甲州街道 6区間のうち5番目

甲州街道(5)

勝沼-栗原-石和-甲府柳町-韮崎-台ケ原-教来石

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勝沼

勝沼

柏尾の古戦場 柏尾 勝沼町 甲州市 山梨県
柏尾の古戦場 柏尾 勝沼町 甲州市 山梨県

明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかっての新撰組、会津藩兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二ヶ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦い……

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明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかっての新撰組、会津藩兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二ヶ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。

大和町境界を示すモニュメントをすぎて国道20号は勝沼町に入る。

「深沢入口」交差点の角に「柏尾古戦場」碑とともに白っぽい近藤勇の石像が立っている。どこの石材店にでも売っていそうな像だ。戊辰戦争で近藤勇率いる新撰組・会津藩は土佐・高遠藩の官軍とここ柏尾の深沢岸で戦って敗れた。

芭蕉翁甲斐塚 勝沼町 甲州市 山梨県
芭蕉翁甲斐塚 勝沼町 甲州市 山梨県

深沢橋をわたると鉄パイプで組んだ棚に葡萄が鈴なりの観光ぶどう園が現れる。甲州ぶどう・甲州ワインの本場にやってきた。すぐ右手に大善寺、薬師堂に通じる裏道がでている。入口右上に芭蕉塚があった。県内最古の芭蕉句碑だという。

蛤の生ける甲斐あれ年の暮 芭蕉

この句を選んだのは生き貝と生き甲斐をかけたつもりの芭蕉のさらに一歩を進んで、甲斐の国をもかけたつもりであろうとうかがえる。

理慶尼墓 大善寺 勝沼町 甲州市 山梨県
理慶尼墓 大善寺 勝沼町 甲州市 山梨県

桂樹庵理慶尼は、勝沼氏の娘で名は松葉。 永禄三年(1560)兄、勝沼信元が武田信玄により滅ぼされたとき嫁先から離縁され、従者四人をつれ、大善寺の慶紹をたより尼となり千鳥堂の横に庵を結び住し、慶長十六年(1611)に没したという。 尼は、天正十年(1582)三月新府から逃げ落ちてきた武田勝頼一行を大善寺に泊め、後にその最後の有り様を情愛を込めまとめた 「理慶尼記」が、今も大善寺に、晩年の尼の画像、墓……

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桂樹庵理慶尼は、勝沼氏の娘で名は松葉。 永禄三年(1560)兄、勝沼信元が武田信玄により滅ぼされたとき嫁先から離縁され、従者四人をつれ、大善寺の慶紹をたより尼となり千鳥堂の横に庵を結び住し、慶長十六年(1611)に没したという。 尼は、天正十年(1582)三月新府から逃げ落ちてきた武田勝頼一行を大善寺に泊め、後にその最後の有り様を情愛を込めまとめた 「理慶尼記」が、今も大善寺に、晩年の尼の画像、墓所と共に伝え残されている。 甲州市教育委員会

裏道をすすむと右手に理慶尼の墓がある。理慶尼は勝沼氏の娘で、永禄3年(1560)兄、勝沼信元が武田信玄により滅ぼされたとき嫁先から離縁され、尼となって武田家の終焉を看取った。裏道は国宝である大善寺薬師堂に至る。

いわきでみた白水阿弥陀堂にも似て、頂点からながれるような寄棟屋根が優美である。余計な装飾がないのも御堂の清楚で上品な印象を深めていてよい。

大善寺は武田勝頼がその自決の1週間前に一夜を明かした場所である。

武田勝頼主従投宿の地(大善寺)

大善寺本堂 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県
大善寺本堂 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県

国 宝 大善寺本堂 一棟 昭和和三十年六月二十二日指定 新義真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、薬師三尊像(弘仁仏・重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。方五間の堂宇で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗栱を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁……

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国 宝 大善寺本堂 一棟 昭和和三十年六月二十二日指定 新義真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、薬師三尊像(弘仁仏・重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。方五間の堂宇で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗栱を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁棰によって雄大な寄棟造桧皮葺きの屋根を支える。(中略) この建物は、執権北条貞時が勅命を奉じ「弘安九参月十六日」甲信二か国の棟別銭の喜捨を得て再興した。中世和洋建築の典型を示すものであり、本県最古の遺構でもある。昭和29年12月解体復元修補が竣工した。 昭和56年3月31日 山梨県教育委員会

全国の統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、織田、徳川連合軍の近代装備と物量の前に敗退し天正10年(1582)3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝祈願をして一夜を明かしました。しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田・徳川の連合軍に行く手をはばまれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来、5百年続いた甲斐源氏もここに滅亡したのであります。その一部始終を目撃した理慶尼が記した理慶尼記は別に武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいた大善寺に今なお大切に保管されています。 昭和54年10月1日 ○○教育委員会

また、大善寺は甲州ぶどう発祥の地でもある。

甲州ぶどう発祥の地 大善寺伝説

養老2年(718)僧行基が甲斐の国を訪れたとき勝沼の柏尾にいたり、日川の渓谷の大石の上で修業したところ、満願の日、夢の中に右手にぶどうを持った薬師如来があらわれたといわれます。行基はその夢を喜び早速夢の中にあらわれたお姿と同じ薬師如来を刻んで安置したのが今日の柏尾山大善寺であります。以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬のぶどうのつくり方を村人に教えたので、この地にぶどうが栽培されるようになり、

これが甲州ぶどうの始まりだと伝えられています。大善寺伝説は、仏教渡来と共に大陸から我が国にもたらされたぶどうが、薬師信仰と結びついてこの地に伝えられたことを指すものとして理解されます。 昭和54年10月1日 ○○教育委員会

国指定史跡 勝沼氏館跡 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県
国指定史跡 勝沼氏館跡 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信玄の家系である。・・・・勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄3年(1560)信玄により滅ぼされた。館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。 以下略 勝沼町教育委員会
勝沼氏館跡家臣屋敷 勝沼町 甲州市 山梨県
勝沼氏館跡家臣屋敷 勝沼町 甲州市 山梨県勝沼氏館跡の東郭東門外側にあるこの一帯から南北2つの屋敷跡が発見されました。屋敷の広さは約100坪で中級クラスの家臣屋敷と考えられます。南屋敷は井戸から水を得るのに対し、北屋敷は内郭に水を供給する水路から取水しており、水質を管理する重要な役割を担っていた人物の屋敷と考えられます。 以下略

柏尾三叉路交差点で街道は右の県道38号にうつり勝沼宿に入っていく。「県立ワインセンター」の表示のところを左にはいると、茅葺の家臣屋敷が復元されていて、その周囲には勝沼氏館跡の土塁や溝跡が保存されている。さらに少し西には石垣、空堀、門、蔵跡などの本格的な館遺構がのこされていた。館の主、勝沼氏は武田信虎の弟、五郎信友で、武田家御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが、信友の子信元のとき、逆心を企てたとして武田信玄に誅殺され、勝沼氏は断絶した。

本陣槍掛けの松 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県
本陣槍掛けの松 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県

勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松。 甲州街道勝沼宿 勝沼宿は甲州街道(甲府街道)の宿として、元和4年(1618)に新規取立てとなり、 鶴瀬・駒飼宿と栗原宿の間 の荷物、人の継ぎ立てを行った。甲府盆地の東端に位置していることから、峡東地方の物資集積の場として栄え、万治元年(1658)には市が始まり、寛文12年(1672)には上中下の三市場と2、7の定め市の制度が設け……

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勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松。 甲州街道勝沼宿 勝沼宿は甲州街道(甲府街道)の宿として、元和4年(1618)に新規取立てとなり、 鶴瀬・駒飼宿と栗原宿の間 の荷物、人の継ぎ立てを行った。甲府盆地の東端に位置していることから、峡東地方の物資集積の場として栄え、万治元年(1658)には市が始まり、寛文12年(1672)には上中下の三市場と2、7の定め市の制度が設けられ、貞享3年(1686)には宿場の拡大に伴い上町・中町(現仲町)・下町(現本町)・横町・上新町(現富町)・下新町(堰合町)の町名制が定められた。天保14年(1843)当時の勝沼宿は、総家数192軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒、問屋場1ヶ所、継ぎ立て人馬25人・25匹、高札場1ヶ所を備えていた。 勝沼町教育委員会

上町十字路から中町にかけてが宿場の中心街であったようで、鉤の手の道傍にかまえる旧家脇本陣槍掛けの松を配した本陣の跡、さらには斜め向かいに仲松屋を代表とする脇蔵を従えた古めかしい商家が並んでいて、勝沼宿の町並みが濃縮された一角を形成している。

仲松屋住宅 旧勝沼宿仲町 勝沼町 甲州市 山梨県
仲松屋住宅 旧勝沼宿仲町 勝沼町 甲州市 山梨県

勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の土屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、 坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵座敷などから構成されている。東西両屋敷建物……

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勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の土屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、 坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵座敷などから構成されている。東西両屋敷建物群は江戸後期から、明治の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。 勝沼町 教育委員会

先生に引率された小学生の一団が商家の道向かいで立ち止まって説明を受けている。

「家と家の間に蔵があるでしょう。その間をよく見てごらん。ずっと向こうまで蔵がつづいている。火事があっても蔵が火除けになって隣の家にうつらないようになっているんですね」

聞き耳をたてながら、白壁の蔵と千本格子の美しい町家の写真をバチバチ撮った。

地下一階、地上三階の土蔵 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県
地下一階、地上三階の土蔵 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県記 明治20年頃大火の後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った。勝沼町にて保存予定 所有者 山梨市小原西 福島屋薬局
旧田中銀行社屋 国登録有形文化財 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県
旧田中銀行社屋 国登録有形文化財 勝沼 勝沼町 甲州市 山梨県

藤村式建築の流れをくむ建物。明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階建ての建物で、大正9年より昭和7年頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された。外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレン……

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藤村式建築の流れをくむ建物。明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階建ての建物で、大正9年より昭和7年頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された。外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。 勝沼町教育委員会

その先右手に三階建ての土蔵がある。漆喰はかなりはがれて土壁の地肌をみせているが、スマートな蔵姿である。

旧田中銀行は明治時代の洋風建築で、国登録有形文化財である。もとは郵便局で、その後銀行となった。サーモンピンクの壁が暖かい。

勝沼小学校の前に「明治天皇勝沼行在所」の碑が建つ。このあたりから「ようあん坂」とよばれる坂を下っていく。笹子峠以来、道は下りっぱなしであったが、傾斜はまだ止まらない。

葡萄園 等々力(とどろき) 勝沼町 甲州市 山梨県
葡萄園 等々力(とどろき) 勝沼町 甲州市 山梨県

家並みはまばらになって、ぶどう園がいっそう目立つようになってきた。私も館山の裏庭にデラウエアと巨峰の苗を一本ずつ植えてある。将来にそなえ、棚のつくり方をよく見ておこうと思う。つっかいを外側に倒して建て、上を針金で網目状に覆ってある。縦杭を倒すのは、金網天井の張力にまけない為だ。上を這うぶどうの枝はつるが太った頼りないものだから、ぶどうの房の重みをささえられる程度の棚でよいのであろう。

街道は等々力(とどろき)交差点に来て、北から降りてきた国道411号に移る。白百合醸造のロリアンワイン工場の前で甲州市とわかれて山梨市に入る。この先、甲府市のあと、甲斐市と続く。甲州・山梨・甲府・甲斐と、われこそが県(旧国)の中心市だといわんばかりに考えられる名を網羅した。改めて全県地図をながめて、うならされた。真ん中とおもわれる位置にちゃんと「中央市」がある。どこに県庁があってもおかしくない。

栗原

家並み 旧栗原宿 上栗原 山梨市 山梨県
家並み 旧栗原宿 上栗原 山梨市 山梨県

栗原宿は、上栗原と下栗原に分かれている。 今まで地名に上と下を分けるとき、江戸に近いほうを下、京に近いほうを上としてきた。江戸時代でも都は京都であった。現在の鉄道で上りが東京に向かう時、下りを東京から離れる時、としている逆である。栗原はそのまれな例外で、上が先にくる。

「上栗原」交差点をこえたあたりから蔵持ちの民家が散見されるようになって、それらしい集落の雰囲気が感じられるようになってはきたが、宿場跡の史跡らしいものはみかけない。大法寺入口の先で下栗原に入る。

大翁寺入口石仏群 下栗原 山梨市 山梨県
大翁寺入口石仏群 下栗原 山梨市 山梨県

丁字路右手に松の木と常夜灯、その後ろの小さな塚には祠と石仏が集まっている。その中に例の球形道祖神らしきものを見つけた。丸石にかこまれてまん中に起立している棒石がなんともいわくありげだ。全体としてその一角は一里塚跡にふさわしい風貌をみせていて、栗原宿の入口としては結構な景色である。その路地をはいっていくと右手に大翁寺がある。寺は小さいもので、むしろぶどう畑になっている広い空き地に意味があった。土地の領主栗原氏の屋敷跡である。

大宮五所神社 下栗原 山梨市 山梨県
大宮五所神社 下栗原 山梨市 山梨県

(前略)このような浮世絵風芝居は、明和、安永(1764~1780)当時としては、全くの珍品で、絵馬として奉納された例は、全国的にも少なく貴重な民俗遺品といえます。 昭和53年3月建 山梨市教育委員会 大宮五所大神のクロマツ 根回り3.25m 樹高 12m本件は、枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛であり、特に樹皮の亀裂の深さと鱗の大きさはすばらしく、最も深い部分は15cm、鱗の周囲は最大で90cm……

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(前略)このような浮世絵風芝居は、明和、安永(1764~1780)当時としては、全くの珍品で、絵馬として奉納された例は、全国的にも少なく貴重な民俗遺品といえます。 昭和53年3月建 山梨市教育委員会 大宮五所大神のクロマツ 根回り3.25m 樹高 12m本件は、枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛であり、特に樹皮の亀裂の深さと鱗の大きさはすばらしく、最も深い部分は15cm、鱗の周囲は最大で90cmにもなっています。

国道にもどり西に進むと、下栗原集会所のところで国道をわけて鉤の手に旧道がのこっている。そこに大宮五所大神の社碑が立っていたので寄ってみることにした。神社の由緒はみなかったが、クロマツと絵馬の説明板があった。

鉤の手の道はそのまま国道をよこぎって日川の堤防に向かってつづいている。そのどこかで右に折れて国道にもどる道があったのだろうがトヨタ営業所によってはばまれているようだった。街道は栗原宿を出て、一町田中交差点で左折し、堤防をすこしあるいて日川橋を渡る。

石和

ここは笛吹市一宮町である。笛吹市には国衙、国分寺、一宮がある。甲州市でも、山梨市でも、甲府市でも、甲斐市でも、中央市でもなくて、笛吹市こそが甲州甲斐国の中心だった。

旧道 一宮町田中 笛吹市 山梨県
旧道 一宮町田中 笛吹市 山梨県

日川橋を渡るとすぐ右に折れ、川に沿って旧道をすすむ。一宮町田中の集落は街道沿いに松並木のなごりがあって、白壁の土蔵とあいまって趣ある町並みをみせている。道なりに堤防にでてそのまま国道と合流して笛吹橋をわたる。

笛吹権三郎之像 石和町川中島 笛吹市 山梨県
笛吹権三郎之像 石和町川中島 笛吹市 山梨県

今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は、鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を、母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのため……

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今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は、鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を、母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子酉川が氾濫し、権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも、権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。これが、先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。 昭和65年5月吉日 山梨県山梨市七日市場

美しい松並木の堤防を歩いていくと、右手に笛吹少年の石像がたつ小公園がでてくる。そこを降りて石和町の街中へはいっていく。ところで、笛吹少年の名は権三郎。笛の上手な孝行息子にまつわる悲しい物語が伝わっている。

道祖神 八田 石和町 笛吹市 山梨県
道祖神 八田 石和町 笛吹市 山梨県

蔵造りの石和川中島簡易郵便局の前を通る。八田公民館脇にまだ新しい丸石道祖神が設置されている。中央の大きな丸石は縄の鉢巻をまいていて、周囲の子丸石を腕とした蛸の八ちゃんに見えた。街道は国道411号に合流して、石和宿内にはいる。すぐ右手の遠妙寺は謡曲の「鵜飼」ゆかりの寺で、伝説の鵜飼勘作の墓がある。楼門造りの仁王門が立派だった。

石和宿本陣跡 1051番地 市部 石和町 笛吹市 山梨県
石和宿本陣跡 1051番地 市部 石和町 笛吹市 山梨県

本陣は江戸時代大名公家幕府の役人高貴の人の宿泊する所である。石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石真田伊豆守及び松平甲斐守15万石を初め全国の大名が宿泊し大名宿とも言われ明治維新まで続いた。建物は書院造り、門・玄関・上段の間を備えて広大な構えであった。明治13年6月19日明治天皇御巡幸のみきり御休憩の御予定のところ同月6日、大火により焼失……

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本陣は江戸時代大名公家幕府の役人高貴の人の宿泊する所である。石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石真田伊豆守及び松平甲斐守15万石を初め全国の大名が宿泊し大名宿とも言われ明治維新まで続いた。建物は書院造り、門・玄関・上段の間を備えて広大な構えであった。明治13年6月19日明治天皇御巡幸のみきり御休憩の御予定のところ同月6日、大火により焼失し現在土蔵一棟のみ現存している。 石和町

遠妙寺から駅前通りまであたりが石和宿である。家並みは新しくて宿場の面影はまったくなく、僅かに右手の駐車場の本陣跡に、白壁土蔵が一棟残っているくらいである。「芸妓置屋」の看板がでているのは宿場の街よりも温泉街であることを物語る。石和温泉は昭和にはじまった新しい温泉街で、古湯場特有の情緒は持ち合わせていない。小林公園の入口に足湯があったので、温泉客にまじってしばらく豆ができた足を休ませた。そのあと、豆は余計に痛んで困った。

石和陣屋跡(石和南小学校) 市部 石和町 笛吹市 山梨県
石和陣屋跡(石和南小学校) 市部 石和町 笛吹市 山梨県

寛文元年(1661)甲府宰相徳川綱重の時、建てられた陣屋で綱重は江戸城桜田邸に居住したので代官所として使用された。享保9年(1724)柳沢吉里が大和国郡山へ国替えの後、慶応3年(1867)まで甲斐国のおよそ3分の1を支配する江戸幕府の出先機関であった。(代官所とは、主君にかわって官職を代行する役所のことで、柳沢吉里の移封後は、江戸幕府の直轄地となったので、幕府の役人が年貢収納や民政をつかさどった。……

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寛文元年(1661)甲府宰相徳川綱重の時、建てられた陣屋で綱重は江戸城桜田邸に居住したので代官所として使用された。享保9年(1724)柳沢吉里が大和国郡山へ国替えの後、慶応3年(1867)まで甲斐国のおよそ3分の1を支配する江戸幕府の出先機関であった。(代官所とは、主君にかわって官職を代行する役所のことで、柳沢吉里の移封後は、江戸幕府の直轄地となったので、幕府の役人が年貢収納や民政をつかさどった。 所在地石和町市部270番地 南小学校内 笛吹市

公園の奥に石和南小学校があって、校門前に「石和陣屋跡」の碑が立っている。寛文元年(1661)に代官所として建てられた。

街道にもどりすぐ先の石和八幡宮に寄る。拝殿には徳川時代の絵馬が多数奉納されているというのではいっていったのだが、境内の奥はもぬけの殻で、石垣のうえは整地されていたようである。新しい社殿が再建されるのであろう。

甲運橋を渡った所で石和宿を出て甲府市に入る。橋の西詰に萬延元年(1860)の道標があった。

甲府柳町

追分 山崎三差路 酒折2丁目 甲府市 山梨県
追分 山崎三差路 酒折2丁目 甲府市 山梨県左 青梅街道 右 甲州街道

街道は国道411号を西進し、「山崎三差路」信号で東京新宿追分から分岐した青梅街道と合流する。青梅街道は国道140号となって、勝沼あたりで北にそれていった中央本線沿いに北上し、大菩薩峠をこえて奥多摩に至る。いずれ歩いて越えようと思う街道である。

三叉路の先、右手のくぼ地に「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑がある。江戸時代、甲府宿はずれに設けられた刑場跡である。箱根駅伝でおなじみの山梨学院大学の前を通り、酒折駅前を過ぎたところの「酒折宮入口」を右折して路地をすすみ、中央線の「宮前踏切」をこえると正面に酒折宮が待っている。

酒折宮 酒折3丁目 甲府市 山梨県
酒折宮 酒折3丁目 甲府市 山梨県

酒折宮ノ旧跡ニシテ上代公庁ノ在リシ地ナリ景行天皇ノ40年皇子日本武尊東夷ヲ平定シ還路此処ニ駐車シ「にひばりつくば」ノ歌ヲ詠マセ給ウ国史ニ歴然タル古蹟ナリ 社アリテ尊ノ霊ヲ祀レリ此地享保年中勅許甲斐八景ノ一酒折夜雨ノ名所トナル 冷泉為綱ノ歌ニ くれぬ間の嵐はたえて酒折に枕かる夜の雨になる音 連歌発祥の地の由来 ここ酒折の宮は、古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途、立ち寄った伝承地として有名です……

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酒折宮ノ旧跡ニシテ上代公庁ノ在リシ地ナリ景行天皇ノ40年皇子日本武尊東夷ヲ平定シ還路此処ニ駐車シ「にひばりつくば」ノ歌ヲ詠マセ給ウ国史ニ歴然タル古蹟ナリ 社アリテ尊ノ霊ヲ祀レリ此地享保年中勅許甲斐八景ノ一酒折夜雨ノ名所トナル 冷泉為綱ノ歌ニ くれぬ間の嵐はたえて酒折に枕かる夜の雨になる音 連歌発祥の地の由来 ここ酒折の宮は、古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途、立ち寄った伝承地として有名です。 尊が、酒折宮に着いたとき、 「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と、歌われました。筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝ただろうか、と歌で問いかけられたのです。その時、そぱ|こいた御火焼の翁がそれを受けて、「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」と歌いあげました。尊はこれをたいそうお誉めになり、東の国造の位をさずけたということです。この話は、「古事記」や「日本書紀」に書かれていて、後に連歌の発祥の地として全国に知られるようになりました。甲府市・甲府市教育委員会

今風に言えば超古い社で、神代の時代、日本武尊が蝦夷を征伐した帰りに立ち寄った場所だという。その際、尊はふと「にひばりつくばをすぎていくよかねつる(新治郡の筑波から幾夜寝たのだろう)」と独り言をいったところ、傍にいた翁が「かがなべて夜にはここのよ日にはとをかを(9泊10日ですよ)」と歌で答えた。それを聞いて尊はおおいに感心したという。これがわが国連歌の始まりで、酒折宮は連歌発祥の地とされている。

そのころ江戸の町はまだ海の底だったから、甲府から筑波までどんな道筋でいったものか。青梅街道筋を経てまっすぐ東に埼玉を横断していったのではないかと、地図をながめながら想像している。直線距離で150kmくらいだから10日という数字は妥当な計算であろう。

連歌発祥の地 酒折3丁目 甲府市 山梨県
連歌発祥の地 酒折3丁目 甲府市 山梨県

景行天皇の皇子日本武尊は、蝦夷征服の途、「日本書紀」によれば、常陸を経て甲斐国に入り、此処酒折の宮にしばらく居 。 着宮の夜、皇子が歌をもって 新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる と問われたのに対し、火焼人が、 かがなべて、夜には九夜、日には十日を と唱和した故事は有名である。後世、連歌を「筑波の道」と呼ぶのもこれによるもので、歌体は片歌ながら、連歌の觴(はじめ)とされており、当地を訪れた文人墨客が……

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景行天皇の皇子日本武尊は、蝦夷征服の途、「日本書紀」によれば、常陸を経て甲斐国に入り、此処酒折の宮にしばらく居 。 着宮の夜、皇子が歌をもって 新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる と問われたのに対し、火焼人が、 かがなべて、夜には九夜、日には十日を と唱和した故事は有名である。後世、連歌を「筑波の道」と呼ぶのもこれによるもので、歌体は片歌ながら、連歌の觴(はじめ)とされており、当地を訪れた文人墨客が多かった。 昭和61年七月 小野成三奉納

連歌発祥の地を記念する史跡はすこし先の不老園という庭園の山頂近くにある。山梨学院高校の前で、三人連れの女子校生がトレーニングパンツ姿で坂を下りてきた。すれ違いざまに聞こえた言葉は日本語でなかった。不老園の垣根沿いの山道を上っていくと、二人の歌を万葉仮名で刻んだ黒岩と、鉄柵に囲まれた石棺室のような窪地があった。

善光寺山門(国指定文化財) 善光寺3丁目 甲府市 山梨県
善光寺山門(国指定文化財) 善光寺3丁目 甲府市 山梨県

5間3戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4(1766)年に上棟式が行われた。両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すりつきの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗りの丸柱と白壁、銅板葺きの屋根などからかもし出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができ……

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5間3戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4(1766)年に上棟式が行われた。両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すりつきの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗りの丸柱と白壁、銅板葺きの屋根などからかもし出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。 昭和63年3月

山梨学院前の通りにもどり、右に峠をこえていくと眼下の町並みの中に善光寺本堂の甍が見える。坂を下り、ポンポコ塚という古墳の傍を通って甲斐善光寺の朱塗りの山門前に出る。圧倒的な寺門だ。武田信玄が上杉謙信との戦いで、長野善光寺が焼かれることを心配してその本尊を疎開させたという。

善光寺 善光寺3丁目 甲府市 山梨県
善光寺 善光寺3丁目 甲府市 山梨県

境内には多くの石地蔵、その中には頬にするどい切り傷を負った丸顔の地蔵がいた。やくざにナイフで切られた顔である。池畔に「芭蕉翁月景塚」の石碑が立ち「月かげや 四門四宗もただひとつ」と刻まれている。更科紀行で信州善光寺にて詠んだ一句である。その奥に露座の大仏もいた。

旧家 城東5丁目 甲府市 山梨県
旧家 城東5丁目 甲府市 山梨県

本来の参道である善光寺通りで街道にもどる。すぐに身延線のガードをくぐりきれいに残る鉤の手をすぎると右手に、黒々とした塗籠造りの石川家住宅がある。ガラス戸だけが今のものに替えられているが、門つきの重厚な建物である。このあたりが甲府柳町宿の東口であった。

街道は城東通り(国道411号)を西にすすみ次のやや大きな鉤の手に突き当たる。その北にある身延線の駅名も金手(かねんて)で、この街道の形に由来している。

直角に左右に二回折れる道の形を「かぎのて」、「かねのて」、「かねんて」、という。曲がりっぱなしは単なる曲がり角で、クランク状に元の方向に進んでいく形に特徴がある。立体化すれば、川の流れの勢いをそぐ堰止めに似ている。書き方はまちまちで、「矩の手」、「鉤の手」、「鍵の手」、「曲尺手」などを見る。私は「かぎのて」と入力して漢字はパソコンの変換するにまかせている。また「枡形」は一の門と二の門を直角に配し、他の二辺を柵や石垣で囲った方形(枡形)の空間のことをいい、道筋だけをたどれば鉤の手となっている。皇居の大手門、桜田門は枡形の典型だ。一方、水戸は門や木戸のない曲尺手の連続だった。

山口素堂句碑 山口 上教来石 白州町 北杜市 山梨県
山口素堂句碑 山口 上教来石 白州町 北杜市 山梨県目には青葉 山ほととぎす 初かつお

二つ目の金手が西におれる角に尊躰寺がある。ここに甲斐奉行大久保長安と山口素堂の墓があると聞いてやってきた。大久保長安の墓は境内前庭ですぐにみつかったが、山口素堂の墓が一向にみつからない。広い墓地は先祖代々の墓石でいっぱいで、その中から山口家の墓をみつけるのに墓地をほぼ一巡りした。おおざっぱにいうと、墓地入口からみて、左前方にある。「目には青葉山ほととぎす初がつお」の句で知られる山口素堂は甲州と信州の国境に近い山口集落に生まれた。今日のうちにそこを通っていく。

大久保長安は多彩な人物で、甲州街道では八王子でも活躍した。それよりも今は、世界遺産となった石見銀山の立役者として、当地ではさぞかし人気を博していることであろう。

次に左折するのはNTT甲府支店西の交差点で、ここから通りの名が遊亀通りとなる。交差点の一筋手前に天正10年(1582)創業の老舗「印伝屋」が本店を構えている。商品は鹿のなめし革に漆で装飾した袋もので、その技術は古くインドから伝わったといわれている。最初、私はハンコ屋かなんかと思っていたが、印伝屋は「インディア=INDIA」の当て字だった。

遊亀通りの中ほどから西にでている銀座通りはさびしい限りである。右手に小さな柳町大神宮がある。宿場名にある柳町がここだが、甲府の町は空襲で壊滅し(石川家住宅は奇跡的な生き残り)、宿場の影は残っていない。

問屋街 向かい 中央4丁目 甲府市 山梨県
問屋街 向かい 中央4丁目 甲府市 山梨県

「問屋街入口」交差点を右に折れる。東側が連雀問屋街で、西側は風俗店の隣に二軒古い店屋があった。突き当りを左折する。ここも鉤の手の道だ。西にのびる路地は「南銀座」とあるが、早朝サービスの客引きが立つ歓楽街の雰囲気だった。突き当りを右折してようやく大きな道に出た。相生歩道橋で西に方向転換する国道52号がこれからの旧甲州街道である。

寄り道

武田信玄像 甲府駅前 丸の内1丁目 甲府市 山梨県
武田信玄像 甲府駅前 丸の内1丁目 甲府市 山梨県
舞鶴城 丸の内1丁目 甲府市 山梨県
舞鶴城 丸の内1丁目 甲府市 山梨県

甲府は城下町でもある。甲府駅南口に武田信玄がどっかと腰を据えている。そこから東へあるいて数分のところに甲府城(舞鶴城)がある。武田家の城は、信玄の父信虎のときに建てられた躑躅ヶ崎館で、信玄は新しい城を築かなかった。舞鶴城は武田家滅亡後、豊臣秀吉の命により築かれたものである。享保12年(1727)の大火で城は本丸御殿など大きく焼失し、その後再建もされずに放置された。今は残された城跡が舞鶴公園として整備されている。

富士山夕景 舞鶴城より 丸の内1丁目 甲府市 山梨県
富士山夕景 舞鶴城より 丸の内1丁目 甲府市 山梨県

城跡をたずねたのは西の空が茜色に染まる頃だった。天守台から南の尾根越に夕日を受けた富士山を望むことが出来る。望遠レンズに取り替えて、じっと富士の峰が赤らむのを待った。東の空には十三夜の月が上っている。夕暮れ時の城跡公園には時々散歩の二人連れが出入りするだけで、静かな時間が流れていた。

韮崎

聖牛 信玄堤 釜無川 竜王 甲斐市 山梨県
聖牛 信玄堤 釜無川 竜王 甲斐市 山梨県

富士川は日本でも有名な急な流れの川です。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。現在のようにコンクリ一トも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことでした。 この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法のひとつで、戦国時代のこの甲州が発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように貝えるためこのような名前がついた……

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富士川は日本でも有名な急な流れの川です。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。現在のようにコンクリ一トも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことでした。 この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法のひとつで、戦国時代のこの甲州が発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように貝えるためこのような名前がついたといわれます。 「聖」の意味ははっきりしませんが、現代風|こいえぱスーパーとかウルトラという意昧だろうともいわれています。 聖牛は、大きさで「大聖牛」、「中聖牛」、「聖牛」の3つに分類され、ここに設置されているものは「中聖牛」の大きさのものです。

国道52号、愛称「美術館通り」を西にすすみ、ミレーの「落ち穂拾い」で知られる県立美術館をすぎ、高速道路のガードを過ぎると甲府市から甲斐市に入る。旧街道はこの先、「竜王駅前」交差点の次の「竜王新町」信号を右折するが、私はそのまま進んで釜無川に架かる信玄橋へ出た。その右手堤防が「信玄堤」として公園化されている。信玄は武将として名高いだけでなく、治水事業にも力を入れた政治家でもあった。信玄の治水事業で画期的だったのは「聖牛」とよばれる河川工法で、洪水の勢いを弱めるために、杭を三角形に組み合わせて川底に据えたものである。現代の波消ブロックのはしりといえる。

釜無川 竜王 甲斐市 山梨県
釜無川 竜王 甲斐市 山梨県櫛形山 農鳥岳 夜叉神峠 大崖頭山 千頭星山 辻山 薬師ヶ岳 観音ヶ岳 地蔵ヶ岳 甲斐駒ヶ岳

駐車場には大型バスが休んでいて、土手には思い思いに陣取って絵筆をはしらせる絵画クラブらしき中高年グループと、先生の説明をきく車座の小学生集団がいた。川の遠方には南アルプスの一翼をなす山並みが尾根を連ねている。さらに南アルプスの向こうには、天竜川の流れが削った伊那谷が隠れているはずだ。

国道20号をわたり、中央線踏み切りをこえ、慈照寺の前を通って旧街道にもどった。赤坂を上りきったところで、竜王新町から下今井(横町)にはいる。むかし、この峠に三軒茶屋があった。今はラブホテルがかたまっている。そのうちの一つ、ホテルシルビアの前をいくのが旧道である。

家並み・道標 横町 下今井 甲斐市 山梨県
家並み・道標 横町 下今井 甲斐市 山梨県
寺町 下今井 甲斐市 山梨県
寺町 下今井 甲斐市 山梨県

峠下の横町からはじまり寺町、仲町、上町とつづく下今井の集落は海鼠壁の土蔵や立派な家が並ぶ落ち着いた町並みである。特に寺町の坂に構える、海鼠壁蔵造りの長屋門は目をみはらせる存在感を発散していた。横町から寺町にはいる角に庚申塔を兼ねた道標がある。弘化3年(1846)の銘があり「右市川駿(河) 左甲府江(戸」」と刻まれている。最後の一字は地面の中である。

泣石 鴫石 下今井 甲斐市 山梨県
泣石 鴫石 下今井 甲斐市 山梨県

下今井字鴫石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約12.8m、巾約2.7m、奥行約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流した……

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下今井字鴫石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約12.8m、巾約2.7m、奥行約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言伝えがある。 甲斐市教育委員会

高速自動車道と中央線の高架をくぐり複雑怪奇な「下今井」信号交差点を右から右に伝って、県道6号に乗る。すぐ右手に「泣き石」という大きな岩がある。

旧韮崎宿家並み 井筒屋醤油(中央) 本町2丁目 韮崎市 山梨県
旧韮崎宿家並み 井筒屋醤油(中央) 本町2丁目 韮崎市 山梨県

塩崎駅前を通り過ぎ、塩川橋を渡ると韮崎市に入る。 街道は橋西詰信号を右に曲がり線路沿いに韮崎宿にはいっていく。下宿をすぎ本町2丁目から1丁目にかけて宿場が開けていたのだろうが、ここもその名残はほとんどなく、わずかに古風な看板を掲げる井筒屋醤油店とその両隣に蔵造りらしさを感じさせる建物があるくらいである。

韮崎宿本陣跡 本町1丁目 韮崎市 山梨県
韮崎宿本陣跡 本町1丁目 韮崎市 山梨県本陣とは江戸時代、大名や幕府役人に備えた宿舎をいう。甲州街道は伝馬制(当宿は人足25人、馬25頭を常備して幕府役人や諸荷物を次の宿駅まで順送りする)により、問屋場を設け運営に当たらせた。韮崎宿は諸大名の通過はあったが、日程の関係で宿泊はごくわずかで本陣は問屋が兼務した跡である。

千野眼科医院が韮崎宿本陣跡である。標石の説明書には「韮崎宿は諸大名の通過はあったが、日程の関係で宿泊はごくわずかで本陣は問屋が兼務した跡である」とある。韮崎から次の台ヶ原宿までは19km、甲府宿からここまでが13kmという、甲州街道では1、2の長丁場である。おそらく諏訪を発った旅人は台ヶ原で一夜をすごし、二日目は甲府までいったのであろう。

平和観音 富士見が丘1丁目 韮崎市 山梨県
平和観音 富士見が丘1丁目 韮崎市 山梨県

昭和33年春彼岸、七里岩南端に慈愛にみちた観音さまの御姿を夢見る恵の兆しを同士にはかり、観音様の建立を思い立った発案者が、市民の平和と無限の発展を祈り次代を担う子供達の強く正しい成長、、また、皇太子殿下の御成婚を記念してこの地を選び着工しました。。2年と2ヶ月を要し、昭和36年10月13日落慶開眼、多くの市民の浄財と協力により完成後、昭和50年2月に韮崎市へ寄附採納されました。 柔和な顔に 乳房が……

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昭和33年春彼岸、七里岩南端に慈愛にみちた観音さまの御姿を夢見る恵の兆しを同士にはかり、観音様の建立を思い立った発案者が、市民の平和と無限の発展を祈り次代を担う子供達の強く正しい成長、、また、皇太子殿下の御成婚を記念してこの地を選び着工しました。。2年と2ヶ月を要し、昭和36年10月13日落慶開眼、多くの市民の浄財と協力により完成後、昭和50年2月に韮崎市へ寄附採納されました。 柔和な顔に 乳房が若干大きいのが特徴 であり、高崎(群馬県)、大船(神奈川県)の観音像と合わせ関東三観音の一つといわれています。身長16.6m(台座を含めると18.8m)

七里岩・釜無川 日野 長坂町 北杜市 山梨県
七里岩・釜無川 日野 長坂町 北杜市 山梨県

市役所あたりから右手の高台に、色づきはじめた木々に下半身を隠した平和観音の優美な姿が眺められる。観音が立っている場所は七里岩といわれる丘陵の南端にあたる。そこから北西の方向に延々30kmにおよぶ細長い台地だ。大昔、八ヶ岳連峰の火山活動によって流れ出た火砕流が形成した台地に、南側を流れる釜無川が侵食して、高さ40mの断崖を作り出した。上部台地は幅2kmほどで、形が韮の葉に似ていることから、その先端にあたる観音の立っている辺りを「韮崎」と呼ぶようになった。JR韮崎駅のホームから目にした観光案内からの引用と断っておくが、この平和観音は「乳房が若干大きいのが特徴」である。市役所からはそれがよくわかるアングルにある。

七里岩 下祖母石(うばいし) 韮崎市 山梨県
七里岩 下祖母石(うばいし) 韮崎市 山梨県

「青坂入口」の二股を左にとって「一ッ谷」信号で国道20号に合流する。次の宿場まで20kmほどもあるので少し足早に歩く。

武田信玄による治水工事の事蹟として、釜無川堤防の根固めに並べ据えたという「十六石」の石標がある。すこし離れて一個ある石がそうかな?

民家 下祖母石 韮崎市 山梨県
民家 下祖母石 韮崎市 山梨県

水難供養塔が立つ二股で旧道は右にとって下祖母石(うばいし)集落にはいる。最初のうちは住宅団地のようでおもしろくなかったが途中から海鼠壁、板壁長屋門、茅葺門など、古いたたずまいの民家が次々に現れた。下今井もそうだったように、甲州街道では宿場間の旧道にのこる集落のほうに、宿場街以上の古い町並みをみることが多い。

下祖母石と上祖母石の境付近にある桐沢橋の東方向、七里岩の上に武田勝頼が最後の砦にと築いた新府城があった。旧街道はここで反対方向の桐沢橋に向かう。

台ヶ原

牧原 武川町 北杜市 山梨県
牧原 武川町 北杜市 山梨県

旧道は桐沢橋を渡って県道12号に出る。円野郵便局前で国道20号に合流し、すぐに右の旧道にはいって上円井(つぶらい)集落を抜ける。再び国道にでて韮崎・北杜市境の小武川(こむかわ)を渡る。橋を渡ってすぐ右にはいり武川町宮脇の集落を通る。「甲州街道一里塚跡」の新しい石碑をみて国道にもどると、まもなくその先で道が二つに分かれていて、間に海鼠壁蔵風の「武川村 米の郷 武川農産物直売センター」が建っている。

バス停には「村の駅」「町の駅」二種類の停車場名が記されていて、まだ最近の市町村統合の整理が終わっていない状態だった。2004年に北巨摩郡武川村は北杜市武川町となった。町の駅の右側が旧道で、牧原(まぎはら)集落に入る。旧街道は牧原集落をぬけ、国道に合流して大武川橋を渡ると、すぐに左にはいって下三吹(しもみふき)をぬけていく。その集落の萬休院に国指定天然記念物の名木「舞鶴松」があるとのことだったが、偶然昨夜のローカルニュースで、松の枯れ死宣言と天然記念物指定解除のことが報じられていた。

台ヶ原宿家並み(日本の道百選) 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県
台ヶ原宿家並み(日本の道百選) 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県

国道を横切って今度は右側につづく上三吹を通り過ぎる。韮崎の一ツ谷で国道20号にのって以来、右や左に国道を分けながら懐かしい家並みをのこす集落をいくつも通り抜けて、5里近くの長丁場を歩いてきたが、ようやく次の宿場、台ヶ原にたどりついた。ここは「道百選」に選ばれている甲州街道で一番の本格的な宿場である。

台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県
台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県

「台ヶ原下」信号の二股に「日本の道百選台ヶ原宿」の看板がある。右手に入っていくと早速、常夜灯や道祖神など石仏が一ヶ所に集められていて、道祖神には家畜の焼印のように、⑰番号がうたれている。パンフレットや案内板との連係プレーだと思うが、そこまでしなくても、と思わないでもない。あるいは道百選の選考委員からすすめられたか。台ヶ原宿の意識はそれほど高かった。

台ヶ原宿本陣屋敷(旧小松家)跡 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県
台ヶ原宿本陣屋敷(旧小松家)跡 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県

台ケ原宿の歴史と由来 台ケ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ…」とあり、台ケ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。 元和4年(1618)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ケ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。 台ケ原宿は江戸への里程43里10町余、韮崎宿へ4里、隣の……

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台ケ原宿の歴史と由来 台ケ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ…」とあり、台ケ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。 元和4年(1618)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ケ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。 台ケ原宿は江戸への里程43里10町余、韮崎宿へ4里、隣の教来石宿ヘ1里14町、江戸より数えて40番目、宿内の町並みは東西9町半の位置になり、天保14年の宿村大概帳によれば、人口670人、家数153、(加宿共)とされています。(中略) もう一つの重要な機能は、旅行者の休息と宿泊です。 寛永12年3代将軍家光によって参勤交代制が定められてから、大名や上級家臣が宿泊するのは本陣、脇本陣で、一般の家臣や庶民が宿泊するのは旅籠屋でした。 甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の3藩が利用していました。 特に街道を賑わしたのは、 1.天明3年の浅間山の大噴火によって、中山道が閉鎖となり、甲州道中の通行量が増大した。 2.寛永9年(1632)から元文3年の間、将軍飲用のお茶壹道中の通行が行われ、宿内の田中神社に一行が宿泊された時。 3.中馬(農民の馬による荷物輸送)が発達して物資の交流が激しくなり、当時の宿場は多忙を極めました。

古街道の右も左も趣ある旧家で満たされている。中ほどの交差点あたりが宿場の繁華街で、本陣・問屋⑩・高札場⑪・水飲み場・火の見櫓が集まっていた。大きな常夜灯のある場所が本陣小松家跡⑭だが、後ろの家もその西隣も新しい家で、古い民家や商家がならぶ台ヶ原宿場のなかでは景観として本陣付近が一番見劣りする。

銘酒七賢(山梨銘醸株式会社) 台ヶ原2283 白州町 北杜市 山梨県
銘酒七賢(山梨銘醸株式会社) 台ヶ原2283 白州町 北杜市 山梨県

大きな杉玉が下がった家が「銘酒七賢」の造り酒屋、山梨銘醸である。高遠の酒屋から分家した北原家で、宿場の脇本陣をつとめた豪商であった。その時代の建物が西に隣接して残されており「明治天皇菅原行在所」の碑がた立っている。

七賢の斜め前の「金精軒」も明治35年(1902)創業の和菓子の老舗である。夕飯時でも「信玄餅」を求めて出入りする客が多かった。

田中神社 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県
田中神社 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県

お茶壷道中 と当社の由来 お茶壷道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。 行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。このお茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らねばならないほど格式の高い行列……

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お茶壷道中 と当社の由来 お茶壷道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。 行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。このお茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らねばならないほど格式の高い行列てあった。 資料によれは、このお茶壷行列は、中仙道奈良井宿や下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国志には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壷一泊ノ処ナル故二修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写二御茶壷毎年当社拝殿御一泊候問拝殿並二御番所柱壁等落書一切仕ル間敷候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壷道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。 平成十六年十月吉日 台ケ原区

田中神社は茶壷道中の一行がその拝殿に宿泊したところである。茶壷道中についての詳しい説明板があった。徳川家光のころ、毎年茶摘の季節になると使者を派遣して江戸から東海道を下って京都宇治まで、新茶を採りに行った。帰りは茶壷をかかえて中山道から甲州街道経由で江戸まで行列を組んで帰還したのである。静岡にも立派なお茶が栽培されていただろうに、現代の常識では考えられない優雅な貴族趣味がまかりとおっていた。

一里塚跡 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県
一里塚跡 台ヶ原 白州町 北杜市 山梨県

その先に「台ケ原一里塚跡碑」が建てられている。焼印は②であった。

白須 白州町 北杜市 山梨県
白須 白州町 北杜市 山梨県

台ケ原宿を抜け、白州集落を通り過ぎる。畑中の道をたどって前沢のさきで一旦国道にでたのち、松林の中を神宮川をわたりサントリー白州製樽工場の前をすぎて再び右の旧道にはいる。

教来石(きょうらいし)

下教来石 白州町 北杜市 山梨県
下教来石 白州町 北杜市 山梨県左手に 明治天皇御小休所跡碑

旧道は松原、荒田の集落をぬけていく。右手に七里岩と、その上に八ヶ岳が頭をのぞかせるのんびりした道を行く。流川橋を渡り趣味の古道具店を通り過ぎると下教来石(しもきょうらいし)宿である。難しい「教来石」の名の由来については日本武尊にまつわる話が伝わっていて、それに関わった石が現存しているということだが、探さなかった。

諏訪神社 下教来石 白州町 北杜市 山梨県
諏訪神社 下教来石 白州町 北杜市 山梨県諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでなやが、古来から教来石村の産土神として崇敬を受けてきた。 現在の本殿は、天保15年(1844)12月19日再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四郎富昌である。 本殿は一間社流造で、周根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつける。 建築の物色は、随所に施された彫刻装飾にある。以下略 山梨県教育委員会
「明治天皇御田植御通覧之址」碑 下教来石 白州町 北杜市 山梨県
「明治天皇御田植御通覧之址」碑 下教来石 白州町 北杜市 山梨県

国道「下教来石」信号からはじまる宿場はすぐ左手の空き地に「明治天皇御休所址」の碑が立つ本陣跡のほか見るものはない。郵便局の横から旧道に入っていくと左手に諏訪神社が、さらにすすむと「明治天皇御田植御通覧之址」の石碑がある。街道は台地の端を走っているようで、右手にはながながと延びる七里岩の前に収穫をおえて体をやすめる田園が広がっている。

山口関所跡 上教来石 白州町 北杜市 山梨県
山口関所跡 上教来石 白州町 北杜市 山梨県

甲州二十四ケ所のロ留番所の一つで、信州ロを見張った国境の口留番所である。 ここがいつ頃から使用ざれたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖のロ留番所から移ってきた。こ……

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甲州二十四ケ所のロ留番所の一つで、信州ロを見張った国境の口留番所である。 ここがいつ頃から使用ざれたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖のロ留番所から移ってきた。この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げちれ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び幟に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ケ原屯所の初代屯所長に起用されている。今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取氏宅に保存されている。

道は下って、加久保沢橋をわたったところで上教来石に入る。明治天皇の「お膳水跡」をすぎて教慶寺の前で一旦国道にでるがすぐに右斜めに離れて、国境の町山口に向かう。ここで山口素堂が生まれた。集落のおわりに山口関所跡がある。甲斐24関の一つで、信濃との国境に設けられた。関所の説明板に、天保7年(1836)の甲州僧騒動の時にこの番所を開門してとがめられ、職を解かれた二人の番士の名がでている。一人は外もので、他の一人は地元の名取氏だった。理由は書かれていないが、後、外ものの番士は復職して明治までつとめた。道向かいの「西番所跡」の石碑には、「責任をとり名取慶助は若尾と改姓」と、若尾氏自身が書いている。

国界(甲州・信州国境) 山口 上教来石 白州町 北杜市 山梨県/下蔦木 富士見町 諏訪郡 長野県
国界(甲州・信州国境) 山口 上教来石 白州町 北杜市 山梨県/下蔦木 富士見町 諏訪郡 長野県

山口集落に名取姓が多い中で、おれも名取だったのだよと、いわんばかりでおかしかった。

まっすぐの畑中の道をいそいで、国境に到達する。国道沿いのコンビニの前に山口素堂の大きな句碑がある。

(2007年11月)

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