宿場 4次 全長 42km 歩き終えています 歩いた時期 2009年4月

五日市街道

梅里-吉祥寺-砂川-二宮-伊奈-五日市

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

梅里-吉祥寺
旧五日市街道入口 梅里1丁目 杉並区 東京都
旧五日市街道入口 梅里1丁目 杉並区 東京都

地下鉄丸ノ内線新高円寺駅一番出口を出てすぐ西の信号交差点が都道7号、青梅街道から分かれる旧五日市街道の起点である。あきる野市JR五日市線終点武蔵五日市駅までの道を五日市街道という。途中、横田基地が旧街道筋を分断した結果大きな迂回を余儀なくされる他、基本的に都道7号と重なっている。五日市街道は大名行列が通ったいわゆる参勤交代路ではない。したがって一里塚もなければ問屋場、本陣といった官制宿場特有の施設もなかった。そんな五日市街道をよくまとめた説明板が街道を歩いてまもない尾崎橋の手前に設けられている。前書きとしてその全文を先取りすることにしよう。

この前の道は、五日市街道です。五日市街道は地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から分れ、松庵一丁目を通り武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。 江戸時代初期は伊奈道とよばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。 その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などいろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。

この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約4.4m)程で挟く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(14.4m)とあります。これは三ヵ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡けたものと考えられます。

明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約52km(杉並区内約8km)が都道(主要地方道杉並五日市線)に指定されています。

武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。

平成10年3月 杉並区教育委員会

梅里-吉祥寺

五日市街道 松ノ木3丁目 杉並区 東京都
五日市街道 松ノ木3丁目 杉並区 東京都

新高円寺駅の東側にある青梅街道交差点「五日市街道入口」は新道入口である。旧道はすぐに新道に合流する。地下鉄駅に急ぐ通勤客の人並みに逆行して居住地区と商店街が同居する都道7号を西に向かう。成田東3丁目信号の先で左斜めに入っていく旧道が残っている。これから都道7号を筋違い気味に4回斜め交差しながら旧街道の「七曲り」をたどっていく。

民間信仰石塔 成田東3丁目 杉並区 東京都
民間信仰石塔 成田東3丁目 杉並区 東京都

ここに建立されている石塔は、向かって右から元禄11年(1698)11月20日銘の地蔵塔、宝暦10年(1760)10月吉日銘の馬頭観音塔、宝暦3年(1753)10月吉日銘の地蔵塔です。これらの石塔には、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世での往生安楽を願い、講を組織し、建立したものであることがわかります。(中略) 石塔の南側の道路は、五……

説明の全文を読む(約350字)

ここに建立されている石塔は、向かって右から元禄11年(1698)11月20日銘の地蔵塔、宝暦10年(1760)10月吉日銘の馬頭観音塔、宝暦3年(1753)10月吉日銘の地蔵塔です。これらの石塔には、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世での往生安楽を願い、講を組織し、建立したものであることがわかります。(中略) 石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。 これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和15年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行なっていましたが、現在では毎年10月15日に供養会を盛大に行なっています。 昭和62年3月 杉並区教育委員会

七曲 杉並区 東京都
七曲 杉並区 東京都

①100mほどの弓なりの道を経て都道を横切り「加冨山米店」の西側の道を入る。「白幡の坂」をくだっていくと右手に三体の石仏が祀られている。向かって右から元禄11年(1698)の地蔵、宝暦10年(1760)の馬頭観音、宝暦3年(1753)の地蔵と、いずれも古いものだ。

道標 宝昌寺 成田東3丁目 杉並区 東京都
道標 宝昌寺 成田東3丁目 杉並区 東京都東江戸道

② 一旦都道に出て尾崎橋をわたる。手前に冒頭で引用した五日市街道の説明板が建っている。橋を渡ったところで右に入り、突き当りを左折する。都道に出る手前右手に法昌寺がある。入口に道標を兼ねた石橋供養塔(文久4年(1864)があり、「東江戸道」と刻まれている。

③ 都道を横切って旧道に入り、最初の丁字路を右折して杉並成田西局の西側で都道に出る。

④ 信号交差点を渡り、青山自動車工場の前の道に入る。突き当たりを左折して再び都道に出る。道筋がすこしずれて反対側の旧道に入る。入ったところで二股にわかれているが、右側に入っていく道が旧街道である。

⑤ 住宅地に入り込み、左にまがった先の丁字路を右に折れる。右手は空き地のようだ。成田西2丁目19と2丁目20の間の細い路地をすすむと100m余りで都道に出て七曲を終わる。合流点の右手石段の上に宝永5年(1708)の庚申塔が残っている。

五日市街道碑 高井戸東4丁目 杉並区 東京都
五日市街道碑 高井戸東4丁目 杉並区 東京都

五日市街道 この前の道は、五日市街道です。 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵を通り武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。 江戸時代初期は伊奈道とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。 その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ……

説明の全文を読む(約700字)

五日市街道 この前の道は、五日市街道です。 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵を通り武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。 江戸時代初期は伊奈道とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。 その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約4.4m)程で挟く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(14.4m)とあります。これは三カ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡けたものと考えられます。明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約57km(杉並区内約8km)が都道(主要地方道杉並あきる野線)に指定されています。 武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。かって道行く人々を暑さから守ってくれた欅並木も今は残り少なく、往時の姿は望めませんが、本街道はこれからも地域の道路として、重要な役目を担っていくことでしょう。 平成15年3月 杉並区教育委員会

高井戸境バス停先の信号五叉路で旧道は50mほど左に入り、逆Y字路を鋭角に右折して都道に戻るらしい。なぜこうなのかさっぱり分からない。合流点の三角地帯に五日市街道の碑が設けられていて、尾崎橋のものとほぼ同文の説明板が立っている。こちらは平成15年版で、尾崎橋より5年新らしい。

街道碑脇の概略図上で現在地として小さなくの字が標示されているのはこの旧道を指しているのか。あらためて地図をながめてみると、五差路を左折して逆Y字路を通り過ごしてそのままルネイズム浜田山プロフォルトの交差点まですすむと、最後の七曲りの成田西2丁目19で右折しないで直進する道と交差する。この二つの道が描く大きな鈍角のくの字が旧道ではないかという気がしてきた。何の根拠もない、ただの地図上の想像である。

民間信仰石塔 宮前1丁目 杉並区 東京都
民間信仰石塔 宮前1丁目 杉並区 東京都

ここに建立されている石塔は、延宝6年(1678)・元禄9年(1696)銘の庚申塔です。庚申信仰は「長生きするためには、60日に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸聘代には本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られ……

説明の全文を読む(約590字)

ここに建立されている石塔は、延宝6年(1678)・元禄9年(1696)銘の庚申塔です。庚申信仰は「長生きするためには、60日に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸聘代には本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。 この辺りは、かって大宮前新田といわれ、江戸時代の寛文年間に、砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村しました。そして、この場所は大宮前新田の地番の振り出しで、当時から慈宏寺の寺有地となっています。 ここの庚申塔は、開村後地域の人々が悪疫退散・村内安全等を祈願して建立したものと思われます。延宝6年の石塔には13名、元禄9年の石塔には31名の建立者の氏名が刻まれています。 なお、ここからは昔、富士山が見えたので富士見浦と呼ばれました。塔わきの藤の木は、「庚申の藤」と呼ばれ、昭和5年から43年まで、都天然記念物に指定されていた樹船釣300年の古木で、庚申塚建立と同じ頃植えられたものと伝えられています。 私たちもこのような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。 昭和56年2月15日 杉並区教育委員会

環八通りを越え宮前一丁目左手丁字路角に二基の庚申塔が祠に保存されている。延宝6年(1678)と元禄9年(1696)の古いもので、共に青面金剛と、不見・不聞・不言の三猿が彫られた典型的な庚申塔である。この辺りはかって大宮前新田といわれ寛文年間に砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村した。手向けられた紫の小花が控えめに二基の石塔を飾っている。ムラサキハナナ(紫花菜)といって、この先街道のいたるところで見かけることになる。

大宮前春日神社 宮前3丁目 杉並区 東京都
大宮前春日神社 宮前3丁目 杉並区 東京都(抜粋) 「・・・社前に鳥居を立、石燈籠両基をき当村の鎮守にして、例祭は10月22日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658~1660)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されました。・・・・拝殿は明治10年、本殿は明治21年の建築です。・・境内の石燈籠二基は文久2年(1862)10月の造立です。・・・ 昭和58年 杉並区教育委員会

大宮前体育館のあたりから街道の右側にケヤキの並木が始まり、ここまで都会の生活道だった五日市街道にも武蔵野の風情が漂い始めてきた。昭和初期の佇まいをのこす鮮魚屋「魚鐘」の隣、ケヤキ並木の中に大宮前春日神社がある。春日神社は旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658~1660)に農民井口八郎右衛門の勧請によって創建された。井口家は大宮前新田開墾の名主を勤めた家柄で、春日神社の西隣にある慈宏寺は寛文12年(1672)、井口杢右衛門の開基といわれる。

春日神社の境内には文久2年(1862)の石燈籠、明治時代の大小鹿の石像2対と、多くの小判鏡餅型の力石が並べられている。力石にはそれぞれ重さがしるされているようで、一番手前の石には七拾貫目(262.5gk)と刻まれていた。263kgといえば重量挙げ世界記録(ジャーク263kg)と同じであり、あるいは最重量日本人力士として人気上昇中の山本山と同じ重さ(小錦は285kgだった)である。他所で一つ、二つを見たことはあるが、これほど多くのしかも整然とした力石をみるのははじめてであった。

西高井戸松庵稲荷神社 松庵3丁目 杉並区 東京都
西高井戸松庵稲荷神社 松庵3丁目 杉並区 東京都

この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命です。 松庵村は万治年間(1658~1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある荻野松庵がその人ともいわれています。 境内入口には元禄3年(1690)、元禄6年(1693)銘の庚申塔があり、元禄3年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄3年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられま……

説明の全文を読む(約530字)

この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命です。 松庵村は万治年間(1658~1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある荻野松庵がその人ともいわれています。 境内入口には元禄3年(1690)、元禄6年(1693)銘の庚申塔があり、元禄3年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄3年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられます。 この神社は、明治維新の祭に廃寺となった円光寺(天台宗・江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので『新編武蔵風土記稿』の松庵稲荷の項には「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ其日定メズ」と記されています。 昭和9年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同10年には社殿を改築し、今日にいたっています。 社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。 なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄9年をはじめとする没年が記されているのが見られます。 祭日は9月15日です。 昭和57年2月10日 杉並区教育委員会

街道は西荻窪駅の南側にさしかかり五日市通り商店街を進んでいく。

杉並区も終わりに近いところに旧松庵村の鎮守、西高井戸松庵稲荷神社がある。松庵村は万治年間(1658~1660)に松庵という医者が開いた。

松庵小学校前交差点で杉並区から武蔵野市に入る。若者の町として活気ある吉祥寺がすぐ先にある。この町がかって五日市街道の宿場であったのか、どうか知らない。吉祥寺南町で中央線のガードをくぐり駅前の繁華街にむかって歩いていくと、街道の北側に本宿という地名が残っているが、それが宿場であったことの名残かどうか出合った古老に尋ねても判然としなかった。

吉祥寺街並 本町・東町1丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都
吉祥寺街並 本町・東町1丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都

「吉祥寺」は長禄2年(1458)太田道潅が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりとされる。天正19年(1591)に現在の水道橋に移ったが、明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地駒込に再建された。万治2年(1659)、明暦の大火で罹災した吉祥寺門前町の住民が武蔵野に移住してきて荒地を開墾したのが吉祥寺村である。

吉祥寺本町1丁目の左手、マンション北側に樹高30mの東京都指定天然記念物「吉祥寺旧本宿のケヤキ」がそびえている。東京都教育委員会の説明板にもケヤキを宿場と結びつける記述はなかった。

武蔵野八幡宮 東町1丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都
武蔵野八幡宮 東町1丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都

垢抜けした商店街を進んで行くと交差点角に吉祥寺村の鎮守武蔵野八幡宮がある。入口左手に2mもの大きな道標が立っている。「神田御上水 井之頭辨財天」への道を示すもので、側面に「これよりみち」とだけある簡潔さがおもしろい。また参道にはJAの江戸・東京の農業シリーズとして、「吉祥寺ウド」の案内板がたっていた。

成蹊学園ケヤキ並木 北町3丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都
成蹊学園ケヤキ並木 北町3丁目 吉祥寺 武蔵野市 東京都

市天然記念物 成蹊学園のケヤキ並木 昭和四十六年四月六日指定 このケヤキ並木は、成蹊学園の本市移転に先がけて、大正十三年五月ごろ同一樹齢の若木百数十本を、玉川、用賀、狛江村等から運搬して、植栽したと伝えられています。 植栽時の資料によれば、胸高周囲約45cmであり、当時の樹齢は30年前後と推定されます。 ケヤキとしては、若木に属しますが、各樹木はケヤキの自然的樹型のまま生長し、整然と植栽間隔(約7……

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市天然記念物 成蹊学園のケヤキ並木 昭和四十六年四月六日指定 このケヤキ並木は、成蹊学園の本市移転に先がけて、大正十三年五月ごろ同一樹齢の若木百数十本を、玉川、用賀、狛江村等から運搬して、植栽したと伝えられています。 植栽時の資料によれば、胸高周囲約45cmであり、当時の樹齢は30年前後と推定されます。 ケヤキとしては、若木に属しますが、各樹木はケヤキの自然的樹型のまま生長し、整然と植栽間隔(約7m)を保った並木で、斉一な大樹の量、形態の美しさ、四季の風景において他の例を見ません。 昭和58年3月31日建設 武蔵野市教育委員会

成蹊学園に至り、正門入口から見事な欅並木が植えられている。まだ葉を落としたままのケヤキの枝ぶりは巨大な竹箒を逆さまにして並べたような景観である。2ヶ月もすれば鬱蒼とした新緑にかわるのであろう。成蹊学園の移転は吉祥寺の町を今の姿に変える大きな転機となった。

街道は武蔵野中央交差点で曲尺手状につながっている三鷹・中央通りと交差する。中央通りをのぞくと桜並木が今にも満開の装いだった。

御門訴事件記念碑 八幡町3丁目 武蔵野市 東京都
御門訴事件記念碑 八幡町3丁目 武蔵野市 東京都

この記念碑は、御門訴事件により非業の死をとげた旧関前村・同新田名主忠左衛門(井口氏)らを慰霊すると同時に、その事蹟を後世に遺すために同事件後24年を経た明治27年(1894)に建てられたものである。(中略)御門事件とは、明治3年(1870)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民たちが品川県庁へ門訴したもので、この事件……

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この記念碑は、御門訴事件により非業の死をとげた旧関前村・同新田名主忠左衛門(井口氏)らを慰霊すると同時に、その事蹟を後世に遺すために同事件後24年を経た明治27年(1894)に建てられたものである。(中略)御門事件とは、明治3年(1870)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民たちが品川県庁へ門訴したもので、この事件は、当市域における維新直後の農民闘争として、まことに意義深いものがある。平成11年3月31日 建設 武蔵野市教育委員会

関前3丁目信号をこえ武蔵野大学前交差点の手前の信号右手角に「御門訴事件記念碑」が立っている。明治3年、県から布達された社倉制度に門訴した当時の名主井口忠左衛門が非業の死を遂げたことを記したものである。飢饉に備えるための貯穀制度といえば青梅街道田無で、名主下田半兵衛の稗倉をみてきたばかりだし、その前壬生通りを歩きなおしたときには文挟で「郷倉」をみた。前者は名主による善政として、後者は農民の自発的な運営として取り上げられていた。ここ関前村はこのアイデアに名主が率先して反対したのだという。江戸時代と明治時代の違いがこの差になったのか、興味がある。

井口家 八幡町3丁目 武蔵野市 東京都
井口家 八幡町3丁目 武蔵野市 東京都

碑の裏側にその井口家がある。井口屋米店の看板と市議会議員のポスターが貼ってある小屋を回りこんで長屋門らしき建物をくぐりぬけて中庭にはいると「井口家の大ツバキ」「井口家のサンシュユ」と題した二つの武蔵野市教育委員会の案内板が立っている。ということはこの場所までは公開されているのだろう。説明によるといずれも樹齢200年を越える大木とあるが、多くの植え込みの中でそれを判別するのは難しかった。御門訴事件記念碑を含めてこの一角は井口家宣伝臭がきつい。

千川・玉川上水

武蔵野大学前・文字庚申塔 新町1丁目 西東京市 東京都
武蔵野大学前・文字庚申塔 新町1丁目 西東京市 東京都

西東京市指定文化財第20号 文字庚申塔 天明4年(1784)建立 現新町の全域は、江戸時代の享保9年(1724)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから60年後の天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔には例を見な……

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西東京市指定文化財第20号 文字庚申塔 天明4年(1784)建立 現新町の全域は、江戸時代の享保9年(1724)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから60年後の天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔には例を見ない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明3年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって、江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明4年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。 塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子「?」(ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像容の一部を表現しています。天明4年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。 昭和61年3月 西東京市教育委員会

武蔵野大学前で街道は左におれて千川上水に沿った静かな遊歩道をゆく。交差点の右側、千川上水渕に金網に囲まれて石橋供養塔がある。武蔵野大学の正門左手に「東江戸道」「左すな川道」と五日市街道の道筋をしめす道標を兼ねた大きな文字庚申塔が建っている。

千川上水 西東京市新町1丁目/武蔵野市関前4丁目 東京都
千川上水 西東京市新町1丁目/武蔵野市関前4丁目 東京都

清流の復活 干川上水は、元禄9年(1696年)に将軍の立寄先である小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿などに給水することを主な目的として作られました。また、この上水は、江戸市中の飲料水や干川上水沿いの農地のかんがい用水としても大きな役割を果たしておりました。 しかし、昭和46年、最後まで上水を使っていた大蔵省印刷局王子工揚が取水をやめ、一担その使命を終えました。 そして、東京都の清流復活事業に……

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清流の復活 干川上水は、元禄9年(1696年)に将軍の立寄先である小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿などに給水することを主な目的として作られました。また、この上水は、江戸市中の飲料水や干川上水沿いの農地のかんがい用水としても大きな役割を果たしておりました。 しかし、昭和46年、最後まで上水を使っていた大蔵省印刷局王子工揚が取水をやめ、一担その使命を終えました。 そして、東京都の清流復活事業により、野火止用水、玉川上水に続き、平成元年には干川上水にも清流がよみがえりました。1989年3月

ここから境橋まで千川上水の両側に一方通行の車道が走るが、北側が都道7号で五日市街道筋である。あえて車道を行かず上水にそった遊歩道をあるく。ケヤキ並木が続く千川上水の緑はまだ淡い。それらの根元をかざるのは可憐なムラサキハナナである。スミレを大きくした風情だ。千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水して造られた。境橋の手前にある玉川上水からの取水口に「千川上水清流の復活」碑が、また境橋の東側には「玉川上水の碑」が建っている。

玉川上水 西東京市新町5丁目/武蔵野市桜堤2丁目 東京都
玉川上水 西東京市新町5丁目/武蔵野市桜堤2丁目 東京都

玉川上水は武蔵野台地を潤すとともに江戸に飲み水を供給する目的で開削された上水路第1号である。五日市街道は千川上水のケヤキ並木から玉川上水の桜並木に沿って西進する。桜並木の内側流域には常緑樹が多く、また渕も深く千川上水にくらべ成熟した趣を呈している。境橋から小川水衛所跡までの約6kmが大正13年名勝小金井サクラとして指定された。

玉川上水堤 桜堤3丁目 武蔵野市 東京都
玉川上水堤 桜堤3丁目 武蔵野市 東京都

桜樹接種碑 元文2年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水提は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百年余がたち老木化が進んだので、嘉永3年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村むらでは、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。 この石碑は、嘉永4年3月、田無村の名主下田……

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桜樹接種碑 元文2年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水提は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百年余がたち老木化が進んだので、嘉永3年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村むらでは、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。 この石碑は、嘉永4年3月、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものです。石碑の表に「さくら折るべからず」槐字道人(下田半兵衛)、裏に無量老人(賀陽玄節)撰の「桜樹接種の記」が刻まれています。 平成7年2月28日 小金井市教育委員会

関野橋の手前に「さくら折へからす」と彫られた「桜樹接種記」の碑がある。玉川上水提にはじめて桜が植えられたのは元文2年(1737)頃で、その後嘉永3年(1850)に各村の持ち場に数百本を植え足した。田無村もその一つで、碑は田無村の名主下田半兵衛が建てたものである。

小金井公園 関野町2丁目 小金井市 東京都
小金井公園 関野町2丁目 小金井市 東京都

右手に都立小金井公園が現れる。パンジーで飾られた入口の桜並木はまだ3分咲きの状態だ。「江戸東京たてもの園前」の信号でもう一度公園を覗いてみる。こちらの「桜の園」は大勢の花見客で賑わっている。桜はほぼ満開だった。

上水桜堤にもどりすこしいくと小金井橋の手前に「お成りの松」がある。元文年間(1736~1741)に川崎平右衛門が中心になって玉川上水の堤に桜が植えられ、後年見事に成長し江戸近郊でも有数の桜の名所となった。天保15年(1844)後の第13代将軍家定が観桜に訪れ、これを記念して後に里人が黒松を植えたという。説明板にある目通り幹囲2.7mのクロマツはなく、若木が育ちつつあった。

小金井堤の桜 桜町3丁目 小金井市 東京都
小金井堤の桜 桜町3丁目 小金井市 東京都

小金井堤の桜は、元文2年(1737)武蔵野新田世話役川崎平右衛門が幕府の命により、大和の吉野と常陸の桜川から苗木を取り寄せ、小金井橋を中心に延々6キロメートルにわたり、玉川上水の両岸に2千余本を植えたものです。 これは、桜が水の毒を消すとの故事によるものといわれています。 植樹されておよそ60年後の寛政9年(1797)、「武埜八景」の一つとして紹介されると、江戸からの花見客はふえ、文人による多くの……

説明の全文を読む(約620字)

小金井堤の桜は、元文2年(1737)武蔵野新田世話役川崎平右衛門が幕府の命により、大和の吉野と常陸の桜川から苗木を取り寄せ、小金井橋を中心に延々6キロメートルにわたり、玉川上水の両岸に2千余本を植えたものです。 これは、桜が水の毒を消すとの故事によるものといわれています。 植樹されておよそ60年後の寛政9年(1797)、「武埜八景」の一つとして紹介されると、江戸からの花見客はふえ、文人による多くの観桜記も残されるようになりました。 天保15年(1844)将軍世子(のちの13代将軍家定)の観桜もあり、その後関東第一の花の名所として、西の吉野と並び称されました。 明治16年(1883)に明治天皇が騎馬で遠乗りされ、翌17年(1884)に皇太后、皇后両陛下、同36年(1903)には皇太子殿下も行啓されています。この桜も戦後、樹木の老化と五日市街道を通る車の排気ガスのため、年々枯れ衰え、現在は見る影もありません。 往時この堤の桜には、若葉の色、.形の違い、早咲き、遅咲きなど変種も多くありました。名木のほまれ高いものも数多く、中でも「日の出桜」、「入り日桜」は有名でした。 寛政の頃からの観桜の盛況は明治以降も続き、桜花の下、長堤に茶店が軒を並べ、花見の客でにぎわう花期の間、地元の人々は、上水への転落その他危険防止のため、連日警戒に当たったそうですが、それも戦前には終りを告げました。 平成18年3月 小平市教育委員会 小平郷土研究会

小金井橋を渡ると今度は「名勝小金井櫻」の案内板がある。川崎平右衛門が植えたこと、後の第13代将軍家定の観桜のことのほか明治天皇一家も行啓したことなどが書かれている。

海岸寺山門 御幸町 小平市 東京都
海岸寺山門 御幸町 小平市 東京都

この寺は、享保年間にこの地一帯に移住した農民の、寺院建立の熱心な要望によってできたものである。 この地はもともと江戸南泉寺の抱地で、宝林庵という小庵があった。(中略) 現在の本堂は、昭和33年(1958)に建替えられたもので木造瓦葺である。 また山門は170~180年前の建立で。渡り大工の作といわれている。鎌倉様式が取り入れられ、面積は8.3平方メートル、四脚門で天井には竜の絵がほりこまれていて、……

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この寺は、享保年間にこの地一帯に移住した農民の、寺院建立の熱心な要望によってできたものである。 この地はもともと江戸南泉寺の抱地で、宝林庵という小庵があった。(中略) 現在の本堂は、昭和33年(1958)に建替えられたもので木造瓦葺である。 また山門は170~180年前の建立で。渡り大工の作といわれている。鎌倉様式が取り入れられ、面積は8.3平方メートル、四脚門で天井には竜の絵がほりこまれていて、近隣の市町村でも珍しい貴重な建築物である。 昭和60年3月 小平市教育委員会 小平郷土研究会

小金井橋交差点をこえた右手に茅葺きの山門をもつ海岸寺がある。山門は天明3年(1783)の築で鎌倉式が取り入れられた。参道入口に小金井桜樹碑がある。文化7年(1810)に建てられたもので、碑文は小金井桜植樹の由来にはじまり、川崎平右衛門の功績をたたえ、武蔵八景の一つ「金橋の桜花」はこの地であると述べている。

海岸寺の街道向かいに「行幸松」とその碑がある。明治16年明治天皇が観桜された記念に松が植えられたものである。

ここまで、小金井桜に関する史蹟と案内板が多かった。いささかくたびれてくる。

玉川上水北側堤 商大橋付近 学園西町1丁目 小平市 東京都
玉川上水北側堤 商大橋付近 学園西町1丁目 小平市 東京都

名勝小金井(サクラ) 所在地 小平市・小金井市・保谷市・武蔵野市 指定 大正13年12月9日 玉川上水は、承応3年(1654)玉川庄右衛門・清右衛門によって完成されたが、寛文10年(1670)から、上水路の清浄と美観を保つため、両岸の堤に杉と松を植えその美化に努めたといわれている。桜に植え替えたのは、八代将軍吉宗の元文2年(1737)と伝えられているが、寛保年間(1741~4)とする説もある。大岡……

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名勝小金井(サクラ) 所在地 小平市・小金井市・保谷市・武蔵野市 指定 大正13年12月9日 玉川上水は、承応3年(1654)玉川庄右衛門・清右衛門によって完成されたが、寛文10年(1670)から、上水路の清浄と美観を保つため、両岸の堤に杉と松を植えその美化に努めたといわれている。桜に植え替えたのは、八代将軍吉宗の元文2年(1737)と伝えられているが、寛保年間(1741~4)とする説もある。大岡越前守忠相の命により川崎平右衛門定孝が、古来から桜の名所であった大和の吉野山と、常陸の桜川から桜の苗種を取り寄せて、今の小金井橋を中心に玉川上水の堤に6kmにわたり植栽したものである。植えられた当初江戸の花見客は少なかったが、屋代弘賢『小金井之記』(文化3年)佐藤一斉『小金井橋観桜記』(文化3年)大田蜀山人『調布日記』(文化6年)などの紀行・案内記などを通じて関東随一の桜の名所として定着していった。蜀山人は「六十一歳にして初めてこの美観に接した」と激賞している。山桜の一大集植地として他に類がなく、山桜の天然変種に富んでいるために花の変化が多種多彩であり、大正13年「史蹟名勝天然記念物保存法)により、名勝として内務大臣から指定された。指定当時の桜樹は1471本で、指定区域は小平市の から武蔵野市の までの間の、水路を除く両岸一帯であり、富士山を背景とした桜並木の景観はあまりにも有名であった。以下略 平成5年3月31日建設 東京都教育委員会

五日市街道・都道7号は喜平橋で玉川上水の南側に移る。北側のように車道と上水堤歩道を隔てる柵がなく、車道に沿った普通の歩道に近い風景となる。上水の流れは一段と低くなって崖渕に桜の根株が露出している。やがて商大橋にさしかかる。商大とは現一橋大学のことで小平国際キャンパスの南方にあたる。橋の南袂に「名勝小金井(サクラ)」の案内板がある。この説明文が最も網羅的で、小金井サクラ並木を締めくくるにふさわしい。

三又 上水本町2丁目 小平市 東京都
三又 上水本町2丁目 小平市 東京都左から現五日市街道(都道7号)、旧五日市街道、玉川上水通り
旧小川水衛所跡 上水本町2丁目 小平市 東京都
旧小川水衛所跡 上水本町2丁目 小平市 東京都

道はこの先で三つに分かれる。直進するのが現五日市街道の都道7号、やや右にはいるのが旧街道である。玉川上水沿いに延びる道は玉川上水通りで、すこし入った右手に名勝小金井の終点旧小川水衛所跡がある。さらにそのままいくと津田塾大の南側に出る。

いろりの里 上水本町2丁目 小平市 東京都
いろりの里 上水本町2丁目 小平市 東京都

旧街道の右手に長い塀をめぐらせ屋敷林の中に趣のあるたたずまいを見せるのは「いろりの里四季亭」という料亭だ。入口のメニューをチラッとみたがリュックを背負った者が入るようなところではなさそうだった。

石仏 上水本町2丁目 小平市 東京都
石仏 上水本町2丁目 小平市 東京都

旧道はすぐに突き当たりを左折して都道に合流する。右手の生垣にかくれるように三体の石仏がある。薄汚れた前掛けが似合う古びた石仏にもそれぞれに花が供えられていて、住人の人柄が偲ばれるようで癒される風景であった。

けやき並木 並木町2丁目 国分寺市 東京都
けやき並木 並木町2丁目 国分寺市 東京都
西武国分寺線 北町1丁目/並木町1丁目 国分寺市 東京都
西武国分寺線 北町1丁目/並木町1丁目 国分寺市 東京都

街道は上水本町交差点で府中街道を横切り国分寺市にはいるや西武国分寺線の黄色い電車が走ってきた。沿道に武蔵野の面影が復活しケヤキ並木が断続的につづくなかに、蔵持ちの大きな農家や植木農園が散見される。街道の南側は地名も並木町である。

砂川

地蔵 若葉町3丁目 立川市 東京都
地蔵 若葉町3丁目 立川市 東京都

建立寛保元年(1741年) この地蔵様はこの砂川十番組が砂川前新田として享保年間武蔵野の新田開発によって拓かれた頃全国を行脚する旅の修業僧の遺言で建立され以来今日まで村の守り神として祀られてきました。始めは道路南側の府中道の角にあり台座に 右ハ府中、左ハ江戸 と刻まれてあり道しるべにもなっていました。現在の地蔵様は昭和20年代に盗難に遭い止むを得ず再建したもので現在の場所には昭和61年10月尾崎玄……

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建立寛保元年(1741年) この地蔵様はこの砂川十番組が砂川前新田として享保年間武蔵野の新田開発によって拓かれた頃全国を行脚する旅の修業僧の遺言で建立され以来今日まで村の守り神として祀られてきました。始めは道路南側の府中道の角にあり台座に 右ハ府中、左ハ江戸 と刻まれてあり道しるべにもなっていました。現在の地蔵様は昭和20年代に盗難に遭い止むを得ず再建したもので現在の場所には昭和61年10月尾崎玄三氏のご好意により安置したものです。 十番組地蔵尊講

瞬く間に国分寺市を通り抜け立川市にはいってくる。気分的にかなり西方に来た感じがしてくる。若葉町団地入口交差点の先右手に道標を兼ねた地蔵が祠に祀られている。寛保元年(1741)砂川十番組が砂川前新田として開拓された頃の建立だが、昭和20年代に盗難にあい再建されたものだという。いわれてみれば地蔵の顔だちがいやにモダンで、キャップのかぶり方にもかすかに半身にかまえたような立ち姿にも、どこかファッションモデルを思わせる粋さを発散している。

民家 幸町4丁目 立川市 東京都
民家 幸町4丁目 立川市 東京都

ここは砂川十番で、この先天王橋までの5.5kmにわたり、砂川一番まで続いていく。青梅街道で、青梅新町9丁目から延々3kmにわたって1丁目まで歩いていったのを思い出した。ここはその倍近くの大規模新田開発だった。砂川新田の開発は寛永4年(1627)より現在の砂川三番付近からはじまり三段階を経て今の十番まで広がっていった。

蔵のある風景 幸町5丁目 立川市 東京都
蔵のある風景 幸町5丁目 立川市 東京都

沿道には大らかな農家の佇まいが春のなごやかな空気に調和して、広々とした武蔵野をゆく街道の雰囲気を高めている。なかでもひときわ端正な蔵が目をひいた。両側に桃色と紅色の花木をしたがえ、みずからは青の帽子に純白の衣をまとい折り目正しい袴をつけて傾き始めた西日を受けて輝いている。整いすぎた原風景とでもいおうか。

多摩モノレール 砂川7番駅 幸町5丁目 立川市 東京都
多摩モノレール 砂川7番駅 幸町5丁目 立川市 東京都

砂川七番で芋窪街道の上を多摩モノレールが音もなく走っている。

砂川五番から四番にかけて人家のまばらな区間がある。横田基地に移転するまで米軍立川基地があったところである。基地拡張に反対する砂川闘争は日米安保条約の合憲性をめぐる憲法問題に発展した。大学紛争がはなばなしかった昭和30年代中頃の話である。

阿豆佐味(あずさみ)天神社 砂川町4丁目 立川市 東京都
阿豆佐味(あずさみ)天神社 砂川町4丁目 立川市 東京都

阿豆佐味天神社は、寛永6年(1629)頃、村山郷殿ヶ谷(瑞穂町)から勧請されました。以来、砂川村の人々の心のよりどころとして信仰されてきました。この本殿は、18世紀前半に建てられたものと考えられています。立川市内の木造建築物としては、最も古いものの一つです。建築様式は「一間社流造正面軒破風付こけら葺き」といいます。昭和55年に改修工事が行われ、現在は拝殿の後ろの白い覆殿に納められています。 昭和6……

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阿豆佐味天神社は、寛永6年(1629)頃、村山郷殿ヶ谷(瑞穂町)から勧請されました。以来、砂川村の人々の心のよりどころとして信仰されてきました。この本殿は、18世紀前半に建てられたものと考えられています。立川市内の木造建築物としては、最も古いものの一つです。建築様式は「一間社流造正面軒破風付こけら葺き」といいます。昭和55年に改修工事が行われ、現在は拝殿の後ろの白い覆殿に納められています。 昭和63年3月21日 立川市教育委員会

砂川四番にはいり、右手に阿豆佐味(あずさみ)天神社がある。寛文6年(1629)、砂川新田開発に伴って創建された。18世紀中頃に建てられたという本殿は拝殿の後ろの覆殿に納められている。神社に来るたびに思うことだが、今まで本殿をまともに鑑賞したためしがない。いつも拝殿の建物をみて感動したり落胆したりしている。寺で本尊をみずに本堂の造りだけを見て帰るのに似ている。

流泉寺 砂川町2丁目 立川市 東京都
流泉寺 砂川町2丁目 立川市 東京都

砂川三番の左手に流泉寺がある。砂川新田の開発はこの地域から始まった。そのころの開墾に携わった人々の菩提寺として慶安3年(1650)に建立された。境内の奥に居並ぶ羅漢石仏は表情が豊かで面白い。概してだらしない姿勢でいいかげんな感じのおじさんたちのなかで、独り眼鏡をかけたまじめ人間がいた。居眠ったりあくびをしたりの仲間を無視して優等生然として本を読んでいるようである。よほどの堅物とみた。

砂川家屋敷 砂川町3丁目 立川市 東京都
砂川家屋敷 砂川町3丁目 立川市 東京都

流泉寺の道むかいにかっての砂川村名主砂川家(江戸時代の村野家が明治にはいって砂川家に改称)の屋敷がある。街道にそった玉石積と生垣の内側に欅が聳え立っている。アプローチを入っていくと玉川上水から引いた砂川分水に石橋が架かりその向こうに両袖に潜り戸を付けた立派な切妻造り冠木門が構えている。17世紀はじめに新田開発をおこして以来400年近い歴史を誇る名家である。

見影橋より玉川上水 上砂町4丁目 立川市 東京都
見影橋より玉川上水 上砂町4丁目 立川市 東京都

見影橋は、江戸時代から架かっていた古い橋です。その頃は村を流れる玉川上水の、上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれていました。また、名主の屋敷に近いこともあって「旦那橋」ともよばれました。大正時代に「御影橋」となり、今では「見影橋」の字をあてています。橋が広げられるまでは、たもとに明治初めの名主家当主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」の取入口がありました。今でも橋の南西下側にはその跡が残っ……

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見影橋は、江戸時代から架かっていた古い橋です。その頃は村を流れる玉川上水の、上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれていました。また、名主の屋敷に近いこともあって「旦那橋」ともよばれました。大正時代に「御影橋」となり、今では「見影橋」の字をあてています。橋が広げられるまでは、たもとに明治初めの名主家当主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」の取入口がありました。今でも橋の南西下側にはその跡が残っており、見ることができます。

西武拝島線・見影橋 上砂町4丁目 立川市 東京都
西武拝島線・見影橋 上砂町4丁目 立川市 東京都

砂川家の西側の道を北にはいっていくと玉川上水に架かる見影橋に出る。場所的には砂川家の屋敷裏にあたることから「旦那橋」とも呼ばれた。ここから砂川家専用の水路が引かれ、当時の砂川家当主源五右衛門の名をとって「源五右衛門分水」とよばれた。水は自邸庭園の鑑賞用流水に用いられるとともに水田耕作にも利用された。屋敷と玉川上水の間にある見影公園はその水田跡だ。橋の下には今もその取水口が残っているという。玉川上水の満開の桜並木と、西武拝島線の電車に気をとられ、取水口の記録写真を撮るのを忘れた。

民家 上砂町4丁目 立川市 東京都
民家 上砂町4丁目 立川市 東京都

街道にもどり砂川二番に向かう。このあたりも蔵をもつ立派な家が見られる落ち着いた家並みである。

ようやく砂川一番にたどりついた。残堀川を渡ると天王橋交差点にさしかかる。旧道は最初の信号を直進して突き当たりを右折して天王橋で玉川上水を渡る。橋の西側、上水堤の柵内に「玉水分派」云々と刻まれた石標があるが何なのか分からなかった。

天王橋より玉川上水 一番町2丁目 立川市 東京都
天王橋より玉川上水 一番町2丁目 立川市 東京都

街道は天王橋を渡って左手斜めに折れる。西武拝島線のガードをくぐり松中団地南交差点をこえたあたりからケヤキ並木が現れる。この辺り現地名は西砂町であるが、かっては街道の北側は殿ヶ谷新田、南側は宮沢新田だった。それにこだわるかのように西砂町宮沢交差点の手前で街道をはさんで右に殿ヶ谷公会堂が、左に宮沢公会堂があり、交差点から北に向かう道には「殿ヶ谷街道」、南側には「宮沢中央通り」の道路標識が取り付けてある。

旧五日市街道 西砂町5丁目 立川市 東京都
旧五日市街道 西砂町5丁目 立川市 東京都

立川西砂郵便局の先で道は二股に分かれる。横田基地を避けるために左におれていく都道7号に対し、旧道は基地に向かって直進する。この旧道部分は「西砂街道」と呼ばれている。旧道の両側には見事な欅並木が残っている。

林泉寺 西砂町5丁目 立川市 東京都
林泉寺 西砂町5丁目 立川市 東京都

右手に享保3年(1718)創建の殿ヶ谷新田鎮守阿豆佐味天神社がある。境内に明和元年(1764)の庚申塔に並んである文化6年(1809)の馬頭観音には仲里新田・宮澤新田・殿谷新田の名が連名で刻まれている。神社隣の林泉寺から西が中里新田である。

横田基地 西砂町4丁目 立川市 東京都
横田基地 西砂町4丁目 立川市 東京都

真直ぐにのびる旧道はまもなく横田基地にぶつかる。金網フェンスと「テロゲリラ警戒中」の立て看板が旅の気分を一掃した。左におれるところをかっては旧道がまっすぐ突き抜けていた。小さなゲートにも軍服の兵士が警戒を怠らない。上空にヘリコプターが爆音を立てている。

横田基地・富士遠望 横田基地 福生市 東京都
横田基地・富士遠望 横田基地 福生市 東京都

フェンスの向こうに白い冨士山が見えた。前景が何であれ富士の姿は美しい。金網にカメラをくっつけて数枚撮る間にも、どこかで監視カメラに不審な姿が捕らえられて今にもライフルの玉が飛んでくるのではと思ったりもした。なるべく貧相な格好をしてゲート前を通り過ぎた。

熊川武蔵野信号で都道7号に合流し基地の南側を通り国道16号に乗って北上して、第五ゲート前で国道とわかれ都道7号として西に向かう。直通にくらべ1.6kmの遠回りを余儀なくされた。

二宮

玉川上水・牛浜橋 牛浜 福生市 東京都
玉川上水・牛浜橋 牛浜 福生市 東京都
JR青梅線 牛浜踏切 牛浜 福生市 東京都
JR青梅線 牛浜踏切 牛浜 福生市 東京都

JR八高線の砂川街道踏切を越えた右手、福生市民会館の前に「右江戸 左きよと」と彫られた道しるべを見て、JR青梅線牛浜踏切で青梅行きの電車を撮り、新奥多摩街道を横切った先で玉川上水に架かる牛浜橋をわたる。高い街灯つきの親柱を備えた趣ある橋である。橋から眺める玉川上水の風景も美しい。ここでもムラサキハナナが一役買っている。

多摩橋から多摩川 草花 あきる野市 東京都
多摩橋から多摩川 草花 あきる野市 東京都

都道7号はこの先奥多摩街道を横切り坂を下って福生第七小学校の南で右折して多摩橋に向かうが、旧道はそのまま直進して多摩川へ降りていく。堤防に植えられた桜が満開で河川敷の多摩川中央公園は大勢の行楽客で一杯だった。ユキヤナギが咲き誇る公園にシートを広げてピクニックランチを楽しんでいる。

石浜渡津跡 多摩川中央公園 牛浜 福生市 東京都
石浜渡津跡 多摩川中央公園 牛浜 福生市 東京都

土手から降りたところに「史蹟石濱渡津跡」の碑があった。そばの標柱には「牛浜渡津跡」とある。ここが五日市街道の渡し場で、対岸の地名をとって森山の渡しともいわれた。石浜の渡しは太平記にでてくる石浜の戦いの古戦場ではないかといわれている。

JR五日市線・多摩川 草花 あきる野市 東京都
JR五日市線・多摩川 草花 あきる野市 東京都

多摩川の水際まで降りていってミックスサンドを食べながら下流にみえる鉄橋を監視する。しばらくして左方向からJR五日市線の電車が現れた。シルバーの車体にオレンジの横線をいれた軽快な電車である。河原にふりそそぐ暖かい春の日差しが心地よい。

町並 本宿 二宮 あきる野市 東京都
町並 本宿 二宮 あきる野市 東京都

渡し場を後にして、多摩橋を渡るとあきる野市である。街道は左にカーブしながら急な坂を登っていくと二宮本宿の信号に出る。二宮宿は五日市街道の宿場で、本宿と北側に平行してあった北宿からなっていたという。町並は新しく昔をしのばせるものは皆無であった。本宿という地名が宿場の名残であるなら、吉祥寺本宿も同じと考えたい。

二宮神社 二宮 あきる野市 東京都
二宮神社 二宮 あきる野市 東京都

二宮神社前交差点を左にはいった丘の上に二宮神社がある。武蔵総社六所宮(現大国魂神社)の神座の第二次にあるため二宮と呼ばれた。由緒書きには藤原秀郷、源頼朝、北条氏政、徳川家康等の崇敬を受けたとされている。

秋川ファーマーズセンター 二宮 あきる野市 東京都
秋川ファーマーズセンター 二宮 あきる野市 東京都

ゆるやかな坂を上りきると二宮集落をぬけ広々とした秋留台が広がる。街道の左右は大規模に区画整理された畑地で、細分化されてその多くが市民菜園に貸し出されているようである。農家の整った畑にくらべ、時々やってきては趣味仕事に手入れをしていく作業場は農具や野菜ゴミが散乱していて一目で素人畑とわかる容貌だ。「この場所はゴミ捨て場ではありません」と書かれた立て札には微笑んでしまった。

右手に秋留台公園が続く。道は明るい台地をまっすぐのびている。地平線近くに低く山並みが台地を囲んでいる。秋留野市街地にはいる。秋川駅前を通過して左にカーブし、五日市線の踏切を渡り圏央道をくぐる。下代継と上代継の境あたりで左に旧道がのこっている。ホームセンターの脇をとおりぬけると都道の向こう側に50mほどの旧道の延長が民家の前をかすめて都道に戻っている。

少し先の信号交差点で再び右斜めに上がっていく旧道がある。都道を見下ろしながら淵上交差点を迂回するようにしてその先の都道に下りて行く。

伊奈

旧五日市街道 伊奈 あきる野市 東京都
旧五日市街道 伊奈 あきる野市 東京都

原店(はらみせ)交差点の右手、石垣の上に享保16年銘の庚申塔などの石塔をみて、山田交差点の手前で旧道は右斜めに入っていく。すぐに武蔵増戸駅に通じる南北の道を横切って旧伊奈宿集落に入っていく。伊奈宿は東の新宿と西の上宿とからなっていた。旧街道の面影をのこす家並みの中をすすんでいくと、左に折れる道とややくねってそのまま延びる道に分れる。曲尺手状に左折して都道に合流する道筋が旧道らしいが、まっすぐ行く道も捨てがたく、結局二つとも歩く羽目になった。左折して都道に出ると向かい側に新宿会館がある。新宿は東の伊奈宿である。

戻って、まっすぐすすむと増戸小・中学校の前をとおりすぎて増戸会館前で坂を降りる。会館前でであったおばさんに旧街道の道筋を尋ねると確信を持って「この道が旧道ですよ」と今来た道を指差した。いずれにしても二つの間で歴史的情報を失うものはなかったようだ。

伊奈の市神様 伊奈 あきる野市 東京都
伊奈の市神様 伊奈 あきる野市 東京都

所在地 あきる野市伊奈一五二七番地 伊奈村は、中世から近世の初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で産出される石(伊奈石)でつくられた臼なども取引きされたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。 江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工人たらが動員されたと考えら……

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所在地 あきる野市伊奈一五二七番地 伊奈村は、中世から近世の初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で産出される石(伊奈石)でつくられた臼なども取引きされたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。 江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工人たらが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。 やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急速に高まりました。すると、木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の定期市の前日に五日市村でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃をうけ、伊奈村の人々はこの市の開催日を巡ってしばしば訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊布石で作られ、側面には寛文2年(1662)の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は、地域の方々により今も大切に祀られています。 平成19年3月1日設置 あきる野市教育委員会

増戸会館から降りたところに「塩地蔵尊千日堂跡」の石柱が立っている。この辺りから西が上宿のようだ。都道の左側を歩いていくと上宿自治会館の標識が立っていて、その隣家の庭先に伊奈の市神が小さな石造りの祠に祀られている。この石は地元産の砂岩で伊奈石とよばれ、鎌倉期に信州伊奈谷の石工たちがこの地にやってきて石臼、石塔、墓石など多くの石造物に加工した。江戸城修築の際には伊奈の石工たちが動員された。

伊奈集落は江戸時代にはいってから拓かれた多くの武蔵野新田とは異なり、中世には形成されていた古い村落である。伝承では平安時代の末期に信州伊奈谷から12人がこの地に移り住んで村を開いたという。江戸時代には毎月六の日に市が立ち、農具・衣類・木炭・伊奈石加工品などが取り引きされて賑わった。その後木炭の需要が高まるにつれより山手の五日市村に押されるようになった。六日市に対抗してその前日の五日に市を立てるとはえげつない考えである。いつしか街道の名も伊奈道から五日市道にかわっていった。

秋川・横沢集落 あきる野市 東京都
秋川・横沢集落 あきる野市 東京都
旧五日市街道 横沢 あきる野市 東京都
旧五日市街道 横沢 あきる野市 東京都

旧道は新秋川橋東の信号で広い道路から分れ右の坂道を下りていく。右手に現れる岩走神社は信州伊奈郡出身の住人の一人が信州から勧請したと伝わる。神社の向かい側から秋川の谷に降りていく道が旧街道である。秋川の清冽な流れの北岸に沿って静かにたたずむ横沢集落は五日市街道随一の風景である。ここに千本格子の旅籠一軒でも残っていればと思わざるを得ない。

五日市

旧五日市街道 舘谷 あきる野市 東京都
旧五日市街道 舘谷 あきる野市 東京都

旧道は行き止り手前で右に坂を上がって車道に戻り、五日市橋信号で現五日市街道を横切り、時宗正光寺の前を右折し道なりに進んで都道に出る。左手に終点JR武蔵五日市駅が見える。

五日市街道終点 武蔵五日市駅前 五日市 あきる野市 東京都
五日市街道終点 武蔵五日市駅前 五日市 あきる野市 東京都

五日市街道都道7号の終点そのものは道路標識があるだけのあっけないものだったが、五日市宿場自体はここから西にむかって檜原街道(都道33号)に沿って形成されていた。ちなみに駅前から東に向かう道は秋川街道(都道31号)で、青梅映画看板の街並住江町三差路で旧青梅街道に合流する。

旧市倉家住宅 五日市920-1 あきる野市 東京都
旧市倉家住宅 五日市920-1 あきる野市 東京都

あきる野市指定有形文化財(建造物) 江戸末期に、金毘羅山の麓に建てられた、上屋桁行き7.5間、梁行き3間の入母屋造り、四間型、茅葺の民家です。 平成10年から行った解体調査では、養蚕の発達と生活の様式の変化に伴って改造された痕跡や、この建物以前にあった建物の痕跡などを確認し、記録することができました。 この解体調査の成果から。建築当初の形態に移築復原しています。江戸時代末期に、この地域で一般的であ……

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あきる野市指定有形文化財(建造物) 江戸末期に、金毘羅山の麓に建てられた、上屋桁行き7.5間、梁行き3間の入母屋造り、四間型、茅葺の民家です。 平成10年から行った解体調査では、養蚕の発達と生活の様式の変化に伴って改造された痕跡や、この建物以前にあった建物の痕跡などを確認し、記録することができました。 この解体調査の成果から。建築当初の形態に移築復原しています。江戸時代末期に、この地域で一般的であった農家の姿を伝えるとともに、上屋桁が上屋柱筋から東西1.2尺、南北1尺外に出る、いわゆる出桁造りとなるなど、この建物の特色も認められます。平成13年3月1日設置 あきる野市教育委員会

檜原街道 五日市 あきる野市 東京都
檜原街道 五日市 あきる野市 東京都

檜原街道を西に歩いていくと、僅かながらところどころに古い建物が残っていた。尊古斎、栗原呉服店、燃料問屋青木屋などである。警察署の横を右に入ったところに旧市倉家住宅が保存されている。江戸時代末期の一般的な農家である。入母屋造りで均整のとれた清楚な佇まいである。前庭にまわると大きな伊奈石が展示されていた。

ゴミ屋敷 五日市 あきる野市 東京都
ゴミ屋敷 五日市 あきる野市 東京都

街道にもどり歩をすすめていると道の反対側にゴミ屋敷があった。今までにも他の街道でみなかったわけではないがその土地の名誉のために写真の掲載はやめていた。今回、記念に一枚のこしておく。ゴミ屋敷の建物自体は案外まともな家が多いのが興味深い。ゴミを集める性癖は貧困からきたものでないらしい。収集趣味の対象がゴミというだけなのだ。

茶房糸屋 旧檜原街道 小中野 五日市 あきる野市 東京都
茶房糸屋 旧檜原街道 小中野 五日市 あきる野市 東京都
黒茶屋 旧檜原街道 小中野 五日市 あきる野市 東京都
黒茶屋 旧檜原街道 小中野 五日市 あきる野市 東京都

小中野交差点あたりが五日市宿の西端である。道が二股にわかれ左の風情あふれる細道が旧檜原街道で、秋川渓谷沿いに黒茶屋の和風建物が並んでいる。中心の母屋は江戸時代の庄屋屋敷を移築したものだそうだ。深い渓谷に下りて行く風景の中に竹林と淡い桜の花と東屋が一幅の絵にしあげていた。

野崎酒造 旧檜原街道 戸倉 五日市 東京都
野崎酒造 旧檜原街道 戸倉 五日市 東京都

最後の訪問先はおまけである。「野崎酒造」がなんとなく聞き覚えのある名に思えて、てっきり近江商人の造り酒屋だろうと早合点してしまった。旧檜原街道が都道にもどる少し手前の右側に造り酒屋の象徴である杉玉と高い煙突が見えてきた。門をくぐり店にはいる。出てこられた奥さんに訪ねると、創業者は越後の杜氏だということだった。明治17年創業で現在5代目だという。家での打ち上げ用に中瓶生酒を買って帰った。「これは生ですから早く飲んでください」と言われている。

(2009年4月)