新町-玉村-総社-大久保-八木原-渋川
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院
上州と越後をむすぶ三国街道は高崎から中山道とわかれて三国峠へ向かうが、高崎-渋川の街道宿駅が整備される以前にも中山道からわかれて渋川へいく道があった。三国古道とよばれ、中山道本庄宿を後にして烏川を渡り、利根川沿いに玉村・総社、大久保・八木原の各宿場を経て、渋川宿で三国街道と合流する10里足らずの道である。高崎を通る道が三国街道の本道となった後も佐渡奉行は総社経由の旧道をとったことから三国古道は佐渡奉行街道とよばれるようになった。
佐渡奉行街道の起点は本庄宿のはずれであったが、その後承応3年(1654)に落合村と笛木村が合併して新町が誕生、新町宿が整備されるとそこから玉村へゆく新しい佐渡奉行街道の道筋が開かれた。
今回その両起点からの道筋を確認した後、烏川をわたった角渕から一本の旧道筋を辿っていく。


中山道本庄宿の西のはずれ、現在の児玉郡上里町にほど近い本庄市小島の十字路を北に向かう。国道17号の万年寺交差点を横切り、区画整理された広い真直ぐな舗装道をいくと利根川ほとりの新井集落を通過する。御陣場川をわたり集落の中の突き当りを左にとると左からの道との合流点右手に庚申塔などの石仏が祠の周囲に集められている。

ここから土手に上がると利根川と烏川の流れが合流する景色が見られたのだが、行き過ぎてしまった。上里町八町河原に入って丁字路を左折し、観音堂十字路を右折して土手に向かう。
前略 当社の創立は、宝徳年間(1449~1452)といわれ、天文2年(1533)に再建され、元禄10年(1697)に正一位稲荷大明神の神階を授けられたと伝えられている。その後、寛保2年(1742)2月7日、宮司関口和泉守が京都の卜部家より神道の裁許を賜ったという。また、安政6年(1856)8月大洪水で流失、同年11月に仮宮が建てられた。明治40年2月13日、八幡神社、水神社、白山神社及び境内の神明……
前略 当社の創立は、宝徳年間(1449~1452)といわれ、天文2年(1533)に再建され、元禄10年(1697)に正一位稲荷大明神の神階を授けられたと伝えられている。その後、寛保2年(1742)2月7日、宮司関口和泉守が京都の卜部家より神道の裁許を賜ったという。また、安政6年(1856)8月大洪水で流失、同年11月に仮宮が建てられた。明治40年2月13日、八幡神社、水神社、白山神社及び境内の神明、愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。本殿右の大欅の元には、寛永4年(1627)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祠があり、その他境内には、寛永4年建立の雷電神社や、江戸期に栄えた八丁河岸の舟運利用の水の神である大杉神社などが祀られている。 昭和61年3月 埼玉県 上里町
左に宝徳年間(1449~1452)の創立といわれる稲荷神社がある。説明板には境内の諸神社が記されているが、どれがどれかわかるものではない。一つだけ、地上に安置された鳥居の屋根付き笠木が生き埋めの首のようで無気味な印象だった。八丁河岸の舟運利用の水神も祀られている。この集落には「八町河岸」があって、船問屋などで賑わった場所である。

土手に上がると烏川の流れは葦原の向こうに隠れてよくみえない。手前の淀みで釣りをする編み笠の男性に渡し場跡のことをきくと、ここがそうだと言った。対岸には打ちっぱなしのネットがみえる。玉村公園GCの施設で、そこから北へ1km足らずいくと日光例幣使街道五料宿の関所跡にでる。
右手遠くに烏川・利根川合流点のすぐ下流にかかる坂東大橋がみえる。現在、玉村町に渡るには逆戻りして坂東大橋で利根川をわたるか、中山道にもどって新町から岩倉橋で烏川を渡るしかない。八町河原の渡しはまさにその中間地点にあった。


中山道は武州(埼玉県)と上州(群馬県)の境をなす神流川(かんながわ)を渡る。流域の倍以上もある河川敷をふくめ神流川橋は長い。群馬側の河原に白い杭が光ってみえた。「渡し跡」とでも書かれた標柱が頭を過ぎった。高崎市にはいった地点に「見通し燈籠」(常夜燈)のレプリカが立っている。埼玉側のオリジナルが大光寺にあるという。
天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ猛勇の西上州軍1万6千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわ……
天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ猛勇の西上州軍1万6千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。
橋を渡り終えると歩道側に古戦場碑が建っている。天正10年(1582)6月、信長の死を受け、上州の支配をめぐって滝川一益率いる西上州軍と、北条氏5万の大軍が神流川をはさんで激戦を展開した。結果は滝川軍の敗北に終わる。

中山道はその先で国道17号と分れ新町宿にはいっていく。旧道入口に常夜燈と「中山道新町宿」標柱がたっている。新町宿は江戸から数えて中山道11番目の宿場で、承応年間(1652~55)に落合村と笛木村が合併してできた宿場で、中山道のなかで最も遅れて開設された。

すぐ右手に赤い鳥居に社殿としては珍しい白壁土蔵造りの八坂神社がありそばに自然石の芭蕉句碑がある。かって神社の側に柳の大木と茶屋があったといい、柳にちなんだ句を刻んだ。
傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな

新町郵便局前交差点から中山道と分れ佐渡奉行街道が分岐している。広い道路に合流する手前で左の細道に入り、一旦県道40号に合流したのちすぐに再び右斜めの旧道にはいっていく。烏川の岩倉橋の袂に諏訪神社がある。その北側から対岸角渕(つのぶち)とをむすぶ渡し船が出ていた。
岩倉橋の由来 明治9年県庁が前橋に設置されたため、前橋から東京へ至る最短距離の道路として玉村・新田を経由して中山道に出る新道が開削され、それまでの渡し船は廃止され簡単な木橋が烏川に設置された。明治11年の明治天皇行幸の時に岩倉具視を名代として、大隈重信以下500余名を新町行在所から分派してこの橋を通り前橋行在所に派遣した。これを記念して以後、岩倉橋を命名された。その後、再三の出水で流域が変わり、通……
岩倉橋の由来 明治9年県庁が前橋に設置されたため、前橋から東京へ至る最短距離の道路として玉村・新田を経由して中山道に出る新道が開削され、それまでの渡し船は廃止され簡単な木橋が烏川に設置された。明治11年の明治天皇行幸の時に岩倉具視を名代として、大隈重信以下500余名を新町行在所から分派してこの橋を通り前橋行在所に派遣した。これを記念して以後、岩倉橋を命名された。その後、再三の出水で流域が変わり、通行に支障を来たしたため、明治36年に再び渡船が開始され、大正、昭和へと続いた。昭和5年、県により半永久橋が架設されたが、昭和10年に流失した。再び昭和12年、県により橋長410m、幅員5.5mのコンクリート永久橋が起工されたが、日支事変の勃発による資材不足のため、工事途中で放棄された。戦後、新町、玉村、芝根の岩倉橋架橋期成同盟会が結成され、その運動の結果昭和24年3月に木橋が架設された。昭和26年3月鉄筋コンクリート橋(左岸側2運分)が架換られ、更に昭和30年7月に右岸側も鋼板桁橋及び鋼ゲルバー橋に架換られた。昭和62年増大する交通量と、車両の大型化に対応するため、3径間連続鋼床版箱桁(2連)橋長454.195m、橋xxの架換に着手、6年間をついやし、平成4年7月に完成、現在に至っている。(新町町誌より)
明治になり渡し船が廃止され岩倉橋が架設されてからも洪水でたびたび橋は失われ、昭和初めまで渡し船は存続した。岩倉橋の名は明治11年明治天皇行幸のおり、新町行在所から岩倉具視を名代とする分派がこの橋をわたり前橋行在所に派遣されたことに由来している。
鎌倉時代の始め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4……
鎌倉時代の始め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対馬入道が修理をした。後に、江戸時代の始め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長15年(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田と下新田の堺に移築修造し と名を改めまつった。現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である。
岩倉橋をわたり右に折れて土手下の道をゆく。二筋目の路地奥に赤い鳥居が見える。建久4年(1193)源頼朝が烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので鶴ヶ岡八幡宮から分霊勧進したとされる角渕八幡である。その後江戸時代になって本殿は玉村八幡宮に移された。

土手下の道にもどり用水路をこえたところで左にでている道が旧道である。対岸の諏訪神社裏から出た渡し船はここにたどりついた。また、現在の岩倉橋ができるまでは諏訪神社付近からこの地点に橋が架けられており、この通りが新町と玉村を結ぶ本道であった。今は住民だけの平和な生活道路で、どの家も道端を丁寧に草花で飾っている。蔵もちの端正な旧家が多く残る魅力的な家並みである。関根姓が多かった。
当古墳は、昭和5年2月に発掘された。出土品は墳丘上の碑文に記されているが中国渡来の白銅製内行花文鏡二面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類がある。それらは東京上野の国立博物館に保存されている。中国渡来の内行花文鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させる。付近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の……
当古墳は、昭和5年2月に発掘された。出土品は墳丘上の碑文に記されているが中国渡来の白銅製内行花文鏡二面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類がある。それらは東京上野の国立博物館に保存されている。中国渡来の内行花文鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させる。付近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の被葬者が、この付近一帯の有力な支配者的存在であったと推定できる。古墳の型式は円墳、主体部の型式は不明。後藤守一氏は築造年代を碑文に示されているが、いずれにしても古墳時代初期に属するものであろう。一名軍配山と呼ぶが、それは天正10年神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって全軍を指揮したために名付けられたものと伝えられている。 昭和51年4月 玉村町教育委員会
角淵集落の東はずれの田園のなかに二つの古墳がある。本庄から八町河原の渡しをへて五料に上陸する道筋は角渕に至る途中でこの二つの古墳の近くを通ってくる。一つは梨ノ木山古墳、他は御幣山古墳。後者は天正10年神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって指揮したために通称軍配山古墳と呼ばれている。共に古墳時代のもので、烏川段丘上には他にも多数の古墳が存在していた。
県道にもどり北上する。派手な看板を出す店が立ちならぶ繁華な自動車道路である。

滝川を渡った右手の観照寺に三基の板碑が保存されている。弘長2年(1262) 、弘安7年(1284)、文和2年(1353)という大変古いものだ。秩父青石で造られていて、おどろくほど磨耗がみられない。観照寺沿革が「玉村」のはじまりに触れている。
「当寺の創立は、鎌倉初期、土御門天皇代、元久元年(1204)明秀上人の開山による。又寺地は、これより先、平安時代天慶2年(939)にこの地を開いた郷士玉村太郎の旧地で「錦野の里」と呼ばれた。太郎は神流川合戦に於いて田原藤太秀郷と共に平将門を誅伐した事で知られる。 以下略」
玉村の地名に因む故事が残されている。相思相愛の男女が矢川に身を投げた。その後、この川に光る二つの碧玉が漂っていた、云々。そこに龍がからんで、新たに開発された新田村(上新田・下新田)は龍の玉によりできた村であるため、玉村と呼ぶようになった。
国道354号は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3年(1646)久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同年四月以後慶応3年(1867)まで221回、毎年4月に派遣されていました。このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇をあたえられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分……
国道354号は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3年(1646)久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同年四月以後慶応3年(1867)まで221回、毎年4月に派遣されていました。このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇をあたえられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分れてから、玉村、五料を経て利根川を渡り、芝、木崎、太田を経由して壬生通りの楡木に至るまでの間を日光例幣使道と命名しました。明和元年(1764)には道中奉行の直接支配下に置かれ、当時の東海道等の五街道に次ぐ道路として整備・管理されるようになりました。その頃の玉村宿には本陣と問屋や旅籠が軒を並べ、五料宿には関所があり問屋や河岸もあって交通の要衝としての機能を果たしていました。また、例幣使のほかに日光参拝の公卿や大名をはじめ多くの人達の往来があり、たいへん栄えました。現在、玉村宿の往時を偲ぶものとしては、国重要文化財指定の本殿がある玉村八幡宮や問屋のたたずまいを残す井田家や、本陣が置かれた 等があります。 平成8年12月 玉村町教育委員会
玉村ショッピングセンターの北側の道を左に入り、西光寺の手前の路地から国道354号の日光例弊使街道に出た。左におれたところ玉村6丁目バス停側に宿場の案内板が建っている。観照寺には玉村の地は平安時代に太郎によって開かれたとあったが、近世では江戸時代になって代官伊奈備前守忠次によって本格的な新田が開発された。

玉村新田町と称され、後に上新田・下新田両村に分かれる。その後両村で玉村宿がつくられた。日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は第1番目の宿場町として繁栄する。旅籠屋62軒のうち半分以上の36軒に飯盛女が置かれ、玉村は歓楽街の様相を呈していった。
玉川宿はまた佐渡奉行街道の第1番目の宿場町でもある。毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、玉村宿には十数軒の囚人宿があったという。三国街道金井宿本陣でみた囚人用の地下牢もあったに違いない。囚人宿は佐渡送りだけでなく、他の護送中の罪人にも利用された。そのなかに国定忠治もいる。
玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌碑[建立文久4年(1864)4月17日]があり、当時の名残を物語っています。 天保十四年卯月例の みてくらの使にかさねて むかひける帰……
玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌碑[建立文久4年(1864)4月17日]があり、当時の名残を物語っています。 天保十四年卯月例の みてくらの使にかさねて むかひける帰るさに 玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに 参議有長 平成8年12月 玉村町教育委員会
案内板の地図によれば道向かいに高札場と問屋、その後ろに木島本陣があった。問屋は上新田・下新田に1軒ずつあり交代で務めた。玉村宿は幾度もの大火で全焼し宿場町を偲ばせる建物は残っていない。僅かにみられる古い家も大正・昭和初期の建築であろうと思われる。
由緒 当社は鎌倉初期の建久6年(1195)源頼朝公によって玉村町角渕の地に創建奉斎された を元宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上総奉行安達籐九郎盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには関東郡代伊奈備前守忠次が当……
由緒 当社は鎌倉初期の建久6年(1195)源頼朝公によって玉村町角渕の地に創建奉斎された を元宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上総奉行安達籐九郎盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発(天狗岩堰開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長15年(1610)無事竣工をみるに及び、神助への報賽と玉村鎮守のため角渕八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安2年(1649)には幕府より朱印地30石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保3年(1646)の日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また、古来より特殊信仰として、いぬ・い生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。
すぐ先の十字路角「太平人」町田酒造店の脇に「玉村道路元標」の石標があり、そのむかいの路地入口に「木島本陣跡歌碑」の案内標識がたっている。案内にしたがって路地をはいり右におれると、民家の庭先に屋根を被った歌碑があった。天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌である。往路は中山道-例幣使街道、帰路は日光街道-東海道を辿る慣例に反し、この使者は帰りも中山道を歩くつもりであった。
玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに
今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る

街道にもどり300mほどいくと右手に玉村八幡宮の赤い鳥居がでてくる。角渕八幡を元宮とする。この参道が上・下新田をわける境界線になっている。神社の前に井田酒造が古い佇まいをみせている。今は泉酒店として営みをつづけているようだ。同じ路地を神社と反対方向にはいると称念寺境内に「家鴨塚」がある。ヤクザ国定忠治の病気をきづかう目明しが家鴨の生血を飲ませた話が説明板に記されている。目明しも犯罪者あがりのならず者だった。家鴨こそいい迷惑を被った。

玉村宿を抜けると街道は次の惣社宿まで3里半の長丁場となる。その間にいくつかの集落を通っていくのだがところどころに旧街道の証人たちがひっそりと住んでいる。それらを訪ねつつ道をいそぐことにしよう。

関越自動車道の手前を流れる滝川の手前で例弊使街道と分れ、滝川の東岸堤防を北にたどっていく。道は草むらだったり、轍が残る土道だったり、車が走れる舗装道路だったり、それらが交互にあらわれ、そのたびに川に橋がかかって自動車道をくぐる道がつけられている。やがて川の西側に遺跡の発掘現場が現れた。住居跡らしいがまだ名がついていない。

最後の道なき草むら土手をかきわけて進むと伊勢崎街道の上滝橋東詰めに出た。手前の水路脇に道しるべと石仏があって、旧道であることを暗示している。横断して直進すると、左から来る車道と合流。車道の合流点手前に多数の小さな地蔵が集められている。


宿横手集落を通り抜けると北関東自動車道の手前に小堂の諏訪神社があり、旧道はそこから利根川土手の自転車道路になる。北関東自動車道をくぐり西横手町の東端をかすめ利根川堤防下に延びる工場団地の東側をすすんでいくと荻原町にはいり、自転車道の路傍に「萩原の道しるべ」が立っている。卵形の自然石に「之よりひだり江戸みち 之より右ち〃ぶみち」と刻まれている。


県道27号の昭和大橋西詰めをくぐってからは萩原集落の中を抜けていく。集落の中ほど、路傍で三人並んで夕陽を背に受け午後の時間をつぶしているおばあさんに萩原の渡し跡の位置を聞くと、すぐそこを入った自転車道に碑があると教えてくれた。対岸が公田(くでん)町で、公田の渡ともよばれる。利根川の流れは河川幅の数分の一にすぎない細いもので徒歩で渡れそうだが、かっては深さ9mもある激流であったという。渡し船は昭和40年まで200年近く続いた。石積みや河岸の痕跡はないが、コンクリートの遺物があった。

古い民家がのこる萩原集落尾をぬけると新興住宅街にはいっていく。三差路でまちがって右にとり大利根緑地公園に出てしまった。落日前のひとときを憩う人々がそれぞれの方法で楽しんでいる。利根川の水を飲む犬と、川に石ころを投げ入れる親子の写真を撮って三差路にもどる。

旧道は三角空き地をそのまま突っ切っていたものと思われるが今は個人所有地に隔てられ、道はやむなく左に迂回する形で鍵の手にまがって前橋市下新田の住宅街を真直ぐに北上する。下新田の落ち着いた家並みをぬけたころ、下新田町公民館前の三差路に道祖神が並んでいる。なかでも丸石の窪みに浮彫された文化12年の双体道祖神はほほえましい。


街道は利根川からはなれて北西の方向にむかっていく。県道13号に合流するすこし手前に八幡宮があり、そこに「史跡佐渡奉行街道」の石碑が立っている。平成10年の新しいものだ。
県道13号との合流点に小さな道標がある。大正6年のもので三方向を示し文字は赤色でなづられ分かりやすい。道は上新田町、小相木町を経て下石倉町に入る。

下石倉町交差点角の菅原神社境内に元首相故福田赳夫の書による旧佐渡奉行街道の石碑がある。並んで設けられた街道の略図碑によると、このあたりがちょうど中間地点のようだ。本庄から5里、渋川までまだ5里ある。次の惣社宿はもうすぐだ。
石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって(1477)8年後のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に幅広く流れていた。橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。(中略)天正18年(1590)5月、徳川勢の進攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた……
石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって(1477)8年後のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に幅広く流れていた。橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。(中略)天正18年(1590)5月、徳川勢の進攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。以下略 平成元年3月吉日 石倉史蹟愛好会
両毛線のガードをくぐり県道109号を横断、短い旧道を歩いて群馬トヨペットの北側から県道12号に出て北に向かう。国道17号を越え石倉町にはいり、広いイチョウ並木通りを進んでいくと、石倉町5丁目で東に一筋はいったところに石倉上二ノ丸公園がある。文明17年(1485)上野国守護代、上杉憲景の築城した石倉城があった。戦国時代信玄、謙信による争奪戦を経て、天正18年(1590)徳川勢によって滅ぼされた。
6世紀代に作られた前方後円墳。墳丘は多数の川原石で覆われており、特に後円部の基段上の墳丘は全て川原石で構成されている。「積石塚」と言われるもので全国的にも珍しいものである。主体部は後円部に両袖型の横穴式石室が存在する。石室全長16.4m、玄室長4.40m、羨道長12mあり、石室全長は県内最長の規模を有している。墳丘からは円筒埴輪及び太刀等の形象埴輪が出土しているが、石室はすでに盗掘を受けており、わ……
6世紀代に作られた前方後円墳。墳丘は多数の川原石で覆われており、特に後円部の基段上の墳丘は全て川原石で構成されている。「積石塚」と言われるもので全国的にも珍しいものである。主体部は後円部に両袖型の横穴式石室が存在する。石室全長16.4m、玄室長4.40m、羨道長12mあり、石室全長は県内最長の規模を有している。墳丘からは円筒埴輪及び太刀等の形象埴輪が出土しているが、石室はすでに盗掘を受けており、わずかに歯2本、辻金具の破片数個が出土している。群馬県の初期横穴式古墳の様相を知る上にも、さらには古墳の構築技法を知る上からも貴重である。 前橋市教育委員会 平成4年11月設置

大渡町交差点の北東角に「王山古墳」がある。公園になっていてあまり古墳らしくないが、墳丘が川原石で覆われた「積石塚」という珍しいものだそうだ。東に進むとすぐに利根川堤防にぶつかる。このあたりに大渡の渡し場があった。渡し跡をしめすものは見当たらなかった。対岸にみえるグリーンドームは前橋競輪場である。
総社城の南木戸外にあるこの神明宮は、秋元氏在城時代に伊勢神宮より勧請されたと推定される。祭神は天照大神、別名大日霎貴命と称する。旧社は老朽化したため、昭和40年10月に、群馬県立前橋工業高校敷地内にあった稲荷神社社殿を移築したものである。例祭は10月9日。境内には八坂神社が末社として祭られ、そのほか民間信仰の遺物、享保6年(1721)の双体道祖神・庚申像などが保存されている。 平成14年3月 総社……
総社城の南木戸外にあるこの神明宮は、秋元氏在城時代に伊勢神宮より勧請されたと推定される。祭神は天照大神、別名大日霎貴命と称する。旧社は老朽化したため、昭和40年10月に、群馬県立前橋工業高校敷地内にあった稲荷神社社殿を移築したものである。例祭は10月9日。境内には八坂神社が末社として祭られ、そのほか民間信仰の遺物、享保6年(1721)の双体道祖神・庚申像などが保存されている。 平成14年3月 総社地区史跡愛存会

県道にもどって大渡町をぬけようやく総社町にはいってくる。その境目交差で右の旧道にはいる。民家の生垣の側に数基の供養塔などが無造作に並べられている。細い道のつきあたりが総社城の南木戸の外側にあたる位置で、そこに野馬塚神明宮が隠れるようにある。そばに宝永3年(1706)の道祖神や享保6年(1721)の双体道祖神がある。隣の家は色付いた雑木林の一角に廃家ともみえる静けさを保って、秋の趣がしみじみと伝わって離れがたい魅力を感じさせた。
県道にもどり、大渡橋西詰交差点を左折し、総社宿に向かう。総社は慶長9年(1604)総社領主秋元長朝が築城とともに整備した城下町である。宿場はその一環として形成された。多くの住民が元総社から移住させられた。元総社は上野国総社神社があるところで、古代の国府所在地と考えられている。その西北方向に三国街道から寄り道した国分寺跡がある。

総社町総社交差点の北西角に本陣があったというが今は標柱が立っているだけで痕跡もない。東南角には問屋福田家があった。現在はマンションスペランザの裏に本宅があり、通りを南にまわって前庭をうかがうとちょうど奥さんがでてこられるところだった。

問屋であったことを訪ねるが要領をえない。
「おとうさんだったらしっていたでしょうけど、夏になくなって。みんな若い者ばかりになったから誰もしらないよ」と他人事のようである。こちらが「問屋だったんですよ」と教える側になってしまった。
「家の写真を撮らせてください」
「布団がほしてあるけど」と、ちょっと屋根を気にした。
天台宗光巌寺の文化財 慶長12年(1607)総社領主秋元越中守長朝侯は、総社城と城下町を完成させ、元総社の徳蔵寺を移し光巌寺を開基された。山号は秋元氏の姓、院号は長朝の江月院殿より、寺号は長朝の母の光巌院殿よりそれぞれつけられ、秋元山江月院光巌寺として秋元氏の菩提寺とした。本尊は釈迦牟尼如来像。寛永3年(1626)将軍秀忠より寺領御朱印高30石を賜り、慶安2年(1649)家光より徳蔵寺(隠居寺)の……
天台宗光巌寺の文化財 慶長12年(1607)総社領主秋元越中守長朝侯は、総社城と城下町を完成させ、元総社の徳蔵寺を移し光巌寺を開基された。山号は秋元氏の姓、院号は長朝の江月院殿より、寺号は長朝の母の光巌院殿よりそれぞれつけられ、秋元山江月院光巌寺として秋元氏の菩提寺とした。本尊は釈迦牟尼如来像。寛永3年(1626)将軍秀忠より寺領御朱印高30石を賜り、慶安2年(1649)家光より徳蔵寺(隠居寺)の御朱印高16石を合わせ46石を支配してきた。 現在の建造物は本堂(文政3年)、秋元家御廟所(文化9年再建)、庫裡(文化10年の再建、長屋門(天明5年5月建立)、楼門(文化年間)・薬師堂・元三大師堂・鐘楼(明和9年)等が並び建ち、天台宗地方寺院(修行寺)として僧侶の養成の役目を果たしてきた。寺内の廟所前には県指定史跡の「カ田遺愛碑(安永5年(1776))、南北朝期の東覚寺七重多層塔・薬医門(市指定重文)の外10数点の文化財が収蔵されている。墓地には明応4年(1495)造立の石憧(市重文)が保存されている。 平成18年3月吉日 総社地区史跡愛存会

佐渡奉行街道宿場は交差点からまっすぐ北にのびていた。すぐ左手の路地入口に光厳寺の門がある。ここを入ってつきあたると白壁の塀の中央に臙脂色の楼門が異彩を放って建っている。立派な長屋門も入口は臙脂である。なかにはいると鐘楼も同じ色で塗られていた。なにか由緒があるのか臙脂の色にこだわりを見せている。光厳寺は元総社の徳蔵寺を移してきて秋元氏の菩提寺としたものである。

寺に隣接して小山のような国指定史跡宝塔山古墳がある。7世紀に造られた方墳で、上部には秋元家12代の墓がある。

近くにある総社資料館に寄った。大きな本間酒店の屋敷の一部を利用したものだ。佐渡奉行街道の情報を探したが全ルートを示すマップ類は見当たらなかった。
「伊香保道中絵巻」の写しの一部が展示されている。18世紀前半に描かれたもので副題として「佐渡奉行街道 総社-大久保」とある。伊香保への湯治客一行は大久保宿の先から西にわかれて伊香保街道を辿っていたのであろう。

「国府想定位置図」も参考になった。国分寺、国分尼寺、山王廃寺跡も国府の近距離にある一連の古代史跡である。後、その中心機能が現総社町に移されたのちは、「元総社」町となった。
庭先に芭蕉句碑がある。旧暦元禄5年(1692)10月3日の句。新暦では11月10日にあたる。ちょうど今頃だ。芭蕉はまだ49才である。昔と今では気温は3度、寿命は15年ちがうか…。
けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ 芭蕉
時雨の寂しさは老いの心を象徴する。(若いあなたがたも)今日ばかりは年寄りの心境になって、初しぐれの情緒を味わってみては?
中山道を本庄宿から分かれて、玉村、総社、渋川への街道は、佐渡奉行が通行した三国街道の古道でありました。総社宿は、秋元越中守長朝が慶長6(1601)年に着任以来、総社城の築城事業の一環として形成されてきました。慶長9(1604)年の町づくりのときには、元総社から総社町に多くの人々を移住させたという記録が残っています。したがって、宿場は城下町としての役割もあり、街道は3ヶ所で直角に折り曲げてつくられ、……
中山道を本庄宿から分かれて、玉村、総社、渋川への街道は、佐渡奉行が通行した三国街道の古道でありました。総社宿は、秋元越中守長朝が慶長6(1601)年に着任以来、総社城の築城事業の一環として形成されてきました。慶長9(1604)年の町づくりのときには、元総社から総社町に多くの人々を移住させたという記録が残っています。したがって、宿場は城下町としての役割もあり、街道は3ヶ所で直角に折り曲げてつくられ、宿の南と北の入口には木戸が設けられてありました。地割りは全長11町30間(1253m)の道路に沿って整然とされていて、間口5~10間、奥行き35~40間の短冊形でした。 総社資料館より
総社大神宮と総社宿 慶長9年(1604)総社領主秋元長朝公が築城と城下町を整備。大手門の西のこの地に伊勢神宮を勧請した。(中略)大神宮は総社町の鎮守で10月9日に祭礼が行なわれる。総社城下町は、佐渡奉行街道(三国道)の宿場であり、全長11町30間(1253m)、道幅5間半(9.9m)、屋敷町割は5~10間の短冊型。本陣・脇本陣・問屋が置かれた。安永2年(1773)には問屋曽我家へ高山彦九郎が宿泊し……
総社大神宮と総社宿 慶長9年(1604)総社領主秋元長朝公が築城と城下町を整備。大手門の西のこの地に伊勢神宮を勧請した。(中略)大神宮は総社町の鎮守で10月9日に祭礼が行なわれる。総社城下町は、佐渡奉行街道(三国道)の宿場であり、全長11町30間(1253m)、道幅5間半(9.9m)、屋敷町割は5~10間の短冊型。本陣・脇本陣・問屋が置かれた。安永2年(1773)には問屋曽我家へ高山彦九郎が宿泊している。 平成14年3月 総社地区史跡愛存会
本間酒店からは大きな切妻造りの家並がつづく。通りの中央あたり右手に総社神明宮がある。入口に総社町道路元標が設置されている。総社城大手門の西にあたり城下町の中心だった。社殿は小さな造りだが総社町の鎮守である。傍に公民館がある。年配の婦人が入っていくところだった。
「昔問屋をしておられた曽我さんの家はどこでしょう」
「すぐそこだけど、本人が公民館にいるから会っていったら? 区長をしておられるんですよ」
「いえいえ、家だけわかればいいんです」
総社城戸ともいわれ、慶長9年(1604)秋元長朝公は、総社城の築城と城下町の整備を実施、城下の西の固めのため設置した木戸である。 天狗岩用水 に架設された立石橋(大渡橋)長さ6間(10.8m)、幅2間(3.6m)の板橋の東側にあった。寛永10年(1633)以降佐渡奉行街道(三国道)の総社宿の木戸としての機能も果たし、明け六ツ・暮れ六ツ(6時)には開閉された。ここより南東1253mの があり、両木戸……
総社城戸ともいわれ、慶長9年(1604)秋元長朝公は、総社城の築城と城下町の整備を実施、城下の西の固めのため設置した木戸である。 天狗岩用水 に架設された立石橋(大渡橋)長さ6間(10.8m)、幅2間(3.6m)の板橋の東側にあった。寛永10年(1633)以降佐渡奉行街道(三国道)の総社宿の木戸としての機能も果たし、明け六ツ・暮れ六ツ(6時)には開閉された。ここより南東1253mの があり、両木戸には木戸番がおかれたと思われる。 平成14年3月 総社地区史跡愛存会 このレンガ積みは、明治27年5月群馬県で最初(全国では5番目)に水力を利用した総社発電所の取水口跡です。(中略)天狗岩用水をせきとめ、50キロワットの電気を起こし、前橋市内に送電してきたが大正3年廃止となり、今は当時の取水口跡を残すのみとなった。 総社地区史跡愛存会
道向かいの「総社郵便局前」バス停そばに「旧佐渡奉行街道総社宿」の説明板が立っている。それによれば福田、曽我のほかにもう一軒猿谷家も問屋だった。
街道は三つ目の鍵の手を左に折れて天狗岩用水を渡る。立石橋の東詰めに西木戸跡の石柱が立っている。城下町と宿場の木戸を兼ねていた。この場所は用水路をせき止めて発電した群馬県水力発電所発祥の地でもある。県で最初、全国では5番目の水力発電所であった。

JR上越線踏切を渡って総社町高井交差点を右折する。北西角に長い塀をめぐらせた武家屋敷のような大きな民家があり、立派な門前に白い標柱がみえる。近寄ってみると「旧前橋城冠木御門」とあった。払い下げを受けたものだろうか。文化財扱いにはなっていないようである。
旧佐渡奉行街道(三国道) 中世この地域は青木庄高井郷といわれ北国と関東を結ぶ旧道があった。玉村から越後への往還を慶長6年(1601)設置された佐渡奉行や北国大名が通行したので佐渡奉行街道といわれた。寛永10年(1633)総社領主秋元氏が甲州谷村へ転封後、高崎藩主安藤出雲守重長により、高井の南西旧東覚寺付近にあった元屋敷を移し、高井(12)・植野(12)の24屋敷が、総社城下町(総社宿)の町屋になら……
旧佐渡奉行街道(三国道) 中世この地域は青木庄高井郷といわれ北国と関東を結ぶ旧道があった。玉村から越後への往還を慶長6年(1601)設置された佐渡奉行や北国大名が通行したので佐渡奉行街道といわれた。寛永10年(1633)総社領主秋元氏が甲州谷村へ転封後、高崎藩主安藤出雲守重長により、高井の南西旧東覚寺付近にあった元屋敷を移し、高井(12)・植野(12)の24屋敷が、総社城下町(総社宿)の町屋にならい宿直しが行なわれた。総社宿と大久保宿の中間の往還として、伝馬宿ではなかったが、越後の諸大名(高田・長岡・村上・村松藩等)と沼田藩、佐渡奉行通行の節は、加助として総社宿や玉村宿へ人馬を差し出した。記録には人足6人と馬3匹を193文の駄賃で八木原の宿より大久保まで荷継ぎをしたとある。安永2年(1773)11月18日には高山彦九郎が通行、天明6年(1786)には「植野・高井など過ぎて惣社町に出ず・・・」と国学者の奈佐勝皋が「山吹日記」に記している。 平成18年3月吉日 総社地区史跡愛存会
交差点を北にはいる。わずかながら旧道の景観が復活する。すぐ左手に高井観音堂敷地内に嘉永4年(1851)の馬頭観音ほか、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。また、「旧佐渡奉行街道(三国道)」の説明板が立てられており、高井は総社宿と大久保宿の中間にあって、大名・奉行が通行したときには総社宿や玉村宿まで助郷として人馬を差し出したとある。
道は植野集落をぬけ、午王頭川(ごおうずがわ)の手前で北群馬郡吉岡町大久保に入る。

旧佐渡奉行街道大久保宿 利根川に沿い北上する佐渡街道は、総社宿を過ぎて午王頭川の橋を渡ると此処から大久保宿となる。宿場は土蔵と蚕屋造りの家並みが軒を連ね、駒寄川まで約2キロのこの宿場を「大久保の長宿」とも言い、中程にある大泉寺を境にして北を寺上、南を寺下と呼ぶ。江戸初期は大名の通行もあったが、高崎回りの三国街道が整備されて、諸大名の通行はこの道に移った。しかし、佐渡金山奉行は後世までこの道を利用し……
旧佐渡奉行街道大久保宿 利根川に沿い北上する佐渡街道は、総社宿を過ぎて午王頭川の橋を渡ると此処から大久保宿となる。宿場は土蔵と蚕屋造りの家並みが軒を連ね、駒寄川まで約2キロのこの宿場を「大久保の長宿」とも言い、中程にある大泉寺を境にして北を寺上、南を寺下と呼ぶ。江戸初期は大名の通行もあったが、高崎回りの三国街道が整備されて、諸大名の通行はこの道に移った。しかし、佐渡金山奉行は後世までこの道を利用したので佐渡街道と呼んだ。通行する際は上・中・下の三問屋が近隣の助郷のもとにその役割を果たしてきた。 平成10年3月31日 吉岡町教育委員会
午王頭橋の袂に石仏群が円陣を組んでいる。
川をわたると大久保宿の標柱と説明板がある。ここから北へ2kmにわたる大久保の長宿がはじまる。下・中・上宿にわかれ、それぞれに問屋があった。本陣はなさそうである。沿道には町屋風の家こそないが、ナマコ壁の土蔵や蚕室造りの家などがみられ、大きな農家が続く静かな町並である。


道の左手に笠付きの立派な供養塔が立っている。台座に女人講中とあり塔身には赤子を抱いた仏の浮彫が施されている。この塔身だけが新しい石のようであり、そこに彫られたレリーフの赤と白の彩色とともに、他の古びた石材と不釣合いで妙に気になる石塔であった。
大泉寺境内元三大師堂の北隣にある不動尊は、一石で刻まれたもので、両脇に勢多迦童子と矜羯羅(こんがら)童子の二童子を従えている。五大明王の主尊である不動明王は、右に降魔の剣を握り、左に捕縛の縄を持ち、背に火炎を背負い、全ての邪悪なものを降伏させるという。立像の背には天下泰平、国土安全、伊豆国願主などの刻字があるが、これは本山修験大久寺の本尊で、大久寺は県道の西側にあり、明治初年に廃寺になり、ここに祀……
大泉寺境内元三大師堂の北隣にある不動尊は、一石で刻まれたもので、両脇に勢多迦童子と矜羯羅(こんがら)童子の二童子を従えている。五大明王の主尊である不動明王は、右に降魔の剣を握り、左に捕縛の縄を持ち、背に火炎を背負い、全ての邪悪なものを降伏させるという。立像の背には天下泰平、国土安全、伊豆国願主などの刻字があるが、これは本山修験大久寺の本尊で、大久寺は県道の西側にあり、明治初年に廃寺になり、ここに祀ったものである。 平成3年4月1日 吉岡町教育委員会
宿場のなかほど、大通りの手前に大泉寺がある。ここにも目をひく石仏がいる。一つの石から掘られたという不動尊も赤々と燃える炎を背にしてこちらを睨みつけている。檻に入れなくてもいいだろうに。

「鐘塚の碑」と呼ばれる芭蕉の句碑がある。昭和62年の建立だが標柱には誰が建てたともなぜここにとも書いていない。
鐘つかぬ里は何をか春の暮


中の宿に入ると強烈な大屋敷があらわれる。長屋塀に沿って菊の花を満載した30個ものプランターがずらりと並べられている。入口をのぞくと紅柄袴板に白壁の堂々たる長屋門を構えている。中を覗くと中庭にもプランターが一杯。母屋は高覧付きの二階建てで、屋根には煙出しにしては大きすぎる長い越屋根を置いてある。植え込みの奥に淡い肌色の色気ある土蔵がその一部を恥じらいながら見せていた。唖然と見とれるばかりである。

道の反対側には医薬門を構え、煙出しに見越しの松を配した几帳面で真面目そうな佇まいを見せる家がある。これが中町の問屋らしい。
上町には二一夜念仏供養塔と、素朴な双体道祖神が道端にならんでいる。
この地蔵さまは元禄15年(1702)に建てられたもので、足元に幼児をみとり、子育の姿をしている。二体あって双体地蔵とも呼ばれ、念仏講の人々によって建てられた。大久保村の人々だけでなく、川原島新田と言った現在の前橋市川原町の人々も名を刻まれ、大久保村と川原島新田との古いおつきあいの関係を示している。地蔵さまと言えば、左手に宝珠、右手に錫杖を持った姿で、おとなから子供まで、村人に親しまれた仏さまである……
この地蔵さまは元禄15年(1702)に建てられたもので、足元に幼児をみとり、子育の姿をしている。二体あって双体地蔵とも呼ばれ、念仏講の人々によって建てられた。大久保村の人々だけでなく、川原島新田と言った現在の前橋市川原町の人々も名を刻まれ、大久保村と川原島新田との古いおつきあいの関係を示している。地蔵さまと言えば、左手に宝珠、右手に錫杖を持った姿で、おとなから子供まで、村人に親しまれた仏さまである。 一度盗難にあい、そのためセメントで固めたために、刻宇など見えなくなっている。 平成4年3月31日 吉岡町教育委員会
宿場の出口近くには二体の子育て地蔵尊が立っている。足元に幼児の浮彫がある。二体一対で作られ双体地蔵とよばれているめずらしいものである。骨折したひじを固めているかのような前掛けが窮屈そうだった。
本古墳は全国でも極めて数の少ない(正)八角形墳である。墳丘は二段築成で周堀を持ち、その規模は墳丘対角間で23.8m、残存高4.5mである。八角形の一辺の大きさは下段で約9m、上段で約6mを有する。墳丘の企画設計に当っては唐尺(1尺=30cm)が使用されたことが推測される。墳丘下段の縁辺部には列石が配され、上段は扁平な川原石で丹念に葺かれている。石室は破壊されていたが、奥壁石や側壁根石の抜き取り跡か……
本古墳は全国でも極めて数の少ない(正)八角形墳である。墳丘は二段築成で周堀を持ち、その規模は墳丘対角間で23.8m、残存高4.5mである。八角形の一辺の大きさは下段で約9m、上段で約6mを有する。墳丘の企画設計に当っては唐尺(1尺=30cm)が使用されたことが推測される。墳丘下段の縁辺部には列石が配され、上段は扁平な川原石で丹念に葺かれている。石室は破壊されていたが、奥壁石や側壁根石の抜き取り跡から、一部切石を用いた自然石乱石積の横穴式石室であったと思われる。副葬品は盗掘により発見できなかった。八角形の企画は、玄室奥壁を中心として石室主軸をほぼ真北に向け、八等分している。古墳の年代は八角形の墳丘構造、石室の特徴から7世紀後半と考えられる。八角形墳の存在は7世紀中頃から8世紀初頭にかけての畿内地方の天皇陵古墳あるいはそれに準ずる古墳に代表される。ただし、これらの多くは発掘調査により、本来の姿が確認されたわけではない。その意味でも墳丘形態が確認できた三津屋古墳の資料的価値は極めて高い。本古墳は調査時の葺石・列石・盛土を一部修復し、欠失部分は調査結果から復元した。また、古墳内部見学施設は、石室根石状況並びに土層断面を発掘調査時のまま展示した。 平成14年3月 群馬県教育委員会 吉岡町教育委員会
すぐ左手に三津屋古墳の標識があり、路地をはいると住宅地の真ん中に珍しい正八角形をした二段の古墳があった。縁辺部分も扁平な天井部分も隙間なく石で葺かれている。山王古墳の解説にあった「積石塚」と同類のものか。土も草もなくコンクリートで固めたような冷たい古墳に見える。

駒寄橋で長い宿場が終わる。三差路に伊香保街道が分岐する追分道しるべがある。「右 ゑちご 志ぶ川 左 いかほ 水さハ」とある。伊香保道中絵巻の連中はここを左にとっていったのだろう。佐渡奉行はまっすぐ右の細い道を行く。

人家が途絶えたところで上越線の長坂踏切にさしかかる。電車を期待してしばらく休んでいると、警報がなりだした。現れたのは幸運にも特急水上号だった。踏切をわたり坂をくだる。視界が開け田園が広がる。左手の線路から電車の音が聞こえてきた。今度はかわいい2両編成のローカル線だ。
駒寄以来ここまで旧街道は西側の大久保と東側の漆原の境界をなしてきた。吉岡川をわたりサントリー榛名工場をかすめて川久保踏切を渡ると吉岡町から渋川市にはいる。今度は旧道が西の八木原と東の半田を分けてすすんでいく。
市指定史跡 八木原の道しるべ 指定年月日 昭和四十七年十月二十日 所在地 渋川市八木原1275 佐渡奉行街道の八木原宿南の三本辻に、天保4年(1833年)に建立されたものである。三角錐形の安山岩の自然石で、塔身の高さは133cmである。 表面の上部に「右高崎」 「左江戸」と大きくあり、その下に県内では榛名山・一之宮・妙義山、県外では日光山・善光寺・伊勢大神宮・京都・大坂・讃州金毘羅への道のりが刻ま……
市指定史跡 八木原の道しるべ 指定年月日 昭和四十七年十月二十日 所在地 渋川市八木原1275 佐渡奉行街道の八木原宿南の三本辻に、天保4年(1833年)に建立されたものである。三角錐形の安山岩の自然石で、塔身の高さは133cmである。 表面の上部に「右高崎」 「左江戸」と大きくあり、その下に県内では榛名山・一之宮・妙義山、県外では日光山・善光寺・伊勢大神宮・京都・大坂・讃州金毘羅への道のりが刻まれている。 江戸末期の庶民の信仰と旅の広がりを示すよい資料である。 渋川市教育委員会 江戸30里 高崎4里 一之宮8里 妙義山9里 日光山23里 善光寺33里 伊勢大神宮110里 京都111里半 大坂124里半 讃州金毘羅175里半
集落にはいってまもなく、三国街道金子宿からくる道との合流点によくめだつ常夜燈とならんで八木原の道しるべがある。天保4年(1833)の建立で、三角錐形の自然石に「右高崎」「左江戸」と大きくあり、下部に広範囲にわたる里程が刻まれている。一番近くは高崎まで4里、遠くは讃岐金比羅まで175里とある。北方から来た旅人のための追分道しるべである。


土手に10月桜が美しい滝沢川をわたって宿場に入る。町並に宿場の面影を偲ぶ建物はのこっていない。県道26号を越えた右手に八木原宿場碑、八木原由来碑、すぐ先に高札場跡の碑があって、ここが宿場だったと知るくらいである。宿場の規模も500mほどと大きくない。

途中、左の路地を入って清泰寺に寄った。静まり返った境内は秋色に彩られている。あたりには土蔵をもった越屋根付きの大きな農家も見られる。

街道への帰り道、トレーニングウェアに大きなバッグを担いで帰る数人の女子中学生が前を歩いていた。元気な声がはじき飛ぶ。鳥の群れが渦をまいては急に位置を変えるように、歩みが一定していない。追い越そうとする前、少女たちの動きが止まりしばらくの沈黙があった後いっせいに「こんにちは」と大きな声をかけられた。「こんにちは」と答えると、2,3秒後には元のざわつきにもどった。あの沈黙は発声タイミングの打ち合わせだったとしか思えない。

街道にもどりすぐ諏訪神社への道を入る。低い石鳥居は元禄15年(1702)のもので渋川市最古の鳥居だとある。境内には道祖神や馬頭観音などが枯葉の絨毯を敷いて並んでいた。

集落をでると道は二手にわかれ、旧道は左に折れて関越自動車道に向かって進む。午王川を越え自動車道にぶつかったところで旧道は消失。やむなく、自動車道に沿って北へすすみ、上越線第一堰上踏切をこえて左折し自動車道をくぐり、さらにその先の跨線橋の下でみちなりに右に曲がって旧道筋にもどる。

左にはカインズ、しまむら、ユニクロなどの集まるショッピンセンター、その東側を上越線が斜めに走っている。右手遠くに赤城山のなだらかな稜線が左にながく尾を引いている。低くなだらかにしたハワイのダイヤモンドヘッドのように見える。

茂沢川にかかる更生橋をわたり中村集落にはいる。橋からみた茂沢川の景色が紅葉盛りの大木とその向こうにみえる二つの尖った峰を配して美しかった。


集落の入口民家の脇に深く刻字された文化8年(1811)の道祖神がある。門をかまえた古い民家がみられ、街道筋の雰囲気を残す家並みである。県道をよこぎる手前に延命寺。県道をこえてから集落の終わりにある早尾神社までの道がすばらしかった。色付いた蔦がからまる土蔵に挟まれて自然なくねりをみせる道をすすむと、こんどはたわわにつけた柿の実とモミジの大木が秋の暖色で道の行く手を彩っている。100mの街道に田舎の秋が凝縮されていた。


早尾神社の見上げるようなケヤキの大木をみて中村集落をぬける。広い自動車道を横切って左斜めの細道をたどると、渋川駅東口の駐車場にぶつかる。おそらくかっては駅の西側につづいていたのだろう。大きく右にまわりこんで、跨線橋を渡って駅の西側にでる。最も線路に近い道を北にすすみ平沢川にかかる庚申橋を渡る。橋の袂には地蔵がブロック祠に祀られている。
ここには古くから日本の中心と言われる「へそ石」があります。それにちなんで、昭和59年にこの「へそ地蔵さん」が建立されました。その名前のとおり、御尊体のまんなかに立派な「おへそ」があります。「おへそ」は母と子の大切な「きずな」であり人間愛の象徴であります。お参りの方は「おへそ」をなでてから合掌し、参拝して下さい。必ずあなたの家庭円満、健康、安産、愛情、友情、縁談等、又子供達の学業向上等が願成されるで……
ここには古くから日本の中心と言われる「へそ石」があります。それにちなんで、昭和59年にこの「へそ地蔵さん」が建立されました。その名前のとおり、御尊体のまんなかに立派な「おへそ」があります。「おへそ」は母と子の大切な「きずな」であり人間愛の象徴であります。お参りの方は「おへそ」をなでてから合掌し、参拝して下さい。必ずあなたの家庭円満、健康、安産、愛情、友情、縁談等、又子供達の学業向上等が願成されるでしょう。どうぞ「おへそ」にふれて感謝の心で記念してください。
角屋食堂の交差点を左折し県道33号の大きな新町五差路交差点に出る。「へそ石・へそ地蔵」の案内標識にひかれて寄ってみた。寄居町交差点角に楽しげな一角が設けられている。自然石のへそ石、地蔵の腹についている小豆色のへそ。いづれもへそは出べそである。へその意味することは、ここが地理的に日本の中心にあたるということらしい。北緯36度29分、東経139度0分。暇があれば地図を開けて日本の東西南北端を探してみよう。領土問題があるからなあ…。

渋川宿は県道33号に沿って、下ノ町・中ノ町・上ノ町・川原町・裏宿と、西に延びていた。上・中・下ノ町には交互に市が立って賑わいをみせた。特に下ノ町の四ツ角はかって宿場の中心として賑わった辻だが、今は周辺を含めた四ツ角周辺土地区画整理事業が進行中で、辺りは家屋が撤去されて空き地が目立っている。一筋北のかっての路地裏は今や手前の空き地で明るみに出てしまったが、長屋風の建物や岸家の土蔵とケヤキの巨木は往時の面影を残している。

中ノ町にある旧渋川公民館は昭和6年(1931)に建てられた3階建て鉄筋コンクリート造りである。石や赤レンガタイルの外壁にはうっすらと色づき始めた蔦が屋根までのびてレトロ風情を醸している。

その斜め向かいには黒々とした店蔵が保存されていた。堀口家の表札が架かっていた。ただ「登録有形文化財」の青銅パネルが貼り付けられているだけで寡黙な佇まいである。

道が右に折れるところに創業100余年というそば処「けむりや」が店を構えている。看板の脇に明治10年の渋川村里程元標がたっている。もともと石標だったと思うが木の柱に白ペンキ書されている。「伊香保村へ2里7町12間1尺 金井村へ25町○5間3尺」と里程は厳密であった。

「けむりや」からやや右に道はまがり、すぐ先で左に出る道がある。頭上に「渋川女子高等学校20m」の案内標識がでている。高崎を出発した新しい三国街道はここに出た。三国街道古道である佐渡奉行街道の終点である。
(2008年11月)