今様奥の細道 22区間のうち13番目

今様奥の細道(13)

羽黒山-月山-湯殿山-手向-鶴岡-酒田

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

羽黒山

資料33

六月三日、羽黒山に登る。司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて誹諧興行。

有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。

延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。

当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。

羽黒山

6月3日(新暦7月19日)-6月10日(新暦7月26日)

舟形街道(県道46号)は丁字路で羽黒街道に突き当たって終わる。羽黒街道は羽黒山と鶴岡を結ぶ道で、県道47号となって鶴岡に向かう。

芭蕉はここを左折して手向宿に落ち着くことにした。手向は羽黒山の門前町で、道の両側には冠木門を構え、注連縄を張った宿坊が建ち並ぶ。江戸時代には330軒をこえた宿坊が軒を連ねていた。

自坊小路 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
自坊小路 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

手向郵便局手前の十字路を右にはいると一筋南に羽黒街道に並行して細い路地が延びている。自坊小路とよばれる通りで、両側に黒塀や長屋門、土蔵をもつ屋敷が残っていて趣ある一角をなしている。その代表格が芳賀邸である。芳賀兵左衛門は、曽良随行日記の6月12日の条に現れる人物で、当時、本坊に仕えていた上級職の僧である。自坊小路に広大な屋敷を構えていてその庭園を抜けた裏山に次の三句が刻まれている芭蕉句碑はよく知られていた。

辰霜や鳳尾の印それよりは 其角

雲のみねいくつ崩れて月の山 芭蕉桃青

抜たりなあはれ清水の片わらし 嵐雪

「芳賀兵左衛門」の表札がかかる長屋門をくぐってみたが、広い庭と建物は無人のようであった。小路をうろうろしていると反対側の屋敷門から若い夫人が出てこられた。「3年前父が亡くなってから裏山は荒れ放題で今は立ち入りを断っています」とのこと。彼女は31代目の当主にあたる。

羽黒山黄金堂 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
羽黒山黄金堂 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

この『黄金堂』は、建久4年(西暦1193)源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。 その当時は、『長寿寺金堂』(小金堂)と言われていた。また、羽黒山頂にある三神合祭殿の前身『寂光寺金堂』(大金堂)と共に、大小2つの『金堂』と言われていた。 現在の堂は、文禄5年(西暦1596)に甘粕備後守が大修理したもので、正面5間(9m)、奥行4間(7.2m)の『方形造り』である……

説明の全文を読む(約240字)

この『黄金堂』は、建久4年(西暦1193)源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。 その当時は、『長寿寺金堂』(小金堂)と言われていた。また、羽黒山頂にある三神合祭殿の前身『寂光寺金堂』(大金堂)と共に、大小2つの『金堂』と言われていた。 現在の堂は、文禄5年(西暦1596)に甘粕備後守が大修理したもので、正面5間(9m)、奥行4間(7.2m)の『方形造り』である。 境内には、黄金埋蔵の伝説が残っており、国の重要文化財にも指定されている。

街道に戻り、すぐ左手にある重要文化財黄金堂は修復工事中であった。黄金堂は建久4年(1193)に源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。羽黒山頂にある三神合祭殿の前身「寂光寺金堂」(大金堂)に対し、こちらは小金堂とよばれ、「小金」が「黄金」となったとも言われている。

図司呂丸屋敷跡(右手) 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
図司呂丸屋敷跡(右手) 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

図司呂丸(本名近藤左吉)は鶴岡鳥居町の藩士図司家の出で、羽黒町手向荒町(現在の亀井町)のこの地に移り住み山伏の摺り衣を染める染屋を本業としていたが、俳諧の道でも羽黒俳壇の雄としてすでに名を成していた。元禄2年(1689)6月3日(現在の7月19日)から7日間、芭蕉が「奥の細道」の旅の途中羽黒に滞在した折、最初に訪ねたのがこの呂丸宅である。当時、呂丸の家は第一小学校の方に向いて建っていたと考えられる……

説明の全文を読む(約220字)

図司呂丸(本名近藤左吉)は鶴岡鳥居町の藩士図司家の出で、羽黒町手向荒町(現在の亀井町)のこの地に移り住み山伏の摺り衣を染める染屋を本業としていたが、俳諧の道でも羽黒俳壇の雄としてすでに名を成していた。元禄2年(1689)6月3日(現在の7月19日)から7日間、芭蕉が「奥の細道」の旅の途中羽黒に滞在した折、最初に訪ねたのがこの呂丸宅である。当時、呂丸の家は第一小学校の方に向いて建っていたと考えられる。 平成14年7月1日 羽黒町観光協会

交番のところで南に折れた街道のすぐ先の丁字路を右に入ったところ、右手民家の畑脇に「図司呂丸屋敷跡」の説明板が立っている。呂丸こと近藤左吉の屋敷跡である。正面に羽黒第一小学校が見える。芭蕉一行は新庄を発ち、最上川を船で下って、午後4時ごろ呂丸の家に到着した。呂丸は、鶴岡の藩士図士家に生まれ、山伏の摺り衣を染める染屋を営む傍ら羽黒俳壇で活躍していた。大石田の高野一栄の紹介状を羽黒山本坊の会覚阿闍梨へ手渡して、芭蕉と曽良を南谷別院に案内した。その後も芭蕉の手向滞在中色々と世話を尽くした人物である。

烏崎稲荷神社・呂丸追悼句碑 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
烏崎稲荷神社・呂丸追悼句碑 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県辞世 消安し都の土ぞ春の雪 呂丸 追悼 当帰より哀は塚のすみれ草 芭蕉 寛政五年

街道は鈎型に突き当たる。左折して右折地点でそのまま東の路地に入っていくと坂を上がって家並みの尽きる辺り、左手に烏崎稲荷神社があり、その境内に覆屋に納められた呂丸の追悼句碑がある。呂丸は元禄5年芭蕉を慕い俳諧修行の旅に出た。ついで京洛に上がり元禄6年2月2日病の為京都で客死した。

正面に呂丸辞世の句が、右面に芭蕉の追悼句が刻まれている。

辞世 消安し都の土に春の雪 呂丸

当帰より哀は塚のすみれ草 芭蕉

宿坊街桜小路 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
宿坊街桜小路 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
宿坊大進坊・芭蕉句碑 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
宿坊大進坊・芭蕉句碑 手向 羽黒町手向 鶴岡市 山形県300年 奥の細道 芭蕉の道 出羽三山句 涼しさやほの三日月の羽黒山 雲の峰いくつ崩れて月の山 かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな

鍵の手をすぎると桜小路と呼ばれる宿坊街にはいる。街道の両側はすべて宿坊である。右手の大進坊という300年以上の歴史を有する宿坊の前庭に芭蕉の三山句碑が建っている。山頂にある句碑を模したもので大正11年(1922)に建立された。

凉しさやほの三日月の羽黒山

加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那 (かたられぬ 湯殿にぬらす たもとかな)

雲の峯いくつ崩れて 月の山

芭蕉句碑(いでは文化記念館) 院主南 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
芭蕉句碑(いでは文化記念館) 院主南 羽黒町手向 鶴岡市 山形県涼風や ほの三日月の 羽黒山 雲の峰 いくつ崩れて 月の山 語られぬ ゆどのにぬらす 袂かな

桜小路をぬけて車道にでる。大きな石鳥居をくぐり隋神門からいよいよ羽黒山頂への参道が始まる。その前に車道沿いにあるいでは文化記念館に寄った。館内に芭蕉が月山頂上で一夜を過ごしたという笹小屋が再現されているということだが、館内撮影禁止とあって入るのを止めた。建物の裏手にも芭蕉直筆と伝わる三山の句が刻まれた石碑がある。

宿坊橋本坊 院主南 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
宿坊橋本坊 院主南 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

道向かいに橋本坊という大きな茅葺の魅力ある宿坊があった。

随神門 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
随神門 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けた。

随神門にもどる。ここから羽黒山頂まで、約1.7Km、2446段の石段を上がっていく。随神門は芭蕉が訪れた10年後の元禄12年(1699)、秋田の矢島藩主が寄進した仁王門が始まりで、その後神仏分離によって仁王像は随身像にとって代わられ、随神門と改称された。

須賀の滝 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
須賀の滝 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。
爺スギ 向山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
爺スギ 向山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県天然記念物 根元周囲11.5m 目通り周囲 8.3m 樹高 48.3m 樹齢 1000年以上といわれ山内随一の巨木である。 出羽三山神社

随神門をくぐるといきなり継子坂という100段近い石段を一気に谷底まで下ってしまう。下りきったところに朱色の神橋があり、祓川が流れている。行者はここで身を清めて霊域の山上をめざした。右手に須賀の滝が祓川に落ちている。五十代別当執行の天宥が造った人工の滝である。天宥は慶長11年(1606)現在の山形県西村山郡西川町に生まれ25歳の若さで羽黒山別当に就いた。怪僧天海に師事し羽黒山中興の祖と仰がれる人物である。詳しくは山頂にある天宥社に譲る。

神橋の少し先に爺杉とよばれる巨大な杉が聳えている。目通り周囲8.3m、樹高48.3m、樹齢1000年以上という山内随一の老巨木である。

羽黒山五重塔 向山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
羽黒山五重塔 向山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県沿革 古記によれば承平年間平将門の建立と伝えられる(1050年前)。長慶天皇文中年間に再建(約620年前)慶長13年出羽守最上義光修造(380年前) 明治41年7月特別保護建造物指定 昭和41年国宝指定 概要 素木(しらき)造 柿葺 方3間5層 高さ8丈(24m余) 東北地方最古最優秀の塔である。四方の額は小野道風書と伝えられる。 以下略 平成3年 出羽三山神社

石段を踏みしめて歩を進めると左手、杉木立の間に国宝五重塔の優美な姿が現れる。素木造りの柿葺、高さ24m余の方3間5層の塔である。夜のライトアップでさらに幽玄な風景を作り上げるという。

一の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
一の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

右手石段脇に「一の坂」の石碑がある。ここから長い石段の道がはじまる。参道両側の杉の並木は、樹齢350~500年の巨木が並び、その数は400本以上で国の特別天然記念物に指定されている。

左手に「火石」がある。蛍石ともよばれ昔は夜になると光を放ち、麓がまだ浜だったころ漁師などが頼りにしたという。火は修験道の象徴的存在であった。今は苔むして明かりを放つどころではない。

二の坂茶屋・御坂中央碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
二の坂茶屋・御坂中央碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

参道は「油こぼしの坂」とも呼ばれる急坂「二の坂」が始まる。二の坂の中程左手に名物「力餅」の幟が翻る茶屋がある。平日早朝にも拘わらず数人の女性客がいた。

右手に「御坂中央」と刻んだ自然石碑がある。茶屋で一服するによい加減な場所だ。

二の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
二の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
芭蕉塚(三日月塚) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
芭蕉塚(三日月塚) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県翁羽黒山留杖の折、羽黒の句「涼しさや・・・」の発句の処 塚碑の両側に小燈篭あり 向右、 右側 ひかり増せ燈篭の月も三日月の影 向左、 三日月塚の良星雨根かたふき最中に苔むして

二の坂を上がりきった先右手に芭蕉塚(三日月塚)がある。山に少し入ったところに一対の石灯篭が建ち、その奥に「芭蕉翁」と刻まれた石碑が建つ。明和6年(1769)建立の古いもので、芭蕉が羽黒山逗留の折「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を詠んだところと伝えられる。

本坊若王寺宝前院跡 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
本坊若王寺宝前院跡 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

芭蕉塚からすぐ先三の坂に入る手前右手に「本坊宝前院跡」の標石がある。若王寺宝前院は、かつて当地にあった一大伽藍で、もともと山頂にあったが、第50代別当執行天宥の時、寺院の失火から羽黒本社が類焼するのを恐れ、当所に移築されたものと伝えられる。南谷で芭蕉が泊まった玄陽院はこの宝前院の別院である。

南谷 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
南谷 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

南谷は俳聖松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、門人曾良と六日間逗留し、一句吟じた場所です。今から約300年前(寛文2(1662)年)、時の羽黒山執行別当(最高責任者)天宥法印が拓きました。 当時、羽黒山頂にはいくつかの寺院があり、本社・寂光寺(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐためそれらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文2年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院でありました。しかし……

説明の全文を読む(約400字)

南谷は俳聖松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、門人曾良と六日間逗留し、一句吟じた場所です。今から約300年前(寛文2(1662)年)、時の羽黒山執行別当(最高責任者)天宥法印が拓きました。 当時、羽黒山頂にはいくつかの寺院があり、本社・寂光寺(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐためそれらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文2年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院でありました。しかし、奥の方に位置するため、なにかと不便だったので、自然に迎賓館のような機能をはたすようになり、いつしか別院と呼ばれるようになりました。芭蕉の滞在所にあてられたのも、こうした関係からです。(中略)その後、明治の神仏分離の際、全て倒壊され、今残っているのは玄陽院の一部の礎石のみです。覚諄別当が建立した があり、最近では環境省認定がおり風景100選にも選ばれ、俳句愛好者も多数訪れています。 以下略

その南谷への道がすぐ先、三の坂の手前で分かれている。500mほどのほぼ平らな山道をたどっていくと、池を囲んだ空き地に出た。ここにはかつて羽黒山の別院、紫苑寺があった場所で、芭蕉が訪ねた頃紫苑寺は既に焼失して無く、かわりに山頂から玄陽院を移築して、本坊宝前院の別院としていた。

南谷・芭蕉句碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
南谷・芭蕉句碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県有難や 雪をかほらす 南谷

呂丸に案内されて3日の夕方芭蕉と曽良はここにたどり着いた。月山、湯殿山参詣を挟んで、二人はここに六夜を過ごすことになる。玄陽院建物跡には苔むした礎石が点在するのみである。茅葺の東屋は観光客用のものだろう。

奥まった池のほとりに芭蕉の句碑が寂しく立っていた。

三の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
三の坂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

ありがたや雪をかほらす南谷

参道に戻って三の坂を上がり始める。三の坂の途中左手に小社が建っている。植山姫神社といい縁結びの神として信仰を集めている。三の坂も終わりに近づいたところで、右に羽黒山講堂旧円珠院趾、左に斎館、そして前方に赤い鳥居が見えてきた。鳥居をくぐって羽黒山頂上に到達する。羽黒山は標高414mの低い山で月山、湯殿山と違って年中登拝ができる。

蜂子神社 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
蜂子神社 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

出羽三山の開山は千四百年余前の推古元年(593年)といわれています。第32代 崇峻 天皇の御子である蜂子皇子が、聖徳太子の勧めにより、宮中を逃れ、越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良(現鶴岡市)の浦に辿りついたところ、三本足の大きな鳥が飛んできて、羽黒山へ導いたといいます。 蜂子皇子はそこで難行苦行の修行を積まれると、ついに羽黒の大神「 伊氏波神 ( いではのかみ ) ……

説明の全文を読む(約520字)

出羽三山の開山は千四百年余前の推古元年(593年)といわれています。第32代 崇峻 天皇の御子である蜂子皇子が、聖徳太子の勧めにより、宮中を逃れ、越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良(現鶴岡市)の浦に辿りついたところ、三本足の大きな鳥が飛んできて、羽黒山へ導いたといいます。 蜂子皇子はそこで難行苦行の修行を積まれると、ついに羽黒の大神「 伊氏波神 ( いではのかみ ) 」のご出現を拝し、羽黒山頂に社を創建され、その後月山、湯殿山を開かれたそうです。これが、羽黒山に伝わる開祖の由来です。 出羽三山の開祖と伝えられる蜂子皇子は、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に農耕を教え、産業を興し、治病の方法を教え、人々のあらゆる苦悩を救うなど、幾多の功徳を残されたそうです。全ての民の苦悩を 能 く除くということから、 能除太子 と称され、91歳で 薨去 されました。 山形県庁ホームページより 蜂子皇子の御姿は御顔がみにくく、口は大きく耳の根本まで裂け、鼻の高さは三寸もあり、顔の長さは一尺五寸もある異様な御姿であったと伝えられていますが、これは人々の苦悩を一身に引き受けたからだとも言われています。 山形県庁ホームページより

左手によく似た姿の神社がならんでいる。手前が厳島神社、隣が蜂子神社である。蜂子神社は出羽三山の開祖、蜂子皇子を祀る。蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子。崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、推古元年(593)馬子から逃れるべく丹後国由良から海を船で北へ渡り、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた。時に舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っている美しさにひかれて、近くの海岸(八乙女浦)に上陸したという。八乙女浦は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏に導かれて、羽黒山に登り羽黒大神の示現を受けたと伝えられる。引き続き、月山、湯殿山に登り、出羽三山を開いた。皇子の肖像画は何とも気味の悪い様相をしている。

三神堂合祭殿 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
三神堂合祭殿 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るよ……

説明の全文を読む(約230字)

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年、国の重要文化財に指定される。

続いて境内中央に豪壮な茅葺屋根を構えるのが出羽(いでは)三山神社(三神合祭殿)である。社殿は合祭殿造りと呼ばれる独特のもので、高さは28m、主に杉材を使用し内部は総朱塗りで、屋根の厚さは2.1mに及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。月山、湯殿山が雪に閉ざされて登れないに対し通年参詣が可能な羽黒山に三神を合祀した。延長5年(927)平将門の創建と伝えられ、現在の社殿は文政元年(1818)に再建された本社(寂光寺金堂)を昭和44年に大修復したものである。

鏡池 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
鏡池 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という

本殿の前の御手洗池(鏡池)は、神霊を宿す池とされ、羽黒山のご神体となっている。古来より多くの人々により奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池という。

鐘楼と建治の大鐘 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
鐘楼と建治の大鐘 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2……

説明の全文を読む(約320字)

堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

鏡池の傍らに立つ鐘楼は切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年(1619)再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。国重要文化財である大鐘は建治元年(1275)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで日本で三番目に古い。文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神によって敵の艦船を海中に覆滅したので、鎌倉幕府は羽黒山の霊威をいたく感じて、羽黒で鐘を鋳て羽黒山に奉ったものであるという。

天宥社 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
天宥社 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

羽黒山50世執行、別当天宥法印を祀ったお社である。天宥法印は羽黒山中興の祖と仰がれ、今日お山繁栄の基を築かれました。当時、お山は戦国争乱の影響を受け衰微し、各登拝□は独立の様相を呈し威令行われざる時代に25才の若き身にて羽黒山別当の重職に就かれた天宥は当時黒衣の宰相と云われた上野竟永寺 に師事し宗政を匡し、壇那場、霞場の布教制度を確立し一山の改革を図った、又参道に石磴を敷き植林を奨励し田畑を興し、……

説明の全文を読む(約540字)

羽黒山50世執行、別当天宥法印を祀ったお社である。天宥法印は羽黒山中興の祖と仰がれ、今日お山繁栄の基を築かれました。当時、お山は戦国争乱の影響を受け衰微し、各登拝□は独立の様相を呈し威令行われざる時代に25才の若き身にて羽黒山別当の重職に就かれた天宥は当時黒衣の宰相と云われた上野竟永寺 に師事し宗政を匡し、壇那場、霞場の布教制度を確立し一山の改革を図った、又参道に石磴を敷き植林を奨励し田畑を興し、祓川の懸崖に瀧を落し、山内堂塔の造替移築を計る等お山の威厳を整え、又絵画、彫刻、造園の術にも非凡なる才能を発揮し御神威の発揚に挺身せられた。 然るに晩年反対派の讒に邁ひ新島に流配の身となり在島7年82才で入寂された数奇な運命を仙つた人である。 歿后15年元禄2年芭蕉奥の細道行脚の折り留杖、天宥法印の遺徳を偲び追悼文を寄せられ、その末尾に「其玉や羽黒にかへす法の月」と詠まれている。 天宥の偉大なる功績は多くの人々に敬慕され御霊社にまつられ慰霊祭が執り行われて来たが明治の御代になり神として祀られることになった。この社殿は御開山1400年の記念事業として造営され、平成4年秋竣功されたものである。例祭日は10月24日(遷化の日)と定められ縁故の人々多数参列の下に斎行される。

駐車場への出口近くに天宥社がある。25才の若さで羽黒山50世執行に就いた別当天宥法印を祀った社である。天宥法印は羽黒山中興の祖と仰がれ、今日の繁栄の基を築いた。天宥は当時黒衣の宰相と云われた上野竟永寺天海僧上に師事し宗政を匡し一山の改革を図った、又参道に石磴を敷き植林を奨励し田畑を興し、祓川の懸崖に瀧を落し、山内堂塔の造替移築を計る等山の威厳を整え、又絵画、彫刻、造園の術にも非凡なる才能を発揮したといわれる。 然るに晩年反対派の讒に遭い新島に流配の身となり在島7年82才で入寂した。

芭蕉像・句碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
芭蕉像・句碑 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県凉しさやほの三日月の羽黒山 加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな) 雲の峯いくつくつれて月の山 月山の旧登山道の野口に文政8年(1825)建立、昭和40年ここに移転された。

近くに芭蕉像と三山句碑がある。句碑は文政8年(1825)月山の旧登山道の野口に建立されたものを昭和40年ここに移転された。

凉しさやほの三日月の羽黒山

加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな)

雲の峯いくつくつれて月の山

駐車場に出る。左手の太田商店前から月山への旧登山道が残っている。芭蕉もこの道をたどって月山に向かった。羽黒山山頂から荒沢までの旧道を「奥の細道歩道」と呼んでいる。

奥の細道・月山旧登山道 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
奥の細道・月山旧登山道 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県八乙女:蜂子王子上陸の地由良の浜(八乙女の浦)

車道を横切って山中に入っていく。直立する杉木立の中を気持ち良い山道が延びている。土だったり、畳石であったり足元もやさしい。

途中、「八乙女遥拝所」の標柱が立っていた。八乙女とはここから真西方向にある鶴岡市由利の海岸で、蜂子皇子が八人の乙女に魅かれて上陸した浜辺である。今は山中で何も見えないが、かつては木立の間から浜辺がみえたのだろうか。古代には海岸線がもっと近くまで迫っていたそうだ。

吹越神社・峰中堂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
吹越神社・峰中堂 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県吹越は羽黒派古修験道の根本道場である。吹越神社は三山の開祖・蜂子皇子を祀る。

道は二手にわかれ、右の道をとって進んでいくと吹越神社に至る。境内には校舎か倉庫のような大きな建物がある。峰中堂といい羽黒派古修験道の根本道場である。明治までは秋の峯の修行は南谷(一の宿)で胎内修行を終えた後吹越(二の宿)に移って胎外修行を行っていたが、現在は1週間に短縮された修行のすべてがここで行われることになった。又平成5年には、開山1400年を期に長年の禁を解き女性にも修行の道を開いた。 たまたまこの中堂で女性の秋の峰が終わったばかりだと聞いた。トイレや炊事場など、わずかに生活の臭いが残る中堂の端を通り抜けて再び旧登山道に入る。

月山旧登山道(吹越神社から荒澤寺へ) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
月山旧登山道(吹越神社から荒澤寺へ) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
荒澤寺 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
荒澤寺 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

1400年前に出羽三山の開祖、能除大師(蜂子皇子)が月山、湯殿山へ赴く際ここ荒澤で修行しました。 湯殿山大権現である大日如来の和魂を地蔵尊、荒魂を不動明王としてまつり、不滅の清浄火が燈る常火堂をこの地に建立しました。 その後、開祖を慕い弟子の弘俊が草庵を建て、廣澤寺と称しました。のちに役の行者、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍随一の寺となり栄えました。 山伏の峰入……

説明の全文を読む(約270字)

1400年前に出羽三山の開祖、能除大師(蜂子皇子)が月山、湯殿山へ赴く際ここ荒澤で修行しました。 湯殿山大権現である大日如来の和魂を地蔵尊、荒魂を不動明王としてまつり、不滅の清浄火が燈る常火堂をこの地に建立しました。 その後、開祖を慕い弟子の弘俊が草庵を建て、廣澤寺と称しました。のちに役の行者、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍随一の寺となり栄えました。 山伏の峰入口、八方七口のひとつ荒澤(あらさわ)口は、羽黒修験道で特に崇敬される霊地で、この荒澤寺は羽黒山奥之院として修験者の大切な行場となっています。

山道は下り坂となって県道47号を横切った先に荒澤寺がある。1400年前、出羽三山の開祖蜂子皇子が月山、湯殿山へ赴く際ここ荒澤で修行したと伝わる。皇子の歿後、弟子弘俊が草庵を建て広沢寺としたのに始まる。のちに役の行者、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍随一の寺となり栄えた。この荒澤寺は羽黒山奥之院として修験者の大切な行場となっている。

荒沢寺 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
荒沢寺 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県是より女人きん制

奥に進む入口に「是より女人禁制」と刻まれた石塔が立っている。女性はこれ以上月山には近づけなかった。石燈籠が建ち並ぶ道を進んでいくと右におれた所に使われているのかよくわからない建物があった。旧道は左におれてまもなく山中に消えていった。旧登山道は月山八合目に至る県道211号に沿って所々に残っているようである。

6月6日(新暦7月22日)

月山

資料34

八日、月山にのぼる。

木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。

笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。

六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原こや 有中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。 御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。 先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。 (曽良随行日記)

芭蕉が月山に登ったのは6月6日(陽暦7月22日)。奥の細道では8日(7月24日)となっているが曽良の記録の方が信用できる。いずれにしても夏の暑い時期である。芭蕉は白装束にあらため、宝冠を巻き、木綿注連(ゆうしめ)を首にかけ金剛杖を手にして月山頂上をめざした。

羽黒山月光地蔵尊 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
羽黒山月光地蔵尊 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

芭蕉を追って月山に登る。荒沢寺からの月山旧登山道は境内の奥で林の中に消えていた。かわって県道211号を歩いていく。ほどなく丁字路角に、「菊田旅館」の看板と地蔵堂があった。覗いてみると月光地蔵尊が安置されている。この道が荒沢寺に通じる旧登山道かと入ってみたが、そうでもなさそうだ。

車道を更に上がっていくと右手に「東北自然歩道羽黒修験者のみち」の石標があって細い山道が林の中に延びている。多分これが旧登山道の名残であろうと思われた。ただし荒沢寺までつづいているかは疑わしい。

月山半合目(傘骨) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県
月山半合目(傘骨) 羽黒山 羽黒町手向 鶴岡市 山形県

少し行くと左手に「傘骨(からかさぼね)」の標識が出てきた。ここが半合目だという。ここから月山ビジターセンターまで引き返し8合目までいくバスを待つことにした。

登山道は傘骨から1合目の海道坂、2合目大満原(だいまんばら)、3合目の神子(巫女)石(禁を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石になってしまった)、4合目 強清水、5合目 狩籠(かりごめ)、6合目 平清水、7合目 合清水(高清水)と続く。各合目には停留所が設けられているが誰も利用しない。6合目から8合目までは旧登山道が残っていて旧道沿いにキャンプ場もある。

バスは8合目(標高1440m)までノンストップでやってきた。芭蕉も7合目(標高1060m)まで馬に乗ってきた。

月山 庄内町 東田川郡 山形県
月山 庄内町 東田川郡 山形県

8合目駐車場からいよいよ久しぶりの山登りである。レストハウスの裏側から登山道に入る。案内図を見て分かれ道を左にとった。なだらかな上り道だ。所どころに木道が設けられてハイキング気分である。後ろを振り返ると白装束に杖を手にした集団がつづら折りに登ってくる。どうやら女性のようだ。木道の片側によって道をゆずった。先導役は山伏姿の男性である。思い出したように気だるい法螺貝の音を鳴らす。

女人講中 月山 庄内町 東田川郡 山形県
女人講中 月山 庄内町 東田川郡 山形県

先導役を遣り過ごし、しばらく女人講中の撮影に集中した。皆目をあわせないようにして通り過ぎていく。純白の衣裳がまぶしい。晒だそうだが艶を帯びて絹にみえる。頭部の宝冠も巻き方が少しずつ違っていて個性を出しているようだ。一団の最後尾を見届けて後を追った。

月山中之宮 庄内町 東田川郡 山形県
月山中之宮 庄内町 東田川郡 山形県

8合目から15分ほどで中之宮に着く。ここに御田原神社が鎮座する。小さな社殿だが、月山神社本宮の20年に一度の式年遷宮による古材をそのまま用いて建てられる。月山頂上の本宮参拝が叶わない人はここを遥拝所とした。

月山中之宮 庄内町 東田川郡 山形県
月山中之宮 庄内町 東田川郡 山形県

左手の一角に白布をかぶった石地蔵と風車、その前に紅の細い炎をゆらす蝋燭の列が恐山でみた光景を思い出させた。

ここで東に分岐する道がある。芭蕉はこの道をとって東補陀落に赴いた。修験者の秘所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に御浜池がある。一般の月山参詣者は中之宮を直進して上を目指す。

弥陀ヶ原 月山 庄内町 東田川郡 山形県
弥陀ヶ原 月山 庄内町 東田川郡 山形県

登山道の十字路に差しかかる。8合目で右回りした道との合流点である。その道をすこしたどってみると弥陀ヶ原と呼ばれる湿原帯が広がって高原状の緩やかな斜面に池塘が点在している。それらの中に遠くポツンと見える中之宮の小屋を見下ろす風景は素晴らしい。

芭蕉と曽良はここにあった小屋で昼食をとった。

無量坂 月山 庄内町 東田川郡 山形県
無量坂 月山 庄内町 東田川郡 山形県
畳石 月山 庄内町 東田川郡 山形県
畳石 月山 庄内町 東田川郡 山形県

無量坂を越えたあたりから勾配が次第にきつくなって足元が岩っぽくなってくる。「畳石」と書かれた標識を通り過ぎる。左手斜面に雪渓が見られる。芭蕉は「氷雪をふみしめてのぼること八里」と書いているが、誇張は8里という道のりばかりでなく、寒さについても今と10度ほどの温度差があるようだ。ちなみに2014年9月7日羽黒町 平地最高気温は26度で、月山頂上は15度であった。

仏生池小屋(9合目) 月山 庄内町 東田川郡 山形県
仏生池小屋(9合目) 月山 庄内町 東田川郡 山形県
仏生池(9合目) 月山 庄内町 東田川郡 山形県
仏生池(9合目) 月山 庄内町 東田川郡 山形県

手荒い畳石を上がりきってようやく九合目地点に到達した。8合目から1時間半、標高1720m。小屋の手前に地蔵が数体と真名井神社の石室が並び、その後ろに仏生池という小さな池がある。登山者はほとんどが小屋の外で休み、中はガランとしている。池を眺めながら5分ほど足を休ませて、頂上に向かう。

前方に見えるのは月山頂上ではなく、オモワシ山(1828m)。真の頂上を隠し自らを頂上と「思わし」めることから名づけられた思わせぶりな山である。

雪渓(9合目~頂上) 月山 庄内町 東田川郡 山形県
雪渓(9合目~頂上) 月山 庄内町 東田川郡 山形県

ガスが立ちこめてきた東側斜面にも雪渓をみた。草木はうっすらと色づき始めている。

行者返し(9合目~頂上) 月山 庄内町 東田川郡 山形県
行者返し(9合目~頂上) 月山 庄内町 東田川郡 山形県行者返し 頂上まで約1,400m 役の行者が月山登拝の折 月山大神より修業未熟を 悟され羽黒山へ戻された地

景色に見惚れるのはその辺までで、やがて「行者返し」と呼ばれる難所に差しかかる。畳石の数十倍もの大きな岩が気まぐれに組まれたような急坂である。昔、役行者が月山登拝の折、月山大神が現れて、修行が未熟であるからと羽黒山へ押し戻されたところと伝えられる。両手を使わないと上がり下りできない。坂途中の右脇に来名戸神社という小祠があった。

モックラ坂 月山 庄内町 東田川郡 山形県
モックラ坂 月山 庄内町 東田川郡 山形県

難所を越えるとモックラ坂とよばれる最後の行程に入る。比較的なだらかな稜線には大きめの畳石や木道が敷かれ、休み場所のような踊り場もある。

最後の岩場をこなすと先に頂上の山小屋が見えてきた。

山頂手前 月山 庄内町 東田川郡 山形県
山頂手前 月山 庄内町 東田川郡 山形県

芭蕉は「息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕る」と記している。南谷から月山山頂まで約24kmの道のりである。早朝に出てまる一日かかった。私の道程は5kmを3時間余り。たどり着いたのは昼過ぎ。長袖一枚で、浸み込んだ汗が冷たかった程度であった。日没となればかなり寒くなるのであろう。但し曽良の日記によれば、二人が頂上に着いたのは3時半ころだから、芭蕉は月が顕れる情景を記したかったばかりに到着時刻を3時間程遅らせた。寒さも3時半であれば、身が凍えるほどではなかったはずである。

月山頂上 庄内町 東田川郡 山形県
月山頂上 庄内町 東田川郡 山形県

頂上は石垣に囲まれた月山神社が占拠していて自由に入れない。本宮入り口には宮司が立っていて500円のお祓いを受けなければ入れてくれない。さらに「撮影禁止」の大きな掛札があった。つまり月山の頂上(最高地点)の記録写真が撮れないということになる。山が神体であるから当然ととるか、公益を侵害する権利の濫用ととるか。私は後者に組みしたい。

月山神社本宮(月山頂上) 庄内町 東田川郡 山形県
月山神社本宮(月山頂上) 庄内町 東田川郡 山形県

結局標高1984mの月山頂上を見ず、本宮を外から写しただけで下山することになった。

三角点があるらしいがそれがどこかの標識はあえて設けられていない。また三角点は頂上よりも低い位置にある。国土地理院も月山神社本宮のルールを免れることは出来なかった。

芭蕉句碑 月山 庄内町 東田川郡 山形県
芭蕉句碑 月山 庄内町 東田川郡 山形県雲の峰いくつ崩れて月の山

芭蕉は月山神社に参詣したあと、頂上より少し下った角兵衛小屋に1泊した。笹を敷いた小屋で、いでは文化記念館に復元されていることは前に述べた。写真で見た限りでは山風に吹き飛ばされそうな粗末な小屋だった。現在は立派な山小屋が建っていて、前に「月山頂上小屋 1984m」 と書かれた標識が立っている。小屋の位置は1940mで頂上より50m近く低い。頂上の記録写真が撮れないので皆ここで列をなして撮る。

湯殿山へ下りる稜線に「雲の峯いくつ崩れて 月の山」の芭蕉句碑が建つ。芭蕉の月山登拝270年を記念して昭和33年(1958)7月に建てられた。朝方綺麗に晴れていた月山頂上付近が、昼が近づくにつれ霧が立ち込めるようになり、しばらくして晴れるとまた曇ってくる。その繰り返す様を詠んだものであろう。9合目以下は常に明るい日であった。「雲の峯いくつ崩れて」を実感することができたのは収穫である。

6月7日(新暦7月23日)

湯殿山

資料35

谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。

岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。

惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。

坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峯幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良

七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。本道寺へも岩根沢へも行也。 牛首コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前よりスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡へ出ル道有)。是より奥へ持タル金銀銭持テ不レ帰。惣 而取落モノ取上ル事不レ成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊より弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。 (曽良随行日記)

芭蕉と曽良は翌朝夜明けとともに月山を下って湯殿山神社に向かう。そこから六十里街道で鶴岡に至る道があるのを承知で、二人は月山にひき返し羽黒山南谷まで帰る行程を選んだ。タフな人たちである。

月山から湯殿山方面下山 月山沢 西川町 西村山郡 山形県
月山から湯殿山方面下山 月山沢 西川町 西村山郡 山形県

頂上から西の方向を見渡すと、尾根伝いの道が細く延びている。右の谷は薄暗く雲が垂れ込めている。その谷底に湯殿山神社がある。そこまでおよそ6kmだが、下り坂だから3時間あれば十分だろうと思っていた。左、南側の斜面はなだらかで明るく雪渓が点在している。スキー場があるようだ。

険しい岩道をゆっくり降りる。

鍛冶小屋跡・鍛冶稲荷神社 月山沢 西川町 西村山郡 山形県
鍛冶小屋跡・鍛冶稲荷神社 月山沢 西川町 西村山郡 山形県

しばらくして岩で囲まれた一角に来た。石組の中に赤い鳥居と鍛冶稲荷神社がある。ここはむかし刀鍛冶が住んでいた鍛冶小屋跡である。鎌倉時代月山の霊場に住んだ鬼王丸を元祖とする刀工集団「月山」の末裔とされる。今も大坂に移住した一派が月山家を継承し日本刀匠第一人者として活躍している。

月山~牛首 西川町 西村山郡 山形県
月山~牛首 西川町 西村山郡 山形県姥ヶ岳に向かう尾根道
牛首 西川町 西村山郡 山形県 山形県
牛首 西川町 西村山郡 山形県 山形県左:至姥沢小屋 リフト 右: 手前 月山山頂1.1km 前方 湯殿山神社 4.5km

下りはじめて約半時間、急坂が一段落したところで「牛首(標高1692m)」とよばれる分岐点に来た。左は月山スキー場の姥沢小屋へ下っていく。右は尾根まで上がって湯殿山へ向かう道である。「前 月山山頂1.1km 前方 湯殿山神社 4.5km」とある。頂上から前後して一緒に降りてきた登山客の過半数は左の道に消えて行った。

金姥追分 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
金姥追分 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県左: 前方 姥ヶ岳0.5km 手前 月山頂上2km 右: 湯殿山神社 3.6km

牛首からさらに半時間ほど姥ヶ岳に向かう尾根道を進んでいくと「金姥(かなうば)」追分(標高1622m)に来る。真直ぐいけば姥ヶ岳(標高1670m)までは500mほど。殆どの人が真直ぐ歩いて行った。湯殿山神社へは右に折れて北斜面を下る道になる。雲が谷に向かって不気味に下りていく。斜面は急で足元が不安になる。前後に人気が途絶えて孤独な気分が襲ってきた。

金婆~清め川 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
金婆~清め川 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県

斜面中腹の細道をしばらくたどって、道は左の山中に入っていった。谷筋を下っていく。正面に見えるのが湯殿山(標高1504m)で、その500mほど下の谷底に本宮がある。

石跳川源流(清め川) 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
石跳川源流(清め川) 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県「不浄汚離、コヽニテ水アビル」 曽良随行記

「清め川」と呼ばれる沢を渡る。石跳川の源流である。曽良が水を浴びたのがここだ。

池塘 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
池塘 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県

ここから装束場まで清め川に沿って下りていく。比較的歩きやすい道であった。途中湿地帯には池塘も見られる。

装束場 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
装束場 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県左面: 至 玄海広場(ネイチャーセンター) 正面: 右 至 月山頂上 左 至 湯殿山

やがて「装束場」といわれる丁字路に出た。金姥から1.4km、月山頂上から2.5kmの地点、標高は1300m位である。ここで湯殿山神社参詣者は草鞋を履き替え、衣服を改めた。また、真言宗である湯殿山と天台宗の月山では宗派が異なるのでここで衣装を着替えて行き来したとも言われている。数年前まではここに薬湯を飲ませる施薬小屋があったらしいが、今は使えないトイレのようなものがあるだけである。説明板もない。

標識に従ってここを右折して、最大の難所といわれている月光坂に挑む。

月光坂 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
月光坂 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県

垂直に近い崖道を目の前にしてため息がでた。谷底に道路がみえる。湯殿山神社はそこにあるのだ。300mの標高差を一気に下ることになる。両手を使って岩場を一歩ずつ降りる。首にぶら下げたカメラが左右前後に揺れるが支える手がない。岩にぶつけないようにするのがせいぜいだった。

まもなく鉄梯子が設けられた坂に来た。月光坂の金月光という。「金」は鉄梯子のことか。新旧混ざった計4連の鉄梯子で250mを下る。腹ばいの格好で一歩一歩慎重に段を確かめる。カメラが時々梯子に当たる。

最後の金梯子を下りて一息つく。膝が体重を支え切れなくなって来た。岩に腰かけて休んでいると同じくらいの年配者が追い越していった。「きついですね」と愛想を振り向けると「おいくつですか?」と唐突に聞いてきた。「68です」「私と同じくらいですね。まだまだ若いですよ」といって健脚ぶりをみせた。よけいなお世話だ。

金月光についで水月光の急坂がつづく。傍を流れる山水が、雨天の時には滝水となって坂道を流れていくことから名づけられた。梯子はいらなくても足元は相変わらずきつい。月山の行者返しを下りていく恰好である。

小刻みに休みながらようやく谷底にたどりついた。砂防ダムを右手に梵字川沿いの道をすこし歩いたところで本宮参拝口に到着した。疲れでそばに芭蕉の句碑があることに気付かなかった。

湯殿山神社参拝口 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
湯殿山神社参拝口 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県

ここから裸足になってお祓いを受け湯殿山神社の神体を拝む。湯殿山神社は、もともと鉄分を含む温泉が湧き出ている大きな岩を神体とし、社殿はない。巨岩は鉄分で赤くそまり、色形が女陰を思わせる。しかも宗教的には月山で死に湯殿山で生まれ変わるという。色合いや姿だけでなくその意味合いも込めて、神体は女性器を象徴しているのである。そしてこのことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められている。

芭蕉は、「惣て、この山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。」と書き、

語られぬ湯殿にぬらす袂かな と詠んだ。語れないことへの無念さがにじんでいる。

湯殿山本宮大鳥居 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県
湯殿山本宮大鳥居 六十里山 田麦俣 鶴岡市 山形県

さて、芭蕉はここから月山に引き返した。昼ごろに頂上に着き昼食をとってすぐに下山した。4合目の強清水まで南谷の使いが弁当を持参して迎えに出ていた。南谷に帰り着いたときは日が暮れていた。曾良は、この日の日記に、「甚(はなはだ)労(つか)ル」と書いている。そりゃそうだろう。私は湯殿神社から4時半の最終バスに乗って鶴岡までもどった。一時間余りのバスの中で死んだように座席に沈んでいた。往復4時間以上の山登りはもう止める。

6月10日(新暦7月26日)-6月13日(新暦7月29日)

鶴岡

資料36

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ

暑き日を海にいれたり最上川

7日に南谷に戻った二人は8日、9日と別院で休養した後、10日の午後、芭蕉は呂丸宅から馬に乗り、鶴岡に向かった。荒川、黒瀬、三橋の集落を経て鶴岡城下まで約12kmの道で羽黒街道とよばれている。

大鳥居 羽黒町玉川 鶴岡市 山形県
大鳥居 羽黒町玉川 鶴岡市 山形県

三日に通った手向の三叉路をまっすぐに進む。県道47号線を斜めに渡って旧道の延長を進み、羽黒高校の手前で県道に合流する。真直ぐな下り坂の先に朱色の大鳥居が道を跨いで建っている。街道は羽黒山の丘陵から広々とした庄内平野に降りていく。

皇大神社 羽黒町野荒町 鶴岡市 山形県
皇大神社 羽黒町野荒町 鶴岡市 山形県

野荒町集落の羽前泉局のすこし手前右手に皇大神社があり、境内に大きな古峰神社、出羽三山碑、庚申塔の石塔が並んである。

旧羽黒街道 西田 羽黒町荒川 鶴岡市 山形県
旧羽黒街道 西田 羽黒町荒川 鶴岡市 山形県

荒川集落で羽黒庁舎を通り過ぎ今野川を渡った先で県道47号と分かれて、右の旧道に入る。古い石橋や白壁土蔵などの家並みが見られる懐かしい景色が残っている。

黒瀬川船着場跡 羽黒町黒瀬 鶴岡市 山形県
黒瀬川船着場跡 羽黒町黒瀬 鶴岡市 山形県

県道に戻るとすぐに黒瀬川を渡る。橋の手前右手に船着き場跡の標柱が立っていた。

山神社 羽黒町三ツ橋 鶴岡市 山形県
山神社 羽黒町三ツ橋 鶴岡市 山形県

三ツ橋地区にも右手に旧道が残っており、入ったすぐ右手に赤い鳥居が鮮明な山神社がある。

民家 熊坂 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県
民家 熊坂 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県

同じ旧道の先、熊坂集落には左手に出窓を設けた板壁土蔵をもった民家が目に付いた。趣ある佇まいである。

北白川親王停車記念碑・旧羽黒街道 地蔵俣 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県
北白川親王停車記念碑・旧羽黒街道 地蔵俣 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県

旧道は県道を斜めによこぎって赤川に突き当たる。右手の公園風緑地に「北白川親王停車記念碑」が建っている。明治14年明治天皇巡幸の際、代理として北白川親王が松ヶ岡開墾場を視察したときに、ここで休憩した場所だという。松ヶ岡開墾場は明治維新後に旧庄内藩士3,000人によって開墾され桑園を完成、明治10年には大蚕室10棟が建設されてその後製糸工場と絹織物工場が創設された国指定史跡である。

羽黒橋・赤川 地蔵俣 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県
羽黒橋・赤川 地蔵俣 羽黒町赤川 鶴岡市 山形県
奥の細道(銀座通り) 本町1丁目 鶴岡市 山形県
奥の細道(銀座通り) 本町1丁目 鶴岡市 山形県

赤川羽黒橋でわたると鶴岡市街に入る。羽黒街道はそのまま県道47号を鶴ケ岡城跡の鶴岡公園に向かって進むが、奥の細道は内川に架かる鶴園橋の二つ手前の信号交差点を右折して銀座通りを北上する。右手に三井家蔵屋敷がある。このあたりは旧下肴町で、繁華な商店街だった。

銀座通りは内川に突き当たって終わる。右手川沿いにも海鼠壁の土蔵が残っていて往時の面影を伝えている。

奥の細道 山王町 鶴岡市 山形県
奥の細道 山王町 鶴岡市 山形県内川芭蕉乗船場から長山宅への小路

今泉橋で川端通と合流して山王通が北に続く。今泉橋を渡ってすぐ右折し、山王通より一筋東の小路が芭蕉が通った奥の細道である。内川縁に「奥の細道内川乗船地跡」の説明板があり、小路の入口には「松尾芭蕉翁滞留の地 長山重行宅跡 この先100m右折2軒目」と記した標柱が立っている。特段古い家並みがあるわけではないが、何となく嬉しい。

長山五郎右衛門重行宅跡 山王町 鶴岡市 山形県
長山五郎右衛門重行宅跡 山王町 鶴岡市 山形県

出羽三山を巡拝した俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689)6月10日(今の暦で7月26日)、羽黒山を下って鶴岡城下に住む庄内藩士、長山五郎右衛門重行の屋敷に入った。 芭蕉翁は三山巡礼の疲れからかすぐに休息したが、夜になって曽良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」はそのときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。 翁は重行宅に3日……

説明の全文を読む(約340字)

出羽三山を巡拝した俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689)6月10日(今の暦で7月26日)、羽黒山を下って鶴岡城下に住む庄内藩士、長山五郎右衛門重行の屋敷に入った。 芭蕉翁は三山巡礼の疲れからかすぐに休息したが、夜になって曽良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」はそのときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。 翁は重行宅に3日間滞在し、13日に近くの内川船着き場から川船で酒田に向った。 長山重行は、呂丸や岸本公羽と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。重行は元禄13年に屋敷替えになるが、このあたりは今でも長山小路とよばれている。 下: 句碑 めづらしや山をいで羽の初なすび 芭蕉

芭蕉句碑(日枝神社)山王町 鶴岡市 山形県
芭蕉句碑(日枝神社)山王町 鶴岡市 山形県珍らしや 山をいで羽の 初茄すび

指示通りに歩いて無事目的地にたどり着いた。鶴岡まちなかキネマの広い駐車場の北西角にあたる。遺構はなにもなく、説明板と芭蕉句碑があった。

めづらしや山をいで羽の初なすび

同じ句碑は山王町日枝神社境内の弁天島にもある。

長山重行は、呂丸と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。 芭蕉は三山巡礼の疲れがひどくすぐに休息したが、夜になって曽良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」はそのときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。丸くて小さなナスである。道の駅や直販所で尋ねたが、8月が収穫時期で今はどこにも売っていなかった。酒田からの帰路寄った大山では漬物処本長で民田ナスの漬物を買うことができる。ただし、芭蕉が食べたであろう浅漬けとは違って、この時期に並べられている漬物は色といい形といい原形を留めていない。

奥の細道内川乗船地跡 山王町 鶴岡市 山形県
奥の細道内川乗船地跡 山王町 鶴岡市 山形県元禄2年(1689)の春に江戸を出て、陸奥から出羽をめぐっていた俳聖松尾芭蕉は、6月10日(陽暦7月26日)に羽黒山を下り、鶴岡城下の庄内藩士長山重行宅で地元の俳人たちと誹諧を楽しむ3日間を過ごした。 13日にはこの内川の船着き場から船で酒田に赴いた。 当時の酒田通いの船は、内川より赤川を経て最上川河口の酒田まで7里(約28km)、ほぼ半日を要したという。

芭蕉は重行宅に3日間滞在し、13日に内川船着き場から川船で酒田に向った。疲れが残って鶴ヶ岡城下の見物はしていない。鶴岡は洒井家14万石の城下町であった。藩内の商都酒田に対し、鶴岡は主として武士中心の政治の町であった。私は鶴岡公園致道博物館庄内藩校致道館を始め豪商風間家の丙申堂など市街地中心周辺を見て回った。すべて内川の西側に位置して奥の細道からは離れた所にある。それらの見聞は、六十里街道や出羽街道の終着点としての鶴岡を紹介する機会にゆずることにしよう。

禅中橋 鳥居町 鶴岡市 山形県
禅中橋 鳥居町 鶴岡市 山形県禅中は荒町で米商を営んでいたが、寛政のはじめ、家業を長男にゆずり八日町総穏寺元能和尚の弟子となった。この川が渡し舟だったのを不便に思い托鉢して資金をつくり、文政3年(1820)ここに橋をかけた。翌年82歳で他界した。 昭和48年12月 庄内文化財保存会

13日、内川を船で下る。私はその川岸をできるだけ離れずに追っていくことにした。

川が大きく左に曲がるところに禅中橋が架かっている。その袂に禅中和尚の石碑がある。禅中は寛政のはじめ(1790年代)荒町で米商を営んでいた商人だが、出家して日頃不便を感じていたこの渡しに橋を架けた人物である。

荘内柿原木 鳥居町 鶴岡市 山形県
荘内柿原木 鳥居町 鶴岡市 山形県

すぐ先左手に「庄内柿の原木」という案内板が目に止り、興味につられて路地を入っていった。民家に囲まれた畑の一角にその木がまだ青い柿の実を鈴なりに付けていた。明治18年、鳥居町に住む鈴木重光が越後からきた行商人から何本かの柿の苗木を購入し、そのなかの一本だけが他のものとは形の違う実をつけたのだった。その実は形が偏平で四角ばっていて、しかも種がなかった。その後酒井調良が普及させ全国的にしられる柿となった。但しこれは渋柿で、焼酎ヘタに塗って渋抜きせねばならない。

内川(赤川合流点手前付近)道形 鶴岡市 山形県
内川(赤川合流点手前付近)道形 鶴岡市 山形県

内川は流れを北に向け赤川と合流する。

文下のケヤキ 文下 鶴岡市 山形県
文下のケヤキ 文下 鶴岡市 山形県

所在地鶴岡市大字文下字村の内 五十嵐氏の宅地内にある八坂神社の神木として古来斧を入れることなく保存されてきた。 主幹は、東北方へ約70度ばかり傾いており、従って西南面は80cm根上がりとなっている。根周は11m、目通りの幹周は、8.8m、地上6mのところで、三方に分枝し、樹勢は頗る旺盛で高さはおよそ28mにおよぶ。樹令は、800から900年と推定される。国指定天然記念物 指定年月日昭和26年6月9……

説明の全文を読む(約220字)

所在地鶴岡市大字文下字村の内 五十嵐氏の宅地内にある八坂神社の神木として古来斧を入れることなく保存されてきた。 主幹は、東北方へ約70度ばかり傾いており、従って西南面は80cm根上がりとなっている。根周は11m、目通りの幹周は、8.8m、地上6mのところで、三方に分枝し、樹勢は頗る旺盛で高さはおよそ28mにおよぶ。樹令は、800から900年と推定される。国指定天然記念物 指定年月日昭和26年6月9日平成3年12月31日 山形県教育委員会

文下集落の洞雲院の先で細い路地を堤防方向に入っていくと左手五十嵐氏の宅地内に八坂神社の神木となっているケヤキの巨木が聳えている。文下のケヤキとして知られる国指定天然記念物で樹齢は800年以上、高さは28mに及ぶ。路地の突当りから赤川堤防に上がってみると、川を行き交う船からもひときわ目立った存在で、さぞかし芭蕉も眺めたのではないかと思われる。

宇賀神社・蛇にお 押切新田 三川町 東田川郡 山形県
宇賀神社・蛇にお 押切新田 三川町 東田川郡 山形県約200ほど昔、赤川の大洪水の際小さな「藁にお」がこの場所に流れついた。「にお」の中から双頭の蛇が現れたと伝えられ、宇賀神社の前立は蛇であることから使神の蛇の棲み家として祀られてきたものと思われる。以下略 平成2年3月30日 三川町教育委員会

文下集落を通り抜けて県道333号を右折して蛾眉橋で赤川を渡る。赤川右岸は東田川郡三川町である。押切新田集落内の旧道沿い右手に宇賀神社があり祠の隣に藁を円錐形に積み上げた「にお」がある。約200ほど昔、赤川の大洪水の際小さな「藁にお」がこの場所に流れついた。「にお」の中から双頭の蛇が現れたと伝えられ、その後神の使者である蛇の住み家として祀られているという。

山の神のケヤキ 押切新田 三川町 東田川郡 山形県
山の神のケヤキ 押切新田 三川町 東田川郡 山形県

ケヤキーは風に強い庄内地方の防風林として古くから利用され、親しまれてきた。この「山の神のケヤキ」は樹齢350年から400年といわれ、西風の強い三川町では、防風林の代表として、風土と植物の関連を示す貴重な存在である。三川町では、逞しくすくすくと伸びるケヤキの木を堅実な町民性と町の発展を表徴するものとして、昭和53年に「町の木」として制定した。山の神神社のケヤキは「町の木ケヤキ」の代表として町民から親……

説明の全文を読む(約600字)

ケヤキーは風に強い庄内地方の防風林として古くから利用され、親しまれてきた。この「山の神のケヤキ」は樹齢350年から400年といわれ、西風の強い三川町では、防風林の代表として、風土と植物の関連を示す貴重な存在である。三川町では、逞しくすくすくと伸びるケヤキの木を堅実な町民性と町の発展を表徴するものとして、昭和53年に「町の木」として制定した。山の神神社のケヤキは「町の木ケヤキ」の代表として町民から親しまれている。 規模 根周り 7.05m 樹齢 350~400年 目通り幹囲 6.40m 樹の高さ 25m 枝張り東21m 西 9.6m 南18m 北23.7m 山の神神社の由来 山の神信仰は九州から東北地方|こ存在する田の神との去来民間信仰であり、信仰の目的は多岐にわたり、安産・豊穣・狩猟・漁労・家内安全の神として、祀られている。 当神社の祭神は大山祇命であり、いつ頃からこの咆こ祀られていたかは不詳であるが、向拝柱の斗組に嘉永3年再建と墨書銘があり、相当古くから祀られていたとおもわれる。社殿は木造流れ造り様式であり、鳥居は御影石の明神鳥居様式である。(中略) 神社境内は昔は赤川の川岸であり、船をつないだ所といわれたが、度重なる洪水により川は次第に西へ移行し、現任の地形となっている。祭日は3月12日(現在3月16日)、8月6日、12月12日の年3回である。 平成元年10月 三川町教育委員会

押切新田の県道沿いに山の神ケヤキが聳えている。高さは25mもあり文下のケヤキに遜色ない。山の神神社境内は昔赤川の川岸で、船をつないだ場所だったという。芭蕉は文下だけでなく、このケヤキの大木にも目を魅かれたのではないか。

歌枕橋 押切新田歌枕 三川町 東田川郡 山形県
歌枕橋 押切新田歌枕 三川町 東田川郡 山形県

荘内自動車検査登録事務所の手前で水路に架かる橋の名が「歌枕橋」とある。ここの地名自体が「押切新田歌枕」であった。何かしら由緒ありげな名前ではあるが、見渡しても歌に詠むような景色は見当たらなかった。

この橋の手前で旧道が斜めに交差している。また、県道はこの先で国道7号に合流して赤川から離れていくようなので、川に沿っていく旧道をいくことにした。すぐ先の東洋食品のところで酒田市に入る。

6月13日(新暦7月29日)-6月15日(新暦7月31日)

酒田

赤川沿い旧道 広野杓子 酒田市 山形県
赤川沿い旧道 広野杓子 酒田市 山形県

堤防下の農道を進んで、三本柳といういかにも旧街道風情の集落に入ったとき、図らずも奥の細道の文字が目に飛び込んできた。立札に紙を貼っただけのものだが、説明板の文字が消えてしまった応急処置であろう。

「芭蕉船下りの赤川 元禄2年奥の細道芭蕉と曽良は鶴岡の内川で乗船 赤川を下って6月13日夕方酒田に到着、医師の伊東不玉氏を尋ねた。 不玉宅跡に記念の石碑が立っている。 酒田市 三本柳」

三本柳 広野 酒田市 山形県
三本柳 広野 酒田市 山形県芭蕉船下りの赤川 元禄2年奥の細道 芭蕉と曽良は鶴岡の内川で乗船 赤川を下って6月13日夕方酒田に到着、医師の伊東不玉氏を尋ねた。 不玉宅跡に記念の石碑が立っている。 酒田市 三本柳

と印刷されていた。陸路で芭蕉の船旅を追う道筋として認知された歓びを感じた。

さて、明治以前の赤川はこの先で大山川と合流して北に方向を変え、現県道38号の西側を黒森、坂野辺新田を経て飯森山の北東で京田川と合流して現出羽大橋の手前付近で最上川に注いでいた。最上川河口付近の恒常的な氾濫要因となっていた赤川を、庄内砂丘を横切って赤川を日本海に放流する付け替え工事は大正10年(1921)に開始され昭和11年(1927)に完成した。旧赤川は昭和18年(1952)になって完全に締め切られ、河床は田畑や住宅地に変わってしまった。

赤川河口 浜中 酒田市 山形県
赤川河口 浜中 酒田市 山形県

堤防道を進んで新川橋北詰で県道38号を横切り、100mほど行ったところで黒森集落に降りていく道がついている。旧新川橋が架かっていた場所で、位置は赤川と大山川の合流地点に当たる。ここから赤川の流路方向を維持して西に直進させ、日本海に注ぎ出る赤川新川が開削された。芭蕉の時代はここで舟先を右に旋回させて北に下っていったのである。

好菓翁壽碑 黒森 酒田市 山形県
好菓翁壽碑 黒森 酒田市 山形県

弘化5(1848)~大正15(1926)10.23 酒井調良(好菓翁)は庄内藩の家老を勤めた酒井了明{玄藩)の次男として鶴岡に生まれました。明治の廃藩置県によって帰農し、松岡開墾に従事。蚕糸業に力を注ぐと共に、早くから果樹栽培にも目を向け、明治12年(1879)には、自宅の畑で庄内で初めてりんごを栽培。また明治26年、黒森に農場「好菓園」を経営、新品種核無(たねなし)柿を栽培し「調良柿」と呼ばれま……

説明の全文を読む(約340字)

弘化5(1848)~大正15(1926)10.23 酒井調良(好菓翁)は庄内藩の家老を勤めた酒井了明{玄藩)の次男として鶴岡に生まれました。明治の廃藩置県によって帰農し、松岡開墾に従事。蚕糸業に力を注ぐと共に、早くから果樹栽培にも目を向け、明治12年(1879)には、自宅の畑で庄内で初めてりんごを栽培。また明治26年、黒森に農場「好菓園」を経営、新品種核無(たねなし)柿を栽培し「調良柿」と呼ばれました。のちに「平核無」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれを育苗し普及に努めました。また自ら好菓翁と称し、真桑瓜や西瓜を栽培、地域農業の振興に尽くしました。平核無柿は現在では「庄内柿」の名が用いられ、庄内の代表的な名産品となっています。平成5年3月 酒田市教育委員会

黒森集落入口に大きな石碑が建ってある。鶴岡で内川船下りをはじめた早々に寄り道して見てきた、庄内柿の育苗、普及に努めた功労者、酒井調良(好菓翁)の顕彰碑である。酒井調良(弘化5(1848)~大正15(1926))は庄内藩の家老を勤めた酒井了明の次男として鶴岡に生まれた。明治になって帰農し松岡開墾に従事、蚕糸業に力を注ぐ傍ら果樹栽培にも目を向け明治26年には黒森に農場「好菓園」を経営して庄内柿原木から新品種核無(たねなし)柿の栽培に成功した。「調良柿」、後に「平核無」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれの育苗、普及に努めた。平核無柿は現在では「庄内柿」の名が用いられ、庄内の代表的な名産品となっている。

坂野辺新田 酒田市 山形県
坂野辺新田 酒田市 山形県

日本海東北自動車道をくぐり坂野辺集落を北上する。江戸中期、荘内砂丘と赤川流域の狭間に開発された集落で、芭蕉が赤川を下っていった当時はまだ、原生林が延々と続く地域ではなかったかと思われる。そのような歴史を刻む石碑が八幡神社の入口に建っていた。

八幡神社 坂野辺新田 酒田市 山形県
八幡神社 坂野辺新田 酒田市 山形県

左:坂野辺記念碑 右:佐藤瀧蔵君功績碑 坂野辺新田は、広岡新田村の佐藤太郎右衛門による地続山植林事業により、宝暦14年(1764)、黒森から移住し、開村したことに始まります。狢山一円の山林は嘉永4年(1851)と嘉永6年に村で購入しましたが、明治10年(1877)官有林として編入されてしまいました。このため、村民は明治31年(1898)払下げを願い出ましたが却下されました。再び明治38年(1905……

説明の全文を読む(約300字)

左:坂野辺記念碑 右:佐藤瀧蔵君功績碑 坂野辺新田は、広岡新田村の佐藤太郎右衛門による地続山植林事業により、宝暦14年(1764)、黒森から移住し、開村したことに始まります。狢山一円の山林は嘉永4年(1851)と嘉永6年に村で購入しましたが、明治10年(1877)官有林として編入されてしまいました。このため、村民は明治31年(1898)払下げを願い出ましたが却下されました。再び明治38年(1905)、佐藤瀧蔵が行政訴訟を起し、45年にようやく107町歩余の払下げに成功しました。この碑は開村当時と払下げに尽力した人々の苦労を顕彰し、大正2年(1913)に建立されました。平成5年3月 酒田市教育委員会

旧赤川流路をたどる旅もこの先は砂丘と森林が混在する地域にはいり、土地区画整理と開発が混在して昔の道筋があいまいになってきた。三叉路を右折して県道38号に出、すぐの大きな交差点を左折して県道355号に乗り、飯盛山公園の西端を進む。この公園に写真家土門拳の記念館がある。指紋や毛穴までみえそうな精密クローズアップ人物や仏像写真で知られる。時間の都合で寄らなかった。

出羽大橋・最上川 入船町 酒田市 山形県
出羽大橋・最上川 入船町 酒田市 山形県

国道112号にでて出羽大橋を渡る。宮野浦地区である。最上川河口は氾濫の度にその流路を変え、それに伴って渡し場や船着き場が頻繁に変わった。残念ながら芭蕉が赤川から最上川に出て船を上がった場所はひろくこの辺りという他ない。曽良の日記には「船の上七里」とある。本合海から清川までの最上川下りが五里だったから、それを上回る船旅であった。

不玉亭跡 中町1丁目 酒田市 山形県
不玉亭跡 中町1丁目 酒田市 山形県元禄2年(1689)の夏、芭蕉と曽良が訪れた伊藤玄順(俳号不玉)宅跡である。象潟行の前後を通じ9泊した「奥の細道」ゆかりの地であり、この間翁は左の名句を残した。不玉の墓は妙法寺に再建されている。 暑き日を海に入れたり最上川 温海山や吹うらかけてゆふ涼 初真桑四にや断ン輪に切ン

芭蕉が酒田に到着したのは6月13日(陽暦7月29日)の夕刻。二人は伊東玄順宅に草鞋を脱いだ。玄順は藩主の侍医であり、不玉(ふぎょく)と号して酒田俳壇の中心的存在であった。酒田市役所前の交差点に立つ大きな案内標識にしたがって、旭ビルと本立ビルの間の通りを北に入った二つ目の十字路手前左手の駐車場空地に「芭蕉逗留の地 不玉宅址」の記念碑がある。芭蕉はこの家に6月13日に到着し、象潟への往復3泊4日間をはさんで、25日(陽暦8月10日)まで、都合9泊をこの不玉宅で過ごした。

旧鐙屋 中町1丁目 酒田市 山形県
旧鐙屋 中町1丁目 酒田市 山形県鐙屋は、酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えております。当時の鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどでした。屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、 内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。昭和59年に国の史跡指定を受けました。

酒田は最上川河口に発達した湊町で、古くから北陸道と奥州街道を結ぶ最上川水運の拠点として、また江戸時代には蝦夷地と上方を往復する北前船の寄港地として殷賑を極めた。酒田36人衆とよばれる豪商たちが自治組織をもち、「西の堺、東の酒田」と呼ばれた。36人衆の筆頭格が鐙(あぶみ)屋である。市役所から本町通りを挟んだ真向かいに旧鐙屋の屋敷が国指定史跡として保存されている。石置杉皮葺屋根が特徴の町家造りとなっている建物は、弘化2年(1845)に再建されたものである。鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で、その繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどだった。

近江屋跡 中町1丁目 酒田市 山形県
近江屋跡 中町1丁目 酒田市 山形県奥の細道 玉志近江屋三郎兵衛宅跡

鐙屋が店を構える本町通りは豪商が軒を連ねる商都酒田の中心街であった。一筋東に行くと庄内証券前の歩道に「奥の細道 玉志近江屋三郎兵衛宅跡」の標柱が立っている。近江屋三郎兵衛(俳号「玉志」)も廻船問屋を営む36人衆の1人で俳諧に造詣があった。芭蕉は象潟から帰ってきて23日の夜に玉志宅に招かれ、曽良、不玉と共に即興の句会に興じている。

初まくわ 四つにや断たん輪に切らん 芭蕉

近江屋三郎兵衛宅跡の東の信号交差点北東角に酒田市道路元標を見つけた。ここが酒田市の中心であったらしい。

本間家旧本邸 二番町 酒田市 山形県
本間家旧本邸 二番町 酒田市 山形県本間家三代光丘が明和5年(1768)に庄内藩主酒井家のために幕府の巡見使宿舎として建造し、献上した建物である。旗本二千石の格式を有する長屋門構えの武家屋敷で、その奥が商家造りとなっている。 その後拝領し、本邸として使用、戦後には公民館としても利用されていた。武家屋敷と商家造りが一体となっているのは極めて珍しい。県文化財に指定されている。 酒 田 市

その交差点をそのまま東に進むと次の交差点手前左手に本間家旧本邸がある。本間家も酒田36人衆の一人である。北前船によるのこぎり商法で財をなし、利益を不動産投資につぎ込んだ。酒田市の田畑の半分にも及ぶ土地を所有して日本一の大地主となり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と唄われたものである。

本間家旧本邸は、三代光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768)に建築し庄内藩主洒井家に献上した。その後拝領し昭和20年まで本間家住宅として使用していた。建物は瓦葺平屋書院造で、表は長屋門構えの武家屋敷造りで、奥のほうは商家造りとなっている。

奥の細道(寺島彦助宅跡)3丁目 本町 酒田市 山形県
奥の細道(寺島彦助宅跡)3丁目 本町 酒田市 山形県

翌日6月14日(陽暦7月30日)には寺島彦助亭に招かれ連句を興行している。寺島彦助宅は本町通りを西に進んで、国道112号を横断、一筋越えた本町郵便局向かいの駐車場にあった。歩道沿いに「奥の細道安種亭令堂寺島彦助宅跡」の標柱がある。寺島彦助は酒田湊の浦役人で、幕府米置場の管理にあたっていた。安種と号する俳人でもあり、芭蕉が酒田に入った翌日、36人衆の仲間と共に芭蕉を招いて句会を催した。

そのときの芭蕉の発句は「涼しさや海に入りたる最上川」だったが、「奥の細道」では、「暑き日を海に入れたり最上川」に変えられている。

古湊町並み 古湊町 酒田市 山形県
古湊町並み 古湊町 酒田市 山形県

芭蕉と曽良は翌15日、象潟をめざして発った。本町通りから羽州浜街道(国道112号)に出て右折、道なりに国道を進んで光が丘地区を通り抜けたところで右折する国道と分かれて直進、高砂・古湊集落を抜けていく。昔はここから宮海の海岸沿いに続いていたが、今は酒田北港と工業団地で分断された形になっていて旧道筋は消失している。

日向川 比子白木 遊佐町 鮑海郡 山形県
日向川 比子白木 遊佐町 鮑海郡 山形県前方に通行止めの栄橋
旧羽州浜街道 村東 宮海 酒田市 山形県
旧羽州浜街道 村東 宮海 酒田市 山形県

国道7号に出て、宮海海岸口信号を左折して旧道復活地点にでる。丁字路を右折、宮海集落で大物忌神社を通り過ぎる。林道を北上すると日向川にでるが、栄橋は老朽のため通行止め。やむなく国道に出て宮海橋を渡る。対岸は鮑海郡遊佐町である。

(2014年9月)

前ページへ 次ページへ