八風街道 3区間のうち3番目

八風街道(3)

田光-大矢知-富田一色

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田光

田光

旧八風街道 田光 菰野町 三重郡 三重県
旧八風街道 田光 菰野町 三重郡 三重県鈴鹿山脈方面

田光は八風峠の三重県側最初の宿場で、滋賀県側の山上に対応する。集落の中心で巡見街道と交叉する交通の要所であった。巡見街道とは一般的に江戸幕府の巡見使が通った道を意味するものだが、三重県では東海道亀山宿と中山道関ヶ原をむすぶ主要街道名として残された。

札の辻(八風街道・巡見道交差点) 田光 菰野町 三重郡 三重県
札の辻(八風街道・巡見道交差点) 田光 菰野町 三重郡 三重県
札の辻・交易市場跡 田光 菰野町 三重郡 三重県
札の辻・交易市場跡 田光 菰野町 三重郡 三重県

椋の大木がそびえるその交差点は札の辻とよばれ、大規模な交易市場が開かれた。今も辻の北西角広場は交易市場跡として保存され、高札場、力石、三重県庁三重郡役所までの里程標などが集められている。広場の北端には多比鹿神社の石鳥居が建つ。

田光川・多比鹿橋 田光 菰野町 三重郡 三重県
田光川・多比鹿橋 田光 菰野町 三重郡 三重県

鳥居をぬけ田光川にかかる多比鹿橋をわたると多比鹿神社に至る。参道としての多比鹿橋はかっては吊橋だった。田光川左岸にのびる丘陵に田光城があった。田光城は平安中期の頃田光隼則が築いたものと伝わる。戦国時代になると近江の佐々木高頼の四男高実が田光城を再興しこの地方を支配した。永禄11年(1568)信長に敗れ落城した。

その東端に式内社多比鹿神社が鎮座する。創祀年代は不詳だが、白木檜皮葺神明造りの本殿は二基の石燈籠とともに古びた趣を放っている。

家並み 田光 菰野町 三重郡 三重県
家並み 田光 菰野町 三重郡 三重県
民家・鏝絵 田光 菰野町 三重郡 三重県
民家・鏝絵 田光 菰野町 三重郡 三重県

巡見街道は辻から南北を覗くにとどめ、八風街道を東に向かうと左右に町屋風の建物が往時の風情をとどめている。高い板塀袴を穿いた土蔵の漆喰部分には品のよい鏝絵がほどこされワンポイントアクセントとして粋な装飾になっている。八風街道を往来した近江商人の中には田光に常駐して商いを行う者もいたという。札の辻界隈の旅籠のなかにそんな常駐宿が混じっていたのだろう。当時の賑わいが偲ばれる。

旧八風街道(左)・道標 田光 菰野町 三重郡 三重県
旧八風街道(左)・道標 田光 菰野町 三重郡 三重県右 とみた四日市道 左 くわな道 (旧八風街道)

街道は現代の巡見街道である国道306号を横切って二股を左に入る。分岐点にたつ傾いた道標には「右 とみた四日市道」「左 くわな道」と刻まれている。「左桑名道」が旧八風街道である。道標は明治30年ごろの建立だとされる。

八風中学校の前を通る。素敵な校名だ。

小島

小島小橋・杉谷川 小島 菰野町 三重郡 三重県
小島小橋・杉谷川 小島 菰野町 三重郡 三重県
八風橋・朝明川・道標 小島 菰野町 三重郡 三重県
八風橋・朝明川・道標 小島 菰野町 三重郡 三重県明治29年(1896)建立 「右 小島田口」「左 田光切畑」

その先で菰野町小島に入り県道617号との交差点に出る。曲尺手状に右折してすぐ左の細道に入り、小島大橋の南袂で右折して早川酒造を通り過ぎる。杉谷川をわたり県道616号に出て朝明(あさけ)川を八風橋で渡る。八風橋の北詰に倒れた道標があり上から覗き込むと「右 小島田口」「左 田光切畑八風越」とある。明治29年(1896)の建立で、田光の二股にあった道標と同時期のものであろう。「右 小島田口」が今来た旧街道で、「左 田光切畑八風越」は方向こそ八風街道そのものだが道としては田光道標にあった「右 とみた四日市道」(県道616号)に対応している新道だ。

八風橋は明治24年に架けられたもので、それ以前は徒歩で渡っていた。目下大規模な河川工事が進行中である。

永井

民家 永井 菰野町 三重郡 三重県
民家 永井 菰野町 三重郡 三重県

八風橋をわたると菰野町永井に入る。県道を右に分けて直進する。左手にポツンと一軒家がある。トタンで覆う前は整った茅葺の入母屋造りであったろうと思われる。

井手神社 永井 菰野町 三重郡 三重県
井手神社 永井 菰野町 三重郡 三重県

県道140号(ミルクロード)を渡って水路の東側の道を北にすすむと田園に孤立する森の中に式内社井手神社がある。境内の左端に元禄12年(1699)に造られた石造りの掛樋が保存されている。頑丈な造りである。

井戸(井手)跡・片葉の葦(井手神社) 永井 菰野町 三重郡 三重県
井戸(井手)跡・片葉の葦(井手神社) 永井 菰野町 三重郡 三重県

前略 村人たちの中には雁の声で目をさます者もおりました そして ああ今年も雁か来る頃になったと思ぃながらいつしか又涙ぃ眠りに落ちてゆくのでした こうして雁たちは村人たちのあたたかぃまなざしに見守られながらひと冬を過すのでした やがて遠くに見える山々の深い雪も溶け出す頃になると雁たちは生まれた韃靼国へ帰って行かなければなりませんでした 雁たちは帰りの道のりの遠いのが心配でした 中略 井手のお宮の神様……

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前略 村人たちの中には雁の声で目をさます者もおりました そして ああ今年も雁か来る頃になったと思ぃながらいつしか又涙ぃ眠りに落ちてゆくのでした こうして雁たちは村人たちのあたたかぃまなざしに見守られながらひと冬を過すのでした やがて遠くに見える山々の深い雪も溶け出す頃になると雁たちは生まれた韃靼国へ帰って行かなければなりませんでした 雁たちは帰りの道のりの遠いのが心配でした 中略 井手のお宮の神様にお願いしました どうかここに生えている葦の葉を一枚づつ下さいと願いは聞き届けられある日クチパシに葦の葉を一枚づつくわえて飛び立ってゆきました そしてつかれたら海の上に草の葉を浮かべその上で翼をやすめるのでした 葦の”舟”に乗った雁の姿が波間にいくつもいくつも漂っていました 井手のお宮の葦の葉はこの時から片方ないそうな 以下略

その隣に葦の一群がある。伝説にある片葉の葦である。長文の伝えばなしが掲示されていた。ここの葦が片葉しか生えないのは前の池に飛来する雁たちのせいであった。

福徳稲荷 永井 菰野町 三重郡 三重県
福徳稲荷 永井 菰野町 三重郡 三重県

この稲荷社は旧永井村大庄屋藤波家の屋敷の一隅、現在地に鎮座す。藤波家は天正2年(1574)北勢朝明郡保々郷城主朝倉備前守盛永の次男盛平永井村に来たり居住して藤波姓に改め代々永井村の村長(庄屋)をつとめる。享保11年10月(1726)7世藤波彦兵衛は を建立引続き寛保2年寛保3年明神社を造営す。 中略 福徳稲荷の由来は第6世藤波六兵衛盛常の代の宝永中(1704~1710)当時の菰野城主第4世豊義のと……

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この稲荷社は旧永井村大庄屋藤波家の屋敷の一隅、現在地に鎮座す。藤波家は天正2年(1574)北勢朝明郡保々郷城主朝倉備前守盛永の次男盛平永井村に来たり居住して藤波姓に改め代々永井村の村長(庄屋)をつとめる。享保11年10月(1726)7世藤波彦兵衛は を建立引続き寛保2年寛保3年明神社を造営す。 中略 福徳稲荷の由来は第6世藤波六兵衛盛常の代の宝永中(1704~1710)当時の菰野城主第4世豊義のとき故あって藤波家に分祀されたものである。以下略 福徳稲荷奉賛会

交差点にもどり、最も手前の細道を東に入っていく。二三軒をすぎた左手の藪中に福徳稲荷大神がある。大庄屋藤波家の屋敷の片隅にあったものがそのまま屋敷跡に残された。稲荷の由緒書きはそのまま藤波家の由緒書きになっている。もとは保々城主朝倉家の次男が当地に移り住んだもの。注目すべきは先にみたばかりの井手神社が藤波家の建立によるものだったことである。

右手に田中倚水記念碑なる大きな石碑がある。華道家であった藤波家第10世六郎兵衛盛義の高弟、田中倚水は全国を遊歴して華道を普及させた。

家並み 永井 菰野町 三重郡 三重県
家並み 永井 菰野町 三重郡 三重県

西信寺前を通り、土蔵が残る落ち着いた永井の町並みを通りぬける。狐塚橋交差点で県道621号にのってすぐ、渡辺表具店の先の二股を右にはいる。この分岐点は「左が谷(さがたに)の辻」とよばれる。「左が谷」を「ぎっちょ」と読む人がいる。地元の人に聞くと、辻の読み方はいざ知らず、昔はここを流れていた川を「ぎっちょ川」と言っていたそうだ。

左ヶ谷(ぎっちょ)の辻 永井 菰野町 三重郡 三重県
左ヶ谷(ぎっちょ)の辻 永井 菰野町 三重郡 三重県

辻に建つ民家のブロック内に自然石の道標があり、「右 四日市道」「左 くわな道」とあった。「右四日市道」が旧八風街道である。田光東の道標では「左桑名道」が旧街道であった。八風街道の目的地として、桑名・四日市は必ずしも正確でなく、実際は両者の中間にある富田なのだ。換言すれば、どちらの道をとってもどこかで富田への修正が容易だともいえる。八風街道を旅する人は、この「桑名道」「四日市道」にこだわらないほうがよい。ただ右か左かをあらかじめ調べておく必要がある。

旧八風街道(直進) 西村町 四日市市 三重県
旧八風街道(直進) 西村町 四日市市 三重県

西村

街道はすぐ先で三重郡菰野町から四日市市西村町に入る。四方に田園がひろがるのどかな道がつづく。古い街道の証である道標類や石仏をみかけない。まとまった集落を通り抜けることもなく少々不安になってくる。

中野

桐、専照寺 中野町 四日市市 三重県
桐、専照寺 中野町 四日市市 三重県

中野町にはいってしばらくいくと専照寺の手前の道端に薄紫の花をつけた桐の木が一本たっていた。自然に生えたわけではなかろう。家具の材木としてしかなじみがなかった木がこんなに高貴な花を咲かせると知って、庭に欲しいと思っていた木なのだ。

道標、山川渓月先生顕彰碑 中野町山條 四日市市 三重県
道標、山川渓月先生顕彰碑 中野町山條 四日市市 三重県先生は、末次郎と称され、博学多識で特に珠算に優れ名声「四隣ニ聞ユ」とあり、明治23年(1890)私塾共進会を開き、珠算と漢学を教授。以下略 左は県道14号(菰野・東員線) 左 四日市 右 こもの ○○

専照寺の角で県道14号が横切る。この県道を北に進んで保々集落にある中野城跡をたずねる。県道を200mほどいった左手にがありその脇に道標があった。「左 四日市」「右 こもの」とある。

天春(あまがす)家(中野城跡)中野町 四日市市 三重県
天春(あまがす)家(中野城跡)中野町 四日市市 三重県田原藤太郎秀郷の後胤赤堀藤太郎が中野家と称して永禄年間(1558~1570)に築城したものであるが、永禄11年(1568)に織田氏により滅亡、現在は城としての形状は留めていない。江戸時代の大庄屋天春家はその城跡であると言い伝えられている。 保々の歴史を知る会・保々地区連合自治会

行円寺に向かってすすんでいくと手前に立派な門塀を構えた天春(あまがす)家屋敷がある。天春家は元禄から明和年間にかけて大庄屋を勤めた家で、その敷地はかっての中野城跡だといわれる。永禄年間(1558~1570)に、田原藤太郎秀郷の末裔赤堀藤太郎が築城し中野家と称したが、ほどなく信長によって滅ぼされた。

俵藤太郎の遺物とされる硯があるという行円寺鎧塚古墳などをみて専照寺にもどる。

旧八風街道(右)、板地蔵堂 中野町 四日市市 三重県
旧八風街道(右)、板地蔵堂 中野町 四日市市 三重県

街道を東に300mほど進んでいくと左手が二段にわかれる十字路にでる。左へ降りていく道は行円寺に通じる。右の旧街道にはいった左手に祠があり、扉をひらくと二体の板地蔵が祀られていた。

旧八風街道 中野町 四日市市 三重県
旧八風街道 中野町 四日市市 三重県

街道は家並みをぬけて雑木林の中を下っていく。水路に差し掛かったところで死角から「こんにちは」と若い声がかかった。若い男女が叢の空き地に的をたてて弓をひいている。高校のアーチェリークラブだろう。妙な場所をみつけたものだ。

小牧

林をぬけると小牧町にはいり街道は保々工場団地にぶつかる。工場の北縁を迂回して国道365号バイパスを横切ったところで旧道が復活している。国道の東側に2本でているうちの南側の細道が旧道だ。

神崎の常夜燈 小牧町 四日市市 三重県
神崎の常夜燈 小牧町 四日市市 三重県

この五差路は、保々地区の小牧神崎(小牧町南)にある。以前は保々・下野・県の村境で、江戸時代から地方道の重要な分岐点であった。交差点の南東角に常夜燈が一基、柵に囲まれて建っている。正面(西)に「両宮 奉燈」、裏面に「安政庚申歳(安政7年・1860)春3月」と建立の年月が刻まれている。両宮とは伊勢神宮のタト宮・内宮の両宮である。五差路を南北に走る道路がある。国道365号で、南は四日市に、北は員弁に通じ……

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この五差路は、保々地区の小牧神崎(小牧町南)にある。以前は保々・下野・県の村境で、江戸時代から地方道の重要な分岐点であった。交差点の南東角に常夜燈が一基、柵に囲まれて建っている。正面(西)に「両宮 奉燈」、裏面に「安政庚申歳(安政7年・1860)春3月」と建立の年月が刻まれている。両宮とは伊勢神宮のタト宮・内宮の両宮である。五差路を南北に走る道路がある。国道365号で、南は四日市に、北は員弁に通じている。また、札場からきた道をまっすぐ西へ入る細い道がある。 江戸時代の八風道(田光・千種道) である。昔はこの道入口の南側に宿屋や茶店があって旅人で賑わったという。この場所は、伊勢・多度参りの旅人や、大矢駅知代官所へ行く村役人、近江への商人など、さまざまな人達が往来したと推測できる。(三重県教育委員会編「歴史の道」より) なお、昭和33年まで、毎年「燈籠祭り」として、図に示す公園で北勢地方では格式のある青年相撲が奉納されていた。 保々の歴史を知る会・保々地区連合自治会

200mほどで五差路に出る。向かいの交点に安政7年(1860)建立の立派な常夜燈が建つ。小牧神崎の辻とよばれるこの交差点は北へは多度、西は田光、南は上海老、東は四日市に通じる重要な分岐点で、周囲には茶屋・旅籠があってにぎわったという。辻にでるすこし手前に江戸時代の街道が残っているとのことたがその痕跡はなくなっていた。

札場

家並み 旧八風街道 山城町 四日市市 三重県
家並み 旧八風街道 山城町 四日市市 三重県

常夜燈の北側の道にうつるとすぐに札場町である。十字路左手に神明社跡をみて東にすすむ。あさけが丘団地をかすめて山城町の竹やぶ道をくだると県道64号に合流する。左におれて道なりに県道をたどると、源治橋信号で県道620号となり三岐鉄道を渡り桜神社の急な石段をみて山城町並みを通り抜ける。ここからは朝明川三岐鉄道にはさまれた空間を東進する。川と田園の風景が広がる明るくのどかな道である。

萱生(かよう)

萱生(かよう)城跡 萱生町 四日市市 三重県
萱生(かよう)城跡 萱生町 四日市市 三重県

右手前方に小高い岡が見えてくる。頂上に見え隠れする建物は暁学園で、そこにはかって萱生城があった。室町時代、春日部宗方が築城した。永禄11年(1568)、信長の攻撃を受けて落城した。寄っていかなかったが、城址碑のほか、土塁、井戸跡、空堀の遺構があるらしい。

中村

三岐鉄道暁学園前駅に近づいたところで中村町にはいる。このあたりは古代東海道の朝明駅家比定地とされていた。近年大矢知町の久留倍官衙遺跡が朝明駅家跡ではないかという説が有力になっているようだ。朝明川堤防沿いの道を淡々と進む。

平津(へいづ)

神明神社旧跡 平津町 四日市市 三重県
神明神社旧跡 平津町 四日市市 三重県

平津にはいったところで、東名阪自動車道高架をかろうじて避ける姿で神明社旧跡の石碑が建っている。

半跏地蔵 平津町 四日市市 三重県
半跏地蔵 平津町 四日市市 三重県

平津集落をとおりぬける。駅に近いもう一本南側の道のほうが集落の中心を通っているようで、そちらが旧街道ではないかと疑いながら歩いていくと左手に地蔵堂がある。格子扉を覗くと左脚をおろした半跏地蔵が安置されていた。地蔵としては珍しい姿勢だ。下肢がやたらと大きく見えた。

街道はその先の二股を右にとって朝明川から離れていく。八郷小学校前に松並木がある。旧街道名残の並木と思いたいが特段の説明板はなかった。

山分

多度道(右)分岐点 山分町 四日市市 三重県
多度道(右)分岐点 山分町 四日市市 三重県振返り 左:八風街道 右:多度道

山分町にはいる。八風街道に加えて四日市方面から多度神社に参詣する道筋にあたり、古くて雰囲気のある家並みが見られる。山分町東端ちかくの逆Y字路は多度道追分で、富田から右の路地にはいって山分橋で朝明川をわたり多度神社に向かった。

大矢知(おおやち)

常夜燈 大矢知町 四日市市 三重県
常夜燈 大矢知町 四日市市 三重県

大矢知町にはいってすぐ右手水路の土手に天保4年(1833)に建立された常夜燈が建っている。土手は目立たない程度のふくらみしかないが、かって大矢知を水害から守るために築かれた堤防であった。

ここで大矢知駅の南側に寄り道をする。

忍藩陣屋跡界隈 大矢知町 四日市市 三重県
忍藩陣屋跡界隈 大矢知町 四日市市 三重県
忍藩陣屋跡 大矢知町 四日市市 三重県
忍藩陣屋跡 大矢知町 四日市市 三重県大矢知興譲小学校

それまで桑名藩領であった大矢知は文政6年(1823)武蔵国忍(おし)藩領となり、現在の大矢知興譲小学校の地に忍藩の陣屋が置かれた。小学校東側の用水路界隈には土蔵や土壁の小屋などが年貢米を積んだ荷車が行き交った往時を偲ばせる。また道沿いの小学校グラウンドに残る松の木と土塁が陣屋の跡を物語っている。

その通りを南にむかって久留倍官衙遺跡を見て行くことにした。およそ1kmの寄り道である。ゆるい上り坂を歩いていく途中で「手延麺」の看板をだした製麺所をいくつか見た。大矢知は全国的に知られる手延べそうめんの産地である。江戸時代、旅の僧侶が作り方を伝えたという。

ほどなく長倉神社の石鳥居と常夜燈が建つ分岐点にくる。ここを右折し長倉神社前を通って坂を上りきると見晴らしのよい丘陵の頂上にでる。右手にあおい幼稚園、左は墓地になっている。その脇をはいると立ち入り禁止のロープ脇に久留倍官衙遺跡の説明板があった。

久留倍官衙遺跡 大矢知町 四日市市 三重県
久留倍官衙遺跡 大矢知町 四日市市 三重県

国指定史跡 指定年月日 平成18年7月28日 この遺跡は、朝明川と海蔵川とに挟まれた丘陵の東先端部に位置しています。奈良時代を中心とした掘立柱建物などが多く見つかり、古代の官衙遺跡であると考えられます。官衙とは、一般に役所や官庁のことを言います。 この遺跡では政務を執り行った官衙の中枢施設である政庁や、租税として集めた米などを保管した正倉院、その他の関連施設などが確認されています。 これらの施設群……

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国指定史跡 指定年月日 平成18年7月28日 この遺跡は、朝明川と海蔵川とに挟まれた丘陵の東先端部に位置しています。奈良時代を中心とした掘立柱建物などが多く見つかり、古代の官衙遺跡であると考えられます。官衙とは、一般に役所や官庁のことを言います。 この遺跡では政務を執り行った官衙の中枢施設である政庁や、租税として集めた米などを保管した正倉院、その他の関連施設などが確認されています。 これらの施設群は、時期と場所を変えて存在していますが、一体で見つかったことは全国的にも珍しいことです。 この地は、古代には伊勢国朝明郡に属しており、見つかった施設群は郡の役所(郡衙)とも考えられます。また、朝明郡は「日本書紀」「続日本書記」などの歴史書にも登場しており、壬申の乱(672年)や聖武天皇東国行幸(740年)との関係も注目されています。 四日市市では、この久留倍官衙遺跡の歴史的文化遺産としての保存と、憩いの場、学習の場としての史跡整備を計画しています。 平成19年 四日市市教育委員会

久留倍遺跡は国道1号北勢バイパス建設に伴う事前調査で発掘された弥生時代から中世までの複合遺跡である。政庁跡や正倉院の遺構などが確認され、古代伊勢国朝明郡の郡衙跡と考えられている。朝明郡衙には672年の壬申の乱に大海人皇子(後の天武天皇)が、740年には聖武天皇が立ち寄ったとされる。最近では古代東海道の朝明駅家跡であると考えられるようになった。

ロープ内にはいるとブルーシートに覆われた発掘現場が点在している。クローバー野原にコーンが並ぶ区域はこれからの調査予定地か。富田の町が一望でき古代道の駅にふさわしい歴史公園となるだろう。

道標(旧八風街道は十字路を左折) 大矢知町 四日市市 三重県
道標(旧八風街道は十字路を左折) 大矢知町 四日市市 三重県かっては丁字路(直進路なし) 安政3年建立 西面:「右四日市みち 左くわなみち 」 南面:「左たどみち」 北面:「 右こものみち 」

小学校までもどり、そのまま北に進むと踏切をわたって郵便局のある十字路に出る。北東角に安政3年(1856)の道標がある。西からきた八風街道はここで直角に北に折れた。当時は東側の道がない丁字路であった。道標の南面に刻まれた「左 たどみち」と北面がいう「右こもの道」は同じ西からの八風街道を示している。西面に「右四日市みち 左くわなみち」とあるようにここでも四日市と桑名は対立しており、八風街道はその中間を走っている証拠である。「左くわなみち」がこれから進む八風街道である。

旧八風街道 大矢知町 四日市市 三重県
旧八風街道 大矢知町 四日市市 三重県左斜めに渡って県道26号に乗る。直進路ではない。

北におれた街道はすぐに突き当たりを右折していく。曲尺手か。

真っ直ぐな道を東南に下ってバイパス高架下で複雑な交差点を渡って県道26号に合流する。直進方向に旧道らしい細い道がまっすぐに延びているがそれは旧道ではないらしい。

JR関西本線八風踏切 蒔田4丁目/西富田3丁目 四日市市 三重県
JR関西本線八風踏切 蒔田4丁目/西富田3丁目 四日市市 三重県

県道を500mほど進むと再びややこしい六叉路に出る。ここで県道と分かれて一本南の道に入る。車が通るに十分な広さを持つ道だが「車両通り抜け不可」の標識がたっている。すぐにそのわけが判明した。JR関西本線の踏切が極端に細いのだ。踏切の名が「八風踏切」とあってうれしくなる。旧道にまちがいない。

これら二つの大きな交差点の間は「下さざらい町」という。礫井(さざらい)の字名が町名になった。

富田一色

旧東海道と交差 蒔田1丁目/西富田2丁目 四日市市 三重県
旧東海道と交差 蒔田1丁目/西富田2丁目 四日市市 三重県

八風踏切を渡ってすぐの十字路が旧東海道との交差点である。4隅を確認したが旧道の交差を示すような道標はみつけられなかった。南北に走る東海道にはいると見覚えのある風景があった。十字路を北にはいったすぐ右手が聖武天皇ゆかりの鏡が池跡である。

家並み 旧八風街道 松原町 四日市市 三重県
家並み 旧八風街道 松原町 四日市市 三重県

旧東海道を横断した旧八風街道は田村寺を左手にみて近鉄名古屋線をくぐった先の阿弥陀堂の角を左折して二筋目(県道26号の一筋手前)の丁字路を右折していく。周辺は富田市街地である。右手に「八風公園」があった。名前の由来を記した立て札でもと思ったが何もなかった。しかし、滋賀県側にくらべて三重県側のほうに「八風街道」が強く意識されているような印象を受けた。

国道1号の手前に出格子の民家があり、かすかに街道の残り香を放っている。

松原公園 松原町 四日市市 三重県
松原公園 松原町 四日市市 三重県松原は遠く奈良時代万葉集に詠われた「吾がの松原」の地であります。幾度の変遷を重ねて今日に至った、古い歴史をもつ松原であります。以下略 平成元年2月 松原連合自治会建之

国道にでて南にすこし行った松原郵便局の角を右に入っていくと聖武天皇社がある。このあたり一帯は万葉の時代に「吾の松原」と詠われた景勝地であった。海が国道1号あたりまで来ていたのだろう。若い松が植えられて「松原公園」として整備されている。

聖武天皇社 松原町 四日市市 三重県
聖武天皇社 松原町 四日市市 三重県

「続日本紀」によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。また「万葉集」 1030聖武天皇の御歌に「妹に恋ひ 吾の松原みわたせば、潮干の潟に鶴なき渡るjとある。吾の松原については、安濃の松原であり、若松の松原であり、本市の県地区であるという説があるが、この地は現在も松原町と称し、大樹……

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「続日本紀」によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。また「万葉集」 1030聖武天皇の御歌に「妹に恋ひ 吾の松原みわたせば、潮干の潟に鶴なき渡るjとある。吾の松原については、安濃の松原であり、若松の松原であり、本市の県地区であるという説があるが、この地は現在も松原町と称し、大樹のあった面影を残しており、この辺を中心とした極めて広い場所が吾の松原であったと推定されている。 松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村真二氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、 が、ちょうどその時、傍らに洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。そして当時の天皇の形見の品が永く保存されていたが、火災で焼失したといわれている。 聖武天皇社は、神社の名称やこのあたりに大きな樹木のあったことから考えて、この地を朝明頓宮の跡として、鎌倉時代の安貞元年(1227)に創建されたものであり、.境内には昭和30年に郷土が生んだ歌人 が建てられている。 平成6年7月 四日市市教育委員会

石鳥居の両側には小ぶりの石燈籠が石垣の上にずらりとならんでいる。天平12年(740)聖武天皇が伊勢国行幸のおり、この地に宿泊されたという。安貞元年(1227)その宿泊地、朝明頓宮跡に創建されたのが聖武天皇社である。境内にはその際に詠まれた歌の碑がある。

新旧八風街道分岐点 富州原町 四日市市 三重県
新旧八風街道分岐点 富州原町 四日市市 三重県見返り 旧道 左 右は県道505号

街道にもどる。国道1号を横切って路地をすすむと現在の八風街道県道505号に合流する。商店街をぬけると終着点海運橋に到着する。大矢知に忍藩の陣屋が置かれて富田一色は年貢米の積み出し港となった。海運橋近くの運河沿いには陣屋河岸や酒蔵、倉庫などが建ち並び活況を呈したという。1988年、運河は海運橋の北側で締め切られた。

鰹節商店 富田一色町 四日市市 三重県
鰹節商店 富田一色町 四日市市 三重県
家並み 富田一色町 四日市市 三重県
家並み 富田一色町 四日市市 三重県

海運橋から海に向かって歩いていく。富田一色町には八風街道で最も古い家並みが残っていた。土蔵がつらなる一角はギャラリーとして再利用されている。その先には風情ある鰹節卸商が今も商っている。見事な連子格子を施した家が立ち並び富田一色商人の繁栄振りを彷彿とさせる町並に見惚れるままに海岸防波堤にぶつかった。

富洲原港 冨双2丁目 四日市市 三重県
富洲原港 冨双2丁目 四日市市 三重県

一筋南にうつると門を通って海辺にでられる。運河をわたる鉄橋や突堤には大型クレーンが居並び近代的な港の景色には風情が感じられない。

民家 富田一色町 四日市市 三重県
民家 富田一色町 四日市市 三重県

町にもどる通りは広小路で正面突き当たりに飛鳥神社がある。両側の民家の多くは魚問屋であろうか、漆喰壁の建物が多く立派なウダツを上げる家もある。格子窓は標準仕様のようである。道路に面して縁台が立てかけてある家が多かった。バッタリのように据え付けられたものではない。日干し用の棚かもしれない。八風街道の旅を締めくくるにふさわしい趣ある通りであった。

(2010年5月)

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