日光例幣使街道 2区間のうち1番目

日光例幣使街道(1)

倉賀野-玉村-五料-柴-境-木崎-太田

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

倉賀野

例幣使とは、神前に幣帛を奉納するため朝廷から派遣される勅使である。派遣先は伊勢神宮のみであったが、正保4年(1647)、幕府からの要請を受けて日光東照宮にも例幣使を派遣することになった。それ以来、明治維新前の慶応3年(1867年)までの221年間、1回の中断もなく続いた。

日光例幣使の一行は毎年京都を旧暦4月1日明け六つ、今の暦で5月中頃午前4時に出発し、中山道を経て4月11日に倉賀野宿から日光例幣使街道に入り、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着する。翌日午前中に、例幣使は奉幣の儀式を終え、昼過ぎには日光を離れて帰路に着く。帰路は日光街道で宇都宮を経て、東海道を通って4月末に京都に帰った。往復30日の旅だった。一日平均40kmを歩く健脚である。

公務出張に選ばれた公家達は、神聖な使命を受けた高貴な装いの裏で、道中に特権的立場を最大限に利用して私服を肥やすことが常態であったといわれる。

信州の長い山道をこえ上州の平野部に到達した例幣使の一行は一息つく思いであったろう。ここからはただ平坦な道をひたすら日光に向かってあるくだけである。難所とよばれる場所もないかわりに歌枕として知られる景勝地もない。人に聞けば街道筋の各宿場には競うように飯盛女が客を引くという。

倉賀野宿の東の木戸から中山道と分かれて東に向かい楡木で日光壬生通りと合流するまでの道を例幣使街道とよぶ。この街道は、明和元年(1764)に道中奉行の管轄となり、五街道並みの扱いを受けるようになった。例幣使街道は楡木から壬生通りをたどり、今市で日光街道に合流する。今市までを例幣使街道とよぶ場合もある。

倉賀野

高札場跡 倉賀野町 高崎市 群馬県
高札場跡 倉賀野町 高崎市 群馬県

定 きりしたん宗門ハ累年の御禁制たり 自然不審の者有らば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者訴人 同断 同宿幣并、宗門の訴人銀百枚 右之通り下さるべしたとひ同宿宗門之内たりと云ふ共申出る品により銀五百枚下さるべしかくし置き他所よりあらわる々に於てハ其所の名主五人組迄一類共ニ罪科おこなハるべき者也 正徳元年五月 日 奉行 右之通り被仰出候畢領内之輩……

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定 きりしたん宗門ハ累年の御禁制たり 自然不審の者有らば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者訴人 同断 同宿幣并、宗門の訴人銀百枚 右之通り下さるべしたとひ同宿宗門之内たりと云ふ共申出る品により銀五百枚下さるべしかくし置き他所よりあらわる々に於てハ其所の名主五人組迄一類共ニ罪科おこなハるべき者也 正徳元年五月 日 奉行 右之通り被仰出候畢領内之輩 可相守もの也 越前

中山道のJR倉賀野駅の南付近が倉賀野宿の中心であった。街道の北側の高札場跡には越前奉行と太政官の定書き立て札が復元されている。奉行の定は不審者を告発したものには銀貨を褒美に与えるというものである。キリシタンを見つけたものに対する褒美が一番多かった。

脇本陣跡 倉賀野町 高崎市 群馬県
脇本陣跡 倉賀野町 高崎市 群馬県

脇本陣の建物は一、二階の全面的な千本格子が見事である。道向かいのベイシアマート駐車場には本陣跡の石碑が、すこし先の右手倉賀野仲町山車倉前には「中仙道倉賀野宿 中町御伝馬人馬継立場跡」の碑が建っている。古い家が残る町並を東に進んでいくと、中町交差点の南西角に旅籠風の家が、北東角には倉賀野町道路元標があった。

追分常夜燈 倉賀野町 高崎市 群馬県
追分常夜燈 倉賀野町 高崎市 群馬県

例幣使街道と倉賀野常夜燈 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と合かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、暦魔堂がある。 道しるべには左日光道、右江戸道 とある。ここから日光例幣使街道は始まる。日光例幣使街道は十三宿中、上州五宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州八宿となっている。正保4年(1847)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、22……

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例幣使街道と倉賀野常夜燈 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と合かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、暦魔堂がある。 道しるべには左日光道、右江戸道 とある。ここから日光例幣使街道は始まる。日光例幣使街道は十三宿中、上州五宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州八宿となっている。正保4年(1847)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、1回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。 高 崎 市 高崎観光協会 江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使という。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。 この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。 常夜灯の基台には、四面にわたり各他の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含まれている。 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。 常夜灯 正面 「日光道」 右側面「中山道」 左側面 「常夜燈」 裏面 「文化十一年甲戌(1814) 正月十四日 高橋佳年女書」 以下略 平成8年3月 高崎市教育委員会

下町交差点で道は二手にわかれ、追分地点には石柱道標、文化11年(1814)の道標を兼ねた常夜燈、その後に閻魔堂がある。道しるべには「従是 左日光道 右江戸道」と刻まれており、常夜燈には正面「日光道」、右側面「中山道」とある。ともに「日光道」とあるのが例幣使街道で、ここが起点となった。

JR高崎線の玉村街道踏切を渡る。金属工業団地をぬけ、粕川をわたり、「綿貫町南」交差点をこえた先で旧道は日本原子力研究所にぶつかって途絶える。

土橋跡 井野川・鎌倉橋 八幡原町 高崎市 群馬県
土橋跡 井野川・鎌倉橋 八幡原町 高崎市 群馬県

綿貫町交差点を右折して、敷地の北縁に沿って国道354号を東進する。左手に不動尊が鎮座する不動山古墳をみて、街道は井野川を渡る。昔は鎌倉橋のすぐ下流に土橋が架けられていた。橋をわたり土手を右に入ると、両岸に橋脚台の痕跡がのこっている。土橋跡から旧道が復活している。200mほど進み国道と合流する辺りに一里塚があったというが、それらしき跡は残っていない。

玉村宿

旧佐渡奉行街道 滝川大橋東詰 玉村町 群馬県
旧佐渡奉行街道 滝川大橋東詰 玉村町 群馬県手前は国道354号:日光例幣使街道

関越自動車道をくぐり高崎市と玉村町との境になっている滝川にさしかかる。角渕からやってきた佐渡奉行街道(三国古道)は滝川大橋の東詰から左岸に沿って北に向かった。

ここから玉村宿に入る。慶長10年(1605)代官伊奈備前守忠次が開削して玉村新田を開いた。付近の住民を移して玉村新田町が形成され、後に上新田・下新田両村に分かれる。その後両村で玉村宿がつくられた。上新田・下新田に1軒ずつ問屋が置かれ半月交代で務めた。

日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は最初の宿場町として繁栄する。例幣使は例年旧暦4月11日夕刻に玉村宿に到着して木島本陣に宿泊し、翌12日早朝出発した。宿は一直線で延長約2.5kmもあり、日光例幣使道十三宿中でも最も規模が大きく繁盛した宿場であった。旅籠屋62軒のうち半分以上の36軒に飯盛女が置かれ、玉村は歓楽街の様相を呈していった。

玉川宿はまた佐渡奉行街道の第1番目の宿場町でもある。毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、玉村宿には十数軒の囚人宿があったという。囚人宿は佐渡送りだけでなく、他の護送中の罪人にも利用された。そのなかに国定忠治もいる。

井田酒造 上新田 玉村町 佐波郡 群馬県
井田酒造 上新田 玉村町 佐波郡 群馬県
旧問屋 井田家 上新田 玉村町 佐波郡 群馬県
旧問屋 井田家 上新田 玉村町 佐波郡 群馬県

上新田集落をすすんでいくと、左手に玉村八幡宮の赤い鳥居がでてくる。この参道が上・下新田をわける境界線になっている。角地に古い佇まいをみせているのは「泉屋醸造元 井田酒造」で、上の問屋跡である。店の脇から中庭をのぞくと造り酒屋の象徴ともいうべきレンガ造りの高い煙突が酒蔵の中央にそびえていた。

玉村八幡宮 下新田1番地 玉村町 佐波郡 群馬県
玉村八幡宮 下新田1番地 玉村町 佐波郡 群馬県

由緒 当社は鎌倉初期の建久6年(1195)源頼朝公によって玉村町角渕の地に創建奉斎された を元宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上総奉行安達籐九郎盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには関東郡代伊奈備前守忠次が当……

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由緒 当社は鎌倉初期の建久6年(1195)源頼朝公によって玉村町角渕の地に創建奉斎された を元宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上総奉行安達籐九郎盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発(天狗岩堰開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長15年(1610)無事竣工をみるに及び、神助への報賽と玉村鎮守のため角渕八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安2年(1649)には幕府より朱印地30石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保3年(1646)の日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また、古来より特殊信仰として、いぬ・い生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。

井田酒造の奥に玉村八幡神社がある。玉村八幡神社は、烏川畔にある角淵(つのぶち)の八幡宮が元宮で、源頼朝が建久4年(1193)那須野に狩した折、鎌倉の由比ケ浜に似ているとして鶴岡八幡宮を分霊したものである。伊奈代官が玉村を開いたとき、この角淵八幡をここに遷座した。

家鴨塚 称念寺 下新田 玉村町 佐波郡 群馬県
家鴨塚 称念寺 下新田 玉村町 佐波郡 群馬県嘉永3年(1850)9月、国定忠次郎が捕縛され江戸送りの途中、玉村宿に17日間留置かれました。その時に、道案内の者(目明し)の角万佐十郎(本名柳澤佐十郎)が忠次郎の中風に同情し、その治療のため家鴨の生血を飲ませたといわれています。その家鴨の供養のため、この碑が安政5年(1858)建立されたと伝えられます。 平成8年12月 玉村町教育委員会

同じ路地を神社と反対方向にはいると称念寺境内に「家鴨塚」がある。ヤクザ国定忠治の病気をきづかう目明しが家鴨の生血を飲ませた話が説明板に記されている。目明しも犯罪者あがりのならず者だった。家鴨こそいい迷惑を被った。

右手加賀美氏宅は、下の問屋大黒屋跡である。古い建物はみられないが植木が茂る門構えの家だ。玉村宿は幾度もの大火で全焼し宿場町を偲ばせる建物は残っていない。

旧玉村宿町並・道路元標 日光例幣使道 下新田 玉村町 佐波郡 群馬県
旧玉村宿町並・道路元標 日光例幣使道 下新田 玉村町 佐波郡 群馬県

国道354号は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3年(1646)久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同年四月以後慶応3年(1867)まで221回、毎年4月に派遣されていました。このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇をあたえられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分……

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国道354号は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3年(1646)久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同年四月以後慶応3年(1867)まで221回、毎年4月に派遣されていました。このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇をあたえられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分れてから、玉村、五料を経て利根川を渡り、芝、木崎、太田を経由して壬生通りの楡木に至るまでの間を日光例幣使道と命名しました。明和元年(1764)には道中奉行の直接支配下に置かれ、当時の東海道等の五街道に次ぐ道路として整備・管理されるようになりました。その頃の玉村宿には本陣と問屋や旅籠が軒を並べ、五料宿には関所があり問屋や河岸もあって交通の要衝としての機能を果たしていました。また、例幣使のほかに日光参拝の公卿や大名をはじめ多くの人達の往来があり、たいへん栄えました。現在、玉村宿の往時を偲ぶものとしては、国重要文化財指定の本殿がある玉村八幡宮や問屋のたたずまいを残す井田家や、本陣が置かれた 等があります。 平成8年12月 玉村町教育委員会

右手に土蔵とレンガ造りの家、その奥に高い煙突が立つのは「太平人」町田酒造店である。

店先に「玉村道路元標」の石標があり、そのむかいの路地入口に「木島本陣跡歌碑」の案内標識がたっている。

木島本陣跡歌碑 484下新田 玉村町 佐波郡 群馬県
木島本陣跡歌碑 484下新田 玉村町 佐波郡 群馬県

玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌碑[建立文久4年(1864)4月17日]があり、当時の名残を物語っています。 天保十四年卯月例の みてくらの使にかさねて むかひける帰……

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玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌碑[建立文久4年(1864)4月17日]があり、当時の名残を物語っています。 天保十四年卯月例の みてくらの使にかさねて むかひける帰るさに 玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに 参議有長 平成8年12月 玉村町教育委員会

案内にしたがって路地をはいり右におれると、民家の庭先に屋根を被った歌碑があった。天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌である。往路は中山道-例幣使街道、帰路は日光街道-東海道を辿る慣例に反し、この使者は帰りも中山道を歩くつもりであった。

玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに

今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る

街道に戻って東に向かうと右手バス停付近に例幣使道の絵図入り案内板がある。図に寄ればこのあたりに高札場があった。

その先の下新田交差点を直進する。ここを右折すると角渕から烏川をわたる佐渡奉行街道にはいっていく。

上飯島交差点手前に石仏群があるが、この辺りに玉村宿の下木戸があった。道は、ゆるやかに右に曲がって工業団地を斜めに横切っていく。

五料

聖跡記念碑 旧道:左 飯倉 玉村町 佐波郡 群馬県
聖跡記念碑 旧道:左 飯倉 玉村町 佐波郡 群馬県

工業団地を通り過ぎ「日清日露戦役紀念碑」「聖跡記念碑」の先で斜め左に残っている旧道に入る。旧道といっても沿道の前半は工場団地の延長のような風景で、旧道の終わり頃に若干の住宅街を通り抜けて国道354号に出た。

常楽寺 五料 玉村町 佐波郡 群馬県
常楽寺 五料 玉村町 佐波郡 群馬県道標: 烏川渡船 神保原 本庄町道

合流点の北側に常楽寺がある。入口に多くの石仏にまじって道標がある。「利根川渡船・玉村町小泉道」「烏川渡船・神保原本庄町道」と刻まれている。

旧五料宿 五料 玉村町 佐波郡 群馬県
旧五料宿 五料 玉村町 佐波郡 群馬県

五差路交差点を右斜めの旧道にはいると五料宿である。五料集落は利根川沿いに南に延びているが宿場はその北端に設けられた関所の手前の短い区間である。

五料関所跡 五料 玉村町 佐波郡 群馬県
五料関所跡 五料 玉村町 佐波郡 群馬県

五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの附近を領していた石倉氏が、関所を設け関銭を取っていた。慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に移ると、五料に開所を設けた。 元和2年(1616)8月に幕府公認の関所となったが、更に元禄10年(1697)再び幕府の指定をうけている。 しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。 正保3年(1646)……

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五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの附近を領していた石倉氏が、関所を設け関銭を取っていた。慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に移ると、五料に開所を設けた。 元和2年(1616)8月に幕府公認の関所となったが、更に元禄10年(1697)再び幕府の指定をうけている。 しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。 正保3年(1646)から恒例となった、日光東照宮への奉幣使の通路であり、例幣使道の唯一の関所であった。五料の関所は、日光例幣使の通行と舟運の取締りが、特別に課せられた任務といえる。 特に登り船(江戸方面に向う船)については、禁制品(鉄砲・鉛・焔硝・硫黄等)が、積込まれていないか船中を改め、不審の点がなければ、船問屋から手形(請書)を提出させて出船を許した。 天明3年(1783)7月の浅間山噴火は、沿岸に大きな災害を与えた。地元の沼之上村も泥押しの被害にあい、関所全部が泥で埋り建物の屋根だけが見えるだけであると報告している。その後天明6年(1786)7月の洪水、文政10年(1827)3月の火災等の際にも、開所は被害を受けている。玉村宿方面から来ると例幣使道筋からの門から入り、河原の船付場に向かう門から出て、渡し船に乗るような構造になっている。 現在遺構としては、玉村宿方面からの門の沓石と、関所用の井戸だけである。 昭和60年6月 玉村町教育委員会

芝根郵便局の先に立つ案内標識に従って左の露地をはいると、すぐに五料関所跡の案内板があった。道の両側に関所門の沓石として、柱穴を穿った方形の石が残されている。関所は戦国時代からあったもので、街道をいく旅人や利根川を利用する舟運業者から関銭を取っていた。元和2年(1616)に幕府公認の関所となり元禄10年(1697)に幕府指定の関所となった。舟運の取締りに加え日光例幣使の通行を確保することが特務として課された。五料の関所は日光例幣使街道唯一の関所である。

五料の渡し跡・利根川 五料 玉村町 佐波郡 群馬県
五料の渡し跡・利根川 五料 玉村町 佐波郡 群馬県

五料橋 :一般国道 354号 :伊勢崎市柴町~佐波郡玉村町五料 :昭和46年(1971) 構造規模:橋長 544.0m 幅員 9.0m 2径間連続PCT型ラーメン橋 5径間連続PCラーメン橋 伊勢崎市東町と玉村町五料の境を流れる利根川に架かる道路橋だがかつてこの場所は朝廷から日光に参賀する使者である「例弊使」が利根川を渡船した(五料の渡し)ところでもある。 明治に入ってから、五料の渡しには、木橋や……

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五料橋 :一般国道 354号 :伊勢崎市柴町~佐波郡玉村町五料 :昭和46年(1971) 構造規模:橋長 544.0m 幅員 9.0m 2径間連続PCT型ラーメン橋 5径間連続PCラーメン橋 伊勢崎市東町と玉村町五料の境を流れる利根川に架かる道路橋だがかつてこの場所は朝廷から日光に参賀する使者である「例弊使」が利根川を渡船した(五料の渡し)ところでもある。 明治に入ってから、五料の渡しには、木橋やつり橋が架けられるようになったが、大水の度に必ずといっていいほど流されたため、渡し船は依然として両岸を結ぶ主力交通手段であった。現在の橋は、昭和46年に県内初のディビダークエ法にて架設されたコンクリート橋である。

関所の門跡をとおりぬけ土手に上がって左に進むと、土手下の民家の敷地内に鉄柵に囲われた井戸が保存されている。旅人はこのあたりにあった門を出て河原の船着場に向かった。

旧柴宿街並 柴町 伊勢崎市 群馬県
旧柴宿街並 柴町 伊勢崎市 群馬県

利根川に架かる五料橋を渡るとすぐ柴宿に入る。橋の下流からわずかに旧道が残っている。例幣使は4月12日六つ半(7時ごろ)五料関所を通過して柴宿に向かった。柴宿は中町、堀口村を加えて、毎月10日ずつ柴宿・堀口村・中町と交替で問屋場を勤めた。

柴宿本陣跡(関根宅) 柴町 伊勢崎市 群馬県
柴宿本陣跡(関根宅) 柴町 伊勢崎市 群馬県

伊勢崎市指定史跡 柴宿本陣跡 昭和41年4月12日指定 日光例弊使街道は、中山道貪賀野宿から分岐して壬生通りの植木宿に至るまでの十三宿で柴宿はこの三番目の宿場であり、関根家が代々本陣経営に当たっていました。本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊休憩施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならって……

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伊勢崎市指定史跡 柴宿本陣跡 昭和41年4月12日指定 日光例弊使街道は、中山道貪賀野宿から分岐して壬生通りの植木宿に至るまでの十三宿で柴宿はこの三番目の宿場であり、関根家が代々本陣経営に当たっていました。本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊休憩施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。なお、関根家には本陣当時の文書類、調度品が数多く残されており、近世交通史上貴重な資料となっています。平成9年12月15日 伊勢崎市教育委員会

柴宿の通り(国道354号)の南側には並木と水路が整えられ、その中ほどに立派な門構えの柴宿本陣、関根甚左衛門宅がある。本陣の在処を旅人に知らせるかのように、一本の松が門前から歩道に張り出している。

例幣使街道旧道 柴町 伊勢崎市 群馬県
例幣使街道旧道 柴町 伊勢崎市 群馬県

街道はその先で右におれていく国道からはなれ、一筋東の水路沿いの旧道を南にくだって中町の総鎮守雷電神社の前で再び国道に合流する。

雷電神社 中町 伊勢崎市 群馬県
雷電神社 中町 伊勢崎市 群馬県左側道路は天明以前の例幣使街道旧道 右側:浅間山大噴火溶岩

朱色の鳥居と白木の社殿は新築されたばかりの初々しさを湛えている。境内にのこる溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火に伴うものである。それ以前は神社の南側に延びている道が例幣使街道の旧道であったが、大噴火によって街道もろとも宿場全体が北に移転した。

国道はまっすぐな道を中町、堀口町と通り抜ける。

東京福祉大学を通り過ぎ、左手の大正寺公民館の敷地内に東日光道」「南本庄道」「西五料道」と書かれた小さな道標がある。

下道寺町で左にまがった先、右手豊受歯科の所に「伊勢崎織物 大絣発祥の地」と書かれた大きな碑がある。

遺跡三ツ橋 馬見塚町 伊勢崎市 群馬県
遺跡三ツ橋 馬見塚町 伊勢崎市 群馬県

三ツ橋の伝説 建仁2年(1202)の春、世良田長楽寺を開山した、栄朝禅師が牛に乗って「三ツ橋」に通りかかると、橋のほとりで貧しい身なりの夫婦が、2人の幼い子どもを抱えて途方に暮れていました。禅師は「いかがした」と問うと、夫婦は「はい、子どもが急な病気で熱が高く困っております。お坊様、薬でもありましたらお恵みください。」 禅師は牛から降りて二人の顔をのぞき「これはハシカじゃ」と言って、経文を唱えまし……

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三ツ橋の伝説 建仁2年(1202)の春、世良田長楽寺を開山した、栄朝禅師が牛に乗って「三ツ橋」に通りかかると、橋のほとりで貧しい身なりの夫婦が、2人の幼い子どもを抱えて途方に暮れていました。禅師は「いかがした」と問うと、夫婦は「はい、子どもが急な病気で熱が高く困っております。お坊様、薬でもありましたらお恵みください。」 禅師は牛から降りて二人の顔をのぞき「これはハシカじゃ」と言って、経文を唱えました。すると、みるみる熱が下がりました。 子どもがハシカになったとき、橋の下をくぐると早く治るという俗信は、この三ツ橋伝説がもとになっています。平成17年3月 例幣使道まちづくり会議

その先道が右にまがるところの左手道端に設けられた狭い三角地帯に見過ごしそうな小祠がある。覗き込むと祠内には庚申塔があって傍らに「三ツ橋伝説と芭蕉句碑」と書かれた木柱が立っている。かってこの場所に三ツ橋が架かっていたそうだ。今は道の下に溝のような細い水路が通っているだけである。すぐ先右手の民家の脇に一角を設けて芭蕉句碑と松の木(三橋牛打の松)が植えてある。松に因む伝説があるようで、松を詠んだ芭蕉の句碑が建てられたというわけだ。橋と松と芭蕉の取り合わせを考え合わせても結局よくわからない史跡だった。

例幣使が休んだという延命寺をすぎ、道はおおきく右にカーブして下蓮町にはいる。

忠治茶屋・旧道入口 下蓮町 伊勢崎市 群馬県
忠治茶屋・旧道入口 下蓮町 伊勢崎市 群馬県

左手に上州名物焼まんじゅうの店「忠治茶屋」がでてくる。看板には国定忠治と赤城の山が紺染めされている。

忠治茶屋のすぐ先を右斜めに入っていくのが旧例幣使街道である。

右赤城旧道から赤城山を望む 下蓮町 伊勢崎市 群馬県
右赤城旧道から赤城山を望む 下蓮町 伊勢崎市 群馬県

田畑の中をすすむと右手に「右赤城」の案内板が立っている。その方向をながめやると赤城山の四つの峰がくっきりと見えた。東海道では「左富士」をみた。見える方向にまで神経を使う日本人の感覚の繊細さには驚かざるを得ない。と同時に、なぜここだけに桝形のような道筋がつけられたのか、不思議でもあった。ゆるやかな曲線をえがきつつもこれまでの一本道に近い道筋を急に方形に迂回しなければならないような池や山などの自然障害物が横たわっていたわけでもなかろう。作為的に右赤城を創り出したとすれば興ざめな話ではある。

畑中の道から車道に出る角に道標がある。「右五りやう 東日光道 左ほん志やう」と刻まれている。ここを左折し、東日光道に向かう。下蓮町交差点で今までの本道、国道354号にもどる。。

竹石の渡し跡・広瀬川 境下武士 伊勢崎市 群馬県
竹石の渡し跡・広瀬川 境下武士 伊勢崎市 群馬県

上野国の日光例幣使道の渡し場は、利根川の五料の渡し場と、広瀬川の竹石の渡し場のニ箇所でした。この竹石の渡し場の渡船役は、主に下武士(しもたけし)村名主がつとめ、渡船や川止めなどを管理していました。記録によると、船賃は1人銭3文、荷物一駄が12文と決められており、村が所有する船一艘で渡しを行なっていましたが、日光例幣使通行の際は、隣村から二艘の舟を借り受け三艘、荷駄積み降ろし人足200人を出して渡船……

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上野国の日光例幣使道の渡し場は、利根川の五料の渡し場と、広瀬川の竹石の渡し場のニ箇所でした。この竹石の渡し場の渡船役は、主に下武士(しもたけし)村名主がつとめ、渡船や川止めなどを管理していました。記録によると、船賃は1人銭3文、荷物一駄が12文と決められており、村が所有する船一艘で渡しを行なっていましたが、日光例幣使通行の際は、隣村から二艘の舟を借り受け三艘、荷駄積み降ろし人足200人を出して渡船役をつとめました。明和2年(1765)日光大法会や元治2年(1865)、勅使である梶井宮が通行した際には、さらに多くの舟や人足が必要でした。明治に架橋され、渡し場は廃止されました。 平成19年3月 例幣使道まちづくり会議

やがて菅原神社の付近で国道をはなれて広瀬川に突き当たる。昔はここに「竹石(たけし)の渡し」があって広瀬川を舟で渡っていた。今は武士(たけし)橋を渡る。

一本松稲荷 境下武士 伊勢崎市 群馬県
一本松稲荷 境下武士 伊勢崎市 群馬県

八海山 この場所は、江戸幕府の公式記録である『中山道例幣使道分間延絵図』に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷祠も記されていることから、稲荷社はその頃からありました。また、遠方まで出掛けなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。その築山に松が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であ……

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八海山 この場所は、江戸幕府の公式記録である『中山道例幣使道分間延絵図』に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷祠も記されていることから、稲荷社はその頃からありました。また、遠方まで出掛けなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。その築山に松が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かではありません。現在、この場所は、稲荷社もあることから通称を一本松稲荷とも言われています。 平成19年3月 例幣使道まちづくり会議

旧道「乳母の懐」 境下武士 伊勢崎市 群馬県
旧道「乳母の懐」 境下武士 伊勢崎市 群馬県

広瀬側にあった の東詰めから境宿に至る間で、境下武士(さかいしもたけし)の5百メートルは一間幅の狭い道路ですが、日光例幣使道の面影を今に良く伝えています。江戸時代の絵図に描かれた武士村の稲荷神社には、村の高札場がありました。現在は大きな松が植えられていることで と呼ばれ、地元で親しまれています。例幣使が武士村を通過するのは旧暦4月12日頃でした。武士の古老の言い伝えに、お輿に揺られ居眠りをしていた……

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広瀬側にあった の東詰めから境宿に至る間で、境下武士(さかいしもたけし)の5百メートルは一間幅の狭い道路ですが、日光例幣使道の面影を今に良く伝えています。江戸時代の絵図に描かれた武士村の稲荷神社には、村の高札場がありました。現在は大きな松が植えられていることで と呼ばれ、地元で親しまれています。例幣使が武士村を通過するのは旧暦4月12日頃でした。武士の古老の言い伝えに、お輿に揺られ居眠りをしていた勅使が、武士村との境まで迎えに出ていた境宿の町役人に起こされて「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」といった場所は境萩原の付近でした。 平成20年3月 例幣使道まちづくり会議 写真 左上:旧道入口 左下: 一本松

旧道は武士橋を渡って最初の信号を左に入り長谷川たばこ店の前の路地を右折する。古い家並みがのこっているわけではないが、幅一間の細い道が民家の間を自然なうねりをつくって続いている。旧街道の雰囲気をのこす裏通りである。300mほどいったところにひときわ高い松がみえ、近づくと丁字路の角に「一本松稲荷」がある。築山に松が植えられ一里塚だったのではないかとも言われている。塚の上に御嶽神社、塚の脇に稲荷神社がある。

旧道分岐点 境下武士・境萩原 伊勢崎市 群馬県
旧道分岐点 境下武士・境萩原 伊勢崎市 群馬県境宿方面から: 左:国道354号 右:旧例幣使街道 境宿方面へ: 左:国道354号 右:旧例幣使街道

国道と合流する地点に「旧例幣使街道」の標柱が立つ。日光方面からくる旅人の為の標識である。間もなく再び国道をはずれ、今度は右の旧道に入っていく。逆「く」の字の短い旧道を終わると国道「境萩原」の信号にでる。この辺りに境宿の西の木戸があった。

境は古く室町時代から広瀬川東岸の舟着場として集落を形成し、例幣使が通うことになったころには柴宿と次の木崎宿の間の宿として繁昌し始めた。正式に宿駅となったのは幕末の文久3年(1863)のことで、通常例幣使街道の宿場としては数えられていない。

日光例幣使街道境宿本陣跡付近 境 伊勢崎市 群馬県
日光例幣使街道境宿本陣跡付近 境 伊勢崎市 群馬県

織間本陣跡 旧例幣使街道、境宿織間本陣は寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫氏の家を当地に移築したもので、わら葺平家建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残し旧本陣として堺町の町指定史跡であった。(中略)本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休泊を主とした。そのとき門前に掲げた関札と呼ばれた泊まり札が現在も50余札保存されており……

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織間本陣跡 旧例幣使街道、境宿織間本陣は寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫氏の家を当地に移築したもので、わら葺平家建ての主家と片袖付門構えは古い建築様式をそのまま残し旧本陣として堺町の町指定史跡であった。(中略)本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休泊を主とした。そのとき門前に掲げた関札と呼ばれた泊まり札が現在も50余札保存されており、当時の面影を残している。 寛政3年(1791)4月12日小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので―― 時鳥我が身ばかりに降る雨か――の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。 昭和55年11月 堺町教育委員会

右手スーパーマーケット、アバンセ駐車場に「日光例幣使街道 織間本陣跡」の立派な碑がある。いつまでとは記されていないが、ここには江戸時代に建てられたわら葺平家建ての主家が町指定史跡として残されていたようだ。大名や例幣使や公卿門跡衆の休泊を主記す関札も50余保存されているという。織間本陣の家主は俳人として知られ、小林一茶が江戸から信州へ行く途中に訪ねてきている。あいにく家主は不在で会うことができず、一茶は「時鳥(ほととぎす)我が身ばかりに降る雨か」の一句を残して立ち去った。

境宿町並 境 伊勢崎市 群馬県
境宿町並 境 伊勢崎市 群馬県

沿道には蔵造りの家をふくめて古い家が多く見られ、宿場の面影をうかがうことができる。街道から一筋北にはいったところにある飯島歯科は、織間家の前の境宿本陣跡といわれている。建物はあたらしく、標識等もない。

京呉服銭屋は店構えこそコンクリート造りにシャッタードアの現代風であるが、その長い奥行きには土蔵や主家、植え込みなどが続いている大きな屋敷だ。

板倉屋薬局は石造りの建物で、大正ロマンの風情がある。

宿場もつきるあたりに水戸屋という和菓子屋がある。店先に「日光例幣使街道 かりやど宿」と書かれた新しい石標を立てている。仮宿とは幕末までずっと間の宿だったことを意味しているらしい。織間本陣を利用した50余人とは幕末のころの話であろう。

境宿東町桝形道標 境東 伊勢崎市 群馬県
境宿東町桝形道標 境東 伊勢崎市 群馬県

この石造物は、堺町の人3名が、西国、市国、秩父、坂東の観音霊場巡拝の供養塔と道しるべをかねて、天明7年(1787)に建てたものです。東面「此方世良田 たてはやし道」、西面「右 江戸なかせ 左 日光きさき道」、北面「右 こくりゃう いせさき」と刻まれていることから、この場所が、日光例幣使道と世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)が交差するところでした。当時、例幣使道が中毛、東毛地域をつなぐ幹線道路……

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この石造物は、堺町の人3名が、西国、市国、秩父、坂東の観音霊場巡拝の供養塔と道しるべをかねて、天明7年(1787)に建てたものです。東面「此方世良田 たてはやし道」、西面「右 江戸なかせ 左 日光きさき道」、北面「右 こくりゃう いせさき」と刻まれていることから、この場所が、日光例幣使道と世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)が交差するところでした。当時、例幣使道が中毛、東毛地域をつなぐ幹線道路であり、堺町から四方に広がる交通網の様子がわかります。平成12年8月 設置 境町教育委員会

東町信号の先で街道は桝形になっていて、「ながしま」そば屋の角を右に入る。裏道に天明7年(1787)の道標が立つ。読み難いが横の説明標によれば「此方世良田 たてはやし道」「右江戸なかせ 左日光 きさき道」「右こくりやう いせさき」と刻まれているという。

稲荷神社 境東 伊勢崎市 群馬県
稲荷神社 境東 伊勢崎市 群馬県

境東町(さかいあずまちょう)の稲荷神社は、創建の時期はわかりませんが、江戸時代中頃には社殿が建てられたようです。五穀豊穣神の倉稲魂(うかのみたま)命が祭神として奉られています。この境内には、元治元年(1864)に大行満願海という僧が奉納した手水石があります。願海は、比叡山の中で7年かけて千日間もの修行を行い、大行満という偉業を成し遂げた高僧です。峻険な山中を修行で歩いた距離は、地球一周と同じ約4万……

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境東町(さかいあずまちょう)の稲荷神社は、創建の時期はわかりませんが、江戸時代中頃には社殿が建てられたようです。五穀豊穣神の倉稲魂(うかのみたま)命が祭神として奉られています。この境内には、元治元年(1864)に大行満願海という僧が奉納した手水石があります。願海は、比叡山の中で7年かけて千日間もの修行を行い、大行満という偉業を成し遂げた高僧です。峻険な山中を修行で歩いた距離は、地球一周と同じ約4万キロに相当します。また、江戸時代には、境地域は俳諧が盛んに行なわれ、寛政年間(1789~1800)に、この地域の俳人16人で建てた「時鳥招くや麦のむら尾花」の芭蕉句碑があります。 平成19年3月 例幣使道まちづくり会議

枡形道は国道を横断し稲荷神社に突き当たる。神社入口に「時鳥(ほととぎす)招や麦のむら尾花」の芭蕉句碑がある。これから先は旧道の道筋が失われ、境栄地区の住宅街を右斜め方向にすすんで県道312号に出る。

女塚稲荷神社 境女塚 伊勢崎市 群馬県
女塚稲荷神社 境女塚 伊勢崎市 群馬県

県道のすぐ右手の女塚公民館前に女塚薬師道しるべが建っている。卵型の石に 「右薬師湯泉道」、「左太田・日光」と刻まれている。もともと法楽寺にあったものをここに移した。その法楽寺は東武伊勢崎線の手前に女塚稲荷神社とならんであった。今は建物はとりこわされて空き地になっており、赤いキャップをかぶった地蔵と馬頭観音が静かにたたずんでいるだけである。

早川・三ツ木橋 境三ツ木 伊勢崎市 群馬県
早川・三ツ木橋 境三ツ木 伊勢崎市 群馬県

県道は東武伊勢崎線を越えて区画整理された住宅街をジグザグに進み、左手に子育て地蔵尊を見ながら三ツ木橋で早川を渡る。街道は伊勢崎市から太田市に入り、国道17号をくぐってその先の小角田(こすみだ)交差点で県道14号に出、そこを左折して次の小角田北交差点を右折する。

旧道跡 小角田町 太田市 群馬県
旧道跡 小角田町 太田市 群馬県

二つの交差点の中間あたりに県道をよこぎる旧道がのこっているが、両方向ともにすぐ先で消失している。南北に走る県道14号は南に向かうと徳川家発祥の地、世良田を経て利根川の平塚河岸まで、北は県道69号から国道122号で足尾銅山跡まで、足尾の銅を江戸に運ぶために開かれた「古銅(あかがね)街道」である。

木崎

街並 新田中江田町 太田市 群馬県
街並 新田中江田町 太田市 群馬県

旧例幣使街道は国道354号にすこし乗り最初の信号を左折して新田中江田町交差点で右折して県道312号の旧道筋にはいる。先ほど消失していた旧道は昔ここにつながっていた。

三本辻地蔵尊 新田中江田町 太田市 群馬県
三本辻地蔵尊 新田中江田町 太田市 群馬県

新田町指定重要文化財 辻地蔵 指定平成十二年四月六日 所在地 新田町中江田888-1 本地蔵尊は、高さ120cm、幅30cmで、台座には銘文があります。 本地蔵尊のある場所は、かつて例幣使道から分かれて利根川中瀬の渡しに通じる道がありましたが、斜めの道であったために、明治時代後期に施行された耕地整理の際、消滅してしまいました。地蔵尊は、中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が観音札所の西国三十三ヵ所……

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新田町指定重要文化財 辻地蔵 指定平成十二年四月六日 所在地 新田町中江田888-1 本地蔵尊は、高さ120cm、幅30cmで、台座には銘文があります。 本地蔵尊のある場所は、かつて例幣使道から分かれて利根川中瀬の渡しに通じる道がありましたが、斜めの道であったために、明治時代後期に施行された耕地整理の際、消滅してしまいました。地蔵尊は、中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が観音札所の西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所、合計百ヵ所の観音寺を無事に参詣したのを記念して、親族の繁栄を祈願し建立したものです。 中山道は西国札所への道順で、例幣使道柴宿は坂東札所水沢・白岩観音への道順で、中瀬道は秩父札所への道順です。 銘 文 正徳五年 (1715) 乙末9月吉日 平成13年3月 新田町教育委員会

静かな中江田の集落の中を進んでいくと間もなく右手に三本辻地蔵があり、傍に平成6年のあたらしい道標が設置されている。各面に「太田日光道 三本辻地蔵尊」「四ば倉がの道」「旧日光例幣使道」「秩父中瀬道 」と刻まれている。中瀬は平塚河岸の利根川対岸で、中瀬の渡しが両岸を結んでいた。

医王寺 新田木崎町 太田市 群馬県
医王寺 新田木崎町 太田市 群馬県

樹 齢 約2~300年 目通り(幹周り)3.6m雌木 2.9m雄木 樹高 20m この二本の銀杏は、当寺の本堂前の参道に、同時期に植樹されたと思われる。木崎宿が盛んな頃は、眼病を治す薬師様として知られ、近郷から参詣者が訪れ、縁日には、出店が並んだ。 当寺は、薬師如来を祀り、康平4年(1061)に恵心僧都の高弟源意法印が草創と伝う。 応永(1394)、文明(1469)に兵火に罹り、また木崎宿の移転で……

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樹 齢 約2~300年 目通り(幹周り)3.6m雌木 2.9m雄木 樹高 20m この二本の銀杏は、当寺の本堂前の参道に、同時期に植樹されたと思われる。木崎宿が盛んな頃は、眼病を治す薬師様として知られ、近郷から参詣者が訪れ、縁日には、出店が並んだ。 当寺は、薬師如来を祀り、康平4年(1061)に恵心僧都の高弟源意法印が草創と伝う。 応永(1394)、文明(1469)に兵火に罹り、また木崎宿の移転で、現地に移った。 明治31年の寺の古文書に、「銀杏目通り壱丈壱尺廻り壱本」「銀杏目通り七尺廻り壱木」と誌されている。境内にはその他、樫の大木(目通り七尺廻り)六本、杉三十二本があり、僻蒼として、蝙蝠が飛び廻っていたといわれる。 第二次大戦後、伐採され銀杏のみが残った。平成15年危険防止のため、銀杏の大技を伐りおろした。 平成17年3月 新田町観光協会

左手に大きな二本の銀杏の巨木がそびえる医王寺があり、この辺りから木崎宿に入る。日本誉蔵元山崎酒造をみて、新田木崎町信号にさしかかる

木崎宿標 新田木崎町 太田市 群馬県
木崎宿標 新田木崎町 太田市 群馬県日光例幣使道 木崎宿 東 太田宿 日光 西 柴宿 京都 北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川 平成16年3月吉日 「飯盛女供養塔建てる会」 新田町観光協会

この交差点左手前角に「日光例幣使道 木崎宿 東太田宿 日光 西 柴宿 京都」と書かれた新しい道標がある。東面に「北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川」とあるのは銅街道をしめす。県道311号を北西にたどって新田上江田町交差点で県道69号に合流して北上する。銅街道の終点は県道14号沿いの平塚だったが、元禄年間に利根川が浅くなったため平塚河岸は廃止され、下流の前島河岸に移された。それにともない、銅街道は上江田町から東南にくだって木崎宿を通るようになったものである。

裏面には赤書きで「平成十六年 三月吉日 飯盛女供養塔建てる会 新田町観光協会」とある。木崎宿も多くの飯盛旅籠があることで知られていた。わざわざ観光協会が彼女等のために供養塔を建てようと考え付くほどである。この道標が供養塔を兼ねたものなのか、他の場所にある/建てる予定なのか、その辺はしらない。

旧木崎宿問屋、本陣跡 新田木崎町 太田市 群馬県
旧木崎宿問屋、本陣跡 新田木崎町 太田市 群馬県

交差点の一角を、家の側面を看板書きでうめつくしたようなあずまや理容店が占めている。交差点をわたった右手の「さいとう接骨院」は問屋跡である。歩道沿いに小さな松の木が植えられているが昔から斉藤問屋は大きな松の木で知られていた。

その手前の空地は茂木本陣の跡地といわれている。

貴先神社 新田木崎町 太田市 群馬県
貴先神社 新田木崎町 太田市 群馬県

「県指定史跡 反町館跡 2.4km」の案内がある信号交差点を右手に入った所に貴先神社がある。入口の両側には石組みの上に大きな常夜燈が立つ。境内は飾り気がない静けさである。「木崎」はこの神社名「貴先」からきたらしい。なお、反町館とは中世前期に新田一族の館として築造された平城で、新田義貞の本拠地新田荘の中心地にある。

色地蔵 新田木崎町 太田市 群馬県
色地蔵 新田木崎町 太田市 群馬県

新田町指定重要文化財 指定 平成12年4月6日 所在地 新田町木崎1063-1 「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー。」 木崎音頭の歌詞は数種類ありますが、末尾には必ずこの部分が付いています。この一節に唄われている色地蔵様がこの石地蔵尊です。石地蔵尊は高さ73cmで、頭部は破損しています。台座には銘文があり……

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新田町指定重要文化財 指定 平成12年4月6日 所在地 新田町木崎1063-1 「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー。」 木崎音頭の歌詞は数種類ありますが、末尾には必ずこの部分が付いています。この一節に唄われている色地蔵様がこの石地蔵尊です。石地蔵尊は高さ73cmで、頭部は破損しています。台座には銘文があります。この銘文から、風邪のはやる季節に亡くなった子供達の霊をなぐさめ、子供達の成育を祈願して建立した「子育地蔵」であったことがわかります。ところが、江戸時代の木崎宿には飯売女(めしもりおんな)がたくさんいて、彼女達は前借制年季奉公で遠出が制限されていたため、宿端ずれの本地蔵様に参詣して心の安らぎを得たのです。こうして数多くの色街の女(飯売女)が訪れたことから、何時の間にか「色地蔵様」と呼ばれるようになり、木崎音頭にも唄われるようになったのです。 銘 文 寛延三庚午霜月日(1750) 施主 茂木長吉 斉藤○郎八 多久和次郎○ 幸池茂七 小嶋伊勢松 惣子位 平成十三年三月 新田町教育委員会

左手、長命寺の前に茅葺きの地蔵堂があり、石碑には「新田町指定重要文化財 木崎宿色地蔵 指定 平成12年4月6日」と記されている。施主に名をつらねる「茂木」「斉藤」はそれぞれ本陣、問屋を勤めた人物であろう。覗き窓から暗闇の中最高感度で撮影した写真には大きな赤帽をかぶったつぶらな瞳の女性顔が写っていた。

もともとは子育て地蔵であったが、木崎宿に売られてきた飯盛女達の安らぎの場として信仰を得、いつしか「色地蔵」と呼ばれるようになった。木崎宿は玉村宿と並ぶ女郎宿といわれ、多くの女性が越後から売られてきて飯盛女となった。彼女達が伝えた民謡「新保広大寺くずし」がもとになって木崎音頭となり、やがて八木節として引き継がれることになる。

木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー。

旧道分岐点・宿場碑 新田木崎町 太田市 群馬県
旧道分岐点・宿場碑 新田木崎町 太田市 群馬県日光例幣使道 上州木崎宿 太田宿江一里三拾町 平成10年10月吉日

街道はその先で左折して旧道に入る。かどに「日光例幣使道 上州木崎宿 太田宿江一里三拾町 平成十年十月吉日」と記された石碑がある。

旧例幣使街道 新田木崎町 太田市 群馬県
旧例幣使街道 新田木崎町 太田市 群馬県

集落をでると田圃の中ののどかな道をゆくがまもなく工業団地にぶつかって旧道は途絶え県道312号にもどる。

すぐに常楽寺の先の二股を右にとって再び旧道にはいり、そのさきで県道を横断してそのまま旧道をたどっていく。宝泉中学で旧道は失われ区画整理された住宅街をぬけて県道にもどる。かっては中学校から宝町交差点にぬける道がついていたと思われる。

旧家 由良町 太田市 群馬県
旧家 由良町 太田市 群馬県
島岡酒造手前 由良町 太田市 群馬県
島岡酒造手前 由良町 太田市 群馬県

由良の集落に入って県道の道はばが狭くなり、旧街道の趣がのこる道筋にさしかかる。左から来る道との合流点に立派な医薬門を構えた旧家がある。

島岡酒造 由良町 太田市 群馬県
島岡酒造 由良町 太田市 群馬県

街道が右に曲がる角に文久3年(1863)創業の島岡酒造が大きな屋敷を構えている。白壁の酒蔵に囲まれて「群馬泉」の大きな白文字看板をつけたレンガ造り大煙突がそびえている。醸造をやめて酒卸業に転換した元造り酒屋が多い中で、島岡酒造は活発そうにみえた。

太田

蛇川 藤阿久町 太田市 群馬県
蛇川 藤阿久町 太田市 群馬県
街道碑 蛇川東袂 藤阿久町 太田市 群馬県
街道碑 蛇川東袂 藤阿久町 太田市 群馬県旧日光例幣使道 江戸時代正保3年から慶応3年まで日光東照宮の4月の例祭に朝廷が例年差遣した奉幣使を日光例幣使といいその通行路を日光例幣使道とよんだ。永盛橋を東西に走る道が旧例幣使道でこの道は中山道上州倉賀野宿で分岐し玉村宿から太田宿を通り野州八木宿より金崎宿に至る13宿を結ぶ街道で壬生道日光道中を経て日光に通じた。日光例幣使道は明和元年五街道に準ずる主要道にもなり歴史に永くその名をとどめている。

聖川という小さな川を渡り蛇川にさしかかる。蛇川の椿森橋を渡った右手に木の道標らしいものがあるが、字は消えて読めない。

県道2号に合流、東武桐生線のガードをくぐって太田市街地に入ってくる。八瀬川にかかる永盛橋東詰め、公衆トイレの横に「旧日光例幣使道」の石碑が建っている。このあたりに太田宿入口の木戸があった。

本町交差点を左に1kmほど行くと大光院がある。家康が徳川家の始祖である新田義重を追善供養するために建てられた。例幣使は4月12日、大光院に参詣した後昼食をとる習わしになっていた。往復2kmの寄り道は割愛した。

太田宿本陣跡 本町 太田市 群馬県
太田宿本陣跡 本町 太田市 群馬県

左手、「太田行政センター」の看板わきに「太田宿本陣跡地」の碑が置かれている。後ろには「本陣ホール」というがらんとした建物がある。太田宿や本陣跡地に関する説明は一切ない。太田宿本陣は、橋本家が勤め代々金左衛門を名乗っていた。建物は昭和58年(1983)に失火により全焼したという。

追分道しるべ・石地蔵 東本町 太田市 群馬県
追分道しるべ・石地蔵 東本町 太田市 群馬県

太田市指定重要文化財 道分けの道Lるべ・石地蔵 所在地 太田市東本町4ー3 指定年月日 昭和51年(1976)11月16日 この道しるべは日光例幣使道と古河道との分岐点、新島の追分け(例幣使道側はエ場敷地となっている)にある。享和3年(1803)に太田宿の永竹幸助義信により百番供養を兼ねて建立されたものである。百春供養は西国33番と坂東33番に秩父34番の札所を加えた百番信仰によるものである。裏面……

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太田市指定重要文化財 道分けの道Lるべ・石地蔵 所在地 太田市東本町4ー3 指定年月日 昭和51年(1976)11月16日 この道しるべは日光例幣使道と古河道との分岐点、新島の追分け(例幣使道側はエ場敷地となっている)にある。享和3年(1803)に太田宿の永竹幸助義信により百番供養を兼ねて建立されたものである。百春供養は西国33番と坂東33番に秩父34番の札所を加えた百番信仰によるものである。裏面には次の和歌がある。 ひとすしに 出れハ安き法の旅 今なすわさそ 後の世の夢 道しるべの左側には追分け地蔵と呼ばれる地蔵菩薩があり、今でも子供を庇護する地蔵として厚い信仰の対象となっている。 日光例幣使道は、日光東照宮の大祭(4月15日~17日)に際し、幣帛(神前に奉納するもの)を供するため例年京都の朝廷から派遣された奉幣使が通過したことから呼称された街道である。日光例幣使の派遣は正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで絶えることなく統いた。奉幣使は原則として、往路は中山道・日光例幣使道、復路は日光道・東海道を通過した。 例幣使道中は中山道倉賀野宿(高崎市)から分かれ、玉村・五料・柴・木崎・太田・八木・梁田・天明・犬伏・富田・栃木・合戦場を経て金崎富(栃木県上都賀郡西方村)に至る13宿、23里11町(92km)ほどの道程である。金崎宿の次の楡木宿で壬生道に入り、今市宿で日光道に合流した。明和元年(1764)には道中奉行管轄となり五街道に準ずるようになった。 平成2年(1990)3月31日 太田市教育委員会

街道は太田駅の北側を東西に横断する繁華な通りである。宿場町を偲ぶ手がかりを求めて歩いている内にスバル富士重工の広大な敷地にはいってしまった。大街道での大きな街であるのにこれほどそっけない宿場を歩いたのは、岩城相馬街道の助川宿(日立)をおいて他に記憶がない。最後の申し訳でもなかろうが、東本町の県道323号(館林道)分岐点に追分石地蔵と道標があった。道標には「右たてはやし こか道 左日光道 やき さの駅」と記されている。

旧道はここから富士重工の工場敷地を右斜めにでていたのだが、スバル工場で失われてしまった。町の真ん中に自動車工場が陣取っているのは異様な光景である。もとは自動車工場ではなかった。太田市うまれの農家の長男であった中島知久平は海軍機関学校を卒業して、ここに戦闘機工場をつくった。昭和のはじめには中島飛行機会社は三菱重工と並ぶ航空機製作会社となった。敗戦で飛行機生産は中止、富士重工として自動車生産を開始、スバルというヒット商品を生むに至る。

日光例幣使道 馬洗い場跡 東長岡町 太田市 群馬県
日光例幣使道 馬洗い場跡 東長岡町 太田市 群馬県
地蔵 東長岡町 太田市 群馬県
地蔵 東長岡町 太田市 群馬県

東部伊勢崎線のガードをくぐって新島町交差点を左折する。街道とは縁遠い景観である。作業所の多い風景からやがて復活した旧道の道筋に合流し、川を渡った先左手に「日光例幣使道馬洗い場跡」の碑がある。その先左手に地蔵堂がある。格子のすきまから除くと赤エプロンを肩からかけ首をすくめたような地蔵がみえた。

賀茂神社(鳥居のない神社) 石原町 太田市 群馬県
賀茂神社(鳥居のない神社) 石原町 太田市 群馬県

その先、国道122号との五差路を左斜めによこぎり、すぐ県道128号線を渡ったところに「鳥居のない神社」がある。賀茂神社だ。長文の由緒書を要約すれば、次のようなことだ。

「例幣使の一行が鳥居の下で休んでいた時、鳥居の上の大蛇の危険を知らせようとした犬を家来が切り捨ててしまった。例幣使は犬を手厚く弔らい、村人は元凶となった鳥居を取り払ってしまった」

台之郷の辻道標 石原町/台之郷町 太田市 群馬県
台之郷の辻道標 石原町/台之郷町 太田市 群馬県「北 丸山桐生道」「東 福居佐野道」「南 龍舞小泉道」「西太田道」

神社前の旧道をたどり、コンビニ前の変則四差路の右前角に新しい「日光例幣使道 台之郷の辻」の石標と、「北 丸山桐生道」「東 福居佐野道」「南 龍舞小泉道」「西太田道」と記された道標をみて、二股の左の道をすすんで県道128号に合流する。

台之郷町 太田市 群馬県
台之郷町 太田市 群馬県

広々とした風景のなかに三匹のタヌキ親子が穂をのばしたススキの大株のなかにたたずんでいた。

しばらく歩いて「矢場」信号を左折する。最初の十字路を右におれて矢島工業団地の北縁をいくのが旧道である。旧道の延長として交差点の西方にのびる道は旧道ではないらしい。

旧日光例幣使道 矢場町 太田市 群馬県
旧日光例幣使道 矢場町 太田市 群馬県

県道を真直ぐにすすんできた街道が突如直角にまがって大きく迂回するのがどうも気になる道筋である。工場団地ができるまえは山か沼地でもあったのだろう。途中に「日光例幣使道」の新しい標識が設けてあるが道端に散乱する産業廃棄物はおよそ旧街道とかけ離れた光景である。

八坂神社 新宿町 足利市 栃木県
八坂神社 新宿町 足利市 栃木県この八坂神社は例幣使道分間延絵図に牛頭天王と記載されている。嘉承元年2月に尾州愛知県津島の牛頭天王社より勧請したといわれる。「村社八坂神社」の石柱の下には道標(東佐野福居道、西太田伊勢崎道、来た足利道」がある。 掘込2丁目商工振興会 新宿町自治会 足利市教育委員会

群馬県(太田市矢場町)から栃木県(足利市新宿町)に入ってようやく街道の雰囲気を取り戻した。八坂神社の入口鳥居左手前に「村社八坂神社」と書かれた石柱があるが、その台座は道標になっていて、「東佐野福居道 西太田伊勢崎道 北足利道」と書かれている。

佐野は天明宿、福居は八木宿のことである。

新宿町(あらじゅく)十字路で県道128号にもどり、左折したすぐ右手に「旧例幣使街道 新宿の辻」の木札があり、「ここは例幣使道と館林道の分岐点で、その道標であった辻地蔵は、北約百メートルの勢至堂脇に残されている。」と記されている。矢場川の手前にその勢至堂があり、石地蔵の台座に「右ハたてはやし」「左ハさの」とあった。

(2009年1月)

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