東海道 10区間のうち7番目

東海道(7)

藤川-岡崎-池鯉鮒(知立)-鳴海-宮(熱田) → 美濃街道から中山道へ

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

藤川

藤川

藤川 広重「東海道五十三次」
藤川 広重「東海道五十三次」

なだらかな峠をこえると岡崎市に入り、急に人家が復活する。本宿町深田の信号左手に本宿碑がありその先に詳しい説明板が建っている。鉄道と道路が集中していることからもわかるように、ここは丘陵地帯の鞍部にあたり古代東海道も通っていた交通の要衝である。本宿町の東隣にある山綱町には古代東海道の駅家があったと考えられている。

本宿入口 深田 本宿町 岡崎市 愛知県
本宿入口 深田 本宿町 岡崎市 愛知県

是より西 本宿村 藤川宿へ壱里 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並が形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁、立場茶屋2か所(法蔵寺前、長沢村境……

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是より西 本宿村 藤川宿へ壱里 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並が形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁、立場茶屋2か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。以下略 1994年9月 国進一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

法蔵寺 寺山 本宿町 岡崎市 愛知県
法蔵寺 寺山 本宿町 岡崎市 愛知県

浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参詣者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺である。家康が幼時この寺で勉学をした……

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浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参詣者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺である。家康が幼時この寺で勉学をしたとされ、徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。 岡崎市教育委員会

歩道に立つ冠木門を通り県道473号を横切った先で国道歩道をはなれて、左斜めに出ている旧道で本宿町内に向かう。すぐに行基上人開基の古刹法蔵寺がある。徳川家康が子供のころ、ここで手習いを学んだという。境内に赤地に白抜きで「誠」の一字が書かれた幟がたなびいているのは、裏山に近藤勇の首塚があるからだった。

本宿陣屋跡と代官屋敷(現冨田病院) 南中町 本宿町 岡崎市 愛知県
本宿陣屋跡と代官屋敷(現冨田病院) 南中町 本宿町 岡崎市 愛知県元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。 郷土史本宿研究会

その先冨田病院の前に「本宿陣屋跡と代官屋敷」の案内板が立っている。正面の病院が陣屋跡で、その右側に残る江戸時代の建物が旧代官屋敷である。煙り出しを置いた大屋根主屋に土蔵が二棟見える。背後の屋敷林にも巨木がそびえている。富田家が代官職を世襲した。

神谷合資会社 南中町 本宿町 岡崎市 愛知県
神谷合資会社 南中町 本宿町 岡崎市 愛知県

国道本宿駅東信号に通じる丁字路手前に格子造りの長屋門付き建物が目をひく。神谷合名会社とかかれた古い表札が架かっている。味噌醤油醸造会社の社屋らしい。白ペンキ塗りの半格子に板壁の組み合わせは長屋門からのイメージにモダンな風味を与えている。

本宿一里塚跡 一里山 本宿町 岡崎市 愛知県
本宿一里塚跡 一里山 本宿町 岡崎市 愛知県

交差点角の火の見櫓下に本宿村道路元標と説明パネルがある。「旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一ヶ所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準になりました」

駅前交差点の字名は「一里山」ですぐ右手に一里塚跡碑が立つ。

宇都野龍碩邸跡 森ノ腰 本宿町 岡崎市 愛知県
宇都野龍碩邸跡 森ノ腰 本宿町 岡崎市 愛知県本宿村医家宇都野氏は古部村の出といわれ宝暦年間三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。7代龍碩はシーボルト門人青木周すけに、医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。 郷土史本宿研究会

落ち着いた家並みがおわるころ、宇都野龍碩という蘭方医宅の長屋門が残されている。間口はそれほど大きくないが暖色の土壁が愛らしい。

名鉄名古屋本線 野添 舞木町 岡崎市 愛知県
名鉄名古屋本線 野添 舞木町 岡崎市 愛知県

旧道は本宿町沢渡信号で国道1号に合流する。500mほど左側歩道をあるき東海中学入口信号で国道をわたり反対側歩道に移る。水をはった田圃を背景にして名鉄名古屋線がすぐそばを走っている。しばらく休憩して赤い電車が来るのを待った。

山中天神社 宮下 舞木町 岡崎市 愛知県
山中天神社 宮下 舞木町 岡崎市 愛知県

国道歩道から降りるように右側の旧道にはいり舞木町の町並をぬけていく。

舞木西信号で国道に合流、左の農道にはいっていくと山中八幡宮の参道に出る。大きな常夜燈からこんもりした社の森に立つ赤鳥居をながめて引き返した。

右手遠くに名鉄の赤電車や白電車がたむろしているのが見える。ゆっくりと動いているもの、じっと止まっているものなど。車両検査場だそうだ。

東棒鼻跡 馬面 市場町 岡崎市 愛知県
東棒鼻跡 馬面 市場町 岡崎市 愛知県宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元に保存されている街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。

市場信号交差点の先で左の旧道にはいりようやく藤川宿にたどりついた。

すぐにでてくる二股の左側が藤川宿東棒鼻跡である。地名の「馬面」が面白い。棒鼻は左右に石垣を築き道を狭めている。復元された棒鼻と広重の図を比べると、石垣だけでなく柳を植え細長い標柱を建て、復元にあたっては広重の絵に似せようとした努力の跡がうかがえる。

むらさき麦 馬面 市場町 岡崎市 愛知県
むらさき麦 馬面 市場町 岡崎市 愛知県

今から300年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつはた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。 平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。……

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今から300年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつはた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。 平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。 藤川宿まちづくり研究会

二股の右側の道沿いに当地特産のむらさき麦が栽培されていて、ちょうど淡い紫に色付いた麦の穂が垂れていた。芭蕉の句にも詠まれている

ここも三河 むらさき麦の かきつはた

棒鼻の細い道はすぐに右に折れて二股の右の道に合流する。桝形になっていたのだろう。

旧藤川宿町並 東町 市場町 岡崎市 愛知県
旧藤川宿町並 東町 市場町 岡崎市 愛知県
藤川宿脇本陣跡 中町北 藤川町 岡崎市 愛知県
藤川宿脇本陣跡 中町北 藤川町 岡崎市 愛知県(前略)現存する門は関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残をよく留めている。 昭和53年10月21日指定 岡崎市教育委員会

古い建物が残る藤川宿の町並を西に進んでいく。藤川宿は東の市場町と西の藤川町からなっている。市場町東町から藤川町中町にはいってすぐ右手、小林米店の隣が問屋場跡、左には出格子に軒卯建があがる銭屋(よろづ屋)、右側にもどって藤川宿第二資料館になっている森川本陣跡、続いて藤川宿(第一)資料館となっている大西脇本陣跡である。この門だけが江戸時代の遺構である。当時の脇本陣は今の4倍の建坪を有していた。なお、裏手にまわると本陣の石垣が残っているという。たかが石垣と、見過ごしていったが、立派なものらしい。本陣の建物自体が残っていないだけに遺構として見ておくべきだった。

西棒鼻跡 西町北 藤川町 岡崎市 愛知県
西棒鼻跡 西町北 藤川町 岡崎市 愛知県宿場の出入口を棒鼻といわれ地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は を描いたものである。

このあと、藤川宿の名残をとどめるのは藤川小学校の前の西棒鼻の跡。片方だけの石垣が復元され、その脇には名残を惜しむかのように道標、宿域傍示杭などが並んでいる。道の向かいにも紫麦が植えられている。

十王堂 一里山南 藤川町 岡崎市 愛知県
十王堂 一里山南 藤川町 岡崎市 愛知県

十字路斜交いに十王堂があり、格子窓から真っ暗な内側をフラッシュで撮ったら、数体の仏像が写っていた。隣に芭蕉の句碑がある。

ここも三河 むらさき麦のかきつばた

藤川宿の一里塚 一里山南 藤川町 岡崎市 愛知県
藤川宿の一里塚 一里山南 藤川町 岡崎市 愛知県(前略)記録によると、「此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 壱ヶ所 木立 左無之 右 榎 但、左右之塚共 藤川宿地内」と記してある。このような藤川の一里塚は当時は街道の左右に塚を作り榎が植えてあったらしいが、天保年間頃には南側はすでになくなり、北側の榎は昭和初期には枯れてなくなってしまった。 藤川宿まちづくり研究会

すぐ先の民家の石垣に藤川一里塚跡の札が立っている。

旧東海道 松並木 境松西/黒土 藤川町 岡崎市 愛知県
旧東海道 松並木 境松西/黒土 藤川町 岡崎市 愛知県

名鉄踏切手前の二股に吉良道道標がある。東海道は右の松並木を行く。ここまで海風の影響があるとも思えないが、みな揃ったように右側(北側)に傾いて生えている。

松並木はまもなく終わり藤川西の信号で国道1号に合流する。

旧東海道 美合新町 岡崎市 愛知県
旧東海道 美合新町 岡崎市 愛知県

国道の前方に岡崎市街地の広がりがみえてきた。1kmほど進んだところで左の旧道に入る。わずかながら美合新町には松並木が残っている。美合新町の信号で松並木は途絶え、ここから先は道幅がさらに細くなる。

県道48を横切り山綱川の手前に、源氏蛍発生地の碑と芭蕉句碑があるとのことだが、見つからなかった。後で、これらは国道1号、蛍橋の袂に移設されたと聞かされた。源氏蛍発生地は他にたくさんある。そこで、源氏蛍の前に地名をつけて、どこそこ源氏蛍発祥地とする例が多い。これだと紛争の種にはならないだろう。ここは「岡崎源氏蛍発祥の地」である。蛍のDNAは場所によってちがうのかなあ。

旧太平橋跡・乙川 北棚田 岡町 岡崎市 愛知県
旧太平橋跡・乙川 北棚田 岡町 岡崎市 愛知県

旧道は乙川で途絶。右に迂回して国道1号の大平橋をわたる。昔は途絶地点から対岸に旧大平橋が架けられていた。対岸にはそれらしい痕跡が残っている。橋を渡ってその場所へ行く。大平川水神社が旧道筋の証人として建つ。

岡崎

岡崎(矢矧橋) 広重「東海道五十三次」
岡崎(矢矧橋) 広重「東海道五十三次」
西大平藩陣屋 西上野 大平町 岡崎市 愛知県
西大平藩陣屋 西上野 大平町 岡崎市 愛知県

西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4、080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えらわます。 しかし、大岡忠相が藩主……

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西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4、080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えらわます。 しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。

大平一里塚 岡田 大平町 岡崎市 愛知県
大平一里塚 岡田 大平町 岡崎市 愛知県東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。塚の規模は高さ2.4m底部の縦7.3m、横8.5mの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが昭和28年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。 国指定史跡 昭和12年12月21日指定 岡崎市教育委員会

神社脇の路地を進むと大平町東交差点に出、旧道はそのまま国道1号を横切る。郵便局の角を右に入ったところに白壁の塀がまぶしい西大平藩陣屋が復元されている。旗本だった大岡越前守忠相は寛延元年(1748)、前将軍吉宗の口添えもあって72歳という高齢で1万石の大名となった。遅咲き大名の悲哀か、わずか3年後の宝暦元年(1751)に亡くなった。以降廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治めた。

すぐ先の大平西町バス停そばに大平一里塚がある。現存しているのは南塚だけである。塚木の榎は昭和28年の台風で倒れたため、二代目榎画が成長しつつある。

街道は国道に合流した後、右の傍道で岡崎IC導入路を潜り抜け、岡崎インター西交差点で県道26号を渡って右手の旧道にはいる。交差点角にまだ新しい「東海道」と刻まれた石柱がある。川沿いの旧道はすぐに国道に接しながら上り坂となりまもなく国道から離れて右に曲がり岡崎市街地に入っていく。

岡崎城下二十七曲 岡崎市 愛知県
岡崎城下二十七曲 岡崎市 愛知県欠町 冠木門 若宮町3丁目 右折 投町 岡崎城東入口 若宮町2丁目交差点 左折

若宮町にはいった三角地帯に冠木門が立ち、その下に「岡崎城下二十七曲り」の記念碑がある。17世紀初頭、岡崎城下が整備されたとき、防衛上の観点から城下54町を通り抜ける東海道の道筋に27ヶ所の曲りを作った。偶然か1曲がりにつき2町をつなぐ計算になる。

道草を喰いながら旧街道の二十七曲りをたどっていくことにしよう。

1.まず最初の曲がりとして冠木門の先の十字路を右折する。

2.すぐ先の若宮町2丁目信号交差点(投町角)を左折する。角に「岡崎城下二十七曲 欠町より投町角 岡崎城東入口」と刻んだ石標があり、そばに一足の草鞋を乗せた標柱が立って側面に「これより次の両町角まで650m」と記されている。この石標と草鞋標識はこの先要所に設けられていて旧街道の案内役を務めることになる。ここにも二十七曲がりの説明碑が建っていた。

江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数117軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店がか軒を並べていましたが、なかでも茶屋がか多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。

3.右手に根石観音堂をみて両町3丁目交差点をわたり両町2丁目の次の交差点を右に曲がる。角には「両町より伝馬町角」の標石と、「これより次の伝馬町角まで80m」の草鞋標識がある。

4.一筋分の距離80mを進むと伝間通りにつきあたり、そこを左折して西に向かう。草鞋標識に「これより次の伝馬通1丁目角まで660m」とある。

伝馬町常夜燈 伝馬通4丁目5番地1 岡崎市 愛知県
伝馬町常夜燈 伝馬通4丁目5番地1 岡崎市 愛知県

岡崎市伝馬町下中之切 町内安全秋葉山大権現業夜灯 享和三年秋七月建立(西歴1803年) 由来 光格天皇の御代十一代将軍家斉公時代 今を去る161年前伝馬町下中之切188番地三銘座東北の角に石工嘉兵ェ氏作によりこれを建立。昭和二十年七月二十日未明、第二次世界大戦の本土空襲により市内の大半は焦土と化し当町も戦災の為全焼するも常夜灯は災禍を免れ昔時のまゝ現存する。昭和三十八年三月、三銘座は三銘会館として……

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岡崎市伝馬町下中之切 町内安全秋葉山大権現業夜灯 享和三年秋七月建立(西歴1803年) 由来 光格天皇の御代十一代将軍家斉公時代 今を去る161年前伝馬町下中之切188番地三銘座東北の角に石工嘉兵ェ氏作によりこれを建立。昭和二十年七月二十日未明、第二次世界大戦の本土空襲により市内の大半は焦土と化し当町も戦災の為全焼するも常夜灯は災禍を免れ昔時のまゝ現存する。昭和三十八年三月、三銘座は三銘会館として再建することとなり、館主より常夜燈移転の申し出あり町議決定により岡崎市梅園町1丁目石材商杉浦銓次氏に移転を依頼。岡崎市伝馬通4丁目5番地1(現在地)に移し現在に至る。 昭和38年11月記 岡崎市伝馬町四丁目 総代 以下略

伝馬通5丁目、4丁目の交差点を通過、「伝馬4丁目西」交差点を左折し最初の路地を左にはいったところに優美な姿の伝馬町常夜燈が建つ。享和3年(1803)建立で、台座には「傳馬町」の文字が深々と刻まれている。空襲で町は焦土と化した中で唯ひとつ戦禍を免れた。

道標 備前屋前 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県
道標 備前屋前 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県

江戸時代街道を旅する人々が頼りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標はどんなに有難い存在であったか想像できます。この「道標」は伝馬の脇本陣であった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時そのままの岡崎産の良質な「花崗石」を使用しております。建っていた場所はここより北と推測され、東海道……

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江戸時代街道を旅する人々が頼りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標はどんなに有難い存在であったか想像できます。この「道標」は伝馬の脇本陣であった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時そのままの岡崎産の良質な「花崗石」を使用しております。建っていた場所はここより北と推測され、東海道より 足助街道 へ行く道を示しております。

伝馬通りにもどり、伝馬交差点にさしかかる。このあたりが宿場の中心だった。右角の花屋が東本陣(服部家)跡である。対角に店を構える備前屋は創業天明2年(1782)の老舗菓子舗で、当時街道の名物だった淡雪豆腐(淡雪にみたてた餡かけ豆腐)を模した和菓子「あわ雪」を今も作っている。店先には杉山家脇本陣所蔵の石道標おの複製が設けられている。「左信州道」とあるのは足助街道のことで、東海道と中山道塩尻宿を結ぶ重要な街道であった。また、店舗壁には岡崎宿の町割りが示されていて、三軒の本陣、鍵屋脇本陣、備前屋の名が読み取れる。

西本陣(中根甚太郎)跡 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県
西本陣(中根甚太郎)跡 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県

本陣・脇本陣 参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳3年(1713)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の二軒であったが、後に 中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助 の三軒が本陣、脇本陣は 鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎 の三軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は現在の伝馬通り二丁目交差点辺りにあり建坪209坪半で部屋は200畳以上、脇本陣を勤めた……

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本陣・脇本陣 参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳3年(1713)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の二軒であったが、後に 中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助 の三軒が本陣、脇本陣は 鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎 の三軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は現在の伝馬通り二丁目交差点辺りにあり建坪209坪半で部屋は200畳以上、脇本陣を勤めた桔梗屋は総坪数125坪半のうち建坪105坪とどちらも玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。

通りの右手、市川メガネ店が鍵屋脇本陣跡。備前屋はもともとその隣にあった。伝馬町1丁目交差点角のコンビニが西本陣(中根家)跡である。

旧岡崎宿家並 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県
旧岡崎宿家並 伝馬通2丁目 岡崎市 愛知県

通りの左手には備前屋のすぐ先に旧糸惣(紙屋)と現役の永田屋(肉屋)が並んで古い家並みを残している。その先に「逸品館 伝馬本陣」とある店がもう一つの大津屋本陣跡にあたる。

伝馬信号から伝馬町1丁目信号の間、通りの左右には幾つかの愛嬌ある小さな石像と説明板が対になって設置されていて、「お茶壺道中」、「朝鮮通信使」、「助郷」、「飯盛女」、「御馳走屋敷」、「旅籠屋」などといった街道用語のわかりやすい解説がある。「旅籠屋」の解説によれば岡崎宿は旅籠屋の数が112軒と東海道53次中3番目の規模を誇る宿場で、また岡崎女郎でも有名であったという。

5.岡崎宿西本陣跡の交差点を左折する。「次の六地蔵下り口まで60m」と記された草鞋標識が立つ。

道標 伝馬通1丁目 岡崎市 愛知県
道標 伝馬通1丁目 岡崎市 愛知県「きらみち」 「西 京いせ道」 「東 京みち」 「明治二巴巳十二月建立」 これより次籠田総門碑まで170m
岡崎信用金庫資料館 伝馬通1丁目 岡崎市 愛知県
岡崎信用金庫資料館 伝馬通1丁目 岡崎市 愛知県旧商工会議所 大正6年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は、岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

6.一筋行った十字路を右折する。角に、「東京みち」「西京いせ道」「きら道」と彫られた明治2年の道標があり、草鞋標識が「次の籠田総門碑まで170m」と知らせる。まもなく右手に見えてくるしょう洒な洋風レンガ造りの建物は、岡崎信用金庫資料館で旧岡崎銀行本店である。赤レンガと御影石の組み合わせは一つの典型になっている。

岡崎信用金庫資料館の向かいの空き地には、昔岡崎藩の御馳走屋敷が建っていた。間口が15間以上もある立派な屋敷でいわば岡崎藩の迎賓館といった外交施設である。特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという。

7.街道は広い道に出、中央分離緑地に城の東の出入口であった籠田惣門跡の碑がある。道はここを右折、籠田公園内をつっきって連尺町角に出る。

8.連尺通を西に折れる。角に「篭田町より連尺町角」の石標が立つ。

9.大通りを横切り、左手シビコの向かいに「岡崎城対面所角」の石柱が立つ細道に入る。草鞋標識に「次の材木町口木戸前まで80m」とある。

10.80m進んで突き当りを左折する。角に「次の材木町角まで100m」と書かれた草鞋標識が立つ。この材木町角までの100mの間には3曲りが省かれている。

11.街道は10mほどですぐ右折、

12.小料理千恵前に突き当たり左折、

13.最初の十字路を右折、材木町の通りに出る。

14.ここが材木町角だがあたりに標識らしきものが見当たらない。ここを左折して材木町を西に進む。

旧家・唐弓弦(とうゆみづる)材木町 岡崎市 愛知県
旧家・唐弓弦(とうゆみづる)材木町 岡崎市 愛知県

15.やがて柿田橋の手前右手に唐弓弦(とうゆみづる)の屋根看板をかかげた古い町家が残る。唐弓弦とは綿を打つ道具である。うだつをあげ1、2階ともに連子格子が美しい建物だ。道は柿田橋の手前で伊賀川沿いに南へ向かう。

16.左手に白山神社をみて三清橋にさしかかる。橋の袂に「下肴町より田町角」の石柱がある。右折して橋を渡る。

17.二つ目の路地を左折、住宅街をぬけて国道1号に出る。歩道上に「田町角」の石柱がある。旧道は途中で右折、左折を経て現国道に出ていたようだが、宅地の開発で道筋は失われた。

18.旧街道は田町角を右折し、国道1号を東に進んで

19.現国道248号の手前の道を南に行くのだが、ここで寄り道をして岡崎城に寄っていく。

岡崎城大手門 康生町 岡崎市 愛知県
岡崎城大手門 康生町 岡崎市 愛知県

国道1号に沿って復元された大手門が堂々とした姿で構えている。白壁がまぶしく映える城壁の中にはいると跡地は岡崎公園として整備され、前庭の中央に家康像が建っている。岡崎城は15世紀半ば西郷頼嗣が築いたのが始まりで、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。

徳川家康公銅像 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県
徳川家康公銅像 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県

天文11年12月26日(1542)岡崎公園内二ノ丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年81600)天下分け目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下を治めるにいたった。以後持前の才能を生かし、全国統一をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(1616)75歳でこの世を去った。この銅像は昭和40年家康公……

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天文11年12月26日(1542)岡崎公園内二ノ丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年81600)天下分け目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下を治めるにいたった。以後持前の才能を生かし、全国統一をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(1616)75歳でこの世を去った。この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。

石垣縁にたつ「木のもとに汁も鱠も左久良哉」の芭蕉句碑をみて内堀をわたると本丸跡に岡崎東照宮龍城(たつき)神社と昭和34年に復元された三層の天守閣がある。神社境内には七五三の参詣客にまじってマスク姿の巫女が世相を反映していておかしかった。

船着場 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県
船着場 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県昔は帆掛け舟が荷物をたくさん積んで菅生川(乙川)を上がり下がりした。ここが積荷をあげおろしした昔の船着き場である。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗石で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。

城は南を流れる乙川に接していて舟着場が築かれていた。跡には「御城下舟着場跡」の石標と、花崗岩で帆掛け舟を模ったモニュメントがある。古謡に「五万石でも岡崎さまはお城下まで舟が着く」と謡われ、岡崎は石高こそ高くないが格式の高さを誇りにしており、城に接岸できる帆掛け舟は「五万石舟」とよばれた。

五万石藤(7株) 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県
五万石藤(7株) 岡崎公園 康生町 岡崎市 愛知県三本ずつ寄せ植えしたフジが七ヶ所に点在する。最大のものは幹周2.4m、枝は11mも伸長している。花穂は極めて長く1mに達するものがある。五月初旬の花期にはすこぶる優雅な姿を展開する。旧岡崎城内の藤棚として古くから「五万石ふじ」の名で呼ばれ市民に親しまれている。 昭和38年5月8日指定 岡崎市教育委員会

公園の西南口付近に大きな藤棚がある。三本寄せ植えの巨大な株からお化け蛸足のような幹が天に向かって八方に伸びたっている樹相は異様である。7株のうち最大のものは幹周2.4m、枝は11mもあるという。ここでも「五万石藤」の名が付けられている。

20.岡崎城の見学を終え、西南出口から「板屋町角」の石柱が立つ街道筋にもどる。板屋町角を西に折れて中岡崎町信号で国道248号を渡った左手に松葉総門跡の碑がある。岡崎城西出入口だった。

カクキュウ八丁味噌史料館 往還通 岡崎市 愛知県
カクキュウ八丁味噌史料館 往還通 岡崎市 愛知県

愛知環状鉄道の高架をくぐった十字路角に「八帖村」の石柱がある。岡崎城から八丁の距離にあることから、この村が八丁村と呼ばれるようになった。八丁村は八丁味噌の発祥地で、今も左手に大田商店まる屋が、右手には資料館を併設するカクキューが味噌造りを続けている。建物が派手なカクキューに立ち寄った。

カクキュウ八丁味噌史料館 往還通 岡崎市 愛知県
カクキュウ八丁味噌史料館 往還通 岡崎市 愛知県当社は江戸時代初期に味噌醸造業としての態勢を整え、昭和16年まで伝統的方法で味噌造りを続け、数々の輝かしい業績をあげてきました。ここに展示したのは明治中期の仕込み場面を中心とするもので、ほかは現在ではみられない道具類、宮内省御用達の資料です。この建物は明治40(1907)年に出来た仕込み用の蔵を改装した土蔵で、以前は発酵の場も兼ねていました。一階の広さは297.55㎡=90坪(軒部分を除く)です。

「宮内庁御用達」の金文字と味噌樽のラベルが目立つ本社事務所脇から構内に入る。通常、機密と安全保持の理由で立入り禁止が原則の工場内に、自由に入れる開放的な会社である。構内は本社社屋とは対照的な古風な味噌蔵が立ち並び、その一つが資料館として開放されている。発酵蔵には大きな樽が並び、上部には矢作川から採ってきたという丸味をおびた重石が円錐形に山積みされている。こうして2年間も寝かせるのだという。石積は専門職人の手によるもので、地震でも崩れないそうだ。

八丁蔵通り 往還通 岡崎市 愛知県
八丁蔵通り 往還通 岡崎市 愛知県左:光円寺 右: カクキュウ

旧街道にもどる。カクキュウの裏手通りは黒板壁の味噌蔵と光円寺の白漆喰塀に挟まれた風情ある路地で「八丁蔵通り」と名づけられている。

21.街道は次の通りで突き当たり、右に折れて矢作橋に向かう。突き当りには「右 西京」「左 江戸」と彫られた新しい道標が設けられている。カクキュウ当主早川久左右衛門が昭和61年に寄進した。

矢作橋 岡崎市 愛知県
矢作橋 岡崎市 愛知県

22.国道1号を左折して矢作橋を渡る。矢作橋は、瀬田唐橋、豊橋と並んで、東海道三大橋のひとつであった。江戸時代の橋は現在より下流にあった。当時は東海道一の長さを誇ったという。現在更に新しい橋の架け替え工事が進行中で、広重の絵と同じアングルの写真が撮れなかった。渡り終えると左手に明治天皇駐蹕之所碑が、また右手には蜂須賀小六と日吉丸(木下藤吉郎)「出合之像」があるのだが、共に工事のため移設され見ることはできなかった。

23.旧街道は矢作橋西信号を右折し、

24.すぐ国道の一筋北側の道を左へ折れる。

ここまでを27曲りとするのだろうか。田町で消失した2曲りを加えると26となって、まずまずいいところだ。

浄瑠璃姫の墓 誓願寺 馬場 岡崎市 愛知県
浄瑠璃姫の墓 誓願寺 馬場 岡崎市 愛知県

まっすぐな旧道をしばらく歩いていくと、右手にある誓願寺(というよりも幼稚園)境内に浄瑠璃姫の墓がある。浄瑠璃姫は矢作の里の長者の娘で、奥州に下る源義経が長者の家に泊まったとき契りを交わし、旅立った義経を慕うあまり菅生川(乙川)に身を投げたという伝説がある。浄瑠璃姫の墓は岡崎公園にもあったし、蒲原宿でも源義経硯水とともに浄瑠璃姫の供養碑があった。

街道は猫田交差点で国道1号に合流した後、しばらく歩いて岡崎市から安城市に入る。すぐ尾崎東交差点で右の旧道へ入っていく。松並木が続くなか古い家並みものこる快適な道を歩いていく。

一里塚・鎌倉街道跡 亥ノ子 安城市 愛知県
一里塚・鎌倉街道跡 亥ノ子 安城市 愛知県

1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヶ所が設置された。尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、そ……

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1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヶ所が設置された。尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されている。 昭和54年10月1日 安城市教育委員会

右手熊野神社の前に予科練之碑、鎌倉街道跡の案内板そして一里塚跡の碑が集まっている。源頼朝が鎌倉幕府を開くと京都鎌倉間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヶ所が設置された。

左手、「宇頭茶屋説教所」バス停傍に「明治天皇御駐蹕之所」碑がある。宇頭茶屋はその名が示すとおり江戸時代の立場であった。

雲竜の松 永安寺 北屋敷 安城市 愛知県
雲竜の松 永安寺 北屋敷 安城市 愛知県

永安寺の雲竜の松 昭和60年11月25日指定 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。 助大夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。 この寺を覆い包むように横に枝を広けたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。 この松の樹形は、中心の……

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永安寺の雲竜の松 昭和60年11月25日指定 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。 助大夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。 この寺を覆い包むように横に枝を広けたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。 この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。 樹高 4.5m 幹の囲 3.7m 枝張り 東西17m 南北 24m 安城市教育委員会

右手、永安寺の小さな山門の向こうにに樹齢300年といわれる黒松の巨木が幹を地上低く伸ばし雲海のごとき枝葉を形作っている。その様から雲龍の松という。

安城の松並木 野池 安城市 愛知県
安城の松並木 野池 安城市 愛知県

市指定天然記念物 東海道のマツ並木 昭和45年3月16日指定 1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。 さらに1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。 こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った。幕府は、その……

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市指定天然記念物 東海道のマツ並木 昭和45年3月16日指定 1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。 さらに1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。 こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った。幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。近年、風雪や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。 安城市教爾委員会

この先の交差点を渡った左手には明治川神社、右手に明治用水の碑がある。ここから先、しばらく松並木が続く。一本一本菰を巻いて冬準備は終わった様子だ。猿渡川を渡って知立市に入る。

知立

池鯉鮒(知立)(馬市) 広重「東海道五十三次」
池鯉鮒(知立)(馬市) 広重「東海道五十三次」
元禄の道標 来迎寺入口 広海道 知立市 愛知県
元禄の道標 来迎寺入口 広海道 知立市 愛知県

道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。 この道は、江戸時代の東海道であつたから、諸処にこの様な道標が建てられていた。 「 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白」と記されており、これは、元禄9年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものである。 ここから西へ500mの牛田町西端にも、『……

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道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。 この道は、江戸時代の東海道であつたから、諸処にこの様な道標が建てられていた。 「 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白」と記されており、これは、元禄9年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものである。 ここから西へ500mの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄12年の道標が残されている。 知立市教育委員会

来迎寺町交差点に元禄9年の古い道標がある。「従是四丁半北 八橋業平作観音有」と刻まれており、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である。ここから500mほど北に鎌倉街道(東海道古道)が残っており、八橋界隈は古くから名勝の地として知られていた。

無量寿院 八橋町 知立市 愛知県
無量寿院 八橋町 知立市 愛知県名勝八橋の中心となる寺で、現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の慶雲元年(704)の創立としており、当時は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと申します。延喜2年(902)山号寺号を八橋山無量寺と改めているのでこのころいまの地に移されたと伝えられ、その後に無量寿寺と改められ現在に至っています。

交差点を右に折れ、鎌倉街道を越えた突き当たりに無量寿寺がある。かきつばたの庭で知られ在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」とかきつばたの五文字を句頭に入れて詠んだことから更に名声を高めた。境内にある謡曲史跡保存会の説明板が詳しい。

謡曲「杜若」と業平の和歌

謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて「唐衣 きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。

高くそびえる松の木の根元に芭蕉連句碑がある。

かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉

麦穂なみよる 潤ひの里 知足

在原寺(ざいげんじ) 八橋町 知立市 愛知県
在原寺(ざいげんじ) 八橋町 知立市 愛知県寛平年間(889~897)に業平塚が築かれた折、その塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられています。一時途絶えたこともあるいましたが、文化6年(1809)に方巌和尚が再建しました。

芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り句会を開いた時の作といわれる。

鎌倉街道を西に進んでいくと左手に在原寺がある。業平塚が築かれた時、その塚を守る人の御堂として創建された。

根上がりの松 知立市 愛知県
根上がりの松 知立市 愛知県

根の部分にあった土が年月を経て流出し、現在のように根が上がったように見えることからこの名が付いた。この松は、安藤広重の浮世絵『東海道名所図会』中に描かれている松に当たると思われ、したがって、少なくとも江戸時代後期には、既にこの地に存在していたと考えられる。 この松の種類はクロマツで、樹皮は黒褐色、葉はアカマツよりも太く剛い。材質は堅固で、建築材料や薪として用いられ、樹幹から松脂をとる。アカマツの雌……

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根の部分にあった土が年月を経て流出し、現在のように根が上がったように見えることからこの名が付いた。この松は、安藤広重の浮世絵『東海道名所図会』中に描かれている松に当たると思われ、したがって、少なくとも江戸時代後期には、既にこの地に存在していたと考えられる。 この松の種類はクロマツで、樹皮は黒褐色、葉はアカマツよりも太く剛い。材質は堅固で、建築材料や薪として用いられ、樹幹から松脂をとる。アカマツの雌松に対し、雄松と呼ばれている。 なお一説には、この松は鎌倉街道の並木の一部であったとも言われている。 知立市教育委員会

その先左手に爪先をあげて立つ奇妙な姿の「根上がりの松」がある。根の部分にあった土が流出して根が露出しており、大木を支える根がいかに頑丈なものであるかを可視的に認識させられた。

業平供養塔 八橋町五輪 知立市 愛知県
業平供養塔 八橋町五輪 知立市 愛知県

「在原寺縁起」では寛平年間(889~897)に業平の骨を分け、この地に塚を築いたとされている。しかしこの供養塔はそれより後、鎌倉末期に業平を偲び建立されたものと考えられる。形式は宝篋印塔で全高は約1m。 中略 樹齢数百年と推定される古松があったが、伊勢湾台風で惜しくも枯死した。 知立市教育委員会 八橋伝説地 ここ三河国八橋は、古くは東海道に沿っていて景勝の地としても知られ、特に「古今集」と「伊勢物……

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「在原寺縁起」では寛平年間(889~897)に業平の骨を分け、この地に塚を築いたとされている。しかしこの供養塔はそれより後、鎌倉末期に業平を偲び建立されたものと考えられる。形式は宝篋印塔で全高は約1m。 中略 樹齢数百年と推定される古松があったが、伊勢湾台風で惜しくも枯死した。 知立市教育委員会 八橋伝説地 ここ三河国八橋は、古くは東海道に沿っていて景勝の地としても知られ、特に「古今集」と「伊勢物語」の在原業平東下りの故事「 か らころも き つつなれにし つ ましあれば は るばるきぬる た びをしぞおもふ」と歌われた 「かきつばた」 の歌により一段とその名声を高めた。準指定区域は八橋町五輪・町田を中心とした逢妻川流域の一帯である。逢妻川は「くもでに流る」と歌枕にもよまれ、これと交差して古東海道が走っており、このあたりに往時ゆかりの落田中の一松・根上がり松・在原寺・無量寿寺などがある。 知立市教育委員会

名鉄三河線の踏切を渡った右手の塚上に八橋伝説地の案内板と業平墓所碑が、その奥に宝篋印塔の業平供養塔がある。業平伝説のほかに歌枕として知られた八橋は景勝的にも優れた場所であったと思われるが、周囲は街道沿いの人家のほか冬枯れの田園が広がるばかりで、杜若が咲き誇る逢妻川流域の低湿景観を想像するのは難しい。

来迎寺一里塚 来迎寺町 知立市 愛知県
来迎寺一里塚 来迎寺町 知立市 愛知県

県指定文化財 (史跡) 昭和三十六年七月八日指定 1603年(慶長8年)、徳川家庚が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。塚の上の樹木……

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県指定文化財 (史跡) 昭和三十六年七月八日指定 1603年(慶長8年)、徳川家庚が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。 県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。 知立市教育委員会

八橋地区を離れて東海道にもどる。すこしいったところに来迎寺一里塚がある。左(南)の塚しかみえないが、通り過ぎて振り返ると立方体の公民館の裏に隠れるように北塚があった。江戸から84番目の一里塚である。

家並み 牛田町 知立市 愛知県
家並み 牛田町 知立市 愛知県

古い家並みが散見される落ち着いた牛田集落をぬけ、やがて新田北信号で国道419号をまたぐ陸橋の向こうに見事な知立の松並木が見えてくる。近年まで1km近くあった松並木だが、住宅の建設などで並木の規模はほぼ半減した。

入り口に立つ平成7年の新しい道標には「旧東海道三拾九番目之宿池鯉鮒 江戸日本橋八拾四里拾七町 京都三条四拾壱里」と刻まれていて、39番目の宿駅池鯉鮒宿に近づいてきたことを伝えている。江戸-京都間の3分の2の地点にあたる。池鯉鮒の地名は、池鯉鮒明神(知立神社)の池に鯉と鮒がいたことからつけられた。

知立の松並木・一茶句碑 牛田町御林 知立市 愛知県
知立の松並木・一茶句碑 牛田町御林 知立市 愛知県

はつ雪やちりふの市の銭叺(かます) (前略)文化10年(1813)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を 「はつ雪やちりふの市の銭叺」 と詠んだ。下句を「銭の山」と詠んだのもある。これよりさき元禄5年(1692)に芭蕉は 「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」 と詠んでいる。奇しくも江戸期俳壇を代表する二人が当地の繁昌を詠んだのである。ここに昔日の繁栄を偲び、新しい時代を期待して句碑を建立した。 平成2年……

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はつ雪やちりふの市の銭叺(かます) (前略)文化10年(1813)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を 「はつ雪やちりふの市の銭叺」 と詠んだ。下句を「銭の山」と詠んだのもある。これよりさき元禄5年(1692)に芭蕉は 「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」 と詠んでいる。奇しくも江戸期俳壇を代表する二人が当地の繁昌を詠んだのである。ここに昔日の繁栄を偲び、新しい時代を期待して句碑を建立した。 平成2年11月 知立市文化協会 江戸時代東海道池鯉鮒宿は品川宿から数えて39番目に当たる宿駅で、江戸日本橋から84里17丁(約330km)あり、京都までのほぽ3分の2の地点にありました。 東海道松並木 徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏のある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長九年(1604年)のことである。当時幅二~四間(3.6~7.2メートル)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、遂年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである。 知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が欝蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が析られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。 用水管理者 明治用水土地改良区 遊歩道管理者 知立市 事業主体 愛知県岡崎農地開発事務所

並木のなかほどに小林一茶の句碑がある。

はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)

文化10年(1813)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁昌を詠んだものである。「池付白」で知られる三河木綿は厚地の白木綿で丈夫なことから印半纏、のれん、足袋底地などに使われた。

馬市の跡 牛田町御林 知立市 愛知県
馬市の跡 牛田町御林 知立市 愛知県

池鯉鮒の馬市は古来、牛田一八橋間の野原にあったとする言い伝えがある。その付近に“馬場池”と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったとか。 古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。 江戸初期東海道が開け、池鯉鮒宿が設けられて、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬を繋いだと……

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池鯉鮒の馬市は古来、牛田一八橋間の野原にあったとする言い伝えがある。その付近に“馬場池”と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったとか。 古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。 江戸初期東海道が開け、池鯉鮒宿が設けられて、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬を繋いだともいわれている。

並木の終わる手前に設けられた小公園に馬の像が建ち、すぐ先に「池鯉鮒宿 馬市之趾」の石碑と万葉歌碑がある。池鯉鮒は馬市で有名であった。古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。知立の松並木は側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためと考えられている。

池鯉鮒宿入口 山 知立市 愛知県
池鯉鮒宿入口 山 知立市 愛知県

松並木を通り抜けると御林の交差点で国道1号を地下道で渡り、国道の左側に続いている旧道に入る。名鉄三河線の踏切を渡り、「かどや」のある丁字路手前に小ぶりの常夜灯が立っている。このあたりが池鯉鮒宿の東出入り口だったのだろう。

旧池鯉鮒宿問屋場跡 本町 知立市 愛知県
旧池鯉鮒宿問屋場跡 本町 知立市 愛知県

中町信号五叉路を直進する形で正面の細道に続いているのが旧街道である。交差点周辺には八百勘、えびす屋、山城屋などの古い佇まいをみせる老舗が集まっている。細道に入ってすぐ食品館美松の前に池鯉鮒宿問屋場跡の標柱がある。

旧池鯉鮒宿本陣跡・明治天皇行在所聖跡 本町 知立市 愛知県
旧池鯉鮒宿本陣跡・明治天皇行在所聖跡 本町 知立市 愛知県

本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。 東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけで対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875)……

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本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。 東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけで対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。 知立市教育委員会

信号を渡り本町郵便局をすぎて次の路地を左に折れると国道419号にぶつかる左手の空き地に一対の常夜灯とともに明治天皇行在所聖蹟と池鯉鮒宿本陣跡の標柱が建っている。池鯉鮒宿本陣は最初は峯家が勤めたが(杉屋本陣)、寛文年間に没落したため永田家に引き継がれた(永田本陣)。

知立古城址 西町西 知立市 愛知県
知立古城址 西町西 知立市 愛知県

知立城は、元来知立神社の神主であった永見氏の居館であった。同氏の系譜を記した『永見氏家譜』には、平安時代末に後白河院の北面の武士として保元・平治の乱に従軍した十三代貞春の代にすでにその名が記され、二十九代貞英まで続いたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦で落城した。 その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約三千坪(一万㎡)の土地を整備した。寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが……

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知立城は、元来知立神社の神主であった永見氏の居館であった。同氏の系譜を記した『永見氏家譜』には、平安時代末に後白河院の北面の武士として保元・平治の乱に従軍した十三代貞春の代にすでにその名が記され、二十九代貞英まで続いたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦で落城した。 その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約三千坪(一万㎡)の土地を整備した。寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄12年(1699)の大地震により倒壊した。 知立市教育委員会

街道にもどり突き当たりに「東海道池鯉鮒宿」の石柱が立つ丁字路を右折する。左手に知立古城址がある。知立城は、元々知立神社の神主であった永見氏の居館であった。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦時に落城した後、刈谷城主水野忠重が整備し直したが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊した。

古い家が残る道の突き当たりにある了運寺前を左へおれる。国道155号を渡る地下道入口に、総持寺跡大銀杏の説明板がある。右手の道にすこし入ると大銀杏がまだ黄金色の葉を残してそびえたっていた。

知立神社 神田 知立市 愛知県
知立神社 神田 知立市 愛知県
知立神社多宝塔 神田 知立市 愛知県
知立神社多宝塔 神田 知立市 愛知県

国指定重要文化財 社伝によれば、850年(嘉祥3)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。現存する多宝塔は、1509年(永正6)重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板張りである。屋根は柿葺で、塔高は約10mあり、室町時代の建築である。明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺きにかえ、「知立文庫」……

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国指定重要文化財 社伝によれば、850年(嘉祥3)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。現存する多宝塔は、1509年(永正6)重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板張りである。屋根は柿葺で、塔高は約10mあり、室町時代の建築である。明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺きにかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。 知立市教育委員会

国道155号を地下道でくぐって旧道を進んでいくと右手に三河国二の宮知立神社がある。昔は池鯉鮒大明神と呼ばれ、東海道三大社の一つに数えられた名社である。第12代景行天皇(412)創建と言われている。境内に優美な姿の多宝塔(重要文化財)が建つ。嘉承3年(850)、別当寺となる神宮寺の創立時に建立された。現在の多宝塔は、永正6年(1509)重原城主山岡忠左右衛門が再建したものである。

境内には他にも享保17年(1732)銘の太鼓石橋や、池鯉鮒宿の木綿市を読んだ芭蕉句碑がある。

不断堂川(ふだんたつ) 池鯉鮒の宿農 木綿市 芭蕉

総持寺 新川 知立市 愛知県
総持寺 新川 知立市 愛知県徳川秀康之生母 於萬之方誕生地

街道に戻ってすぐ先左手に総持寺がある。もとはさきの国道付近にあった大銀杏のところに建っていたものだが、明治5年(1872)に廃寺になり、大正15年(1926)にここに再建された。山門前には、「徳川秀康生母於萬之方生誕地」の石碑がある。徳川秀康は徳川家康の次男で、越前北ノ庄藩初代藩主である。その母於万の方は知立神社永見氏の出で、家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが家康の手が付いて秀康を身籠った。

旧道は左にカーブして広い道路にでたのち逢妻橋を渡って国道1号と合流する。すぐに街道は刈谷市一里山町に入る。この辺りに江戸から85番目の一里塚があった。来迎寺一里塚と阿野一里塚の間に当たる。

沿道に工場や倉庫がまじる国道1号を淡々と歩いて、一里山町新屋敷歩道橋を過ぎた先に右斜めに出ている細道にはいる。右に工場、左は廃家が連なる裏道を通り抜けて今岡町歩道橋で国道1号を左斜めにわたる。

味気ない国道から旧街道らしい雰囲気の道にはいってほっとする。

洞隣寺 今岡町日向 刈谷市 愛知県
洞隣寺 今岡町日向 刈谷市 愛知県曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り□にある常夜灯は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。 墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれる めったいくやしいの墓 がある。 平成14年3月 刈谷市教育委員会

まもなく左手にある洞隣寺の墓地には一風変わった墓が並んでいる。一つは生前から仲が悪かった二人の中津藩士の墓で、江戸から豊前(大分県9への帰国途中、この土地で喧嘩となり切り違えて二人とも死んでしまった。土地の人が洞隣寺に墓を建てて弔ったが二人は死んでも憎しみあって二人の墓はいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうのであった。死んでからでも顔も見たくないほど嫌な人間はいる。

もう一つは「めっちゃくやしい墓」。昔、洞隣寺で働いていた気立てのよい娘がいた。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は容貌の悪い娘に見向きもしなかった。娘は恋煩いで拒食症に陥りついに憤死してしまった。これを聞いた洞隣寺の和尚は亡骸を引き取って葬ったが、この墓石からは青い火玉が浮かび上がり「めったいくやしい」という声と共に医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。どちらに同情したものか、なやましい伝説である。

芋川うどん発祥の地 上手掛/日向 今岡町 刈谷市 愛知県
芋川うどん発祥の地 上手掛/日向 今岡町 刈谷市 愛知県江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。 平成14年3月 刈谷市教育委員会

すぐ右手の路地角に見落としそうなくらいに控えめな標識があり、「旧芋川の地 ひもかわうどん発祥地」と墨書きされている。芋川(現今岡町)は平打ちうどんで知られ、いもかわうどんがいつしか「ひもかわ」とよばれるようになった。

旧家 今川町 刈谷市 愛知県
旧家 今川町 刈谷市 愛知県

今川町の街道沿いには連子格子の美しい町屋や立派な長屋門を構えた武家屋敷風の旧家がみられ、落ち着いた町並みが続く。

名鉄名古屋本線富士松駅近くにある乗蓮寺の樹齢850年といわれるスダジイの老木をみて、今川町交差点で国道1号の下をくぐって向こう側に続く旧道をたどっていくと、やがて三河と尾張の国境に差し掛かる。

境川・名鉄名古屋本線 大島 刈谷市 愛知県
境川・名鉄名古屋本線 大島 刈谷市 愛知県

境川に架かる境橋はむかし、中程より西の尾張側の板橋と、東の三河側の土橋が中央で繋がっていた。

境川を渡って刈谷市から豊明(とよあけ)市に入る。空中を交差する高圧電線と鉄塔がすざましい。まもなく国道1号下のトンネルの右側をまわって国道と合流ししばらく国道を歩く。

阿野一里塚 茶屋浦 豊明市 愛知県
阿野一里塚 茶屋浦 豊明市 愛知県慶長9年(1604)2月家康が永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに築かせたものです。往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以後次第にその価値を失った。今両塚が現存する例は珍しい。昭和11年12月指定 豊明市教育委員会
東海道の松並木 茶屋浦 豊明市 愛知県
東海道の松並木 茶屋浦 豊明市 愛知県この松は徳川家康が東海道を開いて植えた松並木の一本で、市内では数少ない名残の松である。豊明市教育委員会

県道57号の陸橋手前の二股を左に入る。旧道入り口に「国指定史跡阿野一里塚 この先200m」の看板がある。阿野一里塚は道の両側に残ってはいるが塚は溶けたアイスクリームのように崩れている。

豊明小学校前に名残の松がある。立派な一本松だ。

桶狭間古戦場跡 南館 豊明市 愛知県
桶狭間古戦場跡 南館 豊明市 愛知県桶狭間合戦のあらまし 東軍、 駿河、遠江、三河の領主 今川義元(42歳) 東軍所属の城 沓掛、鳴海、大高 兵数25,000人 義元この地に戦死 西軍、 尾張の領主 織田信長(27歳) 西軍所属の砦 丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根 兵数3000 戦闘2時間余り 信長の勝利 解説小冊子高徳院にあり

名鉄名古屋本線の前後駅の前を通り、ところどころに格子造りの家が残る旧街道を進んでいくとやがて国道1号に合流し名鉄の高架をくぐると、信号交差点の両側に左方向の矢印と大きな「香華山高徳院」の案内塔と「桶狭間古戦場」の道路標識が見えてくる。左に入ると100mほどで桶狭間古戦場跡に着く。永禄3年(1560)5月19日、尾張の新鋭領主織田信長(27歳)と駿河・遠江・三河のベテラン大名今川義元(42歳)が激突、10分の1の兵力しか持たなかった織田軍(西軍)が高徳院に陣を張っていた今川義元を討ち取った。跡地は公園になっていて園内には両軍の進路を示す大きな案内板や今川義元の墓七石表などがある。

高徳院 南館 豊明市 愛知県
高徳院 南館 豊明市 愛知県今川義元本陣跡 芭蕉句碑 あかあかと日はつれなくも秋の風

道路を挟んだ高徳院には本陣跡の碑や円柱形の芭蕉句碑がある。

あかあかと日はつれなくも秋の風

奥の細道、金沢での句である。なぜここにあるのか知らない。

街道にもどり、旧道はすぐ先の二股を左にとるが、何事もなくすぐに国道に合流、150mほど先の大将ヶ根信号で右の旧道に入っていく。有松という魅力ある間の宿が待っている。

鳴海

鳴海 広重「東海道五十三次」
鳴海 広重「東海道五十三次」

池鯉鮒宿と鳴海宿の間にある有松は絞染めの特産地として栄えた。街道筋には有松絞りを商う豪商が軒を並べていた。旅人相手の小売のほか、江戸や大阪から買い付けに来る絞り商人で賑わった様子は広重の絵にも描かれている。

二股を左にとって有松町にはいるや、絞り染め工場や絞製品を売る民芸調の商家など、独特の町並みが始まる。どこの家も繊細な格子造りが標準仕様といった有様で、それにくぐり戸、卯建、塗篭、屋根看板、駒寄、虫籠窓、海鼠壁、土蔵などのオプションが惜しみなく駆使されている。

井桁屋(服部家住宅) 有松 緑区 名古屋市 愛知県
井桁屋(服部家住宅) 有松 緑区 名古屋市 愛知県県指定有形文化財 店舗並居住一棟 井戸屋形一棟、客室一棟、 土蔵・絞倉・藍倉六棟、 門並門長屋二棟 当住宅は、旧東海道に面する町屋建築の遺構であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。主屋は塗篭(ぬりごめ)造で卯建を設け、倉は土蔵造で腰に海鼠壁を用い防火対策を行ってぃる。 服部家は屋号を井桁屋という。 名古屋市教育委員会

圧巻は右手に現れる服部家井桁屋であろう。海鼠壁の三層土蔵は寛政3年(1791)の建造だという。有松絞問屋の代表格といえる。

有松絞開祖 竹田庄九郎碑 有松 緑区 名古屋市 愛知県
有松絞開祖 竹田庄九郎碑 有松 緑区 名古屋市 愛知県

有松絞は尾張藩の移住奨励策により、慶長13年(1608)知多郡阿久比庄より移住してきた竹田庄九郎が創始したといわれる。 築城工事で名古屋へきていた豊後国(大分県)の者が着用の絞染衣類にヒントを得て、九々利染の手業を考案し、研究の末、馬の手綱までつくった。寛永18年(1641)2代藩主徳川光友に献上、さらに将軍綱吉にも献上された。また、豊後の医師、三浦玄忠の夫人が、国元で覚えた括り絞りの技法を村人に……

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有松絞は尾張藩の移住奨励策により、慶長13年(1608)知多郡阿久比庄より移住してきた竹田庄九郎が創始したといわれる。 築城工事で名古屋へきていた豊後国(大分県)の者が着用の絞染衣類にヒントを得て、九々利染の手業を考案し、研究の末、馬の手綱までつくった。寛永18年(1641)2代藩主徳川光友に献上、さらに将軍綱吉にも献上された。また、豊後の医師、三浦玄忠の夫人が、国元で覚えた括り絞りの技法を村人に伝授し、育成に貢献した。今に伝わる三浦絞である。その後、2代庄九郎の時に三浦絞の新しい染を開発し、また藩の保護もあって急速に発展した。名古屋市教育委員会

左手、有松・鳴海絞会館に入って記念ばかりの絞ハンカチを買った。その建物の裏手に有松絞の創始者、竹田庄九郎の記念碑が建っている。町の富は在所の神輿や山車の豪華さに反映される。有松に東町、中町、西町の三ヶ所に背の高い白漆喰土蔵造りの山車庫が威厳をはなって建っている。毎年10月第1日曜日の秋祭りには3台の山車が旧東海道を練り歩く。

笹加(竹田家住宅) 有松 緑区 名古屋市 愛知県
笹加(竹田家住宅) 有松 緑区 名古屋市 愛知県

一階屋根に古い行灯看板を付けた竹田家(竹田嘉兵衛商店)は有松絞開祖、初代竹田庄九郎の屋敷跡で、母屋は江戸時代の建築である。

岡家(岡兼商店)は同じく絞問屋で江戸末期の町屋建築である。二階の白漆喰壁に優美な縦格子窓と一階袖の海鼠壁は、広重の絵に描かれた後方の問屋と同一と思われる。

有松絞問屋町並 有松 緑区 名古屋市 愛知県
有松絞問屋町並 有松 緑区 名古屋市 愛知県

黒々とした重厚な塗篭壁に立派な卯建と駒寄を設けた小塚家は江戸時代の絞問屋町並みの取りを勤める建物である。

江戸時代の風情を残す有松の町を出ると景色は一変して、建設中の名古屋環状2号線の高架下に有松一里塚復元予定図が建てられていた。大正13年までここに榎が植えられた一里塚があった。

平部町常夜灯・鳴海宿入口 平部 緑区 名古屋市 愛知県
平部町常夜灯・鳴海宿入口 平部 緑区 名古屋市 愛知県

東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。 表に「秋葉大権現」 右に「宿中為安全」 左に「永代常夜燈」 裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。 文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。 大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。 名古屋市……

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東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。 表に「秋葉大権現」 右に「宿中為安全」 左に「永代常夜燈」 裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。 文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。 大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。 名古屋市教育委員会

銭湯 下中 緑区 名古屋市 愛知県
銭湯 下中 緑区 名古屋市 愛知県

街道は名鉄の踏切をわたり名残の松が散見される四本木の集落をぬける。平部北交差点に文化3年(1806)の秋葉常夜燈が立ち、東海道40番目の鳴海宿の東入り口をなしている。古い街並みが続き、扇川手前には大正時代を思わせる横板壁造りの銭湯がさびしげに建っていた。

中島砦跡 下中 緑区 名古屋市 愛知県
中島砦跡 下中 緑区 名古屋市 愛知県

扇川に架かる中島橋の手前を堤防沿いに左折してすぐまた支流沿いに左に折れた先、民家の庭に中島砦跡の碑がある。桶狭間合戦の前年、永禄2年(1559)に織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦である。

千代倉(旧下郷家本陣跡) 相原町 緑区 名古屋市 愛知県
千代倉(旧下郷家本陣跡) 相原町 緑区 名古屋市 愛知県造り酒屋、下郷知足は芭蕉門下。野ざらし紀行、笈の小文の旅で芭蕉が投宿。

橋をわたった右手に瑞泉寺をみて、鳴海宿の中心にはいっていく。沿道には古い家並みが残っている。右手に「千代倉」という屋号看板を掲げ、大屋敷の玄関だけが取り残されたようなた建物がある。江戸時代の豪商、下郷(しもさと)家の屋敷跡である。下郷家は酒造業を営む大地主で、嘉永年間(1848~1854)以後は本陣を務めた。下郷本陣は建坪677坪におよび、平均的な本陣の3倍であったという東海道中最大の本陣屋敷であった。芭蕉との関係が深く、当主の下郷知足は芭蕉門人で鳴海俳壇の盟主であった。芭蕉は生涯で4回鳴海に来ているがそのたびに千代倉宅に寄っていた。

1回目:貞亨2年(1685)4月4日、「野ざらし紀行」の途中、熱田の林桐葉の紹介で立ち寄る。三河八橋にも寄っている。

杜若われに発句のおもひあり 知足亭にて

2回目:貞亨4年(1687)11月4日、「笈の小文」で江戸から伊良湖の杜国を見舞う。11月4日~9日、16日~20日の間、知足亭に泊まる。

京まではまだ中空や雪の雲 11月5日 寺島ぼく言方

星崎の闇を見よとやなく千鳥 11月7日 寺島安信方

鷹一つ見つけて嬉し伊良湖崎 杜国を訪問

笠寺やもらぬ岩屋も春の雨 11月17日 笠寺奉納俳諧

面白し雪にやならん冬の雨 11月20日 鳴海の刀鍛冶岡島佐助(自笑)宅にて

3回目:貞亨5年(1688)7月7日「笈の小文」の帰途。この後8月上旬、岐阜から「更級紀行」

よき家や雀よろこぶ背戸の粟 7月8日 知足弟知之亭新築祝い

初秋や海も青田の一みどり 7月10日 児玉重辰方にて

4回目:元禄7年(1694)5月22日芭蕉最後の帰郷の途中知足邸に立ち寄る。

曲尺手 本町 緑区 名古屋市 愛知県
曲尺手 本町 緑区 名古屋市 愛知県

街道はその先で曲尺手となる。角には安政4年(1857)創業の菓子処菊屋がある。

すぐ左手の緑生涯学習センターあたりに問屋場があった。案内標識等はない。

芭蕉堂・供養塔(誓願寺) 根古屋 緑区 名古屋市 愛知県
芭蕉堂・供養塔(誓願寺) 根古屋 緑区 名古屋市 愛知県誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60㎝ほどの青石の自然石で、表面に「芭蕉翁」、裏面に元禄7(1694)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。芭蕉最古の供養塔で、昭和52年市の史跡に指定。 名古屋市教育委員会

本町交差点の北側左手にある誓願寺は天正元年(1573)下郷家の菩提寺として創建されたもので、境内には芭蕉堂と芭蕉供養塔がある。自然石の小さな供養塔はお堂の脇にひっそりと建っている。元禄7年(1694)芭蕉が亡くなった翌月の命日に建てられたも

ので、芭蕉最古の供養塔である。

鳴海城址(天神社) 城 緑区 名古屋市 愛知県
鳴海城址(天神社) 城 緑区 名古屋市 愛知県根古屋城ともいい、応永年中(1394~)安原宗範の築城といわれる。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。 その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。『尾張志』は東西75間、南北34間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。 名古屋市教育委員会

誓願寺の北隣円道寺の通り向かい角に天神社があり、石段を上がると鳴海城跡碑と芭蕉句碑3基がある。鳴海城は、根古屋城ともいわれ、応永年中(1394~1428)安原宗範が築城した。桶狭間の戦いでは今川方の岡部元信が最後までこの城に立てこもった。芭蕉の3句はいずれも鳴海での作である。

「京まではまだ半空や雪の雲」

「よき家や雀よろこぶ背戸の粟」

「杜若われに発句のおもひあり」

旧鳴海宿本陣跡 根古屋 緑区 名古屋市 愛知県
旧鳴海宿本陣跡 根古屋 緑区 名古屋市 愛知県

鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅龍屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。 鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅龍68軒(全体の8%)と記……

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鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅龍屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。 鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅龍68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、二軒あった。 名古屋市教育委員会

本町交差点にもどり街道を西に進むと山車庫風の建物の前に本陣跡の立て札がある。千代倉の下郷家が本陣を勤めるまでは西尾伊左衛門宅が鳴海宿本陣であった。

丹下町の常夜燈 丹下 緑区 名古屋市 愛知県
丹下町の常夜燈 丹下 緑区 名古屋市 愛知県鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜燈である。表に「秋葉大権現」 右に「寛政四年」 左に 「新馬中」 裏には「願主重因」と彫られている。寛政四年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。(中略) と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。 名古屋市教育委員会

作町信号を右折、三皿交差点を渡ってすすむと光明寺入り口に寛政4年(1792)建立の丹下町常夜燈が建っている。鳴海宿の西の入口にあるもので、東の平部常夜燈と共に鳴海宿の東西出入り口に当たっていた。

光明寺は丹下砦跡であったというので寄ってみた。本堂裏手の墓地は鳴海をみおろす高台になっていて、このあたりに砦が築かれていたのであろう。標識らしきものは見当たらなかった。

千鳥塚 三王山 緑区 名古屋市 愛知県
千鳥塚 三王山 緑区 名古屋市 愛知県この碑は、貞享4年(1687)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、側面に興行の年月が刻んである。これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。昭和52年名古屋市史跡に指定された。 名古屋市教育委員会

街道にもどり北に進む。鉾の木貝塚のすぐ先、右手に「正一位緒畑稲荷神社」の社碑と「千鳥塚」の案内標識が立っている。右に入って坂を上がりつめた千句塚公園内に千鳥塚がある。

貞享4年(1687)11月「笈の小文」の途次、寺島安信宅での歌仙で「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」を立句とした俳諧の一巻ができたことを記念して建てられたものである。碑文は芭蕉自筆で存命中唯一のものである。表に「千鳥塚」下に「武城江東散人 芭蕉桃青」と刻し、裏面には「千句塚」と鳴海六俳仙(下郷知足、寺島ぼく言、寺島安信,出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風)の名、側面に興行の年月が彫られている。

鳴海はその名が示すように中世までは海に面した土地で鳴海潟として知られ千鳥の名所であった。江戸時代になって新田が開かれ宿駅が形成されていった。

宮 熱田神事 広重「東海道五十三次」
宮 熱田神事 広重「東海道五十三次」

三王山交差点で県道59号を渡り天白川を越える。

笠寺一里塚 白雲町 南区 名古屋市 愛知県
笠寺一里塚 白雲町 南区 名古屋市 愛知県前略 ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側の塚だけが現存している。

赤坪町交差点を渡り右に曲がった直後の二股に笠寺一里塚がある。 江戸から88番目で東塚のみが残っている。塚一杯に生い茂る榎の大木が見事である。

笠寺町並 上新町 南区 名古屋市 愛知県
笠寺町並 上新町 南区 名古屋市 愛知県

旧街道の雰囲気を残す笠寺町の町並みを進んでいくと道がS字状にまがる右手に笠覆寺(りゅうふくじ)の鯱を頂いた仁王門が現れる。天平年間の開基という古刹である。元は小松寺といった。後、寺は荒廃し観音は風雨にさらされるようになってしまった。

笠覆寺 上新町 南区 名古屋市 愛知県
笠覆寺 上新町 南区 名古屋市 愛知県天林山と号し、真言宗。 俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎4年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財多数がある。名古屋市教育委員会

そこに一人の美しい娘にまつわる伝説がある。

娘は鳴海長者、太郎成高の家に仕えていたが、その器量を妬まれてかこき使われる日々を送っていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音の姿を見た彼女は、気の毒に感じ自分がかぶっていた笠をはずしてその観音にかぶせたのであった。その縁か後日、関白藤原基経の息子、藤原兼平が下向の折長者の家に泊まった際にこの娘を見初め自分の妻にした。 兼平の妻となった娘はそれから玉照姫とよばれることとなった。この観音の縁によって結ばれた玉照姫・兼平夫妻は延長8年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠をかぶせた観音を安置した。このとき寺号も小松寺から笠覆寺に改められた。

笠覆寺は今も縁結び、交際円満の信仰を集めている。

境内には正保年中(1644~48)建立の優美な多宝塔のほか、芭蕉の千鳥塚と宮本武蔵の碑が並んである。武蔵が尾張を訪れたときこの宿坊に泊まったという。

笠覆寺西門前に笠寺地区の説明碑がある。

笠寺の歴史 江戸時代の笠寺村は、東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。 寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、それが笠覆寺の名の由来となる。寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が再興した。 現存する建物は、正保年中に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(1763)の建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、達磨堂及び大師堂などが軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。

また笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚といった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東西約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に現存する唯一の一里塚がある。 平成3年 名古屋市

道標 呼続5丁目 南区 名古屋市 愛知県
道標 呼続5丁目 南区 名古屋市 愛知県

街道は西門から笠寺商店街をぬけ環状線の広い通りを横切り名鉄の踏切を渡った先の十字路を右折する。角に「東海道 是より北よびつき」の道標がある。

富部神社 呼続4丁目 南区 名古屋市 愛知県
富部神社 呼続4丁目 南区 名古屋市 愛知県前略 当社はもと「戸部天王」ともいわれ、松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒を祈願・快復した報恩のため、慶長11年(1606)本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。本殿は慶長当時の形態を今に伝え、とくに正面の蛙股、屋根の気懸魚・桁隠などによく桃山時代の特徴をそなえており、国の重要文化財に指定されている。祭文殿と回廊は、市指定の文化財となっている。名古屋市教育委員会

まもなく先と同じタイプの道標があり、「東海道 富部神社 塩付街道」と記されている。左に入っていくと右手に石鳥居が建っている。鳥居をくぐると右手に明治天皇御駐蹕之處の碑があった。富部神社は慶長8年(1603)に、当時の清洲城主であった松平忠吉が素盞鳴尊を主神として祀った祠をこの地に移したことに始まる。本殿は桃山時代の様式を伝え、国の重要文化財である。

境内の横から通じている路地をたどると赤鳥居の清水稲荷に出た。入り口に宿駅制度制定四百年を記念した東海道の石碑があった。

今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続(よびつぎ)浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区

旧鎌倉街道 呼続3丁目 南区 名古屋市 愛知県
旧鎌倉街道 呼続3丁目 南区 名古屋市 愛知県

古来、呼続一帯は四方を川と海に固まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ぼれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったといわれている。 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿……

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古来、呼続一帯は四方を川と海に固まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ぼれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったといわれている。 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。平成13年吉日 名古屋市・呼続学区

年魚市潟(あゆちがた)景勝地跡(白毫寺) 岩戸町 南区 名古屋市 愛知県
年魚市潟(あゆちがた)景勝地跡(白毫寺) 岩戸町 南区 名古屋市 愛知県

年魚市潟は、鳴海から熱田にかけて海辺の湾入した遠浅の地形を指していたようである。万葉の歌に、「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も 沖による見ゆ」や、「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」とあり、歌枕として有名な地となっている。 「年魚市」は「あいち」と転じ、県名の語源となったと言われる。 この地は、かっての年魚市潟を展望できる場所の一部として、昭和四十八年市指定の名……

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年魚市潟は、鳴海から熱田にかけて海辺の湾入した遠浅の地形を指していたようである。万葉の歌に、「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も 沖による見ゆ」や、「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」とあり、歌枕として有名な地となっている。 「年魚市」は「あいち」と転じ、県名の語源となったと言われる。 この地は、かっての年魚市潟を展望できる場所の一部として、昭和四十八年市指定の名勝とされた。 名古屋市教育委員会

街道にもどり、呼続小学校前交差点をわたったすぐの変則十字路の両側に「鎌倉街道」の石標がある。曲尺手状に旧東海道を斜めに横切っているが、元はまっすぐであったことがわかる。鎌倉街道を左に入っていくと突き当たりにあるのが白豪寺。本堂の左奥に年魚市潟(あゆちがた)勝景跡碑と万葉歌碑がある。

あゆちは、あゆちがたしほひにけらし知多の浦に朝こぐ舟もおきによる見る と万葉に歌われた歌まくらで、「愛知」の語源となった。

熊野三社前にも東海道碑があり、このあたりは松巨嶋とよばれる景勝の地であったことを記している。

古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。

新堀川・熱田橋 伝馬3丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
新堀川・熱田橋 伝馬3丁目 熱田区 名古屋市 愛知県

なだらかな山崎の長坂をくだり山崎川に架かる山崎橋を渡って左折し県道222号に合流する。もうあたりはすっかり名古屋市街地の風景である。県道は松田橋交差点で高速道路の高架をくぐって国道1号に合流するが、すぐに高架となる国道とわかれて下の道を進み、東海道本線の踏切を渡ったところで左の旧街道に入り熱田橋で新堀川を渡る。東京神田川に似た景色があった。

伝馬町一里塚跡 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
伝馬町一里塚跡 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県

宮地区の歴史 熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行す……

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宮地区の歴史 熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。

名鉄の高架をくぐると右手の小公園が伝馬町一里塚跡である。前に宮宿の案内板がある。宮宿は熱田神宮の門前町として、また名古屋62万石の城下町表口として、更に桑名までの七里の渡し場、美濃・佐屋街道との分岐点として、東海道随一の規模を誇る宿場町であった。

裁断橋跡 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
裁断橋跡 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県

宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。 天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この……

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宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。 天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。名古屋市教育委員会

左手に新しい二階建ての「姥堂」があり、前に「裁断橋跡」「都々逸発祥の地」の碑がある。裁断橋は、豊臣秀吉の小田原攻めに参加し陣中で病死した18歳の息子の供養に母親が架けたもので、擬宝珠に亡き子を偲ぶ母の思いが刻まれた。擬宝珠の銘文は、母の子を思う心が人々に感銘を与えて有名になった。

天正十八年 二月十八日に 小田原への御陣 堀尾金助と申す 十八になりたる子をたたせてよ 又二目とも見ざる 悲しみのあまりに いまこの橋を架けるなり 母の身には落涙ともなり 即身成仏し給え 逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで この書き付けを見る人は 念仏申し給えや 三十三年の供養なり

徳川家康幼時幽居地 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
徳川家康幼時幽居地 伝馬2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県松平竹千代、のちの徳川家康が天文16年(1547)8月、6歳のとき、織田信秀(信長の父)のため人質となって、この地熱田の豪族加藤順盛の屋敷に幽閉された。またこのあと、那古野城内天王坊にも幽閉されたといわれる。天文18年11月、竹千代8歳のとき一時岡崎に戻ったが、再び、今川氏の人質として駿府へ行った。 名古屋市教育委員会

姥堂の裏筋に徳川家康が天文16年(1547)6歳のとき、織田信秀(信長の父)のため人質となって幽閉されたという熱田の豪族加藤順盛の屋敷跡がある。ブロック塀の内には銀杏の植え込みの中に古い建物が覗かれた。

旧東海道三叉手前 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
旧東海道三叉手前 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県前方 東海道左折 佐屋街道・美濃街道右折

旧街道は中央分離帯のある広い道路を横切ってこのまま道を進むと丁字路に突き当たりに出る。ここが佐屋街道との分岐点で、宮から桑名まで七里の海路を嫌った旅人は佐屋街道を選んだ。

三叉の道標 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
三叉の道標 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県

ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。 四面には、次のように刻まれている。 東 北 さやつしま(佐屋津島) 同 みのち(美濃路) 道 南 寛政二庚成年 西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ(名古屋木曽)道 北 南 京いせ(伊勢)七里の渡し 是より北あつた(熱田)御本社弐……

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ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。 四面には、次のように刻まれている。 東 北 さやつしま(佐屋津島) 同 みのち(美濃路) 道 南 寛政二庚成年 西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ(名古屋木曽)道 北 南 京いせ(伊勢)七里の渡し 是より北あつた(熱田)御本社弐丁 道 なお、この三叉路の東北隅には、これより32年前(宝暦8年)に建立された道標があった。 標示は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。 戦災で破損したが復元され、十mほど北側にある。 名古屋市教育委員会

正面にはほうろく地蔵、左角には寛政2年(1790)の古い道標がある。

「北 さやつしま 同 みのち 道」「南 京いせ七里の渡し」「東 江戸かいとう 北 なこやきそ 道」と刻まれている。

佐屋街道起点・旧東海道三叉 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
佐屋街道起点・旧東海道三叉 伝馬1丁目 熱田区 名古屋市 愛知県

佐屋街道である右の方向をのぞくと正面奥に熱田神宮の森がみえた。距離にして100mほどであるが、熱田神宮参拝は佐屋街道にまかせよう。

東海道は左に折れて「京 伊勢 七里の渡し」へと向かう。

本陣跡 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県
本陣跡 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県

宮の宿赤本陣跡 宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本らの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は南部新五左衛門が努め、苗字帯刀を許されていた。天保年間(1830~44)の『東海道宿村大概帳』によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では間口約16間、奥行き21間であったと記されている。戦災によって……

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宮の宿赤本陣跡 宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本らの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は南部新五左衛門が努め、苗字帯刀を許されていた。天保年間(1830~44)の『東海道宿村大概帳』によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では間口約16間、奥行き21間であったと記されている。戦災によって本陣の遺構は全くない。 名古屋市教育委員会

国道247号を歩道橋でわたり斜め向かいの旧道に入る。歩道橋をおりて蓬莱陣屋の北側の道をすこしはいると左手に赤本陣跡の説明板が立っている。宮宿には赤白二軒の本陣があり、南部新五左衛門が赤本陣を勤めた。跡地は蓬莱陣屋の駐車場になっていて何もない。

旧道筋にもどり、二つ目の路地を右にはいったところ、白鳥消防団詰所が西浜御殿跡である。尾張藩2代藩主徳川光友が造営した豪壮な屋敷で尾張藩の迎賓館としても使われていた。

熱田湊常夜燈・時の鐘 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県
熱田湊常夜燈・時の鐘 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県

熱田湊常夜灯 この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によっ……

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熱田湊常夜灯 この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した。名古屋市教育委員会 時の鐘 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。中略 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。以下略

七里の渡し船着き場跡 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県
七里の渡し船着き場跡 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県江戸時代東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の船着き場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜燈は航行する舟の貴重な目標であったが現在は復元されて往時の名残をとどめている。安東広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることが出来る。 名古屋市

いよいよ東海道は海に出る。ここから桑名まで、長時間の船旅が待っていた。海といっても今は堀川の船着場にすぎず、大規模な埋め立ての結果、ここから伊勢湾にでるにはなお数キロの船旅が必要である。名古屋港の外はすでに桑名よりも南にある。

丹羽家住宅 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県
丹羽家住宅 神戸町 熱田区 名古屋市 愛知県

丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯が残されている。正面の破風付玄関は、かつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。 創建は不明であるが、天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅龍屋が描かれえtいる。昭和59年、市の有形文化財に指定された。名古屋市教……

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丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯が残されている。正面の破風付玄関は、かつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。 創建は不明であるが、天保12年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅龍屋が描かれえtいる。昭和59年、市の有形文化財に指定された。名古屋市教育委員会

七里の渡し跡は公園として整備され、常夜灯や時の鐘が復元されて往時の雰囲気を伝えている。宮宿はここまで宿場らしい面影を残す建物はなかったが、道を挟んで、脇本陣格の旅籠であった丹羽家住宅魚半という明治時代の料亭がわずかながら渡し跡に風情を与えていた。

(2009年12月)

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