塩津-(沓掛)-新道-疋田-道口-敦賀 (沓掛-追分の深坂古道を含む)
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院
近江(滋賀県)と越前(福井県)を結ぶ街道の中で古くから使われてきた道が、琵琶湖最北の湊塩津と日本海の敦賀湊を結ぶ塩津街道であった。越前は越の国(越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)の最前線の国として、畿内との交通が頻繁であった。塩津から敦賀に抜ける道に二つのルートがあった。古くは沓掛から深坂峠を越えて西近江路の追分宿に出る道(深坂古道)が使われていたが、険しい山道をさけて後年新道野峠をこえる道が開削された。現在の国道8号の原形で、西近江路の疋田宿に出る。ここでは両方の道を歩くことにする。なお、追分・疋田以北の旅については西近江路と重複している。

塩津浜に立って南を見つめている。琵琶湖が北に尽きる浜辺である。琵琶湖はその北奥で三つの入り江を形成し、それぞれの入り江に東から塩津、大浦、海津の湊が造られ、各湊から敦賀に通じる道が開かれた。大浦から北上する道(県道286号)は深坂古道の手前で塩津街道(国道8号)に合流する。海津から敦賀に向かう道は西近江路(国道161号)であるが、特に海津と敦賀を結ぶ道筋はその距離をとって七里半街道と呼ばれた。奥琵琶湖から出た西近江路・塩津街道の二つの幹線は疋田で一束となって敦賀に至った。


浜を西に移動すると小さな港がある。2、3艘の小型漁船があるだけで、いわゆる塩津港ではなさそうだ。昔丸子船で賑わっていた塩津の湊は一山越えた西側の大川河口西岸にある。ここに数年前、平安時代の神社が発掘された。平安時代と言えば996年の秋、27歳の紫式部が越前の国司になった父藤原為時に伴って京を出、大津から船で琵琶湖を北上し、この塩津港で船を下りた。途中高島三尾の浜辺の沖で「三尾の海に綱引く民のてまもなく 立居につけて都恋しも」と歌を詠んでいる。彼女は塩津港に入る船上からこの神社を眺めていたはずである。上陸後参拝したかもしれない。この塩津港跡遺跡について、現地で得た観光マップには一言も触れられていなかった。事前調査不足であった。

彼女の歌は深坂峠を越えたあたりでもう一首見ることになっている。
塩津港では京・大坂から運ばれてきた茶、陶器、漆器、反物などの商品が降ろされ、北国諸藩からの年貢米や日本海や蝦夷地で採れたニシン、昆布などの海産物が丸子船に積み込まれた。200石から400石積みの大丸子船は、延宝7年(1679)、塩津に125艘、大浦に21艘あったという。

街道を歩き始める。国道の一筋北側の路地を東にたどったところに延喜式内社塩津神社がある。塩水が湧き出るという近くの池で塩を作っていた人たちが塩土老翁(しおつちのおじ)神を祀ったのが始まりという。江戸時代中期に伏見稲荷を勧請した。本殿は元禄7年(1694)の建築で、長浜の大工藤岡家によって建てられた。精緻な彫刻が多用されているのが特徴である。

旧街道に入る。白壁土蔵のある民家の板塀に寄りかかるようにしてタチアオイが赤い花をつけている。脇に「塩津海道」の標石が設置されていた。
切妻入り造りの家が多い。くすんだベンガラ色の柱や塀が懐かしさを醸しだす。塩津宿には本陣、問屋が置かれた。安政5年(1858)には問屋が6軒あったという。


左手に元造り酒屋、「沢屋」の重厚な屋敷が目を引く。白壁土蔵と主屋をつなぐ屋根付き塀の上から見越しの松が街道を覗き見している。二階に二カ所の出格子を設け、白壁に黒々と露出させた柱と梁が美しいコントラストをなして、英国チューダー風建築の粋さを呈している。一階には駒寄が設けられ、深い軒の雁木は雪国の風情である。
その道向かいに建つ総二階の箱型洋館は旧郵便局舎である。

右手の長屋風二階建て民家は趣きがある。二階の出格子は大きく突き出て、まるでベランダだ。一階の黒板塀に重ねるように設けられた格子も面白い。
旧街道は塩津浜の宿場風情がのこる家並みをぬけ、国道8号に合流する。
すぐ先の祝山(ほりやま)集落に通じる丁字路(県道33号)角に立派な常夜燈が建っている。天保5年(1834)の建立で、駄馬仲間や塩津浜およびその枝村8ヶ村(祝山、野坂、塩津中、岩熊(やのくま)、横波、余、集福寺、沓掛)の世話役たちが建立したものである。

そばに同時代の道標がある。天保12年(1841)のもので、同一面に「左 いせ たにぐミ きのもと」「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」と刻まれている。「左 伊勢 谷汲 木之本」とは木之本で北国街道に出て中山道に連絡する道を示している。「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」とあるのはほかでもない、塩津港を指し、そこからの湖上航路行先を示している。
なお、塩津と木之本を結ぶ道として、塩津神社の前から国道8号(県道514号筋)で賎ヶ岳の南腹を越えて木之本に至る道と、祝山から県道33号筋で権現峠を越え下余呉で北国街道に合流する権現越えの道があった。権現越えは余呉湖の北湖畔を通り、羽衣伝説の情緒を体験できるのでロマン派にはお勧めである。 他方、賎ヶ岳は古戦場跡で、歴史派に向いているであろう。これらを含めて塩津街道の終起点を木之本とする意見がある。

その祝山集落に国指定重要文化財の豪農辻家住宅があるというので寄っていくことにした。県道33号からすこし北にはずれた集落のほぼ中央に、堂々とした長屋門(1808年)と白壁土蔵2棟(1813、1832年)、そして入り母屋茅葺造りの主屋(1825年)からなる辻家住宅があった。ちょうど垣根を剪定していた御主人と出会って、門の中に入れてもらった。家の中は公開していない。
街道にもどり、国道を北上する。
国道の右手、塩津小学校のある集落が旧野坂村、その先近江塩津駅の西方にのびる集落が余。それぞれに集落内をぬける旧道がある。
右手に集福寺集落に通じる北陸本線のトンネルが見える。


国道が大川をわたる手前で右の旧道にはいる。沓掛集落が大川の左岸にそって長く延びている。古い建物等は残っていないが現代の美しい里山を描いて心和む風景があった。大川はこれから越えていく国境の深坂峠に源を発する。その上流の山峡に沓掛がある。天保5年 (1834)の記録では家数104戸、人数530人となっていて、峠下の集落としては大きな規模だった。集落の北端近くで大川をわたり国道にもどる。
およそ1km行ったところで左に分岐する県道286号が大浦街道で、塩津と海津の間に位置する大浦港に通じている。大浦は丸子船の造船基地であった。

大浦街道分岐点から1.5kmほどいったところに鶴ヶ丘バス停があり、左手の小さな集落に通じる道が出ている。バス停脇に地蔵と「中部北陸自然歩道」の標識がある。ここが4.5kmの深坂古道入口である。実は元の古道入口はここから国道を700mほど戻ったところにあった。そこの古道はすこし残っているだけで、大川の湿地に消えているとのことだったので試みなかった。

鶴ヶ丘からの古道は自然歩道として人気があり、よく整備されている。国道からしばらくは造成工事現場があって、古道の雰囲気にほど遠いが、まもなく無事草道にはいっていった。入口には通行止めの石が置いてあるだけで案内板も標識もなくそっけない。

草道は大川に接近していく。川の流れは見えないが、平らに広がる草むらが河川敷であることがわかる。そこに細い道跡がつづいているのが認められた。これが、国道700m手前から出ていた古道が湿地に消失した後復活してきた姿である。
その合流点に「塩津海道」の道標が建てられている。塩津浜でいくつかみた道標と同じく、旧道は「海道」で統一されている。

いまや細い沢になった大川に沿って山に入っていくと、建物跡とみられる苔むした石垣の遺構があった。沓掛問屋跡だという。沓掛は宿駅としては数えられていない。敦賀から来た馬の荷はここで塩津から迎えに来た馬に積み替えられた。

杉木立の山道を進んでいくと道がすこし広がり、「深坂地蔵 0.1km 新疋田駅 2.8km」の標識が立っていた。ここまで傾斜はなだらかで、足元も平坦で快適な山道であった。
人これを呼んで深坂地蔵又は堀止地蔵と云う。これは越前の国守である平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し深坂峠から塩津へ流れる大川と敦賀で日本海に注ぐ笙川を利用しようとしたが当時その試験堀を現在の深坂地蔵境内で行ったが大きな石が現れ掘り進む事ができず石工の職人が金矢にて打ち砕くべく穴をあけたところ、突然腹痛にかかり不思議に思った役人が作業を中止してこの石を掘起したところ思いの外御地蔵様の御姿であっ……
人これを呼んで深坂地蔵又は堀止地蔵と云う。これは越前の国守である平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し深坂峠から塩津へ流れる大川と敦賀で日本海に注ぐ笙川を利用しようとしたが当時その試験堀を現在の深坂地蔵境内で行ったが大きな石が現れ掘り進む事ができず石工の職人が金矢にて打ち砕くべく穴をあけたところ、突然腹痛にかかり不思議に思った役人が作業を中止してこの石を掘起したところ思いの外御地蔵様の御姿であった。それ以来この地に治まり広く万民の不幸や災難を御守り下され、特に子供の願い事は必ず聞き入れて下さる有難い御地蔵様で御座います。其れ以来堀始め地蔵変じて堀止地蔵とも言伝えます。
まもなく、右手の少し奥まったところに地蔵堂が見え、そこから人の声が聞こえてくる。近づいてみると堂内に老夫婦が正座している。木魚のリズミカルな音と、二人の声をあわせた御詠歌が流れてくるではないか。素朴な信仰の原形を垣間見た気がして思わず後ずさりをした。夫婦が祈っていたものはなにか。私はなぜその心境にならないか。自問しながらその場を去る。
境内に建つ石碑に深坂地蔵の別名、堀止め地蔵の謂れが刻まれている。平安末期、偉大な夢想家平清盛は日本海と琵琶湖を運河で繋ぐ夢を抱く。これを受け越前国司で清盛の長男であった重盛は、塩津側の大川と敦賀川の笙の川を連結すべく、深坂地蔵の境内で掘削を始めた。ところが巨岩に突き当たって結局運河の掘削を断念した。岩は石地蔵であったという伝承が作られた。

その後も琵琶湖と日本海を水路で繋ぐ魅力は捨てがたく、幾度も画策されたがその度に陸路輸送の権益を守ろうとする利益団体の反対に遭って実現しなかった。夢の一部が疋田の舟川として残っている。
一旦傍を通る林道に出て再び山道に入っていく。「←↓中部北陸自然歩道」の標識がある。自然歩道はここまでのようだ。
深坂峠あれこれ ここが深坂峠の頂上で標高370m 越前(福井県)と近江(滋賀県)とを分岐する国(県)境である。この峠を挟んで、東側の尾根頂上には南北朝時代に築かれたと思われる山城が、またやや離れた西側の尾根には戦国時代に築かれたと考えられる山城があり、これによっても当時の土豪達がこの街道を軍事的に重視していたことがうかがえる。峠を滋賀県側に少し下ると深坂地蔵堂がある。ここに安置されている地蔵は、平……
深坂峠あれこれ ここが深坂峠の頂上で標高370m 越前(福井県)と近江(滋賀県)とを分岐する国(県)境である。この峠を挟んで、東側の尾根頂上には南北朝時代に築かれたと思われる山城が、またやや離れた西側の尾根には戦国時代に築かれたと考えられる山城があり、これによっても当時の土豪達がこの街道を軍事的に重視していたことがうかがえる。峠を滋賀県側に少し下ると深坂地蔵堂がある。ここに安置されている地蔵は、平安末期平清盛の命により平重盛が琵琶湖と敦賀を結ぶ運河の開削工事を行った際に掘り出され、工事を中止する原因になつたと伝える『堀止めの地蔵』で、今なお多くの人々の信仰を得ている。参拝者の塩を供える姿は、この道がかって塩を運ぶ道であったことを物語るように思われる。その後、江戸時代になると大量の物資を安全にしかも安価に運ぶことが要求されるようになり、この深坂峠を越える運河開削工事計画も何回となく繰り返されたが、工事が実施されることには結び付かなかった。地蔵堂をさらに下ると問屋場跡がある。桃山時代頃に栄えたが新道野に西村孫兵衛が経営する新しい問屋(荷物の積み替えをした業者)が誕生したことにより廃絶した。今も残る豪壮な石垣に、当時の面影をしのぶことができる。
まもなく切り通しの道形がみえて峠が現れた。新道を作る必要があったのかと思わせるほど穏やかな峠である。ここに建つ説明板の中に古道に残る問屋場跡の疑問が解けた気がした。沓掛の問屋場は深坂古道が利用されていた戦国時代以前のもので、新道が開削された江戸時代以降継立業務は沓掛から新道野に移されたというものである。従って近代の塩津街道において沓掛は宿場ではなかった。宿場と言えば、五街道・一里塚・本陣・問屋場とセットにして江戸時代の交通制度と解する思い込みが強い。律令時代から宿駅、駅家のシステムはあったのだ。

峠をこえて福井県側にはいると道は次第に様相が険しく変わってくる。大川の溝のような沢にかわって、崖の斜面は深い谷に落ち込んでいく。幸いに足元は和らかな山道で、瓦礫や崖の崩落個所がないのは安心であった。

ゆっくりと歩を進めていくと右手道端に小規模な石組が半ば崩れて残っている。炭焼き窯跡である。地蔵、問屋に続き炭焼き場と、この峠道には昔の生活の臭いがする。茶屋跡があってもよいがと、かってに期待した。

左に深く谷が刻むところで一部道が崩れたのか、木橋で補修されていた。数本の角材が針金で固く結ばれた橋で、丸木橋より歩きやすい。
笠朝臣金村 塩津山(深坂峠)にして作る歌二首 大夫(ますらお)の弓上(ゆずえ)振り起せ射つる矢を 後見む人は語り継ぐがね 『万葉集』 (大意)勇者たる者は自分の弓の弓木をしっかりと振り起して射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。 塩津山うち越え行けば我が乗れる馬ぞ爪づく家恋ふらしも 『万葉集』 (大意)塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家……
笠朝臣金村 塩津山(深坂峠)にして作る歌二首 大夫(ますらお)の弓上(ゆずえ)振り起せ射つる矢を 後見む人は語り継ぐがね 『万葉集』 (大意)勇者たる者は自分の弓の弓木をしっかりと振り起して射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。 塩津山うち越え行けば我が乗れる馬ぞ爪づく家恋ふらしも 『万葉集』 (大意)塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家人が私を慕っているらしい。
道は山腹の斜面から左右から切通された凹形の山中道に移った。道の真ん中に大きな石が座っている。下り方向に向かって笠朝臣金村の歌碑が設けられていて、塩津山(深坂峠)で詠んだ歌二首が載せられている。神亀4年(727)、笠朝臣金村は平城京から近江に入り琵琶湖を渡って塩津で下船し深坂越えで敦賀に向かう途中のことであった。
大夫(ますらお)の弓上(ゆずえ)振り起せ射つる矢を 後見む人は語り継ぐがね 『万葉集』
(大意)勇者たる者は自分の弓の弓木をしっかりと振り起して射よ。射た矢を後に見る人があれば、それを語り草に言い伝える材料とするだろうから。
塩津山うち越え行けば我が乗れる馬ぞ爪づく家恋ふらしも 『万葉集』
(大意)塩津山を越えて行くと、私の乗っている馬がつまづいた。家人が私を慕っているらしい。

倒木で乱れた個所、崩落した崖を見下ろすベンチ展望地、百日紅の木のように皮をはがされた大木などを見ながら沢を二度三度と渡っていくと、今度も下りに向かって立つ歌碑があった。

長徳2年(996)の秋、27歳の紫式部が越前の国司になった父藤原為時に伴って京を出、大津から船で琵琶湖をわたり、塩津の湊で下船した。塩津山を越えて越前敦賀に入る途次、深坂峠道で目撃した庶民の苦しい生活ぶりに興味をよせて式部は歌を残している。
長徳2年(996)頃、紫式部が父藤原為時とともにこの峠を越えたときの詞書と歌 塩津山といふ道のいとしげきを、賎の男のあやしきさまどもして「なおからき道なりや」といふを聞きて 知りぬらむゆききにならす塩津山 世にふる道はからきものぞと 『紫式部集』 (大意)塩津山という道が草木が大変茂っているので輿をひいて荷物を運ぶ人足が、誰もみすぼらしい姿をして、「やはりここは難儀な道だなあ」と言うのを聞いて、 ……
長徳2年(996)頃、紫式部が父藤原為時とともにこの峠を越えたときの詞書と歌 塩津山といふ道のいとしげきを、賎の男のあやしきさまどもして「なおからき道なりや」といふを聞きて 知りぬらむゆききにならす塩津山 世にふる道はからきものぞと 『紫式部集』 (大意)塩津山という道が草木が大変茂っているので輿をひいて荷物を運ぶ人足が、誰もみすぼらしい姿をして、「やはりここは難儀な道だなあ」と言うのを聞いて、 お前たちもわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが。
知りぬらむ往き来に馴らす塩津山 世に経る道はからきものぞと
(大意)塩津山という道が草木が大変茂っているので輿をひいて荷物を運ぶ人足が、誰もみすぼらしい姿をして、「やはりここは難儀な道だなあ」と言うのを聞いて、
お前たちもわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが。

やがて視界が開けてきて古道出口に近づいた。「中部北陸自然歩道」の案内板があった。「気比の松原と芭蕉を偲ぶ道」として主要なみどころに気比神社、金ヶ崎城跡、気比の松原の三カ所が挙げられている。この旅でも敦賀ではその三か所を中心にまわってみよう。

また、「近江へ向かう道」として深坂古道が示されている。沓掛から古道にはいってまもなく出合った自然歩道の標識「←↓」は何を意味していたのか?
古道は坂を下りきったところで右に折れて五位川にかかる橋の北詰で西近江路と合流する。

敦賀から来た街道はここで西近江路で海津に出る道と、深坂峠越えで塩津に出る道に分かれていた。宿場はこの追分に作られた。近世になって高低差の少ない「新道野越え」が開かれると峻険な深坂越えは使われなくなり、それに伴って追分宿も衰退していった。享保12年(1727)の記録では家数20戸、人数108とある。

追分集落を歩く。旧街道の面影を残す民家が見受けられる。道端で出会った男性に宿場の遺構を尋ねたが何もないとのことだった。ただし「昔は雲助をやっていた。最近まで駕籠が残っていたんだが」と、貴重な証言を得た。山間の静かな集落である。紫式部が父親と深坂峠の難所を越して一息ついた風景が蘇る。

国道にもどるとすぐ右手にJR新疋田駅がある。無人駅だが、ログハウス風の感じよい駅舎である。待合室の壁面は四方鉄道写真が張り巡らされていた。「自由に貼ってください」という。しかもどうやらこの駅で撮った写真のようだ。プラットホームに出ると「プラットホームでは三脚を使わないように」との注意書きがあった。左敦賀方面は線路が大きくカーブして、列車の全体を撮るのにふさわしい。

右手、滋賀県方面はすぐに深坂トンネルの二つの穴が覗いている。右から出てくる下り列車と、左に入る上り列車を同時に撮れれば最高だろう。プラットホームに一人の若者が三脚に大きな望遠レンズを乗せて列車を待ち構えていた。三脚は線路と反対側の金網を跨ぐようにして立てていたので注意書き違反ではない。彼と同じ列車を撮って駅を離れた。

深坂古道入口を左にみて国道を北上するとまもなく滋賀・福井県境を越える。近江・越前国境にしてはなにもない所だ。まもなく左手に茅葺の西村孫兵衛の茶屋が見えてくる。

険路で知られた深坂越えにかわって疋田から東に迂回して曽々木を経て南下する比較的平坦な新道野越えが戦国時代末期の16世紀後半に開削された。国境近くに新しい集落が形成され、宿場に指定された。小浜藩によって、国境近くの新道野に女留番所、高札場、米蔵が設置され藩米の継立て基地として整備されると、新道野越えは七里半越(西近江路)と並ぶ近江への主要道になった。

国境の新道野を開拓したのが塩津谷9ヵ村の一つ岩熊村の西村孫兵衛である。西村孫兵衛は小浜藩の米を一手に引き受け塩津へ輸送する問屋に指名された。孫兵衛茶屋は茶屋兼営問屋場跡である。西村家は奥の細道素竜本を秘蔵している旧家である。道を挟んで本家があり、そこに芭蕉句碑があるとのことだが、茶屋が定休日であったこともあり、行きそびれた。

茶屋から1kmほどで右に新道集落が見えてくる。旧道沿いには茅葺屋根をトタンで覆った大きな入母屋造りの民家が散見される。継立は孫兵衛茶屋で行われたので宿場と言っても静かな集落だった。

山裾の玉泉寺から集落全体が俯瞰できる。山間に家々が体を寄せ合って生きている。
国道にもどり一路疋田をめざす。国道は曽々木集落で大きく左に方向を変える。旧道にはいって集落を歩いてみたが、特段記するような風景はみかけなかった。奥野集落を右にみて国道8号は疋田信号三差路で国道161号と合流する。疋田集落内の旧道に入るべく国道161号をすこし南下して右手旧道に入っていく。

JR北陸本線の高架をくぐると左手に疋田集落への旧道が分かれている。集落入口に大きな岩があって「天下和順 延享四年丁卯(1747)南無阿弥陀仏 日月晴明」と刻まれた板石が張り付けてある。岩の上には祠屋根が乗せられていてなんとも奇妙な姿である。集落の安穏と往来の安全を祈願して造られた。
史跡 疋壇城跡 昭和29年12月9日福井県指定 この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。 この地は、柳ケ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで……
史跡 疋壇城跡 昭和29年12月9日福井県指定 この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。 この地は、柳ケ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで元亀元年(1570)織田信長が天筒山城を攻略した際に金ヶ崎城jと共にこの城も破壊された。信長軍の撤収後に一旦は修復されたらしく朝倉の臣栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃に依り城主疋壇六郎三郎は討死し城は完全に破却された。それからここに400有余年、今も遣る石塁塹壕跡が名残をとどめ、そこかしこに遺る小字名と共に往時を物語っている。 (幻雲文集・西福寺文書・信長記その他)
その先に疋壇城跡の標識が立っている。街道を離れて奥の石段を上がりつめると広いグラウンドに出た。「西愛発小学校跡地」の標石がある。グラウンドの北側に説明板と城跡の石碑が建っていた。その後ろの高台に遺構の土塁と石組が残っている。周囲はロープが張られていて立ち入れない。個人所有の畑地になっているらしい。
疋壇城は文明年間(1469~1486)に越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により築かれ、以後7代約100年間疋壇氏の居城となった。この地は、柳ケ瀬越・深坂越の塩津街道と海津越の西近江路が集結する交通軍事上の要衝であるため、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものである。織田信長の二度目の越前侵攻で敦賀の金ヶ崎城と共に破壊され廃城となった。
疋田は近江と越前の境にあったとされる日本三関の一つ愛発(あらち)関が置かれていた所と考えられている。不破の関、鈴鹿の関と異なり、愛発の関の比定地は諸説あって確定していないが疋田が最有力視されている。

右手から清冽な水が走る水路が現れた。この水路の原型は疋田舟川と呼ばれた運河に遡る。文化13年(1816)小浜藩は家老三浦勘解由左衛門を普請奉行に任じ、敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村の間に幅9尺、総延長約6.5kmの舟川が完成した。敦賀町から舟で運ばれた荷物は、疋田村から牛車で近江の大浦村へ輸送され、そこから丸子船で琵琶湖を縦走して大津や京に運ばれた。
川幅9尺(約2.8m)の舟川に川舟が運航したが、狭い舟川には二艘の並航はできず、三艘ほどが一列となって航行した。この船溜は舟川の終着点で、約4間に10間の広さ(40坪 133㎡)があり、周囲は石垣で固められていた。敦賀を出発し、疋田の舟川を曳き上げられてきた川舟は、ここで上がり荷(米など)を降ろし、下り荷(茶など)に積み替えて敦賀へ戻って行く仕組みであった。 1986年2月 敦賀みなとライオンズク……
川幅9尺(約2.8m)の舟川に川舟が運航したが、狭い舟川には二艘の並航はできず、三艘ほどが一列となって航行した。この船溜は舟川の終着点で、約4間に10間の広さ(40坪 133㎡)があり、周囲は石垣で固められていた。敦賀を出発し、疋田の舟川を曳き上げられてきた川舟は、ここで上がり荷(米など)を降ろし、下り荷(茶など)に積み替えて敦賀へ戻って行く仕組みであった。 1986年2月 敦賀みなとライオンズクラブ
さらに昔にさかのぼれば、平清盛は敦賀と琵琶湖を運河で結ぶ壮大な夢を持っていた。琵琶湖からは淀川を経て瀬戸内海から太平洋に出る道が確保されている。日本海と太平洋を短絡させる、パナマ運河に匹敵するような夢であった。追分から深坂古道を通って塩津に出るルートが策定されたが、深坂峠の堅固な岩盤にぶつかって断念せざるを得なかったという。その後も敦賀―琵琶湖の運河航路の計画はいくどとなく持ち上がるが、結局陸送の権益をもつ地元の反対や、北前船による西廻り航路の発達により計画は頓挫した。疋田舟川は清盛の夢の一部であった。
疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、ま……
疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、また河村瑞軒も試みたという。京都の商人田中四郎左衝門は、寛文9年(1669)琵琶湖疏水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出し、元禄9年(1696)にもまた企画するが、郡内19ケ村の庄屋の反対にあって、この計画は中止された。その後、日本海沿岸への異国舶の出没に対し京都の糧道確保のため、文化13年に琵琶湖疏水計画が幕府・藩の手によって具体化し、翌年3月、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4カ月後に完成を見た。文化14年8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運転を行った。上り荷は米・海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車にて近江大浦へ輸送された。なお、安政4年(1857)4月、幕府・小浜藩によって天保5年に廃止された舟川が堀り起こされ、12月再開通された。土橋より下は笙ノ川筋に出て、河□の今橋の下には荷物取級所が置かれた。この舟川も慶応2年(1866)5月、大洪水で破壊された。寛文期(1661~72)以降、河村端軒による日本海から大坂直航の「西廻り航路」の開発で受けた敦賀港の打撃は、このように琵琶湖・敦賀間の運河計画が部分開通に終わったため、回復には至らなかった。1985年12月 気比史学会・敦賀みなとライオンズクラブ (2001年3月改修 福井県) 舟川の胴木 現在の川幅は、沿道の拡幅によって左岸が狭まり約1.5mになっているが、もとは9尺(約2.8m)であった。右岸の石組は、当時に近い状態に整備したものである。疋田付近では、急流のために水位が上がらず、積荷を満載すると船底がつかえるので、川底に胴木を敷設して、舟の上りを滑らかにする工夫がなされた。また、ここでの川舟は、川沿いの道路から、棕櫚縄で幾人もの人夫によって曳き上げられていった。 1985年12月 敦賀みなとライオンズクラブ
その舟川も荷物を奪われた馬借座の訴願により天保5年(1834)廃止された。のち安政4年(1857)になって京都町奉行の検分によって舟川は再掘されて再開されたが、慶応2年(1866)大洪水で破壊された。悲運の運河は通算27年の現役を終え親水公園と生活用水路として余生を送っている。

左手に高い石積みの上に塀をめぐらし門を構えた立派な屋敷がある。疋田宿には小浜藩の本陣があったというから、それにふさわしい佇まいである。中にはいると古い建物が残っていた。六地蔵や五重石塔などもあってどうやら寺(定広院?)のようだ。
石垣脇に「船溜跡」の説明板があった。疋田総蔵屋敷に船溜りを作って川舟を回転させ、米・海産物の上り荷を降ろし、茶などの下り荷を積みこんだ。先の屋敷は蔵屋敷跡であり、小浜藩は本陣としても使っていたのではないかと想像する。
疋田は享保12年の記録では家数84戸、人数411人とあって、中山宿の2倍、追分宿の4倍の規模を誇り小浜藩の本陣が置かれて郡内最大の宿場であった。しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊から琵琶湖経由の輸送が減少し、衰退の道をたどらざるをえなくなった。

疋田の集落を出るあたりに不釣り合いなほど大きな祠に小ぶりの光明不動明王が納まっている。旧道の道筋について他の資料では疋田の中央あたりで右折、疋田診療所前を左折する曲尺手を経るルートが示されている。後日知ったため、そこを通る機会がなかった。古い家並みが残っていたかもしれない。

集落を出て排水施設の先で国道を横切り、笙の川を渡って市橋集落に入る。
集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた小さな大日如来が祠に安置されていた。

旧街道は山と笙の川に挟まれた道を行く。山側の崖は切り立っており、かなり切り通した跡がうかがえる。昔は川に向かって山塊がおちこむ険しい道であったのだろう。

旧道はそのまま小河口(おごぐち)集落に入っていく。笙の川は国道の西側に去って、土地は平らである。ここにも日吉神社があった。追分・疋田・市橋・小河口と、すべての集落で日吉神社をみてきた。なにか謂れがありそうな気がする。

小河口集落をぬけると旧道は川の手前で失われていた。その先、国道の導入路、バイパスなどが入り混じって複雑である。
国道8号に出て敦賀市内に向かう。北陸本線のガードをくぐり鳩原で農兵隊の鳩原水害記念碑を右にみて、道口への旧道に入る。
道口は笙ノ川が敦賀平野に向かって開ける扇状地に位置し、古くは三口ともよばれ若狭・敦賀・越前の三方にわかれる分岐点であった。交通の要所にあたり、江戸初期には宿駅と女留番所が置かれていた。

集落の上空に見上げるようなコンクリートの塊が聳えている。北陸自動車道の笙の川架橋工事であるらしい。もう少し低い所を通ればいいのにと思う。
夏の風物詩であるノウゼンカズラが満開であった。軽トラックが側溝に前輪を嵌めている。JAFを呼び出し中だろうか。
集落のほぼ中央に三口の分岐点があった。東に出ていく道が古代の北陸道で、木の芽峠を越える険しい道であった。西近江路の延長でもある。

JR小浜線の道ノ口踏切をこえるといよいよ敦賀市内である。旧道はこの先国道8号に合流して北上し、国道27号を越えた先で左の旧道にはいっていく。道はまもなく東洋紡の広大な工場で途絶している。工場北側の旧道復活点はあきらかでない。地図をながめる限りでは、津内緑地から敦賀漁港に至る道筋に近い。漁港のすこし手前を西にはいったところにある真願寺が敦賀城跡である。

国道8号を市内に進む。敦賀駅前通りとの交差点白銀信号を越え、本町を通り抜けると大きな交差点の北東角に越前国一之宮気比神社がある。芭蕉が奥の細道の旅で敦賀に着いてまず訪れたのがこの神社だった。
北陸道総鎮守 越前国一之宮 沿 革 主祭神気比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奏斎した。延喜武に「祭神七座並名神大社」とあリ類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されておリ此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治……
北陸道総鎮守 越前国一之宮 沿 革 主祭神気比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奏斎した。延喜武に「祭神七座並名神大社」とあリ類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されておリ此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治28年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜って気比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみならず日本有数の古名大社として通称「気比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め9月2日より15日におよぶ例祭は「気比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に逡なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和43年畏くも天皇皇后両陛下御親拝・昭和62年5月昭和の大造営に依る本殿遷座祭・平成14年御祭神合祀1300年2年大祭にあたり、幣帛料の御奉納を賜り厳粛なる奉幣祭が営まれた。戦後の都市計画で境内は大福に削減されたが、由緒ある摂末社15の中、当地敦賀の地名の発祥である武内摂社角鹿(つぬが)神社がある。
高さ11mの赤い大鳥居は正保2年(1645)の建造といわれ、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造鳥居の一つである。大宝2年(702)建立の古社で、北陸道の総鎮守・越前国一之宮、明治時代に官幣大社となった。
参道をすすむと境内右手に松尾芭蕉の像と句碑がある。
芭蕉は気比神社に詣でるにあたり、逗留先の出雲屋の主人から、砂持ち神事の故事を教えられた。気比神社交差点の向かいにそのモニュメントがある。
正安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の 管長が交代した時にこの行事が行われている。……
正安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の 管長が交代した時にこの行事が行われている。元禄2年(1689)、奥の細道紀行で敦賀を訪れた芭蕉は、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
承安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道とその周辺が沼地で参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたったという。
なみたしくや遊行のもてる砂の露 台座の句:月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉と敦賀の月 月を殊のほか愛した芭蕉は元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。碑の句はその代表的な敦賀での作品でありそれぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。これらの他に敦賀では次のような月の句をも見る。 中山や越後も月はまた命 月のみか雨に相撲もなかりけり 衣……
なみたしくや遊行のもてる砂の露 台座の句:月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉と敦賀の月 月を殊のほか愛した芭蕉は元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。碑の句はその代表的な敦賀での作品でありそれぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。これらの他に敦賀では次のような月の句をも見る。 中山や越後も月はまた命 月のみか雨に相撲もなかりけり 衣着て小貝拾はんいろの月
月下の社頭で故事に深く感じた芭蕉は一句を詠んだ。
なみだしくや 遊行のもてる砂の露
のち推敲を重ねて「奥の細道」には次の句を採用した。
月清し遊行のもてる砂の上

国道8号にもどり、一つ先の曙信号交差点を左折、一つ目の信号を右折して山に向かって進む。廃線となった貨物線路踏切をこえると山裾に金前寺がある。泰澄大師が天平8年(736)に開創したという古刹である。元禄2年(1689) 8月芭蕉が訪れ、「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。芭蕉の思いは南北朝時代にある。その句を刻んだ鐘塚が本堂の南西側に建てられた。

南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。しかし、足利軍との戦いに破れ義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。
金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。 戦国晴……
金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。 戦国晴代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り澱(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉でその活躍で無事帰京できたと伝えられる。(中略) 現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎城の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。以下略
後醍醐天皇の二皇子、尊良親王と恒良親王を祀ったのが金ヶ崎城の域内に建てられた金崎宮である。

金ヶ崎城跡は新田義貞が足利軍と戦って敗れた古戦場であり、戦国時代にも織田信長と朝倉義景が覇権を争った場所でもある。近江浅井氏の裏切りに遭って信長が窮地に陥った時、金ヶ崎城でしんがりを努めて信長の退却を助けたのが木下籐吉郎(豊臣秀吉)であった。


敦賀の町を見下ろす天筒山(てづつやま)の西端を登って行くと月見御殿に至る。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といわれ、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。見晴らしは西と北に限られ、北は右手に敦賀火力発電所の巨大な施設が広がっていて、月見の風情は期待できない。
完成1882年(明治15年) 建設/鉄道省煉瓦造平屋建 敦賀市金ケ崎1-19 敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車か週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。当時の建物かほとんどなくなってしまったなかで残っ……
完成1882年(明治15年) 建設/鉄道省煉瓦造平屋建 敦賀市金ケ崎1-19 敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車か週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。当時の建物かほとんどなくなってしまったなかで残ったのが煉瓦造りの「ランプ小屋」だ。列車を走らせる際には、後方にその存在を知らせる光が必要だが、電気機具等が未発達な当時光源として使われたのが灯油を燃やすカンテラだった。そして、引火性の強いこの油類を保管するための危険物倉庫として建てられたのが赤煉瓦倉庫だった。「ランプ小屋」と呼ばれて長く親しまれてきた。このランプ小屋に積まれている煉瓦をよく見ると多くの煉瓦に、「平」とか「一」、「八」といろいろ刻印がきざまれている。これは、煉瓦を作った職人の名前の一部だそうです。 敦賀観光協会
来た道をもどる。金前寺の手前右手、一段下ったところに敦賀港駅のランプ小屋が保存されている。敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた町である。港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車(新橋~敦賀~ウラジオストック~シベリア鉄道経由ヨーロッパ)が週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。列車を誘導する時に用いられたカンテラ用の灯油貯蔵庫がランプ小屋である。
敦賀港は、明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 この倉庫は紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設された。 2棟のイギリス積みの煉瓦造平屋建の倉庫は、外国人技師の設計と伝えられている。 この倉庫は、第二次世界大戦中は軍の被服庫として、その後は海産物の貯蔵庫として使用されてきたが、平成15年に敦賀市に寄贈された。 内部には、柱型……
敦賀港は、明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 この倉庫は紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設された。 2棟のイギリス積みの煉瓦造平屋建の倉庫は、外国人技師の設計と伝えられている。 この倉庫は、第二次世界大戦中は軍の被服庫として、その後は海産物の貯蔵庫として使用されてきたが、平成15年に敦賀市に寄贈された。 内部には、柱型を出さずに、桁行方向の内壁には1から65までの石油缶整理用の数字が残されている。 県内では最大の煉瓦造の建物は、敦賀港の繁栄の時代を今に伝える遺構の一つで市民からは「赤レンガ倉庫」として親しまれている。 敦賀市・(社)敦賀観光協会
踏切を渡った先を海岸に向かって歩くと左手に2棟の赤レンガ造り倉庫が並んでいる。敦賀港は明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 これを受け紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年(1905)に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設されたものである。 数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていた。

日本海に出る。海は湖のように静かである。敦賀港に商船は見かけず県警と海上保安庁の巡視船だけが目についた。
旧国鉄敦賀港駅駅舎 二十一世紀への大いなる飛躍を夢に、今敦賀港に新しい夜明けが訪れようとしています。 敦賀商工会議所は、敦賀港開港100周年の記念すべき年に、かって明治後半から昭和初期に大陸交易の橋渡として運行されていた『欧亜国際列車』を象徴する敦賀港の歴史的建造物の一つ『旧国鉄 敦賀港駅 駅舎』 (大正2年建造)を再現しました。 戦災等で駅舎の資料が残っておらず、当時のイメージに近いものとして再……
旧国鉄敦賀港駅駅舎 二十一世紀への大いなる飛躍を夢に、今敦賀港に新しい夜明けが訪れようとしています。 敦賀商工会議所は、敦賀港開港100周年の記念すべき年に、かって明治後半から昭和初期に大陸交易の橋渡として運行されていた『欧亜国際列車』を象徴する敦賀港の歴史的建造物の一つ『旧国鉄 敦賀港駅 駅舎』 (大正2年建造)を再現しました。 戦災等で駅舎の資料が残っておらず、当時のイメージに近いものとして再現しました。尚、本事業の一部には、平成9年に起きた、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故災害の義援金を活用させて頂きました。1999年7月吉日 敦賀商工会議所 会頭 北村 柳之助
海岸に海を背にして旧敦賀港駅舎が復元されている。国際列車といえばオリエント急行を連想するが、敦賀駅を発着した欧亜国際連絡列車はシベリア横断鉄道をその一部としユーラシア大陸と日本海をまたぐ壮大なスケールの国際列車であった。日本が東のターミナル駅だったとは夢のような話ではないか。
1.船の成り立ち 江戸時代、大坂など上方の人達は北国地方の廻船を北前船とよんでいました。はじめは、「北国船」と呼ばれて、筵を帆に用い、風がないときは櫓で漕ぐためにたくさんの水主(かこ)(船員)が必要でした。次に、「ハガセ船」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交(はがい)」に似ていることからその名前がつけられましたがこの船も櫓で漕ぐため、水主たちは大変疲れました。ところが、「弁才船(べざいせん)」と呼ば……
1.船の成り立ち 江戸時代、大坂など上方の人達は北国地方の廻船を北前船とよんでいました。はじめは、「北国船」と呼ばれて、筵を帆に用い、風がないときは櫓で漕ぐためにたくさんの水主(かこ)(船員)が必要でした。次に、「ハガセ船」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交(はがい)」に似ていることからその名前がつけられましたがこの船も櫓で漕ぐため、水主たちは大変疲れました。ところが、「弁才船(べざいせん)」と呼ばれる船は木綿の帆で風の力を最大限に利用しているので、水主もあまり多く必要としないことと、荷物も多く積めるということで北前船として多く用いられるようになりました。 2.航路と荷物の輸送 寛文12年(1672)河村瑞軒によって開かれた西廻り航路によって、その後、蝦夷地(北海道)と上方(大坂)との間を往復することができました。酒・紙・米・木綿・塩・筵などを船に積み、5月下旬に蝦夷地へ着き、帰りには鯡・昆布・数の子・白子などの海産物を積んで11月に大坂へ帰るという交易を行っていました。 3.敦賀との関係 約600年前から、京都の商人によって蝦夷地の昆布を敦賀まで運んで、琵琶湖を渡って京都へ運ばれたのが始まりで、江戸時代に入ると近江商人の活躍によって敦賀が大切な港町として発展しました。伊勢茶・美濃茶・近江茶が大量に港から運び出されて活気づき、「茶町」が誕生し、海産物を輸送するのに筵の需要が高まり、沓見では筵の生産に追われました。また、船の安定と移出で釘を多く必要とする為、港近くの町には釘作りの鍛冶職人が集まりました。船に用いられた船箪笥・机などの唐木細工では名人・名工が輩出し、現在、敦賀まつりで曳かれる山車もその工芸品の名残といえるでしょう。
きらめきみなと館に北前船の展示があった。いつか北海道に渡って函館から江差まで松前街道を行きたいと思っている。北前船は近江商人が深くかかわっていることもあって以前から関心があった。寄港地として北海道ではまさに函館と江差が示されている。敦賀は西廻り航路が開かれる以前から、琵琶湖経由で蝦夷地と京、大坂を結ぶ重要な中継地であった。西近江路や塩津街道が賑わっていた時代である。

海岸に沿って快適に歩道を走るとまたたくまに漁港に着いた。魚市場はすでに水揚げが終わったようで人影はほとんどなく、裏では遅刻気味の買い付け業者が魚問屋から荷を軽トラックに積み込んであわただしく走り去っていった。

港の西側に灯台のようなものが見える。漁港の南側を回り込んで近くに寄ってみると瀟洒な石塔の頂に火袋を乗せた高燈籠であった。享和2年(1802)に地元の回漕業者が建てたものである。
大谷吉継 敦賀城跡碑 大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。慶長5年(1600)9月豊臣家のため徳川家康と関ケ原に戦ったが敗れて42歳で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、知勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていた……
大谷吉継 敦賀城跡碑 大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。慶長5年(1600)9月豊臣家のため徳川家康と関ケ原に戦ったが敗れて42歳で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、知勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊されたが、当寺にその礎石が残っており、その跡を偲ぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。
来た道を南にもどり、橋をわたらず一筋南の通りを右折して水路に沿って行くと、左手に真願寺の山門が「大谷吉継 敦賀城跡」の碑を建てて待ち受けている。敦賀城は天正11年(1583)羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が築城した。その後大谷吉継が入城してきたが、元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊された。
ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ に数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した。 そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。 そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという。……
ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ に数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した。 そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。 そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという。 この伝説に因んで「一夜の松原」とも称される。 現在 気比の松原はおよそ東西1千メートル南北4百メートル広さ37.9ヘクタールで樹数約1万3千本を数え海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している。
真願寺の先の十字路を右に折れつぎの通りを左折して笙の川を渡る。道なりにそのまま西に進んでいくと小学校前を通り過ぎて松原公園に入って行く。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ、気比の松原が広がっている。東西1km、南北400mの範囲に約13000本の樹木が生い茂っている。黒松が典型な海岸林にあって気比の松原はその85%が赤松である特質をもつ。
史跡 駐輦の碑 指定年月日昭和29年12月21日 管理者敦賀市 建立年月日明治24年9月15日 高さ3.15m明治天皇は明治11年の北陸巡幸の際、10月10日気比の松原に立ち寄り、しばし白砂青松の佳景を賞でた。その後、明治24年9月、勝海舟がこの松原を訪れ、かって明治天皇がここでこの松原の景色をご覧になったのかと、当時を回想して次の漢詩を詠んだ。 (略) 碑文の意味は、「ここは、かって明治天皇が、……
史跡 駐輦の碑 指定年月日昭和29年12月21日 管理者敦賀市 建立年月日明治24年9月15日 高さ3.15m明治天皇は明治11年の北陸巡幸の際、10月10日気比の松原に立ち寄り、しばし白砂青松の佳景を賞でた。その後、明治24年9月、勝海舟がこの松原を訪れ、かって明治天皇がここでこの松原の景色をご覧になったのかと、当時を回想して次の漢詩を詠んだ。 (略) 碑文の意味は、「ここは、かって明治天皇が、お乗物をとどめて景色をご覧になられたところである。国民は明治の善政をよろこんでいる。松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝福しているようである。」と解される。 平成11年11月1日 敦賀市教育委員会

公園のなかほど、気比の松原碑が建つ丁字路を右折して海岸に向かうと駐車場に出る。左手に立派な明治天皇駐輦の石碑が建っている。碑に刻まれているのは明治天皇駐輦の文字でなくて、勝海舟の漢詩である。もちろん読めない。説明板をみても読めない。勝海舟は明治天皇の巡幸におくれること13年の明治24年、この地に来て天皇と同じ気分になったのであろう。感慨にふけって漢詩を一作したためた。
海岸に出る。松原海水浴場は海開きを1週間先に控えて開店準備の最中であった。
完(2013年7月)