江戸深川-箱根-富士川-大井川-小夜の中山-伊勢-久居-伊賀上野
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芭蕉が自宅の釣月庵(ちょうげつあん)に引きこもって書き上げた処女作「貝おほひ」を産土神上野天満宮に奉納し江戸に旅立ったのは寛文12年(1672)春、芭蕉29歳のことであった。
本船町小田原町安針町 等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み , 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後慶長のころほひ幕府に……
本船町小田原町安針町 等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み , 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以て, これを一般に販売するに至り, 漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ, 市場の形態漸く整ふ, さらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ, 従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり, かくしてやがて明治維新の変革に堪へ, 大正12年 関東大震災の後を受けて, 京橋築地に移転 せざるのやむなきにいたるまで, その間じつに三百余年, 魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として, よく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするをえたり, すなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの, われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず, ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。 東京に江戸のまことのしぐれかな 昭和29年3月 旧日本橋市場関係者一同に代わりて 日本芸術院会員 久保田万太郎 撰 日本芸術院会員 豊道慶中 書
芭蕉は小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の家に身を寄せた。小田原町は本船町、安針町と共に日本橋魚河岸市場を形成し、魚問屋が軒を連ねる繁華の地に住みついた芭蕉は日本橋商人と交友を広めていった。その中で後ほど芭蕉庵を提供する小田原町魚問屋杉山杉風とも懇意になる。延宝2年(1674)春に伊賀上野へ初の帰郷、つづいて延宝4年(1676)6月20日には二度目の帰郷をしている。
発句也松尾桃清宿の春 松尾芭蕉は寛文12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時桃清と称して芭蕉は日本橋魚市場にまぢかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠……
発句也松尾桃清宿の春 松尾芭蕉は寛文12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時桃清と称して芭蕉は日本橋魚市場にまぢかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。
桃青は日本橋を拠点として俳壇における地歩を固めていき延宝6年(1678)には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのが次の句である。
発句也松尾桃清宿の春
その句碑がト尺宅跡地の鮒佐玄関前にある。
深川芭蕉庵旧地の由来 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され……
深川芭蕉庵旧地の由来 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤1丁目を旧蹟に指定した。昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽した。しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。 昭和56年3月吉日 芭蕉遺蹟保存会
延宝8年(1680)37歳の時、芭蕉は宗匠の地位を捨て侘びと風雅を求めて杉風からもらった深川村の番小屋に移り住む。天和元年(1681)門人の李下が芭蕉一株を贈ったところ芭蕉は見事に茂って、近所の人々はこの小屋を「芭蕉の庵」と呼んだ。桃青はこのころから「芭蕉」を名乗るようになる。

深川村は慶長元年(1596年)摂津からやってきた深川八郎衛門が干拓したものである。干拓者の姓をとって村の名とした。一帯は漁村で、魚の生け簀があった。幕府の魚御用商人であった杉山杉風(鯉屋市兵衛)が、その生け簀番小屋のひとつを芭蕉にゆずった。浜ではアサリがよくとれた。アサリの出し汁をご飯にぶっかけたものが深川めしとして名物になった。深川不動、深川江戸資料館付近に深川めしを食べられる所が多い。
川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。(中略)建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後 として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。 平成14年十月 江東区教育……
川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。(中略)建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後 として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。 平成14年十月 江東区教育委員会
天和2年(1682)12月、江戸駒込大円寺の大火(八百屋お七の火事)で芭蕉庵が類焼、半年ほど甲斐に逗留した後江戸に戻る。そんな中天和3年(1683)6月20日郷里の母が死去したというしらせを受けた。同じ年の冬、万年橋畔の船番所近くに新庵ができあがった。
新庵で春を迎えたものの、漂白の思いやまず8年ぶりに郷里に向かって旅立つこととなった。母の墓参を兼ねる旅でもあった。その思いつめた心情を芭蕉は「野ざらし」と書き下した。それから5年後、旅の集大成としての奥の細道の旅に出る時、前文でこんなことを回顧している。「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、・・。」「いづれの年」とはおそらく母の死から野ざらしの旅を決意するまでの1年間のころではなかったかと想像する。
資料1
千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年却て江戸を指す故郷
貞享元年(1684)8月、41歳になった芭蕉は隅田川のあばら屋を立つ。いつもなら大好きな仲秋の名月観賞にでかける季節なのだが、今年ばかりは風の音がちと違って寒い思いがするのだった。私は思いつめているのだよ。今度の旅では骸骨を野辺にさらすことになるかもしれないと。
野ざらしを心に風のしむ身かな
江戸に出てきてから12年になる。故郷に向かう旅というのに、かえって江戸が恋しくなってしまう。でも私は決めたのだ。漂白の旅を住処とすると。
秋十とせ却て江戸を指す故郷
かって箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目の河岸地を幕府より借り受け、江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人々が、この水路を利用しました。 平成14年3月 中……
かって箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目の河岸地を幕府より借り受け、江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人々が、この水路を利用しました。 平成14年3月 中央区教育委員会 稲荷堀(とうかんぼり) 小網町と蛎殻町1丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集まり、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入り口にあった行徳河岸は、寛永9年(1632)以来、この堀と下総行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。この堀は、最古の江戸図ともいわれる「寛永江戸図」にも、見られます。また、この堀に沿って酒井雅楽頭の屋敷があり、幕末までありました。姫路藩15万石の藩主として知られています。酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治6年(1873)10月まで西郷隆盛の屋敷となりました。なお、東華小学校(現、日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。 平成9年3月 中央区教育委員会

芭蕉は隅田川を渡って日本橋に出、東海道を上る。芭蕉庵から日本橋までどこを通ったか。一番の近道を探ってみよう。現在の箱崎地区の首都高速6号高架下を箱崎川が流れていて芭蕉庵の目の先で隅田川と合流していた。箱崎川と日本橋川の交差点に行徳河岸があって千葉方面への水運の拠点になっていた。芭蕉はその行徳河岸で船をおりたか、あるいはそのまま日本橋まで行ったと思われる。

日本橋河岸界隈には杉風やト尺など知り合いが沢山居て、おそらく多くの人に見送られたのではないかと思う。奥の細道に随行した曽良のような有能な秘書でなく今回同行するのは大和国竹内村出身の千里という門人で、よく世話をしてくれるが、詳しい行程を記録するという気のきいたことはしなかった。したがって道筋、宿泊先、日程等は奥の細道に比べるときわめて大雑把である。野ざらしを覚悟の旅だからそのほうが却ってふさわしいのかもしれない。
資料2
関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。
深川や芭蕉を富士に預行 千里

品川、藤沢、小田原と大雑把に通り過ぎて、天下の難所箱根峠をなんとか登り詰めた。江戸から小田原まで、箱根駅伝の距離約110kmを参考にすれば、芭蕉は3日目に小田原に着いたものと推定する。箱根8里を越えるのにまる一日、4日目の宿は三島か沼津に取ったのではないか。

翌日は天気に恵まれず富士どころか箱根外輪山の山並みも見えなかった。それもまた一興だと苦し紛れの一句を詠んだ。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
箱根関所は、芦ノ湖に屏風山が迫り、最も平地が狭い場所にあります。箱根関所が開かれたのは、江戸時代、元和5年(1619)のことといわれています。徳川幕府によって全国に設置された53箇所の関所の内、 新居(静岡県)、碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)とともに四大関所 の一つとして重要視され、明治2年(1869)、関所制度が廃止されるまで、人質として江戸に置いた大名の妻子の帰国を取り締まるため、「出女」……
箱根関所は、芦ノ湖に屏風山が迫り、最も平地が狭い場所にあります。箱根関所が開かれたのは、江戸時代、元和5年(1619)のことといわれています。徳川幕府によって全国に設置された53箇所の関所の内、 新居(静岡県)、碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)とともに四大関所 の一つとして重要視され、明治2年(1869)、関所制度が廃止されるまで、人質として江戸に置いた大名の妻子の帰国を取り締まるため、「出女」に対し厳しい監視の目を光らせました。箱根関所の周辺の山々は、地元の人たちも立ち入りを禁止されており、また、木柵が設けられるなど、厳重な警備がなされていました。さらに、箱根は東海道で江戸に最も近い要塞の地として、箱根のほか、根府川(小田原市)、矢倉沢(南足柄市)、仙石原(箱根町)、川村(山北町)、谷ヶ村(山北町)にも関所を置くなど、箱根山全体で江戸の防衛にあたりました。
芦ノ湖畔から国道1号を南に進み左手に出てくる杉並木に入っていく。東海道としては唯一の杉並木だそうだ。静かな並木道を通りぬけると国道の反対側に関所資料館と箱根関所の跡がある。復元された番所には表情を変えない役人が正座していた。厳しいことでしられる箱根の関所だが芭蕉は難なく通り過ぎた。

箱根峠を越える。ロマンを抱いてたどりついた峠だが、標高846mの標識がある他、ガスステーションと閉鎖されたコンビニをみただけの、あっけない頂上感であった。

箱根峠を越えると伊豆の国に入り一路箱根西坂を降りていく。富士見平で国道を横切る角に東京上野の家具センターが建立した巨大な長方形の芭蕉句碑が立っていた。

芭蕉が富士山を見損ねたのはこの場所であったのか、それとも関所手前の芦ノ湖畔であったのかしらないが、富士見平とあるからここからも富士が望めたのであろう。私の場合、箱根であれだけくっきりと見えた富士がここからは見えなかった。方角をまちがっっていたか、それともかすかにかかる薄雲の向こうに隠れていたのか。見えないのも一興という気分にはなれない。
芭蕉はここで同行者千里を紹介して、思いやりがあって信義深い人物だとほめている。
千里は竹内街道終点である大和竹之内の出身、芭蕉と一緒に自分も帰郷しようという計画であった。芭蕉にほめてもらって千里も一句を返している。
深川や芭蕉を富士に預行 千里
見えない富士こそ面白い、とつれない芭蕉に対し、深川芭蕉庵での翁の生活は富士に預けることにして旅をしよう、と千里は富士山を持ち上げた。富士の姿は宝永山が左右の稜線の間に入る箱根から沼津の間が一番美しいとされる。延宝4年6月に二度目の帰郷をした際芭蕉は富士を詠んだ二句を残している。共に富士の美しい円錐形に魅せられた
富士の山蚤が茶臼の覆かな
雲を根に富士は杉形(すぎなり)の茂りかな
沼津から原を経て吉原に至る。吉原と次の蒲原宿の間を富士川が流れていた。
資料3
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。
小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。

富士川鉄橋の手前渡し場跡付近に水神社があり、境内には渡し場跡碑、常夜燈、道標、庚申塔などが集まっている。

芭蕉が富士川のほとりに捨て子を見つけたのはこの辺りか。一句を詠んだ後、食べ物を投げ与えて通り過ぎた。アフリカで餓死寸前の少女をじっとみつめる禿たかの写真でピューリツアー賞を受賞した報道カメラマンのことを思い出した。後日、なぜ彼は子供を救わなかったのかと、道徳家から非難を浴びた。戦場カメラマンがいちいち負傷した兵士に構っていたら仕事にならない。富士川のエピソードが事実であれ創作であれ、芭蕉はこの旅で蕉風を確立することにのみ関心があった。
慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行なわれました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。 「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。 平成2年2月1日 富士川町……
慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行なわれました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。 「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。 平成2年2月1日 富士川町教育委員会
野ざらし紀行随一のセンセーションを巻き起こした一句であるのに、それに縁る句碑が一つも見当たらないのは不思議というほかない。富士駅前の公園に文学碑があるそうだが、ぜひ子が捨てられそうな富士川渡し跡あたりに立ててもらいたい。

富士川の急流を渡って振り返ってみると白雪をかぶった富士がその神々しいまでの姿をみせていた。
沼津から蒲原、由比を経て興津までおよそ40km。当時の一日行程である。5日目の宿は興津だったと思える。
資料4
大井川越る日は終日雨降ければ、
秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里
馬上吟
道のべの木槿は馬に食はれけり

興津から江尻(清水)-府中(静岡)-丸子を経て宇津の谷を越えて岡部-藤枝まで40km足らず。島田まで行くのはちょっときつい。芭蕉は藤枝で泊まったとしよう。国道1号でいえば藤枝が日本橋からおよそ200kmの地点である。一日40kmなら5日目で来られる距離だが、峠や川越えを考慮すれば6日目の宿泊所として妥当なところであろう。

実は次の島田宿には塚本如舟という知人がいた。塚本如舟は元禄のころ川庄屋を務めた名家であり、俳人でもあった。元禄4年(1691)10月、長らく近江に滞在しての帰り道、芭蕉は初めて如舟の家を訪れている。

宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川
次に元禄7年5月芭蕉最後の旅の途中、島田で大井川の川止めにあい再び如舟邸に4日間も逗留している。
さみだれの雲吹きおとせ大井川
晩年懇意にしていたらしいが、野ざらしの旅のころはまだ知り合いでなかった。

明日の大井川越えを控えて二人はすこし緊張していた。夜が明けると心配していたように雨降っていた。江戸の人々は日にちを指折りかぞえて、今日は大井川あたりか、雨に降られているのではないかと話しているのだろうなと千里は思った。二人が島田で川止めを食らったのか渡りを決行したのか千里の句からは読み取れない。

大井川は駿河と遠江の境をなす大河である。江戸時代、治安防衛の観点から架橋や渡船が許されず、川越えは、肩車や輦台で行われ、日常的な降雨でも川止めとなるなど、東海道一番の難所と言われた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われたものである。
1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなけ……
1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険なことだった。 そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。 現在の蓬莱橋は、全長897m(平成9年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。
そんな大井川に明治の初め、対岸の牧ノ原とを結ぶ全長900mのすばらしい蓬莱橋がかけられた。平成になって「世界一長い木造歩道橋」としてギネスに認められた。腰高のスラリとした橋脚線美を見事な直線にならべ川をまたいだ壮大なラインダンスを想像した。
伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。芭蕉の号は深川の庵の回りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。芭蕉俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を新興文学たる俳諧の中に生かしたこと、つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。 道のべの 木槿は馬に 食はれけり 道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと食われてしまった。何事が起こったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう……
伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。芭蕉の号は深川の庵の回りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。芭蕉俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を新興文学たる俳諧の中に生かしたこと、つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。 道のべの 木槿は馬に 食はれけり 道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと食われてしまった。何事が起こったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう影も形も無い。唐突のようでもあり、当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。意識、心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる句である。 注 「野ざらし紀行」中の一句である。 金谷町教育委員会
川をわたると金谷宿である。駅のすぐ裏手の長光寺に芭蕉の句碑がある。
道のべの木槿は馬に食はれけり
「意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる」と難しい解説文があった。それほど深刻に考えなくても。


ムクゲの花は一日で落ちる。何をしなくても突然ポトリと落ちるのだ。なおこの句の原型となった句が久居で詠まれている。延宝4年(1676)6月、二回目の帰郷の折に久居で詠んだ句で、「道のべ」でなく、「道ばた」であった。つまりムクゲの一句は野ざらし紀行でのオリジナルでなくて、たまたまここに挿入した。あるいはたまたまムクゲを見て8年前の一句を思い出した。ムクゲの花は日本どこでも見られるためこの句碑は各地にある。
道端の木槿は馬に喰われけり
ここから箱根、鈴鹿峠についで東海道三大難所と言われた中山峠を越える。
資料5
廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙
今朝早く宿を出た時にはまだ空には21日の月が残っていた。数里を馬でやってきたがまだ、鶏の鳴き声が聞こえてこないとは、すごいことである。1里1時間として朝の2、3時頃に宿を出たのか。ちなみに藤枝から中山まで約20kmであって、大井川をすんなり渡れたとすれば時間と距離の関係が成り立つ。ただしそんな早朝から渡し場が営業していたかどうか。月齢と日付の関係について詳しくはないがもし今日が8月22日だとすれば芭蕉が江戸を立ったのは8月15日で、仲秋に出たことになる。

金谷宿をぬけ金谷坂の石畳を登り切り合流してくる車道をすこし戻ったところに明治天皇御駐輦阯の碑と芭蕉句碑がある。石は丸形の自然石で中央よりやや左に奇妙な一対の突起がある。腫れ物か、あるいは土偶の乳房か。
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟
この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣12ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、380間(約690m)あったともいわれています。しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損されたところもありますが、このように長さ161m、……
この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣12ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、380間(約690m)あったともいわれています。しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損されたところもありますが、このように長さ161m、最大幅4.3mを残しております。かっては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません。 島田市教育委員会
諏訪原城跡の先で今度は菊川坂の石畳を下る。江戸時代からの石畳で石に丸みがあって表情が愛らしい。菊川の里は小夜の中山を控えたひなびた山里である。江戸時代は日坂と金谷の間にあって間の宿として栄えた。古くは鎌倉時代から利用されていた古い宿場町である。静かな菊川の里を静かに通り抜ける。細い坂道を登っていき短い林をぬけると両側に茶畑がひろがる急坂が続く。右手に、島田・掛川市境を示す標識が立つ。
夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかっての掛川城主山内豊一が境内に茶亭を設け関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたことで知られています。境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわっています。 伝説 小夜の中山夜泣石 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云……
夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかっての掛川城主山内豊一が境内に茶亭を設け関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたことで知られています。境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわっています。 伝説 小夜の中山夜泣石 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂傀がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。 里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。 文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
これからたどる歌枕小夜の中山は多くの歌人によって愛された。それらの歌碑が旧東海道の道端に点々とある。長い坂を上りきると峠辺りに徳川家康ゆかりの久延寺が建つ。関ヶ原に向かう家康を掛川城主山内一豊はこの寺に茶亭を設けてもてなした。小屋におかれた丸石が有名な「夜泣き石」の一つである。一つということは他にもあるということで、本物は国道1号「小夜の中山トンネル」東口小泉屋の裏に置かれている。では久延寺にあったのはなにか。伝説を守るために同じような形をした丸石をどこかで調達してきたというしかない。小泉屋と久延寺は夜泣石をめぐって所有権確認訴訟で争い、久延寺が負けたという事実が残っている。
西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌の一つとされているのが、この一首である。 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山 23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年69歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼を受けて……
西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌の一つとされているのが、この一首である。 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山 23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年69歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼を受けて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山を越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代から交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから6年後の鎌倉幕府の開設以降である。以下略
久延寺の隣にある扇屋では久延寺の和尚が伝説の主人公お石の子供を育てるときなめさせたという子育飴を売っている。扇屋の斜め向かいが小夜の中山公園になっていてそこに巨大な西行の歌碑がある。
年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山

集落をぬけ沿道は再び明るくなる。右手遠方の粟ヶ岳の斜面に「茶」の一字が山肌に茶木で書かれている。左右、小夜の山中は今や見渡す限りの茶畑で、峠をこえてからは快適な遊歩道である。道は下り坂となり左手に佐夜鹿一里塚跡が現れる。説明板には日本橋から元禄ベースでいくと52里目、天保ベースでは54里になると、面白い。時につれ道は変遷している証拠である。

左に芭蕉句碑。金谷宿長光寺にあった句と同じである。
道のべの木槿は馬にくはれけり

白山神社の先で道が二又に分かれ、街道は左に進む。左に馬頭観音をみてその先200mほど行ったところの右側に「妊婦の墓」が、左側には「涼み松」がある。延宝4年6月下旬芭蕉二度目の帰郷の折、向かいの松の木の下でしばらく休んだ。そのとき西行を意識して詠んだ句である。旧暦6月下旬といえば今の8月初旬、一番暑い時期である。芭蕉も小夜の中山で西行なみに命なりけりであったことを言いたかった。

命なりわずかの笠の下涼み
その先にも芭蕉の句碑がある。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
金谷石畳の終わりにあった句碑と同じ句だが、場所的にはこの小夜の中山の方が原作地に近い。

その先の左手に「夜泣石跡」の標柱が立つ。広重の絵にあるように夜泣石は街道の真中に置かれて旅人の哀れを誘っていた。明治元年になって明治天皇の行幸に際し、邪魔になると道の脇に退かされた。久延寺が引き取り、東京の博覧会に出品された後、訳あって小泉屋が買い取った。説明板にある「現在の位置に移る」とあるのは久延寺でなく、小泉屋のことである。
東海道五拾三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重 小夜の中山 広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保水堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。 これらの続絵のなかの日坂……
東海道五拾三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重 小夜の中山 広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保水堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。 これらの続絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。
すぐ右手に広重の絵碑「小夜の中山峠」がある。この場所で描かれたとされるが左方の谷側は見晴らしがあって遠くに富士の山のような峰がえがかれている。実際の風景は左側は見通しがきかない林になっている。ところで広重の53次の元絵は司馬江漢だったという説がある。江漢の描いた小夜の中山は坂の勾配といい沿道の風景といい現在の風景とあまり変わっていないように見える。ただ一点、両者とも道の真中に夜泣石を描いていることを除いては。
難所小夜の中山を締めくくるのは「二の曲り」とよばれる曲がりくねった急な坂である。坂を下ると国道、旧国道を横切って日坂(にっさか)集落の旧道に入る。日坂の里から朝茶の用意の煙りが細く上がっているのが見える。日坂は小夜の中山の西坂に由来する。東海道で三番目に小さい宿場だった。
ここで芭蕉の紀行文は一挙に伊勢まで飛ぶ。名古屋地方には門人、知人が多くいたはずだが、彼らとの接触は後回しにしたらしい。伊勢参宮だけは済ませて一日も早く故郷に戻りたいという里心に支配されていたようだ。
伊勢までの標準ルートだけ示しておく。
朝早く出て小夜の中山をこえ日坂、掛川を経て袋井に着いた頃は日が暮れていたのではないか。袋井は品川宿から数えて27番目の宿駅に当たり、東海道53次ぎのど真ん中にあたった。切がよいので22日の夜はここに泊まることにする。
新居関所は今切の関所ともいい慶長5年の秋徳川家康が新居の に創設したが其の後津波のため元禄14年中屋敷に宝永5年現在の所に移転した。敷地は方約1町西に大門があって明六つに開き暮六つに閉じた。常備の武器は長柄10本弓及び鉄砲各25挺手錠取り縄三つ道具等があった。女鉄砲手負死人及び首等は証文がなくては絶対に通さなかった。始めは幕府の直轄であったが元禄15年吉田城主に移管して明治維新に至った。今の建物は……
新居関所は今切の関所ともいい慶長5年の秋徳川家康が新居の に創設したが其の後津波のため元禄14年中屋敷に宝永5年現在の所に移転した。敷地は方約1町西に大門があって明六つに開き暮六つに閉じた。常備の武器は長柄10本弓及び鉄砲各25挺手錠取り縄三つ道具等があった。女鉄砲手負死人及び首等は証文がなくては絶対に通さなかった。始めは幕府の直轄であったが元禄15年吉田城主に移管して明治維新に至った。今の建物は安政2年の改築で大正10年文部省から保護建造物に指定されたが昭和25年文化財保護委員会から史跡として指定され更に昭和30年8月特別史跡に指定された。 新居町
23日は袋井から見付宿を通りぬけ天竜川を渡る。浜松の城下町を経て舞坂宿から浜名湖を渡っていく。対岸には新居の関所が待っていた。6時までには入らなければならない。袋井からここまで10里なのでここに泊まる。
24日は白須賀-二川-吉田-御油を経て赤坂で泊まることにした。新居から8里ほどでちょっと短かめだが、ぜひここに泊まりたかったのだ。

ここの関川神社の鳥居横に私の句碑がある。8年前二度目の帰郷の折詠んだものである。
夏の月御油よりいでて赤坂や
夏の月の出ている時間の短さは、なんと御油から赤坂の間を過ぎる時間に過ぎない。御油宿から赤坂宿までは1.7kmと、東海道53次のなかで最も短い区間であった。

赤坂宿には多くの旅籠が飯盛女を抱えていた。どの旅籠にしてもいいのだけれど、一番大きく今も営業を続けている大橋屋に泊まることにしたい。明治の初めまで旅籠伊右衛門鯉屋とよばれた旅籠兼女郎置屋であった。提灯といい出窓の板といい、いかにも古びていて気に入った。
御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い 御油や赤坂吉田がなけりゃ親の勘当うけやせぬ
と歌われたように、吉田、御油、赤坂の三宿は飯盛女の多いことでしられていた。
25日は爽快な気分で昨日の遅れを取り戻しつつ 藤川-岡崎-池鯉鮒(知立)-鳴海-宮(熱田)と50kmほど頑張った。

藤川宿には紫麦が栽培されていて、芭蕉が詠んだ句として碑を建ててもらっているが、彼はいつ詠んだものか記憶がはっきりしていないという。
ここも三河 むらさき麦の かきつはた
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。 四面には、次のように刻まれている。 東 北 さやつしま(佐屋津島) 同 みのち(美濃路) 道 南 寛政二庚成年 西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ(名古屋木曽)道 北 南 京いせ(伊勢)七里の渡し 是より北あつた(熱田)御本社弐……
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。 四面には、次のように刻まれている。 東 北 さやつしま(佐屋津島) 同 みのち(美濃路) 道 南 寛政二庚成年 西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ(名古屋木曽)道 北 南 京いせ(伊勢)七里の渡し 是より北あつた(熱田)御本社弐丁 道 なお、この三叉路の東北隅には、これより32年前(宝暦8年)に建立された道標があった。 標示は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。 戦災で破損したが復元され、十mほど北側にある。 名古屋市教育委員会
熱田湊常夜灯 この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によっ……
熱田湊常夜灯 この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。 常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した。名古屋市教育委員会 時の鐘 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。中略 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。以下略
宮では七里の渡し場近くに宿を取った。寝る前に明日どちらにするか決めなければならないことがある。いよいよ伊勢路にはいるのだが、その出発点である桑名まで、行き方が二つあるのだ。一つはここから船で7里の海路を3時間ほどかけていくか、それとも佐屋街道で6里余り歩き、そこから船で3里の船旅をするかである。

佐屋街道は寛永年間、徳川家光のときに整備された。陸路佐屋まで来た旅人は佐屋湊で渡し船に移り、佐屋川を下り木曽川、揖斐川を横切って桑名に達した。この間約3里あり、7里の渡に対し3里の渡と呼ばれた。風や潮の干満によって航路が変わる7里の渡しよりも安全で短く、船旅に弱い旅人や女子供は3里の渡しを好んだ。
水鶏塚由来記 元禄7年5月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くいな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が、 水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこ……
水鶏塚由来記 元禄7年5月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くいな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が、 水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。とき正に享保20年5月12日のことである。 昭和35年大字佐屋故黒宮庸氏の御遺志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。(昭和60年3月26日 佐屋町文化財指定) 佐屋町教育委員会
今回は急ぎの旅であるので直接ここから伊勢湾を渡ることにする。なお芭蕉は元禄7年5月25日最後の帰省の際、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭に泊まっている。そのときの句が刻まれた句碑が水鶏(くいな)塚として建っている。
水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28km)あることから、7里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入ロにあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年問(1781~1789)に建てられました。 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で辰わい、……
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28km)あることから、7里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入ロにあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年問(1781~1789)に建てられました。 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で辰わい、桑名宿の中心として栄えました。昭和33年(1958)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。 桑名市・桑名市教育委員会
道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分れ道である。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。今……
道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分れ道である。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和50年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。 また、追分は東海道53次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。 「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。
桑名に上陸したのは26日の昼前であった。ここに伊勢神宮一の鳥居が建っている。参宮道の第一歩である。ここから伊勢神宮前まで21里余り。28日には伊勢に着きそうだ。四日市の先、日永で東海道と分かれて伊勢街道に入る。追分に伊勢神宮第二の鳥居があった。伊勢街道はそこから神戸(かんべ)、白子(しろこ)、上野、津、雲出(くもず)、松坂、櫛田、小俣(おばた)の8宿を経て伊勢神宮外宮門前町山田宿に至った。


桑名から8里ほど来た白子で日が暮れた。白子は伊勢参宮道の宿場町であると同時にその湊は伊勢商人の流通拠点として特産の染型紙や伊勢木綿が江戸に送り出された。宿場街には廻船問屋や型紙問屋の豪勢な町屋が軒を並べている。豊かな町のようだ。

27日。上野から芭蕉が若い頃仕えていた藤堂藩の津城下を通り抜け、雲出から小野古江の渡しを渡り小村縄手を行くと、やがて月本追分にさしかかる。右に行くのは、伊賀越え奈良街道である。伊賀と伊勢街道を結ぶ伊賀街道の脇道として古くから利用された。右角に伊勢街道最大の道標がある。天保13年(1842)の建立で、四面に「月本おひわけ」「右いがご江なら道」「右さんぐうみち」「左やまと七在所順道」と刻まれている。伊勢参りを終わったら故郷へはこの追分から奈良道を通って帰るつもりである。

六軒町と市場庄町にかけて、東海道関宿にも匹敵するすばらしい家並みが続いている。切妻・連子格子造りに庇を大垂で隠した古い家並には屋号札が掛けられて、昔の街道風情が感じられる。
阪内川をわたっると松坂である。蒲生氏郷が作り上げた城下町で一緒に移住してきた日野商人の影響を受けて松阪商人が育っていった。大きな町で、ここで泊まってもよいのだが、白子からここまでは36km。あと1里分頑張って櫛田で泊まることにしよう。

28日。いよいよ伊勢外宮まで3里余りである。斎宮の町を通り過ぎる。古代、天皇が即位する度に皇族の未婚女性の中から選ばれた斎王が伊勢に派遣されて伊勢神宮に仕えた。といっても平常は斎宮に滞在して、伊勢神宮に参宮したのは年に3回しかなかったという。斎王制度は天武3年(674)に始まり建武3年(1336)後醍醐天皇が廃止するまで約660年間の間に63人の斎王が選ばれた。それに随行した多数の女官の中には、望郷の涙に暮れたものも多かった。
旧跡宮川・桜の渡し(下の渡し) 宮川は、東国から来ても西国から来ても、神都伊勢に入る者はかならず渡らなければならぬ、伊勢最大の河川であった。 江戸時代のもっと昔から、小俣と山田宮川町を結んだのが「桜の渡し」であり、関東・東国あるいは京からの人々は参宮者も勅使もみなこの渡しによった。 春には桜花が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎えの看板が林立し、また、めでたく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道……
旧跡宮川・桜の渡し(下の渡し) 宮川は、東国から来ても西国から来ても、神都伊勢に入る者はかならず渡らなければならぬ、伊勢最大の河川であった。 江戸時代のもっと昔から、小俣と山田宮川町を結んだのが「桜の渡し」であり、関東・東国あるいは京からの人々は参宮者も勅使もみなこの渡しによった。 春には桜花が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎えの看板が林立し、また、めでたく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道中歌もひびいた。 人・かご・馬あるいは長持一棹何文と定めて、参宮の歴史のすべてを運んできた「桜の渡し」は、明治30年参宮鉄道の開通まで生きつづけました。
小俣宿を通り抜け宮古橋を渡ると宮川の堤防に突き当たる。土手に上がると川に向かって石畳が続き桜(宮川)の渡し場がある。堤防の桜並木は満開であった。

宮川をわたると道は急に狭くなった感じがして、沿道の家もそれにともなって間口がせまく込み合った家並みである。神域に近づいたせいなのか、圧倒的に妻入り家屋が目立つ。
資料6
松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。
腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て塵有、俗に似て髪なし。
我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず。
暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほの暗く、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風身にしむ計深き心を起して、
三十日月なし千年の杉を抱あらし
西行谷の麓に流有。をんなどもの芋あらふを見るに、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな、「あが名に発句せよ」と云て、白ききぬ出しけるに、書付侍る。
蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す
閑人の茅舎をとひて
蔦植て竹四五本のあらし哉
8月28日に伊勢に入った。
江戸時代前期にはじまり、お伊勢参宮とともに、全国にその名を知られた万金丹は、三百年以上に亙って家庭や旅行のお伴として皆様に親しまれてきました。 小西万金丹本舗は、伊勢国司・北畠教郷の家臣日置越後守清久に始まります。主家滅亡後清久は医道に志し、堺の小西家の秘方を譲り受け小西姓と改め、延宝4年伊勢国八日市場の地(現在の場所)に創業、以来16代にわたってこの地で営業してまいりました。 最盛期には四日市、……
江戸時代前期にはじまり、お伊勢参宮とともに、全国にその名を知られた万金丹は、三百年以上に亙って家庭や旅行のお伴として皆様に親しまれてきました。 小西万金丹本舗は、伊勢国司・北畠教郷の家臣日置越後守清久に始まります。主家滅亡後清久は医道に志し、堺の小西家の秘方を譲り受け小西姓と改め、延宝4年伊勢国八日市場の地(現在の場所)に創業、以来16代にわたってこの地で営業してまいりました。 最盛期には四日市、京都、江戸、近江草津、伊賀に出店を設け、享保年間には宮家より大和大椽の名を賜り、明治維新までの八代の間、小西大和大椽と称してきました。また、現在の店舗は江戸期伊勢に独特の宮大エによる『切妻造り』の代表的建築物として昔を今に伝えています。
ここでは松葉屋風瀑の屋敷で10日ばかり泊めてもらうことになっている。松葉屋風瀑とは伊勢神宮の御師と呼ばれる神職兼観光プロモーターで庶民におかげ参りを勧誘していた。桜の渡しで出迎え参宮者に宿を提供することも仕事のうちであった。大世古地区周辺には御師の屋敷が800軒もあったという。松葉屋もそんな中の一軒だった。
29日に半月ちかくの旅の疲れを癒した後、早速30日には外宮、内宮を参拝している。滞在中の足取りについては詳細がわかっていない。文脈から推測するに先に内宮にでかけたようである。

外宮から小田橋をわたり内宮への1里余りの道は古市街道ともよばれ、途中にある古市は江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大遊廓で知られ、全盛期には妓楼70軒、遊女1000人を数えたという。特に油屋・備前屋・杉本屋が古市の三大妓楼として有名だった。内宮参拝を目前に遊んだ不届き者もいただろうが、多くは参拝を済ませた精進明けの楽しみだった。

宇治橋を渡ろうとした時大鳥居の前で神官に止められた。僧の格好をしていたために神前に入ることを許されなかったのである。当時、神宮は仏徒を忌避して拝殿まで入れず、別に設けた僧尼拝所から遥拝させた。内宮の僧尼拝所は風日祈宮橋を渡ったところにあった。

しかたなく来た道をもどり外宮にお参りしたときは日が暮れていた。月末の30日とて月はなく闇に包まれた神宮の森には、樹齢千年とも思われる杉の巨木がそびえ立っている。
三十日月なし千年の杉を抱あらし
この谷の奥には、平安時代末期の歌人で有名な西行法師(1118~90)が一時住んだといわれる所があります。ここは、西行が二見の安養寺(度会郡二見町溝□・平成4年の発掘調査で平安時代-鎌倉時代にかけての建物跡・各種の土器・その他多くの木製品が出土)に住んだのち、この西行谷へ移つたと伝えられる場所です。西行が住んだ庵はどこかはっきりしませんが、谷に接して庵が営まれたような平坦地やその奥には小さな滝が落ち……
この谷の奥には、平安時代末期の歌人で有名な西行法師(1118~90)が一時住んだといわれる所があります。ここは、西行が二見の安養寺(度会郡二見町溝□・平成4年の発掘調査で平安時代-鎌倉時代にかけての建物跡・各種の土器・その他多くの木製品が出土)に住んだのち、この西行谷へ移つたと伝えられる場所です。西行が住んだ庵はどこかはっきりしませんが、谷に接して庵が営まれたような平坦地やその奥には小さな滝が落ちており、その雰囲気がしのばれます。
9月にはいったある日、朝熊山の麓にあるという西行谷を尋ねていった。西行は二見の安養寺に住んだのち、この西行谷の小庵に移ってきた。その後江戸時代のころまで庵は神照寺として尼が住んだ。今は県営陸上競技場の裏手に看板があるのみだが、川向こうの奥には小さな滝が落ちており、わずかながらその雰囲気を偲ぶことはできる。その川べりで芋を洗う女たちを見た。幻視だったかもしれない。芭蕉は常に西行を意識している。
西行谷の麓に流あり。 をんなどもの芋をあらふを見るに、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
西行ならば、きっと芋洗う女たちに歌を詠み掛けるだろう。
昔淀川河口の江口の里で西行と遊女の間で歌のやり取りがあった。今芭蕉は芋を洗う女を見て、情況を重ね合わせた。遊女と芋を洗う女とは情緒の面で天地の違いがあるが、芭蕉はそんなことは構っていなかった。
麻吉の創業は明らかでありませんが、天明2年(1781)の古市町の屋並図に記されているので、それ以前であることは確かです。もと花月楼といい、茶屋でありました。明治時代県下では珍しい3層楼として、伊勢音頭の舞台も持ち、芸妓も30人ほど常時抱えた県下第一級の大料理店でありました。麻吉の伊勢音頭は「つづら石」といい、近傍の巨大な名石を主題としたものでありました。現在4棟の中心建物があり、いわゆる崖造りで最……
麻吉の創業は明らかでありませんが、天明2年(1781)の古市町の屋並図に記されているので、それ以前であることは確かです。もと花月楼といい、茶屋でありました。明治時代県下では珍しい3層楼として、伊勢音頭の舞台も持ち、芸妓も30人ほど常時抱えた県下第一級の大料理店でありました。麻吉の伊勢音頭は「つづら石」といい、近傍の巨大な名石を主題としたものでありました。現在4棟の中心建物があり、いわゆる崖造りで最上層まで6層階に及んでいます。この最上層からは、はるかに朝熊山・二見なども遠望でき、聚遠楼の名で宣伝されました。多くの文人たちの会も盛んでありました。憲政の神様尾崎咢堂が来勢のとき必ず常宿したという、閑静な離れの部屋も保存されています。麻吉は、かっての古市街の華やかさを偲ぶことのできる、唯一の遺構となっています。
その日の帰り道、古市のある茶店に立ち寄った。多分国登録有形文化財の麻吉ではないかとかってに想像している。寄棟懸崖造りの木造建築で崖下から六層階競り上がり、それぞれの建物が複雑に渡り廊下でつながっている。芸妓30人を抱える大料理店である。どこにいても三味線の音や嬌声がもれ聞こえてきたことであろう。別世界の風情である。そこの女将の名を「蝶(てふ)」といった。蝶はその茶屋のもと遊女で主人の妻となった。蝶が言うに、先代の女主人「鶴」も遊女上がりで、宗因が立ち寄った時に一句を頼んだら葛の葉のおつるがうらみ夜の霜という句をくれたのだという。彼女が「わたしにも名を詠み込んだ発句を作ってください」とねだってきたので、芭蕉としても断ることはできなかった。
蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す
蘭の香が、薫物をしたようにうつり香となって蝶の翅が芳しい。
伊勢での滞在も10日近くになってきた。そろそろ締めくくろうと9月上旬のある日、気になっていた閑居する人の草庵を訪ねていった。行ってみると蔦の生えた貧しい庵で、芭蕉庵よりも貧祖である。竹が4,5本ばかり生えている藪を秋風が吹きぬけていった。
蔦植て竹四五本のあらし哉
9月7日、芭蕉は松葉屋風瀑宅を辞しここから一路故郷伊賀に向かった。8月28日から9月7日まで、足掛け10日の滞在であった。
資料7
長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

伊勢から伊賀上野への道は伊勢街道をたどり、月本追分で左にとって久居に出る伊賀越え奈良街道が近道であった。その後五百野で津から出ている伊賀街道に合流する。

伊勢から久居宿まで10里足らず。ここに一泊することにする。9月7日の夜である。8年前二回目の帰郷の折にここで詠んだムクゲの一句が立派な碑となっていた。野ざらし紀行で「道ばた」を「道のべ」に変えて使わせてもらっている。
道端の木槿は馬に喰われけり
茶屋の道標 この街道は古くから奈良・上野方面から伊勢へつながる最短の街道で、「奈良道」と呼ぱれていました。この街道は、古くは鎌倉時代初期に奈良東大寺の大仏殿再建の中心になった「俊乗房重源」が伊勢神宮参拝のためにこの道を通った記録が残されています。また、江戸時代には日本地図を作製した「伊能忠敬」が測量のため、この地に宿泊をしています。 この道標は、花岡岩製で、三面に大きく「右さんぐう道・すぐ津道・左……
茶屋の道標 この街道は古くから奈良・上野方面から伊勢へつながる最短の街道で、「奈良道」と呼ぱれていました。この街道は、古くは鎌倉時代初期に奈良東大寺の大仏殿再建の中心になった「俊乗房重源」が伊勢神宮参拝のためにこの道を通った記録が残されています。また、江戸時代には日本地図を作製した「伊能忠敬」が測量のため、この地に宿泊をしています。 この道標は、花岡岩製で、三面に大きく「右さんぐう道・すぐ津道・左ならおおさか道」、残りの面に天明6年(1786)に伊賀(上野)の油仲買仲間によって建てられたことが刻まれています。建てられた場所は、奈良道と 津道* の分岐点にあたり、江戸時代には旅籠があり、明治時代まで宿場として栄えていました。 管理者 稲葉町北出自治会 津市教育委員会 * 津道=伊賀街道
9月8日、いよいよ故郷まで最後の1日。ちょうど久居から伊賀上野まで10里の道のりである。五百野三軒茶屋で伊賀街道に合流する。立派な道しるべが建ってあるものだ。

長野峠をこえて下り道の途中に猿蓑塚公園がある。自分の将来を先食いするのもなんだが、元禄2年(1689)9月、「奥の細道」の旅を終え伊勢参宮の後故郷上野へ帰る途中にこの山中で詠んだ句の記念碑を建ててもらう事になっているのだよ。 初しぐれ、猿も小蓑を欲しげなり といって自分でも傑作の一つだと思っている。

峠を越えてすばらしい家並みが残る平松宿を通り抜け平田宿で一休みする。上野にはいる前に中之瀬峡谷というちょっとした難所を通る。この1kmほどの渓谷沿いの細道に20近くの磨崖仏が彫られている。荒木の里をぬけると故郷上野である。8年ぶりの帰省であった。

「芭蕉街」と書かれた標識が並ぶ町の大通りを歩くのはかなり気恥ずかしかった。この町にとって私は単なるヒーローを越える存在で、神様に近いのだよ。ここから遠くないところにある私の実家で、とにかく草鞋を脱いで足を洗った。9月8日の夕方。伊勢での10日を除くと江戸を発って以来どこにも内緒で寄り道や逗留をしていないことが証明できてうれしい。
愛染院の由来 一、真言宗豊山派 一、本尊 金剛愛染明王 御本尊愛染明王は、弘法大師と伝えられ、醍醐寺仕主、憲法僧正が、後鳥羽天皇の病気平癒を御修法されたところ、ただちに、御願成就し、奇端の霊光を放たれたという。 この御尊像を、鏡覚阿闍梨が、元歴年間に、この地に安置し、寺を建立、遍光山願成寺と称された。天正9年の伊賀乱の兵火にかかり、御本尊その他わづかを残すのみで、灰になった。 その後、法印実恵が寛……
愛染院の由来 一、真言宗豊山派 一、本尊 金剛愛染明王 御本尊愛染明王は、弘法大師と伝えられ、醍醐寺仕主、憲法僧正が、後鳥羽天皇の病気平癒を御修法されたところ、ただちに、御願成就し、奇端の霊光を放たれたという。 この御尊像を、鏡覚阿闍梨が、元歴年間に、この地に安置し、寺を建立、遍光山願成寺と称された。天正9年の伊賀乱の兵火にかかり、御本尊その他わづかを残すのみで、灰になった。 その後、法印実恵が寛文年間に再興、先師、岡森有章大僧正が再中興され、更に、昭和60年10月新築完成{木造瓦藁)されたものである。 一、境内には、子安弘法大師像(安産守護) 行者堂(五穀豊穣) 地蔵堂などがある。 又一隅には 俳聖松尾芭蕉翁家の菩提寺であるため、伊賀の門人達が翁の遺徳を偲び、遺髪を愛染院に埋め一基の墓を建立し、故郷塚と唱えたものである。芭蕉は正保元年(1644)伊賀上野赤坂町に誕生 元禄7年(1694)大阪南御堂花屋で死去(51才) 以上 上野市農人町三五四 愛染院
私の書斎、釣月庵もそのままだ。その晩は身内の者が集まって母を偲んだ。この8年の間にみんな髪が白くなっている。兄が守り袋を解いて母の遺髪を見せてくれた。ただ熱い涙がこぼれおちるだけだった。
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
翌日近くの松尾家菩提寺である愛染院に出かけ母の墓に参った。いろいろな句碑があるが、昨夜詠んだばかりの一句はまだ碑になっていないようだ。
芭蕉庵を出た時は野ざらしの旅などと悲壮がってみたが、それは伊勢に着くまでのことで、墓参をすませた今はルンルン気分に近い。どこへ行くか、実家で休んでいる間に考えることにしよう。
(2012年5月)
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