大田原-黒羽・雲巌寺-余瀬-高久-那須湯本・殺生石-(那須岳)-(黒田原)-芦野
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資料8
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。
「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは 八重撫子の 名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。

矢板から長峰公園の裏側を通る峠の山道を越え、県道52号に出る。ゆるやかな切通しを越えると眼前は田園風景がひろがり、遠くを新幹線が横切っている。このあたりは沢・土屋地域で、江戸時代に開拓された不整形の田圃を整備した記念碑が建っている。沢三叉路を直進して新幹線をくぐり、道なりに右にまがっていくと沢宿にはいる。道の両側に清らかな水が流れ、松が植え込まれた品のよい家並みがみられる。

宿場のおわりで県道52号は右に曲がって佐久山に向う。芭蕉は反対の路地にはいって箒川にでたのだが、県道をすこしあるいて、左手にみえている観音寺に寄って行くことにした。黄金の観音が冬の斜陽をうけてさらに輝いてみえる。本堂のある境内も手入れがゆきとどいていてきれいだった。庫裏の裏庭に曽良の句碑がある。
かさねとは八重撫子の名なるべし
ここから大田原に着くまで、「かさね」の名はくりかえし見ることになる。

芭蕉のあとをおいかけて、沢の集落を通り抜け箒川の土手にでた。日がかなり傾いていた。大田原までまだかなりある。川に架かる橋の名は「かさね橋」。親柱代わりの自然石に蕪村の絵の銅板リリーフがはめ込まれていて、「かさね」をビジュアルに認識することができる。

この橋から先は大田原にいたるまで、広域農道が一直線につづいている。そしてその道が芭蕉が歩いたはるか前に開削されていた日光北街道なのである。芭蕉が「野越にかゝりて、直道をゆかんと」した真っ直ぐな道は今もそのままある。ただし当時は草深い上に多くの道が迷路のように分岐していた原野につけられた道であったから、今のように目をつぶっても歩けるわけには行かなかった。実情は途中で一泊でもしたいくらいの難路であったようだ。「かさね」のエピソードを挿入してそれを牧歌的に編曲した。

薄葉の集落を通り過ぎる。右手に広大な敷地に立派な四脚門をかまえ、白壁土蔵をいくつも配した屋敷がある。玉生を出た芭蕉が薄葉の旧家で昼食をとったといわれているが、その旧家かもしれない。高性寺の樹高20mもある大きなカヤが目に付く。700歳をこえる古木である。芭蕉も見たであろう。道ばたには開墾記念碑や馬頭観音にまじって、豚供養碑というめずらしいものを見た。いずれも那須野ヶ原の昔の情景を髣髴とさせる史料である。その情景の核に「かさね」がいるのはまちがいない。

薄葉から那須塩原市一区町に入る直前に、曽良の句碑がある。句はもちろん「かさね」。昭和51年建立の新しい碑である。

その先右手に「なんじゃもんじゃの木」が赤い鳥居の傍に立っている。その昔、水戸黄門がこの地を訪れて、この木の陰で休息をとった折、供の者に「この木はなんじゃ」とたずねたところ、誰もわからなかったことから「なんじゃもんじゃ」と名付けられたという。正解はハルニレ(春楡)の木だそうだが、葉をすっかり落とした裸木では、いわれてもわからない。黄門も冬にきたのではないか。芭蕉がここを通ったのは水戸黄門が死ぬ11年前のことであったから、そのとき「なんじゃもんじゃの木」としてしられていたかは微妙である。

道は再び大田原市にはいって沿道に家が建ちこみ、景色から那須野ヶ原の「かさね」が消えていった。町中を通りぬけ神明町交差点で、右からきた奥州街道の旧道と合流する。芭蕉は奥州街道に移って金燈籠の前をとおり、蛇尾橋を渡って奥州街道ともわかれ、右に折れて黒羽街道へと歩いていった。金灯篭と松の木の影に隠れるように、後ろの塀にもたれて遠慮がちな芭蕉の足跡があった。
すでに芭蕉の気持ちは雲巌寺にあり、曽良の心は黒羽での情報収集の仕事に移っていた。
元禄2年(1689年)4月3日(新暦5月21日)、芭蕉と曽良は、黒羽に到着した。黒羽には二人の門弟が待っていた。俳号を桃雪、翠桃と名乗る1年違いの兄弟で、芭蕉を接待したときは29歳、28歳という若さだった。本名は兄が鹿子畑高勝、弟が鹿子畑豊明、共に「桃青」の一字をとって桃雪(他に秋鴉)、翠桃と号した。兄高勝は黒羽藩城代、浄法寺茂明の家老で、家督を譲られ「浄法寺」の姓を継いだ。弟豊明は余瀬白旗城の城主大関氏(後黒羽城に移転)の家臣である。
芭蕉と曽良の二人は4月3日(新暦5月21日)から4月20日(新暦6月7日)の半月間もこの黒羽に滞在したわけだが、その間何をやっていたのか、曽良随行日記を参考にして芭蕉みずから語ってもらうことにしよう。一説によると、曽良が隠密の公務を帯びていて仙台藩の動向を探るためにここにキャンプを張ったといううわさがある。芭蕉には関係のないことなので深入りしない。
日光から来る途中、玉生で一泊した後、玉生-(9km)-鷹内-(4km)-矢板-(4km)-沢村-(9km)-大田原-(8km余り)-黒羽、とたどって35kmの道のりを歩いてきた。天気は快晴だったとはいえ、草深い山道に加え、道が縦横にわかれていて迷いやすい那須野の原をよく歩いてきたものだと思う。
松尾芭蕉と曾良は元禄2年4月3日(陽暦5月21日1689年)に日光より今市・船入・玉入・沢村・大田原を経て黒羽の余瀬に住む鹿子畑翠桃を訪ねた。(中略)目じるしとてない那須野の原の道であるので、道なれたこの馬に乗って行き、馬が止まったら返してくださいと貸してくれた。「ちいさき者ふたり馬の跡したひてはしる。独りは子姫にて、名を「かさね」と云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成る……
松尾芭蕉と曾良は元禄2年4月3日(陽暦5月21日1689年)に日光より今市・船入・玉入・沢村・大田原を経て黒羽の余瀬に住む鹿子畑翠桃を訪ねた。(中略)目じるしとてない那須野の原の道であるので、道なれたこの馬に乗って行き、馬が止まったら返してくださいと貸してくれた。「ちいさき者ふたり馬の跡したひてはしる。独りは子姫にて、名を「かさね」と云。聞きなれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成るべし 曾良 」とある。まことに、那須野の有情農夫と八重撫子のようなかわいらしい小娘の挿話に心暖まるものがある。 芭蕉の里 黒羽町
曽良の日記には書いていないが、途中で馬を借りたときのこと。後を小さな子供が二人追ってきて、その一人に名を聞くと、「かさね」といった。あんまり名前がかわいかったので、思わず曽良が一句したためた。その句碑が翠桃邸のすぐ近くの西教寺にあるから見てやって欲しい。
かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
西教寺の門前の道は東山道(関街道)といって源義経が通った日本で一番古い道。余瀬は粟野宿という東山道の宿場だったところ。その証拠になる「余瀬の昔」碑も道沿いにあるから写真に撮っておくとよいと思う。
曽良が自分で詠んだ句を日記に書いていないのはおかしいって?
時々二人の記憶に食い違いがあるの。旅の早々にも、私は草加に泊まったといってるのに、曽良は春日部だと言ってた。互いにいい年だし、その上ずいぶんと古い話だからそういうこともある。正直なところ、芸術的には私のほうが上だが、記憶は曽良のほうがよいと思います。
松尾芭蕉と曾良は、元禄2年4月4日(陽暦5月22日1689年)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれた。(中略)一族をあげて歓待したのでずいぶん居心地がよかったのであろうか、黒羽で13泊、あしかけ14日の長逗留であった。わけても桃雪亭に8泊した。芭蕉は、桃雪のため次のような挨拶の句を詠んだ。曾良の『俳諧書留』に 「秋鴉主人の佳景に対す 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 常法寺図書何がしは、那須の郡黒羽のみた……
松尾芭蕉と曾良は、元禄2年4月4日(陽暦5月22日1689年)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれた。(中略)一族をあげて歓待したのでずいぶん居心地がよかったのであろうか、黒羽で13泊、あしかけ14日の長逗留であった。わけても桃雪亭に8泊した。芭蕉は、桃雪のため次のような挨拶の句を詠んだ。曾良の『俳諧書留』に 「秋鴉主人の佳景に対す 山も庭にうごきいるゝや夏座敷 常法寺図書何がしは、那須の郡黒羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にささへて、亭は東南のむかひて立り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵にかきたるやうになん。水の音、鳥の声、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽くす。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや」とある。桃雪主人の開け放した夏座敷に坐して、遠くの山や前庭の佳景に大していると、山も庭も青々としてそよぎ、さながらこの座敷に入り込んでくるような躍動した生気が感じられるとの意であろう。 芭蕉の里 黒羽町
黒羽についたその足で黒羽城代家老・桃雪に挨拶に行った。そのときは立派な家だったが今は跡形もない。でも近くに直系の子孫がペンションを経営しているそうだ。今日は挨拶だけにして、2kmほど引き返したところにある余瀬の桃翠邸に泊ることにした。二人とも私を尊敬している弟子だから、歓待してくれると思う。近江でもそうだったが、私の旅は、各地にいる弟子廻りをしているみたいなもの。いろいろと助かる。
あらためて桃雪邸に招かれていった。期待通り一日中もてなしてくれた。
資料9
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に 足駄を拝む 首途哉
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も 庵はやぶらず 夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。

天気もよかったし、一同と雲巌寺まで日帰り遠足を楽しんできた。由緒ある山寺で、そこには仏頂和尚が住んでいた庵があるというので、それを見たかったのです。和尚とは深川での知り合い。和尚は歌1首を近くの岩に書き付けたといっていたが、今は境内に私の句碑と一緒になって刻まれている。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
松尾芭蕉は元禄2年4月5日(陽暦5月23日1689年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと人々をいざない山道をにぎやかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。(中略)仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また、参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に 「たて横の五尺にたらぬ草の庵……
松尾芭蕉は元禄2年4月5日(陽暦5月23日1689年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと人々をいざない山道をにぎやかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。(中略)仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また、参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に 「たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやしあめなかりせば」 があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。芭蕉は、樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという礼賛の句を柱に残して惜別した。 芭蕉の里 黒羽町
和尚の庵は裏山の岩窟に立てかけるようにして築かれていて、すごかった。 さすがのきつつきも、仏頂和尚の結んだ山居だけは遠慮してやぶらないだろう。一句できたので柱に書き残してきた。
木啄も庵はやぶらず夏木立
山居は書院の横の山道を登っていくのだが、今は残念ながら通行止めになっていて行けないから、書院のそばに句碑を建てておいた。
雨が続いて桃雪邸で休養した。新暦で云えば5月24日から26日。もう梅雨にはいったのかなあ。かなり退屈。

外は雨だったが、光明寺の住職津田源光に招かれて行ってきた。住職は桃雪の妹の亭主。結局、昼から夜の8時頃迄いてしまった。光明寺は、文治2年(1186)に那須与一が建立したという古い由緒をもつ寺だったけど、その後廃絶して、永正年間(1504~1521)津田源弘により修験堂として再興された。行者堂には高足駄を履いた役行者(えんのぎょうじゃ)の像が祭られていたので、彼の健脚にあやかって旅の無事を祈願してきた。今はその時の一句の碑が立っているだけで、辺りは柿の木と畑だけ。寺跡を偲ぶものはありません。
夏山に足駄(あしだ)を拝むかどでかな
この句に決めるまで、実は他に試作品二つ詠んだのを、曽良が黙って書き留めておいた。舞台裏をみられて恥ずかしいけど、教えるね。
夏山や 首途(かどで)を拝む 高あしだ
汗の香に 衣ふるはん 行者堂
みなさん、どれがいいと思います?
久しぶりに雨は止んだが、どこへも出かけず桃雪邸で終日すごした。
「奥の細道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を尋ねた。時に元禄2年4月3日(陽暦5月21日1689)であった。翁の黒羽滞在13泊14日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝29歳城代家老、廓内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊まり、その間郊外を逍遥しては、暦史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。 那須余瀬 翠桃を尋て 秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 青き覆盆子(いち……
「奥の細道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を尋ねた。時に元禄2年4月3日(陽暦5月21日1689)であった。翁の黒羽滞在13泊14日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝29歳城代家老、廓内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊まり、その間郊外を逍遥しては、暦史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。 那須余瀬 翠桃を尋て 秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 青き覆盆子(いちご)こぼす椎の葉 翠桃 鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。鹿子畑能登の代に、高増が大田原氏から出て大関氏を継ぐに際し、能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。現在は水田と化し、この北隣に墓地のみが残る。以下略 芭蕉の里 黒羽町
桃雪のところが長くなって飽きてきたので、小雨の中を余瀬の翠桃邸ヘ移った。ここも桃雪の家跡よりもひどくなっていて田圃の真ん中に墓場だけが残っている。

桃雪がやってきて、近くの篠原地域の史跡探訪に行こうと誘われた。篠原はさらに草深い原野で、いかにも狐が出そうな場所だった。
最初行ったところは犬追物(いぬおうもの)跡というところ。周囲を土手で囲った馬場で、狐狩りの稽古に犬を放して射るのだという。犬はたまったものじゃない。実際、次に出てくる伝説で、鳥羽院から九尾(きゅうび)の狐を退治するよう命じられた軍勢がここで猛訓練をしたのです。
鎌倉第3代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀亜の礼を鶴岡八幡宮に行い帰途公暁に殺され28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は14歳のときより歌を詠み万葉集、古今集、新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫した。(中略)実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが『金塊和歌集』は実朝の歌集として名がある。この……
鎌倉第3代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(1219)拝賀亜の礼を鶴岡八幡宮に行い帰途公暁に殺され28歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。実朝は14歳のときより歌を詠み万葉集、古今集、新古今集を愛読した。特に万葉集は重宝として賞翫した。(中略)実朝の歌は各種の歌集にのせてあるが『金塊和歌集』は実朝の歌集として名がある。この歌集に「霰」と題して 「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」 が入集している。これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌で、万葉調でしかも実朝の歌境がよく表現されている。賀茂真淵も「人麻呂のよめらん勢ひなり」と称えている。 芭蕉の里 黒羽町 ここは、お稲荷さんと称える作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊とを祭った由緒深い社である。宝前の社殿改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。建久四年(1193)源頼朝が那須遊猟のときこの社に参詣したという伝えがある。また元禄2年4月12日(陽暦5月30日1689)松尾芭蕉はこの篠原の地を訪れている。「奥の細道」に「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ」とある。境内に芭蕉の句碑 「秣おふ・・」 と源実朝の歌碑 「武士の矢並みつくろふ・・・」 がある。また九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がある。なお「狐塚址」は、ここより北東の地の建道沿いにある。 芭蕉の里 黒羽町
次に行ったところが玉藻稲荷神社。玉藻とは九尾の狐が化けていた美女(玉藻の前)のこと。インドから渡ってきた九尾の狐が玉藻の前という名の美女に化けて、鳥羽院を暗殺しようと近づいた。正体がばれて、那須野に逃れた玉藻狐は犬追物跡で特訓した軍勢によって射殺された。その場所に神社が建ったというわけ。
話はまだ続きがあって、九尾の狐はその後巨大な毒石に姿を変え、那須温泉地帯へ飛んでいった。そこで毒気をまきちらして、人々から「殺生石」と呼ばれて恐れられたとさ。それを聞いて是非その石が見たくなったのです。詳しくは那須湯本にて。

今日も天気良好。梅雨の中休みかな。門弟の1人、津久井氏(俳号翅輪)に誘われて、金丸八幡宮に詣でてきた。正式には那須総社金丸八幡宮那須神社という5世紀建立の古い神社だ。那須与一が源平・屋島の戦で、扇の的を射るとき「南無八幡大菩薩、…」と念じた八幡さまとはこの神社だそうだ。参道に高さ30mというサワラの大木があった。魚のサワラだったら知ってるけど、サワラという木の名前ははじめて。ヒノキに似ているようです。
那須の与一は弓の名人ですね。じっとしている男の子の頭に乗せたリンゴよりも波で揺れ動く扇の方が難しいと思いますね。
そんなことよりも隣にあった道の駅がきれいで大きくて素晴らしかった。そこでソバ食べた。

外は雨。桃雪が手料理の重箱を持ってやってきた。この日、翠桃邸に7人あつまって、歌仙ゲームをやった。参加者は、私と、桃雪(「秋鴉」の号で参加)、翠桃、曽良、(津久井)翅輪、桃里、二寸。どんな句を詠んだって? 跡地に建ててある大看板を見て。
私もたくさん句を詠んだのだけど、その内、あまり大したことのない「朝日を拝む」句が明王寺の住職に気に入られて碑を作ってくれました。もう一つはまさに那須野の風景を詠んだ自信作ですが、碑はなぜか九尾の狐と一緒にいます。源実朝もいるからまあいいか。
秣おふ人を枝折の夏野哉 碑は篠原の玉藻稲荷神社に、
今日も又朝日を拝む石の上 碑は黒羽の明王寺にあります。
雨も止み、昨日「行く」と約束した通り、昼から鹿助と一緒に、お別れの挨拶を兼ねて桃雪邸へ行った。曽良は持病がでて、ついてこなかった。仮病を使って、なにかこっそり内職でもしているのかな。
松尾芭蕉は元禄2年4月16日(陽暦6月3日1689年)に余瀬を立って殺生石に向かった。(中略)『奥の細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす 」とある。この句は、余瀬を立って野間までの間で馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される。特……
松尾芭蕉は元禄2年4月16日(陽暦6月3日1689年)に余瀬を立って殺生石に向かった。(中略)『奥の細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす 」とある。この句は、余瀬を立って野間までの間で馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される。特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほととぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる。この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが年代筆者は不詳である。 芭蕉の里 黒羽町
半月も黒羽にいたのでそろそろ次のところへ行こうかと思う。桃雪が大名主・高久覚左衛門への紹介状を書いてくれた。翠桃邸で曽良を拾って、そのまま高久まで行くつもり。野間まで8kmも馬で送ってもらったので楽だった。曽良には又内緒だけど、この馬を引く男が「短冊に一句書いてくれませんか」とせがんだので次の句を書いてあげた。句碑が黒羽の常念寺にあります。馬の話は内緒が多いです。
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
野間から高久まで、距離は10kmとわかっているが、道順をどういったのかよく覚えていない。なにしろ那須野はひろくてわかりにくいから。鍋掛・越堀の宿場を通った記憶はない。車でいくなら那須塩原まで一本道を西に行き、4号国道をすこし北上して旧道を黒磯市内を通って高久へいくのがよいみたい。とにかく、その夜は高久覚左衛門さん宅で泊めてもらった。
雨で出発する気がせず、今日は高久宅にひきこもっていた。ところで、野間は大田原より4km内で鍋掛より1km弱と曽良はいうが、野間と高久の関係はやっぱりよくわからない。野間のことなどもうどうでもいいと思うけどなぜか曽良は距離にこだわっている。

朝地震があった。空は晴れ上がって気持ちよい。2泊もお世話になったお礼に、私と曽良の句を一句ずつ懐紙に書き記して主人に渡した。高久家の庭にはその句文碑が建ってあるし、同じ句碑が高久家の菩提寺である高福寺にもある。
落くるやたかくの宿の郭公 芭蕉
木の間をのぞく短夜の雨 曽良
○概要 那須街道赤松林は、約14,100本(平成16年)のアカマツを主体とする、那須街道の両脇に広がる面積79haの国有林で、樹齢100年を超えるものもあり、また、猛禽類も生息しており、全国的に見ても大変貴重なアカマツの天然林です。○歴史 明治23年から昭和22年迄は、「高久第一御料地」と呼ばれ、旧宮内庁所管の面積165haの御料林でした。終戦直後の食糧増産が必要な時代には、全て開墾される計画もあ……
○概要 那須街道赤松林は、約14,100本(平成16年)のアカマツを主体とする、那須街道の両脇に広がる面積79haの国有林で、樹齢100年を超えるものもあり、また、猛禽類も生息しており、全国的に見ても大変貴重なアカマツの天然林です。○歴史 明治23年から昭和22年迄は、「高久第一御料地」と呼ばれ、旧宮内庁所管の面積165haの御料林でした。終戦直後の食糧増産が必要な時代には、全て開墾される計画もありましたが、那須街道より幅50mは、街道通行者にアカマツ林の美しい風景を供するために開墾されずに残され、昭和25年に日光国立公園に編入されました。街道と那珂川の間の部分の約半分については、薪炭林や防風林として残され、現在はアカマツ林木遺伝資源保存林に指定されています。以下略 林野庁・栃木県・那須町
正午頃高久覚左衛門宅を立って、松子村まで4kmほど馬で送ってもらった。今は赤松並木がきれいらしいが、当時はそんなものなかった。相変わらずの林と原野の連続。松子から湯本までは12km。いつの間にか沿道にいろんなものが建ったねー。高原のリゾート地帯に博物館や美術館が集まるのがよくわからない。「りんどう湖」というかわいい名につらされて貴重な時間を割いていってみたら、子ども向けの遊園地だった。別荘を売る不動産屋も多い。温泉付で安く売り出している広告をよく見かける。夏はいいけど冬が厳しいだろうな。永住するなら夏涼しくて冬あったかいところがいいのだけど。大ファンの高木美保さんはどこに住んでいるのかな。出会ったらサインもらおう。そんなことを考えながら歩くうち、午後2時半頃、湯本の温泉宿・和泉屋五左衛門方ヘ着いた。今日は坂道がきつかったので、温泉につかってゆっくりしよう。
資料10
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に 馬牽むけよ ほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

この日も快晴。昼頃、温泉(ゆぜん)神社ヘ参詣した。大きな鹿が湯に浸かっている石像がおいてある。那須温泉は鹿と縁があるのだそうだ。それで、元湯の名が「鹿の湯」という。神社では神主の越中(宝井氏)が、那須与一が源平屋島の合戦で「扇の的」を射残した鏑矢などの宝物を見せてくれた。そこで一句。
湯をむすぶ誓も同じ石清水
めでたい句だというので、拝殿前の左側に大きな石の句碑を建ててくれた。これを横から見ると私が座ったように見えるらしくて、「翁石」とも呼ばれているみたい。翁にしては肌つやがいいでしょう。
殺生石の由来 殺生石は昭和28年8月12日史跡に指定されました。この由来の概略は 昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年ほど前の鳥羽天皇の御世の日本に渡来しました。この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須野ヶ原へと逃れてきました。その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えました……
殺生石の由来 殺生石は昭和28年8月12日史跡に指定されました。この由来の概略は 昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年ほど前の鳥羽天皇の御世の日本に渡来しました。この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須野ヶ原へと逃れてきました。その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまいました。ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが 会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封じましたのでようやく毒気も少なくなったと語り伝えられています。芭蕉は元禄2年4月18日奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ 石の香や 夏草あかく 露あつし と詠んでいます。昭和52年10月25日 那須町
その後、宿の主人、五左衛門の案内で殺生石やいろんな温泉六ヶ所をみてきた。殺生石はいまだ毒気があって硫黄臭かった。蜂や蝶が地面一杯に重なって死んでいた。「湯の花」というのも説明板を読んでどんなものか解かった。石や土の色が山吹色や灰緑色に変色していかにも毒々しい。昆虫だけでなく、人間もやられるのがわかる気がした。黒羽の篠原で殺された九尾の狐もここまで飛んできて、毒石に化けてここで悪さをし続けたのです。そんな印象を詠んで、近くの碑に残してきた。
石の香や夏草赤く露あつし

殺生石のある岸壁をどん詰まりとして、一帯は賽の河原とよばれる地獄の風景を作り出している。なかでも異様な景色が、河原の神社側に並ぶ数百とある石地蔵の群れだ。キャップや手ぬぐいをかぶり、みんな色とりどりの数珠を手にして空に向かって拝んでいる。よく似た構図の写真を思い出した。信楽の狸だ。

さて、ここから本格的な山道を登るとおよそ2000mの茶臼岳に行ける。私の目的は登山でないので、山へは登らない。今の人は車があるからうらやましい。ロープウェイを利用すれば頂上の1km下までいけるようになっている。それだったら私でもいけると思う。黒羽では紅葉がもう一息だったのに、ここではちょうど真っ盛りだ。幸いお天気も快晴だし、那須岳の山肌ははさぞかし多彩な色相を見せてくれることだろう。

朝しばらく霧がでた。8時半頃、湯本を立った。一軒茶屋に追分がある。右がまつこ(松子)を経て高久に戻る那須街道。左はこや(小屋(現池田))を経て、漆塚(那須町寺子)に至る。漆塚から黒田原を通って芦野までは8km余り。湯本より昼間も暗い山道がつづく。
資料11
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
田一枚 植て立去る 柳かな
野間から高久への足取りが判然としないと同様、二人の那須からの帰り道についても漆塚以降、芦野までの道順ははっきりしていない。芭蕉も曽良も口をつぐんでしまっているので、ここからは私が引き受ける。国道4号線の小島から黒田原までの道(28号線)は本当に山中を走っているようだった。実際、東北新幹線は28号線の手前から長い那須トンネルに入り、そのまま白河まで出てこない。地図に山の名前もなく、おそらく巨大な那須高原の下をくぐっているのだろう。
黒田原の町にはいって再びのどかな田園地帯に戻った。芦野町の直前で、黒羽からやってきた国道294号と出会う。遊行柳は町の北西にあり、294号を左におれてまもなく左手にみえるはずだ。芭蕉は芦野宿場街を散策したのか、どうか。それとも町に入らずに柳だけを見て白坂へ向かっていったのか。
芦野は古くから芦野氏の拠点として形成された村だが、江戸時代は奥州街道の宿場町として賑わった。特に関東最北の宿場として特別の意味を持った。栃木県までが関東で、福島県は東北地方になる。その境に白河の関があった。宿場としての芦野の紹介は「奥州街道」に譲るとして、ここでは奥の細道とのかかわりという点で遊行柳とその後ろにある大イチョウをみて、今年の奥の細道を終わることにしたい。
左に「遊行柳」、右に「上の宮のいちょう」の白標識が立った細道が田圃の真ん中にまっすぐ伸びている。中ほどに二本の木がこんもりとした茂みを形取っている。枝葉のようすからしてそれが大きな柳であることが遠くからでもわかる。微風にでさえも優雅になびく様はしなやかな女性のしぐさだ。芭蕉がその風情にこころを奪われている間に、隣の田に先ほどいたはずの田植え娘は仕事を終えて、姿を消していた。
田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉
謡曲「遊行柳」と朽木柳 謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞を通して念仏の利……
謡曲「遊行柳」と朽木柳 謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞を通して念仏の利益を見せる名曲である。朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の時、使用の杖が根づき「朽木柳」「枯木の柳」と呼ばれる巨木になったとの説がある。星移って遊行19代尊皓上人巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。 謡曲史跡保存会
(2005.4.29)
芦野再訪。田植えの季節にやってきた。男ひとりと機械一台がみえるだけで、四方をみわたしても娘の気配すらしなかった。
そばに蕪村の句碑と西行の歌碑もある。室町後期、西行の歌を主題にして謡曲「遊行柳」が作られ、芦野の柳は「遊行柳」として知られることになった。
柳散清水涸石処々 (柳散り清水かれ石ところどころ) 蕪村
道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行
謡曲「遊行柳」のことについては「謡曲史跡保存会」という団体が説明板にて説いている。私には、「ある、老人と遊行上人と柳の物語」以上の理解はできそうにない。
その後ろに見える丘陵は「鏡山」という。鏡餅のように扁平球状の山に付けられ、義経元服の池がある、近江中山道沿いにもある。麓に上の宮湯泉神社が鎮座し、そばにあるイチョウの大木は、高さ35mで目通りは6.1m――、依然として宇都宮新町ケヤキにはかなわない。
| 1 芭蕉公園 | 山も庭も動き入るや 夏座敷 | 2 芭蕉公園入口 | 田や麦や中にも夏のほととぎす |
|---|---|---|---|
| 3 芭蕉の広場 | 鶴鳴くや 其声に芭蕉やれぬべし | 4 芭蕉の館 | 那須野の章段 文学碑 |
| 5 常念寺 | 野を横に馬牽むけよほととぎす | 6 明王寺 | 今日もまた朝日を拝む石の上 |
| 7 修験光明寺 | 夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉 | 8 西教寺 | かさねとは八重撫子の名成るべし 曾良 |
| 9 玉藻稲荷神社 | 秣負う人を枝折の夏野哉 | 10 雲巌寺 | 木啄も 庵は破らず 夏木立 |
| 11 高福寺 高久 | 落くるやたかくの宿の郭公 | 12 湯殿神社 那須 | 湯をむすぶ誓いも同じ石清水 |
| 13 殺生石 那須 | いしの香やなつ草あかく露あつし | 14 遊行柳 芦野 | 田一枚植て立去る柳かな |
| 15 遊行柳 芦野 | 柳散り清水かれ石ところどころ 蕪村 | 16 遊行柳 芦野 | 道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行 |
(2004年10月)