三国街道 6区間のうち1番目

三国街道(1)

高崎-金古-渋川-金井-北牧-横堀

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高崎

三国街道は信濃(長野)・越後(新潟)・上野(こうずけ)(群馬)の三国が接する三国峠をこえることからその名がついた。現在の三県境界点は三国峠から10km以上も西に位置するが昔の国境は三国峠付近であったらしい。三国街道は中山道高崎宿と北国街道越後路の寺泊宿を48里(約192km)で結ぶ。信州は通らない。従って三国街道は上越街道である。さらにいえば、高崎-寺泊間を延長して中山道経由の江戸から日本海に浮かぶ佐渡島を結ぶ関越佐渡街道でもある。江戸と日本海を結ぶ最短路であった。佐渡からは金が送られ、佐渡へは罪人が送られた。越後からは米や越後縮みがもたらされた。また佐渡奉行をはじめ長岡・新発田(しばた)・村上・与板等越後9藩の大名が往来した。

三国峠を越えた越後側の南魚沼地方はコシヒカリ発祥の地として知られ、また戦国時代の武将、北条(長尾)景勝と直江兼続生誕の地でもある。2009年NHK大河ドラマ「天地人」はこの二人が主役となって、三国街道を駆け巡ることであろう。

高崎

高崎城址 高崎市 群馬県
高崎城址 高崎市 群馬県

高崎市指定史跡 (高崎城三の丸外囲の土居と堀) 箕輪(みのわ)城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(1598)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、ニの丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ……

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高崎市指定史跡 (高崎城三の丸外囲の土居と堀) 箕輪(みのわ)城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(1598)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、ニの丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁が築かれていました。明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。 都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「表門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料か残されているため、当時の姿を知ることができます。 高崎市教育委員会 高崎城の由来 天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏も滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。当時、箕輪城主であった井伊直政は家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。井伊氏築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。現在の遺構は三の丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初年の御三階櫓の写真や「高崎城大意」「高崎城断面図」「御城御土居通ほか、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されており、これらによって往時を知ることができる。

高崎は古くから関東の西口として古代東山道、近世中山道が通る交通の要衝であった。高崎から北に向かって三国街道が分岐し、一つ南の倉賀野からは日光例弊使街道が分れている。高崎はまた城下町である。古くは鎌倉時代和田氏が城を構え、江戸時代になって井伊直政が築城しなおし城下町を整備した。

高崎城乾櫓 高崎市 群馬県
高崎城乾櫓 高崎市 群馬県

この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したことが……

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この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したことが明らかである。多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。幸いにこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方300mの地点に当る。屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。高崎城には石垣はほとんどなかった。この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得ず築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。 昭和52年5月 高崎市教育委員会

高崎駅西口から西に進み新町交差点で旧中山道である県道25号(高崎渋川線)をよこぎり高崎市役所前にでると、高崎城三の丸を囲っていた土塁と堀が残る城址公園がある。堀沿いに北に歩いていくと音楽センター前交差点角に二層のが復元されている。明治になって民間に払い下げられ、取得者はこれを納屋に使っていたという。のどかさが伝わってきておもしろい。化粧しなおした立ち姿は小柄ながらも優美な佇まいである。

その横に復元された東門も乾櫓とおなじく、当時の名主梅山氏が払い下げを受けたものである。梅山氏のおかげで高崎城は群馬県下で城郭建築物が現存する唯一の史跡となった。

新町交差点にもどって旧中山道をあるく。42年前、ここを歩いていたはずだが何の記憶も無い。写真をみると街道からかなりはずれた観音山公園で野宿している。地元の大学生にビールをおごってもらった。

旧高崎宿 田町通り 高崎市 群馬県
旧高崎宿 田町通り 高崎市 群馬県

中山道高崎宿は新町、田町、元町の三町でなっていた。本陣も脇本陣もなく旅籠も少なかった。旅人、大名ともども城下町に宿泊することを敬遠したのだという。「お江戸みたけりゃ高崎田町 紺ののれんがひらひらと」と唄われた宿場の中心地田町には金融機関が集中している。明治・大正時代の由来書きを添えた建物が2、3あったほか宿場時代を偲ばせるものは見当たらない。

山田家(旧山源漆器店) 本町 高崎市 群馬県
山田家(旧山源漆器店) 本町 高崎市 群馬県

この建物は店蔵及び主屋からなり、明治15年頃に建てられたと伝えられています。特に通りに面した店蔵は、熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に設けられた軸吊り形式の観音開き扉、そして漆喰で仕上げ、更に黒く塗られた外壁等、重厚感あふれた外観を持ち、通行する人々が思わず足を止めるほど、印象深い景観を創っています。関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残してい……

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この建物は店蔵及び主屋からなり、明治15年頃に建てられたと伝えられています。特に通りに面した店蔵は、熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に設けられた軸吊り形式の観音開き扉、そして漆喰で仕上げ、更に黒く塗られた外壁等、重厚感あふれた外観を持ち、通行する人々が思わず足を止めるほど、印象深い景観を創っています。関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物として、貴重な存在といえます。

本町3丁目で左折する。左手に古い建物が残っていた。明治時代の黒漆喰の店蔵は山源漆器店である。金澤屋は出桁造りの町家造りである。本町は商店街として繁盛していたのであろう。本町1丁目の大きな交差点に出る。

旧中山道はここを直進して赤坂を下り、常葉町で北に折れて烏川を渡っていた。常盤町界隈は往時の道幅のままに風情ある町並みが残っている。「日本一しょうゆ直売」の幟をかかげるのは岡醤油醸造、向かいの大きな屋敷を囲う赤煉瓦塀には「山田文庫」の銅板パネルが貼り付けてある。高崎経済界の重鎮山田氏居宅跡だという。

三国街道起点 本町1丁目交差点 高崎市 群馬県
三国街道起点 本町1丁目交差点 高崎市 群馬県前方が三国街道 手前は中山道

本町1丁目交差点にもどり北に向かって三国街道(県道25号)を歩き出す。交差点角には「中山道高崎宿」と記された標柱が立っているが三国街道の起点を示す標識類はみかけなかった。

追分道祖神 飯塚町 高崎市 群馬県
追分道祖神 飯塚町 高崎市 群馬県

信越本線の高架をくぐり飯塚町南信号の次の交差点の先で旧道が左に分れている。追分に道祖神と八坂大神の石碑が並んでいる。旧街道は車の往来も少ない下町の路地をいく風情である。

史跡三国街道みちしるべ 下小鳥町 高崎市 群馬県
史跡三国街道みちしるべ 下小鳥町 高崎市 群馬県右越後 ぬまたxx いかほxx くさつxx 道

国道17号を横切り高崎環状線の下小鳥町西交差点を越えてすぐの五差路に高くて立派な三国街道道標が立っている。「右越後」と深々と彫られその下につづいて「ぬまたxx いかほxx くさつxx」と平仮名で縦三列に刻まれている。

旧街道はここを右斜めに折れて住宅街をとおりぬけ、新幹線の高架をくぐり大八木町を抜けて井野川をわたる。新幹線の高架下には笠付庚申塔が、井野川の右手ほとりには大八衛神と馬頭観音が祭られている(資料写真①、②)。大八衛神とはなんの神か知らない。

畔見家宅 中泉町 高崎市 群馬県
畔見家宅 中泉町 高崎市 群馬県

街道は福島町に入る。静かな住宅街で、土蔵を配し立派な塀をめぐらせた民家がめだつ。道端に多くの石仏をならべた民家の角を右折し次の十字路を左に折れる。金剛寺の東側を通って北に進みT字路を右折して直ぐに左折する。この角には一段と広壮な畔見邸が構えている。黒塀に続いて海鼠腰壁にまぶしい白漆喰を塗りこめた櫓のような土蔵が角を占めている。どんな旧家なのだろう。

その先稲荷神社参道前を左折、すぐに右折してアパートの立ち並ぶ住宅街を通り抜け茂木鉄工所の前で左に曲がると県道10号に出る。そば処「桑風」に入った。メニューを繰っていると女将さんが「これだけです」とランチメニューを示した。みな2、3人分の量のそば定食で千円以下の品がない。招かれない客の気分でそのまま出てきた。

県道を横切り唐沢川に沿って北上する。「三ツ寺西」バス停の先に磨耗した双体道祖神と道標(資料写真③、④)がある。道標は「右金x 左高x」としか読めないがおそらく「右金古x 左高崎x」で、xは「道」か「宿」であろうと想像する。

しばらくいくと三ツ寺公園があり、左手の塚上には庚申塔が集められている(資料写真⑤)。街道は田園地帯を北に進み広い道と合流して東に向かい県道25号の棟高交差点に出る。次の足門交差点で右にとって国分寺跡へ寄り道した。

妙見寺 引間町 高崎市 群馬県
妙見寺 引間町 高崎市 群馬県

県道127号を東へ3kmほど行ったところの引間交差点を左におれ染谷川をわたったところに妙見寺がある。空き地に車が数台とまっているが人影はみえない。静かで心安らぐ空間だ。

妙見寺前の分かれ道を国府公民館の案内標識にしたがって右にとり、公民館を通りすぎると上野国分寺館前にたどりつく。職員が開館前の掃除をしているところであった。

上野国分寺跡 引間町 高崎市 群馬県
上野国分寺跡 引間町 高崎市 群馬県

奈良時代天平13年(741)に、聖武天皇は国の安泰を願うため国ごとに僧寺と尼寺をつくることを命じられました。これは「国分二寺」と呼ばれていましたが、後に七重塔をもち規模の大きい僧寺が「国分寺」と呼ばれるようになりました。 当時、現在の群馬県は上野国と呼ばれていましたが、国分ニ寺は国府(現在の県庁にあたる)の北西に、西に僧寺、東に尼寺が並ぶように建てられました。 歴史書によると、上野国分寺は碓氷郡や……

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奈良時代天平13年(741)に、聖武天皇は国の安泰を願うため国ごとに僧寺と尼寺をつくることを命じられました。これは「国分二寺」と呼ばれていましたが、後に七重塔をもち規模の大きい僧寺が「国分寺」と呼ばれるようになりました。 当時、現在の群馬県は上野国と呼ばれていましたが、国分ニ寺は国府(現在の県庁にあたる)の北西に、西に僧寺、東に尼寺が並ぶように建てられました。 歴史書によると、上野国分寺は碓氷郡や勢多郡の豪族の協力により、750年頃には主な建物が完成したようです。これにより、全国の国分寺の中でも最も早い時期に姿が整ったことがわかります。 以下略

七重塔基壇跡(上野国分寺跡) 引間町 高崎市 群馬県
七重塔基壇跡(上野国分寺跡) 引間町 高崎市 群馬県

国分寺には、国の平和と繁栄を祈るためのお経を納める七重塔が建立され、国分寺の象徴となっていました。この塔の基壇(基礎の土壇)と礎石(柱の台石)の一部が、1200年以上の間この場所に残っていました。この基壇は、一辺の長さが19.2mあって、周囲は榛名山産出の安山岩の切石を組んで化粧されていました。礎石の間隔が3.6mであることから、塔は初層の一辺が10.8mで、高さは約60mであったと推定されます。……

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国分寺には、国の平和と繁栄を祈るためのお経を納める七重塔が建立され、国分寺の象徴となっていました。この塔の基壇(基礎の土壇)と礎石(柱の台石)の一部が、1200年以上の間この場所に残っていました。この基壇は、一辺の長さが19.2mあって、周囲は榛名山産出の安山岩の切石を組んで化粧されていました。礎石の間隔が3.6mであることから、塔は初層の一辺が10.8mで、高さは約60mであったと推定されます。全国の国分寺の塔の中でも、最大級のものです。また基壇の中心にある礎石(心礎)の中央には円形の突起(出?)、その他の礎石の上面には円形にならした柱座の痕跡が見られます。これと発掘調査で判明したことに従って、土の部分は版築で、化粧石は榛名山から採った石を用いて再現しました。 1996年

建物の北側に長い築地塀と堀が復元されている。その向こうには正方形の石組みの基壇上にかって優美な姿を誇示していたであろう七重塔の礎石が保存されている。脇に咲く彼岸花は手植えのものであろう。

ここから上野国府跡まではそう遠くない。共に古代の東山道が通っていた場所である。高崎は東山道の道筋からはすこし離れるが中世になって東山道の後継者である中山道が通ることとなった。

足門交差点に戻る。路地をすこし東にはいった群馬町中央公民館の敷地内に、かって三国街道と板鼻道の三叉路にあったと言う道しるべが保存されている(資料写真⑥)。文字は磨耗が激しくて読めないが、脇の説明板によると、正面に「元禄七年 向北 志ぶ川道」、左面に「左たかさき道」、右面に「右いたはな道」と刻まれているという。1694年の県内でも古い道標で群馬町重要文化財である。

金古

金古宿南木戸 足門町 高崎市 群馬県
金古宿南木戸 足門町 高崎市 群馬県

これより金古宿 古くは中世よりその発生が確認されているこの金古宿は、江戸幕府の5街道整備により発達した中山道より高崎追分にて分れ、越後に向かう三国街道の要所として、発展を致しました。宿場内には代官所、本陣や脇本陣などが配されそれらを挟み込むように問屋や旅籠屋、茶屋などが立ち並び宿場町を形成していました。市が立つときには、芝居小屋や見せ物小屋なども出て近郷からも多くの人が訪れた様です。また勧進相撲な……

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これより金古宿 古くは中世よりその発生が確認されているこの金古宿は、江戸幕府の5街道整備により発達した中山道より高崎追分にて分れ、越後に向かう三国街道の要所として、発展を致しました。宿場内には代官所、本陣や脇本陣などが配されそれらを挟み込むように問屋や旅籠屋、茶屋などが立ち並び宿場町を形成していました。市が立つときには、芝居小屋や見せ物小屋なども出て近郷からも多くの人が訪れた様です。また勧進相撲など行われたのでしょうか、土俵という地名も残っています。 ここ南の木戸前の道租神辺りでは、入宿を前に身支度や隊列を整えたり、人待ちをする人々に往来の人々が加わり大層な賑わいであったことでしょう。また昭和28年に廃線となった高崎~渋川~伊香保を結ぶ路面電車(通称ガタ電)の足門交換場(待避所)もやはりここに有りました。

染谷川の手前左手、レストラン「和膳」の駐車場端に小さな双体道祖神が置かれ、傍に金古宿の案内板が設けられている。誰が設置したものか、教育委員会ではなさそうだ。この辺りに金古宿の南木戸があったという。その先の染谷川から金古町にはいる。

桜並木・馬頭観音 金古下宿 金古町 高崎市 群馬県
桜並木・馬頭観音 金古下宿 金古町 高崎市 群馬県

右手に残る桜並木は街道の名残りだろうか、並木の中に宝暦三年の古い馬頭観音を見つけた(資料写真⑦)。並木の右側に残っている道は旧道のように見える。

金古下宿のバス停脇に庚申塔が集められている(資料写真⑧)

金古交差点あたりが中宿で宿場の中心であったのだろう。セガイ造りの古い民家が見受けられた。牛池川に架かる橋は土俵橋。南木戸前の案内板にあった土俵地区である。宿場の一番賑やかなこのあたりで勧進相撲が行なわれたのだろうか。

金古神保家大門(表門) 金古町 高崎市 群馬県
金古神保家大門(表門) 金古町 高崎市 群馬県金古宿は、江戸初期に三国街道の宿場町として成立した。神保氏は当地の旗本松田氏の代官として、代々名主も努めた豪農であった。現在、主屋と表門・圏舎が残っている。中でも表門は、総ケヤキ造りで、北側に門番の部屋が付属する。南門柱などに多くの埋木があるのは、慶応4年の世直し一揆に襲撃された際の補修によるものである。群馬町重要文化財 昭和52年4月指定
金古神保家(上の問屋) 金古町 高崎市 群馬県
金古神保家(上の問屋) 金古町 高崎市 群馬県金古宿は旗本3人の所領だったことから問屋も3軒に別れ月の前半を上の問屋(神保家)が、16日から25日までは中の問屋(松岡家)が、26日から月末を下の問屋(羽島家)が交代で務めた。

やがて左手に代官所としてつかわれた神保家の表門が現れる。右側に付属する小屋は門番用の部屋である。金古の豪農神保家は旗本松田氏の代官を勤めていた。門の中にはいるとほとんど荒地の状態であった。道向かいの塀をめぐらせ大きな土蔵を有する建物も神保家の問屋跡である。神保家は上の問屋として、中の問屋(松岡家)、下の問屋(羽島家)と交代で月の前半を務めていた。

金古上宿の大ケヤキ 金古町 高崎市 群馬県
金古上宿の大ケヤキ 金古町 高崎市 群馬県

上宿交差点角にケヤキの巨木がそびえている。今年2月に市の保存樹木に指定された旨の標識が立ってあるが、種類はケヤキとあるだけで、樹齢、樹高、周囲等の情報はない。

南木戸からここまで、今の金古宿はところどころに往時の片鱗を残す町並であった。

街並 清野町 前橋市 群馬県
街並 清野町 前橋市 群馬県

街道は蟹沢川をわたると高崎市金古町から前橋市清野町にはいり、重厚な土蔵が建ち並ぶ町並をとおりぬける。昔は野良犬という変わった地名の村で、三国街道の整備に伴い街道沿いに短冊形の集落を形成した。清野自体は宿場ではないが渋川宿の助郷を務めている。

蔵並のなかでも圧巻なのは江戸時代からの上州商人「虎屋」(木暮家住宅)である。おもしろいことに土蔵は街道の東側にしか建っていない。西側は蔵なしかといえばそうではないらしい。榛名山から吹き下ろす西風対策として敷地の西側に蔵を置き主屋はそれに直交する形でL字型に配置された。街道の西側でも同じ構成になっているため蔵は街道の東側にしか見られないのだという。

八幡川にかかる蟹沢橋をわたると前橋市から北群馬郡吉岡町にはいり、陣場とよばれる由緒ありげな地域を通るが特段の歴史情報はない。

田中交差点の先、田中バス停の東側に立派な道祖神と二基の五輪塔が並んでいる(資料写真⑨)。豊栄工業の社屋とホース格納庫の死角になっていて街道からはみえない。道祖神は下野田に生まれた江戸時代の書家角田無幻の筆になるもので、五輪塔は桃井塚とよばれ吉岡町教育委員会による説明板がたっている。

桃井播磨守直常は、我が郷土が生んだ南北朝時代の武将である。下八幡の舘に生まれ長じて城山の麓に館を移したと云う。元弘3年(1333)足利尊氏に従い六波羅政めに参加し、その後播磨守に任ぜられ、越中国守護に封ぜられた。観応の騒乱には足利直義方につき直義亡き後は南朝方に味方し、貞治5年(1366)足利義政と越中に戦った。直常の終焉については判然としないが晩年は桃井荘に隠棲し、ここに没しこの地に葬られたと伝えられる。 この五輪塔は桃井直常の墓と言われ、地輪の上部と水輪の下部に穴があり、ここに納骨した墓塔と考えられる。左の五輪塔は直常夫人の供養塔と言われる。 平成3年4月1日 吉岡町教育委員会

街道は南下交差点で県道とわかれ左斜めにはいっていく。角に横倒れになった道標があった。大正7年のものだが読みづらい。「東 大久保 西北 下上野田」と刻されているようだ。西北 下上野田がこれからいく所である。

双体道祖神 上野田 北群馬郡 群馬県
双体道祖神 上野田 北群馬郡 群馬県

旧三国街道 この道は昔三国街道といい、三国峠を越えて越後・佐渡に至る道で、江戸時代5街道に次ぐ主要な道であった。全長190km、群馬県内は高崎から三国峠まで約75km、高崎市本町で中山道とわかれ北進し、金古を経て吉岡町田中で現在の県道高崎-渋川線の西に入り、明治小学校の側を通り上野田・小倉から行幸田田圃の中を北に進み渋川・金井・北牧を通って中山峠を越え利根郡に入り下新田・猿ヶ京を経て三国峠を越えて……

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旧三国街道 この道は昔三国街道といい、三国峠を越えて越後・佐渡に至る道で、江戸時代5街道に次ぐ主要な道であった。全長190km、群馬県内は高崎から三国峠まで約75km、高崎市本町で中山道とわかれ北進し、金古を経て吉岡町田中で現在の県道高崎-渋川線の西に入り、明治小学校の側を通り上野田・小倉から行幸田田圃の中を北に進み渋川・金井・北牧を通って中山峠を越え利根郡に入り下新田・猿ヶ京を経て三国峠を越えて新潟に至った。人馬のほか物資の交流の道でもあった。江戸幕府の取り締まりも厳しく途中吾妻川を渡る所に杢が橋関所・三国峠にかかる所に猿ヶ京関所の二つの関所を設けた。 平成3年4月1日 吉岡町教育委員会

街道はまがりくねった田舎道をのぼり明治小学校のわきを通り過ぎて上野田にむかって下っていく。自害沢川をわたると家には野田宿当時の屋号が掲げられている。野田宿は三国街道の宿場ではなく、すぐ先で交叉している伊香保街道(県道15号)の宿場である。三国街道と交叉する辺りは野田宿の東端にあたる。交差点には安永2年(1773)の自然石に掘られた素朴な双体道祖神が祀られている。

伊香保街道 野田宿町並 上野田 北群馬郡 群馬県
伊香保街道 野田宿町並 上野田 北群馬郡 群馬県

野田宿の由来 野田宿は、旧佐渡街道の駒寄小学校脇を起点とする伊香保街道の宿場であり、宿の始まりの付近で三国街道が交差している。街道は、板東三十三観音札所巡りの順路として、また伊香保への入湯の道として中世の頃から多くの旅人が往来していた。ここか宿場として発足したのは街道の整備が進んだ江戸初期の頃と云われている。旅人のために設けられた野田宿は、 で宿楊の中央に位置し、その上手を上司、下手を下町と呼び、……

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野田宿の由来 野田宿は、旧佐渡街道の駒寄小学校脇を起点とする伊香保街道の宿場であり、宿の始まりの付近で三国街道が交差している。街道は、板東三十三観音札所巡りの順路として、また伊香保への入湯の道として中世の頃から多くの旅人が往来していた。ここか宿場として発足したのは街道の整備が進んだ江戸初期の頃と云われている。旅人のために設けられた野田宿は、 で宿楊の中央に位置し、その上手を上司、下手を下町と呼び、さらに下手の新田は後になって宿に加えられた。宿場は、武家のための本陣をはじめ旅籠屋・問屋・雑貨屋・酒屋・穀屋・駕籠屋など多くの店が軒を並べ、学問所や芝居小屋もあった。これらの名残は、宿場制度がなくなり一世紀以上たった今日でも屋号として残されている。東西に延びる宿通りの北側を町裏、南側を町南と呼び、住環に沿って流れる用水堰は水量が豊富で、米麦の・つき挽き・に車屋と呼ばれる水車が四ケ所程あり用水は他にも潅漑・防火・雑用水・牛馬の飲み水など幅広く利用された。通りに建つ家並の外には幅ニm程の通り(盗人道)が作られ、それにも用水路があり、合計三筋の道や水路かあった。通りには、土砂の流失を防ぐためカメパラ`(石を平に並べた亀の腹面様の土留め)か作られていた。 繁栄していた野田宿も幕末から明治にかけての世の移り変りと共に旅の形態も変り、しだいに宿場も寂れやがて、その役割を終えることになったのである。平成十八年設立上野田南町まちおこしの会

県道をすこしもどると家並みのはじまりに木戸風の野田宿案内板が建っている。伊香保街道(水沢街道)を1kmほど西にいくと野田宿の本陣があるようだ。寄ってみると、通りは旧宿場の面影が色濃くのこる街並である。街道を挟んで本陣を勤めた酒造業者森田本家の屋敷が堂々とある。南側には「水沢街道野田宿 下宿・上宿」と相撲文字で書かれた柱が高々とそびえ前庭には道しるべと歌碑を兼ねたような石碑があった。

大庄屋森田宗家邸宅(野田宿本陣)及び回遊式庭園 上野田 北群馬郡 群馬県
大庄屋森田宗家邸宅(野田宿本陣)及び回遊式庭園 上野田 北群馬郡 群馬県記 天保7年8月18日高野長英此所にて「伊香保迄の高低を計る157丈5尺低き由申すびxどろの棹を立て斗る」と里正梅子森田重謙之を日記にしるす 後長英其著夢物語幕府の忌諱に触れ禁獄せらる。弘化元年4月火災に乗じ逃げて還らず江戸市中に潜伏又遁れて野田に至り暫く森田原沢両家に隠るといふ。

北側が本陣の建物のようで海鼠壁の長屋門の前には「伊香保街道野田宿旧問屋人馬継立」の石柱、「野田宿 酒造業 森田本家」と書かれた屋号札、「大庄屋森田宗家邸宅及回遊式庭園 幕臣大久保家采地上州武州八ヶ村大庄屋旧役宅」と記された標柱が建物の多くの肩書きを誇示している。塀には高野長英が逗留したという板書きが貼ってあった。

桃井(とうせい)館跡 上野田435-2 吉岡町 北群馬郡 群馬県
桃井(とうせい)館跡 上野田435-2 吉岡町 北群馬郡 群馬県

三国街道わきのこの館は、七百数十年前、桃井荘の地頭であった桃井八郎が南下の高台に建てたと伝えられている。その後、渋川市有馬へ書院として移され、さらに1832年(天保3年)ここへ移築された。木造、平屋建ての入母屋造りで、間口7間、奥行き3間半、大部分は往古のままで、欄間の「ぶどう」や「りす」など精巧なすかし彫りは、文化的価値の高い逸作である。維新後は、上野田戸長役場として、地租改正事務所となり、18……

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三国街道わきのこの館は、七百数十年前、桃井荘の地頭であった桃井八郎が南下の高台に建てたと伝えられている。その後、渋川市有馬へ書院として移され、さらに1832年(天保3年)ここへ移築された。木造、平屋建ての入母屋造りで、間口7間、奥行き3間半、大部分は往古のままで、欄間の「ぶどう」や「りす」など精巧なすかし彫りは、文化的価値の高い逸作である。維新後は、上野田戸長役場として、地租改正事務所となり、1879年(明治12年)7月20日には皇后(孝明天皇)陛下の御休所となっている。 昭和61年4月 吉岡町教育委員会

伊香保道と三国街道の交差点にもどり、北に向かう。左手田圃の端に出羽三山百番供養塔がたっている。そこから二軒目に「野田宿 下宿 桃井館 森田」と記された屋号看板がたっている。中世に建てられた桃井氏の館跡である。書院造で江戸時代は大名の休憩所ともなった由緒ある建物だそうだが、今は民家(森田家)になっていて外観を覗った限りではで、昭和61年の説明書きにあるように「往古のまま」には見えなかった。

旧三国街道一里塚 上野田 吉岡町 北群馬郡 群馬県
旧三国街道一里塚 上野田 吉岡町 北群馬郡 群馬県

慶長9年(1604)江戸幕府は、参勤交替その他政治的な意味を含め、街道には1里ごとに塚を築いて木を植え旅人のためには里程の目印とし、旅の疲れを休める所とした。この一里塚は、高崎の起点から4里の地点にあたる。昭和の初期まで残っていた榎は、高さ8m余り、根回り6mの巨木で樹齢数百年、風雪に耐え多くの旅人の心を慰めてきたのに、つい枯死の運命となり、今あるのは二代目である。この樹下に 聖徳4年(1714)……

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慶長9年(1604)江戸幕府は、参勤交替その他政治的な意味を含め、街道には1里ごとに塚を築いて木を植え旅人のためには里程の目印とし、旅の疲れを休める所とした。この一里塚は、高崎の起点から4里の地点にあたる。昭和の初期まで残っていた榎は、高さ8m余り、根回り6mの巨木で樹齢数百年、風雪に耐え多くの旅人の心を慰めてきたのに、つい枯死の運命となり、今あるのは二代目である。この樹下に 聖徳4年(1714)と万延元年(1860)の庚申塔 があり、いつしか庚申塚と呼ばれるようになった。「野田八景」の一つとして「庚申塚の雨」と歌われ、風情のある所である。 昭和61年4月 吉岡町教育委員会

街道はこの先、角にドラム缶を背にして双体道祖神(資料写真⑩)が立つT字路にぶつかり、右折してすぐ左にまがっていく。広々とした田園がひろがるなか、やがて左に榎と庚申塔を従えた野田の一里塚が現れる。高崎から4里、三国街道で最初に出会った一里塚である。榎は現在二代目だがすでに半世紀以上も経つ堂々とした大木だ。樹下の庚申塔も正徳4年(1714)と万延元年(1860)銘の立派なもので庚申塚とも呼ばれている。

赤城山眺望 上野田 吉岡町 北群馬郡 群馬県
赤城山眺望 上野田 吉岡町 北群馬郡 群馬県

旧街道は広く開けた田園の中をS字状にのびて吉岡町小倉地区にはいっていく。右手はるかに長く裾野をのばした赤城山の稜線が美しい。道は県道26号に出、右折してすぐ次の十字路で左折し再び旧道に入る。十字路角に天明時代の馬頭観音が祀られている。両手を合わせた姿は優雅で気品に満ちている(資料写真⑪)。なぜか台座にタイヤが噛まされている。

旧道 小倉 吉岡町 北群馬郡 群馬県
旧道 小倉 吉岡町 北群馬郡 群馬県

旧道にはいり、最初の十字路の左手に「旧三国街道」の標識と百番供養塔が道をはさんで建っている。百番供養塔とは江戸時代に西国33ヶ所・坂東33ヶ所・秩父34ヶ所を巡礼してきた人達が記念に建てたもの。これまでにも街道沿いにいくつか見てきた。ここから北群馬郡吉岡町から渋川市有馬地区にはいる。

渋川

民家 有馬 渋川市 群馬県
民家 有馬 渋川市 群馬県

旧道は道なりに集落の中を下っていって「(有)群馬ケーアイ」の看板がある門構えの民家の前を左折する。角に道標があるがどうしても読めなかった。西隣の家は赤さびたトタンで屋根が覆われているが造りは大きな長屋門を構えている。道に面してガラス窓が切ってあり左右は部屋になっていることがうかがえる。時代劇のセットのような趣があっておもしろかった。

すぐ西側に区画整理された田圃に通じる道がでている。田圃の十字路に立つ高い立派な庚申塔(資料写真⑫)の傍を通り過ぎ川をわたって左に折れバス通りにでると上有馬バス停付近に有馬の延命地蔵(⑬資料写真)がある。ここから先はショッピングセンター沿いの真直ぐな道を北上する。

中筋遺跡 中筋 行幸田 渋川市 群馬県
中筋遺跡 中筋 行幸田 渋川市 群馬県よみがえった古墳時代のムラ 県指定史跡 今から1500年前の秋、榛名山が大噴火して、流れ下った火砕流が一瞬にしてムラを襲い埋めつくした。

道は台地を上ってゆき行幸田(みゆきだ)集落にはいる。なかほどで「中筋遺跡」の標識が目にとまり寄って行くことにした。街道からすこし西にはいった民家脇に古墳時代の村遺跡が保存されている。竪穴式住居が復元され、祭祀場には土器が並べられている。榛名山の大噴火で一瞬のうちに埋もれてしまった。

双体道祖神・笠卒塔婆入口 石原 渋川市 群馬県
双体道祖神・笠卒塔婆入口 石原 渋川市 群馬県

街道にもどり坂を下り川を渡って左に折れ蛇行しながら台地を上っていく。十字路角にガードに守られるようにして双体道祖神が潜んでいる。傍にある「国指定需要文化財 石造笠石塔婆」の標識に対応するものが見当たらない。民家の敷地内になっていて、どこかに移設されたのであろう。

馬頭公園 石原 渋川市 群馬県
馬頭公園 石原 渋川市 群馬県

ここは、江戸時代の中期に石造の馬頭観音の石祠が大島家によって寄進され「馬頭さま」と呼ばれ、地域の人々の信仰の場所であった。また、三国街道の沿線であり「馬頭峠」とも呼ばれていた。農家にとって馬は、農耕に運搬に大変貴重なものであり家族同様に大切にされた。馬の供養のため馬頭観音がまつられたが、石馬4頭を従えたこれ程の石造物は、他に例を見ない。子供の頃この馬にまたがって遊んだことが古老によって語られている……

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ここは、江戸時代の中期に石造の馬頭観音の石祠が大島家によって寄進され「馬頭さま」と呼ばれ、地域の人々の信仰の場所であった。また、三国街道の沿線であり「馬頭峠」とも呼ばれていた。農家にとって馬は、農耕に運搬に大変貴重なものであり家族同様に大切にされた。馬の供養のため馬頭観音がまつられたが、石馬4頭を従えたこれ程の石造物は、他に例を見ない。子供の頃この馬にまたがって遊んだことが古老によって語られている。昭和33年、この地に豊秋公民館の分館が建てられ保育園としても利用された。 以下略 平成15年3月

その次の辻角に馬蹄形の車止めを入口にした馬頭公園があり、奥に4頭の馬に守られた馬頭観音を祀る石祠が建っている。江戸時代個人によって寄進されたもので、珍しい石造物である。一角に馬頭観音を集め、児童公園として整備された。街道のこの場所は馬頭峠とよばれ、この先一気に坂を下って広い伊香保バイパスの「法務局西」交差点を対角線状に横切る。

道路から一段下がった路地を北に進み、市役所通りの「高源地」交差点をわたって直進すると渋川女子高校と渋川南小学校の間の交差点に出る。小学校の敷地内に大きな石とその上に小さな石祠が祀られている(資料写真⑭)。説明札が校舎に向かって立てられていて、道からはみえない。構内に入るには許可が要って、結局内容を知らずに写真だけ撮って去った。公の歴史文化財は学校の敷地外に設置すべきである。

四ツ角、岸宅付近 渋川 渋川市 群馬県
四ツ角、岸宅付近 渋川 渋川市 群馬県

平沢川を渡り川原町の県道33号に出る。この通りが渋川宿のメインストリートだった。渋川は吾妻川と利根川の谷と平地を結ぶ河岸段丘に作られた町で伊香保からの道と、三国街道・佐渡奉行道がまじわる交通の要衝であった。宿場は西から、裏宿・川原町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と東に延びていて、上・中・下ノ町には交互に市が立って賑わいをみせた。特に下ノ町の四ツ角(三国街道新道である県道25号と県道33号の交差点)はかって宿場の中心として賑わった辻だが、今は周辺を含めた四ツ角周辺土地区画整理事業が進行中で、辺りは家屋が撤去されて空き地が目立っている。一筋北のかっての路地裏は今や手前の空き地で明るみに出てしまったが、長屋風の建物や岸家の土蔵とケヤキの巨木は往時の面影を残している。

真光寺 渋川 渋川市 群馬県
真光寺 渋川 渋川市 群馬県
真光寺 渋川並木町 渋川市 群馬県
真光寺 渋川並木町 渋川市 群馬県

市指定史跡 壱銭職の聖徳太子塔 指定年月日 平成7年11月29日 渋川市(並木町)702 この塔は、安政3年(1856)、渋川村中ノ町武蔵屋梅八が願主となり、当時壱銭職と呼ばれた百名ほどの髪結床の人達が、諸職の神である聖徳太子を祭った塔である。 石工は、信州高遠の人たちで、太子孝養像・梅八坐像などにその作風がみられる。 刻名の屋号や地名から、江戸後期の髪結床の動きがわかる県内に例のない貴重な塔であ……

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市指定史跡 壱銭職の聖徳太子塔 指定年月日 平成7年11月29日 渋川市(並木町)702 この塔は、安政3年(1856)、渋川村中ノ町武蔵屋梅八が願主となり、当時壱銭職と呼ばれた百名ほどの髪結床の人達が、諸職の神である聖徳太子を祭った塔である。 石工は、信州高遠の人たちで、太子孝養像・梅八坐像などにその作風がみられる。 刻名の屋号や地名から、江戸後期の髪結床の動きがわかる県内に例のない貴重な塔であるo 渋川市教育委員会

上ノ町の北、並木町を散策する。古い建物が残る静かな住宅街である。

渋川北小学校の南に位置する真光寺は中世応永年間(1394~1428)に白井城主長尾景仲によって創建されたと伝えられる。

墓地の脇にひときわ目立つ石塔は上に聖徳太子が、下の角石には願主である武蔵屋梅八の坐像が彫られた「壱銭職の聖徳太子塔」とよばれるもので、壱銭屋とは床屋のことで、髪結いなどの代金が1銭だったことによる。本堂は寛永7年(1795)の建物で品格をただよわせるたたずまいであった。梅雨の季節は境内が紫陽花でみたされ「あじさい寺」として親しまれている。

県道にもどり、西に向かう。

旧渋川公民館 渋川市 群馬県
旧渋川公民館 渋川市 群馬県

中ノ町にある旧渋川公民館は昭和6年(1931)に建てられた3階建て鉄筋コンクリート造りである。石や赤レンガタイルの外壁にはうっすらと色づき始めた蔦が屋根までのびてレトロ風情を醸している。

堀口家 川原町 渋川市 群馬県
堀口家 川原町 渋川市 群馬県国指定登録有形文化財 文化庁

その斜め向かいには黒々とした店蔵が保存されていた。堀口家の表札が架かっていた。ただ「登録有形文化財」の青銅パネルが貼り付けられているだけで寡黙な佇まいである。

里程元標 川原町 渋川市 群馬県
里程元標 川原町 渋川市 群馬県伊香保村へ2里7町12間1尺 金井村へ25町x5間3尺2里

道が右に折れるところに創業100余年というそば処「けむりや」が店を構えている。看板の脇に明治10年の渋川村里程元標がたっている。もともと石標だったと思うが木の柱に白ペンキ書されている。「伊香保村へ2里7町12間1尺 金井村へ25町○5間3尺」と里程は厳密であった。

中に入って昼食にカレー南蛮そばをたのんだ。入口にそば製粉機がおいてあって実際に運転している。粒が自動的にすこしずつ石臼の穴にそそぎこまれ、引き回して粉になったそばは一回転ごとに集められて下に落ちる仕組みになっている。見ていて飽きなかった。

渋川発祥の街 元町 渋川市 群馬県
渋川発祥の街 元町 渋川市 群馬県

旧道への入口をこえたところの右手建設会館脇を通り抜けると裏宿にでる。左折して県道35号に合流して吾妻川の河岸段丘を北に向かう。元町を通り過ぎると金井宿である。

金井

延命地蔵 金井本町 渋川市 群馬県
延命地蔵 金井本町 渋川市 群馬県

街道は渋川を後にして金井南町あたりから吾妻川の河岸段丘へと上っていくと、街道の両側に作られた金井の集落にはいっていく。金井本町バス停近くに赤いキャップと前掛けをした延命地蔵が建っている。

金井宿はなだらかな坂に5町(約540m)にわたって下之町、中之町、上之町からなっていた。5町(300間)を30等分し1戸をおよそ間口10間(約18m)奥行20間と宿割りし東側29戸、西側24戸を下金井及びその周辺より移住させたという。

旧金井宿仲之町井戸 渋川市 群馬県
旧金井宿仲之町井戸 渋川市 群馬県

下之町と中之町の道端には屋根付きの共同井戸が残っている。下之町の井戸は手汲みポンプだが中之町のはツルベ井戸で、中を覗くと薄暗い穴に緻密な石組みが残されていた。家並みは大きな農家の屋敷がならびときどき白壁の土蔵が垣間見られる。

金井宿本陣の地下牢 金井 渋川市 群馬県
金井宿本陣の地下牢 金井 渋川市 群馬県この地下牢は三国街道金井宿の本陣内に造られたもので、江戸時代中期のものと推定されている。間口約3m、奥行き4m、高さ2mの石積み造りで天井は松材の角梁上に栗材が並べられている。また南側には小窓が設けられている。金井宿は近くに吾妻川渡りと、杢ヶ橋関所を控えていることから、吾妻川が増水して川止めとなった時などに、佐渡送り罪人を一時入牢させたものと考えられる。 昭和63年10月 渋川市教育委員会

中之町、八坂神社の向かいの児童公園が金井宿本陣岸忠左衛門宅跡である。建物はなく、佐渡送りの罪人を留置したという地下牢の跡だけが残されている。周囲は金網で保護されており中へ入ることはできないが、間口3m、奥行き4m、高さ2mの石造りの部屋であるという。そこに何人詰め込まれたものか、さぞかし6畳の穴倉には汗垢にまみれた異臭が充満していたことであろう。

旧三国街道金井宿脇本陣跡 金井 渋川市 群馬県
旧三国街道金井宿脇本陣跡 金井 渋川市 群馬県

金井宿は旧三国街道の宿駅として創設された。その年代は江戸初期の慶長、元和、寛永の諸説があるが、脇本陣所蔵の後世の記録には元和8年(1622)と記されている。宿は上之町、仲之町、下之町の3町からなる。宿長5町(300間)、これを30等分し1戸をおよそ間口10間(約18m)奥行20間と宿割りし東側29戸、西側24戸を下金井及びその周辺より移住させた。間口の広い整った宿割り、屋敷の裏に流れる用水、夜盗道……

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金井宿は旧三国街道の宿駅として創設された。その年代は江戸初期の慶長、元和、寛永の諸説があるが、脇本陣所蔵の後世の記録には元和8年(1622)と記されている。宿は上之町、仲之町、下之町の3町からなる。宿長5町(300間)、これを30等分し1戸をおよそ間口10間(約18m)奥行20間と宿割りし東側29戸、西側24戸を下金井及びその周辺より移住させた。間口の広い整った宿割り、屋敷の裏に流れる用水、夜盗道等に往時をしのぶことができる。

公園の交差点角に道標があった。「東至 吾妻橋 西至 伊香保町」とある。彫がするどく比較的新しいものとみえる。

左手の庭木を植え込んだ民家は脇本陣跡で、金網の背後に「旧三国街道 脇本陣跡」と刻まれた石碑があった。金井宿の構成などが記されている。

金井信号交差点は上之町で、すぐに金井宿の家並みをぬけて南牧(なんもく)地区にはいる。吾妻川をはさんで南が南牧、北側が北牧とよばれて、北牧には金井の次の宿場があった。吾妻川の増水や洪水で川留めにあった旅人はここ金井宿で待機した。

南牧旧道入口・道標 南牧 渋川市 群馬県
南牧旧道入口・道標 南牧 渋川市 群馬県左 吾妻道 右 南牧渡船道

南牧にはいりすぐに道が大きく左に曲がるところで、右手に下る旧道が残っている。分岐点に「右 南牧渡船道」と刻まれた道標があった。舗装されていてかっては車道だったと思われるが、現在はその先400mほどいったところに坂を下る新しい道路がつけられ、旧道を通る人はいない。

旧道の坂の途中左手の民家裏斜面に弘化4年(1847)建立の芭蕉句碑が建っている。

三国街道ー1 資料 石碑・石仏等
三国街道ー1 資料 石碑・石仏等③ 道標 三ツ寺町 高崎市 ④ 双体道祖神 三ツ寺町 高崎市

このあたり目にみゆるもの皆涼し

貞亨5年(1688)「笈の小文」の旅の帰路、岐阜長良川の岸辺に立つ高殿から鵜飼を眺めて詠んだ句である。句碑の後ろに建つ段丘上の民家から吾妻川を見下ろせば同じ風情を感じられたのであろう。

坂を下り右折してJR吾妻線「南牧(なんもく)」踏切手前に南牧の由来を記した石碑が建っている。

南牧の地名は「延喜式」にある上野国御牧*の中に見られる利刈牧から名付けられたという。地名の初見は、長享2年(1488)に白井城を訪れた僧万里集九の紀行文「梅花無尽蔵」に、「吾妻し駿馬目之橋」がある。また天正6年(1578)の北条家禁制文書に「もく」が見られ、寛永8年(1631)の年貢割付状には、「牧村」とある。南牧は佐渡奉行・新潟奉行・越後の諸大名が旅人が通行した三国街道と吾妻の温泉郷・長野善光寺詣りの旅人や吾妻地方の物資が往来した吾妻道が通る。

三国街道を通行する旅人が船や橋で吾妻川を渡るこの南牧に、江戸城の守りとして、川を要害とした杢ヶ橋番所が元和年間に設置された。寛永8年に関所に改められ、目付一人、与力二人、定番三人が勤番し、中山道の碓氷の関所に次ぐ重要な関所であった。入り鉄砲と出女を厳しく取り締まり、享和3年(1803)に幕府測量方の伊能忠敬が要害内の測量を申し入れたがこ断られている。以下略 平成12年3月吉日 建之 渋川市

*御牧とは勅旨牧の意味で、皇室の料馬を供給するのを目的とする公牧である。上野国には利刈牧、有馬牧、沼尾牧、坪志牧、久野牧、市代牧、大藍牧、塩山牧、新屋牧の9牧があって信濃国の16牧についで多かった。、

杢ヶ橋関所跡(田中博宅) 南牧 渋川市 群馬県
杢ヶ橋関所跡(田中博宅) 南牧 渋川市 群馬県

この関所跡は吾妻川右岸にあり、元和6年(1620)番所として置かれ、寛永20年(1643)より三国街道筋の川の関所となった。 初め安中藩が、次いで高崎藩が警固し、目付1人、与力2人が2ヵ月交替で派遣され、地元から定番3人(長谷川氏・ 田中氏 ・砥柄氏)が選ばれて世襲で勤務にあたった。警固の範囲は、吾妻川は釜ヶ渕から落合まで、利根川は落合から備後堀□までで、柵矢来は東西28間、南北23間、中に問屋と……

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この関所跡は吾妻川右岸にあり、元和6年(1620)番所として置かれ、寛永20年(1643)より三国街道筋の川の関所となった。 初め安中藩が、次いで高崎藩が警固し、目付1人、与力2人が2ヵ月交替で派遣され、地元から定番3人(長谷川氏・ 田中氏 ・砥柄氏)が選ばれて世襲で勤務にあたった。警固の範囲は、吾妻川は釜ヶ渕から落合まで、利根川は落合から備後堀□までで、柵矢来は東西28間、南北23間、中に問屋と定番役宅3軒、門番小屋2軒か置かれた。 この関所は上州では「碓氷関所」に次ぐ重要なもので越後の村松・与板・長岡等の大名や、佐渡・新潟奉行らの往来があり、特に入鉄砲と出女を厳しく取り締まったと言われる。 昭和63年3月31日 群馬県教育委員会 渋川市教育委員会

踏み切りをこえたところで左手に藁葺きの民家が見える。「田中博」宅が杢ヶ橋関所跡である。元和6年(1620)番所として置かれ寛永20年(1643)関所に昇格した。田中氏は地元から選ばれた関所定番役の一人であった。関所は吾妻川と三国街道を行き交う人や物資を監視した。

旧三国街道 南牧 渋川市 群馬県
旧三国街道 南牧 渋川市 群馬県関所跡から渡し橋跡に至る古道

家の前の路地を進み畑と竹薮をぬけると吾妻川の川原にでる。川幅は10mほどで思ったほど広くはなかった。

中世には舟橋が両岸を結んでいたが江戸時代になって関所が設けられ対岸に北牧宿場が整備されると、杢ヶ橋とよばれた刎橋が架けられた。

吾妻川・杢の渡し橋跡 南牧 渋川市 群馬県
吾妻川・杢の渡し橋跡 南牧 渋川市 群馬県

刎橋(はねばし)とは深い谷を越える橋をつくるとき、桁の片方を岸の岩盤や土の中に埋め込み、他方を張り出してその上に桁を乗せていく工法で、甲州街道猿橋に唯一現存している。しかし度重なる洪水で刎橋は流され、結局は渡し舟になって昭和22年まで続いた。今も河原には四角の穴が穿たれた大石が残されている。

吾妻川をわたるには県道を下川島まで下って北群馬橋をわたるしかない。国道353号をすこし東に戻ったところに北牧宿がある。

寄り道 榛名山

対岸に渡る前に一ヶ所寄って行きたい所があった。榛名山である。榛名山は中央火口丘の榛名富士とカルデラ湖の榛名湖を有し、最高峰の掃部ヶ岳をはじめとする外輪山に囲まれた山々の総称である。

浅間山・二ツ岳眺望 伊香保町 渋川市 群馬県
浅間山・二ツ岳眺望 伊香保町 渋川市 群馬県

県道35号をそのまま岡崎までつっぱしり、そこから県道155号で伊香保温泉を迂回して榛名山へ直行する。伊香保温泉は徳富蘆花や竹久夢二ゆかりの地で、旅情豊かな温泉地であるらしいが、時間の制約上、ここは将来の伊香保街道歩きにのこしておこうと思う。

高根展望台 伊香保町湯中子 渋川市 群馬県
高根展望台 伊香保町湯中子 渋川市 群馬県伊香保温泉

吾妻町岡崎から伊香保町にはいると収穫をむかえた黄金の稲田の向こうに二ツ岳の峰がまろやかな稜線をえがいて現れる。途中の高根展望台からは伊香保の温泉街を眼下に、270度のパノラマを楽しむことができる。県道は高原の道を真直ぐに通り抜けやがて湖のほとりに着いた。

榛名湖・榛名富士 榛名湖町 高崎市 群馬県
榛名湖・榛名富士 榛名湖町 高崎市 群馬県烏帽子ヶ岳・榛名富士

榛名湖の西岸からみる榛名富士(1391m)の姿は美しい。榛名山この地を竹久夢二はこよなく愛した。湖畔には高さ2mもある大きな夢二の歌碑が建っており、商店街には竹久夢二のアトリエが復元されている。

さだめなく鳥やゆくらむ青山の 青のさびしさかぎりなければ

榛名湖は昭和15年に発表され高峰三枝子が歌って一世を風靡した「湖畔の宿」の舞台になった場所でもある。

山の淋しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心 胸のいたみに たえかねて 昨日の夢と 焚きすてる 古い手紙の うすけむり

水にたそがれ せまる頃 岸の林を しずかに行けば 雲は流れて むらさきの 薄きすみれに ほろほろと いつか涙の 陽がおちる

ランプ引きよせ ふるさとへ 書いてまた消す 湖畔の便り 旅のこころの つれづれに ひとり占う トランプの 青い女王(クイーン)の さびしさよ

榛名神社 榛名山町 高崎市 群馬県
榛名神社 榛名山町 高崎市 群馬県当社は第31代用明天皇丙午元年(1300余年前)の創祀で延喜式内社である。徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が続き満行宮榛名寺などと称えて上野寛永寺に属し別当兼学頭が派遣されて一山を管理していたが明治初年神仏分離の改革によって榛名神社として独立した。 社殿は寛政4年の改築御祭神は後に立っている の洞窟中に祀られている 神代舞は250年前から伝えられたもので国の無形文化財に指定されている
三重塔(神宝殿) 榛名神社 榛名山町 高崎市 群馬県
三重塔(神宝殿) 榛名神社 榛名山町 高崎市 群馬県県内唯一のものです。1869年(明治2年)に再建されました。現在は神宝殿と呼ばれ、天之御中主神(あめのみななかぬしのかみ)をはじめとする五柱の天神を祀っています。神仏習合の名残りを留める貴重な建造物です。

榛名湖西岸から県道33号をたどって南面中腹にある榛名神社に向かう。

榛名神社は延喜式のなかで上野国十二社の群馬郡小社として位置づけられている式内社である。中世にさびれたが江戸時代になって天界僧正により復興された。

本社・御姿岩 榛名神社 高崎市 群馬県
本社・御姿岩 榛名神社 高崎市 群馬県

隋神門からはじまる参道は幾多の石段を登りつつ鬱蒼とそびえたつ千本杉、朱塗りの、塩原太助が奉納した石玉垣、矢立杉、双龍門をみて本殿に至る。道のりは500mとあるが実感は1km以上あった。社殿は文化3年(1806)の再建で、御姿岩と接続していて神体は岩内に祭られている。本社を右に回り込んで御姿岩をみあげると、肩に首が乗るように巨岩が上方でくびれてあやうく乗っている姿である。今までの地震によく耐えてきたものだと思う。頭の部分がいまにも落ちてきそうで、そのときは社殿もペシャンコにつぶれるだろうと、余計な心配をせずにはいられなかった。。

北牧

吾妻川・杢の渡し跡 北牧 渋川市 群馬県
吾妻川・杢の渡し跡 北牧 渋川市 群馬県

杢(もく)は牧(もく)で牧場のこと 10世紀中頃作成の『延喜式』利刈の牧に擬せられている箇所で、飼育された4歳駒が吾妻川の浅瀬を牧監に連れられて渡河、国府へ送られた想像図が描ける。越後・草津への通路としても旅人の往来があり、自然に渡しも発達してきた。中世となり、鎌倉街道も発達し、京の詩僧万里集九は長享2年(1488)9月ここを通過『梅花無尽蔵』に「危橋あり舟を編んで 橋と為す、目(もく)の橋という……

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杢(もく)は牧(もく)で牧場のこと 10世紀中頃作成の『延喜式』利刈の牧に擬せられている箇所で、飼育された4歳駒が吾妻川の浅瀬を牧監に連れられて渡河、国府へ送られた想像図が描ける。越後・草津への通路としても旅人の往来があり、自然に渡しも発達してきた。中世となり、鎌倉街道も発達し、京の詩僧万里集九は長享2年(1488)9月ここを通過『梅花無尽蔵』に「危橋あり舟を編んで 橋と為す、目(もく)の橋という」と文献誌上に初めて紹介されている。近世となり五街道に次ぐ脇道として指定された三国街道の整備と共に寛永20年(1643)頃吾妻南岸に杢ヶ橋関所が設けられ、次いで対岸に北牧宿が設定された。この地域は両岸の谷間が狭く、増水では水位が高くなり橋が流失することが多く、元禄10年(1697)から50年間に16回の刎橋流失があり、橋付村の犠牲は多く、江戸幕府の助成で架橋している。天明2年(1783)7月の浅間押しで壊滅、以後賃渡舟が多かった。渡しは近年まであったが太平洋戦争後廃止、旧街道跡だけが渡しを物語っている。 平成2年3月 子持村

北群馬橋交差点から国道353号を東に600mほどいった北牧バス停の南側に、用水をはさんで旧北牧宿の家並みが続いている。北牧宿は寛永20年(1643)、南牧に杢ヶ橋関所が開設されたと同時に対岸に設定された。

北牧宿(新田宿) 北牧 渋川市 群馬県
北牧宿(新田宿) 北牧 渋川市 群馬県

三国街道は上州と越後を結んだ主要道で、三国峠を越えるので三国通りといわれ高崎で中山道から別れた脇往還である。古代からの利用があり、鎌倉時代より軍事道路と共に文人・僧侶などの旅路ともなり、江戸時代に入って佐渡金山開発の本格化による官道整備普請完成は慶長15年(1610)であった。吾妻川右岸の南牧に杢ヶ橋関所が開設されたのは寛永20年(1643)で同時に対岸に北牧宿が設定されたといわれる。三国街道は高……

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三国街道は上州と越後を結んだ主要道で、三国峠を越えるので三国通りといわれ高崎で中山道から別れた脇往還である。古代からの利用があり、鎌倉時代より軍事道路と共に文人・僧侶などの旅路ともなり、江戸時代に入って佐渡金山開発の本格化による官道整備普請完成は慶長15年(1610)であった。吾妻川右岸の南牧に杢ヶ橋関所が開設されたのは寛永20年(1643)で同時に対岸に北牧宿が設定されたといわれる。三国街道は高崎から越後の寺泊まで30宿48里(約192km)で北牧宿は高崎宿より4宿目金井宿より18町(約2km)横堀宿へ28町(約3km)の距離にあり宿開設により交通の要衝となった。道中奉行・佐渡奉行・寺院関係者更に参勤交代制度(寛永10・1633)の確立後の越後諸大名とその家中x藩士などの通過の記録がある。吾妻・金井・渋川方面から白井六xxへの旅客は必ず当所の通過があり、草津の温・沼田城下・前橋の市場へとxxx北牧宿は山が迫っているため通常の宿場と形態が異なる。 渡場からの道は三筋に分かれ、東から芝宿(230m)・古宿(223m)・新田宿(同じ)となりこの3宿は中宿(210m)の通りと交わる。宿の機能は中宿と新田宿の交差点近くにあった。更に道場宿(173m)と延びている。 (中略)休宿の際は横堀の助合(三国通りは助合)となったが、宿復帰となれば助合が解かれた。旅客の多少により 横堀宿と合宿 があり、他の宿と比較して旅籠屋は8軒と多い。吾妻川は通常刎橋が義務づけられているが代替えとして船橋・渡し船が使われた。杢ヶ橋の流失は数多くあり川付村として北牧村は他の村々と共にその修復に尽力している。明治3年(1870)民部省布告により北牧宿の機能は廃止された。 平成2年3月 子持村

吾妻川渡場から道は三筋に分かれ、東から芝宿・古宿、そして中央に用水が流れる新田宿となり、この3宿は中宿(国道353号沿い)の通りと交わる。宿の中心は中宿と新田宿の交差点近くにあった。今そこに北牧宿の案内板がある。

北牧道場宿(寺島家旧本陣) 北牧 渋川市 群馬県
北牧道場宿(寺島家旧本陣) 北牧 渋川市 群馬県

鍵の手状に中宿を西に50mほどすすむと北の方向に道場宿が延びている。両宿の角を占め長い塀をめぐらせた屋敷が本陣兼問屋を勤めた寺島家である。道場宿側には塀越しに白壁土蔵が旧本陣の風格をにおわせる。

旧三国街道 鍛治谷戸 北牧 渋川市 群馬県
旧三国街道 鍛治谷戸 北牧 渋川市 群馬県

街道はそのまま北に進み郵便局前のT字路で再び鍵の手状に左・右と曲がって白壁の塀を連ねる民家をぬって坂道を上っていく。往時のままの道幅を残した旧街道を偲ばせる道である。

三国街道道しるべ 北牧 渋川市 群馬県
三国街道道しるべ 北牧 渋川市 群馬県

北牧の高才に、横堀方面から来た道が左右に分岐する三差路に、この石仏の道しるべがある。高さ60cm、幅40cmばかりの本体が北向きに台石の上に据えられている。荒削りの舟形光背の中央に半肉彫りの仏体が浮き彫りになっている。仏の右に「右江戸道」と草書体で刻まれ、左には「明和三丙戌四月吉日同行八人」と拓本によってやっと判読できる。「右江戸道」とあるのは、鍛治谷戸へ下るこの細い道が高崎で中仙道と合して江戸へ……

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北牧の高才に、横堀方面から来た道が左右に分岐する三差路に、この石仏の道しるべがある。高さ60cm、幅40cmばかりの本体が北向きに台石の上に据えられている。荒削りの舟形光背の中央に半肉彫りの仏体が浮き彫りになっている。仏の右に「右江戸道」と草書体で刻まれ、左には「明和三丙戌四月吉日同行八人」と拓本によってやっと判読できる。「右江戸道」とあるのは、鍛治谷戸へ下るこの細い道が高崎で中仙道と合して江戸へ通ずる三国街道であることを示している。越後から三国峠を越えてきた人達に横道にそれないよう江戸への一方向だけを指した珍しい道しるべである。建立は明和3年(1766)、今から230年ほど前であり、本村の道しるべの中で最古のものである。 平成13年6月 渋川市教育委員会

道なりに坂を上りきると広い市道1号に合流し、角に明和3年(1766)銘の道標を兼ねた石仏が立っている。浮き彫りの仏の右には「右江戸道」と一方向だけが示されている珍しい道標である。

街道は市道を左にとって広々とした丘陵地を北西に進んでいく。Y字路を右にとると横堀に入る。

横堀

下宿地蔵尊 芦之沢 横堀 渋川市 群馬県
下宿地蔵尊 芦之沢 横堀 渋川市 群馬県

葦之沢近くの横堀字十二、旧三国街道沿いに安置されている。 地蔵は釈迦入寂後虚空菩薩が現れるまでこの地上において世人救済に当るというので、日本各地で地蔵祭りが行なわれた。ここには安山岩丸彫りの首無し地蔵二体があり、明和6年(1769)10月15日、もう一体に「願主地蔵堂恵定」とある。次の宿の中山宿の人が馬に荷をつけて当所を通過中荷が片寄ったので、道傍らの地蔵尊の頭部をとって重しとして荷鞍に結わんで帰……

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葦之沢近くの横堀字十二、旧三国街道沿いに安置されている。 地蔵は釈迦入寂後虚空菩薩が現れるまでこの地上において世人救済に当るというので、日本各地で地蔵祭りが行なわれた。ここには安山岩丸彫りの首無し地蔵二体があり、明和6年(1769)10月15日、もう一体に「願主地蔵堂恵定」とある。次の宿の中山宿の人が馬に荷をつけて当所を通過中荷が片寄ったので、道傍らの地蔵尊の頭部をとって重しとして荷鞍に結わんで帰xした。その後疫病と不魔が続いたのでアッと思い出して前非を悔い新しい地蔵尊を彫って安置したのが現在の像だという。高さ75cm、「○恵横堀宿」と文字がある。 以下略 子持村

二つ目のY字路を左にとって坂を下ると葦の沢のほとりに横堀下宿の地蔵が祭られている。安置されているのは二体の首なし地蔵で、由緒書きによると中山宿から来た男が馬荷のバランスをとるために地蔵の頭を取って重しとしたところ、その後災いが続いたので新たに地蔵を安置したという。駆け上がって堂内をのぞくと一体の首付き地蔵が立っていた。新しい地蔵か。

横堀宿町並 横堀 渋川市 群馬県
横堀宿町並 横堀 渋川市 群馬県

旧道は地蔵の脇を通り過ぎて県道36号(渋川-下新田線)に出る。北に向かってながい坂道が延び、両側に横堀宿の家並みが続いている。横堀宿は下・中・上宿とわかれているが宿場の機能は下宿と中宿が受け持った。

三国街道 横堀宿 横堀 渋川市 群馬県
三国街道 横堀宿 横堀 渋川市 群馬県

三国峠を越える三国街道は、上州と越後を結んだ主要道で三国通りといわれ、高崎で中山道から別れた脇往還である。古くからの利用があり、鎌倉時代より軍事道j路の役割とともに、文人・僧侶なども多く通るようになり、江戸時代に入ってからは佐渡金銀山開発の本格化による官道整備普請がなされ、完成は慶長15年(1610)といわれている。横堀宿は慶長10年(1605)に「小野子ヨリ出ス」の形で設定され、同18年(161……

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三国峠を越える三国街道は、上州と越後を結んだ主要道で三国通りといわれ、高崎で中山道から別れた脇往還である。古くからの利用があり、鎌倉時代より軍事道j路の役割とともに、文人・僧侶なども多く通るようになり、江戸時代に入ってからは佐渡金銀山開発の本格化による官道整備普請がなされ、完成は慶長15年(1610)といわれている。横堀宿は慶長10年(1605)に「小野子ヨリ出ス」の形で設定され、同18年(1613)に完成したもので、横堀新田(横堀村)として認められたのは寛文8年(1668)である。三国街道は高崎から越後の寺泊まで30宿、48里(約192km)で、高崎より5番目の宿、北牧宿へ28町(約3km)中山宿へ3里13町(約13km)の距離にあり、傾斜の山道と杢ヶ橋通過の準備等でにぎわった宿駅である。宿場の機能は、現在の中宿と下宿の二分の一で構成されていて、東側が430m、西側が418mあり、東西の町並が一軒ずつずれている。上手には上宿があり、宿泊の多いときなどの補完の役目をはたしていた。宿全体が東南を向いた傾斜地にあり、家屋は常に裾石のある石垣上に建てられ、通りの真ん中を堰(現在撤去)が通っていて、上宿の上手より水を取り入れた。(中略) 本陣兼問屋は飯塚家(現佐藤家) が代々世襲で、脇本陣を扇屋とした。以下略 渋川市教育委員会

街道の右手、宿の中央辺りにりっぱな石垣に塀をしつらえた家が本陣兼問屋の飯塚家跡である。現在は佐藤家が酒屋を営んでいる。石垣脇に横堀宿の大きな説明板が立っている。

一里塚 横堀 渋川市 群馬県
一里塚 横堀 渋川市 群馬県

佐藤酒店の北側の路地を入っていくと、横堀宿の鎮守大山祇(おおやまつみ)神社がある。横堀宿をおそった幾度もの大火を免れて一度も火災に遭わなかったと言う。

坂を上り上宿にはいると右手に塚上の一角があって、大きな欅の木と樹下には石碑と野仏が集められている。何の説明板もないが一里塚のようである。

旧道 八木沢林道 小野子 渋川市 群馬県
旧道 八木沢林道 小野子 渋川市 群馬県

横堀の集落をぬけると街道の風景は徐々に山深くなってゆき、三国街道最初の難所中山峠をめざして北上する。

街道は白水ゴルフ場の先で左の旧道にはいる。県道と合流したのち八木沢林道入り口の先あたりからヘアピンカーブをくりかえし四方木で再び部分的な短い旧道を経る。

旧三国街道 四方木 渋川市 群馬県
旧三国街道 四方木 渋川市 群馬県

最初の旧道は県道から左にはいって、道端には花が咲き乱れ牛舎からはのどかな牛の鳴き声がもれるスイスの小村をおもわせる魅力ある小道であった。

旧三国街道 四方木 渋川市 群馬県
旧三国街道 四方木 渋川市 群馬県

県道をよこぎりすぐにふたたび右側の旧道にはいる。坂を上がっていくとみはらしのよい高原に出た。ここから真直ぐに降りる古道があったのだろうが今は跡形も無く、舗装された新しい道が旧街道を県道に誘導していた。

県道はまもなく渋川市をでて吾妻郡高山村中山に入っていく。

(2008年10月)

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