越後路(北陸道) 5区間のうち2番目

越後路(北陸道)(2)

新潟-赤塚-稲島-岩室-弥彦

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新潟

新潟

寄り道 福島潟

福島潟 新鼻 北区 新潟市 新潟県
福島潟 新鼻 北区 新潟市 新潟県福島潟は、五頭連峰を主な水源とする県内最大級の湖沼で、鳥や花や人が一体となってオリナス四季折々の新潟の原風景を今に残しています。この自然は、「日本の自然100選」「日本の音風景100選」「全国水の郷百選」などに選ばれています。

県道3号で福島潟放水路を渡った先の内島見東交差点を左折して県道46号を3kmあまり南下した嘉山の信号十字路を左折して県道264号に入ると福島潟に至る。福島潟は新潟砂丘により阿賀野川などの河川の流れがさえぎられ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積してできた。江戸時代に市島氏等が主導して福島潟の干拓が進められたが完結しなかった。福島潟は塩津―新潟水系のほぼ中間点にあたる。芭蕉は塩津潟から川を継いでこの福島潟に入って来たに違いない。

寺山不動尊火産霊神社 寺山3丁目 東区 新潟市 新潟県
寺山不動尊火産霊神社 寺山3丁目 東区 新潟市 新潟県

県道3号の内島見東交差点にもどり新潟に向かって西進を続け泰平橋で阿賀野川をわたる。国道7号の海老ケ瀬インター信号をくぐって県立大学前信号から二つ目の信号交差点(大形本町3・4・5丁目の境界)で県道と分かれて左折して、北国街道浜通りの旧道筋に入っていく。

諏訪神社 上木戸3丁目 東区 新潟市 新潟県
諏訪神社 上木戸3丁目 東区 新潟市 新潟県

寺山不動尊火産霊神社の前で大きく右に曲がっていく。上木戸にはいって左に曲がり常明寺の前を通り、上木戸諏訪神社前の丁字路を右折。道なりに進み右手に牡丹山諏訪神社をみて県道4号を横断する。道は昔あった伊佐池を右に回り込むように進んで左に曲がり、三柱神社を通りすぎる。このあたり狭い道が住宅密集地を縫っていく感じである。

北国浜街道起点 沼垂東3丁目 中央区 新潟市 新潟県
北国浜街道起点 沼垂東3丁目 中央区 新潟市 新潟県

新栗ノ木川を渡り、鵜又踏切を横断して白山神社前の沼垂白山信号丁字路に突き当たる。街道はここを右折して沼垂東3丁目交差点に至る。

沼垂は蝦夷対策拠点として大化3年(647)に築かれた渟足柵の比定地である。河道変化の影響で沼垂は4度も場所を変えたことが知られていて正確な場所はわかっていない。

沼垂東3丁目から新潟古町への道筋は定かでない。西に向かって沼垂東4丁目信号を直進して流作業五差路信号を右折して萬代橋で信濃川を渡る。萬代橋は明治19年(1886)に竣工した新潟市の信濃川に架橋された初めての橋である。それまでは渡船によっていた。

新潟は信濃川と阿賀野川の船運の基点として、また北前船の寄港地にもなり長岡藩の外港として整備され繁栄を極めた。日本最長の信濃川(長野県では千曲川)が日本海に注ぐ新潟を中心とする越後平野は縄文時代は日本海であったという。長い年月をかけて信濃・阿賀野両河川が運んでくる土砂と、日本海対馬海流が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積して現在の越後平野を形成した越後平野は方々に潟が存在する低湿地である。

道路元標・里程標 本町通7番町 中央区 新潟市 新潟県
道路元標・里程標 本町通7番町 中央区 新潟市 新潟県

道路元標は東京日本橋に慶長9年(1604)全国に通じる諸街道の出発点として建てられたのが始まりとされている。この道路元標は大正8年(1919)道路法制定時に初めて木柱で設置されたがその後大正11年(1922)内務省令により現在の石柱に建て替えられたもので里程標にみられるとおり多くの重要な国道の起点終点を示すものである。 一般国道 起点 7号 青森県青森市マデ 518km 8号 京都府京都市マデ 5……

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道路元標は東京日本橋に慶長9年(1604)全国に通じる諸街道の出発点として建てられたのが始まりとされている。この道路元標は大正8年(1919)道路法制定時に初めて木柱で設置されたがその後大正11年(1922)内務省令により現在の石柱に建て替えられたもので里程標にみられるとおり多くの重要な国道の起点終点を示すものである。 一般国道 起点 7号 青森県青森市マデ 518km 8号 京都府京都市マデ 592km 113号 福島県相馬市マデ 238km 289号 福島県いわき市マデ 301km 350号 新潟県上越市マデ 194km 終点 17号 東京都中央区ヨリ 442km 116号 新潟県柏崎市ヨリ 86km 402号 新潟県柏崎市ヨリ 92km

萬代橋をわたっていくと、新潟市でも古くから開け現在も最も繁華な区域に入っていく。本町交差点に新潟市道路現標と里程標があり、この地点を起終点とする国道が記されていて興味深い。国道7号はここより北へ青森市長島1丁目まで518km、国道8号が京都烏丸五条まで592km、双方で京都と青森を結ぶ日本海沿岸の大動脈である。国道17号は日本橋から新潟まで442km、中山道、三国街道、北国街道と次いでいく佐渡金山の道筋であった。

新潟の旧市街地はこの大通りを挟んで南北に走る「通り」と、それらを東西に結ぶ多くの「小路」で形成されている。小路には旧地名や職業名が付されていてその特徴を知ることができる。機械的な名称で片づけなかった。各通りは国道を境にその南に6番町から1番町まで、北の方へは7番町から13番町(本町通りだけは14番町まで)まで規則正しい町割りになっている。

古町通6番町入口 中央区 新潟市 新潟県
古町通6番町入口 中央区 新潟市 新潟県

江戸時代の新潟町には、奉行所のほかに、町会所という役所がありました。現在の第四銀行本店のところに町会所があり、町の有力者が、自治的な行政を行っていました。現在の本町7に面して町会所の表門があり、東掘前7に面して9メートル近い鐘楼があり、その屋上の鐘が「時の鐘」と呼ばれ、町民に時を知らせていました。 明治6年には、本町7の町会所の場所に、いちはやく新潟一等郵便役所が開設されました。その後、新潟一等郵……

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江戸時代の新潟町には、奉行所のほかに、町会所という役所がありました。現在の第四銀行本店のところに町会所があり、町の有力者が、自治的な行政を行っていました。現在の本町7に面して町会所の表門があり、東掘前7に面して9メートル近い鐘楼があり、その屋上の鐘が「時の鐘」と呼ばれ、町民に時を知らせていました。 明治6年には、本町7の町会所の場所に、いちはやく新潟一等郵便役所が開設されました。その後、新潟一等郵便局と改名され、大火により西掘6・本町7と場所を変え、明治45年に東堀7の現在の新潟中郵便局の場所に移転しました。また、明治7年には、町会所の建物を利用して、東堀前7に、全国で4つめの国立銀行として、第四国立銀行が開業しました。

本町通りの一筋西が東堀通り、その西が古町通りでその名の通り旧新潟宿場街であった。芭蕉は信濃川を下って萬代橋西詰あたりに上陸し、大通りの古町交差点を左折して5番町あたりの旅籠に宿を求めたのであろう。結局泊まることになった大工源七の家もこの辺りにあったのではないか。

宗現寺・芭蕉蓑塚 西堀通7番町 中央区 新潟市 新潟県
宗現寺・芭蕉蓑塚 西堀通7番町 中央区 新潟市 新潟県元亀年間(1570~1573)真言律院として開創されたが、慶長元年(1596)法音寺第7世不巌梵学大和尚により曹洞宗に改宗された。境内の蓑塚は、俳聖芭蕉翁が奥羽行脚の途次、この地域に寄ったことを偲んで後人が善導寺に塚を建てたことに始まるが、市内数次の火災に際し、大正6年(1917)、降雨庵、蓑塚は当寺に移設されたと伝えられている。

北国街道は古町通りを南にくだっていく。その前に国道の北側で二か所見ておきたいところがあった。一つは西堀通り7番町にある宗現寺である。境内に芭蕉の蓑を埋めたという蓑塚がある。文政10年(1827)善導寺に建てられたが、市内数次の火災に際し、大正6年(1917)、当寺に移設された。

鍋茶屋通り(新潟花街) 東掘通8番町/古町通8番町 中央区 新潟市 新潟県
鍋茶屋通り(新潟花街) 東掘通8番町/古町通8番町 中央区 新潟市 新潟県

他の一か所は東堀通り8番町と古町通り8番町に挟まれた鍋茶屋通りとよばれる狭い小路である。老舗料亭や割烹が軒を連ね、京都祇園、東京新橋と並び称された古町芸妓で知られる花街である。

置屋 川辰仲 古町通8番町 中央区 新潟市 新潟県
置屋 川辰仲 古町通8番町 中央区 新潟市 新潟県

昭和を代表する名妓川辰仲廣子が生涯慈しみその終の住み家とした由緒ある置屋 館内の雅な襖の数々からは京都職人の技が光り又生活の場であり乍らも使用されている材木にも粋な趣向がとり入れられている。八十年の年月を経ても尚殆ど老朽化せずに残る其の建築技術新潟文化発展の為にも一見に値するものといえよう。その川辰仲を全国に於いても置屋としては初の試み乍ら親族の説明に拠り千円にて見学出来ます。 2015年6月吉日……

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昭和を代表する名妓川辰仲廣子が生涯慈しみその終の住み家とした由緒ある置屋 館内の雅な襖の数々からは京都職人の技が光り又生活の場であり乍らも使用されている材木にも粋な趣向がとり入れられている。八十年の年月を経ても尚殆ど老朽化せずに残る其の建築技術新潟文化発展の為にも一見に値するものといえよう。その川辰仲を全国に於いても置屋としては初の試み乍ら親族の説明に拠り千円にて見学出来ます。 2015年6月吉日 店主

鍋茶屋専属の置屋だった「川辰仲」は名妓廣子が94歳で亡くなった後、その住家であった建物内部を公開している。外壁はモルタル塗りの情緒もない建物だが引き戸と出窓に施された繊細な格子からかすかに置屋の香りが漏れてくる。引き戸に手書きの貼紙があり、1000円払えば内部の京都職人による雅な建具や調度品が見られるようだ。

鍋茶屋光琳 東掘通8番町 中央区 新潟市 新潟県
鍋茶屋光琳 東掘通8番町 中央区 新潟市 新潟県

その向かいが板張り木造3階建ての老舗料亭「鍋茶屋光琳」である。江戸時代末期の弘化3年(1846)にすっぽん料理店として創業した。現在の建物は明治43年(1910)に再建されたものである。3階にある二百畳の大広間は文化庁の登録有形文化財になっている。宴会には川辰仲の芸妓がよばれたのであろう。

旧新潟宿跡 古町通5番町 中央区 新潟市 新潟県
旧新潟宿跡 古町通5番町 中央区 新潟市 新潟県
愛宕神社 古町通2番町 中央区 新潟市 新潟県
愛宕神社 古町通2番町 中央区 新潟市 新潟県平成13年11月3日に新潟市有形文化財(建造物)指定をいただいております。 本殿は、建築時期は1700年代前半増改築もほとんどないのが特徴です。本殿正面の縁側には、1663年(寛文3年)と銘打ってある木造の高麗(こま)犬があります。拝殿は本殿を納める覆屋と一体の建物です。1800年代以前の保存状態が大変よいとされています 。

旧街道筋である古町通りを南に歩いていく。通りはモダンなアーケード商店街で、昔の面影は全くない。6番町から始まって町名標識が律儀に立つ。江戸時代は5番町を中心に旅籠が建ち並んでいた。3番町は遊女屋が多かったそうだ。2番町左手に市内で一番古い木造建造物である愛宕神社がある。本殿は1700年代前半の建築で、拝殿は本殿を納める覆屋と一体になっている。増改築もほとんどなく保存状態がよいとされている。

芭蕉句碑(船江大神宮) 古町通1番町 中央区 新潟市 新潟県
芭蕉句碑(船江大神宮) 古町通1番町 中央区 新潟市 新潟県海に降る 雨や戀しき うき身宿 元禄年間北越路へ旅行せられ新潟に於いてうたわれし松尾芭蕉の「泊船集 付録」に納められた名句 安政4年(1857) 地元の俳句会「柳々舎」献碑

1番町の船江大神宮境内に芭蕉句碑がある。安政4年(1857)に地元の俳句会「柳々舎」によって建てられた。刻まれている句、「海に降る 雨や戀しき うき身宿」は越後路新潟で詠んだといわれているが定かではない。

古町通りは一番掘通り(県道164号)に出て終わる。通りの向こうは白山公園で、新潟城跡の比定地とされている。天正9年(1581)、上杉謙信の死後に始まった御館の乱での論功行賞の不満から新発田重家の乱が勃発。新発田軍勢は新潟津を奪取して砂州上に築城したが4年後には落城したといわれている。遺構は発見されておらず、比定地については確かでない。

白山神社 一番掘通町 中央区 新潟市 新潟県
白山神社 一番掘通町 中央区 新潟市 新潟県

園内に新潟総鎮守式内社である白山神社がある。建立年代は延喜(901~)とも寛治(1087~)ともいわれている。本殿は正保4年(1647)、拝殿は翌年慶安元年(1648)の造営と伝えられている。昭和34年には萱葺屋根が銅板に葺き替えられた。

新潟県政記念館 一番掘町町 中央区 新潟市 新潟県
新潟県政記念館 一番掘町町 中央区 新潟市 新潟県国指定重要文化財 明治16年建築 旧新潟県会議事堂

白山公園の東端に旧新潟県会議事堂がある。明治16年に建てられたもので、明治初期の議事堂としては全国唯一のものという。木造2階建で白亜の漆喰壁がまぶしい。中央に塔屋をのせた左右対称の堂々たる建物で、議場を始め、知事室、議長室など14の部屋からなる。国の重要文化財で、現在は新潟県政記念館として公開されている。

鳥屋野潟 西船見町 中央区 新潟市 新潟県
鳥屋野潟 西船見町 中央区 新潟市 新潟県

かつて鳥屋野潟周辺は、「芦沼」、「地図にない湖」といわれ、腰までつかりながらの田植えや刈り入れ作業を行い、稲は半ば水草のように浮いて育つ土地でした。 急速に流域の都市化が進んだ昭和50年代には著しい水質汚濁が見られましたが、関係機関や市民のみなさまと協力して、各種事業に取り組み、水質も改善してきました。豊かな自然を有する鳥屋野潟には、毎年冬季に約一万羽の水鳥が飛来し、県内有数のハクチョウ、ガンカモ……

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かつて鳥屋野潟周辺は、「芦沼」、「地図にない湖」といわれ、腰までつかりながらの田植えや刈り入れ作業を行い、稲は半ば水草のように浮いて育つ土地でした。 急速に流域の都市化が進んだ昭和50年代には著しい水質汚濁が見られましたが、関係機関や市民のみなさまと協力して、各種事業に取り組み、水質も改善してきました。豊かな自然を有する鳥屋野潟には、毎年冬季に約一万羽の水鳥が飛来し、県内有数のハクチョウ、ガンカモ類の渡来地となっています。

旧街道は市役所前から県道164号を西に進むが、ここで反対の南に2km余り行った所にある鳥屋野潟に寄る。鳥屋野潟は親松導水路で信濃川に直結し、塩津潟から始まった一連の水運体系の西端をなしていた。

これで新潟散策を終えて、北国街道を弥彦へと向かう。市役所前から西に進み、白山駅前を経てJR越後線をくぐり国道116号を横断したところから県道16号となってひきつづき西進する。関屋大橋で信濃川関屋分水路をわたり、青山道下信号交差点で県道は曲尺手状に右折―左折していく。県道16号は新潟大学前を右に見て、内野駅前の内野四ツ角交差点で県2号になる。三日月橋で新川を渡った先で道は急に細くなり、車も少なくのどかな道になる。

中権寺集落で右手やぎもと小児科の先の二股を右に直進する1kmほどの旧道が残る。

赤塚

佐潟 赤塚 西区 新潟市 新潟県
佐潟 赤塚 西区 新潟市 新潟県砂丘列間の窪地にできた国内最大の「砂丘湖」 流入する河川はなく、水源は砂丘に降る雨が地下水として湧出する。 国内10番目のラムサール条約湿地 。

木山信号五叉路で県道2号を右に分けて左の細道が旧道である。造り酒屋、菊池酒造の蔵と工場前を通り過ぎる。県道に合流して左折すると右手に大きな佐潟が現れる。佐潟は砂丘列間の窪地にできた国内最大の砂丘湖で、外部から流入する河川はなく湧水や雨水を水源としている。1996年にラムサール条約登録湿地となった。

街道沿いの湖畔に3基の句碑が並んでおり、真ん中が芭蕉の句碑である。もとは赤塚集落内にあったものが、佐潟公園整備の際に現地に移設された。説明板には芭蕉が赤塚の旅籠を訪れて詠んだ句とあるが、句は金沢で詠まれたものでこの地に関係ない。

あかあかと 日はつれなくも秋の風

石黒家墓地・渡辺嘉助の碑 赤塚 西区 新潟市 新潟県
石黒家墓地・渡辺嘉助の碑 赤塚 西区 新潟市 新潟県

江戸時代の大庄屋であった石黒家の墓地です。本当の墓地は、大慈寺の裏にあります。脇が急斜面になっていますが、昔は 屁っぷり坂 も同じくらい急斜面だったようです。手前にある石碑は、石黒家の家臣の子孫である渡辺嘉助の碑です。戊辰戦争で官軍が赤塚に駐屯した際の人馬継当ての功績を認められて、本百姓に取り立てられたことを記念して建てられました。 屁っぷり坂 江戸中期にこの坂がつくられました。当時は現在より急斜……

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江戸時代の大庄屋であった石黒家の墓地です。本当の墓地は、大慈寺の裏にあります。脇が急斜面になっていますが、昔は 屁っぷり坂 も同じくらい急斜面だったようです。手前にある石碑は、石黒家の家臣の子孫である渡辺嘉助の碑です。戊辰戦争で官軍が赤塚に駐屯した際の人馬継当ての功績を認められて、本百姓に取り立てられたことを記念して建てられました。 屁っぷり坂 江戸中期にこの坂がつくられました。当時は現在より急斜面で、登り切ることができずに亡くなった人がいたと伝えられています。屁が出るほど登るのに切なかったことから、「屁っぷり坂」という名前で呼ばれるようになりました。

佐潟のすぐ先で県道と分かれて左の旧道に入る。集落入り口は急な上り坂になっていて、右手の斜面奥に石黒家の墓地があり、街道脇には渡辺嘉助の碑「屁ぷっり坂」の説明板がある。「登り切ることができずに亡くなった人がいた」とは、誇張でなければ重度の循環器疾患者だったにちがいない。

石黒家は江戸時代の豪農で17か村の大庄屋を勤めた。屋敷は中原邸の隣で、目立つように街道に突き出した敷地の一段高い石垣の上にあった。

本陣跡中原邸 赤塚 西区 新潟市 新潟県
本陣跡中原邸 赤塚 西区 新潟市 新潟県

中原家の家紋は、先祖が漁業や水運業を営み、財を成したことから「投網の紋」となっています。江戸後期、24代当主久成の時に、江戸城本丸普請や第二次長州征伐など幕府への献金を行い、その功績により苗字帯刀を許されました。江戸時代、本陣としての役割を担い、江戸後期に乳の潟の新田開発を行い、その新田は「藤蔵新田」と呼ばれました。明治11(1878)年9月16日、明治天皇が北陸御巡幸の際、ご昼食をお召しになり、……

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中原家の家紋は、先祖が漁業や水運業を営み、財を成したことから「投網の紋」となっています。江戸後期、24代当主久成の時に、江戸城本丸普請や第二次長州征伐など幕府への献金を行い、その功績により苗字帯刀を許されました。江戸時代、本陣としての役割を担い、江戸後期に乳の潟の新田開発を行い、その新田は「藤蔵新田」と呼ばれました。明治11(1878)年9月16日、明治天皇が北陸御巡幸の際、ご昼食をお召しになり、その当時使用された「上段の間」が現存しています。邸内の敷地は約4000坪あり、江戸後期に建てられた主屋と、明治後期のレンガ塀、約1500坪の竹林などがあります。

集落内を進んでいくと左手に赤塚神社と石黒家の菩提寺である大慈寺がある。大慈寺前の三叉路を左折すると石黒家屋敷跡の石垣と、明治時代の大地主で庄屋を勤めた中原邸がある。中原家は漁業や水運業で財を成し江戸時代は本陣を勤め、明治天皇は北陸巡幸の際にここで昼食をとった。邸内の敷地は約4000坪あり、江戸後期に建てられた主屋と、明治後期のレンガ塀、約1500坪の竹林などが現存している。春秋の年二回公開されるだけで普段は広大な敷地に巡らされた板塀と表の藥医門をみるのみである。

赤塚村道路元標 赤塚 西区 新潟市 新潟県
赤塚村道路元標 赤塚 西区 新潟市 新潟県

旧道は県道46号との十字路を直進するがここを右折して県道2号との交差点に赤塚村道路元標がある。

旧道は県道2号に合流して赤塚集落を出る。

道標 松野尾 西蒲区 新潟市 新潟県
道標 松野尾 西蒲区 新潟市 新潟県右やひこ道 文化3年(1806)

県道2号で松野尾地区の新保五差路を越えた左手に北国街道の標柱とその脇に自然石の道標があった。文化3年(1806)の建立で「右やひこ道」と刻まれている。越後一之宮弥彦神社への道しるべである。

芭蕉句碑 松野尾 西蒲区 新潟市 新潟県
芭蕉句碑 松野尾 西蒲区 新潟市 新潟県すすしさや すぐに野松の 枝のなり (涼しさや直に野松の枝の形)

その道向かいに自然石の芭蕉句碑がある。

涼しさや すぐに野松の 枝になり

元禄7年(1694)、伊賀上野の雪芝亭で巻かれた歌仙の発句である

旧北国街道 二箇 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道 二箇 西蒲区 新潟市 新潟県左: 県道2号 右: 旧北国街道 松山へ0.7km

松野尾交差点を直進し右手上堰潟から出る水路を渡った先の二股で県道2号を左に分けて旧道に入る。二股分岐点に「北国街道 (松山0.7km)」の標柱が立つ。

旧北国街道 二箇/布目 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道 二箇/布目 西蒲区 新潟市 新潟県

布目集落の理容カネコ前の三叉路で旧街道は右に折れていく。「北国街道(稲島へ1.2km)」の標柱がある。

道は集落を出て角田山のなだらかな山並みを眺めながらのどかな田園の中をたどる。旧道歩きの幸せを感じるひと時である。

稲島(とうじま)

旧北国街道 稲島 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道 稲島 西蒲区 新潟市 新潟県

稲島宿と北国街道 ここから弥彦に向って進むと宿場町として栄えた「稲島宿」に至ります。新潟から稲島宿までの距離は6里半なので、馬に乗ってきた旅人の昼食宿だったといわれています。看板の右手には、明治の頃に一部廃道となった北国街道跡が百メートルほど続いています。北国街道は始め、信州追分(長野県軽井沢町)から府中(直江津)まででしたが、江戸時代に佐渡の金を出雲崎から江戸に運んだことから、信州追分から出雲崎……

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稲島宿と北国街道 ここから弥彦に向って進むと宿場町として栄えた「稲島宿」に至ります。新潟から稲島宿までの距離は6里半なので、馬に乗ってきた旅人の昼食宿だったといわれています。看板の右手には、明治の頃に一部廃道となった北国街道跡が百メートルほど続いています。北国街道は始め、信州追分(長野県軽井沢町)から府中(直江津)まででしたが、江戸時代に佐渡の金を出雲崎から江戸に運んだことから、信州追分から出雲崎までとなりました。その後、北前船による日本海通運が盛んとなり、信州追分から新潟湊までが北国街道となりました。

県道562号に出て右折する。すぐ左手に稲島集落への入口があり、北国街道の標柱が建ち、右手に出ている山道が旧道であると記している。100mほどの短い道だ。

稲島 西蒲区 新潟市 新潟県
稲島 西蒲区 新潟市 新潟県北国街道(稲島宿) 弥彦へ2里半 新潟へ6里半

集落に入ると三叉路に北国街道の標識があり、弥彦へ2里半、新潟へ6里半と記してある。標識の背後に建つ白壁土蔵は二階に重厚な漆喰窓と大きな家紋が施され立派である。右手の民家は格子造りの大きな家で、大きな鬼瓦を載せている。このあたりには宿場の面影が残っている。本陣を勤めた庄屋桑原家がどの家なのか聞く人影もなく分からないのが残念であった。

二十三夜塔 稲島 西蒲区 新潟市 新潟県
二十三夜塔 稲島 西蒲区 新潟市 新潟県

二十三夜塔と馬頭観音 二十三夜塔は、二十三夜講に集まった人々が建てたものです。二十三夜講とは、陰暦(旧暦)八月二十三夜の月を待つ講で、人々が寄合って飲食を共にしたあと経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うものです。 馬頭観音は、ここから布目方面に進んだところに建っています。稲島の馬喰(ばくろう)が建てたもので、そこには馬喰を馬苦労と刻まれています。 農作業や運搬手段として庶民の生活と強く結びついていた……

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二十三夜塔と馬頭観音 二十三夜塔は、二十三夜講に集まった人々が建てたものです。二十三夜講とは、陰暦(旧暦)八月二十三夜の月を待つ講で、人々が寄合って飲食を共にしたあと経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うものです。 馬頭観音は、ここから布目方面に進んだところに建っています。稲島の馬喰(ばくろう)が建てたもので、そこには馬喰を馬苦労と刻まれています。 農作業や運搬手段として庶民の生活と強く結びついていた牛馬。その牛馬の売買や仲介を生業としていた馬喰たちの、牛馬の無病息災を願う気持ちが伝わってきます。 北国街道散策

集落内を西に入ったところに二十三夜塔と地蔵が並んでいる。ここも旧道だそうで、集落内の旧道筋がはっきりしない。

旧北国街道 伏部 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道 伏部 西蒲区 新潟市 新潟県標柱:(現在地 伏部)(稲島へ0.4km) (竹野町へ0.8km) 道標:「右やひこ道」

稲島の家並みを出て伏部のY字路角に北国街道の標柱があって「稲島へ0.4km、竹野町へ0.8kmとあった。新潟を出て赤塚以来、この北国街道標識が整備されていて大いに助かる。標柱の脇に「右やひこ道」と刻まれた道標が立つ。

ごりん石と芭蕉の句 竹野町 西蒲区 新潟市 新潟県
ごりん石と芭蕉の句 竹野町 西蒲区 新潟市 新潟県「ごりん石」は、高さ約2メートル、面積約5平方メートルの形のよい自然石で、芭蕉の一行が旅の途中休憩のため腰をかけた石と伝えられています。そこには芭蕉が詠んだ「涼しさや すぐに野松の枝のなり はせを翁」の句が刻まれています。 この坂を200メートルほど上ると角田山ごりん石コースの入り□があります。そこから木立の中に入っていくと、小さいながらも趣のある 「ごりんの滝」が見えます。

「弘法清水前」バス停の手前、角田山登山口に「ごりん石」の標識があり、すこし入った左手に大きな丸い石があった。高さ約2メートルの自然石で、芭蕉一行が休憩のため腰をかけた石と伝えられている。石には「涼しさや すぐに野松の枝のなり はせを翁」と刻まれている。松野尾の道標近くにも同じ句の碑があった。越後路で詠んだ句でもないのになぜか人気がある。

弘法清水 竹野町 西蒲区 新潟市 新潟県
弘法清水 竹野町 西蒲区 新潟市 新潟県弘法大師が諸国巡錫の際、竹野町地区に立ち寄り、良民の心よいほどこしを受けたお礼にと当時水不足で困っていた良民のために手にしていた錫杖を土にさし、これをぬくと水が湧き出て窮状を救ったと伝えられる。また、万病に効く霊水として今も数多くの信者が訪れている。西蒲区 竹野町観光協会

その先の十字路を左に50mほど入った右手に「弘法の清水」がある。ちょっとした小公園に整備されている。水汲み場には多くの柄杓や漏斗が用意されていて利用者の多いことがうかがえる。

平沢清水 平沢 西蒲区 新潟市 新潟県
平沢清水 平沢 西蒲区 新潟市 新潟県

平等の利益にもれぬしるしおば 汲む人おしる平沢の水 いつ頃誰が詠んだのであろうか、この清水は、いつ頃から湧き出ていたのか、この度景観を整えるに当たって、石器時代のものと思われる石おのの様なものが出てきたところから縄文時代頃には、人間がこの清水を使っていたものと思われる。以来、歴史に記されている中で、平の景清が、源氏に破れて九州宮崎に落ち延び、部下の高梨の景門に命じ自らの守り本尊である千手観音を、生……

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平等の利益にもれぬしるしおば 汲む人おしる平沢の水 いつ頃誰が詠んだのであろうか、この清水は、いつ頃から湧き出ていたのか、この度景観を整えるに当たって、石器時代のものと思われる石おのの様なものが出てきたところから縄文時代頃には、人間がこの清水を使っていたものと思われる。以来、歴史に記されている中で、平の景清が、源氏に破れて九州宮崎に落ち延び、部下の高梨の景門に命じ自らの守り本尊である千手観音を、生まれ故郷の羽後平沢(秋田県)の地にまつる様頼んだ。影門は、北国街道を東に向かったが、この地に着いたとき愛馬が倒れ 聞けば何かのゆかりやらこの地も同じ平沢と聞くと、愛馬をほうむってそこに一本の欅の木を植えて一庵を建て守り本尊をまつったといわれる。その欅は現在、目通りの大きさは大人7人くらいで抱えなければならない大木となっている。以来、芭蕉・良寛等文人墨客の多くが通りがかりこの清水でのどをうるおし、しばし旅のつかれをいやした事であろうと昔を忍ぶ。平成2年4月吉日 大字平沢

街道は道なりに進んで松郷屋集落の景清寺前を経て、その先の十字路を北国街道標柱にしたがって右折、平沢集会場を通り過ぎると右手に縄文時代頃から使われていたという平沢清水がある。 平沢清水には平家落人の伝承が伝わる。付近から縄文土器が出土したという古い土地柄である。

北国街道(新潟GC) 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
北国街道(新潟GC) 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道・弥彦山遠望 平沢 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道・弥彦山遠望 平沢 西蒲区 新潟市 新潟県

旧街道は新潟GCの中を横断する。ボールを打つ乾いた音が聞こえてきて心地よくない。

ゴルフコースの林に沿った土道がゆるやかなカーブを描いて延びる。遠くに見える円錐形の山は多宝山(634m)である。

茶塚・庚申塔 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
茶塚・庚申塔 福井 西蒲区 新潟市 新潟県

街道の東側に見える小山が「茶塚」。「茶塚」に登ると墓地の奥に地蔵尊がある。子育て地蔵と言って、子供の風邪・疸・歯痛・耳痛などをお祈りするとなおるという。 街道の往来が激しかった江戸時代この茶塚は三根山藩の曝場で罪人を船戸境の稲場で処刑(打首)しその首を三・四日間、道端の曝し台に上げて諸人のみせしめにしたという。茶塚の前には、 嘉永二年(一八四九)建立の庚申塔 がある。また、ここは三根山藩藩庁裏から……

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街道の東側に見える小山が「茶塚」。「茶塚」に登ると墓地の奥に地蔵尊がある。子育て地蔵と言って、子供の風邪・疸・歯痛・耳痛などをお祈りするとなおるという。 街道の往来が激しかった江戸時代この茶塚は三根山藩の曝場で罪人を船戸境の稲場で処刑(打首)しその首を三・四日間、道端の曝し台に上げて諸人のみせしめにしたという。茶塚の前には、 嘉永二年(一八四九)建立の庚申塔 がある。また、ここは三根山藩藩庁裏から堀を隔ててわずか2~3百mの地点で、戊辰戦争の折、寺泊方面へ出兵する庄内兵が通過の際、ここから大砲を向け「同行せよ」と迫ったところでもある。

福井集落の入口三叉路に北国街道標柱があり弥彦まで1里半のところまで来た。標柱には現在地を(茶塚地蔵様)と記されている。「茶塚」に登ると墓地の奥に子育て地蔵がある。江戸時代この茶塚は三根山藩のさらし場で罪人を船戸境の稲場で処刑しその首を三・四日間、道端の曝し台に上げて諸人のみせしめにしたという。道の向こう側には嘉永2年(1849)建立の庚申塔がある。

この集落には三根山陣屋があった。長岡藩牧野忠成の四男定成を初代藩主とし、文久3年(1863)の11代藩主忠泰の時1万1千石の大名となり始めて三根山藩を立藩し大名の陣屋として整備された。現在は陣屋としての遺構はなく三根山藩址公園となっている。

福井町並み 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
福井町並み 福井 西蒲区 新潟市 新潟県

三根山藩は江戸末期の戊辰戦争で荒廃した本家長岡藩に、「米百俵」の救済米を送った藩として有名である。

街道は県道460号にでて右折し、すぐ尚古堂あめやの前を左折する。県道沿いに新潟県内2番目に古い福井酒造がある。建物は新しく蔵元の風情はない。寛永年間(1624-1643)の創業で銘酒「峰乃白梅」で知られる。芭蕉が弥彦めざしてここを通った時には営業していたことになる。

本間屋 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
本間屋 福井 西蒲区 新潟市 新潟県

県道から南にむかって200mほどの区間は道路沿いに庭の植え込みが整えられ妻入り造りの家並みが旧街道の面影をのこし、旧宿場街かとも思われる雰囲気がある。右手、千本格子が見事なゆべし作りの老舗本間屋が趣ある佇まいを見せている。昔は福井に6軒柚餅子を作る店があったが、今はここだけになってしまった。

旧庄屋佐藤家 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
旧庄屋佐藤家 福井 西蒲区 新潟市 新潟県旧庄屋佐藤家は、江戸後期の建築で佐藤家の役宅として建てられました。数カ所の改築の跡がありますが、ほぼ建築当初の間取りが残されています。 昔、三根山藩(峰岡)主が、山遊びの帰りには必ず立ち寄って休憩したといわれています。 近くを流れる矢垂川周辺は、ほたるの飛翔地として有名で、毎年ほたるが飛び交い幻想的な風景に包まれます。良寛が詠んだ が建てられています。

すぐ先左手に旧庄屋佐藤家の茅葺民家が佐藤家民俗資料館として保存されている。江戸後期の建物だといわれるが、ガラス戸などは現代の改築部分だろう。規模はそれほど大きくなかった。

良寛歌碑 福井 西蒲区 新潟市 新潟県
良寛歌碑 福井 西蒲区 新潟市 新潟県

矢垂橋の良寛碑 「福井なる 矢垂の橋にきてみれば 雨は降れども日は照れゝども」 良寛さんは、国上寺の庵室から20kmくらいのところまで毎日のように托鉢に回っておられる 柚餅予で知られる福井もその範囲にふくまれていた。矢垂の橋のうたも良寛さんが托鉢のりここに足をとどめ詠まれたものである。福井部落の青年たちはこれを記念し昭和35年 良寛のうたとゆかりのこの地に歌碑を建立したたものである。 越の自然ルー……

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矢垂橋の良寛碑 「福井なる 矢垂の橋にきてみれば 雨は降れども日は照れゝども」 良寛さんは、国上寺の庵室から20kmくらいのところまで毎日のように托鉢に回っておられる 柚餅予で知られる福井もその範囲にふくまれていた。矢垂の橋のうたも良寛さんが托鉢のりここに足をとどめ詠まれたものである。福井部落の青年たちはこれを記念し昭和35年 良寛のうたとゆかりのこの地に歌碑を建立したたものである。 越の自然ルート 矢垂橋の良寛碑

福井集落を出て矢垂川のほとりに良寛の歌碑がある。国上寺からほたるが飛び交う場所として知られるこのあたりまで良寛は托鉢に回っていた。

福井なる 矢垂の橋にきてみれば 雨は降れども日は照れゝども

岩室

地蔵・庚申塔 樋曽 西蒲区 新潟市 新潟県
地蔵・庚申塔 樋曽 西蒲区 新潟市 新潟県

街道は三叉路を左の南方向にとって、道なりに進み樋曽集落に入る。右手路傍に小さな地蔵堂と庚申塔が並んでいる。

県道55号を横切って突き当りを道なりに左にまがって再び突き当たりを右折、岩室にはいっていく。鉤型のような道筋だが単に出っ張った山裾をたどっていくに過ぎない。

岩室温泉の生い立ちについては正徳3年(1713)に公認されたとされ、江戸時代後期の文政3年(1820)の記録には「旅籠30軒、妓家12軒、人家80余軒、…人馬の往来は昼夜絶えることはない」とあるという。芭蕉が奥の細道でこの地を通った時もなんらかの湯がでていたのかは定かでない。

夜泣き地蔵 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
夜泣き地蔵 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県

子供の夜泣きが収まるように、人々が村はずれのお地蔵さまにお参りしたといわれ、今も地域で大切に守られています。芸妓さんが、願掛けをした「お守り」も奉られています。 また、間瀬の助業(すけご)を見守る道しるべの地蔵様として、現在も、間瀬の助業を営む方が、年に一度の「地蔵講」の日に「今年も無事に過ごせました」と「かいもち(おはぎ)」をお供えし供養しています。 助業とは、漁師を助けると言う意味で、海で採れ……

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子供の夜泣きが収まるように、人々が村はずれのお地蔵さまにお参りしたといわれ、今も地域で大切に守られています。芸妓さんが、願掛けをした「お守り」も奉られています。 また、間瀬の助業(すけご)を見守る道しるべの地蔵様として、現在も、間瀬の助業を営む方が、年に一度の「地蔵講」の日に「今年も無事に過ごせました」と「かいもち(おはぎ)」をお供えし供養しています。 助業とは、漁師を助けると言う意味で、海で採れた魚を背負って売り歩く仕事のことです。助業の歴史は古く百年も続いているといわれています。

岩室集落に入り、旧道は大きな温泉旅館「ゆもとや」の裏側を通っていく。このあたりに源泉があった。右手に夜泣き地蔵があり、その上の小高い山に岩室薬師堂がある。昼間の温泉街特有の気だるさがただよう道であるが夜には岩室芸者が行き交う賑わいをみせるといわれる。

岩室村道路現評道路現標 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
岩室村道路現評道路現標 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県

街道は右手に慶覚寺(きょうがくじ)を見て岩室信号交差点に出る。岩室の中心地で、角に岩室村道路元標がある。

高島屋 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
高島屋 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県

交差点のすぐ南側、右手に建つ大きな建物は料亭旅館高島屋で、江戸時代の庄屋屋敷が本館として利用されている。明治11年、明治天皇北陸巡幸の際にはここめが休憩所として使われ、前庭に「明治天皇岩室御小休所」の石碑が建っている。

町並み 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
町並み 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県

その先現道には温泉旅館が建ち並び街道松の名残もあって旧宿場の雰囲気が感じられる。

岩室交差点にもどり道路元標の立つ細い坂道を上がっていく。その先の十字路で南北に延びている道が旧街道の道筋で、慶覚寺の西側を通っていた。温泉旅館街である現道とはちがって落ち着いた住宅地である。

岩室神社 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
岩室神社 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県弘化2年(1845)に神明社、十二社、諏訪社、稲荷神社の5社を神明社の地(現岩室神社)に合祀して建立された。神明社の祭神は、天照皇大神と豊受大神である。

十字路を左折して旧街道を南に進むと右手に岩室神社がある。天照皇大神と豊受大神を祭神とする岩室の産土神である。弘化2年(1845)に神明社、十二社、諏訪社、稲荷神社の5社を神明社の地(現岩室神社)に合祀して建立された。

旧北国街道 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県
旧北国街道 岩室温泉 西蒲区 新潟市 新潟県

鳥居の脇に「北国街道と岩室温泉の道」として中部北陸自然歩道の案内地図板が建っていた。「このみちは、湯けむり賑わう岩室温泉と、越後一の宮で崇拝されている弥彦神社につながる歴史深い北国街道を訪れるみちです。」とあり、これこそ旧道だと思い込んでこの道を行くことに決めた。舗装された林道をたどって天神山城址登山口を通過する。十人余りの高齢男女が登山を終えて下りてきた。

天神山城の築城時期は定かではないが、室町時代には小国氏が居城していた。天正11年(1583)上杉氏の一国支配下となり、直江兼続の弟大国実頼が天神山城主小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。慶長3年(1598)上杉景勝の会津国替えに際し廃城となった。頂上一帯には土塁・石塁など、中世の城郭跡がほぼ完全な姿で残っている。

林道は結局宝光院手前で県道2号の弥彦・岩室口信号に出たのだが、別の資料によれば、旧北国街道はこの林道ではなくて、天神山(235m)の山麓に沿って蛇行しながら種月寺前に出て石瀬の浄専寺の先で県道2号に合流する道筋が正しいようである。先の自然歩道の説明はつまるところ「岩室神社前の旧北国街道と弥彦の宝光院前の旧北国街道をつなぐ山道」という意味であったのか、それとも北国街道のさらなる古道であったか。

結局石瀬と金池集落を通らずに弥彦に着いてしまった。

弥彦

宝光院 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
宝光院 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県

宝 光 院 宝光院は建久6年(1196年)源頼朝公の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれています。 また本尊とは別に、県文化財指定の毘沙門天のほか阿弥陀如来、薬師如来、十二神将などの諸仏が安置されている。このほか境内には俳聖芭蕉の句碑や良寛上人の歌碑なども建てられている。 弥彦の婆々杉 宝光院境内奥には、樹齢約1千年、樹高40m、幹周10mの杉の巨木があり、宝光院に安置されている妙多……

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宝 光 院 宝光院は建久6年(1196年)源頼朝公の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれています。 また本尊とは別に、県文化財指定の毘沙門天のほか阿弥陀如来、薬師如来、十二神将などの諸仏が安置されている。このほか境内には俳聖芭蕉の句碑や良寛上人の歌碑なども建てられている。 弥彦の婆々杉 宝光院境内奥には、樹齢約1千年、樹高40m、幹周10mの杉の巨木があり、宝光院に安置されている妙多羅天女にまつわる伝説から、俗に「婆々杉」と呼ばれている。 環境庁・新潟県

県道2号は弥彦・岩室口交差点で左に分かれて行く。旧道は細い道となって杉並木が続き昔の面影を保っている。

芭蕉句碑(宝光院) 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
芭蕉句碑(宝光院) 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県荒海や 佐渡に横多ふ天乃河 芭蕉 俳聖松尾芭蕉は門人曽良と共に奥の細道をたどった漂泊の旅の途中、元禄2年(1689)7月3日弥彦神社に詣でて、この地に宿泊している。荘厳にして緑深き美しい自然の中での着想が、のちにこの名句を生んだといわれている。

右手に宝光院がある。宝光院は建久6年(1196)源頼朝の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれる古刹である。境内には芭蕉の句碑がある。元禄2年(1689)7月3日芭蕉と曽良は新潟を立って夕方近くに弥彦に到着。宿をとって神社に参詣した。句碑には越後路の名句が刻まれている。

荒海や 佐渡に横多ふ天乃河 芭蕉

境内の奥に踏み入れると樹齢約1千年、樹高40m、幹周10mという巨木が聳える。俗に「婆々杉」と呼ばれている。由来となった伝説は省く。

宝光院と弥彦神社の間になぜか競輪場があり、神社におとらず賑わっていて異様な光景である。大正8年(1919)、弥彦神社再建事業の一つとしてここに日本初の400mトラックを備えた陸上競技場が完成、ここで毎年新潟県の競技会が開催されることになった。昭和25年競技場が競輪場に代わったという。

越後国一之宮・弥彦神社 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
越後国一之宮・弥彦神社 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県

御祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。 天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、社記によれば和銅4年(711)に神域を広げ社殿を造営、延喜式には名神大社に列せられた。古くより民衆の篤い信仰を集めており、歴史ある大々神楽講や初穂講をはじめ多くの崇敬者により、連綿とその信仰心……

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御祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。 天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、社記によれば和銅4年(711)に神域を広げ社殿を造営、延喜式には名神大社に列せられた。古くより民衆の篤い信仰を集めており、歴史ある大々神楽講や初穂講をはじめ多くの崇敬者により、連綿とその信仰心は受け継がれている。また現在の社殿は、明治の大火後、大正5年に再建されました。

越後国一之宮弥彦神社に詣でる。杉並木通りに面する東参道は修理閉鎖中で、社家通りから一の鳥居をくぐり杉木立の中を拝殿に向かう。弥彦神社は元明天皇の勅願により養老3年(719)の創建といわれ、義経一行も参拝したと伝わる古社である。社殿は新しく、明治45年に焼失した後大正5年に再建された。

町並み 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
町並み 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県

門前町として発展した弥彦はまた北国街道の宿場としても栄え、越後路でも数少ない山越を控えた旅人で賑わった。鳥居前の十字路界隈は土産物や旅館が立ち並ぶ。

明治天皇行在所跡 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
明治天皇行在所跡 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県

鳥居向かいにある当時の弥彦神社祠官五十嵐盛厚の邸宅跡明治天皇行在所の碑が建つ。天皇宿泊のために奥庭に宿を新築したという。天皇は翌早朝、弥彦神社参拝後一の鳥居前から馬車で新潟に向かい、岩室の高島屋で小憩した。先頭が岩室に到着しても後尾はまだ弥彦を出発していないほど行列は長かったという。

街道は鳥居前から県道29号で南に向かう。

聖人清水 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
聖人清水 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県浄土真宗の開祖親鸞上人が越後国配流中弥彦神社に参拝して当家に宿泊し家人の水に苦しむを憐み所持の杖で家の裏の地をついたらこの清水が湧き出たと伝えられる。尚、同上人参拝の折次の歌を詠んで神助を祈ったという 願はくは都の空に墨染の袖吹き返せ椎の下風 弥彦村教育委員会

途中、右手坂を少し上がった左手旧家林部家の裏庭に聖人清水がある。親鸞聖人が越後国配流中弥彦神社を参拝し当時の庄屋林部四郎左衛門宅に泊まった際、水不足に悩まされていた住民を哀れみ、林部家の竹林の一隅を持参の杖で突いて仏に念じたところ、たちまち水が湧き出たと伝えられる。

旧北国街道 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県
旧北国街道 弥彦村弥彦 西蒲原郡 新潟県

大森橋の先の信号で左に折れていく県道とわかれて旧道は直進、つぎの二股を右にとってオートキャンプを右に見て、矢楯集落の南端で広い道を斜めによこぎって観音寺の先あたりで弥彦山スカイライン(県道561号)を横切る。

観音寺 弥彦村観音寺 西蒲原郡 新潟県
観音寺 弥彦村観音寺 西蒲原郡 新潟県

県道沿いの観音寺に寄ってみた。開放的な境内に立つ黄金の観音像がまぶしかった。

旧北国街道 弥彦村観音寺 西蒲原郡 新潟県
旧北国街道 弥彦村観音寺 西蒲原郡 新潟県

旧道は湯川の先の丁字路を右にはいっていく。家並みをぬけて山道へと入っていく。弥彦山登山道をしばらく登っていくとまもなくスカイラインに出る。左に折れてすぐ右手の草むらを入ったところに立派な宝篋印塔が建っている。明和8年(1771)寺泊港の本間弥平治ほか2人が先祖百歳忌、父母五十回菩提のために建てたと刻まれている。高さは基壇から3.7m、地上高4.8mと大きな石塔で、本間家の豊かさを示すものとなっている。

宝篋印陀羅尼塔 弥彦村麓 西蒲原郡 新潟県
宝篋印陀羅尼塔 弥彦村麓 西蒲原郡 新潟県

街道はその少し先で猿ヶ馬場峠に差し掛かる。特に峠を示す標識もなく道路の最高点に来た実感がない。この場所は永正6年(1509)弥彦領主が越後守護代長尾為景と戦って敗れた古戦場跡である。高さは180mに過ぎないが、旧北国街道の難所といわれるほど冬場は厳しかった。昭和10年ころまでは茶屋や湯治場もあったという。県道561号スカイラインと分かれて左の旧道に折れ長岡市にはいる。

(2015年10月)

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