武州路2 蕨 - 浦和 - 大宮 - 上尾 - 桶川 - (北本) (4次 30km 平均間隔 8km)
宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

戸田橋を渡り堤防の道を右に入る。満々と水を湛えた荒川に艀がゆったりと行き交う。橋下ではなにやら工事が進行中のようである。

土手下に下りていく車道の中程左手に渡船場跡碑と中渓斎英泉の「戸田の渡し」絵入りの説明板が建っている。荒川には、江戸防衛のため明治に入るまで橋は架けられていなかった。天保13年(1842)渡し業務を行っていた下戸田村は家数46軒、人口226人、渡し舟13艘、船頭8人を擁していた。渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、幕府公認の戸田河岸を運営していた。明治8年(1875)に木橋の戸田橋が完成し戸田の渡しは廃止された。

渡し跡碑の後ろ側に中山道旧道が短く残っている。信号交差点まで下りてUターンして水神宮の前を通り過ぎ旧道に入る。
地蔵堂の創立についてはよくわかりませんが、お堂の建物はかなリ古く、市内最古の木造の建造物と思われます。この地蔵堂は、江戸時代に作られた「中山道分間延絵図」にも記されており、建物は小さいのですが、お堂の規模からは不似合いなほど大きな木組を使用しての虹梁、斗栱、木鼻、釘隠しの形など注目すべき点が多い建造物です。 また、お堂の軒には正徳3年(1713)の銘がある半鐘がかかっています。そのほか、境内には ……
地蔵堂の創立についてはよくわかりませんが、お堂の建物はかなリ古く、市内最古の木造の建造物と思われます。この地蔵堂は、江戸時代に作られた「中山道分間延絵図」にも記されており、建物は小さいのですが、お堂の規模からは不似合いなほど大きな木組を使用しての虹梁、斗栱、木鼻、釘隠しの形など注目すべき点が多い建造物です。 また、お堂の軒には正徳3年(1713)の銘がある半鐘がかかっています。そのほか、境内には 享保16年(1731)銘の庚申塔 、応永25年(1418)や永禄5年(1562)銘の板碑などもあります。 平成7年3月 戸田市教育委員会
すぐ右手の細い路地をはいったところに地蔵堂があり手前に享保16年(1731)の庚申塔がある。説明板には堂宇は戸田市内最古の木造建造物だとあるが、見たところ最近修復されているようで正面の壁面は新しい。
街道にもどると左手の川岸ミニパークに中山道の案内板が設けてある。渡船場跡から北にのびる旧道は200mほどで菖蒲川に突当り、その後の旧道筋は失われているという。
この公園の脇にある小道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。中山道は日本橋を起点として、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで135里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて69宿ありました。戸田市内を南北に貫く旧中山道は、戸田橋の下流100m程のところにあった「戸田渡船場」から始まります。埼玉県内の旧中山道は、この渡船場から始まりますが、残念ながら市内の道筋の大部分は……
この公園の脇にある小道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。中山道は日本橋を起点として、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで135里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて69宿ありました。戸田市内を南北に貫く旧中山道は、戸田橋の下流100m程のところにあった「戸田渡船場」から始まります。埼玉県内の旧中山道は、この渡船場から始まりますが、残念ながら市内の道筋の大部分は失われてしまいました。しかし、市内にもまだ一部にそのおもかげが残されています。 その内の1か所が、現在の国道17号にかかる戸田橋下流の堤防付近に建つ「中山道戸田渡船場跡」の記念碑付近から、 といわれています。しかし、菖蒲川を越えた先からの道筋は現在まったく夫われてしまいました。旧中山道は川岸に残る道筋からしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、現在の国道17号線に乗っていました。国道とオりンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡てはないかといわれろ場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ公園の脇道約80mとつながります。ここは市内に残るもう1か所の中山道跡で、川岸から北上してきた旧中山道が大きく西に曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再ぴ現在の 国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながって行きます。戸田市教育委員会
街道は菖蒲川の南岸をたどって国道17号に出、北に向かう。本町1丁目信号を右折して一筋東の静かな通りを北上する。国道本町交差点東側の五差路で左斜めに折れて国道に出る道が旧道筋である。右手ミニパークに川岸ミニパークで見たと同様の中山道案内板がある。
国道17号を北上し、戸田市役所入口交差点の先、蕨警察署入口信号で蕨市に入る。

その先二又で国道を左に分け、右の旧道に入って行く。分岐点に中山道蕨宿碑が立つ。
最初の十字路左手のポケットパークに蕨宿絵地図がある。このあたりに南木戸があり、蕨宿の南出入口となっていた。
すぐ先右手の郵便局の前にも蕨宿絵図の看板が建っている。

斜向かいの蕨市歴史民族資料館・分館は明治20年(1887)建築の織物買継商の旧宅で一般開放されている。あいにく休館日(月曜)で中を見ることができなかった。
コンビニのある十字路角に蕨町道路元標がある。このあたりが宿場の中心地であった。

蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。 慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられる。 その後その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。 蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となりついで明治元年(1868)……
蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。 慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられる。 その後その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。 蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となりついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。 現在岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。 蕨市教育委員会
左手に「旧脇本陣」の行燈を立てた岡田厚生堂薬局、歴史民俗資料館、つづいて蕨宿岡田本陣跡として立派な冠木門を模したモニュメントがある。皇女和宮がこの本陣で休息した他、明治天皇の大宮氷川神社親拝の際の小休所ともなった。岡田脇本陣は岡田本陣の分家である。
岡田本陣の初代岡田正吉は蕨城主渋川公に仕えた武将岡田正信の子孫で江戸時代以前、戸田市上戸田の元蕨地区で人馬継立業を行っていたが、蕨宿が現在の場所に整備されてからはこの地に移って宿場の本陣・問屋・名主の三役を兼務する名家となった。

本陣跡の先を右に入り市役所を通り過ぎたところ、右手に和楽備神社がある。「和楽備」は「蕨」に重きを置かせるために万葉仮名で表示したものという。神社の由緒書きを探したが見当たらず、入口左手にある水盤には詳しい説明書きがあった。

神社の参道右手に横道がでていてたどっていくと堀跡の池を通って公園に出た。ここが蕨城址である。南北朝時代に渋川氏が居を構え、大永4年(1524)に北条氏綱により攻撃され、城は破壊された。江戸時代になると、徳川家康が城跡に御殿を築き、蕨宿本陣が整備されるまで本陣代わりに利用していた。

街道に戻りすぐ右手に「中山道武州蕨宿」と刻まれた宿場碑があり、その先左手には「中山道蕨宿近江屋」の行燈を立てた近江屋呉服店がある。先代が滋賀県彦根からこの地に移ってきて呉服屋を始めたという。
右手には古い屋根看板を出した「鈴木薬局」が趣ある佇まいを見せている。二階の格子が美しい。一階の店は板張りしてあって定休日かあるいは閉業した様子に見受けられる。


天保年間創業と言う老舗煎餅店満壽屋の前に「地蔵の小径」と刻まれた石標が建っている。その横道をはいっていくと三学院に至る。境内右手には梵字馬頭観音塔と、一つ屋根の下に万治元年(1658)の目疾地蔵、 寛文~元禄年間(1661~1704)の建立と考えられる六地蔵、その奥に元禄7年(1694)の高さ約2.4mにおよぶ大きな子育て地蔵が納まっている。

鐘楼、大イチョウ、三重の塔、奥行きの長い屋根をつけた破風をもつ本堂などよりもこれらの地蔵が有名らしい。
街道に戻り蕨宿の北出口に近づくころ、右手に連子格子や土蔵を配した家並みが残っている。

街道は錦町3丁目信号で国道17号を渡る。交差点手前左角に、北木戸跡を記念したミニパークが設けてあり、蕨宿の概要が説明されている

国道の西側旧道沿いにも旧街道の面影を漂わせる家並みが見られた。
一六橋のいわれ この橋は、見沼用水の分流、通称一六用水に架かっており、そこから一六橋と名付けられた。「一六」といぅ名称は、南北朝時代~戦国時代(14世紀~16世紀)に、この辺りで一と六の付く日に、「市」が聞かれたことによると伝えられている。江戸時代にはすでに一六橋の名が見えており、明治初年に書き上げられた『武蔵国郡村誌』には、長さ5尺(約151.5m)、巾5尺の石造りと記されている。平成24年3月……
一六橋のいわれ この橋は、見沼用水の分流、通称一六用水に架かっており、そこから一六橋と名付けられた。「一六」といぅ名称は、南北朝時代~戦国時代(14世紀~16世紀)に、この辺りで一と六の付く日に、「市」が聞かれたことによると伝えられている。江戸時代にはすでに一六橋の名が見えており、明治初年に書き上げられた『武蔵国郡村誌』には、長さ5尺(約151.5m)、巾5尺の石造りと記されている。平成24年3月吉日 一六会
旧道をしばらく行くと右手の水路脇に「一六橋」の立札が立っている。水路は見沼用水の分流で、通称一六用水と呼ばれていた。「一六」といぅ名称は、南北朝時代から戦国時代にかけてこの辺りで一と六の付く日に「市」が聞かれたことによると伝えられている。
その先の水路にも「境橋」の説明板が建っている。この水路も見沼用水の分流で笹目用水とよばれ、蕨宿(現蕨市)と辻村(現さいたま市)の境界をなしていた。辻村は現在のさいたま市南区辻である。

外環自動車道の手前右手に一里塚の跡碑と弁財天の祠がある。辻一里塚は江戸から5里目の一里塚であった。このあたりは昔湿地帯で、水の神である弁財天を祀った。碑と祠は昭和62年の建立で新しい。
街道を道なりに歩いていく。右手、古い趣の布団店の店先に見本の仕立て布団が二枚気だるそうに展示されている。

道はS字に曲がって丁字路に突き当たる。右折して六辻信号で国道17号を横断する。最初の信号で左斜めに折れていくのが旧中山道である。
しばらく行くと登り坂にさしかかる。歩道橋左脇に「焼米坂」の碑が立っている。この坂はもともと浦和坂と呼ばれていたが、この辺りに焼米を売る店があったので知られ、いつしか焼米坂の名で呼ばれるようになった。


左右に残る懐かしい佇まいの民家を見ながら1kmほど歩くと右手のこんもりとした森の中に調(つき)神社がある。延喜式内の古社で社殿は安政年間(1854~1860)の建築とされる。伊勢神宮へ収める御調物を収める御蔵から斎清の為当社に搬入する妨げにならないように鳥居、門を取り払ったといわれ、この神社には鳥居がない。さらに狛犬の代わりに入口に兎が置かれている。調(つき)から月を連想させたものであろう。ちょっと変わった神社ではある。

街道は浦和駅西口にさしかかり繁華な商店街に入る。左手歩道に中山道浦和宿の碑が立つ。浦和駅西交差点の次のさくら草通り左手に道路元標があった。車輛禁止のプロムナードとなっている。

入って突当りを右に折れると県立図書館があり、道路沿いに「浦和一女発祥の地」の碑がある。現県立浦和第一女子高等学校の前身である。共学化が進む中で未だに男子の浦和高校と女子の浦和一女子が併存する稀な例である。
構造・規模:3間四方、入母屋造り、1間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行きとも8.34m 概要:軸部は、ケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、柱上三手先の斗京栱で桁を受ける。中備は、十二支の蟇股を配している。軒は、二重繁棰となる。 内陣は、裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、泉迎壁に須弥壇をつけている。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっている。他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。 内……
構造・規模:3間四方、入母屋造り、1間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行きとも8.34m 概要:軸部は、ケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、柱上三手先の斗京栱で桁を受ける。中備は、十二支の蟇股を配している。軒は、二重繁棰となる。 内陣は、裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、泉迎壁に須弥壇をつけている。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっている。他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。 内陣蟇股墨書銘により安永9年(1780)の建立であることが知られる。三間仏堂ではあるが、本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも建立年代が明らかであり、保存価値がきわめて高いと言える。 平成5年7月 浦和市教育委員会 玉蔵院
その隣に「明治天皇浦和行在所跡」碑がある。静かなこの門前通りはここが旧中山道かと感じさせる。北に隣接して玉蔵院地蔵堂がある。玉蔵院は弘法大師の創建になるという古刹である。地蔵堂は安永9年(1780)建立で、3間四方、入母屋造りの本格的な仏堂建築である。
中山道は江戸と京都を135里余りで結ぶ街道で、木曾の山間部を通るため、「木曾街道」「岐蘇路」などともいわれました。中山道の宿場は、本来板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)までの67次ですが、東海道と宿場を共有している草津・大津宿を加えて69次とするのが一般的です。浦和宿は日本橋を出て3番目の宿駅になります。 江戸時代後期の浦和宿には本陣1、脇本陣3、旅龍15があり、このあたり一帯が本陣の跡になりま……
中山道は江戸と京都を135里余りで結ぶ街道で、木曾の山間部を通るため、「木曾街道」「岐蘇路」などともいわれました。中山道の宿場は、本来板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)までの67次ですが、東海道と宿場を共有している草津・大津宿を加えて69次とするのが一般的です。浦和宿は日本橋を出て3番目の宿駅になります。 江戸時代後期の浦和宿には本陣1、脇本陣3、旅龍15があり、このあたり一帯が本陣の跡になります。本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家で、浦和宿では星野権兵衛家が代々務めていました。222坪の敷地内には母屋や表門、高札場、問屋場などがありましたが、明治時代になってすべての建物が取り払われ、当時の姿をしのぶものは大熊家表門(市内緑区大間木に移築)のみになってしまいました。 なお、明治元年及び3年の明治天皇による大宮氷川神社行幸に際して、ここが行在所となりました。 平成19年3月22日 さいたま市教育委員会
街道にもどり、商店街を北にすすむ。仲町交差点を渡った先の細い路地を左に入った所に仲町公園という小さな公園がある。浦和幼稚園の前で、公園には園児を迎える母親たちであふれかえっていた。その幼稚園を背にして明治天皇行在所跡碑が建てられている。ここが浦和宿星野本陣跡である。星野家は浦和宿の問屋と名主を兼ね、本陣の敷地内には問屋場と高札場があった。浦和宿には本陣1軒、脇本陣2軒のほか旅籠は15軒で、埼玉県内の中山道宿場のなかでは最も小さい宿場であった。

街道にもどり、次の路地(市場通り)を左に入って常盤公園に寄る。入り口歩道にしゃがみ込んで野菜を売る農婦の像がある。二・七市場の風景であろう。常盤公園は浦和宿が整備される前は徳川氏の御殿が置かれた場所で、鷹狩などの折に使われていた。

再び街道にもどって、すぐ左手奥に慈恵稲荷社があり、参道の半ばに「ニ・七市場跡」があり、「御免毎月二七市場之杭」と刻まれた石標が建っている。浦和宿では戦国時代から毎月2と7のつく日に市が開かれ賑わった。周辺では、蕨が一・六の市、鳩ケ谷では三・八の市、与野は四・九の市、大宮では五・十の市と、毎日どこかで市が開かれていたことになる。
浦和宿を後にしてしばらく単調な街道が続く。浦和橋でJR線路をまたぎ北浦和駅、廓信寺を左にみて大原陸橋東交差点にさしかかる。交差点の手前左側に庚申塔があるのを見逃した。
この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所でてす。この事件は、万延元年(1860)常陸国鹿島津の宮沖の舶中で、水戸藩落士宮本佐一朗と讃岐丸亀落の浪人である河西祐之介が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落としたことに端を発します。河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直助が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました……
この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所でてす。この事件は、万延元年(1860)常陸国鹿島津の宮沖の舶中で、水戸藩落士宮本佐一朗と讃岐丸亀落の浪人である河西祐之介が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一郎が命を落としたことに端を発します。河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直助が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました。そのため、居所が宮本佐一朗の息子である宮本鹿太郎の知るところとなりました。鹿太郎は四年後の文久4年1月23日(1864年3月1日)に西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の三人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願寺から江戸へ向かう河西を、針ケ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。(中略)事件は幕末最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。かつて、一本杉は樹高約18m、周囲約3mといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。平成24年
交差点のすぐ先左手に「一本杉」と刻まれた小さな石碑が立っている。かつては高さ18mもの一本杉が聳え立っていた場所で、ここで日本最後の仇討ちが行われた。江戸末期の文久4年(1864)、水戸藩落士宮本鹿太郎が千葉周作門下の河西祐之助を討ち、見事父の仇をとった。詳しくは写真に譲る。
街道は与野駅をすぎ1kmあまりでさいたま新都心駅前に差しかかる。浦和と大宮が合併して、その中間あたりに新たな官庁街をつくろうとしたのであろう。


街道はケヤキ並木に入っていく。ケヤキ並木は1967年の埼玉国体を記念して植えられたそうだが、その前年に旅した旅行記には鬱蒼としたケヤキ並木が大宮の唯一の記録写真として残っている。残念ながら大宮のどのあたりだったのか記録がない。
さいたま新都心駅前交差点手前、右手の歩道上の高台橋跡に小さな祠があり、火の玉不動とお女郎地蔵が安置されている。高台橋は北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋で、現在は暗渠になっていて表示板がなければ気づくことはない。このあたりは昔刑場があった寂しいところであった。
鴻沼(高沼)用水と高台橋 ここは吉敷町4丁目です 北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋です。かつてはV字型に掘られた深い用水路でしたが、中山道の東側は暗渠になり、橋であることに気づきません。西側は赤いレンガの橋になっており、水の流れをみることができます。鴻沼(高沼)用水は、八代将軍・徳川吉宗が享保13年(1728)に見沼代用水西縁を掘削した折りに掘られ、当地の西側(さいたま……
鴻沼(高沼)用水と高台橋 ここは吉敷町4丁目です 北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋です。かつてはV字型に掘られた深い用水路でしたが、中山道の東側は暗渠になり、橋であることに気づきません。西側は赤いレンガの橋になっており、水の流れをみることができます。鴻沼(高沼)用水は、八代将軍・徳川吉宗が享保13年(1728)に見沼代用水西縁を掘削した折りに掘られ、当地の西側(さいたま新都心建設用地や与野市方面)に広がっている低地への灌漑用水にあてられました。ここにまつられる2体の石仏は、右側が「お女郎地蔵」左側が「火の玉不動」と通称され、中山道・大宮宿・用水路に関わる伝説があります。伝説については、祠内に紹介してあります。 さいたま市教育委員会
江戸時代、大宮宿に柳屋という旅籠がありそこで千鳥と都鳥という女郎姉妹が働いていた。姉の千鳥は材木屋の若旦那と恋仲となったが、そこに悪名高い神道徳次郎という大盗賊が割って入った。宿に火をつけると凄む徳次郎と若旦那の間で思い余った千鳥は高台橋から身を投げてしまった。哀れに思った近くの人が建立したのが女郎地蔵である。
またこの頃高台橋付近で火の玉が見られるようになった。ある夜、一人の男が火の玉に切りつけると「ギャー」と言う声がしてそこには物凄い形相の不動明王が立っていた。翌日その場所には剣を持たない不動明王の石仏がいた。剣は昨夜切り落とされたのだという。

さいたま新都心駅を過ぎ、右手に「武蔵国一宮」と深く刻まれた社標が、その後ろには朱色の氷川神社一の鳥居が堂々と建っている。欅を主とした見事な並木参道は延々と2kmに亘って一直線に続いている。並木は江戸時代は松、その後杉並木と変わって現在の欅等の雑並木と変遷した。かつて中山道はこの参道を通っており、大宮は氷川神社の門前町として発展したが、寛永5年(1628)に新しい道が整備されるに伴って新たな宿場町が形成された。

吉敷町交差点の先、左側に立派な門が見える。近寄ってみると西橋商事の表札がかかっていた。門は前田家江戸屋敷から貰い受けたものといわれる。
毎年8月24日には地蔵尊祭を行います。塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。祭壇には、12幅の地獄極楽の絵が掛けられ、夜には念仏や町内の子供たちのお囃子が奉納され賑わいます。近所の方だけではなく、遠くから訪れる方もあり夜7時以降は特ににぎわいをみせます。 いつの頃からか、こんな話が伝えられています。 妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなっていきます。ある晩、夢……
毎年8月24日には地蔵尊祭を行います。塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。祭壇には、12幅の地獄極楽の絵が掛けられ、夜には念仏や町内の子供たちのお囃子が奉納され賑わいます。近所の方だけではなく、遠くから訪れる方もあり夜7時以降は特ににぎわいをみせます。 いつの頃からか、こんな話が伝えられています。 妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなっていきます。ある晩、夢枕に地蔵様が現れ二人の娘に塩だちをするように告げて消えました。娘は早速塩だちをし、近くの地蔵堂に祈ったところ父の病が全快しました。そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。 この地蔵様は、明治の頃までは吉敷町4丁目の鉄道線路敷地内にまつられていましたが、線路敷の拡張のため移転し、大正10年(1921)に当地に移されました。 大宮市教育委員会
街道の右側に移り路地を入ると塩地蔵尊と子育て地蔵が祀られた祠が並んでいる。左側の塩地蔵には次のような伝承がある。
妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなっていった。ある晩、夢枕に地蔵が現れ二人の娘に塩断ちをするように告げて消えた。娘は早速塩断ちをし祈ったところ父の病が全快した。そこで、たくさんの塩をこの地蔵に奉納した。

街道の左手、仲町バス停前にビルに挟まれて一軒板壁の民家が残っている。正面は閉ざされていて、空き家のようである。古い建物が皆無に近く昔の面影を見ることができない中で、大事なものを探し当てた気分であった。このあたりが高札場跡で、大宮宿の中心街に入っていく。
駅前交差点の角、高島屋が建つ場所に紀州鷹場北沢本陣があった。北沢家は紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。

大宮宿は本陣2軒、脇本陣が9軒もある大きな宿場だった。宿駅の本陣として最初スズラン通り右手に内倉新右衛門本陣があったが、後に少し先の日吉通り入口右手岩井ビルの場所にあった山崎本陣に変わっている。明治元年の明治天皇行幸の折には浦和宿星野本陣で宿泊した翌日、氷川神社に参拝したのち、山崎本陣で昼食をとった。
旧大宮宿は飲食店が建ち並ぶ繁華街に変わっていて宿場の旧蹟は現存していないばかりか、その跡地にも何の標識類を見かけることもなかった。
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、……
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。以下略
裏参道の一筋南の路地を右に入っていくと突当りに小さな多子稲荷神社があった。本殿は天保4年(1833)の建立である。
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、……
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代3年4月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。以下略
裏参道は松尾神社の脇を通って鮮やかな朱塗りの神橋前に出る。橋を渡り威風を放つ朱色の楼門をくぐると武蔵国一宮が厳かにその威容を見せた。氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代の創立と伝えられる古社である。
拝殿は開放的で祈祷を受ける席が整然と並んでいた。数年前初孫の七五三で、流れ作業的にこの拝殿に座って祈祷を受けたことを思い出した。
安政7年(1860)に建てられたこの石碑には「大山御嶽山 よの 引又 かわ越道」と彫られ、中山道から西へ分方れる道の存在と行き先を示しています。かつては、レストランと魚店の間に古い道があり、その道が大成町2丁目の普門院の東側へと通じ、さらに与野の町へと続いていました。大山は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社、御嶽は東京都青梅市の御嶽山への信仰の道を示しています。大山参りは、この辺りでは男子が15~20歳……
安政7年(1860)に建てられたこの石碑には「大山御嶽山 よの 引又 かわ越道」と彫られ、中山道から西へ分方れる道の存在と行き先を示しています。かつては、レストランと魚店の間に古い道があり、その道が大成町2丁目の普門院の東側へと通じ、さらに与野の町へと続いていました。大山は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社、御嶽は東京都青梅市の御嶽山への信仰の道を示しています。大山参りは、この辺りでは男子が15~20歳になると-人前と見なされ村の大人と共に参拝したそうです。与野・引又(志木市)・川越は当時の商業や交易の中心地として栄え、大成地区からも毎月の市日には長芋・麦・米を売りにでかけるなど近在から多くの人々が集まってにぎわいをみせました。 さいたま市教育委員会
JR東北本線の下をくぐり、「大宮郵便局北」信号の先左手のココス駐車場入口に安政7年(1860)に建てられた大山道道標があり、「大山御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれている。中山道から西へ分かれる大山道があったが、今はその痕跡は残されていない。

警察学校入口バス停先の大きな丁字路角、回転すしの前に小さな馬頭観音とその説明碑がある。享和2(1802)年に、馬の供養や村の安穏、旅の無事などを祈願して建立されたもので、「下鴨野宮村」と刻まれている。
高さ142cm、幅45cmの庚申塔で、江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられました。地元の井上・青水・黒須・吉田・坪居・小川など14名と、おまつ、お加めなど22名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛に注文したものです。 正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されています。地元では「耳の神さん」「眼の神さん」と大事にされ、耳や眼の病気の時にはダンゴを供えるなどしてお参りしたそうです……
高さ142cm、幅45cmの庚申塔で、江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられました。地元の井上・青水・黒須・吉田・坪居・小川など14名と、おまつ、お加めなど22名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛に注文したものです。 正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されています。地元では「耳の神さん」「眼の神さん」と大事にされ、耳や眼の病気の時にはダンゴを供えるなどしてお参りしたそうです。また、庚申講は春3月と秋の収穫後に行われていました。戦争で一時中断していましたが、戦後に復活、現在も年1回の講を開催し昔からの伝統を受けついでいます。さいたま市教育委員会
新幹線の手前左手に赤い鳥居が立って、その奥に東大成の庚申塔がある。元禄10年(1697)の建立で、「耳の神さん、目の神さん」として地元の人達からの信仰を集めている。
祭神 別雷命 他 当神社の御創立は文化7年徳川幕府によって作られた新編武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり土地のさま旧社とみゆれど勧請の年代詳かならず」と記されているが、社前に宝暦3年4月、弘化2年12月と刻まれたもの、また文政10年8月御迁宮と刻まれた石灯篭も「あるので相当古い御鎮座であることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷の神を祀……
祭神 別雷命 他 当神社の御創立は文化7年徳川幕府によって作られた新編武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり土地のさま旧社とみゆれど勧請の年代詳かならず」と記されているが、社前に宝暦3年4月、弘化2年12月と刻まれたもの、また文政10年8月御迁宮と刻まれた石灯篭も「あるので相当古い御鎮座であることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められてきました。 幕府の参勤交代の時代加賀の堀丹波の守が中仙道を往来の砌りその妻が俄かに産気を催したので当社に立ち寄り御加護を祈願したところ産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たという。安産御礼の為奉納したという幣帛は現存しています。 以下略 昭和55年4月
旧街道(県道164号)は国道17号をよこぎって宮原駅前を通過、国道16号の少し手前右手に賀茂神社がある。英泉の木曽街道浮世絵に上尾宿として描かれている神社である。
国道16号の先、右手のJA前に宮原町の道路元標があった。
南方神社由緒 当社は往古、信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものであると伝える。鎮座地の地名「鈴木」は中山道の側にあり樫が鬱蒼と生い茂ることから、夏も爽やかな風の通る涼木に由来する。主祭神は「明細帳」に「建御名方命」と載る。社名「南方」は主祭神建御名方にちなむものであるとともに諏訪湖を表わす「水潟」にゆかりがある。 境内にある手水鉢の銘文には「武州足立郡吉野原村字鈴木……
南方神社由緒 当社は往古、信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものであると伝える。鎮座地の地名「鈴木」は中山道の側にあり樫が鬱蒼と生い茂ることから、夏も爽やかな風の通る涼木に由来する。主祭神は「明細帳」に「建御名方命」と載る。社名「南方」は主祭神建御名方にちなむものであるとともに諏訪湖を表わす「水潟」にゆかりがある。 境内にある手水鉢の銘文には「武州足立郡吉野原村字鈴木惣氏子中文政十三寅年(1830)七月吉日」とある。これは寅と申の年、すなわち七年目ごとの寅と申の年に行われる諏訪大社式年造営の御柱祭に合わせて造ったものである。別当は「風土記稿」に「不動院持ち」とある。不動院は村内の真言宗清浄院門徒で、同寺住職の隠居寺であった。 造営は、文久年間(1861~1864)に社殿の改修が行われた。このとき本殿・拝殿の形式を整えるために、覆屋を拝殿とし、更に、参拝者の便に供するために唐破風屋根を付けた。 明治45年5月22日、「明細帳」によると、大字吉野原神山無格社の愛宕雷電稲荷合社と境内社八雲社・明神社・女神社、大字大谷別所字山王前の無格社八雲社、字神明無格社の神明社、字稲荷村社の稲荷社と境内社雷電・金山・竃神合社・浅間社を当社に合祀し南方神社とした。平成3年3月には、御大典を記念し、氏子の浄財をもって当時の拝殿を残し、新たに幣殿と本殿、平成21年伊勢式遷宮に合わせ鳥居・境内整備の造営を加える。
まもなく右手に南方神社がある。信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものである。社名「南方」は主祭神建御名方にちなむものであるとともに諏訪湖を表わす「水潟」にゆかりがある。
街道はこの先で大宮市から上尾市に入る。

上尾市にはいってすぐの信号左手の二又分岐点に寛政12年の庚申塔が立っている。左に入る細道は川越道である。少し入ってみたがすぐに住宅地に消失していた。
当所の愛宕神社はその昔、現在の上尾運動公園北門の西方2300m先(現在の愛宕2丁目)の所に本殿があって、周辺一面は鬱蒼とした広い愛宕山で、その南側が甚兵衛山、北側に山王山で日の詰め神社の山林もあったと古老の言い伝えにあります。 (中略)昔、愛宕神社の本社が鎮座せられたのは、居間から1250数年前、和気清麻呂公が勅を奉じて王城の火災防火、開運勝利、諸病厄除け等、鎮御祈願の神として、山城と丹波の国境旭……
当所の愛宕神社はその昔、現在の上尾運動公園北門の西方2300m先(現在の愛宕2丁目)の所に本殿があって、周辺一面は鬱蒼とした広い愛宕山で、その南側が甚兵衛山、北側に山王山で日の詰め神社の山林もあったと古老の言い伝えにあります。 (中略)昔、愛宕神社の本社が鎮座せられたのは、居間から1250数年前、和気清麻呂公が勅を奉じて王城の火災防火、開運勝利、諸病厄除け等、鎮御祈願の神として、山城と丹波の国境旭ヶ峰の頂上(今は京都市)にお祀りしたのが始まりであると言伝えられております。 以下略 愛宕町内会
上尾陸橋信号交差点を渡った先の左手に愛宕神社があり、境内入口左手に享保7年(1722)建立の庚申塔が祠に納められている。
上尾駅が近づきこのあたりから上尾宿に入る。右手の創業180年という老舗和菓子屋「伊勢屋」の店先に鍾馗が飾られている。普通は屋根の上に置き鬼瓦の家に対して鍾馗を以て対峙させたという。

上尾駅の手前に上尾宿の総鎮守、氷川鍬神社がある。創立は寛永9年(1632)といわれる。参道を入った右手に文政5年(1822)建立の「二賢堂跡」の碑がある。上尾宿で旅籠を経営していた山崎武平治がこの場所に聚学義塾を開き近隣子弟の教育に当たった。二賢堂は山崎武平治が菅原道真と朱文公の二賢人を祀るために建てたもの。
上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ3……
上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ34家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅篭屋は、41軒でした。 図は、文化3年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社) 、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣 が描かれています。上尾宿には本陣が1軒(林八郎右衛門)、脇本陣が3軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ぱれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。
氷川鍬神社の前に上尾宿の林八郎右衛門本陣があり、本陣の左右には井上五郎右衛門脇本陣、白石長左衛門脇本陣が建ち並んでいた。さらに付近には細井弥一郎脇本陣や問屋場があって上尾宿の中心部をなしていた。今は個別の標識もなく、新しい雑居ビルや医院が連なっているだけである。
駅前を通過して右手の遍照院による。途中、歩道に上尾宿のパネルが設けてあって栄泉の浮世絵が掲げられている。描かれているのは大宮宿に近い賀茂神社である。

遍照院山門前左手に二賢堂の創設者山崎武平治の墓を示す標柱が立っているが、その墓は墓地の北端にある。墓地の西側、中程に「孝女お玉の墓」の標識が立っていた。お玉は越後柏崎の貧しい家に生まれ、親の生活を楽にしようと11歳のときに上尾宿の大村楼に身を売った。19歳のとき参勤交代の加賀前田藩の小姓に見初められ、ともに江戸へ行ったが、2年後悪い病をうつされ上尾に戻ってきて25歳で帰らぬ身になった。大村楼の主人が建てたという墓石は自然石を縦に板状に切って正面を機械で磨き上げたようで、江戸時代の墓石には見えなかった。本文は読めないが最後の銘文は「○○老人会」と読めた。再建したものだろう。

街道にもどり「図書館西」信号交差点手前右手に庚申塔がある。銘文等はわからなかったが、青面金剛と三猿の浮彫ははっきりしていて保存状態が良い。
信号をこえると右手に黒い巨大な建物が現れる。酒蔵文楽は明治27年の創業。創業者北西亀吉は近江日野商人の出身である。「北西酒造」から「文楽」に社名変更、街道向かいに北西家の本宅が建つ。

蔵の敷地内には鳥居を建てた一角が設けられていて、そこには創業者の顕彰碑、祠、荒川の伏流水だという仕込み水の井戸と杉玉が瓦屋根櫓の下に祀られている。造り酒屋の命を垣間見る気分であった。

「緑丘地下横断道」交差点右手角に上尾宿碑と案内板があり、屋根瓦の上に鍾馗が展示されていた。屋根に鍾馗を置くのは上尾宿特有の風景であるという。

北上尾駅入口を通過し、久保西交差点の東角地を、鬱蒼と茂った屋敷林を黒板塀で囲った須田家が占めている。塀が高く、樹木が茂って内部がよくうかがえないが幾つかの土蔵や古い建物が残っているようである。須田家は紅花問屋を営んでいた豪商であった。桶川は最上地方につぐ紅花の産地で、桶川臙脂(えんじ)として全国に知られた。
中山道は富士見通り信号交差点で桶川に入る。

桶川市東1丁目と東2丁目の境をなす交差点角に木戸趾の石碑が建っており、ここより桶川宿に入っていく。
右手民家の屋根に小さく鍾馗が乗っていた。屋根の鍾馗は上尾宿だけの風景ではなさそうだ。
桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅龍が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年ころ)には、36軒を数えたという。この武村旅館は、宿場町当時の旅龍の姿を今にとどめる貴重な建物である。皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)には、ここで紙屋半次郎が旅龍を営んでいた。図に示す当時の間取りは現在もほぼ引き継がれている……
桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅龍が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年ころ)には、36軒を数えたという。この武村旅館は、宿場町当時の旅龍の姿を今にとどめる貴重な建物である。皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)には、ここで紙屋半次郎が旅龍を営んでいた。図に示す当時の間取りは現在もほぼ引き継がれている。昭和63年3月 桶川市教育委員会
左手には今も営業を続ける旧旅籠屋武村旅館がある。建物は新しいが一、二階を格子造りにそろえ、当時の間取りは引き継がれているという。武村旅館は36軒もの旅籠があったうちの1軒で紙屋半次郎が経営していた。
すぐ隣に鮮魚店稲葉屋本店がなつかしい佇まいを見せている。桶川は戦災を免れたため、今も木造の古い建物が残されていて、歩き甲斐がある。

桶川駅前交差点に桶川町道路元標をみて、右手に島村老茶舗が創業嘉永7年(1854)の風格を備えて建っている。二階の連子格子と、右から「御茶処」と彫られた板看板が風情を添えている。建物は昭和初期の建築である。
矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、そめ奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されています。矢部家は屋号を「木半」(木崎屋半七)といい、主には穀物間屋を営んでいました。また紅花の商いも行い、桶川の 稲荷神社境内に残る (市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人 の中に名を連ねています。 現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文……
矢部家住宅は、中山道に面した土蔵造りの店蔵と、そめ奥に続く塗屋造りの住居、土蔵造りの文庫蔵、切妻造りの勝手場他の建物で構成されています。矢部家は屋号を「木半」(木崎屋半七)といい、主には穀物間屋を営んでいました。また紅花の商いも行い、桶川の 稲荷神社境内に残る (市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人 の中に名を連ねています。 現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の辣状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「鳥おどし」とも呼ぱれ、鳥よけと言われていますが、周辺地域でも数少ない珍しい意匠です。中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家集6代当主の五三郎氏(安政4~大正9年)が明治38年に建立しました。桁行5間(1間=約1.8m)、梁間3間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には、川越の土蔵造り商家を多く手がけた職人たちを始め、地元の職人たちが名を達ねています。 桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいを偲ぶことのできる貴重な建造物のひとつです。平成25年3月 桶川市教育委員会
同じく右手に重厚な蔵造りの商家が残っている。江戸の穀物問屋矢部家の建物で、紅花商人としても活躍していた。少し通り過ぎて北側からながめると街道に面した店蔵の後ろに土蔵が二棟続いているのがよく見える。一番奥の文庫蔵が最古で明治17年の築である。
小林家住宅主星は、江戸時代末期頃に旅籍(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が「子三月吉日」に建てたことがわかります。この「子」の年がいつかは不明ですが、文政10年(1827)に桶川宿に大火があったこと、また文久元年(1861)皇女和宮の下向時の割書帳にはすでに吉右衛門の名が記されていることなどから、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(185……
小林家住宅主星は、江戸時代末期頃に旅籍(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が「子三月吉日」に建てたことがわかります。この「子」の年がいつかは不明ですが、文政10年(1827)に桶川宿に大火があったこと、また文久元年(1861)皇女和宮の下向時の割書帳にはすでに吉右衛門の名が記されていることなどから、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの「子」の年と考えられています。その後の当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い大きく改修されましたが、外観は当時の姿をとどめています。旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中廊下式になっており、旅籠当時の部屋割りの名残りと思われます。構造の要となっているのは、二間半(一間=約1.8m)の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造といわれる伝統的なもので、太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の2階には6間にわたって出窓を出し、格子戸をはめこんでいます。宿場町当時の旅籠のたたずまいを今に伝える貴重な建造物です。 平成25年3月 桶川市教育委員会
道向かいの小林木材の建物は江戸時代末期に建てられた旧旅籠小林家で国指定登録文化財である。二階の6間にわたる出格子は見事で当時の旅籠の佇まいを今に伝えている。

右手に冠木門が現れる。府川本陣跡で、皇女和宮も宿泊した。冠木門をくぐると薬医門があり、脇に明治天皇行在所の碑がある。門に「本日は公開日ではありません」という立ち入り禁止の貼紙があった。首だけ立ち入ってみたところ建物はモダンな住宅である。その奥に古い建物が保存されているのか、門からは見えない。
桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。健脚であった江戸時代の人々のほぼ一日の行程にあたります。中山道は、徳川家康が1590年江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。三代将軍家光によって、参勤交代の制度が確立した1635年ころには、ここ「桶川宿」はすでに成立していたと考えられます。宿場の開設当初に近い1637年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が……
桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。健脚であった江戸時代の人々のほぼ一日の行程にあたります。中山道は、徳川家康が1590年江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。三代将軍家光によって、参勤交代の制度が確立した1635年ころには、ここ「桶川宿」はすでに成立していたと考えられます。宿場の開設当初に近い1637年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取引されるようになった1800年には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や紅花の集散地として栄え、幕末に近い1840年ころには、家数347軒に達しています。中山道桶川宿は明治に至り、1885年の高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を終えますが、以降近代をとおして、埼玉県中央部における麦の集散地としてその繁栄は続きます。
府川本陣の斜向かいが脇本陣跡で中山道宿場館が建てられている。
その先のポケットパークに桶川宿碑と桶川宿案内板がある。これまでおよそ1里間隔で宿場を継いできたがこれからは2倍の距離となる。鴻巣宿まで約2里。その間に間の宿北本があった。

信号丁字路交差点を右折して桶川稲荷神社に寄る。二つ目の十字路を右に入ると左手に桶川稲荷神社がある。途中、欅の幹の窪みに稲荷を祀った珍しい光景に出会った。

稲荷神社は12世紀の創建とも言われる古社で、江戸時代には桶川宿の鎮守となった。社殿の前に一対の石燈籠が建っている。桶川の紅花商人24名が安政4年(1857)に寄進したものである。この中に矢部家も名を連ねている。

境内右手に重量600kgを越える力石が祀られている。嘉永5年2月これを岩槻の三ノ宮卯之助という力士が持ち上げたという。腕で直接抱え上げるのは到底無理で、実際は地に仰向けになって両足の上に乗せた小舟にこの大石を乗せ、両脚で船を支えたらしい。もちろん大勢の手を借りなければできないパフォーマンスである。

街道にもどり、すぐ左手の大雲寺にある女郎買地蔵を訪ねる。上尾、桶川には大勢の飯盛り女がいた。はるばる川越から遊びに来る男も多かった。弘治5年(1557)に建立された大雲寺本堂の左手に、背中にカスガイをうちつけられ動けなくなった女郎買い地蔵が神妙な顔をして立っていた。台座に正徳3年(1713)の銘がある。この地蔵は夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中にカスガイを打って鎖で後ろの木に縛ってしまったのだという。若い修行僧の女郎買いを戒めるために建てられたのが真相のようだ。ここまでの中山道で一番おもしろい。
歩道橋左側の橋脚に一里塚跡の金板が張り付けてある。標柱を立てる余地もないらしい。

市役所入口交差点の右手前に北の木戸跡の碑がある。南の木戸跡碑と同じく新しい。ここまでが桶川宿であった。
交差点角には中山道桶川宿碑が建てられている。
まもなく桶川市を出て北本市に入る。
「中山道と本宿」今日の北本のもととなる街並みが作られたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と……
「中山道と本宿」今日の北本のもととなる街並みが作られたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二か所には立場が置かれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。

本宿交差点を渡った左側に北本宿碑がある。江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられた。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていた所である。その後中山道が整備された頃に宿場は現在の鴻巣の地に移された。元宿場のあったところは、本宿(元宿)村と呼ばれ、桶川と鴻巣の間の宿として賑わった。
北本宿は、駅長7年(1602)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治22年に北本宿と改称)は、宿場の中心部に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で25代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文2年(1662)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、……
北本宿は、駅長7年(1602)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治22年に北本宿と改称)は、宿場の中心部に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で25代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文2年(1662)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。 以下略
北本駅のすこし手前、多門寺交差点の右手にある多聞寺にムクロジの大木がそびえている。樹齢200年といわれ、ごつごつした筋肉質の幹は上部が折れているように見え、痛々しい。それでも葉の落ちた枝先に黄色の丸い実をつけていた。種子は丸くて堅く羽子の黒玉に使われる。
その隣に本宿天神社がある。本宿村の名主岡野家の氏神として始まったが本宿が中山道の宿駅であったころは宿場の鎮守として祀られてきた。

北本駅の北、北本3丁目交差点あたりは昔三軒茶屋とよばれた場所で、ここに北本宿の立場があった。今も角には三軒茶屋を冠する店がある。大正から昭和にかけて、駅付近には街道の両側に松並木が続いていた。

旧街道はJR北本駅あたりから左に曲がっていたのだがJR高崎線で分断され道筋は失われた。北本駅先の踏み切りを渡ると線路沿いに旧道がのこっており、家並みが途絶えた辺り、左手に原馬室(はらまむろ)一里塚が現存している。右側は線路あたりにあった。中山道で現存している一里塚は志村についで二つ目である。
地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約37m、南北約27m、高さ約6mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保8年(1723)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。 このため東間の富士塚は、江戸時代後期……
地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約37m、南北約27m、高さ約6mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保8年(1723)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。 このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造であり、近在においても類例が少なく大変貴重である。 毎年6月30日、7月1日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。 平成25年6月 北本市教育委員会

来た道をもどって、街道を北に歩きはじめるとすぐ左手に浅間神社がある。社務所では新年の準備が始まっていて三々五々氏子の人たちが集まってきた。境内はいってすぐ右手に庚申塔があった。浅間神社は高さ6mの富士塚の頂にあり、参道・石段・社殿は富士山に向かって一直線上にある。
(2013年12月)
前ページへ 次ページへ