奥州街道 18区間のうち13番目

奥州街道(13)

平泉-前沢-水沢-金ヶ崎-鬼柳-黒沢尻(北上)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

平泉

平泉

街道は県道134号を一路北上し、平泉ドライビングスクールのさきで右斜めの旧道に入る。かってはこのまま進めば八坂神社にでたのだろうが、ここから先平泉駅前まで、旧道と国道4号とのかかわりがいびつになってしまった。

八坂神社 平泉祇園 平泉町 西磐井郡 岩手県
八坂神社 平泉祇園 平泉町 西磐井郡 岩手県

旧道からスーパーセンター北側の信号で国道4号に合流して右折、すぐ右に曲がって行くバイパスとわかれて八坂神社の前を通る。

八坂神社は藤原三代の都平泉の南方に位置し、平泉五方の鎮守の一つとして創建された。疫病退散の神として京の都において信仰の厚かった祇園社を勧請したとされる。

太田川を渡っても、すぐ右下に見える旧道(県道110号)に降りられない。結局国道の毛越寺(もうつうじ)入口交差点を右折して平泉駅前の旧道に出る。旧道は太田川堤防下から復活していた。

毛越寺には一昨年一関街道踏破の折に寄っている。11月下旬だのに雪が降っていた。

本堂 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
本堂 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
浄土庭園 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
浄土庭園 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県

毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、奥州藤原氏二代基衡の時代に多くの伽藍が造営された。堂塔は40を数え中尊寺をしのぐほどの規模といわれている。建物は焼失したが大泉が池を中心とする浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されている。遣水(やりみず)の遺構は、平安時代のものとしては我が国唯一のものだという。毎年5月の第4日曜日には「曲水の宴」が行われ平安時代の優雅な情景が再現される。

芭蕉句碑 平泉町 西磐井郡 岩手県
芭蕉句碑 平泉町 西磐井郡 岩手県元禄2年(1689)高館を訪れて詠んだ、「夏草や兵どもが夢の跡」を刻む。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、芭蕉の甥碓花坊也寥禅師による建碑。右の碑は文化3年(1806)に地元俳人素鳥たちによって建てられた副碑。

本堂近くの境内には「夏草や兵どもが夢の跡」を刻んだ句碑が二つ並んでいる。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、右の碑は文化3年(1806)に地元俳人たちによって建てられたものである。

達谷窟(たっこくのいわや) 平泉町 西磐井郡 岩手県
達谷窟(たっこくのいわや) 平泉町 西磐井郡 岩手県征夷大将軍坂上田村麿公東征の霊蹟で殺生禁断地、國指定史蹟達谷窟に関する最古の記録は『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日の条であり、(中略)古来奥州で最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。 以下略 平成18年正月 別当

毛越寺からさらに西へ数キロいったところに達谷窟(たっこくのいわや)とよばれる名勝がある。坂上田村麿創建の霊蹟で褐色の岩窟に建てられた毘沙門堂は異彩を放っている。坂上田村麿は窟に立てこもる屈強な蝦夷を征伐した。

旧平泉宿町並 平泉伽羅楽 平泉町 西磐井郡 岩手県
旧平泉宿町並 平泉伽羅楽 平泉町 西磐井郡 岩手県

平泉駅前から旧道を北にたどっていく。平泉は奥州街道の宿駅として数えられていないが、奥州の黄金の都に宿泊施設がなかったわけがない。山目宿と前沢宿の間宿として中尊寺通りにそんな町並が残っている。高館踏切を渡って東北本線の東側にでて再び街道が中尊寺手前で交差するまでの区間に重要な史跡が集まっている。

まず、右手に立つ伽羅御所跡の標識にしたがって路地をはいっていくと三差路角の生垣に解説板が立っている。伽羅御所は三代秀衡、四代泰衡が居住した館であった。周囲は住宅と畑があるのみで、遺構は見当たらない。説明文だけ引用しておこう。

この付近は「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらごしょ)」跡であります。「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。 しかし鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。 文治5年8月(西暦1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。 住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、800年の歳月はわすかに内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。元禄2年5月(西暦1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)『奥の細道』を旅した芭蕉が「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句を詠んだ。平成7年 4月 平泉町観光協会

柳之御所跡 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県
柳之御所跡 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県

この遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書『吾妻鏡』に記載される「平泉館」に比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられている。南西側の低地は猫間が淵と呼ばれている。 継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。 わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す遺存状態の良好な遺跡として、平泉の文化遺産……

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この遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書『吾妻鏡』に記載される「平泉館」に比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられている。南西側の低地は猫間が淵と呼ばれている。 継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。 わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す遺存状態の良好な遺跡として、平泉の文化遺産の中でもとくに重要である。 指定名称:史跡 柳之御所・平泉遺跡群 指定年月日:平成9年3月5日(追加指定:平成16年9月30日ほか)

街道にもどりすぐ先の広い道を右にたどると今度は大規模な発掘調査が行なわれ多くの遺構・遺物が発見された国指定史跡、柳の御所跡に至る。北上川のほとりにあって無量光院の東側に位置する。藤原氏が政務をおこなった政庁、平泉館(ひらいずみのたち)跡と考えられている。建立時期はあきらかではないが、寺院の無量光院・居所の伽羅御所・政庁の柳御所を含めて平泉の町を最終的に整備した三代秀衡の事業であったと思われる。日が傾いた跡地には焚き火の煙がたなびいていた。

無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県

無量光院は三代藤原秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽浄土はあり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の頂上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描……

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無量光院は三代藤原秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽浄土はあり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の頂上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。

街道のすぐ先、左手に残る無量光院跡に人だかりがあった。測量する人、地面を掘り返す人、土を運ぶ人、ただ傍観する人。未だに発掘調査は完了していないと見える。この広大な跡地は三代秀衡が宇治平等院鳳凰堂をモデルに極楽浄土を北の地に再現しようとした跡である。

伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県
伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県

悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをとも……

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悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをともない館を出て、束稲山を越え長い北への旅に出たのである」 と伝えられている(佐々木勝三著『義経は生きていた』より)この「伝説義経北行コース」は、こうした伝説の残る地点のいくつかを結んだものであり、この館が起点である。 岩手県観光連盟

義経堂 大沢 平泉町 西磐井郡 岩手県
義経堂 大沢 平泉町 西磐井郡 岩手県

ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治5年(1189年)閏四4月30日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばるこの地は、「衣河館」だった……

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ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治5年(1189年)閏四4月30日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。ここには、天和12年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。 は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。 束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で 「ききもせす 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」 と詠じた。 また、元禄11年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ はこの場所といわれている。 平成6年4月 平泉町観光協会

街道がJRと接近してきたあたりで、右におれて義経終焉の地高館をたずねる。子供のときに見た中村錦之助の牛若丸以来の義経ファンであるから胸の高まりを禁じえない。なだらかに曲がる北上川を見下ろす高台で、悲劇の武将源義経はその波乱の人生を終えた。忠実な弟分として偉大な貢献をしながら兄の恨みをかって、疎まれ貶められた末に攻められた。誤解か、歴史の必然か、それとも政子の陰謀か。義経はその出生から最期まで、謎と伝説に包まれた人物であった。義経堂にいる人物は必要以上に眉がながく、口ひげも福笑いの部品のように単調で、とてもあの義経とは思えない。中村錦之助の牛若丸はじつに美しかった。初恋の人に出会うべきか、永遠の夢の中にしまっておくべきか。

卯の花清水 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県
卯の花清水 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県

文治5年うる4月、高館落城のとき、主君義経とその妻子の、悲しい最後を見とどけ、死力を尽くして奮闘し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66、元禄2年5月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の二句を残した。白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名……

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文治5年うる4月、高館落城のとき、主君義経とその妻子の、悲しい最後を見とどけ、死力を尽くして奮闘し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66、元禄2年5月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の二句を残した。白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名づけて愛用してきた。 行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇きをいやしそこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。 昭和50年卯月30日 平泉町観光協会

中尊寺道踏切のそばに芭蕉も寄った「卯の花清水」がある。竹樋から清らかな水が流れ出ている。その上に「この地に湧水があって、卯の花清水と命名しておりましたが、後年水が枯れ今は水道を使用しております。 平泉町」との立て札があった。水がだめでも卯の花はと、「夏は来ぬ」を思い出しながら、その場にいたおばさんに訊ねると、「白い花だよなあ。もう終わったのじゃあ」とあたりを見回してくれた。曾良の句碑がある。

卯の花に兼房みゆる白毛かな

弁慶の墓 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県
弁慶の墓 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来 文治5年(1189)義経の居城高館焼打ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて立往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた 色かえぬ松のあるじや 武蔵坊

踏切をわると国道4号に合流する。これまでの古の風景とは変わってここは観光門前町である。合流点三角地帯に竹垣に囲まれて大きな墓碑が立つ。武蔵坊辨慶の墓である。弁慶はこの場所に葬られて五輪塔が建てられたという。墓石自体は塚上の松の根元にある小さな石である。五輪塔の一部であろう。

いよいよ平泉黄金文化の本丸、中尊寺をたずねる。毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。鬱蒼とした杉木立の中を月見坂とよばれる参道を登っていく。この道は古代の東山道の道筋といわれており、中尊寺の奥から衣川関に降りていた。後ほど衣川対岸の七日市で古道の跡を見る。

山中の広大な境内に多数のお堂や歌碑が見られる。西行はここを二度も訪れた。東物見台に西行の歌碑がある。

きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかにかゝるべしとは

本堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
本堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県

本堂をみて参道が奥まったところに金色堂を保存する覆堂が建つ。

金色堂覆堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
金色堂覆堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県重要文化財 旧覆堂 金色堂を風雪から護るため正応元年(1288)に鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂で、古くは「鞘堂」と呼称。 芭蕉をはじめ多くの文人墨客、参詣の人はこの堂内に入り、薄明の中に金色堂を拝観したわけである。昭和38年に新覆堂が建設されて、旧位置より移築。

金色堂は天治元年(1124)奥州藤原初代清衡によって造立された。中尊寺創建当時のままの優美な姿を伝える唯一の現存建造物で、国宝第一号に指定された。金色堂が覆堂(鞘堂)によって保護されるようになったのは室町中期のころで、昭和40年(1965)には新覆堂が完成した。旧覆堂は経蔵の北側に保存されている。

芭蕉像・句碑 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
芭蕉像・句碑 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県

旧覆堂のそばに芭蕉の像と文学碑が建っている。芭蕉は旧覆堂内に入ってまばゆいばかりの金色堂をみた。奥州の平泉に京の文化を花咲かせ、永久の浄土を実現しようとした藤原3代の夢の跡である。

五月雨の降り残してや光堂

芭蕉折り返し地 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県
芭蕉折り返し地 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県

芭蕉は衣川まで足をのばした後一関宿にもどり、翌朝奥州山脈を越えて日本海側にでる旅につく。行程としてはまだ半分も来てはいないが、奥州街道の北限をきわめて往路の旅を終えた気分になっているのではないか

奥州街道の旅はまだまだ続く。

国道4号にもどって300mほどいったところで旧道が土手まで残っている。麓に地蔵と常夜燈があり、堤防下には朱色の欄干がある。旧国道の衣川橋を記念するものだろう。新しい橋を渡って、平泉町から奥州市に入る。

前沢

旧道筋(旧衣川橋)跡 平泉坂下 平泉町 西磐井郡 岩手県
旧道筋(旧衣川橋)跡 平泉坂下 平泉町 西磐井郡 岩手県
衣川 平泉坂下 平泉町 西磐井郡 岩手県
衣川 平泉坂下 平泉町 西磐井郡 岩手県

衣川をわたってすぐの道を西にはいると、旧衣川橋跡から続く旧道にでる。道自体は堤防工事の取り付け道路みたいが、こちらにも「ころもがわばし」と書かれた朱色の親柱が設けてある。昭和26年1月31日に設置されたようだ。左手にパイプが一本立っていてそれに取り付けられた三つの洪水位標がそのときの位置を示している。上から、昭和22年カスリン台風、昭和23年アイオン台風、そして平成14年台風6号である。カスリン台風時の洪水位がほぼ現在の堤防の高さに等しいようだ。堤防下の家々が水没する深さである。

そこから西にでている道を辿っていった。長者ヶ原廃寺跡を訪ねるためである。しばらくいくと永井工業の看板がたつ曲がり角に「接待館遺跡」「衣の関道遺跡・長者ヶ原廃寺跡」とかかれた低い立て札がある。周囲は工場そばに草がはえる空き地だ。

民家 上野 衣川区 奥州市 岩手県
民家 上野 衣川区 奥州市 岩手県

説明板もなく、半信半疑であたりをうろついていると、北の角地の置くに凄まじい青トタン屋根の建物が目に飛び込んできた。大屋敷のようなスケールだが、個々の建物は廃家みたいに古びている。堂々とした長屋門、物置風の小屋、入母屋の主屋、兜屋根の蚕部屋など。農家だとすればかっての豪農、庄屋、ひょっとして長者屋敷かとも想像した。近づいてみると驚いたことに人が住んでいた。

旧下宿 上野 衣川区 奥州市 岩手県
旧下宿 上野 衣川区 奥州市 岩手県下宿 安倍氏全盛の頃からの宿場跡

道端に標柱があってうすれた墨跡で、「下宿 安倍氏全盛の頃からの宿場跡」と読める。なんと古代律令時代の宿場である。東山道の駅家であった。

道をさらに西に向かってすすんでいくと丁字路に改めて「長者ヶ原廃寺跡」の案内標識に出会うことができた。さっきの立て札には「ここを西に行く」という表示が欠けていたのだ。

長者原廃寺跡 野田 衣川区 奥州市 岩手県
長者原廃寺跡 野田 衣川区 奥州市 岩手県

この遺跡は、南を正面とするほぼ方形(南北100m強、東西90m弱)の土塁で区画されており、昭和33年と47年の二回にわたる発掘調査によって西門土塁跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認された。ここは承安4年(1174)に16才の源義経を京から連れてきたという秀衡の御用商人三条吉次季春(すえはる)、通称金売吉次の屋敷跡と伝えられてきたが、礎石の配列や遺物の配置及び出土した土師器等から平泉藤原氏の時代かそ……

説明の全文を読む(約570字)

この遺跡は、南を正面とするほぼ方形(南北100m強、東西90m弱)の土塁で区画されており、昭和33年と47年の二回にわたる発掘調査によって西門土塁跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認された。ここは承安4年(1174)に16才の源義経を京から連れてきたという秀衡の御用商人三条吉次季春(すえはる)、通称金売吉次の屋敷跡と伝えられてきたが、礎石の配列や遺物の配置及び出土した土師器等から平泉藤原氏の時代かそれ以前の重要な寺院跡と推定されている。(岩手県指定史跡昭和32年7月19日指定) 長者ケ原廃寺跡は、平安時代後期、今から約1000年前に建てられた寺院の跡です。一辺約100mの築地塀跡が方形に巡っていて、その中に3棟の礎石建物跡が確認されています。築地内部の中央よりやや北側に位置しているのが桁行・梁間ともに5間の本堂跡で、その西側に3間四方の西建物跡があり、いずれも基壇が良好な状態で残されています。南辺築地のほぼ中央には桁行3間・梁間2間の南門跡があります。造営された年代、整然とした伽藍配置と築地を有することから、 この寺院を建立したのは奥州藤原氏の祖先である安倍氏ではないかと考えられます。長者ケ原廃寺跡は、藤原清衡が中尊寺を建立する前から衣川の地に仏教文化が華開いていたことを伝えるとともに、平泉文化の成り立ちを窺う上で貴重な遺跡です。

丁字路を右折して北に進んで行くと先の農家脇でみたのと対をなす「宿(上宿)」の標柱がある。まもなく左手に設けられた駐車場に長者ヶ原廃寺跡資料館があり、詳しい案内板がある。実際の廃寺跡遺跡はすこしさきの右手、田圃の中にあった。金売り吉次の屋敷跡ともいわれていた場所を発掘調査した結果、ほぼ100m四方にめぐらされた築地塀の内部に堂塔伽藍が配置されていたことが判明した。平泉藤原氏以前の古代奥州文化の拠点であった。

並木屋敷跡 並木前 衣川区 奥州市 岩手県
並木屋敷跡 並木前 衣川区 奥州市 岩手県

永承元年(1045)頃、安倍頼時が当地一帯に本拠を構えたとされるが、一族の主な居住地域は川西で、政庁や家臣団の居住地はこの川東てあったと推測されている。 当時、桜並木によって囲まれていたと伝えられるここは、康平5年(1062)9月の安倍貞任の撤退までの18年間安倍氏の政庁であり、その翌年の康平6年(1063)から永保3年(1083)までの20年間は安倍氏に替って奥六郡を支配した清原武則 武貞、真衡……

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永承元年(1045)頃、安倍頼時が当地一帯に本拠を構えたとされるが、一族の主な居住地域は川西で、政庁や家臣団の居住地はこの川東てあったと推測されている。 当時、桜並木によって囲まれていたと伝えられるここは、康平5年(1062)9月の安倍貞任の撤退までの18年間安倍氏の政庁であり、その翌年の康平6年(1063)から永保3年(1083)までの20年間は安倍氏に替って奥六郡を支配した清原武則 武貞、真衡の三代の政庁もしくは居館であったといわれる。 ここが衣川柵と称されるようになったのは清原氏支配になってからで安倍氏の時代には柵は不要であった。

丁字路にもどり更に西に進むと右手に並木屋敷跡がある。ここは康平5年(1062)9月の安倍貞任の撤退までの18年間安倍氏の政庁であり、その翌年の康平6年(1063)から永保3年(1083)までの20年間は安倍氏にかわって奥六郡を支配した清原武則、武貞、真衡の三代の政庁もしくは居館であったといわれる。

ここで、藤原氏に先立つ奥州情勢を、資料館でもらった児童生徒向けガイドブックから紹介しよう。平安時代末期、源氏が武家社会をつくる夜明け前のころである。

前九年合戦(1051年)

今からおよそ950年前にあたる平安時代の中頃、「安倍氏」という豪族が、岩手県の中央から南部にかけて勢力を広げていました。頭領である安倍頼時は大きな力を持つようになり、この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍頼時、貞任(さだとう)親子と戦争を始めます。安倍氏と源頼義、義家親子との合戦は、およそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていきました。源頼義親子は苦戦しましたが、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則を味方につけ、ついに安倍氏を滅ぼしました。この合戦を「前九年合戦」といいます。この戦いで、安倍頼時親子は戦死し、頼時の娘の夫である藤原経清(つねきよ)も源頼義によって殺されてしまいます。しかしその後、頼時の娘は7歳になる息子をつれて清原家の息子武貞と再婚することになったのです。その息子こそが、のちの「藤原清衡」です。

後三年合戦(1083年)

安倍一族が滅んだ「前九年合戦」から20年後、安倍氏を滅ぼした清原家で跡継ぎ問題をめぐり、兄弟同士(真衡・清衡・家衡)の間に争いが起りました。長男真衡の死後、清衡と家衡の争いになり、さらに朝廷から陸奥守として派遣されていた源義家が、清衡軍に加わって大きな戦争に発展しました。この合戦を「後三年合戦」といいます。この合戦で清原氏は滅亡し、清衡は生き延びました。清衡はその後、江刺から平泉に館を移しました。約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まります。

おさらいをしておこう。

青森県がまだ未開の地であったころ、蝦夷の地では奥羽山脈をはさんで、岩手県内陸部の豪族安倍氏と秋田県内陸部の豪族清原氏が勢力を二分してしていた。全国統一をめざしていた大和朝廷は清原氏を利用してまず安倍氏を滅ぼす。岩手県は清原氏の領土となった。

衣川 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県
衣川 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県

ここ衣川では、世の中が貴族中心から武家中心へと変わりつつあった今から1000~800年ほど前、重要な事件がいくつも起きた場所です。衣川から北の北上川流域には6つの郡があり(奥六郡)、ここから北約20kmに位置する 胆沢城 に設置された鎮守府の支配を受けていました。今から約1000年前、鎮守府の下級官人として勢力を蓄えた安倍氏は、各地に柵とよばれる拠点を設置しながら奥六郡の実質的な支配者となっていき……

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ここ衣川では、世の中が貴族中心から武家中心へと変わりつつあった今から1000~800年ほど前、重要な事件がいくつも起きた場所です。衣川から北の北上川流域には6つの郡があり(奥六郡)、ここから北約20kmに位置する 胆沢城 に設置された鎮守府の支配を受けていました。今から約1000年前、鎮守府の下級官人として勢力を蓄えた安倍氏は、各地に柵とよばれる拠点を設置しながら奥六郡の実質的な支配者となっていきます。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には「安倍頼時は衣川に屋敷を構えた。子弟の家も軒を連ね、家来の家は屋敷の門を囲むように建てられた」とあり、衣川が安倍氏の政治的本拠地だったようです。しかし、 前九年合戦(1051~62)で源頼義・義家により安倍氏が滅ぼされた ため、それらは失われてしまっています。ただ、その後奥州藤原氏の時代でも重要な施設は衣川におかれていたようで、例えば源義経が身を寄せ、最期を遂げた衣河舘はこの周辺に存在していたようですし、最近では大規模な土塁と堀を持ち、大量のかわらけが出土した接待舘遺跡が発見されています。このように、衣川は時代の日本史の転換期における重要な舞台のひとっで、長者ヶ原廃寺跡もその中に位置づけられるのです。

ところで安倍氏の生き残り、頼時の娘が清原氏の頭領武則の息子武貞と結婚(再婚)して話がややこしくなった。清原家の内紛はつまり安倍頼時の娘の連れ子(清衡)と清原家嫡子(家衡)という異父兄弟間の争いであり、連れ子清衡にとっては親の敵討ちでもあった。源氏のちょっかいで清原氏がほろび、実父の姓を引き継いだ藤原清衡は岩手と秋田の両県を支配する奥州の覇者となった。源氏はみずから覇権を手伝った奥州藤原氏を滅ぼすのに100年を費やすことになる。義経が犠牲になった。

衣川渡船場跡 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県
衣川渡船場跡 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県この遺跡は長者ケ原廃寺跡の西北隅から直距離170mの衣川北岸の河床に設けられた桟橋の跡で、右図のように砂岩の盤に径0.6m内外の柱脚孔が3列に1.8m前後の間隔で20個発見されたものである。残念ながら出土遺物が検出されなかったので、この遺跡の造営年代は不明というほかないが、遺跡の位置関係から長者ヶ原廃寺跡に関連する水上交通遺跡と考えられている。
関道・七日市場跡 七日市場 衣川区 奥州市 岩手県
関道・七日市場跡 七日市場 衣川区 奥州市 岩手県

衣の関道 中尊寺と衣関に通じる道 大治元年(1126)藤原漬衡が21年の歳月を費やして中尊寺を落成させたと伝えられるが、この中尊寺の建立に伴って当時の主要道を境内に通し、衣関も寺の北側で衣川を渡る手前に設けた。その衣関から衣川を越えて北上する主要道の通称が関道であり、その周辺に7日、17日、27日と七のつく日に市が立ち平泉市街地内で最も繁昌した市場になったといわれ、現在も字名となっている。 また清……

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衣の関道 中尊寺と衣関に通じる道 大治元年(1126)藤原漬衡が21年の歳月を費やして中尊寺を落成させたと伝えられるが、この中尊寺の建立に伴って当時の主要道を境内に通し、衣関も寺の北側で衣川を渡る手前に設けた。その衣関から衣川を越えて北上する主要道の通称が関道であり、その周辺に7日、17日、27日と七のつく日に市が立ち平泉市街地内で最も繁昌した市場になったといわれ、現在も字名となっている。 また清衝はこの七日市場地区内の関道わきに伊勢大神宮を勧請し神明神社として地区民の信仰を集めたが、衣関に近く関道のそばであったので「関の神明」と称されたという。

この先、流路をかえる衣川沿いに北上し、結局長者ヶ原廃寺跡近くにある衣川渡船場跡と、帰路途中に七日市場跡・衣関道跡をみて奥州街道にもどる。七日市場は衣川をはさんで中尊寺からおりてくる古代東山道筋につくられた町であった。

瀬原町並 瀬原 衣川区 奥州市 岩手県
瀬原町並 瀬原 衣川区 奥州市 岩手県

国道4号に戻りすぐ左の県道37号に入る。趣ある瀬原の町並みを通り抜け、突き当りをクランク状に曲がって郵便局の脇の坂道をあがっていく。左前方の山頂に目立つ建物は国民宿舎だそうだ。

旧道は坂を下って東北自動車道に突き当たって途絶。左に大きく迂回して自動車道をくぐって右折、工場の前を通って徳沢川を渡り、丁字路に突き当たる。

徳沢一里塚跡 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県
徳沢一里塚跡 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県

この先旧道は自動車道に沿って山を越えていた。今はガードレールに沿って100mほどはいったところで消えている。その道で出会ったおじさんに旧道とこの辺にあった一里塚のことを聞いてみた。フェンス越に見える自動車道を指差しながら、

「街道は高速道路のところをい通っていた。この道は工事で出た土を盛ってできただけで、旧街道ではない。高速道路の峠あたりに舞鶴公園というのがあって、そこに明治天皇行幸碑があったんだが、工事の時にこの山の向こう側に移された」「一里塚はここにあった」と、屋根がこわれた場所まで連れて行ってくれた。

旧奥州街道 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県
旧奥州街道 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県
明治天皇駐○址 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県
明治天皇駐○址 徳沢 前沢区 奥州市 岩手県

旧道であれ、残土道であれ、とにかくここから山の向こう側へいくには再びおおきく迂回しなければならない。西にむかって進み、途中の丁字路を右折し右に大きくカーブして前沢インター工業団地の南北道路の南端にでる。南北にはしる広い直線車道が旧道筋にあたる。角を北に折れたところに奥州道中の案内板が建ってあり、旧道筋であることを確認できた。その道向かいから、こわれた手摺がのこる細い道が高速道路に向かって延びている。草深くなってなかば獣道になってきた。マムシがいても避けようがない、などと言い訳を考えながらヤケ気味にすすんでいくと、見晴らしがきく峠付近に石碑が見えた。碑の表と裏の写真を撮って急ぎ足で引揚げた。この道こそ旧道跡だとはいうまい。単なる明治天皇石碑のためのアクセス以上のものではなかろう。

白鳥神社 日向 前沢区 奥州市 岩手県
白鳥神社 日向 前沢区 奥州市 岩手県村社白鳥神社は第50代桓武天皇の延暦20年(802)に坂上田村麻呂蝦夷平定に際し日本武尊を鎮祭せる由緒深き神社であります。 以下略

斜め交差十字路を直進して急坂を下り、白鳥川を渡って県道283号を右折、東北自動車道の高架をくぐったところですぐ左手の旧道に入る。

白鳥神社の前を通り県道243号を左に折れて前沢宿にはいっていく。菅野金物店から西岩寺にかけて県道より一筋西側に細い旧道が残っている。

西岸寺 五十人町 前沢区 奥州市 岩手県
西岸寺 五十人町 前沢区 奥州市 岩手県

高台にある西岩寺によって県道283号にもどる。きれいな曲尺手が残っている。

森田文庫 五十人町 前沢区 奥州市 岩手県
森田文庫 五十人町 前沢区 奥州市 岩手県

曲がり角手前に「森田文庫」と表札をかかげた趣のある家が建っている。暖かい色をした土壁に木組みが美しく映える。格子造りの出窓とくぐり戸を備え、門も立派である。町家でも武家屋敷でもなさそうで、どちらかといえば書院風の建物だ。解説等がなく文庫の由来等は分からない。

曲尺手を経て再び北へすすむと右手に瓦葺き門塀を構え庭に植えた赤松が美しい家がある。

茂木家 下小路 前沢区 奥州市 岩手県
茂木家 下小路 前沢区 奥州市 岩手県高野長英ゆかりの家茂木家

その先の信号十字路で街道を離れ左にはいって前沢小学校に向かう。途中右手に高野長英ゆかりの家茂木家の大きな屋敷がある。

三沢氏居館表門 下小路 前沢区 奥州市 岩手県
三沢氏居館表門 下小路 前沢区 奥州市 岩手県

この和風の門は藩政時代の前沢領支の三沢氏居舘の表門を修復再建したものである。前沢は天正18年(1590)豊臣氏の全国統一により大守の葛西氏は滅び、改めて伊達藩に組み入れられた。以来、伊達氏により領主は大内、成田、飯坂の各氏と代った。最後に領主として着任したのが三沢氏である。三沢氏の治政は初代宗直氏より8代邦為氏迄で明治維新(1867)を迎える釣190年間、知行高は3千石で伊達藩家臣団最上席の一門の……

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この和風の門は藩政時代の前沢領支の三沢氏居舘の表門を修復再建したものである。前沢は天正18年(1590)豊臣氏の全国統一により大守の葛西氏は滅び、改めて伊達藩に組み入れられた。以来、伊達氏により領主は大内、成田、飯坂の各氏と代った。最後に領主として着任したのが三沢氏である。三沢氏の治政は初代宗直氏より8代邦為氏迄で明治維新(1867)を迎える釣190年間、知行高は3千石で伊達藩家臣団最上席の一門の地位にあった。 三沢氏の館は前沢小学校校舎とこれに続く山裾の一町歩以上の広さだった。(中略) 明治になり藩政は全て廃された。これに伴い三沢領も崩れ、館は一時胆沢県庁として使われていたが一括払下げられその面影を消した。この表門は後に古城の阿部修氏宅のものとなっていたが先年町に寄附された。以下略 平成11年3月 前沢町教育委員会

小学校は伊達藩時代、最後の前沢領主三沢氏の居館跡である。その館表門が学校正門として保存されている。伊達藩にあって前沢の領主は大内、成田、飯坂、そして三沢と代わり、最後の三沢氏は明治維新まで8代190年も続いた。

小学校の前には「前沢水路」という寛永年代からの農業用水路跡が残っている。学校敷地の南側に「閑居坂」、「旧裏小路」などと名づけられた路地が残る三沢氏家臣の屋敷地域がある。学校の正門のほかに古い建造物はのこっていないが、地名や標識類から往時の武家屋敷町を偲ばせる一角をなしている。

旧前沢宿家並 三日町 前沢区 奥州市 岩手県
旧前沢宿家並 三日町 前沢区 奥州市 岩手県明治天皇行在処跡 佐藤屋

前沢駅前通り交差点の手前に風情ある店が並んでいる。右手の佐藤屋旅館は老舗のようで、看板に明治天皇行在処跡と書き加えている。道向かいには米、肥料、燃料、酒などを扱う古いたたずまいの書横転が軒を連ねている。看板をはずした屋根看板がなにかもの言いたげな様子だ。

旧前沢宿町並 七日町 前沢区 奥州市 岩手県
旧前沢宿町並 七日町 前沢区 奥州市 岩手県
太田家住宅(太幸邸) 七日町 前沢区 奥州市 岩手県
太田家住宅(太幸邸) 七日町 前沢区 奥州市 岩手県

太田家は、当主が初代から四代目まで幸蔵を襲名、五代目は幸五郎と続くことから、「太幸邸」と呼ばれ、地域に親しまれています。 岩手県指定を受けた建造物は、主屋のほか、庭園・土蔵・表門・前座敷・炊場・旧盛岡銀行前沢支店の7棟及び西側の塀で、建築当時の屋敷構成がよく残されています。 明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県指定有形文化財第一号の指定を受けました。 主屋の外観及び内部は上質・簡素な……

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太田家は、当主が初代から四代目まで幸蔵を襲名、五代目は幸五郎と続くことから、「太幸邸」と呼ばれ、地域に親しまれています。 岩手県指定を受けた建造物は、主屋のほか、庭園・土蔵・表門・前座敷・炊場・旧盛岡銀行前沢支店の7棟及び西側の塀で、建築当時の屋敷構成がよく残されています。 明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県指定有形文化財第一号の指定を受けました。 主屋の外観及び内部は上質・簡素な和風建築ですが小屋組・洋間・階段などの一部が洋風となっています。 主屋・表門・前座敷・炊場は、日露戦争後の不況、大凶作という時代を背景に、材料・職人のほとんどを地元で賄う救済事業の一つとして、明治43年に五代当主太田幸五郎により建築されました。また、土蔵は明治25年、旧銀行は大正8年の建築で庭園も同時期と伝えられています。 前沢町指定天然記念物(昭和54四年8月1日指定) 梅 太幸邸の庭園に、樹齢450年と推定される岩手県屈指の紅梅の大木があります。この梅は、大正4年3月に町内白鳥館から人夫約300人を要して移植されたと伝えられています。 平成10年6月1日 前沢町教育委員会

前沢駅前通りと交差して二つ目の曲尺手を曲がると七日町だ。すぐ右手に太田家住宅がある。岩手県有形文化財第1号の指定を受けた明治時代の屋敷建築で、立派な松が茂る庭園には樹齢450年という県屈指の紅梅の古木があるという。建物は主屋のほか、土蔵・表門・前座敷・炊場・旧盛岡銀行前沢支店が残されている。これらの建築は日露戦争後の不況対策の一つとしてなされたというから、太田家は前沢町を代表するほどの資産家だったのだろう。

岩手銘醸 七日町 前沢区 奥州市 岩手県
岩手銘醸 七日町 前沢区 奥州市 岩手県

新町にはいって左手に岩手誉蔵元の岩手銘醸が門塀に松の装いを残している。

長屋門 古城寺ノ上 前沢区 奥州市 岩手県
長屋門 古城寺ノ上 前沢区 奥州市 岩手県

街道は二十人町を通り抜け前澤宿を後にする。岩堰川を渡って国道4号に合流したのち古城歩道橋の先で左の旧道をとって古城集落を通り抜ける。左手に大きな長屋門を見た。

水沢

旧奥州街道 折居町 水沢区 奥州市 岩手県
旧奥州街道 折居町 水沢区 奥州市 岩手県

次の宿、水沢に到る途中で間宿折居を通る。折居集落の中程で左へ小川に沿って細い上り坂が出ている。

旧奥州街道 桜並木 折居町 水沢区 奥州市 岩手県
旧奥州街道 桜並木 折居町 水沢区 奥州市 岩手県奥州街道と桜並木 ふるさと名所50景

これが古道筋でこの後、途絶・迂回・消失を繰り返しながら大深沢川をこえ水沢南中学校の西側を北上し、大鐘市民プール前の道路にでる。右往左往しながらこの間の道筋をたどってみたが、実りはなかった。結局折居に戻り、桜並木を通って国道へ出、水沢高校の東方で県道226号に入って大鐘公園にもどることにした。

真城一里塚 真城中上野 水沢区 奥州市 岩手県
真城一里塚 真城中上野 水沢区 奥州市 岩手県

江戸時代の奥州街道には一里(約4km)ごとに塚が設置され、沿道に松が植えられていました。この一里塚は、仙台から30番目の塚で、下伊澤郡須江村に位置していました。もとは幅5.4m前後の道路の両側に2基つくられたものですが、昭和44年の国道4号線バイパス工事で東塚が撤去され、現在は西塚だけが残されています。(中略)なお、奥州街道は水沢市折居町から西側の高台を通り、水沢公園の愛宕社参道から袋町に入るルー……

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江戸時代の奥州街道には一里(約4km)ごとに塚が設置され、沿道に松が植えられていました。この一里塚は、仙台から30番目の塚で、下伊澤郡須江村に位置していました。もとは幅5.4m前後の道路の両側に2基つくられたものですが、昭和44年の国道4号線バイパス工事で東塚が撤去され、現在は西塚だけが残されています。(中略)なお、奥州街道は水沢市折居町から西側の高台を通り、水沢公園の愛宕社参道から袋町に入るルートをとっていましたが、明君4年(1658)頃、小山崎から山崎町の妙法寺、七軒小路に抜ける道路に切り替えられました。 元禄12年(1699)の上伊澤郡大絵図と下伊澤郡大絵図(右図)には、真城一里塚のほか、水沢城下北入り□の不断丁の北に奥州街道31番目の一里塚が描がれています。また、脇街道の胆沢町から秋田県増沢町に抜ける秋田街道と北上川を越える黒石街道にも一里塚がつくられています。平成15年3月 水沢市教育委員会

国道4号から県道226号にはいったところの左手に真城一里塚跡がある。木の切り株が塚の跡か。これは西塚で、東塚はちょうど国道4号にひっかかって撤去された。

東上野町2丁目 水沢区 奥州市 岩手県
東上野町2丁目 水沢区 奥州市 岩手県旧奥州街道直進 旧仙北街道 左折

大鐘市民プール前の道を北にすすんでいく。東上野町2丁目の表示がある十字路角に「歴史の道」「左は旧奥州街道 右は旧仙北街道」と書かれた標柱が立っている。他の一面には「1978・10・10 旧仙北街道をよみがえらせる会 水沢市教育委員会」とあって、奥州街道は二の次のようである。

直進して国道397号に出る。街道はここから袋町を西にすすみ横町交差点を右折して宿場の中心地大町に向かうのだが、その前に水沢公園によった。

駒形神社 中上野町 水沢区 奥州市 岩手県
駒形神社 中上野町 水沢区 奥州市 岩手県

駒形神社奥宮は、今から千五百年以上前に駒形大神様が勧請され、お鎮まり戴いた駒ケ岳山頂にあります。 お宮が初めて建てられたのは嘉祥3年(西暦850)、お駒堂として建立いたしました。 江戸期、寛永19年(1642)には、奥宮を起点として釜石の唐丹湾までの約130kmに渡って、伊達藩と南部藩の境塚が築かれ(現存する境塚として知られております)、奥官は約20年ごとに伊達藩と南部藩が協同して建て替えを行って……

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駒形神社奥宮は、今から千五百年以上前に駒形大神様が勧請され、お鎮まり戴いた駒ケ岳山頂にあります。 お宮が初めて建てられたのは嘉祥3年(西暦850)、お駒堂として建立いたしました。 江戸期、寛永19年(1642)には、奥宮を起点として釜石の唐丹湾までの約130kmに渡って、伊達藩と南部藩の境塚が築かれ(現存する境塚として知られております)、奥官は約20年ごとに伊達藩と南部藩が協同して建て替えを行ってまいりました。 最後に建て替えられたのが昭和36年、長い年月の風雪に耐えてまいりましたが、地震などの影響により老朽が進んでおります。以下略 駒形神社社務所

公園入口右手に駒形神社がある。社殿前で夫婦らしき二人連れが記念写真に納まっていた。駒形神社の奥宮は奥州山脈駒ヶ岳山頂にある。それを建て替えたいという趣意書が貼られている。駒ヶ岳山頂は伊達藩と南部藩が藩境を決めた際、境界線の西端に選ばれた地点である。そこに建つ奥宮は両藩で20年ごとに建て替えられてきた。現在の奥宮は昭和36年(1961)に建て替えられてからもう50年近くにもなるので、そろそろ建て替えたいというのである。

松平氏の墓 水沢公園内 中上野町1丁目 水沢区 奥州市 岩手県
松平氏の墓 水沢公園内 中上野町1丁目 水沢区 奥州市 岩手県

(留守家17代宗景の妻悦子の墓) 当時江戸にあった。眉目清秀な青年大名宗景に想いを寄せた悦子は筑前の太守52万石、黒田光之侯の3女であり、東北の陪臣1万余石の小大名とは格式の上からも正式な結婚ができずある人の橋渡しにより松平忠久の養女となって留守家に輿入れしたものである。しかしこの夫婦も悲哀の物語につつまれ、宗景26歳で逝き、翌年彼女も24歳の若さで江戸で没した。彼女の死を前にして「せめて江戸への……

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(留守家17代宗景の妻悦子の墓) 当時江戸にあった。眉目清秀な青年大名宗景に想いを寄せた悦子は筑前の太守52万石、黒田光之侯の3女であり、東北の陪臣1万余石の小大名とは格式の上からも正式な結婚ができずある人の橋渡しにより松平忠久の養女となって留守家に輿入れしたものである。しかしこの夫婦も悲哀の物語につつまれ、宗景26歳で逝き、翌年彼女も24歳の若さで江戸で没した。彼女の死を前にして「せめて江戸への道の見える丘に葬ってほしい」との遺言でこの地に埋葬されたという。そのころ、この辺には南へ通ずる街道があり、大鐘、真城を経て仙台、江戸へ通ずるものであった。

公園内には、後藤新平のボーイスカウト姿の像、戊辰戦争碑、正岡子規の句碑、松平氏の墓、高野長英記念館などと色々ある。

横町から大町にはいる。水沢駅前通りとの交差点から街道を離れて、西に点在する武家屋敷を訪ねて歩くことにする。

高野長英旧宅 大畑小路 水沢区 奥州市 岩手県
高野長英旧宅 大畑小路 水沢区 奥州市 岩手県

高野家は、高野長英の母、美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮らしたところです。現在の建物は、1876(明治9)年に改築されていますが、西側の表庭に面した八畳と六畳の二部屋が、長英の居室として保存されています。 長英9歳のとき、父の後藤惣介が亡くなります。その後、母とともに高野家にもどり、14歳で伯父高野玄斎の養子となります。長英は、「解体新書」を著した杉田玄白に学んだ蘭方医でもあ……

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高野家は、高野長英の母、美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮らしたところです。現在の建物は、1876(明治9)年に改築されていますが、西側の表庭に面した八畳と六畳の二部屋が、長英の居室として保存されています。 長英9歳のとき、父の後藤惣介が亡くなります。その後、母とともに高野家にもどり、14歳で伯父高野玄斎の養子となります。長英は、「解体新書」を著した杉田玄白に学んだ蘭方医でもあった養父高野玄斎に蘭学を学びます。また、祖父の高野元端から漢籍を学び、元端が東山興田(現在の東磐井郡大東町)でひらいた寺子屋では祖父の代理も勤めたとも伝えられています。 (国指定史跡) 水沢市

街道から西に二筋目、高野整形外科・外科の北側に国指定史跡「高野長英旧宅」がある。母、美也の実家で長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮らしたところである。建物は明治9年の改築とあるが、モダンな作りで昭和30年代の家といわれてもわからないくらいだ。

武家屋敷高橋家 大畑小路 水沢区 奥州市 岩手県
武家屋敷高橋家 大畑小路 水沢区 奥州市 岩手県

武家屋敷高橋家は、留守家の大番士を勤めた家臣の屋敷です。江戸時代、この大畑小路は、「吉祥寺前小路」や「東大畑小路」などとよぱれ、武家屋敷が配置された通りです。 屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、1874(明治7)年から8年をかけて建てたといわれている母屋をはじめ、薬医門、土蔵、板倉、井戸などがあります。母屋は、唐破風の玄関と木彫や障壁画で建物を飾り、当時としては非常にめずらしい窓ガラスやレンガも……

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武家屋敷高橋家は、留守家の大番士を勤めた家臣の屋敷です。江戸時代、この大畑小路は、「吉祥寺前小路」や「東大畑小路」などとよぱれ、武家屋敷が配置された通りです。 屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、1874(明治7)年から8年をかけて建てたといわれている母屋をはじめ、薬医門、土蔵、板倉、井戸などがあります。母屋は、唐破風の玄関と木彫や障壁画で建物を飾り、当時としては非常にめずらしい窓ガラスやレンガも使った和洋折衷の建物でガス燈がひかれています。建物内の襖絵などは水沢の画人菅原竹侶が手がけ、天井一面に龍が描方れた「龍の間」もあります。 水沢市

その北隣は水沢城主留守家の大番士を勤めた家臣高橋家の屋敷である。薬医門と両側の漆喰土塀、白壁切妻土蔵が重厚な雰囲気を与えている。

日高小路 水沢区 奥州市 岩手県
日高小路 水沢区 奥州市 岩手県武家屋敷通り(手前小幡家、向こう安倍家) 日高神社参道

大手通りを横切って日高小路をいく。日高神社への参道でもあるこの路地には留守家家臣の屋敷が連なっていた。今も小幡家、安倍家の品格あふれる屋敷建築を楽しむことができる。

奥州市武家住宅資料館(内田家住宅) 吉小路 水沢区 奥州市 岩手県
奥州市武家住宅資料館(内田家住宅) 吉小路 水沢区 奥州市 岩手県

一路北側に移動して新小路を東にもどると大手通り近くに吉田家、大通りを一筋北に移り、吉小路にはいるとすぐ左手に萱葺の内田家旧宅(奥州市武家住宅資料館)が落ち着いた佇まいをみせている。 反対側の後藤新平の生家も留守家の小姓頭を勤めた家柄で、冠木門の奥に清楚な萱葺の母屋が見える。

大手通りに面した水沢市役所は水沢城跡である。伊達家一門の留守氏の居城だった。一本の姥杉だけが往時の面影を伝えている。

旧水沢宿町並 大町 水沢区 奥州市 岩手県
旧水沢宿町並 大町 水沢区 奥州市 岩手県

水沢城の正面に位置し、かっての奥州街道の通りが大町です。町西裏の大町川と乙女川の間には土塁と堀が設けられていました。城下の正面に当たる大町から城への出入りは厳重に管理され、大手枡形と南枡形がありました。 また、キリシタン禁制や種々の通達を掲げる「高札場」も置かれていました。 大町の町屋には、横町や立町とともに問屋場があり、水沢を代表する多くの商人が軒を達ねていました。 なお、明治9年(1876)と……

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水沢城の正面に位置し、かっての奥州街道の通りが大町です。町西裏の大町川と乙女川の間には土塁と堀が設けられていました。城下の正面に当たる大町から城への出入りは厳重に管理され、大手枡形と南枡形がありました。 また、キリシタン禁制や種々の通達を掲げる「高札場」も置かれていました。 大町の町屋には、横町や立町とともに問屋場があり、水沢を代表する多くの商人が軒を達ねていました。 なお、明治9年(1876)と同14年(1881)に明治天皇が東北地方に巡幸された際、水沢の宿泊先となった行在所跡が町の中ほどにあります。 水沢市 明治天皇行在所 明治天皇は、二度東北巡幸をされている。水沢へは明治9年(1876)7月4日、同14年(188198月17日、いずれも行在所は大町の豪商戸坂万六宅(現在地)であった。行在所は行宮(あんぐう)ともいわれ、天皇の旅行のときの仮の御所のことである。

大手通りの向かい八幡家をみて大町にもどり、街道歩きを再開する。

大町 水沢区 奥州市 岩手県
大町 水沢区 奥州市 岩手県にいたる小路

水沢幼稚園の駐車場に「大町」の案内板、左手に「明治天皇行在所趾」碑がある。明治9年と14年の東北巡幸の際、ここ大町の豪商戸坂万六宅が行在所となった。

幼稚園の北側の路地をはいっていくと「めがね橋」で知られる長光寺橋をわたる。このあたりは大町を中心とする町民町で賑わった地域であり、今も海鼠壁の土蔵や古い商家が情緒ある一角を形成している。

乙女川・お忍び通り 柳町 水沢区 奥州市 岩手県
乙女川・お忍び通り 柳町 水沢区 奥州市 岩手県

乙女川と旧国道が交差する橋を挾む約300mの通りが柳町です。寛永4年(1629)留守宗利が、水沢の城主になる以前方からの町らしく、水沢で最も古い町ではないかと思われます。 藩制時代に遊郭があったため、柳町の名前が生まれたともいわれています。 町の南端には、城下と北上川西岸の蔵場とを結ぶ道があり、お蔵場道といわれていました。その近くにある法泉寺には、江戸振り袖火事にまつわる八百屋お七の伝説があり、お……

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乙女川と旧国道が交差する橋を挾む約300mの通りが柳町です。寛永4年(1629)留守宗利が、水沢の城主になる以前方からの町らしく、水沢で最も古い町ではないかと思われます。 藩制時代に遊郭があったため、柳町の名前が生まれたともいわれています。 町の南端には、城下と北上川西岸の蔵場とを結ぶ道があり、お蔵場道といわれていました。その近くにある法泉寺には、江戸振り袖火事にまつわる八百屋お七の伝説があり、お七の恋人三吉の墓やお七を供養したとされるお白粉地蔵が今もあります。また、享保年間に江戸の火消しに習い、水沢の消防組織を創設したとされる佐々木佐五平のゆかりの地も町角にあります。 水沢市

乙女川の手前右手に「柳町」の案内板と「御蔵場道入口」の碑がある。乙女川をはさんだ300mほどの区間が水沢ではもっとも古いとされる柳町である。その名が暗示するように遊郭があった。乙女川沿いに整備された「お忍び通り」と呼ばれる散策道はまさにその風情を漂わせている。

立町家並 水沢区 奥州市 岩手県
立町家並 水沢区 奥州市 岩手県

現在、立町角と呼ばれている西端の代官所跡から東方に柳町の胆江日日新聞社(旧警察署跡)の方向に延びる通りが立町です。 藩制時代、通りの中ほどに奥州街道水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、参勤交代の時など多くの人々が宿泊しました。 立町は、宿楊町の中心として栄えた町でもあり、そのためか、明治の初期には六軒ほどの旅館がありました。 その頃は、土蔵を持つ豪商の店が並び、水沢の商業の中心でしたが、大正時代に入り、……

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現在、立町角と呼ばれている西端の代官所跡から東方に柳町の胆江日日新聞社(旧警察署跡)の方向に延びる通りが立町です。 藩制時代、通りの中ほどに奥州街道水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、参勤交代の時など多くの人々が宿泊しました。 立町は、宿楊町の中心として栄えた町でもあり、そのためか、明治の初期には六軒ほどの旅館がありました。 その頃は、土蔵を持つ豪商の店が並び、水沢の商業の中心でしたが、大正時代に入り、水沢・岩谷堂間のトテ馬車や乗合自動車が町を通り、さらに鉄道の発達などにより、しだいに商業の中心が大町や横町に移ったといわれています。 現在、町鎮護の神である秋葉神社が、通りの北裏に移されています。 水沢市

柳町信号を左折して立町に入る。中程に立つ旧町屋紹介札には立町こそ宿場の中心地で、江戸時代には本陣・脇本陣が、明治時代には土蔵をもつ豪商が並んでいたという。商業の中心が大町や横町に移っていったのは大正以降だと、解説が詳しい。なるほど、通りには大町におとらない土蔵や格子造りの商家が残っている。太鼓屋高松商店をはさむ家並みもなかなか風情がある。

代官所跡 立町 水沢区 奥州市 岩手県
代官所跡 立町 水沢区 奥州市 岩手県

立町信号で大手通りと合流して街道は一路北に向かう。老松と門構えの家が建つ北西角は上伊沢代官所跡地である。

見ごたえのあった水沢宿を後にして、街道は伊沢城跡をめざして北上する。東北本線を跨いで左に曲がり国道4号に合流する。

中ノ町五差路交差点で右斜めの短い旧道に入っていく。すぐに大きな交差点でバイパスを横切り、そこからは県道270号に名を変えて引き続き北へ進む。

胆沢城跡 佐倉河渋田 水沢区 奥州市 岩手県
胆沢城跡 佐倉河渋田 水沢区 奥州市 岩手県

左手に奥州市埋蔵文化財調査センターを過ぎたあたりで右手に「史跡 胆沢城跡」の石標が現れる。史跡は街道をはさんで西側に外郭南門が、政庁はじめ主要施設は東側に配置されていた。位置的には北上川と胆沢川の合流点左岸と奥州街道の間にあたる。広大な区域に台地状の盛土が散在している。眺めているだけでは遺構か田圃かの区別もつかず一見取り付く島がない。

前九年の役からさかのぼること250年の延暦21年(802)、坂上田村麻呂によって築かれ、蝦夷平定の軍事拠点鎮守府が多賀城からここに移されてきた。大和朝廷のフロンティアが宮城県から岩手県に北上してきたのである。

鎮守府八幡宮本殿 佐倉河宮ノ内 水沢区 奥州市 岩手県
鎮守府八幡宮本殿 佐倉河宮ノ内 水沢区 奥州市 岩手県江戸後期の神社様式。建築は享和3年(1803)入母屋造、正面3間、側面2間。向拝付、三面に高覧付回縁めぐる。

街道をすすんでいくとまもなく右手に鎮守府八幡宮への赤い鳥居が建つ。かなり離れているのを知りつつ、たずねていった。石仏群にまじって「史跡 胆沢城跡」の標柱が立つ角を右折して田園の中をすすむと森の中に立派な神殿がひっそりとあった。めずらしく本殿を解説した石標がある。「建築は享和3年(1803)入母屋造、正面3間、側面2間。向拝付、三面に高覧付回縁めぐる」と簡潔明快である。

三代清水 佐倉河八ツ口 水沢区 奥州市 岩手県
三代清水 佐倉河八ツ口 水沢区 奥州市 岩手県この湧き水は、国指定史跡胆沢城跡の北西角に位置し、802年に胆沢城を建立した坂上田村麻呂将軍、前九年の役(1051~62)で陸奥の豪族安倍頼時・貞任を討った、源頼義将軍、源義家公の三代の飲用により命名されたと伝えられています。 胆沢城があったころは、ここで暮らす人たちの飲用水であったに違いありません。昭和20年頃までは、生活用水として使用されていました。 平成10年3月 水沢市
胆沢川 佐倉河向川原 水沢区 奥州市 岩手県
胆沢川 佐倉河向川原 水沢区 奥州市 岩手県

街道にもどりすぐ先の右手入った小川のほとりに涌いている三代の清水をみて、胆沢川を渡る。三代の将軍が愛飲したという。三代とは胆沢城を建立した坂上田村麻呂、前九年の役(1051~62)で陸奥の豪族安倍頼時・貞任を討った源頼義、義家の三人をいう。

金ヶ崎

旧金ヶ崎宿町並 西根本町 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
旧金ヶ崎宿町並 西根本町 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県

街道は泰養寺前で右にカーブしていく上がり坂で県道とわかれて左の旧道にはいる。金ヶ崎宿の南町である。南町を逆コの字形にたどって県道にもどる。すぐ先の本町が金ヶ崎宿場の中心地だった。宿場は小さい。

金ヶ崎城跡より北上川展望 西根白糸 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
金ヶ崎城跡より北上川展望 西根白糸 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県

金ヶ崎城は大町氏の居館で大町主計定頼が正保元年(1644)禄三千石をもって東山藤沢から移り九代にわたって224年間居住した所である。胡桃館ともいわれたという。大町以前には、桑折氏次に留守氏が居住したがいずれも十数年にすぎなかった。金ヶ崎城の情景を大町氏の家臣藤原一之は、『城外の風惶春色新たに宮人織るが如く来往頻なり鯉魚無数池上に浮かび白壁暉々水に映じて鮮なり』と一詩をもってたたえている。 しかし明……

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金ヶ崎城は大町氏の居館で大町主計定頼が正保元年(1644)禄三千石をもって東山藤沢から移り九代にわたって224年間居住した所である。胡桃館ともいわれたという。大町以前には、桑折氏次に留守氏が居住したがいずれも十数年にすぎなかった。金ヶ崎城の情景を大町氏の家臣藤原一之は、『城外の風惶春色新たに宮人織るが如く来往頻なり鯉魚無数池上に浮かび白壁暉々水に映じて鮮なり』と一詩をもってたたえている。 しかし明治維新後は荒廃はなはだしく陸中の人、五山をして『タ餉たく煙も細し白糸の古城の跡の民のかまどは』詠嘆させるほど、もの寂しいものであった。今は、蔵館跡の大半は北上川に浸触されてくずれ去り、東舘および観音館は、土木工事のため削りとられて旧観をとどめない。 また城内の中央を県道が貫通し本丸と二ノ丸跡は住宅地になるなどして変容したがわずかに残る堀跡や土塁なとから昔をしのぶことができる。 口碑によればこの地には、永承の昔白糸姫の往んだ白糸城があったと伝えられている。金ヶ崎城の興亡も白糸姫の悲恋物語と共に今は昔の語り草になってしまった。 平成元年2月 金ヶ崎町・金ヶ崎町観光協会

岩手銀行前から東にでている県道108号を進んで行くと、左手に金ヶ崎城跡への細い道がでている。北上川を見下ろす眺めの良い高台に大町氏の居館が築かれ、正保元年(1644)から224年間の長きにわたって大町氏9代が居住した。白糸姫の悲恋物語が伝承されており、「白糸」はこの地区名として残っている。

西根六軒町 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
西根六軒町 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県「城内」地区 足軽屋敷跡
西根表小路 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
西根表小路 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県「城内」地区 足軽屋敷跡

この北側麓に足軽屋敷町が作られ今も「城内」とよばれて宿場の町並とは一線を画した景観を維持している。緑の多い通りに面して武家屋敷の面影をのこす建物が見られる。そんななかに一軒の庶民的な雑貨店が仲間に入っているのがほほえましかった。

なお、県道108号で北上川をわたった先には江刺藤原の郷がある。前九年の役で安倍氏の領土を勝ち取った清原氏の後継者の一人として、安倍氏の血をひく清原(藤原)清衡が旧安倍氏の領土の南半分を支配した。その本拠地がここ江刺である。その後後三年の役を経て清衡は旧安倍・清原両氏の全領土を奪還、都を平泉に移して奥州藤原氏として君臨することになった。

街道にもどる。街道筋には本町右手に黒板塀と見越しの松を配した家が目立つほか、昔の宿場町を偲ばせる家並みは残っていない。

清水端一里塚 三ケ尻清水端 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
清水端一里塚 三ケ尻清水端 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県「加藤商店前」バス停脇

金ヶ崎宿の北端、矢来の二股で県道270号を離れ、右の旧道にはいる。宿内川を渡りしばらく行った清水端の加藤商店前バス停後ろに清水端(しみずばた)一里塚がある。はっきりと塚がみとめられ、大木の切り株がのこっている。随分背の高い切り株で隣家の屋根くらいあるが、街道の手前からはみえないほどの高さになっている。

十三人塚 三ケ尻十三本塚 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県
十三人塚 三ケ尻十三本塚 金ケ崎町 胆沢郡 岩手県三ケ尻小学校裏

その先街道からすこしはずれた三ヶ尻小学校の北側、畑と学校敷地の境に低い土盛がある。「史跡十三本塚」の標柱がなければなにごともない風景である。このあたりに作られた13の塚のうちの一つだが、何の塚かはよくわかっていない。なんらかの犠牲者を弔う塚だとか、坂上田村麻呂が蝦夷を殺す代わりに彼等の装飾品を埋めた塚だとか伝わっている。

街道はその先渋川を渡り、六原駅の東方でその先通行止となる。国道4号に迂回し金ヶ崎町をでて北上市に入る。

鬼柳

白山神社 小糠沢 相去町 北上市 岩手県
白山神社 小糠沢 相去町 北上市 岩手県

和田交差点で右折して国道4号から県道254号に移る。北上浄化センターから旧道が復活している。東北本線と北上川の間を進んでいくと、東北新幹線の高架の手前に白山神社がある。

相去御番所跡 相去 相去町 北上市 岩手県
相去御番所跡 相去 相去町 北上市 岩手県

明暦2年(1656)伊達藩主二代忠宗公の時、北境の備えとして当地に番所を設置すると共に街道をはさんで両側に軽臣(足軽)102名を置いた。 番所は左図の通り、足軽屋敷三軒分(間口18間、奥行25間)の中に2棟の建物があり、1棟は事務所(番所)で、前が庭になっており通行人を取調べた建物、もう1棟は番所役人控室で番所及び関門を守る足軽の控所であった。 尚、番所の内側には捕手道具の、こがらみ、ちくも、さし……

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明暦2年(1656)伊達藩主二代忠宗公の時、北境の備えとして当地に番所を設置すると共に街道をはさんで両側に軽臣(足軽)102名を置いた。 番所は左図の通り、足軽屋敷三軒分(間口18間、奥行25間)の中に2棟の建物があり、1棟は事務所(番所)で、前が庭になっており通行人を取調べた建物、もう1棟は番所役人控室で番所及び関門を守る足軽の控所であった。 尚、番所の内側には捕手道具の、こがらみ、ちくも、さしまた等のほかに、鉄砲10丁、弓10張、槍10本を備え、番所には武頭1名(250石、出入司支配扱い、百日交代で仙台より出張)組頭2名、床頭1名、足軽4名が、常時勤務した。 番所の前は組頭三宅氏の屋敷であるが、二軒分の屋敷の裏に二棟の土蔵があり、一棟は御蔵米の収蔵庫、もう一棟は武器庫で、鉄砲、火薬及び予備の捕手道具が備えられていた。 又、川□には川留番所と、穀改番所があり、川□、六軒町の足軽は御番所の指示をうけて勤務した。平成20年3月 相去地区自治協議会

相去(あいさり)郵便局の先、信号の脇に「相去御番所跡」の説明板がある。伊達藩最北、南部藩との境に番所が設置され街道をはさんで軽臣(足軽)102名が配置された。相去は足軽町である。

南部・伊達藩境塚 西野 相去町 北上市 岩手県
南部・伊達藩境塚 西野 相去町 北上市 岩手県

天正19年(1591)、南部氏は北の方から南へ、和賀郡-上閉伊郡まで、伊達氏は南の方から北へ、胆沢郡-江刺郡までを領有するようになった。これまで郡界についてあまり問題にしていなかったが、両藩が境を接するようになってにわかに境筋が問題になり、境界争いが各所でおこった。こうした境界争いが幕府へ訴えとなるまで発展し、寛永18年(1641)12月2日、江戸城で幕府老中立会いのもとに絵図面に点線で境界がつけ……

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天正19年(1591)、南部氏は北の方から南へ、和賀郡-上閉伊郡まで、伊達氏は南の方から北へ、胆沢郡-江刺郡までを領有するようになった。これまで郡界についてあまり問題にしていなかったが、両藩が境を接するようになってにわかに境筋が問題になり、境界争いが各所でおこった。こうした境界争いが幕府へ訴えとなるまで発展し、寛永18年(1641)12月2日、江戸城で幕府老中立会いのもとに絵図面に点線で境界がつけられ、文書で協定ができた。翌年6月10日から両藩役人立会いで、絵図面にしたがって(真の境界は三界山)奥羽山脈駒ヶ岳から国見山北五輪峠を経て気仙郡○ノ浦崎(今の釜石市唐丹)まで直線にして130kmにわたり、要所要所に塚を築き、さらに重要箇所には挟塚といって特に大きく南部側に一つ、仙台側に一つセッ卜にして築いた。また、協定文の中に夏油川の水は半々に用いること・・・・・という一ヶ条があり、伊達藩としては六原野を開田する意図を暗に含めたつもりであり、後、(寛文年間)南部藩へその事を通告したところ断わられ、かえって南部藩に岩崎を開田され岩崎新田村がおこされたという後日の話もある。現在地の塚は、資料に基づいて複復元したもので、この塚を境に北に南部藩、南に伊達藩の番所がそれぞれ置かれていた。

少し行くと左手に「南部・伊達藩境塚」が復元されている。伊達側は相去、南部側は宿場鬼柳である。隣近所から国境まで、境界線はいつの世も紛争の種だが、伊達藩と南部藩も住民の間で藩境をめぐるもめごとが絶えなかった。幕府が仲介役になってスケールの大きな解決策が図られた。奥羽山脈駒ヶ岳から国見山北五輪峠を経て釜石唐丹まで直線にして130kmにわたって要所要所に塚を築こうというものである。重要箇所には挟塚といってちょうど一里塚のように南部側と仙台側の両側に一対の塚を築くこととした。

鬼柳関所跡 町分 鬼柳町 北上市 岩手県
鬼柳関所跡 町分 鬼柳町 北上市 岩手県

江戸時代、伊達藩との藩境に置かれていた南部藩南端の奥州街道関所。鬼柳御番所ともいわれ、江戸方面への関門として、藩内のいくつかの境番所のうちで最も重きをなした。慶長9年(1604)に奥州街道が造られてまもない寛永8年(1631)、その街道筋の本所に、通行人などを取締る関所・藩主・公儀などの宿泊及び休憩施設である御仮屋、馬を乗り継ぐ伝馬所などが置かれ、小規模ながら南部藩最南端の宿駅が造られた。(中略)……

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江戸時代、伊達藩との藩境に置かれていた南部藩南端の奥州街道関所。鬼柳御番所ともいわれ、江戸方面への関門として、藩内のいくつかの境番所のうちで最も重きをなした。慶長9年(1604)に奥州街道が造られてまもない寛永8年(1631)、その街道筋の本所に、通行人などを取締る関所・藩主・公儀などの宿泊及び休憩施設である御仮屋、馬を乗り継ぐ伝馬所などが置かれ、小規模ながら南部藩最南端の宿駅が造られた。(中略) 左の写真は安政3年(1856)に建てられた関所の建物で、大きさは桁行6.5間、梁行き5.5間、街道に面した屋根は機能的に切り込まれ、その壁の各所に透かし窓が作られている。この建物は高橋善雄氏の住宅であったが、昭和28年6月、国道4号改修工事のため取り壊された。

水沢公園で寄った駒形神社で、奥宮改築趣意書に境塚のことが触れられているのを思い出した。駒ヶ岳は藩境線の西端をなす。そこに鎮座する奥宮は伊達藩、南部藩協同で20年ごとに建て替えていたという。地図で駒ヶ岳と釜石唐丹に定規をあてるとぴったり水平になる。たいしたものだ。

境塚の少し先に南部藩鬼柳関所があった。鬼柳御番所ともいわれ、江戸方面への関門として重きをなした。鬼柳宿は南部藩最南端の宿駅である。金網に保護されて昭和28年までのこっていた萱葺の関所建物の写真が掲示されていて興味深い。私の中山道の写真もあと20年も経てばいくらか歴史的価値を帯びてくるだろう。

九年橋 北上市 岩手県
九年橋 北上市 岩手県

明治九年明治天皇の東北御巡幸にあたり、その年和賀川に初めて架けられた函館街道(旧奥州街道、のちの国道4号線)の橋。木製の欄干のついた土橋で、長さ約158m、幅7.2m。橋の上から大網による鱒漁を天覧したという。 幾度か洪水による流失、架け替えが繰返えされ、昭和9年、鉄製の欄干の付いたコンクリートの永久橋となった。橋のたもとの両側にみかげ石で造った、当時としてはモダンな塔が付いていた。 戦時中、欄干……

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明治九年明治天皇の東北御巡幸にあたり、その年和賀川に初めて架けられた函館街道(旧奥州街道、のちの国道4号線)の橋。木製の欄干のついた土橋で、長さ約158m、幅7.2m。橋の上から大網による鱒漁を天覧したという。 幾度か洪水による流失、架け替えが繰返えされ、昭和9年、鉄製の欄干の付いたコンクリートの永久橋となった。橋のたもとの両側にみかげ石で造った、当時としてはモダンな塔が付いていた。 戦時中、欄干は軍需用鉄材として取去られた。 本通リー丁目の三保酒店わきにある「明治天皇御駐輦跡」碑は、この橋の石塔を利用して造ったもの。 平成元年3月 北上市教育委員会

和賀川 北上市 岩手県
和賀川 北上市 岩手県

街道は左にまがり東北新幹線の高架下をくぐった先の二股で右の道をとり九年橋で和賀川を渡る。明治9年天皇巡幸の際に架けられたので「九年橋」と命名された。

黒沢尻(北上)

平和街道跡 大通り3丁目 北上市 岩手県
平和街道跡 大通り3丁目 北上市 岩手県

平鹿郡横手町(秋田県横手市)と和賀郡黒沢尻町(北上市)を結んだ街道。ニつの郡名の頭文字をとって平和街道と名付けた(『平和街道工事竣工調書』秋田県)、明治20年(1887)全通。107号線のほとんどはこれを改修したもの。市内は駅前(はじめは川岸)を起点とし、通称若宮町を通り~北上病院裏へと直進し西に向かう。 明治40年~大正13年まで黒沢尻駅~仙人間の街道端を鉄道馬車が走っていた。 ここにあった雷神……

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平鹿郡横手町(秋田県横手市)と和賀郡黒沢尻町(北上市)を結んだ街道。ニつの郡名の頭文字をとって平和街道と名付けた(『平和街道工事竣工調書』秋田県)、明治20年(1887)全通。107号線のほとんどはこれを改修したもの。市内は駅前(はじめは川岸)を起点とし、通称若宮町を通り~北上病院裏へと直進し西に向かう。 明治40年~大正13年まで黒沢尻駅~仙人間の街道端を鉄道馬車が走っていた。 ここにあった雷神社前が停留所で乗客が乗降リした。 平成元年3月 北上市教育委員会

大通り3丁目 北上市 岩手県
大通り3丁目 北上市 岩手県

九年橋を渡ってすぐの十字路を直進すると駅前通り(大通り)から一つ手前の交差点角に「平和街道跡」の解説板が立っている。平和街道は平鹿(ひらが)郡横手町と和賀郡黒尻町とを結んだ街道で、明治20年に全通した近代の道である。二つの頭文字をとって街道名としたあたりにも江戸時代の街道でないことをうかがわせる。今の国道107号がほぼそれにあたる。横手町は江戸時代の街道、羽州街道の宿場である。平和街道沿いに敷設された鉄道馬車の停留所がここにあったというのだ。

向かいに板張りの大きな家が目を引く。街道に面しては一、二階共にガラス戸でそろえている作りも珍しい。店は閉じられた様子である。

明治天皇御駐輦趾 本通1丁目 北上市 岩手県
明治天皇御駐輦趾 本通1丁目 北上市 岩手県

新町のおこり 江戸時代の中頃の貞享3年(1685)、本町に接して奥州街道沿いに造られた町。奥寺新田開発によって戸数が増え、街道の交通量が多くなったことなどにより、奥寺八左エ門兄弟によって創設された。新田町ともいわれ、当初の戸数44軒。江戸時代は伝馬・人夫の負担、市の開設など、宿駅の機能を本町と分担した。三浦屋が脇本陣(本陣に次ぐ公の休泊施設)を務めていた。(北上信用金庫本店付近)。市日は五日市で、……

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新町のおこり 江戸時代の中頃の貞享3年(1685)、本町に接して奥州街道沿いに造られた町。奥寺新田開発によって戸数が増え、街道の交通量が多くなったことなどにより、奥寺八左エ門兄弟によって創設された。新田町ともいわれ、当初の戸数44軒。江戸時代は伝馬・人夫の負担、市の開設など、宿駅の機能を本町と分担した。三浦屋が脇本陣(本陣に次ぐ公の休泊施設)を務めていた。(北上信用金庫本店付近)。市日は五日市で、毎月5日・15日・25日に開かれた。西方の村々と川岸の御蔵を結ぶ年貢街道といわれた道路が町のなかほどを横切っていた。このため人の出入りが多く商売が繁昌し、本町と競っていた。 平成元年3月 北上市教育委員会

本通一丁目バス停の先左手に「新町のおこり」と題する説明板があり、その奥に「明治天皇御駐輦趾」碑がたっている。新町は貞享3年(1685)、本町宿がつくられてから80年後、街道の交通量が多くなって増設された文字通り新しい町である。現北上信用金庫本店付近にあった三浦屋が脇本陣を務めていた。

本通り1丁目から3丁目までが黒沢尻宿の中心であった。宿場といっても間宿だったというが、一方で本陣が一軒、脇本陣が2軒あったというからわからない。

本陣跡 本通2丁目 北上市 岩手県
本陣跡 本通2丁目 北上市 岩手県

江戸時代の初めの慶長9年(1602)に造られた奥州街道の宿場町。古くから奥羽山脈寄りを通っていたこの地方の南北交通の公道は、江戸幕府の街道整備事業により、奥州街道として北上川寄りのルートに切替えられた。盛岡から一日の道のりに、また、和賀川が増水したときの足止めに応じられるように、その近くの黒沢尻の野原を切り開いて74四軒の宿場町を新設した。宿駅としてのこの町には、大名や幕府役人などの休泊施設である……

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江戸時代の初めの慶長9年(1602)に造られた奥州街道の宿場町。古くから奥羽山脈寄りを通っていたこの地方の南北交通の公道は、江戸幕府の街道整備事業により、奥州街道として北上川寄りのルートに切替えられた。盛岡から一日の道のりに、また、和賀川が増水したときの足止めに応じられるように、その近くの黒沢尻の野原を切り開いて74四軒の宿場町を新設した。宿駅としてのこの町には、大名や幕府役人などの休泊施設である本陣・脇本陣が置かれ、旅人・荷物・通信の運送や伝達にあたる、定められた数の伝馬や人夫が常備された。そのほか、地方自治や経済の中心地として鬼柳黒沢尻通代官所・検断が置かれた。また、毎月九日・十九日・二十九日の九日市が聞かれていた。 平成元年3月 北上市教育委員会

その先アーケード商店街の入口を占める呉服店松屋の辺りが本陣跡である。さくら野百貨店前に「本町のおこり」の説明板がある。黒沢尻宿は慶長9年(1602)、盛岡から一日の道のりに、また和賀川の増水による足止めに対応するために74軒の宿場町を新設したとある。

脇本陣跡 本通2丁目 北上市 岩手県
脇本陣跡 本通2丁目 北上市 岩手県脇本陣は大名や幕府役人などの公の休泊施設であった本陣に準ずるもので、多くて本陣に泊まりかねるときの予備の宿舎に当てられた。ここ本町の井筒屋(造酒屋・薬屋)が新町の三浦屋とともに務めた。明治9年、明治天皇東北巡幸のとき昼食をとった。

宿場も北にすすみ、左手、本通2丁目バス停脇に「脇本陣跡」の標柱がある。ここに新町の三浦屋とともに脇本陣を勤めた井筒屋があった。

ここまで跡標は整備されていたが、家並みにその面影を見出すことはできなかった。

「おいらん松」と「北上夜曲歌碑」 北上展勝地 立花 北上市 岩手県
「おいらん松」と「北上夜曲歌碑」 北上展勝地 立花 北上市 岩手県

黒沢尻町河岸の港が、藩米の積み出し港として栄えた頃、出船入船の船頭達を慰め、励ましたものに『おいらん松』がありました。石巻から北上川を遡ってきた「ひらたぶね」の白帆がおいらん松の下に現れると、男衆は荷下ろしの準備をはじめ、女達は酒樽の鏡を抜いてその到着を待ったといいます。あまりの美しさに、『おいらん松』と呼ばれたこの松は、用水の取入□工事のために、生えていた岩もろとも消え去り、そのつややかな姿を見……

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黒沢尻町河岸の港が、藩米の積み出し港として栄えた頃、出船入船の船頭達を慰め、励ましたものに『おいらん松』がありました。石巻から北上川を遡ってきた「ひらたぶね」の白帆がおいらん松の下に現れると、男衆は荷下ろしの準備をはじめ、女達は酒樽の鏡を抜いてその到着を待ったといいます。あまりの美しさに、『おいらん松』と呼ばれたこの松は、用水の取入□工事のために、生えていた岩もろとも消え去り、そのつややかな姿を見ることができなくなりました。今回、観光施設整備にあたり元の場所に近い此の地にひともとの松を植え、往時をしのぼうとするものです。

展勝地より展望 立花 北上市 岩手県
展勝地より展望 立花 北上市 岩手県北上川(右)和賀川(左)合流点

ここで、その先の国道107号を右折して北上川の東側に向かう。見晴らしよい川岸を南にたどると展勝地レストハウスの庭においらん松と北上夜曲の歌碑がある。黒沢尻は和賀川と北上川の合流点に位置し藩米の積み出し港として船運で栄えた町である。この岸にたつおいらんのようにつややかな姿をした松がはるばる石巻から上がってきた船頭たちを迎え、下っていく船人を見送った。

北上夜曲は昭和ロマンを代表する一曲である。歌声喫茶で何回歌ったことだろう。マヒナスターズの裏声が記憶に残っている。

陣ヶ丘 立花14地割 北上市 岩手県
陣ヶ丘 立花14地割 北上市 岩手県

この地は「陣ヶ丘」と呼ばれる古い城跡です。北上川に面した絶壁の地であり、東西約160m、南北約86mの広さに空堀と土塁がめぐらされていました。 これは対岸にあった黒沢尻柵(阿倍五郎正任の居城)を攻撃するため、源氏が構えた陣の跡だと伝承されています。この戦いは前九年の役と呼ばれた1062年(康平5)の夏のことです。しかし、各地に残る前九年の役の伝承は疑問とされており、陣ヶ丘も源氏の陣とする確証はあり……

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この地は「陣ヶ丘」と呼ばれる古い城跡です。北上川に面した絶壁の地であり、東西約160m、南北約86mの広さに空堀と土塁がめぐらされていました。 これは対岸にあった黒沢尻柵(阿倍五郎正任の居城)を攻撃するため、源氏が構えた陣の跡だと伝承されています。この戦いは前九年の役と呼ばれた1062年(康平5)の夏のことです。しかし、各地に残る前九年の役の伝承は疑問とされており、陣ヶ丘も源氏の陣とする確証はありません。 空堀の跡から中国の焼き物(元代-14世紀)が発見されています。 そlれはかけらですが、陣ヶ丘の時代を裏付ける証拠です。 堀に囲まれた面積は釣7,000㎡で、空堀の幡約5mと小規種です。これは室町時代の土豪(武士)の館跡と同じ位です。 城跡としての陣ヶ丘の特長は、小規模ながら守りの堅い山城であることと、和賀郡(和賀氏の領土) と江刺郡(葛西氏の領土)の境目に存在する点にあります。境目といっても和賀氏の領土内だったので城の役割は葛西氏やその家臣江刺氏の侵入に対する警備が目的と考えられます。それが最も必要とされた時代は戦国時代(15世紀後半~16世紀)です。 和賀氏と葛西氏は1590年(天正18)に豊臣秀吉によって滅ぼされ、和賀郡は南部氏の領土、江刺郡は伊達氏の領土となりました。陣ヶ丘の南側の沢はその境界線となり、今も「間の沢」と呼ばれています。また江戸時代には川向いの鬼柳と相去の間に関が設けられ、北と南の交通は大きく妨げられました。陣ヶ丘はそのような江戸時代の藩境を決定する大きな要因だったわけです。 大正9年に沢藤幸治氏は陣ヶ丘の景勝に注目し、一帯に桜を植えて展勝地公園と名付けました。陣ヶ丘は立花地区民の共有地でしたが、黒沢尻町に寄附され、昭和29年の北上市制発足とともに市立公園となったわけです。今は公園として注目されていますが、史跡としての価値は忘れさられ、施設によって破壊された部分も少なくありません。また陣ヶ丘は江戸時代まで陣ヶ森と呼ばれていました。 昭和56年3月 北上市立博物館

県道14号の向こうにこんもりした森がある。陣ヶ丘とよばれる中世の山城址で、堀跡、土塁などが残っている。南部藩と伊達藩の境にもなっていた。

芭蕉句碑 陣ヶ丘 立花 北上市 岩手県
芭蕉句碑 陣ヶ丘 立花 北上市 岩手県梅か香荷のつと日の出る 山路かな

北上川を見下ろす高台に芭蕉句碑があった。芭蕉の旅は衣川を北限として、この地にはきていないが芭蕉の人気は所を選ばないようだ。

みちのく民俗村 立花14地割 北上市 岩手県
みちのく民俗村 立花14地割 北上市 岩手県旧今野家住宅 受付

陣ヶ丘の麓は古民家を集めたテーマパーク、「みちのく民俗村」として整備されている。開園前で、入場券売り場を兼ねている旧今野家住宅を撮っただけで引揚げた。

街道にもどって黒沢尻宿をあとにする。本通り(県道39号)を北にすすみ、東北本線の上野町跨線橋の手前で左の道にはいり、線路の西側をたどって次の常盤台跨線橋で東北本線を渡る。すぐに左折して上野町を北に通り抜ける。

二子一里塚 村崎野14地割 ・二子町高屋 北上市 岩手県
二子一里塚 村崎野14地割 ・二子町高屋 北上市 岩手県

(前略)現在奥州街道で残っている一里塚は、わずかに20ヶ所といわれている。この一里塚は、日本橋から128里(502.8km)盛岡までは11里(43.2km)の地点にある。北一里目にある成田一里塚とともに、原形のまま残っているのは、全国でもここだけといわれている。明治以降、国道が新しく切替えられたため、この一里塚は、そのまま完全な形で残ったものである。 交通史上、きわめて重要な遺構である。 北上市教……

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(前略)現在奥州街道で残っている一里塚は、わずかに20ヶ所といわれている。この一里塚は、日本橋から128里(502.8km)盛岡までは11里(43.2km)の地点にある。北一里目にある成田一里塚とともに、原形のまま残っているのは、全国でもここだけといわれている。明治以降、国道が新しく切替えられたため、この一里塚は、そのまま完全な形で残ったものである。 交通史上、きわめて重要な遺構である。 北上市教育委員会

新堰川をわたると丁字路に一里塚が見えてきた。左の塚は塚腰稲荷神社の森の一部をなしている。二子一里塚で、日本橋から128里(503km)、盛岡まで11里(43km)の地点にあたる。次の成田一里塚とともに、原形のまま残っているのは全国でもここだけといわれている。確かに自然な形の美しい塚である。左の杉の木は往時からのものか、森に守られて大木になっているが、右の塚木は低くて最近植えられたものであろう。

成田一里塚 成田5・28地割 北上市 岩手県
成田一里塚 成田5・28地割 北上市 岩手県

所在地 北上市飯豊町 慶長九年(1604年)、江戸幕府によって定められた全国五つの街道には、日本橋を起点にしてそれぞれ一里塚(一里約3.927km)が築かれた。現在、奥州街道で残っている一里塚は、わずか二十余ケ所といわれている。 この一里塚は、日本橋から129里(506.6km)盛岡までは10里(39.3km)の地点にあたる。南1里目にある二子(塚腰) 一里塚とともに、原形のまま残っているのは、全……

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所在地 北上市飯豊町 慶長九年(1604年)、江戸幕府によって定められた全国五つの街道には、日本橋を起点にしてそれぞれ一里塚(一里約3.927km)が築かれた。現在、奥州街道で残っている一里塚は、わずか二十余ケ所といわれている。 この一里塚は、日本橋から129里(506.6km)盛岡までは10里(39.3km)の地点にあたる。南1里目にある二子(塚腰) 一里塚とともに、原形のまま残っているのは、全国でもここだけといわれている。 明治以降、国道が新しく切替えられたため、この一里塚は、そのまま完全な形で残ったものである。交通史上、きわめて重要な遺跡である。 北上市教育委員会

東北本線村崎野駅前を通過して北上工業団地の中を通り抜りぬけ飯農川を成田橋で渡る。右から来た道と合流したのち軽く左に曲がった所に、成田一里塚がある。ニ子一里塚に続いて、原形をとどめた左右一対の塚が残っている。塚上に立つ木も立派で特に左の塚木は巨木である。見ごたえある一里塚の競演であった。

成田小学校の先で花巻市に入る。

(2009年6月)

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