奥州街道 18区間のうち14番目

奥州街道(14)

花巻-石鳥谷-郡山-盛岡-渋民-沼宮内

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花巻

花巻

国道4号(花巻バイパス) 500km地点 外台川原 花巻市 岩手県
国道4号(花巻バイパス) 500km地点 外台川原 花巻市 岩手県

旧街道は円通寺の先で国道4号バイパスによって分断される。左に迂回して国道4号を横切る交差点でそのまま国道を東に進んでいった。大まかな目算でこの付近が東京から500km地点であると踏んでいたからだ。果たせるかな北上川にかかる鉄橋の手前に500kmの標識をみつけた。ただしこれはバイパスであって本来の陸羽街道国道4号ではない。

奥州街道名残の松 外台 花巻市 岩手県
奥州街道名残の松 外台 花巻市 岩手県

この街道が整備されたのは江戸時代になってからであり、一里塚も作られた。明暦3年(1657)藩主重直の命で街路を直線に改修し、かつ並木を植えることになった。この付近の松並木は、寛文5年(1665)奥寺定恒が自費で苗木を買入つくったといわれ、延宝2年(1674)枯れた松など一部を植え直している。国道切替で旧道となり比較的残っていたが昭和42年殆んどが切られ、僅かに とこの1本を残すのみである。宮沢賢治……

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この街道が整備されたのは江戸時代になってからであり、一里塚も作られた。明暦3年(1657)藩主重直の命で街路を直線に改修し、かつ並木を植えることになった。この付近の松並木は、寛文5年(1665)奥寺定恒が自費で苗木を買入つくったといわれ、延宝2年(1674)枯れた松など一部を植え直している。国道切替で旧道となり比較的残っていたが昭和42年殆んどが切られ、僅かに とこの1本を残すのみである。宮沢賢治は 青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て とのべている。 花巻市

上館跡 南城 花巻市 岩手県
上館跡 南城 花巻市 岩手県

上館の歴史 平安時代(794~1191)の11世紀の半ば、陸奥の豪族として奥六郡(胆沢地方から岩手郡まで)などの一帯を支配していた古代みちのくの名将安倍頼時が中央の支配を排除して地方の自治・独立を主張して抵抗し反乱した前九年の役(1051~1062)の際、政府軍の将、源頼義がこの付近に陣所を置いたところと伝えられ、さらに後年、諸氏が館をつくって住んだといわれている。以下略 奥州街道名残の松 南城小……

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上館の歴史 平安時代(794~1191)の11世紀の半ば、陸奥の豪族として奥六郡(胆沢地方から岩手郡まで)などの一帯を支配していた古代みちのくの名将安倍頼時が中央の支配を排除して地方の自治・独立を主張して抵抗し反乱した前九年の役(1051~1062)の際、政府軍の将、源頼義がこの付近に陣所を置いたところと伝えられ、さらに後年、諸氏が館をつくって住んだといわれている。以下略 奥州街道名残の松 南城小学校の校庭にある3本の松と近くの道路脇にある松は、遠く江戸時代、五街道の一つに数えられた奥州街道に、南部藩士・奥寺八左衛門定恒が寛文5年(1665)、花巻から鬼柳(北上市)まで植えた松の一部と伝えられています。奥州街道の松並木は、昭和10年代まで相当数残っていて藩政時代の面影をとどめていましたが、太平洋戦争時代の強制伐採や、強風による倒木、道路整備等によりほとんど姿を消しここに残る4本の松はたいへん貴重なものとなっています。特に は「傘松」とも呼ばれ、「奥州街道名残の松」として平成9年11月、花巻市の天然記念物に指定されています。宮沢賢治は、この街道の松並木について「青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て」と詠んでいます。 花南地区コミュニティ会議 平成21年3月

交差点に戻り広い道を北に向かうとすぐに右から復活した旧道と合流する。南城小学校の手前、右手のがけに枝を垂れる笠松は、その先小学校の庭に残る三本の松とともに「奥州街道なごりの松」である。南部藩士・奥寺八左衛門定恒が寛文5年(1665)、自費で苗木を買い入れ花巻から鬼柳(北上市)まで松並木を整備した。

南城小学校一帯は「上館」跡で、奥州の俘囚安倍頼時が中央支配に反乱して起こした前九年の役(1051~1062)で、政府軍の源頼義がこの付近に陣所を置いたと言われている。

旧岩崎街道 南城 花巻市 岩手県
旧岩崎街道 南城 花巻市 岩手県ここより南西に向かい、山ノ神・飯豊・門屋・新平(にっぺい)を経て江釣子佐野から和賀川を渡り、岩崎で旧秋田街道に至る全長15.6kmの街道。江戸時代初期に奥州街道ができるまで本街道と呼ばれていた道路で、東北開拓時代以来の古道である。

その先、左後方に出ている細い道は旧岩崎街道である。ここから南西に向かい、山ノ神・飯豊・門屋・新平(にっぺい)を経て江釣子(えづりこ)佐野から和賀川を渡り、岩崎で旧秋田街道(平和街道)に至る全長15.6kmの道で、江戸時代前期に奥州街道ができるまで本街道と呼ばれていた古道である。平和街道は平鹿郡横手町(秋田県横手市)と和賀郡黒沢尻町(北上市)を結ぶ街道で、二つの郡名の頭文字をとって平和街道と名付けられた。国道107号にほぼ沿った道である。

同心屋敷 桜町4丁目 花巻市 岩手県
同心屋敷 桜町4丁目 花巻市 岩手県

「賢治詩碑前」バス停で街道を離れ右にはいっていく。最初の十字路を右に折れた所に萱葺の同心屋敷が二軒残されている。共に江戸時代末期の建物で、街道両側に15戸つづあった足軽同心屋敷のうち2軒がここに移築復元された。天正19年(1591)、豊臣秀吉による九戸政実攻略後、浅野長政配下の一隊30人が当地に残り南部氏に仕え花巻同心組となった。

宮沢賢治詩碑 桜町4丁目 花巻市 岩手県
宮沢賢治詩碑 桜町4丁目 花巻市 岩手県

その先を左におれて森の方にむかって進むと森の中に賢治詩碑が建つ。この場所は元々賢治の祖父宮沢喜助翁の隠居所があったところで、賢治は大正15年に花巻農学校を30歳で退職したあと、この家に「羅須地人協会」を設立、独居自炊をはじめた。説明板に「下ノ畑ニ居リマス 賢治」とあるその畑は、今は水田になっている。賢治はここに農家の青年を集めて、農業・化学について講義をし、種や作物の交換会を開き、レコードを鑑賞しようとした。金持ち息子の道楽とも映った文学青年の理想主義は農民の共感を得られずに数年で頓挫した。

賢治の没後、曲折を経て羅須地人協会の建物は現在の花巻農業高等学校敷地内に復元され、跡地には「雨ニモマケズ」の詩碑が建てられた。高村光太郎の揮毫で賢治詩時の第1号である。碑の下には遺骨と経文が納められていて墓碑でもある。「雨ニモマケズ」の詩は小学生の時、兄が宿題で暗唱しているのを聞いて覚えた。詩の原体験であった。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイフモノニ ワタシハナリタイ

一里塚(錦塚)跡 豊沢町5 花巻市 岩手県
一里塚(錦塚)跡 豊沢町5 花巻市 岩手県豊沢町一里塚(錦塚) 里川口第4地割字川原93番地の1 面積25歩(約83㎡)高さ15尺(約4.5m)(現在豊沢町5番21号) 同6番24号付近)の豊沢町一里塚は、江戸日本橋から130里の距離にあり城下町花巻の表玄関に威容を誇った。別称錦塚ともいう一里塚である。 花巻市

街道に戻り、国道4号を横切って豊沢橋を渡り花巻市街地に入る。最初の信号交差点の北西角に「豊沢町一里塚(錦塚)」の立札がある。江戸日本橋から130番目の一里塚である。東京からおよそ510km。そんなところだ。

宮沢賢治生家跡 豊沢町4 花巻市 岩手県
宮沢賢治生家跡 豊沢町4 花巻市 岩手県明治29年(1896)8月27日宮沢賢治は現在の花巻市豊沢町4号11番地に父政次郎、母イチの長男として生を受けた。第二次大戦末期(昭和20年=1945年8月10日)の空襲により居宅は焼失、現在の住居は戦後2回建て直されて賢治在世中の面影はない。現在は弟清六氏とその家族が住む。土蔵は空襲時、内部に火が入り、屋敷内に形骸のみをとどめている。表通りに面して建つ土蔵は隣家のものである。

街道は次の信号を左折して松庵寺に突き当たるのだが、交差点を直進したすぐ左手に「宮沢賢治生家」があるというので寄った。宮沢賢治の父方の実家である。賢治の弟清六が家を継いだ。建物は新しく、往時を偲ぶものはない。隣にある海鼠壁の土蔵は実家とはなんの関係も無いが、賢治記念館的な建物で賢治関連資料の展示館と土産品売り場を兼ねた施設になっている。品の良いご婦人がお茶を出してくれた。

街道にもどり松庵寺をたずねる。境内右手に両刃の大型石器のような芭蕉句碑がある。「物言えば唇寒し秋の風」と刻まれ嘉永5年(1852)の建立である。

松庵寺 双葉町6 花巻市 岩手県
松庵寺 双葉町6 花巻市 岩手県

飢饉餓死供養塔 松庵寺境内には、飢饉がくると飢えや病気で苦しんでいる人々のために、粥の施しをし、看護をする「救け小屋」が設けられていた。不幸にして命朽ちれば、寺では手厚く葬り、供養塔を建て年忌には回向をしている。宝暦5~6年(1755~1756)、天明3~4年(1783~1784)の大飢饉には疫病が流行し、特に宝暦の飢饉には藩内の死者6万人にも達し、人々は、野山にある草木ことごとく食べ尽くし、犬、……

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飢饉餓死供養塔 松庵寺境内には、飢饉がくると飢えや病気で苦しんでいる人々のために、粥の施しをし、看護をする「救け小屋」が設けられていた。不幸にして命朽ちれば、寺では手厚く葬り、供養塔を建て年忌には回向をしている。宝暦5~6年(1755~1756)、天明3~4年(1783~1784)の大飢饉には疫病が流行し、特に宝暦の飢饉には藩内の死者6万人にも達し、人々は、野山にある草木ことごとく食べ尽くし、犬、猫、鼠にさえ値がつけられ食したと言い伝えられている。ここ松庵寺山門前に並ぶ疫病、餓死、横死と刻まれたこれらの碑は、南部藩政時代の厳しかった農民の生活を物語っており、このような過酷な花巻の歴史、風土を思うとき、賢治の詩の「病技手*」が思い起こされる。 * 「手」は「師」の誤り 病技師〔一〕 こよひのやみはあたたかし、 風のなかにてなかんなど、 ステッキひけりにせものの、 黒のステッキまたひけり。 蝕む胸をまぎらひて、 こぼと鳴り行く水のはた、 くらき炭素の 燈 に照りて、 飢饉(けかつ)供養 の 巨石(おほいし) 並(な) めり。 芭蕉句碑 嘉永5年(1852)建立 もの云えば唇寒し秋の風

境内の左手には3基の餓死供養塔が並ぶ。一番右が文化2年(1805)建立の飢饉疫病死供養塔で、宝暦6年・天明3年の大飢饉の死者を弔うもの、中央は文化12年(1815)銘の餓死供養塔、そして左は天保4年(1833)の飢饉供養塔である。宝暦の飢饉には藩内の死者6万人にも達し、人々は野山にある草木ことごとく食べ尽し、犬、猫、鼠にすら値がつけられ食したと伝えられている。

古めいた飢餓供養塔の傍に趣のことなるモダンな高村光太郎の文学碑がある。光太郎は東京と花巻で二度の戦禍を受けたのち太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で7年間にわたる独居生活を送った。その「山林孤棲」の間、智恵子の命日10月5日に松庵寺を訪れて、一文を残している。

奥州花巻というひなびた町の浄土宗の古刹松庵寺で秋の村雨ふりしきるあなたの命日にまことささやかな法事をしました。(中略)限りなき信によってわたくしのために燃えてしまったあなたの一生の序列をこの松庵寺の物置御堂の仏の前で又も食い入るやうに思ひしらべました。

街道は松庵寺の前を北にすすんで市役所にむかうのだが、ここで西に方向を変えて寄り道することにした。

宮澤商店(宮沢賢治母イチ実家) 鍛治町3 花巻市 岩手県
宮澤商店(宮沢賢治母イチ実家) 鍛治町3 花巻市 岩手県
宮澤商店 鍛治町3 花巻市 岩手県
宮澤商店 鍛治町3 花巻市 岩手県

宮澤賢治の母イチの実家(賢治誕生の家) 宮澤賢治治は.明治29(1896)8月27日 で生まれたこと|こなっています。しかし実際は、母イチの実家、ここ鍛治町の宮潭善治家(宮善、現在宮澤商店)で誕生したのでした。それは当時は産院がなく、長子は母親の実家に戻って出産するのか常であったのです。賢治の母方の祖父善治は、温厚篤実の人。意志強く聡明で、.勤勉、努力家でした。砂糖、小麦粉、雑貨、荒物、.灯油など……

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宮澤賢治の母イチの実家(賢治誕生の家) 宮澤賢治治は.明治29(1896)8月27日 で生まれたこと|こなっています。しかし実際は、母イチの実家、ここ鍛治町の宮潭善治家(宮善、現在宮澤商店)で誕生したのでした。それは当時は産院がなく、長子は母親の実家に戻って出産するのか常であったのです。賢治の母方の祖父善治は、温厚篤実の人。意志強く聡明で、.勤勉、努力家でした。砂糖、小麦粉、雑貨、荒物、.灯油などや当時専売品であったタバコ・塩を扱い質素倹約、商売熱心で両親や子供たちなど家中相和し、力を白わせて仕事に励み繁盛いたしました。 イチはその長女で.父善治や母サメのすぐれた気質をそっくり受け継いだ慈悲深く上品であり、また、明るいユーモアをもち笑顔を絶やさぬ人としても伝えられ「日本の母」と評する人もいる程でした。第二次大戦中の昭和20年8月10日、花巻は空襲をを受けましたが、幸いにも当宮澤家は戦災を免れました。.当時の建物や蔵、井戸、池などが今も残っており、賢治が生活した明治・大正・昭和初期の風情が感じられます。

二葉町交差点を左折して県道12号にでてすぐ先左手に「宮澤賢治の母イチの実家(賢治誕生の家)」、宮澤商店がある。外から店内の人に会釈を送って敷地内に入らせてもらった。すぐ前に賢治の産湯の井戸がある。ツルベ井戸を相手にカメラを縦、横、斜めに構えていると店内から当主と思われる老紳士が書類を手にして現れ、敷地内を丁寧に案内してくれた。書類は宮澤家の家系図と、花巻城下町鍛冶町の説明、賢治の母イチの実家、産湯の井戸の説明書である。賢治の父宮澤政次郎の実家は豊沢町でみたところである。ここは母イチの実家宮澤善治家である。偶然宮澤姓同士が結婚した。宮澤善治家は寛永時代創業という老舗商家で、塩・タバコの専売品の他灯油、雑貨、砂糖など幅広い商品を扱って財をなした。家系図によると現当主宮澤啓祐氏は花巻商工会議所会頭という重鎮である。賢治は豊沢町で生まれたことになっているが、イチはここ鍛冶町でお産したのだからここが賢治生誕の家だという。まさにその通りである。今流にいえば、ほとんどの人の生誕場所はいずれの実家でもなくて某病院の出産室ということになろう。

井戸の奥には土蔵がならびその裏の一段低い場所に鯉が泳ぐ小さな池があった。産湯の井戸の水位と同じだという。鍛冶町地区には豊沢川の伏流水が地下水脈を形成しており井戸が各家にあった。屋敷の裏側にまわる。旧家の趣を擁した建物と色付き始めた裏庭の植栽が好ましい調和を見せていた。

宮沢賢治墓 身照寺 石神町 花巻市 岩手県
宮沢賢治墓 身照寺 石神町 花巻市 岩手県身照寺:当山は南朝の勅願寺にして身延山最古の別院と伝えられる南部家の菩提寺を再興建立した由緒あるお寺です。以下略
花巻農学校跡 若葉町3丁目 花巻市 岩手県
花巻農学校跡 若葉町3丁目 花巻市 岩手県

「この4ヶ年が わたくしにとってどんなに楽しかったか わたくしは毎日を 鳥のやうに教室でうたってくらした 誓っていうが わたくしはこの仕事で 疲れをおぼえたことはない」 (詩ノート「生徒諸君に寄せる」) 農学校の教師になった賢治は、後半の3年間をここで教えた。化学、代数、英語、作物、土壌肥料の学科のほか、水田実習も担当した。戦後、花巻農業高校となり、昭和44年(1969)校舎は市内宮野目に移転され……

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「この4ヶ年が わたくしにとってどんなに楽しかったか わたくしは毎日を 鳥のやうに教室でうたってくらした 誓っていうが わたくしはこの仕事で 疲れをおぼえたことはない」 (詩ノート「生徒諸君に寄せる」) 農学校の教師になった賢治は、後半の3年間をここで教えた。化学、代数、英語、作物、土壌肥料の学科のほか、水田実習も担当した。戦後、花巻農業高校となり、昭和44年(1969)校舎は市内宮野目に移転された。跡地は市文化会館、市図書館、ぎんどろ公園などに利用されている。

県道12号を西に1km余り進んだところ、稲荷神社の先の三差路を右折して花巻市文化会館をめざす。坂道の途中左手にある身照寺には宮沢家の墓に並んで宮沢賢治の五輪塔の墓がある。文化会館と隣接するぎんどろ公園は、元花巻農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校)の跡地で宮沢賢治は大正末期の3年間ここで教壇に立った。

花巻城時の鐘 城内1 花巻市 岩手県
花巻城時の鐘 城内1 花巻市 岩手県

正保3年(1646)南部28代の城主重直公が、お城の時太鼓を鐘に改めた時、盛岡時鐘としてつくったのであるが、小さいので花巻城に移したものである。明治維新までは、二ノ丸の俗称四角山(現花巻小学校敷地内)に在ったが、現在は追手御門の向かいに当たる位置に移し、午後6時に打鐘して市民に時を知らせている。なお、この時鐘は、高さ95cm、口径78cmで当時の冶工鈴木忠兵衛及び忠左ェ門によってつくられており、本……

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正保3年(1646)南部28代の城主重直公が、お城の時太鼓を鐘に改めた時、盛岡時鐘としてつくったのであるが、小さいので花巻城に移したものである。明治維新までは、二ノ丸の俗称四角山(現花巻小学校敷地内)に在ったが、現在は追手御門の向かいに当たる位置に移し、午後6時に打鐘して市民に時を知らせている。なお、この時鐘は、高さ95cm、口径78cmで当時の冶工鈴木忠兵衛及び忠左ェ門によってつくられており、本市の指定文化財として保存されている。 花巻市

街道に戻り花巻市役所前の交差点に出る。市役所前を右にはいっていくと花巻城大手門跡の標石と花巻城時鐘がある。市役所、裁判所、花巻小学校周辺一帯が花巻城跡である。時の鐘は正保3年(1646)盛岡城の時鐘としてつくられたが、小さいので弟分の花巻城に移されたのだという。仙台青葉城の伊達政宗像が地元で人気無く、新しく建て替えられたのを機に子分の岩出山城

贈られたという話を思い出した。末弟だった私は何でも兄の古手をもらい受けることが当たり前になっていてそれを不満に思わなかった。そんなことを思いだしながら時の鐘を見上げる。櫓が立派でその中にある鐘の小ささには気がつかない。今も夕刻6時には時を告げるそうである。

花巻城は10世紀のころ鳥谷ヶ崎(とやがさき)城と称し安倍氏の居城であったといわれている。中世に入り稗貫氏の居城となったが豊臣秀吉の小田原攻めに加わらなかった為に滅び、その後南部氏の一族北秀愛が稗貫・和賀2郡を領する城代となり鳥谷ヶ崎城を花巻城と改め城と城下町が整備された。

円城寺門 城内7 花巻市 岩手県
円城寺門 城内7 花巻市 岩手県

この門は南部利直公が慶長19年(1614)二子城(現北上市二子町)の追手門を引上げて花巻城の搦手円城寺坂に建てたもので、前後経歴4百有余歳旧花巻城唯一の現存建物である。城門の形式は木造二階建櫓門である。1階は梁間9尺5寸、桁行20尺、2階は梁間13尺、桁行20尺で、2階は1階より梁間が大きくはみだしてある。 屋根は木羽葺反りのない切妻造りで、箱棟の両端には刀法雄勁な鬼板をのせ(現在は取りはずして保……

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この門は南部利直公が慶長19年(1614)二子城(現北上市二子町)の追手門を引上げて花巻城の搦手円城寺坂に建てたもので、前後経歴4百有余歳旧花巻城唯一の現存建物である。城門の形式は木造二階建櫓門である。1階は梁間9尺5寸、桁行20尺、2階は梁間13尺、桁行20尺で、2階は1階より梁間が大きくはみだしてある。 屋根は木羽葺反りのない切妻造りで、箱棟の両端には刀法雄勁な鬼板をのせ(現在は取りはずして保存してある。)妻に梅鉢形の形魚をつけてある。この鬼板懸板を除いては、装飾的手法もなく単に城門たる形式を単純に組立てたように見えるが、そこに地方情緒を生かした素朴な建築美を発揮している。 花巻文化財指定

盛岡地裁前の道を東に進んで行くと左手に鳥谷崎神社がある。入口に立ち構える櫓門は円城寺門と呼ばれ当時の花巻城三之丸搦め手門であった。慶長19年(1614)の建立で花巻城に唯一残る遺構である。頑丈な高麗門の上に白壁の箱を乗せただけの実直素朴な佇まいである。

花巻城跡 城内10 花巻市 岩手県
花巻城跡 城内10 花巻市 岩手県東御門跡 焔硝御蔵跡
早坂御門跡 花城町 花巻市 岩手県
早坂御門跡 花城町 花巻市 岩手県花巻城の二ノ丸に建立された楼門で、参勤交代などのときの一日市町・四日町への往来の公賓の門であった。門の近くには早坂稲荷神社、また坂の下には西御蔵・舟渡場、また八幡寺林通り代官所などがあり、城下の一日市町の入口には、他国の大名・幕府役人など公賓が宿泊した東・西御仮屋などがあった。なお、『広隆寺日記』によれば、築城創期には盛岡城下の往還、大手口の御門であったと伝えられる。

神社の西側を北にむかうと土塁が残っていて東御門跡、焔硝御蔵跡の標識が立っている。そこを左折すると小学校のグラウンドにでる。このあたりが本丸跡で、一部は鳥谷ヶ崎公園になっている。近所のグループが家族連れでピクニックを楽しんでいた。学校前の通りから坂を下るところの早坂御門跡に石垣の遺構が残っている。そこは城内から花巻宿場街につながる出入口になっていた。

イギリス海岸 上小舟渡 花巻市 岩手県
イギリス海岸 上小舟渡 花巻市 岩手県

「なみはあおざめ支流はそそぎ/たしかにここは修羅のなぎさ」 (歌曲 「イギリス海岸の歌」) 宮沢賢治がイギリス海岸と名づけたこの場所は、北上川の西岸花巻市似内南部から下小舟渡にかけての部分で現在はこのほぼ中央を西から瀬川が、対岸東から猿ケ石川が注いでいる。イギリス海岸の名は、戦後瀬川がここに切換えられるまでは、夏になると青白い凝灰質の泥岩が露出し、イギリスのドーバー海峡を思わせたからである。賢治は……

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「なみはあおざめ支流はそそぎ/たしかにここは修羅のなぎさ」 (歌曲 「イギリス海岸の歌」) 宮沢賢治がイギリス海岸と名づけたこの場所は、北上川の西岸花巻市似内南部から下小舟渡にかけての部分で現在はこのほぼ中央を西から瀬川が、対岸東から猿ケ石川が注いでいる。イギリス海岸の名は、戦後瀬川がここに切換えられるまでは、夏になると青白い凝灰質の泥岩が露出し、イギリスのドーバー海峡を思わせたからである。賢治は、ここに実習を終えた生徒をしばしば連れてきて、くるみの化石や、偶蹄類の足跡壷穴などを発見したが、現在は侵食が進み白い岩盤を見ることは難しくなった。

坂をくだり県道116号との交差点に出る。街道はこのまま直進して仮屋(本陣)等があった宿場街一日市町(ひといちまち)に入っていくが、ここで県道を東に向かい賢治由緒のイギリス海岸を見ることにした。小舟渡橋で瀬川をわたると左手に公園、右手北上川との合流地点付近がイギリス海岸である。河床、河岸に現れる泥岩盤が石灰岩で知られるイギリスのドーバー海峡に似ていることから宮沢賢治が名づけたといわれる。水量が多くて岸辺にその片鱗を見ただけであったが、河床が露出するほどに川の浅いときはさぞかしもっとイギリスらしい風景を見せてくれるのであろう。賢治はよく生徒をここに連れてきて化石探しを楽しんだ。

明治天皇聖蹟・花巻城下町発祥の地 四日町1丁目 花巻市 岩手県
明治天皇聖蹟・花巻城下町発祥の地 四日町1丁目 花巻市 岩手県

明治天皇御聖蹟 明治9年7月5日 一日市町 渡辺弥四郎宅 その後之を撤去す。 以下略 明治14年8月18日 四日町 伊藤儀兵衛宅 明治24年火災に羅り、 以下略 花巻の開町は文禄(1592~1595)頃に四日町、慶長年間(1596~1614)頃に八日町(後の川口町(現在の上町))、続いて一日市町(ひといちまち)の順で開かれ、合わせて花巻三町と呼ばれました。 四日町・一日市町は花巻城の北西方面にあた……

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明治天皇御聖蹟 明治9年7月5日 一日市町 渡辺弥四郎宅 その後之を撤去す。 以下略 明治14年8月18日 四日町 伊藤儀兵衛宅 明治24年火災に羅り、 以下略 花巻の開町は文禄(1592~1595)頃に四日町、慶長年間(1596~1614)頃に八日町(後の川口町(現在の上町))、続いて一日市町(ひといちまち)の順で開かれ、合わせて花巻三町と呼ばれました。 四日町・一日市町は花巻城の北西方面にあたり、毎月四と一のつく日に開かれた定期市が町名の由来となっています。表町は道幅が5間(約9m)で奥州街道であり、特に一日市町には東西の御仮屋(藩主の仮宿泊場所・本陣)制札場(市・町での禁止事項などを掲げた所・高札場)といった重要な施設がおかれていました。またその西側にならんで道幅が3間半(約6.3m)の裏町があって四日町には稲荷社と広隆寺、一日市町には妙円寺などの神社や寺が多く建立されていました。 安永9年(1780)当時の家数は四日町140軒・一日一町118軒とあります。町場の出入口付近には木戸(都市の治安維持のためにおかれた門)がつくられ、町境もかぎ型に曲げられるなど巧みに非常の際の工夫がされていました。

街道にもどり本丸橋西詰めで右折して一日市町に向かう。南北に走る県道116号が街道筋である。一日市バス停の先、花巻信金の交差点を左折し曲尺手状にすぐ一筋目を右に入る。県道に並行した裏道が旧道であった。四日町1丁目の200mあまりの路地の中央辺り、花北地区コミュニティー消防センター脇に明治天皇御聖蹟の碑が建ち、街道沿いに「花巻城下町発祥の地 四日町 一日市町」と書かれた標柱がある。明治天皇は明治9年7月5日一日市の渡辺弥四郎宅に、明治14年8月18日には四日町伊藤儀兵衛宅に宿泊している。碑文によれば、渡辺宅の1棟は稲荷神社社務所として、伊藤家住宅は焼失後瀬川氏所有地に復元保存されているとある。

「花巻城下町発祥の地 四日町 一日市町」の標柱には三枚の引き出し式ミニ説明板が仕舞い込まれていて、引き出してみると一日市町制札場絵図、花巻城下図などがあった。面白いアイデアだ。

旧家 四日町2丁目 花巻市 岩手県
旧家 四日町2丁目 花巻市 岩手県

街道は突き当りを右折し県道にもどるが、古道はそのまま北上していたようだ。宅地化で道は失われた。

四日町2丁目バス停付近に一、二階共に見事な格子造りの家が残っている。

その先四日町3丁目信号の三差路を右折するのが江戸時代中期以後の奥州街道だが、それ以前の古道が四日町3丁目交差点から県道123号で左にまがったところ、コンビニの西側に残っている。四日町1丁目にあった明治天皇御聖蹟碑先の突き当りからここまでの古道跡は宅地開発で消失した。この古道は途中光林寺の前を通り北寺林を通って次の宿場石鳥谷の先まで鎌倉街道とよばれて部分的に残されており、のちほど2回に分けて寄ることになる。ここではその最初の部分を400mほど辿ってみた。

奥州街道古道 浅沢/本館 花巻市 岩手県
奥州街道古道 浅沢/本館 花巻市 岩手県

県道から右の細道に入り本館橋を渡ると、右手民家の前に寛政5年(1793)の庚申供養塔や馬頭観世音碑等が並んでいる。釜石線のガードをくぐると道が二手に分れ分岐点に「浅沢の道しるべ」がある。右の小さな石は嘉永5年(1852)の道標で「右ハ松林寺 左ハゆみち」と刻まれ、左の文政2年(1819)の念仏塔にも「南無阿弥陀佛」の両側に「右松林寺みち」、「左ゆみち」とある。湯道とは花巻温泉の源泉である台温泉方面を指す。右の松林寺道が奥州古道である。200mほどで広い車道に合流した。その後北に真直ぐ向かって光林寺に至る1本道までの道筋は無くなった。

四日町3丁目交差点にもどり、東にむかうとすぐに国道4号に出る。この道は江戸時代に開かれた奥州街道新道で、石鳥谷の先まで14kmにわたって一直線の道が作られた。

追分碑 二枚橋町大通り2丁目 花巻市 岩手県
追分碑 二枚橋町大通り2丁目 花巻市 岩手県

右:享保の追分碑 碑の高さ48cm、幅63cm 厚さ26cm 安山岩系の自然石で、花崗岩の台座に据えられています。字が彫られているのは正面だけで、「享保甲辰九年」「右ハはやつ祢みち」「左ハもりおかみち」「九月」と、4行になっています。盛岡へ向かう奥州道中(いわゆる「奥州街道」現国道4号)から、早池峰への道の分れを示した「道しるべ」として道路の東側に建てられていたものが、国道拡張によって西側に移され……

説明の全文を読む(約750字)

右:享保の追分碑 碑の高さ48cm、幅63cm 厚さ26cm 安山岩系の自然石で、花崗岩の台座に据えられています。字が彫られているのは正面だけで、「享保甲辰九年」「右ハはやつ祢みち」「左ハもりおかみち」「九月」と、4行になっています。盛岡へ向かう奥州道中(いわゆる「奥州街道」現国道4号)から、早池峰への道の分れを示した「道しるべ」として道路の東側に建てられていたものが、国道拡張によって西側に移されたものです。今の状態では旅人の目に入りにくい高さですから、塚の上に建てられていたものでしょう。この享保9年)1724)の「追分の碑」は、早池峰信仰をする人達への約280年前の「道しるべ」で、旧花巻市地域内の「追分の碑」では元禄10年(1697)の碑についで二番目に古い、貴重な有形文化財です。 左:明治の追分碑 碑の高さ 120cm 幅25cm㎝x四面 台座の高さ 25cm 幅48cmx四面 御影石系の四角柱で、上部は寄せ棟状になっており、方形の台座に据えられています。 四面に刻字されており、東正面に「土佛観世音道」「永平西堂可睡穆山書」、西裏面に「明治廿三庚寅年九月十七日」「大賀寺三十世祖量圓総宗代」、南側面に「壱里弐十弐町」、北側面に発起人十名の名前が刻まれています。 「土仏観世音」は、石鳥谷大興寺にあり、古くから土仏観世音信仰が盛んでした。この碑は、盛岡へ向う「奥州道中(いわゆる「奥川街道」現国道四号)」から、大興寺への観音参りの道「土仏街道」の分かれを示した「道しるべ」でした。 今は、「土仏街道」は消えていますが、この明治23年(1890)の「追分の碑」は、盛んだった土仏観世音信仰とその道筋を示す約120年前の「道しるべ」で、貴重な有形文化財です。 平成19年3月 花巻市教育委員会

街道は瀬川をわたり花巻空港を右に見て北上する。空港の北端、花巻空港駅口交差点の南西角に新旧二基の道標が保存されている。石柱は明治23年のもので「土佛観世音道」と刻まれている。土仏観世音は石鳥谷大興寺にあり、古くから土仏観世音信仰が盛んで、ここで土仏街道が分岐していた。右側の自然石は享保9年(1724)の追分石で、「右ハはやつ祢みち」「左ハもりおかみち」と刻まれている。もとは道の東側にあった。早池峰(はやちね)山は川井村・遠野市・花巻市の境界にある標高1917mの北上山地最高峰である。古くから霊山として崇拝されてきた。

羅須地人協会(宮沢賢治宅) 葛第1地割 花巻市 岩手県
羅須地人協会(宮沢賢治宅) 葛第1地割 花巻市 岩手県

復元賢治先生の家 花巻農学校精神歌の碑 賢治先生の家は、もと であります。 大正15年に花巻農学校(今の花巻農業高等学校)を退職された宮沢賢治先生は、この家に 「羅須他人協会」を設立、近隣の若い人たちや農村の人たちの教育の場とし、また多くの詩を書き、農耕にしたがい、自炊生活をして農村のため、捨身の猛運動をはじめたのでした。 そのために病気になり、とうとう37歳の若さで、先生は昭和8年9月21日豊沢……

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復元賢治先生の家 花巻農学校精神歌の碑 賢治先生の家は、もと であります。 大正15年に花巻農学校(今の花巻農業高等学校)を退職された宮沢賢治先生は、この家に 「羅須他人協会」を設立、近隣の若い人たちや農村の人たちの教育の場とし、また多くの詩を書き、農耕にしたがい、自炊生活をして農村のため、捨身の猛運動をはじめたのでした。 そのために病気になり、とうとう37歳の若さで、先生は昭和8年9月21日豊沢町の自宅で逝去されました。生涯独身でした。 昭和11年桜の地に「雨ニモマケズ」の碑を建てるとき、この家は宮野目村の農家の人に譲られました。ところが、このたび花巻農業高等学校が、現在の地に新築されることになりましたら、驚いたことに、この賢治先生のゆかりの深い家が、一部分は直されたところもありましたが、大体昔のままの造りで学校の構内になる場所に健在だったのでありました。 なんという不思議なめぐりあわせでしょう。同窓会に学校も協力、一同で熱心に復元にあたり、ここに賢治先生の住まれたなつかしい家が姿を現しました。そのうえそばの松の木の下、花に囲まれた庭園の一角に「花巻農学校桔神歌」の碑も建てられ、ほんとうに、みなさんに喜ばれる、すがすがしい気持ちよいところになりました。 昭和44年11月7日

この交差点を東にとって花巻空港の東隣にある花巻農業高等によっていく。ここに宮沢賢治の建てた羅須地人協会が復元されている。やや右肩を下げ、手を後ろに組んでうつむき加減に歩く賢治の像が前庭に立つ。サムサノナツにオロオロアルいた賢治の姿かと思ったりした。家は祖父の別荘だったという、随分と立派な建物である。実家を弟夫婦にわたして独身の自分は別荘での独り暮らしを選んだ。

花巻空港 葛第1地割 花巻市 岩手県
花巻空港 葛第1地割 花巻市 岩手県
宮野目方八丁遺跡 葛第1地割 花巻市 岩手県
宮野目方八丁遺跡 葛第1地割 花巻市 岩手県

本遺跡は、藩政時代の「邦内郷村志」や、「公国史」に方八町と記裁され、前九年の役で、源義家が安倍貞任を攻めたときの陣場跡と書き伝えている。しかし、昭和31年以来の発掘調査によって検出された竪穴住居跡や、土師器・須恵器・鉄製品・砥石などの伴出遺物からみて、前九年の役(11世紀中頃)よりも、更に古い平安時代初期の東北蝦夷開拓期(9世紀)の遺跡であることが明らかになった。方八丁という地名は、胆沢城跡・志波……

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本遺跡は、藩政時代の「邦内郷村志」や、「公国史」に方八町と記裁され、前九年の役で、源義家が安倍貞任を攻めたときの陣場跡と書き伝えている。しかし、昭和31年以来の発掘調査によって検出された竪穴住居跡や、土師器・須恵器・鉄製品・砥石などの伴出遺物からみて、前九年の役(11世紀中頃)よりも、更に古い平安時代初期の東北蝦夷開拓期(9世紀)の遺跡であることが明らかになった。方八丁という地名は、胆沢城跡・志波城跡をはじめ、北上川中流域に点在し、古代の官衙的施設跡に特徴的に見られる方形土地区画遺構と関連するものと考えられている。本遺構も、東部地域が北上川の浸蝕によって欠損しているが、方八丁の名のとおり広大な規模と想定されており、開拓の拠点的役割を担った鎮守府胆沢城と前哨基地志波城の中間に位した重要な遺跡として注目され、今後の本格調査が待望されている。なお、遺跡の南部には堀跡等が残存し、中世に館として転用されたことが知られている。

学校敷地の西隣は空港である。爆音が近づいてきたのでカメラを構えると着陸体勢のチャイナエアラインが目の前を降りてきた。

おなじく学校の敷地内、賢治の家の北側は「方八丁遺跡」になっている。平安時代初期の遺跡で胆沢城志波城の中間に位置して東北蝦夷開拓の拠点であったと考えられている。

石鳥谷(いしどりや)

江曽一里塚 石鳥谷町江曽 花巻市 岩手県
江曽一里塚 石鳥谷町江曽 花巻市 岩手県

江曽一里塚の築造年代は南部第28代藩主重直公時代の明暦4年(1658)頃と考定せられる。慶長15年頃当地方に初めて新たに開通したという当時の奥州道中(一名奥州街道)は、旧国道、弾正下りとも称し、この西約1kmの所を南北に通じている。その奥州街道は当時の藩主南部重直公が領内の通行を便にするため屈曲を直し、勾配を緩めるなど改修を施した。その際当地方は、花巻北端で東に分岐し、柴波郡南端に至る新街道の切替……

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江曽一里塚の築造年代は南部第28代藩主重直公時代の明暦4年(1658)頃と考定せられる。慶長15年頃当地方に初めて新たに開通したという当時の奥州道中(一名奥州街道)は、旧国道、弾正下りとも称し、この西約1kmの所を南北に通じている。その奥州街道は当時の藩主南部重直公が領内の通行を便にするため屈曲を直し、勾配を緩めるなど改修を施した。その際当地方は、花巻北端で東に分岐し、柴波郡南端に至る新街道の切替が施行せられた。これが現在のこの国道4号線でその年代は明暦4年頃と考証せられ、この江曽一里塚も当時の築造と思考する。この一里塚は測量の結果略々築造当時の原形を止めているが、伝えられる頂上の植樹や、西側の一基は何時の時代にか消滅して現在はない。此所の地名は塚根という字名として現在に至る。 以下略 昭和45年3月20日 石鳥谷町教育委員会

花巻空港駅口交差点から花巻市石鳥谷町に入る。国道の西側が南寺林、東側が江曽地区である。長楽寺への案内標識がある信号交差点手前右手に「江曽一里塚」があり、傍に一里塚碑と明治天皇江曽御小休所の碑が並んでいる。一里塚の説明板に、花巻四日町1丁目で奥州街道が二つに分かれた経緯が触れられている。光林寺を通る「古道」とよんでいる奥州街道は慶長15年(1610)頃に開通した。その後南部第28代藩主重直の時代明暦4年(1658)に、古道の勾配・屈曲をなおして一直線の「新道」に付け替えたのだという。古道の東1kmほどのところに新しい真直ぐな道をつくったのであるから、古道は改修しなくてもいいのではないかと思うがどうか。古道改修と新道建設の二つをやったということか、判然としない。とにかく、そのときに花巻四日町3丁目交差点を東に折れる道が開かれた。

すぐ左手の林に「小森林(小森)館跡」がある。中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。

逆ヒバ 石鳥谷町小森林 花巻市 岩手県
逆ヒバ 石鳥谷町小森林 花巻市 岩手県

伝説によれば、今から千二百年ほど前に、弘法大師が諸国を巡行の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩しました。その際、地面に挿した杖が根づいたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれています。 この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコなどといわれています。これは、心材が黒いヒノキ科の一種という意味でこの名があります。クロベは本州や四国に分布していますが、……

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伝説によれば、今から千二百年ほど前に、弘法大師が諸国を巡行の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩しました。その際、地面に挿した杖が根づいたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれています。 この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコなどといわれています。これは、心材が黒いヒノキ科の一種という意味でこの名があります。クロベは本州や四国に分布していますが、特に中部以北の深山に多く、県内では、所々の山地の岩石地や尾根などに見られます。 逆ヒバは、根元の直径が約2m、幹の周囲が約4.75mあります。県内の植栽されたクロベの中で、最も古い大木といわれ、これに次ぐものとしては、釜石市の鵜住神社境内や盛岡市太田の太田薬師神社境内などに残っています。 逆ヒバという呼び名は、幹が太くなっても根元のほうが細くその上のほうが太くて、あたかも杖の様子を連想させることから、この名がつけられたともいわれています。 逆ヒバは奥州街道(国道四号、奥羽街道)の西脇に立ち、古くから街道を往来する多くの旅人に親しまれ、見守られてきましたが、すぐ脇にある子守観音の神木としても大切にされてきました。 また、逆ヒバの下にある湧き水は、旅人の喉の渇きをいやしたといわれていますが、近年は、周囲の環境の変化によって涸れかかってきています。 平成16年3月1日 石鳥谷町 石鳥谷町教育委員会

その少し先に「逆(さかさ)ひば」とよばれる古木が寿命を存えている。サルスベリのような滑らかな幹にいくつもの穴があいていて痛々しい。弘法大師に絡む伝説があるというから非常に古い。上部の方が根元より太いことから逆ひばという名がついたというが、そんな風にもみえなかった。

光林寺 第12地割 石鳥谷町中寺林 花巻市 岩手県
光林寺 第12地割 石鳥谷町中寺林 花巻市 岩手県

長慶天皇の腰掛石と手撫での松 天授年中(1375~1381)のころ、長慶天皇が津軽の浪岡にいた北畠顕家の弟の顕能を頼って下向した際光林寺に立ち寄られたという伝承があります。この時、天皇は石に腰を掛け、前にある垂松に手を触れられました。そして垂松の美しさに心を打たれ、一首の和歌を詠まれたといいます。(天皇が詠んだ和歌は、九戸政実の争乱の際に光林寺が火災にあい、焼失しました)。以下略 平成16年3月1……

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長慶天皇の腰掛石と手撫での松 天授年中(1375~1381)のころ、長慶天皇が津軽の浪岡にいた北畠顕家の弟の顕能を頼って下向した際光林寺に立ち寄られたという伝承があります。この時、天皇は石に腰を掛け、前にある垂松に手を触れられました。そして垂松の美しさに心を打たれ、一首の和歌を詠まれたといいます。(天皇が詠んだ和歌は、九戸政実の争乱の際に光林寺が火災にあい、焼失しました)。以下略 平成16年3月1日 石鳥谷町教育委員会 光林寺

滝沢橋と耳取川を渡り、国道4号は石鳥谷バイパスとして左に分かれ、奥州街道は県道265号となって直進する。あくまで奥州街道新道は真直ぐなのだ。光林寺によるためバイパスに入り最初の十字路を左折、直線的な農道をみちなりに西に進むと石積みに白壁をめぐらせた時宗の名刹光林寺が風格ある佇まいを見せている。のどかな田園風景の中に孤高をたもつ風景である。創建は弘安3年(1280)、宗祖一遍上人の従兄弟河野通次によるといわれ、時宗総本山遊行寺よりも古いことになる。

光林寺 奥州街道古道跡 第12地割 石鳥谷町中寺林 花巻市 岩手県
光林寺 奥州街道古道跡 第12地割 石鳥谷町中寺林 花巻市 岩手県

ここは下馬札建立の地てす。かつて、奥州街道は光林寺の黒門前を通っていました。元禄14年、光林寺16代円護が総本山 45代尊遵上人となり、東山天皇が本山にご行幸の折り勅額を請願し、勅許により大納言藤原基時卿ご染筆の勅額を賜りました(この勅額は現存しています)。これを南部藩主久信公が拝見され、公儀により門前に下馬札が建てられました。これにより、殿様をはじめ、一般通行人もすべて下馬されたと伝えられていま……

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ここは下馬札建立の地てす。かつて、奥州街道は光林寺の黒門前を通っていました。元禄14年、光林寺16代円護が総本山 45代尊遵上人となり、東山天皇が本山にご行幸の折り勅額を請願し、勅許により大納言藤原基時卿ご染筆の勅額を賜りました(この勅額は現存しています)。これを南部藩主久信公が拝見され、公儀により門前に下馬札が建てられました。これにより、殿様をはじめ、一般通行人もすべて下馬されたと伝えられています。

元禄14年(1701)、光林寺16代円護が総本山遊行寺45代尊遵上人となったとき、東山天皇より勅額を賜って門前に下馬札が立てられた。奥州街道新道の建設は、参勤交代の大名がこれを嫌って光林寺をさける道を作ったという説もあるそうだが、新道建設が勅額拝受よりも40年先行して、つじつまがあわない。下馬することになった以前から光林寺が嫌われていたとするなら別であるが。

参道入口に長慶天皇ゆかりの腰掛石と手撫での松がある。冠木門の前を古道が戸通っていた。

南部杜氏伝承館 石鳥谷町中寺林第7地割 花巻市 岩手県
南部杜氏伝承館 石鳥谷町中寺林第7地割 花巻市 岩手県南部杜氏は現在、北は北海道から南は四国まで全国のほとんどの地域で酒造りに携わっています。1996年現在で登録されている、南部杜氏による全国の醸造銘酒は360種類にのぼります。

国道沿いの道の駅石鳥谷にある南部杜氏伝承館に寄るため、旧道にもどらずに国道4号を北に向かう。道の駅敷地の北側に海鼠壁の酒蔵がある。石鳥谷は、越後、丹波と並ぶ三大杜氏の一つである南部杜氏の里として知られる。南部杜氏のルーツは近江商人にあった。五個荘、八幡、日野にならんで近江商人4大発祥の地の一つが西近江路の高島で、高島商人は古代北陸道の駅家があった和邇の小野氏にはじまる。

小野氏の祖先ははるか飛鳥時代の敏達天皇に遡る。その子春日皇子の下に小野妹子、小野篁、小野道風、小野小町等そうそうたる歴史的人物を輩出した。下って江戸時代の初め、その遠い末裔に小野正則がいて、長男は村井家となり次男則秀が大溝十四軒町に井筒屋を開き初代小野家当主となった。則秀の次男が小野権兵衛で、寛文2年(1662)盛岡本町(京町)で近江屋を開いていた同郷の村井新七宅に草鞋を脱いだ。村井新七は南部藩にやってきた最初の近江商人で、はじめは遠野の砂金集めが目的だったようである。3年後に盛岡城下に定着、近江屋は高島商人の面倒をみる草鞋脱ぎ場となった。小野権兵衛はその後村井と改姓し、盛岡から南の志和に移って近江屋と号し木綿・小間物の商いを始めた。さらに村井権兵衛は上方の「すみ酒」(それまでこの地方は濁酒を飲んでいた)製造技術を生かして酒造りを始めた。延宝5年(1677)のことである。これを初めとして志和、郡山、盛岡に近江商人による酒造ラッシュが始まった。

村井権兵衛の近江屋はその後天明元年(1781)「志和酒造店」として受け継がれ現在の吾妻嶺(あづまみね)酒造店に繋がっている。「三方よし」の旅としてぜひ寄りたかったが所在地紫波郡紫波町土舘字内川5番地(志波IC近く)が奥州街道からはかなり離れているため断念した。南部藩の財政を一手に引き受けるに至った盛岡における近江商人の足跡は後ほど詳しくみることにしよう。

旧奥州街道 石鳥谷町好地第4地割 花巻市 岩手県
旧奥州街道 石鳥谷町好地第4地割 花巻市 岩手県この南北に溝の状態になっているところ(写真前方の林中)が旧街道(旧奥州街道)で、鎌倉街道や古街道、弾正下りなどともいわれています。 旧街道は、南寺林から中寺林の を通り、この場所を通って数馬長根を越えて に通じていました。 本町部分の旧街道は、江戸時代初期の明歴4年(1658年)に新街道に切替されましたが、古くから利用された主要な道路の一つでした。 平成16年3月1日 石鳥谷町 石鳥谷町教育委員会

そのまま国道を北に進んで石鳥谷交差点に出る。左から国道に接近する細道は光林寺から延びて来た古道である。国道で分断されるが、交差点のすぐ先で右手に復活して石鳥谷小学校の西側に沿った雑木林に消えている。林中にある窪地が古道の痕跡である。この道は鎌倉街道、古街道、弾正下りなどと呼ばれている。

好地旧一里塚 石鳥谷町好地第4地割 花巻市 岩手県
好地旧一里塚 石鳥谷町好地第4地割 花巻市 岩手県

好地旧一里塚は、旧奥州道中(街道)の一里塚の一つです。一里塚は、一里を36町(約3.93km)と定め、江戸日本橋を基点として一里ごとに築かれたもので、遠い旅をする者にとっては、行程の道標にもなりました。一里塚の築造は、慶長9年(1604)に徳川幕府の命により、諸藩が、江戸日本橋を起点とし、束海・東山・北陸の三道中に、一里ごとに方5間(9m平方)の塚を道の両側に築き、その上に榎(または松)を植えたの……

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好地旧一里塚は、旧奥州道中(街道)の一里塚の一つです。一里塚は、一里を36町(約3.93km)と定め、江戸日本橋を基点として一里ごとに築かれたもので、遠い旅をする者にとっては、行程の道標にもなりました。一里塚の築造は、慶長9年(1604)に徳川幕府の命により、諸藩が、江戸日本橋を起点とし、束海・東山・北陸の三道中に、一里ごとに方5間(9m平方)の塚を道の両側に築き、その上に榎(または松)を植えたのが通説になっています。南部藩領内の奥州道中の一里塚の築造年については、慶長9年と慶長15年説とがあり、今のところどちらとも決めかねています。 なお、奥州道中は、明暦4年(1658)に、ときの南部藩主重直が「御領内河辺御廻り、又は山坂多く不便」であるとして、曲折の多い道は直線に改修するとともに、山道は平坦部に移し、さらに道路幅員を一定にして道の左右両側の除地(通行する部分以外に確保した土地)をも設定し、並木を道の両側に植えさせたとあります。それが主に現在の国道4号にあたり、本町の中心地では県道中寺林犬渕線となっています。 好地旧一里塚は、その改修前の道中の一里塚で、塚の西側に南北にはしる溝帯が旧奥州街道の名残です。町内のこの道中では、このほかに南寺林のニツ森橋付近にも築かれていました。 なお、この好地旧一里塚は、平成4年3月27日に岩手県指定文化財になりました。 平成16年3月1日 石鳥谷町 石鳥谷町教育委員会

小学校の西側の道をすすんでいくと雑木林の北端近くに好地旧一里塚が残っている。溝をはさんだ林はあたかも旧道の並木のように見える。ここの説明板にも新道切替の事情が記されている。「曲折の多い道は直線に改修するとともに、山道は平坦部に移し」とあるが未だによくわからない。

好地一里塚跡・旧石鳥谷宿町並 石鳥谷町好地第6地割 花巻市 岩手県
好地一里塚跡・旧石鳥谷宿町並 石鳥谷町好地第6地割 花巻市 岩手県好地一里塚は、この付近にありましたが、昭和26年ころになくなりました。築造は明暦4年(1658)ごろと考えられ、大きさは5間(約9m平方)四方で、塚は街道の両側に築かれていました。中略 なお、好地一里塚は数えて江戸から133番目になっていました。 平成16年3月1日 石鳥谷町 石鳥谷町教育委員会

県道109号で東北本線をまたいで奥州街道にもどる。駅前通りの少し手前左手、三又美容室の看板の下に新道の「好地一里塚跡」説明札が立っている。江戸から133番目の塚とある。築造は明暦4年で、新道付け替えのときである。

一里塚の街道向かいに「石鳥谷肥料相談所跡」の説明板がある。昭和3年3月15日から一週間、宮沢賢治はここで肥料相談所をひらき農民に今年はどの肥料が適当であるかを教えた。賢治はここから眺めた一里塚の情景を詩「三月」として残している。

一里塚 一里塚 塚の下からこどもがひとりおりてくる つヾいて ひとりまたかけおりる 町はひっそり 火の見櫓が白いペンキで 泣きだしさうなそらに立ち 風がにはかに吹いてきて 店のガラスをがたがた鳴らす

石鳥谷河岸跡 石鳥谷町好地第16地割 花巻市 岩手県
石鳥谷河岸跡 石鳥谷町好地第16地割 花巻市 岩手県

薬師堂川を渡り右に折れて川沿いに北上川に出る。水門のある堤防に沿って土手下に蔵のある立派な家が散見される。このあたりは石鳥谷河岸跡で、酒や米の積み出しで繁昌した。

元菊の司酒造七福神工場 石鳥谷町好地第7地割 花巻市 岩手県
元菊の司酒造七福神工場 石鳥谷町好地第7地割 花巻市 岩手県の七福神工場跡。平成17年にすべて盛岡工場に集中させた。

街道にもどる。左手に見える高い煙突は菊の司酒造七福神工場である。松坂商人の流れをくむ六代目平井六右エ門が盛岡で酒造業を始めた。盛岡工場で菊の司、石鳥谷工場では七福神を製造していたが平成17年両銘柄とも盛岡工場に集約した。軒下にぶら下がる杉玉がこころなしかわびしい風采であった。石鳥谷の宿場がどこであったのか、銀行があるところからこのあたりが旧宿場街だったのであろう。家並みに往時の面影は見当たらない。

街道は家並みをでて花巻市と紫波郡紫波町の境界にちかづく。

菊池数馬の墓 石鳥谷町好地第11地割 花巻市 岩手県
菊池数馬の墓 石鳥谷町好地第11地割 花巻市 岩手県

菊池数馬は、幼名を五郎といいました。父の正宗は小田原の北条氏に仕えていましたが、小田原城の落城によって殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになりました。菊池家は、もと藤原姓で、藤原道隆の後裔である則隆が延久2年(1070年)に肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、地名にちなんで菊池氏を称しました。同家は、南北朝期には南朝方に立って一族一門終始めざましい奮戦をとげるなど南朝……

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菊池数馬は、幼名を五郎といいました。父の正宗は小田原の北条氏に仕えていましたが、小田原城の落城によって殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになりました。菊池家は、もと藤原姓で、藤原道隆の後裔である則隆が延久2年(1070年)に肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、地名にちなんで菊池氏を称しました。同家は、南北朝期には南朝方に立って一族一門終始めざましい奮戦をとげるなど南朝方勤王の名家としても知られました。五郎数馬は、生来頑健勇猛で住居した石鳥谷を愛し、新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれています。 万治2年(1659年)9月27日に75歳で亡くなりましたが、危篤の際に村内の若者たちを集め、 自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言しました。 遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されています。平成6年8月8日 平成6年度ふるさと創生事業

左手に菊池数馬の墓がある。菊池家は肥後国の名門。数馬は石鳥谷に住居して地元の開発に尽力し石鳥谷の恩人として崇敬された。

境塚 花巻市石鳥谷町好地/紫波郡紫波町犬渕深田 岩手県
境塚 花巻市石鳥谷町好地/紫波郡紫波町犬渕深田 岩手県

石鳥谷町と柴波町の境(藩制時代は好地村と犬淵村)は、稗貫、紫波両郡の境にもなっています。この境に沿って北上川から東北本線間に九基の塚が築かれています。塚は半壊したものも含め、北上川と旧国道間に6基、旧国道と鉄道間に3基あります。塚はほぼ完全なもので周囲が10~13m、高さが0.5~1mになっています。 安政4年(1857)に作成された「好他村(現、石鳥谷町好地)絵図」によれば、当時は北上川と旧国道……

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石鳥谷町と柴波町の境(藩制時代は好地村と犬淵村)は、稗貫、紫波両郡の境にもなっています。この境に沿って北上川から東北本線間に九基の塚が築かれています。塚は半壊したものも含め、北上川と旧国道間に6基、旧国道と鉄道間に3基あります。塚はほぼ完全なもので周囲が10~13m、高さが0.5~1mになっています。 安政4年(1857)に作成された「好他村(現、石鳥谷町好地)絵図」によれば、当時は北上川と旧国道(奥州街道)間に8基、旧国道と古街道(旧奥州街道)間に4基、古街道と北寺林村間に4基、合計で16基築かれていました。 塚が築かれた時期は明らかでありませんが、奥州街道の両側の塚が等間隔に築かれていることなどからみて、奥州街道ができてから築かれたものと考えられます。旧街道から新街道(奥州街道)への切り替えは、明暦4年(1658)といわれています。好地、犬渕両村とも旧盛岡領であったことから、塚は郡境としてよりも村境としての性格をもって築かれたものと考えられます。開発等によってこうした塚がほとんど失われてしまった中で、塚は行政史や民俗学の上で大変貴重なものとみられます。 平成7年11月4日 平成7年度ふるさと創生事業

そのすぐ先に境塚がある。花巻市石鳥谷町好地と紫波郡紫波町犬渕の境界である。共に盛岡領内であったから好地村と犬渕村の村境として造られたものだという。16基の塚が築かれ9基が現存しているという。仙台・南部の藩境塚は一里塚のように立派だったが、ここの塚は高さ50cmから1mほどという低いもので、何度も標識の周辺をみなおしたが塚の高まりは認められなかった。

郡山

鎌倉街道跡(旧奥州街道) 犬渕上田/片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県
鎌倉街道跡(旧奥州街道) 犬渕上田/片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県

街道(県道265号)は犬渕信号で国道4号に合流、ひきつづき五郎沼あたりまで真直ぐな道筋を保つ。次の信号手前、盛岡建具センターのある丁字路を左折して古道を訪ねる。細い砂利道をまっすぐ進むと突き当たりに「鎌倉街道跡」の標識が立っている。明暦4年以前の奥州街道である。

鎌倉街道跡(旧奥州街道) 犬渕上田/片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県
鎌倉街道跡(旧奥州街道) 犬渕上田/片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県
東北本線 片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県
東北本線 片寄野尻 紫波町 紫波郡 岩手県

付近は雑木林と田畑の中に民家がまばらにあるだけで、ひっそりといにしえの記憶を守る古街道にふさわしい情景であった。古道を南の方へすこし辿ってみると傾きかけた西日に霞んで一層趣をました景観があった。傍を通る東北本線に半シルエットの二両編成電車が日暮れ道を急いでいった。北方面はまっすぐにのびているがまもなく道は消失して、「古道」という地区の東端をかすめ上田で国道に合流している。ここから花巻四日町まで付け替えが行なわれたのである。

ところどころに残る松並木の名残をみながら滝名川をわたると南日詰にはいる。蔭沼集落の終わり辺りに一里塚跡を示す「塚」屋号の高橋家があるとのことだが、見つけられなかった。

五郎沼 南日詰箱清水 紫波町 紫波郡 岩手県
五郎沼 南日詰箱清水 紫波町 紫波郡 岩手県

五郎沼の蓮のいわれ 囲いの中の蓮は820年前五郎沼に咲いた古代蓮です。平泉の中尊寺には藤原清衡基衡秀衡の三人の遺体と泰衡の首がミイラとなって安置されています。これは昭和25年の学術調査で確認されました。泰衡の首桶の中から蓮の種子が見つかり調査団の関東学院大学故大賀一郎博士が研究用に持ち帰り保存していたものを教え子の恵泉女学園短大の永島時子教授が生命工学で平成6年に発芽させ平成10年開花五年がかりで……

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五郎沼の蓮のいわれ 囲いの中の蓮は820年前五郎沼に咲いた古代蓮です。平泉の中尊寺には藤原清衡基衡秀衡の三人の遺体と泰衡の首がミイラとなって安置されています。これは昭和25年の学術調査で確認されました。泰衡の首桶の中から蓮の種子が見つかり調査団の関東学院大学故大賀一郎博士が研究用に持ち帰り保存していたものを教え子の恵泉女学園短大の永島時子教授が生命工学で平成6年に発芽させ平成10年開花五年がかりで栽培にこぎつけ平成11年中尊寺に移植し始めて開花させたことが大きな話題として報道されました。(中略)この蓮は平成14年5月28日に中尊寺から株分けされ五郎沼の地に移植されました。 平成14年5月 箱清水公民館

やがて左手に大きな五郎沼が見えてくる。地元の人が散策するだけの静かな沼である。北側に古代ハス池がある。大賀ハスで知られる古代ハスを現代に蘇らせた元はこの五郎沼にあるという。

薬師神社 南日詰箱清水 紫波町 紫波郡 岩手県
薬師神社 南日詰箱清水 紫波町 紫波郡 岩手県

歴史のロマン香る樋爪館(ひづめのたち) 樋爪館は、平泉初代藤原清衡の四男清網がここに派遣され、その子、太郎俊衝、五郎季衡らが居を構えて周辺を支配したとされている。 館跡は赤石小学校付近にあり、周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が確認され、かわらけなどが出土している。箱清水という地名や松原という屋号などはこうした館の空間を想像させる。また、薬師堂(現薬師神社)や大荘厳寺、中島の観音……

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歴史のロマン香る樋爪館(ひづめのたち) 樋爪館は、平泉初代藤原清衡の四男清網がここに派遣され、その子、太郎俊衝、五郎季衡らが居を構えて周辺を支配したとされている。 館跡は赤石小学校付近にあり、周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が確認され、かわらけなどが出土している。箱清水という地名や松原という屋号などはこうした館の空間を想像させる。また、薬師堂(現薬師神社)や大荘厳寺、中島の観音堂などがあったという。寺の跡にはその後供養のために建てられた古碑群が残されている。 五郎沼は、以前は西に広がる広大な沼であったが、季衝か堤防を築くなど潅漑用水池にしたとも考えられる。季衝は好んでこの沼を泳いだという。 館は西万に奥大道、東に北上川と東街道が南北に走る交通の要衝にあり軍事と物流の拠点でもあった。北上川の舟場は平泉館とを結ぶ北のターミナルといえる。こうした交通路を経てこの地から産出される砂金や馬、漆、米などの産物か送られ、平泉仏教王国の造営を支えたと考えられる。ちなみに「ひづめ」はアイヌ語でピッツ・ムィ(河原の港)が転化したものである。 文治5年(1189年)9月4日源頼朝が平泉を攻めて紫波の陣ケ岡に布陣した。この時、樋爪氏一族は館に火を放ち北へ逃亡した。頼朝の裁定で太郎俊衝が藤原氏家臣中ただひとり許され、この地に戻って寺の住職となったという。その他の一族はすべて関東方面に流罪となった。 頼朝により陣ケ岡に晒された平泉4代藤原泰衡の首をはずし、その首桶に蓮の実を入れて金色堂に納めた人物がいる。それかできたのは太郎俊衡以外に考えられない。八百年の時を経て平泉に咲いた蓮は、平成14年、樋爪館跡に里帰りして古代の歴史ロマンを今に語り伝えている。 この看板は紫波町商工会女性部創立40周年記念事業の助成を受けて設置したものです。 平成20年12月 紫波町平泉関連史跡協議会

五郎沼と薬師神社、赤石小学校の周辺一帯は樋爪(ひづめ)館の跡地で、奥州平泉初代の藤原清衡の4男清綱の子太郎俊衡・五郎季衡が居を構えていた。五郎沼は五郎季衡に由来する。文治5年(1189)源頼朝は陣ヶ岡に陣を敷き平泉藤原氏を滅ぼした。藤原泰衡の首は陣ヶ岡にさらされたのち、中尊寺の金色堂に安置された。その時だれか泰衡の首桶に五郎沼のハスの実を入れたものがいた。昭和25年(1950)泰衡の首桶からハスの種が発見された。大賀博士が保存し教え子が平成6年に発芽させ、平成11年中尊寺に移植して開花させた。平成14年(2002)に中尊寺から株分けされ五郎沼の地に移植された。813年ぶりに古代蓮が五郎沼に里帰りしたのである。

志賀理和気神社(赤石神社) 本町川原 紫波町桜町 紫波郡 岩手県
志賀理和気神社(赤石神社) 本町川原 紫波町桜町 紫波郡 岩手県桓武天皇、延暦の昔(約1200年前)坂上田村麻呂が香取、鹿島の大神を勧請奉斎し陸奥開拓の守護神として崇拝した古社である。 延喜年間、醍醐天皇の勅命を受け全国神社3132座が延喜式神明帳に登載された。その日本最北に位置し、古来より朝廷の尊崇する社として重んぜられた。

東北新幹線をくぐりその先桜町交差点手前の二股で、左にカーブしていく国道4号と分れ、旧街道はそのまま直進していく。1kmほどいって道が左に曲がるところに志賀理和気(しかりわけ)神社(赤石神社)の参道が出ている。参道には30本ほどの樹齢500年を越える桜が並木をなしている。「南面の櫻」と刻まれた石碑が立ち次のような悲恋物語が伝わっている。14世紀前半の元弘の頃、都から当地に下った藤原頼之がこの地の領主の娘桃香と相思相愛の仲になり記念に二人で1本の桜の苗を植えた。ところが頼之は急に都に戻ることになった。歳月は流れ、かって植えた桜に花が咲いた。花は南面に向かって咲いていた。桃香のやるせない思いが桜に宿ったものであろう。

南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや 桃香

志賀理和気神社は全国最北端の延喜式内社で、南部の一の宮である。社名のシカリとはマタギ言葉でマタギ集団の統率者の意味があるという。坂上田村麻呂が東北遠征に際して香取、鹿島の武神を勧請した。境内に玉垣に囲まれて赤石が祀られている。天正(1573~1593)の頃この地を治めていた斯波詮直が、北上川を遊覧中に川底に輝く赤紫の大石を見て、

けう(今日)よりは 紫波(しわ)と名づけんこの川の 石にうつ波紫に似て

と詠んだ。以後、それまで子波、斯波、志和などと呼ばれていたこの地は「紫波」と定まった。赤紫の大石は引揚げられここに祀られた。黒い部分もあってなんとなく紅殻を雑に塗ったように見えなくもない。玉垣の鉄パイプまで同じ色なのはやりすぎではないか。

郡山河岸跡 桜町下川原 紫波町 紫波郡 岩手県
郡山河岸跡 桜町下川原 紫波町 紫波郡 岩手県

昔から内陸部の物資を江戸へ大量輸送するために、物流の交流軸として北上川は、重要な地位を占めてきた。寛永年間(1626年頃)盛岡藩は城下の を起点とし、郡山・花巻・黒沢尻の三ヶ所に河港を開設して舟運の充実を図った。北上川の水上運送に用いた川舟には、水深等の関係から二種類あり、盛岡から黒沢尻までは「小繰船」、 から までは「ひらた舟」を使用した。「郡山河岸」は、桜町村の下川原にあり、北上川と大坪川の合……

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昔から内陸部の物資を江戸へ大量輸送するために、物流の交流軸として北上川は、重要な地位を占めてきた。寛永年間(1626年頃)盛岡藩は城下の を起点とし、郡山・花巻・黒沢尻の三ヶ所に河港を開設して舟運の充実を図った。北上川の水上運送に用いた川舟には、水深等の関係から二種類あり、盛岡から黒沢尻までは「小繰船」、 から までは「ひらた舟」を使用した。「郡山河岸」は、桜町村の下川原にあり、北上川と大坪川の合流点付近で、現在「小舟渡(こぶなと)」と呼ばれる場所がある。ここは北上川の河床が入込んで入江の状態をなしていて、舟の停泊や積みおろしに都合がよかった。郡山河岸から御蔵の米・大豆が江戸に回送され、上方や江戸で仕入れた商品の古着・反物・陶器・書籍などが遡航便で移入されるようになった。明治23年(1890)上野~盛岡間で東北本線が開通し、日詰駅が開設されてから旅客・物資輸送は徐々に鉄道に移行し、大正末期には郡山河岸はその機能を失った。

参道の途中に北にのびる細道がある。民家脇をすりぬけ水路をこえると運動公園の土手に出る。右手のグラウンドに降り川岸にでたところが郡山河岸跡である。今も小舟渡(こぶなと)とよばれる船着場があり、そばに「北上川の舟運と郡山河岸」と題した標石が設けられている。盛岡藩では盛岡新山河岸を起点とし郡山、花巻、黒沢尻に河港を開いて舟運の便を図り南部からは米・大豆が江戸に運ばれ、上方や江戸で仕入れた古着・反物・陶器・書籍などが送られてきた。

旧郡山宿町並 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県
旧郡山宿町並 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県

参道入口までもどり旧道を北にむかう。途中旧道は左に入って行き国道4号に近づいたところで右にまがって元の道にもどる道筋になっている。桝形でもなさそうで、何のためかわからない。道筋も明確でなく、とりあえず富岡鉄工所の角を左折し水路をこえたところで右におれて街道筋にもどった。途中なにもなかった。大きな交差点をわたって県道25号にのる。ここからが旧宿場の繁華街のようである。

平六(平井家) 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県
平六(平井家) 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県

左に煉瓦造りの塀を廻らせた二階建の立派な屋敷がある。豪商平井六右衛門宅(平六商店)で、大正10年、12代目六右衛門が当時の首相原敬の帰郷を歓迎して建てたものだという。初代平井六右衛門(伊勢屋六右衛門)は伊勢松坂の出。元和年間(1615年~)郡山に移り伊勢屋を開き米や雑穀の仲買を始めた。二代目六右衛門のとき八戸藩の御用商人として「御蔵宿」の宿元を勤める。その後、安永年間に六代目が酒造業を始め今日の菊の司酒造に至る。石鳥谷ではその七福神工場を見たところである。

産金、舟運の拠点として郡山は盛岡より古くから商業が盛んな町で、多くの商人が集まってきた。中でも活躍したのが近江高島商人である。南部杜氏の祖といわれる村井(小野より改姓)権兵衛は志和で酒屋を起こす前の寛文7年(1667)に郡山に土蔵を建てて行商の基地としている。

この志和近江屋の二代目となったのが村井権兵衛の兄小野善五郎の次男で養子となった小野権右衛門(二代目村井権兵衛)だが、志和近江屋を三代目にゆずった後、自らは日詰に移って井筒屋をおこした。小野権右衛門はのち京に移って名門鍵屋を買収、鍵屋小野家を起こした。後の小野組の祖である。日詰井筒屋からは井筒屋・大和屋・福地屋・村谷屋・鍵屋・鍋屋の屋号で13軒もの分家が出て日詰に定住した。分家のなかでも筆頭格は高島郡音羽村出の井筒屋彦兵衛で、元禄4年(1691)15才で日詰井筒屋権右衛門に奉公し支配人にまで上がった後、正徳3年(1713)井筒屋の家号を許されて分家した。彦兵衛家の同族には音羽屋・村谷屋・井筒屋・白木屋・関本屋などがある。

右手、ヒノヤ呉服店も近江人の末裔である。近江国日野の歌人祝清風が500年ほど前、諸国遍歴の末日詰に落ち着いたといわれる。江戸時代には「日野屋」の屋号で旅籠、茶屋などを営んだといわれる。その末裔にヒノヤ呉服店、大正13年大野宗三が日野屋古物商から自立したヒノヤ自動車(本社は盛岡に移転)がある。

その先、右の音羽、左の村谷屋も井筒屋権右衛(郡印)から分かれたものである。

銭形平次 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県
銭形平次 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県この手形は銭形平次を演じている俳優の北大路欣也さんの手形です。あなたの手を手形にあわせてみてください。銭形平次のふるさとを紹介いたします。

右手、東北銀行駐車場に銭形平次を演じた北大路欣也の手形と銭形平次会館がある。紫波町は、「銭形平次捕物控」の作者野村胡堂の生誕地である。手を合わせるとピッタリだった。自動的に音声ガイドが流れる仕組みになっていて面白い。

左手の幾久屋(きくや)呉服店の祖は美濃国武儀群関の金子七郎兵衛で、寛文12年(1672)に日詰へ移り美濃屋を開いて呉服、砂金の売買で財をなした。特に4代目金子七郎兵衛は天保15年(1844)に南部藩御勘定奉行元締役となる。また一万両を出して承慶橋を架橋、美濃屋は後に幾久屋と藩命によって変わる。所有する田畑は三31ヶ村にわたり、家屋敷は日詰に37軒あったという南部領内の豪商の一つであった。また、金子七郎兵衛の子孫に金子キンがおり花巻の宮澤喜助に嫁いだ。宮沢賢治の父、政次郎の母親である。

明治天皇聖跡 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県
明治天皇聖跡 日詰郡山駅 紫波町 紫波郡 岩手県

左手ふれあいパークに「明治天皇聖蹟」碑がある。明治9年と14年の御幸の際はいずれも幾久屋が昼食の場所となった。

このあたりの地名は「郡山駅」という。天正16年(1588)、南部氏によって斯波氏が滅ぼされ、高水寺城が郡山城と改めらた。やがて郡山城下の日詰町を中心に奥州街道の宿駅が設けられた。継立業務は二日町、日詰町、下町が10日ずつ分担した。本陣は日詰町の桜屋と井筒屋、上町(二日町)では御仮屋(代官所)が利用された。

南部藩時代には領内でも屈指の商店街で宿場町として栄えた郡山日詰も、井筒屋の領外追放と明治にはいって幾久屋、桜屋の没落、再三の大火で郡山商店街は衰退の道をたどった。鉄道駅を避けたのが致命的となる。現日詰駅は南に2km離れた赤石地区にあり、近くにある紫波中央駅は住民の寄附を集めて平成10年に開設されたばかりである。日詰駅からわずか2kmしか離れていない地点に、住民の反省をこめた懇請によって造られた。

近江商人とあって、随分道草を食った。街道を急ぐ。

逆ガシワ 勝源院 日詰朝日田 紫波町 紫波郡 岩手県
逆ガシワ 勝源院 日詰朝日田 紫波町 紫波郡 岩手県

国指定天然記念物 勝源院の逆ガシワ 昭和四年十二月十七日指定 カシワは本来幹が直立し、高さ20m以上になる落葉広葉樹である。しかし、ここ勝源院のカシワは直立せす、地際で四本の支幹に分かれ、それぞれ地面をはうように伸びてから立ち上がっている。この姿は、あたかも根が枝になったように見えることから逆ガシワの名で古くから親しまれてきた。このような変わった樹形を持つカシワの巨樹は珍しく貴重であり、カシワとし……

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国指定天然記念物 勝源院の逆ガシワ 昭和四年十二月十七日指定 カシワは本来幹が直立し、高さ20m以上になる落葉広葉樹である。しかし、ここ勝源院のカシワは直立せす、地際で四本の支幹に分かれ、それぞれ地面をはうように伸びてから立ち上がっている。この姿は、あたかも根が枝になったように見えることから逆ガシワの名で古くから親しまれてきた。このような変わった樹形を持つカシワの巨樹は珍しく貴重であり、カシワとしては最も早く国の指定を受けている。 推定樹齢 約三〇〇年 枝張 東西 21.8m 南北 27.7m 根本周囲 5m 樹高 12.2m 別名 みだれカシワ 紫波町教員委員会

突き当りヒノヤタクシーの前を左折する。右手駐車場も銭形平次風に造られている。国道4号の手前を右に折れて200mほど進んで国道に合流する。道向かいに楼門が立派な勝源院がある。本堂の裏に逆(さかさ)ガシワがある。地際で四本の支幹に分かれ、それぞれ地面をはうように伸びてから立ちあがっている。根が枝のように見えるので、逆(さかさ)ガシワと呼ばれている。

一里塚跡 日詰朝日田 紫波町 紫波郡 岩手県
一里塚跡 日詰朝日田 紫波町 紫波郡 岩手県

街道はすぐ先の信号を右折する。左手高台の民家敷地内に二日町一里塚跡の白い標柱が立ち「奥州街道百三十五番目一里塚跡」と記されている。右に出ている道は「大元帥陛下御幸新道」とよばれ、明治に整備された道である。街道はすぐに左に折れるが、そのまま進んで丘の上にある高水寺城跡に寄っていく。

高水寺城址 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県
高水寺城址 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県

標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。斯波氏は足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。 次いで室町時代に……

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標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。斯波氏は足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。 次いで室町時代になると紫波郡一円の領主として地歩を確立しただけでなく、一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張するほどであった。しかし、三戸南部氏との抗争が激しくなるにつれて次第に衰えをみせ、ついにはその攻略に屈して没落する運命となった。時に天正16年(1588)8月のことである。高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配したが、寛文7年(1667)に至って城代制は廃止され、城も破却された。 紫波町教育委員会

高水寺城址 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県
高水寺城址 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県

標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。斯波氏は足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。 次いで室町時代に……

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標高180mの独立丘に立地したこの高水寺城は、中世斯波氏累代の居城であった。斯波氏は足利氏の有力な分族であるが、この地を領知するにいたった経緯や築城の時期については定かではない。それが南北朝対立の時を迎えると、にわかに日本史の表舞台に登場するようになった。すなわち、足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍しているのである。 次いで室町時代になると紫波郡一円の領主として地歩を確立しただけでなく、一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張するほどであった。しかし、三戸南部氏との抗争が激しくなるにつれて次第に衰えをみせ、ついにはその攻略に屈して没落する運命となった。時に天正16年(1588)8月のことである。高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配したが、寛文7年(1667)に至って城代制は廃止され、城も破却された。 紫波町教育委員会

高水寺城は南北朝時代、足利尊氏が南朝方の八戸南部氏や北畠顕家を抑えるため斯波家永を奥州管領に任ぜた頃に築城された。天正16年(1588)、南部信直が領有してからは郡山城と改められた。盛岡城築城中の一時期、南部利直が居城し南部藩の本拠となったが寛文7年(1667)盛岡城の完成にともなって郡山城は廃城となった。丘にあがると城山公園の奥の方から都はるみの演歌を歌う女声が聞えてきた。近づいてみると車椅子で車座になった老人の一団があった。丘の頂上には「御殿跡」「高水寺城址」の碑がある。石垣が残っているのは復元か、オジリナルか、説明板は無い。

走湯(そうとう)神社 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県
走湯(そうとう)神社 二日町古舘 紫波町 紫波郡 岩手県

平泉、鎌倉、南部藩、関連の神社 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。今まですでに7日間、ここに逗留された。ところで高水寺の鎮守は(伊豆の)走湯(そうとう)権現を勧請したものであるが、その傍にもまた小さな社があり大道祖といった。これは(藤原)清衡が勧請したものである。この社の後ろに大きな槻の木があった。二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢(うわや)の鏑(かぶら)二つを射立て……

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平泉、鎌倉、南部藩、関連の神社 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。今まですでに7日間、ここに逗留された。ところで高水寺の鎮守は(伊豆の)走湯(そうとう)権現を勧請したものであるが、その傍にもまた小さな社があり大道祖といった。これは(藤原)清衡が勧請したものである。この社の後ろに大きな槻の木があった。二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢(うわや)の鏑(かぶら)二つを射立てられた。 文治5年(1189)9月11日 現代語訳 吾妻鏡より

街道の丁字路にもどる。二日町向山集落にはいって道が右に曲がるあたりに「日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)」があり、本陣としても利用された。家並みがきれたあたり、右手高台に高水寺と走湯(そうとう)神社が並んである。走湯神社は文治5年(1189)源頼朝が藤原泰衡征伐のため陣ヶ岡に滞在したとき、高水寺の鎮守として伊豆の走湯権現を勧請したものである。社殿回廊の片隅に逞しい男根木像が人目を避けるように立っていた。

横屋酒店で突き当り、左折して国道4号の手前で右折する。右折せずその道をまっすぐ国道を横切って西に2kmあまり行ったところに陣ヶ岡がある。その名が示すとおり歴史上数々の戦いにおいて陣が張られた場所である。延歴22年(803)、坂上田村麻呂が志波城を築いたときの宿営地であり、源頼義・義家父子が前九年の役で3万人の軍勢を常駐させた場所である。頼義は池に月の輪と日の形をした中島を造った。さらに文治5年(1189)源頼朝が藤原泰衡を滅ぼしたときここに布陣し、もたらされた泰衡の首を実検した。「藤原泰衡首洗いの井戸」なるのもがあるという。後に泰衡の首が平泉中尊寺に送られる際、首桶にハスの実が入れられた(混じっていた)ことは五郎沼の古代ハスで触れた通りである。また男根木像があった走湯神社が創建されたのもこのときである。近世になって天正16年(1588)南部信直がここに布陣して斯波氏を壊滅した。格別な地の利でもあったのか、陣ヶ岡は寄っていくべきであった。

横澤酒造 高水寺 紫波町 紫波郡 岩手県
横澤酒造 高水寺 紫波町 紫波郡 岩手県

右折した道は砂利道となり国道4号に出たところで右側の歩道を進みそのまますぐ右手に復活した旧道に入る。蟠龍寺の隣に「月の輪」横澤酒造店が広い敷地に趣ある佇まいを見せている。一升瓶を抱えた木彫の月の輪熊がかわいい。「月の輪」の銘柄は陣ヶ岡の中島からきているのか。

国指定史跡 徳丹城跡 西徳田第6地割 矢巾町 紫波郡 岩手県
国指定史跡 徳丹城跡 西徳田第6地割 矢巾町 紫波郡 岩手県

〔前略)これらの遺構に伴って九世紀頃の土器が出土している。以上の事実から、この遺跡は平安時代前半に営まれた城柵跡であることはあきらかであり、地元伝承のごとく弘仁2年文室綿麻呂の奏言にもとづき志波城を遷立し、同5年には完成したとみられる徳丹城跡とすることが妥当と考えられる。東北地方太平洋側における城柵遺構として最初の発見であり、かつ最北端の古代城跡として学術上価値が高い。 平成18年3月1日 矢巾町……

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〔前略)これらの遺構に伴って九世紀頃の土器が出土している。以上の事実から、この遺跡は平安時代前半に営まれた城柵跡であることはあきらかであり、地元伝承のごとく弘仁2年文室綿麻呂の奏言にもとづき志波城を遷立し、同5年には完成したとみられる徳丹城跡とすることが妥当と考えられる。東北地方太平洋側における城柵遺構として最初の発見であり、かつ最北端の古代城跡として学術上価値が高い。 平成18年3月1日 矢巾町教育委員会 徳丹城は、弘仁4(813)年に時の征夷大将軍文室綿麻呂の奏言により大和朝廷によって造られた古代城柵です。延暦22(803)年に造られた が、雫石川の度重なる水害によってその機能を果たせなくなり、志波城に変わって造られたのが、徳丹城造営の経緯です。 以下略 文化庁 矢巾町教育委員会

徳丹城跡 西徳田第3地割 矢巾町 紫波郡 岩手県
徳丹城跡 西徳田第3地割 矢巾町 紫波郡 岩手県

古い家並みをぬけ五内川をわたって国道4号に合流する。三枚橋で紫波町から矢巾町に入る。広々とした田園地帯を3kmあまり進むと徳丹(とくたん)城跡に至る。「トクタン」はアイヌ語のト・コタン(集落、村)に由来する。徳丹城は弘仁4年(813)、征夷大将軍文屋綿麻呂が築いた大和朝廷蝦夷地支配の最後の城柵である。803年に坂上田村麻呂が造った陸奥最北端の志波城が雫石川による度重なる水害で被害を受け、解体され遷し建てられた。

佐々木家曲家 西徳田第3地割 矢巾町 紫波郡 岩手県
佐々木家曲家 西徳田第3地割 矢巾町 紫波郡 岩手県東向きの母屋の北端に、南向きの馬屋が取り着く典型的な南部曲家である。藩政時代には村役を務めた農家だったため、建坪は90坪と大きい。母屋は基本的に食い違い4間取り型式の前常居型で、土間寄りに常居と寝間があり、その南隣には上・中・下の畳敷きの座敷が外庭に面してある。外庭には、塀中門(兵従門)があり、座敷と一体化した格式の高さを伝えている。町内藤沢にあったものを昭和62年移築復元した。 矢巾町教育委員会

城跡は国道の両側に公園として整備されている。平成19年と20年の発掘調査では古代官道であった東山道のものとおもわれる側溝が発見された。大和から発した東山道の最北端に位置するものである。発掘調査はまだ続いているようで、調査員は肌を撫でるように土を取り除いている。矢巾町歴史民俗資料館の隣に萱葺の佐々木家曲家が復元されている。村役を務めた農家とあって堂々とした建前である。

高田渡船場跡・北上川 高田第18地割 矢巾町 紫波郡 岩手県
高田渡船場跡・北上川 高田第18地割 矢巾町 紫波郡 岩手県

徳丹城跡から3kmほど北上したあたり、右手日産ディーゼルの北側の細道を東に進み、突き当りを右折してみちなりにゆくと北上川の堤防に上る。その先河川敷におりたところに小さな高田グラウンドがあってその南端をすすむと石ころ河原に出る。このあたりに高田渡船場があり、対岸の遠野街道(国道396号)とを結んでいた。

国道4号にもどり見前(みるまえ)川で盛岡市に入る。

盛岡

見前町(今宮神社前) 東見前1地割 盛岡市 岩手県
見前町(今宮神社前) 東見前1地割 盛岡市 岩手県見前町は藩政時代の宿場町であり、治安維持のため「検断」もおかれていた。その検断からの「捨馬の禁札」・百姓一揆を取締る制札が残っていた。寛延4年(1751)清水秋全・増補行程記絵図にも見前町に御制札(立札)ありと記され、この町は通称「塚根」といわれこの地には江戸日本橋(東京)を基点として明暦3年(1657)に築造したという一里塚が残されてあったが遂にその姿を消している。 都南村教育委員会

右手今宮神社の道路脇境内に「見前町と御制札」と題する案内板がある。見前町は宿場町で制札場、検断があったという。またこの町は「塚根」といわれ、この地には明暦3年(1657)に築造した一里塚があった。

大国神社 津志田中央1丁目 盛岡市 岩手県
大国神社 津志田中央1丁目 盛岡市 岩手県大国神社は文化7年(1810)盛岡藩主第36代利敬公が津志田の地の総鎮守として創建したもので、御祭神は大穴牟遅之命。境内には八坂社があり、素戔嗚尊を祭る。当時津軽町と称したこの地は遊廓が繁盛し、両社の中には遊女や楼主がおさめた諸願成就祈願の絵画献額(絵馬)や奥州俳諧四天王のひとり小野素郷筆の「俳諧之発句」などが奉納されている。以下略 平成六年三月 盛岡市教育委員会

しばらく歩いていくと津志田信号の北西角に八坂神社と大国神社が並んである。この辺りはかつて津軽町とよばれた遊郭で繁昌し、大国神社には遊女や楼主たちが奉納した絵馬があるという。拝殿の献額を仰いでみたが見えたのは木地のみで、絵の痕跡も認められなかった。場所がちがったか。

川久保X字交差点 南仙北3丁目 盛岡市 岩手県
川久保X字交差点 南仙北3丁目 盛岡市 岩手県上:盛岡方面 左が旧街道 右は国道4号 右手に明治天皇小次遺跡

南仙北2丁目歩道橋に差しかかる。左手、歩道橋の手前に「川久保一里塚と稲荷街道」の説明板がある。左手後方に分岐する道が稲荷街道で、赤林、和味、松本の一里塚を経て志和稲荷神社に通じる16kmほどの参詣道である。天保5年(1834)13代藩主南部利済が日光街道を模して整備した。両側に土手を築き松並木を植えた。

歩道橋の先で道は二つに分かれ国道は右へ、旧街道は県道16号となって左方を直進する。国道側駐車場の端に小祠に並んで明治天皇小次遺趾の碑がある。

小鷹処刑場供養塔 南仙北1丁目 盛岡市 岩手県
小鷹処刑場供養塔 南仙北1丁目 盛岡市 岩手県当地は江戸時代南部藩藩治300年の間小鷹の御仕置場と称し罪人を処刑した場所である。以下略 平成15年4月8日 北山法華時25世普照院日観

旧道を進み、左手CINビルの手前に小鷹処刑場供養塔がある。天保7年(1836)、小鷹刑場で処刑された罪人を供養するために北山法華寺により建立された。

志波城跡 下太田方八丁 盛岡市 岩手県
志波城跡 下太田方八丁 盛岡市 岩手県

仙北3丁目の大きな交差点で街道をはなれて西に4kmの志波城古代公園に寄ることにした。広い道はすぐに東北本線と新幹線をくぐり国道46号となって西進する。イオンショッピングセンターを過ぎたあたりで左斜めの道に入り、右手に大宮神社をみて飯岡十文字交差点で県道13号を横切る。200mほどいくと中央の櫓門の両翼に暖色の長い築地塀をめぐらせた志波城がみえてきた。途中であった通り雨が古代の情景に色を添えるかのように、虹が城柵の空をかざっていた。あの門を通って蝦夷が金・馬・漆・海藻・魚介類などを携えて朝貢にやってきた。

志波(しわ)城跡 下太田方八丁 盛岡市 岩手県
志波(しわ)城跡 下太田方八丁 盛岡市 岩手県城柵とは、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の二代政策(東北経営と平安京造営)の一として、蝦夷とよばれた東北地方の住民を統治するために設置された行政府(役所)です。志波城は、律令政府の陸奥国最北端の城柵として延暦22(803)年に築かれ、和我・稗縫・斯波の三郡を統治していました。そして、設置後約10年で、雫石川の氾濫を理由に、その役割を に移しました。

正門である外郭南門から城内に入る。築地塀にあごを乗せるように等間隔に櫓が建つ。この何の装飾も無い素朴な土と木の建造物は、律令政府の陸奥国最北端の城柵として延暦22(803)年に築かれた。しかし北を流れる雫石川の氾濫で、志波城は10年という短命で終わり、役目を徳丹城に譲ることとなる。内には古代米が栽培されていて今年初収穫を迎えていた。案山子も古代人の衣装を身に着けている。田の世話をしていたおじさんに話しを聞いた。黒紫色の稲穂を眺めながら、実のつき方が悪いとなげいた。「今年は冷夏でしたからね」と話をむけると「土があわないんだ」という。

柵内では時が流れていない。空気までもとまっているようにみえる。いつまでもこのまま居たい衝動にかられた。多賀城(721年)にはじまり、胆沢城(802年)そして最後の徳丹城(812年)を見てきたが、いずれでも跡地を示す石碑があるだけで、復元遺構をみたのは志和城だけである。そして朱塗りの政庁が復元されていなかったのがかえって古代の夢を膨らませるのに幸いした。4kmの寄り道の甲斐があった。

夢からもどって街道に向かう。

新山河岸跡 仙北1丁目 盛岡市 岩手県
新山河岸跡 仙北1丁目 盛岡市 岩手県
船橋・明治橋跡、新山河岸跡 仙北1丁目-南大通3丁目 盛岡市 岩手県
船橋・明治橋跡、新山河岸跡 仙北1丁目-南大通3丁目 盛岡市 岩手県

藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であったことから、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所でした。 北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しでしたが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設されました。 舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5~6……

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藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であったことから、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所でした。 北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しでしたが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設されました。 舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5~6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」にしました。 舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続しました。 平成17年3月 盛岡市教育委員会 * 「明治橋」の石碑は明治期の木橋中央の中島に建立されていたものです。

仙北町にはいる。南部時代、秋田の仙北地方から移住してきた人々の町である。北上川に架かる明治橋の手前で旧道は右に入って河岸に出た。SAKURAビルの北側の路地を入り長ま松寺墓地の北縁をたどっていくと右手にケヤキと文政2年(1819)の湯殿山供養塔、高屋稲荷神社が寄り添っている。そのさきを右におれて狭い民家の間を抜けて北上川堤防にでる。延宝8年(1680)頃ここに新山舟橋が架けられ、明治7年(1874)になって木橋(旧明治橋)にかわった。橋の下手には新山河岸が開かれ周辺には御番所、舟宿、制札場、御蔵などが立ち並び、北上川舟運の起点として繁昌を極めた。河岸跡に残る板壁の民家に往時の面影をを偲ぶことができる。

徳清倉庫(株) 仙北1丁目 盛岡市 岩手県
徳清倉庫(株) 仙北1丁目 盛岡市 岩手県

今は少し上流の明治橋をわたる。交差点角にある徳清倉庫は分厚い漆喰塀の内に幾つもの土蔵が配された立派な建物である。慶安年間(1650年代)盛岡近郊の徳田村出身の清右衛門が開いた商家で、酒・味噌・醤油の醸造業を営む傍ら米屋としても南部藩の米蔵となった豪商である。盛岡城解体時に払い下げを受けた御殿座敷が移築されているという。外部からは高い塀にさえぎられて土蔵の屋根を望むのが精一杯であった。

御蔵(下町資料館) 南大通3丁目 盛岡市 岩手県
御蔵(下町資料館) 南大通3丁目 盛岡市 岩手県

この付近は藩政時代には、新山河岸と呼ばれ、御番所、舟宿、御蔵などが建ち並び、北上川舟運の要衝として栄えた。また、奥州街道筋にあたり、北上川本流には舟橋が架けられ、両岸と中島の大黒柱に舟を鉄鎖で繋留し、舟上に厚く大きな板を敷き並べて人馬の往来を許した。 この御蔵は、旧藩時代の面影を伝える数少ない現存の建物であるが、建造年代は未詳である。 たびたび大飢饉にみまわれた盛岡藩は、嘉永3年(1850)城下に……

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この付近は藩政時代には、新山河岸と呼ばれ、御番所、舟宿、御蔵などが建ち並び、北上川舟運の要衝として栄えた。また、奥州街道筋にあたり、北上川本流には舟橋が架けられ、両岸と中島の大黒柱に舟を鉄鎖で繋留し、舟上に厚く大きな板を敷き並べて人馬の往来を許した。 この御蔵は、旧藩時代の面影を伝える数少ない現存の建物であるが、建造年代は未詳である。 たびたび大飢饉にみまわれた盛岡藩は、嘉永3年(1850)城下にお布令を出し、飢饉に備えて備穀を奨励した。この制度は半官半民の体制で運営され、当初は何箇所かに分散して保管していたが、安政3年(1856)になると一括してこの御蔵に溜穀を貯えることになったといわれている。 昭和62年3月に盛岡市の保存建造物に指定した。 平成元年3月 盛岡市

明治橋を渡って土手を右に行くと明治橋碑と舟橋跡の説明板がある。舟橋は両岸に親柱を建て川に並べた小舟を鉄鎖で繋留し、舟上に厚く大きな板を敷き並べたものである。土木工学上架橋が難しい箇所や、軍事防衛上常設の橋が好ましくない街道筋に利用された。新山河岸は明治22年東北本線盛岡駅が出来るまで活躍した。当時の盛岡藩御蔵の一棟が左土手下に「下町史料館」として保存されている。さすが藩蔵だけあって商家の土蔵にくらべるとスケールが大きい。

民家 南大通2丁目 盛岡市 岩手県
民家 南大通2丁目 盛岡市 岩手県

新山舟橋を渡った奥州街道はここから御蔵の西側の道を通って明治橋北交差点を鋭角に右折する。右に円光寺がある。沿道には格子造りの古い建物が残りこれまでの市街化された道中とは異なった景観をみせはじめた。いわばオールドタウンにはいった感がある。先に言ってしまうが、「みちのくの小京都」と呼ばれる盛岡には見所が多い。以下、奥州街道を本筋としながらも興味本位の市内観光的な歩きとなる。できるだけ手短に数多くカバーしようと思う。テーマは南部藩と近江商人と石川啄木である。

旧遠野街道起点 鉈屋町3 盛岡市 岩手県
旧遠野街道起点 鉈屋町3 盛岡市 岩手県

円光寺前の通りを突き当たると奥州街道は左折して北上する。右方向の道を覗いてみると風情ある町屋が軒を連ねている。ここが遠野街道の起点である。遠野街道はこの先、南大橋東詰めで国道396号となって約65kmの道のりを経て民話の故郷遠野に至る。勿論いつかは遠野まで歩く予定であるが、待ちきれず最初の300m余りをかじってしまった。

旧遠野街道 家並 鉈屋町3 盛岡市 岩手県
旧遠野街道 家並 鉈屋町3 盛岡市 岩手県

城下盛岡町名由来 鉈屋町(なたやちよう) むかし、京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院という寺を建てたのが町名の起りである。むかしの鉈屋町には、 水主(かこ)町、十文字、下町、お鷹道などがあった。水主というのは、北上川の水辺の舟や、舟橋の仕事をしていた。 また、殿さまの飼っている鶴に食べさせる小ざかなをとる役もしていた。鉈屋町は、宮古万面、釜石万面、金山の大茅生(おおがゆ)などから……

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城下盛岡町名由来 鉈屋町(なたやちよう) むかし、京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院という寺を建てたのが町名の起りである。むかしの鉈屋町には、 水主(かこ)町、十文字、下町、お鷹道などがあった。水主というのは、北上川の水辺の舟や、舟橋の仕事をしていた。 また、殿さまの飼っている鶴に食べさせる小ざかなをとる役もしていた。鉈屋町は、宮古万面、釜石万面、金山の大茅生(おおがゆ)などからくる人の、はじめて盛岡に入る一本道だったので、ここでいろいろの買物ができることから、多くの大小の商売屋があった。大慈清水や清龍水は有名だが、この湧水は、冬は湯気が立つほど温かいので、神子田、仙北町方面から野菜をもって来て洗い、馬町の青物市場に出す人が多かった。 昭和51年11月 盛岡市

ここは鉈屋(なたや)町といい、京都の豪商鉈屋長清に由来する。遠野、釜石方面からは街道の終点、盛岡の入口にあたり、また裏には新山河岸が控える舟運の拠点でもあり、酒屋、米屋等商人が多く集まる場所であった。右手に格子造りの新しい商家がある。明治からの酒屋であった藤村家で、街並景観保存の趣旨に則って改修された。

大慈清水 鉈屋町4 盛岡市 岩手県
大慈清水 鉈屋町4 盛岡市 岩手県右手前から: 一番井戸(飲料水) 二番井戸(米とぎ場) 三番井戸(野菜、食器洗い場) 四番井戸(洗濯物すすぎ場)

その先に大慈清水とよばれる大規模な湧水井戸がある。車や自転車で水を汲みにくる人がいる。登り窯ならぬ下り井戸とでもいおうか、水源から4段に井戸がくぎられ上から順に、飲料水-米とぎ場-野菜、食器洗い場-洗濯物すすぎ場と使い分けられる。

斎坂製作所 鉈屋町10 盛岡市 岩手県
斎坂製作所 鉈屋町10 盛岡市 岩手県
旧遠野街道 鉈屋町 盛岡市 岩手県
旧遠野街道 鉈屋町 盛岡市 岩手県

街道沿いには更に格子造りの町屋が続き、遠野街道の心象が高まってくる。丁字路の角から金槌の音が聞えてきた。斎坂製作所の看板を掲げた鍛治屋だ。格子窓から漏れ出してくる煙が一層風情を引き立てる。炉が見える角度に窓が切ってあり、そこから一枚、赤くなった鉄を撮らせてもらった。

旧岩手川酒造第二工場 鉈屋町 盛岡市 岩手県
旧岩手川酒造第二工場 鉈屋町 盛岡市 岩手県
浜藤酒蔵(旧岩手川酒造第二工場跡地) 鉈屋町 盛岡市 岩手県
浜藤酒蔵(旧岩手川酒造第二工場跡地) 鉈屋町 盛岡市 岩手県

その隣も格子造りの建物で、土蔵に掛けられた看板には「岩井川酒造工場」とあった。浜藤第二工場として知られる。浜藤でしられる老舗の造り酒屋であったが、2006年突然自己破産して廃業となった。岩手県内一の規模を誇る酒蔵二棟が裏手に保存されている。なお明治橋手前、高屋稲荷神社の前に建っていた浜藤私邸は取り壊されて空き地になっている。

遠野街道の先食いはここまでとして市内観光に入ろう。

十六羅漢 茶畑2丁目 盛岡市 岩手県
十六羅漢 茶畑2丁目 盛岡市 岩手県

この地は、市内寺の下祇蛇寺の末寺宗龍寺のあったところで、境内に案置されている石像は十六羅漢像と五智如来像(大日如来、釈迦如来、多宝如来、阿弥陀如来、阿閦如来)の合計21体で丸彫りの巨石群として有名である。 南部藩の四大飢饉といわれる、元禄、宝暦、天明、天保の大凶作のとき多くの餓死者が出たが、その供養のために祇蛇寺十四世、天然和尚がこの石像の建設を発願し、南部領内から供養喜捨を得て、その浄財で天保8……

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この地は、市内寺の下祇蛇寺の末寺宗龍寺のあったところで、境内に案置されている石像は十六羅漢像と五智如来像(大日如来、釈迦如来、多宝如来、阿弥陀如来、阿閦如来)の合計21体で丸彫りの巨石群として有名である。 南部藩の四大飢饉といわれる、元禄、宝暦、天明、天保の大凶作のとき多くの餓死者が出たが、その供養のために祇蛇寺十四世、天然和尚がこの石像の建設を発願し、南部領内から供養喜捨を得て、その浄財で天保8年(1837)10月工事に着手した。 そして紫波郡飯岡山から石材を切り出し、藩の御用職人が3年間を要して、あら刻みをおこない、仙北町、青物町付近の若者達の奉仕で北上川を舟で運び、更に川原町、鉈屋町を経て宗龍寺に送り入れ、最後の仕上げをしたという。この運搬だけで半年を要したといわれ起工から13年目の嘉永2年(1849)6月、天然和尚の愛弟子にあたる仙北町長松寺十三世泰恵和尚のときにようやく竣工をみるに至った。 宗龍寺は、明治維新後、祇蛇寺に合併されて廃寺となったが、明治17年(1884)11月の大火で灰になり、現在は21体のこの石像群を残すのみとなったのである。

岩井川酒造工場のさきの丁字路を左折してらかん公園に向かう。永泉寺の先を右折しすぐ左折すると右手にらかん公園がある。宗龍寺があった所で、五智如来と十六羅漢の大きな石像21体がぐるりと公園のまわりを取り囲んでいる。南部藩四大飢饉(元禄・宝暦・天明・天保)の餓死者を供養するため1837年から12年をかけて刻まれた。

青龍水 大慈寺町4 盛岡市 岩手県
青龍水 大慈寺町4 盛岡市 岩手県

帰りは永泉寺の先を右折して大慈寺による。ここに原敬の墓がある。中国風の山門入口に「どんど晴れロケ地」「古い町並み・格子戸のある家を手がかりに韓国の人気スター・ジュンソが盛岡にいる恋人を捜すシーン」などと書いた宣伝碑があった。

通りをそのまま進んで行くとまたも大きな湧き水井戸がある。「青竜水」とよばれ絵馬を飾った立派な井戸である。大慈清水とともに平成の名水百選に選ばれている。

木津屋本店 南大通2丁目 盛岡市 岩手県
木津屋本店 南大通2丁目 盛岡市 岩手県

岩手県指定有形文化財 1.名 称 木津屋池野藤兵衛家住宅付土蔵 2.指定年月日 昭和五十八年四月二十六日 3.所在地 盛岡市南大通二丁目三-二十 4.説 明 木津屋は、国書改ざんの罪で盛岡に流罪(1635~1658)となった対馬藩の外交僧規伯玄方(方長老)を慕って山城国(現京都府)木津村から初代が移住し、寛永15年(1638)の創業から370年以上にわたる老舗です。建物の棟札には天保5年(1834……

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岩手県指定有形文化財 1.名 称 木津屋池野藤兵衛家住宅付土蔵 2.指定年月日 昭和五十八年四月二十六日 3.所在地 盛岡市南大通二丁目三-二十 4.説 明 木津屋は、国書改ざんの罪で盛岡に流罪(1635~1658)となった対馬藩の外交僧規伯玄方(方長老)を慕って山城国(現京都府)木津村から初代が移住し、寛永15年(1638)の創業から370年以上にわたる老舗です。建物の棟札には天保5年(1834)の建築となっており、現在も事務所として使用されています。 かつてこの付近には、城下の南の玄関口である があり、向かいには盛岡市中央公民館敷地内に移築された がありました。 主屋は平入り切妻造、現在大屋根は鉄板瓦棒葺きですが、本来は柾葺きで、外壁は白漆喰で仕上げ、うだつを立ち上げて防災に注意した造りとなっています。 店舗の正面を入ると客溜の土間は板の間(元は畳敷き)の「みせ」へつながり、正面西側道路に面する『通り庭』は主屋の裏手に建つ蔵まで続いています。 入念な防火構造は商家の特徴ですが、木津屋では焼失した場合でもすぐ再建できるように家屋一棟分の建築用材を準備していたといわれ、現在も一部はそのまま保存されています。 5.所有者 池野株式会社 平成21年3月 盛岡教育委員会

突き当りを左に折れて奥州街道にもどる。遠野街道起点より20mほど奥州街道を進んだところである。古い土蔵壁がみえる広大な敷地は木津屋本店である。山城国木津村から移ってきた池野藤兵衛家の建物で天保5年の建築である。南側からみた土蔵群は漆喰がはがれて荒れたようにみえたが、正面にまわってみると純白の土壁である。街道向かいには、岩手県宮守村の出身の豪商糸冶の商家があったが、重要文化財旧中村家住宅として盛岡市中央公民館内に移築された。

盛岡城警備惣門跡 南大通2丁目 盛岡市 岩手県
盛岡城警備惣門跡 南大通2丁目 盛岡市 岩手県左は木津屋本店 前方は旧遠野街道起点

塀を背にして「盛岡城警備惣門遺跡」の碑が立っている。ここに盛岡城の入り口南惣門があった。

旧奥州街道は南大通りを横断し、突き当たりの盛岡信用金庫の前を右折し、宿場街の中心部へと入っていく。

石鳥谷の南部杜氏にはじまって郡山での井筒屋の活躍など、南部は江戸につぐ近江商人の進出地で盛岡がその中心拠点となった。その元祖は高島大溝出身の村井新七で、慶長18年に開いた「近江屋」が高島商人の「わらじ脱場」となり、そこから「内和」と呼ばれる系列商店網がつくられていくようになった。村井(小野)権兵衛村井市左衛門を含めた三人が盛岡での近江商人の三始祖と呼ばれている。

盛岡市内ではすでに通ってきた遠野街道沿いの鉈屋町に「近藤」(近江屋藤兵衛)がいた。初代駒井藤兵衛は安曇川北船木の出。「村市」で修業し「井筒屋善助(善印)」の支配人を務めた後分家して鉈屋に酒造業を開いた。明治にはいってからは盛岡随一の千石酒屋と称されたという。五代目で酒造を廃し酒類小売業に転じた。現在の鉈屋町にそれらしき酒屋はみあたらなかった。

ここ肴町から上の橋町にかけては今も「三方よし」の末裔が商いを継承している。

まず栃内病院前から一筋南にはいった肴町アーケード商店街に現役の二軒を見つけた。栃内病院前でにわか雨にあい、偶然肴町商店街のアーケードをみつけて蕎麦屋で雨宿りがてらに昼食をとったのだが、そのときは近江商人のことなど考えていなかった。この二軒は事後調査でのことで証拠写真は撮っていない。

商店街の南入口から左手数軒目にある平金商店の祖、高島商人近江屋平野治郎兵衛は元禄末期に呉服町で南部藩の貨幣の鋳造を行なっていた。明和4年(1767) 近江屋平野治郎兵衛の三男平野治助が油町で酒造業を創業。天保年間(1830~1843)には御用商人の酒屋として隆盛したが、6代目の平野金八は明治12年、酒造業を廃し油町から十三日町に移転、墨・紙・硯など文具商を開業した。このとき酒蔵は盛岡に支店を開いたばかりの日詰郡山の伊勢屋(平井六右衛門)に譲った。明治21年、肴町に移り文房具類・紙・茶を販売する「平野金八商店」を開業した。現在、10代目平野佳則氏が事務機・OA機器販売の(株)平金商店の社長である。

その先十字路の郵便局向かいが村原薬局である。寛永18年(1641)高島郡大溝の薬種商「大塚屋」木村彌右衛門正則の孫、彌右衛門(初代村井彌右衛門)が大塚屋より分家し、大溝にて薬草商を開く。文政3年(1820) 六代目村井彌右衛門が盛岡中ノ橋角に出店「村井薬輔」をひらく。安政4年(1857)初代村井源之助が分家し肴町に移って古手商を開業、のち薬種舗「村源」を創業。現在の社長村井晃氏は6代目村源当主にあたる。なお、昭和39年(1964)村源商店から医薬品卸部門を分離して「村研薬品株式会社」が設立され村源商店は小売薬局にとなった。

旧第九十銀行本店本館 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県
旧第九十銀行本店本館 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県この建物は旧第九十銀行本店本館として明治43年(1910)12月に竣工しました。(中略)大正期にあらわれる表現主義建築の先駆けとされ、外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式、内部は直線的で平明かつ簡潔なゼツェッシオン式の影響がみられ、19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして、我国の近代建築史上重要な建造物と言えます。 平成17年3月 盛岡市教育委員会

街道(県道120号)にもどり、東に向かう。信号交差点角の大正時代の建物は旧第九十銀行本店本館で、明治43年の建築で国指定重要文化財である。第九十銀行は破綻し事業は岩手殖産銀行(現岩手銀行)に引き継がれた。現在は「啄木・賢治青春館」となっている。前に「呉服町、六日町」の町名由来説明板が立っている。呉服町には高島商人の血を継ぐ豪商が軒を連ねていた。

(抜粋) 当町には慶応4年(1868)の「南部家御用金被仰付(おおせつけらる)人員」番付によれば、西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋次郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。

耕作(旧小野) 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県
耕作(旧小野) 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県ごあんない 当店は、江戸末期に造られた土蔵で約百年の歴史をもち「維新の豪商」と謳われた、 小野組 の、数ある土蔵のうち現存する唯一の土蔵でございます。

「小野組最大の支店」とは小野組(本店は京都)の盛岡支店のこと。筋向いの「耕作」の土蔵はその小野組の現存する唯一の土蔵である。盛岡の高島商人三始祖の1人で南部杜氏の元祖、村井(小野)権兵衛は天和2年(1682)に郷里から兄小野善五郎の長男善助を呼び寄せ、元禄2年(1689)盛岡紺屋町に分家させ「井筒屋善助(善印)」を名乗らせた。これが小野組の祖である。井筒屋小野善助は上方からは木綿・古手などの雑品を南部にもたらし、砂金・紅花・生糸などを持ち下って陸羽地方との交易を拡大、京・江戸・盛岡を拠点に一大財閥を築いた。7代目小野善助(1831~1887)の時、三井組、嶋田組とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで新政府に加担した。明治6年には三井組と第一国立銀行を創設したが、明治7年政略によって破産に追い込まれた。

小野組破産後も小野系統の活躍は絶えていない。嘉永7年(1854)呉服町にて豪商小野組の支流芳野屋の子として生まれた小野慶蔵は明治5年(1872)18歳で京都に出て修業、明治7年小野組の破産後盛岡に帰郷して金銀・株売買業で財産を成した。その後盛岡市第一期市会議員となった他、第九十国立銀行重役のまま岩手殖産銀行(現岩手銀行)を設立するなど、金融へ深く関わっていった。

近江屋市左衛門(村市)は三始祖の一人、村井市左衛門(幼名を市助、長じて孝寛(浄甫))が開いた店である。寛永10年(1633)村井源太郎の子として大溝に生まれた。万治元年(1658)兄の村井源太郎が住む盛岡に移り呉服町に店を構え質屋を営みながら事業を拡大していった。「村市」の分家した一族には村井清八(近清)、村井源兵衛(本町)、村井市右衛門(高市)などがあり、暖簾分家は非常に多く、材木町の近江屋伝兵衛(近伝のちに近勘)、鉈屋町の近江屋藤兵衛(近藤)、紺屋町の鍵屋茂右衛門(茂兵衛の先祖)などの有力商人を輩出した。現在当主村井宏氏は13代目で、岩手県滋賀県人会会長をつとめる。2004年、夫妻の手で同家の古文書「村市文書」が刊行された。

岩手銀行旧本店本館 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県
岩手銀行旧本店本館 中ノ橋通1丁目 盛岡市 岩手県

重要文化財 岩手銀行旧本店本館 (現中ノ橋支店) 平成六年十二月二十七日指定 この建物は旧盛岡銀行として明治44年4月に竣工しました。設計者は日本銀行本店、東京駅などを手掛けた明治洋風建築界の権威、辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士の両氏の手によるもので「赤レンガ」の愛称で親しまれています。 構造等は、一部三階建てとなっておりその延床面積は千二十平方メートルに達し煉瓦組積造のルネッサンス様式で……

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重要文化財 岩手銀行旧本店本館 (現中ノ橋支店) 平成六年十二月二十七日指定 この建物は旧盛岡銀行として明治44年4月に竣工しました。設計者は日本銀行本店、東京駅などを手掛けた明治洋風建築界の権威、辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士の両氏の手によるもので「赤レンガ」の愛称で親しまれています。 構造等は、一部三階建てとなっておりその延床面積は千二十平方メートルに達し煉瓦組積造のルネッサンス様式で統一されております。 中略 建築当時の姿を完全な形で伝え、かつ現在も創建当初の目的で使用されている建物の重要文化財指定は、全国で最初のものであります。 所有者 株式会社岩手銀行

中ノ橋交差点には旧東京駅に似た赤レンガの建物が堂々と構えている。旧盛岡銀行本店で、岩手銀行の本店を経て現在は同行中ノ橋支店として使われている。明治44年の建築で国指定重要文化財である。東京駅と同じ辰野金吾博士が設計した。この付近が高札場で、盛岡宿の中心だった。

盛岡城址公園 内丸 盛岡市 岩手県
盛岡城址公園 内丸 盛岡市 岩手県
本丸跡 盛岡城址公園 内丸 盛岡市 岩手県
本丸跡 盛岡城址公園 内丸 盛岡市 岩手県

中ノ橋をわたって盛岡城跡をたずねる。城跡全体が岩手公園となっていて、宮澤賢治の詩碑や石川啄木の歌碑がある。石垣が残る坂道を上がって本丸跡に着く。跡地の中央を銅像のない立派な台座が占めていた。台座には南部家42代南部利祥の騎馬銅像が建っていたが太平洋戦争で供出された。

茣蓙九 紺屋町1 盛岡市 岩手県
茣蓙九 紺屋町1 盛岡市 岩手県この建物は、江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物である。盛岡市

中ノ橋から街道にもどる。なだらかな曲尺手の曲がり角に長々とした風情ある町屋が佇んでいる。「茣蓙九(ござく)」といわれ文化13年(1816)に創業した沢井屋九兵衛の商家である。格子造りの母屋の店先には竹箒、熊手、茣蓙、巨大なタワシなどが立てかけられて、時代を間違えたかと錯覚を起こさせそうな一角である。建物は江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てましていったもので、街道沿いの数棟がそれぞれ異なった趣を見せている。沢井屋九兵衛は地元の商人か、情報がない。現在は森家の経営らしく、森九商店となっている。

紺屋町4 盛岡市 岩手県
紺屋町4 盛岡市 岩手県

「与の字橋」交差点も魅力ある一角だ。右角は老舗の白沢せんべい店、左角には大正2年建築の紺屋町消防番屋がある。木造洋風建築で、中央に屋根を突き破って六角柱の瀟洒な望楼(ぼうろう)が木造灯台のごとくにそびえている。

その隣の森八商店も古い格子造りの町屋である。森九商店と縁のありそうな名前だ。

菊の司酒造 紺屋町5 盛岡市 岩手県
菊の司酒造 紺屋町5 盛岡市 岩手県

城下盛岡町名由来 紺屋町、鍛冶町、紙町 慶長年間に、盛岡城下には、上、中、下の中津川三橋が架けられた。そして上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。 この町並みには、幕未ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣蓙九)、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈……

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城下盛岡町名由来 紺屋町、鍛冶町、紙町 慶長年間に、盛岡城下には、上、中、下の中津川三橋が架けられた。そして上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。 この町並みには、幕未ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣蓙九)、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねて盛岡城下における主要な商店街となっていた。いまも紺屋町の茣蓙九の店構えには、むかしの盛岡の古い面影がある。また、ここの道路は、藩政時代の奥州街道の要路にあたっていた。 当時の奥州街道は、穀町の惣門を入ってここを通り、上の橋を渡って本町から上田方面に向かっていた。そこで鍛冶町の中程には道標があり、それを起点として藩内四方への里程を測ったものだった。昭和五十三年十一月 盛岡市

その先左手に「菊の司酒造」がある。元和年間(1615~1623)伊勢松阪から郡山に移った初代平井六右エ門が伊勢屋を開き二代目六右衛門のとき八戸藩の御用商人として「御蔵宿」の宿元を勤める。その後、安永年間(1772~1778)に六代目六右衛門が酒造業を始めた。明治初年には盛岡に支店を開設、昭和2年に酒造工場を郡山から盛岡に移転。平成17年度まで「七福神」は石鳥谷の七福神工場でつくられていたが現在は菊の司工場に集約された。

酒蔵の前に「城下盛岡町名由来 紺屋町、鍛冶町、紙町」の説明板がある。中津川に架けられた上ノ橋から中ノ橋にかけて、上流から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられ、幕未ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣蓙九)、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねていたという。鍵屋、井筒屋、大塚屋は小野・村井系の高島商人である。

鍛冶町一里塚跡 紺屋町5 盛岡市 岩手県
鍛冶町一里塚跡 紺屋町5 盛岡市 岩手県城下町鍛冶町は奥州道中筋の宿駅である。慶長期(1596~1615)の築造とみられるこの鍛冶町一里塚は、領内諸道の里程を計測する基点で、交通史跡として重要である。 この一里塚には、もと石の標杭があったが、文化(1804~)初年頃に撤去されたと伝えられている。

紺屋町バス停の先、左手マンションの前に鍛冶町一里塚跡の碑がある。江戸日本橋から139里目にあたる。説明板に「城下鍛冶町は奥州道中筋の宿駅である」と書かれているように、中ノ橋から上ノ橋にかけて奥州街道盛岡宿の中心であった。

旧井弥商店 上ノ橋町1 盛岡市 岩手県
旧井弥商店 上ノ橋町1 盛岡市 岩手県この建物は、明治末期に井弥商店店舗として建てられたもので、明治時代を代表する土蔵造りの建物である。 盛岡市

突き当たりの上ノ橋三差路の右向かいに重厚な黒漆喰土蔵造りの商家がある。裏にもきれいな白漆喰の土蔵がならぶ。現在は盛岡正食普及会の店になっているがもとは高島商人、村井弥兵衛の井弥商店である。村井弥兵衛は小野井筒屋(善印)の支配人から独立して天保3年(1832)太物・呉服商をはじめ、氏と名を一字ずつとって屋号を「井弥」と定めた。明治中頃、三代弥兵衛は紙、醤油、味噌を商って財をなし岩手県内一位の多額納税者となっている。初代の盛岡市議、盛岡銀行頭取も務めている。世界大恐慌の影響をうけて昭和5年に破産。その後(株)井筒屋として不動産業、健康食品の製造に転じた。

上ノ橋擬宝珠 本町通1丁目1 盛岡市 岩手県
上ノ橋擬宝珠 本町通1丁目1 盛岡市 岩手県慶長2年(西暦1597)南部第27世利直新南部藩政の首都として盛岡城下を建設し、その拡大発展の第一橋として慶長14年創建したものである。この擬宝珠は京都二条大橋に範をとり創建者の名を刻し後世の基とした。作風は正しく当時の工芸技術の最高位を示すものとして昭和20年国の重要美術品に指定された。昭和42年3月 盛岡市
中津川 上ノ橋より中ノ橋方面 盛岡市 岩手県
中津川 上ノ橋より中ノ橋方面 盛岡市 岩手県

上ノ橋を渡る。慶長14年(1609)に架けられたものである。京都二条大橋を模して青銅製の擬宝珠で欄干を飾った。菊の紋章をあしらあった品格ある工芸品である。当時の工芸技術の最高位を示すものとして国重要美術品に指定されている。

橋をわたると本町通りとなるが旧名は京町(後、本町)で、城下町建設当初京都方面から多くの商人、職人が招聘された。その中の一人が盛岡近江商人の元祖である村井新七である。新七はここに近江屋を開き、故郷高島からやってきた若者のわらじ脱ぎ場となって盛岡における高島商人の拠点となった。

小本街道分岐点 本町通り交差点 盛岡市 岩手県
小本街道分岐点 本町通り交差点 盛岡市 岩手県是よりは小本街道 牛追のみち

本町通り信号で国道455号と交差する。北西角に「是よりは小本街道 牛追のみち」と刻まれた石碑がある。小本街道は内陸の盛岡と沿岸の小本を結ぶ重要な交易路であった。盛岡から藪川―(早坂峠)―角―袰綿(ほろわた)―岩泉―小友(乙茂)―中島を経て小本に至る。早坂峠という険しい難所を越えて100kmの道を、牛方たちは野宿をしながら塩を運ぶ牛を追った。小本街道は「塩の道」、「牛追いの道」、そして「南部牛追唄発祥の地」である。

早坂峠に建つ「牛追いの道」碑文を引用する。

牛追いの道(旧小本街道)

盛岡城下の本町地内で、奥州道中から分岐して北東方面に進む道筋は、油町惣門、下小路、山岸町、御弓丁桝杉などを通過して城下と分かれ、その先、名乗り坂(以上、盛岡市)、明神山、藪川(以上、玉山村)などを経由し、早坂峠を越えて下閉伊郡に入り、さらに、門、袰綿、岩泉、などを経て乙茂(小友)から小本(以上、岩泉町)へと通じている。この道筋が小本街道と呼ばれていたものであるが、その途中では、閉伊街道、野田街道などの呼称も使われていた。

この旧街道は、沿岸北部と盛岡などの内陸を結ぶ、重要な物流・交易の道であり、季節によっては一日六十から七十頭もの牛が往来したという。沿岸からは塩、海産物、鉄などを運び、盛岡などでコメ、アワ、ヒエ、マメ等の穀類や雑貨と交換した。特に、塩はその中心で、「塩一升、米一升」で交換された。

しかし、この塩の行商の道中は、牛方にとって決して楽な道程ではなかった。途中、野宿もしなければならず、病気や怪我、熊や狼の危険や、道の険しさなど命懸けの旅であった。なかでもこの地、岩谷から末崎までの早坂峠は、追われるコティ(雄牛)にとっても、追う牛方にとっても難所中の難所であった。

そのような情景を思い浮かべながら牛追い唄を聞いてみよう。

田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー 西も東もサーハーエ 金の山 コラサンサエー

今度来る時サーハーエ 持って来てたもれヤー 奥の深山のサーハーエ なぎの葉を コラサンサエー

さても見事なサーハーエ 牛方浴衣ヨー 肩に籠角(かごつの)サーハーエ 裾小斑(すそこぶち) コラサンサエー

沢内三千石サーハーエ お米の出どこヨー つけて納めたサーハーエ お蔵米 コラサンサエー

沢内三千石サーハーエ およねの出どこヨー 枡で計らねでサーハーエ 箕で計る コラサンサエー

肥えた牛(べこ)コにサーハーエ 曲木(まげき)鞍コ置いてヨー 金の成る木をサーハーエ 横づけに コラサンサエー

江刈葛巻サーハーエ 牛方の出どこヨー いつも春出てサーハーエ 秋もどる コラサンサエー

大志田羊歯(しだ)の中 サーハーエ 貝沢野畑ヨー まして大木原(おぎはら)サーハーエ 嶽の下 コラサンサエー

牛よ辛かろうサーハーエ 今ひと辛抱ヨー 辛抱する木にサーハーエ 金がなる コラサンサエー

サンサ羊歯の中サーハーエ 萱野の兎ヨー 親が跳ねればサーハーエ 子も跳ねる コラサンサエー

一の先達はサーハーエ すだれと小斑ヨー それの後たちゃサーハーエ 裾小斑 コラサンサエー

小本街道にはいってすぐの大泉寺あたりからは寺町通りと呼ばれ、盛岡城下町建設当時南部藩各地から移転してきた寺がここに集められた。日本の道百選にも選ばれているしっとりとした風情ある道である。

三ツ石と鬼の手形 三石神社 名須川町2 盛岡市 岩手県
三ツ石と鬼の手形 三石神社 名須川町2 盛岡市 岩手県

伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近の住民をなやまし旅人をおどしていました。そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけました。鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。 この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、又鬼が再びこないことを誓……

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伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近の住民をなやまし旅人をおどしていました。そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけました。鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。 この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、又鬼が再びこないことを誓ったのでこの地方を「不来方(こずかた)」と呼ぶようになったと伝えられています。 鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も幾日も踊り、神さまに感謝のまごころを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源といわれています。

東顕寺の隣に三つの巨大な岩を祀る三ツ石神社がある。鬼の手形をこの岩に押させたことが「岩手」の由来となった。説明板には岩に手形が残っているかについて触れていないが、写真をながめていると岩面になんとなくそれらしき凹凸があるように見えてくる。三ツ石はまた、「不来方(こずかた)」「さんさ踊り」の起源ともなった由緒深き石である。

その先、宮沢賢治ゆかりの清養院と、石川啄木縁の龍谷寺が並んである。いずれの寺も大きくない。賢治が盛岡中学校(現盛岡一高)4年の時、寄宿舎の舎監排斥騒動で寮を追われ卒業までの1年間を清養院をはじめとして寺町の寺院を転々と下宿した。

羅漢堂 報恩寺 名須川町 盛岡市 岩手県
羅漢堂 報恩寺 名須川町 盛岡市 岩手県

報恩寺五百羅漢 鳩峰山報恩寺は、旧盛岡藩における曹洞宗の名高い寺である。五百羅漢は当寺第17世曇樹一華が願主となり享保16年(1731)から造立をはじめ同20年(1735)8月20日、落慶供養をいとなんだものである。尊像制作者は、京都の仏師法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人。 このように短期間に完成し、しかも木彫で、五百羅漢の数値にかなうような体数が現存し、造立年代や願主、制作者まで明……

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報恩寺五百羅漢 鳩峰山報恩寺は、旧盛岡藩における曹洞宗の名高い寺である。五百羅漢は当寺第17世曇樹一華が願主となり享保16年(1731)から造立をはじめ同20年(1735)8月20日、落慶供養をいとなんだものである。尊像制作者は、京都の仏師法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人。 このように短期間に完成し、しかも木彫で、五百羅漢の数値にかなうような体数が現存し、造立年代や願主、制作者まで明確に知りうることは全国的にみてもまれなことである。昭和41年10月18日、盛岡市文化財指定。現存の羅漢堂は、嘉永4年(1851)7月20日の再建。昭和45年2月25日、盛岡市文化財指定。

龍谷寺の住職に啄木の母方の伯父対月がいた。対月の弟子であった啄木の父は、対月の妹カツと結婚した。啄木はよくこの寺を訪れ、対月から詩歌の手ほどきをうけた。

龍谷寺の北側の路地にはいって左手にある山門の立派な報恩寺には木造の五百羅漢がありその中にマルコポーロとフビライの像が混じっているというので訪ねていったが、保管されているという海鼠壁土蔵造りの羅漢堂は5分前の4時で閉まっていた。

旧中村家住宅 愛宕町14 盛岡市 岩手県
旧中村家住宅 愛宕町14 盛岡市 岩手県

中村家は、18世紀中頃から続いた呉服商で屋号は「糸治」または「糸屋」と呼ばれ盛岡で屈指の豪商でした。この建物は藩政末期に建てられたもので東北地方では数少ない現存の町屋です。構造意匠とも、この時代の特色がよくみられ、以前は、 に所在していたが、昭和49年3月現在地に移転復原したものです。また建物とこれに開運した資料は昭和46年、現当主中村七三氏から盛岡市に寄贈されました。建物(主屋、土蔵二棟)は、昭……

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中村家は、18世紀中頃から続いた呉服商で屋号は「糸治」または「糸屋」と呼ばれ盛岡で屈指の豪商でした。この建物は藩政末期に建てられたもので東北地方では数少ない現存の町屋です。構造意匠とも、この時代の特色がよくみられ、以前は、 に所在していたが、昭和49年3月現在地に移転復原したものです。また建物とこれに開運した資料は昭和46年、現当主中村七三氏から盛岡市に寄贈されました。建物(主屋、土蔵二棟)は、昭和46年12月28日付国の重要文化財に指定されています。 規模 建物総面積 430.11㎡

寄り道の足を更にのばして国道4号愛宕町交差点から市中央公民館内にある中村家住宅を見に行く。鉈屋町の木津屋本店向かいに建っていたものである。呉服商「糸治」の商家で、建文久元年(1861)に建てられた。主屋は右端から左端まで、上から下まで見事な格子づくめである。白壁のウダツをあげている。

茣蓙九 紺屋町1 盛岡市 岩手県
茣蓙九 紺屋町1 盛岡市 岩手県

さて、盛岡市内観光の最後をかざる石割桜啄木新婚の家光原社、そして源氏物語にでてきそうな夕顔瀬橋は奥州街道の南西側にある。愛宕町交差点から中津川右岸に沿って市役所前まで下る。ここから望む中津川対岸の景観が市内随一なのだそうだ。茣蓙九の裏側にあたる。長い土蔵の瓦屋根と土壁、その端を袖で隠す柳の枝葉。堤防の石積み、岸辺の草と川面、すれ違う人と自転車。これで充分であろう、背後のコンクリート造りは見なかったことにした。

石割桜 内丸9 盛岡市 岩手県
石割桜 内丸9 盛岡市 岩手県

この敷地は盛岡藩の家老であった北家の屋敷跡であり、庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、成長とともに石の割れ目をおし広げていいったものと言われている。石は花崗岩で周囲が21.0m、桜はエドヒガン(花色からシロヒガンともいう)で樹齢は350~400年と推定される。現在幹の周囲は、4.6m、樹高11.0m、枝張りは東西に16.0m、南北に17.1mである。石の割れ目は、北側南側ともに少しずつ広がっ……

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この敷地は盛岡藩の家老であった北家の屋敷跡であり、庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、成長とともに石の割れ目をおし広げていいったものと言われている。石は花崗岩で周囲が21.0m、桜はエドヒガン(花色からシロヒガンともいう)で樹齢は350~400年と推定される。現在幹の周囲は、4.6m、樹高11.0m、枝張りは東西に16.0m、南北に17.1mである。石の割れ目は、北側南側ともに少しずつ広がっている。大正12年、国の天然記念物に指定され現在に至っている。

市役所前から官庁街の広い中央通りを西に進む。裁判所の門を入った前庭に石割桜がある。かまぼこ型の巨石の中央を真っ二つに割って樹齢400年という桜の古木が今も割れ目を押し広げているというからすごい。たまたま石の割れ目に飛び込んできた桜の種が育ったのだという。どちらも痛々しい様子に見えた。

啄木新婚の家 中央通3丁目 盛岡市 岩手県
啄木新婚の家 中央通3丁目 盛岡市 岩手県

詩人石川啄木は、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で彼らと遊んで滞在すること10日におよんだ。その間、盛岡市帷子小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に……

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詩人石川啄木は、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で彼らと遊んで滞在すること10日におよんだ。その間、盛岡市帷子小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友上野宏一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がおこなわれた、それがこの家である。 仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの家に顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳。 この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明滅」、「この心」の作がある。 啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野硯町四番戸に転居した。 現在、盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけである。

中央通り2丁目信号を越えて道がやや右にまがるところ、右手奥に石川啄木新婚の家が保存されている。生誕の家、終焉の場所はいろいろと見てきたが新婚の家とは初めてである。いささか覗き趣味の恥じらいを感じないわけではない。萱葺屋根はトタン板で覆われているが、建物は江戸時代末期の同心屋敷である。家の中も建具も昭和時代の民家とかわらないほどにモダンな印象を受けた。中学時代(今の高校時代)の恋人とこの家の4畳半の部屋で新婚最初の3週間を過ごした。父母と妹も一緒の五人住まいだったからさぞかし窮屈であったろうと、同情しながら部屋中を覗きまわって家を出た。

光原社 材木町 盛岡市 岩手県
光原社 材木町 盛岡市 岩手県

中央通りの次の交差点を左折、北上川に架かる旭橋手前から右に延びる小奇麗な商店街が材木町である。入口角にある駐車場の名が「近勘」。祖は高島大溝の福井清右衛門で、宝永元年(1704)盛岡呉服町「村市」へ奉公に上がった。嗣子がなく岡田伝右衛門を養子に迎えた。伝右衛門も村市に奉公し支配人まで勤め上げて享保20年(1735)暖簾分けをうけ、材木町に呉服店を開き、近江屋村井勘兵衛(近勘)を屋号としたものである。幕末には盛岡屈指の呉服商となる。明治に入り4代目村井勘兵衛は第九十銀行頭取を務める。大正期の当主は村井呉服店、分家には村井文治が営む近文商店光原社の隣にある。

現在民芸品店となっている光原社は元出版社で、大正13年(1924)花巻農学校に在職中の宮澤賢治が「イーハトーブ童話 注文の多い料理店」を出版した。趣味の店にふさわしい落ち着いた中庭に賢治の碑がある。店の道向かいにも帽子を脇において足を組み通りを眺める賢治がいた。

鹿角街道分岐点 夕顔瀬橋西交差点 盛岡市 岩手県
鹿角街道分岐点 夕顔瀬橋西交差点 盛岡市 岩手県

商店街を通り抜けると左手が北上川に架かる夕顔瀬橋である。盛岡城下の西口にあたり材木町の北端に惣門が設けられ御番所が置かれていた。橋を渡った新田町には枡形があり秋田街道(県道1号)、鹿角(かづの)街道(県道220号)の起点となっていた。

岩手山・北上川・夕顔瀬橋 盛岡市 岩手県
岩手山・北上川・夕顔瀬橋 盛岡市 岩手県

夕顔瀬橋の歴史 夕顔瀬橋の歴史は、南部藩主南部重直の時代、明暦2年(1656)まで遡る。明和2年(1765)には、南部藩士大向伊織により、川の中央に中島と橋塚を築き、両岸から土橋が架けられたもので、関東以北に比類のない名橋と伝えられている。その後も、幾多の架け替えを繰り返し、平成4年まで利用されてきた橋は、内務省事業として昭和15年10月に完成し、戦時下において戦車も通れるという画期的な橋であった……

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夕顔瀬橋の歴史 夕顔瀬橋の歴史は、南部藩主南部重直の時代、明暦2年(1656)まで遡る。明和2年(1765)には、南部藩士大向伊織により、川の中央に中島と橋塚を築き、両岸から土橋が架けられたもので、関東以北に比類のない名橋と伝えられている。その後も、幾多の架け替えを繰り返し、平成4年まで利用されてきた橋は、内務省事業として昭和15年10月に完成し、戦時下において戦車も通れるという画期的な橋であった。その重厚なデザインは、盛岡の象徴である清流北上川と秀峰岩手山と相まって、杜の都を代表する景観として、多くの市民に親しまれてきた。ここに、平成5年2月の盛岡雫石アルペンスキー世界選手権大会を契機として、惜しまれながらも半世紀にわたる歴史をとじることになった。 以下略 平成5年1月 岩手県

橋上からの眺めが南北両方共に美しい。北は遠方にやさしい稜線を描く岩手山が美しく、南には北上川を挟んで整然とした現代の盛岡がある。橋の中央に据えられた石灯篭はもともと江戸末期に奉納された「岩鷲山御神燈」と呼ばれる高さ約3mの石灯籠のミニチュア版である。

北上川 夕顔瀬橋より南方 盛岡市 岩手県
北上川 夕顔瀬橋より南方 盛岡市 岩手県

橋の西袂に夕顔瀬橋の由来碑がある。源頼義が安倍貞任を滅ぼした前九年の役で、安倍軍は瓜に目鼻を描いた藁人形を武者に仕立て川原に並べるという作戦に出た。しかし柵は火攻めにあって武者人形は北上川に投げ込まれた。顔を描かれた無数の瓜が川面を漂ったという。「夕顔瓜(うり)」に因んで「夕顔瀬」とよばれるようになった。

ここで寄り道を終わる。街道の本町交差点までもどる。

四ツ家門跡 本町通3丁目 盛岡市 岩手県
四ツ家門跡 本町通3丁目 盛岡市 岩手県

街道は亀屋菓子店の交差点を右折、本町2丁目仁王小学校口交差点を左折するとすぐに曲尺手に差しかかる。本町2丁目と3丁目の境にあたり、左に四ツ家町公民館、右に三戸町公民館がある。ここが城下北口で四ツ家惣門があり番所が置かれていた。角に大きな赤衣をかけた恰幅のある大智田中地蔵尊(愛称、四ツ家地蔵)がいる。地蔵堂の裏側は一段下がった低地になっていて、「赤川堰跡」の標石があった。盛岡城の外堀跡である。

その先山田線の上田踏切をわたり上田町に入る。真直ぐに伸びる道のところどころに街道筋を思わせる古い町屋が残っている。「上田組町」の町名由来版がある。

上田地区は,藩政時代には,岩手郡上田村と言い,「上田通り」三十一村のうちに組み込まれ、上田通り代官所の所管下にあった。上田組町は、盛岡城の外堀にあたる赤川堰付近から上田出口を経て,北方の奥州街道に接続する主要な幹線道路筋にあって、町内には五人の組頭 のもとに各組三十人ずつ、総勢百五十人の足軽が配置されていた。道路の両側には、茅葺屋根の足軽屋敷が建ち並び、家屋はほとんど同型のころどや(一軒家)で、屋敷の境はひば垣であった。「御組丁」とも言ったが、屋敷内にはぐみの木が多く植えられているところから、もじって「上田ぐみ町」とも言われた。寛保二年(1742)、南部藩は足軽を同心と唱えさせたことから、「御同心丁」とも言った。上田組町は、まっすぐ長い一本町で屋敷並みを過ぎれば、人家は疎らで東裏には正覚寺があり、西裏には覚山の地蔵尊に通ずる道があったが、いずれも広い田圃の中であった。

左手に盛岡第一高校がある。石川啄木、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治等が学んだ名門である。

道は目立たない程度に標高をあげ始めているのに気づく。一関以降北上川にそって比較的平坦な道をたどってきた。いよいよ街道は岩手・青森県境をめざして山地にむかい、北上川はその源に向かって遡上していく。今助走がはじまったところだ。

上田堤(高松の池) 高松1丁目 盛岡市 岩手県
上田堤(高松の池) 高松1丁目 盛岡市 岩手県

高松公園由来 高松の池は今から380余年前盛岡城下創建の際最初に造られた堤である。盛岡城築城以前は上田沼と称され、上中下の三段になっていた小沼には雑魚が多く、冬から春にかけて鶴・雁・鴨などが群棲し、また、芹・じゆん菜・蓮が生茂る湿源地になっていた。 南部藩主27代利直公になってこの沼に堤防を築き、池の水は上田一帯の水田化の用水源として利用された。 明治22年盛岡市が市制施行となると上田堤の公園化が……

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高松公園由来 高松の池は今から380余年前盛岡城下創建の際最初に造られた堤である。盛岡城築城以前は上田沼と称され、上中下の三段になっていた小沼には雑魚が多く、冬から春にかけて鶴・雁・鴨などが群棲し、また、芹・じゆん菜・蓮が生茂る湿源地になっていた。 南部藩主27代利直公になってこの沼に堤防を築き、池の水は上田一帯の水田化の用水源として利用された。 明治22年盛岡市が市制施行となると上田堤の公園化が進められ同39年には、日露戦争記念事業として市民の寄付によって吉野桜千数百本が植えられ、盛岡市の桜の名所となった。 大正の中頃、当時の市長北田親氏によって更に公園の築庭整備がなされ、名称を『高松の池』と改められた。 昭和24年に「市立高松公園」に指定され、更に平成2年4月「日本のさくら名所100選」に選ばれ四季を通じて市民の憩いの景勝地となっている。 盛岡観光コンベンション協会

国道4号を斜めに地下道でわたる。盛岡高松局付近に上田同心組町の桝形があった。右手に高松の池がある。盛岡城を築城するに当たって大規模な治水工事がおこなわれた。上田沼とよばれた湿原地に上田堤を築いてできたのが高松の池である。現在は桜の名所となっている。

上田一里塚 緑ヶ丘4丁目1 盛岡市 岩手県
上田一里塚 緑ヶ丘4丁目1 盛岡市 岩手県

高松4丁目交差点で広い車道に合流し、盛岡三高前を通って緑ヶ丘地区に入る。郊外の大規模住宅開発地域である。ショッピングセンター、カワトクの前に江戸から140番目、盛岡市中鍛冶町から最初の上田一里塚があり、その先数本の松並木の名残がある。塚木は若いが塚は原形をたもち立派である。

東黒石野にはいって道が右に曲がる所、家並みの最初が喫茶店(ル・テリエ)の手前に左に下りていく道がある。金網フェンスの開口部分から降りて、廃道止めのガードレールをすり抜けて十字路を直進し、五差路を右斜めにとって長坂とよばれる急坂を越えると県立博物館に至る。敷地内に移築されている重要文化財の旧佐々木家・藤野家住宅を見たかったが公園が工事中で入れなかった。

小野松一里塚 小鳥沢2丁目 盛岡市 岩手県
小野松一里塚 小鳥沢2丁目 盛岡市 岩手県

(前略)盛岡藩においては、盛岡城下の鍛冶町にある一里塚元標を中心にして、領内諸街道にそれぞれ一里塚を築造しており、奥州道中筋の一里塚は鍛冶町の元標を基点として北方へ、上田一里塚、小野松一里塚(当地点)そして笹平一里塚(玉山村地内)へと続いている。一里塚は元来、街道の両側にそれぞれ一基ずつ一対を築くことが原則であったが、当一里塚は、完全な形ではないものの西塚及び東塚の二基が保存されている。 平成13……

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(前略)盛岡藩においては、盛岡城下の鍛冶町にある一里塚元標を中心にして、領内諸街道にそれぞれ一里塚を築造しており、奥州道中筋の一里塚は鍛冶町の元標を基点として北方へ、上田一里塚、小野松一里塚(当地点)そして笹平一里塚(玉山村地内)へと続いている。一里塚は元来、街道の両側にそれぞれ一基ずつ一対を築くことが原則であったが、当一里塚は、完全な形ではないものの西塚及び東塚の二基が保存されている。 平成13年12月 盛岡市教育委員会

別荘地のような林間の道を進みドミニカン修道院入口を通り過ぎたあたりの右手に小野松一里塚がある。左にも塚が残っていることになっているが気づかなかった。右の塚は塚木こそないが、見事に円やかな伏椀形を見せている。

滝沢村滝沢松屋敷 岩手郡 岩手県
滝沢村滝沢松屋敷 岩手郡 岩手県手前:北上川四十四田ダム 遠方:岩手山

旧道はその北側で車道から分かれて細道に入る。四十四田ダムの入江を回り込んで元の車道に合流する。旧道はここでダムの底に消えた。合流点左手の小野松橋から見える岩手山が美しい。入江はダムの水位によって地面の水没と露出を繰り返し湿原にかえつつある。

笹平一里塚 玉山区門前寺笹平 盛岡市 岩手県
笹平一里塚 玉山区門前寺笹平 盛岡市 岩手県

旧街道は観音橋をわたって県道16号に合流し、快適な山道を北上、岩姫橋の手前で県道と分かれて右の道を行く。この道は小野松橋の先で湖底に消えた旧道が復活した道筋である。1kmほどいくと岩淵第二発電所のある笹平大橋に差しかかる。橋を渡った先にある笹平一里塚をさがす。左手道路下の民家の庭をかすめて川の方へ進んでいくと岸辺の林の中に潜んでいた。塚の形状がそれほど明確でなく、標識がなければ藪の一部とみていたかも知れない。民家の庭の窪地が旧道跡のようである。

渋民

明治天皇御小休之跡 玉山区門前寺 盛岡市 岩手県
明治天皇御小休之跡 玉山区門前寺 盛岡市 岩手県

街道の左が大きく開け高原と低い山並みの景色が広がっている。手前の街道沿いはなんのことはない、産業廃棄物最終処分場であった。その道向かいに明治天皇御小休之碑が建っている。

岩手山 門前寺柏木平 玉山区 盛岡市 岩手県
岩手山 門前寺柏木平 玉山区 盛岡市 岩手県
姫神山 門前寺柏木平 玉山区 盛岡市 岩手県
姫神山 門前寺柏木平 玉山区 盛岡市 岩手県

街道はその先で新幹線のトンネル上を通過して下り坂となり、右に曲がっていく車道と分かれて直進し、真直ぐな道を柏木平集落に入って行く。集落をぬけたあたりに開田10周年記念碑がある。ラベンダーの紫が沿道を飾って、収穫を待つ黄金の稲田と稲掛けが並ぶ刈田が広がる。遠くには西に岩手山が、東には神姫山が美しい円錐の峰から緩やかに流れる両翼を広げている。その間に絶景をさえぎるものが何も無い。しばしたたずんで美しい日本の原風景の中に身をゆだねた。

ふるさとの山に向かいて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 啄木

渋民一里塚跡 渋民狐沢60 玉山区 盛岡市 岩手県
渋民一里塚跡 渋民狐沢60 玉山区 盛岡市 岩手県

県道169号に合流して濁川を渡るとようやく渋民地区にはいる。すぐに左に曲がっていく県道と分かれて旧道は盛岡工業団地の中を通り抜ける。国道4号バイパスを潜って渋民集落に近づいたころ、右手の電柱脇に渋民一里塚跡の標柱が立っている。

愛宕清水 渋民愛宕 玉山区 盛岡市 岩手県
愛宕清水 渋民愛宕 玉山区 盛岡市 岩手県

国道4号本線に合流して最初の信号手前右手に愛宕清水がある。集落の水場であった。3本の柄杓が釣らされているところを見ると今でも使われているようである。由緒書きの類はない。

愛宕神社 渋民愛宕 玉山区 盛岡市 岩手県
愛宕神社 渋民愛宕 玉山区 盛岡市 岩手県愛宕の森 この森の上に愛宕神社が祀られている。総本社京都の愛宕神社の支社として、およそ3百年前に建立された。防火の守護神として村人に信仰され、毎年旧暦の6月と8月の24日に例祭が催される。啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで散策しては詩想を練った。この森の下に、啄木が代用教員として教鞭をとった渋民尋常小学校があった。 昭和48年3月 玉山村 玉山村観光協会

すぐ先の参道を登ると、森の中に愛宕神社がある。これから訪ねる石川啄木記念館の敷地に移築復元された渋民小学校は当時愛宕神社の下にあった。教師をしていた啄木は好んでこの森を散策し「命の森」と呼んだ。

渋民宿の中心付近にくるが、宿場風情を感じさせるものがない。渋民宿は小さな宿場だった。右手の昭和シェルGSとその先の酒コンビニエンス大塚屋は高島商人の末裔である。江戸時代の中頃、大塚屋駒井伊兵衛酒店の手代だった駒井久兵衛が暖簾分けをうけて渋民に酒造業を開いた。駒井久兵衛は盛岡鉈屋町の駒井藤兵衛と同じ安曇川北船木の出である。明治時代には明治天皇淳巡幸の際の行在所となるなど、渋民で隆盛を築いた。直ぐ先の駒井酒店も同族であろう。

旧渋民尋常小学校 渋民渋民9 玉山区 盛岡市 岩手県
旧渋民尋常小学校 渋民渋民9 玉山区 盛岡市 岩手県

信号十字路の右側に石川啄木記念館がある。その敷地内に渋民尋常小学校旧斉藤家が保存されている。渋民尋常小学校は啄木の母校でもあり、明治39年(1906)4月より1年間代用教員として勤務した学校である。校舎は柾屋根造りに連子格子という純正木造建築である。啄木は住職の息子として生まれ、1歳のとき父の宝徳寺転任に伴って渋民に来る。盛岡中学校で金田一京助、野村胡堂、そして後の妻堀合節子と知り合う。その後上京、帰郷、北海道での放浪を経て27歳で結核により死去した。啄木は終生貧しさから逃れられなかった。

旧斉藤家 渋民渋民9 玉山区 盛岡市 岩手県
旧斉藤家 渋民渋民9 玉山区 盛岡市 岩手県

斉藤家は江戸時代末期、奥州道中渋民宿駅の南側に建てられた町家でした。 建物構造は、木造一部二階建ての妻入り直屋(すごや)で、屋根は兜形に軒先を切り落とした寄せ棟となっています。建物規模は、間口3間半(約6.8m)、奥行き8間半(約18m)と細長く 一階の片側に表から裏にぬける一間幅(約1.9m)の通り土間 を設けています。 部屋の配置は、表側から床の間のついた座敷、常居、納戸、台所、一番奥には馬屋……

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斉藤家は江戸時代末期、奥州道中渋民宿駅の南側に建てられた町家でした。 建物構造は、木造一部二階建ての妻入り直屋(すごや)で、屋根は兜形に軒先を切り落とした寄せ棟となっています。建物規模は、間口3間半(約6.8m)、奥行き8間半(約18m)と細長く 一階の片側に表から裏にぬける一間幅(約1.9m)の通り土間 を設けています。 部屋の配置は、表側から床の間のついた座敷、常居、納戸、台所、一番奥には馬屋があり、表側の二階部分には10畳の板の間を設け、表側に張り出した縁は格子戸をはずして使いました。 斉藤家は、明治39年(1906)3月から約1年間、石川啄木が渋民尋常小学校代用教員時代に家族とともに間借りしていた建物であることから、昭和45年(1970)に石川啄木記念館敷地内に移築保存されました。小説「雲は天才である」・「葬列」などの作品はこの家で生まれました。 平成18年11月 盛岡市教育委員会

右隣に建つ萱葺屋根の旧斉藤家は江戸末期の町家で、啄木が代用教員時代家族と一緒にこの家に間借していた。軒下には黄色に輝くトウモロコシが干してあり、萱葺屋根のテッペンにはペンペングサが生えている。通り土間も興味深かった。懐かしい風景である。

記念館から街道を横切って渋民小学校の西側にある啄木公園に寄る。岩手山を背景にして啄木の歌碑が建つ。大正11年(1922)の建立で全国第1号の啄木の歌碑だという。

石川啄木歌碑 渋民鶴塚 玉山区 盛岡市 岩手県
石川啄木歌碑 渋民鶴塚 玉山区 盛岡市 岩手県やはらかに柳あをめる 北上 の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

やはらかに柳あをめる北上の 岸辺目にみゆ 泣けとごとくに

この曲にメロディーがついているのを今回知った。インターネットで視聴したがいま一つだ。わたしの好きな啄木の歌(メロディー付)は、何んといっても「初恋」である。短い曲だから余興のアンコール曲として重宝した。

砂山の砂に 砂に腹這い 初恋のいたみを 遠くおもい出ずる日

新塚一里塚 芋田芋田 玉山区 盛岡市 岩手県
新塚一里塚 芋田芋田 玉山区 盛岡市 岩手県(前略)当村においては、旧奥州街道筋のこの新塚一里塚をはじめ、笹平一里塚、渋民一里塚(消滅)が確認され、旧小本街道筋の数基とともに保存されている。一里塚は、当時の歩行旅行を主体とする道路施設で、世界的に著名な交通制度であった。 昭和60年3月20日 盛岡市教育委員会

銀河鉄道好摩(こうま)駅の東方、芋田地区で道が大きく右に曲る所に新塚の一里塚が原形をとどめて残っている。左側に塚はみあたらない。

馬場状小屋 玉山区 盛岡市 岩手県
馬場状小屋 玉山区 盛岡市 岩手県

芋田沢田で街道が左に曲がるところで国道4号と分かれて右斜めの旧道にはいる。ひっそりとした道は燃えるようなサルビアの花で飾られている。集落の後半からはサルビアにマリーゴールドが加わって状小屋(じょうごや)地域の「花いっぱい運動」が最高潮に達する。左手にひろがる田園風景も沿道の花に劣らず美しい。わずか1kmの旧道であったが魅力的な街道歩きを体験させてくれた。

明治天皇駐蹕之碑(高橋家) 巻堀巻堀 玉山区 盛岡市 岩手県
明治天皇駐蹕之碑(高橋家) 巻堀巻堀 玉山区 盛岡市 岩手県

国道にもどって巻堀地区に入る。歩道橋の先、高橋家の庭に「明治天皇駐蹕之處」の碑がある。高橋家は巻堀神社の宮司を務める旧家である。

巻堀神社 巻堀本宮 玉山区 盛岡市 岩手県
巻堀神社 巻堀本宮 玉山区 盛岡市 岩手県

すぐ先右手にその巻堀神社がある。長禄3年(1459)創建という古社でもとは南部金勢大明神。明治3年、巻堀神社に改称された。金勢大明神とは男根崇拝からきた安産・縁結びの守護神で、かつては奉納された木製や石製の金勢様が社殿に山と積まれていたらしい。神体である高さ70cmほどの青銅造り男根像は天保4年(1833)江戸黒門町の浅井五兵衛が奉納したもので、現在は宮司高橋家に祀られている。

境内には健康的な色艶をした金勢神を祀る小社の他、女陰を表す石船の上に乗った男根、木の根本に祀られた男根石像など、いまも金勢崇拝は健全なようである。

一字一石一札供養塔 巻堀巻堀 玉山区 盛岡市 岩手県
一字一石一札供養塔 巻堀巻堀 玉山区 盛岡市 岩手県

北東北地方は、昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われている。特に江戸時代の元禄・宝暦・天明・天保年間における大飢饉の際には、おびただしい餓死・病死者が出たと記録に残されている。 この供養塔は、これらの大飢饉による死者を合せ供養したものであり、安永7(1778)年に建立された。基底部の土中には、法華経典を1つの石に1字ずつ書写した小石が多数埋められている。これらを書写・供養したのは、岩手町川口にある明円……

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北東北地方は、昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われている。特に江戸時代の元禄・宝暦・天明・天保年間における大飢饉の際には、おびただしい餓死・病死者が出たと記録に残されている。 この供養塔は、これらの大飢饉による死者を合せ供養したものであり、安永7(1778)年に建立された。基底部の土中には、法華経典を1つの石に1字ずつ書写した小石が多数埋められている。これらを書写・供養したのは、岩手町川口にある明円寺の第14代住職である実秀和尚である。 盛岡市教育委員会

才津長根の永井橋の袂左手にに一字一石一札供養塔がある。東北地方は昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われてきた。その際の餓死・病死者を供養するもので安永7年(1778)の建立、法華経典を一石に一字ずつ書写して供養塔の下に埋められている。法華経を一字一石づつ刻む習わしは他地にもあって、最近では三国街道六日町の雲洞庵参道で見た。

沼宮内

二ツ森一里塚跡 岩手町川口第13地割 岩手郡 岩手県
二ツ森一里塚跡 岩手町川口第13地割 岩手郡 岩手県旧奥州街道は前方で右の旧道(県道158号)に入る。

街道は見所にあふれた盛岡市内をぬけてようやく岩手郡岩手町川口にはいってきた。沼宮内宿の領域である。ラーメンたけちゃんの敷地内に二ツ森(草桁)一里塚跡の標識がある。2004年建立で4名の名が記されている。教育委員会ではなくて歴史愛好家の個人が建てた物だろう。

女優・園井恵子の像 岩手町川口第9地割 岩手郡 岩手県
女優・園井恵子の像 岩手町川口第9地割 岩手郡 岩手県

本名・袴田トミ。川口小学校三年生の頃から夢に描いた宝塚音楽歌劇学校に入学、家族の生活を支えながら、校長小林一三のもと、自らを磨き、舞台に映画に幅広い演技をもって全国にファンを広げ、大女優の道を歩む。 昭和20年、総てが戦争にかりたてられる中、丸山定夫を隊長とする移動劇団「さくら隊」に加わリ各地を慰問巡演中8月6日広島の宿舎に於て原爆に遭遇。32回目の誕生日だった。瞬時の閃光に崩れ、燃え上がる家財の……

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本名・袴田トミ。川口小学校三年生の頃から夢に描いた宝塚音楽歌劇学校に入学、家族の生活を支えながら、校長小林一三のもと、自らを磨き、舞台に映画に幅広い演技をもって全国にファンを広げ、大女優の道を歩む。 昭和20年、総てが戦争にかりたてられる中、丸山定夫を隊長とする移動劇団「さくら隊」に加わリ各地を慰問巡演中8月6日広島の宿舎に於て原爆に遭遇。32回目の誕生日だった。瞬時の閃光に崩れ、燃え上がる家財の間から、自分に気付くと一面、生き地獄・・・その中を逃れのがれて2日後、神戸の知人宅にたどリ着く。 8月17日付母への手紙(絶筆)に「本当の健康にたちかえる日も近いでしよう。そうしたら元気でもりもりやります。やりぬきます。これからこそ日本国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うためのお役に立たなければなりません。」とある。しかし原爆症の為急変21日知友らの見守る中、32歳の短い生涯を終える。 終戦50周年、あらためて女優・園井恵子を偲び、戦争なき世界の実現・文化の興隆・人間の尊厳が守り貫かれることを祈念しここに全国の有志とともに顕彰の像を設置する。 1996(平成8)年8月21日 園井恵子を顕彰する会

いわて銀河鉄道 岩手町川口 岩手郡 岩手県
いわて銀河鉄道 岩手町川口 岩手郡 岩手県

その先で国道と分れ右側の県道157号で川口集落に入っていく。集落入り口左手に岩手山を背景にして袴姿の凛とした女性が立っている。「宝塚の華 未完の大女優 園井恵子の像」とある。昭和20年8月6日、広島に慰問巡演中原爆にあった。母宛の手紙を残して8月21日、32歳の短い生涯を閉じた。

園井恵子と岩手山の間を銀河鉄道の貨物列車が通り過ぎていった。

旧家 岩手町川口 岩手郡 岩手県
旧家 岩手町川口 岩手郡 岩手県
民家 岩手町川口 岩手郡 岩手県
民家 岩手町川口 岩手郡 岩手県

川口には古い家が残っている。宿場ではないが城下町であった。右手には紅殻塗りの板塀を延々と廻らせ家紋をあしらった門を構える大きな屋敷がある。川口駅前をすぎた左手には赤トタン屋根であるが二階はウダツを上げ千本格子が見事な商家である。

川口城跡 岩手町川口第17地割 岩手郡 岩手県
川口城跡 岩手町川口第17地割 岩手郡 岩手県

川口城跡由来 川口城跡は代々川口氏の居城で「豊城」とも言う。古くは、エゾ館と思われる。川口氏築城の規模、構造は明確ではないが、西に北上川、南に古館川の崖地、北に丹藤川を受け、また飲料水は東の山すそから隠し水を引き、天然の地を利用した往古の山城である。 記録によれば、その城主は「川村四郎秀清文治5年(1189)頼朝公より、岩手郡の内下給、川口古舘に居住、命によリ在名に改む」とある。川ロ氏の祖で子孫の……

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川口城跡由来 川口城跡は代々川口氏の居城で「豊城」とも言う。古くは、エゾ館と思われる。川口氏築城の規模、構造は明確ではないが、西に北上川、南に古館川の崖地、北に丹藤川を受け、また飲料水は東の山すそから隠し水を引き、天然の地を利用した往古の山城である。 記録によれば、その城主は「川村四郎秀清文治5年(1189)頼朝公より、岩手郡の内下給、川口古舘に居住、命によリ在名に改む」とある。川ロ氏の祖で子孫の居城である。 近世の南部藩史に依れば、応永18年(1411)川口与十郎秀利、南部守行公(13代)に拝謁(領地安堵)す。「川口左近秀長、信直公(26代)より旧地により四百石賜う」天正19年(1591)九戸の乱に参陣。文録元年(1592)城破却となる。 川ロ与十郎秀寛、寛文5年(1665)八戸南部藩主直房公に従い八戸に移り四百石賜う。後家老となる。 昭和54年3月15日 岩手町教育委員会

古館川を渡り川口中学入口手前の土手に川口館跡の説明板が立っている。街道から台地に上がる道をたどると雑木林にでた。城跡の遺構等はない。川口氏の祖は源頼朝の時代に遡る。天正19年(1591)九戸の乱後城は廃棄され、川口氏はその後八戸に移って八戸南部藩家老となった。

旧奥州街道・いわて銀河鉄道 川口第6地割 岩手町 岩手郡 岩手県
旧奥州街道・いわて銀河鉄道 川口第6地割 岩手町 岩手郡 岩手県
明治天皇小休跡碑 川口第6地割 岩手町 岩手郡 岩手県
明治天皇小休跡碑 川口第6地割 岩手町 岩手郡 岩手県

旧街道は川口集落をぬけ県道を右に分けて直進、いわて銀河鉄道の跨線橋をこえてすぐ右側に出ている旧道を下りて行く。野原集落にはいってまもなく左手に明治天皇御小休之趾の碑が建つ。

旧奥州街道 川口第1地割 岩手町 岩手郡 岩手県
旧奥州街道 川口第1地割 岩手町 岩手郡 岩手県前方、丹藤川で途絶

野原集落の北端で国道4号に合流する。旧道は国道の向こう側にも続いているが、短い坂をおりると丹藤川の前で途絶えていた。対岸に続いている様子でもない。

国道にもどって丹藤橋を渡り、北上川の手前で右の旧道にはいり丹藤街道踏切を渡る。

芦田内一里塚 川口第49地割 岩手町 岩手郡 岩手県
芦田内一里塚 川口第49地割 岩手町 岩手郡 岩手県
旧奥州街道 川口第49/50地割 岩手町 岩手郡 岩手県
旧奥州街道 川口第49/50地割 岩手町 岩手郡 岩手県入口標識を左折する道が古道、川で断絶

のどかな田園の道をすすんでいくとY字路にさしかかり稲架けの道へ案内するかのように分岐点に「芦田内一里塚入口」の標柱が立っている。左の道に入っていくと小川の手前に「芦田内一里塚」の白い標柱があった。塚というよりは山縁のような地形である。

芦田内番屋跡地 川口第49地割 岩手町 岩手郡 岩手県
芦田内番屋跡地 川口第49地割 岩手町 岩手郡 岩手県

木々の隙間から小川の向こうにも白杭が小さくみえ、かろうじて「芦田内番屋跡地」と読めた。旧道はそこを通っていくようだが、小川を渡れず写真を撮るだけで断念する。

稲架けの道を引き返し大きく東に迂回して芦田内踏切に出る。旧道はそのまま線路の東側を北上していた。踏切からしばらく道が残っているがやがて山の中に消えている。踏切までもどり線路を渡って国道4号を北に進む。沼宮内南口信号で国道4号は市街地の西側へ迂回していく。旧道は直進して沼宮内駅前で県道17号に合流する。沼宮内は岩手町の中心で、新幹線も止まる駅は近代的な駅舎である

上路旅館 江刈内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県
上路旅館 江刈内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県

駅から100mほど北で銀河鉄道と新幹線を越えてすぐに左に折れ、踏切地点から復活している旧道に入る。米屋など旧街道の雰囲気を残している。すぐに県道17号に合流して沼宮内の商店街に入る。古い建物が残り旧宿場らしい趣を擁している。

野口バス停の先、左手にある上路旅館は明治41年(1908)創業のしにせ旅館である。二階窓にほどこされた格子の装飾が繊細な品格を表している。

旧家 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県
旧家 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県

右手には海鼠壁の堂々とした土蔵が建つ。広い敷地内には別の土蔵や石蔵もあって造り酒屋のような気もするが、つきものの煙突は見当たらない。なんでも沼宮内の大地主の家らしい。

旧沼宮内宿町並 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県
旧沼宮内宿町並 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県

大町に入ると通りが広くなって家並みが急に明るくなった。沼宮内の中心にきたようだ。駅から随分離れている。幾度の火災に懲りて、汽車の火の粉を嫌い駅を町のはずれに追いやって後悔した日詰の町を思い出した。

寄寿姫(よりじゅひめ) 沼宮内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県
寄寿姫(よりじゅひめ) 沼宮内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県

右手「きたぎん(北日本銀行)」の手前、町の駅に「寄寿姫の像」があり、裏に5枚のパネルからなる沼宮内伝説が描かれている。大蛇から村を救うため人身御供となった長者の娘の話である。

代官所跡 沼宮内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県
代官所跡 沼宮内第9地割 岩手町 岩手郡 岩手県

この沼宮内代官所跡は慶安4年(1651)から明治2年(1869)までの219年間、南部盛岡藩の沼宮内通り(39カ村)代官所のおかれていたところで、北岩手郡の中心であった。南部盛岡藩の領地は10力郡(岩手、紫波、稗貫、和賀、閉伊、九戸、二戸(岩手県)、鹿角(秋田県)、三戸、北(青森県))の広い地域に、当初(正保、慶安年開)47代官がおかれたが、享保20年(1735)に藩内33通り(行政区)に25代官……

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この沼宮内代官所跡は慶安4年(1651)から明治2年(1869)までの219年間、南部盛岡藩の沼宮内通り(39カ村)代官所のおかれていたところで、北岩手郡の中心であった。南部盛岡藩の領地は10力郡(岩手、紫波、稗貫、和賀、閉伊、九戸、二戸(岩手県)、鹿角(秋田県)、三戸、北(青森県))の広い地域に、当初(正保、慶安年開)47代官がおかれたが、享保20年(1735)に藩内33通り(行政区)に25代官所がおかれた。その一つが、ここ沼宮内代官所で、昔時から枢要の地とされてきた。 (中略)ここの代官所には、御役屋(役所)1棟、御蔵(倉庫)3棟(105坪、100坪、27坪)があり、米、大豆等の年貢米を収能していたところである。 岩手町教育委員会

その先の信号丁字路を右に入ると沼宮内小学校正門前に「沼宮内代官所跡」と題する説明板があり、その先右手に古びた標識が立っている。慶安4年(1651)から南部盛岡藩沼宮内通りの代官所が置かれていたところで、北岩手郡の中心であった。

その先曲尺手の名残を経て柳橋をわたり右折、県道17号に沿って沼宮内城跡によっていく。途中左手の沼福寺には「明治天皇御料馬瀧澤號之墓」がある。東北御幸の途中で殉死したのか。

沼宮内城跡 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県
沼宮内城跡 沼宮内 岩手町 岩手郡 岩手県

沼宮内城跡由来 沼宮内城跡は、沼宮内民部常利の城と伝えられ、西を北上川、南は、大坊川に面して峻立する山城である。規模は、東西180m、南北300m、三つの郭から成っておリ、北郭を主郭として、西側は、三段の三重堀、南郭はニ重堀、東郭もニ重堀で尾根と切れている。城主沼宮内氏は、文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討のとき戦功のあった相模国河村氏の一族とされ、鎌倉時代からの居城と思われる。沼宮……

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沼宮内城跡由来 沼宮内城跡は、沼宮内民部常利の城と伝えられ、西を北上川、南は、大坊川に面して峻立する山城である。規模は、東西180m、南北300m、三つの郭から成っておリ、北郭を主郭として、西側は、三段の三重堀、南郭はニ重堀、東郭もニ重堀で尾根と切れている。城主沼宮内氏は、文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討のとき戦功のあった相模国河村氏の一族とされ、鎌倉時代からの居城と思われる。沼宮内氏の系譜がわかるのは、室町時代末期の民部常利(沼福寺元禄10年(1696)の過去 に〈沼宮内城主俗名民部常利〉河口源丞利景立置之)と、その子、治部春秀(300石)が南部氏に従属していた以後である。沼宮内城は、天正19年(1591)九戸の乱の際、豊臣秀吉の奥州仕置軍五万三千余騎が駐留し、南部利直(27代)と軍議を開いた城としても知られている。 天正20年(1593)諸城破却令による領内48ケ城の一つとして破却されたとある。以下略 1992年3月 岩手町教育委員会

城山保育園の角を左折、国道281号を横切ると「城山公園入口」の表示がある。坂道をあがっていくと城跡にたどりつく。岩手山、沼宮内の町がみわたせる頂上に「沼宮内民部城址」の石碑が建つ。沼宮内氏の祖は文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原氏征討のとき戦功のあった相模国河村氏の一族とされる。川村一族から沼宮内氏、川口氏、渋民氏、玉山氏などが分れた。天正19年(1591)の九戸政実の乱の際には両軍攻防の場となった。

北上川・旧奥州街道 沼宮内第11地割 岩手町 岩手郡 岩手県
北上川・旧奥州街道 沼宮内第11地割 岩手町 岩手郡 岩手県

街道に戻る。右手にある福山光一氏宅が「塚」という屋号で、新町一里塚跡だということだが、屋号も塚跡を示すものも見当たらなかった。北上川の手前で右折して川に沿った旧道を行く。北上川も細くなったもので、これから源流を訪ねる旅となる。

青い森鉄道 川原木踏切 沼宮内第18地割 岩手町 岩手郡 岩手県
青い森鉄道 川原木踏切 沼宮内第18地割 岩手町 岩手郡 岩手県

途中、国道281号を横切り民部田で国道4号に合流。旧道はこの先、国道の西側にでて銀河鉄道にそって川原木集落を縦断する道筋になっているが、なかなか踏切が出てこない。新幹線の高架をくぐり第18地割の川原木信号でようやく左折して川原木踏切を渡って旧道に出られた。見慣れた銀河鉄道の電車が近づいてきた。八戸行き、青い森鉄道とある。いわて銀河鉄道は目時までで、目時―八戸間の青森県内は別会社になっている。

ところで、岩手県のどこからか、住所の最後を「第何々地割」で済ませているのがなんとも味気なくてやるせない。かっての小字名が消えてしまっていてどこの集落を通っているのか、住所からは判らないのだ。地図をさかのぼっていくと北上市の北部あたりから「地割」が始まっているようである。川原木集落は沼宮内第15地割と第17、18地割にまたがって存在する。だれのアイデアか知らないが役人の臭いがプンプンする。

河原木集落の旧道を勇んで北に進んでいくと今度は線路の東側にもどれなくなってしまった。極端に踏切が少ない。やむをえず18地割の踏切に戻って国道4号に出る。川原木の旧道は袋路であった。

旧奥州街道(右) 御堂第1地割 岩手町 岩手郡 岩手県
旧奥州街道(右) 御堂第1地割 岩手町 岩手郡 岩手県

御堂駅の東を通り過ぎ北上を続ける。やがて「北上川源流公園」の看板が目立つY字路に差し掛かり右の旧道へはいっていく。地図上ではY字路の少し前で北上川と分れて支流の朽木川沿いに来ている。ここが「東北自然歩道、新奥の細道 旧奥州街道の道」の起点となっていて、しばらく山間の街道歩きが始まる。

北上山御堂観音堂 御堂 岩手町 岩手郡 岩手県
北上山御堂観音堂 御堂 岩手町 岩手郡 岩手県

俗に御堂観音と称せられて居る此処「天台宗北上山新通法寺正覚院」は大同2年6月坂上田村麻呂将軍が祈願所として建立されたといわれ、その一族である僧了慶が開基と伝えられている。天喜5年6月、安倍頼時征伐の為、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打続く炎暑に苦しみ賊徒平定もはかどらず本国を伏拝み救世祈念、義家が弓弭をもって岩をうがち泉を得たと言われ今尚清水が湧き出て北上川の源泉をなしている。 伝えられている処……

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俗に御堂観音と称せられて居る此処「天台宗北上山新通法寺正覚院」は大同2年6月坂上田村麻呂将軍が祈願所として建立されたといわれ、その一族である僧了慶が開基と伝えられている。天喜5年6月、安倍頼時征伐の為、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打続く炎暑に苦しみ賊徒平定もはかどらず本国を伏拝み救世祈念、義家が弓弭をもって岩をうがち泉を得たと言われ今尚清水が湧き出て北上川の源泉をなしている。 伝えられている処によると、その際寄進したという陣中釜は今も御堂にあり、本堂の千手観音像は南部氏(盛岡市)此地を領した際守り本堂として当院に保存管理、今日に及んでいる。 また御堂脇にある大杉は千二百余年の風雪を生き技いた県下有数の老木として賞せられている。 平成5年3月 岩手町教育委員会

北上川源泉「弓弭の泉」 御堂 岩手町 岩手郡 岩手県
北上川源泉「弓弭の泉」 御堂 岩手町 岩手郡 岩手県天喜5年6月、安倍頼時征伐の為、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打続く炎暑に苦しみ賊徒平定もはかどらず本国を伏拝み救世祈念、義家が弓弭をもって岩をうがち泉を得たと言われ今尚清水が湧き出て北上川の源泉をなしている。

御堂新田の滝に至る三差路を直進するとまもなく右手に「いわてまち川の駅道公園」が出てくる。その向かいの崖上に御堂観音がある。御堂観音は大同2年(807)坂上田村麻呂が祈願所として建立したと伝わる。北上川の源流といわれる「弓弭(ゆはず)の泉」は、天喜5年(1057)安倍頼時征伐の折、源義家は打続く炎暑に対処するため弓弭で岩をうがち泉を得たと言われる。ここからはるばる247kmの旅を経て石巻で太平洋に注ぐ。ふりかえれば、私の最も好きな北上川は一関街道の登米だった。さて、北上川に別れを告げてこれからどんな川と付き合うことになるのだろう。

御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚 一戸町・岩手町 岩手県
御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚 一戸町・岩手町 岩手県

江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には役4kmごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででした、道は仙台・盛岡を経……

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江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には役4kmごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででした、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。 御堂・馬羽松一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に十番目の一里塚です。塚は二つとも残っており、東塚は直径が11.2m、高さは2.8m、西塚(岩手町)は、直径が12.2m、高さは1.6mあります。 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚か多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道四号線か造られたためです。平成6年3月31日 一戸町教育委員会

岩手郡と二戸郡の境に馬羽松一里塚がある。盛岡から北へ10番目の一里塚で、郡境に築かれ東塚は二戸郡一戸町中山に、西塚は岩手郡岩手町御堂に位置する。街道が下がっているため、塚の高まりが土手に吸収されてあまり目立たない。斜面を駆け上がって形を確認する。

(2009年10月)

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