西近江路 3区間のうち3番目

西近江路(3)

山中-駄口-追分-疋田-道口-敦賀 海津~敦賀=七里半越え

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山中

山中

親鸞聖人有乳(あらち)山旧跡 山中 敦賀市 福井県
親鸞聖人有乳(あらち)山旧跡 山中 敦賀市 福井県

愛発(あらち) 親鸞聖人御旧跡 1207年に越後へ流罪される折に、この地に泊まられた。その時に「越路なるあらちの山に行きつかれ足もちしほに染まるばかりぞ」と詠じられた。右奥の廃寺「光伝寺」境内にも文化11年(1814)建立の石碑が立っている。 宿駅 平安末期から「山中」という地名が出てくる。江戸末期には宿駅となり一里塚、口留番所、高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近……

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愛発(あらち) 親鸞聖人御旧跡 1207年に越後へ流罪される折に、この地に泊まられた。その時に「越路なるあらちの山に行きつかれ足もちしほに染まるばかりぞ」と詠じられた。右奥の廃寺「光伝寺」境内にも文化11年(1814)建立の石碑が立っている。 宿駅 平安末期から「山中」という地名が出てくる。江戸末期には宿駅となり一里塚、口留番所、高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近い人が住み問屋も10軒ほどある宿場であったといわれている。

越後の国に入ってしばらく坂を下ったところの左手に急に旧道跡が残っており、そこに「親鸞聖人有乳(あらち)山旧跡」の碑と「愛発(あらち)山中区」と題した案内板が立っている。

旧道 愛発(あらち)地区 山中 敦賀市 福井県
旧道 愛発(あらち)地区 山中 敦賀市 福井県

山中は西近江路が越前国にはいった最初の宿場で一里塚、口留番所、高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近い人が住み問屋も10軒ほどある宿場であったといわれている。江戸期に敦賀-塩津の道が開削整備され、さらには西廻り航路が開発されるると古代路をベースにした海津~敦賀の七里半街道は徐々に衰退し、山中宿は明治初期に問屋は4軒に減り、集落も昭和46年には家数1戸となり、現在は唯一の1戸も廃家となって山中村は廃村となった。

親鸞聖人御旧蹟 山中 敦賀市 福井県
親鸞聖人御旧蹟 山中 敦賀市 福井県1207年に越後へ流罪される折に、この地に泊まられた。その時に 「越路なるあらちの山に行きつかれ足もちしほに染まるばかりぞ」 と詠じられた。右奥の廃寺「光伝寺」境内にも文化11年(1814)建立の石碑が立っている。
廃寺光伝寺跡 山中 敦賀市 福井県
廃寺光伝寺跡 山中 敦賀市 福井県

廃家の脇にのこる草道をたどると左手に親鸞聖人御旧蹟碑が立つ。ここは廃寺光伝寺の境内で、1207年親鸞が越後へ流罪される折この地に泊まった。その時に詠んだとされる歌の碑が文化11年(1814)大坂商人播磨屋の手で建立されている。

越路なるあらちの山に行きつかれ足もちしほに染まるばかりぞ

旧道 山中 敦賀市 福井県
旧道 山中 敦賀市 福井県宿駅 平安末期から「山中」という地名が出てくる。江戸末期には宿駅となり一里塚、口留番所、高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近い人が住み問屋も10軒ほどある宿場であったといわれている。

廃道をそのまま進んでいくと国道にもどる。

しばらく国道を下っていくと右手に「黒龍散水施設」の標識が現れ、左手に旧道らしい道が出ている。山中集落の片割れかと思って入っていくと一軒の民家があってそこからは生活の臭いが漂っていた。さらに進んだところはコンクリートの基礎だけが残る廃墟の一角だった。その基礎構造からして民家とは思われず、牛鶏舎か倉庫のような跡に見受けられる。ともかく、山中集落は先の光伝寺周辺で間違いなさそうだ。

駄口

一里塚 駄口 敦賀市 福井県
一里塚 駄口 敦賀市 福井県
日吉神社 駄口 敦賀市 福井県
日吉神社 駄口 敦賀市 福井県この社は亀山天皇弘長2年(1262)2月の創立なりしも、何時の頃にか廃絶の態となりしが、文政3年4月再建して、明治11年3月村社に列せられたのである。 明治四十三年十二月十日、追分区日吉神社に合祀した。

国道は蛇行しながら下がっていく。ゆるやかに左に曲がるところ、大木の根元に駄口の一里塚碑がある。昭和11年に福井県が設置したものである。まもなく左手に駄口集落に入る旧道が現れる。入ってすぐ左手に日吉神社がある。

その先左手に大きな空き地があって街道沿いに思わせぶりな石柱がある。何か刻まれていそうで、単なる石柱に過ぎないようでもある。

清光寺? 駄口 敦賀市 福井県
清光寺? 駄口 敦賀市 福井県

空き地の奥まった場所から石段が密に築かれ、その上に平屋の建物が覗かれる。集会所のようでもあり地図にある清光寺という寺かも知れない。これも気になる風景であった。

旧駄口宿家並み 駄口 敦賀市 福井県
旧駄口宿家並み 駄口 敦賀市 福井県

駄口は冬季3ヶ月間を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒ほかに茶屋兼宿屋が1軒あっただけの小さな宿場であった。享保12年(1727)の家数は24戸、人数134という記録が残る。住民は自分の飼っている駄馬で副業的に駄賃稼ぎを行っていたといわれる。

駄口集落をぬけ国道に戻る。

追分

追分旧道入口 追分 敦賀市 福井県
追分旧道入口 追分 敦賀市 福井県

三笠電気の先で右のガードレールに誘導されて旧道に入る。右手に五位川を見ながら進み橋を渡ったところで、塩津街道の古いルートである深坂古道と合流する。

深坂古道・西近江路合流点 追分 敦賀市 福井県
深坂古道・西近江路合流点 追分 敦賀市 福井県

敦賀から来た街道はここで七里半越えの道で海津に出る道と、深坂峠越えで塩津に出る道に分かれていた。宿場はこの追分に作られた。近世になって高低差の少ない「新道野越え」が開かれると峻険な深坂越えは使われなくなり、それに伴って追分宿も衰退していった。享保12年(1727)の記録では家数20戸、人数108とある。

町並み 追分 敦賀市 福井県
町並み 追分 敦賀市 福井県

追分集落を歩く。旧街道の面影を残す民家が見受けられる。道端で出会った男性に宿場の遺構を尋ねたが何もないとのことだった。ただし「昔は雲助をやっていた。最近まで駕籠が残っていたんだが」と、貴重な証言を得た。山間の静かな集落である。紫式部が父親と深坂峠の難所を越して一息ついた風景が蘇る。

新疋田駅 追分 敦賀市 福井県
新疋田駅 追分 敦賀市 福井県JR北陸本線
新疋田駅 追分 敦賀市 福井県
新疋田駅 追分 敦賀市 福井県JR湖西線

国道にもどるとすぐ右手にJR新疋田駅がある。無人駅だが、ログハウス風の感じよい駅舎である。待合室の壁面は四方鉄道写真が張り巡らされていた。「自由に貼ってください」という。しかもどうやらこの駅で撮った写真のようだ。プラットホームに出ると「プラットホームでは三脚を使わないように」との注意書きがあった。左敦賀方面は線路が大きくカーブして、列車の全体を撮るのにふさわしい。右手、滋賀県方面はすぐに深坂トンネルの二つの穴が覗いている。右から出てくる下り列車と、左に入る上り列車を同時に撮れれば最高だろう。プラットホームに一人の若者が三脚に大きな望遠レンズを乗せて列車を待ち構えていた。三脚は線路と反対側の金網を跨ぐようにして立てていたので注意書き違反ではない。彼と同じ列車を撮って駅を離れた。

疋田

題目石 集落入口 疋田 敦賀市 福井県
題目石 集落入口 疋田 敦賀市 福井県

JR北陸本線の高架をくぐると左手に疋田集落への旧道が分かれている。集落入口に大きな岩があって「天下和順 延享四年丁卯(1747)南無阿弥陀仏 日月晴明」と刻まれた板石が張り付けてある。岩の上には祠屋根が乗せられていてなんとも奇妙な姿である。集落の安穏と往来の安全を祈願して造られた。

疋壇城跡 疋田 敦賀市 福井県
疋壇城跡 疋田 敦賀市 福井県

史跡 疋壇城跡 昭和29年12月9日福井県指定 この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。 この地は、柳ケ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで……

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史跡 疋壇城跡 昭和29年12月9日福井県指定 この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。 この地は、柳ケ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで元亀元年(1570)織田信長が天筒山城を攻略した際に金ヶ崎城jと共にこの城も破壊された。信長軍の撤収後に一旦は修復されたらしく朝倉の臣栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃に依り城主疋壇六郎三郎は討死し城は完全に破却された。それからここに400有余年、今も遣る石塁塹壕跡が名残をとどめ、そこかしこに遺る小字名と共に往時を物語っている。 (幻雲文集・西福寺文書・信長記その他)

その先に疋壇城跡の標識が立っている。街道を離れて奥の石段を上がりつめると広いグラウンドに出た。「西愛発小学校跡地」の標石がある。グラウンドの北側に説明板と城跡の石碑が建っていた。その後ろの高台に遺構の土塁と石組が残っている。周囲はロープが張られていて立ち入れない。個人所有の畑地になっているらしい。

疋壇城は文明年間(1469~1486)に越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により築かれ、以後7代約100年間疋壇氏の居城となった。この地は、柳ケ瀬越・深坂越の塩津街道と海津越の西近江路が集結する交通軍事上の要衝であるため、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものである。織田信長の二度目の越前侵攻で敦賀の金ヶ崎城と共に破壊され廃城となった。

疋田は近江と越前の境にあったとされる日本三関の一つ愛発(あらち)関が置かれていた所と考えられている。不破の関、鈴鹿の関と異なり、愛発の関の比定地は諸説あって確定していないが疋田が最有力視されている。

疋田舟川親水公園 疋田 敦賀市 福井県
疋田舟川親水公園 疋田 敦賀市 福井県

右手から清冽な水が走る水路が現れた。35度の猛暑を和らげるためカメラと腕時計をはずし、タオルと帽子を水につける。メガネもはずして頭から水をかぶる。昔、スイカを浸けた井戸水のように冷たかった。

この水路の原型は疋田舟川と呼ばれた運河に遡る。文化13年(1816)小浜藩は家老三浦勘解由左衛門を普請奉行に任じ、敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村の間に幅9尺、総延長約6.5kmの舟川が完成した。敦賀町から舟で運ばれた荷物は、疋田村から牛車で近江の大浦村へ輸送され、そこから丸子船で琵琶湖を縦走して大津や京に運ばれた。

舟川の船溜跡 疋田 敦賀市 福井県
舟川の船溜跡 疋田 敦賀市 福井県

川幅9尺(約2.8m)の舟川に川舟が運航したが、狭い舟川には二艘の並航はできず、三艘ほどが一列となって航行した。この船溜は舟川の終着点で、約4間に10間の広さ(40坪 133㎡)があり、周囲は石垣で固められていた。敦賀を出発し、疋田の舟川を曳き上げられてきた川舟は、ここで上がり荷(米など)を降ろし、下り荷(茶など)に積み替えて敦賀へ戻って行く仕組みであった。 1986年2月 敦賀みなとライオンズク……

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川幅9尺(約2.8m)の舟川に川舟が運航したが、狭い舟川には二艘の並航はできず、三艘ほどが一列となって航行した。この船溜は舟川の終着点で、約4間に10間の広さ(40坪 133㎡)があり、周囲は石垣で固められていた。敦賀を出発し、疋田の舟川を曳き上げられてきた川舟は、ここで上がり荷(米など)を降ろし、下り荷(茶など)に積み替えて敦賀へ戻って行く仕組みであった。 1986年2月 敦賀みなとライオンズクラブ

さらに昔にさかのぼれば、平清盛は敦賀と琵琶湖を運河で結ぶ壮大な夢を持っていた。琵琶湖からは淀川を経て瀬戸内海から太平洋に出る道が確保されている。日本海と太平洋を短絡させる、パナマ運河に匹敵するような夢であった。追分から深坂古道を通って塩津に出るルートが策定されたが、深坂峠の堅固な岩盤にぶつかって断念せざるを得なかったという。その後も敦賀―琵琶湖の運河航路の計画はいくどとなく持ち上がるが、結局陸送の権益をもつ地元の反対や、北前船による西廻り航路の発達により計画は頓挫した。疋田舟川は清盛の夢の一部であった。

敦賀運河(疋田舟川)跡 疋田 敦賀市 福井県
敦賀運河(疋田舟川)跡 疋田 敦賀市 福井県

疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、ま……

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疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟で、文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、天保5年には馬借座の訴願で廃止された。現在地を流れるこの疏水は、舟川遺構を「水と史の回廊」として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疏水を通す企画は古くからあり、平清盛の命で重盛が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、また河村瑞軒も試みたという。京都の商人田中四郎左衝門は、寛文9年(1669)琵琶湖疏水計画の書類・絵図を敦賀町奉行所に提出し、元禄9年(1696)にもまた企画するが、郡内19ケ村の庄屋の反対にあって、この計画は中止された。その後、日本海沿岸への異国舶の出没に対し京都の糧道確保のため、文化13年に琵琶湖疏水計画が幕府・藩の手によって具体化し、翌年3月、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4カ月後に完成を見た。文化14年8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運転を行った。上り荷は米・海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車にて近江大浦へ輸送された。なお、安政4年(1857)4月、幕府・小浜藩によって天保5年に廃止された舟川が堀り起こされ、12月再開通された。土橋より下は笙ノ川筋に出て、河□の今橋の下には荷物取級所が置かれた。この舟川も慶応2年(1866)5月、大洪水で破壊された。寛文期(1661~72)以降、河村端軒による日本海から大坂直航の「西廻り航路」の開発で受けた敦賀港の打撃は、このように琵琶湖・敦賀間の運河計画が部分開通に終わったため、回復には至らなかった。1985年12月 気比史学会・敦賀みなとライオンズクラブ (2001年3月改修 福井県) 舟川の胴木 現在の川幅は、沿道の拡幅によって左岸が狭まり約1.5mになっているが、もとは9尺(約2.8m)であった。右岸の石組は、当時に近い状態に整備したものである。疋田付近では、急流のために水位が上がらず、積荷を満載すると船底がつかえるので、川底に胴木を敷設して、舟の上りを滑らかにする工夫がなされた。また、ここでの川舟は、川沿いの道路から、棕櫚縄で幾人もの人夫によって曳き上げられていった。 1985年12月 敦賀みなとライオンズクラブ

その舟川も荷物を奪われた馬借座の訴願により天保5年(1834)廃止された。のち安政4年(1857)になって京都町奉行の検分によって舟川は再掘されて再開されたが、慶応2年(1866)大洪水で破壊された。悲運の運河は通算27年の現役を終え親水公園と生活用水路として余生を送っている。

舟川の船溜跡 疋田 敦賀市 福井県
舟川の船溜跡 疋田 敦賀市 福井県

左手に高い石積みの上に塀をめぐらし門を構えた立派な屋敷がある。疋田宿には小浜藩の本陣があったというから、それにふさわしい佇まいである。中にはいると古い建物が残っていた。六地蔵や五重石塔などもあってどうやら寺(定広院?)のようだ。

石垣脇に「船溜跡」の説明板があった。疋田総蔵屋敷に船溜りを作って川舟を回転させ、米・海産物の上り荷を降ろし、茶などの下り荷を積みこんだ。先の屋敷は蔵屋敷跡であり、小浜藩は本陣としても使っていたのではないかと想像する。

疋田は享保12年の記録では家数84戸、人数411人とあって、中山宿の2倍、追分宿の4倍の規模を誇り小浜藩の本陣が置かれて郡内最大の宿場であった。しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊から琵琶湖経由の輸送が減少し、西近江路の他宿とともに衰退の道をたどらざるをえなくなった。

光明不動明王 疋田 敦賀市 福井県
光明不動明王 疋田 敦賀市 福井県

疋田の集落を出るあたりに不釣り合いなほど大きな祠に小ぶりの光明不動明王が納まっている。

旧道の道筋について他の資料では疋田の中央あたりで右折、疋田診療所前を左折する曲尺手を経るルートが示されている。後日知ったため、そこを通る機会がなかった。古い家並みが残っていたかもしれない。

道口

市橋町並み 市橋 敦賀市 福井県
市橋町並み 市橋 敦賀市 福井県

集落を出て排水施設の先で国道を横切り、笙の川を渡って市橋集落に入る。

集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた小さな大日如来が祠に安置されていた。

旧西近江路 市橋-小河口 敦賀市 福井県
旧西近江路 市橋-小河口 敦賀市 福井県

旧街道は山と笙の川に挟まれた道を行く。山側の崖は切り立っており、かなり切り通した跡がうかがえる。昔は川に向かって山塊がおちこむ険しい道であったのだろう。

家並み 小河口 敦賀市 福井県
家並み 小河口 敦賀市 福井県

旧道はそのまま小河口(おごぐち)集落に入っていく。笙の川は国道の西側に去って、土地は平らである。ここにも日吉神社があった。廃村になった山中を除き、駄口・追分・疋田・市橋・小河口と、すべての集落で日吉神社をみてきた。なにか謂れがありそうな気がする。

日吉神社 小河口 敦賀市 福井県
日吉神社 小河口 敦賀市 福井県

小河口集落をぬけると旧道は川の手前で失われていた。その先、国道の導入路、バイパスなどが入り混じって複雑である。

国道8号に出て敦賀市内に向かう。

北陸本線のガードをくぐり鳩原で農兵隊の鳩原水害記念碑を右にみて、道口への旧道に入る。

道口は笙ノ川が敦賀平野に向かって開ける扇状地に位置し、古くは三口ともよばれ若狭・敦賀・越前の三方にわかれる分岐点であった。交通の要所にあたり、江戸初期には宿駅と女留番所が置かれていた。

旧西近江路 道口 敦賀市 福井県
旧西近江路 道口 敦賀市 福井県

集落の上空に見上げるようなコンクリートの塊が聳えている。北陸自動車道の笙の川架橋工事であるらしい。もう少し低い所を通ればいいのにと思う。

夏の風物詩であるノウゼンカズラが満開であった。軽トラックが側溝に前輪を嵌めている。JAFを呼び出し中だろうか。

集落のほぼ中央に三口の分岐点があった。東に出ていく道が古代の北陸道で、木の芽峠を越える険しい道であった。本来の西近江路の延長でもある。

海津と敦賀を結ぶ西近江路、七里半街道はここを直進して敦賀市街地にはいっていく。どこが終点とは決まっていない。軍事的には敦賀城があった結城町であろうし、経済的には敦賀湊がふさわしいであろう。地理的には古代北陸道の松原駅家があったという気比の松原が適当であろう。奥の細道をたどる者にとっては気比神社か敦賀での滞在先出雲屋跡(現相生町)がお勧めである。この旅を締めくくるに当たり、それらすべてを訪れてみたい。

旧西近江路・JR小浜線道ノ口踏切 道口 敦賀市 福井県
旧西近江路・JR小浜線道ノ口踏切 道口 敦賀市 福井県

JR小浜線の道ノ口踏切をこえるといよいよ敦賀市内である。旧道はこの先国道8号に合流して北上し、国道27号を越えた先で左の旧道にはいっていく。道はまもなく東洋紡の広大な工場で途絶している。工場北側の旧道復活点はあきらかでない。地図をながめる限りでは、津内緑地から敦賀漁港に至る道筋に近い。漁港のすこし手前を西にはいったところにある真願寺が敦賀城跡である。

私は国道8号にもどってそのまま気比神社に向かうことにした。そこから金ヶ崎城まで足を伸ばし、西に向きをかえて海岸沿いに敦賀港、敦賀漁港、敦賀城跡、相生町界隈を見た後、気比の松原で打ち上げようと思う。

敦賀

気比神社鳥居 曙町 敦賀市 福井県
気比神社鳥居 曙町 敦賀市 福井県日本三大鳥居の一つ

国道8号を市内に進む。敦賀駅前通りとの交差点白銀信号を越え、本町を通り抜けると大きな交差点の北東角に越前国一之宮気比神社がある。芭蕉が奥の細道の旅で敦賀に着いてまず訪れたのがこの神社だった。

気比神社 曙町 敦賀市 福井県
気比神社 曙町 敦賀市 福井県

北陸道総鎮守 越前国一之宮 沿 革 主祭神気比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奏斎した。延喜武に「祭神七座並名神大社」とあリ類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されておリ此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治……

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北陸道総鎮守 越前国一之宮 沿 革 主祭神気比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奏斎した。延喜武に「祭神七座並名神大社」とあリ類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されておリ此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治28年官幣大社に昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜って気比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみならず日本有数の古名大社として通称「気比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め9月2日より15日におよぶ例祭は「気比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に逡なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和43年畏くも天皇皇后両陛下御親拝・昭和62年5月昭和の大造営に依る本殿遷座祭・平成14年御祭神合祀1300年2年大祭にあたり、幣帛料の御奉納を賜り厳粛なる奉幣祭が営まれた。戦後の都市計画で境内は大福に削減されたが、由緒ある摂末社15の中、当地敦賀の地名の発祥である武内摂社角鹿(つぬが)神社がある。

高さ11mの赤い大鳥居は正保2年(1645)の建造といわれ、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造鳥居の一つである。大宝2年(702)建立の古社で、北陸道の総鎮守・越前国一之宮、明治時代に官幣大社となった。

参道をすすむと境内右手に松尾芭蕉の像と句碑がある。

芭蕉は気比神社に詣でるにあたり、逗留先の出雲屋の主人から、砂持ち神事の故事を教えられた。気比神社交差点の向かいにそのモニュメントがある。

お砂持ちモニュメント 元町 敦賀市 福井県
お砂持ちモニュメント 元町 敦賀市 福井県

正安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の 管長が交代した時にこの行事が行われている。……

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正安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の 管長が交代した時にこの行事が行われている。元禄2年(1689)、奥の細道紀行で敦賀を訪れた芭蕉は、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。

芭蕉像・句碑 気比神社 曙町 敦賀市 福井県
芭蕉像・句碑 気比神社 曙町 敦賀市 福井県

なみたしくや遊行のもてる砂の露 台座の句:月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉と敦賀の月 月を殊のほか愛した芭蕉は元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。碑の句はその代表的な敦賀での作品でありそれぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。これらの他に敦賀では次のような月の句をも見る。 中山や越後も月はまた命 月のみか雨に相撲もなかりけり 衣……

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なみたしくや遊行のもてる砂の露 台座の句:月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉と敦賀の月 月を殊のほか愛した芭蕉は元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。碑の句はその代表的な敦賀での作品でありそれぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。これらの他に敦賀では次のような月の句をも見る。 中山や越後も月はまた命 月のみか雨に相撲もなかりけり 衣着て小貝拾はんいろの月

承安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道とその周辺が沼地で参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたったという。

月下の社頭で故事に深く感じた芭蕉は一句を詠んだ。

なみだしくや 遊行のもてる砂の露

のち推敲を重ねて「奥の細道」には次の句を採用した。

月清し遊行のもてる砂の上

芭蕉翁鐘塚(金前寺) 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
芭蕉翁鐘塚(金前寺) 金ヶ崎町 敦賀市 福井県月いつこ 鐘は沈める うみのそこ はせを この句は、元禄2年8月15日の雨月に翁南北朝時代(1336)金ヶ崎落城の悲劇にまつわる陣鐘の事を聞き詠んだものである。 この塚は翁の没後68年に白崎琴路らが建立し、その翌年より墨直しの行事が行われ、古例となった。

国道8号にもどり、一つ先の曙信号交差点を左折、一つ目の信号を右折して山に向かって進む。廃線となった貨物線路踏切をこえると山裾に金前寺がある。泰澄大師が天平8年(736)に開創したという古刹である。元禄2年(1689) 8月芭蕉が訪れ、「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。芭蕉の思いは南北朝時代にある。その句を刻んだ鐘塚が本堂の南西側に建てられた。

金崎宮 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
金崎宮 金ヶ崎町 敦賀市 福井県

南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。しかし、足利軍との戦いに破れ義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。

国史跡金ヶ崎城跡 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
国史跡金ヶ崎城跡 金ヶ崎町 敦賀市 福井県

金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。 戦国晴……

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金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。 戦国晴代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り澱(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉でその活躍で無事帰京できたと伝えられる。(中略) 現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎城の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。以下略

後醍醐天皇の二皇子、尊良親王と恒良親王を祀ったのが金ヶ崎城の域内に建てられた金崎宮である。

金ヶ崎城跡より敦賀眺望 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
金ヶ崎城跡より敦賀眺望 金ヶ崎町 敦賀市 福井県

金ヶ崎城跡は新田義貞が足利軍と戦って敗れた古戦場であり、戦国時代にも織田信長と朝倉義景が覇権を争った場所でもある。近江浅井氏の裏切りに遭って信長が窮地に陥った時、金ヶ崎城でしんがりを努めて信長の退却を助けたのが木下籐吉郎(豊臣秀吉)であった。

金崎古戦場・月見御殿 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
金崎古戦場・月見御殿 金ヶ崎町 敦賀市 福井県この付近は金ヶ崎の最高地(86m)で月見崎といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。
月見御殿跡・敦賀湾眺望 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
月見御殿跡・敦賀湾眺望 金ヶ崎町 敦賀市 福井県この付近は金ヶ崎の最高地(86m)で月見崎といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。

敦賀の町を見下ろす天筒山(てづつやま)の西端を登って行くと月見御殿に至る。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といわれ、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。見晴らしは西と北に限られ、北は右手に敦賀火力発電所の巨大な施設が広がっていて、月見の風情は期待できない。

敦賀港駅ランプ小屋 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
敦賀港駅ランプ小屋 金ヶ崎町 敦賀市 福井県

完成1882年(明治15年) 建設/鉄道省煉瓦造平屋建 敦賀市金ケ崎1-19 敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車か週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。当時の建物かほとんどなくなってしまったなかで残っ……

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完成1882年(明治15年) 建設/鉄道省煉瓦造平屋建 敦賀市金ケ崎1-19 敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車か週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。当時の建物かほとんどなくなってしまったなかで残ったのが煉瓦造りの「ランプ小屋」だ。列車を走らせる際には、後方にその存在を知らせる光が必要だが、電気機具等が未発達な当時光源として使われたのが灯油を燃やすカンテラだった。そして、引火性の強いこの油類を保管するための危険物倉庫として建てられたのが赤煉瓦倉庫だった。「ランプ小屋」と呼ばれて長く親しまれてきた。このランプ小屋に積まれている煉瓦をよく見ると多くの煉瓦に、「平」とか「一」、「八」といろいろ刻印がきざまれている。これは、煉瓦を作った職人の名前の一部だそうです。 敦賀観光協会

来た道をもどる。金前寺の手前右手、一段下ったところに敦賀港駅のランプ小屋が保存されている。敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた町である。港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋~金ケ崎間に欧亜国際連絡列車(新橋~敦賀~ウラジオストック~シベリア鉄道経由ヨーロッパ)が週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。列車を誘導する時に用いられたカンテラ用の灯油貯蔵庫がランプ小屋である。

赤レンガ倉庫 金ヶ崎町 敦賀市 福井県
赤レンガ倉庫 金ヶ崎町 敦賀市 福井県

敦賀港は、明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 この倉庫は紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設された。 2棟のイギリス積みの煉瓦造平屋建の倉庫は、外国人技師の設計と伝えられている。 この倉庫は、第二次世界大戦中は軍の被服庫として、その後は海産物の貯蔵庫として使用されてきたが、平成15年に敦賀市に寄贈された。 内部には、柱型……

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敦賀港は、明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 この倉庫は紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設された。 2棟のイギリス積みの煉瓦造平屋建の倉庫は、外国人技師の設計と伝えられている。 この倉庫は、第二次世界大戦中は軍の被服庫として、その後は海産物の貯蔵庫として使用されてきたが、平成15年に敦賀市に寄贈された。 内部には、柱型を出さずに、桁行方向の内壁には1から65までの石油缶整理用の数字が残されている。 県内では最大の煉瓦造の建物は、敦賀港の繁栄の時代を今に伝える遺構の一つで市民からは「赤レンガ倉庫」として親しまれている。 敦賀市・(社)敦賀観光協会

踏切を渡った先を海岸に向かって歩くと左手に2棟の赤レンガ造り倉庫が並んでいる。敦賀港は明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 これを受け紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年(1905)に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設されたものである。 数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていた。

敦賀港 曙町 敦賀市 福井県
敦賀港 曙町 敦賀市 福井県

日本海に出る。海は湖のように静かである。敦賀港に商船は見かけず県警と海上保安庁の巡視船だけが目についた。

鉄道資料館 港町 敦賀市 福井県
鉄道資料館 港町 敦賀市 福井県

旧国鉄敦賀港駅駅舎 二十一世紀への大いなる飛躍を夢に、今敦賀港に新しい夜明けが訪れようとしています。 敦賀商工会議所は、敦賀港開港100周年の記念すべき年に、かって明治後半から昭和初期に大陸交易の橋渡として運行されていた『欧亜国際列車』を象徴する敦賀港の歴史的建造物の一つ『旧国鉄 敦賀港駅 駅舎』 (大正2年建造)を再現しました。 戦災等で駅舎の資料が残っておらず、当時のイメージに近いものとして再……

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旧国鉄敦賀港駅駅舎 二十一世紀への大いなる飛躍を夢に、今敦賀港に新しい夜明けが訪れようとしています。 敦賀商工会議所は、敦賀港開港100周年の記念すべき年に、かって明治後半から昭和初期に大陸交易の橋渡として運行されていた『欧亜国際列車』を象徴する敦賀港の歴史的建造物の一つ『旧国鉄 敦賀港駅 駅舎』 (大正2年建造)を再現しました。 戦災等で駅舎の資料が残っておらず、当時のイメージに近いものとして再現しました。尚、本事業の一部には、平成9年に起きた、ロシア船籍タンカーによる重油流出事故災害の義援金を活用させて頂きました。1999年7月吉日 敦賀商工会議所 会頭 北村 柳之助

海岸に海を背にして旧敦賀港駅舎が復元されている。国際列車といえばオリエント急行を連想するが、敦賀駅を発着した欧亜国際連絡列車はシベリア横断鉄道をその一部としユーラシア大陸と日本海をまたぐ壮大なスケールの国際列車であった。日本が東のターミナル駅だったとは夢のような話ではないか。

「北前船とは」きらめきみなと館 桜町 敦賀市 福井県
「北前船とは」きらめきみなと館 桜町 敦賀市 福井県

1.船の成り立ち 江戸時代、大坂など上方の人達は北国地方の廻船を北前船とよんでいました。はじめは、「北国船」と呼ばれて、筵を帆に用い、風がないときは櫓で漕ぐためにたくさんの水主(かこ)(船員)が必要でした。次に、「ハガセ船」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交(はがい)」に似ていることからその名前がつけられましたがこの船も櫓で漕ぐため、水主たちは大変疲れました。ところが、「弁才船(べざいせん)」と呼ば……

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1.船の成り立ち 江戸時代、大坂など上方の人達は北国地方の廻船を北前船とよんでいました。はじめは、「北国船」と呼ばれて、筵を帆に用い、風がないときは櫓で漕ぐためにたくさんの水主(かこ)(船員)が必要でした。次に、「ハガセ船」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交(はがい)」に似ていることからその名前がつけられましたがこの船も櫓で漕ぐため、水主たちは大変疲れました。ところが、「弁才船(べざいせん)」と呼ばれる船は木綿の帆で風の力を最大限に利用しているので、水主もあまり多く必要としないことと、荷物も多く積めるということで北前船として多く用いられるようになりました。 2.航路と荷物の輸送 寛文12年(1672)河村瑞軒によって開かれた西廻り航路によって、その後、蝦夷地(北海道)と上方(大坂)との間を往復することができました。酒・紙・米・木綿・塩・筵などを船に積み、5月下旬に蝦夷地へ着き、帰りには鯡・昆布・数の子・白子などの海産物を積んで11月に大坂へ帰るという交易を行っていました。 3.敦賀との関係 約600年前から、京都の商人によって蝦夷地の昆布を敦賀まで運んで、琵琶湖を渡って京都へ運ばれたのが始まりで、江戸時代に入ると近江商人の活躍によって敦賀が大切な港町として発展しました。伊勢茶・美濃茶・近江茶が大量に港から運び出されて活気づき、「茶町」が誕生し、海産物を輸送するのに筵の需要が高まり、沓見では筵の生産に追われました。また、船の安定と移出で釘を多く必要とする為、港近くの町には釘作りの鍛冶職人が集まりました。船に用いられた船箪笥・机などの唐木細工では名人・名工が輩出し、現在、敦賀まつりで曳かれる山車もその工芸品の名残といえるでしょう。

きらめきみなと館北前船の展示があった。いつか北海道に渡って函館から江差まで松前街道を行きたいと思っている。北前船は近江商人が深くかかわっていることもあって以前から関心があった。寄港地として北海道ではまさに函館と江差が示されている。敦賀は西廻り航路が開かれる以前から、琵琶湖経由で蝦夷地と京、大坂を結ぶ重要な中継地であった。西近江路や塩津街道が賑わっていた時代である。

敦賀漁港 蓬莱町 敦賀市 福井県
敦賀漁港 蓬莱町 敦賀市 福井県

海岸に沿って快適に歩道を走るとまたたくまに漁港に着いた。魚市場はすでに水揚げが終わったようで人影はほとんどなく、裏では遅刻気味の買い付け業者が魚問屋から荷を軽トラックに積み込んであわただしく走り去っていった。

洲崎の高燈籠 川崎町 敦賀市 福井県
洲崎の高燈籠 川崎町 敦賀市 福井県県指定史跡 江戸時代 指定 平成4年5月1日 高さ6。41m この高燈篭は江戸時代、敦賀で大きな廻漕業(海運業)を営んでいた庄山清兵衛が享和2年(1802)に建てた灯台で、清兵衛にちなんで「荘山の高燈篭」とも呼ばれています。当時は毎夜この燈篭に火がともされ、敦賀湊に出入りする船の貴重な目印でした。敦賀市教育委員会

港の西側に灯台のようなものが見える。近くに寄ってみると瀟洒な石塔の頂に火袋を乗せた高燈籠であった。享和2年(1802)に地元の回漕業者が建てたものである。

天屋玄流旧居跡 蓬莱町 敦賀市 福井県
天屋玄流旧居跡 蓬莱町 敦賀市 福井県

魚港の南側を東西に走る大きな通りに出て東におれると「あみや」の看板が目に付く。その敷地の東側を回りこんだ駐車場の片隅に「天屋玄流旧居跡」の碑が立っている。天屋玄流は北前船主で、敦賀の俳壇では中心的な存在であった。芭蕉の敦賀滞在3日目の8月16日に、奥の細道最後の歌枕の地、色の浜に案内した。天屋家は平成14年まで煉瓦造の洋館を残していた。

晴明神社 相生町 敦賀市 福井県
晴明神社 相生町 敦賀市 福井県

祭神 保食神(うけもちのかみ)、安倍晴明公、春玉稲荷 当社は往古より保食神(食物を守護する神)の旧跡で安倍晴明は正暦年間(990~994一条帝)当地に住み天文.地文の研究をし日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かった。天文の奥儀を究めるに供した霊石(晴明の祈念石)がある。南北朝金ヶ崎戦、天正の織田、朝倉の兵乱にも災禍を免れたのはその霊験によるものとして益々尊信敬拝した。明治11年社号を晴明神社と改称、……

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祭神 保食神(うけもちのかみ)、安倍晴明公、春玉稲荷 当社は往古より保食神(食物を守護する神)の旧跡で安倍晴明は正暦年間(990~994一条帝)当地に住み天文.地文の研究をし日夜この神祠に参詣、信仰心甚だ篤かった。天文の奥儀を究めるに供した霊石(晴明の祈念石)がある。南北朝金ヶ崎戦、天正の織田、朝倉の兵乱にも災禍を免れたのはその霊験によるものとして益々尊信敬拝した。明治11年社号を晴明神社と改称、春玉稲荷は明治24年頃合祀し、大正5年西側の元朝市場より現在地へ遷座した。

大通りにもどって一筋東の路地を右にはいると市立博物館を越えた先左手に晴明神社がある。社殿は小さいながら立派な茅の輪が設けられている。元は保食神(食物を守護する神)を祀っていたが、陰陽師安倍晴明が近くに住んでいた誼で彼も合祀された。安倍晴明がなぜ敦賀にいたかについては、敦賀が大陸にもっとも近い情報伝播の地であったからと言われている。確かに敦賀は朝鮮半島からの渡来人の上陸地点であった。

出雲屋跡 相生町 敦賀市 福井県
出雲屋跡 相生町 敦賀市 福井県

おくのほそ道旧跡 芭蕉翁逗留出霊屋跡 月清し遊行の持てる砂の上 元禄2年(1689)、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた松尾芭蕉が気比神宮で詠んだ句です。遊行宗(時宗)二世の他呵真教上人が、人々のために自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の故事を踏まえたものです。この故事を芭蕉に伝えたのが、ここ唐仁橋町(現相生町)の宿・出雲屋の主人弥一郎です。芭蕉は福井で再会した神戸洞哉とともに、中秋の……

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おくのほそ道旧跡 芭蕉翁逗留出霊屋跡 月清し遊行の持てる砂の上 元禄2年(1689)、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた松尾芭蕉が気比神宮で詠んだ句です。遊行宗(時宗)二世の他呵真教上人が、人々のために自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の故事を踏まえたものです。この故事を芭蕉に伝えたのが、ここ唐仁橋町(現相生町)の宿・出雲屋の主人弥一郎です。芭蕉は福井で再会した神戸洞哉とともに、中秋の名月の前日、8月14日に敦賀に入り出雲屋に泊まりました。その夜、月明かりの中を、芭蕉は弥一郎の案内で気比神宮に参詣しました。 芭蕉は出雲屋に、長い旅で用いた笠と杖を残していきました。出雲屋は早くに絶えますが、その隣家で縁戚であった富土屋が跡を継ぎ、蕉翁宿として多くの文人墨客に親しまれました。芭蕉の足跡を訪ね、多くの客の投宿したことが『宿句帳』から窺えます。笠は失われましたが、『蕉翁宿』の宿額等も、芭蕉の残した杖とともに今に伝えられています。

そこから二筋東に移った大通りの東側にレストランうめだがあり、店先に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱が建っている。 芭蕉は敦賀に着いた当日この出雲屋にチェックインし、その日の夕方、主人の弥一郎に付き添われて気比神社に詣でた。芭蕉はここに笠と杖を残している。

敦賀城跡・真願寺 結城町 敦賀市 福井県
敦賀城跡・真願寺 結城町 敦賀市 福井県

大谷吉継 敦賀城跡碑 大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。慶長5年(1600)9月豊臣家のため徳川家康と関ケ原に戦ったが敗れて42歳で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、知勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていた……

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大谷吉継 敦賀城跡碑 大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。慶長5年(1600)9月豊臣家のため徳川家康と関ケ原に戦ったが敗れて42歳で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、知勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊されたが、当寺にその礎石が残っており、その跡を偲ぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。

そこから敦賀城跡の真願寺にむかうのだが、道順を確かめなかったせいで随分苦労した。分かりやすい道順は、相生町の大通りを北にもどり信号交差点を左折してあみや旅館前にもどることである。漁港の橋をわたって左折し一筋南の通りを西に水路に沿って行くと、左手に真願寺の山門が「大谷吉継 敦賀城跡」の碑を建てて待ち受けている。敦賀城は天正11年(1583)羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が築城した。その後大谷吉継が入城してきたが、元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊された。

来迎寺山門(敦賀城中門) 松島町 敦賀市 福井県
来迎寺山門(敦賀城中門) 松島町 敦賀市 福井県

中門は来迎寺に移築されている。

真願寺から西にむかって笙の川堤防に上がる。上流に見える赤い橋を渡る。ここから来迎寺、武田耕耘雲斎の墓に至る道が更にややこしかった。住宅地の中は迷路である。丁字路の白線をたよりに路地を入って行くと民家の入口につきあたって止まるのだ。袋小路が多いのは小規模造成地をパッチワークで縫い合わせた結果であろうと思われる。

武田耕雲斎等墓 松島町2丁目 敦賀市 福井県
武田耕雲斎等墓 松島町2丁目 敦賀市 福井県

元治元年10月水戸藩士武田耕雲斎の党は尊攘の大義を唱え西上の途次越前に入り12月敦賀郡新保宿にて大雪に遭い幕府の軍門に降れり。翌年2月幕府は耕雲斎以下353名斬首せり。今此の墓地は当時の刑場にして遺骸を埋めて土盛り方12間高さ8尺、西面して15基の墓が建てられた。昭和9年12月28日文部省より著名なる人物の墓として256坪の地域を史跡に指定され現状の変更樹木の伐採はできない様保護されている。 敦賀……

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元治元年10月水戸藩士武田耕雲斎の党は尊攘の大義を唱え西上の途次越前に入り12月敦賀郡新保宿にて大雪に遭い幕府の軍門に降れり。翌年2月幕府は耕雲斎以下353名斬首せり。今此の墓地は当時の刑場にして遺骸を埋めて土盛り方12間高さ8尺、西面して15基の墓が建てられた。昭和9年12月28日文部省より著名なる人物の墓として256坪の地域を史跡に指定され現状の変更樹木の伐採はできない様保護されている。 敦賀水戸烈士遺徳顕彰会

来迎寺山門は敦賀城の中門を移築したものである。この寺の境内でこれから見る水戸天狗党の志士353名が斬首された。

来迎寺の西方、松原公民館の傍に武田耕雲斎以下水戸藩士の墓がある。元治元年(1864)10月水戸藩士武田耕雲斎率いる天狗党は尊攘の大義を唱え上洛の途次、越前に入り12月敦賀郡新保宿にて加賀藩の軍門に降った。翌年2月幕府は耕雲斎以下353名を来迎寺にて斬首した。

松原神社 松原町 敦賀市 福井県
松原神社 松原町 敦賀市 福井県

祭神 正四位武田伊賀守以下四百十一柱 徳川幕府の末葉、勤王の大志を抱き尊攘論を唱えて京都に趣き、素志を貫徹せんと意を決した武田伊賀守他同士達は各地に轉戦しつつ、元治元年十一月大雪の中、新保の地にて加賀藩の軍門に降り、敦賀の鰊倉に幽閉され慶應二年二月斬罪により松原の露と消えた。大政奉還後王政維新明治の聖世となり命等の勤王の大志が天日を見るに至り慶応三年敦賀の修験行壽院が神祇伯白川家の許可を得て院内に……

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祭神 正四位武田伊賀守以下四百十一柱 徳川幕府の末葉、勤王の大志を抱き尊攘論を唱えて京都に趣き、素志を貫徹せんと意を決した武田伊賀守他同士達は各地に轉戦しつつ、元治元年十一月大雪の中、新保の地にて加賀藩の軍門に降り、敦賀の鰊倉に幽閉され慶應二年二月斬罪により松原の露と消えた。大政奉還後王政維新明治の聖世となり命等の勤王の大志が天日を見るに至り慶応三年敦賀の修験行壽院が神祇伯白川家の許可を得て院内に諸士の霊を祀り、明治七年十一月水戸の人根本彌七郎が墓地付近に一小祀殿を創建して松原神社と穪し、大正四年十一月現在地に御造営竣功し、白砂青松の浄域に御霊代を奉還、永く英霊の鎮り座すこととなった。

鯡倉(水戸烈士記念館) 松原町 敦賀市 福井県
鯡倉(水戸烈士記念館) 松原町 敦賀市 福井県元治2年(1865)武田耕雲斎等823名は舟町の鯡(ニシン)倉16棟に収容された。この記念館は築港工事のため鯡倉の大部分を取り壊すことになったので昭和29年の秋90年祭を記念してここにその1棟を移築したものである。 水戸烈士遺徳顕彰会

道路をはさんで向かいに彼ら水戸尊攘の志士を祀った松原神社がある。もとは墓近くに建てられた小祠が、大正4年に現在地に新造営された。境内には処刑まで収容されていたニシン倉が保存されている。

ところで古い時代、敦賀湾の入り江はこのあたりまで入り込んでいた。京都を発し、琵琶湖西岸を北上して若狭にはいった古代北陸道はこのあたりで東に向きを変えた。松原にその駅家があったと推定されている。北陸道は近江の靹結駅から直線的に越前国にはいり、敦賀湊に突当って、ここから北東に向きを変えて次の駅家今庄に向かったとされる。また、ここには渤海使の来航に備えて、松原客館が造営された。延喜19年(919)には、若狭丹生浦に着いた105名の渤海使が「松原駅館」へ移されたという記録がある。松原駅に松原客館が併設されていたとも考えられている。いずれにしても敦賀は古代ロマンの匂いに満ちた土地柄である。

気比の松原 松島町 敦賀市 福井県
気比の松原 松島町 敦賀市 福井県

ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ に数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した。 そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。 そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという。……

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ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ に数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した。 そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。 そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという。 この伝説に因んで「一夜の松原」とも称される。 現在 気比の松原はおよそ東西1千メートル南北4百メートル広さ37.9ヘクタールで樹数約1万3千本を数え海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している。

松原神社から大通りを松島町交差点に出る。通りの北側は広大な赤松林である。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ、気比の松原である。東西1km、南北400mの範囲に約13000本の樹木が生い茂っている。黒松が典型な海岸林にあって気比の松原はその85%が赤松である特質をもつ。

松原海水浴場 松島町 敦賀市 福井県
松原海水浴場 松島町 敦賀市 福井県

車道を海岸に向かって進むと松原海水浴場に出た。海開きまでまだ1週間ある。浜辺と駐車場は開店準備の最中であった。

駐輦の碑 松島町 敦賀市 福井県
駐輦の碑 松島町 敦賀市 福井県

史跡 駐輦の碑 指定年月日昭和29年12月21日 管理者敦賀市 建立年月日明治24年9月15日 高さ3.15m明治天皇は明治11年の北陸巡幸の際、10月10日気比の松原に立ち寄り、しばし白砂青松の佳景を賞でた。その後、明治24年9月、勝海舟がこの松原を訪れ、かって明治天皇がここでこの松原の景色をご覧になったのかと、当時を回想して次の漢詩を詠んだ。 (略) 碑文の意味は、「ここは、かって明治天皇が、……

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史跡 駐輦の碑 指定年月日昭和29年12月21日 管理者敦賀市 建立年月日明治24年9月15日 高さ3.15m明治天皇は明治11年の北陸巡幸の際、10月10日気比の松原に立ち寄り、しばし白砂青松の佳景を賞でた。その後、明治24年9月、勝海舟がこの松原を訪れ、かって明治天皇がここでこの松原の景色をご覧になったのかと、当時を回想して次の漢詩を詠んだ。 (略) 碑文の意味は、「ここは、かって明治天皇が、お乗物をとどめて景色をご覧になられたところである。国民は明治の善政をよろこんでいる。松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝福しているようである。」と解される。 平成11年11月1日 敦賀市教育委員会

右手の駐車場を横切ったところに立派な明治天皇駐輦の石碑が建っている。碑に刻まれているのは明治天皇駐輦の文字でなくて、勝海舟の漢詩である。もちろん読めない。説明板をみても読めない。勝海舟は明治天皇の巡幸におくれること13年の明治24年、この地に来て天皇と同じ気分になったのではないか。感慨にふけって漢詩を一作したためた。

高浜虚子句碑 松島町 敦賀市 福井県
高浜虚子句碑 松島町 敦賀市 福井県松原の続くかぎりの秋の晴

松原公園の東出入り口付近に高浜虚子の句碑があった。

町並み 川崎町 敦賀市 福井県
町並み 川崎町 敦賀市 福井県

帰路、漁港に向かう途中で、初めて宿場の趣を残す家並みに出合った。敦賀の受けた空襲は壊滅的で、古い家並みは残っていないと聞かされていたので、昭和の匂いのする家並みでも貴重に思える。

敦賀は西近江路の終点ではなくあくまで七里半街道の終点である。古代の北陸道を基にした西近江路は、道口から木の芽峠を越えて今庄で北国街道(東近江路)と合流する。木の芽峠は芭蕉が歩いた道であるから、奥の細道を踏破するにはいつか歩かなければならない。西近江路の旅はその時完結する。

(2013年7月)

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