房総往還 4区間のうち3番目

房総往還(3)

貞元(君津)-佐貫-湊-竹岡

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

君津

君津

坂田漁業協同組合解散記念碑 坂田 君津市 千葉県
坂田漁業協同組合解散記念碑 坂田 君津市 千葉県

江戸後期の房総往還は県道90号の道筋に乗って西に進む。右手海側は埋立地に造成された新日鉄をはじめとする広大な工場地帯である。一方左手には断崖が道路まで迫って山深い様相を呈している。かつてはこの県道が海岸線をなしていたのであろう。坂田交差点を渡った右手広場に「坂田漁業協同組合解散記念碑」が建てられている。坂田海岸は上総海苔の養殖で知られる漁場だった。江戸の海苔商人近江屋甚兵衛が開発したものである。昭和の高度成長期、京葉臨海工業地帯造成政策に基づき君津町地先海面に八幡製鉄の誘致を決めた。昭和40年、計画の提示を受けてから5年の苦渋を経て漁業組合は漁業権の放棄を受け入れた。

この海岸一帯各地に同様の記念碑をみることができる。

旧房総往還 人見1丁目 君津市 千葉県
旧房総往還 人見1丁目 君津市 千葉県

左に段丘が続く道路だが房総往還旧道は坂田と大和田交差点の間で内陸に入り、丘陵を越えて人見地区の青蓮寺前に通じていた。その間の道筋は消失している。中央分離帯のある大きな車道を跨道橋で跨ぎその先を左折して下って行く。右手は新日鉄関係の住宅・福祉施設が建ち並びさながら新日鉄村の様相である。新興住宅地の中を曲折しながら丘陵麓の東西に走る道に出る。右折して西に向かうとやがて左手に周西幼稚園を通りすごして左からの道と合流する。合流点に人見地区の住宅地図が建っていたが街道に関する情報はなかった。左手に高札場ならぬ屋根付の掲示板が建っていた。このあたりからは旧道の道筋のようだ。

青蓮寺 人見1丁目 君津市 千葉県
青蓮寺 人見1丁目 君津市 千葉県県史蹟 (海山苔養信士 弘化元年9月12日没79才)で有名な寺。近江や甚兵衛は文政5年当地で海苔養殖に成功し、普及に尽力した人物である。以下略

右手に青蓮寺が現れる。人見山を背後にして唐破風付の堂々とした本殿を構えている。開基、由緒等は不詳ながら、嘉禄元年(1225)の開祖という記録があるらしい。境内左手に建つ大きな寛保2年(1742)の宝篋印塔が目を引く。

青蓮寺の東側には旗本小笠原家2500石の人見陣屋があったが今は宅地や畑となって遺構や標識等はない。旗本小笠原信元が天正18年(1590)、富津に陣屋を構えたがその後、幕末の海岸防備のため富津は松平定信の白河藩領になったため、文化8年(1811)、小笠原家はここ人見に陣屋を移したものである。

近江屋甚兵衛の墓(青蓮寺) 人見1丁目 君津市 千葉県
近江屋甚兵衛の墓(青蓮寺) 人見1丁目 君津市 千葉県

甚兵衛は、明和3年(1766)江戸四谷に生まれ、浅草海苔商人であったが、そのかたわら海苔の養殖方法の研究をし河水の注ぐ遠浅の海にひびを立てれば、海苔の養殖は可能であるとの信念を持ち、江戸川、養老川、小櫃川の各河口の諸村で勧めたもののいずれも拒否された。 最後に小糸川河口のここ、旧人見村に至り、苦心の試作を重ねた結果、文政5年(1822)甚兵衛56歳にして海苔養殖に成功したといわれる。 沿岸の人々は……

説明の全文を読む(約280字)

甚兵衛は、明和3年(1766)江戸四谷に生まれ、浅草海苔商人であったが、そのかたわら海苔の養殖方法の研究をし河水の注ぐ遠浅の海にひびを立てれば、海苔の養殖は可能であるとの信念を持ち、江戸川、養老川、小櫃川の各河口の諸村で勧めたもののいずれも拒否された。 最後に小糸川河口のここ、旧人見村に至り、苦心の試作を重ねた結果、文政5年(1822)甚兵衛56歳にして海苔養殖に成功したといわれる。 沿岸の人々は、漸次この業の発展につとめ、先年までの盛況をみるに至った。 翁は、弘化元年(1844)79歳でこの地において没した。 昭和62年1月 千葉県教育委員会 君津市教育委員会

青蓮寺は上総海苔開発者近江屋甚兵衛の墓があることで知られる。境内にある六角堂は資料館だそうだが公開していないようだ。詳しくは国道16号の北側にある君津市漁業資料館に行くのが良い。

近江屋甚兵衛は明和3年(1766)江戸四谷に生まれ、11歳の時浅草の海苔問屋に奉公に出た。その店の屋号が近江屋であったのであろう。子がなく妻にも先立たれた孤独な身であった甚兵衛は商人のかたわら海苔の養殖方法を研究し、54歳の時産地開拓のために千葉県にやってきた。江戸川河口の浦安、養老川河口の五井(市川)、小櫃川河口の木更津の村々を回ったが漁場が荒れると心配する漁民に反対されて事業は成らなかった。

人見村にやってきた近江屋甚兵衛は名主八郎右衛門の理解を得て、小糸川河口の遠浅浜に海苔ひびを立てることができた。文政5年(1822)、2度目の挑戦でひびに海苔が着き、ここに「上総海苔」が誕生することになった。近江屋甚兵衛は、弘化元年(1844)79歳で亡くなった。

人見神社 人見 君津市 千葉県
人見神社 人見 君津市 千葉県

人見神社は、新日鉄君津製鉄所の南に位置する人見山の山頂に所在し、旧17ケ村(君津、富津の海岸地域)の鎮守の氏神として崇拝されている。 祭礼は毎年7月に行われ、神事の中に「おめし」と呼ばれ350年余の伝統のある神馬奉納の儀がある。この起源には、大坂夏の陣(1615)に出陣し、負傷しながらも抜群の手柄をたてた飯野藩主保科氏の先祖の姿をそのまま奉納したという説と、領主小笠原氏が奉納したものという説とがあ……

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人見神社は、新日鉄君津製鉄所の南に位置する人見山の山頂に所在し、旧17ケ村(君津、富津の海岸地域)の鎮守の氏神として崇拝されている。 祭礼は毎年7月に行われ、神事の中に「おめし」と呼ばれ350年余の伝統のある神馬奉納の儀がある。この起源には、大坂夏の陣(1615)に出陣し、負傷しながらも抜群の手柄をたてた飯野藩主保科氏の先祖の姿をそのまま奉納したという説と、領主小笠原氏が奉納したものという説とがある。 いずれにしても村々の浜の大漁と岡の豊作を祈ってこの行事を受け継いできたものである。 この神馬は雄馬で、祭礼を指揮する祭礼支配人によって決めらわ、鼻竿に用いられる真竹は、長さ12尺(約3.6m)、太さ(円周)約1尺(約30cm)で、節は12ヶ月になぞらえて12の節の竹でなければならない。 平成19年3月 君津市教育委員会

人見神社よりの眺望(小糸川) 人見 君津市 千葉県
人見神社よりの眺望(小糸川) 人見 君津市 千葉県

墓の背後に立ちはだかる人見山に登る。山頂に人見神社がある。君津、富津の海岸地域旧17ヶ村の鎮守として崇拝されている。毎年7月に行われる「おめし」と呼ばれる神馬奉納で知られている。頂上からの眺望がよく、眼下に小糸川と町並みが広がり、遠方は白煙をあげる臨海工業地帯の工場群が沿岸を埋め尽くしている。

君津市漁業資料館 人見 君津市 千葉県
君津市漁業資料館 人見 君津市 千葉県

近江屋甚兵衛は、1766年(明和3年)江戸(今の東京)の四谷に生まれたといわれます。甚兵衛の生いたちについては、くわしいことはわかっていませんが、11歳のときにノリ問屋に奉公し、大人になってからはノリ商人をしながら、ノリのつくりかたについて強い関心をもっていた.と伝えられています。 のちに、甚兵衛は妻と子どもをなくし、悲しみをのりこえるために、残りの人生をノリづくりにかける気持ちをかためました。甚……

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近江屋甚兵衛は、1766年(明和3年)江戸(今の東京)の四谷に生まれたといわれます。甚兵衛の生いたちについては、くわしいことはわかっていませんが、11歳のときにノリ問屋に奉公し、大人になってからはノリ商人をしながら、ノリのつくりかたについて強い関心をもっていた.と伝えられています。 のちに、甚兵衛は妻と子どもをなくし、悲しみをのりこえるために、残りの人生をノリづくりにかける気持ちをかためました。甚兵衛、54歳の春のことでした。 ヒビたてのゆるしをもらった甚兵衛は、人見の十郎左衛門宅のへやを借り、準備にかかりました。甚兵衛は2人の名主と話しあって、ノリづくりがうまくいったならぱ、目分一人が買入れ問屋になる約束をしたといわれます。 最初の年は、浅せにたてたヒビが波にさらわれたりして失敗に終りましたが、次の年の1822年(文政5年)の冬のはじめには、ヒビに黒々としたノリがつき、目的をはたすことができました。 甚兵衛の苦労とノリづくりにもえる気持ちがようやく実り、「上総ノリ」が生まれたのです。

神社から車道を北に下りていく。国道16号を横切ったところ右手に君津市漁業資料館がある。留守番の若い女性がパンフレットと上総海苔一袋をくれた。漁業資料館だが館内の展示は近江屋甚兵衛と海苔養殖関連で占められている。ヒビに着いた海苔を小舟から身を乗り出して手で採る風景は、会津の旅でみたジュンサイ採りに似ていた。現在では手作業に代わってポンプで海苔を吸い上げるという。ジュンサイ採りはそういうわけにはいかないだろう。

小糸川・中橋・渡し場跡 人見 君津市 千葉県
小糸川・中橋・渡し場跡 人見 君津市 千葉県

小糸川沿いに青蓮寺方面にもどり中橋で小糸川を渡る。昔は小糸川に橋はなく船で渡っていた。小糸川が君津市と富津市を分ける。

佐貫

大堀神明社 大堀 富津市 千葉県
大堀神明社 大堀 富津市 千葉県

中橋を渡って国道16号を左折、すぐ左手に大堀神明社がある。

内房線青堀駅前を通過して大堀亀下信号交差点で、街道をはなれて内裏塚古墳と飯野陣屋跡に寄っていくことにする。

国指定史跡内裏塚古墳 二間塚 富津市 千葉県
国指定史跡内裏塚古墳 二間塚 富津市 千葉県

内裏塚古墳群を代表する前方後円墳で南関東地方最大の古墳である。墳丘の主軸長144m、後円部径80m、前方部幅90mを測り、墳丘の高さは後円部が13m、前方部が11.5mで、古墳群の中では最も高い墳丘となっている。墳丘は二段築成で、埴輪列がめぐり、楯形周溝の全長は185mを測る。埴輪には円筒埴輪のほか、人物・家・きぬがさなどの形象埴輪がある。 埋葬施設は、復円部中央に存在する二基の竪穴式石室で、明治……

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内裏塚古墳群を代表する前方後円墳で南関東地方最大の古墳である。墳丘の主軸長144m、後円部径80m、前方部幅90mを測り、墳丘の高さは後円部が13m、前方部が11.5mで、古墳群の中では最も高い墳丘となっている。墳丘は二段築成で、埴輪列がめぐり、楯形周溝の全長は185mを測る。埴輪には円筒埴輪のほか、人物・家・きぬがさなどの形象埴輪がある。 埋葬施設は、復円部中央に存在する二基の竪穴式石室で、明治39年に柴田常恵・小熊吉蔵らによって発掘された。(中略) 築造年代は五世紀中頃(西暦450年頃)で、大形前方後円墳築造の最盛期に当たり、当古墳の形態は大阪平野の履中陵古墳(360m)に近似したものとなっている。被葬者は古代須恵国の首長と推定される。 なお後円部上にはかつて珠名姫神社が祀られていたが、大正4年、飯野神社に合祀された。今も墳丘上には江戸時代の嘉永年間に建立された「珠名塚碑」が残されている。また内裏塚は親王塚とも呼ばれ、地元では昔から霊祭りを行ってきた。以下略 平成19年5月吉日 飯野地域活性化推進協議会

交差点を左折して県道157号を400mほど行くと左手にこんもりとした丘が現れる。内裏塚古墳という前方後円墳で、南関東地方最大である。築造年代は五世紀中頃で、被葬者は古代須恵国の首長と推定される。

珠名塚碑(内裏塚古墳) 二間塚 富津市 千葉県
珠名塚碑(内裏塚古墳) 二間塚 富津市 千葉県

内裏塚古墳の墳丘に立つ「珠名塚碑」 珠名(たまな) とはいったい誰なのでしょう。日本最古の歌集万葉集の巻9、1738番歌に 「上総末の珠名娘子(たまなおとめ)を詠める歌一首」という長歌があります。 「しなが鳥 安房につぎたる 梓弓 末の珠名は 胸別の 広き吾妹 腰細の すがる娘子の その姿(かお)の きらぎらしきに 花のごと 咲(え)みて立てれば 玉ぼこの 道行く人は おのが行く 道は行かずて 召……

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内裏塚古墳の墳丘に立つ「珠名塚碑」 珠名(たまな) とはいったい誰なのでしょう。日本最古の歌集万葉集の巻9、1738番歌に 「上総末の珠名娘子(たまなおとめ)を詠める歌一首」という長歌があります。 「しなが鳥 安房につぎたる 梓弓 末の珠名は 胸別の 広き吾妹 腰細の すがる娘子の その姿(かお)の きらぎらしきに 花のごと 咲(え)みて立てれば 玉ぼこの 道行く人は おのが行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(か)どに至りぬ さしならぶ 隣の君は あらかじめ おの妻離れて 乞わなくに 鎰(かぎ)さへ奉る 人のみな かく迷へれば 容艶(かおよ)きに よりてぞ妹は たわれてありける」 というのがそれです。この二間塚あたりに住んでいた一美女のために、西上総一帯が大騒ぎであったことがよくわかります。この歌の作者は、奈良朝中期に朝廷に仕えた役人で、万葉集第一の物語歌人といわれている高橋虫麻呂といわれ、中にもこの珠名娘子の歌は、その代表作といわれるものです。とともに、この歌のもう一つの意義は、奈良朝時代の美女を知る、もっとも具体的な資料となっていることです。それにしても奈良朝の典型的美人像が、富津市の一女性によって提供されていることは、考えただけでも愉快ではありませんか。 平成8年11月吉日 飯野地域活性化推進協議会

後円部を上がって行くと塚上に「内裏塚」碑、脇に「珠名塚碑」があった。かつてはここに珠名姫神社が祀られていたが大正4年飯野神社に合祀された。碑は嘉永年間に建立されたもので、珠名(たまな)は万葉歌人高橋虫麻呂の長歌に詠われた古代上総の美女である。 胸は豊かで腰は細くくびれた妖艶な美女だったという。

飯野陣屋大手口跡・古墳三條塚 下飯野 富津市 千葉県
飯野陣屋大手口跡・古墳三條塚 下飯野 富津市 千葉県

飯野陣屋濠跡 昭和四十二年三月七日指定 慶安元年(1648)に保科弾正忠正貞が築造した陣屋の濠跡である。正貞は信州高遠の城主保科家に生れ、早くから家康に仕え大坂夏の陣には大いに活躍をした。慶安元年6月大坂城番となり、前封と合せ一万七千石を領し侯籍に列して飯野を居所とした。 元来陣屋とは軍営のことであるが、江戸時代には城を持つことを許されなかった小藩主の居所を称した。この飯野陣屋は面積約13万平方m……

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飯野陣屋濠跡 昭和四十二年三月七日指定 慶安元年(1648)に保科弾正忠正貞が築造した陣屋の濠跡である。正貞は信州高遠の城主保科家に生れ、早くから家康に仕え大坂夏の陣には大いに活躍をした。慶安元年6月大坂城番となり、前封と合せ一万七千石を領し侯籍に列して飯野を居所とした。 元来陣屋とは軍営のことであるが、江戸時代には城を持つことを許されなかった小藩主の居所を称した。この飯野陣屋は面積約13万平方m余で、周囲に土塁や濠をめぐらした広大なものてあったと伝えられる。その堂々たる威容は城郭と比しても遜色なく、後世、日本三陣屋の一と称せられたという。濠跡は幅約5m、底部がV字形の薬研堀で、濠に沿って高さ約2mの土塁の一部も形を止めている。延べ面積は6620平方mである。 昭和60年2月1日 千葉県教育委員会 富津市教育委員会

つづいて県道157号を500mほどいった交差点を左折するとまもなく水路に囲われた所にさしかかる。ここがおよそ縦300m、横400mほどの方形の濠と土塁で囲まれた飯野陣屋跡である。慶安元年(1648)に飯野藩初代藩主保科弾正忠正貞が中世の城郭跡に陣屋を築造したもので、明治維新に至るまで10代223年に亘って飯野藩主の居所であった。陣屋は本丸、二の丸、三の丸を備え、その堂々たる偉容は、長州徳山、越前敦賀と並んで日本三大陣屋の一に数えられている。そのうち現存するのは飯野陣屋のみといわれている。

三条塚古墳 下飯野 富津市 千葉県
三条塚古墳 下飯野 富津市 千葉県

飯野神社の裏手に位置する前方後円墳で、墳丘長122m、後円部径57m、前方部幅72mを測り、内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の大きさである。現在、後円部の墳丘中腹に横穴式石室の天井石の一部が露出しているが、平成元年にこの天井石から手前側部分の石室の発掘調査が行なわれ、人骨三体分と乳文鏡・金銅製耳環・馬具類・直刀・銀製空玉・ガラス玉・須恵器などの副葬品が出土した。6世紀末頃の築造と見られ、この時期の……

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飯野神社の裏手に位置する前方後円墳で、墳丘長122m、後円部径57m、前方部幅72mを測り、内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の大きさである。現在、後円部の墳丘中腹に横穴式石室の天井石の一部が露出しているが、平成元年にこの天井石から手前側部分の石室の発掘調査が行なわれ、人骨三体分と乳文鏡・金銅製耳環・馬具類・直刀・銀製空玉・ガラス玉・須恵器などの副葬品が出土した。6世紀末頃の築造と見られ、この時期の前方後円墳としては東日本最大の規模である。古墳の同囲には全長193mの二重周溝がめぐり、今も一部原形をとどめている。埴輪は存在しない。また後円部の東側には、江戸時代末期に飯野藩の藩校(明新館)が建てられていた。平成19年5月吉日 飯野地域活性化推進協議会

内部に三条塚古墳と飯野神社がある。三条塚古墳は内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の前方後円墳である。築造年代は6世紀末ころと考えられ、内裏塚古墳よりは100年あまり新しい。

飯野神社(飯野陣屋跡) 下飯野 富津市 千葉県
飯野神社(飯野陣屋跡) 下飯野 富津市 千葉県

三条塚古墳の東側に飯野神社がある。かつて内裏塚古墳に祀られていた古代上総の美女珠名姫がここに合祀されている。

街道の大堀亀下信号に戻る。国道16号を1.2kmほど行った左手、青木自治会館の前に青堀南部漁業協同組合解散記念碑と芭蕉句碑が並んでいる。その後ろの小高い塚には八海山・御嶽山・三笠山参拝の記念碑が、ふもとには古そうな庚申塔などが建っていた。

芭蕉句碑等 青木 富津市 千葉県
芭蕉句碑等 青木 富津市 千葉県旧道 左 右:国道16号

芭蕉句碑は 「ほととぎすなくや黒戸の濱ひさし」 の一句を刻む。書は幕末の書家、萩原秋巌によるもの。萩原秋巌の養子となった俳人萩原乙彦が明治3年(1870年)5月に建立した。

この先で国道を右に分けて短い旧道が残っている。

街道は新井交差点を直進して富津集落に入る。右手海岸は富津漁港、道をそのまま直進すると潮干狩りで有名な富津海岸、富津公園を貫いて富津岬に至る。

富津町並み 富津 富津市 千葉県
富津町並み 富津 富津市 千葉県

房総往還は富津信号交差点で国道16号を終え、左接して県道255号に乗り換えて南下していく。

街道から離れて富津陣屋跡と富津岬を見ておこうと思う。町並みは静かで昔の面影はない。

富津陣屋跡付近(医光寺付近) 富津 富津市 千葉県
富津陣屋跡付近(医光寺付近) 富津 富津市 千葉県

江戸時代後期、異国船が日本沿海に現れるようになり、幕府は房州沿岸警備を強化、安房・上総の江戸湾防備を白河藩主松平定信に命じた。松平定信は寛政の改革を断行した老中で、18世紀末期には自ら江戸湾海防の強化を提案していた人物である。

文政4年(1821)に富津陣屋が置かれるとともに、海沿いの房総往還が整備され以後内陸ルートにかわってこの海岸ルートが主要街道になった。陣屋の所在地は摩尼山医光寺付近の空き地というだけで、医光寺境内周辺をみわたしてもそれらしき案内板や標識を見つけることはできなかった。

富津漁港 富津 富津市 千葉県
富津漁港 富津 富津市 千葉県

町並みの中程を見計らって路地から海岸にでる。漁港と隣り合わせに潮干狩り専用駐車場が整備されている。今は誰もいない。

富津岬 富津 富津市 千葉県
富津岬 富津 富津市 千葉県

そこから公園内の松並木の中をひたすら岬まで歩く。突当りにモダンな展望台が築かれ、江戸湾が広がっている。展望台は明治百年を記念して建てられたもの。岬の沖合にみえる小島は明治元年、江戸湾海防に為に築かれた海堡であろう。

富津海水浴場 富津 富津市 千葉県
富津海水浴場 富津 富津市 千葉県

帰路は半島の南岸をもどる。遠浅の海水浴場が延々と延びている。

富津信号交差点までもどり、右折して房総往還を再び歩き始める。川名信号で国道465号となる。すぐ先、左手の農家前に「富津市指定史跡 原口照輪生誕地」の案内板が立っている。江戸後期、成田山新勝寺13代目の貫主で中興の祖と言われている。

旧房総往還(大貫駅北方) 千種新田 富津市 千葉県
旧房総往還(大貫駅北方) 千種新田 富津市 千葉県上: 内房戦で分断 下: 旧道復活地点 右;旧道 左;国道465号
旧房総往還 千種新田 富津市 千葉県
旧房総往還 千種新田 富津市 千葉県

左手、富津千種新田郵便局を通り過ぎ、内房線の「新田踏切」を渡る。街道はそこから逆V字形に切り返しているが、線路で分断され渡れない。踏切で引き返し旧道復活点にもどる。200m余り行った丸獣医科医院前の丁字路を左折、再び線路で分断されているので、線路沿いに南下して千種街道踏切をわたり、復活地点にもどる。千種街道踏切への三叉路を直進して国道465号で内房線の東側を佐貫に向けて下る。岩瀬川を渡って、道なりに内房線のガードをくぐり、その先の信号を左折する。

直進すると国道は海岸にでるのでそのまま寄り道をした。大貫海浜児童公園から朝日を受けて輝く小久保漁港に繋がる。

弁天山古墳・小久保藩陣屋跡 小久保 富津市 千葉県
弁天山古墳・小久保藩陣屋跡 小久保 富津市 千葉県

弁天山古墳は5世紀後半に造られた墳丘長87.5mの前方後円墳で、高さ8.5mの後円部に竪穴式石室がある。この竪穴式石室は、付近の海岸から持ち運ばれた凝灰質砂岩の自然石によって壁面を積み上げ、その上部に加工された大形の天井石を載せたものである。石室の規模は全長4.9m、幅96cm、高さ75cm、石積み全体の範囲は南北7m、東西6mに及ぶ。この石室で最も特徴的なのは、中央の天井石の両側に造り出された ……

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弁天山古墳は5世紀後半に造られた墳丘長87.5mの前方後円墳で、高さ8.5mの後円部に竪穴式石室がある。この竪穴式石室は、付近の海岸から持ち運ばれた凝灰質砂岩の自然石によって壁面を積み上げ、その上部に加工された大形の天井石を載せたものである。石室の規模は全長4.9m、幅96cm、高さ75cm、石積み全体の範囲は南北7m、東西6mに及ぶ。この石室で最も特徴的なのは、中央の天井石の両側に造り出された 「縄掛突起」 で、石を運ぶときにここに縄を掛けて引いたといわれるものである。縄掛突起は石棺の蓋石などにしばしば見られるが、石室の天井石に用いられた例は少なく、奈良県室宮山古墳などの畿内の大王クラスの古墳に幾つかの例が知られるのみである。 なお3個の天井石のうち、北側の1個は、加工しない自然石が使用されている。石室の発掘調査は昭和2年と昭和51年に行われており、鋲留甲冑・刀・剣・鉄鏃・鎌などの副葬品の破片が出土している。 なお石室は本来、地中に埋まっているものであるが、史跡としての整備に伴って、見学可能なように覆屋を設けて保存している。 平成20年7月20日 富津市教育委員会 小久保藩邸・藩校跡 富津市中央公民館付近の敷地は、明治元年(1868)から明治4年(1871)7月までの4年間小久保藩が置かれ、藩邸・藩校等が所在していた場所である。初代藩主田沼意尊は、江戸時代中期の10代将軍家治時代に老中であった田沼意次から数えて9代目の子孫に当たる。明治元年5月、旧将軍家の徳川家達が駿河へ退き、府中藩が成立したのに伴って、遠江相良藩1万石の田沼意尊が、上総天羽郡・周准郡へ領地を移され、小久保に陣屋を構えた。以下略 平成22年11月25日 富津市教育委員会

街道にもどる。信号を左折し東に進むとすぐ左手に富津市役所大貫連絡所があり、その東側に弁天山古墳がある。古墳への登り口に弁天山古墳の説明板と並んで、小久保藩陣屋跡の石碑が立つ。明治元年(1868)9月、遠江・相良藩1万石の第三代藩主田沼意尊(おきたか)が上総天羽・周准(すす)郡に入封し、この地に陣屋を築いたが4年で廃藩となった。

弁天山古墳は全体が露出していて登りやすく頂上からの見晴らしもよい。後円部に竪穴式石室が保存されており、格子窓から覗くと石室を覆う二枚の大きな天井石の先に亀の首のような縄架け突起が出ている。石を運ぶときにここに縄をかけて引いたという。珍しいものを見た。

旧道・JR内房線(小久保踏切) 小久保 富津市 千葉県
旧道・JR内房線(小久保踏切) 小久保 富津市 千葉県

街道は坂を下って小久保踏切を渡る。ちょうど警笛が鳴って南から電車がやってきた。事前に進行方向がわかっていれば電柱を避けてもっとよいアングルを捕えられたのだが・・・。

旧道 小久保 富津市 千葉県
旧道 小久保 富津市 千葉県

街道は線路を離れて大貫小学校の先の交差点を直進していく。久しぶりに昔の風景を残した本格的な旧街道に巡り合えた。

左手に白木の鳥居があり、奥に岩を穿った祠がある。

東京湾観音 小久保 富津市 千葉県
東京湾観音 小久保 富津市 千葉県

その先の二股を右にとって内房線の海老田踏切を渡り、国道465号に合流する。小久保踏切から海老田踏切までほぼ2kmの気持ち良い旧道であった。

国道を左折して佐貫に向かう。ほぼ中間くらいのところで東京湾観音参道が出てくる。整備された坂をひとしきり上っていくと大坪山(標高120m)の頂上に目にもまぶしい白衣の観音が立っていた。56mという高さだ。君津出身の材木商、宇佐美政衛(うさみ まさえ)が昭和36年に世界平和を願って建立した。

旧道途絶地点 亀田 富津市 千葉県
旧道途絶地点 亀田 富津市 千葉県内房線佐貫町駅北方

街道にもどり、国道465号は佐貫駅北方で内房線を跨ぐ。旧道は少し手前、内房線のトンネル出口先で線路を跨いでいた。

旧道 佐貫 富津市 千葉県
旧道 佐貫 富津市 千葉県

跨線橋を下りてから、線路で分断された旧道端にもどる。旧道は駅に向かわないで左に折れていく。道なりに進んでいくとカネイ理容の前で国道465号に出た。旧道はそこから引き続き国道を斜めに横切ってカネイ理容の東側に続いている旧道に入っていく。佐貫は房総往還の宿場でありまた佐貫城下町であるがその町はこの地点から500mほど東に入った佐貫交差点から内陸部に向かって延びているのだ。つまり海岸ルートの房総往還は佐貫の町の西端を素通りしていく道筋になっている。内陸ルートはまさに東から城下を通って佐貫交差点を通り、カネイ理容のところから南下して湊をめざす道筋になっていて、自然なように思える。

という訳で、ここで佐貫の町を散策しつつ内陸ルートの終点部分を歩いてみようと思う。

宮醤油店 佐貫 富津市 千葉県
宮醤油店 佐貫 富津市 千葉県創業天保5年(1834)

佐貫交差点の角には大きな醤油樽が置いてあって樽には「天保五年創業(1834)江戸の味を伝えて160年」と、老舗宮醤油がその歴史を誇っている。芳しい香りを漂わす建物は国の登録有形文化財である。冠木門を構え、板壁の店舗の両側には白漆喰に黒板壁の蔵を配して堂々とした威風である。店の分厚い窓ガラスには自然のゆがみが波たちこれもレトロな風情を添えている。

相模屋 佐貫 富津市 千葉県
相模屋 佐貫 富津市 千葉県

宮醤油の東隣も相模屋という大正ロマンの洋風店舗が趣ある佇まいを見せている。

蔵店(大網家) 佐貫 富津市 千葉県
蔵店(大網家) 佐貫 富津市 千葉県

道向かいにも重厚な白壁店蔵が建っていて、風情ある家並みの一角を担っている。

曲尺手 佐貫 富津市 千葉県
曲尺手 佐貫 富津市 千葉県国道163号

商人町風の町並みの中を東進すると、みごとな曲尺手に出た。街道内陸ルートはここを左折して国道127号にそって君津方面に向かう。

日月神社 佐貫 富津市 千葉県
日月神社 佐貫 富津市 千葉県当日月神社は、第十二代景行天皇の御代に、日本武尊が東夷鎮定の途上、上総国鬼泪山鬼退治にあたりこの地に日月の幟を立て、尊崇する日月の神即ち天照大神、耳読尊に武運を祈った事がその創始であり、その後日月の神とその弟神素蓋嗚尊が鎮座され日耳神社として万民の安寧をお護り下さるようになった。以下略

ここでは曲尺手を左折したすぐ右手にある日月神社を見るだけにして、曲尺手を右にとって佐貫城跡に急ぐ。佐貫中学の南側から日枝神社にかけて手入れされた生垣をめぐらした民家が続く。

佐貫城址入口・一本杉 佐貫 富津市 千葉県
佐貫城址入口・一本杉 佐貫 富津市 千葉県

佐貫城(亀城)は室町時代にさかのぽり文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説ありその後里見、武田、朝倉、加藤、大河内の諸氏城主となったといわれる 天正年間 内藤家長、同政長 元和年間 松平忠重 寛永・寛文年間 松平勝隆、同重治 一時廃城 元禄年間 柳沢保明 一時廃城 宝永7年5月阿部正鎮三河苅屋城より移り(1万6千石)それより正興、正賀、正賓、正簡、正嵩、正身の居城たり 8代正恒時明治維新によっ……

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佐貫城(亀城)は室町時代にさかのぽり文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説ありその後里見、武田、朝倉、加藤、大河内の諸氏城主となったといわれる 天正年間 内藤家長、同政長 元和年間 松平忠重 寛永・寛文年間 松平勝隆、同重治 一時廃城 元禄年間 柳沢保明 一時廃城 宝永7年5月阿部正鎮三河苅屋城より移り(1万6千石)それより正興、正賀、正賓、正簡、正嵩、正身の居城たり 8代正恒時明治維新によって廃城(明治4年5月)となる 昭和61年6月 亀城連

Y字路手前に一本杉が立つ石垣が佐貫城跡入口である。佐貫城(亀城)の築城は室町時代に遡り、応永年間(1394)武田氏による説と文安年間(1444)長尾氏によるとする二説がある。その後、里見、武田、朝倉、加藤、大河内と城主が次々と代わった。江戸時代になって二度の廃城の時期を経て宝永7年(1710)、阿部正鎮が三河刈谷から移封され佐貫城を再興した。その後明治維新まで阿部氏8代にわたる統治が続いた。

佐貫城址・空堀 佐貫 富津市 千葉県
佐貫城址・空堀 佐貫 富津市 千葉県
佐貫城址・本丸跡 佐貫 富津市 千葉県
佐貫城址・本丸跡 佐貫 富津市 千葉県

案内図によれば手前から三の丸、二の丸とつづいて本丸跡に至る。山道を上がって行くと二の丸跡に水を湛えた堀跡が残っていた。本丸跡は林の中で、展望はきかない。そばに展望台への標識があったので、さらに山道を登って見晴らしのきく頂上に出た。遠く右手の山上に東京湾観音が小さく見える。

旧道合流点(カネイ理容店) 佐貫 富津市 千葉県
旧道合流点(カネイ理容店) 佐貫 富津市 千葉県上: 旧道(海岸通り)から国道465号に出て左折、すぐ右折(下写真へ) 下:国道465号(旧道内陸通り)から手前を左折、旧道に入る 前方右手に旧道出口

城山を下り来た道をカネイ理容店脇の旧道までもどる。

旧房総往還 亀田 富津市 千葉県
旧房総往還 亀田 富津市 千葉県

街道は佐貫の町を出て県道256号に合流、八幡街道踏切を渡り田園の広がる中を海に向かって進む。車も時々通るだけで、通り抜ける集落も静かなものである。

鶴峯八幡神社 八幡 富津市 千葉県
鶴峯八幡神社 八幡 富津市 千葉県

鶴峯八幡神社は、富津市八幡字鶴屋敷にあり、古来より天羽郷の内15ヶ村の鎮守で、明治12年(1879)郷社に列せられた。その草創は元正天皇の養老年間(717~723)と伝える。祭神は譽田別尊、玉衣姫命、神功皇后の三柱で、中世源頼朝、上総介広常等による神領の寄進があった。その後、上総国に入った武田氏の祈願するところとなり、永正4年(1507)11月28日、武田信嗣信秋により再興された。 以下略 平成 ……

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鶴峯八幡神社は、富津市八幡字鶴屋敷にあり、古来より天羽郷の内15ヶ村の鎮守で、明治12年(1879)郷社に列せられた。その草創は元正天皇の養老年間(717~723)と伝える。祭神は譽田別尊、玉衣姫命、神功皇后の三柱で、中世源頼朝、上総介広常等による神領の寄進があった。その後、上総国に入った武田氏の祈願するところとなり、永正4年(1507)11月28日、武田信嗣信秋により再興された。 以下略 平成 年3月1日 富津市教育委員会

染川を渡り道が右に曲がって左折する角に鶴峯八幡宮がある。草創は養老年間(713~723)と伝わる古社である。源頼朝が安房から北上してこの地を通った際、武運長久を祈願して短刀を奉納したとも伝えられる。里見・武田氏以来歴代佐貫城主たちの寄進を受けてきた。まだ新しい石畳の参道をすすむと鮮やかな朱塗の社殿が晴れ晴れとした姿で佇んでいる。9月の例大祭では御浜出神事とよばれ三基の神輿が新舞子浜の海に担ぎ出される。

新舞子海水浴場 八幡 富津市 千葉県
新舞子海水浴場 八幡 富津市 千葉県

街道からその新舞子浜に出てみた。誰もいない海だが、右手に東京湾観音が真正面に見えた。方向としては真北にあたる。

旧房総往還 笹毛 富津市 千葉県
旧房総往還 笹毛 富津市 千葉県

街道(県道256号)は断崖上を海に沿って走っている。道と浜辺の狭い斜面に別荘風の建物や保養所が建ち並んでいる。やがて街道は海から離れて内陸に曲がっていく。左手に切通しの崖面を穿って二体の地蔵が祀られている。セメントを流したような岩肌である。

旧房総往還 湊 富津市 千葉県
旧房総往還 湊 富津市 千葉県国道127号をS字状に2度横断 切通しで分離された岩山を回り込む
内房線(笹毛踏切) 笹毛 富津市 千葉県
内房線(笹毛踏切) 笹毛 富津市 千葉県

JR内房線笹毛踏切を渡り、一路南をめざす。長浜信号で国道127号に合流、交通量が急に増える。左に大きく曲がった先で左手の旧道に入る。すぐに国道を横切り、郵便局の脇をとおり切通しで分断された断崖端を回り込み、再び国道を横断して集落内の旧道を通り抜けて国道にもどる。

旧房総往還(左入る) 湊 富津市 千葉県
旧房総往還(左入る) 湊 富津市 千葉県

JR上総湊駅前を通り過ぎ400m余り行ったところで左手に旧道が分かれている。歩道と並行した後左にまがって住宅街の中に入っていく。歩行者専用道路ほどの狭い道である。

旧房総往還 湊 富津市 千葉県
旧房総往還 湊 富津市 千葉県

手入れされた生垣がつづく民家の間をたどっていくと小さな変則十字路に出る。竹垣や房総石の石積みを備えた落ち着いた家並みが緩やかなS字状の下り坂に沿って続き、旧道の風情あふれる一角をなしている。細道は湊済寺の脇を通って県道93号に出る。

旧房総往還・曲尺手 湊 富津市 千葉県
旧房総往還・曲尺手 湊 富津市 千葉県県道93号を鉤型(左ー右)に渡る

ここは曲尺手になっていて、旧道はわずかに東にずれて丁字路を右折し、湊川を渡っていく。曲尺手に湊町バス停があるところからこの付近が昔でいえば札の辻にあたる町の中心地なのであろう。

上総湊港 湊 富津市 千葉県
上総湊港 湊 富津市 千葉県

ここで街道を離れて、県道を逆の海側に進み湊信号で国道を横断し、海に向かう。湊交差点の南角に湊町道路元標があった。県道93号が海に突き当たったところが上総湊港海浜公園になっている。

湊川河口が漁港である。JR鉄橋を内房線の電車が渡っていった。

旧房総往還・湊橋 湊 富津市 千葉県
旧房総往還・湊橋 湊 富津市 千葉県

港からの帰り道、左に出ている曲がりくねった細い路地をたどって神明神社に立ち寄る。仲町公民館と隣り合わせであった。鳥居をくぐった所にある手水鉢は古く見えないが側面には天保6年(1835)の銘が読み取れた。

湊橋、JR内房線 湊 富津市 千葉県
湊橋、JR内房線 湊 富津市 千葉県

街道に戻って、湊橋で湊川を渡る。下流に架かる国道の橋名も湊橋である。普通旧橋の名に、「新」をつけたり、「大橋」などとするものだが、ここはなぜか同じ名の橋が並んでいる。その橋の向こうの鉄橋に内房線の電車が走っていった。

道標・旧房総往還 湊 富津市 千葉県
道標・旧房総往還 湊 富津市 千葉県←天神山村賣津ヲ経 ←湊町ヲ経テ佐貫町及 →竹岡村ヲ経テ金谷

左から下りてくる道との合流点に指指道標が立っている。三方を示して「竹岡村ヲ経テ金谷」「湊町ヲ経テ佐貫町及」「天神山村賣津ヲ経」と読める。

旧道は警察署前で国道127号にでるが、その手前に天神社の案内板があって、その中の地図に、旧湊橋を渡ってきた道に「旧道」と記されているのを見て勇気づけられた。

旧房総往還(右) 海良 富津市 千葉県
旧房総往還(右) 海良 富津市 千葉県

国道を横切ってすぐに右手の旧道に入る。旧道を国道が分断した形である。旧道は細い下り道で、まもなく内房線の海良踏切を渡る。元あった道幅を故意に狭くして車が通れなくしている。そのすぐ先にも国道との連絡道路があるので地元住民に不便はないということか。

竹岡

旧房総往還・村境碑 竹岡/海良 富津市 千葉県
旧房総往還・村境碑 竹岡/海良 富津市 千葉県君津郡竹岡村 左方法面:村境碑 房総往還:直進 薬王寺:右折

二つ目の連絡道路と合流したすぐ先で旧道は国道の下を直進する。左手法面に村境を示す石標があった。「君津郡竹岡村」と刻まれている。現在では富津市内の海良と竹岡地区との境界線だ。

薬王寺 竹岡 富津市 千葉県
薬王寺 竹岡 富津市 千葉県

千葉県指定天然記念物 竹岡のオハツキイチョウ 一樹 昭和40年4月27日指定 このイチョウは雌樹であり、樹高18m、根回り3.1m、目通幹囲2.1m、枝張り南北15m、東西14m、樹勢は極めて旺盛である。結実は非常に多い。 この葉上種子の大きさは、「神崎のオハツキイチョウ」とほぼ同種で、葉やその他生態的なことは同じである。 このオハツキイチョウは、文化9年(1812)奥州白河藩主松平越中守定信が、……

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千葉県指定天然記念物 竹岡のオハツキイチョウ 一樹 昭和40年4月27日指定 このイチョウは雌樹であり、樹高18m、根回り3.1m、目通幹囲2.1m、枝張り南北15m、東西14m、樹勢は極めて旺盛である。結実は非常に多い。 この葉上種子の大きさは、「神崎のオハツキイチョウ」とほぼ同種で、葉やその他生態的なことは同じである。 このオハツキイチョウは、文化9年(1812)奥州白河藩主松平越中守定信が、本堂、薬師堂再建の大檀那として自ら領国白河より取り寄せ手植えしたものと伝えられる。 昭和59年1月1日 千葉県教育委員会 富津市教育委員会

その手前の二又を右に折れて薬王寺に寄っていく。湊川河口の南岸を望む手前に薬王寺がある。説明板は薬王寺についてではなくて、オハツキイチョウに関するものだった。文化9年(1812)白河藩主松平定信が自ら白河より取り寄せて手植えしたものと伝えられる。松平定信は富津陣屋を築いた人物として親しい。

住吉神社 竹岡 富津市 千葉県
住吉神社 竹岡 富津市 千葉県

街道にもどり鬱蒼とした林に入る。海が覗き見える右手に住吉神社がある。林をぬけ旧道は国道127号に合流する。

旧房総往還(右入る) 竹岡 富津市 千葉県
旧房総往還(右入る) 竹岡 富津市 千葉県

北町バス停の右手に旧道が残っている。湊でみたものと同じく、断崖が国道によって切り通された跡に残された岩塊である。回り込んでいくと左手の岩塊は垂直に鋭く切り立っている。海側の旧道でさえ深く切り通して造られた。右手にまだ山の残余がある。旧道はすぐに国道にもどり、竹岡の町内に入っていく。

松翁院 竹岡 富津市 千葉県
松翁院 竹岡 富津市 千葉県

庚申塔 この庚申塔は、市内では最古のものであり、県内でも数番目に古いものである。塔身高1m37cmの一石造リで、中央に蓮台に乗って合掌する仏の立像を、その下部に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を彫り出し、その下に蓮弁の台座を彫リ、その下が基壇となっている。 仏像の右側には、「告龍集承応二年癸己六月廿五日」左側には「上総国天羽郡百首村敬白」の文字が陰刻され、基壇正面iには「本願主」とレて、16人の連……

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庚申塔 この庚申塔は、市内では最古のものであり、県内でも数番目に古いものである。塔身高1m37cmの一石造リで、中央に蓮台に乗って合掌する仏の立像を、その下部に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を彫り出し、その下に蓮弁の台座を彫リ、その下が基壇となっている。 仏像の右側には、「告龍集承応二年癸己六月廿五日」左側には「上総国天羽郡百首村敬白」の文字が陰刻され、基壇正面iには「本願主」とレて、16人の連名が刻まれている。時まさに星宿るは承応2年(1653)癸巳(みずのとみ)の6月25日、百首村(旧竹岡村)の庚申講16名が本願をかけ、建立したものである。 仏像の頭部や三猿の手足の一部が欠損レているのは残念であるが、当地方の民間信仰や造塔技術を知る上で、貴重な文化遺産である。 庚申信仰について 中国の道教では、人間の体内には三尸(さんし)という三種の虫がいて、その人を監視しているとされる。庚申(かのえさる)の晩に人の寝静まるのを待って、脱け出レて天帝にその人の罪過を告げ、罪状によっては様々な禍を与えられるから、庚申の夜は身を慎んで徹夜をせよと説いた。 そこで、三尸が天に昇れないようにするため、この夜は人々が集って神々を祀り、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。 奈良時代の末頃から詩歌管弦の宴として宮廷を中心に始まったこの庚申信仰の行事は、室町時代に仏教的になり、江戸時代に入ってからは修験道や神道とも習合し、地域によっては農耕神や塞ぎの神の信仰とも合わせながら、近隣の庚申請の人々による庚申待ちの風習として民衆にも広まった。 庚申塔の多くは、庚申請を3年18回続けた記念に建立された。 平成18年3月31日 富津市教育委員会

国道に出て200m足らずで今度は左手の旧道に入り松翁院(十夜寺)に立ち寄る。境内には承応2年(1653)の古い庚申塔があり傍に庚申信仰についての詳しい説明板がある。古代は夜を徹しての酒盛りが行われたとあり、歌垣まがいの享楽的な行事かという印象を抱いていた。その後徐々に宗教的な色彩を強めていったようである。しかし庚申待ちと称して夜に集う風習の中に快楽的要素がなかったかといえば疑わしい。

岩野平左衛門の墓(松翁院) 竹岡 富津市 千葉県
岩野平左衛門の墓(松翁院) 竹岡 富津市 千葉県

江戸時代中期、延宝のころ、百首(ひゃくしゅ)村(現富津市竹岡)を知行していた旗本の秋元隼人正時朝が、重税を取り立てたので、村民は大変困窮した。時の名主平左衛門は、敢然とこれに抗議したが、この行為が掟に触れるものとして、延宝8年(1680)10月30日に処刑された。特に47歳。その後、村民は平左衛門のこの犠性的行為に感じて岩平様と呼び、岩年大権現として祀っており、またその百年忌には「寿荘院殿厳誉利善……

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江戸時代中期、延宝のころ、百首(ひゃくしゅ)村(現富津市竹岡)を知行していた旗本の秋元隼人正時朝が、重税を取り立てたので、村民は大変困窮した。時の名主平左衛門は、敢然とこれに抗議したが、この行為が掟に触れるものとして、延宝8年(1680)10月30日に処刑された。特に47歳。その後、村民は平左衛門のこの犠性的行為に感じて岩平様と呼び、岩年大権現として祀っており、またその百年忌には「寿荘院殿厳誉利善栄山大居士」と追贈された。今日も盛大に行われる十夜法要も、3年忌の天和2年(1682)10月から、村内の安全と義人岩の平左衛門の慰霊を兼ねて始められた行事である。 平成17年3月31日 富津市教育委員会

墓地にひときわ目だつ地蔵が海を背にして立っている。竹岡義民、岩野平左衛門の墓である。江戸時代延宝の頃、百首(ひゃくしゅ)村の名主平左衛門は、時の旗本による重税に敢然と抗議したが、報われず延宝8年(1680)47歳で処刑された。その慰霊を兼ねた十夜法要は平左衛門の三回忌以降今日にまで至っている。

旧道は国道に戻り、白狐川を千歳橋で渡る。振りかえってみれば、これという町の中心街をぬけた印象が残っていない。房総往還の継立場があった場所というのはどこなのか。なおJR竹岡駅はここから2km先の荻生という集落にある。

城山(造海城跡) 竹岡 富津市 千葉県
城山(造海城跡) 竹岡 富津市 千葉県

右手に見えるこんもりした山は造海(つくろみ)城跡である。造海城は寛正2年(1461)武田氏一族真理谷氏によって築城、里見氏に引き継がれた後天正18年(1590)里見氏が安房一国に減封されたときに廃城となっている。その後幕末になって沿岸防備のため竹岡陣屋(跡地は竹岡小学校)を置いた会津藩によって砲台が築かれた。

旧房総往還 竹岡 富津市 千葉県
旧房総往還 竹岡 富津市 千葉県内房線線路を越えて左手農道を行く

旧道は千歳橋の手前から左斜めに出て白狐川をわたり、内房線にむかって延びていた。橋を渡って左折して旧道道筋に入る。

旧房総往還(見返り) 竹岡 富津市 千葉県
旧房総往還(見返り) 竹岡 富津市 千葉県

旧道は内房線に分断されているが踏切もなく、そのまま越えていく。田畑の中にひっそりとのびる道はやがて坂を上がった所で三叉路に出る。その前方と右手に手掘りの隧道が現れる。岩と穴に立ち塞がれた異様な空間である。この真下を内房線がくぐり抜けている。鉄道トンネルの真上に車道トンネルを立体交差させているのだ。

旧房総往還(城山隧道前十字路) 竹岡 富津市 千葉県
旧房総往還(城山隧道前十字路) 竹岡 富津市 千葉県
灯籠坂大師堂参道 竹岡 富津市 千葉県
灯籠坂大師堂参道 竹岡 富津市 千葉県

右方の短いトンネルを抜けてみる。車道トンネルの長さは線路を跨ぐだけの短いもの。その先で国道127号に繋がっていて、出口に「灯籠坂大師堂参道」と書かれたゲートが仰々しく建っている。

城山隧道 竹岡 富津市 千葉県
城山隧道 竹岡 富津市 千葉県左: 入口

国道127号用の城山隧道は昭和18年(1943)の開通、延長131m、幅5.6mと古くて短く狭い。大型トラックは入口で対向車に大型車がないことを確認してから入る。その結果、館山道が開通するまではひどい渋滞で知られていた。その横に歩道用トンネルが昭和54年(1979)造られ歩行者の安全は確保された。

旧房総往還(旧城山隧道) 竹岡/萩生 富津市 千葉県
旧房総往還(旧城山隧道) 竹岡/萩生 富津市 千葉県

大師堂参道を引き返し、旧道にもどる。真正面の灯籠坂隧道は入口も出口も高い岩盤を手で掘り進み、残りを刳りぬいた形で異常に高いトンネルとなった。極細楕円の上半分を切り取った形で、岩を削った痕跡と斜めに走っている地層の線とが相まって妙な形状である。

燈籠坂大師堂 荻生 富津市 千葉県
燈籠坂大師堂 荻生 富津市 千葉県

灯篭坂大師は弘法大師空海を本尊としてお祀りしてぃます。 大師は宝亀5年(744)6月15日、四国讃岐の国に誕生されました。15歳の時叔父の阿刀大足に論語・孝経・史伝を学び、岡田博文につき儒学を修めました。 20歳の時、勤操大徳により仏門に入り、名を空海と改め四国の山野を巡り修行すると同時に仏教学について研究を重ねました。宝亀22年(804)遣唐使藤原葛野麻呂と同船し中国に留学し、都長安で、青龍寺恵……

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灯篭坂大師は弘法大師空海を本尊としてお祀りしてぃます。 大師は宝亀5年(744)6月15日、四国讃岐の国に誕生されました。15歳の時叔父の阿刀大足に論語・孝経・史伝を学び、岡田博文につき儒学を修めました。 20歳の時、勤操大徳により仏門に入り、名を空海と改め四国の山野を巡り修行すると同時に仏教学について研究を重ねました。宝亀22年(804)遣唐使藤原葛野麻呂と同船し中国に留学し、都長安で、青龍寺恵果和尚に従い真言宗の奥儀を授かりました。大同元年(806)、帰国、諸所に寺院を建立しました。弘仁5年(814)、日光補陀落山の開山勝道上人の求めにより碑文を作りました。弘仁11年(820)7月26日、弟子の眞済、幹海を伴ない日光山に下りました。 当時の東海道は伊豆から海路をとり上総の保田、金谷に上陸するのが本道でした。大師は途中此の地をお通りになった時に岩に自画像を刻みました。大師が去った後、里人は大師の徳を慕い、ここに常夜灯を点じ海上安全、大漁を願い大師象を礼拝し帰依しました。これより、海、沖で漁をする舟は山上の大師の御燈明を灯台としました。里人は誰言うともなく灯籠坂大師というようになり、信仰を深めご利益をいただいています。

灯籠坂隧道を抜けると、左手に鳥居が立ち、灯籠の建ち並ぶジグザグの石段を上りつめた尾根付近に灯籠坂大師堂がある。弘法大師所縁の場所であるが、その背景として「当時の東海道は伊豆から海路をとり上総の保田、金谷に上陸するのが本道でした。」とある説明は興味深い。源頼朝も同じ経路をたどったのであろうか。

旧道途絶(燈籠坂大師堂先) 荻生 富津市 千葉県
旧道途絶(燈籠坂大師堂先) 荻生 富津市 千葉県

旧道はその先で内房線を渡る。かつてはあったであろう踏切はない。JR変電所を回り込んで小さな集落を抜けて「津浜」バス停で国道に合流する。右手に緑の尖塔が見える。人造小島かと思って国道を渡って近づくと浜辺に建つ民家の屋根だった。

津浜 荻生 富津市 千葉県
津浜 荻生 富津市 千葉県

右手の路地を下っていくと津浜海水浴場にでる。瀟洒な保養所や研修所が海に向かって建つ景色のよい海岸である。波が洗う砂岩の相が美しい。

旧道 荻生 富津市 千葉県
旧道 荻生 富津市 千葉県

国道にもどり、街道は左に大きく曲がっていく。萩生集落の入口あたりで左に分かれる250mほどの旧道に入っていく。三叉路角にある東善寺は本堂が改築工事の真最中であった。

一旦国道にもどってすぐに左の旧道に入る。今度も300mほどの短い旧道だがその中間辺りで竹岡駅入口を通過する。萩生集落の真ん中である。竹岡集落と竹岡駅の位置関係が不可解だ。

竹岡町内旧道 荻生 富津市 千葉県
竹岡町内旧道 荻生 富津市 千葉県

旧道はゆるやかに右に曲がりだし、左の段丘の裾はきれいな石積で整えられ、右側の生垣との間に趣ある旧道風景を作り上げていた。

黄金井戸・竹岡のヒカリモ 荻生 富津市 千葉県
黄金井戸・竹岡のヒカリモ 荻生 富津市 千葉県

ヒカリモは黄金藻類に属する単細胞の藻です。細胞内に赤黄色の色素をもつとともにお碗形の色素体を含んでいて、それが洞穴内に入ってくる光を反射させます。特に菜の花の咲くころ水面に多数浮遊するため、水が黄金色に輝いて見えます。ここの洞穴は高さ3m奥行5m幅3mほどの大きさですが、いつも水がたまっており、周りの環境や水温などがヒカリモの発生に適しているようです。ヒカリモ自体は全国各地に見られますが、毎年同じ……

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ヒカリモは黄金藻類に属する単細胞の藻です。細胞内に赤黄色の色素をもつとともにお碗形の色素体を含んでいて、それが洞穴内に入ってくる光を反射させます。特に菜の花の咲くころ水面に多数浮遊するため、水が黄金色に輝いて見えます。ここの洞穴は高さ3m奥行5m幅3mほどの大きさですが、いつも水がたまっており、周りの環境や水温などがヒカリモの発生に適しているようです。ヒカリモ自体は全国各地に見られますが、毎年同じ所に定期的に多量に発生する例はごくまれで、ここはその典型的な例ですし又わが国で最初のヒカリモ発見地としての意義もあり、天然記念物指定基準「池泉等の珍奇な微生物の主ずる地域」に該当し指定されました。 古くから土地の人は「黄金井戸」と呼んで洞穴に弁財天を祀って大切に保護してきました。このように学術的に貴重な場所ですから洞穴内を汚さないよう充分注意して下さい。 昭和59年5月 文部省 千葉県教育委員会 富津市教育委員会

旧道が国道と合流する左手に、国指定天然記念物「竹岡のヒカリモ」で知られる名勝地「黄金井戸」がある。鳥居の背後に洞窟があって、その中に溜まった水が鈍い黄金色を放っている。洞穴内に自生繁殖したヒカリモが光を反射させるのだそうだ。日が傾きはじめた時刻で心配だったがまだ藻が反応するに十分な日光を受けていたようであった。

荻生漁港 荻生 富津市 千葉県
荻生漁港 荻生 富津市 千葉県

西日を浴び始めた荻生漁港の北方に、海に突き出した城山が見える。

打越トンネル 荻生 富津市 千葉県
打越トンネル 荻生 富津市 千葉県

萩生の集落を出て国道を南に向かう。これからしばらく数多くのトンネルをくぐっていく。国道127号はトンネルの数が多いので全国に知られるほどである。この旅ではできる限り明治時代に開削された旧隧道を探ることにする。さらにはトンネル山の鞍部を越えたであろう江戸時代の峠越えの道跡が残っていれば、そこを歩こうと思っている。熊の心配がない房総ならではの贅沢である。

旧打越峠入口(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県
旧打越峠入口(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県左手山中へ
旧打越峠(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県
旧打越峠(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県

城山隧道を第1号として、前方に第2の打越トンネルが見えてきた。打越隧道は31mと短い。概して房総往還を分断する多くのトンネルは房総の背骨から枝分かれした山稜が海に落ち込む岬の岩塊を掘削したもので、短いだけでなく山自体も低い。この程度なら切り通してしまえば、と思うほどのトンネルもある。それは、峠越えの道もたいしたことはない、ということでもある。

旧打越峠(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県
旧打越峠(旧房総往還) 荻生 富津市 千葉県

打越隧道の前にきた。左にも大きな口が開いていて、その中央に小さな穴が掘られていた。何かしらないが隧道ではない。右手に細い道が出ていて、これが旧道らしい。右手は開発工事中で、旧道は作業道路化している。道は海辺で途絶えていたが、左の山側を見ると獣道の入口を認めることができた。

旧打越峠 荻生 富津市 千葉県
旧打越峠 荻生 富津市 千葉県上: 竹岡側より峠 下:金谷側より見返り

藪と倒木の中を入り込んでいくと石垣跡が残る山道が現れ、右に回り込んだ先に美しい切通しが待っていた。わずか数十メートルの峠道である。峠の先はすぐに断崖となって道は絶えている。

旧打越峠(金谷側出口) 荻生 富津市 千葉県
旧打越峠(金谷側出口) 荻生 富津市 千葉県民家脇で国道127号に合流

垂直の崖は数メートルほどの高さで、無理すれば石垣を下りられなくもなさそうである。ただしそこは私有地らしく、建物の脇を旧道が通って国道に合流しているのが覗かれた。来た道をもどって現在の隧道を抜ける。

(2014年2月)

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