奥州街道 18区間のうち17番目

奥州街道(17)

野辺地-馬門-小湊-野内-青森

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

野辺地

野辺地

旧奥州街道 篠内平 東北町 上北郡 青森県
旧奥州街道 篠内平 東北町 上北郡 青森県

広域農道をよこぎった先に続いている農道が旧道であるが、すぐに杉林と水路で行き止まりとなっている。やむなく西に500mほど迂回し、集落のなかほどの舗装道を東に進むと林沿いに復活した旧道にもどる。左手の畑地と右手の林にはさまれた旧道は向平と篠内平との境界になっているようだ。

旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県
旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県

石文集落を通りぬけ石文橋をわたり東北本線の高架をくぐる。すぐ左に入る土道をぬけ自動車道を横切り、赤鳥居の先で左の山道に入っていく。ぬかるんだ林間の山道をゆくと左右の視界が交互に開け気持ちのよい道となる。雑草はなく、杉の落葉が足裏に軟らかい感触を伝える。

収穫 旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県
収穫 旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県

左から来る車道に合流した。高原を思わせるなだらかな丘陵地帯が広がり、あちこちで飼料用トウモロコシの収穫がみられる。収穫機と運搬車が寄り沿って並走する。見事に息のあった協働作業にしばらく見とれてしまった。

夫雑原一里塚跡付近 夫雑原 東北町 上北郡 青森県
夫雑原一里塚跡付近 夫雑原 東北町 上北郡 青森県

夫雑原(ぶぞうはら)の小さな集落を通る。廃校となった小学校の跡地(現生涯教育センター)に夫雑原一里塚があるという。桜の木が植えられた道ばたの土塁を注意して探してみたが塚を窺わせるものは見当たらなかった。

旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県
旧奥州街道 夫雑原 東北町 上北郡 青森県
旧奥州街道 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県
旧奥州街道 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県

夫雑原から長久保までは林間の舗装道路が直線的に延びる。車は一台も出会わなかった。長者久保集落にはいって鳥居の先で右に曲がっていく車道と分かれ、そのまままっすぐ進んで山道に入っていく。藪深い道との予想に反して、轍がはっきりついた歩き易い土道で、広さも車が通るに十分な幅である。木立も適度にすかれて鬱蒼とした圧迫感がない。

坊ノ塚一里塚 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県
坊ノ塚一里塚 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県

県指定史跡 一里塚は、街道の両側に一里ごとに土を盛り、旅人の里程の目標としたもので、全国的に築造されるようになったのは慶長9年(1604)以降のこととされている。盛岡から北上する江戸時代の街道は、中野で二つにわかれたが、この一里塚は、天間林村中野・天間館・東北町夫雑原・長者久保を通過して野辺地に入る街道上に造られたものである。二基一対で、底面の直径は約9m、塚と塚の間には旧道の跡が残されている。 ……

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県指定史跡 一里塚は、街道の両側に一里ごとに土を盛り、旅人の里程の目標としたもので、全国的に築造されるようになったのは慶長9年(1604)以降のこととされている。盛岡から北上する江戸時代の街道は、中野で二つにわかれたが、この一里塚は、天間林村中野・天間館・東北町夫雑原・長者久保を通過して野辺地に入る街道上に造られたものである。二基一対で、底面の直径は約9m、塚と塚の間には旧道の跡が残されている。 平成元年11月 野辺地町教育委員会

熊を気にする間もなく右手に坊ノ塚一里塚が現れた。両方の塚が現街道の右手にあり、両塚の間に古道の窪みが残っている。塚を整備したときに周囲の木を伐って通れるようにしたものだろう。古道の前後をたどったがすぐに林の中に消えてしまった。

野辺地展望 野辺地町 上北郡 青森県
野辺地展望 野辺地町 上北郡 青森県鳴子 このこ苑より

林をぬけ街道が右にまがるところに「鳴子 このこ苑」という小公園が設けられている。平安時代の昔、このあたりに鳴子館とよばれた集落があったという。野辺地の町が一望でき遠くに奥州山脈が北の海に果てる姿を見届けられた。

鳴子坂 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県
鳴子坂 坊ノ塚 野辺地町 上北郡 青森県

鳴子坂橋の名称由来 今をさかのぽること約1000年前、平安から鎌倉時代にかけてこの付近には、先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。この地はまた、旧奥州街道上の野辺地の入□にあたっており、ここの坂を鳴子館坂と呼んでいた。享和年間に書かれた『東案内記』には、「長者久保を過ぎ、段々坂を下り行けば、程なく鳴子館の大坂あり。これを鳴子館坂という。下り詰めて小坂を少し上りまた下り詰めれば……

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鳴子坂橋の名称由来 今をさかのぽること約1000年前、平安から鎌倉時代にかけてこの付近には、先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。この地はまた、旧奥州街道上の野辺地の入□にあたっており、ここの坂を鳴子館坂と呼んでいた。享和年間に書かれた『東案内記』には、「長者久保を過ぎ、段々坂を下り行けば、程なく鳴子館の大坂あり。これを鳴子館坂という。下り詰めて小坂を少し上りまた下り詰めれば、右に蒼前の社あり、・・・・ 」と記述がある。 また、藩制時代は、幕府や藩の要人が当地を訪れたときには、まちの主だった人たちが、この付近まで送迎に出たことが記録されている。このような故事にちなみ、「鳴子」を、ふるさとの歴史として後世に伝えることもふくめて、この橋を鳴子坂橋と命名したものである。 平成3年3月 野辺地町

国道279号を跨ぎその先の鳴子坂橋を渡った右手に「鳴子坂橋の名称由来」と題する案内板がある。「平安から鎌倉時代にかけて、この付近には先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。」とあるのは、先にみた小公園からこのあたりまでのことを言うのであろう。幕府や藩の要人が来訪したときはここまで送迎したといわれていることから、野辺地宿の南出入り口にあたる場所と思われる。

石仏 下町集会所前 船橋 野辺地町 上北郡 青森県
石仏 下町集会所前 船橋 野辺地町 上北郡 青森県不動明王 青面金剛

旧街道は鳴子館坂を下りて県道246号にぶつかる。坂を上がって県道をよこぎると旧道が復活しているが、鳴子坂を下った地点とはかなりな高低差がある。細道をすすむと右手に赤い鳥居と下町集会所があり、その脇に明和五年(1768)の青面金剛碑と不動明王が並んでいる。2人とも素朴な出で立ちでかわいらしい。

中野三叉路で分かれたもう一つの奥州街道上道である国道279号と合流する前に、一つ手前の十字路を右折して野辺地小学校の裏手にある愛宕公園に寄っていくことにした。

愛宕公園は陸奥湾を見下ろす高台にあってコニュミティセンターを含む大きな公園である。

旧本町敷石 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県
旧本町敷石 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県

幕末の豪商野村治三郎が私費で敷設した本町通りの敷石を使った参道階段を上り、愛宕神社の手前の道を右にとると芭蕉の「花さかり山は日ころの朝ほらけ」の句碑がある。笈の小文の旅で愛弟子杜国と吉野に遊んだときの句である。

芭蕉句碑 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県
芭蕉句碑 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県

松尾芭蕉句碑は俳聖芭蕉を慕う野辺地の俳人たちによって、文政12年(1829)に建てられたものである。 「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」 の句は、芭蕉が貞享5年(1688)に桜の名所吉野山で詠んだ句で、句碑の表面の文字は京都の歌人、加茂李鷹の書である。 江戸時代に始まる野辺地の俳諧の伝統は、明治以降も引き継がれ、手捏社などの活動により当町は県下でも有数の俳句の盛んな地となった。この句碑は、このような……

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松尾芭蕉句碑は俳聖芭蕉を慕う野辺地の俳人たちによって、文政12年(1829)に建てられたものである。 「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」 の句は、芭蕉が貞享5年(1688)に桜の名所吉野山で詠んだ句で、句碑の表面の文字は京都の歌人、加茂李鷹の書である。 江戸時代に始まる野辺地の俳諧の伝統は、明治以降も引き継がれ、手捏社などの活動により当町は県下でも有数の俳句の盛んな地となった。この句碑は、このような当町の文芸の歴史を伝える貴重な文化財である。 平成7年3月 野辺地町教育委員会

近くに石川啄木の歌碑があった。

潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや

函館の浜に咲くハマナスに思いを寄せた歌である。啄木の伯父が野辺地の常光寺住職をしていた時、啄木の父がこの僧のもとに身を寄せていた由緒によって建立された。

公園に下りる石段の頂上に名馬アメリカ産花鳥号の銅像がある。明治9年の明治天皇東北巡幸にお供し、野辺地で斃れた。

旧野村家住宅離れ(行在所) 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県
旧野村家住宅離れ(行在所) 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県

街道に戻る途中、左手に風情ある板看板を掛けた野辺地町役場がある。その東隣りの緑地が明治天皇行在所として使われた豪商野村家住宅である。明治9年に明治天皇の行幸があると聞いて廻船問屋野村治三郎が私財を投じて建築した。明治14年の東北・北海道巡幸の際も行在所として使用された。明治23年の野辺地大火で消失し、まもなく当初通りに再建された。国登録有形文化財である建物は改修工事中で敷地に入ることはできなかった。庭を覗き込んだところ石灯篭と植え込みの中に石碑らしきものが見えた。野村治三郎とは本町通りを御影石で敷いた豪商のことである。

野辺地代官所跡 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県
野辺地代官所跡 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県

郵便局角に出て中野追分で分かれた上道(近道)と合流する。右折するのが道筋だが、街道の西側にある公民館によっていく。野辺地神明宮の前を通り、突き当たりに公民館、民族資料館、商工会、図書館などが集まっている一角が野辺地代官所跡である。元禄4年(1691)に設置された。野辺地は盛岡藩最北の湊であり、また津軽藩に対する防衛の役割を担う重要な町だった。駐車場にテントや舞台が設営されていた。明日10月2日から「ずっぱど!わっかど!あぎんど祭」である。「ずっぱど!わっかど!」はわからないが、「あぎんど」は商人のことか。

高札場付近 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県
高札場付近 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県

街道にもどり北に進む。郵便局の先の交差点あたりに高札場があって宿場の中心をなしていた。通りは野村治三郎が敷いた3000本の御影石で舗装され、街道の左右には大きな商家が軒を並べて繁盛を極めた。野辺地は藩営の尾去沢銅山から産出された銅の積出港で、ここから西廻り航路で大阪の銅座へ運ばれた。また、俵物と呼ばれる下北の特産品(乾アワビ、イリコ、フカヒレ等)もこの地から長崎に送られ海外に輸出された。この地には近江商人、加賀商人などが進出し定住した者も多い。残念ながら近江商人の足跡をたどることはできなかった。

田名部街道起点 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県
田名部街道起点 野辺地 野辺地町 上北郡 青森県奥州街道:左折 県道243号へ 田名部街道:直進 国道279号

みちのく銀行がある信号交差点で奥州街道は左に折れて西に進む。現県道243号である。ここで国道279号はそのまま直進し田名部街道となって下北半島を北上する。

島谷家跡 野辺地(旧新町) 野辺地町 上北郡 青森県
島谷家跡 野辺地(旧新町) 野辺地町 上北郡 青森県

県道243号に入ったあたりは新町とよばれ、右手に酒造や廻船業を営む豪商島谷の屋敷があった。野辺地に滞在していた蝦夷地探検家最上徳内が天明8年(1788)、当主島谷清四郎の娘ふでと結婚している。現在も島谷清四郎商店カメラ部(しまやカメラ店)として末裔が同じ場所に居住している。

野辺地八幡宮 笹館 野辺地町 上北郡 青森県
野辺地八幡宮 笹館 野辺地町 上北郡 青森県

街道は八幡宮前の桝形に突き当たる。このあたりに防御のため同心組丁があった。野辺地八幡宮は、慶長3年(1598)の創建、本殿は正徳4年(1714)の建築で清楚な佇まいの中に随所に繊細な彫刻が施されて品格を漂わせている。

遠見番所跡 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県
遠見番所跡 愛宕公園 寺ノ沢 野辺地町 上北郡 青森県江戸時代、この場所には南部藩によって設置された遠見番所がありました。江戸幕府は外国との通商や交通を禁止していたことから外国船を発見・監視するために設けられた施設です。

枡形を経て大湊線を渡った先の辻を北へ右折して野辺地に向かう。湾岸道路との角に遠見番所跡の標柱が立つ。江戸幕府は外国との通商や交通を禁止していたため、外国船を発見、監視するために南部藩によって番所が設置された。

常夜燈 野辺地(旧浜町) 野辺地町 上北郡 青森県
常夜燈 野辺地(旧浜町) 野辺地町 上北郡 青森県

浜町の常夜燈は文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきたものである。常夜燈には毎年3月から10月まで夜毎灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。江戸時代に物資輸送の大動脈であった大坂と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路、野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅など……

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浜町の常夜燈は文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきたものである。常夜燈には毎年3月から10月まで夜毎灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。江戸時代に物資輸送の大動脈であった大坂と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路、野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。湊には湊役所・遠見番所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合いに停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた。この常夜燈は、かっての野辺地湊の面影を伝える貴重な史跡である。 野辺地町教育委員会

海辺は公園として整備されており、その先端に常夜灯が下北半島の岬を見つめるように建っている。文政10年(1827)大阪の商人橘屋吉五郎が大阪から運んできて、野辺地の回船問屋野村治三郎が建てた。常夜燈は航海の安全を守る灯明台として毎年3月から10月まで毎夜灯された。

馬門

野辺地戦争戦死者の墓所 鳥井平 野辺地町 上北郡 青森県
野辺地戦争戦死者の墓所 鳥井平 野辺地町 上北郡 青森県

県指定史跡 野辺地戦争戦死者の墓所 京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となった。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。 明治元年(1868)9月22日夜半、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。本道を通った一隊は藩境の村、馬門に火を放ち野辺地村に迫った。他の一隊……

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県指定史跡 野辺地戦争戦死者の墓所 京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となった。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。 明治元年(1868)9月22日夜半、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。本道を通った一隊は藩境の村、馬門に火を放ち野辺地村に迫った。他の一隊は、山道を通り野辺地村の代官所をめざした。藩境の防備にあたっていた盛岡藩・八戸藩連合軍は、これに応戦し銃撃を加えた。夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出し敗走した。この頃、東北地方の戦乱もようやく終結しようとしていた。江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、その後伊達領白石に転封された。 野辺地戦争の翌年、弘前藩は戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。明治維新における本県の歴史を伝える貴重な史跡である。 平成元年11月 野辺地町教育委員会

県道243号に戻り野辺地川を渡ると右手に「戊辰戦争史跡」の案内標識が立っている。戊辰戦争後の明治元年(1868)9月22日夜半官軍派の弘前藩軍勢が突如幕府側南部藩を襲撃した。藩境防備にあたっていた盛岡・八戸連合軍はこれに応戦し撃破した。40数名の死傷者を出して敗走した弘前藩は翌年、戦死者27名の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てて弔った。

馬門御番所跡 馬門 野辺地町 上北郡 青森県
馬門御番所跡 馬門 野辺地町 上北郡 青森県馬門御番所は、江戸時代に南部藩によって設置され、人々や物資の出入りを監視していました。建物は柵で厳重に囲われ役人が警護していました。この番所から西へ約2kmには南部藩と津軽藩との境界につくられた藩境塚があります。

旧道は野辺地湾岸に沿って進み馬門集落に入る。遍照寺の先、熊谷商店の十字路を左に入ったところ右手に馬門番所跡の標柱がある。藩境塚の2km手前にあたり盛岡藩が番所を設け役人を常駐させていた。

旧奥州街道 八ノ木谷地 野辺地町 東津軽郡 青森県
旧奥州街道 八ノ木谷地 野辺地町 東津軽郡 青森県

馬門集落には宿場の面影は無く、海岸に沿った路地にはアワビ処理小屋が軒を連ねる漁村である。この路地が旧道跡らしい。防潮堤に沿ってたどっていくと河口の繁みに突き当たって途絶えていた。

国道4号700km地点 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県
国道4号700km地点 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県

馬門信号で国道4号に合流してまもなく日本橋から700km地点に到達する。国道4号は青森まで750km程度。これが最後の100km標となる。日本最長の国道だ。

馬門御番所 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県
馬門御番所 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県

丁度その付近が野辺地町柴崎と平内町狩場沢字関口との町境となっており、藩政時代には南部藩と津軽藩との藩境であった。史跡公園として整備され、冠木門と柵の後ろに馬門御番所と宝暦6年(1756)の高札が復元されている。

藩境塚 平内町狩場沢関口 東津軽郡/野辺地町柴崎 上北郡 青森県
藩境塚 平内町狩場沢関口 東津軽郡/野辺地町柴崎 上北郡 青森県県指定史跡 藩境塚 高さ3.5m 直径底面にて約10m この塚は江戸時代、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものである。津軽領と南部領を結ぶ主要街道上にあり、二本又川(境の川)をはさんでそれぞれ2基ずつ4基とした。築造年代は明らかでない。 平内町 野辺地町

海岸沿いに降りていくと津軽南部藩境塚が築かれている。二本又(ふたまた)川を挟んで両側に2基づつの塚があり「四ツ森」ともいわれる。川の北側には「縦是西北津軽本次郎領分」、南側には「縦是東南盛岡領」の標柱が立つ。いまでこそ4基そろえて意味のある観光旧跡であるが、築いた当事者はそれぞれが怨念にも似た思いで土を盛り上げたのではなかろうか。司馬遼太郎はここを訪れて津軽側の塚はぞんざいに作られているように感じたようだが、私の目には両方とも合同に近い出来栄えに見えた。

旧奥州街道跡 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県
旧奥州街道跡 狩場沢関口 平内町 東津軽郡 青森県

一里塚の例にもれず、藩境塚も街道の両側に築かれたもので、その間が旧道である。その跡と思われる道がすこし続いて磯に消えていた。

国道4号にもどり狩場沢集落に入る。左に出ている坂が旧道で高台を国道に並行して北に短く続いている。上り口に狩場沢番所跡があるとのことだが痕跡は見つからなかった。

熊野宮・金精 狩場沢堤ケ沢 平内町 東津軽郡 青森県
熊野宮・金精 狩場沢堤ケ沢 平内町 東津軽郡 青森県

上がり坂から二手に分かれる道をまっすぐに行くと、東北本線の第一助白井(すけしらい)踏切手前に熊野宮がある。鳥居をくぐってすぐ右手に色艶も見事な「金精さま」を祀った祠がある。社殿は大きくはないが整っていて立派だ。

東北本線 狩場沢堤ケ沢 平内町 東津軽郡 青森県
東北本線 狩場沢堤ケ沢 平内町 東津軽郡 青森県第一助白井踏切

街道にもどろうとしたとき、踏切りの警報がなった。シャッター速度を切り上げ電車を待った。形からして特急みたい。

旧道は高台の狩場沢浜懸集落を抜けて地蔵堂のある角を右に降りて国道に合流する。

小湊

狩場沢浜懸 平内町 東津軽郡 青森県
狩場沢浜懸 平内町 東津軽郡 青森県

右の旧道に入って狩場沢漁港による。

狩場沢駅の手前、檜沢で左に入る短い旧道がある。

左ェ門次郎と口広沢で右手に旧道が残る。いずれも集落をぬけるや国道にもどる。以後も短い旧道を繰り返して青森に向う。

旧奥州街道 清水川権十郎新田 平内町 東津軽郡 青森県
旧奥州街道 清水川権十郎新田 平内町 東津軽郡 青森県

江戸幕府は、全国交通網の整備を幕府の重要政策とし、奥州街道を含む五街道を定めた。織田信長、豊臣秀吉の設けた三十六町一里の制を確立し、慶長九年(1604)日本橋を起点とし、一里毎に一里塚を築かせた。その上に榎等を植え、旅人のための里程標とし、道の両側には防風・防雪と日陰をつくるため松を植えさせた。この街道は、弘前藩と盛岡藩を結ふ連絡路であり、青森商人と野辺地商人の連絡路でもあった。野内(青森市)、狩……

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江戸幕府は、全国交通網の整備を幕府の重要政策とし、奥州街道を含む五街道を定めた。織田信長、豊臣秀吉の設けた三十六町一里の制を確立し、慶長九年(1604)日本橋を起点とし、一里毎に一里塚を築かせた。その上に榎等を植え、旅人のための里程標とし、道の両側には防風・防雪と日陰をつくるため松を植えさせた。この街道は、弘前藩と盛岡藩を結ふ連絡路であり、青森商人と野辺地商人の連絡路でもあった。野内(青森市)、狩場沢(平内町)それに馬門(野辺地町)の関所があるものの、青森と野辺地を結ぶ道筋として、人々や物資の移動に利用された。明暦2年(1656)津軽信政が11歳で弘前藩4代藩主になると、叔父の津軽信英が黒石・平内・上野国(群馬県)新田郡で5000石分知され、信政の後見人となった。このため以降幕末まで平内領2000石は黒石津軽家の領地となり、この街道は黒石津軽家にとって黒石と平内を結ぶ連絡路として重要になった。この辺りを通った有名人には歴代の松前藩主、江戸時代中期の紀行家菅江範登、寛政の三奇人の一人で尊王論者である高山彦九郎、測量家の伊能忠敬、幕末に松下村塾を開き維新の高杉晋作や久坂玄瑞を教斉した吉田松陰等が挙げられる。明治元年(1868)から翌2年にかけて旧幕臣の榎本武揚等が新政府に抵抗した箱舘戦争では、旧各藩から構成された新政府追討軍が青森に結集するため利用した。道標の東にある清水川集落は、天文15年(1546)に作成されたという「津軽郡中名字」にも地名が記された古い村である。江戸時代には帆立貝・春鮪・鯖・鯵などを獲る漁業を営む一方農業も行っており豊かな村であった。現国道はほぼ旧道と同じ道筋である。

清水川を渡ってすぐ左手の平内パーキングに奥州街道碑と「奥州街道図」と題した案内板がある。絵地図には清水川村の東方に一里塚が示されているが、手元資料にはない。

旧奥州街道 沼館沼館尻 平内町 東津軽郡 青森県
旧奥州街道 沼館沼館尻 平内町 東津軽郡 青森県上写真: 左:国道4号 前:東北本線 下写真: 線路南側で復活

国道は掘替川あたりで大きく左にカーブして東北本線を跨いでいく。旧道は跨線橋の手前で右に降りて線路で分断された後、県道9号に合流して小湊に入っていく。

雷電宮 福館雷電岸 平内町 東津軽郡 青森県
雷電宮 福館雷電岸 平内町 東津軽郡 青森県

途中、県道9号は直角に右折して夏泊半島に向うが旧街道はそのまま直進する。

浅所海岸 白鳥渡来地 浅所浅所 平内町 東津軽郡 青森県
浅所海岸 白鳥渡来地 浅所浅所 平内町 東津軽郡 青森県

寄り道して県道9号を北にたどり雷電橋をわたって雷電宮と小湊の白鳥飛来地に立ち寄ることにした。雷電橋をわたってすぐ左の森の中に雷電宮がある。屋根をつけた白木の鳥居が清々しい。境内には落雷にあって上部を失った「降電大杉」や欅が杉の木にしなだれかかるように寄り添う「相生の杉欅」がある。

道の反対側は陸奥湾の一部で小湊の白鳥渡来地として知られている。汐立川の河口にある小島に橋が架けられていて、白鳥の渡来シーズンには格好の観察場所でありそうだ。

御家中の松と欅 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県
御家中の松と欅 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県

この地は古墳時代の蝦夷の砦「チャシ」で、藩政時代には、代官所や武家屋敷で御家中と呼ばれる由緒ある跡です。欅の古木は樹齢500年と推定され樹高20m 幹周り7m50cmで室町時代の頃のもので当時の平内郷は南部領に属し七戸隼人が福舘城主でしたが天正15年(1587)に為信に攻められ降伏し津軽領となりました。黒松の古木は樹齢400年と推定され樹高19m幹周り3m30cmで織豊時代の頃のもので当時は南部と……

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この地は古墳時代の蝦夷の砦「チャシ」で、藩政時代には、代官所や武家屋敷で御家中と呼ばれる由緒ある跡です。欅の古木は樹齢500年と推定され樹高20m 幹周り7m50cmで室町時代の頃のもので当時の平内郷は南部領に属し七戸隼人が福舘城主でしたが天正15年(1587)に為信に攻められ降伏し津軽領となりました。黒松の古木は樹齢400年と推定され樹高19m幹周り3m30cmで織豊時代の頃のもので当時は南部と津軽の戦いが終わったころで国境えの政情が厳しい時でした。その後津軽藩から明暦2年(1656)に黒石領となり明治・大正・昭和・平成にわたりこの二つの古木が平内の幾世栄えてきた古き歴史の姿を偲び語るかのように厳然とそそり立っているのです。平内町郷土研究会

小湊川 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県
小湊川 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県

街道にもどり小湊川を渡る。突き当たりの通りが小湊の中心街だ。街道の道筋は丁字路を左折するが、右に曲がって代官所跡をみていく。平内町歴史民俗資料館がある一帯は蝦夷の砦「チャシ」があった場所で、藩政時代には、代官所や武家屋敷で御家中と呼ばれていた。今も残る欅や黒松の古木が往時を偲ばせる。

平内代官所跡地 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県
平内代官所跡地 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県安永4年(1775)黒石藩の代官所がこの地に建てられました。平内郷はかって南部領、やがて天正15年(1587)津軽領となり、その後明暦2年(1656)津軽信英(のぶふさ)が平内郷を賜り黒石領となったものです。やがて藩がなくなると共に廃止され明治6年(1873)官立平内小学校創立にあたり建物は校舎として使用されました。平内町教育委員会

資料館の前庭に「平内代官所跡地」の標柱が立っている。安永4年(1775)、黒石藩の代官所がこの地に建てられた。平内郷は南部領、津軽領となり、その後明暦2年(1656)黒石領となった。

平内(ひらない)町役場 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県
平内(ひらない)町役場 小湊小湊 平内町 東津軽郡 青森県竹内家跡地 明治天皇行在所跡

街道にもどり南に進むと平内町役場があり、玄関先に明治天皇行在所跡の石碑が、通り沿いには「竹内家跡地」の標識がある。竹内家は江戸時代の豪商竹内与右衛門のことで、明治天皇の行在所となった。

平内は津軽三味線で有名な高橋竹山の生誕地で、町内のあちこちに生誕100年を記念するポスターや幟が見られる。

旧奥州街道・天明飢饉供養塔 小湊愛宕 平内町 東津軽郡 青森県
旧奥州街道・天明飢饉供養塔 小湊愛宕 平内町 東津軽郡 青森県天明の飢饉(1782~1785)は、歴史に残る4大凶作(元禄・宝暦・天明・天保)の一つで、平内でもたくさんの人が餓死し、家も半数(357戸)が空き家となったそうです。この飢饉で亡くなった人達を供養するために、天明7年(1787)、 11代住職が建てたものといわれる。 *この道路は、昔の奥州街道です。 昭和63年5月 平内町教育委員会

旧道は小湊交差点で国道4号を横断して最初の角を右折して西に向う。左手高台に天明飢饉供養塔がある。天明の飢饉では平内でも多数が餓死し、357戸あった家の半数が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため天明7年(1787)東福寺11代住職がこの供養塔を建立した。東福寺は町役場の裏手にある。

天明の飢饉供養塔の先は杉林の中を静かな道がつづく。藤沢集落を抜けると国道4号に合流する。山口、中野を経て土屋に至る。右側の短い旧道を通りぬけ国道にもどり、すぐ今度は左の旧国道に入る。このあたりから湾をまたぐほたて大橋にかけて国道の大規模な付け替え工事が行われておりバイパス、旧国道、旧道が交錯していて道筋をたどるのが難しい。

ほたて広場 土屋鍵懸 平内町 東津軽郡 青森県
ほたて広場 土屋鍵懸 平内町 東津軽郡 青森県土屋御番所由来 この土屋御番所は、明暦2年(1656)に、黒石藩初代藩主津軽十郎左衛門信英が領地境界警備のため黒石藩平内領の西口に設置した口留番所であったが、明治維新となり境界警備の必要がなくなったため明治2年6月に廃止となった。

新旧国道にはさまれて「ほたて広場」が整備され、中央の建物前に「土屋御番所由来」の説明板が設けられている。明暦2年(1656)に、黒石藩初代藩主が領地境界警備のため黒石藩平内領の西口に設置した口留番所である。

ほたて大橋の南詰で東津軽郡から青森市に入る。旧名でいえば黒石藩平内領から弘前津軽藩領にはいったことになり、土屋御番所はその黒石側藩境にあった。

野内

浅虫温泉町並 浅虫蛍谷 青森市 青森県
浅虫温泉町並 浅虫蛍谷 青森市 青森県

旧奥州街道は浅虫水族館に通じる道に出て右折、浅虫信号交差点で一旦国道に合流するがすぐに左の県道259号に入る。

源泉混浴足湯公園 浅虫温泉 浅虫蛍谷 青森市 青森県
源泉混浴足湯公園 浅虫温泉 浅虫蛍谷 青森市 青森県浅虫温泉は平安時代の終わりごろ浄土宗の開祖円光大師が奥州巡教の折傷ついたかもしかが湯あみするのを見て発見されたと伝えられております。その地名はかって住民が織布の 麻を蒸し ていたため麻蒸とよばれていました。しかし火難を怖れ火に縁のある文字を嫌いその後浅虫になったと言われております。 昭和61年11月1日

浅虫温泉街はL字形に形成されており、浅虫川の手前で左に入って行く。江戸時代の浅虫村はこの道沿いに開けていた。浅虫町民会館をすぎて左手に源泉公園がある。足湯と温泉卵をつくる場所が設けられている。

浅虫川 浅虫内野 青森市 青森県
浅虫川 浅虫内野 青森市 青森県右手が本陣跡「柳の湯」、後方に行在所跡「椿館」

奥にある「鶴の湯」は太宰治の祖母が湯治した場所、浅虫川の右手に津軽藩本陣跡の「柳の湯」がある。

椿旅館 浅虫内野 青森市 青森県
椿旅館 浅虫内野 青森市 青森県世界的版画家棟方志功画伯氏は昭和16年38歳の時から蝦名家17代伊右衛門椿館館主と親交を深め昭和20年~26年までは富山県福光町の方へ疎開しておりましたがその後もまた毎年のようにおいでになって作品を制作しておりました。以下略

その西側に明治天皇行在所として使われ棟方志功がよく訪れたという「椿旅館」があり、玄関ロビーには大きな棟方志功の作品が飾られている。版画と絵と書が入り混じった奔放な作である。明治天皇が入浴した際に使われたという湯壺が保存されているほか、天皇が使った調度品を展示する特別コーナーも設けられている。

古戦場跡 浅虫山下 青森市 青森県
古戦場跡 浅虫山下 青森市 青森県

旧街道に戻り国道4号と合流、越後の親不知・子不知とならんで二大険路といわれた善知鳥(うとう)崎に差し掛かる。今は100mほどの短い善知鳥トンネルであっけないが、昔は険しい山越えの道をゆくか、足をぬらせて岩場を歩くしかなかった。

明治天皇御休所跡 善知鳥(うとう)崎 浅虫山下 青森市 青森県
明治天皇御休所跡 善知鳥(うとう)崎 浅虫山下 青森市 青森県

山道は通行不能となっているとのことで、波打ち際の古道を行く。少しでも波の高い日は歩行不能の難所である。崖を背にして明治天皇御小休所跡碑があった。風おだやかで晴れた日には崖を屏風に海を眺めるのも一興だろう。

なお、トンネル入り口横にあるという古戦場碑を見落とした。源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最期の抵抗をした場所だという。

錦木之塚 観音寺 久栗坂浜田 青森市 青森県
錦木之塚 観音寺 久栗坂浜田 青森市 青森県

難所を越えた街道は久栗坂信号で国道4号から分かれて右斜めの旧道(県道259号)に入る。久栗坂集落出口近くのバス停で右の路地に入ると観音寺境内に「錦木之塚」がある。旅の娘が行き倒れたとの話が伝わる一方で、善知鳥中納言安方の妻の錦木が夫のあとを慕ってここまで来て病歿し、村人が憐れんで埋葬した墓だともいわれる。

集落をぬけ県道にもどった所右手に川上神社の鳥居と嘉永元年(1848)の大きな庚申塔がある。

旧奥州街道 野内浦島 青森市 青森県
旧奥州街道 野内浦島 青森市 青森県

街道は野内駅の東側を通り、その先で高架の下を西側にぬけるが、旧道の道筋は駅を斜めによこぎる形でのびていた。駅の西側に残る旧道を遡行して折り返す。旧道右手に貴船神社をみて県道と合流し野内集落に入る。

野内番所跡 野内菊川 青森市 青森県
野内番所跡 野内菊川 青森市 青森県

野内番所は、盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ヶ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。成立の年代は元和年間といわれているが、はっきりしていない。(中略) 通行者数は、時代や季節によって多少はあるが、藩庁への報告書によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は、100人程度であった。天明8年(1788)8月24日に、この地を歩んだ古川古松軒は、その書「東……

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野内番所は、盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ヶ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。成立の年代は元和年間といわれているが、はっきりしていない。(中略) 通行者数は、時代や季節によって多少はあるが、藩庁への報告書によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は、100人程度であった。天明8年(1788)8月24日に、この地を歩んだ古川古松軒は、その書「東遊雑記」に「青森より東二里 野内村といふ所に津軽候の関所ありて往来の人を改むる」と記している。

すぐ左手に野内番所跡碑がある。盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ヶ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。

旧野内宿町並 野内菊川 青森市 青森県
旧野内宿町並 野内菊川 青森市 青森県

説明板によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は100人程度であったという。1日あたりわずか3人という閑散である。往復6、7人。一時間に一人通るか通らないかという宿場であった。番人も暇をもてあましていたに違いない。

松並木 野内菊川 青森市 青森県
松並木 野内菊川 青森市 青森県
野内川 野内菊川 青森市 青森県
野内川 野内菊川 青森市 青森県

集落のなかほど、野内小学校あたりで道がくねっているのは枡形跡だといわれる。名残の松が数本残っている。野内川を渡ると青森市街に入る。

青森

旧奥州街道 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県
旧奥州街道 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県

合浦公園の沿革 合浦公園は明治14年(1881)に建設を始め同27年に完成したものである。 当園の創設は明治13年津軽藩お抱えの庭師であった水原衝作(旧姓柿崎)の計画によるもので、時の県令山宙秀典の声援と木村荘助、三橋三吾、浅井辰五郎、永井傅蔵、村林勘六等の熱心な援助の下に、期間3ヶ年総予算1万円の構想をもって明治14年工事に着手した。 青森から造道に逼ずる並木街道に、津軽歴代の藩主が嘆賞を借しま……

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合浦公園の沿革 合浦公園は明治14年(1881)に建設を始め同27年に完成したものである。 当園の創設は明治13年津軽藩お抱えの庭師であった水原衝作(旧姓柿崎)の計画によるもので、時の県令山宙秀典の声援と木村荘助、三橋三吾、浅井辰五郎、永井傅蔵、村林勘六等の熱心な援助の下に、期間3ヶ年総予算1万円の構想をもって明治14年工事に着手した。 青森から造道に逼ずる並木街道に、津軽歴代の藩主が嘆賞を借しまなかったという三誉の松、相生の松の老松がある。 この松を中心とする11500余坪の狐狸のすむ原野が公園建設の予定地であった。 山田県令の格別の計らいで、園地購入の寄附は着々と集まったが、明治15年1月県令の急死にあい、募金は停滞して造園に一大支障を来たした。 責任感の強い水原は母や妻と共に町から園地の小屋に引き移リ、一家をあげて終日荒地をひらき石を運び草木を植えて倦むことを知らなかった。 ついには過労のために衝作は病床に臥したが、私財はことごとく造園の資に投じて今は治療の費用もなく、一家窮乏のうちに、明治18年6月14日、悲願の公園完成を見ることなく44歳を一期としてこの世を去った。 母は事業なかばでたおれたわが子の霊を慰めるため自分の悲嘆も忘れて衝作の弟已十郎の奮起を促した。 巳十郎は母の真心と亡兄の悲願とに励まされて造園に専念すること10年、明治27年に至ってようやく公園を完成し、これをことごとく青森町に寄附した。 合浦公園は実に水原一家の献身的な奉仕と血のにじむ努カとによって完成したものである。

街道は赤川を渡って二股を右にとり、そのまま合浦(がっぽ)公園の中央を突き抜けていく。県内最古で全園が松林の立派な公園である。弘前藩お抱え庭師だった水原兄弟が明治14年(1821)に着工、苦難の末明治27年に完成させた。

石川啄木歌碑 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県
石川啄木歌碑 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県「船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば」

公園内を散策した。海を望んで石川啄木の歌碑が立つ。

船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば

三誉の松 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県
三誉の松 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県

この松は、高さ約9m、周囲約26m、樹齢は400年を超える老木であり、藩政時代、歴代の津軽藩主が御巡行の際、この地で野宴を開き、自らこの古樹に酒を献上したといわれております。主幹は根本から三本立ちであり、双幹のものは各地に生育していますが、三本立ちは珍しいものであります。明治期に入り、水原衛作によりこの松を中心として公園建設が計画され、本市を代表する合浦公園が完成しました。また、地域住民に親しまれ……

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この松は、高さ約9m、周囲約26m、樹齢は400年を超える老木であり、藩政時代、歴代の津軽藩主が御巡行の際、この地で野宴を開き、自らこの古樹に酒を献上したといわれております。主幹は根本から三本立ちであり、双幹のものは各地に生育していますが、三本立ちは珍しいものであります。明治期に入り、水原衛作によりこの松を中心として公園建設が計画され、本市を代表する合浦公園が完成しました。また、地域住民に親しまれ、学術的にも貴重な樹木であることから、平成16年11月に青森市指定文化財(天然記念物)に指定されています。 平成20年12月 青森市

松林の中でひときわ存在感を見せるのは三誉の松である。樹齢470年を超える老松で、歴代の弘前城主がここで野宴を開き、藩主自ら古樹に酒を献上したといわれている。太い幹が根元から三本立ちする威容は畏怖さえ与える。この重量を支える根の偉大さに思いをいたさずにはいられない。

芭蕉句碑 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県
芭蕉句碑 合浦公園 合浦2丁目 青森市 青森県鎌倉を生きて出けん初松魚

そのほか水原兄弟像、蒸気機関車などを初め石碑類は多数にのぼる。一番目立たない質素な場所に芭蕉句碑があった。

鎌倉を生きて出けん初松魚

茶屋町2 青森市 青森県
茶屋町2 青森市 青森県

合浦公園を抜けて二股を左にとり、道なりにゆるやかに左にまがって堤川東詰めの茶屋町に至る。川に沿った道添いに茶屋町延命地蔵尊がある。文禄4年(1595)堤川開削工事の犠牲者供養のために建立された。並木が植えられ風情ある一角である。船着場があって漁師、船頭、船客が茶屋で楽しむ賑やかな光景が想像できる。旭橋のたもとに一里塚があったというが痕跡はない。

旭橋を渡り曲尺手状に進み一筋北の通りに入る。本町を通り抜け、広い柳町通りを渡った先で小さな曲尺手がある。この変則十字路が札の辻で青森宿の中心であった。

奥州街道終点 善知鳥神社 安方2丁目 青森市 青森県
奥州街道終点 善知鳥神社 安方2丁目 青森市 青森県奥州街道終点記念の碑 平成3年 東京日本橋が起点とされ、終点には諸説がある。江戸初期に著された『幕府撰慶長日本図』によると、津軽藩出張機関が置かれた青森市安方が終点とされている。 青森市道路元標 大正11年 主要な道路の起点・終点の基準となる標識で青森町役場(青森市役所)が昔、境内にあったこと等とともに青森市発祥の由縁である。

辻の左手に善知鳥(うとう)神社があり鳥居前の道路脇に「奥州街道終点記念の碑」と青森市道路元標が並んである。現地では青森から三厩までを「松前街道」と呼ぶ。ここから以北の街道を通った大名は松前藩しかいなかった。

うとう沼 善知鳥神社 安方2丁目 青森市 青森県
うとう沼 善知鳥神社 安方2丁目 青森市 青森県昔は安潟と呼ばれ、これに荒川・入内川が流れ込み、周囲5~6里(20~24km)あり、浪館・金浜・浜館等の集落に達する湖沼であった。また、この潟に入る船はいかなる時化でも転覆を免れた為、善知鳥神社と共に漁師の崇敬の対象となっていた。しかし横内城主堤氏が外敵を防ぐため、荒川の流れを変え、堤川に流したことにより、次第に安潟は干上がり、干拓されていった。その名残りが現在のうとう沼である。

社殿は造りが新しくて趣きあるとはいえないが、善知鳥にちなむ旧跡が豊かで、古い空気が漂う境内である。安潟の名残りであるうとう沼の辺に謡曲善知鳥之旧蹟碑、芭蕉句碑、菅江真澄句碑などがある。

神社に近い本町1丁目は旧寺町である。そのなかで正覚寺は一番古く、善知鳥村が青森村と改名され港が開かれた寛永3年(1626)、時の開港奉行森山弥七郎が建立した。本堂前の石燈籠は宝暦11年(1761)7代藩主津軽信寧が徳川家重追善のため献納したもので、後年増上寺から下付された。

現奥州街道(国道4号)終点 長島1丁目 青森市 青森県
現奥州街道(国道4号)終点 長島1丁目 青森市 青森県「国道の碑」と「道路標石」 東京日本橋を起点とする国道4号と、新潟市を起点とする国道7号は、ここ青森市長島の地を終点としています。明治9年に国道指定されて以来いにしえから、この地は、多くのくらし人や旅人が、そしてモノや情報が、東へ西へ南へ北へと忙しく行き交い、人々のくらしや産業、そして特色ある教育や文化を育んできました。以下略 平成9年9月25日 建設省青森工事事務所 青森市

その足で国道4号に出て西に進む。青い森公園前に「国道の碑」なるものが建っていて、道路沿いに「国道4号終点、国道7号起点」の標識が立つ。国道4号は現在の奥州街道。新旧ともに奥州街道は青森で終わっていて三厩までは行っていない。国道7号は現羽州街道の最終部分。二つの旧街道は油川で合流するが新街道はここが合流点である。

御仮屋跡 青森県庁 長島1丁目 青森市 青森県
御仮屋跡 青森県庁 長島1丁目 青森市 青森県

青い森公園の西側にある県庁の東玄関脇に小ぶりの御仮屋跡の碑がある。青森は、寛永元年(1624)弘前2代藩主信枚(のぶひら)の命で大浜(油川)に代わる湊として、港と町造りが行われた。寛文11年(1671)御仮屋が築かれ城代が置かれて北海道への前線基地としての役割を担った。

八甲田丸 柳川1丁目 青森市 青森県
八甲田丸 柳川1丁目 青森市 青森県

県庁前の通りを海に向ってすすみ、札の辻からの旧街道筋にもどる。左折して西進すると東北本線の終着青森駅に突き当たって旧道は途絶する。道なりに車道を歩いて青森港に係留されている青函連絡船八甲田丸を見に行った。船尾近くに「青函連絡船戦災の碑」がある。第二次大戦で数多くの連絡船が撃沈された。

柳川1丁目 青森市 青森県
柳川1丁目 青森市 青森県

向かいにプラットホームがあり錆た電車が展示されている。昔の青森駅だろう。ここで電車は連絡線に直結していた。八甲田丸に使われていたスクリューもある。背の低いロケットか巨大な砲弾のようだ。

「津軽海峡冬景色」の歌碑もある。ちょっと気が早い。

駅南側に架設されたあすなろ橋を渡って線路の反対側に出る。右におれて道なりに左に曲がっていくと沖館川で旧道筋は途絶。森林博物館の前を通って国道280号に出る。以降この国道280号が青森からの奥州街道、あるいは松前街道である。

新井田橋で新城川をわたると油川に入る。

寄り道

三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県
三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県

青森のハイライト三内丸山遺跡を訪ねる。一本で行ける道はなく、行き方は省略する。

三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県
三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県

調査の経緯 三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている遺跡で、これまで慶応義塾大学、青森市教育委員会、青森県教育委員会によって発掘調査が行われています。平成4年から6年にかけて、県総合運動公園拡張整備事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ってきましたが、縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4、000年前)にかけての多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文……

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調査の経緯 三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている遺跡で、これまで慶応義塾大学、青森市教育委員会、青森県教育委員会によって発掘調査が行われています。平成4年から6年にかけて、県総合運動公園拡張整備事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ってきましたが、縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4、000年前)にかけての多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落であることが明らかになりました。このため、青森県では、野球場等の建設を中止するとともに周辺を含めた約38haを保存し活用していくことを決定しました。 遺跡の概要 野球場建設予定地約50,000㎡の発掘調査では、約580棟の竪穴住居跡、10数棟の大型竪穴住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡、多量の遺物が廃棄された泥炭層、約1,000年にもわたって土器や土などが捨てられ続けて小山のようになった盛土遺構、さらには約800基にもおよぶ子供の墓などか発見されています。これらの様々な遺構は、幾つかのまとまりをもっていることから、土地の利用について何らかの約束事があったと考えられます。また、遺跡からは日本最古級の漆器、カゴなどの編物、敷物のほか、各種の骨角器、獣骨、魚骨、植物種子等も多量に出土しており、今後、縄文文化を解明する上で極めて貴重な遺跡と評価されています。 青森県教育委員会

遺跡自体は江戸時代から知られていて、小規模な発掘調査は断続的に行われていた。平成4年、野球場建設予定地に約580棟の竪穴住居跡、10数棟の大型竪穴住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡等を含む縄文時代前期から中期の大集落跡が発掘された。

三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県
三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県

調査の経緯 三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている遺跡で、これまで慶応義塾大学、青森市教育委員会、青森県教育委員会によって発掘調査が行われています。平成4年から6年にかけて、県総合運動公園拡張整備事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ってきましたが、縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4、000年前)にかけての多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文……

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調査の経緯 三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている遺跡で、これまで慶応義塾大学、青森市教育委員会、青森県教育委員会によって発掘調査が行われています。平成4年から6年にかけて、県総合運動公園拡張整備事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ってきましたが、縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4、000年前)にかけての多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落であることが明らかになりました。このため、青森県では、野球場等の建設を中止するとともに周辺を含めた約38haを保存し活用していくことを決定しました。 遺跡の概要 野球場建設予定地約50,000㎡の発掘調査では、約580棟の竪穴住居跡、10数棟の大型竪穴住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡、多量の遺物が廃棄された泥炭層、約1,000年にもわたって土器や土などが捨てられ続けて小山のようになった盛土遺構、さらには約800基にもおよぶ子供の墓などか発見されています。これらの様々な遺構は、幾つかのまとまりをもっていることから、土地の利用について何らかの約束事があったと考えられます。また、遺跡からは日本最古級の漆器、カゴなどの編物、敷物のほか、各種の骨角器、獣骨、魚骨、植物種子等も多量に出土しており、今後、縄文文化を解明する上で極めて貴重な遺跡と評価されています。 青森県教育委員会

かねてから稲作以前の日本人に対しこよなく畏敬と愛情を感じてきた司馬遼太郎はこのニュースを聞いて全身鳥肌をたてたことだろう。彼は2年後の平成6年夏、まだ発掘中の現場へ乗り込んできて弥生時代をしのぐ遺跡群に「白日夢のような話である」と感激した。「縄文時代、世界でいちばん食べ物が多くて住みやすかったのが青森県だったろうということを私も考古学者たちの驥尾に付してそう思い、いわば“まほろば”だったと考えてきた。」と、『街道をゆく-北のまほろば』で述べている。

三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県
三内丸山遺跡 三内丸山 青森市 青森県

大型堀立柱建物 この復元建物は、縄文時代の中期後半(約4.500年~4,000年前)のものです。専門家の見解は、大きく建物説と非建物説に分かれています。目的や用途も祭殿や宗数的な施設、物見櫓、灯台、魚の見張り台、天文や季節の基準を知るための施設などとする見方がありますが、現段階ではよく分かっておらず、三内丸山遺跡の大きな謎のひとつとなっています。この遺構は、柱穴が3個ずつ2列に配置され、柱の間隔は……

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大型堀立柱建物 この復元建物は、縄文時代の中期後半(約4.500年~4,000年前)のものです。専門家の見解は、大きく建物説と非建物説に分かれています。目的や用途も祭殿や宗数的な施設、物見櫓、灯台、魚の見張り台、天文や季節の基準を知るための施設などとする見方がありますが、現段階ではよく分かっておらず、三内丸山遺跡の大きな謎のひとつとなっています。この遺構は、柱穴が3個ずつ2列に配置され、柱の間隔は4.2mと規則的です。柱の根入れは2mから2.5mで、柱穴は入念に埋め戻され、埋土が固く締まっていました。また、出土した柱はクリ材で、その直径は最大で103cmもあり、根元を焼き焦がしてありました。また、柱が内側に若于傾いていたという可能性もあり、そうだとすれば、構造物の安定を保つために柱が上部で連結されていたと想定されます。青森県では、これらのことから建物説に立ち、想定復元することにしました。上部構造は、県内に現存するクリの巨木の幹高を参考に、高さを約15mとし、縄文尺(35cm)の倍数で、柱間と同じ4.2m間隔の3層の床を設けました。 屋根についでは、その構造や材料についてさらに専門的に検討する必要があることから復元せず、今後の検討に委ねることにしました。屋根があったとすればどんな構造か想像をふくらませてみてください。復元には、8本の柱にロシア産のクリ、その他の部材も県内産のクリを使用しました。遺跡の全体像や縄文人の生活様式などのさらなる解明が進み目的や用途の想定ができれば、その実像に迫ることができるのではないかと考えています。したがって、今後の学術的な調査、研究によっては、この復元案を見直すことにしています。

圧巻は司馬が「高楼ではないか」と想像した大型堀立柱である。専門家の間でも意見が分かれていて今だ謎とされている。同じ縄文文化でも青森のは関西のそれにくらべて水準が高いという。文字に落として表すことはしなかったが、司馬遼太郎の心には稲作が原日本人を堕落させたというテーゼが刻みこまれていたのではないか。稲作は西からやってきた。アイヌは最後までそれを拒絶し続けた。

(2010年10月)

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