東海道 10区間のうち3番目

東海道(3)

三島-沼津-原-吉原-蒲原-由比-興津-江尻(清水)

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箱根西坂

箱根西坂

箱根峠を越えると、すぐ右手の「箱根旧街道」と書かれた冠木門を通っていく。三島青年会議所が設置した新箱根八里記念碑のそばを通って、「箱根旧街道入口」の道標に従ってしばらく行くと、左手の笹藪に旧道の入口が開いている。三島市教育委員会による箱根旧街道の解説板、江戸・京都までの里程道標などが脇にある。箱根西坂の始まりである。

国指定 江戸より二十六里 史跡東海道一里塚 桑原 函南町 田方郡 静岡県
国指定 江戸より二十六里 史跡東海道一里塚 桑原 函南町 田方郡 静岡県

竹のトンネルをくぐるように細い道をたどるとまもなく国道1号にでる。右手「接待茶屋」バス停の先に旧道入口があり、「史跡 箱根旧街道」と題した文化庁・函南町連名の屋根つき解説板、接待茶屋の説明板、石碑などにぎやかだ。左に江戸から26里目の山中新田一里塚がある。草木の茂みに隠れて塚らしきものが判然としないが、国指定史跡とあるから現存しているのであろう。

史跡 箱根旧街道

この旧街道は、慶長9年(1604)江戸幕府が整備した「五街道」の一つ、東海道の一部である。 箱根路には、古代の碓氷道・中世の足柄道・近世の湯坂道などがあったが、延暦21年(802)富士山の噫出物で埋もれた湯坂道に代って、現在の経路をとるようになった。 東海道の箱根山中は、道幅が狭く二間以下(3.6m)の所もあり急坂が多いので竹を敷き滑り止めとした。 寛永12年(1635)参勤交代の制度が布かれ、諸大名を始め一般旅人の通行が盛んになった。延宝8年(1680)頃から永久釣なものとして石が敷きつめられたといわれる石畳などの貴重な資料が一部残っている。 ここから西、下り坂約600mが、当時のまま現存している。昭和47年4月3日建立 文化庁・函南町

箱根街道古道 桑原 函南町 田方郡 静岡県
箱根街道古道 桑原 函南町 田方郡 静岡県

杉木立の中、石畳を歩いていくと、苔むした巨石が箱根路の見張り番のように立ち潜んでいる。小田原征伐にやって来た豊臣秀吉が、この石に兜を乗せて休んだという「兜石」、「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた碑とともにある念仏石が圧巻だ。

静かな石畳の道をすすんでいくと急に視界が開けて左下に国道が現れる。二股道を左にとって台地の縁を進むと、旧道は民家の庭先に出たところで途絶えている。直角に左折して国道1号線を横断し歩道を下り、「三島市」にはいったところで左手に旧道が復活する。

箱根旧街道 願合寺地区の石畳 三島市 静岡県
箱根旧街道 願合寺地区の石畳 三島市 静岡県

願合寺地区の石畳の整備・復元を解説した案内板が立っている。排水溝と石橋の遺構も発堀されて復元されるなど、平成になって三島地区の箱根街道は大規模な整備がなされたようだ。一つ一つの石が大きくて平らで歩きやすい。

石畳の旧道が再び国道1号線に合流する手前に徳利を浮き彫りにさせた雲助の墓がある。墓の主は久四郎という腕の立つ武士だったが酒におぼれて雲助の仲間に落ちぶれた。

山中城址 山中新田 三島市 静岡県
山中城址 山中新田 三島市 静岡県

国指定史跡山中城跡 史跡山中城は、小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防備のために創築したものである。 やがて天正17年(1589)豊臣秀占の小田原攻めに備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。 この時の北条方の城主松田康長・副将間宮康俊の葛は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むして……

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国指定史跡山中城跡 史跡山中城は、小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防備のために創築したものである。 やがて天正17年(1589)豊臣秀占の小田原攻めに備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。 この時の北条方の城主松田康長・副将間宮康俊の葛は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。 三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造か明らかになった。特に掘や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀・水掘・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成13年3月 文化庁 静岡県教育員会 三島市教育委員会

国道に出て反対側の山中城址に上る。戦国末期、小田原の西の守りとして築かれたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、豊臣方の大軍に攻められてわずか半日で落城したという悲劇の山城である。自然の地形を利用して石垣を用いず土塁・空堀だけの城址だが、地面の凹凸はけっこうきつい。

旧街道は蛇行をくりかえす国道1号を突っ切る形でまっすぐに延びている。芝切地蔵の前を通り、「山中城跡」信号で国道を横断すると腰巻地区の石畳が始まる。写真入の詳しい復元整備解説板がたっている。「箱根八里記念碑」として路傍に司馬遼太郎他数人の文学碑が建てられていた。

芭蕉句碑 上長坂 三島市 静岡県
芭蕉句碑 上長坂 三島市 静岡県野ざらし紀行(箱根越え) 関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

左が大きくひらけて国道1号に合流する。右側歩道を100mほどあるいて再び旧街道にはいっていく。今度は330mの浅間平地区の石畳である。地区ごとに解説板があるようだ。坂道が国道を横切る富士見平にでる。角に東京上野の家具センターが建立した巨大な長方形の芭蕉句碑が立っている。

これは貞享元年(1684)野ざらし紀行での箱根越えの句である。野ざらし紀行は奥の細道に先立つこと5年、芭蕉最初の長旅であった。

関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

芭蕉が富士山を見損ねたのはこの場所であったのか、それとも関所手前の芦ノ湖畔であったのかしらないが、富士見平とあるからここからも富士が望めたのであろう。私の場合、箱根であれだけくっきりと見えた富士がここからは見えなかった。方角をまちがっっていたか、それともかすかにかかる薄雲の向こうに隠れていたのか。

笹原一里塚 笹原新田 三島市 静岡県
笹原一里塚 笹原新田 三島市 静岡県

国道をわたり急な階段をおりて上長坂の石畳に出る。すぐに国道にでて歩道をわずかに進んだところで左の旧道に入ると、ラブホテルの脇から笹原の石畳が出ている。石畳を300mほどすすんだところ、国道との交差点手前左手に笹原の一里塚が残っている。階段を上るほどの高台に大木がそびえ、周囲に石柱がめぐらされている立派な塚である。一里塚のすぐ側を石畳にそった細い農道がのびているのは古道であろうか。江戸から27里目である。ちなみにすぐ先の国道に111kmの標識を見た。3kmほど旧街道のほうが短い。箱根街道の国道の曲がり具合を考えると、いい加減だ。

こわめし坂 三ツ谷新田 三島市 静岡県
こわめし坂 三ツ谷新田 三島市 静岡県

箱根旧街道の石畳の道はここまでで、国道1号をわたったその先は普通の舗装道路が集落の中をいく。下長坂別名こわめし坂とよばれる険しい坂だ。背負った米が、人の汗の蒸気で蒸されて強飯となってしまったといわれるほどきつい。歩いても膝が笑いそうなそんな急坂を、リュックを背負った男女のグループが軽快な足取りでかけぬけていった。甲州街道の犬目あたりでもみかけたが、最近ジョギングによる街道歩きがはやっているらしい。

こわめし坂もやがて緩くなり旧国道1号に出る。景色は長く険しかった箱根の山道をぬけてすっかり三島の町である。笹原新田から三ツ谷新田にはいったところに松雲寺がある。参勤交代の西国諸大名や、徳川将軍も泊まった寺本陣で、明治天皇の小休所ともなった。

錦田一里塚 初音ヶ原 三島市 静岡県
錦田一里塚 初音ヶ原 三島市 静岡県(前略) 錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の28里(約112km)の地点にあり、松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて貴重であるので国指定史跡となっている。 平成8年2月 三島市教育委員会
松並木 初音ヶ原 三島市 静岡県
松並木 初音ヶ原 三島市 静岡県

箱根旧街道松並木 箱根旧街道は、徳川家康により慶長9年(1604)に整備され、道の両側には松や杉の並木が植えられ、一里ごとに塚がつくられた。しかし、箱根路は急坂のため道が荒れ、しかも赤土で滑りやすかったので、その対策として、最初は箱根竹を束にして敷いたが費用がかさみ、延宝8年(1680)に幕府は箱根路を石畳に改修させた。この初音ケ原付近では、現在の国道一号上り線に旧街道があった。また、松並木は、明……

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箱根旧街道松並木 箱根旧街道は、徳川家康により慶長9年(1604)に整備され、道の両側には松や杉の並木が植えられ、一里ごとに塚がつくられた。しかし、箱根路は急坂のため道が荒れ、しかも赤土で滑りやすかったので、その対策として、最初は箱根竹を束にして敷いたが費用がかさみ、延宝8年(1680)に幕府は箱根路を石畳に改修させた。この初音ケ原付近では、現在の国道一号上り線に旧街道があった。また、松並木は、明治以降枯れるの任せたため、年々その姿を消し、むかしの風情を残している並木は、この初音ヶ原松並木が三島市内に残っている唯一のもので、約1キロメートルに及んでおり、 とともに、箱根旧街道の面影を色濃く残している。 平成11年3月三島市教育委員会

旧街道は今やおちついた塚原住宅街となっている臼転し坂を下り、やがて国道1号バイパスと合流する。「富士見ヶ丘」バス停付近から車線を分離するかたちで1kmにわたって初音ヶ原松並木がつづく。歩道はセメントで固められた石畳が敷かれている。松並木を200mほど進んだところに江戸から28里目の錦田一里塚が現存している。登り車線の両側に鏡餅状の塚をのこし、松の大木が茂る立派なものである。西側の塚元に「箱根関所跡13km、三島宿2km」とあった。

愛宕坂 川原ヶ谷 三島市 静岡県
愛宕坂 川原ヶ谷 三島市 静岡県

箱根旧街道愛宕坂 箱恨旧街道は1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。両側には松や杉が並木として植えられ通行の人や馬を保護し、また一里塚を築いて旅人の目安としていたようです。 この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なところでした。そこで幕府は1680年に、それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷きつめて「石畳の道」に改修したものです。 その石畳を1769……

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箱根旧街道愛宕坂 箱恨旧街道は1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。両側には松や杉が並木として植えられ通行の人や馬を保護し、また一里塚を築いて旅人の目安としていたようです。 この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なところでした。そこで幕府は1680年に、それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷きつめて「石畳の道」に改修したものです。 その石畳を1769年に修理した記録によると、「愛宕板ては、長さ140m、幅3.6mを修理した」とあり、当時の道幅がわかります。 現在、この道は石畳風に整備されている所と、その下には往時(昔)の石畳が埋まっている所とがあります。 ここでは、両側の松並木敷のうち、南側の並木敷だけを復元したもので、この先の初音ヶ原の松並木に続いています。 江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、現在は、「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりとした小山に残っています。 平成五年五目 三島市教育委員会

旧街道は松並木が終わったところで国道と分れて右に一筋ずれ、石畳風に整備された愛宕坂をくだっていく。東海道本線のひなびた「旧東海道踏切」をわたる。前方に三島市街地がみえてきた。最後の坂である今井坂をくだり、愛宕橋で山田川をわたる。右手に建物はめだたないが広大な敷地にながい竹塀をめぐらせた民家がある。その向かいの道角に「鞍掛け石」の立て札が立っているが、石そのものは石垣の角石になっていて「なんだ、こりゃ」的史跡であった。

三島

新町橋 新町 三島市 静岡県
新町橋 新町 三島市 静岡県
三島大社 三島 広重「東海道五十三次」
三島大社 三島 広重「東海道五十三次」

大場川にかかる新町橋からの富士山の眺めがよいという。パネル写真とそっくりの景色を撮れてニンマリとした。橋を渡ったところに三島宿の東口にあたる東見附があった。案内板はみあたらない。

三島大社 三島市 静岡県
三島大社 三島市 静岡県鳥居と常夜燈の位置関係が逆

三島宿にはいり、まもなく三島大社に至る。立派な社碑と大きな石鳥居の後ろに左右一対の常夜燈があるが、広重の浮世絵ではこの常夜燈が鳥居の前に描かれていて、広重は東海道を歩いていないのではないかという説の根拠にされた。他方で、創作行為は事実である必要はないとして、気にしない人もいる。ちょうど、芭蕉が奥の細道で曾良の日記とは矛盾する行程を想定しているように。

三島大社 三島市 静岡県
三島大社 三島市 静岡県

三島は伊豆国の国府で、三島大社は伊豆国一宮である。源頼朝が源氏再興の兵を挙げるに際し、ここで三ヶ月もの祈願を続けた。舞殿横の樹齢1200年というキンモクセイの老大木が印象的だった。根回り3m、枝先は地面に届きそうに垂れ下がっている。9月ごろは壮観だろう。その強力な香りは二里先まで届いたというから、樹下ではおそらく花粉と共にむせかえることであろう。

丸平商店 中央町 三島市 静岡県
丸平商店 中央町 三島市 静岡県

鳥居の前から下田街道が出ている。天城峠を越えて下田に至る。70km近くあるからフルに歩けば3泊4日の旅になりそうだ。歩く前に『伊豆の踊り子』を読みかえさなくてはならない。できるなら旅は同じ季節にしよう。

旧宿場街を西に進む。右手に「丸平商店」の板看板を掲げた古い商家がある。正月休みで二階の雨戸はきれいに閉められれているが、聞くところによればここは江戸末期の建物で、おにぎりを出すレトロ喫茶店だそうだ。風貌からいえば、米屋みたかった。

問屋場址 中央町 三島市 静岡県
問屋場址 中央町 三島市 静岡県

三島の宿は慶長6年徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、海道有数の大宿として認められたがこの宿場の施設として同年この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置された。この施設は幕府の役人をはじめ、海道を通行する公用の貨客を運ぶ為の人馬の調達を主目的としていた。問屋場には問屋年寄り、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり問屋場の北側に人足部屋がおかれ、雲助と呼ばれた篭かき人夫の部屋があった。……

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三島の宿は慶長6年徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、海道有数の大宿として認められたがこの宿場の施設として同年この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置された。この施設は幕府の役人をはじめ、海道を通行する公用の貨客を運ぶ為の人馬の調達を主目的としていた。問屋場には問屋年寄り、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり問屋場の北側に人足部屋がおかれ、雲助と呼ばれた篭かき人夫の部屋があった。箱根・小田原に比較して当時交通量が多かったこの三島宿に一ヶ所の問屋場ですべてを賄っていたためここで働く役人や人足は相当数いたといわれ助郷人馬の動員などと併せ人手不足をかこっていたことが史料で残っている。 三島市教育委員会

中央町郵便局の脇に問屋場跡の石碑がある。三島宿は街道有数の大宿で、交通量が多く問屋場はいつも人手不足をかこっていた。宿場通りの今の姿は旧国道沿いの商店街で、いくつかの古い看板を見かけたほか、家並みには宿場の面影は残っていない。

本陣跡(左:樋口 右:世古) 本町 三島市 静岡県
本陣跡(左:樋口 右:世古) 本町 三島市 静岡県

本陣について 本間とは江戸時代五街道などの宿場に設けられ.大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で.大名宿とも言いました。 三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣がありました。 本陣の建物は書院造で、.門構え、玄開、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものでした。 三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定交化財)と宿泊した大名の関札があります。 .なお三嶋大社には樋口本……

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本陣について 本間とは江戸時代五街道などの宿場に設けられ.大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で.大名宿とも言いました。 三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣がありました。 本陣の建物は書院造で、.門構え、玄開、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものでした。 三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定交化財)と宿泊した大名の関札があります。 .なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されています。 三島宿について 三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また。三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。 また、東西を結ぷ東海道lと南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行なわれていました。三島宿は初代安藤広重の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三島明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーポルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています。 本町・小中島商栄会

本町交差点付近が三島宿の中心であったらしく、世古本陣と樋口本陣が道を挟んであった。今はその跡地をしめす標識があるのみである。初代領事ハリスが将軍謁見のため江戸に向かう途上世古本陣に宿泊した際、その日本庭園の素晴らしさを日記に記している。樋口本陣跡の解説板には三島宿についても詳しい解説がある。三島宿は三島大社の門前町として、箱根峠越えのベースキャンプとして、また下田・甲州街道と交差する交通の要衝として多機能的に賑わった。

三島宿について解説板で触れられていない重要なものの一つに「三島女郎衆」がある。単に大宿につきものの飯盛女というだけでなく、三島宿に集まった女郎には特別の経緯があった。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるに際し、将士の休養のために女たちを与えたというのである。いわば太閤版慰安婦だ。秀吉の命により集められた女たちは、遠く京や大阪の関西からつれて来られたものもいたという。 彼女たちは秀吉以降もそのまま居ついて三島の宿場女郎となった。後にこの女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっていく。

その歌碑が駅近くの白滝公園に建っている。

富士の白雪 朝日に溶けて 三島女郎衆の化粧水

富士の白雪の碑 白滝公園 三島市 静岡県
富士の白雪の碑 白滝公園 三島市 静岡県

隣に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞 「富士の白雪 朝日に溶けて 三島女郎衆の化粧水」 が刻まれています。これは昭和7年(1932)、「農兵節」の普及を記念して、三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。農兵節の起源は、幕末、韮山江川代官が三島で農兵の調練を行なった時、長崎留学から帰った家臣の伝えた、西洋のメロディーを行進曲に採用し、それを聞いた三島宿の人々が、当時……

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隣に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞 「富士の白雪 朝日に溶けて 三島女郎衆の化粧水」 が刻まれています。これは昭和7年(1932)、「農兵節」の普及を記念して、三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。農兵節の起源は、幕末、韮山江川代官が三島で農兵の調練を行なった時、長崎留学から帰った家臣の伝えた、西洋のメロディーを行進曲に採用し、それを聞いた三島宿の人々が、当時の田植え唄・馬子唄の詞をつけて流行したのが始まり、と伝えられています。明治・大正時代「ノーエ節」としてさまざまな替え歌で歌われていたものを、昭和初期に尻取り唄の「農兵節」と「農兵踊り」を完成し、三島民謡として全国に宣伝したのが平井源太郎でした。 以下略 平成12年2月 三島市教育委員会

富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける

とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ

三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧が長い

お化粧ながけりゃノーエ お化粧ながけりゃノーエ お化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる

お客おこればノーエ お客おこればノーエ お客サイサイ おこれば石の地蔵さん

石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い

頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止まる

からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田

娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける

桜川・三島水辺の文学碑 三島市 静岡県
桜川・三島水辺の文学碑 三島市 静岡県

農兵節のでだしにあるように、三島は湧水の町である。富士の雪解け水が溶岩にしみこみ、伏流水となって三島にたどりつき町のあちこちから湧き出ている。白滝公園の脇を流れる桜川も湧水を集めたものである。水量は年々細っているようであるが。三島大社の西側まで、桜川に沿った歩道は「三島水辺の文学碑」と銘打って、いくつかの碑が立っている。三島は文学者に愛された町らしい。

正岡子規

三島の町に入れば小川に菜を洗ふ女のさまもややなまめきて見ゆ

面白や どの橋からも 秋の不二 「旅の旅の旅」(明治25年 作) より

若山牧水

宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。

沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠しているが、

三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。

克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに、その山の雪が輝いていた。

「箱根と富士」(大正9年 作)より

司馬遼太郎

この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。

むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。

その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった。

融けた雪は山体に浸み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して涌くのである。

小説新潮昭和61年2月号掲載

「裾野の水、三島一泊二日の記」より

源兵衛川・時の鐘 川原ヶ谷 三島市 静岡県
源兵衛川・時の鐘 川原ヶ谷 三島市 静岡県

三石神社の境内にあるこの鐘は「時の鐘」と呼ばれ、江戸時代から旅人や町民に親しまれてきました。最初は寛永年間(1624~1644)に鋳造され、その後何回か改鋳されました。(中略)三島宿の人たちは、この鐘の音で時を知りました。しかし、第二次世界大戦時にはこの鐘も供出され、現在の鐘は昭和25年に市民の有志によって造られたものです。時の鐘の存在は、当時の三島宿の賑わいを忍ばせるものとして、市民に親しまれて……

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三石神社の境内にあるこの鐘は「時の鐘」と呼ばれ、江戸時代から旅人や町民に親しまれてきました。最初は寛永年間(1624~1644)に鋳造され、その後何回か改鋳されました。(中略)三島宿の人たちは、この鐘の音で時を知りました。しかし、第二次世界大戦時にはこの鐘も供出され、現在の鐘は昭和25年に市民の有志によって造られたものです。時の鐘の存在は、当時の三島宿の賑わいを忍ばせるものとして、市民に親しまれています。

三島広小路の手前で小さな源兵衛川をわたる。左の川端に時の鐘がある。元祖は寛永年間の鋳造で、三島宿の人気者であった。現在のは戦後昭和25年に再鋳されたものである。源兵衛川は湧水を集めたもので、川に沿って親水遊歩道が整備されている。

伊豆箱根鉄道の踏切の先は大きな五差路の三島広小路である。踏切のすぐ右が三島広小路駅で、ホームと線路の向こうに富士山がのぞいて見えた。三島の町は常にその北西の位置に富士山が控えていて、建物の隙間から頻繁に富士が顔を出す。三島の人たちにとって富士山は日常的風景なのである。三島は富士を借景にできる贅沢な町だ。

千貫樋・西見附跡 加屋町 三島市 静岡県
千貫樋・西見附跡 加屋町 三島市 静岡県

旧街道は広小路をまっすぐにわたって県道145号に移る。西本町を通り抜け加屋町の左手に小さな秋葉神社がある。階段をあがって振り向くと、ここからも富士が見えた。道路わきに「千貫樋・西見付跡」の石碑が立っている。新町橋からはじまった三島宿の終わりである。

千貫樋 加屋町/新宿 三島市/清水町・駿東郡 静岡県
千貫樋 加屋町/新宿 三島市/清水町・駿東郡 静岡県

伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。 創設については諸説があるが、天文24年(1555)今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。 この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高20……

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伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。 創設については諸説があるが、天文24年(1555)今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。 この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。 樋は、はじめ木樋であったが大正12年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。 千貫樋の樋名については 一、架設が巧なため銭千貫に価する。 二、この用水が高千貫の田地を潤している。 三、建設費が銭千貫を費した。 等が、命名の由来と伝えられている。 清水町教育委員会

道の反対側をのぞくと境川の細い流れがあって、その上をコンクリート製の樋が横切っている。境川はその名のとおり伊豆国と駿河国(三島市と清水町)の境をなしている。樋は「千貫樋」と呼ばれ、戦国時代に築かれたものである。

宝池寺一里塚 伏見 清水町 駿東郡 静岡県
宝池寺一里塚 伏見 清水町 駿東郡 静岡県

(清水町指定文化財指定番号) 1604年(慶長9)江戸時代、一里を36町(3927m)と定め、江戸日本橋を起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。向かい側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に『伏見一里塚』といわれ、江戸日本橋から29番目にあたります。長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和60年多くの篤志により原寸どおり復元されました。また、宝池寺側には立場があり、人夫……

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(清水町指定文化財指定番号) 1604年(慶長9)江戸時代、一里を36町(3927m)と定め、江戸日本橋を起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。向かい側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に『伏見一里塚』といわれ、江戸日本橋から29番目にあたります。長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和60年多くの篤志により原寸どおり復元されました。また、宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であったと伝えられています。 平成17年8月 清水町教育委員会

玉井寺一里塚 伏見 清水町 駿東郡 静岡県
玉井寺一里塚 伏見 清水町 駿東郡 静岡県

(清水町指定文化財) 江戸から29里(113.9km)を示す道標です。 一里塚は、慶長9年(1604)江戸幕府によって、五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に作られました。 それは、1里(3927m)ごと、道の両側に5間(約9m)四方に10尺(3.03m)の盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。 宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和60年(1985)……

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(清水町指定文化財) 江戸から29里(113.9km)を示す道標です。 一里塚は、慶長9年(1604)江戸幕府によって、五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に作られました。 それは、1里(3927m)ごと、道の両側に5間(約9m)四方に10尺(3.03m)の盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。 宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和60年(1985)に改修れています。 この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しています。 付記 塚原一里塚は28里 山王さんのものは30里を示す。 平成16年8月 清水町教育委員会

新宿で江戸末期に造られた姿よい常夜燈をみて、八幡交差点で国道1号をよこぎる手前、伏見と八幡の境界に江戸から29番目の伏見一里塚が現れる。道の両側にあるが、別々の寺の境内に属し、右側は玉井寺(ぎょくせいじ)に、左の新しい復元塚は宝池寺(ほうちじ)にある。玉井寺の後ろには富士が控えている。

対面石 八幡神社 八幡 清水町 駿東郡 静岡県
対面石 八幡神社 八幡 清水町 駿東郡 静岡県

治承4年(1180)10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。 たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。 すると、後に芽を出し、二本はは幹をからませ……

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治承4年(1180)10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。 たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。 すると、後に芽を出し、二本はは幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会

八幡交差点から300mほどいった右手に八幡神社があって、境内の奥のほうに源頼朝・義経兄弟の対面石なるものが安置されている。治承4年(1180)10月、源頼朝が富士川のあたりで平家軍と対峙したとき、、弟の義経が奥州平泉から駆けつけ、涙の対面を果たした。これが義経悲劇の始まりである。やがて義経は同じ奥州平泉で兄頼朝に殺された。

黄瀬川 沼津市/清水町 静岡県
黄瀬川 沼津市/清水町 静岡県
松並木 長沢 清水町 駿東郡 静岡県
松並木 長沢 清水町 駿東郡 静岡県

長沢の松並木をすぎると黄瀬川をわたり沼津市にはいる。黄瀬川橋からの富士山も美しかったが、若山牧水が三島の文学碑でぼやいていたように、愛鷹山がだんだん目障りになってきた。

沼津

亀鶴之碑(潮音寺) 大岡 沼津市 静岡県
亀鶴之碑(潮音寺) 大岡 沼津市 静岡県

(前略)黄瀬川村に小野善司左工門政氏なる長者あリ 一子なきを悲しみ、祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。 七才の春両親に死別、十八才の時、源頼朝公富士の牧狩の宴に、再度召されたが応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の瀧のほとりに立ち、 み佛の深きめぐみぞ頼みなる、 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも。 と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。 この時建久四年(1193)五月二十七日なり。姫は駿河……

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(前略)黄瀬川村に小野善司左工門政氏なる長者あリ 一子なきを悲しみ、祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。 七才の春両親に死別、十八才の時、源頼朝公富士の牧狩の宴に、再度召されたが応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の瀧のほとりに立ち、 み佛の深きめぐみぞ頼みなる、 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも。 と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。 この時建久四年(1193)五月二十七日なり。姫は駿河の三美人と云われ賢女にして、亀鶴草紙等を残す。 以下略 木瀬川自治会

黄瀬川 沼津 広重「東海道五十三次」
黄瀬川 沼津 広重「東海道五十三次」

黄瀬川橋を渡ってしばらく行くと、右手に潮音寺があり、境内に「亀鶴之君碑」がある。土地の長者の一人娘で、曽我兄弟が討ち入ったとき工藤祐経と床をともにしていた白拍子だそうだ。美人だったそうである。

まっもなく街道は旧国道1号(県道380号)に合流する。民家の庭先をかりて「従是西 沼津領」と刻まれた傍示石がたっていた。

西友の先の二股で旧道は左にはいる。黒瀬橋架橋をくぐったところの左手に平作地蔵がある。「日本三大仇討ちの一つ」と題して山王前自治会による絵入りの説明板があった。読んでもよく分からなかった。標識などはないが、このあたりが沼津宿の東口だったようだ。

一里塚 平町 沼津市 静岡県
一里塚 平町 沼津市 静岡県

(江戸時代初期・江戸から30里) 前略 この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺及び宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内につくるものを宿場内であるために東方に寄せて、日桟神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に31里目、原地内に32里目……

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(江戸時代初期・江戸から30里) 前略 この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺及び宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内につくるものを宿場内であるために東方に寄せて、日桟神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に31里目、原地内に32里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。 ここには、終戦直後まで榎が威容を誇つていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。 平成10年11月 沼津市教育委員会

平作地蔵からすぐ先右手の角地に30里目の一里塚がある。塚には葉をすっかり落とし枝を払われて丸裸になった榎が立っている。同じ敷地内に「玉砥石」なるものが2つ並べてあった。奈良時代に玉類を磨くために用いられた砥石だそうで、よくみるといずれにも直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたのだという。珍しいものを見た。

狩野川 沼津市 静岡県
狩野川 沼津市 静岡県

再び旧国道と合流、三園橋交差点の先で左に「旧東海道 川廓通り」の道標がある小路に入る。川廓の由来が記されている。沼津宿船着場として栄えた場所だ。

川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東川は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名付けられたものと考えられる。

沼津城本丸跡 沼津市 静岡県
沼津城本丸跡 沼津市 静岡県

この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。 三枚橋城は、天正7年(1579)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ケ原合戦後の慶長6年(1601)には大久保治右衛門忠佐が城主になりました。しかし、同18年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌19年、三枚橋城は廃城となりました。 以後160余年の間当地に城はありませんでした……

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この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。 三枚橋城は、天正7年(1579)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ケ原合戦後の慶長6年(1601)には大久保治右衛門忠佐が城主になりました。しかし、同18年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌19年、三枚橋城は廃城となりました。 以後160余年の間当地に城はありませんでしたが、安永6年(1777)、後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さなものでした。 慶応4年(1868)水野氏の菊間(現千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが、明治4年(1871)の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました。 この石碑の周囲の石は、昭和48年に上土町の静岡相互銀行(現静岡中央銀行)新築工事の際に地中から発掘されたもので、三枚橋城当時の石垣に使われていたものです。 平成14年9月 沼津市教育委員会

通りのなかほどで、右の石段をあがると沼津城本丸跡の中央公園に出る。沼津城は安永6年(1777)水野忠友が築いたものだが、その前身は天正7年(1579)、武田勝頼が築城した三枚橋城であった。今は石垣に使われていた石が石碑を取り囲んでいるだけである。

旧沼津宿鍵の手 通横町・本町 沼津市 静岡県
旧沼津宿鍵の手 通横町・本町 沼津市 静岡県この地は、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継ぎ立てでにぎわったところである。問屋場の裏には白壁瓦葺の大きな土蔵があっていたという。南北に走る上土町の通りと本町の通りとを東西に横に通している町の意から付けられた町名といわれている。

川廓通りをぬけ、さんさん通りを南下し、御成橋通りを右折して、次の交差点を左折する。つまり沼津宿の鍵の手で、短い東西の区域を通横町といって、問屋場がおかれた宿場の中心地であった。今はすべてが新しい商店・オフィス街で、昔の面影は皆無である。

千本浜 沼津市 静岡県
千本浜 沼津市 静岡県

新町で右折する。浅間神社の鳥居がある交差点を越えると出口町で、町名が示すようにここに沼津宿の西見付けがあった。平作地蔵のあたりの東口からここまで、いくつかの案内板はみかけたものの情緒の感じられない町並みである。

交差点を左におれ、千本浜通りをゆく。すぐ右手の乗運寺には若山牧水の墓がある。旅を愛した漂白の詩人若山牧水は宮崎県の生まれ。大正9年に沼津に居を構え、昭和3年この地に没した。千本浜に記念館がある。

千本松原 沼津市 静岡県
千本松原 沼津市 静岡県日に三度來り來飽かぬ松原の松のすがたの靜かなるかも 若山牧水
千本浜 沼津市 静岡県
千本浜 沼津市 静岡県松原のしげみゆ見れば松が枝に木がくり見えてたかき富士が嶺 若山牧水

千本松原にでる。防風林として長年潮風を一身に受けて、松林全体が陸側になびいている。富士海岸の砂浜でたわむれる家族連れが多かった。松林の向こうの愛鷹山の後ろに白く輝く秀麗な富士の峰が浮かぶ。牧水はこの松林の一角に土地を買って家を建てた。この風景を毎日のように眺めていたのであろう。

街道にもどって西へ進む。西間門交差点で旧国道1号と斜めに交差して県道163号を直進する。片浜駅前をすぎて今沢地区の落ち着いた町並みを通り抜け、踏切をわたって原宿にたどり着く。

松蔭寺 原 沼津市 静岡県
松蔭寺 原 沼津市 静岡県

白隠禅師は、駿河国原宿(現在の沼津市原)長沢家の三男として貞享2年(1685)12月25日の仕舞天神の日、丑の年、丑の日、丑の刻に生まれ、名を岩次郎といった。 15歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴と名づけられた。十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに5百年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。 禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存さ……

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白隠禅師は、駿河国原宿(現在の沼津市原)長沢家の三男として貞享2年(1685)12月25日の仕舞天神の日、丑の年、丑の日、丑の刻に生まれ、名を岩次郎といった。 15歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴と名づけられた。十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに5百年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。 禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。また「駿河に過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。 以下略 昭和56年11月30日 静岡県 沼津市 教育委員会

浮島ヶ原 原 広重「東海道五十三次」
浮島ヶ原 原 広重「東海道五十三次」

原宿のキーワードは白隠禅師と浮島である。宿場にはいるや左手に松蔭寺がある。簡素ながら趣ある山門をくぐると、寺名が示すとおり境内には年輪を重ねた老松が多くみられる。その中のひときわ高い松の木の梢に妙なものがひっかかっている。白隠禅師が懇意にしていた備前の池田氏からもらった備前焼のすり鉢を、台風で裂けた松の木にかぶせたものが、そのままに育ったものだという。備前焼はその後保管され、かわりに京焼の鉢がかぶせられた。高所にあるうえ松の枝葉に隠れて、限られたアングルからでしか下から鉢をみることはできない。写真は200mm望遠で撮ったもの。

白隠禅師誕生地 原 沼津市 静岡県
白隠禅師誕生地 原 沼津市 静岡県(前略)現地は母妙遵の生家屋号味噌屋の地でのち父宋いが分家して沢だか屋を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。

松蔭寺のすぐ先左手に「白隠禅師生誕地」の石碑が建っている。禅師の母親の生家で味噌屋を営んでいたらしい。禅師が使ったという産湯の井戸が瓦屋根の下に保存されている。

原交番の交差点をこえたところ、原浅間神社の前に原宿の碑と絵入りの「原宿と浮島マップ」が建っている。旧街道の北側を併走する国道1号の向こう側にはかって浮島ヶ原とよばれる湿地帯が広がっていた。案内板にも野鳥や水鳥の絵があって、是非寄ってみたいと思ったが、手元の地図には「沼川」、「平沼」、「浮島小」、「浮島中」の名前をみつけたが、沼らしき印は見当たらない。おそらくこの案内板が建って以降、農地・宅地の開発でもう跡形もなくなってしまったのだろう。

原宿本陣跡(渡辺家)原 沼津市 静岡県
原宿本陣跡(渡辺家)原 沼津市 静岡県

原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至ってる。 原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。明治維新後、明治元年(1868年)10月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邉平左衛門家で「御小休」をされ、その後も巡幸され「御昼」をされた記録も有る。昭和20年の敗戦前まで『明治天皇行……

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原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至ってる。 原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。明治維新後、明治元年(1868年)10月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邉平左衛門家で「御小休」をされ、その後も巡幸され「御昼」をされた記録も有る。昭和20年の敗戦前まで『明治天皇行在所』と記された標柱が現在地に整備され立っていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6、600坪の広大な規模であった。

案内板からすぐ先の道向かいにある渡邉家が原本陣である。源頼朝・義経兄弟阿野全成の末裔という由緒ある家系で、代々原宿の問屋、名主等を勤めてきた。明治天皇行在所にもなった名家である。入口前に標柱があるだけで本陣の建物等は残っていない。

原駅前交差点をすぎたところで、文化元年(1804)創業で山岡鉄舟が命名したという銘酒「白隠正宗」で知られる高嶋酒造を左にみて、一路西に進む。

旧浮島ヶ原 原 沼津市 静岡県
旧浮島ヶ原 原 沼津市 静岡県

沼川放水路に沿って国道の方へ寄ってみた。まだ、北のほうに浮島ヶ原を彷彿させる風景が残っているのではないかという望みを捨て切れなかった。沼川とその放水路系は低湿地の名残を思わせる。国道を横切っても視界に沼沢らしきものは捕らえられなかった。土地造成地のなかにかろうじて水田が残っている程度である。その背景にはなだらかな愛鷹山麓の上にそびえる白富士があった。人物こそいないが広重の絵に最も近い風景ではないかと思われる。

一里塚跡 東一本松 原 沼津市 静岡県
一里塚跡 東一本松 原 沼津市 静岡県東海道原宿 一里塚跡 (前略)ここでは街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない。

街道にもどり、「沼津自動車検査場」の標識がある信号手前に一里塚跡の標柱がある。解説パネルにあるように「現在は宅地化されてその面影はない。」

桃里に浅間愛鷹(あしたか)神社がある。その鳥居のそばに「改称記念碑」が立っている。浮島ヶ原の開拓に尽力した鈴木助兵衛の名をとって、このあたりの土地は助兵衛新田とよばれていたが、明治になって鈴木家からの申し出により、地名を助兵衛新田から桃里に改称された。

東海道本線・桃里東踏切 桃里 沼津市 静岡県
東海道本線・桃里東踏切 桃里 沼津市 静岡県

そろそろ日が傾いてきたので、急遽夕日を撮るために浜に出ることにした。桃里東踏切を渡った直後にタイミングよく警報がなった。振り返ると富士がこれから赤みを増そうとしているところだった。踏切・電車+富士山、というおいしそうな一枚が撮れた。

駿河湾落日 桃里 沼津市 静岡県
駿河湾落日 桃里 沼津市 静岡県
駿河湾・伊豆半島眺望 桃里 沼津市 静岡県
駿河湾・伊豆半島眺望 桃里 沼津市 静岡県

浜にはまだ千本松原が続いている。駿河湾の左方向には伊豆半島の山並みが低く延びている。右側の湾曲は田子の浦だ。その端に橙色の日が落ちようとしていた。遠浅の砂浜にときおり高波がおしよせ、夕日の中にしぶきをあげる。日が沈みきるまでそこに休んだ。

吉原

左富士 吉原 広重「東海道五十三次」
左富士 吉原 広重「東海道五十三次」
柏原本陣跡 西柏原新田 富士市 静岡県
柏原本陣跡 西柏原新田 富士市 静岡県

旧東海道は踏切を越えて東海道本線の南側に移り沼津市から富士市にはいっていく。東柏原交差点で千本松原沿いに走ってきた千本街道(県道380号)に合流。

東田子の浦駅の南側に原宿と吉原宿の間宿があった。立場茶屋では、ちかくの浮島沼でとれたウナギが名物だった。ビジネスホテル柏屋の駐車場端に「間宿柏原・本陣跡」の標柱が建っている。

望嶽の碑(立圓寺) 西柏原新田 富士市 静岡県
望嶽の碑(立圓寺) 西柏原新田 富士市 静岡県文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを賞賛している。 右側は昭和54年(1979)10月19日台風20号に遭遇し立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられたゲラティック号遭難碑

その先右手の立円寺(りゅうえんじ)境内に望嶽の碑がある。尾張藩の侍医がここから眺める富士山を賞賛して建立した。少しでも近くからと、墓地まではいって富士を見たが民家の屋根に景観を邪魔されて、けっきょく寺の塀越しに見た富士のほうがましだった。

昭和放水路・富士山 広沼橋より 沼田新田 富士市 静岡県
昭和放水路・富士山 広沼橋より 沼田新田 富士市 静岡県天保7年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年(1869)の春で、人々は「スイホシ」と呼んだ。 以下略 平成6年3月 富士市教育委員会
一里塚跡・増田平四郎像 広沼橋南西袂 沼田新田 富士市 静岡県
一里塚跡・増田平四郎像 広沼橋南西袂 沼田新田 富士市 静岡県浮島沼の干拓に生涯を捧げ、「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を行なった人。現在はその跡に ができている。 この付近に江戸から33里の一里塚があったという。

柏原宿をあとにして広沼橋で昭和放水路をわたる。江戸時代、浮島沼を干拓した増田平四郎が、昭和放水路と同じ場所に排水路を築いていたが、完成後まもなく高波におそわれて跡形もなく破壊されてしまった。橋をわたった左手の林の中に、33番目の一里塚跡と、増田平四郎の像がある。

右手には富士が付き添っている。よくみると笠をかぶっているようで、天気が下り坂にさしかかっているようだ。

旧東海道はこの先、檜交差点で県道380号と分れ、海岸よりの旧道(県道170号)にはいる。このあたりの海岸が万葉集の歌でしられる田子の浦である。

田子の浦ゆ、うち出でて見れば、真白にそ、富士の高嶺に、雪は降りける 山部赤人

田子の浦 大野新田 富士市 静岡県
田子の浦 大野新田 富士市 静岡県

清水以来延々と続いてきた千本松原は田子の浦でも健在で、松葉をふみしめるやわらかい感触は快い。しかし堤防に上って愕然とした。落日とたわむれた桃里の浜は足裏にしみこむような砂浜であったのに、わずかに西の田子の浦は消波ブロックが積みならべられた資材置き場と化している。この無粋さはなんとしたことだろう。振りかえっても松林が近すぎて真っ白な富士の高嶺は見えなかった。かわりに白い煙がもうもうと立っている。

元吉原公民館の前を通って街道にもどる。もともと吉原宿はこのあたりにあった。津波で破壊され、中吉原-新吉原と内陸へ二度も移し替えられた。妙法寺毘沙門天の前にある立場旅館がわずかに元吉原宿の面影をのこしているようであった。

河合橋南西袂 鈴川本町 富士市 静岡県
河合橋南西袂 鈴川本町 富士市 静岡県

吉原駅の東側で踏切を渡る。正面に日本製紙の工場正門が構えている。さっきの煙の主である。旧道は線路沿いに左にまがり、駅の北口で右にまがって海岸から離れていく。河合橋袂の駐車場舎が情緒ある建物だった。規則正しく3列にならんだ屋根と、板壁に切られた窓の雰囲気からみて、かっての製紙工場の一部ではないかと想像した。

沼川・日本製紙 河合橋より東南方面 今井4丁目 富士市 静岡県
沼川・日本製紙 河合橋より東南方面 今井4丁目 富士市 静岡県

橋から沼川越しにみる日本製紙の大煙突と白煙は、地球温暖化の権化にみえる。富士川河口は製紙業を中心とする工場地帯である。

河合橋を渡り二股を左にとって国道139号と合流する。すぐに国道139号を左に分けて国道1号、新幹線のガードをくぐり、県道171号にはいっていく。ようやく工場煙突から解放されて街道筋らしい旧中吉原宿の家並みにはいってきた。

左富士 依田橋町 富士市 静岡県
左富士 依田橋町 富士市 静岡県

東海道を東から西へ行くとき、富士はいつも右手に美しい姿を見せますが、ここだけは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。 浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまこ……

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東海道を東から西へ行くとき、富士はいつも右手に美しい姿を見せますが、ここだけは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。 浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る1本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。 昭和61年2月1日 富士市教育委員会

左富士神社があるこのあたりから西方にかけて、寛永17年(1640)元吉原宿が移転してきた。この地点は道が大きく右に曲がっているために、京に上る旅人が普段右にみる富士が進行方向に向かって左にみえるのである。茅ヶ崎以来の左富士である。それだけのことで、名所になった。

すこし進むと一本松と左富士の碑が建っている。広重はここを吉原宿の浮世絵スポットに選んだ。あいにく曇が厚くなってきて何も見えなかったが、晴れていれば平屋工場の屋根の上に富士山が立っているはずであった。広重の絵では街道の左右は水田か沼地のようである。

平家越 和田川・平家越え橋 依田橋町 富士市 静岡県
平家越 和田川・平家越え橋 依田橋町 富士市 静岡県治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。この羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行なわれたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。

ふたたび工場地帯をぬけて和田川にさしかかる。橋の名が「平家越え橋」。橋の袂に碑が建っている。源平が富士川をはさんで対峙したとき、水鳥の羽音に驚いた平家軍は戦わずして逃走したのが、この辺りだといわれている。富士川まではまだ数キロあるが、広い意味で「富士川の合戦」と呼んでいる。

橋をわたったあたりから新吉原宿が始まっていた。中吉原宿も延宝8年(1680)の大津波で全部流され、2年後の天和2年(1682)宿場はここに移ってきた。芭蕉は野ざらし紀行(1684年)で、まだできたばかりの新しい吉原宿を通り過ぎたことであろう。

岳南鉄道 吉原本町駅 吉原1丁目 富士市 静岡県
岳南鉄道 吉原本町駅 吉原1丁目 富士市 静岡県

岳南鉄道の踏切を一両の電車が通っていった。そこから吉原本町通りはアーケード商店街となる。まもなく左手の空き地に丸まった自然石の明治天皇御小休所碑がある。普通は宿場時代の本陣が使われる例が多いが、ここは吉原本陣跡でもなく高砂館跡だと記されている。高砂館がどんな建物だったのか知るすべはない。

本陣はともに街道の右側で、下本陣が長谷川八郎兵衛(コンドウ薬局)で、上本陣は神尾六左衛門(富士見会館)が勤めた。富士見会館はパチンコ店である。「まちの駅」で入手した吉原宿歴史探訪マップと照らし合わせて脇本陣跡をたずねてみるが、いずれも現在の該当地にある店名を探し当てるのがやっとの体だった。

街道の南側に、野口祖右衛門脇本陣跡(野口カメラ店)、下本陣コンドウ薬局向かいあたりに四ツ目屋杉山平左衛門脇本陣跡(おもちゃのキムラ)、上本陣パチンコ向かいにある南岳堂菓子舗が銭屋矢部清兵衛脇本陣跡。北側に移って、コンドウ薬局の先に扇屋伊兵衛脇本陣(オオイカメラ店)と問屋場跡(やなせメガネ)とが隣接している。

鯛屋旅館 吉原2丁目 富士市 静岡県
鯛屋旅館 吉原2丁目 富士市 静岡県

鯛屋旅館は、天和2年(1682)から創業し、320年余りの歴史を刻んでいます。東海道の中で、近江八幡の薬屋さんと吉原の鯛屋旅館の二つだけが当時の場所で当時の商いを続けています。また、清水次郎長・山岡鉄舟の常宿としても知られ、旅館にはその歴史を感じさせるものが幾つか残されています。『吉原本宿』は、鯛屋旅館の歴史とともに育まれた宿場の再生を願う地元の想いが叶い、誕生しました。 「吉原本宿」パンフレット……

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鯛屋旅館は、天和2年(1682)から創業し、320年余りの歴史を刻んでいます。東海道の中で、近江八幡の薬屋さんと吉原の鯛屋旅館の二つだけが当時の場所で当時の商いを続けています。また、清水次郎長・山岡鉄舟の常宿としても知られ、旅館にはその歴史を感じさせるものが幾つか残されています。『吉原本宿』は、鯛屋旅館の歴史とともに育まれた宿場の再生を願う地元の想いが叶い、誕生しました。 「吉原本宿」パンフレットより

そんな中で、天和2年創業という老舗旅館鯛屋與三郎が唯一宿場時代の面影を伝えている。天和2年といえば新吉原宿ができた年である。清水次郎長や山岡鉄舟が常宿としていたという。間口は狭いが町家特有の細長い造りになっていて、一歩中にはいると通路に宿札がずらりとならべてある。探訪マップにある鯛屋旅館の紹介文に、気になる一文があった。

「東海道の中で、近江八幡の薬屋さんと吉原の鯛屋旅館の二つだけが当時の場所で、当時の商いを続けています」

そもそも近江八幡は東海道に沿っていない。薬を商う近江商人といえば八幡や五個荘でなくて、日野であろう。そんな疑問から吉原本宿事務局に問い合わせてみた。鯛屋旅館の若主人らしき人がでてきて、かって鯛屋旅館に泊まった身延山参詣者のなかに、そんなことを言った人がいた、というだけのことで、薬屋の名前も、東海道のどこかも知らなかった。根拠のある話ではなさそうだ。東海道沿いの近江の薬屋といえば、栗太郡六地蔵村梅木の和中散ではあるまいか。

吉原宿 吉原3丁目・中央町1丁目 富士市 静岡県
吉原宿 吉原3丁目・中央町1丁目 富士市 静岡県

吉原宿は江戸から数えて東海道14番目の宿場町である。しかし、度重なる津波や高潮の被害により三度所替えをし、現在の地となった。延宝8年(1680)8月の大津波でかっての吉原宿(現在の富士市依田原・通称「中吉原宿」が大被害を受けると、直ちに所替えの準備にかかり、幕府の許可を得て、北方のこの地を選び天和2年(1682)に所替えをした。東の木戸を旧日産自動車西門の辺りとし、西は小潤井川の四間橋とした。(中……

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吉原宿は江戸から数えて東海道14番目の宿場町である。しかし、度重なる津波や高潮の被害により三度所替えをし、現在の地となった。延宝8年(1680)8月の大津波でかっての吉原宿(現在の富士市依田原・通称「中吉原宿」が大被害を受けると、直ちに所替えの準備にかかり、幕府の許可を得て、北方のこの地を選び天和2年(1682)に所替えをした。東の木戸を旧日産自動車西門の辺りとし、西は小潤井川の四間橋とした。(中略) 新しい吉原宿の町割りの基点として、天満宮(天神社)を鬼門に当たる場所に設けたが、神社も寺院もみな中吉原宿から所替えをしたという。また、再建のため家の材木には富士山の風損木を利用した。その後吉原宿は本陣二軒、脇本陣4軒に加え、百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。

静岡銀行の角に吉原宿の説明がある。その角を左折し妙祥寺の題目碑がある二つ目の辻を右におれて県道2号で西口木戸跡に向かう。途中みかけた「だんご処たむら屋」は石蔵造りの風情あるたたずまいである。

吉原宿をあとにして、街道はわずかに国道139号に合流したあと、錦町交差点で一筋西にずれて再び旧街道に入る。入口に「旧東海道跡」碑と説明板が設けられている。

昭和41年、富士、吉原、鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。この西側に東海道の碑が置かれ平成13年東海道400年祭に因み今のように改修されました。砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350m青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。 吉原地区まちづくり推進会議

住宅街をすすむと左手に青島八幡宮神社、別称「磔八幡」があり入口には大きな立て札に漫画入りの由緒書きがある。過酷な検地を拒んで磔になった青島村の名主が祀られている。街道は県道353号と396号が交叉する高嶋五差路に出る。県道396号を西にとって100mほど数sんだところで右の路地に入りすぐに左におれて富安橋で潤井川を渡る。

本市場(もといちば)宿 本市場 富士市 静岡県
本市場(もといちば)宿 本市場 富士市 静岡県この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わいました。霊峰富士を讃えた が近くに建てられています。本市場の名物として白酒、葱雑炊、肥後ずいき、などが知られ、広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。

しばらく歩くと静岡県富士総合合同庁舎があり、隣に「間の宿・本市場(もといちば)」の碑が建っている。吉原と蒲原宿の間は11km余もあって、途中の景勝地に立場が設けられ茶屋で旅人は足を休めた。すぐ先にあった鶴の茶屋から眺める雪の富士は、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えて、その奇観をたたえた碑、「鶴芝の碑」が建てられている。

一里塚 本市場 富士市 静岡県
一里塚 本市場 富士市 静岡県

街道は広い道路を中央分離帯のため迂回してわたり、すぐ県道396号を斜めに横切って旧道にはいる。しばらく忘れていた巨大な煙突と立ちのぼる白煙の醜景が突如目の前に復活する。今度は王子製紙だ。

道が右にカーブするあたりのバス停横に「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑がある。見慣れた定型文の説明板もなく、ただ自然石がポツンと置いてあるのもかえって新鮮味が感じられた。

常夜灯と道標 松岡 富士市 静岡県
常夜灯と道標 松岡 富士市 静岡県秋葉山常夜燈は慶応元年(1865)に建てられ、総高143cmある。その傍らには「左東海道」と刻まれた道標が置かれている。

道なりに西進して身延線柚木駅の手前で再び県道396号と合流する。身延線高架をくぐり「橋下」六差路交差点をわたり県道396号を直進する。次の信号で右に入る旧道があり、角に松茸のようなずんぐりした秋葉山常夜燈と「左東海道」の古い道標がある。二つ目の辻を左折し道なりにすすむとまもなく陸橋の下で県道396号にもどる。

富士川渡船場跡 松岡 富士市 静岡県
富士川渡船場跡 松岡 富士市 静岡県

緑色の富士川鉄橋を前にして、唐突に明治天皇御小休所跡の石碑が立っている。傍の石碑文を読むと、天皇巡幸に際して富士川橋梁までもが架け替えられたという。江戸時代はもちろん橋などなく、富士川の急流を船で渡った。その渡し場跡付近に水神社があり、境内には渡し場跡碑、常夜燈、道標、庚申塔などが集まっている。

民家の庭先を通って堤防に出る。富士川の流れは堰止めされて東西の岸寄りに誘導されている。渡し場は三ヶ所あって、ながれの状況によっていずれかを決めていた。

芭蕉が野ざらし紀行で富士川のほとりに捨て子を見つけたのはこの辺りか。一句を詠んだ後、食べ物を投げ与えて通り過ぎた。アフリカで餓死寸前の少女をじっとみつめる禿たかの写真でピューリツアー賞を受賞した報道カメラマンのことを思い出した。後日、なぜ彼は子供を救わなかったのかと、道徳家から非難を浴びた。戦場カメラマンがいちいち負傷した兵士に構っていたら仕事にならない。富士川のエピソードが事実であれ創作であれ、芭蕉はこの旅で蕉風を確立することにのみ関心があった。

野ざらし紀行

富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。

蒲原

夜の雪 蒲原 広重「東海道五十三次」
夜の雪 蒲原 広重「東海道五十三次」
渡船「上り場」常夜燈 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
渡船「上り場」常夜燈 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県

慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行なわれました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。 「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。 平成2年2月1日 富士川町……

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慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行なわれました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。 「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。 平成2年2月1日 富士川町教育委員会

橋を渡ると間の宿岩淵である。岸を少し上流に行くと渡船場跡に灯台がわりの常夜燈と角倉了以の石碑がある。角倉了以は京都の豪商で、幕府の命により富士川を開削して甲州鰍沢河岸までの船運を開いた。

当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、上り荷は「塩」などの海産物が鰍沢で陸揚げされ、「鰍沢塩」として甲州さらには信州まで運ばれた。最上川、球磨川にならぶ日本三大急流の富士川を船で遡上することは不可能で、鰍沢から岩淵まで半日で下ってきた船は、帰りは縄をつけて船頭たちが引っ張りながら4、5日かけて上っていったという。どれほどの塩を運べたものか、気が遠くなりそうな景色である。

富士川より富士山眺望 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
富士川より富士山眺望 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
富士川より富士山眺望 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
富士川より富士山眺望 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県

ここから富士川越しにながめる富士山が、ときには川面に逆さ富士も写って美しいとされている。残念ながら雲が多くてすっきりした富士を見ることができなかった。レンズを望遠に替えてしばらく休憩。晴れた一瞬をねらったが、やはり川の写っていない富士はおもしろくない。

常盤家小休本陣 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
常盤家小休本陣 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県

江戸時代、東海道の宿泊は、53次の宿場のみと定められていましたが、間の宿岩淵には、富士川の渡船待ちもあって、特に小休本陣がおかれていました。常盤家は、江戸時代後期に三軒あった小休本陣のうち、現在まで残った一軒です。現存する建物は、1854年の安政の地震後に再建されたもので、国の有形登録文化財となっています。前庭の槇の木は町指定文化財。 1703年の宝永の地震に際して、それまでの岩淵宿が壊滅したため……

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江戸時代、東海道の宿泊は、53次の宿場のみと定められていましたが、間の宿岩淵には、富士川の渡船待ちもあって、特に小休本陣がおかれていました。常盤家は、江戸時代後期に三軒あった小休本陣のうち、現在まで残った一軒です。現存する建物は、1854年の安政の地震後に再建されたもので、国の有形登録文化財となっています。前庭の槇の木は町指定文化財。 1703年の宝永の地震に際して、それまでの岩淵宿が壊滅したため、現在地に移転しました。 「逢の宿岩淵」散策マップより 富士川観光ガイド協会

県道10号の西側にのこる旧道のなかほど、「善魚」鮮魚店の横から坂道を登っていく。生垣、植え込みがうつくしい家並みをながめながら、はっきりと残る鍵の手をすぎた右手に小休本陣常盤邸がある。江戸末期の建物で黒板塀に医薬門が端正なたたずまいを見せている。

一里塚 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県
一里塚 岩淵 富士川町 庵原郡 静岡県(前略)この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。この地は、岩淵村と中之郷村の村境で、付近には岩淵名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯れ死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えたものである。 昭和61年12月5日 富士川町教育委員会

道は県道188号に合流して南に下り、突き当たりを直角に右折する角に江戸から37番目の見事な岩淵一里塚が現存している。特に右側の榎は初代のものだそうだから樹齢は400年ちかくという貴重な巨木である。

突き当りの路地をはいったところに茅葺の歴史民俗資料館があるのでよってみた。稲葉家という農家を復元したものである。軒下においてある大きな樽が印象深かった。なんの樽だろう。

明治天皇御駐輦之址 小池 中之郷 富士川町 庵原郡 静岡県
明治天皇御駐輦之址 小池 中之郷 富士川町 庵原郡 静岡県

街道は中之郷を南下し、富士川郵便局の手前の十字路で右に折れていく。東名高速道路をくぐり左折する。宮町を通り抜け新幹線をくぐって小池地区に入る。山裾にそった静かな里の風景のなかを歩いていくと、民家の庭に明治天皇御駐輦之址の石碑が建っている。全国に散在する明治天皇行幸の跡はまさに旧街道の頼もしい証である。泊まったり、休んだり、水を飲んだり、時には田植えのパフォーマンスをしたり。今は廃道となった峠道にも直立不動の石碑は明治天皇の足跡を守っている。

中之郷集落・富士眺望 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県
中之郷集落・富士眺望 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県

旧道は左下方を走る東名高速道路に接近する。富士川町中之郷から静岡市清水区蒲原にはいったところで、右手にいかにも古道の雰囲気を漂わせる土道がのびている。右のほうへはいっていったが、どうやら山裾の畑につながっている農道のようだった。そこから中之郷集落と遠景の雲の上に浮かぶ富士山の絶景を眺めることができた。

新坂橋より富士山中眺望 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県
新坂橋より富士山中眺望 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県

200mほど高速道路に沿ってすすんだ後、陸橋(新坂橋)で反対側にわたる。東名高速の北側真正面に富士山が切り通しを塞ぐように立ちはだかっていた。箱根以来、東海道はどこまでも富士山である。

新坂橋を渡ると急な下り坂となり、正面に駿河湾が見えてくる。民家の塀に丸太板に書かれた新坂の説明板が掛けられている。

(旧東海道)

この峠は天保14年(1843年)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した 旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った 是より新坂

源義経硯水 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県
源義経硯水 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県

義経硯水ト浄瑠璃姫 硯水ノ五輪ノ墓ハ調べニヨレバ鎌倉期前ノ形状ヲ保ッテイル。硯水菩提所ハ蒲原氏4代範秀ガ応保2年(1162)造る。義経奥州行キノ途中ニ風雨デ波荒ク吹上浜ニ上陸シ蒲原氏吹上館ニ宿ル。義経再ビ旅立ニアタリ蒲原神社ヘ祈願文奉納ノタメ硯水ノ湧水ノ浄水ヲ使フ。其ノ後姫ヘ便リヲ書ク。其ノ時ヨリ義経硯水ト称ス。姫 義経ノ便リヲ見テ侍女十六夜ト共ニ旅立ツ。蒲原ニタドリ着イタガ疲レト失望ニ病ニ倒レル……

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義経硯水ト浄瑠璃姫 硯水ノ五輪ノ墓ハ調べニヨレバ鎌倉期前ノ形状ヲ保ッテイル。硯水菩提所ハ蒲原氏4代範秀ガ応保2年(1162)造る。義経奥州行キノ途中ニ風雨デ波荒ク吹上浜ニ上陸シ蒲原氏吹上館ニ宿ル。義経再ビ旅立ニアタリ蒲原神社ヘ祈願文奉納ノタメ硯水ノ湧水ノ浄水ヲ使フ。其ノ後姫ヘ便リヲ書ク。其ノ時ヨリ義経硯水ト称ス。姫 義経ノ便リヲ見テ侍女十六夜ト共ニ旅立ツ。蒲原ニタドリ着イタガ疲レト失望ニ病ニ倒レル。館ノ主ニ救ハレ館地内ニ一堂ヲ与エラレ住居ス。幸セノ暮シノ中デ重キ病デ没ス。治承3年(1179)。十月二十六日姫ハ硯水菩提所ニ葬ラレル。其ノ後姫ノ住居ノ一堂ヲ菩提所ニ移シ寺トシ常楽寺トナル。町ノ地積ニ常楽寺ノ字名アリ。中学ノ所ニ明治初期ニ造ッタ姫ノ供養碑アリ。藤原南家出ノ蒲原氏九代、十代ハ一族入江氏ト共ニ南朝忠臣トシテ歴史ニ名ヲ残ス。地内ニ大供養碑アリ。碑面ハ長年ノ風雨ニ文字消ユ。 以下略

新坂を下りきったところから西方向に蒲原宿がはじまる。その前に左に折れて県道396号(旧国道1号)沿いにあるという義経硯水をみておくことにした。道路際に石柵にかこまれて小ぶりの松の木とともに後方に小さな五輪塔、前には御影石の石碑が並べてある。全体の造作は新しそうだ。浄瑠璃姫は、三河の国・矢作の長者の娘で、奥州下りの牛若丸と一夜の契りを結んだ。その後の悲恋話を琵琶法師が連綿と歌い継いできた。創作伝承のために建てられた供養碑である。蒲原中学校前の松林に浄瑠璃姫の墓と伝えられている石碑がある。いずれ岡崎宿で、姫の素性をたっぷりと検証してこよう。

蒲原宿にむかうと早々に赤い鳥居を構えた蒲原一里塚跡の祠がある。当初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、蒲原宿が山側に移替えられた時に街道ごと一里塚もこの場所に移された。

東木戸・常夜燈 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県
東木戸・常夜燈 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県

江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを 「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。 また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にあ……

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江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを 「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。 また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。 文政13年(1831)ものと考えられています。 静岡市

諏訪神社の前に小規模な桝形跡がのこっており、ここに蒲原宿東木戸跡の石碑、常夜燈、宿内案内板などが集中している。ここから始まる蒲原宿は今でも往時の面影を色濃く残し、連子格子・海鼠壁・土蔵など江戸末期から大正にかけての建物が多く残っている。それらを確かめながら宿場町を散策するだけで楽しい。そのなかでいくつかを紹介しよう。

佐野屋(佐藤家) 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県
佐野屋(佐藤家) 蒲原1丁目 清水区 静岡市 静岡県

なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家) 当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラス……

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なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家) 当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが相侯って、重厚感があふれています。 静岡市

まずは海鼠壁に塗り家造りの商家佐野屋である。案内札にあるように寄棟造りの屋根を宿場でみかけるのは珍しい。

「蒲原夜之雪」記念碑 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
「蒲原夜之雪」記念碑 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。 昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。 これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。 静岡市

その先を左に入っていくと蒲原宿を有名にした広重の「蒲原宿夜之雪」記念碑がある。昭和35年の国際文通週間の記念切手に採用されたことを記念して建てられた。広重の絵が蒲原宿のどこなのか、特に左端にみえる崖らしき地形はこの宿内には見当たらない。とにかくこのあたりの風景だろうといわれている。

旅籠和泉屋(鈴木家) 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
旅籠和泉屋(鈴木家) 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県当家は、江戸時代「灯影砿」という上旅龍でした。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。 今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅龍の面影を見ることができます。 弘化2年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。 静岡市
西本陣跡 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
西本陣跡 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅万旅籠です。 主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。 ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。 本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。 静岡市

街道に戻って右手に江戸時代の旅籠和泉屋(鈴木家)が美しい格子建築を見せている。特に二階の櫛形の手すりはなまめかしくも優美である。

その向かいは西本陣(平岡本陣)跡で、重層の屋根造りと黒々とした門塀が重厚な雰囲気を醸している。

磯部家住宅 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
磯部家住宅 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県

手づくりガラスと総欅の家(磯部家) 明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。 二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。 日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材とい……

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手づくりガラスと総欅の家(磯部家) 明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。 二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。 日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。 静岡市

比較的新しいガラス戸の多い磯部家は明治末期の建物で、総欅の美しさに加え、その手づくりのガラスこそが自慢であった。

旧五十嵐歯科医院 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
旧五十嵐歯科医院 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県

大正時代の洋館 旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物です。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板の白いペンキとあいまってモダンな息吹が感じられます。 大正3年、五十嵐準氏が自宅を3回にわたり洋風に改造し、歯科医院を開業しました。水道がなかった時代、井戸水をニ階の診療室まで通したポンプや配管も残……

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大正時代の洋館 旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物です。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板の白いペンキとあいまってモダンな息吹が感じられます。 大正3年、五十嵐準氏が自宅を3回にわたり洋風に改造し、歯科医院を開業しました。水道がなかった時代、井戸水をニ階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。 名医として知られ、当町在住の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。 平成12年10月11日に、国登録有形文化財に登録されました。静岡市

宿場もおわりちかくになって右手にモダンな建物が出てくる。町家を洋風に改築した五十嵐歯科医院の建物である。総二階の箱型建物に白ペンキとガラス窓で、すっかり洋風になる。

蔀戸のある家(志田家) 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
蔀戸のある家(志田家) 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県

志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は、「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型です。蔀戸(しとみど)とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は掛金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目……

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志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は、「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型です。蔀戸(しとみど)とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は掛金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締まりの役を果たしました。 平成13年9月14日に、国登録有形文化財に登録されました。 静岡市

最後は江戸末期の商家を残す志田家住宅である。蔀戸がみどころである。

異なった時代の建物がそれぞれ一点特徴付けるものをもって、宿場全体にうまく組み合わされている。展示会場としては一流のレイアウトではないかと感じ入った。

西木戸・茄子屋の辻 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県
西木戸・茄子屋の辻 蒲原3丁目 清水区 静岡市 静岡県

蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。 承応2年(一1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中……

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蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。 承応2年(一1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことでロ論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。 静岡市

金比羅踏切 蒲原4丁目 清水区 静岡市 静岡県
金比羅踏切 蒲原4丁目 清水区 静岡市 静岡県

突き当りを道なりに左におれて旧国道1号にでる。その交差点が西木戸跡で、宿場案内板や道順立て札が設けられている。ここで踏み切りの警報がきこえてきた。金比羅踏切で待機していると実直そうな貨物機関車が黙々とやってきた。蒲原は最後までもてなしの良い宿場だった。

なお、蒲原宿の最寄り駅は新蒲原駅で、蒲原駅は西木戸跡から2kmあまり行った所にある。その先東名高速をくぐり、二股で国道を分けて左の旧道をとり、神沢川をわたると庵原郡由比町に入っていく。

由比

薩埵峠 由比 広重「東海道五十三次」
薩埵峠 由比 広重「東海道五十三次」
神沢川酒造(正雪) 由比町 庵原郡 静岡県
神沢川酒造(正雪) 由比町 庵原郡 静岡県

すぐ右手に「清酒正雪神沢川酒造」の高い煙突が見えてくる。

右手民家の軒先に江戸から39番目の一里塚跡を示す小さな標柱が立っている。その先道が鍵の手に曲がっているところが由比宿の東木戸跡である。桝形の南側を格子が美しい昔の商家(志田家住宅)が陣取っている。ここからの町並みは蒲原におとらず風情が漂う宿場町であった。

御七里役所ノ跡 由比 由比町 庵原郡 静岡県
御七里役所ノ跡 由比 由比町 庵原郡 静岡県

江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸 和歌山間-584km-に約7里-28km-毎の宿場に中継ぎ役所を置き 5人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役 飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌にすぐれたお中間が選ばれ昇り竜 下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀と十……

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江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸 和歌山間-584km-に約7里-28km-毎の宿場に中継ぎ役所を置き 5人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役 飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌にすぐれたお中間が選ばれ昇り竜 下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀と十手を差御三家の威光を示しながら往来した。 普通便は毎月3回江戸は5の日 和歌山は10の日に出発 道中8日を要した。特急便は4日足らずで到着した。 幕末の古文書に中村久太夫役所 中村八太夫役所などとあるのは由比駅における紀州家お七里役所のことである。 この裏手に大正末年までお七里衆の長屋があった.昭和46年 春 静岡・民俗の会

右手の大きな板壁倉庫の隣が紀州藩の七里役所跡である。紀州徳川家は江戸との584kmの間に7里毎に中継所を設けて専属飛脚を詰めさせていた。計算すればその役所の数は20ヶ所に及ぶ。七里飛脚は紀州―江戸間を4日で次いだ。

由比本陣 由比町 庵原郡 静岡県
由比本陣 由比町 庵原郡 静岡県

由比本陣の沿革 ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口33間(60m)奥行40間(73m)面積は1300坪(4300㎡)あります。この地に由比宿が定められたのは慶長6年(1601)徳川家康によって伝馬36匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の宿泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました……

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由比本陣の沿革 ここは江戸時代の東海道由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口33間(60m)奥行40間(73m)面積は1300坪(4300㎡)あります。この地に由比宿が定められたのは慶長6年(1601)徳川家康によって伝馬36匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の宿泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。また、ここに本陣がおかれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄3年(1560)主君今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死し、その子権蔵光広が帰農して、この地に永住したことにはじまります。以来、由比本陣家は連綿として子孫あいつぎ当代の由比宏忠氏にいたっています。由比町は平成元年、当主の理解をえて、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備し、敷地内に町民文化の振興と町の活性化の一助にと「東海道広重美術館」を開館しました。以下略 平成10年12月 由比町教育委員会

由比本陣公園として整備された由比本陣跡にたどりつく。1300坪の広大な本陣敷地内には正面門塀、物見櫓のほか、奥には明治天皇が小休止した離れ屋敷を復元した御幸亭と、東海道広重美術館が建てられている。現存する本陣の建物こそ残っていないが、内容の充実した本陣跡となっている。

正雪紺屋 由比 由比町 庵原郡 静岡県
正雪紺屋 由比 由比町 庵原郡 静岡県表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より四百年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。 平成6年3月 由比町教育委員会

本陣の向かいは江戸時代から400年近く続いたという染物屋「由比紺屋」である。間口の左は格子戸、右は障子の蔀戸にした趣ある建前である。すぐれた軍事家由比正雪がここで生まれた。慶安4年(1651)、由井正雪・丸橋忠弥らは浪人対策の改善を掲げ幕府転覆を計画した。しかし仲間の密告により事前に露見、正雪は駿府で自害した。

西木戸由比川・由比川橋 由比 由比町 庵原郡 静岡県
西木戸由比川・由比川橋 由比 由比町 庵原郡 静岡県

紺屋のとなりの黒塀に見越しの松を配した粋な邸宅は明治時代の郵便局舎だという。今は平野氏の私邸である。

由比川の手前に西木戸、高札場があって由比宿の西出口に来た。橋の袂に新旧二基の常夜燈が並んでいて宿場の西口をしっかりと締めくくっている。由比川はさほど大きな川ではなく、徒歩で渡っていた。

桜えび 由比 由比町 庵原郡 静岡県
桜えび 由比 由比町 庵原郡 静岡県

川をこえて街道の景色は宿場の古びた雰囲気からなんとなく漁港が近い駅前商店街の臭いが濃くなってきた。沿道には桜えびを売る店が多い。明治のはじめに地元の漁師の網に偶然ひっかかったのが始まりという。主に駿河湾に生息し由比漁港がほぼ水揚げの全部を占める。

稲葉家 北田 由比町 庵原郡 静岡県
稲葉家 北田 由比町 庵原郡 静岡県せがい造りと下り懸魚(げぎょ) せがい造り: 軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし?を置いたもの。 民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。 下り懸魚 : 平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを掘り込み装飾も兼ねている。稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。 平成4年3月 由比町教育委員会

街道の左手におもしろい造りの家がある。稲葉家で、雨戸にその説明札がかけてある。軒先を長く出した屋根を支えるためのせがい造りと、装飾を兼ねて平軒桁の両端の腐食を防ぐための下り懸魚(げぎょ)が施されている建物である。こういう専門用語は弱い。

由比漁港 今宿 由比町 庵原郡 静岡県
由比漁港 今宿 由比町 庵原郡 静岡県

左手の道路が小さなトンネルにぶつかっていて、その向こうに船がみえる。東海道本線と国道1号の高架をくぐりぬけると、前面を東名高速道路でふさがれた由比漁港であった。いびつな形の港に漁船がひしめき合っている。かってはもっとのびやかな漁港であったのが、後ろに国道が、前の防波堤には高速道路がきずかれた結果こんな風になったものと思う。

桜エビは春秋二回の漁期にあわせてここで桜エビ祭りが開かれる。特に冬は浜一面に干されたエビが濃い色をした芝桜の浜にみえて富士を背景にそれは美しい風景を作り出すという。一ヶ月遅かった。

寺尾町並み 寺尾 由比町 庵原郡 静岡県
寺尾町並み 寺尾 由比町 庵原郡 静岡県

由比漁港から街道にもどりすぐ先の路地を右に入って県道396号に出る。由比駅をすぎたあたり県道370号との合流するところの寺尾歩道橋で右の細い旧道にはいっていく。ここから寺尾、東西の倉沢集落の家並みはひなびたたたずまいを見せて、心なごむ街道風景がつづく。

小池邸 寺尾 由比町 庵原郡 静岡県
小池邸 寺尾 由比町 庵原郡 静岡県小池家は昔、甲州武田氏家臣が当地に移住し、江戸時代には代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めました。 この建物は、明治期に建てられ、大戸・くぐり戸・ナマコ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しています。町では東海道を行き交う人に休息の場として使っていただくために、購入して修復工事を行い東海道名主の館「小池邸」として蘇らせました。 平成10年3月 由比町

旧小池邸は寺尾村名主小池文左右衛門の邸宅跡である。明治時代の建物であるが、くぐり戸、ナマコ壁、格子戸などに往時の面影を残している。

寺尾、東倉沢の落ちついた町並みを過ぎると間の宿西倉沢である。薩埵(さつた)峠の東坂登り口にあって、十軒ばかりの休み茶屋が並んでいた。旧川島勘兵衛宅は西倉沢村の名主をつとめた旧家で間宿本陣跡とされているが、間宿であるため大名が休んだだけで宿泊はしていない。

望嶽亭(藤屋) 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県
望嶽亭(藤屋) 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶店を営み、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていた。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。 平成4年3月 由比町教育委員会

その先には明治天皇が休息した脇本陣柏屋。これも茶屋であっていわゆる本宿の脇本陣ではない。

集落の最後、峠道の入口に望嶽亭と呼ばれた藤屋がある。富士の眺めがよいということで文人墨客に人気があった。玄関をのぞくとガラス障子の間に昭和時代の調度品がみえる。向こう側の戸をあけると駿河湾が広がってその向こうに富士が眺められたのだろう。

一里塚跡 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県
一里塚跡 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県江戸から数えて40番目の一里塚である。だから江戸から凡そ160kmの距離になる。ちなみに由比駅~東京駅間は158.4kmである。この一里塚は薩埵峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。 平成4年3月 由比町教育委員会

望嶽亭の向かい、峠への登り口に江戸から40番目の西倉沢一里塚跡の標柱がある。説明書きに40里約160kmと由比駅―東京駅間の東海道本線の距離158.4kmを比較していた。おもしろい。ちなみに1里3.93kmで計算すると40里は157.2km。由比駅からここまで200m、東京駅から日本橋まで1kmとするとピッタシではないか!!!

薩埵峠付近展望台より南方面 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県
薩埵峠付近展望台より南方面 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県

急な坂道を登っていく。箱根のように山中の険しい石畳をいくのではなくて、山の東斜面をつたっていく舗装道で、左手の駿河湾に落ちていく崖をみると少々高所の恐怖に襲われるが、道の両側に開かれたみかん畑を縫いながらの坂道は、箱根越えとは比較にならないほどに楽な難所である。峠の手前に駐車場がある。実はここまで車で来られるのだ。

薩埵峠 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県
薩埵峠 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県

さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。 さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突……

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さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。 さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。 由比町教育委員会

薩埵峠付近より富士山眺望 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県
薩埵峠付近より富士山眺望 西倉沢 由比町 庵原郡 静岡県

さった峠 さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。 さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下……

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さった峠 さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。 さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。 風光明媚な絶景の地 その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。 田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌がさった峠の名を有名にしました。 山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ

この先は遊歩道となって、等高線状に山腹をゆく。峠の標識まできたが一向に達成感がない。すこし先の展望台にあがる。ここで広重は絵を描いたのだなと、しばらくリュックを置いて休んだ。富士はかすんで、絵葉書で見るような写真は撮れなかったが、しょうがない。海岸線には合計5本の筋がうねって見える。海側から:東名高速上下線、国道1号上下線、それに東海道本線の鉄路である。

興津

興津川 興津 広重「東海道五十三次」
興津川 興津 広重「東海道五十三次」

なだらかな遊歩道をすすんでいくと由比町と興津側の清水区を分ける鞍部地点にあずまやが設けられていて、そこにも「東海道薩埵峠」の碑があって、広重の絵入りの解説板が立っている。

薩埵峠付近 興津東町 清水区 静岡市 静岡県
薩埵峠付近 興津東町 清水区 静岡市 静岡県

鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。 上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。 ここに道が開かれたのは1655(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を並の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親知らず子知らず」の難所であった。この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の……

説明の全文を読む(約300字)

鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。 上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。 ここに道が開かれたのは1655(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を並の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親知らず子知らず」の難所であった。この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。 興津地区まちづくり推進委員会

牛房坂をあがっていくと由比側の展望台と同じような眺望地点があって、○○写真クラブのおじさんたちが粛々と富士山に向かって三脚を構えていた。ここには三種類もの「薩埵峠」の碑や標識が並んでいる。三ヶ所で峠の標識をみたことになるが本当の峠は山側にあるのであって、東海道は峠下の山腹をめぐっているに過ぎないのだ。三ヶ所のどこも峠ではない。どうりで達成感がわいてこないはずだった。

この先コンクリートで固められた急な階段を降りていく。墓地を抜けて下りきったところに興津側の峠登り口があった。丁字路に標識があって、左は「車両通り抜け不可」、右が「中の道」とある。左が「下の道」なのだろう。付近は宅地造成中で旧街道は失われつつある。やがて集落にはいり、瑞泉寺を回り込むようにして興津川沿いの旧街道筋にでる。

なお、下道・中道・上道については案内板によって混乱があるようで、上述の標識がいう「中の道」を「上道」、「下の道」を「中道」、そして上説が想定する「上の道(古代の道)」を「脇道(地蔵道)」とし、下道は山腹をいかず、西倉沢の望嶽亭から海岸線の親知らず子知らずを通る道とする解説板もある。

興津川 興津東町 清水区 静岡市 静岡県
興津川 興津東町 清水区 静岡市 静岡県

ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または人足の肩ぐるまで川を越した。 越し札はその日の水深によって上表のごとく値がちがい連台越しの場合は札4枚を要した。深さが4尺5寸を超すと、いわゆる「川止め」となった。 (表略) 但し冬季(10月下旬から3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越しの人足は、興津側で36人が常備されて居り、大通行があると25……

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ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または人足の肩ぐるまで川を越した。 越し札はその日の水深によって上表のごとく値がちがい連台越しの場合は札4枚を要した。深さが4尺5寸を超すと、いわゆる「川止め」となった。 (表略) 但し冬季(10月下旬から3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越しの人足は、興津側で36人が常備されて居り、大通行があると250人以上が動員された。 興津地区まちづくり推進委員会

JR線手前の興津東町公園に、川越遺跡の大きな案内板が建っている。興津川は徒歩渡しで、ここの川会所で越し札を買い、蓮台や人足の肩車で川を渡った。川の様子はまったく違うが広重は興津の絵としてこの渡し風景を描いた。広重の絵では駕籠と馬でわたっている。

今はJRの高架をくぐり、すぐ右手に架かる浦安橋を渡る。橋を渡ったところで旧道は右手の土手下におりてJR沿いに民家の裏手から興津団地をかすめて、興津中町東交差点でバイパスと分れたばかりの国道1号に合流する。

興津中町交差点からでている国道52号は現在の身延山道で、身延まで46km、甲府まで88kmとある。身延道(甲州道)の旧道は宗像神社をこえたしずおか信金の脇からでていて、そこの石碑群の中に「身延山道」と刻まれた元禄6年の古い道標がある。

女体の森宗像神社 興津中町 清水区 静岡市 静岡県
女体の森宗像神社 興津中町 清水区 静岡市 静岡県こんもりと茂るこの森は昔、沖にこぎ出した船人たちから、良い目印として大切にされたそうです。その頃は海辺はもっと広々としてクロマツの葉が潮風にゆれていたのかもしれません。以下略 静岡県

宗像神社はクロマツの森にある。沖からでもこの森はよく見えたそうで、船人たちは「女体の森」とよんで灯台がわりの目印としていた。森の愛称に若干飛躍があるが、遠くからはそのようにこんもりとした姿にみえたのであろう。

興津の宿内にはいる。古代には清見ヶ関という関所があって、交通の要衝として知られていたという。現在の家並みに宿場の面影はまったくない。

水口屋脇本陣跡 興津本町 清水区 静岡市 静岡県
水口屋脇本陣跡 興津本町 清水区 静岡市 静岡県

まっすぐな国道1号を西に進んでいく。

右手に一里塚跡の石標。宿場の中心は駅の西方、現在の興津本町あたりか。右手に東本陣(市川家)、西本陣(手塚家)址の石標が、左手の水口屋跡は脇本陣であった。

清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県
清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県

興津の歴史: 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者……

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興津の歴史: 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。慶長6年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。 興津宿の規模: 東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿に至ります。 また、西の江尻宿には1里2町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。 興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2km)人馬継門屋場1ケ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人100匹 天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒`脇本陣2軒、旅龍34軒、人数1668入(男809人女859人)でした。

清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県
清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県当山は禅臨済宗で、古来より景色の美しさで名高かった。 寺の始めは古く奈良朝時代此の地に関所が設けられ其の守護として傍らに仏堂が建立されたのが始めと伝えられる。しかし寺として基礎の固まったのは鎌倉時代(1264)後足利尊氏此の寺を再興(1342)徳川時代を経て今日に至った。 その間幾度か戦禍を受けたるも再建復興してきた。

道が右に曲がるところの右手高台に清見寺という古刹がある。奈良時代に設けられた清見ヶ関所の守護として建立されたのが始まりだという。坂道をかさねた台地上に白壁の塀を築いた様は城郭の風格である。どういうわけか山門から本堂へいくのに東海道本線を橋でまたぐ。街道脇には興津宿に関するくわしい解説パネルが設置されている。古地図、宿場の旅籠分布図まで用意してあるのには恐れ入った。

五百羅漢石像 清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県
五百羅漢石像 清見寺 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県

釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫造にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。 興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青笞の蒸した五百羅漢の石像があった。怒ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える……

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釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫造にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。 興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青笞の蒸した五百羅漢の石像があった。怒ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。 誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之助が居た、ここに市川が居た、管も居た、と数えることが出未た。連中はすっかりその石像の中に居た。以下略

清見寺より駿河湾方面 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県
清見寺より駿河湾方面 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県山下清「清見寺スケッチの思い出」より 清見寺という名だな このお寺は古っぽいけど上等に見えるな お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな お寺から見える海はうめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな

橋の上で電車を待つ誘惑をふりきってとにかく中へ入ってみる。正面に本堂、左奥に五百羅漢、庫裏近くの庭には家康手植えと伝えられる臥龍梅が寒々と横たわっている。みどころの多い中でも秀逸だったのは立て札に記された山下清の一文であった。彼のするどい感受性には改めておどろかされた。清見寺訪問の印象は彼のコメントに尽きている。

興津坐漁荘(西園寺公望公別邸) 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県
興津坐漁荘(西園寺公望公別邸) 興津清見寺町 清水区 静岡市 静岡県

西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公鈍の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家とLて貫き.昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。 坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。 坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県……

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西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公鈍の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家とLて貫き.昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。 坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。 坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されています。 そしてこのたび、.地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元|こ向けての熟い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力とご指導を仰ぎ、記念館として、かってあったこの地に復元し、公開いたします。 平成16年4月

清見寺のほぼ道向かいに西園寺公望の別荘、坐漁荘がある。もともとは大正時代の建物だが全体に清楚なつくりに仕上がっていて、すがすがしい。かっては海岸線が前庭までせまっていて、遠くに横一文字にのびる三保の松原が見渡せたという。今は山下清が指摘したように、埋め立てられて巨大な興津埠頭に変わってしまった。

横砂東町 清水区 静岡市 静岡県
横砂東町 清水区 静岡市 静岡県

興津宿を後にして国道1号を西に急ぐ。国道1号がバイパスの高架下で波多打川をこえたところで左に入る道が旧道である。ふたたび国道に合流するまでわずかな距離だがこの横砂東町の路地がすっかり気に入った。軒先にところせましと植木をならべ、軒下には下着も上着もかまわず干してある。扇風機でゴマをまぶした魚のひらきを干している。ペット屋かと思うほどに鳥かごをならべて悦に入っているおじさんがいた。東京下町の路地に迷い込んだ気分であった。

新旧合流地点・常夜燈 横砂東町 清水区 静岡市 静岡県
新旧合流地点・常夜燈 横砂東町 清水区 静岡市 静岡県

横砂踏切をわたって国道1号との合流点に延命地蔵と整った形をした秋葉山常夜燈がある。隣の石蔵の入口前にもプランターがたくさん並べてある。わき道からおばさんがプタンターをもう一つかかえて運んできた。まだ並べるつもりだ。

国道1号は横砂中町で庵原川を渡り江尻宿にはいっていく。

江尻(清水)

江尻港(清水港)・三保浜遠望 江尻 広重「東海道五十三次」
江尻港(清水港)・三保浜遠望 江尻 広重「東海道五十三次」
細井の松原 清水区 静岡市 静岡県
細井の松原 清水区 静岡市 静岡県

慶長6年(1601)徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された、同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同17年(1612)完成したと伝えられている。元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(……

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慶長6年(1601)徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された、同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同17年(1612)完成したと伝えられている。元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本 とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。 当時の旅人は、夏にはこの松影で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。細井の松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。今の松は平成4年2月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。 辻地区まちづくり推進委員会

袖師交差点をすぎ、辻町信号で道が二股に分かれている。右の道が旧街道である。三角地帯に東海道標と「細井乃松原」の案内板がある。かっては街道沿いに200本あまりの松並木があったが、昭和19年戦時の航空ガソリン材料として松根油採取のために伐採された。今は平成4年に植えられた松が1本立っている。

山梨家住宅 本郷町 清水区 静岡市 静岡県
山梨家住宅 本郷町 清水区 静岡市 静岡県

このあたりから江尻宿がはじまっていて、辻4丁目と本郷の境に東木戸があったという。物静かな商店街である。本郷町にはいったところ左手に白壁土蔵につづいて連子格子が美しい間口の大きな商家風の家がどっかと構えている。江尻宿では唯一の古い建物と思われた。

清水駅前にさしかかり、街道歩きを中断して三保の松原へ寄り道することにした。駅前から頻繁にバスがでている。松原まで約25分。

「神の道」 三保 清水区 静岡市 静岡県
「神の道」 三保 清水区 静岡市 静岡県
三保の松原 三保 清水区 静岡市 静岡県
三保の松原 三保 清水区 静岡市 静岡県

羽衣の切れはしを保管しているという御穂神社から500mほどの神の道とよばれる松並木の中をあるいて、海岸にたどりつく。7kmにおよぶ白砂青松の松原は、京都の「天橋立」、佐賀の「虹の松原」に並ぶ日本三大松原の一つで、また北海道亀田郡七飯町の「大沼」、大分県中津市の「耶馬渓」とともに日本新三景のひとつにかぞえられる名勝地である。

「羽衣の松」 三保 清水区 静岡市 静岡県
「羽衣の松」 三保 清水区 静岡市 静岡県

あいにく曇ってみえなかったが、松原越しに雄大な裾野を広げる富士の姿はさぞかし絶景であろう。砂は意外に黒ずんでいた。松原の中にひときわ古そうな老木が樹齢650年という羽衣の松である。天女の舞をおもわせる枝振りである。数ある羽衣伝説の中で三保の松原がもっとも有名で、近江余呉湖がもっとも古い。先住日本人の渡来人にたいする憧れが底流になっているらしい。

清水港 清水区 静岡市 静岡県
清水港 清水区 静岡市 静岡県

清水駅にもどる途中でによった。広重もここを描いているからでもある。マリーンパークとして整備され、大小さまざまな船が浮かんでいる。清水湊といえば清水次郎長が連想される。近くの次郎町通りに生家があり遺品がのこされているというが、寄ってみる気はしなかった。

清水港 清水区 静岡市 静岡県
清水港 清水区 静岡市 静岡県

私は昔のやくざがどんなであったのか知らない。仮に現代の暴力団と本質的に差異がないのであれば、国定忠治だろうが、清水次郎長だろうが、そんな人間には興味がない。ちなみに、途絶えていた清水一家を最近になって山口系暴力団が6代目を襲名して復興させた。清水区民(旧清水市民)は、暴力団はいやだが次郎長は好きだと、苦しい選択に迫られている。6代目山口系次郎長こそ、本質を見抜いていたというべきか。

旧江尻宿(銀座通り)町並み 銀座 清水区 静岡市 静岡県
旧江尻宿(銀座通り)町並み 銀座 清水区 静岡市 静岡県

江尻宿〔十八宿目〕 むかし「矢倉の辻」より、秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町あたりに、元宿という小字名が残残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。 時代の変遷により、今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。 慶長6年(1601)徳川家康は、東……

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江尻宿〔十八宿目〕 むかし「矢倉の辻」より、秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町あたりに、元宿という小字名が残残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。 時代の変遷により、今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。 慶長6年(1601)徳川家康は、東海道五十三次を定めるにあたり、それまで今の北街道が主要街道であったものをあらため、銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。 慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ、交通が便利になり、江尻宿は上町(魚町)中町(仲町)下町(志茂町)の宿通りを中心に、西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さおよそ2kmであった。 宿は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは、万一の場合の警備のためであった。 宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣三軒、それに準ずる脇本陣三軒と、一般の旅籠屋が五十軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた、江尻宿の昔の姿であった。 昭和五十九年一月江尻地区まちづくり推進委員会

駅前の街道にもどる。江尻東1~3丁目、江尻町と、昔の宿場名がわずかに残っている。清水銀座で右折すると電線を地下に隠しレンガで舗装した一見瀟洒なアーケード商店街に入る。ここが江尻宿の中心街で、3軒の本陣などがあった場所であるが、夢舞台東海道の宿場道標とおもちゃ富岡屋の前に宿場の解説板があるだけで、古い建物や史跡などは見当たらない。商店の4分の3以上がシャッターを降ろしたままのシャッター通りとなってしまった。他にもこのような商店街はみてきたが、清水銀座は通りがよく整備されているだけにさびしい限りであった。

稚児橋・船高札 入江1丁目 清水区 静岡市 静岡県
稚児橋・船高札 入江1丁目 清水区 静岡市 静岡県

稚児橋の由来: 慶長12年(1607)徳川家康の命により、東海道53次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることになり、渡り初めの日とはなった。 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとら……

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稚児橋の由来: 慶長12年(1607)徳川家康の命により、東海道53次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることになり、渡り初めの日とはなった。 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。 なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。 清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童があるのは、この伝説による。 船高札: 徳川時代の初め頃、河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの付近に現在の掲示板にあたる「船御高札」が建てられていました。記録によると、正徳元年(1711)6月に当時の代官より、この町に船高札が御下渡しされました。 以下略 平成2年3月 入江まちづくり推進委員会

案内板によると五差路交差点の右側あたりに問屋場と高札場があった。街道は交差点を左折して稚児橋を渡る。最初は江尻橋といったが、川に河童が現れて稚児橋というようになった。詳しいことは写真にまかせる。橋をわたった右手に船高札が立てられていた。

道標・追分羊羹 追分 清水区 静岡市 静岡県
道標・追分羊羹 追分 清水区 静岡市 静岡県是より志三づ道

2つ目の信号入江2丁目交差点を右斜めに行く。しばらく行くと追分2丁目に「名物追分羊かん」の真っ赤な大きな暖簾が見えてくる。その前にある道標には「是より志ミづ道」と刻まれている。清水湊にいたる清水道との追分である。「追分羊かん」は元禄8年(1695)創業の老舗羊羹屋である。甘さを抑えた味で竹の皮で包んであるというから近江八幡名物の丁稚羊かんと同じものかもしれない。

道端にみかん一袋が100円で売られている。代金箱があるだけの無人売店だ。そのとなりの五輪塔は都田吉兵衛供養塔だという。解説を読むと、次郎長の子分森の石松を殺した都田吉兵衛(通称都鳥)を次郎長が殺したのだという。つまりやくざ同士の殺し合いである。どうでもいいではないか。

大沢川を金谷橋でわたる。「追分と金谷橋の今昔」と題した銅版パネルが橋の親柱に取り付けてある。

昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道 「志ミづ道」の分岐点であることから 「追分」と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。 往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。 古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。

静岡鉄道 有東坂 清水区 静岡市 静岡県
静岡鉄道 有東坂 清水区 静岡市 静岡県
道標 上原(うわはら)1丁目 清水区 静岡市 静岡県
道標 上原(うわはら)1丁目 清水区 静岡市 静岡県

「久能寺観音道」 この道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道である。 久能寺は、もと久能山にあったが、武田信玄が駿河の国主今川義元攻略のため久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。 明治維新となリ廃寺、そ……

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「久能寺観音道」 この道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道である。 久能寺は、もと久能山にあったが、武田信玄が駿河の国主今川義元攻略のため久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。 明治維新となリ廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っている。 有度まちづくリ推進委員会 有度ふるさとマップ委員会 清水西ロータリークラブ

街道は東海道本線と静岡鉄道の踏切を渡る。

狐ヶ崎駅前付近で道は上原堤とよばれる池を回り込む。手前の十字路左手に安永7年(1778)の古い道標が立っている。その道向かいには「東海道」の語源から始まる詳しい解説板があった。

東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別(たけぬなわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。 中世には「いざ鎌倉」のために整備された。徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったが、ここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。

昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ

草薙一里塚跡 草薙一里山 清水区 静岡市 静岡県
草薙一里塚跡 草薙一里山 清水区 静岡市 静岡県

街道は御門台駅の前で県道407号に合流する。交差点をわたったすぐ右手に徳利をぶらさげて立つ信楽焼きのたぬきのそばに、新旧二つの草薙一里塚碑と一里塚由来を刻んだ碑がある。江戸から43里来た。街道はこの後草薙神社の大鳥居の先で一筋東の旧道にはいり、東名高速道路をくぐったさきの突き当りを右折して静岡鉄道の県総合運動場駅前で西に東海道本線の栗原操車場を横切っていた。

(2008年1月)

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