羽州街道 9区間のうち3番目

羽州街道(3)

天童-六田・宮崎-楯岡(村山)-本飯田・土生田-尾花沢-名木沢-舟形-新庄 =奥の細道

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

天童

天童

一里塚跡 本町1丁目 天童市 山形県
一里塚跡 本町1丁目 天童市 山形県

山形から県道22号で一路北上してきた旧羽州街道は天童宿手前で山形新幹線に分断され一部消失している。線路の東側は宅地開発されて旧道の痕跡はないが、旧道筋と想定される線路脇の緑地に一里塚跡が残っている。跨線橋を渡った先で右手の宅地に入りこみ、一番外側の道を山形方面に戻っていくと線路柵を背にして石標が立っていた。塚木も塚の盛り上がりもなく、ただ位置を示す石柱だけである。県道にもどり、一日町3丁目の信号を左折した左手の三角地帯に分断された旧道の復活部分がのこされており、そこに羽州街道の案内板があった。一里塚の位置はそこで知ったものである。

一日町市神 一日町2丁目 天童市 山形県
一日町市神 一日町2丁目 天童市 山形県

天童宿は一日町から始まり、南から一日町、五日町、三日町と続いていた。天童は中世の14世紀後半、天童城の城下町として発展した町である。城主天童氏は 最上家から分かれて周辺地で独立した勢力を保持していた「最上八楯」の盟主として勢力を張った。最上八楯とは天童氏、延ne 沢氏、飯田氏、尾花沢氏、楯岡氏、長瀞氏、六田氏、成生氏の8氏をいい、いずれも羽州街道沿いの宿場町乃至その近辺にある。天正12年(1584)、最上氏によって天童城が落城した後、天童は領主が転々と変わり城下町よりは羽州街道の宿場町としての性格を強めていく。

一日町2丁目 天童市 山形県
一日町2丁目 天童市 山形県

羽州街道から県道111号(現山寺街道)が分岐する交差点の北東歩道上に一日町市神がある。その北側の細道を東にたどると山寺街道の旧道三叉路に出る。少し車道にはみ出て市神の写真を撮っていると、背後を奇妙な車がノソノソと通り過ぎていった。一瞬特攻隊の人間魚雷を想像させるような円筒形の車体に消防ホースのようなものが巻きつけてある。後日調べてみると、高速薬剤散布車だと判明した。広範囲な果樹園にでも使われるのか。

旧羽州街道 一日町1丁目 天童市 山形県
旧羽州街道 一日町1丁目 天童市 山形県県道22号 左手:出羽桜美術館

歩を進めると、羽州街道沿いの一日町1丁目に蔵造りの出羽桜酒造と出羽桜美術館があり、その先にも趣のある建物が続いている。

三叉路道標 北目1丁目8 天童市 山形県
三叉路道標 北目1丁目8 天童市 山形県

羽州街道から芭蕉が歩いたという旧山寺街道の分岐点を探して右側歩道を注意深く歩いてみたが、標識らしきものは見当たらなかった。狙いを定めて右手の路地を入っていく。最初の十字路を左折して城山公園に寄る。旧山寺街道はここを直進して次の小松建具のある十字路を右折して南に向かい、一日町市神からの道と合流する三叉路に至る。そこに「右 若松道 左 湯殿山道」の道標がある。

芭蕉句碑(城山公園) 北目1丁目 天童市 山形県
芭蕉句碑(城山公園) 北目1丁目 天童市 山形県行末は誰が肌ふれむ紅の花

城山公園は南朝時代、南朝方の北畠天童丸が城館を構た舞鶴山麓にあり、念仏寺があった跡地である。芭蕉は山寺に向かうとき、ここに立ち寄ったとされる。それを記念して建てられたという「古池や・・・」の句碑と翁塚は見当たらず、代わって「行末は誰が肌ふれむ紅の花」の句碑と、昭和61年の新しい翁塚碑があった。

旧東村山郡役所資料館 5日町2丁目 天童市 山形県
旧東村山郡役所資料館 5日町2丁目 天童市 山形県

明治11年に郡制が布かれたことに伴い、東村山郡役所として創建されたもので、明治12年10月31日に落成し、11月16日に開庁した。現在、本県下にのこる明治時代の洋風建築としては最も占い時期のものに属している。明治14年(1881)9月には、明治天皇御巡幸の際の行在所として使用された。創建当初は、3階に塔屋をもつ瓦葺、漆喰壁の建築であったが、明治32年以前に2階建に改造されたと思われる。玄関ホーチと……

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明治11年に郡制が布かれたことに伴い、東村山郡役所として創建されたもので、明治12年10月31日に落成し、11月16日に開庁した。現在、本県下にのこる明治時代の洋風建築としては最も占い時期のものに属している。明治14年(1881)9月には、明治天皇御巡幸の際の行在所として使用された。創建当初は、3階に塔屋をもつ瓦葺、漆喰壁の建築であったが、明治32年以前に2階建に改造されたと思われる。玄関ホーチとベランダ部こおける八角柱、繰り型のある礎盤、柱頭、勾欄、柱上の小壁の彫刻、入り口上部のステンドグラス等の細部装飾は素朴であるが、明治初期の堅実な手法を伝え、意匠的にも優れている。以下略 平成21年10月1日 天童教育委員会

翁塚跡 五日町2丁目 天童市 山形県
翁塚跡 五日町2丁目 天童市 山形県

公園のすぐ北に明治時代の洋風建築が建っている。旧村山郡役所で、明治天皇の行在所ともなった建物である。玄関ポーチと二階にベランダを配した三階建てで、瀟洒な佇まいを見せている。

役所前の石垣脇に「奥の細道ゆかりの地 翁塚跡」と書かれた標柱が立っていた。城山公園にあるという翁塚はここから移転されたものか。隣に立っている説明板は郡役所のもので、翁塚跡の説明はどこにもなかった。

仏向寺 小路1丁目 天童市 山形県
仏向寺 小路1丁目 天童市 山形県開祖一向上人俊聖。宝樹山仏向寺は、末寺53ケ寺の時宗中本山であったが、昭和17年浄土宗改宗。弘安元年(1278)成生荘に開基、後この地に移建した。現今の本堂は、文政8年(1825)の再建による。境内に、幕末の勤王家「吉田大八の墓」仏教的宇宙観を語る「満月之碑」雨乞いの神「龍神堂」鎌倉時代の「大日板碑」「石仏」のほかにサヤ堂に包まれた江戸初期遺構の「大日堂」がある。 天童市 天ライオンズクラブ

旧役所からさらに北に歩くと、冠木門を構えた仏向寺がある。この寺は弘安元年(1278)に最上八楯の一つ、成生の荘に開基され、その後現在地に移転された。現在の本堂は文政8年(1825)に再建されたものという。境内には鎌倉時代の「大日板碑」や、仏教的宇宙観を語る「満月之碑」などがある。

織田宗家御廟 三宝寺 仲町1丁目 天童市 山形県
織田宗家御廟 三宝寺 仲町1丁目 天童市 山形県

三寶寺は、文政13(1830)年、幕府寺社奉行より織田宗家の菩提寺に申し付けられた。天童織田藩主から、20両が下賜され、御霊屋を建立した。慶応4(1868)年、戊辰戦争で焼失したが、御位牌は運び出し難をのがれた。 現在の御霊屋は、天童養正会(元織田藩士族の会)によって、昭和6年(1931)年5月に建立されたもので、仰徳殿と称されている。 太祖織田信長公はじめ代々の藩主や家族、79名の方々の御位牌が……

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三寶寺は、文政13(1830)年、幕府寺社奉行より織田宗家の菩提寺に申し付けられた。天童織田藩主から、20両が下賜され、御霊屋を建立した。慶応4(1868)年、戊辰戦争で焼失したが、御位牌は運び出し難をのがれた。 現在の御霊屋は、天童養正会(元織田藩士族の会)によって、昭和6年(1931)年5月に建立されたもので、仰徳殿と称されている。 太祖織田信長公はじめ代々の藩主や家族、79名の方々の御位牌が安置されている。当時の宣教師が描いたもので、信長公に最も似ていると織田宗家に伝えられた肖像画の写真も掲額されている。 平成14年6月 天童市教育委員会 天童養正会 鶴正会

街道に戻り、反対側の仲町にある三宝寺を訪ねる。ここは歴代天童織田藩主の菩提寺で、霊屋には太祖織田信長公はじめ代々の藩主や家族の位牌が安置されている。明和4年(1767)、天童は高畠藩織田氏の所領となり、その後天保元年(1830)になって織田信美(のぶかず)が天童に本拠を移して天童織田藩が誕生した。

街並み 本町1丁目 天童市 山形県
街並み 本町1丁目 天童市 山形県

一旦街道にでて少し北に歩くと五日町から三日町にうつる。このあたりが天童宿の中心地であったようで、三日町の鱗屋丹野伝兵衛が古本陣、竹屋栄助が新本陣、近藤新兵衛が問屋を勤めていたという。通りは近代的な商店街で、古い建物はみかけず、宿場の面影を偲ぶ標柱らしきものもない。

陣屋大手門跡 三日町2丁目 天童市 山形県
陣屋大手門跡 三日町2丁目 天童市 山形県

左手、真田眼科とたちばなや薬局の間の路地が大手門口で、そこを左に入っていくと右手民家の前に陣屋大手門跡の標柱が立ち、路地の突き当たりに陣屋があった。今は陣屋旧敷地を奥羽本線・山形新幹線が横切っており周囲は宅地化されて陣屋の遺構はなにもなく、線路の東西にわずかに曲尺手の道筋が残っているのみである。陣屋の敷地跡は公園になっていて、御陣屋の松、天童織田藩記念碑、喜太郎稲荷神社、北辰一刀流道場の調武館・稽古所跡の説明板などが設けられている。

街道にもどり北に進むと本町にはいり、天童駅前を通り過ぎる。ここはもはや天童宿の北はずれに位置する。

天童陣屋跡 田鶴町 天童市 山形県
天童陣屋跡 田鶴町 天童市 山形県天保元年(1830)御殿竣工、翌年藩主織田信美入部 安政4年(1857)当時の絵図です。 平成12年3月1日 天童市教育委員会

ところで天童と言えば将棋の駒作りで知られ全国生産量の95%を占める。江戸時代後期、織田信長の二男信雄を祖とする織田氏が、高畠から石高わずか2万石で天童に入部したのが天保の大飢饉が始まる2年前であった。少ない石高に加え、天保の大飢饉で藩財政は窮乏を極めた。こうした中、困窮する武士の内職として始まったのが将棋の駒作りだった。探せば昔ながらの工房があるのだろうが、街道沿いの商店街にそれらしき店をみかけることはなかった。

天童宿の先、久野本の1丁目と2丁目の境の交差点を西に向かって分かれていく道(県道22号から110号になる)は谷地街道で、2kmほど行ったところが最上八楯のひとつ成生である。

大ケヤキ 熊野神社 久野本2丁目 天童市 山形県
大ケヤキ 熊野神社 久野本2丁目 天童市 山形県

その昔、久野本の護り神である熊野堂は、中道にあったという。慶長のころ、羽州街道が開かれると、綿掛にあった久野本の集落は現在地に移り、熊野堂もまた、この地に移されたと伝えられる。その当時、この辺り一帯は一面の自然林であったという。この大ケヤキは、その自然林の中の一本で、当時をしのぶ唯一の老樹である。 樹齢 推定600年 根回り 9.8m 目通り幹回り 6.85m 樹高19.5m 昭和61年3月1日 ……

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その昔、久野本の護り神である熊野堂は、中道にあったという。慶長のころ、羽州街道が開かれると、綿掛にあった久野本の集落は現在地に移り、熊野堂もまた、この地に移されたと伝えられる。その当時、この辺り一帯は一面の自然林であったという。この大ケヤキは、その自然林の中の一本で、当時をしのぶ唯一の老樹である。 樹齢 推定600年 根回り 9.8m 目通り幹回り 6.85m 樹高19.5m 昭和61年3月1日 天童市教育委員会

次の十字路の先右手に熊野神社がある。大名の通行がある時は村役人等がこの熊野神社まで出迎えた。境内には推定樹齢600年、樹高20mの大ケヤキが立っている。集落ができたころの大自然林の名残だそうだ。

草木供養塔 乱川 天童市 山形県
草木供養塔 乱川 天童市 山形県

乱川駅前を通過し、万代橋の手前右手の空き地に嘉永6年(1853)の草木供養塔が立っている。自然の草木の命を尊ぶ供養塔であるが、国内に160基以上ある中でなぜか約9割が山形県内に分布し、しかも県内4地域のうち置賜地方に集中して存在するという独特な石造物文化である。

街道は乱川を渡り国道13号をくぐると県道120号となって天童市から東根市神町に入る。

六田・宮崎

松並木 神町南1丁目 東根市 山形県
松並木 神町南1丁目 東根市 山形県
神町中央2丁目 東根市 山形県
神町中央2丁目 東根市 山形県明治天皇駐輦記念碑 東根市神町公民館前

左手神町幼稚園の先に5本の街道名残の松並木が残っている。

神町小学校入り口信号の右手、公民館前に明治天皇駐輦記念碑が立っている。ここは宿場でも景勝地でもなく、なんだろうか。説明板もなく由緒がわからない。

左手に千羽鶴に飾られた地蔵堂があり中に3体の地蔵尊が安置されている。

松並木跡 さくらんぼ駅前1丁目 東根市 山形県
松並木跡 さくらんぼ駅前1丁目 東根市 山形県

県道122号と交差する信号の先左手に「天然記念物 東根の松並木跡」の石碑が立ち、一本の松が残っている。地元では「相生の松」と呼ばれているそうだが、かっては雌雄二本寄り添って生えていたものか、あるいは見上げてみると上部が大きく二つに枝分かれしているからか。

與次郎稲荷神社・六田の石鳥居 四ツ家1丁目 東根市 山形県
與次郎稲荷神社・六田の石鳥居 四ツ家1丁目 東根市 山形県

祭神応神天皇、保食神(うけもちのかみ)、 配祀與次郎大人之霊 由緒、沿革 慶長年間、旧秋田藩主佐竹右京大夫儀宣公の飛脚那珂與次郎 江戸秋田間を六日で往復し忠勤を励んだが、故あってこの地で暗殺され、恋人お花の手によって、ひそかに葬むられ慶長十六年幕府は奉行配下、杉本某を派して四ツ家の鎮守八幡と共に與次郎稲荷大明神として祀られたと伝えられ今なお秋田県よりの参拝者多し。五穀豊穣商売繁盛、交通安全殊に進学……

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祭神応神天皇、保食神(うけもちのかみ)、 配祀與次郎大人之霊 由緒、沿革 慶長年間、旧秋田藩主佐竹右京大夫儀宣公の飛脚那珂與次郎 江戸秋田間を六日で往復し忠勤を励んだが、故あってこの地で暗殺され、恋人お花の手によって、ひそかに葬むられ慶長十六年幕府は奉行配下、杉本某を派して四ツ家の鎮守八幡と共に與次郎稲荷大明神として祀られたと伝えられ今なお秋田県よりの参拝者多し。五穀豊穣商売繁盛、交通安全殊に進学成就等の霊験あるスポーツの神として若人の崇敬篤い。 石造り鳥居 社前の鳥居は最上三鳥居の一つにし文部省指定の貴重品であり市の文化財である。

さくらんぼ東根駅前を通過してすぐ先四ッ家1丁目に與次郎荷稲神社の案内看板が立っている。秋田藩佐竹義宣の飛脚那河与次郎が江戸-秋田を往復する途上故あってこの地で殺され、のちに四ツ家の鎮守八幡と共に与次郎稲荷として祀られた。今も秋田からの参詣者が多いという。赤鳥居の先頭に建つずんぐりむっくりした石鳥居が何とも愛嬌があって可愛い。六田の石鳥居として親しまれ、室町時代前期の建立とされ、最上三鳥居の一つに数えられている古いものだ。

名水稲荷の水(大山やきふ製造所) 六田1丁目 東根市 山形県
名水稲荷の水(大山やきふ製造所) 六田1丁目 東根市 山形県

六田宿大山油揚屋 名水稲荷の水 奥羽の山脈を源として流れる乱川・野川・白水川は日本でも有数な複河扇状地をつくり、最上川近くになると湧水群として噴出していました。その一つがここ六田の地にもあり、昔は宿場町六田の佐竹井戸とよばれ、秋田の佐竹藩の殿様が参勤交代のおりにお飲みになられた水でもあります。現在も麩作りには欠かすことが出来ない、大変おいしい水としてよく知られております。大山峯昭 芭蕉の歩いた六田……

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六田宿大山油揚屋 名水稲荷の水 奥羽の山脈を源として流れる乱川・野川・白水川は日本でも有数な複河扇状地をつくり、最上川近くになると湧水群として噴出していました。その一つがここ六田の地にもあり、昔は宿場町六田の佐竹井戸とよばれ、秋田の佐竹藩の殿様が参勤交代のおりにお飲みになられた水でもあります。現在も麩作りには欠かすことが出来ない、大変おいしい水としてよく知られております。大山峯昭 芭蕉の歩いた六田路

真っ直ぐな街道は六田に入ってくる。街道の左右に焼き麩工場が目につく。その一つ、大山やき麩製造所の前には小さな稲荷があって、そばに「六田宿大山油揚屋 名水稲荷の水」がある。奥羽の山脈を源として流れる乱川・野川・白水川は日本でも有数な複河扇状地をつくり、最上川近くになると湧水群として噴出していた。その一つがここ六田の地にもあり、昔は宿場町六田の佐竹井戸とよばれ、秋田の佐竹藩主が参勤交代のおりにここで休んで湧水井戸の水を飲んだといわれている。

山口家住宅 六田1丁目 東根市 山形県
山口家住宅 六田1丁目 東根市 山形県

その先山口宅はかっての立派な茅葺屋根を偲ばせる旧家の佇まいである。門塀を構えた大きな屋敷は山口清次郎家で、六田を興した六人衆の一人と伝わり、名主、宿場問屋などの村役を務めてきた名家である。近年まで酒造業を営んできた。

芭蕉句碑(斉藤焼麩本店) 六田1丁目 東根市 山形県
芭蕉句碑(斉藤焼麩本店) 六田1丁目 東根市 山形県

もがみにて紅粉の花の(咲)わたるをみて ばせお 眉はきを おもかげに して紅粉の花 芭蕉翁「眉はきを」の句碑 元禄2年5月27日並びに28日(1689年陽暦7月13・14日)芭蕉と随行の門人曾良、おくのほそ道の旅の途次此の六田の宿駅を過ぐ 輒ち曾良の随行日記に、 「o廿七日、天気能、辰ノ中刻、尾花澤ヲ立テ立石寺へ趣。清風ヨリ馬ニテ館岡迄被送、二リ元飯田一リ館岡一リ六田馬次間二内蔵二逢、二リよ天童 ……

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もがみにて紅粉の花の(咲)わたるをみて ばせお 眉はきを おもかげに して紅粉の花 芭蕉翁「眉はきを」の句碑 元禄2年5月27日並びに28日(1689年陽暦7月13・14日)芭蕉と随行の門人曾良、おくのほそ道の旅の途次此の六田の宿駅を過ぐ 輒ち曾良の随行日記に、 「o廿七日、天気能、辰ノ中刻、尾花澤ヲ立テ立石寺へ趣。清風ヨリ馬ニテ館岡迄被送、二リ元飯田一リ館岡一リ六田馬次間二内蔵二逢、二リよ天童 (以下略) o廿八日、馬借テ天童二趣。六田ニテ又内蔵二逢。立寄ば持賞(もてなす)ス 又、同じく曾良の「俳諧書留」の中に、 「立石寺の道ニテ まゆはきを俤にして紅ノ花」とある。 乃ち「おくのほそ道」の旅より三百年を記念して、ここに碑を建て、右の句を刻み、以って往時を偲ぶよすがとした。碑面の文字は真蹟懐紙に依った。 平成元年7月13日、右の記念の日 斉藤重雄

礼徳寺の北側にある斎藤本店焼麩工場前庭に芭蕉句碑「もがみにて紅粉の花のわたるをみて 眉はきをおもかけにして紅粉の花 はせを」がある。芭蕉が山寺に向かう途中で詠んだとされる一句で、芭蕉の旅から300年を記念して平成元年7月13日に斎藤重雄氏が建てたものである。碑の前には「六田宿元祖斎藤本店 名水芭蕉の水」と銘打って竹樋で湧水を引いている。先に大山宅で見たものと同類のものである。

六田宿元祖斉藤焼麩本店 六田1丁目 東根市 山形県
六田宿元祖斉藤焼麩本店 六田1丁目 東根市 山形県六田宿「内蔵」宅第一候補地

名水よりも六田宿元祖のことが気になって広い前庭をはいりこんで本宅に近づいていくと中からおばさんが出てきて事務所内にまねかれた。「斎藤さんは六田宿の名主か本陣だったのですか」と尋ねると、宿場の役人ではなく最初にこの地に移住して麩作りをはじめた農民だったという。 東根は江戸時代より県内有数の小麦産地であり、良質な水にもめぐまれて農家の内職として六田で麩作りが始まった。宿場になる以前の話のようである。斎藤家はその元祖であるが、今年の6月で麩作りを止めたそうだ。

話を芭蕉にもっていくと、斎藤家が芭蕉をもてなした六田宿の内蔵だったという。そういう話も聞くが他方で高橋家だという説もあるようですが、と向けると、「高橋さんは芭蕉のことには関心がなくて。御主人は脳出血で寝たきりになられました」と、句碑を建てた当家が内蔵ゆかりの家だと主張して譲らなかった。句碑建立時に作成された「羽州街道六田宿」のパンフレットをいただいた。それによれば、山形県内にある羽州街道17宿のうち、黒沢・松原、六田・宮崎、本飯田・土生田はそれぞれ相宿で1ヶ月のうち松原、六田、土生田が1日から20日まで、その他は21日から晦日まで人馬継立にあたった。

芭蕉像 六田2丁目 東根市 山形県
芭蕉像 六田2丁目 東根市 山形県羽州街道六田宿の芭蕉像 元禄2年5月27日(陽歴7月13日)と28日の両日、芭蕉jと曾良は山寺立石寺への往復、六田宿の「内蔵(高橋内蔵介)」にもてなされました。芭蕉は、そのお礼に満開の紅花畑で働く美しい若い娘に心ひかれて「行末は誰(たが)肌ふれむ紅の花」を詠みました。 風に揺らぐ紅花 六田宿 平成24年7月13日

斎藤家を辞して街道を進む。信号交差点の角に小さな芭蕉のブロンズ像があった。地域おこし活動10周年記念として3か月前に建てられたばかりである。碑文には「内蔵(高橋内蔵介)」と明記している。「高橋内蔵」が地域のコンセンサスであるようだ。

山口東右衛門家 六田2丁目 東根市 山形県
山口東右衛門家 六田2丁目 東根市 山形県清次郎家7代目が隠居し、東右衛門家を興す。初代東右衛門は儒学者で「素暁」と号し、二代目も漢学者であり、「素行」と号し、文庫・俳諧に秀れ、素暁・素行ともに、近隣の子弟の教育にあたるとともに、素暁は西契約を結成、素行は名主を務め、村のために尽くした。その徳を慕い、功績を称え、『素暁碑』『素行碑』が建立されている。 風に揺らぐ紅花 六田宿

街道左手に山口東右衛門家がある。最近になって屋敷は取り壊され、門だけを残して、奥は空地になっている。先に見た山口清次郎家の7代目が隠居して起こした学者肌の分家で、こちらの2代目も名主を勤めている。

高橋家 六田2丁目 東根市 山形県
高橋家 六田2丁目 東根市 山形県「内蔵」宅候補地

その先に春日神社があり、その奥が高橋家である。新しい建物で内蔵ゆかりの家を偲ばせるものはない。斎藤さんの話を思いうかべながらひっそりとした佇まいを眺めるだけだった。

白水川観音堂 六田2丁目 東根市 山形県
白水川観音堂 六田2丁目 東根市 山形県

元禄の頃(1700年代)、白水川の上流から流れついた石佛を祀った所に、宿場街となった六田村の氏神様として、商売繁昌、五穀豊饒を祈り、如意輪観音像を祀り、白水川観音堂を建立した。 嘉永2年(1849)の俳額があり、龍の天井絵、四天王の板絵が描かれている。村人の信仰もあつく、祭礼の時(前は3月、6月、9月の21日)で、9月の時には賭場も立つ程の賑いであったと、伝えられている。最近は、信心深い老人の往生……

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元禄の頃(1700年代)、白水川の上流から流れついた石佛を祀った所に、宿場街となった六田村の氏神様として、商売繁昌、五穀豊饒を祈り、如意輪観音像を祀り、白水川観音堂を建立した。 嘉永2年(1849)の俳額があり、龍の天井絵、四天王の板絵が描かれている。村人の信仰もあつく、祭礼の時(前は3月、6月、9月の21日)で、9月の時には賭場も立つ程の賑いであったと、伝えられている。最近は、信心深い老人の往生を見て、コロリ観音とも言われている。(六田公民館)

白水川の手前の路地を右に少し入ったところに白水川観音堂がある。 元禄の頃(1700年代)白水川の上流から流れ着いた石仏を祀り、六田村の氏神として白水川観音堂を建立した。六田公民館による説明板の最後の一文に「最近は信心深い老人の往生を見て、コロリ観音とも言われている」とあった。観音様の目の前でお参りに来た老人が突然コロリと逝ったのか。ここに来ると年老いて苦しまずに往生できるということか。恐れる言葉か、喜びの言葉か、よくわからない一文だ。

宮崎

白水川 六田/宮崎 東根市 山形県
白水川 六田/宮崎 東根市 山形県
民家 宮崎1丁目 東根市 山形県
民家 宮崎1丁目 東根市 山形県

白水川を越えた宮崎は六田宿との相宿で、月の21日から晦日までを担当していた。

左手に煙り出しを設けた大きな平屋建て民家がある。今はトタン葺きだが明らかにかっては豪壮な茅葺屋根だった風情を保っている。

宮崎若宮八幡神社 宮崎2丁目 東根市 山形県
宮崎若宮八幡神社 宮崎2丁目 東根市 山形県

宮崎若宮八幡神社と地蔵尊 この若宮八幡神社は、東根若宮八幡が鎌倉から分祀され、若宮山に祀られる前の一時、西の八幡原に着かれ、その後、若宮山の社殿が完成すると移されたので、あらためてこの地に分神したので、宮の先(崎)と、地名になったと言われている。 拝殿内には数多くの絵馬が奉納されており、二百年前から百年前のもので、文化14(1817)の算額、文政3年(1820)の俳額がある境内には草分明神、地蔵尊……

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宮崎若宮八幡神社と地蔵尊 この若宮八幡神社は、東根若宮八幡が鎌倉から分祀され、若宮山に祀られる前の一時、西の八幡原に着かれ、その後、若宮山の社殿が完成すると移されたので、あらためてこの地に分神したので、宮の先(崎)と、地名になったと言われている。 拝殿内には数多くの絵馬が奉納されており、二百年前から百年前のもので、文化14(1817)の算額、文政3年(1820)の俳額がある境内には草分明神、地蔵尊が建立されており、前の道(鷺の森道)は羽州街道と東根、東郷を西の方の長瀞を結ぶ主要道路でした。その四辻の所にあった地蔵尊を戦時中に移した。 時代は二百年ほど前のもので、台座に小山田、菊地、梶沼、高橋等十三名の苗字が刻まれている。(宮崎公民館)

右手すこし入ったところに宮崎若宮八幡神社と地蔵を安置した祠が二つ並んでいる。八幡神社の前の道は1.5kmほど北西にある長瀞(最上八楯の一つ)とを結ぶ古道である。長瀞城は二重に水堀、土塁をめぐらし本丸は一町四方ほどの小さな城であった。地図でみるだけだが正方形に囲まれた堀の内部に一回り小さな方形の道と十字に貫く道が示されていて計画された城郭都市の跡が残されているようだ。寄っていくべきであった。

旧宮崎宿街並 宮崎3丁目 東根市 山形県
旧宮崎宿街並 宮崎3丁目 東根市 山形県

東根駅前を通りすぎ、温泉町の大きな交差点にさしかかる。ここからは長瀞城が国道13号をはさんでほぼ対照位置にある。右手、北村山公立病院の南側に大塚古墳があるが寄らなかった。

村山駅が近づき、東根から村山市に入る。

楯岡

旧楯岡宿家並 五日町 楯岡 村山市 山形県
旧楯岡宿家並 五日町 楯岡 村山市 山形県

村山駅前を通過し、このあたりから楯岡宿に入る。まず目を引いたのが道路の中央に融雪施設が埋設されていることだった。普段は白い中央線が酸化鉄の赤みを帯びて、それだけで沿道に寒々とした趣を与えるのである。天童以来ここまで目にしてこなかっただけに村山地方でも楯岡以北は雪国にはいるのかと感慨がこみ上げてきた。

旧楯岡宿本陣付近 十日町 楯岡 村山市 山形県
旧楯岡宿本陣付近 十日町 楯岡 村山市 山形県

楯岡(村山市)は中世、楯岡城の城下町として発展した町で特に楯岡氏7代目の満茂は最上義光の有力な家臣として活躍、湯沢城(秋田県湯沢市)を拝領し、関ヶ原の戦い後は本荘城(秋田県由利本荘市)に入り由利郡5万5千石の支配を得た。元和8年(1622)に最上家が改易になると楯岡城は廃城となり、楯岡も城下町から羽州街道の宿場町へ変貌していく。楯岡宿が開設されると現在の村山郵便局辺りに本陣が構えられ、5日毎に市が……

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楯岡(村山市)は中世、楯岡城の城下町として発展した町で特に楯岡氏7代目の満茂は最上義光の有力な家臣として活躍、湯沢城(秋田県湯沢市)を拝領し、関ヶ原の戦い後は本荘城(秋田県由利本荘市)に入り由利郡5万5千石の支配を得た。元和8年(1622)に最上家が改易になると楯岡城は廃城となり、楯岡も城下町から羽州街道の宿場町へ変貌していく。楯岡宿が開設されると現在の村山郵便局辺りに本陣が構えられ、5日毎に市が開かれるなど活気を呈した。又、宿場の前を遮るように愛宕神社の前には大きな岩山があり、江戸時代から何度となく切通しの開削工事が行なわれた。現在の楯岡の町並みは愛宕神社周辺のケヤキ群や本覚寺に至る参道などに往時の面影を残している。

楯岡は村山市の中心地で、中世、楯岡城の城下町として発展した。元和8年(1622)に最上家が改易になると楯岡城は廃城となり、楯岡も城下町から羽州街道の宿場町へ変貌していく。天童から土生田までの村山六宿のうち本陣が置かれたのは天童宿とここ楯岡宿だけである。南から新町、五日町、十日町と続き、笠原本陣は十日町の現村山郵便局あたりにあった。

本陣跡を中心としてあたりの商店街には蔵造りの店など往時の面影を残す家並みが見られる。

左右の松(本覚寺) 楯 楯岡 村山市 山形県
左右の松(本覚寺) 楯 楯岡 村山市 山形県本覚寺境内にある『左右の松』は、昭和27年(1952)山形県の天然記念物に指定されました。臥龍型の赤松で、樹齢400年を数えます。江戸時代の天明期(1781~1788年)に壷中・一具・素英らとともに活躍した俳人鈴木左右が寄進し植えられたもので、その名称の由来となっています。

すぐ先、右へ入ったところに本覚寺がある。天正元年(1573)に開山された古刹で、本堂は文化元年(1804)に再建されたものである。境内の庭いっぱいに枝を広げた臥龍型のアカマツは樹齢400年を越え県指定天然記念物になっている。天明年間(1781~1789)に俳人左右が献じたことから「左右のマツ」と呼ばれている。

街道を北に進み、晦日町から二日町にかけて、両側を岩山に挟まれた峠道を越えていく。

東方にある楯山(210m)が西に張り出たところに切通しを改作して街道がつくられた。今もその開削工事の跡を残している。

愛宕神社のケヤキ林 晦日町 楯岡 村山市 山形県
愛宕神社のケヤキ林 晦日町 楯岡 村山市 山形県

山形県指定天然記念物 愛宕神社の境内地は、楯山山麓の西端の突角部分が、切り通し道路の開通によって切り離されたことにより、市街地に残された土地である。もともと楯山の一部であるこの土地は、岩盤と岩塊からできており、表土がほとんど無いため、樹木の生育には適さない環境にあるが、唯一、ケヤキだけが順調に生育し続けている。これは、岩塊の隙間に侵入して根を張るケヤキの遺伝的な特性と、この土地の岩盤が保水性と通気……

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山形県指定天然記念物 愛宕神社の境内地は、楯山山麓の西端の突角部分が、切り通し道路の開通によって切り離されたことにより、市街地に残された土地である。もともと楯山の一部であるこの土地は、岩盤と岩塊からできており、表土がほとんど無いため、樹木の生育には適さない環境にあるが、唯一、ケヤキだけが順調に生育し続けている。これは、岩塊の隙間に侵入して根を張るケヤキの遺伝的な特性と、この土地の岩盤が保水性と通気性を備えていたことによるものと考えられる。自生するケヤキは大小合わせ12本あるが、最大の御神木は幹回り3.1m、樹高20mに達し、樹齢は220年ほどと推定される。露出した巨大な側根をあたかも大蛇のように這わせ、岩盤の上に悠然とそびえる御神木の姿はまさに王者の貫禄を示している。なお、御神木以外のケヤキはずっと若く、おそらく御神木の種からできた子供と考えられる。愛宕神社のケヤキ天然林は巨大老樹ではないが のように巨岩を抱きかかえるものや「相生ケヤキ」のように「けんいん根」、「支持根」を実物標本として現すなど、岩塊の隙間に侵入し、根の肥大により岩を割り進む根部の生態を目のあたりに観察できる好資料であり、その学術的価饒も大きい。 環境庁・山形県自然保護課

三島ケヤキ 晦日町 楯岡 村山市 山形県
三島ケヤキ 晦日町 楯岡 村山市 山形県推定樹齢110年 このケヤキは、もともと石割けやきであったものが、明治11年、当時の山形県令三島通庸によって行われた「切通し開削工事」の際、岩の片側が持ち去られたために根が肥大して巨岩を抱きかかえ、双頭の龍のような姿になったものと考えられる。

左手の愛宕神社があるケヤキ林には樹齢110年と推定されている「三島けやき」がある。これはもともと石割けやきであったものが、開削工事の際、岩の片側が持ち去られたため、根が肥大して巨岩を抱きかかえ、双頭の龍のような姿になったものである。

道を挟んだ反対側の岩山には文化2年(1805)の大きな湯殿山碑が建っている。峠を越えたあたり、街道に面して大市姫神がある。

旧家 林崎 村山市 山形県
旧家 林崎 村山市 山形県

楯岡宿を後にして大旦川(おおだんがわ)を渡ると林崎地区に入る。長い塀をめぐらせた屋敷があって鬱蒼とした植え込み樹木が圧倒している。家並みは総じて落ち着いた雰囲気を醸している。

左手少し入ったところに竹駒稲荷神社があり、文政13年(1830)の石碑が立っている。

熊野・居合両神社 林崎 村山市 山形県
熊野・居合両神社 林崎 村山市 山形県

その右手に熊野神社・居合神社がある。由緒・沿革書きによると、この神社は大同2年(807)に林崎地区の東方に熊野権現が祀られたのが始まりで、永承年中(1046)から正安2年(1300)の間に当地に遷座され、熊野明神と改められたとある。天文16年(1547)に居合流の始祖林崎甚助重信が坂上主膳に暗殺された父親の仇を討つため、熊野明神に祈願参篭して修行に励み、永禄4年(1561)重信20歳の時京都で主膳を討ち本懐を遂げた。後世、重信公を神格化して「居合神社」を創建、熊野明神の一角に祀った。明治10年に明治政府に公認され「熊野・居合神社」なったという。

蝉塚 立石寺 山寺 山形市 山形県
蝉塚 立石寺 山寺 山形市 山形県

松尾芭蕉のおくのほそ道の紀行文に、 山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麗の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼ……

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松尾芭蕉のおくのほそ道の紀行文に、 山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麗の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。 閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。

この居合神社の境内に、村山地方を代表する江戸期の俳人で坂部壷中(こちゅう)が詠んだ「御鏡や笑へハ笑ふ花の影」の句碑がある。壷中は本名坂部九内といい、林崎の素封家で大地主でもあったらしい。宝暦元年(1751)、壷中は俳諧仲間とともに、山寺立石寺に芭蕉が書いた短冊を埋めて「蝉塚」を建てた。

街道は林埼集落をあとにして左に折れていく県道120号と分かれて直進し、国道13号の東側脇道をたどって本飯田に入っていく。

寄り道(最上川三難所)

最上川三難所・碁点 稲下 村山市 山形県
最上川三難所・碁点 稲下 村山市 山形県碁点は、深場以外のところは岩礁が水面間際まで迫り出している。「碁点」の名は川床に碁石を並べたような岩の突起があることに由来しています。

街道を南にもどり十日町の大きな交差点を西に折れ県道25号を最上川に向かって進む。途中で県道294号となって碁点橋で最上川をわたり北側の堤防に下りる。そこに船着き場があって、最上川三難所の案内板が立っている。ここ碁点を起点とし三ヶ瀬、隼まで三か所の難所を訪ねる。

最上川三難所・碁点 稲下 村山市 山形県
最上川三難所・碁点 稲下 村山市 山形県碁点は、深場以外のところは岩礁が水面間際まで迫り出している。「碁点」の名は川床に碁石を並べたような岩の突起があることに由来しています。

碁点橋たもとの船着き場まで降りて行った。岩礁が水面間際まで迫り出している。「碁点」の名は川床に碁石を並べたような岩の突起があることに由来している。これらの岩を避けて深場をつなぐように航行するのは難しかろう。橋の下で岩に腰かけて釣り糸を垂らす人がいた。

堤防を下流に向かって歩いていく。川面の展望が開けた場所を探して川をみおろすと共栄橋に向かって川幅の半分が岩礁で占められている風景がみられた。

最上川三難所・三ヶ瀬(みかのせ) 富並 村山市 山形県
最上川三難所・三ヶ瀬(みかのせ) 富並 村山市 山形県「三ヶ瀬」の名は、細長い岩礁が3層をなして縦に並んでいることに由来しています。

国道347号にでて三ヶ瀬橋まで直行する。橋の上流付近が二つ目の難所、三ヶ瀬である。藪を漕いで川岸まで降りられる道があるようだが、橋の上から眺めるにとどめた。細長い岩礁が縦にならび、船はその間の狭い流れに乗らなければならない。碁点に比べれば行くべき深みが判明しているだけ、楽かもしれない。

最上川三難所・隼(はやぶさ) 富並 村山市 山形県
最上川三難所・隼(はやぶさ) 富並 村山市 山形県川底全体を岩礁が覆い急流のため、三難所の中で最も危険な場所として恐れられています。
最上川三難所・隼(はやぶさ) 富並 村山市 山形県
最上川三難所・隼(はやぶさ) 富並 村山市 山形県川底全体を岩礁が覆い急流のため、三難所の中で最も危険な場所として恐れられています。

三ヶ瀬橋からヘアピン状に蛇行する川を端折って、長島橋を渡ったところが、難所めぐりの船着き場である。そこから国道をおりて川沿いの道を東に約2kmほど進み、富並川を渡った先の十字路を右折して川にちかづくと、隼の瀬眺望公園の標識にしたがて岸辺の公園に至る。整備された遊歩道をたどって水際まで降りると、川幅いっぱいにひろがる岩底の浅瀬を白波をたてて最上川が流れている。深みは渦が巻き流れは早そうだ。多くの船がここで難破し、隼は三難所の中でも最も危険な場所として恐れられてきた。

たっぷり時間をかけてカメラで遊んで、難所めぐりを終えた。先の十字路までもどり、一路東にむかって県道36号に出る。右折して昭和橋で最上川を渡り、新幹線をくぐり国道13号をよこぎると、林崎の北はずれにある旧羽州街道Y字路に戻ってくる。ここで県道とわかれて旧道を北上し、国道13号に沿った東側脇道にもどる。

本飯田・土生田

尾上の松 本飯田 村山市 山形県
尾上の松 本飯田 村山市 山形県

尾上のマツ 最上家隆昌の頃から羽州街道のかたわらに、端麗な姿で人目をひいたこの尾上のマツは、樹令品格においても、まさにその名にふさわしい名木である。もとは相生マツとして雑雄二株であったが、雌株が大正12年の雪で折れ、枯れてしまっている。尾上のマツは、かさ状で枝が四方に垂れ、いかにも老松らしく、枝端は地面に届こうとしている。樹令は約600年といわれ、黒沼松五郎氏が昭和13年に雌株の年輪をかぞえて推定……

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尾上のマツ 最上家隆昌の頃から羽州街道のかたわらに、端麗な姿で人目をひいたこの尾上のマツは、樹令品格においても、まさにその名にふさわしい名木である。もとは相生マツとして雑雄二株であったが、雌株が大正12年の雪で折れ、枯れてしまっている。尾上のマツは、かさ状で枝が四方に垂れ、いかにも老松らしく、枝端は地面に届こうとしている。樹令は約600年といわれ、黒沼松五郎氏が昭和13年に雌株の年輪をかぞえて推定したものてある。雌株の跡目として、本飯田の安達仁吉氏が大正12年4月、有志の人たちと植えたマツは、現在樹囲1.75m、樹高10mになっている。 樹囲目通り3.45m 根囲3.85m 樹高20m (昭和34年11月5日市天然記念物指定) 村山市教育委員会

旧羽州街道 本飯田 村山市 山形県
旧羽州街道 本飯田 村山市 山形県

まもなく右手に二本の松が見えてくる。頂上部が笠状に垂れている松が樹齢600年と推定される「尾上の松」である。もとは左右二株の相生の松として街道の目印になっていた。雌株は大正時代に雪で折れ現在は2代目(樹高10m)、背の高いのが雄松(樹高20m)である。

歩道東側の脇道は国道と分かれて運転教習所の入り口をかすめてそのまま旧羽州街道として本飯田集落にはいっていく。

旧本飯田宿街並 本飯田 村山市 山形県
旧本飯田宿街並 本飯田 村山市 山形県

左手に杉の大木がそびえる民家がある。杉のうしろには漆喰の土蔵があった。

民家(佐藤家) 本飯田 村山市 山形県
民家(佐藤家) 本飯田 村山市 山形県

バス停あたりが宿の中心だろうか。本飯田宿は土生田宿との相宿で、本飯田は21日から月末までを担当し、安達家が問屋を勤めていたという。地図でみると安達姓の建物が3軒あった。どれかが末裔であろう。

右手には姿の良い茅葺屋根の佐藤家住宅がある。窓の下半分を板で覆ってあるのは雪除けのためか、舟板風にもみえて風情が感じられる建物である。

その先で街道はなだらかな峠をこえ長い下り坂に入る。

石碑群 土生田 村山市 山形県
石碑群 土生田 村山市 山形県

六面幢 (六角石幢) 石造美術では総称して石幢と呼ばれその祖形は中国唐時代で仏頂尊勝羅尼と結びついてひろまり、わが國では簡略化されて六面或は八面の柱状石に仏像、梵字を現す。地蔵信仰では、地蔵菩薩が【六道】地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・天道・人間道・輪廻し転生する衆生を能化救済すると云うことから石幢に六地蔵が刻まれた。 大寶院の六角石幢は造立された時代は不祥だが、単制で幢身上に笠付きで基礎は四角造……

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六面幢 (六角石幢) 石造美術では総称して石幢と呼ばれその祖形は中国唐時代で仏頂尊勝羅尼と結びついてひろまり、わが國では簡略化されて六面或は八面の柱状石に仏像、梵字を現す。地蔵信仰では、地蔵菩薩が【六道】地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・天道・人間道・輪廻し転生する衆生を能化救済すると云うことから石幢に六地蔵が刻まれた。 大寶院の六角石幢は造立された時代は不祥だが、単制で幢身上に笠付きで基礎は四角造り六道が刻まれておらず、六角石面幢である、多寶院時代に造られたと思われる。 平成15年 水無月 袖崎史蹟保存会

左手に石碑群があり、とりわけ六角柱の石塔について「六面幢」の説明板があった。ほかは摩耗が激しい双体祖神、地蔵菩薩、象頭山(金刀比羅宮)、湯殿山など様々である。

旧土生田宿街並 土生田 村山市 山形県
旧土生田宿街並 土生田 村山市 山形県

袖埼駅前通りとの交差点あたりが土生田宿の中心だろうか。街道に沿って細長くのびた集落で、どこが中心地なのかはっきりしない。郵便局が一つの目安である。交差点を越えた左に袖埼局がある。土生田と袖崎という二つの地名が混在しているのもわかりにくい一因だ。通りのおばさんに聞いてみたら、ここは昔の袖崎村大字土生田だといわれてはっきりした。郵便局や学校など未だに村名をひきつぐ施設や地名が残っているのである。

土生田は本飯田宿との相宿で、月初から20日までを担当した。

民家(八鍬家) 土生田 村山市 山形県
民家(八鍬家) 土生田 村山市 山形県

旧宿場通りを歩いていくと左手に茅葺の魅力的な家屋が現れた。路地をはいっていくと裏にはやはり茅葺屋根で土壁造りの小屋があった。二台の乗用車があるのも興味深い。写真を撮っていると主人と思われる男性が帰宅してきた。八鍬家である。宿場の役人でもしていたのか聞いたが、そうではないらしかった。

旅籠風民家 土生田 村山市 山形県
旅籠風民家 土生田 村山市 山形県

そのさきには門塀と見越しの松を配した旧家らしい屋敷がある。

右手には二階に手摺窓を設けた旅籠風の建物があった。

まばらではあるが、村山六宿のなかでは最も旧街道筋の家並みがのこる宿場に思われた。

渓永寺 土生田 村山市 山形県
渓永寺 土生田 村山市 山形県

集落の北端右手に渓永寺がある。境内には白壁土蔵があり、またここにも寛永4年(1708)の古い六面幢があった。一列に立ち並ぶ石仏は丸みを帯びた穏やかな姿がほのぼのとしてすがすがしい。

旧羽州街道 土生田 村山市 山形県
旧羽州街道 土生田 村山市 山形県

羽州街道、追分に室町後期か江戸時代初期に、大石田・尾花沢への『みちしるべ』として造立された、天然石で変形角柱の高さ約六尺余の道標がありました。 戦後国道の改修工事により、その道標が跡形もなく取り壊されたが、平成11年に道標の中程の部分が発見され、『おおいしだ』と『道』と読み取れる文字が刻まれております。 また、大石田町史には安永7年(1779年)に最上川の舟止めの案内道標には、是より『右秋田海道』……

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羽州街道、追分に室町後期か江戸時代初期に、大石田・尾花沢への『みちしるべ』として造立された、天然石で変形角柱の高さ約六尺余の道標がありました。 戦後国道の改修工事により、その道標が跡形もなく取り壊されたが、平成11年に道標の中程の部分が発見され、『おおいしだ』と『道』と読み取れる文字が刻まれております。 また、大石田町史には安永7年(1779年)に最上川の舟止めの案内道標には、是より『右秋田海道』、是より『左羽黒山船道大石田通』の立て札致し候とあります。 平成14年 長月 土生田史蹟保存会 清河八郎お休み追分茶屋(写真正面) 回天封事の志士、清河八郎が安政2年(1855)3月20日から9月にかけて、母親と伊勢神宮を参拝する。伊勢よりの帰途旧9月7日楯岡江戸屋を早朝にたち、羽州街道沿い金谷村を過ぎて本飯田村に入り、土生田村で馬を繋ぎ朝霧が顔に触れひどく寒いので百姓が稲刈りに出て道ばたで焚火をしているのにしばらく身を暖めた。 土生田より左に大石田への分れ道がある、追分三叉路の茶屋(現・森貞雄)で暫く休み、囲炉リばたで暖をとる寒気となリ我が旅も久しいことをつくづくと感じた。 平成24年卯月 袖崎まちづくり協議会歴史部会

この先、旧街道は国道バイパスに分断されている。地下道で反対側に出て、右に折れて県道120号にもどる。その先の二股で左斜めに分かれていく道が大石田に通じる脇往還で、山形城主最上義光によって開削された。芭蕉が山寺からの帰り道、この道を通って大石田を目指していった。かって追分には約六尺余の道標があった。戦後国道の改修工事により、その道標が跡形もなく取り壊されたが、平成11年に道標の中程の部分が発見されたという。説明札には残念ながらその道標が今どこに保管されているのか記されていない。かって追分茶屋だったという森宅のおばさんに聞いてみたが用を得なかった。

追分 辻大明神碑 土生田 村山市 山形県
追分 辻大明神碑 土生田 村山市 山形県

寶暦5年(1756)7月から毎日雨が降り続き、この地方の田畑は青立となり、秋の収穫期も雨降り続き、10月中頃に雪が降り穀物実らず飢饉のため死ぬ者もあり、木の葉や草を食べた、代官辻六郎左衛門はこの実情を文章で幾度か当時の幕府に訴えて租税の免除を願ったが聞き入られなかった。 最後に自ら江戸に行き上納の分引を請願したが、「農民の幸を考え幕府の損になる役人は不将千万である」として投獄された。その後許されて……

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寶暦5年(1756)7月から毎日雨が降り続き、この地方の田畑は青立となり、秋の収穫期も雨降り続き、10月中頃に雪が降り穀物実らず飢饉のため死ぬ者もあり、木の葉や草を食べた、代官辻六郎左衛門はこの実情を文章で幾度か当時の幕府に訴えて租税の免除を願ったが聞き入られなかった。 最後に自ら江戸に行き上納の分引を請願したが、「農民の幸を考え幕府の損になる役人は不将千万である」として投獄された。その後許されて任地尾花沢に帰り間もなく何者かに殺害された、幕府の殺客に殺されたのだろうか。 平成15年 卯月 土生田史蹟保存会

旧羽州街道はその追分を直進する。街道の左手、ちょうど森宅の裏側に辻大明神を中央にして5基の石碑がある。辻大明神とは農民の見方をして暗殺された代官辻六郎左衛門のことらしい。

羽州街道は県道120号を北上し国道13号と合流して村山市から尾花沢市に入る。

尾花沢

横内集落 五十沢 尾花沢市 山形県
横内集落 五十沢 尾花沢市 山形県

右から県道302号が合流してくる地点から国道東側に旧道が復活しており、北にたどると、五十沢川をわたって横内集落に入る。集落入口に「熊出没注意」の立札があって驚かされた。

奥の細道文学碑 五十沢 尾花沢市 山形県
奥の細道文学碑 五十沢 尾花沢市 山形県

旧道は国道への導入路を逆走して旧道筋の県道120号に合流し、尾花沢市街地に向かっていく。合流地点右側にみちのく風土記の丘資料館があり、前に尾花沢市地域文化振興会による奥の細道文学碑が建てられていた。

村川素英生前墓 朧気1丁目 尾花沢市 山形県
村川素英生前墓 朧気1丁目 尾花沢市 山形県
観音堂 朧気1丁目 尾花沢市 山形県
観音堂 朧気1丁目 尾花沢市 山形県

朧気川から500mほど進んだ右側に空き地(観音堂境内)があって、路傍に村川素英の生前墓があり、その奥に上町観音堂がある。村川素英は本名村川伊左衛門といい、伊勢国の武家の出で、後に清風と交わりを持つようになる。芭蕉が清風を訪ねてきたときも紅花商売で多忙の清風を助けて芭蕉の世話役を引き受けた。晩年になって楯岡にいる実子のもとに身を移す時、尾花沢に自身の墓碑を残すため、上町の観音堂境内に石像観音を造り、その基石に辞世の歌を彫り遺したものである。今は土中に埋もれかけた角柱がそれである。

道向かいにあった常信寺はどこかへ移転していた。

十字路をこえると左逆斜めにでている道との三叉路にでる。左に分岐している道(現西部街道)は羽州街道と最上川舟運の基地、大石田とを結んだ「大石田道」である。

念通寺 上町5丁目 尾花沢市 山形県
念通寺 上町5丁目 尾花沢市 山形県

尾花沢宿は上町(かんまち)、中町、梺町(ふもとまち)の3町が駅役を分担した。梺町は最初「下町」とする予定だったが、陣屋がある所が下町では具合が悪いとなって「下」に「林」を加えて「梺」としたという話が伝わっている。

上町と中町の境をなす十字路を左に入ったところに念通寺がある。念通寺は寛永7(1630)に創建されたお寺で、本堂は元禄10年(1697)鈴木清風の独力寄進によって建立された。芭蕉の来訪より8年後のことであった。山門と鐘楼も鈴木一族三家の共同寄進によって元禄12年に建立されている。

旧尾花沢宿札の辻 中町 尾花沢市 山形県
旧尾花沢宿札の辻 中町 尾花沢市 山形県

羽州街道に県道301号が合流する中町交差点が宿場の中心で、高札場があった。当時は本陣は豪雪地のため維持管理の負担が大きく、世襲ではなく交代された。元文元年(1736)には大雪のため本陣が倒壊し20年間再建されずに、その間の大名行列は大石田経由となったという。

芭蕉像 中町 尾花沢市 山形県
芭蕉像 中町 尾花沢市 山形県

宿場は羽州街道に沿って中町十字路から西に折れて梺町が続いていた。今は角に山形銀行があって、その北に芭蕉清風歴史資料館があり、西隣には清風邸跡がある。

芭蕉清風歴史資料館 中町 尾花沢市 山形県
芭蕉清風歴史資料館 中町 尾花沢市 山形県松尾芭蕉と鈴木清風の出逢い 1689年7月3日、紅花大尽と呼ばれた鈴木清風のもとを訪れました。芭蕉は清風のもとで尾花沢に10泊しますが、その時の感動を芭蕉はこう記しています。 尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通いて、さすがに旅の情を知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。

芭蕉清風歴史資料館は鈴木弥兵衛家住宅を移築したもので、江戸時代末期に建てられた町屋造りの宅邸である。木造2階建て、切妻、平入り、漆喰塗の二階部分には大きな格子虫籠窓を切っている。外観では古さを感じさせないが、展示室になっている内部は町屋の内装がよく保存されている。前庭には芭蕉像が立っている。

代官所跡(尾花沢小学校) 梺町3丁目 尾花沢市 山形県
代官所跡(尾花沢小学校) 梺町3丁目 尾花沢市 山形県

「清風邸跡」の標識を右手に見て街道を西に向かう。三つ目の十字路(直進する細道あり)を右折し、そのまま直進すると代官所(陣屋)跡の小学校につきあたり、途中の路地を左におれると下り坂の上に養泉寺がある。

芭蕉句碑(養泉寺) 梺町2丁目 尾花沢市 山形県
芭蕉句碑(養泉寺) 梺町2丁目 尾花沢市 山形県涼し塚 涼しさを我が宿にしてねまる也 芭蕉 すゞしさを我がやどにしてねまる也 芭蕉 つねのかやりに草の葉を燒 清風 鹿子立つをのへの清水田にかけて 曽良 ゆふづきまるし二の丸の跡 素英

尾花沢は寛永13年(1636)に幕府領となり代官所が置かれた。この尾花沢代官陣屋は日本最北端の幕府代官所だけでなくその重要性から出羽国の幕領を統治する中心として重きをなした。

養泉寺 梺町2丁目 尾花沢市 山形県
養泉寺 梺町2丁目 尾花沢市 山形県

芭蕉と曾良が7泊した天台宗の弘誓山養泉寺は、梺(ふもと)町の古道(旧羽州街道)にあります。養泉寺の建物は、明治28年(1895)の大火時に類焼し、同30年に再建されたもので、昔のおもかげはありません。 養泉寺前の坂道を見下ろすと水田が一面に広がり、北に鳥開山(2236m)、正面に大高根山(543m)・葉山(1461.7m)・月山(1984m)が美しく見え、高台にあるため涼しい風が吹きぬけます。旅情……

説明の全文を読む(約280字)

芭蕉と曾良が7泊した天台宗の弘誓山養泉寺は、梺(ふもと)町の古道(旧羽州街道)にあります。養泉寺の建物は、明治28年(1895)の大火時に類焼し、同30年に再建されたもので、昔のおもかげはありません。 養泉寺前の坂道を見下ろすと水田が一面に広がり、北に鳥開山(2236m)、正面に大高根山(543m)・葉山(1461.7m)・月山(1984m)が美しく見え、高台にあるため涼しい風が吹きぬけます。旅情を慰めるにふさわしい環境でした。(中略)元禄元年(1688)、つまり芭蕉来訪の前年に大修理され、木の香も新しく、旅の疲れをいやすには絶好の場所でした。以下略 養泉寺

養泉寺は慈覚大師の創建と伝えられ、江戸時代まで上野寛永寺の直系寺院として格式を誇った。元禄元年(1688)に旧堂が再建されたが明治28年に消失し、明治30年に現堂が再建された。養泉寺は松尾芭蕉が滞在した寺としても知られ、尾花沢の豪商鈴木清風の依頼を受けて尾花沢滞在10泊のうち7夜を受け持った。境内には宝暦12年(1762)に建立された涼し塚や昭和63年建立の「芭蕉、清風」連句碑などがある。

養泉寺前の旧羽州街道 梺町2丁目 尾花沢市 山形県
養泉寺前の旧羽州街道 梺町2丁目 尾花沢市 山形県
養泉寺下の水田風景 梺町2丁目 尾花沢市 山形県
養泉寺下の水田風景 梺町2丁目 尾花沢市 山形県

養泉寺の前を下って水田地帯に出るのが羽州街道の旧道である。目の前に広がる水田と遠く月山、鳥海山を望める風景はすばらしい。

旧羽州街道 尾花沢 尾花沢市 山形県
旧羽州街道 尾花沢 尾花沢市 山形県国道347号に遮断され、その先丹生川前で途絶
丹生川 尾花沢/萩袋 尾花沢市 山形県
丹生川 尾花沢/萩袋 尾花沢市 山形県

旧道は県道120号を斜めに横切ったところで国道347号に分断されている。そのまま国道を横切って延長上につづく農道をたどるとそのまま丹生川堤防につきあたった。昔はここに渡しがあったという。県道120号で丹生川橋を渡る。

旧羽州街道 野黒沢 尾花沢市 山形県
旧羽州街道 野黒沢 尾花沢市 山形県見返り 右手は県道120号、野尻川橋

一直線にのびる県道120号を北に進む。萩袋集落を通り抜け、野黒沢の野尻川橋手前右手に地蔵堂と3基の庚申塔が立っており、それを巻くように旧道が川に下りている。

対岸にもその延長古道が短く残っていた。

国道13号を越えてJR芦沢踏切を横断する手前左手に自然石の庚申塔が立っている。

大石田街道との追分 芦沢 尾花沢市 山形県
大石田街道との追分 芦沢 尾花沢市 山形県是大石田道 左 羽州街道 右 大石田街道(県道305号)

踏切から600mほど行ったところで大石田道(県道305号)と合流する。追分に石道標が立っていて正面に「是大石田道」と刻まれているのが読み取れた。

名木沢

種林寺 芦沢 尾花沢市 山形県
種林寺 芦沢 尾花沢市 山形県

追分のすぐ右手に種林寺がある。白鳥義守公が開基し、寛延2年(1749)に再建された。街道沿いに花で飾られた文化8年(1811)の三界万霊塔がある。赤いトタン屋根に覆われた本堂は無人のようだ。本堂前に「学校教育発祥の地 芦沢小学校跡」の石碑があった。

芦沢折部邸宅跡地 芦沢 尾花沢市 山形県
芦沢折部邸宅跡地 芦沢 尾花沢市 山形県毛倉館主芦沢折部天正時代最上義光の配下として勇名を馳せる。最上家没落後はこの地に移り農業を営み約90年の間此の地方を支配する。 明和5年その系統途絶する。

集落の中央あたり十字路角に「芦沢折部邸宅跡地」と書かれた標柱が立っている。芦沢楯(毛倉楯)の城館跡であろう。明和5年(1768年)その系統は途絶した。

芦沢稲荷神社 芦沢 尾花沢市 山形県
芦沢稲荷神社 芦沢 尾花沢市 山形県

稲荷神社は正一位稲荷大明神を祭神として、京都より分祀する勧請者は地元の有力者、大類久兵衛、菊地与四郎、星川久次郎の三氏の仲立人として、名木沢支配、国分織部氏の協力に依り、明和5年10月(1768年)に創建される。今から約233年前に芦沢集落の鎮守様として信仰を集め現在に至る。(中略) 追記 当社は、羽州街遠の道筋にあたり、元禄2年(1689年)陽暦7月15日、俳聖松尾芭蕉の御一行が通過しています。……

説明の全文を読む(約230字)

稲荷神社は正一位稲荷大明神を祭神として、京都より分祀する勧請者は地元の有力者、大類久兵衛、菊地与四郎、星川久次郎の三氏の仲立人として、名木沢支配、国分織部氏の協力に依り、明和5年10月(1768年)に創建される。今から約233年前に芦沢集落の鎮守様として信仰を集め現在に至る。(中略) 追記 当社は、羽州街遠の道筋にあたり、元禄2年(1689年)陽暦7月15日、俳聖松尾芭蕉の御一行が通過しています。 平成13年(2001年)4月吉日 福原ふるさと歴史保存会

芦沢集落を出て坂を下った左手に大きな沼があらわれ、その北端に小さな赤い鳥居が見えた。県道からはずれて鳥居をめざす。芦沢集落の鎮守として明和5年10月(1768年)に創建された稲荷神社である。建立には名木沢を支配していた国分織部氏がかかわっている。明和5年とは奇しく芦沢折部氏が途絶えた年である。

太海(おおみ) 芦沢 尾花沢市 山形県
太海(おおみ) 芦沢 尾花沢市 山形県左手: 最上川が180°蛇行 氾濫原

坂を下りきった左手には林がとぎれて水田が広がっている。この場所の西方では芦沢から舟形にかけて最上川が二度にわたって円弧をえがくような猛烈な蛇行を見せる場所で、その両岸は恒常的に氾濫を繰り返す氾濫原で、太海(おおみ)と呼ばれた低湿地帯であった。

明治天皇御小休所 名木沢 尾花沢市 山形県
明治天皇御小休所 名木沢 尾花沢市 山形県

ここは、明治14年(1881)9月28日、明治天皇(1852~1912)が山形県・秋田県・北海道御巡幸の際、御駐車して御小憩した御仮屋跡です。ここから、前面に雲間遥かに高くそぴえたつ月山・葉山、下には滔々たる日本三急流最上川の清流や耕地が眺められるすばらしい所です。ここで明治天皇が御小憩なされ、川前村の漁夫井苅徳治郎氏ら30名の鮎捕り網打ちをご覧になられた。また、天皇は日の丸の旗をひるがえして最上……

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ここは、明治14年(1881)9月28日、明治天皇(1852~1912)が山形県・秋田県・北海道御巡幸の際、御駐車して御小憩した御仮屋跡です。ここから、前面に雲間遥かに高くそぴえたつ月山・葉山、下には滔々たる日本三急流最上川の清流や耕地が眺められるすばらしい所です。ここで明治天皇が御小憩なされ、川前村の漁夫井苅徳治郎氏ら30名の鮎捕り網打ちをご覧になられた。また、天皇は日の丸の旗をひるがえして最上川をさかのぼる数艘の帆前船もご覧になられ、ことのほかお喜ぴのご様子でこ賞賛なさった。漁夫らは感泣し、捕獲した魚の献上を願い出て、御裁許なされご受納下さった。 昭和20年(1945)9月28日、明治天皇のご聖徳を偲んで、福原村(村長戸津勘吉)が「明治天皇御小休所」の記念碑をたてました。 平成22年10月吉日 福原ふるきと歴史保存会

明治天皇行在所 名木沢 尾花沢市 山形県
明治天皇行在所 名木沢 尾花沢市 山形県の坂のその上にいとも尊き名所あり 明治の御代の大帝憩はせ給ふ行在所 福原ふるさと歴史保存会

低地から街道は再び段丘上に上がり、地名も上ノ原という集落に入る。集落手前、左手の林の中に 明治天皇行在所碑があった。街道沿いには白塗りに「大海の坂のその上にいとも尊き名所あり 明治の御代の大帝憩はせ給ふ行在所」と書かれた標柱があるだけで、その脇にかすかに認められる獣道を100mほど入り込んでいかねばならない。ここに御仮屋が設営された。今は樹林で展望はできないが当時は真下を雄大に蛇行する最上川が眺められた景勝地だったのだろう。天皇を迎えて川では通常使わない帆前船を浮かべ、また鮎捕り網打ちなどのパフォーマンスが行われた。

この場所は羽州街道が通っていたところでもあり、その古道は後ほど見る織部坂に通じていた。行在所跡碑から200mほど進んだ上ノ原集落の中央左手にその説明板だけが設けてある。

織部館跡 名木沢 尾花沢市 山形県
織部館跡 名木沢 尾花沢市 山形県昔のさまはなけれども名残りゆかしき織部坂 此の坂降りれば名木沢へ駅次に宿場xxx
羽州街道古道 名木沢 尾花沢市 山形県
羽州街道古道 名木沢 尾花沢市 山形県

集落をぬけるとラブホテルを横目に見て坂を下り国道13号に合流する。左に折れて名木沢川に向かって下っていく。橋の手前に左に出ている細道を入ったところに「織部館跡」の標識が立っていた。芦沢稲荷の説明板に書かれていた名木沢の支配者織部氏の館跡である。林の中に延びている古道は、明治天皇行在所に通じている旧羽州街道の跡である。名木沢川にいたる下り路を織部坂と呼んでいた。

織部家墓 名木沢 尾花沢市 山形県
織部家墓 名木沢 尾花沢市 山形県

古道を入り込んでいくと左手に織部家の墓所が設けられていた。その先の古道はシダに覆われ藪化しているが、木立の中には道筋をおもわせる空間が見通せた。

旧名木沢宿街並 名木沢 尾花沢市 山形県
旧名木沢宿街並 名木沢 尾花沢市 山形県

国道に戻り名木沢橋をわたり、名木沢宿に入っていく。国道に沿って宿場はあったが、建物は新しくそこに昔の面影はない。

石碑群 長泉寺 名木沢 尾花沢市 山形県
石碑群 長泉寺 名木沢 尾花沢市 山形県

左の路地を入ったところに長泉寺がある。入り口に文政9年(1826)の百万遍供養塔や嘉永7年(1854)の庚申塔、文化3年(1806)の三界万霊他など古い石塔が並んでいる。国道からはずれたこの通りが旧道かと思ったが、やはり旧羽州街道は国道そのものだった。

本陣織部宅 名木沢 尾花沢市 山形県
本陣織部宅 名木沢 尾花沢市 山形県

右手に佐竹氏が定宿とした名木沢宿本陣織部氏の住宅がある。今はモダンな一軒家で、わずかにつるべ井戸が昔を偲ぶ便となっている。内から主人がでてこられ、いろいろ話を聞くことができた。織部氏は親方様と呼ばれ、名木沢宿の本陣、問屋、名主、番所など名木沢のすべての要職を一手に引き受けていた。屋敷の一角は関所で、山形藩最北の番所として重要視された。現在の本宅を中心にしてまわりには数十の蔵があったのだが、農地改革ですべて使用人の物になったと苦笑いされた。織部坂・織部館跡の場所はここで教えてもらって引き返したものである。

旧脇本陣矢作(やはぎ)氏宅 名木沢 尾花沢市 山形県
旧脇本陣矢作(やはぎ)氏宅 名木沢 尾花沢市 山形県

国道をすこし進んで左斜めにはいっていくと長泉寺からの道と合流する。すぐ左手の家が脇本陣矢作藤兵衛家である。新庄藩主戸沢氏の休泊に利用された。

一本杉 名木沢 尾花沢市 山形県
一本杉 名木沢 尾花沢市 山形県

今からおよそ1500年前、第15代応神天皇第二王子、大山守の命が王位継承に関し謀反を起こし追われる身となり、北へ向かって逃れてきたが、新庄の関屋で追討使に捕われ処刑されることになった。大山守の命は覚悟なされ「我が身を七刀に切って都に似た土地に葬ってくれ」と遺言を残した。ところが、追討使が誤って王子の身を八つに切ってしまった。七つの身はそれぞれ新庄近在に七所明神として七ケ所に祀られているが、残りの一……

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今からおよそ1500年前、第15代応神天皇第二王子、大山守の命が王位継承に関し謀反を起こし追われる身となり、北へ向かって逃れてきたが、新庄の関屋で追討使に捕われ処刑されることになった。大山守の命は覚悟なされ「我が身を七刀に切って都に似た土地に葬ってくれ」と遺言を残した。ところが、追討使が誤って王子の身を八つに切ってしまった。七つの身はそれぞれ新庄近在に七所明神として七ケ所に祀られているが、残りの一片を最上川をさかのぼり国越えをしてここ、六角檀に投げ捨てられたとされている。そして、一本の杉を植えて追討使は立ち去ったと伝えられている。 つまり、この一本杉が名木沢七所神社の元宮である。そんなところから当地を投げ沢と呼んでいたと云う。一本杉はその名の如く幹は途中から七本の技が栄え大きくそびえ立ち戒厳を誇っている。また、この杉は神代杉とも云われ、神の木として崇められ枝一本でも切れば罰があたると言い伝えられている。 平成10年4月吉日 福原ふるさと歴史保存会

集落の北はずれ左手に「一本杉」が立っている。第15代応神天皇の第二王子大山守の命にまつわる伝承が説明されている。杉は途中から七本の枝に分かれてそびえ立つ大木である。

旧羽州街道(明治新道) 毒沢 尾花沢市 山形県
旧羽州街道(明治新道) 毒沢 尾花沢市 山形県

国道から県道187号が分岐する毒沢交差点で、国道を離れて右に出ている細道に入る。これが明治天皇行幸に備えて造られた明治新道(旧国道)である。入り口に腐りかけた木の標識が残っていた。一面には「至猿羽根地蔵尊2.3km」、他面には「至舟形町 至尾花沢市」と記されている。

旧羽州街道(明治新道) 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧羽州街道(明治新道) 舟形 舟形町 最上郡 山形県

すぐの二股を右にとって国道13号バイパスをくぐったところで左に折れて山道に入っていく。かっては整っていた舗装も荒れて草深い道になっていた。崩落箇所が発生したのか通行禁止の立札が倒れていた。

約2kmほどの山道を上がっていくと猿羽根峠下の駐車場に出た。そこからは土道をたどって旧峠に登る。

舟形

旧羽州街道猿羽根峠 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧羽州街道猿羽根峠 舟形 舟形町 最上郡 山形県

猿羽根峠は最上郡と村山郡を分ける峠である。江戸時代の国道である羽州街道は、峠の山頂を経て南北に通じていた。元禄2年(1689)奥の細道をたすねた俳人松尾芭蕉は、この道をたどって新庄に向かった。 芭蕉が猿羽根峠を越したのは、この年の旧暦の6月1日(7月17日)署い日差しの中であった。芭蕉の随行した曽良の旅日記によれば、この日の朝8時頃、二人は馬で大石田を出立し、猿羽根峠を越して舟形に至ったとある。大……

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猿羽根峠は最上郡と村山郡を分ける峠である。江戸時代の国道である羽州街道は、峠の山頂を経て南北に通じていた。元禄2年(1689)奥の細道をたすねた俳人松尾芭蕉は、この道をたどって新庄に向かった。 芭蕉が猿羽根峠を越したのは、この年の旧暦の6月1日(7月17日)署い日差しの中であった。芭蕉の随行した曽良の旅日記によれば、この日の朝8時頃、二人は馬で大石田を出立し、猿羽根峠を越して舟形に至ったとある。大石田の俳人高野一栄・高桑川水が、阿弥陀堂まで見送ってくれた。舟形方らは歩いて新庄に入り、ここで二泊して、土地の俳人たちと歌仙をまいた。6月3日芭蕉主従は新庄を出立、最上川を下って羽黒山にむかった。 当時の猿羽根峠は大木の茂る険しい山道であったに違いない。 芭蕉はこうした旅の苦しみの中で独自の俳風を確立していった。 舟形町教育委員会

猿羽根山地蔵堂 舟形 舟形町 最上郡 山形県
猿羽根山地蔵堂 舟形 舟形町 最上郡 山形県

旧峠は休憩所やなぜか土俵もあって、史跡公園として整備されており、一帯には斎藤茂吉文学碑、芭蕉句碑、「(従是北)新荘領」と刻まれた領界碑猿羽根地蔵堂一里塚などがそろっている。地面は概して平らで峠としての頂上感がない。しいていえば領界石碑のそばに立つ「奥の細道猿羽根峠」の標識のある場所が街道の最高地点だろうか。猿羽根峠は最上郡(新庄藩)と村山郡(尾花沢天領)を分ける峠であった。領界石の奥のほうまで進んでいくと下り坂になった古道の一部が残っている。

芭蕉句碑 舟形 舟形町 最上郡 山形県
芭蕉句碑 舟形 舟形町 最上郡 山形県

風の香も南に近し最上川 この句は「曾良俳諧書留」に「盛信亭」と前書きした新庄の渋谷九郎兵衛宅での三つ物の発句である。 碑銘は天理図書館蔵綿屋文庫「曾良旅日記」の影印本より拡大摸刻したものである。元禄2年(1689)6月1日(陽暦7月17日)「おくのほそ道」紀行途上芭蕉と曾良は大石田を馬で出立し、名木沢から猿羽根峠を越えて舟形に出て、新庄の渋谷甚兵衛(俳号風流)宅に2泊した。6月2日風流の兄で本家の……

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風の香も南に近し最上川 この句は「曾良俳諧書留」に「盛信亭」と前書きした新庄の渋谷九郎兵衛宅での三つ物の発句である。 碑銘は天理図書館蔵綿屋文庫「曾良旅日記」の影印本より拡大摸刻したものである。元禄2年(1689)6月1日(陽暦7月17日)「おくのほそ道」紀行途上芭蕉と曾良は大石田を馬で出立し、名木沢から猿羽根峠を越えて舟形に出て、新庄の渋谷甚兵衛(俳号風流)宅に2泊した。6月2日風流の兄で本家の渋谷九郎兵衛(俳号盛信)に招かれた。芭蕉は前日眺めた猿羽根峠の眼下を流れる最上川から着想したと思われる発句「風の香も南に近し最上川」を詠み主人のもてなしへの挨拶とした。暑いさかりなのに南を流れる最上川から猿羽根峠を越吹き渡ってくる香りのある風の涼しさが身にしみて感じられるとの意。(以下略) 平成21年7月17日 舟形町芭蕉句碑建立実行委員会

猿羽根峠より眺望 舟形 舟形町 最上郡 山形県
猿羽根峠より眺望 舟形 舟形町 最上郡 山形県

元禄2年(1689)6月1日(陽暦7月17日)芭蕉と曽良は大石田からこの峠をこえて新庄の渋谷風流宅を訪ねている。句碑に刻まれた「風の香も南に近し最上川」の一句はこの峠から望んだ最上川の風景だったと考えられている。今見える風景には山が視界を狭めていてわずかに水面の光が見えるのみであった。

猿羽根峠一里塚 舟形 舟形町 最上郡 山形県
猿羽根峠一里塚 舟形 舟形町 最上郡 山形県

東北の重要幹線道路は、奥州街道と羽州街道である。奥州街道を本街とするのに対して一方は、脇街道とよばれている。羽州街道は、福島桑折から上山、山形、新庄、秋田、弘前を経て青森に至る街道で参勤交替路である。宿駅制度を備えた街道として整備されたのは、慶長9年(1604)幕府が街道に一里塚を築くよう命じてからである。街道の開削整備については、羽州の大名の筆頭である秋田藩主佐竹氏が積極的になされた。その箇所を……

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東北の重要幹線道路は、奥州街道と羽州街道である。奥州街道を本街とするのに対して一方は、脇街道とよばれている。羽州街道は、福島桑折から上山、山形、新庄、秋田、弘前を経て青森に至る街道で参勤交替路である。宿駅制度を備えた街道として整備されたのは、慶長9年(1604)幕府が街道に一里塚を築くよう命じてからである。街道の開削整備については、羽州の大名の筆頭である秋田藩主佐竹氏が積極的になされた。その箇所をのちに「佐竹道」とよばれとくに知られている。当町に現存する一里塚は、以前郷土研究会大沢氏らによって新庄市鳥越にある一里塚より間縄をもって計測され、紫山地内の一里塚と共に当地が判明したものである。 撰文 溝口仁 舟形町教育委員会

猿羽根一里塚は峠から舟形方面に下りる所にある。この一里塚の位置は郷土研究会のメンバーによって新庄市鳥越一里塚から間縄をもって計測され、紫山地内の一里塚と共に判明したものだという。実証的手法に拍手を送りたい。

下り坂の左手に舟形町歴史民俗資料館がある。ここに舟形街道筋で発見された八頭身美人土偶のレプリカが保管されているという。付近に「うるおいの森 遊歩道」として羽州街道古道の一部が保存されている。

明治天皇御召換所跡 舟形 舟形町 最上郡 山形県
明治天皇御召換所跡 舟形 舟形町 最上郡 山形県

下り坂の途中右手に「明治天皇御召換所跡」の石碑が立っている。「御召換所跡」の碑は珍しく甲州街道大月宿でみかけたことがあったが、その時は本陣を意味していた。ここは小休するための仮屋でも設けられたのか。

旧羽州街道 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧羽州街道 舟形 舟形町 最上郡 山形県右手山形新幹線によって分断

明治新道は現羽州街道である国道13号の猿羽根トンネル出口に合流した。旧道の入り口(出口)に猿羽根神社の石の鳥居が建っている。旧道は国道を横切ってさらに下っている。 左の山際に乾いた「舟形の清水」があった。羽州街道の旧道は新幹線の線路で分断されていたが、線路の反対側で国道から分岐する形で復活している。

国道に引き換えし、その復活した旧道に入る。

舟形 舟形町 最上郡 山形県
舟形 舟形町 最上郡 山形県

すぐ左手に「寛喜元年創設猿羽根地蔵山地蔵尊御本尊 普賢院」の札を掲げた合祀殿がある。峠にあった地蔵尊とどんな関係にあるのか知らない。堂内は空のようであった。

道向かいの山の中腹には神社がある。

旧羽州街道・本陣跡 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧羽州街道・本陣跡 舟形 舟形町 最上郡 山形県

街道は舟形宿に入る。新庄藩と尾花沢幕府領とが接する猿羽根峠の麓にある舟形宿には新庄藩の番所が置かれて通行が厳しく監視されていた。右手に「本陣商店」とある家が舟形宿本陣だった伊藤家である。文政以降は、年代によって宿役人が異なっていた。尾花沢と同じ事情によるものか。

羽州街道合流点 舟形 舟形町 最上郡 山形県
羽州街道合流点 舟形 舟形町 最上郡 山形県

宿場の中央あたりに舟形駅前通りとの交差点がある。ここで右から中山越え出羽街道が合流している。他方、最上川に向かう舟形街道がここから西に分岐していた。

旧舟形宿街並 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧舟形宿街並 舟形 舟形町 最上郡 山形県

羽州街道はそのまま直進して県道56号を横切ったところで小国川に突き当たる。旧道はここから小国川の渡しを経て新庄へ向かっていた。橋がなかったため大雨で川止めとなるたびに舟形宿は賑わったという。

旧羽州街道(小国川渡し場跡付近) 舟形 舟形町 最上郡 山形県
旧羽州街道(小国川渡し場跡付近) 舟形 舟形町 最上郡 山形県

一旦国道13号に合流して舟形橋をわたると右手に旧道の跡らしき道が残っている。川辺まで降りていくと渡し場跡らしい雰囲気が感じられ、対岸の舟形側にもそれらしき場所を偲ぶことができた。

ケヤキ坂 舟形 舟形町 最上郡 山形県
ケヤキ坂 舟形 舟形町 最上郡 山形県

羽州街道は国道から左斜めへ分岐して欅坂へと進む。このあたりは新庄藩が小国川渡しの休み所として4戸の家を移し四ツ屋ともよばれていた。欅坂から柴山、そして鳥越にかけては並木が続いていたという。今もそのなごりの欅並木が峠の両側を挟んで残っている。

一里塚 舟形 舟形町 最上郡 山形県
一里塚 舟形 舟形町 最上郡 山形県

史跡 一 里 塚 街道の発達は、東北では本街道の奥州街道、それに脇街道とよばれる羽州街道がある。この脇街道は日本海側を走る主要な街道である。往時羽州大名の筆頭である佐竹氏始め諸藩大名の道であった。然し宿駅制度を備えた街道として整備されたのは、慶長9年(1604)江戸幕府が諸道に五間四方の一里塚を築くよう命じてからである。以前郷土研究会大沢氏らによって新庄市鳥越にある一里塚より計測し、二基の塚を一里……

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史跡 一 里 塚 街道の発達は、東北では本街道の奥州街道、それに脇街道とよばれる羽州街道がある。この脇街道は日本海側を走る主要な街道である。往時羽州大名の筆頭である佐竹氏始め諸藩大名の道であった。然し宿駅制度を備えた街道として整備されたのは、慶長9年(1604)江戸幕府が諸道に五間四方の一里塚を築くよう命じてからである。以前郷土研究会大沢氏らによって新庄市鳥越にある一里塚より計測し、二基の塚を一里塚と断定した。惜しいことに国道工事により一基は既にない。 撰文 溝□ 仁 舟形町教育委員会

羽州街道踏切でJR陸羽東線を横断、その先柴山で国道13号に合流する。左手に陸羽東線と山形新幹線が接近してきて国道と並走する。まもなく陸羽東線の線路との間に紫山一里塚跡があった。猿羽根一里塚と同様、ここも鳥越一里塚から実測した結果、塚跡と判定したものである。

一里塚からおよそ200m国道を進んで最上郡舟形町から新庄市鳥越に入る。

新庄

旧羽州街道 鳥越 新庄市 山形県
旧羽州街道 鳥越 新庄市 山形県

街道は国道を北上、南新庄駅を通り過ぎ左に大きくカーブするところで、旧道は国道を左に分けてまっすぐ北に進む。一本道が家並みをつらぬき、やがて左手如法寺の100mほど先の社標が建つ丁字路を右に入り山に向かって進んでいくと夫婦杉に代表されるうっそうとした杉木立に囲まれて鳥越八幡神社がある。

鳥越八幡神社 鳥越 新庄市 山形県
鳥越八幡神社 鳥越 新庄市 山形県

国指定重要文化財(昭和61年12月20日指定) 鳥越八幡神社本殿・拝殿 鳥越八幡」の名で親しまれているこの神社は、寛永15年(1638)、初代新庄藩主戸沢政盛の養子定盛が鷹狩りに出た折に神威を感じ、城下を一望できる現地に遷して社殿を造営し、城下の鎮めにしたといわれている、この地方では最も古い建物のひとつです。ここ鳥越の地は、清水大蔵大輔の家臣鳥越九右工門の居城があったところで、その大手口の場所に現……

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国指定重要文化財(昭和61年12月20日指定) 鳥越八幡神社本殿・拝殿 鳥越八幡」の名で親しまれているこの神社は、寛永15年(1638)、初代新庄藩主戸沢政盛の養子定盛が鷹狩りに出た折に神威を感じ、城下を一望できる現地に遷して社殿を造営し、城下の鎮めにしたといわれている、この地方では最も古い建物のひとつです。ここ鳥越の地は、清水大蔵大輔の家臣鳥越九右工門の居城があったところで、その大手口の場所に現在の社殿が建てられています。 本殿は、一間社の流れ造りで、両脇の板壁に力士や鬼面の彫刻を配し、丹と黒漆によって彩色され、各所を華麗な彫刻で飾っています。 拝殿は元禄4年(1691)、ニ代藩主正誠による造営で、桁行三間、梁間二間の入母屋造りです。 本殿と合わせた全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められ、江戸時代初期における新庄藩の建築技術の高さをうかがうことのできる貴重な建造物です。以下略 平20年6月1日設置 新庄市教育委員会

ここは中世、鳥越九右工門の楯があったところで、その大手口にあたる場所に、寛永15年(1638)新庄藩初代藩主戸沢政盛が社殿を建てた。本殿は一間社流造りで華麗な彫刻を施し、拝殿は梁行2間、桁行3間の入母屋造り、銅板葺きで本殿とは異なり素木造りである。拝殿は元禄4年(1691)になって二代目政誠によって造営された。鳥越八幡神社は最上地方の最古の建物の1つで昭和61年に国重要文化財に指定されている。

鳥越一里塚 鳥越 新庄市 山形県
鳥越一里塚 鳥越 新庄市 山形県

市指定史跡 鳥越の一里塚 昭和38年8月26日指定 江戸幕府は五街道を中心に宿駅を定め、一里塚を築いて、交通制度を整えました。一里塚は全国の主要街道に、江戸日本橋を基点として一里(4km)ごとに塚を築き目印としたものです。塚の上にはエノキ、マツなとが植えられました。この一里塚は昔の羽州街道に設けられたものですが、南側の 塚はすでに失われています。この塚には、ブナが植えられています。舟形町紫山からこ……

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市指定史跡 鳥越の一里塚 昭和38年8月26日指定 江戸幕府は五街道を中心に宿駅を定め、一里塚を築いて、交通制度を整えました。一里塚は全国の主要街道に、江戸日本橋を基点として一里(4km)ごとに塚を築き目印としたものです。塚の上にはエノキ、マツなとが植えられました。この一里塚は昔の羽州街道に設けられたものですが、南側の 塚はすでに失われています。この塚には、ブナが植えられています。舟形町紫山からここまで一里、ここから新庄城下を通り過きた上茶屋町まで一里とされ、それぞれに一里塚があったそうですが、昔の面影を残すのはここだけです。 平成6年12月15日設置 新庄市教育委員会

新田川を渡り国道13号を斜めに横切ると右手鳥越一里塚のブナがそびえている。その根元に一里塚碑と「新庄城下南入口」の標柱がある。新庄城下ではここと上茶屋町に一里塚が設けられた。この一里塚から測って柴山、猿羽根の両一里塚が判明した。

一里塚からすぐの路地を右に入ると左手に「奥の細道 氷室の句碑と柳の清水」の標識が立っている。大きな柳の木があって清水と芭蕉の句碑があった。

氷室の清水跡 金沢 新庄市 山形県
氷室の清水跡 金沢 新庄市 山形県

芭蕉翁ゆかゆの氷室の清水跡 芭蕉が江戸深川の草庵を出て、曾良を伴い「奥の細道」の旅についたのは、元禄2年3月27日(5月16日であった。白川の関を越して松島、平泉と名所旧蹟を訪れて、鳴子の近く尿前の関所を通り堺田の封人の家に宿りを求めて二泊し、山刀伐峠を越え尾花沢、大石田と泊りを重ねた。それから舟形まで馬で送られ、あとは徒歩で羽州街道を北進し、鳥越一里塚を過ぎて右に折れ、左に曲がる角に地蔵堂が建っ……

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芭蕉翁ゆかゆの氷室の清水跡 芭蕉が江戸深川の草庵を出て、曾良を伴い「奥の細道」の旅についたのは、元禄2年3月27日(5月16日であった。白川の関を越して松島、平泉と名所旧蹟を訪れて、鳴子の近く尿前の関所を通り堺田の封人の家に宿りを求めて二泊し、山刀伐峠を越え尾花沢、大石田と泊りを重ねた。それから舟形まで馬で送られ、あとは徒歩で羽州街道を北進し、鳥越一里塚を過ぎて右に折れ、左に曲がる角に地蔵堂が建っている。 近くに柳の大木が茂って蔭を作り、側にはこんこんと清水か湧き出ている。 処の人たちは「柳の清水」と呼んでいた。 この日は6月1日(7月17日)の昼ごろてあった。訪ねる風流亭(渋谷甚兵衛宅)は間近と聞いていてもこの涼しげな柳と清冽な清水を見て、芭蕉と曽良も小憩をとって一掬咽喉をうるおし、汗も沈めたことてあろう。 「 水の奥氷室尋ぬる柳かな 」 これか風流亭での芭蕉の挨拶の句てあった。氷室は甚兵衛を指している。二人は風流亭に二泊して、6月3日最上川の河港本合海から乗船し、庄内に下られたのである。 新庄市

水の奥 氷室尋ぬる 柳かな

元禄2年(1689)陽暦7月17日の暑いさなか、芭蕉は新庄の富豪渋谷風流邸(渋谷甚兵衛邸)を訪ねていった。そこで開かれた句会での挨拶句である。城下に入るにあたってここで一息つき、この清水で喉を潤し汗をぬぐったことであろう。

旧街道はこの先線路で分断され、県道310号の地下道をくぐって反対側に出る。その先は旧道との変則十字路と県道34号との三叉路が重なって複雑な道筋になっているが、結局県道34号に乗って上金沢町に入っていく。

佐藤宅「奥の細道風流亭跡」付近 上金沢町 新庄市 山形県
佐藤宅「奥の細道風流亭跡」付近 上金沢町 新庄市 山形県

芭蕉が旅装を解いた豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の場所と言われているが、他方で上金沢町5-33の佐藤義国氏宅だったとする説もある。佐藤宅地には「奥の細道風流亭跡」の標識があるとのことだったが、該当番地の家(ヘアメイクcecilの向かい)には標識らしきものは見かけなかった。

下金沢町に旧町名標識がある。それによれば「金沢町(現下金沢町)は新庄城下町の南入り口の町で、多くの寺や神社がおかれ、裏町には足軽組が配置されていた。本通りには酒屋、茶屋などが並んでいた。」

かまど地蔵(接引寺) 下金沢 新庄市 山形県
かまど地蔵(接引寺) 下金沢 新庄市 山形県
民家 下金沢町 新庄市 山形県
民家 下金沢町 新庄市 山形県

升形川の手前左手に渋谷家菩提寺接引寺があり、入り口にかまど地蔵がある。この地蔵は宝暦5年(1755)の大飢饉の餓死者を供養するため造立された。飢えないようにぼた餅を食べさせられるためいつも口元が汚れているという。確認のため覗き込むと確かに墨で塗ったように口周りが黒かった。となりの六地蔵もおこぼれにあずかって全員口の周りを黒く汚しているのがおかしい。

接引寺の道向かいに茅葺の民家が残っている。板塀も古びていて風情のある佇まいを見せている。

大門跡 大町 新庄市 山形県
大門跡 大町 新庄市 山形県旧落合町(現大町): 中の川と清水川の合流地点であったので落合町という。酒屋・漆屋が多かった。東端れ、中の川橋のたもとに大門があった。 平成5年4月 新庄市・新庄商工会議所 右手端に蔵王堂

川をわたると鉄砲町。鉄砲町から中ノ橋をわたる手前右手に蔵王堂がある。川をこえたところ、大門町には城下南口の大門があった。

県道32号と交わる落合町角を右に折れると大町通りである。雪国らしく雁木付の商店街が続く。城下随一の繁華街で、蔵店が並んでいた通りも往時を偲ばせる店はみあたらない。

旧新庄宿街並み 本町 新庄市 山形県
旧新庄宿街並み 本町 新庄市 山形県旧南本町: 南本町はもと五日町といい、羽州街道に沿ってつくられた町人町で、城下で最も賑やかな町であった。ここには参勤交代で江戸に登る大名が泊まる本陣、反物・仏像・筆・墨などを商う豪商が軒を連ねていた。 平成5年4月 新庄市・新庄商工会議所

街道は駅前通りとの交差点を渡って、新庄城大手口となる大町十字路を境に南本町と北本町に分かれる。この両町が宿場の中心地で、本陣、問屋は南北両町にあった。南本陣は伊東弥左衛門家、北本陣は中島宗内家が勤めた。

芭蕉遺蹟風流亭跡 本町 新庄市 山形県
芭蕉遺蹟風流亭跡 本町 新庄市 山形県

芭蕉が2泊した豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の敷地付近にあったとされ、店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が立っている。

芭蕉遺蹟盛信亭跡 本町 新庄市 山形県
芭蕉遺蹟盛信亭跡 本町 新庄市 山形県

風流の兄渋谷盛信宅は風流宅の斜向いの駐車場敷地にあった。歩道上に「芭蕉遺蹟盛信亭跡」の標柱が立つ。渋谷本家九郎兵衛盛信は問屋業を営む城下一の豪商だった。

町奉行所跡・明治天皇行在所跡 大手町 新庄市 山形県
町奉行所跡・明治天皇行在所跡 大手町 新庄市 山形県

大手口を左折すると鈎型の道沿いに市民プラザがある。町奉行所跡・明治天皇行在所跡・藩校明倫堂跡など城下行政の中心地をなしていた。

芭蕉句碑「風の香も」 市民プラザ 大手町 新庄市 山形県
芭蕉句碑「風の香も」 市民プラザ 大手町 新庄市 山形県

元禄2年(1689)、門人曾良とともに「おくのほそ道」をたどった俳人松尾芭蕉は、6月1日(陽暦7月17日)大石田から新庄城下に入った。彼らを新庄に招いたのは、城下の有力町人渋谷甚兵衛(俳号風流)である。 に入った芭蕉は、そこで 「水の奥氷室尋る柳かな」 のあいさつの句を詠んだ。( 。)翌日、二人は、甚兵衛の兄 に招かれ、地元の俳人たちとともに句会を催した。盛信は南本町に店を構える城下きっての豪商で……

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元禄2年(1689)、門人曾良とともに「おくのほそ道」をたどった俳人松尾芭蕉は、6月1日(陽暦7月17日)大石田から新庄城下に入った。彼らを新庄に招いたのは、城下の有力町人渋谷甚兵衛(俳号風流)である。 に入った芭蕉は、そこで 「水の奥氷室尋る柳かな」 のあいさつの句を詠んだ。( 。)翌日、二人は、甚兵衛の兄 に招かれ、地元の俳人たちとともに句会を催した。盛信は南本町に店を構える城下きっての豪商であった。そこで詠まれたあいさつの句(三つ物)がこれである。 風の香も南に近し最上川 翁 小家の軒を洗ふ夕立 (息)柳風 物もなく麓は霧に埋て 木端 このあと、一座は、「御尋に我宿せばし破れ蚊や」の風流の句を発句に、歌仙一巻を巻いた。風流亭に二泊した芭蕉と曾良は、六月三日、本合海河岸から舟で最上川を下り、羽黒山に向かった。この碑は、平成元年、新庄市が「おくのほそ道」紀行300年を記念して、盛信亭に近いこの地に建てたものである。揮毫は渋谷盛信のご子孫で、俳人の渋谷道氏によるものである。

プラザには芭蕉句碑もある。

風の香も南に近し最上川

この句は盛信亭に招かれた時の挨拶吟である。

猿羽根峠にも同句の碑があって、解説では峠からの眺めたときの印象を詠んだものだろうと言っていた。

新庄城址 堀端町 新庄市 山形県
新庄城址 堀端町 新庄市 山形県
新庄城址 堀端町 新庄市 山形県
新庄城址 堀端町 新庄市 山形県

新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。新庄藩は最上郡一円と村山郡の一部、6万石(後に6万8200石)を領した。 藩主戸沢氏は元和8年(1622)から明治初年まで、11代250年にわたり、この城……

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新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。新庄藩は最上郡一円と村山郡の一部、6万石(後に6万8200石)を領した。 藩主戸沢氏は元和8年(1622)から明治初年まで、11代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。慶応4年(1868)7月、新庄藩は庄内勢に攻められ、黒煙を吐いて焼け落ちた。明治に入って、新庄城は廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社・郡会議事堂などの敷地として利用された。以下略 平成5年8月 新庄市・新庄商工会議所

ここから西に二筋移動すると新庄城址のある最上公園に出る。堀を渡ると戸沢神社があって右に日本庭園、左は広場を経て天満神社がある。新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。

表御門跡 堀端町 新庄市 山形県
表御門跡 堀端町 新庄市 山形県本丸正門のあったところ。表御門はこの石垣を土台とした櫓門であった。 平成5年8月 新庄市・新庄商工会議所

戦国時代に出羽国仙北郡(秋田県内陸中部)を支配していた戸沢政盛は、関ケ原の功により常陸松岡に4万石を賜り、元和8年(1622)山形最上氏の改易で新庄6万8千石に封ぜられた。戸沢氏は以後明治初年まで、11代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。

天満神社 堀端町 新庄市 山形県
天満神社 堀端町 新庄市 山形県

天満神社本殿・拝殿 山形県指定有形文化財 昭和六十二年八月二十五日指定 この天満神社は、新庄藩主戸沢家の氏神として、旧領秋田仙北の角館時代から崇敬されてきました。 元和8年(1622)に、藩祖政盛公が常州(現茨城県)松岡から新庄に入部した折りに共に移し、寛永5年(1628)に、新庄城本丸西南の現在地に遷座したものです。 本殿は、一間社流造り、拝殿は三間の入母屋造りで、いずれも茅葺きの素材で重厚な造……

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天満神社本殿・拝殿 山形県指定有形文化財 昭和六十二年八月二十五日指定 この天満神社は、新庄藩主戸沢家の氏神として、旧領秋田仙北の角館時代から崇敬されてきました。 元和8年(1622)に、藩祖政盛公が常州(現茨城県)松岡から新庄に入部した折りに共に移し、寛永5年(1628)に、新庄城本丸西南の現在地に遷座したものです。 本殿は、一間社流造り、拝殿は三間の入母屋造りで、いずれも茅葺きの素材で重厚な造りであり、江戸時代前期の、建築様式の特徴をよく表している神社建築の一つです 二代藩主正誠公時代の、寛文8年(1668)に社殿を再建し、さらに延宝8年(1680)には、愛児政武の息災延命を祈願して、茅屋根の葺き替えなどを行ったことが、棟札に記されています。 豪華な山車が、市内を賑々しく練り歩く現在の新庄祭りは、戸沢家の氏神である、天満宮の祭礼ガ始まりとされています。 平成13年12月設置 新庄市教育委員会

左にすすむと表門跡の石垣をみて天満神社にたどり着く。拝殿、本殿ともに重厚な茅葺屋根で温かみを感じさせる。本殿は切り妻、拝殿は入母屋造りであるのは鳥越神社と同様である。一種の定型か。

(2012年10月)

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