東海道 10区間のうち5番目

東海道(5)

日坂-掛川-袋井-見付-浜松-舞坂 見付から御油まで、脇往還「姫街道」

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

小夜の中山

小夜の中山

歌碑 佐夜鹿 掛川市 静岡県
歌碑 佐夜鹿 掛川市 静岡県雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 雲のかかる佐夜の中山を越えたと、 都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。 阿仏尼・十六夜日記

右手民家の庭をかりて十六夜日記の作者阿仏尼の歌碑とその現代語訳が対で並んでいる。阿仏尼は初恋の痛手から出家したのち還俗・出家をかさね、やがて藤原定家の子藤原為家の側室となり3子をもうける。晩年の弘安2年(1279)10月16日、相続争いで単身京から鎌倉へ訴えに出向いた。恋多き女、才女にして優れた歌人、母性あふれる女傑である。鎌倉下向の道すがら、多くの歌をのこし紀行文「十六夜日記」を著した。

雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月

これからたどる歌枕小夜の中山は多くの歌人によって愛された。それらの歌碑が旧東海道の道端に点々とある。阿仏尼は金谷側から数えて第1番の歌碑である。

久延寺・夜泣石 佐夜鹿 掛川市 静岡県
久延寺・夜泣石 佐夜鹿 掛川市 静岡県

夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかっての掛川城主山内豊一が境内に茶亭を設け関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたことで知られています。境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわっています。 伝説 小夜の中山夜泣石 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云……

説明の全文を読む(約550字)

夜泣石伝説に関わりの深い久延寺はかっての掛川城主山内豊一が境内に茶亭を設け関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたことで知られています。境内の五葉松は(横に二代目が育っています)家康の手植えであり、その脇にひっそりと夜泣石が横たわっています。 伝説 小夜の中山夜泣石 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂傀がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。 里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。 文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

箱根峠、鈴鹿峠についで、東海道の三大難所といわれた長い坂を上りきると峠辺りに徳川家康ゆかりの久延寺が建つ。関ヶ原に向かう家康を掛川城主山内一豊はこの寺に茶亭を設けてもてなした。境内はあいにくの修復工事中で思うように鑑賞できなかった。重機を避けるようにしてブルーシートに覆われた小屋におかれた丸石を撮るのが精一杯だった。この石が有名な「夜泣き石」の一つである。一つということは他にもあるということで、本物は国道1号「小夜の中山トンネル」東口小泉屋の裏に置かれている。では久延寺にあったのはなにか。伝説を守るために同じような形をした丸石をどこかで調達してきたというしかない。小泉屋と久延寺は夜泣石をめぐって所有権確認訴訟で争い、久延寺が負けたという事実が残っている。

扇屋(平日は休業) 佐夜鹿 掛川市 静岡県
扇屋(平日は休業) 佐夜鹿 掛川市 静岡県

久延寺の隣にある扇屋では久延寺の和尚が伝説の主人公お石の子供を育てるときなめさせたという子育飴を売っている。残念ながら平日は休業ということで、茶店風情をみることはできなかった。

西行歌碑 佐夜鹿 掛川市 静岡県
西行歌碑 佐夜鹿 掛川市 静岡県

西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌の一つとされているのが、この一首である。 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山 23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年69歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼を受けて……

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西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌の一つとされているのが、この一首である。 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山 23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年69歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼を受けて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山を越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代から交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから6年後の鎌倉幕府の開設以降である。以下略

扇屋の斜め向かいが小夜の中山公園になっていてそこに巨大な西行の歌碑がある。

年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山

円筒柱の裏に廻ると山家集の題が刻まれている。

あづまの方へ相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて

西行が知れば悶絶するほど恥ずかしがるのではないかと思った。

茶園 佐夜鹿 掛川市 静岡県
茶園 佐夜鹿 掛川市 静岡県
佐夜鹿(小夜の中山)一里塚 佐夜鹿 掛川市 静岡県
佐夜鹿(小夜の中山)一里塚 佐夜鹿 掛川市 静岡県

(前略) ここ小夜の中山の一里塚は、慶長9年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて56里目と云う説があります。 また、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで52里30町ですので、この一里塚は52里に相当します。 天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」……

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(前略) ここ小夜の中山の一里塚は、慶長9年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて56里目と云う説があります。 また、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで52里30町ですので、この一里塚は52里に相当します。 天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで54里26町、小夜の中山までは54里2町ですので、この一里塚は54里に相当すると思われます。 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などによっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。

集落をぬけ沿道は再び明るくなる。右手遠方の粟ヶ岳の斜面に「茶」の一字が山肌に茶木で書かれている。

左右、小夜の山中は今や見渡す限りの茶畑で、峠をこえてからは快適な遊歩道である。道は下り坂となり左手に佐夜鹿一里塚跡が現れる。説明板には日本橋から元禄ベースでいくと52里目、天保ベースでは54里になると、面白い。時につれ道は変遷している証拠である。すぐ先に鎧塚。その間にも歌碑は続いている。

鎧塚 佐夜鹿 掛川市 静岡県
鎧塚 佐夜鹿 掛川市 静岡県建武2年(1335)北条時行の一族名越太郎邦時が、世にいう「中先代の乱」のおり京へ上ろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる。

左に芭蕉句碑。金谷宿長光寺にあった句と同じである。

道のべの木槿は馬にくはれけり

白山神社の先で道が二又に分かれ、街道は左に進む。左に馬頭観音をみてその先200mほど行ったところの右側に「妊婦の墓」が、左側には「涼み松」がある。

妊婦の墓 佐夜鹿 掛川市 静岡県
妊婦の墓 佐夜鹿 掛川市 静岡県松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・・・旧跡」と刻してあります。

妊婦小石姫が自害した跡だという。夜泣き石伝説にでてくる妊婦お石とがどこかで絡んでいるような気がするが、これ以上詮索するまい。

涼み松 佐夜鹿 掛川市 静岡県
涼み松 佐夜鹿 掛川市 静岡県小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で「命なりわずかの笠の下涼み」と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています。

向かいの松の木の下で芭蕉が休んだ。そのとき一句を詠んだ。

命なりわずかの笠の下涼み

その先にも芭蕉の句碑がある。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり(松尾芭蕉・野ざらし紀行)

早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

金谷石畳の終わりにあった句碑と同じ句だが、場所的にはこの小夜の中山の方が原作地に近い。

夜泣石跡 日坂 掛川市 静岡県
夜泣石跡 日坂 掛川市 静岡県妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

その先の左手に「夜泣石跡」の標柱が立つ。広重の絵にあるように夜泣石は街道の真中に置かれて旅人の哀れを誘っていた。明治元年になって明治天皇の行幸に際し、邪魔になると道の脇に退かされた。久延寺が引き取り、東京の博覧会に出品された後、訳あって小泉屋が買い取った。説明板にある「現在の位置に移る」とあるのは久延寺でなく、小泉屋のことである。

広重絵碑 日坂 掛川市 静岡県
広重絵碑 日坂 掛川市 静岡県

東海道五拾三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重 小夜の中山 広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保水堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。 これらの続絵のなかの日坂……

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東海道五拾三次 日坂 浮世絵版画 安藤広重 小夜の中山 広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保水堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。 これらの続絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。

すぐ右手に広重の絵碑「小夜の中山峠」がある。この場所で描かれたとされるが左方の谷側は見晴らしがあって遠くに富士の山のような峰がえがかれている。実際の風景は左側は見通しがきかない林になっている。ところで広重の53次の元絵は司馬江漢だったという説がある。江漢の描いた小夜の中山は坂の勾配といい沿道の風景といい現在の風景とあまり変わっていないように見える。ただ一点、両者とも道の真中に夜泣石を描いていることを除いては。

日坂

「二の曲り」と「沓掛」 日坂 掛川市 静岡県
「二の曲り」と「沓掛」 日坂 掛川市 静岡県「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、ニノ曲リト云下ヘ出シナリ・・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋や馬の沓を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。
日坂(佐夜の中山) 広重「東海道五十三次」
日坂(佐夜の中山) 広重「東海道五十三次」

難所小夜の中山を締めくくるのは「二の曲り」とよばれる曲がりくねった急な坂である。坂を下ると国道、旧国道を横切って日坂集落の旧道に入る。

旧日坂宿町並 日坂 掛川市 静岡県
旧日坂宿町並 日坂 掛川市 静岡県

東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」 江戸から54里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶2年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。慶長6年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷43村……

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東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」 江戸から54里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶2年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。慶長6年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷43村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。天保14年(1843)の記録によれば 家数168軒、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒がありました。 大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。 宿場の東口から西□までの距離は、およそ6町半(700m)町並の形態は現在もあまり変わっていません。 日坂地域振興の会・ 日坂宿おこし委員会

日坂(にっさか)は小夜の中山の西坂に由来する。本陣、脇本陣各1軒という東海道で三番目に小さい宿場だった日坂宿は当時の町割が現在も殆んど変化なく受け継がれ、各家が宿場時代の屋号を引継ぐことを可能にしている。

本陣跡 日坂 掛川市 静岡県
本陣跡 日坂 掛川市 静岡県

江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地は凡そ350坪・建坪220坪、門構・玄関付きの建物でした。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年(1870)に店を閉じました。その後の学制領布に伴い、明治12年より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しま……

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江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地は凡そ350坪・建坪220坪、門構・玄関付きの建物でした。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年(1870)に店を閉じました。その後の学制領布に伴い、明治12年より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。 日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会

静かな家並みを進むと、左に大きくカーブするあたり幼稚園の敷地隅に宿場案内と本陣跡を示す門が建てられている。本陣の屋号は扇屋、代々片岡家が営んできた。

民家の庭先に「問屋場跡」の説明札が立つ。

池田屋 日坂 掛川市 静岡県
池田屋 日坂 掛川市 静岡県

旅籠池田屋の屋号札を掲げる末広亭は今も現役の旅館である。一、二階ともに美しい格子造りで、紺の暖簾や屋号札が往時の雰囲気を色濃く残している。

問屋場跡 日坂 掛川市 静岡県
問屋場跡 日坂 掛川市 静岡県

日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸 商家で屋号は藤文。伊藤文七翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 (中略)この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったといわれているうちの一棟です。この土地・家屋は平成10年に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志によ……

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日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸 商家で屋号は藤文。伊藤文七翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 (中略)この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったといわれているうちの一棟です。この土地・家屋は平成10年に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。 以下略

隣の山本屋は脇本陣黒田屋大澤家宅の跡である。日坂宿最後の脇本陣を勤めた家で、その後明治天皇の小休所としても使われた。

日坂宿最後の問屋役を勤めたという伊藤家「藤文」の海鼠壁土蔵が保存されている。江戸末期から明治にかけて栄えた商家で、明治4年郵便制度創設と同時に郵便取扱所を自宅に開設し、日本最初の郵便局の一つともいわれた。

萬屋 日坂 掛川市 静岡県
萬屋 日坂 掛川市 静岡県

江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852)の日坂宿大火て焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期について明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙・・・」から考えまして、安政年間(1854~1859)のしかも早い時期かと思われます。同じ宿内で筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。 一階に裏手に……

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江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852)の日坂宿大火て焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期について明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙・・・」から考えまして、安政年間(1854~1859)のしかも早い時期かと思われます。同じ宿内で筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。 一階に裏手に抜ける通り土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子が二階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的であることなどが、この旅籠の特徽です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。以下略

大旅籠「川坂屋」 日坂 掛川市 静岡県
大旅籠「川坂屋」 日坂 掛川市 静岡県

大阪の陣(慶長19年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重言は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。 旅篭屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたと伝えられています。 現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江……

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大阪の陣(慶長19年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重言は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。 旅篭屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたと伝えられています。 現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。 また「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なとも宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。 他派後屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・厳谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。その後、平成5年(1993)まで斉藤家の住居として使われ、平成12年 (2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。 敷地は三百余坪ありましたが、昭和25年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成7年(1995)のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田侯より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。 茶室は平成15年(2003)母屋の北側の地に復原されました。 文久2年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。 間口6間 畳58畳半 板鋪6畳 奥行13間 惣畳数〆64畳半 惣坪数 〆78坪

角屋、萬屋と格子造りの古い建物が残されていて、小規模ながら味わいある旧宿場町の家並みを見せている。極めつけは宿場の西端に位置する旧斉藤家住宅川坂屋であろう。二階の千本格子のほか高い二階を支える精巧な木組みが端正な佇まいをみせる。本陣、脇本陣でもなかったが、内部は上段の間を備えた格式を保ち上流階級が宿泊した大旅籠であった。

高札場・下木戸跡 日坂 掛川市 静岡県
高札場・下木戸跡 日坂 掛川市 静岡県

(前略)ここに掲げられている8枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復元いたしました。高札場の大きさ「高さ2間、長2間、横7尺」は日坂宿の「御尋ニ付申上候」書付(天保14年)によりました。江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入口には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。古宮葉橋の架かる逆川のこ……

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(前略)ここに掲げられている8枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復元いたしました。高札場の大きさ「高さ2間、長2間、横7尺」は日坂宿の「御尋ニ付申上候」書付(天保14年)によりました。江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入口には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。古宮葉橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起ったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。

逆川の手前に立派な高札場が復元されている。ここが下木戸跡である。といっても小さな宿場であった日坂宿に木戸は設けられず、逆川にかかる古宮橋が木戸の代わりになった。事あるときは橋をはずした。

事任八幡宮 日坂 掛川市 静岡県
事任八幡宮 日坂 掛川市 静岡県御由緒 創立年代不詳。大同2年(807)坂上田村麻呂東征の際桓武帝の勅を奉じ旧社地本宮山より現社地へ遷座すという。 延喜式(927)神名帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるのはこの社なり。古代より街道筋に鎮座 遠江に座す願いごとのままにかなうありがたき言霊の社として朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安朝の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり 以下略 宮司

日坂の宿場を出て道は県道415号に合流する。歩道橋の先に事任(ことのまま)という珍しい名の神社がある。石橋をわたると高さ31mという楠木の巨木がそびえ、後ろに古色蒼然とした社殿が鎮座する。由緒は古く、枕草子に「言のままの明神、いと頼もし」とあるそうな。何でも言ったことはその通りに叶えてくれるという評判が広がって信仰を集めた。

掛川

掛川(大池橋・秋葉山遠望) 広重「東海道五十三次」
掛川(大池橋・秋葉山遠望) 広重「東海道五十三次」

県道は八坂I.C.交差点で国道1号と合流するがすぐに左に分かれて県道250号を行く。落ち着いた家並みの中に黒板塀をめぐらせた風情ある佇まいをみせる建物は地元出身の俳人伊藤嵐牛蔵美術館である。

伊達方一里塚 伊達方 掛川市 静岡県
伊達方一里塚 伊達方 掛川市 静岡県(前略)江戸日本橋から京都まで125里(約500km)。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛皮、大池の4ヶ所に塚は設けられていた。ここ伊達方一里塚は、江戸より57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。当時、塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と言われた。明治33年頃取り壊されたという。

伊達方集落の出口近くに伊達方一里塚跡の碑がある。江戸から57番目とあり、佐夜鹿一里塚の元禄基準(伊達方は53番目)でも天保基準(伊達方は55番目)でもない新基準だ。

旧道は国道に150mほど乗っただけで山口小学校の前で再び左の本所地区に入っていく。ここの旧道も短い。国道にもどり今度はひたすら掛川に向かって歩く。成滝の本村橋信号交差点で左の旧道(県道37号)に入る。

葛川一里塚 葛川 掛川市 静岡県
葛川一里塚 葛川 掛川市 静岡県江戸より56里3丁余

逆川に架かる馬喰橋を渡ると小さな塚に葛川一里塚跡の石標がある。何番目とは書いていないが江戸より56里3丁とあるから四捨五入して56番目であろう。佐夜鹿の天保ベースに対応する。ここから掛川宿にはっていくが、掛川は宿場町であると同時に城下町であったために極端な曲尺手(かねんて)が採用された。新町七曲りといわれ、ここから城下の繁華街へはいるのに直角に10回曲がっていく。

七曲・東番所跡 掛川 掛川市 静岡県
七曲・東番所跡 掛川 掛川市 静岡県

葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取締るための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられてい……

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葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取締るための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並で、元和6年(1620)町として認められました。

まず、①東光寺入口のバス停前、兼子酒店角の丁字路を左へ。②一筋目を右折。③常夜灯の立つ丁字路を左折、④突き当たりを道なりに右折する。前方に駅前の広い通りがみえるが、道は昔の道筋を固守して、駅前には通じていない。⑤そこを右折。⑥⑦ジグザグの曲尺手があり、路傍に塩の道と夢舞台の道標がある。ここに掛川宿の東番所が置かれていた。⑧すぐ先の二車線道路を左折。⑨ヤマザキYショップのある交差点を右折、⑩二筋目の広い道路(高札場跡)を左折して仁藤交差点で県道37号に合流し、そのまま西進する。

仁藤交差点右手に創業寛政2年(1790)の老舗呉服店、枡忠(初代升屋忠次)が白壁土蔵造りの重厚な店を構える。あいにく定休日で、内の様子はうかがえなかった。

ゲイスベルト・ヘンミィの墓 仁藤町 掛川市 静岡県
ゲイスベルト・ヘンミィの墓 仁藤町 掛川市 静岡県

鎖国が行なわれた江戸時代、長崎の出島はオランダ、中国との貿易のための窓口であった。出島のオランダ商館では、寛永10年(1633)より毎年1回、寛政2年(1790)からは4年に1回、江戸城で将軍に拝謁して献上品を贈り貿易通商の御礼言上をした。ゲイスベルト・ヘンミィもこのような使節団の一員である。ヘンミィの一行70余人は、寛政10年(1798)のはじめに長崎を出発し、4月に11代将軍家斉に謁見した。そ……

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鎖国が行なわれた江戸時代、長崎の出島はオランダ、中国との貿易のための窓口であった。出島のオランダ商館では、寛永10年(1633)より毎年1回、寛政2年(1790)からは4年に1回、江戸城で将軍に拝謁して献上品を贈り貿易通商の御礼言上をした。ゲイスベルト・ヘンミィもこのような使節団の一員である。ヘンミィの一行70余人は、寛政10年(1798)のはじめに長崎を出発し、4月に11代将軍家斉に謁見した。そして、5月に江戸を発って長崎に帰る途中、6月5日掛川連雀の本陣林喜多左衛門方に投宿。この地でかねてからの病気が悪化し、6月8日に死亡、天然寺に葬られた。享年51歳。この墓は、蒲鉾型の石碑を伏せた型で、表面にオランダ語でその由来が書かれている。すでに表面が風化して、判読できなくなっている。墓誌は記念碑に移刻されており、訳文も添えられている。

仁藤交差点から二筋北の天然寺墓地にオランダ人の墓がある。寛政10年(1798)11代将軍家斉に謁見したオランダ人ゲイスベルト・ヘンミィは長崎に帰る途中、掛川宿本陣林喜多左衛門方に投宿。病気が悪化して死亡、天然寺に葬られた。

掛川城大手門 城下 掛川市 静岡県
掛川城大手門 城下 掛川市 静岡県

この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は7間(約12。7m)、奥行は3間(約5.4m)、(中略) 大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共……

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この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は7間(約12。7m)、奥行は3間(約5.4m)、(中略) 大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。 掛川市

そこから掛川城に寄る。掛川城は室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのがはじまりである。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に城下町を大々的に整備した。現在の天守閣、大手門は平成になって復元されたものである。

掛川城太鼓櫓 掛川市 静岡県
掛川城太鼓櫓 掛川市 静岡県

山内一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえて出世街道を駆け上ったサラリーマンの鏡のような男であるが、それにもましてほまれ高いのが賢妻の手本とされる妻千代である。出身は近江米原とも美濃郡上八幡ともいわれる。結婚のとき密かに持参した10両を一豊にあたえて駿馬を買わせ夫の出世のきっかけをつくった。

理想の夫婦は掛川城で花開いた後、高知城で人生のピークを迎える。

二ノ丸御殿より天守閣眺望 掛川城 掛川市 静岡県
二ノ丸御殿より天守閣眺望 掛川城 掛川市 静岡県

大手門は頑丈な楼門造りの櫓門である。白壁に板ひさしが配され、棟上にはシャチ瓦が尾を逆立てている。二の丸には安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて建てられた書院造りの御殿が現存している。藩主の公邸・藩内の政庁として使われた。そこから優美な白亜の天守閣が眺められる。コンクリート造りが多い中、原型に忠実に木造で復元された。

本丸跡には刻を報せる太鼓があった太鼓櫓が建つ。

本陣跡 連雀 掛川市 静岡県
本陣跡 連雀 掛川市 静岡県

江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣という。掛川宿の本陣は、連雀町の沢野弥三左衛門が寛永の始め頃から幕末までつとめた。屋敷規模は総坪457坪余、表間口16間3尺3寸(約31m)あったといわれ、いかに広かったかが偲ばれる。 本陣の建物は、江戸時代に何回か火災にあい、その度に建て替えられた。その位置については、都市改造事業などにより当時の面影を残すものはなく、明確に……

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江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣という。掛川宿の本陣は、連雀町の沢野弥三左衛門が寛永の始め頃から幕末までつとめた。屋敷規模は総坪457坪余、表間口16間3尺3寸(約31m)あったといわれ、いかに広かったかが偲ばれる。 本陣の建物は、江戸時代に何回か火災にあい、その度に建て替えられた。その位置については、都市改造事業などにより当時の面影を残すものはなく、明確にはわからないが、現在地にあったと思われる。

城から「城下町風街並」を下って旧東海道の連雀西交差点にもどる。すこし東の駐車場に本陣沢野弥三左衛門宅跡の案内札が立つ。蓮雀西交差点の南西角にも中町浅羽屋本陣があったらしいが、それを示す標識等は見つからなかった。

清水銀行 中町 掛川市 静岡県
清水銀行 中町 掛川市 静岡県天正18年 掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫にした。若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたという内助の功が美談として伝えられている。後日 土佐高知城主として明治維新の山内溶堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。 清水銀行

中町交差点角に江戸時代の大商家を思わせる木造の清水銀行が店舗を構える。角の壁面一杯に千代の金で得た駿馬の手綱をとる千代と馬上の一豊の浮彫が駒寄せに守られてある。窓格子といい、屋根つき立て看板といい、玄関の松の木といい、風情あふれる銀行である。

十九首塚 十九首 掛川市 静岡県
十九首塚 十九首 掛川市 静岡県

ここは平将門の首級を祀る十九首塚です。(中略)秀郷は将門をはじめ一門の家臣19人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と19の首を別々に埋葬し、……

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ここは平将門の首級を祀る十九首塚です。(中略)秀郷は将門をはじめ一門の家臣19人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と19の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3年8月15日でありました。以下略 平成14年3月

円満寺に残る掛川城蕗の門を見て、街道は下町風の家並みの中をすすんでいく。道が右に曲がった先に「十九首塚」の案内標識が出ている。路地を入っていくと平将門と18人の家臣の首級を埋葬したという円形の塚があった。中央に立つ将門の墓石を18基の石柱が取り巻く。ちょっと異様な光景だ。

家並 二瀬川 掛川市 静岡県
家並 二瀬川 掛川市 静岡県
倉真川・大池橋・秋葉街道分岐 大池 掛川市 静岡県
倉真川・大池橋・秋葉街道分岐 大池 掛川市 静岡県

大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.7m)余りの土橋と記されています。 東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ峰じる街道の入口であることを示していました。 秋葉山へは、ここから9里(約35km)余りの道のりです。 常夜灯は、明和6年(1769)に、……

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大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.7m)余りの土橋と記されています。 東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ峰じる街道の入口であることを示していました。 秋葉山へは、ここから9里(約35km)余りの道のりです。 常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安水9年(1780)に建てられたものです。 この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。 東海道は、鳥居の手前で左に折れます。

道は逆川をわたり二瀬川信号で国道1号に合流して西に向かう。沿道に残る古い建物をみながら大池橋にさしかかる。川を越えたところで旧東海道は左におれ、右には秋葉山参詣の道、秋葉街道が分岐している。かっては秋葉街道入口に常夜灯と青銅製の鳥居が立っていたが、今はわずかに明治22年の道標が残るのみである。広重は掛川宿の絵としてこの橋と秋葉山の遠景を描いた。橋の上から目を凝らしてその方向を眺めてみたが山の気配すら感じなかった。

天竜浜名湖鉄道 西掛川駅付近 大池 掛川市 静岡県
天竜浜名湖鉄道 西掛川駅付近 大池 掛川市 静岡県
大池一里塚跡 大池 掛川市 静岡県
大池一里塚跡 大池 掛川市 静岡県

大池橋から県道253号で南にむかった街道は天竜浜名湖鉄道のガードをくぐる。濃淡二色の小豆色した1両電車がさりげなく通り過ぎていった。

左手、蓮祐寺の前に夢舞台東海道の道標が大池一里塚跡の標識をかねて立っている。

曽我鶴醸造元柴田酒店 沢田 掛川市 静岡県
曽我鶴醸造元柴田酒店 沢田 掛川市 静岡県

道は逆川に接近するところで二手にわかれるが旧東海道は右側の道をゆく。曽我鶴柴田酒店の前を通り過ぎる。

道は沢田I.C.で分断され、高架下をくぐって左折し再び右に出ている県道253号に入る。すぐに東名高速道路の高架をくぐり、垂木川を渡ったところ右手に善光寺と仲道寺がある。

仲道寺(東海道之真中) 岡津 掛川市 静岡県
仲道寺(東海道之真中) 岡津 掛川市 静岡県

享保18年(1733)に市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に堂を建立して、夏涼山仲道寺と号したことに始まります。善光寺の沿革ははっきりしませんが、江戸時代の終わりごろには、寺の阿弥陀堂に祀られている阿弥陀仏は、平安時代の初めに活躍した武将、坂上田村麻呂の守り本尊と言い伝えられていました。 --------------------------------------------------……

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享保18年(1733)に市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に堂を建立して、夏涼山仲道寺と号したことに始まります。善光寺の沿革ははっきりしませんが、江戸時代の終わりごろには、寺の阿弥陀堂に祀られている阿弥陀仏は、平安時代の初めに活躍した武将、坂上田村麻呂の守り本尊と言い伝えられていました。 -------------------------------------------------------------- この寺は曹洞宗です。右側仲道寺、左側善光寺 その昔江戸から京都までの道を測量した所、この寺が丁度東海道の真中で仲道寺という寺号がついたと言われております。善光寺は旅人の災難、悪病を除くため建立したのです。 掛川市長

石段をあがったところが善光寺。右側山門を入り善光寺境内にあたかも本堂として構えるのが仲道寺である。だれかが東海道の中間点を計測したとき、この堂の位置がぴったりだったことから仲道寺と名がついた。

旧東海道松並木岡津~原田 掛川市 静岡県
旧東海道松並木岡津~原田 掛川市 静岡県

官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉問の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道53次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿のニ宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として……

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官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉問の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道53次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿のニ宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。

岡津から間宿原川にかけて、のどかな畑中を両側によくそろった松並木が続く。原川集落入り口に建つ金西寺は一対の常夜灯を配して、民家のようで公民館のような、ひょっとすれば古い局舎のような寺らしからぬ建物である。

旧間宿原川町並 原川 掛川市 静岡県
旧間宿原川町並 原川 掛川市 静岡県

金西寺の前にの案内板があった。集落の西端で左折し、地下道で国道1号の南側歩道に出て、原野谷川を同心橋でわたり、対岸の名栗の立場に下りるややこしい道順が示されている。原野谷川が掛川市と袋井市を分ける。

袋井

名栗の立場・可睡三尺坊道標 国本 袋井市 静岡県
名栗の立場・可睡三尺坊道標 国本 袋井市 静岡県

明治16年建立「従是西東海道 可睡斎まで二里十二町」とあります。 ------------------------------------------------------------- 『東海道中膝栗毛』の一節に次のようにあります。 「はやくもなくりのたてばにつく ここは花ござをおりてあきなふ 道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいにをれる花ござ」 江戸時代には旅人が休息する場所(立場)と……

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明治16年建立「従是西東海道 可睡斎まで二里十二町」とあります。 ------------------------------------------------------------- 『東海道中膝栗毛』の一節に次のようにあります。 「はやくもなくりのたてばにつく ここは花ござをおりてあきなふ 道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいにをれる花ござ」 江戸時代には旅人が休息する場所(立場)として知られ特に花茣蓙は有名でした。北西一帯に広がる坂尻遺跡には奈良時代郡家(郡役所)や駅家が置かれていたらしく古くから東西交通の要衝の地であったことがわかります。

袋井(出茶屋) 広重「東海道五十三次」
袋井(出茶屋) 広重「東海道五十三次」

橋を渡りすこし左に行って堤防を降りる。小公園が作られていてそこに常夜灯、大きな石の可睡三尺坊道標、名栗(なぐり)の立場案内板がある。

可垂三尺坂大権現とは秋葉山の秋葉神社のことで、ここから2里12町の距離にある。このあたりは古代東海道の道筋で、国道1号沿いの工場地帯に律令時代の郡家(郡役所)や駅家が置かれていたことが確認された(坂尻遺跡)。

名栗の花茣蓙 広岡 袋井市 静岡県
名栗の花茣蓙 広岡 袋井市 静岡県文化文政の頃十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ1里10丁 原川薬師に参詣し軒を連ねた通りをすぎ 瀬川を渡れば早名栗 を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 ここは布井の宿までの合いの宿 旅籠屋もあり 名物の花ござを売る店が軒を連ね上り下りの旅人が珍しいと買って行く・・・」 旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里

しばらく行くと左手に、大名駕籠駕籠の形をした「名栗の花茣蓙」碑がある。多様な模様入りの花茣蓙を売る絵と、東海道中膝栗毛からの一説を引いた説明文が書かれている。引用には「名物花茣蓙を売るここには立場茶屋があり、間宿の旅籠屋もある」とあり、立場と間宿の重複が気になった。

東海道松並木 国本/広岡 袋井市 静岡県
東海道松並木 国本/広岡 袋井市 静岡県

江戸時代の東海道沿線の村々を記録した『東海道宿村大概帳』には「(掛川)宿より袋井宿迄間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。 東海道の松並木は、慶長9年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と『徳川実紀』は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事……

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江戸時代の東海道沿線の村々を記録した『東海道宿村大概帳』には「(掛川)宿より袋井宿迄間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。 東海道の松並木は、慶長9年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と『徳川実紀』は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。平成12年3月10日 袋井市教育委員会

名栗から久津部にかけて、土盛りされた松並木が残っている。新たに植樹された松を含めて、県道253号の両側に続く工場地帯の目隠しとしても機能しているようだ。

並木がとぎれ丁字路角に唐突に赤い鳥居が現れる。ここはかつて富士浅間神社の参道入口でここから800m北の神社まで参道が続いていた。今は工場地帯をぬって国道1号と東名高速を越えていかねばならない。

妙日寺 広岡 袋井市 静岡県
妙日寺 広岡 袋井市 静岡県

妙日寺は正慶元年(1332)身延山久遠寺の日善によって開いた日蓮宗の古刹です。日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名(ぬきな)氏の代々の邸宅跡と伝えられています。(中略)日蓮の父貫名重忠は、源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され、その地で貞応元年(1222)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉2年(1258)にその生涯を閉じました。日蓮の両親を顕彰するため……

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妙日寺は正慶元年(1332)身延山久遠寺の日善によって開いた日蓮宗の古刹です。日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名(ぬきな)氏の代々の邸宅跡と伝えられています。(中略)日蓮の父貫名重忠は、源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され、その地で貞応元年(1222)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉2年(1258)にその生涯を閉じました。日蓮の両親を顕彰するための「妙日尊儀、妙蓮尊儀供養塔」 (市指定文化財)は、刎柳生但馬守の寄進と伝えられ、江戸時代初期の形を良く残した五輪塔です。以下略

久津部の集落にはいると左手に古刹妙日寺がある。日蓮の祖先名貫氏は代々土地の領主を勤めここに屋敷を構えていた。日蓮の父、名貫重忠は源平の戦いで平家に味方したため、鎌倉幕府から安房国小湊に流された。貞応元年(1222)日そこで日蓮が生まれている。妙日寺には名貫氏代々の墓所がある。

久津部一里塚跡 袋井東小学校 広岡 袋井市 静岡県
久津部一里塚跡 袋井東小学校 広岡 袋井市 静岡県

一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や松がその上に植えられていました。 久津部一里塚は江戸からちょうど60里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。 昭和47年には袋井東小学校創立100年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にい……

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一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や松がその上に植えられていました。 久津部一里塚は江戸からちょうど60里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。 昭和47年には袋井東小学校創立100年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。平成12年8月改修 袋井市教育委員会

隣の袋井東小学校の敷地内に江戸から60番目の久津部一里塚跡の碑が立つ。松が植えられている石垣の塚は小学校創立百年を記念して復元されたものである。

久津部町並 広岡 袋井市 静岡県
久津部町並 広岡 袋井市 静岡県

久津部は大きな集落である。落ち着いた町並にいくつもの自然石で作られた道しるべをみる。脇に立つ標柱にはいずれも「大正4年(1915)に久津部青年会が建てました」と書かれていた。

再び松並木に入り七ツ森神社を経て、旧東海道は新屋交差点で一時途切れ、交差点のひとつ南の細道で復活する。緑色の「どまん中茶屋」の案内標示にしたがえばよい。木造屋形の秋葉山常夜灯をみていよいよ袋井市街地に入ってくる。

市役所前で再び旧道は途切れ、左折して大きな交差点を右に折れると、川沿いの緑地内に袋井宿の標柱と説明板がある。袋井宿は江戸から数えても京都から数えても27番目で、ちょうど53次の中間に当たる。袋井宿の名は鎌倉時代の文書にでてくる古い宿駅であったが、江戸時代の宿場としては東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616)に開設された。

ど真中茶屋 袋井 袋井市 静岡県
ど真中茶屋 袋井 袋井市 静岡県袋井宿は元和2年(1616)に設置されました。いわゆる東海道53次ぎでいえば品川宿から数えて27番目の宿駅に当たります。天橋は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出茶屋ノ図」にその姿が描かれています。天保14年(1843)の調査によれば、宿内の町並は西端の中川まで5町15間人口は843人、家数は本陣3軒・旅籠屋の50軒を含め195軒でした。 平成元年6月4日 袋井市教育委員会

天橋が袋井宿の入口で、市役所前で途切れた旧道はここにつながっていた。右手に茶店小屋風の観光案内所があり、「東海道どまん中茶屋」の暖簾、「助郷寄合処」の板看板がかかっている。広重が袋井宿の絵に描いた茶屋が想定されている。ボランティアだろう、年配のおじさんが盛んに寄っていくように声をかけてきた。

旧袋井宿町並 袋井 袋井市 静岡県
旧袋井宿町並 袋井 袋井市 静岡県

期待して宿場街にはいっていったが、一向にそれらしき雰囲気が匂ってこない。町並の記録写真を撮っていると後ろから声がかかった。おじさんは奥州街道を三厩まで歩いたという。クリーニング店内に案内されしばし街道歩きの話に花が咲いた。ご主人は日本ウォーキング協会、東海道ネットワーク会、全国街道交流会議、袋井市観光協会など、多くの組織に参加して活躍しておられる人だ。袋井宿に面影がないのは昭和19年の大震災で町が壊滅したからだと教えてもらった。帰り際に手づくりの「奥州街道」の本をいただいた。奥州街道を歩いたといっても多くは白河や仙台までであって、三厩まで踏破した人は少ない。

袋井宿東本陣跡 袋井 袋井市 静岡県
袋井宿東本陣跡 袋井 袋井市 静岡県

袋井宿には3軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。宿内惣家数195軒 内本陣 凡建坪290坪半 (中略) 三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられて3本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行なった問屋……

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袋井宿には3軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。宿内惣家数195軒 内本陣 凡建坪290坪半 (中略) 三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられて3本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行なった問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。 平成12年7月28日 袋井市教育委員会 ------------------------------------------------------------ この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、東本陣の建物の一部が発見されました。現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。 この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代 家)の生活の場であったと考えられます。南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井が無かったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。

高札場跡 袋井 袋井市 静岡県
高札場跡 袋井 袋井市 静岡県

宿場の中ほどに東本陣跡、袋井宿場公園がある。その先に「問屋場(人馬会所)跡」の標柱。「東海道53次どまんなか」の看板をかけた店が目を引いた。「どまんなか」は袋井市のキャッチフレーズである。

御幸橋(中川橋)の東袂に高札場が復元されている。

万葉歌碑(袋井中学校内) 川井 袋井市 静岡県
万葉歌碑(袋井中学校内) 川井 袋井市 静岡県

時々の花は咲けども何すれそ 母とふ花の咲き出来ずけむ 右一首防人山名郡丈部真磨 訳 季節季節に花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか。咲けば手で折ってでも持ってきたのに。 遠江白羽の磯と贄の浦と あひてしあらぱ言も通はむ 右一首同郡丈部川相 訳 遠江の白羽の磯と贄の浦とのように、ここと故郷とが向かいあっているのなら、言葉も通じあうだろうに。遠くへだたっていては思いがつのるぱかりだ。 ……

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時々の花は咲けども何すれそ 母とふ花の咲き出来ずけむ 右一首防人山名郡丈部真磨 訳 季節季節に花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか。咲けば手で折ってでも持ってきたのに。 遠江白羽の磯と贄の浦と あひてしあらぱ言も通はむ 右一首同郡丈部川相 訳 遠江の白羽の磯と贄の浦とのように、ここと故郷とが向かいあっているのなら、言葉も通じあうだろうに。遠くへだたっていては思いがつのるぱかりだ。 この二首の歌は、日本最古の歌集となります『万葉集』に載っている防人の歌です。防人は、古代、中国や韓国からの侵入を防ぐために北部九州に配置された兵士のことで、主に東国から徴兵されました。防人の歌の多くは、父母や妻との別れを悲しむ農民の率直な気持ちが歌われています。この歌碑の防人は山名郡の丈部真麿と丈部川相で、山名郡は現在の袋井市域にあたる古代の行政区となります。丈部川相は、名前が現在の袋井市川井の地名と同名となることから、川井地区の出身者と考えられます。 平成12年8月 袋井市教育委員会

橋をわたってすぐ左手、天領袋井宿と掛川藩領川井村をわける御料傍示杭の立つ路地をはいっていくと、中学校の敷地内に万葉歌碑がある。防人の歌だが読み人が当地(袋井市川井)出身だという。

旧澤野医院 川井 袋井市 静岡県
旧澤野医院 川井 袋井市 静岡県

旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地……

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旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12。5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、 西側には渡り廊下によって繋がれている洋館か建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。 各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。 袋井市教育委員会

西小学校の西側にある洋風の建物は旧澤野医院で、医院の裏側には倭建築の居宅部分がある。清楚な白ペンキ塗りの横板サイディング造りは北米ニューイングランド地方でよく見かける建築である。

木原一里塚 木原 袋井市 静岡県
木原一里塚 木原 袋井市 静岡県木原一里塚は、汪戸から数えて61里目の一里塚です。(中略)本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。

川井交差点で県道413号と合流するが、すぐに木原松橋を渡ったところで右の旧道に入る。木原集落にはいってまもなく、右手に木原一里塚跡の標柱が立つ。白ペンキが剥がれた跡に「江戸から六十一里」の文字が認められる。平成9年の新しい標識だ。そこからすぐ先の左手に復元された立派な一里塚があった。平成11年に造られたもので、説明板には本来の位置はここから60m東にあったとある。さきの標識のあった場所がそうであろう。

古戦場木原畷 木原 袋井市 静岡県
古戦場木原畷 木原 袋井市 静岡県

元亀3(1572)年、兵3万5千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城飯田城を落して久野城へ向った。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向かい、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いをくり返した信玄はやがてニ俣城を攻略し、東三河へ向うべく三方ヶ原を通過しようとした。 これに対して家康は兵1万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。……

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元亀3(1572)年、兵3万5千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城飯田城を落して久野城へ向った。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向かい、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いをくり返した信玄はやがてニ俣城を攻略し、東三河へ向うべく三方ヶ原を通過しようとした。 これに対して家康は兵1万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。 これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。 1985年5月 袋井市教育委員会

許禰神社の森にさしかかる。この辺りは三方ヶ原合戦の前哨戦となった木原畷の古戦場で、木原に陣を張った武田信玄と浜松城を守る徳川家康の偵察隊とが小競り合いを繰り返した所である。

再び県道413号に合流し、蟹田川を渡ってジュビロ磐田のホームタウンに入る。

見付(磐田)

見付(天竜川) 広重「東海道五十三次」
見付(天竜川) 広重「東海道五十三次」
家並み 西島 磐田市 静岡県
家並み 西島 磐田市 静岡県

左手に一軒の塀ながら形、材料、色の異なった4種類の塀を繋ぎ合わせた面白い民家があった。植木に隠れた建物は漆喰造りの旧家にみえる。

鎌倉の古道 三ヶ野 磐田市 静岡県
鎌倉の古道 三ヶ野 磐田市 静岡県

三ケ野坂の七つ道 磐田市三ケ野 南北朝時代|に宗良親王がその心境をΞケ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また、武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。東から三ヶ野橋を西進すると、標高38……

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三ケ野坂の七つ道 磐田市三ケ野 南北朝時代|に宗良親王がその心境をΞケ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また、武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。東から三ヶ野橋を西進すると、標高38mある大日山の急斜面を、這うように江戸期以前の細道が蛇行している。坂上で江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200m西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道1号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差の袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた7つ道が、1ヶ所にまとまって見られるのは珍しい。

太田川にかかる三ヶ野橋を渡ったところで、少し左に入り、石段を降りてガソリンスタンドの裏側の松並木が残る旧道に入る。旧道はその先、松並木から山中の三ヶ野坂へと進んでいく。坂の入口で道が二手に分かれる。右は大正の道、左の明治の道とあるのが旧東海道である。坂道の途中で左に「江戸の古道」が残っている。煉瓦石で舗装され古道の風情なし。すぐに明治の道に合流する。坂を上りきったところで、その先に「鎌倉の古道」が下っている。こちらは落葉が踏みしめられた感じのよい山道だ。左手の高台に大日堂があった。

遠州鈴ヶ森刑場跡 富士見町1丁目 磐田市 静岡県
遠州鈴ヶ森刑場跡 富士見町1丁目 磐田市 静岡県

坂を下り、見付の松並木をへて国道1号にでる。歩道橋を渡って、右手高台に遠州鈴ヶ森の刑場跡がある。金谷宿宅円庵首塚の主、日本左衛門の供養塔が立っている。首はこの先三本松で晒された。

秋葉山常夜燈 富士見町1丁目 磐田市 静岡県
秋葉山常夜燈 富士見町1丁目 磐田市 静岡県遠州地方では古くから秋葉信仰が盛んで、各村や町には必ず秋葉灯篭が建てられ、常夜灯として絶やすことなく火が焚かれました。この富士見町の秋葉石灯篭は大正4年に建てられたもので、毎年12月に例祭・秋葉神社祭りが行われます。

すぐ先の二股で国道と別れて右の旧道に入る。三本松橋、別名なみだ橋を渡る。日光街道南千住にも東海道品川にも刑場のそばにはなみだ橋がある。家並みの入口に常夜灯が立ちその足元に「旧三本松」と刻まれた小さな石碑がある。獄門台があった場所である。

見付宿と阿多古山一里塚 見付 磐田市 静岡県
見付宿と阿多古山一里塚 見付 磐田市 静岡県

見付宿は、江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言『磁石』に「見付な長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央には南北両本陣や脇本陣が置かれました。西には天竜川を控え東海道各宿でも重要な宿の一つでした。この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は にあり……

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見付宿は、江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言『磁石』に「見付な長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央には南北両本陣や脇本陣が置かれました。西には天竜川を控え東海道各宿でも重要な宿の一つでした。この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は にあり、京へ向かう旅人は、ここから宿場を眺めてほっとしたことでしょう。一里塚は、江戸時代の初期に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から62里、京から64里の位置にあります。一里塚が残っている所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両脇に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年に磐田市の指定史跡になっています。

道は下り坂となって見付宿に入っていく。坂を下りきったところで、左手の愛宕山を改めて登っていくと愛宕神社の裏側に阿多古山一里塚が残っている。江戸から62番目で京から64里の位置にある。神社境内からは見付宿の町並が一望できた。

東木戸跡 見付 磐田市 静岡県
東木戸跡 見付 磐田市 静岡県
高札場跡 見付 磐田市 静岡県
高札場跡 見付 磐田市 静岡県

愛宕山の前、広い道との合流点が見付宿東木戸跡である。ここから見付宿に入る。西から来た旅人はこの地で初めて富士山を見るので、見付の名がついたという。

JA遠州中央支店前に高札場風の宿場案内板があるが、「東海道さんさくマップ」におよればここが高札場跡のようだ。一方で案内板の宿場図ではもうすこし先の県道86号との交差点角あたりとなっている。どちらが正しいのか知らない。

見付宿問屋場・脇本陣跡 見付 磐田市 静岡県
見付宿問屋場・脇本陣跡 見付 磐田市 静岡県

中川橋をわたって右側路地入口に東海道見付宿の石碑、静岡銀行前に問屋場跡の標識が、また道向かいピザ店前には脇本陣跡の標識がある。いずれも位置を示すだけのものである。

御朱印屋敷冷酒清兵衛邸 見付 磐田市 静岡県
御朱印屋敷冷酒清兵衛邸 見付 磐田市 静岡県

東木戸からここまでの宿場街は整備された現代的な商店街で往時を偲ばせる建物はみられなかったが、この先ようやくいくつかの歴史的建物に出会うことができた。 右側に門と塀をめぐらす旧家は御朱印船屋敷冷酒清兵衛邸である。この場所で酒を造り客には冷酒を売っていた上村清兵衛の店に、或る日徳川家康が訪れた。清兵衛が自慢の冷酒を勧めたところ家康はたいそう気に入って、冷酒清兵衛と呼ぶようになったという。

御証文屋敷 安間平次弥邸跡 見付 磐田市 静岡県
御証文屋敷 安間平次弥邸跡 見付 磐田市 静岡県平治弥は本名弥平治、名は禮・字は伯敬・号九渕と称し漢字の素養あり詩文もよくした。家康から代官に任命され、甲州武田勢を退去させた功績で家康に平治弥と改名させられ、帯刀を許され、見付に住むように申し付けられた。庭には清水が湧出し年中枯れることがなく、これを家康に薦めたので御清水というようになった。町名もこれにあやかって清水町となったという。

道の反対側の路地をはいったところに御証文屋敷安間平次弥邸跡(現片桐医院)がある。家康より代官に任命され帯刀を許された。庭に清水が涌くことから旧町名の清水町となった。清水の流れる庭に面して屋敷の一部と土蔵が残り、狭い一角に和風の趣を醸している。

見付宿本陣跡 見付 磐田市 静岡県
見付宿本陣跡 見付 磐田市 静岡県

県道86号線の交差点を渡った右手に本陣跡の標識が立つ。その先に「見付宿いこいの広場」が整備されていて、脇本陣の門が移築されている。先にピザ店の位置にあった脇本陣で、もとは大三河屋という旅籠であった。その後中泉の個人宅の門として使用されていたが平成17年、市に寄贈されこの場所に移ってきたものである。堂々とした薬医門である。

国指定史跡旧見付学校 見付 磐田市 静岡県
国指定史跡旧見付学校 見付 磐田市 静岡県「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治8年(1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は4階建てでしたが、明治16年に増築されて今の5階建てとなりました。以下略 磐田市教育委員会

広場の裏側に瀟洒な洋風の建物がある。現存する最古の洋風木造小学校校舎で国指定史蹟である。緻密な石組みの基礎は遠州横須賀城の石垣を利用した。その上に三階建て校舎が建ち、屋上に時計台風の二層の楼を乗せてある。小学校にはもったいないほど立派な建物である。

磐田文庫 見付 磐田市 静岡県
磐田文庫 見付 磐田市 静岡県この地域の最初の私設図書館として元治元年(1864)に大久保忠尚が創建しました。 国史跡に指定。

その脇をすすむと遠江国総社である淡海国玉神社が鎮座する。幕末から明治にかけて、この神社の神官で国学者でもあった大久保忠尚(ただなお)は自宅で塾をひらき地元青年に国学を教えた。募った寄付金と私財それぞれ100両ずつ計200両をもとに私設図書館を設立したのが「磐田文庫」である。旧見付学校の裏側、神社境内の西側に小ぢんまりとした白壁土蔵がたたずんでいる。

栗田家土蔵群 見付 磐田市 静岡県
栗田家土蔵群 見付 磐田市 静岡県5棟の土蔵は明治初期から昭和初期にかけて順次建設されたと思われます。かって磐田を代表する産業であった煙草業に使用されました。現在ではほとんど見られなくなった貴重な近代産業遺産で、かっての見付のたたずまいをよく残しています。

県道44号との交差点手前の路地を右にはいるとガランとした空き地に古びた土蔵が5棟無言でたたずんでいる。栗田煙草合資会社の土蔵である。明治20年ごろに設立され、葉たばこの乾燥・貯蔵に使用されていた。

姫街道分岐点 見付 磐田市 静岡県
姫街道分岐点 見付 磐田市 静岡県見付-市野-気賀-三ヶ日-嵩山-御油

旧東海道は県道44号にぶつかって左に折れる。直進方向に出ている細道は俗称姫街道とよばれる脇往還で、浜名湖の北側を通って三河の御油(ごゆ)宿で東海道に合流する。東海道をこのまま進むと、特に女の出入りに厳しかった新居の関を通らねばならないため、そこを避ける抜け道として女の旅人が利用したことから姫街道と呼ばれるようになった。

旧赤松記念館 見付 磐田市 静岡県
旧赤松記念館 見付 磐田市 静岡県造船技術の先駆者、赤松則良が明治25年ごろに建築した屋敷です。門や塀はレンガを巧みに積み上げたもので、明治の面影を残す貴重な建物として県文化財に指定されています。

交差点を右にまがって一ヶ所寄り道をする。800mほど北に赤松則良の屋敷が保存されている。明治時代の建築で、赤レンガ造りの門塀に土蔵の漆喰が優雅なコントラストを見せている。土蔵の一つで人形個展が開かれていた。

姫街道追分にもどり南に向かう。加茂川をわたる辺りが西木戸跡で、板の標札がある。

遠江(とおとうみ)国分寺跡 見付 磐田市 静岡県
遠江(とおとうみ)国分寺跡 見付 磐田市 静岡県

奈良時代の中泉と見付には、遠江国府や遠江国分寺、国分尼寺、大宝院廃寺などが置かれました。天平13(741)年、全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建設が計画されました。隣接する府八幡宮は遠江国分寺と同じ頃、創建されたと伝えられています。 遠江国分寺・国分尼寺は、古代「大之浦」を臨む景勝地に両寺の金堂・講堂の建物中心線を同一にして、国分寺の北側釣200mに国分尼寺を配しました……

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奈良時代の中泉と見付には、遠江国府や遠江国分寺、国分尼寺、大宝院廃寺などが置かれました。天平13(741)年、全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建設が計画されました。隣接する府八幡宮は遠江国分寺と同じ頃、創建されたと伝えられています。 遠江国分寺・国分尼寺は、古代「大之浦」を臨む景勝地に両寺の金堂・講堂の建物中心線を同一にして、国分寺の北側釣200mに国分尼寺を配しました。 遠江国分寺は、金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊など(伽藍)を築地塀などによって囲み、その範囲は東西180m、南北250mに達し、また、周囲にも関連した施設がいくつか建てられていたものと考えられます。 現在、七重塔の跡や金堂跡には礎石が残っています。 中世になると国分寺は衰退しますが、その後国分寺の一隅に薬師堂が建てられました。 遠江国分寺跡は昭和26(1951)年に発掘調査され、昭和27年に国の特別史跡に指定されました。 平成17年10月 磐田市教育委員会

磐田南高校の南側に遠江国分寺跡が、その向かいに府八幡宮がある。国分寺は東西180m、南北250mにわたって築地塀で囲われ、中に金堂、七重塔、講堂など壮大な伽藍が建設された。今も七重塔や金堂跡に礎石が残っている。

府八幡宮 中泉 磐田市 静岡県
府八幡宮 中泉 磐田市 静岡県府八幡宮は奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき、国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられています。大鳥居をくぐり参道を歩くと、楼門、中門を経て拝殿・本殿へと続きます。また、広大な敷地は緑豊かな森に囲まれています。 以下略 平成18年3月 磐田市教育委員会

府八幡宮も国分寺と同じ奈良時代に建立された。柿葺き入母屋造りの楼門は堂々として優美である。その付近に壁土をあらわにした築地塀がわずかに残っている。神宮寺の遺構であろうか。

万葉歌碑 見付 磐田市 静岡県
万葉歌碑 見付 磐田市 静岡県

遠江国守桜井王の天皇への歌一首 九月之其始雁乃使爾毛念心者可聞来奴鴨 九月のその初雁の使によって、私のお慕い申し上げる気持ちは、天皇のお耳にとどかないものでしようか。 天皇よりの返歌一首 大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日 大の浦の長々とした水際に寄せる波のように、心ゆったりとおおらかな気持ちであなたのことを考えているこのごろです。内容は互いに相手を思い合う心が、恋歌のように歌われている。桜井王の……

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遠江国守桜井王の天皇への歌一首 九月之其始雁乃使爾毛念心者可聞来奴鴨 九月のその初雁の使によって、私のお慕い申し上げる気持ちは、天皇のお耳にとどかないものでしようか。 天皇よりの返歌一首 大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念比日 大の浦の長々とした水際に寄せる波のように、心ゆったりとおおらかな気持ちであなたのことを考えているこのごろです。内容は互いに相手を思い合う心が、恋歌のように歌われている。桜井王の在任期間(729~738)を考えると歌の相手は、「国分寺建立の詔」を出した聖武天皇であった可能性か高い。奈良時代に、遠江国府の近くに広がっていた入江(大の浦‐現今之浦)の岸に寄せる波に思いが重ねられており、当時の「大の浦」の情景が思い浮かばれる。

神社の森の東側に万葉歌碑がある。遠江国守と聖武天皇との間で交わされた歌であるが、現代語訳は恋人どうしの歌のように甘い。

国分寺といい、府八幡宮といい、この万葉歌といい、磐田の地は悠久の時を刻んできた。

旧東海道は磐田駅から二つ目手前の信号交差点を右折して西へ向かう。このあたりに古代東海道の引摩(いんま)駅があったと考えられている。

宮ノ一色一里塚 宮ノ一色 磐田市 静岡県
宮ノ一色一里塚 宮ノ一色 磐田市 静岡県

江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全こ旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。 一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木陰は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたよう……

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江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全こ旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。 一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木陰は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ、宮之一色一里塚は、東海道の起点である戸日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川lの渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里.塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。

県道261号に合流し万能橋をわたると右手下万能バス停脇に塚が設けられ頂上に「一里塚の跡」碑がある。江戸から63番目の宮之一色一里塚で昭和46年に復元された。位置的には磐田宿と天竜川との中間にあたる。

秋葉山常夜灯 宮之一色 磐田市 静岡県
秋葉山常夜灯 宮之一色 磐田市 静岡県

この常夜燈(灯龍)は平成8年部分改修しました。その棟札から文政11年(1828年)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯範の中でも大変貴重なものです。風よけに灯龍の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。 地……

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この常夜燈(灯龍)は平成8年部分改修しました。その棟札から文政11年(1828年)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯範の中でも大変貴重なものです。風よけに灯龍の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。 地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯龍のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・。 平成15年10月 宮之一色自治会

まもなく左手に石組の上に瓦屋根付きの小さいながら端正な祠が建っている。文政11年(1828)建立の古い秋葉山常夜燈で、祠の中に可睡斎のお札を祀ってある。可睡斎とは袋井市郊外にある秋葉信仰の総本山で、室町時代初期に開かれた曹洞宗の名刹である。徳川家康に招かれた11代住職の等膳和尚が、家康の目の前でいねむりを始めたが、家康はとがめることなく「和尚睡(ねむ)る可し」と言ったことから可睡斎の名がついたという。さすがに秋葉山の地元らしく、普通見かける石灯籠でなくて、本格的な建前である。

長森立場・長森膏薬 長森 磐田市 静岡県
長森立場・長森膏薬 長森 磐田市 静岡県

江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。明治時代以後は人カ車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。……

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江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。明治時代以後は人カ車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。 長森かうやく 「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷に抜群の効能があるとして、近所の村人は元より、参勤交代の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。 山田家には今でも江戸時代に作られたられた桜の木の一枚板の大看板があります。(中略) こうやくの製法は、当時の主人山田与右衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。 昔の歌に「諸人のよき評判や長森の諸病に菊の五もんかうやく」 と詠まれています。 平成18年3月 磐田市教育委員会

街道は豊田南小学校の先で県道を右に分けてそのまま直進する旧道に入る。しばらく行くと左手に夢街道の道標と、長森立場・長森こうやくの説明板がならんでいる。山田与左衛門家で作られるこうやくは長森の名物だった。

天龍橋跡 源平新田 磐田市 静岡県
天龍橋跡 源平新田 磐田市 静岡県

天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治6年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治7年(1874)2月、源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治9年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。 全長646間(1163m)巾2間(3.6m)天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和8年、国道に現在の鉄橋が……

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天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治6年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治7年(1874)2月、源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治9年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。 全長646間(1163m)巾2間(3.6m)天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和8年、国道に現在の鉄橋が完成したので、池田橋とともに名物の木橋は廃止され、取り除かれた。 この木橋の位置を末長くとどめるため、昭和48年3月、教育委員会はこの碑を建てた。(なお、 に建てられている。 平成18年3月 磐田市教育委員会 豊田町郷土を研究する会

旧道はいよいよ天龍川に近づいた。信号交差点を右折し県道262号に沿って渡船場へ向かう。最初の路地を左にはいると源平新田公民館の前に「天竜橋跡」の碑がある。江戸時代は渡し船だった天龍川に明治7年(1874)、初めて天竜川に船橋が架けられ、2年後には全長1163mの木橋に架け替えられた。碑はこの木橋を記念して建てられたものである。

民家 池田 磐田市 静岡県
民家 池田 磐田市 静岡県

県道にもどり国道1号とバイパスの大きな交差点を横切る。なにかあったのか、警官が大勢出ている。街道はまもなく県道とわかれ、静かな旧街道を北上する。渡し場はここ旧池田村にあって、見附-浜松の間宿として賑わった。中世12世紀には広大な池田荘とよばれる荘園があった古い土地柄である。今も街道筋には長屋門や土蔵、火の見櫓など往時の面影をとどめる景観が残っていて、歩いていても心地よい。

熊野寺・熊野(ゆや)の長藤 行興寺 池田 磐田市 静岡県
熊野寺・熊野(ゆや)の長藤 行興寺 池田 磐田市 静岡県

一、当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野御前の旧跡であります。 一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)熊野御前とその母、侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。 一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。 一、境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり……

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一、当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野御前の旧跡であります。 一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)熊野御前とその母、侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。 一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。 一、境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に指定されました。見頃は、年により相違がありますが平年四月下旬から五月上旬であります。 一、謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。 右 旧跡 熊野寺 謡曲「熊野」と行興寺 遠江国池田の宿の長熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。熊野は病母から届いた手紙で見舞に赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞き入れられず、やむなく宗盛に同行しました。花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄の村雨に散る花に寄せて故郷の病母を気遣い いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん と和歌を泳んだのを見て宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり「熊野の長フジ」と称せられています。謡曲史跡保存会

この集落にはまた、「熊野(ゆや)の長藤」と呼ばれる国指定天然記念物があるというのでよってみた。行興寺の境内に根周り1.8mという藤の老木があって、花房は1m以上にも垂れるという。五月上旬までとあったから寄ったのだが、WGあけではもう遅かった。なんでもその藤の木は平安時代、池田宿の長者の娘、熊野御前という親孝行の美女が植えたという。

行興寺から道をもどって天龍川の土手にでると、そこに池田橋の跡と、徳川家康が与えたお墨付きを記した案内板が立っている。

お墨付きは今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天龍川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天龍川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。

天龍川渡船場跡 池田 磐田市 静岡県
天龍川渡船場跡 池田 磐田市 静岡県池田の渡船は延長5年(927)頃からあり、天正元年(1573)には一言坂の戦いで敗走する徳川家康本人を池田の船頭が助け、武田勢の急迫を阻止した功績により徳川家康から池田船方十人衆に御朱印状が与えられ天竜川の渡船権利を得た。渡船場は南から下横町・中横町・上横町の3カ所があり、川の水量により使い分けられていた。現在「天竜川渡船場跡の碑」が川の堤防に建っている。

渡船場は三ヶ所あって、川の水量によって使い分けられていた。池田橋跡碑がある場所が上、その250mほど下流、天白神社のある場所が中、そしてさらに200m南の「天龍川渡船場跡」碑が立つところが下の渡船場であった。河原に下りてみると広重の絵にあるように、川の長れは大きな中州によって二分されている。池田の船頭たちは、この中州を利用して東西二手にわかれて川を渡った。水量によって中州の状態が上・中・下で違っていたのであろう。水位が高いときは上の渡船場、低いときは下の渡船場が使われた。

天龍川 磐田市 静岡県
天龍川 磐田市 静岡県
新天龍川橋 中野町 東区 浜松市 静岡県
新天龍川橋 中野町 東区 浜松市 静岡県国道1号東京より250km地点

さて、土手を南下して国道1号の新天竜川橋を渡る。各種の資料には、橋には歩道がなくて危険だからバスで渡るようにとある。旧国道の天竜川橋はいざ知らず、最も北側の橋は東行き一方通行の4車線。しかも一番左側は左折専用車線で、交通量が最もすくない。端の白線内に30cmほどの余裕があって、そこを歩いている限りは何の危険も感じなかった。中州の上にきて広重用の写真を一枚。橋上浜松市にはいったところで偶然250km地点にでくわし、そこでもう一枚。

浜松

浜松(冬枯れ) 広重「東海道五十三次」
浜松(冬枯れ) 広重「東海道五十三次」
天龍川木橋・舟橋・玉座跡 中野町 東区 浜松市 静岡県
天龍川木橋・舟橋・玉座跡 中野町 東区 浜松市 静岡県明治11年、北陸東海御巡幸の際11月1日、当所でご休憩された。御座所は の設立に係る治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された当時の建物は明治25年10月焼失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。

橋を渡り終え、一旦右へおりてバイパスをくぐって南側の土手に出る。土手の茂みの中に明治天皇玉座迹の石碑があり、その先に舟橋と木橋跡の標柱が二本並んでいる。対岸、源平新田にある天竜橋跡に対応するものだ。土手を降りたところに六所神社が、その前に旧東海道の標柱と中野町道路元標がある。そこから旧街道は西にまっすぐ延びていく。

金原明善生家 安間町 東区 浜松市 静岡県
金原明善生家 安間町 東区 浜松市 静岡県

やがて右手に大きな旧家が現れる。白壁板塀をめぐらせ、内側に数本の主屋の屋根をも越さんばかりの黒松がそびえたっている。先ほど土手でみた明治天皇玉座迹碑の場所で天皇に謁見した金原明善の生家である。金原明善は、この地の名主の家に生まれた、明治・大正期の実業家である。私財を投じて天竜川の治水に生涯を賭けた。

姫街道 安新町 東区 浜松市 静岡県
姫街道 安新町 東区 浜松市 静岡県
安間一里塚跡 安新町 東区 浜松市 静岡県
安間一里塚跡 安新町 東区 浜松市 静岡県

まもなく県道312号と合流。三角地点の金網内に江戸から64番目の安間一里塚跡の標柱が立っている。合流点の手前、県道312号の安新町信号交差点から北にのびる道は姫街道である。見附を出た姫街道は池田の渡しで天竜川を渡ったのち安間までは東海道をたどり、ここで浜名湖北岸をめざして北上していった。

浜松宿東番所跡付近 中央3丁目 中区 浜松市 静岡県
浜松宿東番所跡付近 中央3丁目 中区 浜松市 静岡県

ところどころに残る松並木をみながら一路浜松をめざす。子安交差点で国道152号に合流する。相生町の浜松東警察署附近に馬込一里塚跡の標柱があるとのことだが見当たらなかった。その先、馬込橋袂にあるという木戸跡、東番所跡も見あたらなかった。ただし地名には「木戸町」として残っている。

夢告知地蔵尊 中央3丁目 中区 浜松市 静岡県
夢告知地蔵尊 中央3丁目 中区 浜松市 静岡県元々は江戸末期に流行したコレラで亡くなった人々の霊を祀るために建立された地蔵尊です。廃仏毀釈で深く土中に埋められたものの、町民の夢枕に出て助けを求め、町民たちの手により掘り出されてお堂に安置されたという逸話が残る地蔵尊です。

浜松の市街地に入り街道は広々とした国道である。商店、オフィスビルが建ち並ぶ近代的な町並に格子造りの古い町家がまぎれ込む余地はなさそうな雰囲気である。その中にささやかながら往時の生き証人を見つけることができた。新町公会堂の隣にたたずむ夢告知地蔵である。なんともロマンをかきたてる名前ではないか。カンカン地蔵風の石仏の傍に立つ説明文は夢を壊すような内容であった。

浜松城跡 松城町 中区 浜松市 静岡県
浜松城跡 松城町 中区 浜松市 静岡県

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ば……

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浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。 浜松市

街道は浜松宿の中心ともいうべき連尺交差点で左折して南に向かう。反対の北西側に浜松城跡がある。市役所と小学校の間の坂道を上がっていくと本丸跡に若き日の家康が立っている。なるほど、府中(静岡)でみた家康に比べれば、スリムで格好いい。家康はこの城で17年を過ごした。城下町・宿場町の浜松宿は本陣が6軒もある東海道最大規模の宿場であった。

さてこの後、街道にもどって浜松宿の中心街を歩いていくのだが、大手門跡高札場跡佐藤本陣跡・杉浦本陣跡・川口本陣跡・梅屋本陣跡と、いずれも南北を貫く国道152号・257号沿いの歩道に説明立て札があるだけで、なんとも歯がゆい思いをすることになる。浜松は航空隊の根拠地であり軍需物資の生産都市でもあったために第二次大戦で空襲と艦砲射撃で壊滅的な被害を受けた。古い建物は残っていない。

また、広重の絵を写真に捕らえることができなかった。浜松城を遠くに見て田圃の傍で焚き火をする図である。これがどこであるか、わからなかった。消化不良気味に浜松宿を後にする。

旧東海道は旅籠町を通り過ぎ、成子交差点を右折する。道路標識に「雄踏(ゆうとう)街道」とあるが、ほぼ東海道の北側を併走して浜名湖に至る道である。途中に賀茂真淵生誕の地がある。旧東海道は雄踏街道を200mほど進み菅原町交差点で子育て地蔵の前を左斜めに入っていく。

JRの高架をくぐり国道257号と合流して、カーディーラーが建ち並ぶ国道をいくと用水路にかかる小さな石橋の袂に「鎧橋」という説明板がある。

平安時代末期(八百年~九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋を守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと伝えられている。昭和51年7月31日 設置

可美村教育委員会 可美村文化財保護審議会 平成15年5月31日 更新 東若林自治会

いくら傍若無人な比叡山の荒法師とはいえ、はるばるとこんなところまで遠征してくるかいな、と思う。

若林一里塚跡 東若林町 南区 浜松市 静岡県
若林一里塚跡 東若林町 南区 浜松市 静岡県慶長6年辛丑正月(1601)徳川家康は東海道に駅伝馬の制を定め、江戸より京都まで53の宿場を設けました。同9年幕府は一里毎に5間(約9m)四方の小高い塚を道の両側に築いて榎を植えさせました。ここは江戸より66里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁畷)榎は街道を行く旅人の道標でした。 昭和53年8月 可美村教育委員会

道が右に大きくカーブする手前左手に66番目の一里塚跡碑がある。このあたり八丁畷といい、昔は土手のある松並木が続いていた。並木街道は広々とした田園の中を真直ぐに延びていたのであろう。振り返れば遠くに浜松城がながめられたかも知れない。広重の絵はこのあたりからみた浜松宿の見返り図ではないか、と思いをめぐらせながら浜名湖にむけて歩をすすめる。

二つ御堂 東若林町 南区 浜松市 静岡県
二つ御堂 東若林町 南区 浜松市 静岡県

奥州平泉の藤原秀衡公と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。京に出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上がる途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をとむらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。一方、京の秀衡公は病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちをこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたと……

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奥州平泉の藤原秀衡公と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。京に出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上がる途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をとむらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。一方、京の秀衡公は病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちをこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。現在の北堂は、昭和30年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和12年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祀られている。 可美村教育委員会

カーブ地点の両側にお堂が建っている。二つ御堂といい、奥州平泉の藤原秀郷とその愛妾が愛の証として建てた。北側のお堂が彼女が建てたものである。そのわきが高札場になっていた。さらに隣には馬頭観音と村社八幡神社がある。この辺は二つ御堂が伝えるように古い土地柄で、古代東海道栗原駅の比定地である。

私領傍示杭 増楽町 南区 浜松市 静岡県
私領傍示杭 増楽町 南区 浜松市 静岡県従是東浜松領

可美中学校をすぎて右手自動車用品店モンテカルロの駐車場片隅に「従是東濱松領」と刻まれた領界石がある。説明板はツツジにすっかり隠れて読めない。浜松領と堀江領の境を示す傍示杭で、少し先に堀江領の境界石跡の標柱がある。

地蔵院 高塚町 南区 浜松市 静岡県
地蔵院 高塚町 南区 浜松市 静岡県

創建明徳元年(1390)史跡築山御前腹篭り地蔵尊 徳川家康公夫人築山御前は天正7年(1579)富塚村小藪(現浜松医療センター前)で織田信長の命令で殺害された。その夫人が守り本尊として肌身離さず持っていた秘仏だといわれております。宝暦8年(1758)小野田五郎兵衛久繁(麦飯長者)がこれを堀江城主大沢右京大夫よりもらい受けお堂を建てて安置したとあります。お寺ではこれを「安産」のお守りとして「お札」を大……

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創建明徳元年(1390)史跡築山御前腹篭り地蔵尊 徳川家康公夫人築山御前は天正7年(1579)富塚村小藪(現浜松医療センター前)で織田信長の命令で殺害された。その夫人が守り本尊として肌身離さず持っていた秘仏だといわれております。宝暦8年(1758)小野田五郎兵衛久繁(麦飯長者)がこれを堀江城主大沢右京大夫よりもらい受けお堂を建てて安置したとあります。お寺ではこれを「安産」のお守りとして「お札」を大正時代までわけていたということです。 可美村教育委員会

高塚町にはいって、街道右手の民家フェンス内に「高札場跡と秋葉燈篭跡」の標柱があり、その少し先には「麦飯長者跡」の標柱がある。いずれも丸太杭の正面を平に削り取って白ペンキの地に黒で文字を書き入れてあるだけの素朴な標柱である。天竜川を渡って以来、この杭標が随分と多い。高塚駅に向かって一筋はいったところに地蔵院があり、そこでいくらか麦飯長者の素性がわかってきた。この土地に住む長者で小野田五郎兵衛久繁といい、旅人に麦飯を施して有名になった。

立場本陣跡(鈴木家宅)篠原町 西区 浜松市 静岡県
立場本陣跡(鈴木家宅)篠原町 西区 浜松市 静岡県

道は高塚西バス停の先で二股にわかれ左にそれていく国道257号とわかれ、旧道はそのまま進んで静けさを取り戻す。二股地点に夢街道の道標があり舞阪までまだ一里15町もある。旧道にはいってまもなく、「立場」のバス停を通り過ぎる。このあたりに立場本陣があったはずだが、立て札も例の丸太杭もみあたらない。道端のおばさんにたずねると、街道の南側に続く古い家並みの一軒を示してくれた。ブロック塀こそあれ、近づいてみると見事な格子造りの家である。案内立て札も標柱もない。ここだけでなくこのあたり鈴木姓が多かった。

篠原一里塚跡 篠原町 西区 浜松市 静岡県
篠原一里塚跡 篠原町 西区 浜松市 静岡県日本橋より67里 (中略) 東海道宿村大概帳に「一里塚木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。左側とは南、右側とは北を指す。当時の旅人は一日10里(約40km)を歩くのが普通であったといわれていました。 浜松市広報課 篠原東自治会

すぐ先右手の民家敷地内に篠原一里塚跡を示す立て札が立っている。日本橋より67里とある。また、当時の旅人は一日10里(約40km)を歩くのが普通であったと付記している。私の倍だ。

舞坂

舞坂(今切真景) 広重「東海道五十三次」
舞坂(今切真景) 広重「東海道五十三次」
春日神社 馬郡町 西区 浜松市 静岡県
春日神社 馬郡町 西区 浜松市 静岡県

馬郡跨線橋南の大きな交差点を横切ると右手に春日神社のこんもりとした森がある。はいってみると10人余りの老人がゲートボールの準備に忙しくしていた。ゴールを設定する人、コースを掃き清める人など。コースは社殿が建つ石垣の周りを一周するようである。石ころ一つない土のコースで、ボールが際限なく転がるのではと思うほどなめらかである。「草がないからよく転がるでしょう」と声をかけようと思ったが「余計なことを言うんじゃない」と天の声が聞こえたのでだまってコースを一巡りした。いつも思うことだが神社の本殿は立派な拝殿の後ろに隠れて、たいがい貧弱で地味な存在である。しかしここだけは違っていて、朱色の本殿が青空の下で輝いていた。

松並木 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
松並木 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

この松並木は慶長9年(1604)徳川幕府の命により街道を整備し黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端見付石垣より馬郡境まで8町40間(約920m)道の両側の堤に1420本の立木があったという。その後寿命や台風で倒れ減る一方、そのつど補植など行なってきたが昭和13年(1938)国道付換えの際、堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。 現在700m株数約330本旧東海道の面影を……

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この松並木は慶長9年(1604)徳川幕府の命により街道を整備し黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端見付石垣より馬郡境まで8町40間(約920m)道の両側の堤に1420本の立木があったという。その後寿命や台風で倒れ減る一方、そのつど補植など行なってきたが昭和13年(1938)国道付換えの際、堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。 現在700m株数約330本旧東海道の面影を良く残している。舞阪町・舞阪町教育委員会

まもなく700mに及ぶ松並木に入る。かつては舞阪宿の東端の見付石垣から馬郡境までおよそ1kmにわたって1420本の黒松があった。左側の並木の間には広重の東海道五十三次の浮世絵を浮彫にした宿場ごとの石碑が並んでいる。並木の終わりにかわいい浪小僧の石像がある。国道1号と斜めに交差して、旧道は舞阪の宿場街にはいっていく。町並は宿場町というよりは湊町といった風情である。

見付石垣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
見付石垣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。 舞阪町教育委員会
一里塚跡・常夜灯 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
一里塚跡・常夜灯 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。 しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植っていたと解釈してよいだろう。 なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留……

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江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。 しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植っていたと解釈してよいだろう。 なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。 舞阪町教育委員会 新町常夜灯 ここの常夜灯は正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。 江戸時代の舞阪はよく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)には宿場の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も地域の人たちに引き継がれている。 舞阪町教育委員会

旧宿場町の入口に見付石垣が復元されている。この後藤川宿でみる棒鼻と同じ構築物だ。

すぐ先左手に常夜灯と舞阪一里塚跡がならぶ一角がある。祠型の常夜灯は姿を消し、石燈篭型に戻っている。一里塚は江戸から67里16町と歯切れが悪い。67番目か68番目だろう。

果物屋 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
果物屋 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

中町の常夜灯をすぎ舞阪宿の中心地にはいる。道の先が開いているのは浜名湖である。突き当りから船に乗って遠江(とおとうみ)とよばれた浜名湖を渡って行く。

左手の果物屋にはスイカの隣になつかしいラムネが置いてあった。浜名湖はもう夏である。

旧舞坂宿 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
旧舞坂宿 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県突き当たりは浜名湖、本雁木跡 右手は舞阪宿宮崎伝左衛門本陣跡

右手に本陣跡の標柱がある。2軒あった本陣のうち宮崎伝左右衛門の本陣跡である。

舞坂宿脇本陣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
舞坂宿脇本陣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

舞坂宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された53次のうち江戸から30番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人ロ1204人・戸数265戸でした。 また、本陣(富崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋堀江清兵衛)がありました。 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅仮屋として使われました。 ……

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舞坂宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された53次のうち江戸から30番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人ロ1204人・戸数265戸でした。 また、本陣(富崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋堀江清兵衛)がありました。 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅仮屋として使われました。 建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。 現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。 平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1838)の建築であることが判明しました。 平成9年 舞阪町教育委員会

道向かいには東海道で唯一現存する脇本陣の建物が幕を垂れ提灯を立てて堂々たる佇まいをみせている。茗荷屋堀江清兵衛宅脇本陣は、主屋、繋ぎ棟、書院棟の3棟からなっていたが、現存するのはそのうちの書院棟である。

舞坂宿脇本陣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
舞坂宿脇本陣 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

中に入ると玄関から中庭を挟んで奥の上段の間まで一直線に見通せる。畳一枚分だけ高い上段の間には豪華な座布団と肘掛が中央におかれ、立派な床の間がしつらえてある。

二階にあがると駕籠が展示されていた。格子窓から下界を覗くのは、カーテンの隙間から外を覗き見する秘めやかさがあってまた一興だ。

浜名大橋・今切口 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
浜名大橋・今切口 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

街道は浜名湖に突き当たる。鎌倉時代までの浜名湖は浜名川から遠州灘に注ぐ淡水湖で、近い淡海の近江(おうみ)琵琶湖に対して浜名湖は遠つ淡海、遠江(とおとうみ)とよばれた。浜名川河口に架けられた「浜名の橋」は古代東海道の重要な通路であった。室町時代明応7年(1498)の大地震津波により浜名川の南側に蟹の爪状に延びていた半島の中央部分が分断され今切が出現、つづいて翌年の暴風雨による高師山(旧橋本宿の北側)山津波で浜名川の河口が埋まり、今切口が唯一の出口となった。永正7年(1510)の暴風雨で今切口が広がり、現在の形になる。舞阪漁港から左遠方にバイパス浜名大橋の盛り上がり部分の下が今切口である。

舞坂宿渡船場跡北雁木 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
舞坂宿渡船場跡北雁木 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

史跡北雁木(きたがんげ) ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。 雁木(がんぎ)とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。 舞坂宿には三ケ所の渡船場が……

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史跡北雁木(きたがんげ) ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。 雁木(がんぎ)とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。 舞坂宿には三ケ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。 この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。 舞阪町教育委員会

舞阪の渡船場(雁木)は三ヶ所あり、北雁木は大名用、本(中)雁木は武士用、南雁木は庶民と荷物用であった。漁港埠頭を北にあるくと北雁木の遺構が残されている。板袴を着こなした姿よい常夜灯は港の灯台を兼ねている。街道から石畳のゆるやかな傾斜が水際まで降りている。旧街道渡船場の遺構としては一級品である。

弁天橋 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
弁天橋 舞阪 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

街道は弁天橋で弁天島に渡る。橋の手前で広重用の写真を撮ったが、広重の舞阪宿の絵はどうやら舞阪でないらしい。特に右に小さく見える白い山が冨士だとすれば、方角が違っている。なお司馬江漢の絵にはこんな山は描かれていない。広重は演出におぼれたか。

弁天島 舞阪町 西区 浜松市 静岡県
弁天島 舞阪町 西区 浜松市 静岡県

弁天島はホテルが建ち並ぶリゾート地である。島が二つあり、三回橋をわたる。どれが本来の島でどれが人工島か、見分けがつかない複雑な構造になっている。かっては舞阪と地続きであったものが分断されて島となったそうで舞阪町に属しているが、それでも昔は島の所属や土地利用権をめぐって新居町と度々紛争を起こしてきた。

駐車場は満車である。潮干狩りの乗船場には長い行列ができている。次々と乗せては出て行く船の行先を追っていくと、湖の真中にある干潟に客を運んでいた。

東海道新幹線 新居町 浜名郡 静岡県
東海道新幹線 新居町 浜名郡 静岡県

街道は国道1号に合流するが植え込みで分離された遊歩道が整備されていて快適である。風景はもっぱら北側となるが東海道新幹線が頻繁に通って、適度なひまつぶしを提供してくれる。鉄道写真を数多く撮ってきたが新幹線にはあまり恵まれていなかった。近距離での新幹線はさすがに迫力がある。早い。

(2009年2月、5月)

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