野ざらし紀行 3区間のうち2番目

野ざらし紀行(2)

竹之内-吉野-高宮-不破-大垣-桑名-熱田-名古屋-伊賀上野

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

竹の内

竹の内

資料8

大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云處は、彼のちりが旧里なれば、日ごろとヾまりて足を休む。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

二上山當麻寺に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ。大イサ牛をかくす共云べけむ。かれ非常といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたつとし。

僧朝顔幾死にかへる法の松

墓参をおえた芭蕉はそれから大和に赴き、千里の故郷竹ノ内村を尋ねた。ここで千里と別れた芭蕉は独り吉野の奥に足を延ばして西行の遣跡を訪れたのち山城を経て近江路、美濃路から木因の案内で尾張に出た。

芭蕉生家前をさらに東に進み、次の信号で右に曲がると、少し先の右側に松尾家の菩提寺愛染院がある。門前に「史跡 芭蕉翁故郷塚」の石柱と石碑が建っている。境内に入ると、本堂の前左側に芭蕉句碑がある。「家はみな杖にしら髪の墓参り 芭蕉」とあり、脇に解説がついている。これは元禄七年(1694)、帰郷のときの句で、この年の十月に芭蕉は大阪で客死した。境内には芭蕉句碑がもう一つある。「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」。これは、芭蕉の妾とも言われる寿貞の死を悼んで作られた句である。

本堂の脇から墓地に入る冠木門があり、入って奥の方に「故郷塚」がある。案内の矢印がつけられているので見つけやすい。塚の上には茅葺の屋根が設けられている。塚の碑前には新しい綺麗な花が供えられていた。

尾張では木因の紹介で桐葉、荷*、野水、杜国らと初対面し、あちこちで歓待をうけて約ニカ月逗留をつづけ、「尾張五歌仙」を巻いた。それが蕉風俳諧史上特筆すべき「冬の日」の完成である。

その巻頭句が

狂句木枯しの身は竹斎に似たる哉

であり、わぴやさぴを志向する風狂的な精神が俳諧の精神として把握ざれ、蕉風俳請確立の初歩を強く印象づけている。

12月下句名古屋を発った芭蕉は再ぴ散郷に帰るため伊賀上野に向った。

上野に着いたのは12月25日、「ここに草鞋を解きかしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮」を過した。

その頃、芭蕉は漂白の旅人という自意識を強く抱いていたらしく、生家での滞在にも「旅寝」といい、「山家に年を越して」「山路を越えて」などというわぴしい寂しい情趣を深める作品が多くなっている。

これから竹の内に向かう。道筋はわからないが、恐らく伊賀上野から名張街道(現国道368号線)を通って名張に出、そこから伊勢街道、初瀬街道(現国道165号線)を通って桜井、さらに竹内街道を経て竹の内村に至ったのだろう。

吉野

資料9

独よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り、烟雨谷を埋んで、山賎の家處々にちいさく、西に木を伐音東にひヾき、院々の鐘の聲は心の底にこたふ。

むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土の廬山といはむもまたむべならずや。

ある坊に一夜を借りて

碪打て我にきかせよや坊が妻

西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。

露とくとく心みに浮世すゝがばや

若これ扶桑に伯夷あらば、必ず口をすゝがん。もし是杵(許)由に告ば耳をあらはむ。

山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所どころみ残して、先後醍醐帝の御廟を拝む。

御廟年經て忍は何をしのぶ草

ようやくたどりついた金峯神社(きんぷじんじゃ)の右側の石畳の山道をさらに登っていくと、いくつかの分岐があり案内に従って山道を上り下りしていく。

左の写真のすぐ右に岩清水がある。左下の道を下ると100m程で西行庵に着く。やがて「露とくとく」の清水の場に出る。まさしく苔清水で、滴る水を手ですくい口にしてみる。杉と苔の匂いがあった。ここ数年、雨が少ないせいか清水が涸れかかっているらしい。清水の左右に句碑がある。

露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや

春雨の木下につたふ清水哉 (左の写真 笈の小文より)

清水からなだらかな道を100mほど下ったところに西行庵跡がある。ロケーションもよく風情のある庵である。まことに、いととうとし西行庵。庵の前にたたずんで、句を詠もうとするが何も出てこない。なぜ、こんな山奥に世を倦んで3年も住まなければならなかったのか。あまりにも時代がちがい、また、西行という人もよくわからない。生活には不自由しない由緒ある武士だったようだが、「昔より此の山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る」芭蕉好みの人だった。芭蕉は、とくとくの清水で憂き世をすすぎたいものだとやや大きく詠んでいるが、西行の思いに重ねたものか。 西行には有名な「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」や「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」などの歌がある。この吉野でも、

とくとくと落つる岩間の苔清水

くみほすほどもなき住居かな

と詠んだといわれ、芭蕉の句はこの歌をうけている。西行が苔清水の側に庵を結び、芭蕉が「露とくとく」と愛でて、今また1000年の時を経てその清水を眼前にすることができる。西行の跡を芭蕉が慕い、芭蕉の跡を、単なるやじ馬の私が追っかける。時を経て、人は変わり、人は変わらない。仕事や生活が生きる時間のほとんどを占めている私には、西行の花と月の風情は解っても、その生き方は遠い。

西行庵には西行の像が安置してある。西行はここで奥吉野の四季を生きたのだろうか。だが、西行がいつ頃この吉野の奥に庵を結んだのかははっきりしないようだ。この場所に本当に西行庵といわれるものがあったのかどうかも確かではないようだ。だが、この場所のたたずむと、さもありなんと誰もが納得するのではないか。

大和ー山城ー近江ー美濃

資料10

やまとより山城を經て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

義朝の心に似たり秋の風

多賀大社は古事記にもある古社で、伊勢神宮の祭神天照大神の両親伊耶那岐大神(いざなきのおおかみ)と伊耶那美大神(いざなみのおおかみ)を祀ることから「お伊勢参らばお多賀へまいれお伊勢お多賀の子でござる」と歌われている。春日局が多賀大社と伊勢神宮に詣でた際、両社を結ぶ近道として整備されたのが御代参街道で、五個荘で中山道から分岐して八日市、日野の蒲生野を駆け抜けて東海道土山宿に出ている。

道標には「是より多賀道三十町」、句碑は芭蕉の門人で大津の医者であった尚白の句で「みちばたに多賀の鳥居の寒さかな 尚白」と刻まれている。

芭蕉の紙子塚(小林家住宅) 高宮町 彦根市
芭蕉の紙子塚(小林家住宅) 高宮町 彦根市たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。 高宮街づくり委員会

右手に駒寄せを巡らせ二階は虫籠窓の黒壁、一階は繊細な連子格子を備えた町屋が建ち、前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」の石碑がある。小林家住宅である。何を営んでいた商家であったかわからないが、高宮宿の有力商人であったにちがいない。貞享元年(1684)芭蕉は彦根の門人季由を訪ねた折に、当地の円照寺(住職は慈雲)に滞在した。

李由とは彦根市平田の浄土宗光明遍照寺(明照寺)の住職河野通賢で、蕉門入門のため、元禄4年(1691)5月に京都嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」を執筆中の芭蕉を訪ねた。芭蕉は同じ年の10月、江戸への帰途の途中に明照寺に立ち寄っている。

芭蕉の滞在中、寺に来客があり慈雲は芭蕉の接待を小林猪兵衛忠淳に頼んだ。忠淳は芭蕉を単なる旅の僧と思い古い紙子(紙で作った寝巻のような着物)を用意した。

芭蕉はその夜、寒さに耐え横になる自分の姿を「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。翌日慈雲から客は芭蕉だと聞かされ忠淳は大変恐縮し早速新しい紙子を贈り、その古い紙子を壷に入れて庭に埋めた。芭蕉の没後、忠淳は碑を建てて紙子塚と名づけたという。

どこまでが史実か知らないが芭蕉が高宮に宿泊したことは信じておきたい。ただ、芭蕉が李由を弟子にする7年前に、すでに泊まりにいくほど親しかったかについては疑問が残る。高宮宿泊の年が貞享元年(1684)であるなら、それは野ざらし紀行の旅の途次であったわけで、他になにか記録が残っていてもよさそうに思えるのだが。

9月下旬大和、吉野、山城を経て近江路から不破の関、大垣へ。

不破の関

資料11

不破

秋風や薮も畠も不破の関

左上の写真は関所跡で、それは下の写真の門の中、個人の家の中にあった。家の人に断って入ろうとしたが返事が返ってこなかったのでそのまま入った。

すぐ前の「不破関資料館」に入ってみると、出土品のほか関の関連施設模型などがあった。このあたりいったいに不破関の建物があったということがわかる。現在は、辺りには藪も畑もなく、民家が立ち並んでいるばかり。「藪も畑も」の風情がどこにもない。仕方なく、一句。

夏の日や不破の関いずこ汗流る

関が原決戦地。 石田三成は奮戦したが、松尾山の小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなった。秀秋は3年後に21歳の若さで狂い死にしたという。

家康の勝利は歴史の流れだとしても、人はどうしても判官びいきになってしまう。東軍74,000、西軍84,000の軍勢がぶつかり殺し合った。この狭い盆地に立つと戦いのリアリティに戦慄せずにはおれない。

戦いの後始末に、地元の農民らが男女数百人が動員され、死体を洗ったり埋葬を手伝わされたという。

芭蕉の興味は不破の関にむかっているが、関が原は政治問題、風流なしとして避けたのだ

大垣

資料12

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

芭蕉の第一回大垣来遊は、貞享元年(1684年)の晩秋であった。

八月、江戸深川の芭蕉は、郷里伊賀上野に帰省し、続いて近江路より美濃路に入り、関ヶ原・垂井・宮代・表佐を経て大垣に入り、宿願の木因訪問をしたのである。

しばらくの逗留の後、名古屋に向かい「尾張五歌仙」を巻いた。これは、いわゆる「野ざらし紀行」の旅の途次のことであった。

紀行文によれば、風雅の道一筋を旅に求めて、野ざらし(どくろ)を覚悟しての厳しい旅立ちであった。しかし、それが大垣につき、旧友木因との再開のくだりでは、

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出でし時、

野ざらしを心におもひて旅立ければ

死もせぬ旅ねの果てよ秋のくれ

と旅の緊張感をほぐし、冒頭の句文に対応させて大垣での様子を表現しており、ちょうど大垣がこの旅の締め括りのような感じを与えている。よほど嬉しかったのであろう。

大垣入りした芭蕉は、木因をはじめ、近藤如行ら大垣俳壇の連衆の歓待を受け、滞在すること数日で多くの作品を残した。この時の様子は、後に如行が編んだ「後の旅集」や蕉門十哲の一人で、美濃出身の俳人・各務支考の「笈日記」の大垣の部に詳述されている。

死よしなぬ浮身の果は秋の暮れ

といひしは、杭瀬川の川の流れに足を濯ぎて、

浮雲流水を身にかけ、心にかけて、頭陀やすめ、

笠やすめられし因なり、げにや茶の羽織、

桧の木笠も、此の志より仰ぎそめられけり、

霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し 如行

翁をはじめて宿しける夜ふと申出ければ、

古人かやうの夜の木がらし 翁

かくありて興じ給ひぬ。その後座頭など来て

貧家のつれづれを紛しければ、をかしがりて

琵琶行の夜や三味線の音霰 翁

「後の旅集」より

死よしなぬ浮身の果は秋の暮れ

といひしは、杭瀬川の川の流れに足を濯ぎて、

浮雲流水を身にかけ、心にかけて、頭陀やすめ、

笠やすめられし因なり、げにや茶の羽織、

桧の木笠も、此の志より仰ぎそめられけり、

霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申し 如行

翁をはじめて宿しける夜ふと申出ければ、

古人かやうの夜の木がらし 翁

かくありて興じ給ひぬ。その後座頭など来て

貧家のつれづれを紛しければ、をかしがりて

琵琶行の夜や三味線の音霰 翁

「後の旅集」より

実際の旅はなお続き、名古屋の俳人たちと「尾張五歌仙」を巻いて、芭蕉俳諧の確立を示すという芭蕉にとっても異議深い旅となったのである。

清新の気満つるこの木の芭蕉との出会いは、大垣俳壇にとってもまことに時宜を得ており、これが機縁で、この後も芭蕉の来遊となったのである。

大垣に入る前の関ヶ原にも芭蕉句碑が残っている。

常磐御前の墓と芭蕉句碑(不破郡関ヶ原町山中)

不破の関と芭蕉句碑(不破郡関ヶ原町、不破の関跡)

木因は、大垣で川舟を使った運送業を営んでおり、大垣の俳壇の有力な先覚者だった。左の写真は、水門川の住吉燈台。「おくのほそ道」でも木因は芭蕉を出迎えている(写真左上)が、「おくのほそ道」にはその記述がない。木因が後に芭蕉から離れていったことが原因のようだ。木因にとって俳諧は趣味であり遊びだったが、芭蕉にとって俳諧はそれ以上のものであり、生き方そのものだった。俳諧ははたして趣味・道楽か芸術・人生か。芭蕉はもちろん、これ一筋、これより他に生きる道なし。

桑名

資料13

桑名本統寺にて

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て、

明ぼのやしら魚しろきこと一寸

10~11月

木因同道で伊勢桑名郡権現に参詣。次いで桑名本統寺住職琢恵を訪う。

いかめしき 音や霰の 檜木笠

宮守よ わが名をちらせ 木葉川

桑名本統寺にて

冬牡丹 千鳥よ雪の ほとゝぎす

海上に遊ぶ日は手づから蛤を拾うて、白魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に

書す。

雪薄し 白魚しろき 事一寸

霜月初め、白魚

明ぼのや しら魚しろき こと一寸

大垣に泊まりける夜は、木因が家をあるじと

す。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて

旅立ちければ、

死にもせぬ旅ねの果てよ秋のくれ

二つの目的を無事に果たして、ほっとした芭蕉の様子がうかがえるようです。

回船問屋の主人であった木因の案内で、芭蕉は桑名へ揖斐川を船で下っています。『桜下文集』によれば、途中の多度大社に参詣して、木因は、

武州深川の隠、泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣

観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、

四季折々の句召され候へ。

と前書した、次の一句を詠んでいます。

伊勢人の発句すくはん落葉川

芭蕉と木因とを発句を売り歩く商人に見立てて、伊勢の古くなって棄てられた発句を、 川の落ち葉と共にすくい上げよう、というのです。

それに対して芭蕉は、「右の落書をいとふのこころ」と前書して、次のような一句を詠みました。

宮守よわが名をちらせ木葉川

宮守よ、私には伊勢人の句を救うなどという、大それた気持はないから、落書の私の名を川に掃き散らしてほしい、というのです。「伊勢人の」という発句は、ようやく芭蕉を迎えることが出来た木因の、浮き立つような気持のよく現れたものですが、芭蕉も木因の気持をよく理解しながら「宮守よ」 の一句を詠んでいるのです。芭蕉の句は、木因をいさめるのではなく、掛け合いのような形で二句一対としているのです。

桑名に入った芭蕉たちは、本統寺(桑名別院)に一宿しました。寺の住職が古益という俳人で、木因と親しかったからです。芭蕉は、ここで「冬牡丹」の句を詠みました。句意は、 境内の白い冬牡丹を眺めていると、浜辺から千鳥の声が聞こえてきた、それはまるで雪の中で ホトトギスを聞くような贅沢な気分だ、というのです。冬三、夏一という季題を盛り込み、見立てに頼った古い句作りで、芭蕉の句としてあまり上出来ではありませんが、 古益という古風俳人の一座する俳席には、相応しい一句であったのでしょう。

翌朝、芭蕉はうっすらと雪が降り積もった浜辺に出て、「雪薄し」の一句を詠じました。この句は、文字として書き記した時、「雪」と「しら魚」とがお互いの印象を消し合うことに気づいて、後に「明ぼのや」と上五文字を改作しています。

大垣から桑名に至る数日間は、木因の心尽くしのもてなしもあって、芭蕉はゆったりとした時を過ごしています。それは、名古屋という新しい土地に向かう芭蕉にとって、 力を溜める時間でもあったように思われます。

熱田

資料13

熱田に詣

社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのままに生たるぞ、中なかにめでたきよりも心とヾまりける。

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

11月下旬

桑名から熱田へ、熱田神宮参拝。林桐葉亭に逗留。名古屋にでて、再び熱田。

海暮れて 鴨の声 ほのかに白し

林桐葉宅跡 神宮2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
林桐葉宅跡 神宮2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県林桐葉は熱田の郷士で、貞享元年(1684)冬、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。芭蕉もよく立ち寄って名吟を残し、『熱田三歌仙』もここで巻かれている。晩年は元竹と号し、書道に熱中して俳諧から遠ざかった。正徳2年(1712)没した。 名古屋市教育委員会

東海道との分岐点である三叉路から佐屋街道が始まる。国道1号を横切り、熱田神宮の手前、蓬莱軒の南隣に林桐葉の住居跡がある。林桐葉(林七左衛門)は熱田の郷士で、貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。また貞享4年11月にも『笈の小文』の旅路にあった芭蕉をもてなし、熱田三歌仙を巻いている。

芭蕉句碑 妙安寺 新尾頭2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県
芭蕉句碑 妙安寺 新尾頭2丁目 熱田区 名古屋市 愛知県此うみに 草鞋すてん 笠しぐれ 芭蕉

しばらく進んで、新尾頭(しんおとう)交差点の少し手前の車道縁に「熱田神宮第一神門址」の石碑がある。その左手にある道を入って行くと突き当たりの右手に妙安寺がある。高台にある妙安寺の庭からは伊勢湾が間近に眺められ、名古屋三景の一つとして文人墨客がよく訪れた。いくつかの句碑にまじって亀の甲に乗った芭蕉の句碑がある。

旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、しばらくとどまらせんとせしほどに

此うみに草鞋すてん笠しぐれ

貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の往路、林桐葉亭に招かれて詠んだ句。桐葉亭はそこから草鞋を投げ捨てられるほど海が近かった。

名古屋

資料14

名護屋に入道の程風吟ス

狂句木枯の身は竹齋に似たる哉

草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ

雪見にありきて

市人よ此笠うらふ雪の傘

旅人をみる

馬をさえながむる雪の朝哉

海邊に日暮して

海くれて鴨のこゑほのかに白し

貞享元年冬、桑名から海上七里を渡って芭蕉は名古屋の地を踏みました。そこでは荷兮・野水・杜国など土地の俳人が出迎え、早速俳席が設けられました。芭蕉が挨拶の意を込めて詠んだのが、次の一句です。

狂句こがらしの身は

竹斎に似たる哉

句意は、木枯らしの吹く中、発句を吐き散らしながらさまよい歩く我が姿は、何と物語の竹斎に似ていることか、そんなどこの者とも知れぬ私を、親切にもてなしていただきありがたいことだ、というのです。

竹斎というのは、大流行した仮名草子の主人公の藪医者で、京を食い詰め、江戸下りの途中、名古屋で様々な失敗をしでかします。芭蕉は、我が身も竹斎と何ほども変わらぬという思いで詠んだものでした。

芭蕉がいた江戸の俳諧は、天和調・虚栗調とも言われた漢詩文調の流行がやや衰えかけた頃でした。この発句も、「狂句こがらしの」の部分が字余りとなっていて、天和調の名残りが見えますが、完成した五歌仙は、従来の俳諧にはない斬新さが見られ、この歌仙を収めた荷兮編『冬の日』は、蕉風開眼の書と後世評価されました。五歌仙が作られた名古屋市中区のテレビ搭北側には、「蕉風発祥之地」の碑が建てられています。

桑門(そうもん)の乞食姿で野ざらしの旅。一所不住、芭蕉の覚悟よし。

竹斎は、名古屋の医師だが、狂歌を詠みながら諸国を行脚、放浪した藪医者で、名古屋に流れ着いて開業していた。狂歌の才子ではあったが、身なりは乞食然としていたようで、その格好のまま治療に当たっていたという伝説がある。

芭蕉は、木枯らしに吹かれて俳句を詠んで放浪している自分の姿はほとんど竹斎だなあ、というのだ。

その竹斎の格好のまま、年末になってもまだ笠や草鞋の旅装束で暮らしている。そんな自分を風狂の狂句に詠んでいる。

芭蕉が本当に竹斎のような格好をしていたとは思われないが、気分は「侘びつくしたるわび人」竹斎というところか。左のような俳文がある。

鳴海

橋をわたった右手に瑞泉寺をみて、鳴海宿の中心にはいっていく。沿道には古い家並みが残っている。右手に「千代倉」という屋号看板を掲げ、大屋敷の玄関だけが取り残されたようなた建物がある。江戸時代の豪商、下郷(しもさと)家の屋敷跡である。下郷家は酒造業を営む大地主で、嘉永年間(1848~1854)以後は本陣を務めた。下郷本陣は建坪677坪におよび、平均的な本陣の3倍であったという東海道中最大の本陣屋敷であった。芭蕉との関係が深く、当主の下郷知足は芭蕉門人で鳴海俳壇の盟主であった。芭蕉は生涯で4回鳴海に来ているがそのたびに千代倉宅に寄っていた。

1回目:貞亨2年(1685)4月4日、「野ざらし紀行」の途中、熱田の林桐葉の紹介で立ち寄る。三河八橋にも寄っている。

杜若われに発句のおもひあり 知足亭にて

誓願寺の北隣円道寺の通り向かい角に天神社があり、石段を上がると鳴海城跡碑と芭蕉句碑3基がある。鳴海城は、根古屋城ともいわれ、応永年中(1394~1428)安原宗範が築城した。桶狭間の戦いでは今川方の岡部元信が最後までこの城に立てこもった。芭蕉の3句はいずれも鳴海での作である。

「京まではまだ半空や雪の雲」

「よき家や雀よろこぶ背戸の粟」

「杜若われに発句のおもひあり」

伊賀上野

資料15

爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

といひいひも、山家に年を越て、

誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年

12月25日

伊賀に帰り越年する。

年暮れぬ 笠着て草鞋 はきながら

貞享2年1月

伊賀で越年 改旦。

誰が聟ぞ 歯朶に餅おふ うしの年

子の日しに 都へ行ん 友もがな

作影亭ニテ梅鳥ノ画屏ヲ見テノ作

旅がらす 古巣はむめに なりにけり

誰が婿ぞ歯朶に餅おふ牛の年

江戸の市中を離れて、深川に庵住する芭蕉ではありましたが、それはそれで人の出入りも多く、慌ただしい日常であったと思われます。それに比して、伊賀上野の正月は実にのんびりしたもので、改めて郷里の味をかみしめたことでしょう。伊賀では、正月になると嫁の実家に餅を贈る習慣があったようで、牛の背に歯朶で飾った餅を乗せて、羽織・袴の男が行くのを、どこの婿なのだろうか、見かけぬ姿だが、と思ったというのです。「牛の年」は、餅を背にした牛と丑年との懸け詞になっています

貞享元年(一六八四)秋、久しぶりで郷里の伊賀上野を訪れ、母の墓参を済ませた芭蕉は、大和・尾張を巡遊して、年末には郷里に立ち返り、新年をその地で迎えました。『野ざらし紀行』には、次の一句を収めています。

誰が婿ぞ歯朶に餅おふ牛の年

それに比して、伊賀上野の正月は実にのんびりしたもので、改めて郷里の味をかみしめたことでしょう。伊賀では、正月になると嫁の実家に餅を贈る習慣があったようで、牛の背に歯朶で飾った餅を乗せて、羽織・袴の男が行くのを、どこの婿なのだろうか、見かけぬ姿だが、と思ったというのです。「牛の年」は、餅を背にした牛と丑年との懸け詞になっています。

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