藤田-貝田-越河-斎川-白石-宮-金ヶ瀬-大河原
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

追分けから右側の道をとって、田園地帯を北に進むと半田を過ぎて国見町の中心街、藤田に入る。県道46号線(国道4号線を起点として、西へむかって小坂小学校で桑折からきた旧羽州街道(県道353号)と合流し小原で国道113号線に出るまでの羽州街道)をこえてすぐ右に曲がる。道なりに大きく左にまがるあたりから、500m弱の小さな藤田宿がはじまる。家並みからは宿場の面影を見いだすことはできなかった。
この建物はもと国見町大字小坂字木八丁40番地にあり江戸時代中期の創建と考えられそのころのこの地方の本百姓の標準的な住居として建築史および民俗学上たいへん貴重な資料であるところから県重要文化財の指定を受けこれを保存することになりました。たまたま東北高速自動車道路建設のためやむを得ず移転することになりこの町有地に移しあわせて創建当初の規模形態に復しました。この文化財もわたくしたちみんなの協力で後世に残……
この建物はもと国見町大字小坂字木八丁40番地にあり江戸時代中期の創建と考えられそのころのこの地方の本百姓の標準的な住居として建築史および民俗学上たいへん貴重な資料であるところから県重要文化財の指定を受けこれを保存することになりました。たまたま東北高速自動車道路建設のためやむを得ず移転することになりこの町有地に移しあわせて創建当初の規模形態に復しました。この文化財もわたくしたちみんなの協力で後世に残しておきたいと思います。 昭和47年12月14日 国見町教育委員会
藤田駅と旧街道のほぼ中間に「観月台公園」が作られていてそのあたりが行政文化の中心であるようだ。なぜか義経の像が立っていた。人工池のほとりに「旧佐藤家住宅」として江戸中期の本百姓の茅葺の家が保存されている。
藤田城跡は山崎字南古館・北古館、通称「源宗山」に位置する中世の城館跡である。現在は中心部が東西約180m、南北160mの略方形を呈する広大な平場で、西辺と南辺の一部に土塁跡、北西隅に枡形虎口を残しているが明治期の地籍図によれば城跡中央部に方形の区画があり、本来は複郭式の城跡であったと考えられる。 伝えに寄れば、文治5年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置き、阿津賀志山の……
藤田城跡は山崎字南古館・北古館、通称「源宗山」に位置する中世の城館跡である。現在は中心部が東西約180m、南北160mの略方形を呈する広大な平場で、西辺と南辺の一部に土塁跡、北西隅に枡形虎口を残しているが明治期の地籍図によれば城跡中央部に方形の区画があり、本来は複郭式の城跡であったと考えられる。 伝えに寄れば、文治5年(1189)阿津賀志山の戦いの折、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置き、阿津賀志山の奥州藤原軍の陣を攻める指揮をとり、それが源宗山の地名の起こりになったといわれている。 下って南北朝の時代には、藤田城は霊山城の支城として南朝軍の拠点となっており、貞和3年(1347)奥州管領吉良貞家の率いる奥州の北朝軍を総動員した軍勢の攻撃を受け、激戦の末落城している。この時期の城主は不明であるが、伊達行朝か藤田下野守と推定される。 室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられるが、本宗家は一時断絶している。戦国時代の天文年間(1532~1555)に藤田氏は再興されたが、奥州守護伊達稙宗と嫡子晴宗が争った天文の乱で稙宗方につき、敗れた藤田晴親は相馬に逃亡したため藤田氏は再び断絶することになる。この時点で藤田城は廃城になったと思われる。 現在見られる城の遺構はその形態・構造から、天文の乱の時期のものと考えられる。 平成12年2月 国見町教育委員会
公園の北方、平屋の市営住宅がならぶ小高い丘の頂上付近に空き地があって、「藤田城址」の標識が立っていた。伝えによれば、文治5年(1189)鎌倉軍と奥州藤原軍が阿津賀志山の戦いで激突したとき、源頼朝が鎌倉軍の本営をここに置いて指揮をとったといわれている。藤田宿における唯一の史跡らしき場所だった。
硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。『信達二郡村誌』には「石面に縦2尺余、横1尺45寸許りなる、硯の海を穿って常に水を湛えたり、百日の旱魃にもいまだ會って、涸るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。(中略)源義経当国の軍勢を集め賜う時、(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし所成べし・・・・・」と、水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。 また西側を流れる滝川の対岸には、弁慶の踵清水と称す……
硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。『信達二郡村誌』には「石面に縦2尺余、横1尺45寸許りなる、硯の海を穿って常に水を湛えたり、百日の旱魃にもいまだ會って、涸るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。(中略)源義経当国の軍勢を集め賜う時、(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし所成べし・・・・・」と、水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。 また西側を流れる滝川の対岸には、弁慶の踵清水と称する湧水があり、阿津賀志山の南麓には義経の腰掛松など、この地には義経、弁慶主従にまつわる伝説が多く残されている。かってこの山には、装飾を施した横穴古墳群が、山頂から南麓部にかけて分布がみられ、戊辰戦争に仙台藩が構築した砲台場跡もあったが、凝灰岩の採掘によって破壊された。 硯石山は風光明媚な景勝の地で、数々のロマンを秘めた、伝説と歴史の山である。春たけなわの季節山頂に立てば、爛漫と咲き乱れる桜や、やや遅れて咲き出す、桃の花の合間からは、文治5年(1189)の8月、奥州合戦に源頼朝が率いる鎌倉軍と、藤原泰衡の奥州軍が阿津賀志山麓で戦った、古戦場の跡を垣間見ることができる。この戦いは閏4月30日に、義経、弁慶主従が、衣川館で泰衡に襲われ謀殺されてから、約100日後の出来事であった。水田を隔てたこの山北側の眼下には、伊達氏の重臣石母田氏の居館で、土塁や水濠遺構が残る石母田城跡、そして宮城との県境をなす長嶺(大峠山)の山々、北西に目を転ずれば、羽州街道の難所とされた小坂峠、半田山など、スケールの大きな眺望は人々を魅了してやまない。 平成17年4月 国見町教育委員会
鹿島神社でゆるやかに右に折れて、国道4号に合流する手前を左に折れる。坂をあがって左の畑中をすすんでいくと丘の頂上にいたる。この丘を硯石山といい、頂上にある巨石を弁慶の硯石という。近づいて石の上をのぞくと確かに硯の海のごとくに、50cm前後の長方形をした穴が穿ってあり、もみじ葉が重なって水に浮いていた。義経・弁慶が京と平泉の間を行き来したときに通った道筋にあったのだろう。この近辺の奥州街道沿いには義経にまつわる伝説が多く伝わっている。
(前略) 硯石山は風光明媚な景勝の地で、数々のロマンを秘めた、伝説と歴史の山である。春たけなわの季節山頂に立てば、爛漫と咲き乱れる桜や、やや遅れて咲き出す、桃の花の合間からは、文治5年(1189)の8月、奥州合戦に源頼朝が率いる鎌倉軍と、藤原泰衡の奥州軍が阿津賀志山麓で戦った、古戦場の跡を垣間見ることができる。この戦いは閏4月30日に、義経、弁慶主従が、衣川館で泰衡に襲われ謀殺されてから、約100……
(前略) 硯石山は風光明媚な景勝の地で、数々のロマンを秘めた、伝説と歴史の山である。春たけなわの季節山頂に立てば、爛漫と咲き乱れる桜や、やや遅れて咲き出す、桃の花の合間からは、文治5年(1189)の8月、奥州合戦に源頼朝が率いる鎌倉軍と、藤原泰衡の奥州軍が阿津賀志山麓で戦った、古戦場の跡を垣間見ることができる。この戦いは閏4月30日に、義経、弁慶主従が、衣川館で泰衡に襲われ謀殺されてから、約100日後の出来事であった。水田を隔てたこの山北側の眼下には、伊達氏の重臣石母田氏の居館で、土塁や水濠遺構が残る石母田城跡、そして宮城との県境をなす長嶺(大峠山)の山々、北西に目を転ずれば、羽州街道の難所とされた小坂峠、半田山など、スケールの大きな眺望は人々を魅了してやまない。 平成17年4月 国見町教育委員会
車が方向転換できるくらいの狭い空き地からは、三方のパノラマを見渡すことができて爽快な気分になる。誰もいない畑に柿がなり放題に実っているのでいくつか小枝ごといただいた。車の中でいそいそとかじってみると見事に全部渋かった。形は甘がきの風体なのだが、中身は別らしい。
(前略)「義経の腰掛松」の由来は、この途中路傍に生えていた、小松の枝に腰を掛け、休息をとったことが、松名の起こりといわれる。また初代の松は三本の太幹から、四方に繁茂する枝振りが、笠を伏せた姿に似ていたため、別名笠松ともいわれた。 初代の腰掛松は幕末重職の中川忠英や大野文泉ら江戸の風人墨客達によって、 、摂津国(現大阪府)の曽根崎天神の松とともに、「天下の三名松」として喧伝され名声を博したという。松……
(前略)「義経の腰掛松」の由来は、この途中路傍に生えていた、小松の枝に腰を掛け、休息をとったことが、松名の起こりといわれる。また初代の松は三本の太幹から、四方に繁茂する枝振りが、笠を伏せた姿に似ていたため、別名笠松ともいわれた。 初代の腰掛松は幕末重職の中川忠英や大野文泉ら江戸の風人墨客達によって、 、摂津国(現大阪府)の曽根崎天神の松とともに、「天下の三名松」として喧伝され名声を博したという。松樹の東側には寛政12年81800)に江戸の文人、髄古堂素閑によって書かれた、「義経の腰掛松」の碑が立てられている。 しかし文政4年(1823)修験者が、この松に巣を作った蜂退治のために、焚き火をしたところ松に燃え移り、あたら名松を枯らしてしまった。村人はこれを惜しみ、同6年信夫郡上名倉村(現福島市)の医師須貝才右衛門から、姿が笠松によく似た赤松を譲り受け、川船に積んで荒川から阿武隈川を下り、徳江河岸より陸揚げされて運ばれ、移し植えられたのが現在の二代目である。焼けた初代の松株には、柵を巡らし屋根を葺き、義経神社が祀られている。しかし、二代目の松も近年、松食虫の被害を受けて、三本の太幹の内二本は枯死して伐採され、かろうじて一本が、残されているのみである。 平成17年4月 国見町教育委員会
街道は県北中学校のところで国道とわかれて右のローカル道を下っていく。坂をくだったところの十字路で街道をはずれて左の道にはいり、国道の下をくぐりぬけてしばらくいくと右手に「義経腰掛松」の標識がでてくる。民家の横をぬけて舗装道路を越えた柿畑に低い放物線をえがいた赤松の姿がみえる。初代の松は、近江の唐崎の松、摂津曽根崎天神の松とともに「天下の三名松」として名声を博したという。現在の赤松は二代目だが三本の太幹のうち二本はすでに枯れており、一本足でようやく老体を支えている体である。
左手前方になだらかなダイヤモンドヘッドの形をした稜線を描いているのが鎌倉・奥州軍が激突した古戦場、厚樫山だ。東麓を東北自動車道・東北本線・国道4号線・旧道がよりそって並走している。いずれの道も厚樫山の東腹の張り出しを避けるように大きく右から左に旋回している。
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄弟国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、『吾妻鑑』には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重掘」と呼ばれている。防塁跡は、土塁と空掘からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡……
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄弟国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、『吾妻鑑』には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重掘」と呼ばれている。防塁跡は、土塁と空掘からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡と三重の土塁が現存している。 この防塁跡付近一帯の地は、文治5年8月8日から10日にかけて激戦が展開された古戦場であり、本遺跡は、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で極めて重要なものである。 平成2年3月 国見町教育委員会
合戦にそなえて奥州勢は阿津賀志山山腹から東は阿武隈川まで延々と東西に延びる防塁を築いた。阿津賀志山防塁は、福岡県福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁とともに「日本三大防塁」として国指定史跡である。今も土盛りと空堀の跡が所々に残っていて、旧道の峠には「防塁横断地点」と記された木標が立っていた。
旧道は大木戸の集落をぬけて国道に合流する。古来の奥州街道はもっと西の山麓を通っていたようだ。その一部が新国道の国見峠付近に残っているという。
国道を横切った交差点の左角に交番がある。旧道跡の場所を確かめるために高床式の交番に飛び込んだ。親切そうな警察官が鉛筆と紙をとりだして地図をかきながら説明してくれた。自分も一緒にいきたそうなそぶりで、熱心にその「旧道」のよさを説くのだった。一度ならず行っているようで、説明は具体的で詳しい。
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄弟国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、『吾妻鑑』には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重掘」と呼ばれている。防塁跡は、土塁と空掘からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡……
この遺跡は、文治5年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄弟国衡を将とし、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防塁遺構で、『吾妻鑑』には「口五丈堀」と記載されており、地元では「二重掘」と呼ばれている。防塁跡は、土塁と空掘からなり、阿津賀志山中腹から南下し阿武隈川の旧河道にある滝川までの約3.2kmにわたって所在する。防塁跡の一部は開発等によって失われているが、各地区に二重の堀跡と三重の土塁が現存している。 この防塁跡付近一帯の地は、文治5年8月8日から10日にかけて激戦が展開された古戦場であり、本遺跡は、鎌倉幕府の全国支配の帰趨を考える上で極めて重要なものである。 平成2年3月 国見町教育委員会
「こちらから峠をこえたところにマツヤという食堂がある。そこに車をおかせてもらって歩くとよい。国道をよこぎって西側から入る道がある。芭蕉の碑もある。昔、そこに峠の茶屋があった」
いわれたように国道を藤田方面にもどり、マツヤで昼食をとった。車をしばらく置かせてもらおうと訳を話すと、食堂の奥さんは国道まで出てきて50mほど先の狭い入口を指差した。
「車でいけますよ。道は舗装してあるし、旧道のまえには駐車場もありますから」
国見峠は、厚樫山の東腹部に位置し、古代においては律令政府の都である奈良や京都、中世以降は武家政権の幕府が置かれた鎌倉、京都や江戸より、陸奥、出羽の両国へと続く官道がこの峠越えに、伊達と刈田郡境の地狭部を通り北へと走っていた。この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。 伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津……
国見峠は、厚樫山の東腹部に位置し、古代においては律令政府の都である奈良や京都、中世以降は武家政権の幕府が置かれた鎌倉、京都や江戸より、陸奥、出羽の両国へと続く官道がこの峠越えに、伊達と刈田郡境の地狭部を通り北へと走っていた。この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。 伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切り通したあたりから長坂と呼ばれる急な坂道にさしかかり、登りつめた所が国見峠である。この峠周辺一帯の地は、文治5年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場であり、信夫郡石那坂(現福島市)の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族の首級は経ヶ岡の地にさらされた。 近世におけるこの道は仙台、盛岡、松前藩などの諸侯が江戸と国元とを往来する参勤交代に使用され、元禄2年(1689)松尾芭蕉が『奥の細道』の紀行で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。」と旅をしたのもこの道である。明治10年代の後半になると国見峠の急な坂道は車馬の通行に適せず、山麓に新道が開通されるにおよんで、長坂道は廃されて歴史的な使命を終えるが、旧道の景観と遺構はよく保存がなされている。 平成15年12月 国見町教育委員会
ヘヤーピンカーブの道をたどって、中腹にその道はあった。長さは100mくらいの雑木林を切り開いてつけたような静かな道が樹林のトンネルの下に休んでいる。こもれ日が広葉をまだらに照らして、詩情あふれる小径をなしている。奥まった空間に他の石碑類にまじって「奥の細道」にちなんだ芭蕉翁碑があった。

厚樫山の東腹山麓を通る東山道の、国見峠にいたる坂道を長坂とよんでいた。平泉方の大将藤原国衡の軍勢がここに陣を取って源頼朝の率いる鎌倉の大軍を迎え撃った場所である。防塁構築の努力もむなしく、奥州軍は敗走した。平泉藤原氏幕引きの土地ともいえるわけだが、一方で、この戦いで功を遂げた常陸入道念西が伊達郡を与えられて伊達氏(初代伊達朝宗)を名乗り、あたらしい奥羽の統治者として登場する伊達氏幕開けの土地でもあった。芭蕉のあこがれる義経の忠臣佐藤基治もこの奥羽合戦で討死した。厚樫山は東北の歴史を塗り替える大舞台を提供したのだった。

再び交番の前にもどり、貝田の集落に入っていく。街道の古道は途中で右斜めに田畑のあぜ道に入っていた。あぜ道に残っている庚申供養塔が古道の証になろうか。宿場ちかくではあぜ道も舗装され、丁字形に旧国道と合流する。その地点に湯殿山碑、庚申塔、三つの石、「奥州街道貝田宿」の表示板などが集まっており、貝田宿の南口であった。貝田宿も風呂沢川をはさんで長さ400mほどの小さな宿場である。
江戸時代、奥州街道の宿場町としてにぎわいをみせた貝田宿は、町中を流れる風呂沢川をはさんで、長さが4丁(約435m)、道幅4間(約7.3m)あります。戸数は60戸前後で推移しましたが、たびたびの大火で家並みの大半は焼失し、昔のおもかげをとどめていません。(中略)街道を南に向かうと町頭、国見峠を越え藤田宿に入ります。風呂沢橋を渡って北へ進むと町尻より街道は左に折れ、ゆるう坂を上がって口留番所岡田家、最……
江戸時代、奥州街道の宿場町としてにぎわいをみせた貝田宿は、町中を流れる風呂沢川をはさんで、長さが4丁(約435m)、道幅4間(約7.3m)あります。戸数は60戸前後で推移しましたが、たびたびの大火で家並みの大半は焼失し、昔のおもかげをとどめていません。(中略)街道を南に向かうと町頭、国見峠を越え藤田宿に入ります。風呂沢橋を渡って北へ進むと町尻より街道は左に折れ、ゆるう坂を上がって口留番所岡田家、最禅寺の前を通り仙台藩領、越河宿へと向かいます。にぎわった貝田宿も、江戸幕府が崩壊すると大名の参勤交代が廃止され、また、東北本線の開通によって宿泊者が激減して宿場町としての歴史的な使命を終えました。 平成5年3月 国見町教育委員会
宿場の中央あたりに昔の宿場図が掲げられているが、その図が示す名主兼問屋跡や検断屋敷跡、制札場跡などの地点をたずねてみても標識もなければそれらしい家の佇まいもみられなかった。たび重なる大火で町並みは消失し古い建物はほとんどなくなってしまったという。

ようやく旧街道の面影をとどめているのは宿の北外れに位置する最禅寺と、貝田番所跡である。旧道は最禅寺の前を右にまがる細道だが、今はその跡を失っている。白河の境の明神で始まった「奥の細道自然遊歩道」はこの最禅寺が終点となっていて、そのことを示す標柱が立っていた。福島県中通りの奥州旧街道は奥の細道自然遊歩道でもあったわけで、貝田宿以北の福島県域に旧道は残っていないということを示している。国道にもどって宮城県へ急ごう。

国道4号の峠手前が県境で左手に粗末な境界石が立っていた。一般には境界は峠や稜線を基準にするものだが、ここの県境は峠よりも福島県寄りにある。伊達藩が少しでも峠越しの見通しを確保しようとつい境界線を押し込んでしまったものと聞いた。栃木-福島県境である白河の関でみた、大きな石標や神社付の関所跡などにくらべると、福島-宮城県境は地味な境界だ。
平安時代、和歌の題材になる名所を歌枕と称したが、みちのくにも数多くあって都の人々に親しまれていた。 白石市越河の県境は古く坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕に挙げられ有名になった。 この下紐の石は用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという伝説が、乳神様と共に伝わっている。藩政時代には路傍にあって「石大仏」と呼ばれていた。 立かへり 又やへだてん こよいさへ 心もとけ……
平安時代、和歌の題材になる名所を歌枕と称したが、みちのくにも数多くあって都の人々に親しまれていた。 白石市越河の県境は古く坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕に挙げられ有名になった。 この下紐の石は用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという伝説が、乳神様と共に伝わっている。藩政時代には路傍にあって「石大仏」と呼ばれていた。 立かへり 又やへだてん こよいさへ 心もとけぬ 下紐の関 左大将公名 現とも 夢とも見えぬ 程ばかり かよはばゆるせ 下紐の関 大中臣能宜朝臣
街道は宮城県白石市越河に入る。まだ峠に達しないうちに、国道の両側に二つの史跡がある。右側の路傍にあるのが史跡「下紐の石」。6世紀後半のこと、用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという。この場所はまた、古く坂上田村麻呂が関所を設けたところで、以来「下紐の関」として名所となった。
下紐の石の反対方向に目をやると谷底を走るJR線路脇の草深い土手の斜面に「越河番所の跡」の大きな標示板が立っている。要するに、この付近に古くは坂上田村麻呂の関所が、近世には伊達藩の南口を警備する番所があったということだ。「お産の紐云々」は何のことかよくわからない。

東北自動車道の下をくぐり越河清水で国道とわかれて左の旧道に入ると越河宿になる。入り口には宿場の表示板がある。越河は仙台藩領の南端に当り、警備のため仙台藩から役人がここに派遣されていた。現在の旧越河宿の町並みには旧家をみることがほとんどない。
越河駅の手前でJR線の踏切を渡り東側に出てすぐに旧道にもどる。越河駅の北側にでる旧道がのこっているらしいが、どうやら見過ごしてしまったようだ。矢尻の白石南中学前で国道4号線に合流する。
9世紀の初め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は斎が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似……
9世紀の初め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は斎が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似ているため馬形沼と、さらに、馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたとの伝承がある。 この沼は明治30年頃から養鯉場になり、晩秋には名物の「沼乾し」の行事で賑わい、湖中には鯉供養碑が建っている。湖沼の北側の山は馬牛館跡で、伊達稙宗・晴宗父子争乱の天文年中(1542~48)には、桑折播磨景長が篭って戦ったとの伝承がある。 その館下の道は、遠く源義経が鐙を摺ったといわれ鐙摺石(あぶみすりいし)の難所であり、奥州街道最大の難所であった。
国道4号線の左手に馬牛沼が現れる。地図には白鳥飛来地とあるが姿はみえなかった。沼の水が抜かれていて、数羽の白サギが沼底をつついていた。11月の風物詩となっている「沼乾し」の時期にぶつかったようだ。明治の頃からこの沼では鯉が養殖されるようになり、沼乾しは沼の浄化のためなのであろう。この沼の一風かわった名前の由来は幾つか伝えられているようだが、あまり気にしないことにする。

沼を過ぎ峠の手前に小さな駐車場スペースが設けられていて、その奥に「斎川孫太郎餅」と大きく書かれた看板を掲げた食堂がある。「孫太郎」とはヘビトンボの幼虫のニックネームで、乾燥させた孫太郎虫は子供の「疳(かん)の虫」の薬として売られた斎川の名物だった。

峠を越えたところで右折して旧道に入る。馬牛沼の北を取り囲む山を切り通してつけられた峠は奥州街道最大の難所といわれ、崖がせまる険しい道であったため、騎馬の名人源義経にして鐙を岩にこすったといわれる。S字状に下っていく「鐙摺り坂」の崖斜面に石碑がなかば散乱している。その中に「孫太郎虫供養塔」があった。

坂道を下りおわるころ、斎川の手前に坂上田村麻呂を祀る田村神社がある。人気の点ではその隣に建つ甲冑堂が圧倒的にまさる。甲冑堂の祭神は、楓と初音という名の凛々しい二人の嫁である。源義経の家来佐藤継信・忠信兄弟の妻、楓と初音は夫の鎧兜を身につけて姑の前で彼らの活躍ぶりを演じて慰めたという。芭蕉はこれを医王寺でみたと勘違いした。
「堂内の拝観希望者は社務所まで」とあったので、玄関のベルをおすと、現れた紳士は首にかけているカメラを一瞥して「撮影はおことわりしているのですが…」と決断をせまられた。「じゃー結構です」と、結局医王寺でも甲冑堂でも、楓と初音には出会わずじまいに終わった。


斎川を渡って宿場に入る。入口に「斎川宿」の看板がたつ。現在の町並みで宿場街であった面影を残すのは、中ほどにある旧検断屋敷(旧島貫家)ぐらいになってしまった。島貫家といえば瀬上宿にはいったばかりの場所に陣取っていた広壮な屋敷を思い出す。ここの検断屋敷は無人の建物で、塀の板壁が痛んで廃屋にちかい状態におかれている。庭に柿の木と明治天皇御休息所の碑を見ることができた。

斉川踏切で西側に渡り国道4号と合流してすぐの斎川歩道橋の先左手に明治22年の道標がある。陸羽街道の道標で、仙台を起点にしたものだ。
右側 距仙臺元標十四里 左側 磐城国刈田郡斉川

同じところに「東京より300.7㎞」の新国道キロ程標もたっている。さっそく700m分だけ国道4号を引き返し、東京より300km地点の記録写真を撮ってきた。位置的には斎川宿の西にあたる。

斎川歩道橋から四方の景色を楽しんでいたら、国道沿いの田んぼにS字形にうねる細い土道をみつけた。耕運機がつけた田のすじとあいまってきれいな曲線をえがいている。おそらくこれが旧道ではあるまいかと、勝手な喜びに口元がゆるんだ。

国道4号の大平交差点でバイバスに入らず右折して旧4号で市内に向かう。
田町の昭和シェルガソリンスタンドで右折する。かってこの角にあった明治22年の「一等道路東京街道道標」が、今はすこし左に入った白石中学正門に移されている。最上部に指差し手の線彫りがありその下に英文の記載がある珍しいものだ。英文は「Main Road For Tokyo」と読める。


旧道はそこから一筋東の当信寺(山門は城の東口門)の前を左折、この辺りが白石宿の南口であった。白石駅から来る通りとの交差点をクランク状に横断、本町から中町へうつる。ここに枡形があった。交差点の東北角は旧高甚本店跡地で、現在は整備された「すまi(い)る広場」となっている。広場の背後をかこむように立ち並ぶ建物は、壽丸(すまる)屋敷で、明治中期の店蔵をはじめとして、数棟の土蔵を有や書院屋敷、大正時代の母屋などからなる渡辺家の住宅である。渡辺家は明治に興った豪商で、地場特産の白石和紙の紙問屋をはじめ太物屋、味噌醤油醸造、不動産業、金融など手広く商っていた白石指折りの経済人であった。現在も仙南信用金庫と蔵王酒造の経営に携わっている。
宿場街は南から本町、中町、長町、亘理(わたり)町、短ヶ町、新町の六町からなり長さ1.4kmの大きな宿場町であった。商人町にはそれぞれに市神が設けられた。その一つ亘理町の市神が、つきあたりの歯医者の裏手にある。歯科医の前を左折して国道113号を西にすすむと、右手に「うーめん番所」の大きな看板がたっている。このあたりに白石宿の北口木戸が設けられていた。

「うーめん番所」で昼食をとる。白石和紙とともに、この土地の伝統的特産品として知られるウーメン(温麺)は、9cmほどの短いソーメンである。時は奇しくも芭蕉がこの土地を歩いていた元禄2年、白石城下に住む鈴木浅右衛門という親思いの男が、胃を病んで苦しむ父親のために、油のかわりに葛をつかった素麺を試し、これを父にすすめたところ胃病はみるみる快方にむかい、やがて全快した。城主片倉景綱はこの親孝行な息子の温かい思いやりを誉めて『温麺』と名づけたという。
三代片倉小十郎景長が、病身の身を押し、駕篭にゆられて巡視した結果、白石城を見ることのできるこの地を選び、片倉家代々城主の墓所として設定したのがこの場所である。景長は、仙台より石工を招いて阿弥陀仏像を刻ませ、初代景綱と二代重長の墓を傑山寺からこの地に移したのが延宝8年(1680)で、初代景綱の命日である10月14日である。又三代景長は、翌年延宝9年に病死したが、前二代にならって石像をつくらせて、墓標……
三代片倉小十郎景長が、病身の身を押し、駕篭にゆられて巡視した結果、白石城を見ることのできるこの地を選び、片倉家代々城主の墓所として設定したのがこの場所である。景長は、仙台より石工を招いて阿弥陀仏像を刻ませ、初代景綱と二代重長の墓を傑山寺からこの地に移したのが延宝8年(1680)で、初代景綱の命日である10月14日である。又三代景長は、翌年延宝9年に病死したが、前二代にならって石像をつくらせて、墓標とし以後9代まで同じようにここの葬られている。7代村廉夫人は、仙台藩主伊達吉村公の息女お郷様(昌子夫人)だったので、城主同様にここに葬られ、合わせて10体の阿弥陀仏像が、石畳を敷いた床面の上に並んで葬られてある。ほかに明治初年に没した10代宗景の碑があり、これらが苔むした花崗岩の玉垣に囲まれて整備されているのが片倉家廟所である。藩主の陪臣の墓所としては、他に例を見ないめずらしいものである。
国道113号を更にすすみ、東北自動車道をこえて愛宕山の北側山麓にやすむ「片倉小十郎歴代御廟」をたずねる。石段をのぼり白石の町をみおろす見晴らしのよい墓地の外縁をまわりこんだ奥に、初代片倉小十郎景綱を初めとして代々の領主とその家族の墓が並んでいる。10体の阿弥陀菩薩像は9代の城主と7代村廉夫人の墓標としてつくられたもので、「片倉小十郎歴代御廟」を特徴あるものにしている。

城の北側を流れる沢端川沿いの後小路には家臣の武家屋敷が並んでいた。この一画には今も民家ながら、門をかまえた格式ある家並みがつづいている。なかでも小関家屋敷は享保年間の古い建築物で中級武士の屋敷と言われている。佐倉、但馬家と同じ格だ。清冽な流れの傍に、母屋、門、塀が保存された。間取り・部屋つくりは素朴で、農家住宅を素地として武家屋敷への過渡的形態をしめしているといわれている。
明治2年11月28日、父萬吉の長男として、白石市大鷹沢三沢字唐竹に生まれる。少年の頃、60キログラムの米俵を両手に軽々と提げ町まで運び、「三沢の怪童」と呼ばれた。明治17年、年寄尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなみ、しこ名を「三澤滝」と称した。身長198cmの巨漢であった。明治21年しこ名を「大砲」と改める。明治34年4月3日、第18代横綱に推挙され一世を風靡した。大正7年5月27日没す。 以……
明治2年11月28日、父萬吉の長男として、白石市大鷹沢三沢字唐竹に生まれる。少年の頃、60キログラムの米俵を両手に軽々と提げ町まで運び、「三沢の怪童」と呼ばれた。明治17年、年寄尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなみ、しこ名を「三澤滝」と称した。身長198cmの巨漢であった。明治21年しこ名を「大砲」と改める。明治34年4月3日、第18代横綱に推挙され一世を風靡した。大正7年5月27日没す。 以下略 平成11年11月28日 白石市長
川づたいに西の方にまわり、市営野球場の方から城山にのぼることにした。
坂を上っていくと二の丸跡に天守閣をバックに、身長197cmの大きな力士像が立っている。当地出身の第18代横綱大砲万右衛門(1869-1918年)の等寸大銅像である。尾車部屋に入門し、明治25年に入幕。通算成績は106勝30敗52分け4預かり。横綱時代は引き分けが多く、負けない横綱として「分け綱」の異名を取った。41年に引退し、年寄「待乳(まつち)山」になる。相撲に「引き分け」なんてあったのだ。
天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治……
天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。(中略) 元和元年(1615)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。・・・・・・・・・・・明治7年白石城民間に払い下げ解体 明治33年白石町益岡公園設定
高い石垣をまわり込むと、正門入り口に出て、そこで待機していたボランティアのおじさんたちが盛んにガイドをすすめに来る。大手門をくぐると、白壁のうつくしい天守閣が優雅なたたずまいを見せていた。前で菊の展示会が開かれている。
白石城は、刈田経元が後三年の役(1083~1087年)後ここに居城したことに始まる。14世紀末には刈田氏の子孫白石氏が天正14年(1545)まで城主となった。その後、蒲生氏、上杉氏の所領を経て、慶長5年(1600)伊達政宗の領するところとなった。後慶長7年(1602)、伊達政宗の重鎮片倉小十郎景綱が入城し、明治維新まで10代260年間にわたって片倉氏1万8000石の居城となる。一国一城が原則であった幕府の方針に唯一の例外を認めて、仙台藩には白石にも城を許した。片倉景綱は徳川家康も一目おいた知将であったといわれている。
その平和も幕藩体制の崩壊とともにみじめな運命をたどる。幕末の戊辰戦争時に官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成し、白石にはその公議所が設けられた。同盟はもろくも数ヶ月で崩壊、仙台藩は会津藩に先立って降伏した。片倉家の家臣団は領地を失い、白石で帰農する他、北海道に移住していった。北海道開拓団の移住費用を捻出するために城は売りにだされ、明治7年に城郭が解体された。

うーめん番所横の道を堤防に出て、白石大橋で白石川を渡る。
これより奥州街道は槻木で阿武隈川と合流するまで白石川に沿って東進する。
旧街道は下川原で国道4号に合流し、 白鳥橋で児捨川をわたる。

国道から左に入ったところ、薬師堂の前に鎌先温泉への分岐点を示す道標がある。
そこから国道に並行にはしる道からいかにも旧道らしい匂いがただよってくるが、散歩中のおじさんにたずねてみると、手を横にふった。
国道は東北自動車道の白石インターへの入口を過ぎて、刈田郡蔵王町に入る。
道下三叉路で左の県道12号線にはいっていく道が旧街道である。すぐに道は二手に分かれ、街道は右の県道25号線にのって国道にでる。

県道12号線をまっすぐに進むと刈田峰神社(白鳥大明神)がある。刈田郡総鎮守として又伊達家の重臣白石城主片倉氏総守護神として古くから崇敬を受けた名社で、白鳥明神ともよばれている。地名にも「白鳥」がのこっているように、この地では白鳥信仰がさかんだった。社殿の裏にも白鳥を浮彫にした江戸時代初期の古い石碑が集められている。

宿場の規模はちいさいながら、海鼠壁の土蔵をのこした家並みをみることができて、落ちついた味わいを感じさせる町だ。土蔵の白壁にも白鳥の浮彫がみえる。板壁塀の本陣跡建物と、となりの特定郵便局風の二階建て洋館建物とが、江戸と明治期の展示品のようにならんでいる。

北白川橋にでる丁字路交差点をすぎいてすぐに左の旧道に入る。ちいさな集落をぬけると国道との合流点手前に明治22年の道標がたっている。上半分が折れていて仙台からの里程がわからないが、槻木の道標から計算すると多分10里ではないかと推定される。
道標の先を左斜めにはいる坂道をあがっていくと大高山神社の裏側にでる。裏参道にあたるこの道は赤坂とよばれた旧街道だった。今は遊歩道として保存されている。

大高山神社は大河原町最古の歴史を持ち、柴田郡の総社格として由緒のある神社である。現在の本殿は元禄14年(1701)の造営で、社宝に東北最古といわれる正応6年(1293)銘の銅造鰐口(国重要文化財)がある。また、表参道の石段をあがったところに立っている鳥居は、寛政13年(1801)に南蛮鉄でつくられためずらしいものだ。
神社からはじまる金ヶ瀬宿場は、静かな町並みだが往時をしのばせるような古い家はすくないようだった。

金ヶ瀬宿をぬけて国道4号線にしばらく合流したあと、新南交差点を右折してふたたび旧場にもどる。白石川にちかづいたあたりに、裁判所と検察庁ががならんでいる。そこで道は左にカーブして大河原宿の中心街に入っていく。宿場の中ほどに蔵造りの学習塾があり中学生らしき生徒が出入りしている。なまこ壁の土蔵を3棟も連ねた大きな店が中心地の十字路角を占めている。「西川ふとん店チェーン」とあるのがちょっと気になった。

その交差点を右にはいって尾形橋にでてみた。あいにく雨模様の空で見晴らしはよくなかったが、白石川対岸には桜並木の連なりが見える。大河原町から船岡につづく桜並木は「一見千本桜」とよばれる桜の名所である。
旧街道は大河原小学校入口で鉤型にまがり、海道東6差路を直進して、西桜町と南桜町の境をぬけていく。このあたりの旧道の道筋は住宅街の再開発で消えてしまっているが、海道西あたりで荒川をわたり対岸の山ノ上にでていたようだ。

韮神橋で荒川をわたると、国道4号線の向こう側に、韮神山の麓を削った一角をかりて、観音像と石碑の一群がみえる。説明板が教育委員会でなく、建設省仙台建設事務所作であるところが面白い。「詳しくは村田町教育委員会にお尋ねください」とあるが、内容が充実しているため教育委員会が出る幕をうしなった感じである。
芭蕉は元禄2年(1689)旧5月4日にここを通っていった。句碑にある句はこの場所と関係なく、伊賀上野で詠まれたものである。
うぐいすの 笠おとしたる 椿かな
藤原実方の歌碑もある。
やすらわで おもい立にし みちのくに ありけるものを 憚(はばか)りの関
憚りの関は韮神山のふもとを通る東山道にあった。実方は陸奥に左遷されて、名取の西方にある東山道で馬から落ちて死んだ。のちほど、その事故現場と墓をみにいく。
国道に併走する旧道をすすんで船迫地区にはいる。
(2005年11月)