今様奥の細道 22区間のうち1番目

今様奥の細道(1)

深川-千住(やっちゃ場)-草加-蒲生-越谷-春日部 (日光・奥州街道)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

深川

奥の細道を歩くことにした。大垣まで何年かかるか予定はたてていない。文学書『奥の細道』とは離れ、芭蕉の感傷にもこだわらず、ただ彼の旅路を借りてその21世紀的風景をながめ、気楽で自由な見聞と自分の写真趣味を楽しみたい。

資料1

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

深川

江戸みやげ屋 深川
江戸みやげ屋 深川

この地深川村は慶長元年(1596年)摂津からやってきた深川八郎衛門が干拓したものである。干拓者の姓をとって村の名とした。一帯は漁村で、魚の生け簀があった。幕府の魚御用商人であった杉山杉風(鯉屋市兵衛)が、その生け簀番小屋のひとつを芭蕉にゆずった。芭蕉にとっての最初の庵となる。

浜ではアサリがよくとれた。アサリの出し汁をご飯にぶっかけたものが深川めしとして名物になった。深川不動、深川江戸資料館付近に深川めしを食べられる所が多い。1200円が相場である。

万年橋 川船番所跡
万年橋 川船番所跡

川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。(中略)建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後 として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。 平成14年十月 江東区教育……

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川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。(中略)建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後 として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。 平成14年十月 江東区教育委員会

隅田川の東岸、小名木川に架かる万年橋の北詰めは芭蕉関係の記念館や碑が集中する芭蕉村である。

芭蕉が江戸に出てきたのは寛文12年(1672)、29歳のときであった。日本橋小田原町に住んだのち延宝8年(1680)都心を離れて深川村に移ってきた。佗びと風雅を求める生活に入ったのは芭蕉37歳の時のことである。杉風からもらったこの小屋には門人から贈られた芭蕉が茂り、近所の人々は「芭蕉の庵」と呼んだ。

芭蕉 大神神社 惣社 栃木市
芭蕉 大神神社 惣社 栃木市

「芭蕉」は決してわび・さびの風情ある草木とはいいがたい、熱帯植物を思わせる大型の植物である。芭蕉庵を描いた古い絵をみると幅広の葉は屋根まで達し庵をすっぽり覆い隠すほどであるが、ともかく俳人芭蕉はそれが気に入っていたらしい。

庵は江戸の大火で焼失し、その後場所もいつしか忘れられていった。大正6年(1917)の大津波のあとに芭蕉が愛した「石の蛙」と思われるものが見つかった。これを奉ったのが芭蕉稲荷神社で、赤い鳥居を構えた狭い一角に祠や句碑や記念碑を詰めこみ、ここを芭蕉庵跡ということにした。その「石の蛙」自身は芭蕉記念館の二階でガラスのケースに入れられている。かってはここに巨石に彫り込まれた古池蛙の句碑があったが、手狭になってきて近所の清澄庭園に移された。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

芭蕉庵史跡展望公園 深川
芭蕉庵史跡展望公園 深川

芭蕉稲荷の20m西に会議室一室だけの芭蕉記念館分館があり、その10坪ほどの屋上をテラスにして「芭蕉庵史跡展望公園」という仰々しい名前をつけた。確かに隅田川がよく見下ろせる。南方にはドイツ、ケルンの吊り橋を真似たというブルーの清洲橋が眺めよく、北にはオレンジ色した一対の橋塔が目立つ新大橋が展望できる。タイミングがあえば行き交う遊覧船も見える。

公園内には芭蕉の座像とちいさな水溜まりと芭蕉の植え込みがこじんまりと配置されていた。

小名木川河口-隅田川 清洲橋 深川
小名木川河口-隅田川 清洲橋 深川

日曜日の午後3時半、妻とふたりでたずねると公園に一人の先客がいた。しゃがんで水溜まりをのぞいている。

そのおじさんが急に私たちを手招いた。

「おどろいたねえ。こんなところにめだかがいるよ」

「ホントですかあ?」

しっぽをつけた黒ごまのような生き物がチョロチョロ群れ泳いでいる。

「それ、おたまじゃくしでしょ」

「ああ、そうだ。おたまじゃくしだった。どうしてこんなところに…」

僧衣をまとった芭蕉が宙を見つめて座っている。よく見るとノボーとした顔だ。記録写真を撮ろうとするのだがカメラをどこから構えても背景にビルや住宅が侵入してきて邪魔をする。低位置から見上げるアングルでレンズを覗くと、空のなかにぽつねんと浮かんでいる芭蕉が見えた。どうしても記念にするような写真にはならない。

隅田川の堤防は高く、左側は背よりも高いコンクリートの壁がつづいている。その堤防の下を数分北に歩くと右手に芭蕉記念館への通路の表示がでてきた。注意していなければ見過ごすような入口である。狭い入口を入っていくと芭蕉庵をかたどったミニチュアの祠があり中に小さな芭蕉が窮屈そうに座っていた。そばにいつもの句碑があった。これで3つめである。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

芭蕉記念館 深川
芭蕉記念館 深川

庭らしきところの狭い道を下りると近代的な建物の正門に出た。入ってきたのは裏口だった。

館内をのぞくと大きな部屋に机を口の字にならべ、数十人の老若男女が向かい合わせに座って、句会のさ中であった。世界でもっとも短い文学の、庶民による即席創作・発表・批評会である。いったいこういう文化が欧米にはあっただろうか。

石蛙 芭蕉記念館 深川
石蛙 芭蕉記念館 深川

二階が展示室になっていて例の蛙がいる。鼻もかけボロボロに老いたような粗雑な石の蛙を芭蕉が愛した訳はどこにも書いていない。入口に「撮影はご遠慮下さい」とあったので、帰りに事務室で石蛙の絵葉書を買った。

正門近くに立派な句碑がある。

草の戸も 住みかわる代ぞ ひなの家

芭蕉は奥の細道の旅に出るのに先立ち芭蕉庵を売り払い、杉風の別宅採茶庵(さいとあん)に移った。その家を引き払うときに詠んだ句である。出立の2ヵ月ほど前、ちょうど雛祭りの季節であった。

採茶庵跡 海辺橋の南西詰 深川
採茶庵跡 海辺橋の南西詰 深川

採茶庵跡は清澄庭園の東南角、海辺橋の南西詰めにある。幅1間ほどの庵を模した建物がおかれていて、その濡れ縁に今にも旅立とうとする芭蕉が腰掛けていた。茅葺きであったろう庵の建前はジュラルミンのように白っぽい。障子はまるでアルミサッシである。裏を覗いてみて驚いた。畳の間どころか、つっかい棒の他なにもない。復元された採茶庵は建物でなくて、固定された舞台大道具だった。

仙台堀川 海辺橋から清澄橋を望む 深川
仙台堀川 海辺橋から清澄橋を望む 深川

私の奥の細道はなんとも情緒のない初日となったが、314年前はそうではなかったと思う。

芭蕉一行は見送りの人とともにここ仙台堀川から船で千住まで隅田川を上った。

船から眺める両岸の風景は新緑の柳が風になびいて美しいことであったろう。

私はその間をとばして電車で南千住まで先回りする。

資料2

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

千住

地下鉄日比谷線南千住で下りる。まず、最初の発見である。なんの疑いもなく今日まで「せんじゅう」と読んでいた「千住」は「せんじゅ」という。南も北も駅名のふりがなは「せんじゅ」であることに今まで気付かなかった。

千手観音に由来するとか、平安時代のころ千寿村といわれていたとか、足利将軍義政の愛妾千寿が生まれた土地だとか、いずれもこの地は「せんじゅ」に由来している。千住は南の東海道品川宿、西の中山道板橋宿、甲州街道新宿と並んで、江戸の4宿の1つに数えられた。

素盞雄神社 南千住
素盞雄神社 南千住

小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間……

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小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間(1751~64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳事記」(天保9年)にその勇壮な様が描かれている。 荒川区教育委員会

南千住駅から西に1ブロック行くと旧街道に出る。右折して北に進む。GWの連休なか日とあって閉めている店が多い。電柱にぶらさがる「コツ通り商店街」という看板が気になり、目的地の素盞雄神社につくまで「コツ」のことばかり考えていた。旧道と国道4号の交差点にある交番の前に大きな「素盞雄神社」の看板がありよく目に付く。いかにもいたずらそうな須佐之男命のことはさておき、ここに矢立ての句碑があるというので寄ってみた。下部に芭蕉の絵も彫ってある。文字、絵ともに浅彫りで、写真には映りにくい。

「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 はせを翁」

境内のベンチで親子と思われる婦人ふたりが赤子をあやしている。

「ちょっとすみません。旧街道を通ってきたのですが、ずーっと『コツ通り商店街』と書いていまして……」

「しらないねえ。『コツ通り商店街』なんていうのもはじめて聞いた」

30前後の娘さんも顔を赤らめてゆっくり首をかしげるしぐさをした。

「いや、結構です。どうもおじゃましました」

「わるかったねえ。かえって教えてもらって」

後でわかったことだが「コツ通り」とは「骨通り(こつどおり)」のことで、近くに小塚原刑場があったことから、処刑された罪人の骨がうまっているとのことらしい。

千住大橋 広重画
千住大橋 広重画
千住大橋 隅田川 千住
千住大橋 隅田川 千住

神社をでて北に進むとすぐに千住大橋だ。2005年3月、修復工事で綺麗になった。下りの一方通行である。上り車線は隣接して段違いの別の橋(新千住大橋)があった。橋は思ったより短かい。

千住大橋は文禄3年(1594)徳川家康によって架けられた隅田川最初の橋である。名をたんに「大橋」とした。66年後の1659年、明暦の大火を受けて江戸市域を隅田川の東へ広げるために2番目の橋が架けられた。これを「大橋」と呼んだため千住の方を「千住大橋」と改称した。なお、3番目の橋は1695年の「新大橋」である。その後2番目の「大橋」が「両国橋」と変わったため結局「大橋」はなくなった。「なんとか『大橋』」はたくさんある。

千住小橋 千住橋戸町 千住大橋下
千住小橋 千住橋戸町 千住大橋下

千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄3年(1594年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。文禄3年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと伝えられています。その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正12年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし震災復興計画にもと……

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千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄3年(1594年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。文禄3年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと伝えられています。その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正12年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和2年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝を込めて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。 その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。 「きゃ羅よりもまさる 千住の槙の杭」 古川柳 平成5年3月 東京都・足立区

2005年、新旧の千住大橋下堤防をつなぐ小橋が架けられた。名付けて「千住小橋」。南の荒川区でなくて北側の足立区に属する。橋の下だから、ホームレスに狙われやすい。不法占拠を防ぐために、毎日夜間は鍵がかけられる。それまでしてここに小橋を設けたのは、この付近の水中に重要な遺跡が残っているからであった。伊達政宗が提供したという千住大橋オリジナルのコウヤマキ杭である。3個のブイがその位置をしめし、小橋からうっすら、杭の姿を見ることが出来る。橋の下からの眺めも一興だ。

おくのほそみち矢立初の碑 大橋公園 北千住
おくのほそみち矢立初の碑 大橋公園 北千住千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

橋を越えた左側に入舟乗り場の看板がでている。釣船乗合の出船案内もある。屋形船の使用例は意を尽くしていた。

「接待、謝恩会、クラス会、同窓会、新年会、忘年会、展示会、各種イベントの打ち上げ会、お花見、花火、カラオケ大会等…」 クラス会が一番いいと思う。

その裏側の空き地が大橋公園で大きな奥の細道行程図矢立初の碑が立っている。

芭蕉はここで見送りの人と別れた。

やっちゃ場跡

橋からの傾斜が地表に消えて行くところに足立市場入口交差点がある。金属製の道標が立っていて「日本橋から7km」とあった。

千住宿奥の細道プチテラス 足立市場入り口横 北千住
千住宿奥の細道プチテラス 足立市場入り口横 北千住

平成16年は芭蕉生誕360年に当たり当地旧日光道中の入り口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。また、虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていま……

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平成16年は芭蕉生誕360年に当たり当地旧日光道中の入り口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。また、虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷石はやっちゃ場のセリ場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷石があるかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻き立てます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅することで何かを感じるものがあるかも知れません。(遥かなる奥の細道) 千住大賑会・河原 手漉和紙・谷野 矢島光明書

国道4号からそれて、東京都中央卸売市場の横を斜めに延びる道が旧街道である。2004年12月、市場入り口の一角に、芭蕉の石像と日光道中道標を据えた千住宿奥の細道プチテラスが完成した。千住のひとたちの「日光街道・宿場」と「芭蕉・奥の細道」に対する愛着は並でなく、この町全体を包む大気の色といってよい。

旧街道の千住河原町に属する部分が旧千住宿の市場跡で、そのころ問屋の店先でかけあうせりの声が「やっちゃ やっちゃ」と聞こえてきた。今でも「やっちゃ場」と言えば千住市場のみならず、むかしの市場を指す。民家の玄関先に昔の問屋名を示す看板が多数掲げられている。

やっちゃ場は戦国時代の昔に、周辺の農民や漁民が野菜や川魚を持ち寄って街道の両側にひらかれた青空市場から始まった。1594年隅田川に千住大橋ができると青物と川魚を扱う江戸の正式な市場になった。江戸には、ほかに神田と駒込にやっちゃ場があった。

やっちゃ場 北千住
やっちゃ場 北千住

やっちゃ場通りのほぼ半ば、京成電鉄のガードをくぐってしばらくいくと左手に「千住宿歴史プチテラス」という表示の門構えがあり、その奥まったところに白壁の蔵が見える。この蔵は後ほどみる4丁目の横山家の蔵を移築したもので、区民ギャラリーとして利用されている。中には当時の貴重な写真も展示されている。最近新しい芭蕉句碑が建てられた。

鮎の子のしら魚送る別かな

プチテラスからすぐ先の旧道の左側に石標があらわれ二面に「旧日光道中」、「是より西へ大師道」と刻まれている。ここから日本三大師のひとつ西新井大師への道が出ている。

やっちゃ場通りをすぎると千住仲町に入る。

宿場通り 北千住
宿場通り 北千住

1丁目から北に5丁目まで、およそ1kmの街道筋は、千住宿の中心をなしていた。今は歩行者天国になっていて、甘納豆屋、佃煮屋、あんみつ、など古いたたずまいの店が残っている。銭湯もある。

2丁目と3丁目の境が駅前通りである。3丁目にはいったところ100円ショップの前に「千住宿本陣跡」の標柱がある。

千住名倉医院 千住 5-22-1
千住名倉医院 千住 5-22-1

ほねつぎといえば名倉、名倉といえばほねつぎの代名詞になるほど、往時の名倉医院は関東一円に知られ、下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったから駕籠や車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716~)千住に移り、明和年間(1764~)に接骨医を開業したと伝わる。 現在、江……

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ほねつぎといえば名倉、名倉といえばほねつぎの代名詞になるほど、往時の名倉医院は関東一円に知られ、下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったから駕籠や車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716~)千住に移り、明和年間(1764~)に接骨医を開業したと伝わる。 現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年12月区登録記念物(史跡)とした。 かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる下宿屋、金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋があって、その主人が名倉医院で治療に当る医師及び接骨師を兼ねていた。 平成5年3月 東京都足立区教育委員会

4丁目と5丁目交差点の南西角にも立派な板垣家の邸宅があった。そこから東に延びる細い道が水戸街道である。旧日光街道は直進して50mほど先、名倉医院の手前を左におれて国道4号線に合流し、千住新橋で荒川を渡っていく。なお、名倉医院の前をそのまま直進して土手にぶつかる道は、日光街道よりも古い下妻街道で、日光街道の東方を北上して喜連川で奥州街道と再び交わる。荒川以北の街道は千住で江戸に向かって一束に束ねられた。

コンクリート堤防に挟まれた隅田川にくらべれば荒川は開放的で明るい。橋の上を五月の風がさわやかに渡り車の排気ガスは気にならない。橋の真中に道標があり「日本橋まで9km」とある。つまり千住大橋をわたってから宿場をとおりすぎるまで2kmということだった。そんなものかもしれない。橋の上からしばらく真昼の川面を眺めていた。広々とした両岸の河川敷では野球練習場に遊ぶ若者がいる。川辺で釣り糸をたれる一団の頭上には鯉のぼりが泳いでいた。ボートと水上スキーの一組が川を上下している。もう水は緩んでいるか。

資料3

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼みの末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて路次の煩となれるこそわりなけれ。

草加

草加宿は、南は草加市役所前の交差点に建つ地蔵堂付近から北は神明神社あたりまでで、この間、新道を避けて旧日光街道が残されている。深川をでた芭蕉は初日の宿をここに求めた。ただしそれは『奥の細道』上の創作であって、実際はそのまま春日部まで行ったらしい。

地蔵堂からしばらくいくと1丁目の角、黒ずんだ旧家の北側に、草加神社の標柱がある。草加神社は旧南草加村の鎮守で、昔は氷川神社と称していた。さらに進むと右手、埼玉りそな銀行の前に、「日光街道葛西道」と彫られた標柱がでてくる。草加駅前通りとの交差点の東北角には高さ50cmばかりの小さな「道路元標」が座っている。

おせん茶屋-草加
おせん茶屋-草加

東福寺の参道の向かいに「おせん茶屋」がある。駅前の少女の名にちなんで名付けられた公園で、街道沿いに茶店風の休憩所があり、大きな「日光街道」と書かれた標柱が建てられている。奥の広場には高札を模した掲示板や草加宿の絵地図などがあった。

おせん公園-草加
おせん公園-草加

いまでは新幹線の車内でも「おいしい草加せんべいはいかがですか」といわれて販売されていますが、もともと羽衣煎餅と呼ばれ、江戸ではやった駄菓子です。一般に干菓子は、宿駅に集まる運送業者や市場へ往復する農民たちの携帯保存食でもあったのです。寛政年間(18世紀末)ごろの豪農の日誌に、年末年始のあまりおおげさでない手みやげとして出てくるのが、今のところ、草加での「せんべい」の最初の記述です。砕かれた粉米が多……

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いまでは新幹線の車内でも「おいしい草加せんべいはいかがですか」といわれて販売されていますが、もともと羽衣煎餅と呼ばれ、江戸ではやった駄菓子です。一般に干菓子は、宿駅に集まる運送業者や市場へ往復する農民たちの携帯保存食でもあったのです。寛政年間(18世紀末)ごろの豪農の日誌に、年末年始のあまりおおげさでない手みやげとして出てくるのが、今のところ、草加での「せんべい」の最初の記述です。砕かれた粉米が多く出ることと、上質でない醤油の産地であったことが、草加でせんべいが発達する地盤を固めたといえます。 草加市歴史民族資料館

いよいよ草加宿が終わろうとする旧道と新道の分岐点付近に、草加宿の総鎮守として天照大神を祭神とする神明神社がある。その北側、伝右川の脇に「おせん公園」となづけられた狭い一画があり、柳の枝に囲まれた密やかな公園にはせんべいに見立てた巨大な石碑が建っていた。大きな文字で「草加せんべい発祥の地」と彫られてある。

芭蕉像 草加
芭蕉像 草加

おせん公園前の新道を横切ると芭蕉像や望楼が建つ「札場河岸公園」にたどり着く。ここの芭蕉の顔は史跡展望公園の芭蕉より表情があってしまっている。

ここからおよそ1.5kmにわたって綾瀬川に沿った松並木の遊歩道が整備された。もともと草加宿が日光街道第二の宿となった時、街道沿いには松が植えられ、「草加松原」、「千本松原」として知られていたものである。

一時60数本まで減少したらしいが、現在約600本にまで復活した。最近この遊歩道は「日本の道百選」に選出され、記念に矢立橋の南側に埼玉県を型取った日本の道百選顕彰碑が建てられた。

綾瀬川 札場河岸 草加
綾瀬川 札場河岸 草加

公園内に、綾瀬川が舟運に利用されていたころの舟着き場の石段が再現されている。河岸の所有者の屋号「札場」がそのまま河岸の名になった。

矢立橋 草加
矢立橋 草加

遊歩道には道路をまたぐ橋が二つ架けられてある。矢立橋と百代橋で、名はいずれも「奥の細道」からとってきた。矢立橋の階段に愛嬌のあるタイル絵がはめこまれている。

百代橋 草加
百代橋 草加橋名由来 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

百代橋の南詰付近には「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が刻まれた橋名碑が、また北の袂には「ことし元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思いたちて……」という、草加の章段が彫られた芭蕉文学碑が建っている。

そこで草加松原の遊歩道が終わる。遊歩道は芭蕉三昧だった。

蒲生

蒲生大橋 草加側
蒲生大橋 草加側

遊歩道から堤に沿って北に進むと、松並木はまだ樹齢10年程の若い桜並木に移る。1990年ころ、川の西岸に沿って数キロの桜並木が整備された。桜並木が国道4号を横切るまでに綾瀬川を渡るいくつかの橋がある。そのうちの一つが蒲生大橋で、昔は大橋土橋といって綾瀬川をまたいで日光街道を足立郡(草加側)と埼玉郡(越谷側)につないでいた。足立郡側のたもとに高浜虚子の句を彫った銅版がはめ込まれている。

舟遊び 綾瀬の月を 領しけり

蒲生一里塚(埼玉県指定史跡) 蒲生 越谷
蒲生一里塚(埼玉県指定史跡) 蒲生 越谷

一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。 文化年間(1804~1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられ……

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一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。 文化年間(1804~1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分る。現在は、高さは2m、東西幅5.7m、南北幅7.8mの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5mのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎

橋をわたった埼玉郡側にこんもりした木の陰に隠れるように愛宕神社が座っている。ここが蒲生の一里塚で、埼玉県内では日光街道に残る唯一の一里塚である。ヤマブキ色のコスモスが満開だった。

藤助河岸跡 蒲生愛宕町 越谷
藤助河岸跡 蒲生愛宕町 越谷

綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。当時綾瀬川の水運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。 明治に入り政府は河川や用悪水路普請……

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綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。当時綾瀬川の水運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。 明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の推積で大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。この中で陸羽道中(旧日光道中)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、舟の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間1万8千駄、着荷は2万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用された。 なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助18代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。 平成5年 越谷市教育委員会

一里塚の南側に古い二階建ての建物と、大谷石造りの蔵がならんでいる。藤助酒造の主家と蔵で、その道向かいに、同家の寄贈によって復元された藤助河岸が、綾瀬川水運の全盛時代を語り継いでいる。説明板によれば、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、この河岸で高瀬船に積み替えられて東京に出荷されたという。

清蔵院 山門 龍(伝:左甚五郎作)蒲生
清蔵院 山門 龍(伝:左甚五郎作)蒲生

一里塚の前の道を北に進むとやがて蒲生本町交差点の手前右手に清蔵院が出てくる。山門の中央を見上げると金網に覆われた竜の彫り物があった。標札によると、山門は寛永15年(1638)の建立で、日光東照宮造営に動員された関西の工匠が建てたものだろうという。欄間の竜は左甚五郎の作とも言い伝えられ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことからこれを金網で囲ったという。金網のせいで由緒ありそうな龍の彫刻はよく見えなかった。

その三叉路で、草加市役所手前で別れた国道4号と再会する。一里塚からここまでの道を「蒲生茶屋通り」といった。昔、綾瀬川を高瀬舟が忙しく行き来していた時代、藤助河岸に集まる農民、商人、舟人、旅人などをもてなす茶屋が並んで、活況を呈していた。

越谷

照蓮院 瓦曽根 越谷
照蓮院 瓦曽根 越谷

越谷市指定記念物 史跡 千徳丸供養塔 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は、天正10年(1582)3月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。寛永14年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が造立された。 以下略 平成15……

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越谷市指定記念物 史跡 千徳丸供養塔 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は、天正10年(1582)3月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。寛永14年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が造立された。 以下略 平成15年1月 越谷市教育委員会

越谷市街の手前瓦曽根で旧国道を逸れて左の旧街道に入る。交差点の東側に照蓮院が見える。創建は定かではないが、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤の子長慶が、天正10年(1582)武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居し、千徳丸の早世後照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝えられ、秋山家墓所には「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が立っている。

塗師屋 中町 越谷
塗師屋 中町 越谷

旧市街地の商店街を北に進む。いくつかの人形店がめにつく他、古い土蔵や縦格子造りの商家も散見され、特に中町には宿場町の面影が濃く残っている。越谷産業会館前で今も荒物を営む鍛冶忠商店は屋根からひさし暖簾まで黒々とした店構えだ。隣の塗師屋は、黒漆喰土蔵の袖蔵を配して二階と一階の千本格子が見事に美しい。これだけの街並みを残しながら、北千住や草加のように宿場を意識した街造りの様子がみえないのは不思議だ。越谷は芭蕉との絡みにかけているからでもあるまい。

春日部

東陽寺( 「伝芭蕉宿泊の寺」) 春日部
東陽寺( 「伝芭蕉宿泊の寺」) 春日部

春日部市内、一宮交差点の北西角に東陽寺がある。交差点をそのまま北上するのが4号線で、西におれていくのが旧道である。駐車するには4号線側から入るのがよい。深川を発った芭蕉はその日のうちにここまできた。日本橋より九里余り、およそ38kmの地点である。

境内の本殿前に、曽良の随行日記から「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」の一節が刻まれた碑が建てられている。また、旧道側の山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」と彫られた標柱があった。山門前の入口には車止めかあるいは駐車防止のためか、標柱を隠すかのように柵が横たわっているため見逃す危険がある。

粕壁東1丁目 「西南いわつき 東江戸」 春日部
粕壁東1丁目 「西南いわつき 東江戸」 春日部

旧道は道幅も広く町並みも新しい店が多く古い面影がない。いぶかしげに車をゆっくり進めると、駅入口の粕壁東1丁目三叉路に白壁の堂々とした蔵造りの旧家(田村本店)が見えてきた。建物の正面左手の歩道には、昭和のシンボルのような赤い郵便ポストが目立っている。反対側には一個の石柱があった。車を止めて近づくと、天保5年(1834)製の古い道標であった。「東江戸 西南いわつき」とある。西南岩槻とは、日光御成街道に出る道なのであろう。この辺りが粕壁の宿の中心であったと思われる。

大落古利根(おおおちふるとね) 春日部
大落古利根(おおおちふるとね) 春日部

春日部駅入口交差点を過ぎ、新町橋西交差点を右折して工事中の新町橋で大落古利根(おおおちふるとね)川を渡る。すぐに左折するとまもなく道が二手にわかれる。ここは旧関宿往還との追分で、右は小渕南交差点で国道4号と交わり、そのまま北上して関宿に至る県道319号である。左は国道4号に合流する。その分岐点手前に小渕一里塚の跡地を示す石標があった。追分には「左日光道」彫られた道標がある。隣りにある小さな自然石には「左方阿ふ志う(奥州)道」と刻まれている。

この一角は長い黒板塀に囲われた屋敷に鬱蒼とした木々がしげり、旧宿場町の名残が濃い。

小渕観音院 小渕 春日部
小渕観音院 小渕 春日部

市内には東陽寺の他にもう一ヶ所、芭蕉の宿泊地と伝えられる寺がある。小渕交差点から100mくらい行った所の左側にある、小渕山観音院という鎌倉時代の建立と伝えられる古刹である。70歳を越えると思われる老住職がゆったりと、桐色に白けた本堂の戸や板壁を雑巾でなでていた。

芭蕉句碑 小渕観音院 春日部
芭蕉句碑 小渕観音院 春日部ものいえば 唇さむし 秋の風

山門は金網で囲われ、その中で一人の大工が修理工事に汗を流していた。両側に仁王が立つ。肌は色褪せ、もがれた片腕が痛々しい。なぜか顔が怒りよりも苦痛に歪んでいるように見えた。畑とも庭とも区別がつかない一画に芭蕉の句碑があった。

ものいえば 唇さむし 秋の風

芭蕉がここで泊まったことを示唆するような標識は見当たらなかった。

(2003年8月)

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