕉句碑 本行徳(行徳3丁目)
田中邸・芭蕉句碑 本行徳(行徳3丁目)月はやし梢は雨を持ながら 鹿島紀行 福沢諭吉門下生だった先々代田中栄次郎が明治初年に建てたもの。左米蔵はミニ博物館。田中家はかって塩田の所有者であった。 前に芭蕉句碑

左手に老舗の浅子神輿店がある。作業場は通り向かいの新宅にあり、裏から完成まぢかの作品を見ることが出来た。すぐ先には加藤宅、行徳3丁目バス停隣はかっての行徳塩田所有者であった塩場師(ショバシ)田中家の邸宅である。いずれも繊細な格子が美しい旧家だ。田中邸の軒先に芭蕉句碑があった。鹿島での一句である。

月はやし梢は雨を持ながら

この辺の本行徳地区(街道筋バス停でいえば行徳4丁目から北へ1丁目まで)が行徳宿の中心だったようだ。

(神明)豊受神社 行徳1丁目 市川市 千葉県
(神明)豊受神社 行徳1丁目 市川市 千葉県

本社の起こりについては、金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中洲(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して神明社を建立したのに始まるといいます。金海法印は土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く行いが正しかったところから、多くの人々に「行徳さま」と崇め敬われたといいます。この「行徳さま」がやがて行徳の地名になったというのですが金海法印が行徳を訪れたのは大永7年(1527)のこと……

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本社の起こりについては、金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中洲(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して神明社を建立したのに始まるといいます。金海法印は土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く行いが正しかったところから、多くの人々に「行徳さま」と崇め敬われたといいます。この「行徳さま」がやがて行徳の地名になったというのですが金海法印が行徳を訪れたのは大永7年(1527)のことといい、また天文11年(1542)のこととも、慶長19年(1614)のことともいわれています。(中略)現在、3年に一度の祭礼には、御輿渡御の行事が行われ、大御輿が町内を錬廻りますが、その勇壮な揉み方に特色が有り、揉み方保存会がその継承に当たっています。(後略) 平成2年3月 市川市教育委員会

行徳1丁目のバス停近くに豊受神社がある。16世紀前半のころ金海法印という山伏が建立したといわれている小さな神社だ。この山伏は徳が高く行いが正しくて人々から「行徳さま」と崇められたという。山伏の愛称がそのまま地名になった。

寺町通り入口(左) 行徳街道・成田道 分起点市川市 千葉県
寺町通り入口(左) 行徳街道・成田道 分起点市川市 千葉県

交差点の角に「寺町通り」の標識がとりつけてある。かってはここに「成田道」の道しるべが建っていた。行徳ルートの成田街道はここからスタートする(道順)。寺町通りのすぐ右手に長松禅寺の入口がある。案内板に、山号の別称「塩場山」とあった。塩焼き労働者の信仰を集めていたという。

大きな通りが交差する。この通りの歩道の下を「内匠掘」の水が流れている。交差点の東北角に占めるのがこの地区では最大の徳願寺である。宮本武蔵ゆかりある寺として知られている。山門、鐘楼は古色が強い。

寺町通り東端・中島米店 旧成田道 妙典3丁目市川市 千葉県
寺町通り東端・中島米店 旧成田道 妙典3丁目市川市 千葉県
旧成田街道・江戸川から対岸田尻方面 妙典2丁目 市川市 千葉県
旧成田街道・江戸川から対岸田尻方面 妙典2丁目 市川市 千葉県現在、江戸川の本流は江戸川放水路として大正時代1919年に開削されたもの。元の流れは行徳橋の手前で「旧江戸川」として今井橋の下流で「新中川」を吸収して江戸湾に注ぐ。江戸時代、ここに川はなく道つづきであった。

寺町通りが終わって市川浦安線(県道6号)と交差し中島米店のところを左折する。新しい住宅街のなかにも昔ながらの店屋が残る、もの静かな妙典地区を通り過ぎる。左手に茅葺の四脚門が愛らしい妙好寺がある。まもなく、道は江戸川放水路(大正9年完成)に突き当たる。成田道はここで鉤手状にすこし下流側におれて、川向かいにある田尻に続いていた。川で分断された今は遠く行徳橋まで迂回しなければならない。対岸の成田道は川沿いの県道179号(船橋行徳線)である。

水管橋北詰 田尻5丁目 成田街道(行徳道)
水管橋北詰 田尻5丁目 成田街道(行徳道)常州信太郡江戸嵜瀬尾権六三男 橋楽橋九十六箇所之内 江戸浅草川戸町伊勢屋宇兵衛掛之 田尻村 名主喜右衛門

田尻5丁目で、右に出ている路地の奥に放水路に架けられた水管橋が見える。この路地の最初の十字路角に「橋楽橋(きょうらくはし)」と刻まれた立派な石碑が建っている。妙典からのびてきた成田道に架かっていた小さな石橋の証人である。

常州信太郡江戸崎瀬尾権六三男 橋楽橋 九十六箇所之内

江戸浅草川戸町伊勢屋宇兵衛掛之 田尻村 名主喜右衛門

碑にある伊勢屋宇兵衛という人物は百の石橋を架けた男として茨城県の民話にもでてくる著名人である。浅草花川戸で醤油問屋を営んでいた豪商で、江戸に通じる道に百を越える橋を架けた。通称「伊勢宇橋」と呼ばれていたようで、「橋楽橋」は96番目の橋であった。

民家 日枝神社バス停 成田街道(行徳道)
民家 日枝神社バス停 成田街道(行徳道)

このあたりから旧家や寺社が点在していて、旧道の面影が残っている。JA原木中山の前でなだらかなS字状にくねっているのは曲尺の手の名残であろうか。東京メトロ東西線の原木中山駅をくぐり、左手に日枝神社、つづいて原木山妙行寺の背の高い門が見えてくる。天文7年(1538)に円僧院日進上人によって開山された名刹で、遠く離れたところからでも「御祈祷の霊場 原木山妙行寺」の高い広告塔が認められる。

石仏群 二俣2丁目 成田街道(行徳道)
石仏群 二俣2丁目 成田街道(行徳道)青面金剛 二俣 左舟はしミち 文政6年(1823) 庚申塔 寛文6年(1666)

真間川に架かる三戸前橋をわたると、京葉道路の原木ICに出る。歩行者用の特設階段を上り、網のフェンスで遮られた陸橋をわたる。国道14号に出る道(県道180号)と右に分岐する県道179号の三叉路交差点に出る。右折していく179号が成田道である。水路に沿った細道を進むとすぐ右手水路の傍の木陰に、庚申塔と青面金剛塔が並んでいる。

馬頭観世音 印内町 船橋市
馬頭観世音 印内町 船橋市

道なりにJR京葉線のガード下を通り抜けて左の広い道を進む。印内町から山野町にはいる十字路で179号と別れ、細い逆一方通行の道にはいっていく。二俣地区を過ぎてからの道は西船橋駅周辺の開発区画整理等で、旧道の面影は全くない。街道は商店、マンションの間を斜めに走って意地をみせているようだ。夢庵レストランの前で広い道にでるがすぐに左斜めにはいっていく。真っすぐだった旧道を線路に平行な新しい道が分断しただけの話である。

高層マンション・アパートの建物を左に見て遠慮がちにつづく細道も終わりにちかづいたころ、山野町と海神町西との境界あたりの草むらに馬頭観音が世間に忘れられたかのようにあった。成田道の右側は大通りとの間に畑がきれいに耕されている。一息つかせてくれた左右の空き地が高層ビルで埋まるまでにそれほど時間はかからないであろうと思われた。最後の短かな斜め道をおわると線路に沿った広い道に合流する。右手にある船橋会堂は葬祭場のようだ。

念仏堂・元禄7年銘道標 海神1丁目17 船橋
念仏堂・元禄7年銘道標 海神1丁目17 船橋

この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に明暦3年(1657)の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられている。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐治右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の寺院の形を整えたものと思われる。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来像は寄木造り、鎌倉時代初期前後(……

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この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に明暦3年(1657)の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられている。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐治右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって浄土宗の寺院の形を整えたものと思われる。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来像は寄木造り、鎌倉時代初期前後(12世紀頃)の作である。端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手になるものと考えられる。縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にあったが寺が廃絶し、一時小金の東漸寺に移されたものを、高麗屋佐治右衛門がこの堂に納めたといわれている。墓地内には戊辰戦争(1868)の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もある。 1992年3月 船橋市教育委員会

海神町東にはいって竹材店がわずかに旧道の風情を残している。その先の変則十字路を左におれ、工事中の国道14号陸橋をくぐり抜けると右手に見慣れた景色が待っていてくれた。水戸街道経由の成田街道をきたとき、総武本線の陸橋をわたり終わったところを鋭角に右に入って、旧行徳街道と成田街道の追分道標が保管されているという海神念仏堂を訪ねていったのである。

(2006年8月23日)

行徳船航路 行徳街道 成田街道