東海道 10区間のうち4番目

東海道(4)

府中(静岡)-丸子-岡部-藤枝-島田-金谷

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

府中(静岡)

府中(静岡)

旧東海道記念碑 栗原 駿河区 静岡市 静岡県
旧東海道記念碑 栗原 駿河区 静岡市 静岡県

東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。国道1号線が整備されたことから交通量も減り旧東海道と呼ばれるようになりましたが昭和37年国鉄操車場の建設により栗原の西側が分断され更に静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行……

説明の全文を読む(約400字)

東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。国道1号線が整備されたことから交通量も減り旧東海道と呼ばれるようになりましたが昭和37年国鉄操車場の建設により栗原の西側が分断され更に静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行なわれたことから栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。その昔を偲びなおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めてこの記念碑を建設することにいたしました。尚このみかげ石は静岡県追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので昭和初年の御用邸改修の折栗原町内会が払い下げを受けたものであります。 平成3年5月吉日 静岡中央ロータリークラブ

府中(安倍川) 広重「東海道五十三次」
府中(安倍川) 広重「東海道五十三次」

旧東海道は県総合運動場駅入口手前で左に入りJR操車場にぶつかる。線路の脇にロータリークラブよる旧東海道記念碑がたつ。東海道本線と静岡鉄道の高架が斜めに交差し、両鉄道の電車が頻繁に行き来する。しばらく休んで電車と遊ぶことにした。

JR東海道本線 栗原 駿河区 静岡市 静岡県
JR東海道本線 栗原 駿河区 静岡市 静岡県

記念碑の右側の地下道を通って向こう側に出、左におれて旧道の延長線上にもどる。後久橋で栗原から古庄にはいり、橋を渡ったところに夢舞台東海道の道標がある。府中宿まで3.3㎞。今の静岡市である。駿河国の国府があったことから府中、あるいは駿府ともよぶ。戦国時代は今川氏の城下町であった。

長沼一里塚址・里程元標 長沼 葵区 静岡市 静岡県
長沼一里塚址・里程元標 長沼 葵区 静岡市 静岡県

古庄交差点で国道1号と合流するが、すぐに次の長沼交差点で県道74号を越え右斜めの細い道に入る。久応院前に寛政12年(1800)銘の庚申塔がある。すぐ先左手に長沼一里塚跡、右側に里程元標がある。

東見付跡 横田町 葵区 静岡市 静岡県
東見付跡 横田町 葵区 静岡市 静岡県

平安時代に編まれた『延喜式』には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されています。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説がありますが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。また、同じく平安時代に編まれた『倭名類聚紗』には安倍郡の八郷の中に「横太」と記載されています。 江戸時代に入ると駿府96ヶ町の一つに数えられます。上・下横田町のうち下横田町は府中宿の東の入口にあ……

説明の全文を読む(約330字)

平安時代に編まれた『延喜式』には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されています。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説がありますが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。また、同じく平安時代に編まれた『倭名類聚紗』には安倍郡の八郷の中に「横太」と記載されています。 江戸時代に入ると駿府96ヶ町の一つに数えられます。上・下横田町のうち下横田町は府中宿の東の入口にあたり、東境には「見付」がありました。 『駿国雑志』によれば横田見付は、元禄5年(1692)に設置され、道をはさんで両側に枡形の石垣が築かれていました。また、元禄5年の「駿府町数・家数.・人数覚帳」によると、当時の下横田町の家数は47軒、人数は214人でした。

旧道は護国神社の先で国道1号を横切り操車場を突っ切って曲金地区に続いていたが、今は分断されて通行不能となった。国道をたどって柚木交差点を左折しJR線路をくぐる。階段を上り最初の道路を右にとる。西豊田小学校前の軍神社、四つ辻角の曲金観音をみて、JR線をくぐって、春日1丁目五叉路で国道1号線をわたってそのまま直進する。横田町は府中宿入口で、ここに東見付があった。

芭蕉句碑 清水寺 音羽町 葵区 静岡市 静岡県
芭蕉句碑 清水寺 音羽町 葵区 静岡市 静岡県駿河路やはなたちばなもちゃのにほひ

横田町東信号を右折、音羽駅手前の音羽町第3踏切をわたると右手小山に清水寺がある。永禄2年(1559)の創建で境内には徳川家康が建立したという観音堂のほか、多数の句碑がたっている。中でもひときわめだつのが明和7年(1770)銘の芭蕉の句碑で、背の高い角柱に「駿河路やはなたちばなもちゃのにほひ」と刻まれている。静岡の代名詞的一句といってよいだろう。元禄7年5月17日、芭蕉最後の関西への旅の途次、大井川の増水で芭蕉は島田に4日間足止めをくった。そこでの滞在先、塚本如舟宅での一句である。それからおよそ半年後、芭蕉は江戸に帰ることなく大坂でこの世を去った。

街道は伝馬町に入り賑やかになってきた。ここから江川町交差点までが宿場の中心であったようだ。古い建物は皆無といってよい。ただ標識だけが史跡の位置を示している。

県道354号との交差点左側に、久能山東照宮道の標柱がある。久能街道は久能海岸で生産された塩を駿府に運ぶ塩の道として古代から使われていた。徳川家康が久能山東照宮に祀られてからは、参勤交代の大名たちは約10kmの寄り道を強いられここから久能山詣でをしなければならなかった。

府中宿伝馬町界隈 本陣・脇本陣跡 伝馬町 葵区 静岡市 静岡県
府中宿伝馬町界隈 本陣・脇本陣跡 伝馬町 葵区 静岡市 静岡県

府中宿は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町、そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の、宿場の役割を担っていたのが「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに、43軒の旅籠が建ち並び、賑わいを見せていました。伝……

説明の全文を読む(約440字)

府中宿は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町、そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の、宿場の役割を担っていたのが「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに、43軒の旅籠が建ち並び、賑わいを見せていました。伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝秦寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神杜等があります。 また、古くから久能や高松など駿河湾沿岸の集落との交易の道であって、江戸時代徳川家康公が亡くなり久能山に葬られてからは、参勤交代で往き来する西国の大名が必ず東照宮参詣の為に通った「久能街道」が華陽院の門前近くの東海道から姶まっています。 下伝馬町の本陣は、下本陣と呼ばれた小倉家、脇本陣は平尾家でした。

左手、旧下伝馬町の松本ビル前に「本陣・脇本陣跡」の標柱と立て札が立つ。下本陣小倉家と脇本陣平尾家が街道を挟んであった。まとめて「跡地」と示したアバウトな標識である。ゆるやかに右にカーブする街道右手のトップセンタービルの前には上伝馬町の本陣、望月家と脇本陣松崎家跡の碑がある。脇本陣は望月家の3軒手前で、問屋場の隣にあった。

西郷・山岡会見の地 伝馬町 葵区 静岡市 静岡県
西郷・山岡会見の地 伝馬町 葵区 静岡市 静岡県

慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮たる仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵宅で行われた。 この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどか合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟……

説明の全文を読む(約280字)

慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮たる仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵宅で行われた。 この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどか合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。 明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられるものである。 平成16年9月 静岡市教育委員会

江川町交差点のペガサート前に「西郷・山岡会見の地」の記念碑がある。慶応4年(1868)3月9日、勝海舟の特命を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)は駿府まで進出してきた西郷隆盛と、松崎源兵衛(脇本陣の松崎でない)方で会見する。これを受け5日後の3月14日、勝海舟と西郷隆盛は江戸芝の薩摩屋敷で出会い、江戸無血開城が約された。

駿府城(巽櫓・東御門) 葵区 静岡市 静岡県
駿府城(巽櫓・東御門) 葵区 静岡市 静岡県

今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13……

説明の全文を読む(約620字)

今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移リました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。 その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長10年(1605)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入リました。 この時に天正期の城が拡張改築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三の丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 静岡市教育委員会

徳川家康像 駿府城本丸跡 葵区 静岡市 静岡県
徳川家康像 駿府城本丸跡 葵区 静岡市 静岡県

東海道は江川交差点を左に折れて呉服町交差点を右折し現在の静岡市繁華街を通り抜けていく。江川交差点を右にすすむとすぐに駿府城である。白亜の巽櫓が外堀の角を占め、東側には典型的な桝形の東御門が構えている。中は広々とした公園で、その奥本丸跡に鷹を手にした恰幅のよい徳川家康像が立っている。駿府城は今川氏の居城としてはじまったが、家康はここに7歳から18歳まで多感な少年時代を人質として過ごした。その後2たび家康自身の居城として駿府城で過ごしている。

里程元標・札の辻 七間町 静岡市 静岡県
里程元標・札の辻 七間町 静岡市 静岡県江戸時代から昭和20年まで呉服町と七間町の交差点付近には「札の辻町」がありました。東海道の道筋にもあたり、立ち並ぶ商家を訪れる人達などで賑わっていました。四つ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ「札の辻」名の由来となっています。 静岡市

旧街道にもどる。呉服町通りを伊勢丹の角で左折して七間町通りにはいる。この交差点の北側に里程元標が、南側には札の辻の碑がたつ。高札場跡である。通りは石やタイル煉瓦できれいに舗装された現代風の商店街で、家並に昔の面影を求めるのは無理なことであった。

国道362号線をわたり、二つ目の名もない辻を右に入る。少々不安だったが南西角の杉山ビルの壁に「(旧)東海道」とかかれた小さな紙切れがはってあった。よく道をたずねられる店の人が気をきかせたのだろう。 二筋目の梅田町を左折して新通りを南下する。旧道の名が新通りというのはなんだか妙な気分だ。街道は府中の中心街を通り過ぎ、ここは裏通りの風情である。

梅田町の由来碑があった。町名は旅籠「梅屋」からきている。梅屋はただの旅籠でない。慶安4年(1651)駿河出身の軍学者由井正雪は丸橋忠弥、金井半兵衛らとともに江戸、駿府、大坂に分れて蜂起しようとした。由井正雪の担当は駿府城をおそい武器を手に入れ、久能山にある家康の遺産から金銀等軍資金を獲得しようというものだった。由井正雪ら総勢10人は旅籠「梅屋」に逗留したが、計画はすでに密告によって発覚しており、7月25日梅屋は捕り手に囲まれていた。正雪以下僧侶一人を除いて全員が梅屋で切腹自害したのである。

一里塚跡 本通8丁目 葵区 静岡市 静岡県
一里塚跡 本通8丁目 葵区 静岡市 静岡県

一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、一里ごとに直径7~8mの土饅頭を盛り、榎などの木を植えて旅人の目印にしたものである。慶長9年(1604)江戸の日本橋を起点として、東海道、東山道、北陸道の三街道に一里塚を設けた。しかし、現在では交通機関の発達や道路拡幅などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。一里塚は市内長沼、本通8丁目、丸子、宇津ノ谷の……

説明の全文を読む(約340字)

一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、一里ごとに直径7~8mの土饅頭を盛り、榎などの木を植えて旅人の目印にしたものである。慶長9年(1604)江戸の日本橋を起点として、東海道、東山道、北陸道の三街道に一里塚を設けた。しかし、現在では交通機関の発達や道路拡幅などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。一里塚は市内長沼、本通8丁目、丸子、宇津ノ谷の四か所に設置されたが、いずれも原形ををとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の地点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。 昭和59年3月 静岡市

新通りを下っていくと左手に秋葉神社がある交差点にさしかかる。ここを右折すると広い通りの本町8丁目。交差点の北西角に一里塚跡碑がある。旧街道から100m以上はなれたところだが東海道の一里塚にまちがいない。どうしてここに一里塚が築かれたのか、説明板には「本通りの一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである」としか書いていなかった。

明治天皇御小休所址・由井正雪墓址碑 弥勒1丁目 葵区 静岡市 静岡県
明治天皇御小休所址・由井正雪墓址碑 弥勒1丁目 葵区 静岡市 静岡県

旧道にもどりやがて川越町にはいる。このあたりに西見附があった。

弥勒1丁目交差点をわたると県道208号とにはさまれた三角地帯の公園にいろんなものが集まっている。交番前が安倍川の川会所跡である。立て場跡、安倍川架橋碑、由井正雪墓址碑、明治天皇御小休所跡碑など。

石部屋 弥勒2丁目 葵区 静岡市 静岡県
石部屋 弥勒2丁目 葵区 静岡市 静岡県

鉄橋にむかって左手に安倍川餅の元祖石部(せきべ)屋が店を構えている。ある日徳川家康が安倍川ほとりの茶店に立ち寄ったところ、そこの店主がきな粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、つきたての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川もちと命名した。若い女性客が多かった。

安倍川の義夫の碑 弥勒2丁目 葵区 静岡市 静岡県
安倍川の義夫の碑 弥勒2丁目 葵区 静岡市 静岡県

この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の1人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡し……

説明の全文を読む(約460字)

この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の1人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず 財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず 昭和60年1月 静岡市

その隣に立つのは安倍川の義夫の碑である。旅人の財布を拾った川越人夫がはるばる宇津ノ谷峠まで追っかけて落とし主に渡した。旅人は礼金を申し出たが人夫はことわったという美談が伝わっている。安倍川から宇津ノ谷峠までは2里以上ある。20mほどおいかけて、これで善意は示せたとしてもらっておくのはダメかな。

安倍川 葵区 静岡市 静岡県
安倍川 葵区 静岡市 静岡県

広重の絵に一番近い風景の写真を撮って安倍川をわたる。

丸子

手越宿 手越 駿河区 静岡市 静岡県
手越宿 手越 駿河区 静岡市 静岡県
丸子(丁子屋) 広重「東海道五十三次」
丸子(丁子屋) 広重「東海道五十三次」

橋を渡り堤防を左にすこしすすむと階段の下に短く旧道が残っている。旅籠風の民家、元祖手越名灸所高林寺、造り酒屋君盃酒造、名残の松並木などに間の宿手越の面影を残している。手越原交差点で国道1号と合流するがすぐに佐渡(さわたり)交差点で国道を右に分けて旧道に入る。

丸子一里塚跡 丸子6丁目 駿河区 静岡市 静岡県
丸子一里塚跡 丸子6丁目 駿河区 静岡市 静岡県

街道は右にまがって、長田小学校を通り過ぎたところ右手に一里塚跡碑がある。位置だけを示す石柱だが大正12年に作られた古いものだ。

丸子(まりこ)宿入口 丸子6丁目 駿河区 静岡市 静岡県
丸子(まりこ)宿入口 丸子6丁目 駿河区 静岡市 静岡県

この道筋は江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5年(1189)源頼朝が、奥州平定の功績により、手越し平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家5、60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行なわれると、丸子宿は品川宿から数えて……

説明の全文を読む(約550字)

この道筋は江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5年(1189)源頼朝が、奥州平定の功績により、手越し平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家5、60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行なわれると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からもい人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。 ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入り口にあり、往来を監視する機能をもっていました。現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、宿内町並東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、と記録されています。丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。 静岡市教育委員会

左手の水神社のすこし手前に東見付があった。丸子宿入口である。丸子は「まりこ」と読み、もともと「鞠子」と書かれていた。今も両者は混在している。宿場時代の屋号札を掲げる家が多い。

丸子宿家並み 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県
丸子宿家並み 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県

あちこちに「宿場祭り」のポスターが掲げられている。3月8日の日曜日9時から午後2時半まで、丸子汁がふるまわれ、花魁道中、時代絵巻、梅花踊りがくり広げられる。町並もそのような祭りを包み込むに似つかわしい雰囲気を漂わせている。

宿場街を進んでいくと、明治天皇御小休止趾、横田本陣跡お七里役所跡などの史跡碑が立てられている。

丁子屋 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県
丁子屋 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県

宿場の西端に丸子宿一番の名所、丁子屋が茅葺の屋根をいただいて広重の浮世絵から抜け出たようにたたずんでいる。ここはとろろ汁を売り物とする現役の食事処で、駐車場は数人の整理人が配置されているほどの盛況振りである。前庭には十返舎一九の碑や芭蕉の句碑が配されていて江戸情緒を盛り上げている。

芭蕉句碑 丁子屋 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県
芭蕉句碑 丁子屋 丸子7丁目 駿河区 静岡市 静岡県梅わかな丸子の宿のとろろ汁

梅わかな丸子の宿のとろろ汁

元禄4年正月、近江大津に滞在していた芭蕉が江戸に出発する近江の門人乙州に与えた餞の一句である。新春の気分から突然はるか駿河鞠子宿のとろろ汁に思いをはせたのがおもしろい。それほど印象深い味だったか。

高札場跡 丸子 駿河区 静岡市 静岡県
高札場跡 丸子 駿河区 静岡市 静岡県江戸時代の東海道丸子宿に立てられていたと思われる高札が昭和56年頃に丸子戸斗の谷の津島神社から発見されました。天和2年(1682)今から320余年前徳川五代将軍綱吉が諸国の高札を建て替えた時のものと推定されています。(中略) 高札3枚 ・忠孝奨励諸法度 ・宿駅諸法度 ・毒薬にせ金禁制 なお現物は戸斗の谷町内会が保存しています。

丁子屋の先で道はわかれ、東海道は左にとって丸子川をわたる。右手の一角に高札場が復元されていて三枚のレプリカ高札が掲げられている。西見付跡でもある。高札は横幅2.5mもある大きなもので、忠孝奨励諸法度・宿駅諸法度・毒薬にせ金禁制の3例が示されている。なかでも毒薬にせ金禁制は最後に「1.色々な商売で一ヶ所に買占め売り惜しみ或いは申し合わせて高値にいたすべからず事 1.あらゆる職人は申し合わせて作料・手間賃等を高値にするべからずすべて契約をする 結託するは曲事」と不正競争、カルテル禁止を付け加えた先進的な内容で興味深い。

日本紅茶発祥の地・丸子紅茶 赤目ヶ谷 丸子 駿河区 静岡市 静岡県
日本紅茶発祥の地・丸子紅茶 赤目ヶ谷 丸子 駿河区 静岡市 静岡県

街道は丸子宿をあとにして山に向かって進んでいく。二軒家で一旦国道の歩道にでるがすぐに階段を降りて旧道にもどる。降り口に「ようこそ日本紅茶発祥の地 丸子路へ」と書かれた立て札があった。明治の初期、元幕臣の多田元吉はこの地で茶業を始めた。政府から輸出産業の育成として紅茶生産を託された多田は清とインドに派遣され、紅茶に適したインド種の茶木の種子や生産技術の情報を収集して帰国し、丸子の赤目ヶ谷で紅茶の生産を始めたのである。国道より旧道におりてすぐに、水車の横に「丸子紅茶」の板看板をかけた茶店があった。

国道に出た街道は歩道橋で反対側にわたり、川沿いの旧道にはいる。国道に併走して旧道をたどるとやがてトンネル手前の歩道橋にでる。ここをわたって再び国道の南側に移る。ここから宇津ノ谷越えの山道が始まる。

宇津ノ谷

つたの細道 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
つたの細道 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県

「道の駅・宇津ノ谷峠」の裏手に「つたの細道」入口標識がある。宇津ノ谷集落を通る東海道ができる前の古代の東海道である。京と東を行き交う旅人はこの険しい山道を通らなければならなかった。この細道を有名にしたのは在原業平である。伊勢物語の主人公在原業平は東下りの途中、「蔦の細道」で偶然にも京の修行僧に出会う。

つたの細道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県
つたの細道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあわぬなりけり 在原業平

「より行き行きて駿河国に至りぬ。宇津の山にいたりて、わがゆくすえの道は、いと暗う細きに、蔦楓(つたかえで)は茂りて、物心ぼそう、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あたり、かかる道にはいかでかおはするといふに、見れば、見し人なりけり。」

「京に、その人の御もとにとて、文かきてつく。」

駿河なる宇津の山辺の現にも 夢にも人に逢はぬなりけり (伊勢物語9段 東下り)

つたの細道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県
つたの細道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県

以降、古道つたの細道は歌枕として文学史上に名を残すことになった。近世の東海道を歩く前に、この古道の峠をみておこうと思う。道はすぐに薄暗い山中に入り、倒木がさえぎる沢つたいの細い登山道をゆく。勾配はかなりきつく膝が笑い始めている。それだけに峠までのみちのりは短く感じられた。20分くらいで峠に着く。峠の岡部側は大きく開け、赤味を帯びた梅の花の向こうに岡部の町が山間に沈んでいる。峠のすぐそばまで茶畑がせまっていて、丸子側の深い谷山とは対照的な景観だ。峠は平らな休憩所になったいて片隅に業平の歌碑が立っていた。

このまま岡部まで降りて、バスで再び国道を丸子側の峠入口までもどることも考えたが、時間の制約もあり、来た道をもどることにした。半分の時間で降りられる。

宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県

こんどは旧国道(県道208号)をたどり途中で左の旧道にはいる。入口には詳しい宇津ノ谷の案内図が用意されている。宇津ノ谷には都合4つのトンネルが通っている。これからゆく旧東海道から派生している明治トンネル、大正時代の旧国道に開削された大正トンネル、現在の国道1号が通る昭和トンネル、平成になってから国道1号が複線化された平成トンネルである。大きな難所であったことをうかがわせる。

お羽織屋(石川家)宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
お羽織屋(石川家)宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県

橋をわたると坂道にそって風情ある家並みが続いている。どの家にも屋号札がかけられている。部分的な格子造りの家が多い。人も車も通らない博物館のような集落だ。その役目を一手に引き受けているのが「御羽織屋」の石川家である。横から裏にまわると、呼び鈴があった。二度ならしても反応がなく、戸を開けて声をかけると凛としたおばあさんが出てこられた。羽織の写真を撮るだけでよかったのだが、丁寧な説明を受けることになった。

拝観料200円を盆におくとおばあさんはおもむろにカーテンを開いて御羽織を披露した。綿入れのようにふっくらとしてみえる

秀吉のお羽織・家康の茶碗 石川家 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
秀吉のお羽織・家康の茶碗 石川家 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後ろに家康も、この羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。 東海道宇津谷 石川家

事の次第はこうだ。天正18年(1590)、小田原征伐のため、東海道を下っていた秀吉がこの地にさしかかり、石川家の軒下に吊るしてあった馬の沓に目をとめて、使い古した自分の沓と取り換えようとした。ところが主人は三脚分しか差し出さなかった。「なぜだ」と尋ねると、三脚分は道中の安全を祈るもので、残る一脚分で戦の勝利を祈るつもりだと答えた。暗に、戦を前にして四(死)という数を避けたのだともいう。

羽織の隣にはケースに徳川家康拝領の茶碗や諸大名の拝観者名簿など古色な物品が陳列されている。宇津ノ谷は峠の麓につくられた間の宿で、峠を越えた、あるいはこれから越える旅人がひと休みがてらに立ち寄って由緒ある羽織を鑑賞したのであろう。

お羽織屋の裏手、丸子川のほとりに「十団子」で知られる慶龍寺がある。由来は伝説といえどもあまりに世間離れしているので触れない。小玉にした5色の団子が2個ずつ入った十団子が宇津ノ谷の名物として売られている。

明治のトンネル 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
明治のトンネル 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県

家並みをすすんでいくと街道は石段の坂になり、登り切ったところで交差する道を左にとり丁字路にぶつかる。右にいけば旧国道に出、左に進むと明治トンネルにいたる。左に行った。古いトンネルが好きだ。苔むした煉瓦造りが多く、暗闇の内部には電燈が暖かい灯のリングを連ねて、孤独な美しさを放っている。

町並み 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県
町並み 宇津ノ谷 駿河区 静岡市 静岡県宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行き交う旅人が、宇津ノ谷名物「十団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺めは昔も今も変わらず、山間の集落の景観は、当時を彷彿とさせてくれます。 静岡市教育委員会
旧東海道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県
旧東海道 宇津ノ谷峠 駿河区 静岡市 静岡県

元の場所にもどる。ここからは時代劇のセットのような宇津ノ谷集落が一望できる。旧道の延長線上に旧東海道入口の標識があり、そこから山道をたどる。しばらくは左に風景がひろがる快適なハイキング道だが次第に山深くなって「つたの細道」を思わせる山道となる。地蔵堂跡をすぎるとまもなく峠である。狭い鞍部だけの味気ない峠だ。下りの山道は歩きやすく、まもなくして蔦の細道と合流して坂下地蔵堂脇にでる。

岡部

岡部宿入口 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
岡部宿入口 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県

岡部宿は東には字津ノ峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)に宿の指定を受けました。 岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5(1872)年1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。天……

説明の全文を読む(約470字)

岡部宿は東には字津ノ峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)に宿の指定を受けました。 岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5(1872)年1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。天保14年(1843)の調べによると約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入口を示す桝形が設けられ常夜燈が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継ぎ立てなどを行なう問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇い稼、荷物の運搬を行なう人馬役の家、農家などがありました。町並は街道沿いに広がり、裏には寺社がありました。

岡部(宇津ノ谷) 広重「東海道五十三次」
岡部(宇津ノ谷) 広重「東海道五十三次」

道の駅「宇津ノ谷峠」の先の廻沢口交差点歩道橋をわたる。ここから右に入り県道208号を進む。しばらく行くと左手に岡部宿の案内板、すぐ先の右手高台に江戸時代末期建立の十石坂観音堂、その先の歩道脇に桝形跡の石碑がある。この辺りが岡部宿の東入口である。

より岡部宿眺望 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
より岡部宿眺望 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県

岡部川を渡る手前で道が分かれ、旧道は右の細道に入る。入口に「笠懸松と西住墓」と題した案内板が電柱に立てかけられている。右手路地をはいって民家の裏手にでると、公園風に整備された丘がある。その頂上に松をはじめ樹木の植え込みや石仏、説明札などが所狭しと配置されている。西行とその弟子西住の心打たれる悲話が伝わっている。

とある事件で破門された西住は師を慕って後を追うが岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に辞世を書き残した笠を懸け、命絶えた。

笠懸の松 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
笠懸の松 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県

笠はありその身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな ここは平安時代末期~鎌倉時代にかけての歌僧として有名な西行が、愛弟子西住と東国へと旅をした時に起きた悲しい物語の舞台であり、謡曲「西行西住」にまつわる場所でもあります。東下りの途中、川渡しの場で武士の揉め事に巻き込まれた時、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴ってしまいます。しかし西行は、仏に仕える身とし……

説明の全文を読む(約440字)

笠はありその身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな ここは平安時代末期~鎌倉時代にかけての歌僧として有名な西行が、愛弟子西住と東国へと旅をした時に起きた悲しい物語の舞台であり、謡曲「西行西住」にまつわる場所でもあります。東下りの途中、川渡しの場で武士の揉め事に巻き込まれた時、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴ってしまいます。しかし西行は、仏に仕える身として辱めに耐える大切さを説いた後、西住を破門してしまいました。西住は師を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に「西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して」と、辞世を書き残した笠を懸け、そのまま帰らぬ人となりました。東国よりの帰途にこの地で一夜を乞いた西行は、その庵で戸に懸けられている古い檜笠が西住のものと気づき、庵主から西住がここで行き倒れたことを知ります。深い悲しみに落ちいった西行は、右記の歌を残して岡部を去ったと伝えられています。

西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して

東国からの帰りこの地に宿泊した西行はかっての愛弟子西住の笠をみつけ、その死を痛む。

笠はありその身はいかになりならむ あわれはかなき天の下かな

大旅籠柏屋歴史資料館 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
大旅籠柏屋歴史資料館 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
岡部宿内野本陣跡 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
岡部宿内野本陣跡 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県

岡部橋を渡って県道208号にもどる。左手に建つ堂々とした二階建て格子造りの建物は旅籠「柏屋」で、天保7年(1836)に建てられたものである。国の有形文化財ニ指定され現在は歴史資料館として開放されている。

そのとなりは門だけが残る内野本陣跡。隣接して宿場公園広わずかに場が設けられているが、町並は柏屋と本陣跡を除いて県道沿いに宿場の面影はない。

初亀醸造 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県
初亀醸造 岡部 岡部町 藤枝市 静岡県

わずかに造り酒屋初亀醸造の重厚な屋根と土蔵がその片鱗を見せるのみである。

小野子町の姿見の橋 内谷 岡部町 藤枝市 静岡県
小野子町の姿見の橋 内谷 岡部町 藤枝市 静岡県

小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊ったという。 小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。こんなことがあって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけた……

説明の全文を読む(約200字)

小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊ったという。 小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。こんなことがあって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。

街道はその前で左にわかれて岡部宿内の旧道を進んでいく。車も通らず雰囲気は急に街道めいて、古い家も見かけるようになった。一跨ぎできそうな小さな石橋が用水路に掛けられていて、側石には「姿見の橋」と刻まれている。なんでも小野小町が東国へ下る途中でこの岡部宿に泊まったというのである。確かに宇津ノ谷も岡部も東海道53次以前からの古い宿駅ではあった。小町はこの橋の上に立ち止まりふと目を橋の下の水面に移すと、そこにはやつれた女の姿が映っていた。小野小町の一生は伝説めいた話に満ちているが中でも美女だっただけに晩年の彼女が注目を集めている。鬼婆のように醜くなってどこかに身を隠したとも言われている。

民家の竹垣の前に問屋場跡の石碑がある。説明は磨耗して読み取れなかった。

やがて丁字路にぶつかって右におれ県道208号に合流する。この直角のジグザグは後世の区画整理ではなく、昔からの桝形跡である。

松並木 内谷 岡部町 藤枝市 静岡県
松並木 内谷 岡部町 藤枝市 静岡県

交通が頻繁な県道をゆくとまもなく松並木が現れる。その先で国道1号と同藤枝バイパスとに複雑に立体交差し、旧街道は右側の道(県道81号)を行く。交差点手前の三角地帯に、常夜灯と「岡部宿」碑を兼ねた自然石のオブジェが立っている。

藤枝

藤枝(人馬継立場) 広重「東海道五十三次」
藤枝(人馬継立場) 広重「東海道五十三次」

暗渠となっている水路で藤枝市岡部町内谷を出て藤枝市横内に入る。

旧東海道 横内集落 横内 藤枝市 静岡県
旧東海道 横内集落 横内 藤枝市 静岡県

うなぎやの向かいに竹垣に囲まれて「従是西巖村領 横内」と墨書きされた復元傍示杭がある。享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村は岩村藩領であった。美濃国岩村城(恵那郡岩村町)を居城とする岩村藩は駿河国に15ヶ所もの飛領地があり、その一つ横内にも陣屋が置かれていた。民家の前に「高札場跡」、「代官屋敷跡」、「陣屋跡」などの標柱がある。いずれも横内歴史研究会が立てたものだ。

岩村藩領傍示杭 横内 藤枝市 静岡県
岩村藩領傍示杭 横内 藤枝市 静岡県この杭は江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を再現したものである。岩村藩は、美濃国岩村城(恵那郡岩村町)を居城とし松平能登守が3万石の領地を持っていた。駿河国に15ヶ村、5千石分の飛領地があり、横内村に陣屋(地方役所)を置いて治世を行なっていた。 横内歴史研究会

宿場でもないのに所々に屋号札を掲げた家をみかける。「松の茶屋」は天井を一段高くした程度の低い二階をのせた古い佇まいをみせている。朝比奈川を渡り引き続き静かな横内集落を進んでいく。右手民家の立派なブロック塀に掲げられた「かみゆい 床安」の屋号札が心をなごませる。

国道1号、仮宿六差路交差点の歩道橋をわたって、対角線上の旧道に入る。左手に立つ立派な御影石の傍示石柱は、もとこの場所に建てられた岩村領と田中領の境を示す傍示石の複製で、オリジナルは田中城跡(西益津中学校正門脇)に保存されているという。街道はすぐに国道1号と接して、広幡交番の前で再び左に分かれて鬼島地区に進んでいく。

鬼島一里塚跡 鬼島 藤枝市 静岡県
鬼島一里塚跡 鬼島 藤枝市 静岡県

まばらな松並木の中に、「鬼島一里山」と丸い鉄板に赤地白字抜きの妙な看板が立っている。その先左手には民家の外壁にへばりつくように「史跡一里塚跡」の標柱があった。江戸から47番目とある。

黄梨川にかかる八幡橋を渡ると、そのまま真直ぐに進む道と、右に曲がっていく道とに分れる。前者が田中城に至る御成街道、後者が旧東海道である。橋の袂にその追分道標が残っている。

旧東海道を進んでいくと左手民家の一角を借りて「鬼島の建場」の石碑がある。新しそうなのだが彫りが浅いのか碑文は少々読みづらい。

街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうはふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の二人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。 ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツブツいいながら、鐙ヶ渕にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ渕なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」 十辺舎一九 東海道中膝栗毛 平成17年(2005)乙酉年吉日 池谷桂次 建立

石碑の傍には常夜灯と半鐘も設けられていて、どうやらこの家の私物のようである。

須賀神社のクス 水守 藤枝市 静岡県
須賀神社のクス 水守 藤枝市 静岡県このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ渕など、東海道ゆかりの史跡があります。 樹高23.7m 根廻 15.2m 目通 10.9m

鬼島の先は水守で、ここの須賀神社境内にそびえるクスの木は樹齢500年、樹高24m、根廻り15mという巨木である。鳥居がみすぼらしく見えるほどに巨大な楠木である。さてここからいよいよ藤枝宿にむかうのだが、区画整理が進行していて、道筋が分かりにくい。

地図をみると現在の葉梨川より南に蛇行した形で、八幡(北側)と水守(南側)の境界線が引かれており、それに沿って右半分に葉梨川と結ばれた水路が残っている。この蛇行部分が、先ほど東海道中膝栗毛でも触れていた鐙ヶ渕である。蛇行部分の形が馬具の鐙に似ていることから鐙ヶ渕と呼ばれるようになった。

鐙ヶ渕跡(街道右側) 旧東海道 水守 藤枝市 静岡県
鐙ヶ渕跡(街道右側) 旧東海道 水守 藤枝市 静岡県

同地域内にある「アブミ工業」はその名残だろうか。須賀神社をすぎ丁字路を右折すると右手に松並木道が残っているが、これが鐙ヶ渕沿いに通っていた東海道の旧道である。旧道は新しい道路を横断し200mほど先で国道1号を斜めに横切る。実際はその地点は横断不能で、手前の信号交差点を迂回しなければならない。

藤枝宿東木戸跡 本町4丁目 藤枝市 静岡県
藤枝宿東木戸跡 本町4丁目 藤枝市 静岡県

国道の西側に渡って300mほどいくと右手天理教会前の歩道に「東海道藤枝宿東木戸跡」「領主番所跡」と記された標柱が立つ。藤枝宿の東見付跡である。

成田山新護寺前を通り過ぎ本町4丁目、3丁目と宿場の中心に向かって歩を進めながら、心では他の事を考えていた。もうそろそろ国道1号へ出たほうがよいのではないかと。藤枝のどこかで国道1号東京から200km地点があるはずなのだ。

国道1号東京より200km地点 緑町1丁目 藤枝市 静岡県
国道1号東京より200km地点 緑町1丁目 藤枝市 静岡県

本町3丁目の大きな交差点で左折して国道大手交差点にでた。ここから南東500mほどのところに田中城跡がある。国道を南にたどってキロ程標識を探すが一向に出てこない。100m単位で細切れに設置されている場所もあれば、歩道のないところでは数キロにわたってなにもない所もある。箱根の100km地点がとうとう見つからなかっただけに200kmは見逃すわけにはいかなかった。両サイドの歩道を凝視しながら歩いていくうち、はたして緑町交差点の先、スロットMGM前にあこがれの道路標識を見つけた。一里塚25個分の楽しみだ。

緑町交差点から旧道にもどると本町2丁目と1丁目の境の交差点に来た。すこし東へもどってみる。小川眼科医院の前には徳川家康の絵を描いた「徳川家康ゆかりの町 1586年白子町誕生」の大きなパネルが外壁に取り付けられ、さらには「白子由来の碑」の立て看板が歩道に立てかけられている。これが碑かと思った。本物の碑は眼科入口脇にある小さな石碑だ。見逃す人も多いだろう。碑文は立看に書かれている文と同じである。

凡今より390年前本能寺事変の折 伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い賞として天正14年8月14日御朱印を賜はる 是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す 昭和47年4月 藤枝市本町2丁目6ノ1 旧白子町 第13代 小川博 後日の為これを誌す

白子という旧町名は伊勢の白子から来た。それをもたらしたのは小川家だという内容である。なお、白子は伊勢街道の宿場町。いずれ訪れる。

秋葉山常夜灯 本町1丁目 藤枝市 静岡県
秋葉山常夜灯 本町1丁目 藤枝市 静岡県
旧家 本町1丁目 藤枝市 静岡県
旧家 本町1丁目 藤枝市 静岡県

本町1丁目の蓮生寺前に立つ秋葉山常夜灯は笠に苔を載せ、胴のかわりに4脚で立つ珍しい形をしている。頭でっかちな姿が愛らしい。蓮生寺は平敦盛を討った熊谷直実が出家して蓮生と名乗り、故郷熊谷に帰る途中に立ち寄った場所である。樹齢700年というイブキの大木が身をよじって立っている。左手に旧家らしき家を見つけた。宿場内では唯一ではないかと思われる。

藤枝だるま 本町1丁目1-24 藤枝市 静岡県
藤枝だるま 本町1丁目1-24 藤枝市 静岡県創業天保元年(1830) 鬢を8の字に描くのが特徴
久遠の松 大慶寺 藤枝4丁目 藤枝市 静岡県
久遠の松 大慶寺 藤枝4丁目 藤枝市 静岡県鎌倉時代、日蓮上人は京都比叡山に学びに出掛けるときこの地に立ち寄り、12年後に帰郷する際に再び訪れました。法華経に教化された老夫婦が別れを惜しんで願い出たところ、日蓮聖人が一本のマツを植えていったと伝えています。「久遠」とは法華経の経文のなかにみえる言葉です。 クロマツ 樹齢約700年 樹高25m 根回7m

街道の右手奥まったところに創業天保元年(1830)の老舗藤枝だるまが店を構える。現在五代目で、明治期にはじめた張子だるまが大量生産を可能にし販路を広げることになった。左右の鬢を8の字に描くのが特徴で、小泉八雲が愛玩したことから『八雲だるま』とよばれて親しまれている。

宿場街は本町をすぎて藤枝商店街にはいる。左手大慶寺の久遠の松は圧倒的だ。日蓮上人手植の松といわれ、こちらも樹齢700年になる。老松にしては姿勢が良く老いをかんじさせない勢いがある。見ごたえある巨木であった。

問屋場跡 藤枝3丁目 藤枝市 静岡県
問屋場跡 藤枝3丁目 藤枝市 静岡県

道が左に曲がるところに待望の宿場の証がそろっている。すべて右側の歩道上にあるタイルである。最初が柴田医院駐車場前の「下本陣跡」、次が「ニコニコヤ」前の「上本陣跡」、そして上伝馬交番前の「問屋場跡」である。その周辺をみわたしてもアーケード商店街が続くだけで、家並みに面影の片鱗もない。

本願の松 正定寺 藤枝2丁目 藤枝市 静岡県
本願の松 正定寺 藤枝2丁目 藤枝市 静岡県正定寺境内の本道前にあるクロマツで、傘型に枝張りした美しい姿に整えられています。この場所は江戸時代の東海道 「藤枝宿」の宿場町の西木戸口近く にあたり、古図などにも描かれています。マツは享保15年(1730)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時に寄進されたものであるという由来が伝わっています。 樹高6.3m 根回約3m 目通 約3m

その先の正定寺にある本願の松をみる。この宿3本目の歴史的樹木である。こちらは江戸時代のもので、先の二本に比べれば新しい。樹高も6mと低い。ただ枝張りが見事な笠形をなし、古図にもよく描かれているという。

このあたりに藤枝宿の西木戸があり、宿場はすぐ先の瀬戸川で終わる。かっては橋の袂付近に川会所と番所があったが、今はその跡を記すものもない。

志太一里塚跡 志太3丁目 藤枝市 静岡県
志太一里塚跡 志太3丁目 藤枝市 静岡県

奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50m・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。 藤枝市内では志太の他、 と に一里塚があり、上青島……

説明の全文を読む(約230字)

奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50m・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。 藤枝市内では志太の他、 と に一里塚があり、上青島には近年まで塚跡が残っていた。 平成10年5月 青島史蹟保存会

橋を渡ると右手に秋葉山常夜灯と志太一里塚跡碑がフェンス内に保存されている。常夜灯はずんぐりむっくりした五輪塔のようで愛嬌ある姿をしている。

古東海道 瀬戸新屋 藤枝市 静岡県
古東海道 瀬戸新屋 藤枝市 静岡県

昭和30年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったの……

説明の全文を読む(約250字)

昭和30年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。 平成10年5月 青島史蹟保存会

宿場を出た旧街道は青木交差点で国道1号を斜めにわたり、六地蔵で県道222号と合流、ところどころに残る松並木などをみて、左右一対の古東海道跡にさしかかる。すこしのずれをもって旧東海道と直角に細道が残っている。源頼朝以前の古道だという。宇津ノ谷の古道「蔦の細道」にかえて「御羽織屋」を通る道筋に変えたのも源頼朝だといわれている。律令時代の東海道のうち、大規模な行軍に適さない部分を源頼朝は付け替えさせた。

千貫堤 上青島 藤枝市 静岡県
千貫堤 上青島 藤枝市 静岡県

慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。 寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。 昭和40年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約4……

説明の全文を読む(約230字)

慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。 寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。 昭和40年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約40mの堤がそのまゝの姿で残っている。平成10年5月 青島史蹟保集会

下青島地区をすすみ上青島にうつるところ、石野モーターズのあたり右手に「染飯茶屋蹟」、左手に「千貫堤」の標柱がある。いずれも藤枝市指定文化財で、標石・説明板は青島史蹟保存会によるものである。

千貫堤は寛永12年(1635)田中城主となった水野忠善が大井川の治水事業として千貫もの巨費を投じて造った堤で、街道より南に40mほどの土塁が残っている。

市指定文化財 染飯茶屋蹟 瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、天正十年(1582)の「信長公記」にその名が記されている。 東海道が平地を通るようになっても現在の茶店蹟で江戸時代の終り頃まで売られていた。 染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。染飯を売る時の包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。平成10年5月 青島史蹟保存会

松並木・上青島一里塚跡 上青島 藤枝市 静岡県
松並木・上青島一里塚跡 上青島 藤枝市 静岡県

県道をすすみ、「喜久酔」醸造元青島酒造を通り過ぎ、川を渡った右手に明治天皇御小休所址の小碑がある。その先、上青島の松並木が現れ、左手に上青島一里塚跡の標柱が立っている。松は高く育ってはいるが木々の間に見え隠れする工場の建物が景観を損ねている。

ほどなく国道1号と合流し島田市に入る。

島田

民家 道悦1丁目 島田市 静岡県
民家 道悦1丁目 島田市 静岡県
島田(大井川) 広重「東海道五十三次」
島田(大井川) 広重「東海道五十三次」

JR六合駅入口交差点から国道の右側に残る500m余りの旧道を通って、すぐに国を斜めに横切り50mほどの短い旧道にはいる。そのわずかな旧道沿いに白壁土蔵と格子造りの民家をみてほっとする気分だった。静岡以来なかなかこういう家並みを見ていないのだ。

桝形跡(宿東入口) 本通7丁目 島田市 静岡県
桝形跡(宿東入口) 本通7丁目 島田市 静岡県

宿場の出入り口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鈎の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。 島田宿の東入□には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは五間四方(約80㎡)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界とし……

説明の全文を読む(約250字)

宿場の出入り口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鈎の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。 島田宿の東入□には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは五間四方(約80㎡)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。 島田市教育委員会

橋をわたり御仮屋交差点で旧道は国道を右に分けていく。本通り7丁目にはいり桝形跡(宿東入口)の立て札が民家のブロック塀の内側に立っていた。歩道に十分な余裕があるのに珍しい例だ。島田宿の東入口として5間四方の桝形見付が設けられていた。

蓬莱橋・大井川 島田市 静岡県
蓬莱橋・大井川 島田市 静岡県

1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなけ……

説明の全文を読む(約440字)

1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険なことだった。 そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。 現在の蓬莱橋は、全長897m(平成9年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。

本通7丁目交差点の先、島田信用金庫の前に「島田宿」の碑が立つ。その西側の道を800m行けば大井川をまたぐ日本一長い木橋「蓬莱橋」に至る。徒歩での寄り道としては悩ましい距離だが木橋という魅力に負けて敢行した。堤防に上がると明るい大井川の河川敷が広がっている。それと直角に華奢な木橋が一直線にのびていた。手摺は手づくり風な素朴さをみせ、か細い橋脚は頼りなさそうにみえる。橋脚だけはコンクリート製であるが木橋の情緒を損なわないように丸太棒以上の太さにしていない。その上を数人の観光客がそろりそろりと渡っていった。

島田宿一里塚跡 本通7丁目 島田市 静岡県
島田宿一里塚跡 本通7丁目 島田市 静岡県慶長9年(1604)徳川家康は、東海道の一里ごとに塚を築かせました。塚は5間四方、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。島田宿一里塚は、天和年間に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。 島田宿史跡保存会

街道にもどる。道がやや右に曲がるところに島田一里塚跡碑がある。大井川まであと2.4kmだ。

刀匠島田顕彰碑・問屋場跡 本通5丁目 島田市 静岡県
刀匠島田顕彰碑・問屋場跡 本通5丁目 島田市 静岡県

島田刀鍛冶の由来 島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期に至る約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は、義助、助宗、広助を主流とし、作風は、相州風、備前風な どのみえる業物打ちであった。江戸時代になると、貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちも ある。彼ら島田鍛治は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田……

説明の全文を読む(約740字)

島田刀鍛冶の由来 島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期に至る約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は、義助、助宗、広助を主流とし、作風は、相州風、備前風な どのみえる業物打ちであった。江戸時代になると、貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちも ある。彼ら島田鍛治は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に 珍重された。とくに、義助の『お手杵の槍』や、武田信玄所蔵という助宗の『おそらく造りの短刀』など、刀剣史上 に今なお名をとどめる秀逸な作品も少なくない。紀行文や文芸作品、芸能にも島田鍛治は取り上げられ、往時の繁栄 ぶりと名声のほどがうかがわれる。また、室町末期に活躍をした であったといわ れている。島田鍛治集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燃然と輝いている。 昭和61年3月吉日 島田市 ーーーーーーーーーーーーーーーー 問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設てした。 島田宿問置場の敷地は、間口8間(14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行5間(9.1m)の建物でした。そして、ここには長である問屋、その補佐役の年寄、事務担当の帳付、人足や馬方の指揮をする人指・馬指と呼ばれた宿役人が月交替で詰めていました。また常備人足は136人、伝馬は100匹で、このうち人足30人、馬20匹は特別の場合に備え、さらに不足のときは周辺の助郷村から補いました。 飛脚(御継飛脚)は10人が常駐し、昼夜交替で御状箱を継ぎ送っていました。 島田宿史跡保存会

本通り5丁目交差点左角に問屋場跡碑と刀匠島田の碑がならんでいる。島田は刀鍛冶集団で知られていた。

明治天皇島田行在所 大津通 島田市 静岡県
明治天皇島田行在所 大津通 島田市 静岡県

この交差点を右に曲がってつぎの信号交差点の北西角地に広大な敷地を占めた秋野宅の大屋敷がある。長々とした黒板塀をめぐらせ、向こう端には二棟の白亜の土蔵が清楚な佇まいを見せている。棟門の前に「明治天皇島田行在所」の碑が立つ。

秋野邸の西側に御陣屋稲荷神社がある。脇に黄色い房状の花が満開であった。初めてみる花だ。葉は合歓の木に似ている。後日これがアカシアの花であることを知った。西田佐知子が鼻声で「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」と歌った、その花である。

御陣屋稲荷神社 柳町 島田市 静岡県
御陣屋稲荷神社 柳町 島田市 静岡県島田代官所が野田から柳町に移った翌年の、元和3年(1617)に代官長谷川藤兵衛長親が地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立した。寛政6年代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので御陣屋稲荷神社と呼ばれている。 以下略

島田宿は天領で、駿河国志太郡や遠江国榛原郡などの幕領を支配する御陣屋(代官所)が置かれていた。島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宣の代官であった長谷川藤兵衛長親が、元和2年(1616)に建てた屋敷がはじまりで、その子藤兵衛長勝が寛永19年(1642)、幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となった。御陣屋稲荷は陣屋の屋敷神として敷地内の北西(乾)の堤上に祀られていたものである。

下本陣置塩籐四郎家跡 本通4丁目 島田市 静岡県
下本陣置塩籐四郎家跡 本通4丁目 島田市 静岡県

本陣とは幕府の高官や、公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が、休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。はじめは「大名宿」と呼ばれていた、各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を、寛永12(1635)年頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。当主には名字帯刀が許され、立派な門・玄関・書院(上段の間)を設けることが特権として認められました。島田宿には、 西から上本陣村松九郎治家……

説明の全文を読む(約490字)

本陣とは幕府の高官や、公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が、休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。はじめは「大名宿」と呼ばれていた、各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を、寛永12(1635)年頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。当主には名字帯刀が許され、立派な門・玄関・書院(上段の間)を設けることが特権として認められました。島田宿には、 西から上本陣村松九郎治家・中本陣大久保新右衛門家・下本陣置塩籐四郎家の三軒 がありましたが脇本陣はありませんでした。享和3(1803)年の「島田宿明細書上帳」によると、上本陣は建坪262坪、中本陣は建坪244坪、下本陣は建坪271坪とそれぞれの規模が記されています。諸大名は、各宿場の本陣を指定し、定宿としていました。本陣へは藩主と側近の一部が泊まり、その他の家臣団、女中、中間などは宿内の旅籠や商家、民家、寺院あるいは農家などにも分散して泊まりました。参勤交代の行列は、数百人から千人以上及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われています。

御陣屋稲荷から南にくだると、プロムナードに陣屋跡が示されている。本通りとの接点に宿場の中心地としてからくり時計のモニュメントが立つ。下本陣跡である。

旧島田宿中心街 本通3丁目 島田市 静岡県
旧島田宿中心街 本通3丁目 島田市 静岡県左、静岡銀行前に 、 右、中本陣・上本陣跡

すぐ西側右手に中本陣(大久保新右衛門家)跡、その先ホテル三布袋前に上本陣村松九郎治家跡の石柱が立っている。共にまだ新しい。

塚本如舟邸跡・芭蕉句碑 本通3丁目 島田市 静岡県
塚本如舟邸跡・芭蕉句碑 本通3丁目 島田市 静岡県

俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸址標識について 塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて 宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川 などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して さみだれの雲吹……

説明の全文を読む(約530字)

俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸址標識について 塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて 宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川 などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して さみだれの雲吹きおとせ大井川 ちさはまた青葉なからになすび汁 など詠じ更に興に乗じて田植の連句 やはらかにたけよことしの手作麦 の如舟の発句に翁は 田植とともにたびの朝起 と附句し且 元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん と後書まで添えた真跡が260年後の今日までそのまゝ塚本家に傅えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである。願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又夙くから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった。誠に郷土として永く傅うべき文化史跡というペきである。 昭和28年発已芭蕉忌 島田 早苗会同人誌 島田信用金庫前 するがの国に入りて するがぢやはなたち花もちゃのにほひ

向かいの静岡銀行前に俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸趾の碑がある。塚本如舟は元禄のころ川庄屋を務めた名家であり、俳人でもあった。松尾芭蕉は元禄4年10月、長らく近江に滞在しての帰り道、初めて如舟の家を訪れた。

宿かりて名を名のらする時雨かな

馬方はしらじ時雨の大井川

次に元禄7年5月芭蕉最後の旅の途中、島田で大井川の川止めにあい如舟邸に4日間逗留する。

さみだれの雲吹きおとせ大井川

ちさはまだ青葉ながらになすび汁

本通り2丁目交差点角の島田信金の前にも芭蕉の句碑がある。

するがぢやはなたち花もちゃのにほい

宗長庵跡 JR島田駅前 島田市 静岡県
宗長庵跡 JR島田駅前 島田市 静岡県

連歌師宗長は、1448(文安5)年駿河国島田に の五条義助の三男として生まれたといわれています。宗長は宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)に師事し連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕えました。また宗祇没後は連歌界の第一人者として、●二世花の下宗匠になり、三条西実隆や一休和尚などと親交がありました。57歳の頃に、丸子宿(現在の静岡市丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み住家としましたが、その後……

説明の全文を読む(約520字)

連歌師宗長は、1448(文安5)年駿河国島田に の五条義助の三男として生まれたといわれています。宗長は宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)に師事し連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕えました。また宗祇没後は連歌界の第一人者として、●二世花の下宗匠になり、三条西実隆や一休和尚などと親交がありました。57歳の頃に、丸子宿(現在の静岡市丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み住家としましたが、その後幾度となく旅に出て、その生涯の大部分を旅に暮らし、1532(享禄5)年85歳で亡くなっています。ここには石碑が三基建立されています。右から順番に紹介します。 宗長句碑 遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句にこえ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす 芭蕉翁を慕う漢文碑 芭蕉さみだれ古碑 さみたれの 空吹きおとせ 大井川 この場所は、元禄年間(1688~1704)に、島田宿の俳人 が、宗長法師の昔を慕って、如舟所有の土地に宗長庵(長久庵)を営み、島田宿の雅人達と諷詠を楽しんでいた所です。また如舟と親交の深かった松尾芭蕉もここを訪れています。1957(昭和32)年3月22日、市の史跡に指定されています。島田市教育委員会

交差点を南におれてJR島田駅前にあるという宗長庵址に寄る。島田宿の俳人塚本如舟が自分の土地に、連歌師宗長の昔を慕って宗長庵(長久庵)を建てたものである。芭蕉もここを訪れた。駅前にきてみると全面的な改修工事の真っ最中で、史蹟は線路脇に追いやられていた。石碑が三基ならぶだけのそっけないものである。

連歌師宗長は文安五年(1448)島田市の鍛冶職の家に生まれた。十八歳で宗長は駿河守護の今川義忠に仕えた。後に宗祇の門弟に加わり宗祇に同行して各地を旅する。文亀2年(1502)宗祇は宗長らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、箱根湯本で病に倒れ客死した(享年82)。

宗長は宗祇のあとを継いで連歌界の第一人者として活躍する。格言「急がば廻れ」の創作者である。

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも 急がば廻れ瀬田の長橋

大井神社 大井町 島田市 静岡県
大井神社 大井町 島田市 静岡県

勅宣正一位大井神社御由緒 御祭神 彌都波能賣神(みつはのめのかみ) 波邇夜須比賣神(はにやすひめのかみ) 天照大神(あまてらすおおみかみ) 例祭日 十月十三日・十四日・十五日 大井神社は、貞観七年授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。 昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかの御遷座の後、島田宿……

説明の全文を読む(約370字)

勅宣正一位大井神社御由緒 御祭神 彌都波能賣神(みつはのめのかみ) 波邇夜須比賣神(はにやすひめのかみ) 天照大神(あまてらすおおみかみ) 例祭日 十月十三日・十四日・十五日 大井神社は、貞観七年授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。 昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかの御遷座の後、島田宿が東海道五十三次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄八年より御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった。 島田宿の氏神として尊崇され、また、大井川川越の公家、大名、一般旅人からも大井川渡渉の安全を祈願する為深く信仰された。 神社本庁別表神社

駅西通りで街道にもどる。西に進んだところ、右手に大井神社、左に正覚寺がある。このあたりに島田宿の西見付があった。大井神社の鳥居前には飛脚たちが道中の無事を祈って奉納した道中飛脚燈籠が立つ。鳥居から続く両側の土手石垣は川越人足たちが毎日の業を終えて帰る際河原から1つずつ石を持ち帰って積み上げたものであるという。

島田の帯祭り 大奴 大井神社 大井町 島田市 静岡県
島田の帯祭り 大奴 大井神社 大井町 島田市 静岡県日本三奇祭の一つに数えられ、寅・巳・申・亥歳3年に一度執り行われ大名行列と共に25人の大奴が供奉する。

石橋をわたると日本三大奇祭のひとつ、帯祭りに登場する奴等が両手を広げ片足を上げた格好で立っている。島田に嫁いできた花嫁が町中をあるいて晴れ着を披露する恥ずかしい風習にかわって、大井神社の例祭、帯祭で大奴が木太刀に安産祈願の帯を下げて練り歩くようになった。

島田はまた文金高島田など女性髷の島田髷の発祥地でもある。島田宿はあでやかな宿場町であった。

川越場 河原1丁目 島田市 静岡県
川越場 河原1丁目 島田市 静岡県

時の鐘があった大善寺をすぎると前方に白煙をあげる高い煙突が見えてくる。富士川河口に林立していたものと同じ製紙工場の煙突である。工場の前で道が二又に分かれ左の道を行くと、やがて川越遺跡の町並みが現れる。両側に水路を通し居住用の家と見学用の建物とが混ざった家並みが、往時の川越え場風情を残している。

川会所(かわかいしょ) 河原1丁目 島田市 静岡県
川会所(かわかいしょ) 河原1丁目 島田市 静岡県元禄9年(1696)に川越制度が改定されてから、川役人が川越業務をおこなってきたところです。 現存する建物は、安政3年(1856)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和45年(1970)に建立当初の位置に近い現在地に復元保存されました。 なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられますが、現存はしていません。

家並みの最後に川会所が保存され、中に川庄屋と年行事の2人の川役人が不動の姿勢で事務を執っていた。川庄屋といえば俳人塚本如舟が勤めた役職である。

川会所の前に芭蕉句碑がある。元禄4年10月如舟邸での句である。

朝顔の松 河原1丁目 島田市 静岡県
朝顔の松 河原1丁目 島田市 静岡県

昔、ここに一本の大きな松がありました。 江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。 ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘深雪が宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門とい……

説明の全文を読む(約770字)

昔、ここに一本の大きな松がありました。 江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。 ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘深雪が宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたすね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある屋敷から声がかかります。 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大丼川まで来ると、ちようど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右i門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。 その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1.56m・高さ20m)でしたが惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。(中略) この物語「朝顔日記」は、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。 「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。 島田市

馬方はしらじ時雨の大井川

土手の手前の広場に朝顔の松がある。深雪・阿曽次郎の悲恋物語が伝わる。

大井川 島田市 静岡県
大井川 島田市 静岡県

ついに大井川堤防に立つ。広い河川敷は公園となっていて、水の流れは遠くに細くみえるだけで、越すに越されないほどの迫力を感じない。広重の絵に似た場所をと探しているうちに大井川橋の中ほどにさしかかった。この辺、流れが二手にわかれ、川幅もさすがに広い。こんなものだろうと2,3枚撮って金谷側に入る。

金谷

大井川 島田市 静岡県
大井川 島田市 静岡県
金谷(大井川) 広重「東海道五十三次」
金谷(大井川) 広重「東海道五十三次」

広重の金谷宿の絵も同じ大井川の金谷岸を俯瞰したものである。対岸には絵にあるような険しい山は見当たらない。

橋を渡り堤防を200mほど下流に進むと右に下りる道があって、旧東海道に通じている。

金谷宿入口 金谷 島田市 静岡県
金谷宿入口 金谷 島田市 静岡県

新堀川にかかる東橋(八軒屋橋)のほとりに小公園が設けられ、夢舞台東海道の道標、水神社がある。ここが金谷宿入口で、川会所、札場、一番宿から十番宿など島田の川越え場に対応する施設が並んでいた。金谷宿は河原町と金谷本宿とからなっていた。

日本左衛門首塚 金谷河原 島田市 静岡県
日本左衛門首塚 金谷河原 島田市 静岡県

日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれています。歌舞伎の白波五人男日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。詮議の手が廻り、もはや逃れられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見……

説明の全文を読む(約310字)

日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれています。歌舞伎の白波五人男日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。詮議の手が廻り、もはや逃れられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿(現在の磐田市)でさらし首になりました。辞世 「押取の人の思い羽かさなりて 身に青網のかかる悲しさ」 と詠んでおります。金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。

旧街道筋の名残を感じさせる家並みの途中で左の路地に入り、250mほどいった宅円庵の日本左衛門首塚に寄る。日本左衛門は白波五人男日本駄右衛門のモデルになった盗賊である。江戸伝馬町で処刑され見付宿でさらし首になっていたものを金谷宿の愛人小まんが首を持ち帰りここに埋葬したという。罪人の墓に寄ることもなかったか。

旧街道にもどりSLで知られる大井川鉄道の「旧国道踏切」をわたる。左手に新金谷駅が覗いて見える。SLが毎日走っているとは知らなかった。時刻表は月と曜日によって1日1往復と2往復があって複雑だが、一つの共通点として毎日午前11:58分には千頭行きのSLが新金谷駅を出る。

遠州金谷宿 柏屋本陣跡 金谷 島田市 静岡県
遠州金谷宿 柏屋本陣跡 金谷 島田市 静岡県

「金谷宿」は江戸時代・東海道24番目の宿場として、徳川家康が伝馬制度を定めた慶長6年(1601)に始まりました。東に大井川、西に小箱根といわれた「金谷坂・菊川坂」や「小夜の中山」の難所を控えたこの地はまさに東海道の交通の要衝であり、天保14年(1843)頃の金谷宿明細書によると、大名や公卿等の休宿にあてられた 本陣が3軒 ・柏屋・山田屋) 、脇本陣1軒、旅籠51軒が確認されており、参勤交代制が実施……

説明の全文を読む(約350字)

「金谷宿」は江戸時代・東海道24番目の宿場として、徳川家康が伝馬制度を定めた慶長6年(1601)に始まりました。東に大井川、西に小箱根といわれた「金谷坂・菊川坂」や「小夜の中山」の難所を控えたこの地はまさに東海道の交通の要衝であり、天保14年(1843)頃の金谷宿明細書によると、大名や公卿等の休宿にあてられた 本陣が3軒 ・柏屋・山田屋) 、脇本陣1軒、旅籠51軒が確認されており、参勤交代制が実施された寛永12年(1635)以降は宿場において重要な機能をはたしました。本陣の一つ「柏屋」は、先祖の功によって徳川家康より屋敷を賜り、二百数十年間金谷宿本陣の経営と名主を勤めました。現在では商店街となっており、宿場の面影は見られませんが、JA大井川金谷支店・地域交流センターの場所が「柏屋」であった場所です。

佐塚本陣跡 金谷 島田市 静岡県
佐塚本陣跡 金谷 島田市 静岡県

川を二つ渡ったあたりから金谷本宿にはいってくる。本陣が3軒(佐塚屋・柏屋・山田屋)あったとされ、佐塚書店と地域交流センター前にそれぞれ佐塚本陣跡、柏屋本陣跡の標識が立つ。町並に面影は残っていない。

金谷一里塚跡 金谷 島田市 静岡県
金谷一里塚跡 金谷 島田市 静岡県延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば「金谷一里塚榎木」とある。 里程 江戸へ53里 島田へ1里 日坂へ1里24町 金谷宿

金谷駅ガードの入口に夢舞台東海道碑が一里塚跡碑を兼ね、そばに立つ一里塚の説明札が江戸から53番目と記している。

旧街道はガードをくぐって線路の向こう側に出る。石段をあがった長光寺境内に芭蕉句碑が残っている。野ざらし紀行にて大井川で川止めにあった日の馬上吟である。金谷でなくて島田側での句であろう。

道のべの木槿(むくげ)は馬に喰はれけり

不動橋 旧東海道金谷坂 金谷 島田市 静岡県
不動橋 旧東海道金谷坂 金谷 島田市 静岡県

道は不動橋で金谷宿を出、古い家が残る坂道を上っていく。

牧之原公園より大井川眺望 金谷 島田市 静岡県
牧之原公園より大井川眺望 金谷 島田市 静岡県手前:金谷 中央:大井川橋 遠方:島田

国道473号を横切る地点で、国道をたどって牧之原公園によっていくことにした。茶の本場静岡の中の本場牧之原台地を見ておきたかった。大井川、大井川橋を中心に手前の金谷、対岸の島田が一望できる牧之原公園に着く。橋の後方に富士山が位置する。雲の白さと富士山の雪の白さが一体になっているのか、稜線が判別できなかった。

牧之原茶園 金谷 島田市 静岡県
牧之原茶園 金谷 島田市 静岡県
茶祖栄西禅師像 牧之原大茶園 金谷 島田市 静岡県
茶祖栄西禅師像 牧之原大茶園 金谷 島田市 静岡県

丘の頂には中国から茶をもたらした鎌倉時代の禅僧栄西が杖に手をそえて立っている。斜面は一面の茶畑で、きれいに刈り込まれた濃緑色のかまぼこが規則正しく並んでいる。扇風機を取り付けた柱が点々と立つ。新芽がでるころ風を起こして霜が降るのを防ぐ装置だそうだ。一定面積に一基の設置が義務付けられているという。

旧東海道金谷坂の石畳 金谷 島田市 静岡県
旧東海道金谷坂の石畳 金谷 島田市 静岡県

この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人が歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道……

説明の全文を読む(約230字)

この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人が歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所だけとなりました。 平成4年3月 島田市教育委員会

旧東海道との交差点にもどり、旧東海道石畳にはいっていく。430mにわたってコンクリート舗装をはがし、かって敷かれていた石畳を復原した。かえって歩きにくくなったと苦情を呈する人もいるらしい。

芭蕉句碑 菊川 島田市 静岡県
芭蕉句碑 菊川 島田市 静岡県馬に寝て残夢月遠し茶の煙 (野ざらし紀行より) 島田市教育委員会・観光協会

石畳が終わって合流してくる車道をすこし戻ったところに明治天皇御駐輦阯の碑と芭蕉句碑が立っている。

馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟

野ざらし紀行、小夜の中山の段にある一句である。石は丸形の自然石で中央よりやや左に奇妙な一対の突起がある。腫れ物か、あるいは土偶の乳房か。

牧之原台地より富士山遠望 金谷 島田市 静岡県
牧之原台地より富士山遠望 金谷 島田市 静岡県

さらに車道をさかのぼると左の視界が開けて待望の白く輝く富士を望むことができた。茶畑でしばらく孤高の美に見とれたあと、街道歩きの現実にもどり、諏訪原城跡へと向かう。バス停の裏から順路をたどる。諏訪原城は、天正元年(1573)、武田勝頼が馬場氏勝に命じて築いた山城である。

国史跡諏訪原城(本丸)址 金谷 島田市 静岡県
国史跡諏訪原城(本丸)址 金谷 島田市 静岡県天正元年(1573)、武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築城しました。現在も空堀、井戸など九割の遺構がほぼ完全な形で残されています。扇状の形をした山城で、別名扇城ともいわれ、甲州流築城法の典型を見ることができます。城内には武田家守護神の諏訪明神がまつられています。 本丸跡 城主の居住する所で軍政を司る所である。

土塁、空堀がくりかえす山道に二ノ丸、三ノ丸、天守台、本丸の跡が現れる。空き地は茶畑として開かれている場所もある。最後には箱型の諏訪神社が静かにたたずんでいた。規模は小さいながら遺構の存在が明確に認められ国指定史跡である。

菊川坂の石畳 菊川 島田市 静岡県
菊川坂の石畳 菊川 島田市 静岡県

この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣12ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、380間(約690m)あったともいわれています。しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損されたところもありますが、このように長さ161m、……

説明の全文を読む(約300字)

この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣12ヶ村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、380間(約690m)あったともいわれています。しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損されたところもありますが、このように長さ161m、最大幅4.3mを残しております。かっては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません。 島田市教育委員会

旧街道は諏訪原城跡からすぐ県道234号を横切って今度は菊川坂の石畳を下る。車道が併走していて石畳は遊歩道である。ここも復元道であるが菊川の里の手前には160mにわたって江戸時代からの石畳が残っている。気のせいか現代物とは石の丸みがちがい表情も愛らしい。

菊川の里 菊川 島田市 静岡県
菊川の里 菊川 島田市 静岡県

菊川坂石畳と間の宿菊川 菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年漏頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿…」とあり、これが菊川の里の初見です。 承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕えら……

説明の全文を読む(約490字)

菊川坂石畳と間の宿菊川 菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年漏頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿…」とあり、これが菊川の里の初見です。 承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕えられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。 更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕えられた公卿日野悛墓が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。 ●中納言宗行匍の詩 昔南陽県菊水辺下流而延齢 今東海道菊河宿西岸而失命 ●日野僅嘉一の歌 古もかかるためしを菊河の おなじ流れに身をやしづめん 島田市教育委員会

菊川の里は小夜の中山を控えたひなびた山里である。江戸時代は日坂と金谷の間にあって間の宿として栄えた。古くは鎌倉時代から利用されていた古い宿場町である。宿場の中央あたりに二基の石碑が建てられている。承久の変で鎌倉幕府軍に捕らえられた中御門中納言藤原宗行の詩と、それから100年後の正中の変で捕えられた日野俊基の歌である。共に鎌倉への護送中、この菊川の里に泊まった。

旧東海道(右) 菊川 島田市 静岡県
旧東海道(右) 菊川 島田市 静岡県

静かな菊川の里を静かに通り抜ける。四郡橋を渡ったところで、広い道を横切り石段を昇って細い坂道を登っていく。二股を右にとって短い林をぬけると両側に茶畑がひろがる急坂が続く。右手に、島田・掛川市境を示す標識が立つ。

(2009年2月)

前ページへ 次ページへ