奥州街道 18区間のうち15番目

奥州街道(15)

一戸-福岡(ニ戸)-金田一

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一戸

一戸

旧奥州街道 中山軽井沢 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 中山軽井沢 一戸町 二戸郡 岩手県

左右に牧草地が広がる高原の道を行く。県道30号を横切り摺糠(すりぬか)集落を抜けるところで舗装道路と分れ、左の新奥の細道ルートに入る。分岐点に新奥の細道の道標が、馬羽松一里塚から1.5km、明治天皇記念碑まで1.2kmと教えてくれる。山道とはいっても視界は良好で足元に草はほとんどなく、轍が残る安心して歩ける自然歩道である。

中山軽井沢 一戸町 二戸郡 岩手県
中山軽井沢 一戸町 二戸郡 岩手県明治天皇御休憩之跡

ちょっとした二股があるがそこには小さな標識が立って、「明治天皇碑まで0.4km」と記されている。まもなく峠らしき場所に明治天皇御休止跡の石碑が建っている。新奥の細道の道標がここから旧中山一里塚までは1.4kmだと示している。

奥州街道最高地点付近展望 中山家向 一戸町 二戸郡 岩手県
奥州街道最高地点付近展望 中山家向 一戸町 二戸郡 岩手県奥州街道最高地点 標高484m 中山一里塚まで800m

明るい雑木林の中を進んで行くと舗装道路に合流した。その先に奥州街道最高地点の標識がある。標高484mというから思ったほど高くはない。大昔、中山道を歩いたとき、信州の和田峠は標高1531mだった。街道の左右は高原の牧歌的な風景が展開して爽快な気分である。

道端に東屋が設けてある。自然歩道の整備施設だろう。高原の空気を満喫しながら歩いていくとほどなく三差路にぶつかって右手の雑木の前に「ここは中山一里塚」と記された奥州街道標柱を見つけた。木の周りを何度も見直したが塚らしきものはない。「塚」でなくて「塚跡」だろうと解してそのまま中山集落に入っていった。

中山一里塚 中山家向 一戸町 二戸郡 岩手県
中山一里塚 中山家向 一戸町 二戸郡 岩手県

後で、これがとんでもない失敗であったことに気づく。せっかく手に持っていた資料に目を通すことを怠った。東塚は昭和50年頃に壊され、今は西塚だけが残っているという。その西塚は歩いている道ではなくて、左手の少し離れた畑の中にあるというから意地が悪い。

中山集落入口の十字路左手に青面金剛像塔がある。教育委員会の丁寧な説明板が設置されているのは安永4年(1775)という古いものだからだろう。両脇にも石塔が並んでいる。

火行伝馬所跡 火行 一戸町 二戸郡 岩手県
火行伝馬所跡 火行 一戸町 二戸郡 岩手県江戸時代になると、全国各地と江戸を結ぶ交通網の整備がはかられました。街道沿いに宿駅を設け、物資輸送と役人往来のための伝馬が設置されたのもその一つです。旧奥州街道沿いの火行にもこの伝馬所が置かれていました。伝馬所では求めに応じて、公用通行に利用するための馬や人夫を安い料金で提供することになっていました。

そこから2.3km先の火行(ひぎょう)集落に火行伝馬跡の案内板がある。伝馬とは宿駅施設である。沼宮内から一戸宿までは9里という長丁場で、途中のこの辺りに間宿でも設けられたのであろう。火行は宿場の名前としては出てこない。

旧奥州街道 中山/小繋 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 中山/小繋 一戸町 二戸郡 岩手県

奥州街道は江戸日本橋を起点とする五街道の一つで奥州道中とも呼ばれています。江戸幕府が管轄するのは白河(福島県)までですが、それ以北も奥州街道と呼ばれ、道は津軽半島まで続いていました。街道筋には並木が整えられたり一里塚が造られて、整備は急速に進められました。岩手町御堂観音から一戸町小繋までの間は旧街道がほとんどそのまま残っていて、一里塚は3ヶ所連続して見ることができます。 正面:古道ヨノ坂 左:明治……

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奥州街道は江戸日本橋を起点とする五街道の一つで奥州道中とも呼ばれています。江戸幕府が管轄するのは白河(福島県)までですが、それ以北も奥州街道と呼ばれ、道は津軽半島まで続いていました。街道筋には並木が整えられたり一里塚が造られて、整備は急速に進められました。岩手町御堂観音から一戸町小繋までの間は旧街道がほとんどそのまま残っていて、一里塚は3ヶ所連続して見ることができます。 正面:古道ヨノ坂 左:明治17年以降

400mほどいくと開拓農道との十字路にぶつかる。左に折れて農道を行くのが自然歩道新奥の細道。

旧奥州街道ヨノ坂 小繋新舘林 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道ヨノ坂 小繋新舘林 一戸町 二戸郡 岩手県

火行(ひぎょう)と小繋(こつなぎ)、二つの集落を結ぶ「ヨノ坂」は奥州街道の中でもかなりの難所として知られていました。「野々坂」「飯の坂」とも呼ばれたこの坂は、山あいの沢に沿って進む1.5kmほどの道で、大巻秀詮著『邦内郷村志』には「左右野山也。不毛之地。不生一木。」と記されていることから、周囲に一軒の家も樹木も無いさびしい道だったようです。 明治9年、明治天皇東北巡幸の準備のため街道の各地で大規模……

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火行(ひぎょう)と小繋(こつなぎ)、二つの集落を結ぶ「ヨノ坂」は奥州街道の中でもかなりの難所として知られていました。「野々坂」「飯の坂」とも呼ばれたこの坂は、山あいの沢に沿って進む1.5kmほどの道で、大巻秀詮著『邦内郷村志』には「左右野山也。不毛之地。不生一木。」と記されていることから、周囲に一軒の家も樹木も無いさびしい道だったようです。 明治9年、明治天皇東北巡幸の準備のため街道の各地で大規模な道路修繕が行われると、この区問も玉砂利を敷いて通行しやすいようエ事が行われることになりました。しかし、沢沿いに位置する「ヨノ坂」は路面の状態が悪く、またエ事区間も長かったことから人手が不足することとなり、結局は簡易な修繕しか行われませんでした(「明治九年岩手県御巡幸録」)。 明治17年に行われた奥州街道の大改修の際には、一戸町内の路線の多くが山中を通る道筋から谷筋の平坦な道筋に付け替えられ、「ヨノ坂」も主要道ではなくなりました。しかし、周辺の開発が行われなかったことで、今では往時の景観を残す責重な区間となっています。平成20年3月25日 一戸町教育委員会

直進して山中にはいっていく藪道は「よの坂」とよばれる旧奥州街道の難所で、1.1km先に小繋一里塚がある。少し入ってみたところ、雨上がりのせいか道はぬかるんで木が倒れていたり、左右に樹木が生い茂って今までの高原の道とは様相が異なる。いまにも熊が出そうな道であった。一里塚まで500mくらいなら行くのだけど、と独りで勝手な言い訳をして引き返した。

塚平一里塚 小繋東田子 一戸町 二戸郡 岩手県
塚平一里塚 小繋東田子 一戸町 二戸郡 岩手県

農道にも一里塚があるのがもう一つの言い訳である。まもなく両側に現存する塚平一里塚が現れた。ここも道が切り下げられていて、塚の形を確認するには法面を上がる必要がある。よの坂が沢沿いの道であるのに対し、新しい街道は山の稜線に沿って開かれた。

いわて銀河鉄道小繋駅 小繋西田子 一戸町 二戸郡 岩手県
いわて銀河鉄道小繋駅 小繋西田子 一戸町 二戸郡 岩手県

道は一里塚を峠として、色付き始めた山間の快適な農道ドライブウェイを下っていくと国道4号に合流する。目の前が銀河鉄道「小繋(こつなぎ)」駅である。過疎をテーマにした映画「待合室」の舞台になった。観光名所となった無人駅の無人待合室はきれいに整えられていて、数冊の「命のノート」が置かれていた。少し開けてみた。みな達筆だ。女性が多い。

小繋トンネル 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県
小繋トンネル 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県

国道を1kmほどいくと小繋トンネルに差し掛かり、右側の歩道トンネルを抜けると向こう側で旧道につながっている。坂をくだり小繋集落入口の丁字路に出る。

長楽寺 延命地蔵堂 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県
長楽寺 延命地蔵堂 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県

天台宗小繋山 長楽寺 延命地蔵堂 別当天台宗長楽寺 千 蔵 坊 当寺縁起は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂が征夷大将軍として、大同2年(807)に東夷鎮撫祈願のため、当地に地蔵堂を建立した事に始まります。 また、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途上に当地に至りて、六尺五寸の延命地蔵尊像を彫刻し授けたと伝えられております。南部藩主入国以来神仏を尊崇すること厚く、二十九代重信公になって各地に堂……

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天台宗小繋山 長楽寺 延命地蔵堂 別当天台宗長楽寺 千 蔵 坊 当寺縁起は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂が征夷大将軍として、大同2年(807)に東夷鎮撫祈願のため、当地に地蔵堂を建立した事に始まります。 また、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途上に当地に至りて、六尺五寸の延命地蔵尊像を彫刻し授けたと伝えられております。南部藩主入国以来神仏を尊崇すること厚く、二十九代重信公になって各地に堂を建立され、寛文9年(1669)には御免他の証を下賜、、寺運益々隆盛をきわめておりました。 然しながら、当寺は何度かの火災に羅リ、伽藍、寺の記録等焼失することとなりました。 再三の火災に偶するも地蔵尊だけは不思議にもその都度難を免れ、一層霊験あらたかであることを世間の人が知ることとなり、盛岡以北旧松前藩より鹿角に至るまで信者の参拝が断えませんでした。江戸勤番往路の際は本陣となってもおりました。 このような当寺も明治改革・大正4年小繋の大火にて寺は全焼し、わずかに地蔵堂を残すのみとなっております。

左手林の中に坂上田村麻呂の建立とされる長楽寺の地蔵堂があり、そばの大木の脇には東北自然歩道が設置した「小繋御番所」の案内板と、一戸町教育委員会による「明治天皇御昼飯跡」の標柱が傾いて立っている。

長楽寺自体は全焼してないが、かっては本陣を勤めていたとある。番所があるくらいの所だから、宿泊施設があっても不思議ではないが、火行伝馬跡といい小繋の本陣跡といい、いま一つ宿場との関わりが明確でない。本陣、伝馬所はかならずしも宿場にあるとは限らないということか。

小繋番所跡 小繋小繋 一戸町 二戸郡 岩手県
小繋番所跡 小繋小繋 一戸町 二戸郡 岩手県

小繋は、奥州街道と御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」との分岐点に位置しています。交通の要所となることから盛岡以北最初の御番所が置かれています。『岩手県史』によると、御番所には藩境に設置された境番所と領内に設置された中間番所があり、小繋には中間番所が置かれ、領内における物資の流通と交通を監視する役割を果たしていたとされています。 盛岡藩の財政状況を記した古沢康伯著『邦内貢賦記』には、「入女は小繋・……

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小繋は、奥州街道と御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」との分岐点に位置しています。交通の要所となることから盛岡以北最初の御番所が置かれています。『岩手県史』によると、御番所には藩境に設置された境番所と領内に設置された中間番所があり、小繋には中間番所が置かれ、領内における物資の流通と交通を監視する役割を果たしていたとされています。 盛岡藩の財政状況を記した古沢康伯著『邦内貢賦記』には、「入女は小繋・湯瀬(秋田県鹿角市)・ にて御改」とあり、材木・馬・漆・蝋などの物資のほか、盛岡へ向かう主な街道筋の番所では女性の移動についても取り調べが行われていました。 現在、御番所の建物は残っていませんが、漆戸茂樹著『北奥路程記』には「小繋入りロ、小橋渡り、左に御番所あり」と記され、また他の文献資料や言い伝えから、集落入口にある橋を渡ったこの場所に「小繋御番所」が建てられていたことが分かっています。平成20年3月25日 一戸町教育委員会

小繋集落はこの丁字路を右に向かう道に沿ってのびている。丁字路角に新しい奥州街道道標があって、南西に小繋駅まで1.6km、南に小繋一里塚まで1.8km、小繋番所跡まで200m、北に川底一里塚まで3.0kmと示している。地蔵堂のそばの「小繋御番所」案内板は跡地の位置を示すものではなかった。

旧奥州街道 出口付近 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 出口付近 小繋 一戸町 二戸郡 岩手県

小繋一里塚に通じるこの南向きの道は、よの坂を下ってくる旧道の道筋である。200mほどのところ右手に予定通り、「御番所跡」の説明板が設けてあった。よの坂下りを断念した埋め合わせにと、しばらくさかのぼって行った。誰も通らないのどやかな里山風景が続く。一里塚までは遠すぎるのでこの辺でUターン。一里塚までの両側の距離を合わせるとよの坂旧道は合計で3kmという長い山道である。

笹目子トンネル 小鳥谷笹目子 一戸町 二戸郡 岩手県
笹目子トンネル 小鳥谷笹目子 一戸町 二戸郡 岩手県

丁字路にもどり反対側に進んで国道4号に合流する。笹目子トンネル手前で右手に旧道が出ているが、この道は小繋川沿いに下って、その後トンネル出口から500mほど先で国道に合流する。本来の旧道はその間どこかで左の急斜面をのぼってトンネルの上を通って高屋敷に向かう山道をたどるらしいが、その道は無くなっているようである。

旧道入口(笹目子トンネル北口) 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
旧道入口(笹目子トンネル北口) 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道導入路 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道導入路 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県

国道の笹目子トンネルを抜ける。出口の右手に「笹目子トンネル」の記念碑があり、そこから細い道がでていた。すぐ二股にわかれる細道を右にとって斜面を斜めに登っていくと奥州街道の古道へでる。振り返った景色がすばらししい。古道の左方向は鉄道で断絶され消失している旨の書かれた通行止め立札がある。

川底一里塚 旧奥州街道 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
川底一里塚 旧奥州街道 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県

(前略) 川底一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に13番目の一里塚です。東塚は、直径が東西10m、南北12m、高さ3.5mとなっています。西塚は直径が東西10m(推定)、南北7m(残存部)、高さ3.2mとなっています。 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。 一戸町に一里塚か多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国……

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(前略) 川底一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に13番目の一里塚です。東塚は、直径が東西10m、南北12m、高さ3.5mとなっています。西塚は直径が東西10m(推定)、南北7m(残存部)、高さ3.2mとなっています。 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。 一戸町に一里塚か多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道四号線が造られたためです。 平成11年3月25日 一戸町教育委員会

旧道出口 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
旧道出口 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県

川底の道 所在地一戸町小鳥谷字高屋敷 奥州街道中もっとも険しい道であったと伝えられているのが、笹目子と高屋敷を結ぶ川底の道でした。街道は小繋川を見下ろす左岸にあり、急峻な斜面に沿って進む上り下りの厳しい難所となっています。 明治9年(1876)、明治天皇が東北を巡幸した時の記録によると、「高間舘坂」、「赤羽根坂」、「舅転の険」と呼ばれる難所が連続するこの区間は、「屈曲登降極まりなく」、「御巡幸中未……

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川底の道 所在地一戸町小鳥谷字高屋敷 奥州街道中もっとも険しい道であったと伝えられているのが、笹目子と高屋敷を結ぶ川底の道でした。街道は小繋川を見下ろす左岸にあり、急峻な斜面に沿って進む上り下りの厳しい難所となっています。 明治9年(1876)、明治天皇が東北を巡幸した時の記録によると、「高間舘坂」、「赤羽根坂」、「舅転の険」と呼ばれる難所が連続するこの区間は、「屈曲登降極まりなく」、「御巡幸中未だかって見ない険路であった」と記されています。 残念ながら街道は、明治24年(1892)盛岡-青森間で運行を開始した東北本線の開設工事によ、て分断され、区間を通して通行することはできなくなってしまいました。しかし現在まで大規模な道路工事が行われなかったため、今となっては資重な区間となっています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会 ← 0.6km 川底一里塚 → 1.6km 五月舘の追分石

右におれて300mほど進んだところに川底一里塚が残っている。両側の塚から縄跳びのロープのように流れるような曲線を描いて街道を包み込む。美しくて優美な一里塚である。道は細いが歩きやすい。「庚申 廿三夜」と刻まれた自然石が山路のスミレの如くにある。右手下に木々のあいだから国道が見えかくれする山道を600mほど歩いて車道に出た。出口に「川底の道」と題した説明板が立っている。

高屋敷集落 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県
高屋敷集落 小鳥谷高屋敷 一戸町 二戸郡 岩手県

「高屋敷」は北に流れる平糠川を見下ろす高台にある集落です。 奥州街道沿いに位置し、馬を利用した運搬の中継施設である馬継所が置かれていました。集落の中央から山手に登る道を行くと、「笹目子・上女鹿沢一里塚」、「穴久保・下女鹿沢一里塚」を結ぶ尾根沿いの道に出、さらに御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」へ繋がります。「高屋敷」の馬継所は記録によると、ほとんどが現八幡平市の中佐井との馬継ぎであり(『一戸町誌……

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「高屋敷」は北に流れる平糠川を見下ろす高台にある集落です。 奥州街道沿いに位置し、馬を利用した運搬の中継施設である馬継所が置かれていました。集落の中央から山手に登る道を行くと、「笹目子・上女鹿沢一里塚」、「穴久保・下女鹿沢一里塚」を結ぶ尾根沿いの道に出、さらに御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」へ繋がります。「高屋敷」の馬継所は記録によると、ほとんどが現八幡平市の中佐井との馬継ぎであり(『一戸町誌』)、奥州街道だけではなく巡見道においても交通の要所であったと考えられます。漆戸茂樹著『北奥路程記』には「此村梨を産す」と記述され、以前は梨の産地であったようです。現在、梨の木は残っていませんが、集落南の入り口を流れる沢が「山梨沢」と呼ばれるのは、その名残をとどめているからなのでしょう。平成18年からは、地域の方々の手により街道沿いの井戸が復元されるなど景観づくりの活動が行われています。平成20年3月25日 一戸町教育委員会

舗装道の急坂を上りきると高屋敷の集落に入る。木肌がまだ新しい復元井戸がある。家々もすがすがしい佇まいで、集落の景観に対する心配りが感じられる。高屋敷の集落を外れると砂利道の細道となり明かるい山中の道をたどっていく。

「五月館」の標識の右手崖上に文化7年(1810)の庚申塔と南無地蔵尊碑が並んでいる。

五月舘の追分石 小鳥谷若子 一戸町 二戸郡 岩手県
五月舘の追分石 小鳥谷若子 一戸町 二戸郡 岩手県

追分石は、街道を歩く人たちの目印となるよう造られた当時の道路標標識にあたるもので、多くは道の分岐点に設置されています。文久元年(1861)の記銘がある「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置されています。この付近の奥州街道は、明治天皇の東北巡幸の際に幅2間(3.6m)に拡幅するエ事が行われたと記録されていますので、それまでは幅2間に満たない道が続いていたと考……

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追分石は、街道を歩く人たちの目印となるよう造られた当時の道路標標識にあたるもので、多くは道の分岐点に設置されています。文久元年(1861)の記銘がある「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置されています。この付近の奥州街道は、明治天皇の東北巡幸の際に幅2間(3.6m)に拡幅するエ事が行われたと記録されていますので、それまでは幅2間に満たない道が続いていたと考えられます。「五月舘の追分石」の正面には 「右ハ山道左ハもり岡」 と刻まれています。北方から盛岡方面へ向かう旅人が奥州街道と山道を間違えないように建てられたと考えられ、当時の様子を示す貴重な資料となっています。 街道を挟んだ向かい側には、文化7年(1810)銘の庚申塔があります。自然石を利用したもので、正面上部に「日」「月」を配し、中央に「庚申」、その両側に造立年を刻んでいます。隣には、庚申塔と同じ年に同一人物によって建てられた「南無地蔵尊」碑が並んでいます。地蔵尊碑には「為祖先代々菩提」と刻まれていることから、同時に建てられた庚申塔にも先祖供養の意味合いが込められているものと考えられます。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会

左手の山道にはいったところに自然石の追分石があり「右ハ山道左ハもり岡」と刻まれている。一戸方面からきた旅人に対する道しるべで、奥州街道盛岡方面は左の道だと告げている。

明治天皇御小休所跡 小鳥谷仁昌寺 一戸町 二戸郡 岩手県
明治天皇御小休所跡 小鳥谷仁昌寺 一戸町 二戸郡 岩手県

道なりに坂を下っていくと国道4号バイパスのトンネルをくぐり小鳥谷集落に入った。すぐ左手に玄関に切妻屋根を出した由緒ありげな家が建つ。前庭の植え込みに「明治天皇御小休所跡」の白い標柱がたっていた。二階の戸袋は矢羽の意匠を凝らした造作で、「大正十三年三月作」と彫られている。上里家であるらしい。

野中一里塚跡 小鳥谷野中 一戸町 二戸郡 岩手県
野中一里塚跡 小鳥谷野中 一戸町 二戸郡 岩手県

一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路として整備されました。正式には道中奉行の管轄の下野白沢(栃木県)から陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。(中略) 「野中一里塚」は盛岡から北に13番目の一里塚です。道路を拡幅したときに塚は壊され現在はその姿を見ることはできませんが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著「北奥路程記」に……

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一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路として整備されました。正式には道中奉行の管轄の下野白沢(栃木県)から陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。(中略) 「野中一里塚」は盛岡から北に13番目の一里塚です。道路を拡幅したときに塚は壊され現在はその姿を見ることはできませんが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著「北奥路程記」には、野中一里塚の北側に、穴久保へ向かう道と姉帯へ向かう通が描かれており、この辺りが交通の要所だったことをうかがわせます。 塚のあったとされる場所には現在、馬頭観世音の石碑が建てられています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会

小鳥谷街並 小鳥谷仁昌寺 一戸町 二戸郡 岩手県
小鳥谷街並 小鳥谷仁昌寺 一戸町 二戸郡 岩手県

旧道はすぐに右からきた国道4号に合流し真直ぐに延びる小鳥谷集落を通り抜ける。県道15号との交差点手前、野中バス停脇に野中一里塚跡がある。塚跡には馬頭観世音の石碑が建ててある。説明板には野中一里塚は盛岡から13番目とあるが、確か川底一里塚も13番目だったな。

駕籠立場所跡 小鳥谷小姓堂 一戸町 二戸郡 岩手県
駕籠立場所跡 小鳥谷小姓堂 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 小鳥谷小性堂(こしょうどう) 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 小鳥谷小性堂(こしょうどう) 一戸町 二戸郡 岩手県

県道を越えて直進するが野中橋の手前で工事のため国道4号バイパスを横断できない。本来なら小鳥谷集落を縦断してきた4号本道が4号バイパスに合流する場所だが、本道が糞詰まりとなっている奇妙な道づくりである。工事をしていないのでそのままバイパスを横切って馬渕川沿いの旧道に入って行く。道なりに山道をたどると小姓堂集落をぬけて、二股の先に籠立場跡と明治天皇御野立所跡がある。

雷電神社 小鳥谷女鹿口 一戸町 二戸郡 岩手県
雷電神社 小鳥谷女鹿口 一戸町 二戸郡 岩手県

明治天皇碑の脇にある「一戸町内の奥州街道」の石碑にうれしい発見をした。「上里家(御休)」とあるのは小鳥谷にはいったところの天皇御小休所跡のことではないか。表札をみたというメモがないので断言できないが、間違いなさそうだ。なお、この坂道を日影坂というらしい。日影坂を下る途中雷電神社があり、その先舗装道路となって女鹿口(めがぐち)丁字路に突き当たる。

奥州街道道標があって、北に0.5km行けば老ヶ舘、0.8kmで天保七年(1836)百姓一揆結集地、とある。道を左にとって進んだが行けども行けどもそれらしい標識に出あわさない。あきらかに1km過ぎたところで引き返した。

国道4号600km地点 小鳥谷峠 一戸町 二戸郡 岩手県
国道4号600km地点 小鳥谷峠 一戸町 二戸郡 岩手県

さっきの丁字路を通り過ぎて県道274号(旧国道)にでる。旧街道はここを左折して馬渕川に沿って北上するのだが、女鹿川にかかる橋が工事中で通行止め。やむなく県道を逆行して国道4号に出る。これが結果的に幸いして、合流点の女鹿口交差点が国道4号600km地点だった。二戸まで13kmとある。一戸宿は目の前だ。

御所野遺跡 岩舘御所野 一戸町 二戸郡 岩手県
御所野遺跡 岩舘御所野 一戸町 二戸郡 岩手県

御所野遺跡は縄文時代中期後半(4,000~4,500年前)の大規模なむらの跡で、65,000㎡の台地のほぼ全面に600棟以上の竪穴住居跡が見つかっています。発掘調査は平成元年からはじまり、配石と盛土遺構とともにおおがかりに造成された中央の広場を中心に東・中央・西と3つの集落が計画的に配置された典型的なむらであることが分かりました。縄文時代の社会構造を知る上で貴重な遺跡として、平成5年12月21日に……

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御所野遺跡は縄文時代中期後半(4,000~4,500年前)の大規模なむらの跡で、65,000㎡の台地のほぼ全面に600棟以上の竪穴住居跡が見つかっています。発掘調査は平成元年からはじまり、配石と盛土遺構とともにおおがかりに造成された中央の広場を中心に東・中央・西と3つの集落が計画的に配置された典型的なむらであることが分かりました。縄文時代の社会構造を知る上で貴重な遺跡として、平成5年12月21日に国指定史跡となっています。

御所野遺跡 岩舘御所野 一戸町 二戸郡 岩手県
御所野遺跡 岩舘御所野 一戸町 二戸郡 岩手県

国道4号に出たついでに御所野遺跡に寄ることにした。御所野遺跡は縄文時代中期後半の大規模集落の跡で、標高200mの台地上に600棟をこえる竪穴住居跡が発掘された。青森の三内丸山遺跡とほぼ同時期同規模の縄文遺跡である。閉館まぎわの時間で公園には誰一人いない。夕陽が長い影を落とす台地に無口な古代の佇まいがあった。

西法寺諏訪野 一戸町 二戸郡 岩手県
西法寺諏訪野 一戸町 二戸郡 岩手県

御所野縄文公園から国道4号をくぐってまがりくねりながら馬渕川をわたり南小学校の北側を通って街道(県道274号)にもどる。線路沿いの街道を進むと一戸駅が前方に見えてくる。右手は古い家並みがはじまり、風情ある櫓が一段高く目立つ。消防番所の望楼だろう。このあたり諏訪野には県道の東側に弓なりの旧道が残りそこに諏訪野一里塚跡がある。歩いているときは知らなかった。

一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県

一戸駅前を通り過ぎて高善寺野田の十字路左角に旧奥州街道の標識を見つけて喜んだのだが下に記された矢印の解釈に戸惑った。右矢印はこれから歩こうとする方向であろう。上の矢印はここまで来た道とは違う。すこし入ってみたところ、路地裏という雰囲気で旧道らしくもあるがその先は線路沿いの細道に通じているようだ。駅前で右にカーブした旧国道(県道274号)に対して旧道はすこし先まで直進してここへ出てきたものか。

一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸向町 一戸町 二戸郡 岩手県

向町にはいると駅前で若干新しくなった家並みが再び古めかしい空気に浸るようになる。定休日なのか商店のシャッターは軒並み降ろされていて一層古色を強めている。建物は立派でかっては豪勢な屋敷や商家が軒を連ねていたものと想像される。冠木門を配した商店、二階建て格子造りの町屋、白壁・見越の松を誇示する屋敷、情緒ただよう黒漆喰の土蔵など。ここが旧宿場街であったのか、およそ新しさが目につかない恐ろしく古めいた町並である。

一戸街並 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸街並 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県一戸城跡より眺望

馬渕川をわたり左折したところの右手に一戸城址入口の案内標識がある。坂をあがり突き当たりを左折、広全寺参道前で右折して墓地の縁にそった歩道を登っていくと土塁・堀跡と思われる場所に「史跡一戸城跡」の標識が立っている。説明板はない。途中、一戸の町が展望できる。

一戸城跡 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県
一戸城跡 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県

一戸城は一戸南部氏の居城で、建長年間(1249~1256)に南部義実が築いた。その子、南部行朝は一戸氏を名乗り一戸野田城に居住、一戸南部氏2代目である一戸義実が2万石を領して一戸城に移った。室町時代に入ると主家である三戸南部氏の台頭とともに一戸氏も勢力を拡張したといわれる。天正九年(1581)、城主である一戸政連が平館城主である弟の平館政包に刺殺され一戸南部氏は弱体化した。天正19年(1591)、九戸氏の乱討伐のため進軍してきた秀吉の奥州仕置軍に攻められて落城し廃城となった。

実相寺の公孫樹 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県
実相寺の公孫樹 一戸大沢 一戸町 二戸郡 岩手県

国指定天然記念物 一戸町一戸字大沢 イチョウの祖先は、古生代の二億九千万年前頃から世界中に茂っていた植物で、日本では中世代の地層(約二億二千万年前)からその化石がたくさん発見されています。長い年月の間には絶滅しかかったのですが、東アジア(中国)の一角に生き残っていたものから人為的に裁植され、現在まで続いているといわれます。 ここ実相寺のイチョウは、樹齢約280年・樹高約25m、目通り周囲3.3mで……

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国指定天然記念物 一戸町一戸字大沢 イチョウの祖先は、古生代の二億九千万年前頃から世界中に茂っていた植物で、日本では中世代の地層(約二億二千万年前)からその化石がたくさん発見されています。長い年月の間には絶滅しかかったのですが、東アジア(中国)の一角に生き残っていたものから人為的に裁植され、現在まで続いているといわれます。 ここ実相寺のイチョウは、樹齢約280年・樹高約25m、目通り周囲3.3mで、イチョウとしてはそれほど巨木ではありません。しかし、雄株でありながら小枝の一部に雌花がつき、毎年ブドウ房状の実を結ぶ貴重なイチョウとして、国の天然記念物に指定されました。 イチョウの雌株が少ないことから、実をとる目的でつぎ木をすることもありますが、実相寺のイチョウは、つぎ木をしていないのに雄株の一部に実が着くという珍しい木です。 現在、クローンで増殖(根付け)された三本が元気に生育しています。 平成14年3月29日 一戸町教育委員会

千本桂 一戸小井田 一戸町 二戸郡 岩手県
千本桂 一戸小井田 一戸町 二戸郡 岩手県

一戸町指定天然記念物 カツラは、日本各地に自生する落葉喬木で、中生代白亜紀(釣一億年前)の地層から出土する化石植物でもあります。 カツラには雄株と雌株がありますが、この千本桂は雄株で、数mの高さの幹を含め22本からなっている株立ちです。根元周囲が釣18m、樹高釣20m、枝張り南北に約30mの大木で、樹齢は700年程と推定されます。 材は、腐朽しにくいことから仏像などの用材となっています。 現在の景……

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一戸町指定天然記念物 カツラは、日本各地に自生する落葉喬木で、中生代白亜紀(釣一億年前)の地層から出土する化石植物でもあります。 カツラには雄株と雌株がありますが、この千本桂は雄株で、数mの高さの幹を含め22本からなっている株立ちです。根元周囲が釣18m、樹高釣20m、枝張り南北に約30mの大木で、樹齢は700年程と推定されます。 材は、腐朽しにくいことから仏像などの用材となっています。 現在の景観からは想像しがたいのですが、昔は奥にある小枝八幡宮の参道の一部になっていて、根元に井戸水が湧出していたとつたえられています。現在も根元からの湧水が見られ、その名残りをとどめています。 平成5年1月30日 一戸町教育委員会

街道にもどり本町の中ほどで旧道は右の路地にはいる。突き当たりにある実相寺の大銀杏をみて左折、一戸高校の東側を通って国道4号のガードをくぐる。丁字路を左折、八戸自動車道ガードの手前で右に残る旧道をとって自動車道をくぐると県道5号と交差する。左角に小井田の千本桂がある。根元から22本の幹がわかれためずらしいカツラの株立ちである。

旧奥州街道 一戸大越田 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道 一戸大越田 一戸町 二戸郡 岩手県一戸から二戸へ
旧奥州街道浪打峠一里塚 一戸大越田/大道沢 一戸町 二戸郡 岩手県
旧奥州街道浪打峠一里塚 一戸大越田/大道沢 一戸町 二戸郡 岩手県(前略)波打峠一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に15番目の一里塚です。 以下略 平成12年3月25日 一戸町教育委員会

県道を横切っていよいよ末の松山をめざす。途中小井田川を越えた先の二股を右にとって進むと砂利道となって山中に入っていく。道は比較的広く平で充分車で行ける道である。日光街道をおもわせる杉木立の中を進んで行くと峠近くに波打峠一里塚があらわれた。盛岡から15番目の一里塚である。東西両側とも残っているが下から見上げる角度では塚の様子がよくわからない。通り過ぎて坂上から振り返るとよく見える。

峠まで400m、山下水まで900mと示す道標がある。

末の松山波打峠 旧奥州街道 一戸町 二戸郡 岩手県
末の松山波打峠 旧奥州街道 一戸町 二戸郡 岩手県

やがて眼前に淡い紅葉の点描画が現出する。左に北白川能久親王御休憩之碑、右に明治天皇御野立之碑が建つ。波打つような縞模様の岩石が街道を挟んでいる。国指定天然記念物の波打ち峠交叉層で、古代は海底であった。江戸時代にはここで貝が拾えたという。東屋の脇に標識があり、山下水まで500m、九戸(くのへ)城まで3.3kmとある。

浪打峠の交叉層 一戸大越田 一戸町 二戸郡 岩手県
浪打峠の交叉層 一戸大越田 一戸町 二戸郡 岩手県

交叉層とは、普通「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層が斜めに交又する小規模な地層のことで、流動している水中、または空気中で砂や砂礫などが堆積する時に生ずるものといわれています。ここ浪打峠の交叉層は、海水の中で堆積したもので、砂や軽石の粒や火山岩の粒が主な堆積物で、それにホタテ貝などの破砕片を多く含み、美しい縞模様をつくりながら積もり、明瞭な交叉の様子を見せています。 この交叉層は、その外観が美し……

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交叉層とは、普通「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層が斜めに交又する小規模な地層のことで、流動している水中、または空気中で砂や砂礫などが堆積する時に生ずるものといわれています。ここ浪打峠の交叉層は、海水の中で堆積したもので、砂や軽石の粒や火山岩の粒が主な堆積物で、それにホタテ貝などの破砕片を多く含み、美しい縞模様をつくりながら積もり、明瞭な交叉の様子を見せています。 この交叉層は、その外観が美しく、規模も大きいことから、国の天然記念物として、指定されました。この地層は「末の松山層」といわれ、海底火山の噴出が盛んであった時代に、海水の中で、堆積した「末の松山層」の、上位の部分の地層で、いまから千五百万年前に堆積したものと考えられています。 波打峠は別名「末の松山」ともいい、昔一戸から福岡(二戸市)へぬける「奥州街道」となっていた場所です。平成14年3月29日 一戸町教育委員会

堆積地層の姿が波に穿たれた海岸に似ていることから「末の松山」とよばれ歌枕となっていた。末の松山は多賀城の近くにもある。どちらが本家かしらないが、少なくとも芭蕉にとっての末の松山は多賀城しかない。情景をみるかぎり多賀城の松山と波打ち峠の交叉層をあわせればよいのではないかと思われた。

福岡(二戸)

山下水 石切所浪打 二戸市 岩手県
山下水 石切所浪打 二戸市 岩手県明治9年(1876)明治天皇が東北御巡幸の折、浪打峠で行なわれた野立てにこの山下水が用いられ大変喜ばれた。その後この山下水は御膳水と呼ばれる名水となった。その水桶に添えて差し出された和歌が石碑に刻まれている。「足曳の山下水をくみあげてわが大君にお茶たてまつる」

峠をこえた二戸側の道は舗装されている。急坂を下っていくと左手に名水「山下水」がある。峠での明治天皇野立てにこの水が用いられた。

旧奥州街道(久府坂) 福岡橋場 二戸市 岩手県
旧奥州街道(久府坂) 福岡橋場 二戸市 岩手県

旧街道は車道に合流し石切所地区の集落をぬって久府(くふ)坂を下り橋場で県道274号に合流する。この丁字路には1本の脇道がでていて変則4差路になっている。

久府(くふ)坂と街道分岐点 福岡橋場 二戸市 岩手県
久府(くふ)坂と街道分岐点 福岡橋場 二戸市 岩手県

天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と離れ、在府小路周辺に住んだと云われています。 左手の坂は当時、帰府坂と呼ぱれていました。僅か百メートル程ですが、在府から帰る坂、或いは、在府に戻る坂として、家臣たちが三戸に残してきた家族を……

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天正19年(1591)の九戸の乱以降、九戸城は蒲生氏郷が修築し、三戸の南部信直の居城として払い下げられました。これを契機に地名が「宮野」から「福岡」に改められ、信直は家臣団を引き連れて移りますが、家臣たちは家族と離れ、在府小路周辺に住んだと云われています。 左手の坂は当時、帰府坂と呼ぱれていました。僅か百メートル程ですが、在府から帰る坂、或いは、在府に戻る坂として、家臣たちが三戸に残してきた家族を偲び、懐かしさと寂しさを込めて名付けたのが始まりと云われています。 また、この坂の起点は奥州道中と浄法寺街道の分岐点でもあり、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれた追分石があります。

交差点の真中に中央線の代わりのブロックがおいてある、ちょっとややこしい交差点だ。その左手に「久府坂と街道分岐点」の案内標識があって、今下ってきた坂が久府坂であることを知る。県道274号を左(南)にいくのが浄法寺街道で県道6号に沿って浄法寺町を経て安代で鹿角街道に合流する。旅情をそそる35km余りの街道である。

交差点の反対側には刀剣状の追分石があって、「末の松山波打峠従是三十丁」と刻まれている。

旧福岡宿町並 福岡五日町 二戸市 岩手県
旧福岡宿町並 福岡五日町 二戸市 岩手県
槻蔭舎(会輔社学舎) 福岡五日町 二戸市 岩手県
槻蔭舎(会輔社学舎) 福岡五日町 二戸市 岩手県

ニ戸市指定有形文化財(建造物) 安政5(1858)年、荻の小倉謙作(鯤堂)が当地を訪れた際、和漢学の講学を目的として、呑香稲荷神社祠官小保内孫陸と設立したのが会輔社である。さらに万延元(1860)年水戸の吉田房五郎(弗堂)が福岡を訪れた際、社規を創り役員を指名、会輔社としての組織を整えた。(中略) 明治11(1878)年、定身を中心とする会輔社社員は私学校である会輔社学校を設立し、近代社会学を必修……

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ニ戸市指定有形文化財(建造物) 安政5(1858)年、荻の小倉謙作(鯤堂)が当地を訪れた際、和漢学の講学を目的として、呑香稲荷神社祠官小保内孫陸と設立したのが会輔社である。さらに万延元(1860)年水戸の吉田房五郎(弗堂)が福岡を訪れた際、社規を創り役員を指名、会輔社としての組織を整えた。(中略) 明治11(1878)年、定身を中心とする会輔社社員は私学校である会輔社学校を設立し、近代社会学を必修科目にとりいれた。その活動は当地において青少年の育成に甚大な影響をもたらLたことはいうまでもなく、後年県下に先んじて福岡中学校の設立を見るに至ったのも、教育、政治、産業の各分野にわたって幾多の偉人を排出したのも、その礎をここ会舗社にみることができる。 二戸市教育委員会

奥州街道はここを右折して福岡宿に入っていく。しっとりと落ち着いた雰囲気の町並である。すぐ右手に呑香(どんこう)稲荷神社の鳥居が立つ。参道をすすみ石段下左手に「会輔社」が保存されている。萱葺の小さな庵風情の建物は稲荷神社の茶室であった。

大作神社 福岡松ノ丸 二戸市 岩手県
大作神社 福岡松ノ丸 二戸市 岩手県北方防備論を唱えた幕末の志士相馬大作、本名・下斗米秀之進は南部公への忠義心から津軽公に隠居を勧告しようと襲撃未遂事件を起こしますが、捕えられ江戸で斬首されました。その思想や行動は当時の人々に賞賛され、文武両道の神として奉りあがめられています。
呑香(とんこう)稲荷神社 福岡松の丸 二戸市 岩手県
呑香(とんこう)稲荷神社 福岡松の丸 二戸市 岩手県

呑香稲荷神社は社伝によると、延暦20年(801)または承和年間(834~)の頃、出羽国の大物忌神社を勧請したのが始まりと云われ、天和2年(1682)、小保内源左衛門が霊夢により現在の地に遷座したと伝えられています。 藩政時代は盛岡藩の祈願所となり、例祭は千石格式で数十名の武士が前後を警護し、御輿渡御(お出かけ)が行われていました。 この御輿は宝暦13年(1763)、第34代藩主南部利雄(としかつ)……

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呑香稲荷神社は社伝によると、延暦20年(801)または承和年間(834~)の頃、出羽国の大物忌神社を勧請したのが始まりと云われ、天和2年(1682)、小保内源左衛門が霊夢により現在の地に遷座したと伝えられています。 藩政時代は盛岡藩の祈願所となり、例祭は千石格式で数十名の武士が前後を警護し、御輿渡御(お出かけ)が行われていました。 この御輿は宝暦13年(1763)、第34代藩主南部利雄(としかつ)公が寄進したと云われ、形状的にも珍しく責重なものです。

稲荷神社の右側奥にある小社は大作神社で、幕末の志士相馬大作(本名は下斗米(しもとまい)秀之進)を祀っている。大作は津軽氏に対する南部氏の積年の恨みから参勤交代の津軽藩主を襲撃しようとした。企ては発覚し未遂におわるも捕えられ江戸小塚原で斬首された。全国的なヒーローとなった相馬大作の精神を継承して設立されたのが私塾会輔社である。

九戸城本丸追手門跡 福岡城ノ内 二戸市 岩手県
九戸城本丸追手門跡 福岡城ノ内 二戸市 岩手県ニノ丸から本丸へ入る虎口の1つで、追手門跡と呼ぱれています。南北双方から伸びる土塁がここでクランク状に屈曲しており、桝形となっています。この桝形は戦国時代末期(16世紀後半)に特色的に見られる虎口の形態で、敵の軍勢が一挙に攻め込みにくい形の防御施設です。現在ニノ丸とは土橋で繋っていますが、当時石垣の築かれていたこの空堀には土橋は無く、木橋が架かっていたと思われます。

郵便局の先を右折して九戸城跡を見る。大きな芝生公園のようにきれいに整備された城跡である。大手門跡から入ると、右に搦手門跡がある。その右奥では今も発掘作業が行なわれているようであった。芝生を横切って土橋をわたると桝形の堀・土塁が残る本丸追手門跡となり、左にまわりこんだところが空堀に囲まれた方形の本丸跡となっている。城は西側に馬淵川、北側には白鳥川、東川は猫淵川と、三方を自然の要害に囲まれていた。大手門の反対側(南側)には武家屋敷の在府小路があった。三戸に家族を置いてここに移って来た南部信直の家臣が住んだ区域で、その南西にある奥州街道が久府坂とよばれた急坂であった。在府から帰る坂、あるいは在府に戻る坂として、家臣たちが哀愁を込めて名付けたのが久府坂の由来といわれている。

九戸城本丸跡 福岡城ノ内 二戸市 岩手県
九戸城本丸跡 福岡城ノ内 二戸市 岩手県

ほぽ100m四方の方形の曲輪で西南、東南、西北の隅に櫓が築かれており東北隅は1段低い特別の区画となっています。南側と東側は土塁が築かれ土塁の両面は石積、あるいは石垣が築かれています。また各土塁の一部|こは桝形と呼ばれるクランク状の屈曲が覧られ本丸とニノ丸を結ぶ虎口を形成しています。 この他西南隅にも三ノ丸方面に降りる虎口があったと思われます。ニノ丸、松ノ丸とともに直線的な造りであり、石垣とともに近……

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ほぽ100m四方の方形の曲輪で西南、東南、西北の隅に櫓が築かれており東北隅は1段低い特別の区画となっています。南側と東側は土塁が築かれ土塁の両面は石積、あるいは石垣が築かれています。また各土塁の一部|こは桝形と呼ばれるクランク状の屈曲が覧られ本丸とニノ丸を結ぶ虎口を形成しています。 この他西南隅にも三ノ丸方面に降りる虎口があったと思われます。ニノ丸、松ノ丸とともに直線的な造りであり、石垣とともに近世的な特色が強く現れています。

九戸郡九戸村出の九戸氏第4代、九戸光正が明応年間(1492~1501年)に九戸城を築城し勢力を拡大した。天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政の死去をうけて跡目を巡り、宗家三戸南部家と九戸氏とが対立、抗争を繰り返すことになった。秀吉による奥州仕置きの翌年、天正19年(1591)九戸政実は南部信直に対して兵を挙げるが、豊臣秀吉は徳川家康や豊臣秀次などの討伐軍を派遣して九戸城を攻めた。九戸勢は頑強に抵抗したが豊臣秀吉の謀略にかかって政実は捕えられて斬首、城内に居た者は惨殺され九戸城はあえなく落城した。その後蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修、南部信直が三戸城からここに居を移し九戸を福岡と改め南部の本拠地とした。寛永13年(1636)、信直の子利直が盛岡城に本拠を移すことになって福岡上は廃城となった。九戸氏に対する同情は厚く、今も城は福岡城でなく九戸城と呼ばれている。

馬助坂(ますけざか) 福岡城ノ外 二戸市 岩手県
馬助坂(ますけざか) 福岡城ノ外 二戸市 岩手県この坂はますけ坂とよばれ、藩政時代に盛岡と三戸を結ぶ街道の道筋にあり多くの人馬が往来しました。近世の古図には[馬助坂]とあり、馬車や馬そりが難渋した際、人足や博労が馬を助けながら上がったことに由来すると思われます。またこの辺りは九戸城三の丸の一角でもあります。
岩谷観音堂 福岡城ノ外 二戸市 岩手県
岩谷観音堂 福岡城ノ外 二戸市 岩手県

街道にもどる。旧街道は白鳥川を今の岩谷橋でなく、橋の手前で左手に残る馬助(ますけ)坂と呼ばれる旧道を通っていた。人足や馬喰が馬を助けなければならないほどの急坂だったという。橋をわたった右手の岩壁に掘られた洞窟に岩谷観音堂がある。百年に一度の開帳という秘仏が安置されている。

奥州道中の追分石 福岡落久保 二戸市 岩手県
奥州道中の追分石 福岡落久保 二戸市 岩手県
代官所跡 福岡町裏 二戸市 岩手県
代官所跡 福岡町裏 二戸市 岩手県

坂を上り県道24号/274号の交差点手前に追分石がある。「右 もり岡 左 白とり」と刻んである。元は坂下にあった。白鳥道は白鳥川に沿って今の県道24号となり、白鳥を経て九戸氏発祥の地九戸村に通じる道である。

交差点を渡ったすぐ右手、三五郎屋脇の細道の先が代官所跡である。赤い屋根の民家が立ちはだかっていた。

民家 福岡中町 二戸市 岩手県
民家 福岡中町 二戸市 岩手県

街道は上町、中町、下町と往時の町割を通り過ぎる。格子窓、石蔵を配した商家らしい建物などこのあたりにも旧宿場街をしのばせる家並みが残っている。

龍岩寺 福岡横丁 二戸市 岩手県
龍岩寺 福岡横丁 二戸市 岩手県

左手にある龍岩寺に寄る。威風ある仁王門をくぐり墓地の左手に相馬大作(下斗米秀之進)と同志関良助の墓が並んである。両氏は江戸で捕えられ小塚原で処刑され遺体は南千住の回向院に埋葬された。昭和45年、墓は回向院から当地に移されたものである。南部と津軽は犬猿の仲といわれ、両藩の確執には根深いものがある。奥州街道が青森の奥深く入っていくに連れてその全容が明らかになってくるのではないかと期待している。

八戸街道追分石 堀野 二戸市 岩手県
八戸街道追分石 堀野 二戸市 岩手県

街道を北に進んで斗米橋に通じる交差点手前で右に分岐している道が八戸道で、安永元年(1772)の追分石には「八戸道 三戸道」と簡潔に刻まれている。三戸道は奥州街道のこと。八戸は奥州街道から外れている。

ここで、ずっと気にかかっていたことを整理しておこう。

一戸から九戸まで、戸とは一体なんなのか。どうしてここだけにあるのか。奥州街道には1から9までのうち幾つあるのか、等。南部美人の蔵元、久慈酒造のHPから引用させていただく。

北は青森県八戸市から南は岩手県一戸町に至る地区は、一戸から九戸までの地名が並ぶ珍しい地方です。これは「糠部(ぬかのぶ)郡九か戸の制」等とよばれるもので、その由来には、「戸」が古代律令制度下の「編戸」に関わるものであると推察される説と、鎌倉期に設けられた牧場制度(門戸の制)に由来するというもので、領内馬産地経営の政策として、九ヶ戸制を敷き、一戸に一牧場・七ヶ村を配し、東西南北の四門を置いたという説があります。

旧道途絶 堀野馬場 二戸市 岩手県
旧道途絶 堀野馬場 二戸市 岩手県左:馬渕川 右:二戸市浄水場

さて、一戸、二戸は見てきた。また九戸は奥州街道からはずれて二戸の東方にあることも知った。三戸は青森県最初の宿場である。その次の浅水宿が四戸(しのへ)氏の地らしいとされているが、他方で三戸の手前の金田一に四戸城跡が残っている。浅水の次が五戸。六戸は十和田市の東で惜しくもはずれ。奥州街道は七戸宿を経て野辺地に至る。結局、9、8、6が外れであった。「戸(へ)」は岩手県に3つ、青森県に6つ。九戸だけが順番の南から北へのおおまかな位置関係を乱している。

街道は八戸追分の先の三叉路交差点で右にまがっていく県道274号と分れ、直進する旧道に入る。まもなく旧道は浄水場前で途絶。昔はここで馬渕川を渡っていた。今は三叉路にもどり斗米橋を渡るしかない。

金田一

旧道復活地点 上田面 金田一 二戸市 岩手県
旧道復活地点 上田面 金田一 二戸市 岩手県二戸市浄水場対岸

斗米橋を渡って国道4号を右折、300mほど進んで右の旧道にでて馬渕川沿いに北にたどると浄水場対岸地点に至る。「奥州街道」の標識があり、復活した旧道を案内している。足元が悪い上に草が深くて河原まで下ることはできなかった。古道の風情あふれる道が残っている。

追分石・経塚 上平 金田一 二戸市 岩手県
追分石・経塚 上平 金田一 二戸市 岩手県

トトメキの追分石 これら2つの石碑は、それぞれ亨保20年(1735)と宝暦2年(1751)に建立された阿弥陀信仰の念仏を刻んだ碑で飢饉の死者を供養する目的があったと思われます。追分石を兼ねており、道路標識の役目の他に石の霊力によりここから村への災いの侵入を防ぐ願いも込められています。 このあたりを「トトメキ」といい瀬音に由来する地名と思われます。追分石としては市内で最古のものです。 平成10年3月……

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トトメキの追分石 これら2つの石碑は、それぞれ亨保20年(1735)と宝暦2年(1751)に建立された阿弥陀信仰の念仏を刻んだ碑で飢饉の死者を供養する目的があったと思われます。追分石を兼ねており、道路標識の役目の他に石の霊力によりここから村への災いの侵入を防ぐ願いも込められています。 このあたりを「トトメキ」といい瀬音に由来する地名と思われます。追分石としては市内で最古のものです。 平成10年3月 二戸市

街道は国道を横切りタイヤショップの南側、「奥州街道」矢印標識の立つ場所から再び旧道に入る。第二長瀬踏切をこえた左手に石塔が二基並んでいる。角柱碑が宝暦2年(1751)建立の念仏供養塔で、自然石が亨保20年(1735)のものだが刻字は読みづらい。線路沿いの道を上がった二股左側に経塚がある。

金田一町並 金田一舘 二戸市 岩手県
金田一町並 金田一舘 二戸市 岩手県

線路に沿って道は金田一集落に入っていく。左手に八坂神社入口がある。「金田一小学校開校之地」の石標が立つ坂道をあがると集落をみおろせる展望の地に八坂神社がある。由緒書きなどの立札はなかった。

四戸城跡 金田一舘 二戸市 岩手県
四戸城跡 金田一舘 二戸市 岩手県

四戸城は上館、中館、下館の三つの曲輪からなっています。南部氏の一族とされる四戸氏の居城でしたが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良くわかっていません。戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主、九戸政実の妻で、また四戸宗泰の妻は九戸政実の叔母でした。四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄でありました。しかし、天正19年(1591)の九戸の戦いを前に、四戸宗元(宗泰の嫡……

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四戸城は上館、中館、下館の三つの曲輪からなっています。南部氏の一族とされる四戸氏の居城でしたが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良くわかっていません。戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主、九戸政実の妻で、また四戸宗泰の妻は九戸政実の叔母でした。四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄でありました。しかし、天正19年(1591)の九戸の戦いを前に、四戸宗元(宗泰の嫡子で当時城主)は弟金次郎の流言のため秋田へ逃れ、病死しました。そのため四戸城は九戸方に対する南部信直方の居城となり、九戸の戦いの後、廃城となりました。

八坂神社の裏側にあたる高台に四戸城があった。地名も「館」という。四戸氏がいつこの地にやってきたかははっきりわかっていない。大きな石の脇に立つ説明標識によると四戸氏は九戸氏と姻戚関係を結んで親しかった。しかし九戸政実の乱の際には戦わずして秋田に逃れたという。四戸氏は最後まで影の薄い存在だった。

金田一といえばアイヌ語研究と国語辞典でなじみの金田一京助を思い起こす。盛岡中学では石川啄木の一年上級生で啄木には金銭の面倒までみてやった。

民家 金田一野月 二戸市 岩手県
民家 金田一野月 二戸市 岩手県

金田一の地名の起源には諸説あるらしいが、南部氏の祖南部光行の第4子が四戸氏を名乗り、そこから金田一氏が出たと言うのが有力らしい。地名の金田一はそれでよいとして四戸氏の本拠地がどこかについてははっきりしていない。

延命地蔵 金田一野月 二戸市 岩手県
延命地蔵 金田一野月 二戸市 岩手県

このお地蔵さまは、今から約260年前の天文年間に大坂で造られ八戸から大八車で一戸まで運ばれる途中金田一で動かなくなり、イタコに□寄せさせたところ「金田一の人達から拝んでもらいたい」と言ったのでこの地に奉られたと伝わっています。 明治24年(1891)東北本線開設工事の時、線路用地にかかり今のお堂に安置されました。延命地蔵は、短命・夭折から赤子を護るとされ、信仰を集めています。 (縁日 三月二四日、……

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このお地蔵さまは、今から約260年前の天文年間に大坂で造られ八戸から大八車で一戸まで運ばれる途中金田一で動かなくなり、イタコに□寄せさせたところ「金田一の人達から拝んでもらいたい」と言ったのでこの地に奉られたと伝わっています。 明治24年(1891)東北本線開設工事の時、線路用地にかかり今のお堂に安置されました。延命地蔵は、短命・夭折から赤子を護るとされ、信仰を集めています。 (縁日 三月二四日、八月二四日) 平成10年3月 二戸市

街道を北に進む。古い建物など旧宿場の雰囲気を残すもの静かな集落である。

左手にいくつもの石塔がならびその奥に延命地蔵がある。

金田一温泉駅の手前で下金田一踏切をわたり銀河鉄道の東側に出る。

緑風荘 金田一長川 二戸市 岩手県
緑風荘 金田一長川 二戸市 岩手県座敷わらしで有名、2009年10月4日全焼

今の金田一は駅名でもわかるように温泉で知られている。寛永3年(1626)の発見と伝わる古い温泉地である。そこの老舗旅館「緑風荘」が10月4日全焼した。それだけの話なら街道からはなれた温泉街まで寄り道しないのだが、緑風荘には特別の謂われがあった。槐(えんじゅ)の間に座敷童(ざしきわらし)が出るというのである。はじめは何のことかわからなかったが、調べるうちにオドロオドロした横溝正史の世界ではなくて、福をもたらす精霊であることがわかってきた。

火災の現場には玄関の一部が残っているほかは無惨に焼きただれていた。未だに焦げ臭い。座敷童は焼死したのか。

いわて銀河鉄道 金田一水梨 二戸市 岩手県
いわて銀河鉄道 金田一水梨 二戸市 岩手県野々上通踏切より三戸方面 右下を国道4号、馬渕川が、左上を旧奥州街道が走る
旧奥州街道 金田一水梨 二戸市 岩手県
旧奥州街道 金田一水梨 二戸市 岩手県

駅前の街道にもどる。北にむかうとすぐ左手斜めに坂道が出ている。すこし線路に沿ったあと、野々上通踏切を渡って山中の急な坂道にはいっていく。ほとんど獣道である。踏み切りはこのためだけに設けられたとは思えない。途中にある小さな石仏が旧道であることを示していた。10分ほどの短い山道を上りきると車道に出る

願海庵 金田一水梨 二戸市 岩手県
願海庵 金田一水梨 二戸市 岩手県

二条天皇の時代、永暦元年(1160)に、比叡の恵心僧都源心和尚の法弟円証僧都の一門にある円忍僧都が、打ち続く兵乱に京洛をきらって遁れ、金田一村野々上部落の寺沢に来て一庵を結ぶ。(中略)27世までは天台宗であったが28代良満になってから浄土宗に改宗。中興の祖良満は、京都知恩院山内からはるばる金田一までやってきて願海院の荒廃と零落を悲しみ里の人々らに再建を呼びかけ協力を得て新しく寺を建立した。良満上人……

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二条天皇の時代、永暦元年(1160)に、比叡の恵心僧都源心和尚の法弟円証僧都の一門にある円忍僧都が、打ち続く兵乱に京洛をきらって遁れ、金田一村野々上部落の寺沢に来て一庵を結ぶ。(中略)27世までは天台宗であったが28代良満になってから浄土宗に改宗。中興の祖良満は、京都知恩院山内からはるばる金田一までやってきて願海院の荒廃と零落を悲しみ里の人々らに再建を呼びかけ協力を得て新しく寺を建立した。良満上人は、近郷の城主諸侯に非常に恩恵を受け、また八戸辺からもたくさんの人々が詣でたという。また京都知恩院の直来寺となったので奥州随一の別格の寺である。

すぐ左手に願海庵をみて山間の道路を北に進んでいく。

旧奥州街道 金田一川口 二戸市 岩手県
旧奥州街道 金田一川口 二戸市 岩手県

やがて舗装道路から右の山道を通り抜け、馬渕川段丘が拓かれた平らな農道に出る。農作業をする婦人に確かめたところこれが旧道でまちがいなさそうだった。まっすぐすすみ川口集落で県道241号にでた。県道を左折、海上川をわたってすぐ右にでている舗装道にはいる。山間の旧道筋にしては直線的すぎ、このあたり開拓された際に道も改修整備されたものと思われる。左手に「別当屋敷之墓」があるが、裏面の墓誌からこれは史跡ではなくて個人の墓のようであった。

旧奥州街道 釜沢道ノ下 二戸市 岩手県
旧奥州街道 釜沢道ノ下 二戸市 岩手県岩手県最北端の集落 この先蓑ヶ坂で青森県に入る。
蓑ヶ坂入口 旧奥州街道 釜沢道ノ上 二戸市 岩手県
蓑ヶ坂入口 旧奥州街道 釜沢道ノ上 二戸市 岩手県

舗装道路は岩手県最北の釜沢道の下集落の北端で途切れ、簑が坂(みのがさか)入口に来る。坂名の由来となった伝承が記されている。明治天皇巡幸の際ここで馬車が動けなくなり馬に乗り換えたとある。谷沿いの道は落石がはなはだしく荒れている。少しの雨でも通行不能になりそうな道である。すぐに県境を越えるらしいが地点は定かでなかった。

駕籠立場跡 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県
駕籠立場跡 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県

江戸時代、街道を通る旅人、カゴ、馬などが足をとめ休息する所を立場と称したがここは特にカゴタテバと呼ばれている。険しい坂道として有名なミノガ坂を登りつめると がパノラマの如く展開する。旅人は必ず一息いれたい場所で吉兵衛茶屋が一軒あった。明治天皇が東北御巡幸の際、明治9年、14年の二度お休みになった所でもある。昔、ミノガ坂に大蛇がミノに化けて出て旅人を悩ましていたが、玉山兵庫がこれを退治したという伝説……

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江戸時代、街道を通る旅人、カゴ、馬などが足をとめ休息する所を立場と称したがここは特にカゴタテバと呼ばれている。険しい坂道として有名なミノガ坂を登りつめると がパノラマの如く展開する。旅人は必ず一息いれたい場所で吉兵衛茶屋が一軒あった。明治天皇が東北御巡幸の際、明治9年、14年の二度お休みになった所でもある。昔、ミノガ坂に大蛇がミノに化けて出て旅人を悩ましていたが、玉山兵庫がこれを退治したという伝説もある。近くに県史跡の が二基あり奥州街道の名残をとどめている。 三戸町教育委員会

道は歩きやすくなってほどなく穏やかな峠に至る。小さな空間に、駕籠立場、明治天皇休息の記念碑、吉田松陰の東北遊日記碑がある。

二戸市釜沢地区眺望 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県
二戸市釜沢地区眺望 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県駕籠立場跡より

崖渕に展望台が設置されていて、そこからの眺めがすばらしい。眼下に広がる集落は釜沢で岩手県、中央を走る青い線は馬渕川である。

駕籠立場跡より眺望 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県
駕籠立場跡より眺望 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県崖下は岩手県二戸市・馬渕川、 崖上は青森県三戸町・旧奥州街道がはしる

左に目を移していくと低地は舌状の絶壁に包囲されている。崖下を流れる川もまた馬渕川である。展望台の直下で川の流れがぐるりと旋回しているのだ。隆起したのか陥没したのか見事な段丘崖の景観をみた。崖の上は青森県で崖渕を奥州街道がはしっている。

駕籠立場一里塚 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県
駕籠立場一里塚 目時中野 三戸町 三戸郡 青森県(前略)この街道は、長年にわたり勾配を緩くするため削られて、両一里塚とも道路より約6m近く高く位置している。

下り坂にはいる。左手にところどころリンゴ畑が開けている。子犬と散歩する少女にであった。難所も籠立場から青森県側は日常の散歩道なのだろう。熊の心配はなさそうだ。駕籠立場一里塚が現れる。街道が切り下げられたため塚は6mもの高い位置にあって全容がつかめにくい。そのためか、階段がつけられていた。

旧奥州街道 三戸町目時 三戸郡 青森県
旧奥州街道 三戸町目時 三戸郡 青森県右が旧道、山道を下って国道4号にでる。

まもなく道は二股に分かれ、右の細道をとって国道4号に合流する。

(2009年10月)

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