築館-宮野-沢辺-金成-有壁-一ノ関-山目
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

車道の反対側に民家が一軒、そのアプローチに接して力石からの旧道がつづいている。その左側にも手入れされた道がでているが、それは単なる農道である(ことがわかった)。

しばらくは、轍もない草ぼうぼうの道だが、まもなく快適な旧街道になった。右手はひろびろとした牧草地だ。林に入ったと思うとすぐに視界は開け、右手に杉並木を植えたかと思われるような心地よい道をすすんでいく。ハイキング気分である。二度目の舗装道路に出た。この先は旧道が失せている。
車道を左にとって国道への道をたどりはじめると、右手に「旧奥州街道 力石 八沢」の標石があって、側面には「ここから約150m北に進むと明治9年(1876年)と明治14年(1881年)の明治天皇東北巡幸の際、小憩した御野立所が眺望の良い高台に残されている」と刻まれている。

「北」への道は田のあぜ道で、先は行けそうにない。車道を西にすすんでいくと右手にその野立所跡があった。草をかって、土をならした跡が見られ赤土に「旧奥州街道 御野立明治天皇行幸記念碑 機織坂~御野立~力石」と墨書きされた札が建っている。立て札は新しそうだ。すこし奥には「大正14年10月13日改設 玉澤村」銘の「明治天皇御野立所址」碑がある。こちらの方が古くて立派だ。

ところで、この場所からすこし戻ったところで車道は二股になっており(南側が力石から出てきた道)、左の道を100mほどいくと、左手に狭い空き地があって、南は旧道の道筋にあたる。北はこの空き地で途絶しておりその先は急な崖になっていた。見晴らしはさらに素晴らしく、左はるかに栗駒山が眺められる。
つまり、「北に150mほど」という記述はただしくて、ここが本来の野立所址だったのだろうと思われる。旧道の道筋が失われたので、現旧道沿いに復元されたものと想像する。野立所から200mほどで国道4号蟹沢に出る。1kmあまりほど行って東北自動車道インターチェンジの導入路が近づくあたり、国道4号の411キロ程標識の先を左に入る。
導入路をガードで潜り抜け、川を渡った先の三差路を右に曲がっていく。国道4号の手前、五十嵐酒店の丁字路を左折して、東北自動車道の高架下をくぐり、小さいがきれいな赤坂集落を通りぬける。ラブホテルHANAKOの案内標識にやたらと出会う。
坂を下りて丁字路を右折、川を渡った先の丁字路を左折してすぐに右の細道をたどるとようやく国道4号に合流する。旧道の道筋は赤坂集落から国道の東側に出た後、双林寺方向にまがっていったようだ。
宮城県指定天然記念物 「薬師堂の姥杉」は県内で最大の樹齢1200年を越える巨杉で、昭和30年3月25日付で宮城県の天然記念物に指定されました。 高さ34m、幹は目通りで、9.5m、枝葉は地上8.3mのところから繁茂し、東西26m、南北20mにわたって、壮大な姿を近年まで残していました。 昭和44年に落雷に遭い、平成6年には火災に遭い、一時、樹勢が衰えましたが、樹勢回復事業を行った結果、徐々に回復し……
宮城県指定天然記念物 「薬師堂の姥杉」は県内で最大の樹齢1200年を越える巨杉で、昭和30年3月25日付で宮城県の天然記念物に指定されました。 高さ34m、幹は目通りで、9.5m、枝葉は地上8.3mのところから繁茂し、東西26m、南北20mにわたって、壮大な姿を近年まで残していました。 昭和44年に落雷に遭い、平成6年には火災に遭い、一時、樹勢が衰えましたが、樹勢回復事業を行った結果、徐々に回復しています。 築館町教育委員会
栗原市役所手前の道を西に入り道なりに進むと双林寺の参道入口に出る。このあたりから築館宿が始まっている。参道を左におれたところに薬師堂の姥杉とよばれる杉の巨木がそびえている。樹齢1200年という古木で、近年まで高さ34m、目通り9.5mの威容を誇っていた。落雷や火災にあって、今は上部がちぎられたような幹振りになっているが、塊のような幹の太さは健在である。木肌が白っぽい。
寛政年間(1791~1798)の建築と考えられ、石越生まれの棟梁菅原卯八師によって造られた蛙股造り三間四面の堂で釘を使わず、くさびでしめて建てられています。以前は、屋根が萱葺でしたが、現在は銅板にふかれています。 当杉薬師霊場は、天平宝字四年(奈良時代西暦760年)に第46代孝謙天皇が開創された勅願霊場であります。(中略)このときより天台宗比叡山延暦寺の末寺医導山興福寺と号し、48坊からなる大寺院……
寛政年間(1791~1798)の建築と考えられ、石越生まれの棟梁菅原卯八師によって造られた蛙股造り三間四面の堂で釘を使わず、くさびでしめて建てられています。以前は、屋根が萱葺でしたが、現在は銅板にふかれています。 当杉薬師霊場は、天平宝字四年(奈良時代西暦760年)に第46代孝謙天皇が開創された勅願霊場であります。(中略)このときより天台宗比叡山延暦寺の末寺医導山興福寺と号し、48坊からなる大寺院となりました。ところが、たび重なる兵火や災害により荒廃の一途をたどり、天正19年(1591)伊達公の命により再興され、曹洞宗に改宗、医王山双林寺と号し現在に至るのであります。
境内に配された建物はコンクリート造りの本堂・庫裡を除いて見事な木造建築群である。なかでも瑠璃殿は蛙股作りの木組みが見事で、優雅で均整のとれたたたずまいを見せている。彩色、彫刻もなく、幼馴染にであったような、心安くしてみていられる建物である。

鐘楼がまた変わっていて面白い。古代の高床式住居かと思わせる素朴さで、四方が板で囲われていて鐘がよく見えない。これでは音がよくきこえないじゃないか。鐘付き棒は窓をつき破って外にでている。微妙に曲がった柱が味を添えて独特の風情を醸している。建物がいばっていて、厠に閉じこまれたような鐘が寂しそうだった。
座禅堂の前に自然石の芭蕉句碑を見とどけて双林寺を去る。
百景や 杉の木の間の 色みくさ

築館宿の通りには昔の面影が感じられない。本陣跡だという場所は双林寺から最初の信号を渡った先の左手で、空き地になっている。標識等もない。

右手に蔵が一軒残っている。一階はシャッターがおりているが商店らしい。二階の漆喰壁は白黒二色を塗り分けていておもしろい意匠である。

国道398号を横切って旧道は栗原合同庁舎の北側の路地を左に入り、一迫川の手前で民家に突き当たる。昔はそのまま直進して川を渡っていた。国道を迂回して旧道筋の対岸に出る。右手に大きな家が目を引く。玄関上部に開けられた扇形の窓が珍しい。二階に設けられた高欄は縦横の格子を組み合わせた凝った造りである。どうも農家の建物とは思えない、気になる家だった。
旧道は左手に雲南神社をみて国道4号に合流する。
宮野交差点で国道4号を右に分け県道42号にのってすぐ、次の交差点を左折して宮野宿に入って行く。

仙台藩では領内を四つに分けて地方行政を行なった。即ち仙台領21郡970箇村を、南方、北方、中奥、奥の4地区に分けて各地区の行政を郡奉行が担当した。郡奉行は出入司の支配の下に代官以下を指揮監督し、所轄地区の郡務を統理した。宮野代営所は中奥郡奉行に属し、栗原郡一迫、ニ迫郷を支配した。代官所は交通の便のよい宿場町が選ばれ、概ね大肝入会所に置かれ、代官以下郡方役人が常駐した。宮野代官所は旧宮野小学校跡地に……
仙台藩では領内を四つに分けて地方行政を行なった。即ち仙台領21郡970箇村を、南方、北方、中奥、奥の4地区に分けて各地区の行政を郡奉行が担当した。郡奉行は出入司の支配の下に代官以下を指揮監督し、所轄地区の郡務を統理した。宮野代営所は中奥郡奉行に属し、栗原郡一迫、ニ迫郷を支配した。代官所は交通の便のよい宿場町が選ばれ、概ね大肝入会所に置かれ、代官以下郡方役人が常駐した。宮野代官所は旧宮野小学校跡地にあったと言われる。代官の下に一、二迫上郷と下郷にそれぞれ大肝入が置かれている。代官は一、二迫上郷下郷の行政、徴税、郡方役人や大肝入の人事の具申、肝入以下の村方役人の人事、備荒貯蓄の管理、犯罪人の調査などを担当し、その配下に諸役係(税務、庶務)普請係(土木、営繕)本石係(年貢、買米)山林係(山林取締)のほか普請見習、加勢役人などがいてそれぞれ行政分担した。 栗原市教育委員会 栗原市文化財保護審議会
左手高台に皇大神社がある。社殿はまだ新しい。社伝によると第3代安寧天皇の第一王子迫子王子がこの地に降臨し町を開き、宮殿を営み長年居住し、この地を迫としたと伝えられている。神社の裏側から山を降りると小学校跡地のグラウンドに出る。ここに仙台藩の郡行政組織である代官所が置かれていた。


街道にもどったところに門をかまえる旧家らしい家がある。姿勢よく真直ぐにのびる赤松が印象的だ。隣接する石造りの洋風建物には郵便マークが浮彫されている。特定郵便局をまかされていた土地の有力者宅だろうと想像する。問屋場跡かもしれない。

すこし進んだところで、左手民家の入口に「中世大崎古文書」と書かれた標柱が立っている。その文書を所蔵している及川家宅である。この場所に宮野宿の検断屋敷があった。
街道は宮野宿をでて国道4号に合流したあとすぐに左の旧道に入るが、道は林の中で失われている。国道にもどり、そのまま進んで次の信号丁字路を左に折れる。角にヤンマー商会がある。すぐ左に旧道の出口が残っていた。

のんびりとした田舎道を歩いていくと、古代の城柵跡である城生野(じょうの)にはいってくる。静かな集落だ。左手にある照明禅寺に「伊治城跡とその出土品」と題する詳しい説明板がある。伊治城は神護景雲元年(767)に蝦夷経営の前線基地として造営された。大和朝廷に帰順して当地方の長となっていた蝦夷のアザマロが、按察使を殺害して伊治城を奪うという蝦夷反乱の舞台ともなった場所である。
伊治城の外郭北辺の区画施設は土塁と大溝によって区画されていました。現在でもこの場所より東側では、東西約150mにわたってその当時の面影をとどめています。 伊治城跡とその出土品 (照明寺説明板より抜粋) 伊治城の位置、形状、規模は、現在まで必ずしも明確でない。しかし、唐崎(ここより北東)に空濠(長さ300m、幅約19m、深さ約3m)が現存するから、この築館町城生野台地の一角に造営されたことは確実であ……
伊治城の外郭北辺の区画施設は土塁と大溝によって区画されていました。現在でもこの場所より東側では、東西約150mにわたってその当時の面影をとどめています。 伊治城跡とその出土品 (照明寺説明板より抜粋) 伊治城の位置、形状、規模は、現在まで必ずしも明確でない。しかし、唐崎(ここより北東)に空濠(長さ300m、幅約19m、深さ約3m)が現存するから、この築館町城生野台地の一角に造営されたことは確実である。この伊治城は奈良時代の後期、神護景雲元年(767)秋ごろ造営された。(中略)さらに北に進んで宝亀11年(780)に胆沢地方(岩手県)の蝦夷を討つため、また蝦夷の南下する道(即ち北上川)を防ぐために「覚鱉城」を築くのであるが、伊治城はこの新城造営の基地=胆沢城経営の基ともなった。(中略) 延暦13年(796)のころには、反乱以前の状態に復旧、整備され胆沢地方の安定とともに、伊治城の蝦夷経営の基地的性格も定まり、志波姫町の糖塚遺跡に見られるような、開拓民の住居が建てられ、伊治城下の開拓が一段と進むのある。以下略 栗原市教育委員会
集落の北端にある富野小学校跡地に「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」と書かれた標柱がある。台地状の草地に朱色の柱がみえる建物は当遺跡からの出土品を管理するセンターである。

車道は坂を下って富野小学校に突き当たる。旧道はここから学校の西側を通り広大な田園の中を突き進んでいく。芋埣(いもぞね)川で車両は通行禁止。細い橋をわたり、続いて二迫川を朱色の橋で渡る。

土手を下りると川に沿って数軒の農家がならんでいるが、その後ろは延々と広がる水田である。はるか西方には残雪の栗駒山が臨まれる。整然と区画整理されていて旧道の道筋はなくなっているが、おそらく昔も現在の農道のような真直ぐな道が川にはさまれた低湿地帯をぬけていたのであろう。

奥州山脈の山並みを遠くにながめながら気持ちよい道を進んで熊川を渡る。根岸下橋の親柱に牛若丸像が設置されている。熊川沿いに「根岸花街道」を東に向かう。

国道4号を渡って再び旧道に入ると、二股の畑中に金成町姉歯地区の史跡案内看板が立っている。これより東、100mから2700mの間に、姉歯横穴古墳群、鷹の羽清水、姉歯上館(古館)、姉歯御倉場跡、姉歯下館(新館)、中世姉歯氏族板碑、廟等、姉歯の松(伊勢物語記)があるという。寄り道するには盛りだくさん過ぎる。そちらの方向を眺めてみた。熊川堤防を地平線にして豊かな農地と白い雲と青い空が、姉歯の歴史を無言で抱いている。
姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。文化15年(1818)初夏仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばし飢餓が起り享保、天明、天保は近世の三大飢餓といわれ、惨状がはなはだしかった。天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったと……
姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。文化15年(1818)初夏仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばし飢餓が起り享保、天明、天保は近世の三大飢餓といわれ、惨状がはなはだしかった。天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったという。 また道路に倒れて死んでいく者、その数知らす、始めは所々に埋めていたが後には誰もかえりみる者もなく、屍は犬やからすの餌になったと記されてある。当時の農民の飢餓の資料を全慶寺過去帳から天明6年死者55人、同7年23人、同8年61人、同9年19人、同10年には10人となっている。 全慶寺の壇家には当時沢辺の町だけだから150戸くらいであつたろう。これから見ると天明8年には40%の家で死亡者が出たことになる。一家で4人も死亡した例もある。過去帳にあるのは葬式弔いのあつた家のみだろうから、貧農で飢饉に堪えかねて知らぬ土地に行き野たれ死した者も相当あつたと想われる。 平成5年3月 金成町教育委員会
二股を右に行った左手、民家への入口に三界万霊供養塔がある。天明6年(1786)大飢饉の死者を供養するために建てられたものである。説明板が記す飢饉の惨状は凄絶だ。豊かになった近世でこれだから、中世・古代に遡れば歴史に残されなかった飢饉は数知れずあったことだろう。
二股を左にとって国道に合流する。沢辺小学校の手前で右の旧道にはいって三迫川を渡る。西方の栗駒山がますます大きくみえてくる。歩道に源氏蛍の絵タイルがはめこまれている。

右にまがって東西にまっすぐのびる町並が旧沢辺宿だが、宿場の風景は残っていない。
沢辺館は臥牛(がぎゅう)館とも呼び、鎌倉時代葛西氏家臣二階堂常信の居館であった。東西130m、南北250mの敷地にあり、本丸には土塁跡、二の丸には経塚がある。西側台地は根小屋と称し家来達の住居跡があった。北側は崖で三迫川が流れ、流域は金成耕土が広がる。南側は丘陵となり、二条の空堀跡があったが、昭和30年4月沢辺中学校敷地造成のため地形が変わり今は見ることができない。 二階堂常信は正治年中(1200……
沢辺館は臥牛(がぎゅう)館とも呼び、鎌倉時代葛西氏家臣二階堂常信の居館であった。東西130m、南北250mの敷地にあり、本丸には土塁跡、二の丸には経塚がある。西側台地は根小屋と称し家来達の住居跡があった。北側は崖で三迫川が流れ、流域は金成耕土が広がる。南側は丘陵となり、二条の空堀跡があったが、昭和30年4月沢辺中学校敷地造成のため地形が変わり今は見ることができない。 二階堂常信は正治年中(1200頃)、衣川村よりこの地に移り館を築いた。以後代々沢辺氏を名のる。後大崎領になったため、沢辺氏は旧黒沢村(一関市)霞館、下油田村(花泉町)蒲沢館と移り、再び葛西領に戻ったので12代重光の代に沢辺館に帰館した。 その後天正18年(1590)秀吉の奥州仕置によって葛西、大崎氏は滅亡したが、旧葛西氏家臣であった小野寺氏は伊達氏に仕え、小野寺道行、道重、道貞の三代が居館した。 平成14年3月 金成町教育委員会
宿場のなかほどから南に出ている路地をたどって三迫川をわたり、臥牛城跡によった。小山の頂上に沢辺館(臥牛館)跡があった。鎌倉時代の居館であった。葛西氏の家臣二階堂常信が正治年中(1200頃)、衣川村よりこの地に移って館を築いた。以後代々沢辺氏を名のる。
ここより1km余りのところに姉歯の松があるというので、足を伸ばすことにした。芭蕉も行きたがっていたところである。(補充のこと)
「姉歯松碑」解読 より部分 伝え聞くには、用明天皇の御代に采女を差し出すように諸国に詔勅を出した。奥州気仙郡高田に豪農の朝日という娘が選ぱれて、京に赴く。しかし、その途上海路で時化に遭い、梨崎に辿り着くが、重い病気にかかり、遂に亡くなってしまう。 その事を聞いて、帝は大変憐れに思し召しされ、其の妹の夕日が賢くて、しかも見目美しい娘と聞き及んでいたので、之を召し出す。妹、夕日は、都に赴く途上に梨崎を……
「姉歯松碑」解読 より部分 伝え聞くには、用明天皇の御代に采女を差し出すように諸国に詔勅を出した。奥州気仙郡高田に豪農の朝日という娘が選ぱれて、京に赴く。しかし、その途上海路で時化に遭い、梨崎に辿り着くが、重い病気にかかり、遂に亡くなってしまう。 その事を聞いて、帝は大変憐れに思し召しされ、其の妹の夕日が賢くて、しかも見目美しい娘と聞き及んでいたので、之を召し出す。妹、夕日は、都に赴く途上に梨崎を経て亡き姉の墓に立ち寄る。姉の悲運を思い啼泣して、其の儘墓前を立ち去ることかできなかった夕日は、其のもとに標として一本の松を手植えして都に上っていった。・その後、数百年。松は枯れ、また其の根元より生え変われども、一幹から二本に生えている。今、生えている松である。後の人が其の節操を讃えて多くの歌に詠んでいる。然れども未だ以って石碑を建て其の遺跡を記録する者のなかりしとは。朝日は、一采女には過ぎないけれども、また、当時、朝廷に召された者は幾百人と知れな方ったろうけれども、一人朝日の話だけが、よく名賢の歌に詠まれ、其の名を伝えているのは、偶然のこととであろうか。 明治30年9月建立 平成3年2月解読 歌碑 くりはらやあねはのまつのひとならは みやこのつとにいさといわましを 業平 かくはかりとしつもりぬるわれよりも あねはのまつはおひぬらむかし 祐誉 ふるさとのひとにかたらむくりはらや あねはのまつのうくいすのこえ 長明 くりはらのあねはのまつをさそいても みやこはいつとしらぬたひかな 秀能
金成梨崎の集落に入って、「新奥の細道 姉歯の松」の標識が右手道端に立っている。左手民家の裏山上がると松が茂り石碑と歌碑がある。上部が壊れた「姉歯松碑」にはぎっしりと漢字が埋まっている。漢文だ。解説をよんでようやく大意が汲み取れた。まず、この高みは古墳だそうだ。用明天皇の時代、采女に召された女が上京の途中、この地で亡くなった。代ってその妹が召しだされた。妹はこの地に差し掛かったとき、姉を弔って一本の松を植えた、云々。四人の歌碑もある。左から三つ目の作者(長明)と最後の作者(秀能)の名を碑では逆に刻んでしまった。解説板でそれを訂正しているのがおかしい。
沢辺にもどる。町並みの東端で左折して北東に向かい、県道4号と国道4号をわたって金成宿に入る。金成宿と沢辺宿は2kmも離れていない。

金成宿場は南から上町、中町、新町からなり、上町に「なべや」、「山田屋」といった古い商家がわずかに宿場の面影を残している。金成宿の見所は中町のけやき会館周辺に集中している。
ケヤキの巨木がそびえるけやき会館は代官所跡である。仙台藩はしっかりとした藩内行政組織を持っていた。

奥州街道北隣は日枝神社で、間口3間と小ぶりながら入母屋・千鳥破風造りの品格ある拝殿である。
日本正教会の創始者ニコライが、日本の近代化への胎動を聞きながら、北海道函館のロシア領事館司祭に就任し来日した。切支丹禁制の幕末、文久元年(1861)であった。この年より二年前の安政5年(1858)に日本は米・蘭・露・英・仏と通商条約を結び、条約では在留地内において外国人が自国の宗教を信仰することの自由、教会を建てることも自由であった。当時、北方の開港であった函館には外国人と交流し洋学を学ぼうとする……
日本正教会の創始者ニコライが、日本の近代化への胎動を聞きながら、北海道函館のロシア領事館司祭に就任し来日した。切支丹禁制の幕末、文久元年(1861)であった。この年より二年前の安政5年(1858)に日本は米・蘭・露・英・仏と通商条約を結び、条約では在留地内において外国人が自国の宗教を信仰することの自由、教会を建てることも自由であった。当時、北方の開港であった函館には外国人と交流し洋学を学ぼうとする青年で賑わったが、この中に土佐藩坂本龍馬の徒弟で神官沢辺琢磨がいた。ニコライとの三日間の法論宗談の末、ハリストス教の宗門教義に心服した琢磨は知人酒井篤礼こと川股篤礼等と共に明治元年四月二日、禁教令をおかして日本で最初の受洗者となった。(中略)現在の正教会はビザンチン式教会で、酒井篤礼の甥で川股松太郎翁が自宅の敷地に、面積115,626㎡鐘楼の高さ17mを昭和9年10月に建立した。 平成20年5月 栗原市教育委員会
会館の裏側は旧金成小学校校舎で、歴史民俗資料館として公開されている。同じく古い小学校校舎が残っている古川第一小学校にくらべると、ベランダや軒唐破風で二階を飾って粋である。
明治43年9月、金成尋常高等小学校校舎として竣工、請負者は後藤幸之丞、大工は蘇武民作、金谷秦助で、工費五千五百円と伝えられています。 木造素木造り、二階建、寄せ棟屋根で鉄板葺(当時は小羽葺)本屋の妻部に棟高の一段低い切妻屋根の階段室(昇降□)を付し、正面中央にポーチ(二階ベランダ)を突き出させています。構造的には、洋風真束小屋組を架しているが、ベランダ正面の意匠に軒唐破風、懸魚、虹梁、鰭を付した大……
明治43年9月、金成尋常高等小学校校舎として竣工、請負者は後藤幸之丞、大工は蘇武民作、金谷秦助で、工費五千五百円と伝えられています。 木造素木造り、二階建、寄せ棟屋根で鉄板葺(当時は小羽葺)本屋の妻部に棟高の一段低い切妻屋根の階段室(昇降□)を付し、正面中央にポーチ(二階ベランダ)を突き出させています。構造的には、洋風真束小屋組を架しているが、ベランダ正面の意匠に軒唐破風、懸魚、虹梁、鰭を付した大瓶束を用い、また各室に棹縁天井を張り軒をせがい造りにするなど各所に伝統的な和風手法が顕著にみられます。竣工年時、請負者、大工も明確で、明治末期の擬洋風校舎として和洋折衷法が根強く伝承された地方色の濃い建築であり、また、平面形状として中廊下式を学校建築に採用しており、現在、本県における唯一の遺構で、保存状態も良好で学校建築史上貴重な建物です。以下略 平成六年四月一日 金成町教育委員会
南隣には全く肌違いの外国建築である。ビザンチン様式のハリストス正教会は昭和9年の建築で、その生い立ちには函館のニコライがかかわっていた。教会の後方で和風の火の見櫓が高さを競っている。
宿場街を北に進む。金成公民館が金成宿菅原家本陣跡である。菅原家は大肝入を勤めていた。

水路のような翁沢川にかかる金生橋の手前の丁字路を右折し、国道4号を横切って小さな新町大橋を渡り、北北東に向かって有壁までの長い山越えの道にはいる。
しばらく国道に沿って北上してから右方に離れて丘陵に向かう。この上り坂は夜盗坂(よとうざか)と呼ばれた難所だったらしいが、今は開かれた牧草地帯である。

快適な高原道路を登っていくと牧場に出た。ちょうどトラックから刈り取って丸められた牧草が転がり出るところであった。広場には梱包された牧草が並んでいる。なだらかな丸みをおびた牧場の縁を木立がアクセントをつけてすばらしい景観を展開している。街道歩きはおろか、日本であることを忘れるくらいであった。ここが昔は夜盗が出没した難所であったとはとうてい想像できない。
やがて高原道路は下りにはいり県道48号に突き当たる。反対側には健康広場が設けられている。そこへあがっていくのが旧道筋のようだ。
奥州産金開発とともに平泉藤原氏隆盛の頃、金成・畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。ある日、京の都から、清水の観音のお告げで夫たるべき人が奥州金成にいることを知らされた長者の娘(三条右大臣の娘おこや姫の説あり)が、遠く金成に下ってきた。二人は夫婦になり、橘治(きちじ)、橘内、橘六という三人の子をもうけた。息子たちは成長し、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えていたという……
奥州産金開発とともに平泉藤原氏隆盛の頃、金成・畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。ある日、京の都から、清水の観音のお告げで夫たるべき人が奥州金成にいることを知らされた長者の娘(三条右大臣の娘おこや姫の説あり)が、遠く金成に下ってきた。二人は夫婦になり、橘治(きちじ)、橘内、橘六という三人の子をもうけた。息子たちは成長し、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えていたという。 兄弟は藤原秀衡に仕え、京と奥州を往来する豪商となった。特に兄橘治は義経の案内役として登場し、また近在の寺社へ仏像を奉納し勧請するなど、金売橘治信高としての事蹟は有名である。 藤太夫婦は平安末期の仁安年中に亡くなり、常福寺の裏山、寺場山に墓石があったが、風化をいたみ正徳五年(1715)、時の大肝入佐々木佐内が郷土の偉人藤太を讃えて碑文を刻み、現在地に移して双石の石塔とともに建立したものである。 平成14年3月 金成町教育委員会
ここで前進をやめ、気になっていた寄り道を敢行することにした。県道48号を西にとって国道4号をすこし南に下ったところに炭焼き藤太の墓があるのだ。藤太は金売り吉次の父親で、京の都の女性を娶っているという、スケールの大きな話なのである。
国道畑交差点に案内標識がでている。杉木立の中を登っていくと骨組だけの祠に板碑を中央にして左に藤太の石塔が、右側には妻おこやの石塔があった。刻字は消磨しており、石塔も形がくずれているが、本来の姿は共に三重塔であったという。遥か昔の奇妙な夫婦に思いを馳せて山を下る。
国指定天然記念物 沢辺ゲンジボタル発生地 三迫川板倉堰の北約700m付近は古くから蛍の名所と知られ、文政2年(1819)の奥羽道中歌のなかで「あれ宮野沢辺の蛍草むらに鳴く鈴虫の声は金成」と詠まれています。昭和15年、源氏蛍発生の北限として国の天然記念物に指定されました。近年は、町内のいたるところで発生しています。最盛期は6月下旬から、7月上旬にかけてで、気温が高く風のない夜は、数百匹の源氏蛍が乱舞……
国指定天然記念物 沢辺ゲンジボタル発生地 三迫川板倉堰の北約700m付近は古くから蛍の名所と知られ、文政2年(1819)の奥羽道中歌のなかで「あれ宮野沢辺の蛍草むらに鳴く鈴虫の声は金成」と詠まれています。昭和15年、源氏蛍発生の北限として国の天然記念物に指定されました。近年は、町内のいたるところで発生しています。最盛期は6月下旬から、7月上旬にかけてで、気温が高く風のない夜は、数百匹の源氏蛍が乱舞して見事です。 ふるさとの伝説 金売り吉次 砂金長者伝説の炭焼き藤太の子といわれている金売り吉次は、奥州藤原文化を支え、また、源義経とも深い関わりを持つ人物です。義経との関わりは、世に知られている義経東下りに関するもので、京の都へ砂金の商いに出向いていた吉次が、源氏の血筋を引く若者(義経)を時の奥州の覇王、藤原秀衡に引き合わせたことにはじまり、義経北行伝説の中でも、吉次が金銭をはじめ、多くの手助けをしたという話が伝えられています。通説では、義経が32歳の時に平泉で自害したことになっていますが、吉次の平泉後の消息は、はっきりしておらず、その存在とともに、謎につつまれた人物といえるでしょう。
健康広場には遊歩道にいくつかの藍塗り絵タイルがはめ込まれているほか、なにもない空間だ。それを回り込むような道が整備されている。東北自動車道に沿って300mほど北にいったところにガードがあり、そこを潜って自動車道の東側の砂利道に出る。左におれて200mほどいくと逆Y字形の三差路に出、鋭角に右折する。

舗装道路を200mほど南東方向にたどると左手に旧道らしき農道がでている。後日地図で確認すると、この農道は、ガードを潜って砂利道に出たところから直結している位置関係にあった。三角形の二辺を迂回した感じだ。
五街道の一つである奥州街道は、江戸幕府道中奉行の管轄下に置かれ江戸日本橋から白河宿まで二十七宿を数える。その延長である白河以北の陸奥三厩までの奥州道は、五街道につぐ主要脇街道として幕府勘定奉行の直轄下に置かれた。 当時の奥州街道は幅三間の大道で、藩領内にはこのほか二間の中道、幅一間の小道が縦横に走っていた。街道の両側には並木が植えられていたが、開発の進展、戦中の松根油採取のため伐採され姿を消した。……
五街道の一つである奥州街道は、江戸幕府道中奉行の管轄下に置かれ江戸日本橋から白河宿まで二十七宿を数える。その延長である白河以北の陸奥三厩までの奥州道は、五街道につぐ主要脇街道として幕府勘定奉行の直轄下に置かれた。 当時の奥州街道は幅三間の大道で、藩領内にはこのほか二間の中道、幅一間の小道が縦横に走っていた。街道の両側には並木が植えられていたが、開発の進展、戦中の松根油採取のため伐採され姿を消した。 又、一里塚が築かれ榎や杉が植えられたが、これも遺構として残る所は少なく、地名や伝承などで存在を推定するほかない。 新鹿野一里塚は、周囲約33m程でかっては両側に並んでいたが、昭和初期の開墾で破壊された。 平成11年1月26日 金成町教育委員会
旧道はすぐに車道に合流し新鹿野一里塚の前に出た。これから先は平坦で快適な舗装道路である。

名残りの松並木をとおりすぎると集落が見えてきた。
金流川を渡った先は十万坂を越える旧道が失われていて、迂回をするのに東北自動車道の東西いずれか側を北上する二通りがある。西側のルートは明治天皇行幸に際して作られた道であるという。
旧奥州街道は、築館町の城生野から富野の根岸を通り金成町に入り、姉歯前門-西大寺-沢辺町-小迫-上町-中町-新町のはずれから右に折れて反町に入り、夜盗板を登り畑の三沢と有賀三鳥の境を通り、末野新鹿野-十万板-有壁新町-本町から岩手県真柴-一関市へと通じていた。 明治19年まで旧奥州街道であったのです。寛永12年参勤交代の制度ができ盛岡、八戸、松前、一関等の大名たちが往来した街道でありました。また明治……
旧奥州街道は、築館町の城生野から富野の根岸を通り金成町に入り、姉歯前門-西大寺-沢辺町-小迫-上町-中町-新町のはずれから右に折れて反町に入り、夜盗板を登り畑の三沢と有賀三鳥の境を通り、末野新鹿野-十万板-有壁新町-本町から岩手県真柴-一関市へと通じていた。 明治19年まで旧奥州街道であったのです。寛永12年参勤交代の制度ができ盛岡、八戸、松前、一関等の大名たちが往来した街道でありました。また明治9年と14年の2回に亘り明治天皇が東北御巡幸の際お通りになったのもこの道路である。明治20年国道の大改修以降現在の国道4号が昭和40年に開通するまで、東北の幹線としての旧国道は金成町の真中を走っていた。 末野十万坂は、源義家が衣川棚の安部貞任を攻略した前九年の役に、ここで十万挺の弓矢をつくり勇躍して衣川に向かったところからこの地名が生まれ、また有名な「雁の乱れに伏兵を知る」の義家の智将伝説もこの地で生まれたと伝えられている。 平成7年12月 金成町教育委員会

十字路をそのまま北に進んで、明治の道をたどることにした。山道はまもなく山間の田園を縫っていく道となり、峠手前で「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が待っていた。
東側迂回ルートである県道185号に合流する。みちなりに坂をくだっていくと有壁新町の家並みが現れる。

東北本線の踏切をこえ県道187号を横切ったあたりから、前方に続く街道の風景が一変してにわかに時代劇の映画村に入ったかのような家並みが現出する。その起点は有間川の手前に控える萩野酒造といってもよかろう。江戸時代からの造り酒屋で脇本陣を勤めていた。「萩の鶴」醸造元である。
有壁の御本陣は奥州道中有壁宿に設けられ、松前、八戸、盛岡一関の藩主が参勤交代の際と幕府並びに各藩主重臣が通行の際に宿泊や休息したところである。現存建造物は、延享元年(1744)の改築にかかり、道路に面して2階建長屋があり、その脇に御成門がたっている。本屋は100坪程の平屋で、私宅の部分と本陣として藩公らが使用した諸室が含まれる。御成門を入ると屋根入母屋造りの車寄があり、式台のついた玄関構である。奥……
有壁の御本陣は奥州道中有壁宿に設けられ、松前、八戸、盛岡一関の藩主が参勤交代の際と幕府並びに各藩主重臣が通行の際に宿泊や休息したところである。現存建造物は、延享元年(1744)の改築にかかり、道路に面して2階建長屋があり、その脇に御成門がたっている。本屋は100坪程の平屋で、私宅の部分と本陣として藩公らが使用した諸室が含まれる。御成門を入ると屋根入母屋造りの車寄があり、式台のついた玄関構である。奥に持者の間、中座敷、御次の間が続き、左に折れて上段の間(八畳敷)があり、この部屋の床は他の部屋より8寸高い書院造りである。明治9年7月3日、同14年8月16日両度明治天皇が奥羽御巡幸の際に御小休所となった。主要街道の貴重な遺構として昭和46年5月国の史跡に指定される。 昭和51年10月 当主 佐藤鉄太郎 誌す。
川をわたると右手に有壁宿本陣が圧倒的な存在感を示して建っている。現存建物は延享元年(1744)の築で国指定史跡である。格子造り長屋、御成門、駒寄、車寄せ、書院造主屋、明治天皇有壁小休所碑、明治大帝御駐輦所蹟碑、高札等。旧街道宿本陣の見本のように有壁にはすべてが揃っている。

向かいの佐藤家が本陣の本家だろうか。新しい建物だが庭に松を植えた立派な家だ。通りは先が行き止まりになって取り残された旧道そのもので、沿道の住民かさもなくば山道をを歩いて一関にぬけようとする旅人しか通らない場所である。時間が止まったという表現がぴったりの空間だ。

左手の掲示板に、稀な旅人の便宜をはかって「奥州街道(奥州道中)有壁・一関間散策マップ」が掲示されている。下調べの地図にいくつかを書き込んで旧道の先の古道にむかった。宿場の北端の家並みも立派である。街道両側の数軒は申し合わせたように入母屋造り二階建ての家でそろえてある。
奥州街道とはf江戸時代、東海道や中山道、日光道中、甲州道中とともに、五街道の一つに数えられた奥州道中の別称で、正式には江戸日本橋を起点とし、千佳宿から白河宿までの道中を意味しますが、次第に陸奥三厩宿に至る、概ね115宿の街道の名称となりました。ここは江戸時代、栗原郡三迫有壁宿の北側、観音寺を通り北に向かう上り坂で、この坂の頂上付近が肘曲がり坂と呼ばれています。安永年間(1772~1781)の『有壁……
奥州街道とはf江戸時代、東海道や中山道、日光道中、甲州道中とともに、五街道の一つに数えられた奥州道中の別称で、正式には江戸日本橋を起点とし、千佳宿から白河宿までの道中を意味しますが、次第に陸奥三厩宿に至る、概ね115宿の街道の名称となりました。ここは江戸時代、栗原郡三迫有壁宿の北側、観音寺を通り北に向かう上り坂で、この坂の頂上付近が肘曲がり坂と呼ばれています。安永年間(1772~1781)の『有壁村風土記御用書上』に「肱曲り坂 長三拾間(約50m)とあり、江戸時代からの名称であることがわかります。肘曲がり坂、大沢田坂を越え、磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町であった一関に至ります。 明治時代に入り陸羽街道(現在の国道4号)の開設と鉄道の開業によりこの街道を利用する人々が少なくなり廃道となりました。このため、江戸時代に多くの人々が往来した当時の様子を偲ばせる道路や切り通し、講中により建てられた石碑群や自然環境が大変よく残されています。 平成18年3月 栗原市教育委員会
宿はずれにある民家の左脇で舗装道路がとぎれ砂利道がつづいている。「起点 伊勢堂林道」の標柱がある。林道を歩く距離はわずかなもので、左手に「旧奥州街道 肘曲がり坂」の案内板が立つ草深い道にわけいっていく。険しい上り坂で足元もひどい山道だ。上りきったところでいくらか広い道にでる。この山道は右にもつづいているようであるが、奥州街道古道は左の方向にすすんでいく。この形状を「肘曲がり」と呼んだのであろう。
道は平坦になり足元はクローバー、ドクダミ、シダ類で、草丈が短くて歩きやすい。薬草の臭いがただよい、ウグイスが盛んに鳴く。古道歩きの楽しみを味わう。やがて下り坂となり林がとぎれて山間に拓かれた田圃にでてきた。左右に走る農道を横切って、作業小屋の脇を通って再び山道をあがっていく。小屋のそばに「市乃関方面 奥州街道」と赤書きされた札が杭にもたれている。
ここからの坂が「大沢田坂」だ。峠辺りで視界が開け丘陵のなだらかな山並みが見晴らせる。杉林の中を下っていくとやがて林道に合流した。右方は通行止。「県行造林 真柴事業区 岩手県」と書かれた看板が立つ。ここが宮城・岩手の県境で、一関市に入る。

しばらく山道を行くと再び丁字路にぶつかり、左にまがる。県境にあったと同様の立て看板がある。道はそのあとゆるやかな下り坂となり、右手の開かれた景色を楽しみながらみちなりにおりていく。気がついたら山越えは終わっていて、「(株)ミチノク」事業所の前を通って県道260号(旧国道4号)の「一関糧運」脇に出た。
本来の古道はもうすこし先の三八五貨物の前に出ているが、山中で道は失われている。出口付近の三差路に馬頭観音があった。

ホテル芭蕉の看板が見えてくる。手前の右に出ていく農道を進んで行くと、民家近くのの道端の田にいくつかの石が並べられていて、兜石、背骨石、肋石と書かれた札が置いてある。坂上田村麻呂がこの地で鬼を退治して死骸を埋めたと伝えられる。骨をバラして埋めたようだ。

次の丁字路を左に入り的場踏切を渡ると線路に沿ってのこる旧道にでる。大きな民家の右側の空き地に「明治天皇小次遺趾」碑が立っている。そばの竹薮端にあるなかば壊れたトタン屋根小屋はかっては的場清水と呼ばれていた。近寄りがたい場所で確認しなかったが、今も湧いているとは思えない様子だ。

警報が鳴ったので急いで踏切にもりカメラを構えていると小豆色した貨物列車が通っていった。
旧道はこの先瑞川寺まで東北本線の線路の左右をたどっていたようだが道筋は失われている。坂を下ったところでガードを潜って国道342号にもどる(県道260号は的場踏切丁字路の先で、右から合流してきた現一関街道、国道342号に吸収された)。
天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を藩から貰いうけ解剖しました。医師たちは、これにより長年抱いていた疑問を解明することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。元々は、旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。 古くから、解剖は死者を冒とくすること、許されないことと考えられていました。しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官……
天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を藩から貰いうけ解剖しました。医師たちは、これにより長年抱いていた疑問を解明することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。元々は、旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。 古くから、解剖は死者を冒とくすること、許されないことと考えられていました。しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官許を得た人体解剖が実施され、安永3年(1774)杉田玄白らがオランダの医学書を翻訳し『解体新書』を出版するなど、漢方医学とオランダ医学の両方から実証を重視しようという精神が芽生え、各地で解剖が行われるようになりました。 豊吉の解剖は、このような中でも東北地方としては早い時期に行われたものです。この頃一関では、二代建部清庵や大槻玄沢など、オランダ医学を研究する人が出ています。彼らの影響は甚大であったと思われます。 一関市博物館で関連事項を紹介しています。 平成13年3月 一関市教育委員会
200mほどいったバス停のある丁字路の左手、線路の土手斜面に豊吉の墓がある。天明5年(1785)一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を貰い受け腑分けを行なった。元々は旧一関藩橋田原刑場にあったものである。

国道が東北本線のガードをくぐってすぐ左の細道をあがっていくと瑞川寺に出る。この前の道が旧道である。線路に沿って南に旧道筋をたどっていくと墓地の終わりにた建つ民家の脇で途絶えていた。

旧道は瑞川寺の前を通り南小学校の校庭を横切って国道342号に合流する。台町信号交差点を直進し150mほどすすむと「釣山斎苑」「正光寺」の案内標識がある丁字路にさしかかる。その手前左手に逆一方通行の坂道がでている。この道が芭蕉が平泉からの帰りに通った迫街道である。詳しくはその旅行記にゆずろう。
ここ釣山は大自然の営みから生れた丘陵で、古くから道行く人々の目印でした。 一関藩校初代学頭の関元龍の著した「関邑略史」によると、釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれています。 ○征夷大将軍 坂上田村麻呂の陣地(大同年中) ○安倍貞任弟 磐井五郎家任の砦(天喜年中) ○源頼義、義家親子の篠見山の陣地(康平年中) ○葛西氏家臣小野寺道照の居城(天正年中) 以上が中世まで釣山に関……
ここ釣山は大自然の営みから生れた丘陵で、古くから道行く人々の目印でした。 一関藩校初代学頭の関元龍の著した「関邑略史」によると、釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれています。 ○征夷大将軍 坂上田村麻呂の陣地(大同年中) ○安倍貞任弟 磐井五郎家任の砦(天喜年中) ○源頼義、義家親子の篠見山の陣地(康平年中) ○葛西氏家臣小野寺道照の居城(天正年中) 以上が中世まで釣山に関わった人物と伝わり、葛西氏の滅亡に伴い伊達氏の支配となり、一関城に伊達政宗の叔父・伊達(留守)政影が移ってきました。 江戸時代にあって、仙台藩のうち三万石が分封され、「一関藩」がうまれ、最初の藩主は伊達政宗の十男の伊達兵郡家勝でしたが、伊達騒動(寛文事件)で土佐に配流になり、一時仙台藩領に戻りました。 その後、天和二年(1682)岩沼から伊達家分家の田村建顕公が一関藩主として移封され、以後明治維新に至るまで十一代の歴代藩主が治めました。田村氏の居城は現在裁判所のある城内で、一関城下絵図にも範囲が描かれています。釣山は田村氏の居館を見下ろす高所に位置するので、誰彼と入れる場所ではありませんでした。(中略) 釣山頂上には千畳敷と呼ばれる平坦地があり、その下には日本庭園などが公園として整備されています。日本庭園の北側にある四阿(あずまや)や千畳敷から見る眺望は素晴らしく、磐井川を眼下にし、市内全域ほか北上平野、蘭梅山、観音山、烏兎が森、さらには栗駒山、束稲山、室根山の展望が広がります。 ここは市民公園です。道ぞいの様々な植物を楽しみながら、ごゆっくり散策を楽しんで下さい。 平成14年1月22日 寄贈創友会
新大町交差点を左折して釣山公園に寄っていく。釣山は古代から軍事上の要塞であり、高崎城とも篠見山とも呼ばれている。古くは征夷大将軍坂上田村麻呂が陣地をはり、安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築き、源頼義・義家親子もここに陣地を張った。天正年間には葛西氏家臣小野寺道照の居城となたが、葛西氏滅亡後伊達氏の支配となり伊達政宗の叔父、伊達(留守)政影が移ってきた。その後、天和2年(1682)岩沼から伊達家分家の田村建顕が一関藩主として移封され、以後明治維新に至るまで十一代の歴代藩主が治めた。
幕府が城構えを許さなかったので田村氏は麓の裁判所辺りに居館を構えた。釣山には一関市街が一望できるほか何もない。
日本の道百選 ”おくのほそ道” 昭和61年8月10日”道の日”制定の記念事業として建設省が「日本の道百選」に「芭蕉行脚の道」から一関市を選定しました。元禄2年(1689)3月江戸を出立し9月6日美濃大垣まで、150日約600里の行程中5月12,13日の両日一関に宿泊しました。 「12日、一関黄昏ニ着 合羽モトヲル也。宿ス 13日、天気明巳ノ刻ヨリ平泉ヘ趣・・・・・・宿ス」翌14日、南部道遥かに見や……
日本の道百選 ”おくのほそ道” 昭和61年8月10日”道の日”制定の記念事業として建設省が「日本の道百選」に「芭蕉行脚の道」から一関市を選定しました。元禄2年(1689)3月江戸を出立し9月6日美濃大垣まで、150日約600里の行程中5月12,13日の両日一関に宿泊しました。 「12日、一関黄昏ニ着 合羽モトヲル也。宿ス 13日、天気明巳ノ刻ヨリ平泉ヘ趣・・・・・・宿ス」翌14日、南部道遥かに見やり手・・・・・・」と松山街道(現市道岩ヶ崎線)を一路岩出山に向かいました。私たちは俳聖松尾芭蕉、同門人河合曾良の偉大な足跡を後世に伝え日本の道百選選定を記念してこの石碑を建立します。
宿場町は一関駅前交差点から地主町(じしゅまち)にかけて形成された。駅前交差点の東脇に「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されている。芭蕉は金沢まで一関街道を通ってきたがそこから別のルートをたどって現在の一関駅の東口あたりに着いた。一関宿では磐井橋袂の金森家に二泊している。
大町の由来 一関市大町は徳川時代の初期から 宿場町 として栄えて来たところです。 その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております。大町は地主町と共に城や武家屋敷を守るため一戸当たりの間口は、三間半(6.3m)に区割りされて配置、道の中央には濠を流し 奥州街道(大町通り) を行く諸大名や旅人にも多くの情諸を……
大町の由来 一関市大町は徳川時代の初期から 宿場町 として栄えて来たところです。 その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております。大町は地主町と共に城や武家屋敷を守るため一戸当たりの間口は、三間半(6.3m)に区割りされて配置、道の中央には濠を流し 奥州街道(大町通り) を行く諸大名や旅人にも多くの情諸を与え続けました。大町の戸数は寛文13年(1673)63戸、安永4年(1775)91戸、慶応4年(1868)3戸と着実に増え続けました。 昭和22・23年(1947~8)の台風被害を克服し昭和55年(1980)から始まった都市計画にあわせ、商店街が団結し大町近代化事業が完成、名実共に一関の中心商店街として面目を一新しました。 平成2年8月 一関市大町銀座商店街振興組合
大町通りはどこにもあるような駅前商店街だが、なかほどに「大町の由来」モニュメントが建っていて、ここが宿場の中心であったと記されている。道向かいに三軒のモダンな店蔵が並んでいて、なんとか旧宿場街の面目を保っているようである。
(前略)春日部~日光~黒羽~須賀川~仙台~松島~石巻を経て、45日後にようやく一関に入り、平泉視察のため二泊した宿がこの金森邸である。その後、日本海側へと旅立ったが、芭蕉が宿泊したことから”二夜庵(ふたやあん)”と呼ばれることとなった。この年、芭蕉46才、曾良41才。 曾良日記をもとに、一関の三日間を描いて見ると 5月12日 くもり 戸今(登米)を立っておよそ10キロから雨が降り出す。上沼新田町(……
(前略)春日部~日光~黒羽~須賀川~仙台~松島~石巻を経て、45日後にようやく一関に入り、平泉視察のため二泊した宿がこの金森邸である。その後、日本海側へと旅立ったが、芭蕉が宿泊したことから”二夜庵(ふたやあん)”と呼ばれることとなった。この年、芭蕉46才、曾良41才。 曾良日記をもとに、一関の三日間を描いて見ると 5月12日 くもり 戸今(登米)を立っておよそ10キロから雨が降り出す。上沼新田町(中田町)から安久津(花泉町涌津)と歩いて来たものの、雨が強くなりここで馬に乗った。馬子に引かれ、山坂ばかりの道を通って一関に入った。その道順は金沢~大門~飯倉~南光病院わき~関ヶ丘下~ゼネラルわき~吸川~駅前~大町~地主町であり、合羽もしみとおる大雨であった。夕刻に二夜庵に着く。 5月13日 前日とは打って変わって晴天。午前10時、奥州街道を一路平泉に趣く。高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、金色堂、泉城、秀衡屋敷、金鶏山、無量光院などを見て夕刻、一関に帰る。二夜庵の主人は風呂を用意して二人を待っていた。 5月14日 この日も天気は良く、予定通り一関を立ち大町~台町~宮沢を経て宮城県の一迫~岩出山(泊)に向かっている。 このあと裏日本を行脚し、象潟~酒田~新潟、市振~金沢~福井~敦賀~大垣、伊勢長島まで、全日程5ヶ月余の旅であった。 夏草や 兵どもが 夢の跡 芭蕉 五月雨の 降りのこしてや 光堂 芭蕉 卯の花に 兼房みゆる 白毛かな 曾良 昭和57年11月21日 建立 製作 社団法人 一関青年会議所
道は地主町で左折する。磐井川のほとりに先述の芭蕉が泊まったという金森邸がある。金森家は地主町で代々造り酒屋を営んでいた一関きっての大地主であった。堤防に「明治天皇御行在所跡」の碑が建っているところからそれなりの格式をもった豪商だったのだろう。

磐井橋を撮ろうと反対側の堤防を振り返ると、手袋をつけた一群の少年が雪の降る中をこちらに向かって走ってくる。部活の早朝トレーニングだろう。走り慣れた姿勢で右にカーブして橋を渡っていった。
堤防より一筋東の道を南にむかう。すぐに「酒の民俗文化博物館」という楽しそうな一角がある。一関の豪商「熊文」の跡地で「世嬉の一酒造」の仕込み蔵を利用して開設された。「熊文」こと14代目熊谷文之助は味噌・醤油・清酒の醸造・販売で富を成した。明治9年金森家に明治天皇が宿泊したとき、岩倉具視、木戸孝允などの随員は熊谷家に泊まっている。

16代当主熊谷太三郎がまだ文学青年であったころ、北村透谷の紹介で英語の家庭教師にやってきたのが明治女学校での教え子佐藤輔子との禁断の恋に苦悩していた若き島崎藤村であった。皮肉にも一関は輔子が小学校時代を過ごした土地であった。藤村は1ヶ月もたたないうちに彼女のいる東京に戻る。既に婚約者がいた輔子は2年後花巻にもどり結婚、翌年はかなく病死する。輔子24歳、藤村23歳のことであった。
石造りの酒蔵にかこまれた広い中庭には、杉の葉でつくったくす玉・酒林(さかばやし)や背丈よりも高い酒樽にまじって、自然石に青銅パネルを埋め込んだ文学碑がある。
「あゝ自分のやうなものでもどうかして生きたい 藤村」
幕末に一関藩家老職を勤めた沼田家の旧宅です。創建は18世紀の初めから中頃と推定され、約3百年の歴史を有しています。増改築を重ねながら、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも耐えて今日に至りました。部屋の間取りは、農民住宅の姿を素地としながらも、武家としての様式を整えた素朴で古式なものです。藩政時代の面影を偲ぶことができる、この地方唯一の武家住宅遺構として貴重な一棟です。 平成15年3月 一関市教育……
幕末に一関藩家老職を勤めた沼田家の旧宅です。創建は18世紀の初めから中頃と推定され、約3百年の歴史を有しています。増改築を重ねながら、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも耐えて今日に至りました。部屋の間取りは、農民住宅の姿を素地としながらも、武家としての様式を整えた素朴で古式なものです。藩政時代の面影を偲ぶことができる、この地方唯一の武家住宅遺構として貴重な一棟です。 平成15年3月 一関市教育委員会

田村町を南にくだる。右手に端正な板張り二階建ての民家、左には茅葺屋根の武家屋敷をみる。
突き当たりに一関城があった。西側に磐井川、南は釣山を天然の要塞とした平城で、堀の内側に藩主の居館や役所を集めた小規模なものである。福祉センターの入口に太鼓櫓が復元されていて、その先に城の本丸絵図板が立っている。
時の太鼓・やぐら跡 一関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓に建部清庵 日本に西欧文明を花開かせた大槻玄沢らを育て、杉田玄白と親交のあった一関藩蘭学医・建部清庵(1712-1782)の偉大さと並び称されたのが、領下に時刻を告げるために打たれた時の太鼓です。藩主・田村建顕公は幕府から特に許され、貞享3年(1686)7月から城内裏門の一角であるこの地に太鼓櫓を作り、妙着と共に時を告げたと言われ、他藩は「……
時の太鼓・やぐら跡 一関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓に建部清庵 日本に西欧文明を花開かせた大槻玄沢らを育て、杉田玄白と親交のあった一関藩蘭学医・建部清庵(1712-1782)の偉大さと並び称されたのが、領下に時刻を告げるために打たれた時の太鼓です。藩主・田村建顕公は幕府から特に許され、貞享3年(1686)7月から城内裏門の一角であるこの地に太鼓櫓を作り、妙着と共に時を告げたと言われ、他藩は「時の鐘」しか認められなかったので道往く大名たちは大変驚き藩民は大いに誇りにしたものです。実物は市内台町・長昌寺に保存されていますが、やぐらの大きさなどは、史料や口伝えから総合して下図のようであったと考えられます。 以下略 一関市
一関藩は宮城県岩沼の領主であった田村氏が仙台藩から3万石を分封され、大名格を与えられたのが始まりです。領地は一関市の磐井川右岸のほか、花泉・千厩・藤沢・大東・室根・東山・川崎・金成の一部(飛び地)。 初代は田村右京太夫建顕(たけあき)で、入部は1682年(天和2)5月2日。建顕公は名君の一人で、藩民の向学精神と勤労精神を高め、江戸にあっては津山城受取り奉行(岡山県・元禄10)や、播州赤穂城主浅野公のご切腹(江戸屋敷・元禄14)などの大任を果たし、外様大名としては最高位の「奏者番」にまで取り立てられました。以後、明治維新まで185年、一族11人が一関藩主を担ったため別に「田村藩」と言われました。磐井川左岸は仙台藩直轄領でしたが、お互いに好影響を与え続け、特に幕末から建部清庵、大槻玄沢といった蘭学者、長沼守敬や大槻文彦など、多くの文化人が育っています。 平成12年10月 一関青年会議所

磐井橋で磐井川を渡り堤防沿いの道にはいってすぐ左の旧道を下りると右手土手下に「俳聖芭蕉紀行の道」碑が立っている。すこしすすむと右手に「第29代横綱宮城山福松 出生地」の碑がある。本名佐藤福松は明治28年ここで生まれた。


県道14号に合流して山目宿に入るとすぐに配志和(はいしわ)神社参道の鳥居と常夜燈がある。長い参道をたどると二段式の庭園がある。自然の傾斜地を二段に整地し、築山泉水式の庭園としたもので、日本百庭園にはいっている。上段の庭に芭蕉句碑が立つ。
此梅に牛も初音と鳴きつべし
杉林の中にのびる石段をのぼると更にゾッとするほど長い真直ぐな石段が続いている。200段はあるのではないか。息絶えだえに登りつめるとようやく古色蒼然とした社殿が姿をみせた。大きくはないが江戸時代中期の建築で、「構造手法優れ市内神社中随一」とある。左右の姥杉は根元回り11m、高さ39mの巨木である。
左手に石柱形の芭蕉句碑があり、「梅が香にのっと日の出る山路かな」と刻まれている。

街道にもどり山目宿を散策する。ところどころに古い家並みが残り、また旧町名を記した標柱が数ヶ所あった。
まずは山目一丁目の右手、「史跡標柱 山目宿問屋・旧上町」が角地に立つ。


次は1丁目と2丁目の境をなす道角に「史跡標柱 気仙の交通路・旧今泉街道入口(横丁)」がある。北側の家は今泉街道沿いに長く構え、駒寄・格子・板塀が魅力的な旧家である。


左手の「経世の政治家・柵瀨軍之佐先生邸宅 胡風荘」は医薬門と両側にのびる塀だけが残されている。その内側はうっそうとした植え込みで、中の建物はみえないが、規模からしてかっての壮大な屋敷を想像させる。
3丁目にはいって左手の花道茶道家元 江越宗洋宅も立派な屋敷だ。黒板塀と潜り戸を切った立派な門も黒々としている。

右手に「史跡標柱 宿駅と流通・旧下町」が、その先には「史跡標柱 金山奉行の足軽居住・旧久賀町」の標柱がある。
龍澤寺をみて山目宿を出る。
(2009年6月)