今様奥の細道 22区間のうち4番目

今様奥の細道(4)

鹿沼-今市-日光 (日光例幣使街道)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

鹿沼

資料5

卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。

鹿沼

左:壬生街道 ― 右:例幣使街道 楡木
左:壬生街道 ― 右:例幣使街道 楡木

鹿沼の楡木で、例幣使街道(国道293号)と壬生通(国道352号)が合流する。分岐点にはガードレールに守られて古い道標が残っているが、「右 中仙道 左江戸道」と刻まれた文字は摩耗がはげしい。

仲町屋台公園 鹿沼
仲町屋台公園 鹿沼

奈佐原、樅山(もみやま)を経て鹿沼市内に入る。芭蕉が宿泊したと伝えられる光太寺に至る横道を見過ごして、Uターンのために止まった所は仲町屋台公園だった。隣には古い鉄商家がある。広場には屋根を二層に重ねたほどの低い二階建てで、白壁土蔵造りの「仲町屋台会館」がある。入ってみると、部屋の全スペースを占めてこの町自慢の白木彫刻屋台が展示されていた。繊細な木彫り彫刻で飾られた豪華絢爛な屋台だ。下野彫師の第一人者で、日光五重塔の彫物方棟梁であった人物の作だという。

芭蕉の笠塚 光太寺 鹿沼
芭蕉の笠塚 光太寺 鹿沼

俳聖松尾芭蕉が門人曾良を伴い「奥の細道」の旅に出たのは元禄2年3月27日の早朝であった。曾良の随行記によると三日目の3月29日の夕刻早くも鹿沼に到着している。随行記には「鹿沼に泊まる」とあるだけで宿舎名は記載されていないが、口碑伝承によると同夜は鹿沼の西の寺といわれた曹洞禅寺の光太寺(当寺)で一夜を過ごしたと伝えられている。明ければ4月1日(旧暦では3月29日が晦日である)いまなら5月上旬に当るが……

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俳聖松尾芭蕉が門人曾良を伴い「奥の細道」の旅に出たのは元禄2年3月27日の早朝であった。曾良の随行記によると三日目の3月29日の夕刻早くも鹿沼に到着している。随行記には「鹿沼に泊まる」とあるだけで宿舎名は記載されていないが、口碑伝承によると同夜は鹿沼の西の寺といわれた曹洞禅寺の光太寺(当寺)で一夜を過ごしたと伝えられている。明ければ4月1日(旧暦では3月29日が晦日である)いまなら5月上旬に当るが、前夜から小雨が降り続いていた。江戸から所持した、古編み笠の雨もりを危ぶんだ芭蕉は寺で新しい笠に替え、日光へ向ったのである。 「鐘つかぬ里は何をか春の暮」「入相の鐘も聞こえず春の暮」 (当時光太寺は無住)の句は、光太寺の作品であるというがそれから5年後の元禄7年10月12日芭蕉は旅先の大阪で病み51歳の生涯を閉じたのである。やがて時を経て「芭蕉死す」のうわさを耳にした寺では供養のため思い出の笠をとり出して建てたのがこの笠塚であった。笠塚についての記録はおしくも寺の火事で失われたがしかし、元文3年(1738)芭蕉が死んでから44年しかたたないころ江戸の俳人山崎北華は「続奥の細道」といわれる紀行文「蝶の遊」の中で光太寺の笠塚に詣で「我もこの影に居るなり花の笠」の句を作ったことを述べ、史跡としての笠塚の存在を証明した。笠塚はいまも保存されているが 「芭蕉居士 嵐雪居士」 の文字が刻んである大きな碑は後代のもので、その後方所ににある自然石の碑が塚を築いたころ建てられたものといわれている。 昭和56年3月 鹿沼市文化財専門調査委員 川上茂雄

1ブロック引き返し、三叉路を西にとり、東武日光線のガードを過ぎるあたりに「ひかり幼稚園」の案内札がでてくる。光太寺の経営する幼稚園である。山の中腹にある本堂の左側には「芭蕉の笠塚」が小高く盛られ、「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っている。芭蕉がこの寺に着いた日は朝から小雨が続いていた。翌日の日光詣でにそなえて、江戸からもってきた雨漏りのする古笠を捨て新しい笠に替えた。芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したのが「笠塚」である。

次の二句は芭蕉がこの地で詠んだものとされる。当時光太寺は無住であり、鐘つく者もいなかった。

鐘つかぬ里はなにをか春の暮れ

入相のなにも聞こえず春の暮れ

小倉(こぐら)-例幣使杉並木街道起点

日光杉並木 小倉
日光杉並木 小倉

鹿沼から黒川に架かる御成橋(壬生の手前にも同じ名の橋があった)を渡って121号を北へ5キロほど進むと小倉(こぐら)で今市市に入り、待望の杉並木の景観が現れてくる。これまでの古代田園風景から、近世街道風景に窓の画面が切り替わった。並木の起点に「例幣使杉並木街道」の標柱と、松平正綱の嫡男正信が建立したという並木寄進碑が立つ。

「下野国日光山山菅橋より、同国同郡小倉村・同国河内郡大沢村・同国同郡大桑村に至り、二十余年をへて、路辺の左右並びに山中十余里に杉を植え、もって東照宮に寄進し奉る 慶安元年(1648年)4月17日、従五位下松平右衛門太夫源正綱」

文挟を経て大きな板橋交差点に出る。東西に新しい道路が工事中だった。地図をみると、そこを右折して東に進むと日光宇都宮自動車道の大沢ICに通じ、さらにすすむと日光街道杉並木起点の大沢にでることができる。交差点をすぎて左直角にまがるところで、「近江屋ラーメン」と書いた大きな看板が目にはいった。場所は交差点を西にいった方向だった。

道は急に山中に入り、杉の木立がいっそう物々しい。いよいよ杉並木も佳境にはいる。杉の根もとは道の歩行者よりも高い。もともと街道の並木部分を盛り上げて造成したのか、もとは平だった並木道の道路だけを次第に掘り下げた結果なのかしらない。

地震坂 明神 日光市 栃木県
地震坂 明神 日光市 栃木県昭和24年12月26日、今市市を中心に突如大地震が起こり、地すべりにより杉並木が移動した坂で別名「地すべり坂」とも呼ばれる。本来の街道は、この上にあった。 日光東照宮

左に道がでる丁字路右手に地震坂の立て札がある。管理者が日光東照宮であるところがおもしろい。国道は政府でも杉並木は日光山ということか。昭和24年12月の大地震で杉並木が地すべりして街道ごと西に移動してしまった。いわれてみると道はいびつに左にねじれ、車道の上下線が二筋にわかれ、並木道の東側土手が西側より高い。

十石坂 板橋 日光市 栃木県
十石坂 板橋 日光市 栃木県この坂は昔はもっと急坂であった。東照宮造営に際し、黒田長政が大石鳥居を奉納するのにこの坂にさしかかって多いに難行して石運搬の人力多数を要し米十石を食べたというところより十石坂とよばれる。

合流したのち中央線がなくなる最狭隘部を最徐行して歩く。二つの国道番号を付けた標識のあたりから日光道の下を通る区間が結構な上り坂になっている。昔はさらに急な難所だったようで、十石(じっこく)坂と呼ばれている。日光東照宮造営の時、大石鳥居を運ぶ人夫たちに食べさせた米が十石に及んだ。

例幣使街道 室瀬一里塚 室瀬 日光市 栃木県
例幣使街道 室瀬一里塚 室瀬 日光市 栃木県その昔江戸~日光間各街道には一里毎に塚が築かれたが、いま現存している塚は少ない。この塚は「特別史跡 特別天然記念物」日光杉並木街道の中にあるため保護されてきた。江戸日本橋より小山・壬生を経て凡28里(約112km)地点

鬱蒼としてそびえていた杉並木がいくぶん疎になってきて明るさがましてきた。

やがて壬生通り最後の室瀬一里塚が現れる。杉の根もとの土盛が他よりやや大きいという程度の塚で、標識がなければ分からないかもしれない。

今市

左:日光街道 右:例幣使街道 今市
左:日光街道 右:例幣使街道 今市追分道標 右 かぬま 左 うつの宮道

杉並木がとぎれたところで今市市内に入り、例弊使街道は宇都宮から来た日光街道(国道119号)と合流する。分岐点には赤いキャップに赤いよだれかけ姿の大きな追分地蔵が足組みして瞑想にふけっていた。丸彫り石地蔵の坐像としては東日本有数の巨像だという。境内の一角に「右 かぬま 左 うつの宮道」と刻まれた道標がある。

報徳二宮神社 今市
報徳二宮神社 今市

今市の市内に二宮尊徳の墓がある。報徳二宮神社の前庭に、薪を背負って本を読む二宮金次郎の像がある。小学校でもめっきりみかけなくなった。子供がまねをすると交通事故になりかねないとか。単に彼はまじめで親孝行で勉強好きな子だっただけでなく、大人になっても農村の復興をたすけ農民の生活改善を指導した思想家・社会運動家でもあった。最後まで質素倹約をうたい、自分が死んでも墓を建てるなと遺言した。神社の裏には墓石のない土盛りだけが残っている。

日光街道 杉並木 今市
日光街道 杉並木 今市

市街地が終わり本格的な杉並木が始まろうとする手前に瀧尾神社がある。ここから野口までの杉並木街道は車両禁止で、車道は並木の西側をつかず離れずに走る。途中の駐車場で車をおりて近辺の砂利が敷かれた並木道を散策することになる。この辺が日光杉並木のベストスポットと思われる。戊辰戦争時の弾痕跡が残る杉の大木(砲弾打ち込み杉)や、オーナーの名札がつけられた大木が聳えならんでいる。並木の東側は杉並木公園として整備されており、並木との間には日光山地からの伏流水を集めた清楚な流れがさわやかであった。

野口で遊歩街道は国道にもどり、風景は次第に俗っぽくなる。関東最大の観光地日光市内に入った。

鉢石

旧本陣 高野家 日光
旧本陣 高野家 日光

あらたふと木の下闇も日の光 此真蹟大日堂の碑と異同ありてしかも意味深長なりよって今茲に彫付て諸君の高評をまつ 高野道文識 高野家は、旧家で、道文氏は11代目、明治2年死去。奥の細道で芭蕉が日光に来たときの句は、大日堂にある句碑の句だが、それと異なる句があるのに気付いた道文氏が不思議に思い、碑に刻んで残したものと思われる。 芭蕉は日光の句を何回も推敲しており、その一つを手に入れたものであろう。 日光……

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あらたふと木の下闇も日の光 此真蹟大日堂の碑と異同ありてしかも意味深長なりよって今茲に彫付て諸君の高評をまつ 高野道文識 高野家は、旧家で、道文氏は11代目、明治2年死去。奥の細道で芭蕉が日光に来たときの句は、大日堂にある句碑の句だが、それと異なる句があるのに気付いた道文氏が不思議に思い、碑に刻んで残したものと思われる。 芭蕉は日光の句を何回も推敲しており、その一つを手に入れたものであろう。 日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市

中鉢石町が宿場の中心だったのだろうか。日光市役所の向かい側を入り込んだところにかって鉢石宿本陣を勤めていた高野家がある。その庭に芭蕉句碑があるというので、玄関で許可を得て入らせてもらった。新旧二つの句碑が並んでいる。碑文は判読しがたいが側の案内板によると、あらたふと木の下闇も日の光 とあり、大日堂跡あらたふと青葉若葉の日のひかり の初案だそうだ。

鉢石 日光
鉢石 日光

勝道上人が日光を開山(766)した頃、この鉢石町一帯にも初めて人家が建ち、上人の命令によるものか、または上人の行跡を讃仰する民間伝承かは不明であるが、「鉢を伏せたような形状」が名の起こりであり、上人の法縁にあやかるものである。 この付近は中世紀までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山の門前町として「鉢石町」の名称で呼ぶようになったのは、元和から寛永にかけての東照宮造営を契機としてであり、江戸五街道の……

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勝道上人が日光を開山(766)した頃、この鉢石町一帯にも初めて人家が建ち、上人の命令によるものか、または上人の行跡を讃仰する民間伝承かは不明であるが、「鉢を伏せたような形状」が名の起こりであり、上人の法縁にあやかるものである。 この付近は中世紀までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山の門前町として「鉢石町」の名称で呼ぶようになったのは、元和から寛永にかけての東照宮造営を契機としてであり、江戸五街道のひとつである日光街道23宿駅の最終駅「鉢石宿」である。 昔より、石の周囲には柵を設け、注連を張って神聖視されて保護の手が加えられてきた。日光開山にまつわる民間伝承の古蹟として、また、日光における門前町の発達を示すものとして価値が高い史跡である。 平成15年4月 日光市教育委員会

日光街道の最終宿が鉢石宿である。芭蕉が泊まったという上鉢石町の右手路地を少し入ったところに「史跡 鉢石」の標柱が建ち、鎖に囲われてその鉢石があった。今は三ツ山羊羹本舗の管理・所有とある。伝承によればその昔、日光山開祖・勝道上人が托鉢の途中、大谷川(だいやがわ)岸辺のこの石に座って日光山を仰いだところから、この石が「鉢石」と呼ばれるようになったという。

大谷川を渡る寸前右手に天海上人像が空の彼方を見据えている。天海は天台宗の僧で、徳川家康に気にいられ関東に天台宗の一大勢力を築いた。川越喜多院が彼の本拠地である。家康の死後、久能山から遺骨を日光に移し東照宮を創建した。自信に満ち怪僧を思わせる天海の銅像は、一回り太らせたロダンの「バルザック」にも似ていた。

日光山

資料6

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

剃捨て黒髪山に衣更 曽良

曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。

廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。

暫時は瀧に籠るや夏の初

神橋・大谷川 日光
神橋・大谷川 日光

大谷川の清流に朱色の蔭をおとす神橋を左手にみて、いよいよ東照宮である。

広い参道にしばらく立ち尽くして、遠い記憶をたどってみた。確か中学の修学旅行で来たはずだ。説明を受けながら左甚五郎の彫刻を見学したはずだが…。大学時代にも、日本橋から徒歩でここまでたずねてきたはずだったが……。なにもよみがえってはこなかった。旅の記憶とはこの程度のものなのか。

輪王寺 三仏堂 日光
輪王寺 三仏堂 日光

見学は右手におおきな口をあけて観光客を飲み込んでいく輪王寺の黒門から始まった。ここで今夜薪能があると書いてある。幽玄な趣があるそうだ。私は失楽園の映画の中ですこし見ている。境内の正面には日光山中、最大の建築物だという、鮮やかな朱塗りの本堂(三仏堂)が居座っている。

足早に広場を一周し輪王寺を出て、杉に抱かれた表参道を急いだ。

石階段を登り、石鳥居をくぐると左に五重の塔が聳える。表門でチケットを渡す。見上げると両側に、豊かに彩られて大見栄を切っている仁王が立っていた。

神厩舎(三猿)東照宮 日光
神厩舎(三猿)東照宮 日光東照宮境内唯一の素木造 室町時代武家屋敷邸宅の厩舎形式によったものといわれる。御鎮座の際は慶長5年関ヶ原の陣に御祭神家康公が乗られた御乗馬が神馬とされその後は幕府から奉献されていた。(中略)なお、建物の欄間に飾られた8個の神猿彫刻は猿が馬の健康安全を守るという信仰にもとづいたもので、なかでも 見ざる 言わざる 聞かざる の三猿は昔から有名である。

高野槙と銘打った杉の大木にならんで、猿の彫り物で有名な神厩舎がある。彩色過多のけばけばしさが目立つ東照宮の建物群の中で、厩舎の素朴で地味な容貌は好感がもてた。猿はみな丸顔をして、目も丸く体つきもまるめでかわいい。体毛はきわめて短かくてフサフサ感は全くない。

表門 東照宮 日光
表門 東照宮 日光

日光山最高の、あるいは日本最高の建築物とされる東照宮を見る。建築学的な構造解析はわからない。建物としての設計デザインには特別に奇抜なあるいは芸術的なところはないようにもみえる。東照宮ならびに回廊、唐門そして本堂など、本山一連の建築物を際立たせている物はそれらの過剰ともいえる木彫り装飾である。

余りに数がおおすぎてしかもそれらが高くて遠くにあるものだから、個々の木彫り彫刻の芸術的価値がどんなものか、なんともいえない。更にそれらが、鹿沼でみた彫刻屋台のような白木ではなく、青、赤、緑の三原色に白と金を基調とした極彩色である。白木、石膏、大理石、あるいは銅などの単色に馴れた目には、東照宮の彫刻群は眩しすぎた。

一つの形を創り出すのが芸術家で、そのパターンを模倣複製するのが職人……? 居並ぶ龍の彫刻をみながらそんなことを考えていた。同じ群像の表現でもロダンの地獄門とは根本的なところで違っている。

陽明門 東照宮 日光
陽明門 東照宮 日光

この過剰感は時として生理的な拒絶反応を引き起こす場合がある。

重々しい屋根付霊柩車、京劇の衣裳やメイキャップ、寺院や教会の祭壇、イコンなどの宗教画、御輿や山車、そして大晦日紅白のKとM。「豪華」はそのまま「美」とはならない。美は普遍だが、豪華は主観によって「醜」になりうる。

近頃この感覚の二重性をおもしろく感じている。

都会に住んでいたい一方で田舎暮らしをしてみたい。油絵もいいし水墨画もよい。ご馳走のあとの茶漬けもうまい。晴れ着も藍染めの浴衣も好きだ。仲間と飲み騒ぎたい反面、静かに一人でもいたい。それぞれ味が違うというべきで、濃淡両方を楽しめるのが幸せなのだろう。しかし、濃度が過剰になればあきらかに私は拒絶反応を起こす。他方、味が薄すぎて不満を感じることが最近少なくなった。

石垣と燈籠に挟まれて上新道を二荒山神社に向かう。二荒山神社は日光の原点で日光全山を境内とし、男体山を中心として西は中禅寺湖、華厳の滝、東は三街道の杉並木起点までをその領域に含む壮大な地主である。「二荒」の由来と「日光」との関係については次のような経緯があった。

本殿 二荒山神社 日光
本殿 二荒山神社 日光

天平神護2年(766)、勝道上人が修行に訪れたとき、神秘的で美しい山を見て「二荒山」と名付けた。二荒山は、「西域記」にある補陀洛山(ふだらくさん)から取ったとされる。その後、弘仁11年(820)に弘法大師空海が入山したとき、「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めると、強引に「日光」と改称した。空海がなぜ「二荒」が気に入らなかったのかは不明である。東照宮とは対照的に二荒山神社は古色が強かった。

今夜はここで泊まる。明日は歴史からはなれて滝と湖の自然を楽しむ予定である。

(2003年8月)

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