三国街道 6区間のうち3番目

三国街道(3)

須川-相俣-猿ヶ京-吹路-永井-(三国峠)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

須川

須川

須川宿入口 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
須川宿入口 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

坂道を上り切って須川平と呼ばれる赤谷川段丘上に開けた須川宿にたどりつく。鍵の手状にまがると500mほどの美しい宿通りが真直ぐにのび、街道の両側には花々に飾られた家が並んでいる。

もともと須川宿は農村地帯に形成された家数50軒ほどの小さな宿場で、三国街道をゆく旅人はすぐ近くの赤谷川沿いにある湯宿温泉に足を向けるものが多かった。明治になって湯宿を通る道路ができてからは、三国街道の通行は布施から湯宿を経由して相股に直行するようになり、須川宿はますます取り残されていった。

三国街道須川宿 街なみ 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国街道須川宿 街なみ 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

建久の頃より沼田荘に属し、須川郷と称していた。須川宿は、布施宿より19町、相俣宿よりは30町の位置にある。須川平と呼ばれる広い段丘面上にあって、宿は須川村の町組と呼ばれ全長300間(5町)ほぼ直線上で街道中央を水路が通っていた。須川宿の屋敷図割りは、他の宿場と同様の街道に直行する短冊型である。宿の戸数は貞享3年(1686)に49軒、明治9年の宿割図では54軒とほとんど変化がない。本陣兼問屋(現梅沢……

説明の全文を読む(約510字)

建久の頃より沼田荘に属し、須川郷と称していた。須川宿は、布施宿より19町、相俣宿よりは30町の位置にある。須川平と呼ばれる広い段丘面上にあって、宿は須川村の町組と呼ばれ全長300間(5町)ほぼ直線上で街道中央を水路が通っていた。須川宿の屋敷図割りは、他の宿場と同様の街道に直行する短冊型である。宿の戸数は貞享3年(1686)に49軒、明治9年の宿割図では54軒とほとんど変化がない。本陣兼問屋(現梅沢氏宅)と脇本陣が隣合っておかれていた。本陣宅は明治初期の建物であるが、古い土蔵を残している。脇本陣は家は転出して屋敷跡のみ残っている。旅籠屋の数は明らかでないが、天保13年(1842)の佐渡奉行宿泊時には脇本陣他6軒、同年の村松藩の際には18軒に分宿している。明治9年(1876)の地図割に示された54軒中28軒の家には屋号があり、かじや、桶や、くるまや、いかけやなどの職業を示すものも見られる。 明治7年(1874)に切ヶ久保新道ならびに湯宿の赤岩新道が開削されると三国街道の通行は中山宿-布施宿-相俣宿へと変わった。現在の宿通りは短冊地割に街道に直交して建つ家並みが昔の宿場をしのばせている。 昭和59年3月1日 新治村

1980年代、村おこしとして「たくみの里」プロジェクトが立ち上がり、宿場時代の景観を復元する一方で新たに農家を改造して伝統工芸やものづくりの家が作られた。電線は埋められ、花壇・水車・用水が整備され、案内所・土産店・飲食店がでそろい今やすっかり観光地化された状況になっている。500mの宿通りは群馬県唯一の「歴史国道」である。

須川宿資料館(脇本陣跡) 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
須川宿資料館(脇本陣跡) 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県門は本陣家の門を復元したもの
本陣跡(梅沢家宅) 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
本陣跡(梅沢家宅) 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

宿場の中ほどに本陣兼問屋と脇本陣が並んでいた。須川宿資料館は脇本陣跡である。門は旧本陣のものを復元したもので、安永8年(1779)の築といわれている。中に入ると本陣の上段の間が再現されていた。隣の本陣跡(梅沢氏宅)には石碑が建つのみである。本陣は越後長岡藩主、牧野候の常宿となっていた。

旧大庄屋役宅書院 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧大庄屋役宅書院 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

東峰須川は、まわりの六カ村とともに石高1100石の旗本伊丹氏の所領であり、1842(天保13)年に東峰須川の河合家、4代目、定右衛門が大庄屋を命じられたときに領主伊丹氏が用人の内山忠太夫に命じて造らせたものである。伊丹氏来村のさいの休憩所に使用した。間口3間奥行き5間の寄棟造りで内部は八畳敷きの上段の間と10畳敷きの控えの間を中心としている。とくに上段の間は床の間・傍床・付け書院・帳台構えをそなえ……

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東峰須川は、まわりの六カ村とともに石高1100石の旗本伊丹氏の所領であり、1842(天保13)年に東峰須川の河合家、4代目、定右衛門が大庄屋を命じられたときに領主伊丹氏が用人の内山忠太夫に命じて造らせたものである。伊丹氏来村のさいの休憩所に使用した。間口3間奥行き5間の寄棟造りで内部は八畳敷きの上段の間と10畳敷きの控えの間を中心としている。とくに上段の間は床の間・傍床・付け書院・帳台構えをそなえた本格的な書院造りである。 新治村 新治村観光協会

街道を離れて1kmほど西にある旧大庄屋役宅書院を見にいく。道角に大正13年の道標があり「左 布施ヨリ沼田町方面」、「右 東嶺西嶺 入須川ヲ経テ吾妻郡ニ通ズ」と刻まれている。道標にいう右の道はガイドマップには「庄屋通り」と名付けられており、沿道には「鈴の家」「竹細工の家」などがあり、たくみの里は宿場通りに限らず集落全体のプロジェクトであって「○○の家」の札を掲げた家は広く散らばっている。

旧大庄屋役宅 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧大庄屋役宅 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

書院は時の東峰須川の領主であった旗本伊丹氏が大庄屋河合家に造らせたもので、伊丹氏来村のさいの休憩所に使用した。生垣、白壁土蔵を配した豪農の屋敷の左端に書院造りの一棟が続いている。赤トタンで覆われた屋根を除いては古風なたたずまいを見せていた。

赤谷川 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
赤谷川 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県

街道にもどり、観光客が散策するたくみの里を後にする。道なりに右にまがって坂道をくだると細い赤谷川の流れが見えてくる。B&G海洋センターを右にみて、平成4年にできた「愛の渡し」橋をわたって丁字路を左折する。赤谷川の右岸は敷き詰められた二色の芝桜に彩られて美しい景観をなしている。

相俣

旧三国街道 浅地 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 浅地 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

段丘にのびる小さな浅地集落を通り抜ける。右側の斜面からは湧き水が流れ出て街道沿いの水路に流れ込み、左は川までの狭い空間に田が丁寧に作られている。谷間にひそむ静かな息遣いが感じられる快い道であった。

旧三国街道 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

右にまがるところの三叉路を「猿ヶ京温泉 3.0km」の中部北陸自然歩道標識に従って左にとる。まもなく右手の細い上り坂道に入りすぐ先で車道を横切る。自然歩道標識には「猿ヶ京温泉 2.7km たくみの里 2.4km」とあった。

日枝神社 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
日枝神社 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県建久4年(1193)近江国日枝山日吉神社を勧請、初めは山王大権現として祭られる。明治10年神社合併し末社の同一祭神は合霊して日枝神社と改称、明治12年赤谷地区の富士新田浅間神社と合併して指定村社となる。昭和21年神道指令により社格廃止により相俣地区の鎮守となっています。この地は神社が祭祀されているので、現在もこの付近の字名を宮平と称している。 中部北陸自然歩道 環境庁群馬県 新治村

鬱蒼とした杉木立の中をすすむと苔むした石段の上に日枝神社がある。真直ぐにそびえたつ4本の杉の大木がその前の石鳥居の存在をかすめてしまっている。ときおり車の音が境内の静寂をやぶるのは、そのすぐ裏を国道17号が通っているからであった。いつの間にか布施でわかれた国道にもどってきていた。

さかさ桜 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
さかさ桜 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

群馬県指定天然記念物 相俣のさかさザクラ 天文21年(1552)の春、上杉謙信が初めて三国峠から関東に兵を出した時、この地に小休止し馬よりおりて上杉憲政ゆかりの を参拝した。この時謙信は春日山より持参していた桜の鞭を境内に逆さに挿して、もしこの桜に芽が吹けば出陣の幸先が良いものとして、謙信の希望をこめて占いをした。ところが不思議にもこの桜の木がすくすくと成長して数年ならずして花が咲き成木したと言わ……

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群馬県指定天然記念物 相俣のさかさザクラ 天文21年(1552)の春、上杉謙信が初めて三国峠から関東に兵を出した時、この地に小休止し馬よりおりて上杉憲政ゆかりの を参拝した。この時謙信は春日山より持参していた桜の鞭を境内に逆さに挿して、もしこの桜に芽が吹けば出陣の幸先が良いものとして、謙信の希望をこめて占いをした。ところが不思議にもこの桜の木がすくすくと成長して数年ならずして花が咲き成木したと言われている。また、この桜の花の咲き具合でその年の作柄を占ったので豊年桜ともいわれている。樹高18.2m、目通り6.2m、根元廻り11.0mである。 平成6年2月10日 群馬県教育委員会 新治村教育委員会

保養所風の建物の脇を通り抜けて国道に出る。左手の広場に「逆さ桜」があった。根回り11mという巨木である。上杉謙信ゆかりの桜といわれるから樹齢は450年をこえる計算になる。肩から切り落とされたような太枝といい、こぶだらけの幹といい、いかつい桜の木である。

赤谷湖・相俣ダム 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
赤谷湖・相俣ダム 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

公園の道をはいっていくと相俣ダムに至る。かっては三国街道が横切っていた谷間は満々たる緑色の水を湛えたダム湖(赤谷湖)によって水没した。赤谷湖の背後に屏風のようにたちはだかる三国の山々はまだ雪を残している。ダムの下流は切り立った崖の底に乾いた川があった。

相俣宿入口 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
相俣宿入口 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

国道にもどり旧相俣宿にはいっていく。地名の由来については、康平5年(1062)前九年の役でやぶれた安倍頼時の残党に相俣龍助という者がおり陸奥より落ちのびてこの地に流寓し一村を開いたとも、三国街道と沼田-湯宿道が合するので「合また」と呼んだとも伝わっている。猿ヶ京関所を前にして、関所が閉まってから到着した旅人が宿泊した。本陣、脇本陣、問屋、旅籠など家数は百数十軒を数えた宿場であったが昔の面影はない。かわって出桁せがい造りの民宿ナマコ壁土蔵の旅館などが湖を訪れる観光客をもてなしている。

旧三国街道・赤谷湖 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道・赤谷湖 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県国道相俣信号から降りてきた旧三国街道。 ここから湖底に延びていた。

国道の相俣信号交差点から草深い細道が湖畔にのびている。これが三国街道の旧道で、昭和33年までは現在のダム湖を横断して対岸の猿ヶ京温泉につながっていた。いまは湖畔に整備された遊歩道につながって湖の北側をめぐっている。

猿ヶ京

関所跡 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
関所跡 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

当猿ヶ京関所は、人皇第110代明正天皇の御宇・徳川三代将軍家光公の御時寛永8年4月に設置された。近世に至って交通路の整備と共に三国街道は佐渡街道ともよばれ、五街道に次ぐ重要な街道の一つに数えられ、江戸と佐渡との連絡に或いは越後諸大名の参勤交代、新潟奉行・佐渡奉行・旅人のの往来・諸物資の輸送等上・下の交通が頻繁になったからここに関所を設けて厳重に行人を監視することになった。最初は真田氏が之を支配した……

説明の全文を読む(約330字)

当猿ヶ京関所は、人皇第110代明正天皇の御宇・徳川三代将軍家光公の御時寛永8年4月に設置された。近世に至って交通路の整備と共に三国街道は佐渡街道ともよばれ、五街道に次ぐ重要な街道の一つに数えられ、江戸と佐渡との連絡に或いは越後諸大名の参勤交代、新潟奉行・佐渡奉行・旅人のの往来・諸物資の輸送等上・下の交通が頻繁になったからここに関所を設けて厳重に行人を監視することになった。最初は真田氏が之を支配したが天和元年11月真田氏の改易となるに及んで公領支配となった。後高野・片野・木村・戸部の4氏が代々世襲にて関守の役をつとめた。明治2年正月、明治新政府より関所廃止の発令がなされ、ここに猿ヶ京関所も廃止されることになった。 群馬県指定史跡 昭和59年3月1日 新治村

国道にもどり赤谷湖の北岸をまわって猿ヶ京関所跡に至る。越後諸大名の参勤交代のみならず佐渡街道として罪人送りと金の輸送という特殊な任務を負った三国街道に寛永8年(1631)設置された。冠木門をはいると茅葺の旧役宅が復元されていて美術資料館ともなっている。縁側には赤座布団を敷いて大名駕籠が正座していた。

菜の花祭り 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
菜の花祭り 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

隣の土産店兼営食堂でカレーうどんを食べながら給仕役のおばあさんの話を聞いた。子供のころ通っていた小学校はダムの底に沈んだという。そこで毎日遊んでいた。付近には笹の湯という温泉があったがそれも沈んで、今の地に猿ヶ京温泉ができた。「今日は菜の花祭りをやっているから見ていきな」と勧められて、500mほど北にはいると、満開な菜の花畑の向こうにテントをはった人の集まりが見えた。房総館山にくらべると2ヶ月ほど遅い春だ。

中部北陸自然歩道入口 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
中部北陸自然歩道入口 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

左:三国街道旧道 右: 国道17号 中部北陸自然歩道 猿ヶ京温泉いで湯のみち 三国街道の関所跡をあとにし、国道17号線から左に折れると昔ながらの民宿街が続く。「猿沢の上り」と呼ばれる沢沿いの道を左手に見ながら直進する。のどかな田園風景が延々と続く。吹路宿を過ぎ、再度国道17号線と合流する。ここには会津白虎隊屈指の猛者と呼ばれた町野久吉の墓がある。ここで若干休憩し、鬱蒼とした森林の中の舗装された歩道……

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左:三国街道旧道 右: 国道17号 中部北陸自然歩道 猿ヶ京温泉いで湯のみち 三国街道の関所跡をあとにし、国道17号線から左に折れると昔ながらの民宿街が続く。「猿沢の上り」と呼ばれる沢沿いの道を左手に見ながら直進する。のどかな田園風景が延々と続く。吹路宿を過ぎ、再度国道17号線と合流する。ここには会津白虎隊屈指の猛者と呼ばれた町野久吉の墓がある。ここで若干休憩し、鬱蒼とした森林の中の舗装された歩道をを進み急坂を上がると左手に永井宿の郷土資料館が見えてくる。さらに上がると永井宿の本陣跡がある。 環境庁 群馬県 新治村

温泉街の街道をすすんでいくと郵便局の先で旧道は左の民宿通りにはいっていく。おなじみの中部北陸自然歩道標識が「永井宿 3.6km」と示していた。民宿がならぶ通りには道標、つるべ井戸、常夜燈、石仏、水車などが整えられ宿場通りの雰囲気づくりに心配りが感じられる。

おがんしょめぐり 子育て地蔵 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
おがんしょめぐり 子育て地蔵 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

「願かけ」この土地の言葉で「おがんしょかけ」といい、医療の手だてを持たない当時の民衆は、一刻でも早く病の不安や痛みから逃れようと、猿ヶ京の村人たちがそんな思いを込めて心優しい地蔵や神々を三国街道の傍らにまつり、願かけを行いました。そして願いがかない、また病がなおると、お礼に神々の好物をお供えするのが習わしです。街道のあちこちにこのような野仏が多くみられ、このお地蔵様や神々を訪ねるコースが設定されて……

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「願かけ」この土地の言葉で「おがんしょかけ」といい、医療の手だてを持たない当時の民衆は、一刻でも早く病の不安や痛みから逃れようと、猿ヶ京の村人たちがそんな思いを込めて心優しい地蔵や神々を三国街道の傍らにまつり、願かけを行いました。そして願いがかない、また病がなおると、お礼に神々の好物をお供えするのが習わしです。街道のあちこちにこのような野仏が多くみられ、このお地蔵様や神々を訪ねるコースが設定されています。 中部北陸自然歩道 環境庁 群馬県 新治村

なかでも「おがんしょめぐり」として設定された地蔵・野仏めぐりはその説明書きとともに石仏の素朴な表情がほのぼのとした旅情を抱かせるものであった。

旧家 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧家 相俣 みなかみ町 利根郡 群馬県

元三役力士が営む居酒屋の名が本陣であるが猿ヶ京に本陣があった形跡はない。

民宿通りも終わりに近い薬師地蔵の隣に、常夜燈と兜屋根の大きな旧家らしい家がある。案内札も説明板もなく正体は不明である。

猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

人家がまばらになって、左側にはのどかな田園風景が広がっている。黒々とした畑地はいかにも肥沃な土地を思わせる。集落のはずれで旧道は左に折れ西川の沢沿いにつづく山道にはいっていく。入口に建つ自然歩道標識が「永井宿 2.7km」と記している。国道と分れてからおよそ1kmの民宿通りであった。

耳たれ地蔵 猿沢の上り 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
耳たれ地蔵 猿沢の上り 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

昔は農山村に特に子供に耳だれが多く痛いので悩まされたという。又耳鳴りのする人も多かった。この地蔵さんも江戸時代の中頃に出来たらしく耳だれで悩む子供や耳鳴りで困る大人はこの地蔵さんにすがるより他にないのでだんだんお参りする人が多くなった。「お願」をかける時には耳を治して下されば「お腕」の蓋の真ん中に穴をあけて紐で通し両端を結びこれをお地蔵さんの首に掛けてあげます。早く直して下さい」とお願いし治るとこ……

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昔は農山村に特に子供に耳だれが多く痛いので悩まされたという。又耳鳴りのする人も多かった。この地蔵さんも江戸時代の中頃に出来たらしく耳だれで悩む子供や耳鳴りで困る大人はこの地蔵さんにすがるより他にないのでだんだんお参りする人が多くなった。「お願」をかける時には耳を治して下されば「お腕」の蓋の真ん中に穴をあけて紐で通し両端を結びこれをお地蔵さんの首に掛けてあげます。早く直して下さい」とお願いし治るとこのように用意して「おがんしょばたし」をしたと言われています。今でもお地蔵さんはすました顔でこのお椀を首に掛けています。 新治村観光協会

街道沿いでは最後のおがんしょになるのか、山道が沢に向かって下るところに耳たれ地蔵があった。石仏は磨耗と剥落ですました顔も首に掛けたお椀も認めることができなかった。形としては双体道祖神に見える。

旧三国街道 猿沢橋 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 猿沢橋 猿ヶ京温泉 みなかみ町 利根郡 群馬県

冷え冷えとした林の道をくだっていくと、左右の親柱に「三国街道」「さるさわはし」と書かれた橋が浅瀬の沢に架かり、その先は急な上り坂が続いている。「猿沢の上り」とよばれる小径で吹路に通じている。

吹路

旧三国街道 猿沢の上り 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 猿沢の上り 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県

「猿沢の上り」は180度に折れる恐ろしく急な上り坂が続き、一気に高度を上げていく。垂直に近い谷の斜面を引っ掻いて強引に道をつけたような山道である。女中たちを連れた行列が本当にここを通っていったものか、息があがって坂の途中で立ちすくみながらヤケ気味にそんなことを考えた。800mの桃源郷の道とあったが、そんな気分を味わう余裕はない。

旧三国街道 猿沢の上り(出口) 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 猿沢の上り(出口) 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県

ようやく勾配が人並みになったところに形ばかりの東屋が設けてある。先に明るみがみえはじめたころ、足もとに小さな馬頭観音をみやりながら吹路の集落にたどりついた。ここにも案内板があった。吹路から永井に向かう旅人のためで、「猿沢の下り」とある。猿ヶ京側の案内板には若山牧水が法師温泉に向かうときの様子が引かれていたが、ここは法師温泉で一泊して猿ヶ京に戻るときのことが書かれている。

旧三国街道猿沢の下り 十月廿三日

うす闇の残ってゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿ってゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。 中略 吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登って来るのに出合った。真先の一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊けばこれが有名な越後の瞽女(ごぜ)である相だ。収穫前の一寸した農閑期を狙って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだといふ。「法師泊まりでせうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね。」とM君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかった。 後略

この紀行文は大正11年10月23日若山牧水が法師温泉に宿泊した後、猿ヶ京温泉で昼食し、沼田への帰路を綴った「みなかみ紀行」の一節である。昔の風情がそのまま残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい。

大名女中はおろか、盲目の女性でもこの険しい坂を登ってくるのであった。先の妄想は容赦なく砕かれ、独りではずかしい思いをした。それにしても牧水はチョイワルな発想をする。

旧三国街道 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県

吹路の集落は国道17号を北境として谷に落ち込む斜面にへばりついたようにある。集落をぬける道は勾配をなだらかにするためにおのずと曲がりくねっている。民家は隣り合わせに接することなく、適度な間隔をおいてまばらに建ち、どこが集落の中心なのかわかりにくい別荘地のような集落だ。要所に「中部北陸自然歩道」の標識が立っていて、旧道を確認すると同時に永井宿までの距離がわかって助かった。

吹路(ふくろ) みなかみ町 利根郡 群馬県
吹路(ふくろ) みなかみ町 利根郡 群馬県

沼田市から国道17号を北に向かい、県境の三国峠にさしかかろうとする一帯が吹路の集落。江戸時代に江戸と新潟を最短距離で結んだ「三国街道」の街道筋とあって、新治村は多くの民話、伝説、故事に彩られているが、「吹路」という一風変わった地名にも言い伝えが残る。同村文化財保護委員会の見城孝司さんによると、「応仁の乱」が終息したばかりの1480年代に左大臣、藤原房嗣の三男に道興という人物がいて、諸国回遊の旅を思……

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沼田市から国道17号を北に向かい、県境の三国峠にさしかかろうとする一帯が吹路の集落。江戸時代に江戸と新潟を最短距離で結んだ「三国街道」の街道筋とあって、新治村は多くの民話、伝説、故事に彩られているが、「吹路」という一風変わった地名にも言い伝えが残る。同村文化財保護委員会の見城孝司さんによると、「応仁の乱」が終息したばかりの1480年代に左大臣、藤原房嗣の三男に道興という人物がいて、諸国回遊の旅を思いたち京を離れた。道興の書いた紀行文「廻国雑記」に、越後から上野に山を越えた所として「ふくろうの里」の名前が出てくる。紀行文には「ふくろうといへる里にて。ねざめに思いつづけける」と記した後で、「この里のあるじがほにも名乗るなり深き梢のふくろふの声」と、短歌が添えられている。県文化事業振興会発行の「上野郡村誌」にも「梟鳥村ト称ス、後転訛シテ吹路村」と記されている。このことから、見城さんは「フクロウの鳴くような地というところから生まれた地名ではなかろうか」と推測する。「梟鳥村」がいつのころから「吹路村」と呼ばれるようになったのかは、はっきりしない。ただ、江戸時代初期に街道整備が行なわれ、三国街道も主要幹線の一つになったのだが、見城さんは「それ以前、上杉謙信らの軍勢の三国越えは、もうすこし違ったルートではなかったか」と思っている。その後、江戸時代に整備された三国街道では「吹路」よりも峠近くに「永井」という集落があり、越後米取り引きの市が立つ場所として栄えた。しかし、歴史をさかのぼると、古くから「ふくろ」の名前が出てくるのに対して、「永井」は「駅設置起源については明らかでない。貞享3(1686)年ごろまでには宿の形態を整えたと考えられる」と記録されていて、比較的歴史が浅いのではないかと思われている。見城さんは、この関係から、梟鳥から吹路に地名が変化した当時はまだ、「永井」が存在しておらず「上州最後の集落という意味で袋小路を意味する「吹路」の字をあてたのかもしれない」と漢字名の書き換えの由来を分析している。この地名を愛する同所、自営業、佐藤辰雄さんは自費で歌碑を建立し、由来を伝えようと歌碑を守り続けている。

小さな集落の中を縫うようにして一旦国道に出、50mほど西に進んだところの丁字路で再び国道から下り坂の旧道に入っていく。「群馬側最終SS」の立看板に釣られてガスステーションで飲み物補給した。店内に地方新聞の切り抜き記事が貼ってある。

旧道入口 吹路(ふくろ) みなかみ町 利根郡 群馬県
旧道入口 吹路(ふくろ) みなかみ町 利根郡 群馬県

まず「吹路」を「ふくろ」と読むことからして難解だが、その「ふくろ」は「ふくろう(梟)の里」から来ているという。宿場としての吹路に関する情報は少ない。吹路を三国街道の宿場として数えない資料さえある。宿場としては次の永井宿にくらべ小さなものだったと思われるが、集落としては吹路は永井宿が作られる以前からあったのだという。三国街道における上州最後の集落という地位を永井にとられてしまった。その後吹路は永井宿と相宿の関係にあったようである。

諏訪神社 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
諏訪神社 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 吹路 みなかみ町 利根郡 群馬県

国道からの旧道入口には中部北陸自然歩道の標識が「猿ヶ京温泉 2.3km」「永井宿1.7km」と示していた。急坂を下って右にまがるところに諏訪神社があり、ようやく旧宿場の古い臭いにありつけた。その背後に固まった家並みが見られる。このあたりが中心なのだろう。旧街道はそこを避けるように傾斜の南端を回りこみ、国道に上がることなくそのまま永井に延びる心地よい土道に入っていった。

永井

旧三国街道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
旧三国街道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

旧道は二股で車道からわかれて左の細い農道をたどり、車道を二度横切って中部北陸自然歩道の標識が立つ畑中のゆるやかな坂道を上ってゆく。

町野久吉の墓 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
町野久吉の墓 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

慶応4年4月24日東軍(会津軍)は、越後小出島軍奉行町野源之助(主水)を総大将とし、弟町野久吉を副大将として、藩兵40名、それに郷土兵らを加え、総勢140余名の兵力を以って、三国街道筋の に陣を築き西軍(官軍)の越後侵入を阻止する体制にあった。一方三国峠に進撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使豊永貫一郎、原保太郎の率いる前橋、高崎等の諸藩兵1200余名が永井宿に陣を構え、三国街道筋と風反路法師温泉……

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慶応4年4月24日東軍(会津軍)は、越後小出島軍奉行町野源之助(主水)を総大将とし、弟町野久吉を副大将として、藩兵40名、それに郷土兵らを加え、総勢140余名の兵力を以って、三国街道筋の に陣を築き西軍(官軍)の越後侵入を阻止する体制にあった。一方三国峠に進撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使豊永貫一郎、原保太郎の率いる前橋、高崎等の諸藩兵1200余名が永井宿に陣を構え、三国街道筋と風反路法師温泉九十九曲の三方から、大般若塚に進撃を開始した。両軍相交え激戦となったが、官軍の圧倒的多数に抗しきれず越後小出島まで退き事後に備えた。町野久吉(17才)少年は において文武両道を学び質実剛健、特に槍の達人であった。久吉少年は蒲生家伝来家重代の名槍をふるい、官軍1200余名の陣地に単身切り込み、阿修羅の如く奮戦したが、ついに数発の銃弾を身に受け大般若塚 小平附近で壮烈な戦死をとげた。遺体は永井住民の手厚い供養を受け、現在の位置に埋葬されたのである。

旧道は国道にでる直前で短い峠道を迂回する。峠に会津白虎隊町野久吉の墓が建っていた。慶応4年4月、三国峠を死守しようと町野源之助(主水)を総大将、弟久吉を副大将とする会津軍140余名は大般若塚に陣を築き永井宿に陣を構えた1200余名の官軍と対峙した。圧倒的な数を誇る官軍には対抗しきれず会津藩は敗走する中で、久吉は単身切り込み壮烈な戦死を遂げる。

2ヶ月前鳥羽街道を歩いて戊辰戦争勃発の跡を見てきたばかりである。わずか3ヶ月の間に戦線は三国街道の国境にまで広がっていた。

かじか橋 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
かじか橋 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

トラックステーションのところで旧道は国道17号に接するが、すぐに永井に向かって山中の近道を下っていく。沢にかかるかじか橋で湿った昆布のようなぬめりに足をとられて大きく転んでしまった。上り坂を200mほど進むと山を抜けて畑の明るみに出た。

宿場入口 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
宿場入口 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

集落の南端に永井宿の石碑が建ち、道向かいに永井宿郷土館がある。前庭に若山牧水の歌碑があった。猿ヶ京小学校永井分校の跡地だ。

若山牧水歌碑 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
若山牧水歌碑 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県「山村所々」のうち 永井村 山陰は 日暮はやきに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す 大正11年10月22日

山かげは 日暮はやきに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す

大正11年牧水は「みなかみ紀行」の旅の途中、沼田から法師温泉に向かうとき、ここに立ち寄った。歌碑は昭和54年永井分校が閉校されるときに建てられたものである。

本陣跡 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
本陣跡 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

本陣 笛木四郎右衛門 与謝野晶子歌碑 訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かり呼べば 通う秋風 寛治(1089~92)の頃奥州の阿部の家臣、長井左門がこの地を開発した縁でその苗字をとり長井村としたのが縁となり謙信が関東に兵を進め三国峠からの山道を開き更に元禄2年(1689)徳川の代となり永井宿が米問屋場に指定され越後米の取引場として隆盛したのであります。 又参勤交代等宿場として栄え越後大名、佐渡奉行、……

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本陣 笛木四郎右衛門 与謝野晶子歌碑 訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かり呼べば 通う秋風 寛治(1089~92)の頃奥州の阿部の家臣、長井左門がこの地を開発した縁でその苗字をとり長井村としたのが縁となり謙信が関東に兵を進め三国峠からの山道を開き更に元禄2年(1689)徳川の代となり永井宿が米問屋場に指定され越後米の取引場として隆盛したのであります。 又参勤交代等宿場として栄え越後大名、佐渡奉行、新潟奉行が利用し堀丹後守の場合では(160~180)名位宿舎全戸を挙げて宿泊に勤めたと、記されている。現在の永井宿の家屋は万延元年(1860)に火災で焼失してしまいその後に建築されたものである。尚永井本陣は翌文久元年4月に完成建物は間口14,5間の雄大な平入切妻造りの二階屋で柿板葺の建築であった。本陣は昭和8年売却され僅かに一枚の写真と1枚の平面図並びに記念に保存されている表側縁の下の波に兎の彫刻のある「もちおくり」が、ありし日の俤を偲ぶことができる。 昭和59年3月1日 新治村

ひっそりとした坂道をのぼって集落の中心に向かう。宿場は山の斜面にへばりつくように作られている。道を左に曲がったところ左側に本陣笛木家があった。笛木家は名主、問屋も兼ね、養蚕・金融・酒造を営む大家であったらしい。今は往時の本陣建物の写真を貼ったパネルと、石塚の上に与謝野晶子の歌碑をはめ込んだ本陣跡の石碑があるのみである。

与謝野晶子は昭和6年この地をおとずれ、駕籠で三国峠に遊んでいる。与謝野晶子は旅行好きな女性だったとみえ、各地で出会う。その場所ごとに歌を詠み碑を残しているが、多くが義理で詠んだありふれた内容で印象に残る歌が少ない。

訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かり呼べば 通う秋風

バス停脇に永井宿の案内板が建っている。永井宿は永元禄2年(1689)米問屋場に指定され越後米の取引場として隆盛をきわめ陸の船着場とよばれるほどの賑わいをみせた。

民宿(旧旅籠和泉屋) 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
民宿(旧旅籠和泉屋) 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

左手に大丸屋、右手に和泉屋と、道の両側に旅籠の俤を残す家が残っている。いずれも「持ち送り」に彫刻を施した立派な作りである。和泉屋の西側、国道の崖下あたりが高札場であった。

国道17号に合流、三国峠に向かう 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
国道17号に合流、三国峠に向かう 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

街道は崖にぶつかり左にまがって国道17号に合流する。宿場を出ればいよいよ三国峠越えである。

三国路自然歩道入口 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道入口 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県この自然歩道は旧三国街道で昔の姿がそのまま残されています。三国峠より永井宿まで約7km、3時間の所要時間です。このコースは史跡と高山植物が多く、古くは万葉の時代から今日まで人々の歴史の変遷を伝えています。昭和34年国道17号線が開通するまで表日本と裏日本を結ぶ重要な街道として人々に親しまれてきました。 群馬県・新治村

国道が大きく右に曲がったところ右手に旧街道入口がある。「中部北陸自然歩道 上州路三国峠の道」と記した標柱と並んで「三国路自然歩道」の絵地図付き案内板が立っている。永井宿より三国峠まで約7km、3時間の行程とある。

旧三国峠

旧街道の山道にはいっていくとすぐに道標があり、永井宿まで0.35km、三国峠まで7.45kmと、正確な距離が記されている。道は自然歩道として整備されており、歩きやすい山道である。リュックのポケットにしまっておいた鈴をとり出し、背負いなおして3時間余りの峠道を歩き出す。名実共に三国街道のハイポイントである。

すぐ右手に石垣の遺構がある。何かの建物跡だと想像するが、説明札らしき物は見当たらなかった。

上州路三国峠のみち 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
上州路三国峠のみち 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

永井宿をあとにし、山道を北上すると昔ながらの森が現れ、さわやかな森林浴が楽しめる。さらに北上すると大般若塚の塔がある。この塔は、大般若経600巻を一石一字として埋めたものである。それを過ぎると東には三国連峰から赤城の山並み、西には、苗場・稲包山が見事に眺望される。この先には、三国峠にある神社「御坂三社神社」がある。この神社は、越後の弥彦、上野の赤城、信州の諏訪の三社を祭っていることからこの名があり……

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永井宿をあとにし、山道を北上すると昔ながらの森が現れ、さわやかな森林浴が楽しめる。さらに北上すると大般若塚の塔がある。この塔は、大般若経600巻を一石一字として埋めたものである。それを過ぎると東には三国連峰から赤城の山並み、西には、苗場・稲包山が見事に眺望される。この先には、三国峠にある神社「御坂三社神社」がある。この神社は、越後の弥彦、上野の赤城、信州の諏訪の三社を祭っていることからこの名があり、三国峠が新潟県と群馬県の県境である。 環境庁 群馬県 新治村

最初の休憩所に「中部北陸自然歩道 上州路三国峠のみち」の案内板と「三国峠7.3km 永井宿0.6km」の標識が立っている。群馬県側の上り口から峠までは8km近くの坂道であるのに対し三国峠から新潟県側の出口までは1.3kmと短い。したがって三国峠の旧街道を歩く人の多くは3時間を越える長い上り坂を避けて、新潟県側から30分ほどで一気に峠に登りつめ、その後のんびりと永井宿までの下り道を選ぶ。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

道は切り通しのような窪地を進んでいく。「大般若塚3.0km 永井宿0.8km」の標識を通り過ぎる。道は急峻な斜面を横切っていて、左は深い谷間である。杉木立がその険しい景観をいくらかでも緩和してくれている。次ぎの休憩所(山側に木のベンチが一つあるだけだが)には永井宿から1.0km、峠まで6.6kmとある。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

倒木を除けながら急坂を這い上がり、曲がりくねった空濠の中を泳ぎ、街道はいよいよ山道の趣を濃くしていく。九十九折の山道は「大般若塚2.0km 永井宿1.8km」の標識をすぎるとやがて谷間を右手に見るようになる。右側の路肩が頼りなく木立の支えもなくて足元に不安をおぼえる。

『三国街道を歩く』(上毛新聞社)51ページの案内図には、大般若塚までに、九十九折の「金堀坂」と呼ばれる急坂や、赤城山・榛名山が遠望できる「遠見」、さらには三国山から吹いてくる風を法師谷に反らせることからその名がついたと云う「風反り茶屋跡」などが記されている。それらしき案内立て札を求めて注意しながら登っているのだが、結局出会ったのは距離標識だけで、金堀坂・遠見・風反り茶屋跡のいずれも確認できなかった。道は始終曲がりくねっていて、どこが九十九折かとは特定しがたい。また、谷側でも木が茂っていて展望が開けた箇所を登った記憶もない。茶屋跡にいたっては立て札が唯一の頼りである。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

そうこうしているうちに「大般若塚まで0.5km 永井宿まで3.3km」の標識まできた。左右の案内板は地表に落ちていて、かわって柱に白いパネルが貼り付けてある。道は幅広く平らで、下草もなく手入れされているようで歩きやすい快適な遊歩道である。

三国峠までのほぼ中間点である大般若塚にたどり着いた。場所は三国街道の永井宿-三国峠を結ぶ三国街道の中間地点から九十九曲りとよばれる法師温泉に至る道が分岐する三差路の峠で、大般若塚から三国峠まで4.0km、永井宿まで3.8km、法師温泉まで2.7kmと三地点までの距離標識がある。山中の交通の要衝であり、戊辰戦争ではここで激しい戦いが展開された。

大般若塚 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
大般若塚 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

大盤若塚理趣分供養塔 昔の三国峠 今の大盤若塚あたりに、妖怪が現われては、往来の旅人を嚇かして死人も出て居ると言う様な話で人々は、恐れてここを通るのも命がけであったと言われていたが、その後人々はこれは風雪等のために此の峠に於て命を落した人々の霊であろうと気付き、三国権現の神主である田村越後の守に、乞い願い死者の冥福を祈り且つ大盤若経の文字を小石に一字ずつ書き、尚、死者の氏名を石に刻み、経石と共に、……

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大盤若塚理趣分供養塔 昔の三国峠 今の大盤若塚あたりに、妖怪が現われては、往来の旅人を嚇かして死人も出て居ると言う様な話で人々は、恐れてここを通るのも命がけであったと言われていたが、その後人々はこれは風雪等のために此の峠に於て命を落した人々の霊であろうと気付き、三国権現の神主である田村越後の守に、乞い願い死者の冥福を祈り且つ大盤若経の文字を小石に一字ずつ書き、尚、死者の氏名を石に刻み、経石と共に、之をここに埋めて塚となし墓の上に、大盤若理趣分供養塔を建てたのである。 新治村 観光協会

大般若塚から法師温泉への道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
大般若塚から法師温泉への道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

三国峠4.0km 永井宿3.8km 猿ヶ京6.5km 法師温泉2.7km 国道17号1.0km 吉田善吉墓所 慶応4年(1868)閏4月24日戊辰戦役に於て戦死官軍は之をこの地に埋め墓石を建つ 吉田善吉は、上州吉井藩人足百姓善吉で後に姓を吉田と与えられ、士分となったもので名を政明と云った。 新治村観光協会 明治戊辰の役で会津藩鶴ヶ城攻略に向かった官軍中、北上する薩長連合軍山県有朋、吉井幸輔の隊を迎……

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三国峠4.0km 永井宿3.8km 猿ヶ京6.5km 法師温泉2.7km 国道17号1.0km 吉田善吉墓所 慶応4年(1868)閏4月24日戊辰戦役に於て戦死官軍は之をこの地に埋め墓石を建つ 吉田善吉は、上州吉井藩人足百姓善吉で後に姓を吉田と与えられ、士分となったもので名を政明と云った。 新治村観光協会 明治戊辰の役で会津藩鶴ヶ城攻略に向かった官軍中、北上する薩長連合軍山県有朋、吉井幸輔の隊を迎え討とうと、時の会津領、越後小出島軍事奉行、 、家臣遠藤介、三込山良助など16名、地方郷士侠客など、雑兵、120余名は三国峠に陣を敷いた。一方官軍方は豊永司令官を始め鎮静官前橋少将等が、高崎、佐野、吉井等の諸藩の兵600人程を率いて須川宿に到着、豊永司令官は諸藩の隊長を集めて翌日の作戦命令を言い渡した。高崎藩は200人を率いて永井の裏山伝いに大般若塚に向かえ、吉井佐野藩は180人を率いて法師から、大般若塚に向かえ、自らは鎮静官と共に200人を率いて本道より向かう。かくて適陣を三方より挟撃すると、翌日は雨で進撃を止め永井の村民中から地形に明るい3人を山かせぎ姿として敵陣付近を偵察させた。以下略 新治村観光協会

小さな平地の右手に三国峠付近に出没した妖怪変化を封じるために築かれたものと伝わる大般若塚が立ち、左にはしっかりとした東屋が設けられており、法師温泉への下り坂入口には戊辰戦争で犠牲になった官軍兵士の墓がある。戊辰戦役碑といえば圧倒的に敗者幕府軍の戦死者慰霊塔が多い中で官軍兵士の墓は珍しい。

冷夏と標高と怪しい雰囲気に囲まれて吹く風が夏を忘れさせるほどに涼しい。ベンチで足を休ませ養分と水分を補給、峠道の後半に臨む。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

後半最初の標識は「三国峠3.0km 大般若塚0.5km」、道は自転車で走れそうなほどに平坦でますます心地良い。道端には刈り取られたばかりの草葉がまばらに置かれている。歩を進めるうち思いがけなくも林道でもない遊歩道の奥で機械の音が聞えてきた。これで熊の心配はないとまず安心、曲がり道の先に人影がみえてきた。近づくと草刈り機を手にした夫とそのあとを片付ける妻の夫婦連れである。この山林の所有者なのだろうか、管理組合から委嘱をうけた業者なのだろうか、いずれにしてもこの旧三国峠道が管理されていることを目で確かめられて心強かった。そこから先の歩みが心持ち軽くなったような気がした。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

脚のない三基の腰掛台を通り過ぎ、右や左に木製ベンチをみやりながら「三国峠2.5km 大般若塚1.0km」の標識に至る。先の標識から500m歩いた。150~200mぐらいの間隔でベンチが設けられてあるようだ。このあたり、谷と山の感覚が薄れ、道の左右に同じような風景が続いている。

三坂茶屋跡 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三坂茶屋跡 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

坂上田村麻呂の血縁関係であった、田村越後の守が三坂の茶屋を営んでいた所である。又、三国権現の神主でもあった。茶屋跡は道をはさんで南側に、小さな茶屋も、一軒あり、広い敷地で当時をしのぶ事が出きる。当時三坂の茶屋は、三国権現の賽銭をかますに入れて馬で、毎日運ぶ休憩茶屋であり、越後へ越す、お助け小屋でもあり、冬期間の雪のやむまではここで逗留していた。本宅は裏山の小高い場所に敷地跡があった。戊辰の戦いで会……

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坂上田村麻呂の血縁関係であった、田村越後の守が三坂の茶屋を営んでいた所である。又、三国権現の神主でもあった。茶屋跡は道をはさんで南側に、小さな茶屋も、一軒あり、広い敷地で当時をしのぶ事が出きる。当時三坂の茶屋は、三国権現の賽銭をかますに入れて馬で、毎日運ぶ休憩茶屋であり、越後へ越す、お助け小屋でもあり、冬期間の雪のやむまではここで逗留していた。本宅は裏山の小高い場所に敷地跡があった。戊辰の戦いで会津軍が敗北の際に全部が焼失してしまわれ明治時代は道沿いの、大きな家だけであった。 三国街道の或る一日 文久3年3月15日 長岡藩主奥方一行 御上4人・次女中4人・中居女中2人・末女中21人・下女中11人・老女中2人・腰女中10人・津田某 中元14人・陸尺31人・雇方同勢300人・その他合わせて483人 馬、貨物と乗用で89匹・馬子89人 総計578人 このように一つの行列にしても数多くの人が往き来して当時の交通の盛大さを偲ぶ事が出きる。 新治村観光協会

軽い切り通しを過ぎ小さな峠を越えた先あたりでかなりな規模の空間が現れる。右手の山側に石仏や墓石が並んでいる。道の両側にベンチがある休憩場所に「三坂の茶屋跡」の案内板が立っている。坂上田村麻呂の血を引く田村越後守が営んでいた茶屋跡である。田村越後守は三国権現の神主も兼ねており、毎日ここから三国権現に奉納された賽銭を回収しにいったという。街道沿いの茶屋だけでなく、その裏山には本宅の屋敷があたっというからやんごとない茶屋だったのである。奥まった所に並んでいた墓石は田村家代々の墓だった。

同じ案内板に付記されている文久3年3月15日のことがおもしろい。長岡藩主の奥方一行がこの茶屋を通った。恐らくここで休憩したことだろう。奥方一人を運ぶのに総勢578人と馬89匹を要した。御上4人とあるのが奥方のことなら正妻、側室を含めたものとなる。それに同行する女中が50人。内訳;次女中4人、中居女中2人、末女中21人、下女中11人、老女中2人、腰女中10人。色んな種類の女中が居るもんだ。

晶子清水 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
晶子清水 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県与謝野晶子が駕籠で三国峠を越えたとき、手ですくって飲んだという清水と、街道を横切る沢

左の深い谷が覗けるようになるころ、羽の取れた標識が「三国峠2.0km 大般若塚1.5km」を示す。やや下りになって沢が現れた。右手の細い滝から清冽な山水が道を横切りそのまま谷に流れ落ちている。昭和6年、与謝野晶子が駕籠に揺られて三国峠で遊んだ時この沢の水を手ですくって飲んだというので、「晶子清水」と呼ばれている。これは『三国街道を歩く』からの情報で、立て札などは立っていない。

三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県

すぐ先に「三国峠1.8km 永井宿6.0km 法師温泉4.0km 国道17号1.3km」の標識があり、左に細道が下りている。国道17号に出て法師温泉への山道につながる山道である。右手に石垣が築かれその上にトイレと屋根つき休憩所がある。

長岡藩士の墓 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
長岡藩士の墓 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県元文5年(1740)2月5日長岡藩士永井磯七ほか7名、外人足4名が長岡藩内の犯人を江戸で捕えて唐丸カゴに入れて護送中表層なだれに遭い藩士全員死亡。犯人と人足はなだれに巻き込まれず助かった。 昭和59年3月1日 新治村

しだいに高度を上げていく道を進んで行くと右手に墓石がならぶ一角が現れる。墓は元文5年(1740)2月5日この先のヒノキ峠近くで雪崩に会い遭難した長岡藩士8名のものである。8名の藩士は江戸で捕えた罪人を護送中であった。人足4名と皮肉にも唐丸カゴとよばれる護送用のカゴに入れられていた罪人はなだれに巻き込まれずに助かった。犯人はその後逃亡したのか、人足が護送の代役を果たしたのか、知らない。

ヒノキ峠・駒返し 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
ヒノキ峠・駒返し 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県三国峠まで1.5km 大般若塚まで2.0km 永井方面から上がってきた馬が冬の凍結した道で足を滑らせて引き返したとも、上杉謙信が関東攻略の折に猿ヶ京の出城が焼かれたことで馬を引き返したとも言われている。

その峠が「三国峠1.5km 大般若塚2.0km」の標識の先にあり、馬頭観音が長岡藩士を供養するように立っている。ヒノキ峠手前の上り坂は「駒返し」とよばれた難所で、永井方面から上がってきた馬が冬の凍結した道で足を滑らせて引き返したとも、上杉謙信が関東攻略の折に猿ヶ京の出城が焼かれたことで馬を引き返したとも言われている。

道は上り下りと蛇行をくりかえしながら小さな沢をいくつか渡る。道幅がしだいに狭くなってきて左手の谷がますます深く刻まれた様相を呈してくる。「三国峠1.8km 大般若塚2.5km」と記された茶色のパネル標識を通り過ぎる。前のキロ程から三国峠が300m遠ざかった

のは何かの間違いだろう。

くぐつが谷 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
くぐつが谷 三国路自然歩道 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県山側 谷側

やがて谷間に展望が開けたところで大きな沢が横切っている。山側はするどく刻まれた細い沢が山中奥深くから走っているのが見える。水流は盛んで、殆んど垂直に近い谷間に落ち込んでいる。木々の繁みで落水の姿をみることはできないが、大きな落差で拡大された水音が谷底から這い上がってくる。三国峠最大の難所といわれるこの谷を誰がなづけたか、「くぐつが谷」とよぶ。「くぐつ」は「傀儡」と書き、谷に出没する妖怪が、峠の旅人を人形のように操ったことから、そう呼ばれた。やがて妖怪の本体は雪なだれ等のためにこの峠で命を落した人々の霊であろうと考えられ、大盤若理趣分供養塔を建てて死者の冥福を祈った。既にみてきた大般若塚がそれである。

旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県
旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県

道はいよいよ細まって上り坂がけわしくなってきた。茶色のパネルが三国峠まであと500mだと語りかける。石ころまじりの坂道を駆け上がって三国街道ハイポイントの峠に出た。ベンチ、常夜燈、御阪三社神社(三国権現)の祠と鳥居、それに「三国峠を越えた人々」と一風変わった石碑がある。

旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県
旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県

御阪三社神社は、上野赤城明神・信濃諏訪明神・越後弥彦明神を祀り、上野・信濃・越後の三国の境とした神社である。現在の群馬・長野・新潟三県の県境はここではない。

「三国峠を越えた人々」の名簿碑は30人の名前と峠を越えた年が刻まれている。興味本位に挙げていくと、平安時代の坂上田村麻呂を筆頭に、弘法大師、謙信をふくむ5名の上杉氏、江戸時代の長岡をはじめ村上、与板、黒川、三日市、高田、三根山等11の藩主、塩沢の鈴木牧之、伊能忠敬、出雲崎の良寛禅師、遊行上人、長岡の河合継之助、明治にはいって原敬、西園寺公望、尾崎行雄、昭和時代の与謝野夫妻、川端康成、北原白秋、船橋聖一等の文人、そのほかに外国人4人が名を連ね、実に多彩な顔ぶれである。

旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県
旧三国峠 みなかみ町 利根郡 群馬県/湯沢町 南魚沼郡 新潟県上信越高原国立公園は群馬、新潟、長野の三県にまたがる山岳と高原の公園です。当公園の東端に位置する谷川三国地区は古くから登山が盛んな地域です。三国峠は、越後と関東を結ぶ三国街道最大の難所であり、重要な峠でした。三国山と平標山は高山植物の宝庫で、多くの珍しい花々は、恵まれた環境の中で美しい花を咲かせています。 環境庁・利根沼田森林管理署・群馬県

峠の東側は大きく展望が開け手が届く距離に三国山がなだらかな曲線を見せている。遠くに青緑系の4層のグラデュエーションを描く山並みが美しい。峠を吹き渡る風はもう秋の気配である。三国峠路は二日がかりの箱根峠にくらべればおよそ4分の1の道のりである。石畳もなければ草もない歩きやすい柔らかな土の道で、谷は深くて険しいけれど山肌を縫う峠道は穏やかな上下をくりかえす快適な自然歩道である。いくつかの沢をわたったが橋を架けるようなものでない。

まだ越後の国の南境に触れただけなのにもう三国街道を歩き終わった気分におそわれた。

三国権現御神水 旧三国街道 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
三国権現御神水 旧三国街道 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
旧三国街道 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
旧三国街道 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県

峠から越後側への下り道は1.3kmで20分で完了する。急勾配の登山道だ。途中に「三国権現御神水」の標柱があるだけで史跡らしきものはない。最後の坂を階段で降り、三体の石仏に別れを告げて国道三国トンネルの新潟側入口脇に出た。標高1076m、1218mの三国隧道は昭和34年に完成した。この自然歩道はそれ以降に造られたのではないか。本来の旧街道は峠からの下り道途中から国道の東側の山中に分岐して浅貝宿の旧道につながっていた。途中にその痕跡を見ることができる。

三国トンネル 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
三国トンネル 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
三国トンネル 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県
三国トンネル 浅貝 湯沢町 南魚沼郡 新潟県長さ1218m 標高1076m

なお、三国トンネルは壁側に白線すらない狭いトンネンルである。幸い道路は一直線で、出口の明かりが常に見え進入してくる車のシルエットとランプが確認できる。交通量もさほど多くなく、前後をみながら近づいてくる車と反対の車線に移動するのがよい。やむなく同じ車線にとどまるときは、側石に乗り上げ壁に身をへばりつけて車をやり過ごす。大型車二台がすれ違うときは最徐行する。そこに人一人の隙間はない。

(2008年5月)

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