今様奥の細道 22区間のうち16番目

今様奥の細道(16)

出雲崎-柏崎-鉢崎-今町(直江津)・高田-能生-市振 (北国街道・越後路)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

出雲崎

7月4日(新暦8月18日)-7月5日(新暦8月19日)

出雲崎

四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。 弘智法印像為レ拝。峠より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。

五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎。宿たわらや六郎兵衛。

西生寺 寺泊野積 長岡市 新潟県
西生寺 寺泊野積 長岡市 新潟県

西生寺と弘智法印即身仏 西生寺は天平5年(733)に僧行基が開いた真言宗智山派の古刹である。古くは親鸞聖人も止錫した(恵信尼消息)と伝えられ、樹800年の大銀杏は寺泊町文化財に指定されている。広い境内の一角に建つ弘智堂には、貞治2年(1363)に入定した弘智法印のミイラ仏が安置されている。弘智法印は下総国匝嵯村(八日市場市)の僧で、各地での修行を経てこの地で即身仏になったという。 (新潟県・長岡市……

説明の全文を読む(約200字)

西生寺と弘智法印即身仏 西生寺は天平5年(733)に僧行基が開いた真言宗智山派の古刹である。古くは親鸞聖人も止錫した(恵信尼消息)と伝えられ、樹800年の大銀杏は寺泊町文化財に指定されている。広い境内の一角に建つ弘智堂には、貞治2年(1363)に入定した弘智法印のミイラ仏が安置されている。弘智法印は下総国匝嵯村(八日市場市)の僧で、各地での修行を経てこの地で即身仏になったという。 (新潟県・長岡市)

西生寺弘智堂 寺泊野積 長岡市 新潟県
西生寺弘智堂 寺泊野積 長岡市 新潟県

西生寺と弘智法印即身仏 西生寺は天平5年(733)に僧行基が開いた真言宗智山派の古刹である。古くは親鸞聖人も止錫した(恵信尼消息)と伝えられ、樹800年の大銀杏は寺泊町文化財に指定されている。広い境内の一角に建つ弘智堂には、貞治2年(1363)に入定した弘智法印のミイラ仏が安置されている。弘智法印は下総国匝嵯村(八日市場市)の僧で、各地での修行を経てこの地で即身仏になったという。 (新潟県・長岡市……

説明の全文を読む(約200字)

西生寺と弘智法印即身仏 西生寺は天平5年(733)に僧行基が開いた真言宗智山派の古刹である。古くは親鸞聖人も止錫した(恵信尼消息)と伝えられ、樹800年の大銀杏は寺泊町文化財に指定されている。広い境内の一角に建つ弘智堂には、貞治2年(1363)に入定した弘智法印のミイラ仏が安置されている。弘智法印は下総国匝嵯村(八日市場市)の僧で、各地での修行を経てこの地で即身仏になったという。 (新潟県・長岡市)

芭蕉は弥彦から猿ヶ馬場峠を越え西生寺の即身仏を訪ねた。境内の一角に建つ弘智堂に弘智法印のミイラ仏が安置されている。法衣で包まれているため見えるのは手と頭だけである。弘智法印は下総国匝嵯村(千葉県八日市場市)の僧で、各地での修行を経て貞治2年(1363)にこの地で即身仏になったという。

旧三国街道追分 寺泊磯町 長岡市 新潟県
旧三国街道追分 寺泊磯町 長岡市 新潟県左:寺泊野積へ 右:渡部へ(旧三国街道)

西生寺から日本海側に出た。野積から野積橋で大河津分水路をわたり三国街道と合流して寺泊に入っていく。もちろん芭蕉の時代に大河津分水路はなく、野積から浜伝いに寺泊にきてそのまま出雲崎に向かう。曽良は日記で寺泊から国上への道筋について渡部を通っていくと記している。寺泊は三国街道の終着点で、そのひとつ前の宿場が渡部であった。また渡部は古代北陸道の渡戸(わたりべ)駅家の比定地とされている場所である。国上には元明天皇和銅2年(709)に越後一の宮弥彦大神の託宣により建立されたとする越後最古の古刹国上寺がある。一行が三国街道との追分に来たとき、曽良の意識にふとその辺の地理が上ったのであろう。

寺泊では土地の長、菊屋五十嵐氏の屋敷前を通り過ぎて行ったであろう。今は聚感園(しゅうかんえん)という歴史公園になっているが、五十嵐家は平安時代から明治初年まで千余年にわたって勢力を振るった豪族でここに大屋敷を構えていた。義経、順徳天皇、藤原為兼、宗良親王等、錚々たる歴史上の人物を屋敷に匿った。

妻入街並 出雲崎町木折町 三島郡 新潟県
妻入街並 出雲崎町木折町 三島郡 新潟県

江戸時代、出雲崎は徳川幕府の天領となり、佐渡の金銀陸揚げ港として、また、北前船の発着港として栄えました。 また、北国街道の宿場町として多くの人々が行き交い、この地方一帯の政治、文化、交通の中心都市でもありました。 その間、良寛がこの地に生まれ、芭蕉が訪れ「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を残し、十返舎一九・吉田松陰など数多くの文人墨客の往来がありました。 海岸線に沿った3.6kmにおよぶ「妻入り」……

説明の全文を読む(約680字)

江戸時代、出雲崎は徳川幕府の天領となり、佐渡の金銀陸揚げ港として、また、北前船の発着港として栄えました。 また、北国街道の宿場町として多くの人々が行き交い、この地方一帯の政治、文化、交通の中心都市でもありました。 その間、良寛がこの地に生まれ、芭蕉が訪れ「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を残し、十返舎一九・吉田松陰など数多くの文人墨客の往来がありました。 海岸線に沿った3.6kmにおよぶ「妻入り」の家並は、北国街道の名残であり当時の面影を今に伝えています。「妻入り」とは、切妻側面の三角形の壁面方向に出入口を設け、これを正面とする建築様式のことです。 平成8年3月には、建設省の歴史国道として選定され、同年6月には新潟県の「景観形成推進地区」に指定されました。その後、「ふるさと新潟の顔づくり事業」として道路の景観鋪装や照明灯などを整備しました。 この妻入りの街並は全国的にも珍しく、訪れる人々にやすらぎを与えてくれる光景であり、末永く後世に伝えていきたい風景です。 北国街道は、出雲崎から江戸へ佐渡の金を運ぶ道として利用され、信州追分宿から中山道を経て江戸に通じていた。この北国街道は、会津街道・三国街道と合わせて「佐州三路」といわれるうちの一つの街道で、多くの人や物資の往来がありました。江戸幕府は、佐渡の金銀を重視し金山の開発にあたらせました。このため、北国街道は佐渡で産出された金の輸送や、佐渡奉行や巡見使の通行等、江戸と佐渡を結ぶ主要幹線として再編成され、東海道など五街道に次ぎ重要視されました。 平成12年2月 新潟県与板土木事務所 出雲崎町

集落ごとに短い旧道を通り抜けながら午後4時頃出雲崎に入る。妻入りの民家が建ち並ぶ。出雲崎は江戸時代、徳川幕府の直轄地であった。佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地として栄え、また北国街道の宿場町として賑わった。宿場街には廻船問屋や旅館などが建ち並び、遊廓も充実していた。

良寛生誕地(橘屋跡) 出雲崎町石井町 三島郡 新潟県
良寛生誕地(橘屋跡) 出雲崎町石井町 三島郡 新潟県

この史跡は良寛の生家橘屋の屋敷跡です。良寛は宝暦8年(1758)出雲崎町名主山本以南の長男としてここに生まれました。もとの屋敷は現在地の約2倍の広さでここは幕府のお触れを掲げた 御高札場 であったといいます。正面の良寛堂は故佐藤吉太郎氏の計画、安田靫彦画伯の設計によって大正11年9月に建立されたもので佐渡島を背景に、日本海に浮かぶ浮見堂の構想に成るものです。道内には良寛持仏の石地蔵をはめこんだ石塔……

説明の全文を読む(約270字)

この史跡は良寛の生家橘屋の屋敷跡です。良寛は宝暦8年(1758)出雲崎町名主山本以南の長男としてここに生まれました。もとの屋敷は現在地の約2倍の広さでここは幕府のお触れを掲げた 御高札場 であったといいます。正面の良寛堂は故佐藤吉太郎氏の計画、安田靫彦画伯の設計によって大正11年9月に建立されたもので佐渡島を背景に、日本海に浮かぶ浮見堂の構想に成るものです。道内には良寛持仏の石地蔵をはめこんだ石塔を安置し、良寛の、 いにしへにかはらぬものはありそみと むかひにみゆる佐渡のしまなり の歌を刻んでいます。 新潟県教育委員会 出雲町教育委員会

右手に良寛(1758~1831)の生誕地、橘屋跡がある。芭蕉にとって良寛は知らない人物だが、その生家橘屋山本家は中世以来の名家で、出雲崎町の名主の傍ら神職を努めていた。芭蕉の時代は橘屋の全盛期にあたり、佐渡で産出された金銀の荷受け業務を一手に引き受けていた。

芭蕉園 出雲崎町住吉町 三島郡 新潟県
芭蕉園 出雲崎町住吉町 三島郡 新潟県

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上18里とかや 谷 嶺のけんそくまなく東西30余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへす波の音さすかにたかゝらすたヽ手のとヽく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷しき心地せらるヽに宵の月入かヽる比うみのお似もてほのくらく山のかたち雲透にみ……

説明の全文を読む(約460字)

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上18里とかや 谷 嶺のけんそくまなく東西30余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへす波の音さすかにたかゝらすたヽ手のとヽく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷しき心地せらるヽに宵の月入かヽる比うみのお似もてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとヽかなしく聞え侍るに 荒海や佐渡に よこたふ大河 芭蕉 元禄2年(1689年)この北陸路に奥の細道の行脚をしていた芭蕉は、ここ出雲崎(旅人宿大崎屋)に一泊したといわれている。門人の曽良は「良旅日記」の7月4日の記述の中に「四日快晴、風(中略)同晩、申ノ上刻(午後4時項)出雲崎着宿ス、夜中、雨強降」と記している この夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた俳聖芭蕉は天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たのである。 尚、旅人宿大崎屋はここ芭蕉園の真向かいにあり今は民家になっている。 出雲崎町

その先左手に芭蕉園がある。ここは橘屋の競争相手敦賀屋の屋敷跡である。公園の中には芭蕉像と句碑(「銀河ノ序」を刻んだ碑)などが建てられている。

芭蕉は奥の細道越後路の段では二句を記しているだけである。

文月や六日も常の夜には似ず 荒海や佐渡によこたふ天河

曽良の日記ではこれらは直江津での句会にて詠まれたものとなっているが、当日の天候から佐渡の島や天河は見えなかったはずで、この句は出雲崎で作られたと考えられている。その根拠の一つが「銀河ノ序」と呼ばれる芭蕉の文章である。芭蕉園の碑にその全文が刻まれている。

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへすなみの音さすかにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらくやまのかたち雲透にみへて波のおといとゝかなしく聞こえ侍るに

荒海や佐渡に よこたふ 天河 芭蕉

芭蕉はこの日、芭蕉園の斜め向かい側にあった旅籠大崎屋に一泊した。大崎屋跡は民家になっていて何の説明板もない。

旧椎谷宿町並み 椎谷 柏崎市 新潟県
旧椎谷宿町並み 椎谷 柏崎市 新潟県
旧宮川宿町並み 宮川 柏崎市 新潟県
旧宮川宿町並み 宮川 柏崎市 新潟県

翌朝、一行は佐渡の金銀が荷揚げされた出雲崎漁港を横目でみながら出雲崎の宿場を出た。朝雨が止んだのを見て出たのだが、まもなく又雨が降り出した。今年は雨の多い夏である。

椎谷(しいや)宿宮川宿を経て柏崎宿に入る。その間曽良の日記には何の記載もない。早く柏崎の宿に着きたかった。

芭蕉句碑・仁王門 椎谷 柏崎市 新潟県
芭蕉句碑・仁王門 椎谷 柏崎市 新潟県

芭蕉が奥の細道の行脚に出る前年、元禄元年(1688)大和行脚での吟。一日中歩き疲れ、丹羽市(奈良県天理市)を経て八木付近に来て宿をとろうとした頃、ふと見ると、夕暮れの中に薄紫の藤の花が咲いている。その藤の美しさが心をいやし、何かしらほつとした気持にさせてくれたのを詠んだといわれている。 この句碑は、江戸の俳人巣也が、文政4年(1820)俳諧行脚でこの地に来て滞在中、この椎谷観音堂で咲く藤の花を見て……

説明の全文を読む(約230字)

芭蕉が奥の細道の行脚に出る前年、元禄元年(1688)大和行脚での吟。一日中歩き疲れ、丹羽市(奈良県天理市)を経て八木付近に来て宿をとろうとした頃、ふと見ると、夕暮れの中に薄紫の藤の花が咲いている。その藤の美しさが心をいやし、何かしらほつとした気持にさせてくれたのを詠んだといわれている。 この句碑は、江戸の俳人巣也が、文政4年(1820)俳諧行脚でこの地に来て滞在中、この椎谷観音堂で咲く藤の花を見て、土地の俳人武田岡右ェ門とこの句を選んで建立したもの。

椎谷には知られた観音堂があるが二人が立ち寄った気配はない。街道から観音堂に通じる道を入ったところ、仁王門の石段下に芭蕉句碑があり、「草伏(くたびれ)て宿かるころや藤の花」と刻まれている。句は奥の細道の前年(1688)大和行脚での吟である。碑は江戸の俳人巣也が文政4年(1820)この地に滞在中、椎谷観音堂で咲く藤の花を見て建立したもので、芭蕉が観音堂に寄ったことを示唆するものでない。

柏崎

五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎

閻魔堂 東本町2丁目 柏崎市 新潟県
閻魔堂 東本町2丁目 柏崎市 新潟県

柏崎までは、25kmほどの平坦な浜街道である。荒浜から松波をとおりぬけて鯖石川をわたる。安政町交差点で国道と分かれ、旧街道は交差点を直進する。東柏崎駅前付近で県道151号に合流し、東本町交差点で右折する。東本町郵便局あたりに柏崎宿の東大木戸があった。道向かいにある閻魔堂は木戸外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。その後天保頃からは旅商人、見せ物、博徒の集う季節市となった。

旧柏崎宿町並み 西本町1丁目 柏崎市 新潟県
旧柏崎宿町並み 西本町1丁目 柏崎市 新潟県

東本町2目と西本町2目にかけて、東本町局と西本町局に挟まれた大通りが柏崎宿の中心であった。

天屋跡 西本町2丁目 柏崎市 新潟県
天屋跡 西本町2丁目 柏崎市 新潟県

西本町交差点の手前に石井(いわい)神社がある。その西隣に天屋弥惣兵衛の屋敷があった。電柱脇に「天屋跡」の石碑がある。天屋弥惣兵衛は柏崎の大庄屋で豪商で俳諧も嗜んでいた。芭蕉は象潟で知り合った俳人低耳からもらった紹介状を届けたにもかかわらず天屋の主人はこれを断ったのである。プライドを甚く傷つけられた芭蕉は柏崎を即座に立ち去り意地でも16km先の鉢崎までいくことに決めた。すでに新潟宿でも芭蕉は気分を害している。越後の印象はますます悪化した。村上からここまで、「芭蕉」の名が通らない土地なのである。

番神堂 番神2丁目 柏崎市 新潟県
番神堂 番神2丁目 柏崎市 新潟県

日蓮宗妙行寺(西木町1丁目)に属し、文永11年(1274年)佐渡からの赦免の折、日蓮上人が30番神を勧請(神や仏の霊を移して祭ること)したと伝えられる。明治4年(1871年)10月の下宿(今の番神町)大火で類焼、同6年から再建に着手し、同11年(1878年)4月17日竣工した。民謡の三階節に「番神堂がよく出来た向拝向拝の仕掛けは新町宗吉大手柄」とある。 権現造り(本殿と拝殿との間に「石の間(相の間……

説明の全文を読む(約310字)

日蓮宗妙行寺(西木町1丁目)に属し、文永11年(1274年)佐渡からの赦免の折、日蓮上人が30番神を勧請(神や仏の霊を移して祭ること)したと伝えられる。明治4年(1871年)10月の下宿(今の番神町)大火で類焼、同6年から再建に着手し、同11年(1878年)4月17日竣工した。民謡の三階節に「番神堂がよく出来た向拝向拝の仕掛けは新町宗吉大手柄」とある。 権現造り(本殿と拝殿との間に「石の間(相の間)を設けたのが特徴)で、棟梁には4代目の篠田宗吉、石工は小林群鳳、彫刻は、出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富で、飾り金具は大久保の歌代佐次兵衛の鋳造である。 昭和54年4月16日指定 柏崎市教育委員会

芭蕉は街道の真ん中に建つ立ち地蔵ねまり地蔵を睨みつけながら旅籠町をぬけ鵜川をわたる。右手にすこし入ったところ、柏崎港を見下ろす岬の先に番神堂がある。日蓮が許されて流されていた佐渡から戻る際この崖下の岩場に漂着したという日蓮ゆかりの聖地であるが芭蕉は興味を示さなかった。

旧鯨波宿町並み 鯨波2丁目 柏崎市 新潟県
旧鯨波宿町並み 鯨波2丁目 柏崎市 新潟県

鯨波宿を経て、鉢崎までは米山三里といわれる難所を越えなければならない。

北国街道米沢三里旧道・松並木 青海川 柏崎市 新潟県
北国街道米沢三里旧道・松並木 青海川 柏崎市 新潟県

道は海岸線から離れて行って、今や廃墟となった「道の駅 風の丘米山」前を通過する。無人の玄関ドアに閉鎖公告の貼り紙があった。平成27年3月末に閉鎖されたばかりだ。その前「北国街道米山三里旧道・松並木」の標識が立っている。旧街道の名残の松は健在だったが、とても松並木とはいえず、1,2本のほかはまだ植えて数年の若木である。

出羽三山碑・旧道六割坂 青海川 柏崎市 新潟県
出羽三山碑・旧道六割坂 青海川 柏崎市 新潟県

国道に戻り、青海川に向かう。まもなく国道を左に分けて右手の県道257号に入る。前方に赤い大きな米山大橋が、海側には信越本線の青海川駅が見えてきた。出羽三山碑がある先に「北国街道・六割坂」の標識が建っている。県道257号はここから500mほど谷根川を遡る迂回を取り北陸自動車道の下あたりで180度に折れて青海川駅近くまで戻っていた。それほど谷は深いのである。

米沢三里旧道 青海川 柏崎市 新潟県
米沢三里旧道 青海川 柏崎市 新潟県

旧北国街道の六割坂はそこを一挙に谷底まで下りようとする急坂である。坂をのぞいてみたが草が深くて道跡がはっきり認められない。手摺があるようだが、廃道かもしれない。真下に海が見える勾配に恐れをなして六割坂を下ることを断念した。かわりに1kmあまり迂回することになる。青海川駅の手前まで戻ってくる。右手、谷根川に架かる小さな橋の向こう岸にも民家が見える。六割坂を下りてきた旧道はここに出たものと思われるが、下から崖を見上げる限りではその道筋を確認することはできなかった。従ってここから旧道をたどることにする。

牛頭大王・米沢三里旧道 青海川 柏崎市 新潟県
牛頭大王・米沢三里旧道 青海川 柏崎市 新潟県

駅に通じる通りを横切って民家の間の路地を上がっていく。コンクリートで整備された階段を上る。すぐの二股を左にとり米山大橋の真下に向かう。道なりに右折すると右からきた農道と合流し、橋の下に沿ってまっすぐの坂道を上がっていく。このあたり、コンクリート舗装の坂道ではあるが、右手に日本海が望めて旧道の趣を感じる区間ではある。

酒の新茶屋 青海川 柏崎市 新潟県
酒の新茶屋 青海川 柏崎市 新潟県

登り切ったところに牛頭大王の石碑と旧北国街道の標柱があり、この坂道が旧道であったことを示している。旧道に面して「酒の新茶屋」の看板を出した酒屋があった。「ここは芭蕉も旅した旧北国街道青海川」とあるのが嬉しい。江戸時代、青海川のこのあたりは高台で日本海が見渡せる景勝の地で北国街道の立場であった。この店は当時の茶店を引き継ぐ古い歴史を持っている。

旧道はやがて国道に合流し笠島に向かう。

7月5日(新暦8月19日)

鉢崎(米山)

家並み 笠島 柏崎市 新潟県
家並み 笠島 柏崎市 新潟県
笠島漁港・信越本線 笠島 柏崎市 新潟県
笠島漁港・信越本線 笠島 柏崎市 新潟県

国道8号の米山IC入口信号を越えた先で旧道が右に分かれる。100mほど先で左に入っていくのが旧道である。右手に海や断崖、漁港あるいは谷間の緑地、箱庭のような畑地などを見下ろしながら段丘上に形作られた笠島の集落内を歩いていく。崖縁に設けられた木杭の柵は路肩を守るガードレールの代わりであろうか、見るからに危うい姿である。

旧道は笠松集落を抜け、旧国道に合流する。旧国道が大きく海側に迂回する区間を現国道8号は芭蕉ヶ丘トンネルで一抜けし、信越本線は長い米山第二トンネルの中を走っていく。

牛ケ首層内楷曲 笠島 柏崎市 新潟県
牛ケ首層内楷曲 笠島 柏崎市 新潟県米山周辺でよく見られる地層・層内楷曲です。地層の上下部分は整然とし、乱れていないのに、中央部は不規則に曲がったり、途切れたりしているものである。この地層は西山層に属し、約500万年前、地層ができていく際に、局所的な海底地滑り現象が起きて形成されたものと考えられている。この現象には、当時における海底火山活動が深い関わりを持っていると思われる。

見晴らしの良い地点で後方を眺めると田塚鼻の地層がよく見える。その形から「牛ケ首」と呼ばれる岬であるが、地層の上下部分は整然としていながら、その中央部が不規則に褶曲したり、途切れたりしている。層内楷曲といわれ、海底火山の活動によって局所的な海底地滑り現象が起きて形成されたものといわれている。

六宜閣 上輪新田 柏崎市 新潟県
六宜閣 上輪新田 柏崎市 新潟県

旧道は芭蕉ヶ丘トンネルの西出口付近で旧国道と分かれて右の細道にはいり米山第二トンネルの上を越えていく。旧国道に接した後すぐに再び右の細道にはいっていく。このあたりは上輪新田集落で間の宿だった。そこに明治天皇上輪新田小休所の碑が建つ六宜閣がある。元庄屋田中家の子孫が今も割烹旅館を営んでいる。趣ある平屋建て建物は安政2年(1855)の建築で国登録有形文化財となっている。柏崎特産の真鯛料理が有名らしい。

米山(992.5m) 笠島 柏崎市 新潟県
米山(992.5m) 笠島 柏崎市 新潟県上越・中越境 手前は旗持山

ここから米山(993m)の秀麗な姿がよく見える。「米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと音がする」の名調子で広くその名が知られる。米山が上越と中越の境界をなしていた。手前に見える小高い山は旗持山(366m)で上杉家の山城があった。

米山三里と呼ばれる青海川~笠島~鉢崎の北国街道は、断崖絶壁を通る危うさ、谷の上り下りの険しさ、うち寄せる波の激しさ、九十九折りの山道などの難所が続き、親不知・子不知と並ぶ難所中の難所として知られていた。

聖ケ鼻・旧北国街道 米山町 柏崎市 新潟県
聖ケ鼻・旧北国街道 米山町 柏崎市 新潟県

旧道は六宜閣から300mほど西に進んで左に曲がり、国道8号をくぐって払川の近くの亀割峠に至る。そこで180度方向転換して急な下り坂に入り、河口近くで払川を渡る。払川を渡るとまた上り坂をたどって国道に出る。すぐ右手に聖ケ鼻展望広場に通じる旧道が出ているのだが、入口が完全にふさがれて通行止めとなっていた。国道で米山トンネルをくぐり、出口の少し先の丁字路を右折して展望広場から降りてくる旧道筋とY字路で合流、Y字路を左にとってヘアピンカーブを左に下ると鉢崎集落に入ってくる。

旧鉢崎宿町並み・鉢崎関所跡 米山町 柏崎市 新潟県
旧鉢崎宿町並み・鉢崎関所跡 米山町 柏崎市 新潟県

戦国期、鉢崎関所は、当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地の利を生かして、軍事・治安上の要衝地として、重要な役割を果たしていた。江戸時代に入り、この機能は、高田藩に引き継がれたが、最も取締が厳しかったのは女子と鉄砲に対してであり、「出女入鉄砲」という言葉があった。これは、幕府が各藩主の妻室を江戸に住まわせて、人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒……

説明の全文を読む(約410字)

戦国期、鉢崎関所は、当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地の利を生かして、軍事・治安上の要衝地として、重要な役割を果たしていた。江戸時代に入り、この機能は、高田藩に引き継がれたが、最も取締が厳しかったのは女子と鉄砲に対してであり、「出女入鉄砲」という言葉があった。これは、幕府が各藩主の妻室を江戸に住まわせて、人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、また、地方から江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えられていたからである。当時の覚書によると、関所の木戸が開くのは午前6時で、閉まるのは午後6時とあり、夜間の通行は一切禁止されていたが、飛脚などの通るときは、委細を改めて通行を許したということである。現在、自動車で通る人は、この関所跡を見ることはできないが、ここに立つと、その地勢を利用して、なぜここに関所が設置されたのかが理解できるであろう。

家並みの始まる右手に関所跡の碑が立っている。難所米山三里の終点である。鉢崎関所は旗持城の戦略的拠点として慶長2年(1597)上杉家により設けられた。江戸時代には鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、ここは出雲崎に荷揚げされた御金荷が輸送1日目に泊まる地であり御金蔵が置かれたこともあって街道の警備上重要な場所であった。金蔵に金箱が納蔵される夜は、70人もの役人が警備にあたったといわれる。

たわら屋跡 米山町 柏崎市 新潟県
たわら屋跡 米山町 柏崎市 新潟県

俳聖松尾芭蕉(1644~1694)が「奥の細道」へと旅立ったのは元禄2年(1 689)3月27日。芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意して来たのであるが、思わぬことから米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行した弟子の「曾良日記」には「申の下剋、至鉢崎、宿たわらや六良兵衛」とのみ記している。鉢崎での宿・たわら屋は、代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業と……

説明の全文を読む(約280字)

俳聖松尾芭蕉(1644~1694)が「奥の細道」へと旅立ったのは元禄2年(1 689)3月27日。芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意して来たのであるが、思わぬことから米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行した弟子の「曾良日記」には「申の下剋、至鉢崎、宿たわらや六良兵衛」とのみ記している。鉢崎での宿・たわら屋は、代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。大正のころまで、刈羽郡高浜町の椎谷(現・柏崎市)に5月1日(旧暦)に馬市があって、その前夜はこの町も馬の往来が激しく、たわら屋は馬宿でもあったという。

関所からすぐ左手に芭蕉が宿泊した俵屋六郎兵衛の家があった。俵屋は代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。椎谷の馬市の時期はこの町も馬の往来が激しく、俵屋は馬宿でもあったという。

大泉寺 大清水 柏崎市 新潟県
大泉寺 大清水 柏崎市 新潟県上:本堂 下:仁王門

旧街道は鉢崎宿場を出て国道8号に戻る。合流して国道を1kmほど行ったところ、上越市境の手前で左手に「大清水観音堂」の標識が建っている。北陸自動車道をくぐって左折し道なりに上がっていくと右手に山道が出ている。この道が北国街道の旧道のようだ。かまわずつづら折りの舗装道を上がって大泉寺に着く。朱鳥元年(686)泰澄禅師によって創建された古刹である。今は定住の住職はいない。しかし人気のない境内には古い重要文化財が健在である。

大泉寺観音堂 大清水 柏崎市 新潟県
大泉寺観音堂 大清水 柏崎市 新潟県国指定重要文化財 朱鳥元年(686)泰澄禅師によって創建され、幾度か落雷により焼失。現在のお堂は永禄2年(1559)上杉家によって再建。明治39年に、特別保護建造物の指定を受け、後に国宝、現在は重要文化財です。お堂内部の右奥には、太さ日本一の「萩の柱」があります。

茅葺板壁の気品漂う観音堂は幾度か落雷により焼失、再建を繰り返し、現在のお堂は永禄2年(1559)上杉家によって再建されたものである。

観音堂の西側には、茅葺き屋根の山門がひっそりと建っている。裏側から見ているので小さな長屋門に見えるが両側の部屋には仁王が鎮座している。背後が正式な参道だが、今は誰も歩かない獣道になっている。

北国街道古道・功徳水 大清水 柏崎市 新潟県
北国街道古道・功徳水 大清水 柏崎市 新潟県

仁王門の手前に「功徳水 50m先にあり 北国街道」と記された低い案内札があった。大泉寺から柿崎に降りる旧道が残っているとのことだったので、これぞその旧道だろうと意気込んで功徳水を訪ねた。細い草道で旧道風情十分である。泉自体は小さなものだったが、このほかにも二つの湧水があってこれらが合わさって「大清水」「大泉寺」の名の元となった。

大泉寺から北陸自動車道の柿崎トンネルの真上をこえて柿崎竹鼻で国道8号に出る古道があるそうだが、歩ける状態であるか確信がなく、来た道を戻ることにした。

旧柿崎宿町並み 柿崎 柿崎区 上越市 新潟県
旧柿崎宿町並み 柿崎 柿崎区 上越市 新潟県左手 割烹料理店元問屋
道標 柿崎 柿崎区 上越市 新潟県
道標 柿崎 柿崎区 上越市 新潟県右山みち 左奥州道

大清水観音堂から国道8号にもどり、西に向うとすぐ柏崎市から上越市にはいる。市境から2kmほどで旧街道は国道と分かれて右の県道129号に入っていく。

町並みに入って間もなく、右手福沢酒店の先の二股を左にとるのが旧道筋である。ここは柿崎宿東の枡形跡で、街道はすぐに丁字路に突き当たり右折する。左手角の民家脇に浮彫の指差し道標があり、「右山みち 左奥州道」と刻まれている。

旧北国街道 直海浜 柿崎区 上越市 新潟県
旧北国街道 直海浜 柿崎区 上越市 新潟県線路で分断後の復活地点付近

旧街道は柿崎橋をわたった先で線路に分断されている。少し先で右折してガードをくぐり線路の海側を川に向かって分断された延長線までもどる。旧道は県道129号に合流する。この東方600mほどに、国道8号の馬正面(ばしょうめん)信号交差点がある。このあたりに古代北陸道の佐味(さみ)駅家があったとされる。

藤野条助の顕彰碑 直海浜 柿崎区 上越市 新潟県
藤野条助の顕彰碑 直海浜 柿崎区 上越市 新潟県この奥にある石碑は、吉川区尾神出身の藤野条助の顕彰碑です。江戸時代なかごろまで、柿崎から大潟にかけて犀浜と呼ばれる砂原が広がっていて、潮風による飛び砂が農作物に大きな被害を与えるため、人々は大変に苦労していました。 これを解決しようと、藤野条助は様々な本々の植林を試みて、何度も失敗を繰り返しながらも、ついに黒松林(防砂林)の植林に成功した活動を顕彰しています。

北国街道は砂丘に沿った砂防林の中を行く。右手、林の中に石碑が見える。柿崎から大潟にかけて犀浜と呼ばれる砂原に黒松の防砂林を完成させた藤野条助の顕彰碑である。苦難の末松林が完成したのは18世紀末の頃だったといわれる。芭蕉がここを歩いたときはまだ、砂嵐が舞い上がる砂丘であった。

町並み 九戸浜 大潟区 上越市 新潟県
町並み 九戸浜 大潟区 上越市 新潟県

柿崎区上下浜から大潟区雁子浜に入る。旧街道(県道129号)は鵜の浜温泉街をとおりぬけていくが、温泉は昭和31年(1956)帝国石油による石油試掘の際に湧出したもので、芭蕉にはただ多くの潟が点在している低湿地帯の道であった。

どんとの石井戸 九戸浜 大潟区 上越市 新潟県
どんとの石井戸 九戸浜 大潟区 上越市 新潟県1660年潟町に北国街道の宿場がつくられたが、宿場の東端に清水が湧き出して水車のある酒店があったと、越後頚城(くびき)郡誌稿に記されています。今でも一部利用していますが、昭和25年頃までは、村人の飲料水として多く利用され、夕刻には水運びの人で賑わったものです。 大潟町教育委員会

正法寺の少し先右手に古そうな石井戸がある。水路が整備されていて、地下を通って街道の左側の池に注いでいるのだ。「どんとの石井戸」と呼んでいる。北国街道潟町宿場の東端にあたり、江戸時代から清水が湧き出していた。付近には水車のある酒店があったという。芭蕉もこの井戸で喉を潤したかもしれない。

7月6日(新暦8月20日)-7月8日(新暦8月22日)

今町(直江津)

六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。忌中ノ由ニテ強 而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不レ帰。 及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。

七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ 被レ招。再三辞ス。強招 ニク(クニ)及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。

八日 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。

芭蕉句碑(本敬寺) 黒井 上越市 新潟県
芭蕉句碑(本敬寺) 黒井 上越市 新潟県

さびしさや花のあたりのあすならふ 「あすならふ」は翌檜(あすなろ)で、ひのき科の常緑高木。葉が檜に似ているところから「明日は檜になる」という意味でこの名が付けられており、「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経てゆく翌檜の姿がさびしい。」という句意と思われる。この句は、笈日記に掲載されており 特に黒井には関係がないが、奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅龍屋伝兵衛で……

説明の全文を読む(約360字)

さびしさや花のあたりのあすならふ 「あすならふ」は翌檜(あすなろ)で、ひのき科の常緑高木。葉が檜に似ているところから「明日は檜になる」という意味でこの名が付けられており、「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経てゆく翌檜の姿がさびしい。」という句意と思われる。この句は、笈日記に掲載されており 特に黒井には関係がないが、奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅龍屋伝兵衛で休んだのに因み寛政の頃、地元の俳人熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。 芭蕉は、正保元年(1644年」伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、二十歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を続け、奥の細道はじめ多くの紀行を残し、元禄7年(1694年)51歳えで他界した。

犀潟駅前通りを通過して県道129号は県468号に代わる。黒井宿に入ってくる。左手、本敬寺門前に黒井宿の説明板が立っており、境内六地蔵脇に芭蕉句碑がある。

さびしさや花のあたりのあすならふ

句は次の句文と共に笈日記に掲載されているもの。

「明日は檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり。 きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。ただ生前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ。」

句碑説明板の中に、「奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅龍屋伝兵衛で休んだのに因み寛政の頃、地元の俳人熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。」とある記述が気になった。

7月6日の芭蕉一行の足取りは、昼頃鉢崎を立って黒井からまっすぐ浜を通って関川を渡り今町(現直江津)に到着したことになっていて、黒井で休んだ記録がみあたらない。黒井宿から今町まではわずか一里足らずである。

旧黒井宿町並み 黒井 上越市 新潟県
旧黒井宿町並み 黒井 上越市 新潟県

黒井宿の始まりは、今から約400年前の天正年間とされ越後府中(直江津)と奥州(東北地方)とをつなぐ一番目の宿場として栄えました。高田に城が築かれた江戸時代には、街道も高田城下を通るように変えられましたが、それでも黒井は春日新田の次の宿場として、多くの人たちに利用されていました。宿場には、大名や重臣の泊まる本陣、脇本陣や旅人が泊まる旅籠、木賃宿などがありました。これらは、町並みの中で幕府の決めた一定……

説明の全文を読む(約340字)

黒井宿の始まりは、今から約400年前の天正年間とされ越後府中(直江津)と奥州(東北地方)とをつなぐ一番目の宿場として栄えました。高田に城が築かれた江戸時代には、街道も高田城下を通るように変えられましたが、それでも黒井は春日新田の次の宿場として、多くの人たちに利用されていました。宿場には、大名や重臣の泊まる本陣、脇本陣や旅人が泊まる旅籠、木賃宿などがありました。これらは、町並みの中で幕府の決めた一定の場所に造られ、街道の道幅より広く道が造られていました。また、道には井戸があって主に馬に水を飲ませるために、使われていたそうです。明治以降になると、交通機関が発達し、次第に黒井宿もその使命を果たすことがなくなりました。他の町より広い道幅が黒井宿のただ一つの名残といえます。 平成3年 上越市

関川 下門前 上越市 新潟県
関川 下門前 上越市 新潟県

黒井宿は今から約400年前の天正年間(1573~1593)、越後府中(直江津)と奥州とをつなぐ最初の宿場として栄えた。江戸時代に高田に城が築かれた後は、北国街道が高田経由に付け替えられ春日新田の次の宿場として利用されるようになった。芭蕉の時代は高田城が築かれた後で、黒井をそのまま浜伝いに直進し、関川を舟で渡って今町(今の直江津)に入る道筋はいわば当時の旧街道である。

聴信寺 中央3丁目 上越市 新潟県
聴信寺 中央3丁目 上越市 新潟県

今町にはいった芭蕉は聴信寺をたずねた。ここでも低耳(美濃の商人宮部弥三郎)の紹介状を携えていたにも拘らず、忌中とのことで宿泊を断られた。やむなく寺をあとにするが、門前に住む石井善次郎が芭蕉と知り、使いを走らせて戻るように説得した。芭蕉はここでも意地を張って再三断ったが、雨も降り出してきたので旅館を営む古川市左衛門の家に泊まることになった。古川市左衛門宅跡は直江津郵便局の西隣あたりで、今は駐車場になっていて案内板もない。旅館古川屋は現代になって本家が廃業した後も直江津駅前に分家が支店を出して経営を続けていたが、2012年に廃業し22代続いた老舗の幕を下ろした。

古川屋跡付近 中央2丁目 上越市 新潟県
古川屋跡付近 中央2丁目 上越市 新潟県

古川市左衛門宅に落ち着いた芭蕉はその夜土地の俳人たちと句会を催している。その発句が奥の細道に採用した「文月や六日も常の夜には似ず」である。

文月や六日も常の夜には似ず ばせを

露をのせたる桐の一葉 左栗(石塚喜右衛門

朝霧に食(めし)たく烟立分て 曽良

蜑の小舟のはせ上る磯 眠鴎(聴信寺住職)

烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹(石井善次郎)

松の木間より続く供鑓 布嚢(石井源助)

夕嵐庭吹払ふ石の塵 右雪(佐藤元仙 )

琴平神社 中央3丁目 上越市 新潟県
琴平神社 中央3丁目 上越市 新潟県

句会に集まったメンバーの中に芭蕉の宿泊をすげなく断った聴聞寺の住職と、それを取り直そうとした石井善之助がいる。必ずしも気まずかったわけではなさそうである。葬儀の最中であって寺側が断ったというよりも芭蕉が遠慮したのかもしれない。翌日にはしつこい聴聞寺の招きに芭蕉が折れて夕方まで長居する結果となった。 両者のわだかまりが解けたものと理解しよう。

芭蕉句碑 中央3丁目 上越市 新潟県
芭蕉句碑 中央3丁目 上越市 新潟県

「文月や六日も常の夜には似ず はせを」 「明日は七夕である。一年に一度の牽牛、織姫の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる。文月は旧暦7月、元禄2年(1689年)七夕の前夜直江津での作句である。 松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672年)江……

説明の全文を読む(約380字)

「文月や六日も常の夜には似ず はせを」 「明日は七夕である。一年に一度の牽牛、織姫の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる。文月は旧暦7月、元禄2年(1689年)七夕の前夜直江津での作句である。 松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を統け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い奥の細道の旅に出ている。 芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである。文化年間、地元の俳人福永里方らが建てた句碑であるが、幾度かの大火で焼け、慶応年間に福永珍玩らが再建したものである。

関川河口の畔に建つ琴平神社の境内にその句を刻む新旧二つの芭蕉句碑ある。

古い句碑は文化年間地元の俳人福永里方らが建てた句碑を慶応年間に福永珍玩らが再建したものである。新しい句碑は三八朝市周辺まちづくり協議会が建立したようである。

安寿姫と厨子王丸の供養塔 中央3丁目 上越市 新潟県
安寿姫と厨子王丸の供養塔 中央3丁目 上越市 新潟県

今から約920年前、陸奥岩城の国信夫郡の国守岩城判官正氏は悪人の謨言により筑紫(九州)に流されました。左遷されていた時、妻と召使いの姥竹は安寿姫(14才)と厨子王丸(12才)の二子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山岡大夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人買、宮津の三郎に売られました。知らずにいた四人も港を出ると北と西と……

説明の全文を読む(約420字)

今から約920年前、陸奥岩城の国信夫郡の国守岩城判官正氏は悪人の謨言により筑紫(九州)に流されました。左遷されていた時、妻と召使いの姥竹は安寿姫(14才)と厨子王丸(12才)の二子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山岡大夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人買、宮津の三郎に売られました。知らずにいた四人も港を出ると北と西とに漕ぎ別れていく舟にそれと気付き、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲嘆のうちに身を投げた姥竹を土地の人々が厚く弔ってここに塔を建てました。その後、安寿姫は悲しみの余り沼に身を投げ、死んでしまいました。そこで姥竹の塔の脇に又、小さな塔を建てて弔いました。 厨子王丸が関白師寛に用いられ丹後の国守となって佐渡にいた母を迎えてこの津を上がった時、土地の人々は温情に感泣し二人の塔に供養したと言われ、それから人々の手向ける香華が今も絶えないのであります。 上越市

なお、琴平神社の境内の川縁に安寿と厨子王の供養塔があった。小学校の学芸会での定番の一つであった。人買いにさらわれていった姉弟の悲劇に涙したものであるが、いまは成長した厨子王が佐渡の畑道で探し当てた盲目の老母に対する追慕の情と老女の母性愛に圧倒されている。

安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しやほうやれほ

鳥も生あるものなれば 疾う疾う逃げよ 追わずとも

翌7日、雨が降り続いて出発を見合わせていると、聴信寺から再三に亘って迎えが来た。結局寺に赴き夕方まで居ることになった。夜は地元の俳人佐藤元仙宅にて句会を持ち、そこに一泊した。その場所がどこか分かっていない。

星今宵師に駒ひいてとどめたし 右雪(佐藤元仙)

色香ばしき初苅の米 曾良

瀑水 躍に急ぐ 布つぎて 翁

さて注目の句、「荒海や佐渡に横たふ天河」についてだが、それがどこで詠まれ、いつ披露されたのか諸説があってはっきりしていない。佐藤元仙宅での発句がそれであるという説、前夜の古川宅で提出されたという説、翌日以降の高田滞在中に披露されたという説。いずれにしても直江津・高田の滞在中の出来事であったらしい。また実際芭蕉の頭に詠まれたのは雨が強かった七夕の夜ではなく出雲崎でのことだというのが通説化されている。実際佐渡の島が見えたかについても懐疑論が存在している。まことに謎多き名句である。

7月8日(新暦8月22日)-7月11日(新暦8月25日)

高田

八日 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。

九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。

十日 折々小雨。中桐甚四良へ 被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方 より晴。

十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。

8日、雨が止んで高田に向け出発したかったが、左栗(石塚喜右衛門)が熱心に誘うので昼をごちそうになった。午後3時過ぎに高田に着く。

追分地蔵 木田新田1丁目 上越市 新潟県
追分地蔵 木田新田1丁目 上越市 新潟県

高田には加賀、奥州、信州(北国)の三つの街道があつまつていた。 慶応年間に作られた 木田新田三叉路 にあるこの地蔵さんは 「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」 と刻まれておリり、左は加賀街道といって親不知、富山を経て加賀百万石の城下町金沢へ通じ、右は今町といって今の直江津である。北国街道は直江津から黒井にまっすぐ通じていたが、高田城下町の繁栄を図る高田藩は今町にある荒川の橋を落とし柏崎、富山方面か……

説明の全文を読む(約300字)

高田には加賀、奥州、信州(北国)の三つの街道があつまつていた。 慶応年間に作られた 木田新田三叉路 にあるこの地蔵さんは 「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」 と刻まれておリり、左は加賀街道といって親不知、富山を経て加賀百万石の城下町金沢へ通じ、右は今町といって今の直江津である。北国街道は直江津から黒井にまっすぐ通じていたが、高田城下町の繁栄を図る高田藩は今町にある荒川の橋を落とし柏崎、富山方面から往来する旅人を必ず高田城下に廻らせるようにした。 このためこの地蔵さんの所からでないと今町へは行けなかった。旅人の道案内と道中の無事息災を念じる守佛として親しまれ今日に至る。 新潟県・上越市

どの道を通ったかについて資料がない。黒井にもどって春日新田経由で高田に入ったとは考えられず、関川左岸を南下したのであろう。当時の公道である加賀道の木田新田三叉路に立つ追分地蔵の光背に「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」と刻まれている。左が本道の加賀街道(北国街道)で、右の細い道は今町道といって芭蕉が泊まった今町へ通じる脇道だったのである。おそらく芭蕉はここへ出て、左折し高田城下へ向かったのではないかと推測する。

北国街道交差点 本町7丁目 上越市 新潟県
北国街道交差点 本町7丁目 上越市 新潟県左:北国街道信濃路終点 上:北国街道(富山方面、加賀街道) 右下:北国街道(新潟方面、奥州街道)
道標 本町7丁目 上越市 新潟県
道標 本町7丁目 上越市 新潟県江戸時代に幕藩体制の整備がすすみ、高田城下を往来する旅人も多くなると、加賀街道(五智・糸魚川方面)と奥州街道(稲田・柿崎方面)の交差点、現本町7丁目の角に 「右おゝしう道 左かゝ道」 の道標が建てられた。これは福島城の石垣を用いて彫り刻んだものである。しかし、交通の障害になったので昭和10年ころ現在地に移された。 昭和58年 上越市

加賀街道は道なりに南にくだり北本町1丁目交差点に出る。街道はそこを左折して本町7丁目交差点に至る。ここが北国街道の三街道が出会う追分である。南へは信濃路、今来た道が加賀街道、東へ向かう道が奥州街道と区別されている。交差点の北にある宇賀魂神社の境内に、かつて本町7丁目交差点にあった道標が保管されている。道標には「右 おゝしう道 左 かゝ道」と刻まれている。

池田六左衛門宅(芭蕉宿泊地)跡付近 仲町4丁目 上越市 新潟県
池田六左衛門宅(芭蕉宿泊地)跡付近 仲町4丁目 上越市 新潟県

ところで芭蕉は来ずに、北本町1丁目の交差点を直進した。道はそのまま高田城下の三大通り(大町通り、本町通り、仲町通り)の一つである仲町通りにつながって、高田駅前の歓楽街を貫通している。芭蕉が今晩泊まることになっている池田六左衛門の家は駅前通りをすぎた辺りの仲町通りにあったといわれる。かつては石碑があったらしいが現在その跡を示す物はない。

六左衛門宅にたどり着くが来客中につき近くの寺を借りて休むあいだ、高田の医者で俳人の細川春庵より招待状が来たので、さっそくそこで句会を開くことにした。細川春庵亭も近くであったらしいが確かな場所は分かっていない。

藥欄にいづれの花をくさ枕 翁

荻のすだれをあげかける月 棟雪(細川春庵)

爐けぶりの夕を秋のいぶせくて 更也(鈴木與兵衛)

馬乘ぬけし高藪の下 曾良

句会がおわると六左衛門宅に戻った。翌日も翌々日も雨に降られて結局ここで3泊することになる。

高田城三重櫓 本城町 上越市 新潟県
高田城三重櫓 本城町 上越市 新潟県

高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ぱれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を充分にふまえて再建されたものです。内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・……

説明の全文を読む(約290字)

高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ぱれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を充分にふまえて再建されたものです。内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の出張りを付けています。1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。櫓の東側に付随して50m程の塀も同時に再建されました。

旧高田宿町並み(雁木本町商店街) 本町4丁目 上越市 新潟県
旧高田宿町並み(雁木本町商店街) 本町4丁目 上越市 新潟県

10日の夜になってようやく空が晴れて来た。11日の11時頃、高田城下を観光することもなく高田を出る。大町通りを北に上がり本町7丁目追分を左折、北本町1丁目交差点を右折して高田城下をでていく。北本町の家並みは二階建て切妻平入の長屋スタイルである。雪下ろしの為に一階屋根に梯子が常設されている。

旧北国街道(加賀街道) 北本町2丁目 上越市 新潟県
旧北国街道(加賀街道) 北本町2丁目 上越市 新潟県

北本町2丁目で左斜めに折れた後県道13号を横断する。この辺りに陀羅尼口番所と一里塚があった。石碑等は見当たらない。

白山神社の先で右斜めにおれて真北に方向転換する。川を渡った先で左に曲がり、木田新田に入った直後の丁字路に追分地蔵がある。先日今町から高田に向かう道でここに出たのだった。

旧中屋敷宿町並み 春日山町1丁目 上越市 新潟県
旧中屋敷宿町並み 春日山町1丁目 上越市 新潟県
加賀街道と松並木 国府/加賀町 上越市 新潟県
加賀街道と松並木 国府/加賀町 上越市 新潟県

ここは上越地方にわずかに残っている加賀街道です。 また道の両側の枝ぶりのよい松は当時の松並木です。昭和10年ころは100本以上も数えられたという松並木も今は20数本しかありません。加賀街道は江戸時代、北陸と江戸をむすぶ大切な公道で、正しい名称は北国街道と言います。だから加賀百万石の殿様や北陸の大名達は特別のことがないかぎり、この街道を通って参勤交替をしなけれぱなりませんでした。 大勢の家来をつれた……

説明の全文を読む(約290字)

ここは上越地方にわずかに残っている加賀街道です。 また道の両側の枝ぶりのよい松は当時の松並木です。昭和10年ころは100本以上も数えられたという松並木も今は20数本しかありません。加賀街道は江戸時代、北陸と江戸をむすぶ大切な公道で、正しい名称は北国街道と言います。だから加賀百万石の殿様や北陸の大名達は特別のことがないかぎり、この街道を通って参勤交替をしなけれぱなりませんでした。 大勢の家来をつれた大名行列が通ったり、たくさんの旅人達も賑やかに通ったことでしょう。 街道の管理を高田藩がしたので、松並木は高田藩が植えたものと思われます。松の多くは樹齢170~200年くらいです。

春日城下の中屋敷宿を通り抜け越後国府所在地とされる場所を通る。国府別院はまだ建っていなかった。街道には松並木が整備され、今もわずかに往時の面影を留めている。その先、街道は五智国分寺と居多神社の傍を通って浜道へ抜けていく。

居多神社 五智6丁目 上越市 新潟県
居多神社 五智6丁目 上越市 新潟県越後の一の宮 居多神社 一祭神 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 一由緒 弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)に従四位下を朝廷から賜わった。延長55年(927)の「延喜式」神名帳に記載された式内社である。越後国司・越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護をうけ、越後一の宮として崇敬されてきた。今日、縁結び・子宝祈願の神として信仰されている。

街道から離れて左手にある居多(こた)神社に詣でた。この神社は越後国司、越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け越後国一の宮として崇敬されてきた。創建は不詳であるが式内社である。南北朝時代から越後国一宮を主張、弥彦神社と競合しているが、勢力の差は歴然である。社殿は平成20年(2008)に造営されたばかりで新しい。

片葉の芦 五智6丁目 上越市 新潟県
片葉の芦 五智6丁目 上越市 新潟県親鸞聖人 越後七不思議 片葉の芦 承元元年(1207)専修念仏の禁止により、親鸞聖人は越後国府に配流となった。居多ケ浜に上陸した親鸞は居多神社に参拝し、 すゑ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは と詠み、神前に供え、はやく赦免となりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の芦が片葉になったという。

境内の一隅に片葉の芦が群生している。親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている。片葉の芦を他の地でも見た気がするが思い出せない。

五智国分寺仁王門 五智3丁目 上越市 新潟県
五智国分寺仁王門 五智3丁目 上越市 新潟県

街道に戻りすぐのY字路の間に五智国分寺の参道が出ている。

五智国分寺三重塔 五智3丁目 上越市 新潟県
五智国分寺三重塔 五智3丁目 上越市 新潟県県指定文化財 安政3年(1856)着工されたが高欄等は未完成である。

天保6年(1835)再建の仁王門をくぐると右手に小振りで清楚な白木の三重塔が建つ。三重塔は寛政6年(1794)の焼失後の安政3年(1856)に再建を着工し、慶応元年(1865)に棟上がされたが高欄等は未完成である。上越地方では唯一残る塔である。

芭蕉句碑(五智国分寺) 五智3丁目 上越市 新潟県
芭蕉句碑(五智国分寺) 五智3丁目 上越市 新潟県

薬欄にいづれの花をくさ枕 「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの・」と解される。元禄2年(1689年)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(16……

説明の全文を読む(約350字)

薬欄にいづれの花をくさ枕 「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの・」と解される。元禄2年(1689年)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を続け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い奥の細道の旅に出ている。芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである。この句碑は、明和7年(1770)に建てられたものである。

左手に芭蕉句碑がある。

薬園にいづれの花をくさ枕

3日前の7月8日、細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だった。

五智国分寺本堂 五智3丁目 上越市 新潟県
五智国分寺本堂 五智3丁目 上越市 新潟県

聖武天皇の勅願によって建立された本来の越後国分寺の所在地はわかっていない。永禄5年(1562)近隣の日山城主上杉謙信によって現在の場所に再建された。その後幾度となく災興を繰り返し現在の本堂は平成9年に再建されたものである。

親鸞聖人上陸の地 中央3丁目 上越市 新潟県
親鸞聖人上陸の地 中央3丁目 上越市 新潟県承元元年81207)春のはじめ、念仏停止によって越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、ここ居多ケ浜に上陸しました。親鸞聖人は、35歳から42歳までの7年間をこの国府ですごしました。

街道にもどる。二股を右にとって国分寺入口交差点で県道468号を横断して浜辺の道にでる。居多ヶ浜に展望台が設けられており、多くの観光客が出入りしている。浄土真宗の開祖親鸞聖人は承元元年(1207)旧来の仏教による弾圧を受け、帰依していた法然に連座して京を追放され越後国府に流されることになった。聖人は北陸道を下って木浦(能生町)から船で国府にいたり、この地居多ケ浜に上陸したと伝えられている。親鸞聖人は、35歳から42歳までの7年間をこの国府ですごした。

居多ヶ浜の旧道にもどり西に向かう。県道468号に合流してまもなく郷津信号で国道8号に合流する。

旧長浜宿町並み 長浜 上越市 新潟県
旧長浜宿町並み 長浜 上越市 新潟県

長浜交差点で左の旧道にはいる。谷浜郵便局あたりが長浜宿場の中心であろうか。駅もバス停も郵便局もみな「谷浜」であって「長浜」の文字をみかけない。素朴な民家をみかけるだけで谷浜集落を通り抜けた。民宿を2、3軒見かけた。海水浴シーズン用のものであろう。

旧北国街道 有間川 上越市 新潟県
旧北国街道 有間川 上越市 新潟県

国道8号に戻って西進する。有間川信号を左折し100mほどで右折して川を渡り有間川集落に入る。家並みには新しい家が多く閑静な住宅街の雰囲気である。街道は集落の西端近くの二股を左にとり、坂を上がっていく。有間川保育園前の丁字路を左折し、すぐ右の山道に入っていく。昔はまっすぐにつながっていたのだろう。右手下に有間川の駅と漁港がよくまとまって覗かれる。

旧北国街道 鍋ケ浦 上越市 新潟県
旧北国街道 鍋ケ浦 上越市 新潟県

山道をしばらくたどっていったが次第に山深くなっていく。その先の道筋に自信がなく、保育園前まで引き返した。車道で坂を上り丹原集落内の十字路に出た。左の細道に入っていくのが旧道筋らしい。しばらくたどってみたが、民家の庭先を縫うような細道である。十字路に引き返し車道を直進して集落を抜けた。

旧北国街道 茶屋ケ原 上越市 新潟県
旧北国街道 茶屋ケ原 上越市 新潟県

広い田園地帯に出る。前方近くに北陸自動車道が走っている。十字路に、直進は「西横山」右は「鍋ケ浦」の標識が立っている。右折して川をわたり突き当りを右折、その先の三叉路を左折して車道に突き当たる。右にいけば国道8号に出る。旧道は左折して右に曲がり、三叉路を直進する。道なりに蛇行をしながら吉浦集落内の丁字路に突き当たる。右折して吉浦集落を北に抜けていく。

家並みが尽きたあたりで二股を左にとり、その先で左に半円を描いて回り込み、丁字路を右折すると茶屋ケ原集落である。集落内で左方向に90度曲がって丁字路を直進、道なりに右に大きく曲がり込んだ後、左に曲がってようやく直線の道に入る。

乳母嶽神社 茶屋ケ原 上越市 新潟県
乳母嶽神社 茶屋ケ原 上越市 新潟県この乳母嶽神社は「子育ての神様」、「乳の神様」として崇拝されている。源義経の家来、野宮権丸郎が落ちのびてこの地に隠棲したとき、ここの海で東西から織り交う「四海波」の沖合いから、霊像を得てこれをまつったところ「乳不足の婦人はわれを祈念せよ」とのお告げがあったと伝えられている。乳不足の婦人が参拝すると霊験があるという。 新潟県・上越市

途中いくつか左の家並みに入っていく路地があるが、すべて無視して本道をまっすぐ進んでいく。家並みがしだいに疎らになったところで迷いそうな二股が現れるが、ここも右をまっすぐに進んでいく。民家は途絶え林中の道をしばらくいくとやがて右手に乳母ヶ岳神社がある。いかにも古そうだがしっかりとした繊細な彫刻が施された社殿である。

旧北国街道・道標 茶屋ケ原 上越市 新潟県
旧北国街道・道標 茶屋ケ原 上越市 新潟県

道はその先浅い切通しとなりやがて視野が開けて道は草道となった。

右手前方に日本海が見えてくる。明るい段丘の草道を歩いていくと左手に小さな道標を見つけた。「左神社道 右山道」とある。「神社」とは乳母ヶ岳神社のことであろう。

旧北国街道・道標 茶屋ケ原 上越市 新潟県
旧北国街道・道標 茶屋ケ原 上越市 新潟県

こんどは日本海に滑り落ちそうな斜面に木の標識を見つけた。「加賀街道」と書かれている。歩いているのは頼りない草道だが、加賀藩大名が参勤交代で通った道に間違いなさそうだ。

旧北国街道・薬師堂 茶屋ケ原 上越市 新潟県
旧北国街道・薬師堂 茶屋ケ原 上越市 新潟県

畑地を縫う農道となり、薬師堂の祠の前を通って突き当りを右折、道は藪の中に入っていった。通行止めとなっているが、藪は浅くまた周囲は明るい。熊もいそうにない。早足に進んでいくと間もなく車道に出た。

旧北国街道・名立遠望 名立小泊 名立区 上越市 新潟県
旧北国街道・名立遠望 名立小泊 名立区 上越市 新潟県

県道87号を横切って旧道らしい道をたどったが、まもなく県道に戻ってしまった。つづら折りの坂を下って北陸自動車道名立谷浜IC信号で国道8号に出る。

竜宮の鐘(宗龍寺) 名立小泊 名立区 上越市 新潟県
竜宮の鐘(宗龍寺) 名立小泊 名立区 上越市 新潟県

国道8号に出てすぐ左の旧道に入る。曲尺手の先左手に「宗龍寺」がある。ここは永禄2年(1559)に創建されたお寺だが、名立崩れで海中に押し出されたという。その百年余の後、異様な海鳴りに気付いた漁師たちによって、明治初年ごろに海中から引き揚げられた「竜宮の鐘」がある。鐘は安土桃山時代以前の作といわれる。鐘のいぼが三分の一欠けているのは震災のためであろう。

旧名立宿町並み 名立大町 名立区 上越市 新潟県
旧名立宿町並み 名立大町 名立区 上越市 新潟県

町並みに旧街道の匂いはないが、ここ名立大町は古代北陸道の名立駅家が置かれた所である。遺構等は発見されていない。

名立寺 名立大町 名立区 上越市 新潟県
名立寺 名立大町 名立区 上越市 新潟県明治11年北陸東海巡幸の際9月25日御駐泊あらせられたる處にして建物は昭和8年9月30日焼失せり依りて同10年5月址地に本堂を建築し一部は空き地となりて園池と共に保存せらる附近正光寺境内に御膳水の井あり 昭和12年7月3日 文部省

正光寺前にある曲尺手を経て、二つ目の路地を左に入ったところに名立寺がある。永正年間(1504~1520)の開基と伝わる。度重なる火災で焼失し、本堂は昭和10年に再建されたもので新しい。ここは江戸時代名立宿の本陣だった。明治11年の明治天皇名立行在所でもあった由緒ある寺である。

旧道は名立川をわたって国道8号に合流し、ほどなく上越市から糸魚川市に入る。

7月11日(新暦8月25日)-7月12日(新暦8月26日)

能生

十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。

十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡。川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。

能生漁港 能生小泊 糸魚川市 新潟県
能生漁港 能生小泊 糸魚川市 新潟県

合川の手前で旧道に入り浜徳合、筒石集落を通り抜ける。藤崎、百川集落内を旧道で通りぬけ能生小泊の漁港に立ち寄った。権現崎を背にした美しい港である。国道沿いの通路に30棟もの番小屋が一列に並んだ景色も印象的であった。

白山神社拝殿 能生 糸魚川市 新潟県
白山神社拝殿 能生 糸魚川市 新潟県

古代奴奈川族の首長、奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まりと云われており、かつては権現岳にありました。社伝によれば第十代崇神天皇十年十一月初午の日に始まったとされ、醍醐天皇の命よって作られ927年に完成した「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるともいわれています。 白山信仰を開いたと云われる泰澄大師(682-767)が奈良時代に加賀白山などを基地として両部習合を行った際、能生白山神社に仏像……

説明の全文を読む(約450字)

古代奴奈川族の首長、奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まりと云われており、かつては権現岳にありました。社伝によれば第十代崇神天皇十年十一月初午の日に始まったとされ、醍醐天皇の命よって作られ927年に完成した「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるともいわれています。 白山信仰を開いたと云われる泰澄大師(682-767)が奈良時代に加賀白山などを基地として両部習合を行った際、能生白山神社に仏像を安置し、白山信仰を布教し、社号を白山権現に改められたと伝えられています。 本殿は明応年間(1492-1501)に火災で焼失しましたが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興されました。その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財にも指定されています。 江戸時代、元禄2年(1689)7月11日奥の細道の際に松尾芭蕉が髄行僧曾良とともに能生に宿泊しましたが、この際に当社の「汐路の鐘」を詠んだ句があり、境内にその句碑が建っています。

国道8号弁天大橋東詰交差点で左の旧道にはいる。すぐ左手に重厚な茅葺屋根の白山神社がある。奴奈川姫(ぬながわひめ)を祀って産土神社としたのが始まりと云われており醍醐天皇の命よって造られ「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるといわれている。本殿は明応年間(1492-1501)に火災で焼失したが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興された。その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財に指定されている。

「汐路の鐘」芭蕉碑 能生 糸魚川市 新潟県
「汐路の鐘」芭蕉碑 能生 糸魚川市 新潟県

越後能生社汐路の名鐘 むかしより能生にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へさりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の満来らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り侍りしに、明応の頃焼亡せり。されともその残銅をもつて今の鐘能登国中居浦鋳物師某鋳返しけるとそ。猶鐘につきたる古歌なとあ……

説明の全文を読む(約240字)

越後能生社汐路の名鐘 むかしより能生にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へさりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の満来らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り侍りしに、明応の頃焼亡せり。されともその残銅をもつて今の鐘能登国中居浦鋳物師某鋳返しけるとそ。猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも、誰ありてこれを知る人なし。 曙や霧にうつまくかねの聲 芭蕉

社務所の前に「越後能生社汐路の名鐘」と題した大きな芭蕉句碑がある。「汐路の鐘」とは、義経主従が山奥へ逃れる途中能生浦に滞在し、武運長久を祈って常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したといわれる鐘である。この鐘には汐が満ちてくると、人が触れずとも一里四方になり響くという伝説がある。明応のころ消失したが、その残銅をもって再鋳された。

碑は文政5年(1822年)岡本五右衛門憲孝が建立したもの。元禄2年(1689)芭蕉が奥の細道の途次能生に宿泊した際、詠んだ句とされるが、奥の細道にも芭蕉句集にも載っていない。

曙や霧にうつまくかねの聲 芭蕉

能生宿村田本陣跡付近 能生 糸魚川市 新潟県
能生宿村田本陣跡付近 能生 糸魚川市 新潟県
玉屋旅館 能生 糸魚川市 新潟県
玉屋旅館 能生 糸魚川市 新潟県芭蕉宿泊地 玉屋五郎兵衛

こんぴら神社の先の曲尺手を経て宿場の中心街へ入る。郵便局の先、水路の手前左手のヘアーサロンが村田家本陣跡だそうだが、それを示す物はなかった。水路の先の路地を左に少し入ったところに玉屋という旅館がある。7月11日高田を発った芭蕉は夕刻能生に着き、玉屋五郎兵衛方に宿泊した。現在もその子孫が経営しているという。当時玉屋は旧道沿いにあった。

国道で木浦、鬼舞、鬼伏、浦本、中宿を経て早川をわたると梶屋敷である。

早川 梶屋敷 糸魚川市 新潟県
早川 梶屋敷 糸魚川市 新潟県

芭蕉は早川でつまずいて衣を濡らしてしまった。川は浅く徒歩わたりであったが、石がごろごろしていてバランスを失ったらしい。やむなく河原でしばらく休んで、濡れた衣を乾かした。

旧梶屋敷宿町並み 梶屋敷 糸魚川市 新潟県
旧梶屋敷宿町並み 梶屋敷 糸魚川市 新潟県

早川橋西詰信号で左折して旧道に入る。水路を渡って梶屋敷宿に入って行く。田伏交差点まで600mほどの小さな宿場である。家並みには比較的妻入り造りの民家が多くみられる。見ている間に梶屋敷の集落を抜けていく。

田伏交差点で国道8号に合流するがすぐに大和川小学校の前で右手の旧道にはいる。大和川集落をぬけ、竹ヶ花十字路交差点で国道をよこぎって海川をわたると糸井川宿である。

五輪塔・一里塚跡付近 押上2丁目 糸魚川市 新潟県
五輪塔・一里塚跡付近 押上2丁目 糸魚川市 新潟県

押上信号交差点の手前右手に鳥居と玉垣に囲まれて五輪塔がある。なにかを祀るものらしいが、詳細は分からず。一里塚跡だともいわれるが、案内板はない。信号を渡ると県道222号となり、一直線に糸井川宿に入っていく。

相馬御風宅 大町2丁目 糸魚川市 新潟県
相馬御風宅 大町2丁目 糸魚川市 新潟県叙情歌人・詩人・自然主義評論家・良寛研究家として活躍し、早稲田大学校歌や童謡「春よ来い」の作詞者としても知られる郷土の文人、相馬御風。會津八-、野□雨情、北大路魯山人など、多くの著名人も訪れた当時の家屋を、ほぽそのままに保存しています。

寺町を過ぎて本町2丁目信号交差点の手前、右手に相馬御風邸がある。御風は明治16年、糸魚川市に生まれ、歌人、詩人で早稲田大学校歌や「春よ来い」、「カチューシャの唄(2番以降。1番は島村抱月)」の作詞者として、また良寛の研究者で知られている。

奴奈川姫 大町2丁目 糸魚川市 新潟県
奴奈川姫 大町2丁目 糸魚川市 新潟県

「古事記」や「出雲国風土記」には高志の国の沼河比売命(奴奈川姫)と出雲の国の八千矛神(大国主命)とのラブロマンス(通婚神話)がよまれており、その奴奈川姫は「沼川郷」なる古地名や、姫を祭る神社の所在などからこの地方の女神とされています。また、この地方では今より4,5千年前の縄文時代から、姫川より流れ出たヒスイを巧みに加工し、弥生・古墳時代には優美な勾玉を盛んに生産していました。そのようなことから通婚……

説明の全文を読む(約300字)

「古事記」や「出雲国風土記」には高志の国の沼河比売命(奴奈川姫)と出雲の国の八千矛神(大国主命)とのラブロマンス(通婚神話)がよまれており、その奴奈川姫は「沼川郷」なる古地名や、姫を祭る神社の所在などからこの地方の女神とされています。また、この地方では今より4,5千年前の縄文時代から、姫川より流れ出たヒスイを巧みに加工し、弥生・古墳時代には優美な勾玉を盛んに生産していました。そのようなことから通婚神話は、富と力の象徴であるヒスイの勾玉を作るこの地方と、それを求めた出雲との関係を物語っているようです。この奴奈川姫とその子建御名方命は、夕日の向こう遠く離れた出雲に思いをはせながら、旅人を迎えているのです。

旧街道は本町2丁目交差点から左折、右折する曲尺手を抜けるのだが、そこを右折して国道8号との丁字路に出てみる。丁字路角に奴奈川姫の像が建っている。「古事記」に出てくる高志国の沼河に住む沼河比売の美貌の評判を聞きつけた出雲の八千矛神(大国主命)は妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに好意的な歌を返し、翌日の夜、二人は結ばれた。話が早い。

糸魚川宿小林本陣跡 加賀の井酒造 大町2丁目 糸魚川市 新潟県
糸魚川宿小林本陣跡 加賀の井酒造 大町2丁目 糸魚川市 新潟県

加賀前田候・本陣跡 百万石を誇った加賀藩は、承応元年(1652)親不知や姫川の難所をひかえ、また、参勤交代が二干人の大名行列になるなどから、ここ糸魚川を宿泊の地としました。殿様の宿泊するところを本陣といい、加賀の丼酒造(小林家)がその場所にあたりました。(糸魚川本陣)殿様一行への心配りや、宿泊、往来のための警戒、気配りは町や村の大きな負担でもありました。 小林家は、本陣の役と町年寄り(民間の総元締……

説明の全文を読む(約260字)

加賀前田候・本陣跡 百万石を誇った加賀藩は、承応元年(1652)親不知や姫川の難所をひかえ、また、参勤交代が二干人の大名行列になるなどから、ここ糸魚川を宿泊の地としました。殿様の宿泊するところを本陣といい、加賀の丼酒造(小林家)がその場所にあたりました。(糸魚川本陣)殿様一行への心配りや、宿泊、往来のための警戒、気配りは町や村の大きな負担でもありました。 小林家は、本陣の役と町年寄り(民間の総元締め)を兼ねて、江戸時代の終わりまで踏襲しました。前田候の拝領品、町方文書などが保存され、一部展示されています。

曲尺手の大町交差点にもどり西にすすむとすぐ右手に小林家本陣跡加賀の井酒造がある。慶安3年(1650)の創業で新潟最古の酒蔵という。加賀三代藩主前田利常は参勤交代のときここに本陣を置き酒銘「加賀の井」と命名した。加州三候(加賀藩、大聖寺藩、富山藩)の宿泊記録が残っている。小林九郎左衛門家は町年寄りも勤める名家であった。

京屋 本町 糸魚川市 新潟県
京屋 本町 糸魚川市 新潟県

すぐ先に大きな赤いローソクの看板を庇屋根に乗せた京屋がある。間口の広い平入町屋で江戸時代から続く老舗である。特に柚餅子は400年も前から作られている銘菓で、加賀侯が土産として将軍に献上したことから、「御」の字が付けられ、この店のゆべしは「御ゆべし」と呼ばれる。柚餅子と仏具を売るという奇妙な商品組み合わせである。

旧街道は横町(旧新屋町)で国道148号と交差する。この道はフォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に至る道で、約120kmの街道である。「塩の道」とも千国(ちくに)街道、松本街道、糸魚川街道とも呼ばれた。

糸魚川町道路元標・塩の道起点 本町 糸魚川市 新潟県
糸魚川町道路元標・塩の道起点 本町 糸魚川市 新潟県旧塩の道問屋街・白馬通り商店街(松本街道)起点

交差点の北東角に糸魚川町道路元標と、電柱に「旧塩の道問屋街・白馬通り商店街(松本街道)起点」の標識が貼られている。今は人気もない通りだが、昔はこのあたりに信州方面への荷を扱う問屋が軒を連ねていた。信濃国松本藩領内の塩と肴の大部分は当地から送られており、この輸送に6軒の信州問屋が携わっていた。毎年3千駄送るよう申し付けられていたという。

旧糸魚川宿町並み 本町 糸魚川市 新潟県
旧糸魚川宿町並み 本町 糸魚川市 新潟県

人や物の行き交う要衝にあって、問屋だけでなく、旅籠や茶店も賑わっていたことだろう。奥の細道に同行した曽良はここ新屋町の左五左衛門の茶店で休んだことを記している。ちょうど昼時であった。親不知の難所にいどむ腹ごしらえでもしたのだろう。茶店の主人は芭蕉と曽良が加賀の大聖寺に立ち寄ると聞いて、そこの僧への伝言を頼んだ。

姫川 須沢 糸魚川市 新潟県
姫川 須沢 糸魚川市 新潟県

寺島で国道8号を横断した先、姫川港をまわりこんで旧道(県道486号)で姫川橋をわたる。急流で知られる姫川は綱を繰って船を渡した。この川の流域はヒスイの産地で、河口付近の海岸や河原では今でもヒスイ原石を見つけることができるという。

青海村道路元標 青海 糸魚川市 新潟県
青海村道路元標 青海 糸魚川市 新潟県

県道は須沢で国道8号を横切ってそのまま青海に入る。

青海駅前交差点に差し掛かる。手前右手の電柱脇に青海村道路元標があり、その先の民家前に青海宿本陣清水家跡がある。

青海宿本陣清水家跡 青海 糸魚川市 新潟県
青海宿本陣清水家跡 青海 糸魚川市 新潟県

交差点を渡った右手には明治天皇聖蹟碑が建っている。

旧青海宿町並み 青海 糸魚川市 新潟県
旧青海宿町並み 青海 糸魚川市 新潟県

交差点を挟んだあたりが宿場の中心であったのだろう。青海は北国街道の宿場であるとともに古代北陸道の蒼海(あおうみ)駅家が置かれた所でもあった。

この先は親不知の難所を越えなければならない。親不知の先の市振宿との間に残されたわずかな浜に歌宿、外波宿が置かれた。

港町信号で旧道は国道8号に合流して青海川を渡る。

日本海 青海 糸魚川市 新潟県
日本海 青海 糸魚川市 新潟県
子不知洞門・国道8号 歌 糸魚川市 新潟県
子不知洞門・国道8号 歌 糸魚川市 新潟県

国道は坂道を上がって断崖に造られた洞門とトンネルを潜り抜けながら歌地区に入る。青海までの浜辺道はなくなり、昔は崖が日本海に落ち込む波打ち際を歩かねばならなかった。洞門の窓から見た海岸にはまだテトラポットに守られた浜が残っているが、この先で浜がなくなる。青海から歌までの海岸を子不知、その先市振までを親不知とよぶが、合わせて親不知という場合が多い。

旧歌宿本陣跡付近 歌 糸魚川市 新潟県
旧歌宿本陣跡付近 歌 糸魚川市 新潟県

国道はしだいに下り坂になり、駒返トンネルを出たところ歌信号で左の旧道、県道525号に入る。右に大きく旋回しながら日本海ひすいラインの高架橋の下をくぐって歌川をわたる。このあたりは歌集落の北端である。集落は歌川に沿って南北に形成され、街道筋には郵便局しかない。すぐ先が親不知駅で、この辺りに本陣があったらしい。

子不知の西端駒返しトンネルと親不知の東端風波トンネルの間3kmほどの海岸は断崖から海岸線まで少しの幅があり、海水浴場や漁港まである浜辺を形成している。そこに歌と外波の宿場が設けられた。両宿場の距離は2kmに満たない。青海からの荷は歌で継いで市振へ、市振からの荷は外波で継いで青海へ送られた。

旧外波宿町並み 外波 糸魚川市 新潟県
旧外波宿町並み 外波 糸魚川市 新潟県

県道はそのまま外波の集落に入っていく。この集落も外波川河口部分に沿って南北に長い町で、街道はその北端をかすめるように走っている。歌に比べると海岸部分が広く民家の数も多い。海岸には親不知海水浴場や親不知漁港があって街道沿いにも民宿が数軒見かけられる。

相馬御風歌碑 外波 糸魚川市 新潟県
相馬御風歌碑 外波 糸魚川市 新潟県

外波川をわたると国道8号が北陸自動車道の高架をくぐり、左に大きく曲がる手前右手に親不知記念広場が設けられている。見晴台があり、断崖が日本海に落ち込む姿がよく見渡せる。波が直接崖岩に打ち寄せ、そこには獣が歩く余地もない。

親不知 市振 糸魚川市 新潟県
親不知 市振 糸魚川市 新潟県

親不知・子不知の由来 今から800年前の源平盛衰の昔、越後の五百刈村へ移り住んだ、池大納言平頼盛(平清盛の異母弟)の後を追って、この地をりかかった夫人が、懐の愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりこの歌を詠みました。 親しらず子はこの浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく この歌が地名の由来といわれる親不知・子不知は古来から旅人が北アルプス北端の断崖と、日本海の荒波を縫って、命がけで通行する、天下の難……

説明の全文を読む(約220字)

親不知・子不知の由来 今から800年前の源平盛衰の昔、越後の五百刈村へ移り住んだ、池大納言平頼盛(平清盛の異母弟)の後を追って、この地をりかかった夫人が、懐の愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりこの歌を詠みました。 親しらず子はこの浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく この歌が地名の由来といわれる親不知・子不知は古来から旅人が北アルプス北端の断崖と、日本海の荒波を縫って、命がけで通行する、天下の難所といわれています。 親不知コミュニティロードより

広場に愛の母子像が立ち、台座には相馬御風の歌が刻まれている。

かくり岩によせてくだくる 沖つ浪のほのかに白き ほしあかりかも

Breaking on a lonely rock Waves rising in the sea glow faintly white Likestarlight.

資料39

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書とヾめ侍る。

7月12日(新暦8月26日)

市振

親不知コミュニティロード 市振 糸魚川市 新潟県
親不知コミュニティロード 市振 糸魚川市 新潟県

国道は大きく山側に回りこみ風波川を渡って市振地区に入る。まもなく右手に親不知観光ホテルが建っている。ホテルの脇からコミュニティロードと呼ばれる旧国道が残されている。親不知を越えるのに4世代に亘る道が開削された。1世代の道は芭蕉が歩いた文字通りの旧道である。引き潮の時を狙って波打ち際を駆け抜ける。波が押し寄せるときは断崖の洞窟に避難した。

親不知 市振 糸魚川市 新潟県
親不知 市振 糸魚川市 新潟県

こ;こは、親不知で最も通行が困難な「天険」の直上、高さ約80mの崖の上です。かつての旅人たちは、波打ち際を通る当時の北陸道を命かけで通行していました。今立っているこの道は、絶壁を切り開いてつくられ、明治16(1883)年に完成しました。その喜びを岸壁に刻んで表したのが、「如砥如矢」です。砥石のように滑らかで、失のようにまっすぐであるという意味で、 この進路の工事に力を尽くした青海の人、富岳磯平の書……

説明の全文を読む(約220字)

こ;こは、親不知で最も通行が困難な「天険」の直上、高さ約80mの崖の上です。かつての旅人たちは、波打ち際を通る当時の北陸道を命かけで通行していました。今立っているこの道は、絶壁を切り開いてつくられ、明治16(1883)年に完成しました。その喜びを岸壁に刻んで表したのが、「如砥如矢」です。砥石のように滑らかで、失のようにまっすぐであるという意味で、 この進路の工事に力を尽くした青海の人、富岳磯平の書と言われています。 親不知コミュニティロードより

2世代の道が明治16年に断崖の修復を掘削して開通した旧国道である。国道開通を記念して、絶壁に「如砥如矢(とのごとくやのごとし)」と巨大な文字が刻まれている。砥石のように滑らかで、矢のように速く通れる道が完成した喜びを表した。

第3世代が昭和41年に開通した現在の国道8号で、第4世代は北陸自動車道である。

旧親不知トンネル 市振 糸魚川市 新潟県
旧親不知トンネル 市振 糸魚川市 新潟県このトンネルは、明治時代の終わりに北陸路一の難所として有名な「天険親不知」の断崖絶壁を貫通させ整備されました。1912(大正元)年の開通から、線路が複線化となリ廃線になる1965(昭和40)年までの53年にわたり旅客や貨物の輸送を支えました。

ホテルの入口近くから海岸に降りる道がついている。道というより石段といった方が正しい。極めて急な石段道である。途中の踊り場に旧北陸本線のトンネルが残っていた。堅固なレンガ造りで昭和40年(1965)年までの53年間使われた。

親不知 市振 糸魚川市 新潟県
親不知 市振 糸魚川市 新潟県

浜辺に降りる。猫の額のような空間があった。そこから北を見ても南を眺めても崖下を波が打ち寄せる険しい自然である。

コミュニティロード(旧国道)は天険トンネルを越えてきた国道8号と合流する。4か所の洞門をくぐりながら2.5kmほど行ったところで右手に分かれる旧国道に入って富山県境の市振集落に入っていく。

海道の松 市振 糸魚川市 新潟県
海道の松 市振 糸魚川市 新潟県

昔の北陸道は、この海道の松から海岸へ降りて西からの旅人はいよいよ寄せ来る波におびえながら天下の険、親不知小不知を東へ越えることになったのである。また西へ上がる旅人は10k余りの波間を、命がけでかいくぐり海道の松にたどりついて、ようやくホッとし、市振の宿へはいったのである。目通り2.5mで200年以上の風雪にたえたといわれ地元の人々からも大切に守り育てられて来たが、明治16(1883)には、がけの中……

説明の全文を読む(約280字)

昔の北陸道は、この海道の松から海岸へ降りて西からの旅人はいよいよ寄せ来る波におびえながら天下の険、親不知小不知を東へ越えることになったのである。また西へ上がる旅人は10k余りの波間を、命がけでかいくぐり海道の松にたどりついて、ようやくホッとし、市振の宿へはいったのである。目通り2.5mで200年以上の風雪にたえたといわれ地元の人々からも大切に守り育てられて来たが、明治16(1883)には、がけの中腹に如砥如矢(とのごとくやのごとし)の国道がつき大正1(1912)年には汽車が通るに至り記念の老松が忘れられようとしている。昭和49年4月指定 糸魚川市教育委員会

漁港に降りる道との分岐点に「海道の松」が立っている。目通り2.5mで樹齢200年を超える老樹であるが、今もよい姿を保持している。親不知を越えてきた旅人はこの松の姿を見て安堵の気持ちに浸ったことであろう。

市振街並み 市振 糸魚川市 新潟県
市振街並み 市振 糸魚川市 新潟県

街道はその二股を左に取る。

弘法の井戸 市振 糸魚川市 新潟県
弘法の井戸 市振 糸魚川市 新潟県昔、市振の村のはずれの茶屋に坊さん(弘法大師)がきて「水がほしい」といったところ茶屋の婆さんは1kmも遠い赤崎のチビタミズ(冷たい清水)を汲んできてあげた。坊さんはこれをあわれんで足元の土をツエで三度突きこの井戸をつくったという。 青海町観光協会

市振の町並みに入ってまもなく右手に弘法の井戸がある。昔、弘法大師がこの地の茶屋にきて水がほしいといったところ、茶屋のばあさんは1kmも離れた赤崎の冷たい水を汲んできたので、弘法大師はこれを憐れみ、足元の土を杖で三度突いてこの井戸をつくったという。弘法大師はなぜ茶を所望しなかったのか。

伝芭蕉の宿桔梗屋跡 市振 糸魚川市 新潟県
伝芭蕉の宿桔梗屋跡 市振 糸魚川市 新潟県

この地は、元禄2(1689)年7月12日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり、 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月 の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正3(1914)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。 安政3(1856)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。 市振の……

説明の全文を読む(約310字)

この地は、元禄2(1689)年7月12日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり、 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月 の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正3(1914)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。 安政3(1856)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。 市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、遊女も寝たる旧地なり。 寝覚めして 何やらゆかし 宿の花 良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています゜ 市振や 芭蕉も寝たり おぽろ月 昭和50年2月15日 糸魚川市教育委員会

集落のなかほど、桔梗屋前バス停脇に芭蕉が泊まったという桔梗屋跡の標識が立てられている。桔梗屋は市振宿の脇本陣だったが、大正3年の大火で焼失してしまった。芭蕉の宿泊地というだけでない。ここで「一つ家に 遊女も寝たり萩と月」という名句を残した。

奥の細道本文に掲載された句であるのに、曽良の日記には触れられていない。芭蕉得意の虚飾であったか、曽良の無視あるいは失念か、というだけでなく、句意についても議論が多い名句である。とにかくこの一句で市振の地は有名になった。

市振関所趾 市振 糸魚川市 新潟県
市振関所趾 市振 糸魚川市 新潟県

江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。 親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624~)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。 関所関所で髪改める 娘十七髪解けん 今に伝えられる。 この関所の特徴は行旅の人々の検問の……

説明の全文を読む(約410字)

江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。 親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624~)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。 関所関所で髪改める 娘十七髪解けん 今に伝えられる。 この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。 その敷地は集落の西方、東西に延びる街道を挟み、東西21間、南北95間で面積は6反6畝15歩であった。その中に「番所」「上役長屋」「足軽長屋」「遠見番所」「井戸」等があり、また西門に近く「馬ノ足洗井戸」があった。 なお、現存する市振小学校校庭内の榎は、関所敷地内にあったもので、昭和49年4月16日「関所榎」として青海町文化財に指定する。 糸魚川市教育委員会

郵便局を通り過ぎて集落の西端近く、市振小学校辺りに市振の関所があった。寛永年間(1624~)に設置されたもので、小学校の校庭にある関所榎は樹齢250年を越え、高さ17.5m、目通り幹周り4.6mの巨樹である。市振の関所は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っており、東西21間、南北95間の敷地内に両番所、上役長屋、足軽長屋などがあった。本陣はこの付近にあったという。

旧街道は駅の手前で国道8号に合流する。境川を越えると越中国富山県である。山形県境の鼠ヶ関からここまで、砂丘あり、低湿地あり、断崖ありの変化にとんだ280kmにおよぶ越後の長い海岸線をたどる越後路の旅が終わった。残暑と雨に見舞われて体力を消耗した上に、各地で宿の交渉にきまずいトラブルが続き、芭蕉は心身ともに疲れ果ててしまった。口には出さなかったが、芭蕉の名が期待していたほど通じなかったことが最大の理由だと思われる。旅を終え奥の細道を編纂するにあたって、越後路は「暑湿の労に神をなやまし、病おこりてことを記さず。」と記すにとどめた。市振での遊女との遭遇を特記した他は。

(2015年10月)

前ページへ 次ページへ