今様奥の細道 22区間のうち9番目

今様奥の細道(9)

多賀城-塩釜-松島-石巻-柳津-登米-一ノ関-平泉 (石巻街道→一ノ関街道:是より出羽越え)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

多賀城

資料21

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

壷碑 市川村多賀城に有。

つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。

「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝猲修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。

多賀城

5月8日(新暦6月24日)

原町苦竹の道しるべ石 原町3丁目 仙台市
原町苦竹の道しるべ石 原町3丁目 仙台市

嘉永6年(1853)に建てられた市内随一の堂々たる道しるべ石である。ここは藩政期の要路であった塩釜街道の起点となったところで、原町は、仙台城下東端の宿場として明治に至る3百年の間繁昌した。 「西 御城下」 「南 長町宮城野以てふ道」 「北 塩可満松嶋」 「東 八幡八満ん七者満」 とあり、仙台城下入口の石標として街道の名物であったという。 「八幡八満ん」は現在の多賀城市八幡 「七者満(しちはま)」は……

説明の全文を読む(約220字)

嘉永6年(1853)に建てられた市内随一の堂々たる道しるべ石である。ここは藩政期の要路であった塩釜街道の起点となったところで、原町は、仙台城下東端の宿場として明治に至る3百年の間繁昌した。 「西 御城下」 「南 長町宮城野以てふ道」 「北 塩可満松嶋」 「東 八幡八満ん七者満」 とあり、仙台城下入口の石標として街道の名物であったという。 「八幡八満ん」は現在の多賀城市八幡 「七者満(しちはま)」は現在の七ヶ浜 平成15年10月 仙台市教育委員会

仙台に4泊した芭蕉と曾良は翌日、多賀城・塩釜をめざして芭蕉の辻から塩竃街道を東にむかった。鉄砲町を経て最初の宿場原町に入る。宿場の東端、原町3丁目の交差点に大きな道標が建っている。「苦竹の道しるべ」として知られる嘉永6年(1853)の古いもので、東西南北に行先と距離が刻まれている。ここを北に向かう道が塩釜街道である。「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」とあり、松島までが6里15丁で、塩釜までは3里19丁というのであろう。

「奥の細道」 東光寺前 入山 仙台市
「奥の細道」 東光寺前 入山 仙台市かの画図にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符の菅有。 「おくのほそ道」の本文に、題名となった奥の細道の記述がある。この付近から東へ続く古道に由来している。 平成元年11月23日

街道は県道8号仙台松島線(利府街道・石巻街道)に合流する。このあたりは案内というところで、茶店の湯豆腐で人気があった。比丘尼坂を越え今市宿をぬけて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に東光寺がある。参道入口に「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つ。東光寺の前の道を西に400mほどいくと右に二股道がでている。その右側の道が芭蕉が「おくの細道」とよんだ道である。

十符谷 台屋敷 宮城野区 仙台市
十符谷 台屋敷 宮城野区 仙台市

当時は山際に開かれた棚田のあぜ道で、沿道の農家では特産品の十符の菅(とふのすげ)が栽培されて、十符の菅で編んだ菅菰が珍重された。今は坂道の西側は山で、東側は宅地化されて民家がつづき、菅が生え茂る景色は過去のものとなった。坂道を上りつめた先は、山の谷間にわずかに棚畑がのこるだけである。東光寺の前にもどり、そこから東に向かう。この道も奥の細道といわれることがある。

石巻街道起点 岩切 宮城野区 仙台市
石巻街道起点 岩切 宮城野区 仙台市従是 右 しおがまミち 一里 二十五丁 左 まつしまミち 三里 二十七丁 安永三年(1774)

今市橋から二つ目の信号で、右斜めに旧道に入る。古い建物が並んでいて、原町や今市よりも宿場らしいたたずまいである。岩切郵便局の隣に趣ある古い二階建ての建物がある。その角で、塩釜街道から旧石巻街道が北に分かれている。安永3年(1774)の道しるべがあり、「右 塩釜道、左 松島道」と刻まれている。芭蕉は岩切から塩釜街道をたどって多賀城跡へ向かった。

多賀城跡 城前 多賀城市
多賀城跡 城前 多賀城市国府多賀城 7世紀後半の日本では、律令にもとづいて中央に権力を集中させる国づくりが進められた。多賀城は神亀元(724)年に創建された陸奥国府であり、10世紀後半頃まで古代東北の拠点として機能していた。 多賀城跡 多賀城は1辺約1kmの外郭区画施設(築地塀や材木塀)で囲まれ、南・東・西辺には門が開かれていた。ほぼ中央には政庁が置かれ、また城内で平坦部が確保できる地域には役所が配置されていた。

市川橋で砂押川を渡ると、道は新旧二手に分かれる。右側が現県道35号で、左側が塩釜街道旧道である。その間に陸奥国府多賀城があった。芭蕉は壷碑に直行したようで、道筋でいえば新道をとったことになる。多賀城は奈良時代の神亀元年(724)に大野東人(おおのあづまひと)によって陸奥国府として造営された。小高い丘の頂上に1辺約1kmの築地塀で囲まれ中央に政庁が置かれた。延暦21年(802)坂上田村麻呂が胆沢城を築くまでは鎮守府も置かれ、東北地方の政治・軍事の中心をなしていた。辺り一帯には土塁、礎石、石段の痕跡が残っており、遥か古代の陸奥国から吹いてくる風を感じることができる。

多賀城碑 田屋場 多賀城市
多賀城碑 田屋場 多賀城市

多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約2m、幅約1m、厚さ約70cmで、碑面は西を向いて立てられています。 多賀城 京去1500里 蝦夷国界去120里 常陸国界去412里 下野国界去274里 靺鞨国界去3000里 (中略) 将軍藤原恵美朝臣朝猲修造也。 天平宝字六年十二月一日 碑面には、上部に大きく「西」の字があり、その下の長方形の枠線の中に11行140字が刻まれてい……

説明の全文を読む(約560字)

多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約2m、幅約1m、厚さ約70cmで、碑面は西を向いて立てられています。 多賀城 京去1500里 蝦夷国界去120里 常陸国界去412里 下野国界去274里 靺鞨国界去3000里 (中略) 将軍藤原恵美朝臣朝猲修造也。 天平宝字六年十二月一日 碑面には、上部に大きく「西」の字があり、その下の長方形の枠線の中に11行140字が刻まれています。碑文の内容は大きく分けて二つの部分から成ります。前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。後半は、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人によって設置されたこと、天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝猲によって修造されたことを記され、最後に碑が立てられた年月日が刻まれています。碑文の内容から藤原恵美朝臣朝猲の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑とみることができます。 また、碑は、歌枕として有名な 「壷碑(つぼのいしぶみ)」 とも呼ばれており、元禄2年(1689)には松尾芭蕉もこの碑を訪れ、深く感動し、涙を流した様子を「おくのほそ道」の中に書き残しています。多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑、栃木県湯津上村の那須国造碑とともに日本三古碑の一つです。 平成11年3月 多賀城市教育委員会

政庁跡から南に丘を下り、塩釜新道を横切たところに多賀城碑(壷碑)が建っている。多賀城碑は藤原恵美朝臣朝猲の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑である。今は四面格子の覆い堂内に納められているが、芭蕉がおとずれたときは野ざらしに放置され、石は苔むしていたようだ。多賀城跡も現在のように発掘保存された状態でなく、草木がしげるなかにようやく土塁や礎石の痕跡を見出すのが精一杯ではなかったかと思われる。それでも古に思いを馳せて芭蕉は感激の涙を流したのであった。

多賀城周辺にはほかにも歌枕があった。芭蕉は一旦塩釜の宿にチェックインしてからそれらを見に出かけた。

末の松山

資料22

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。

五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。

其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。

末の松山 八幡2丁目 多賀城市
末の松山 八幡2丁目 多賀城市

「末の松山」は、 「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」 (「古今和歌集東歌」) 「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは」 (「後拾遺和歌集清原元輔」) の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人(陸奥守その他)ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。 「末の松山」の所在地については諸説がありますが、こ……

説明の全文を読む(約580字)

「末の松山」は、 「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」 (「古今和歌集東歌」) 「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは」 (「後拾遺和歌集清原元輔」) の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人(陸奥守その他)ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。 「末の松山」の所在地については諸説がありますが、この多賀城市八幡説が最も有力です。 元禄二年五月八日(1689年陽暦6月24日)松尾芭蕉は、塩釜到着(仙台から)ののち、「野田の玉川」「浮島」を経て、「末の松山」を訪れています。「おくのほそ道」には、 「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、・・・」 と「末の松山」に接しての感動をしるしています。「寺」とは、末松山宝国寺のことを指しています。芭蕉の感動は、「末の松山」のもつ歴史の重みを無視しては考えられませんが、同時に「おくのほそ道」のこの行文は、 「末の松山」の歴史に、新しい1ページを加えたといえます。 「おくのほそ道」ののちも、芭蕉の足跡を慕って、多くの文人たちが、この歌枕を訪れており、その風潮は現在にも引き継がれています。 平成11年12月10日 多賀城市教育委員会

仙石線多賀城駅の西方、鎮守橋で砂押川を渡り最初の信号で右の路地に入る。宝国寺の墓地の裏側に数本の黒松の大木がみえる。古来より歌に詠われてきた「末の松山」である。住宅地の高みに忽然とあらわれる老松は意外性に富む。墓地は芭蕉のころからあったようだ。本来ならば風情ある景観になじまない墓の存在も、芭蕉は末の契りの象徴ととらえて、歌枕をけなすようなことは言わなかった。

沖の井(沖の石) 八幡2丁目 多賀城市
沖の井(沖の石) 八幡2丁目 多賀城市

おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまぺのわかれなりけり 古今和歌集小野小町 わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき 千載和歌集二条院讃岐 沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は累累とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。 江戸時代の元禄二年五月八日「おくのほそ道」の旅の途上、松尾芭蕉と同行者の曾良は、この地を訪れました。 また、四代……

説明の全文を読む(約270字)

おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまぺのわかれなりけり 古今和歌集小野小町 わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき 千載和歌集二条院讃岐 沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は累累とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。 江戸時代の元禄二年五月八日「おくのほそ道」の旅の途上、松尾芭蕉と同行者の曾良は、この地を訪れました。 また、四代藩主伊達綱村の時代には、仙台藩により名所整備か行われ、手厚い保護を受けていたことが知られています。 平成11年12月10日 多賀城市教育委員会

そこから100mもない距離に住宅に囲まれた「沖の石」がある。住宅街の真ん中にとりのこされた水溜りの様で、中の島を形作っている岩も窮屈そうにみえた。昔はここまで海岸線がきていたのであろうかと思ったが、意外にも芭蕉のころから沖の石は百姓家の裏にあったという。池中の岩は、確かに普通の平凡な庭石ではなくて、荒波よせくる断崖の岩の面持ちである。ただ周囲の景色が末の松山以上に無粋であった。芭蕉も野田の玉川と沖の石に関してはノーコメントでとおしている。

塩釜

資料23

早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云り。

日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。

5月9日(新暦6月25日)

塩釜神社 一森山 塩釜市
塩釜神社 一森山 塩釜市

古来、陸奥国一宮と称されている。 その創建年は不明であるが、弘仁式主税帳(820)の記録から、九世紀前半には朝廷より祭祀料をいただく有数の神社として存在していたことがうかがわれる。古代においては、この地が陸奥国府・多賀城の国府津であったこと、陸奥国内の製塩の中心地であったことなどが、塩釜神社の創建や社名に関連していると考えられている。 その後、平泉の藤原氏、陸奥国留守職の伊澤氏、仙台藩主の伊達氏な……

説明の全文を読む(約370字)

古来、陸奥国一宮と称されている。 その創建年は不明であるが、弘仁式主税帳(820)の記録から、九世紀前半には朝廷より祭祀料をいただく有数の神社として存在していたことがうかがわれる。古代においては、この地が陸奥国府・多賀城の国府津であったこと、陸奥国内の製塩の中心地であったことなどが、塩釜神社の創建や社名に関連していると考えられている。 その後、平泉の藤原氏、陸奥国留守職の伊澤氏、仙台藩主の伊達氏などの庇護を受け、今日にいたっている。これらに関係する人々や神社と縁のある人々の寄進した文物等が境内及び塩釜神社博物館に多くみられる。 現在の社殿は、第四代仙台藩主・伊達綱村が元禄8年(1695)に塩釜の町づくりと比に神社造営の工事に着手し、宝永元年(1704)第5代藩主・吉村の時に完成したものてある。以下略 平成15年3月 塩釜市教育委員会

旧塩釜街道の北側の一森山に陸奥国一宮塩竈神社がある。社務所の前にひろがる日本庭園は紅葉の盛りで、そのなかに葉をすっかりおとして寒々とした四季桜が梅のような花を枝いっぱいにつけていた。遠くには塩釜の港が見える。多賀城が国府であった時代、塩釜の港はその国府津であった。また、この地が陸奥国内での製塩の中心地でもあったことなどが、塩釜神社の由来の背景をなしている。塩釜宮町で一泊した芭蕉は翌朝一番で塩釜神社に詣でた。

文治の燈籠 塩釜神社 塩釜市
文治の燈籠 塩釜神社 塩釜市元禄2年5月9日(陽暦6月25日)朝、芭蕉は塩釜神社に詣でこの燈籠を観る。扉の碑文に「文治3年7月10日和泉三郎忠衡敬白」とある。 「・・・・・神前に古き宝燈あり。・・・・・・五百年来の俤、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり。・・・・・」と奥の細道に綴った。 塩釜市観光協会

塩釜神社は二本殿にその拝殿、別宮本殿とその別宮拝殿という、三本殿二拝殿という他に類例をみない社殿構成をとる。境内にある古い燈籠のなかでも本殿右手にある、文治3年(1187)7月10日の日付が刻まれた鉄製の燈籠は、奥州藤原三代秀衡の三男忠衡(泉三郎)の寄進によるものである。文治3年、藤原秀衡が急逝したのち、二男泰衡は一旦義経をかくまうが、頼朝の激しい圧迫に屈して義経を急襲した。これに対し、弟の三男泉三郎忠衡は最後まで義経に忠義を尽し、2年後の文治5年、義経の自刃した後兄泰衡によって攻め殺された。大の義経ファンである芭蕉がこの燈籠に5百年の思いをはせて感激したこと、いうまでもない。

塩釜港 港町1丁目 塩釜市
塩釜港 港町1丁目 塩釜市

芭蕉は昼頃船に乗って塩釜を後にし、湾内を遊覧して松島に渡った。観光桟橋からは何隻もの「芭蕉丸」あるいは「芭蕉コース巡り」と銘打った観光船が松島との間を往復している。松島までは海岸に沿って国道45号で陸路を旅する人もいた。

松島

資料24

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。

十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

西行戻しの松から松島眺望 松島町 宮城郡
西行戻しの松から松島眺望 松島町 宮城郡

松島湾に260もの大小さまざまな島が浮かぶ。松島は天橋立、安芸の厳島にならぶ日本三景の一つとして名高い。芭蕉は何よりも松島を楽しみにしていた。船からながめた多様な島々の様子を愛情あふれることばで細やかに描写している。芭蕉は気分が高まってその夜は寝付けなかったらしい。曾良は一句を作ったのに私はなにもつくれなかったと、芭蕉にしてはめずらしくしおらしい態度である。自分の身を引いて客体に対する意識を高めようとした作家芭蕉のしたたかな計算であろう。

瑞厳寺 松島町 宮城郡
瑞厳寺 松島町 宮城郡

元禄2年5月9日(1689・陽暦6月25日)塩釜から舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞厳寺に参詣した。・・・・瑞岩(厳)寺に詣、当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て七堂甍改りて、金壁を輝、仏土成就の大伽藍(藍)とはなれりける。彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる。 「おくのほそ道」の行文は、簡潔に寺伝を述べ「金壁荘厳」の大伽藍の光景を、印象的に写……

説明の全文を読む(約470字)

元禄2年5月9日(1689・陽暦6月25日)塩釜から舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞厳寺に参詣した。・・・・瑞岩(厳)寺に詣、当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て七堂甍改りて、金壁を輝、仏土成就の大伽藍(藍)とはなれりける。彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる。 「おくのほそ道」の行文は、簡潔に寺伝を述べ「金壁荘厳」の大伽藍の光景を、印象的に写し出している。 瑞巌寺は九世紀、慈覚大師を開基とする天台宗の寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、(中略)伽藍を完成した。建築は、全休として禅刹の風格を保ち、内部に極彩色の彫刻や金碧画の襖などを収め、桃山芸術の粋をつくしている。本堂・庫裡・回廊は、国宝に指定されている。 雲居は瑞厳寺中興と言われる高僧で、政宗の招請を受け伊達忠宗のとき、同寺九十九世を継いだ、芭蕉参禅の仏頂の師でもある。瑞巌寺境内の、嘉永四年(1851)建立の は、芭蕉碑中でも屈指のものであろう。碑の側面の句中、乙二の句には、」「古今を壓して独り卓然」の子規評がある。

芭蕉にかぎらず、松島に着いた人がまず向かうところは瑞巌寺である。平安時代初めの天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が建立、延暦寺と比肩すべきという意味で延福寺と命名され平泉藤原氏の外護を受けた。戦国時代に衰退していたものを伊達政宗の治世になって伊達家の菩提寺として再建され、このとき名も瑞巌寺に改められた。奥州随一の禅寺である。国宝の本堂内を一方通行に流れて各部屋の障壁画をのぞいて回る。すこし後戻りしようとして係員にしかられた。

瑞巌寺 松島町 宮城郡
瑞巌寺 松島町 宮城郡

本堂右にある庫裡も国宝である。切妻の大屋根に袴付入母屋造りの大きな煙出をのせた形が珍しい。こけら葺四脚門の中門、重厚な薬医門の御成門など、それぞれに見ごたえのある建物であった。帰りは長屋のようにつづく天然洞窟群の前を通っていく。その前に各地の札所から集められた千住観音石仏が順序良く立ち並んでいた。

五大堂 松島町 宮城郡
五大堂 松島町 宮城郡

平安時代初期の807年坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王像を安置する。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として……

説明の全文を読む(約220字)

平安時代初期の807年坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶようになった。現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王像を安置する。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。 瑞巌寺

瑞巌寺から海岸に出て、五大堂をたずねる。波に削られた湾曲の岩島に、橋げたの間に海面がのぞく「すかし橋」で渡ると清楚ながら華麗なお堂が建っている。大同2年(807)坂上田村麻呂が東征の折に毘沙門堂を建立した後、慈覚大師円仁が瑞巌寺守護のため五大明王を安置してから五大堂と呼ばれるようになった。島は堂を背負うだけの大きさしかない。堂を一周してまたすかし橋をおもむろに渡って海岸に戻った。

観瀾亭 松島町 宮城郡
観瀾亭 松島町 宮城郡

この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設と……

説明の全文を読む(約310字)

この建物は、文禄年間に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したもので、床の間の張付絵や襖絵は壮麗な極彩色で画かれており建物は東西に向き京間18畳2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれ、藩主・姫君・側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていた。 併設の松島博物館には、伊達家の大名道具や生活用品等を陳列しております。 文化財指定 観瀾亭(建物)県重要文化財 昭和28年3月3日 障壁画 国重要文化財 昭和55年6月6日 松島町

最後に観瀾亭による。この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したものである。2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれる。戸を開け放した一室では茶がふるまわれ、すずしげな顔つきをした観光客が茶碗を手に海に向かって正座していた。紅葉がみごろであった。

芭蕉は他に雄島などを見て瑞巌寺近くの宿に泊まった。

高城~石巻

5月10日(新暦6月26日)

資料25

十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。

旧小野宿 小野 東松島市
旧小野宿 小野 東松島市

歴史の道(芭蕉の道) 舟渡町を過ぎた芭蕉は、本町、田町を通って追分に至るのだが「安永五年の風土記」によると本町は宿場町として早くから発達していた。芭蕉が通った7年前の天和3年(1683)の「小野絵図」によると今の城内の下中屋敷(武家屋敷)に対し、本町、田町は町屋敷がならび今の町筋と変わりがない。本町の角から45号線を横切って田町に入りお預け足軽屋敷跡を過ぎ左に をみて に至る。 平成9年3月 鳴瀬……

説明の全文を読む(約270字)

歴史の道(芭蕉の道) 舟渡町を過ぎた芭蕉は、本町、田町を通って追分に至るのだが「安永五年の風土記」によると本町は宿場町として早くから発達していた。芭蕉が通った7年前の天和3年(1683)の「小野絵図」によると今の城内の下中屋敷(武家屋敷)に対し、本町、田町は町屋敷がならび今の町筋と変わりがない。本町の角から45号線を横切って田町に入りお預け足軽屋敷跡を過ぎ左に をみて に至る。 平成9年3月 鳴瀬町教育委員会 古くは笹谷街道と称されているが、一般には「石巻街道」と通称されている。なお、「曾良随行日記」によれば松尾芭蕉の通った道でもある。

芭蕉は朝宿をたって一路石巻をめざした。奥州街道沿いにあるはずの「あねはの松」や「緒だえの橋」などをたずねるつもりが、道をまちがえて石巻に出たとあるのは文飾である。二人は高城宿から日本橋より100番目の一里塚をみて山道を通り抜け小野宿にでた。道を間違えたとすれば左(あてら)坂から鳴瀬川にでるまでの人気ない山道のどこかであった可能性はある。

小野宿の「正寿司」の手前で左折して功岳寺門前の小野の追分にいたった。そこで気仙街道が分岐する。石巻街道はそこから南東方向に山裾の道をたどって三輪神社の西側で国道45号に合流していた。

矢本宿西口 歴史の道(奥の細道) 矢本 東松島市
矢本宿西口 歴史の道(奥の細道) 矢本 東松島市

建治2年(1276)板碑 芭蕉と弟子の曽良は元禄2年(1689)旧暦5月10日(太陽暦6月26日)松島を出発、小野を経て、石巻へ向かった。梅雨のあい問のむし暑い日であった。ここ町頭から七十七銀行あたりまでを馬箭町、それから先の中道あたりまでを新田町といった。新田町で二人は急に咽が渇いたので湯をもらおうと頼んだが、家ごとに断わられたと曽良の随行日記に書かれてある。この街道は寛文2年(1662)につく……

説明の全文を読む(約250字)

建治2年(1276)板碑 芭蕉と弟子の曽良は元禄2年(1689)旧暦5月10日(太陽暦6月26日)松島を出発、小野を経て、石巻へ向かった。梅雨のあい問のむし暑い日であった。ここ町頭から七十七銀行あたりまでを馬箭町、それから先の中道あたりまでを新田町といった。新田町で二人は急に咽が渇いたので湯をもらおうと頼んだが、家ごとに断わられたと曽良の随行日記に書かれてある。この街道は寛文2年(1662)につくられ、石巻街道といい、矢本の宿が生まれたのはそれから一年後のことである。 平成6年3月1日 矢本町教育委員会

次の宿場矢本に向かう。鹿妻駅の手前で左の旧道にはいり、第二下村松踏切をわたってそのまま国道45号をななめに横切って直進する。笠松、一本杉をへて中田から矢本宿にはいる。入口の鉤の手であっただろう道筋に鎌倉時代の古い板碑、愛染院跡標柱とともに、歴史の道(奥の細道)案内板が立っている。矢本は低湿地が開発された新田地帯で、街道はまっすぐにのびている。

芭蕉はこの新しい宿場町を歩いているとき、喉が渇いて苦しくなった。家ごとにお湯を乞うたが、皆ひややかだった。それをみかねた通りすがりの侍に援けられてようやく喉を潤すことができた。それのみならず、親切なその侍は今夜の宿まで紹介してくれたのである。石巻駅近くの石巻グランドホテルの敷地に住む四兵へ(四平衛)の宅だった。住吉地区にも近いにぎやかで便利なところである。その日のうちに市内散策をすませることにした。

日和山より旧北上川河口 石巻市
日和山より旧北上川河口 石巻市
日和山・石巻城址 石巻市
日和山・石巻城址 石巻市

日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児(みこ)神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、『日和』を見る場所であることから、そ……

説明の全文を読む(約740字)

日和山は標高60.4m。山上に延喜式内社である鹿島御児(みこ)神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合のよい風向きや潮の流れなど、『日和』を見る場所であることから、その名が付いたと伝えられています。 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の、曽良旅日記には 「日和山と云へ上ル石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 今ワタノハト伝 遠嶋尾鮫ノ牧山 眼前也 真野萱原も少見ゆル」 と日和山からの眺望が記されています。 また、「奥の細道』には 「・・・石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廼船入江につとひ 人家地をあらそひて、竈のけふり立つ けたり」 と表現されています。 「こかね花咲」とは、万葉集巻第18にある大伴家持の 「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」 の歌をふまえています。天平産金地は涌谷(わくや)町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房の門人である堂雨を中心として建立された『雲折く人を休める月見かな』という芭蕉の句碑があります。 また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折□信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。

石巻は江戸時代、南部藩・伊達藩・一関藩・八戸藩の米の積出港として旧北上川の河口に開けた港町である。石巻から江戸まで千石船が米を運んだ。河口をみおろす小高い丘は、鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えた石巻城址で、現在は日和山公園となっている。 山頂には鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)のほか、公園内には奥の細道ゆかりの地として芭蕉と曾良の像が建っている。

芭蕉はここから金華山を見渡せたというが、金華山はその方向にはなく、また牡鹿半島の上にみえるほど高い山ではない。

袖の渡り 住吉公園 石巻市
袖の渡り 住吉公園 石巻市

古くから歌枕の地として知られ、松尾芭蕉もこの地を訪れています。「みちのくの袖のわたりのなみだ川こころのうちに流れてぞ住む」相模(後拾遺和歌集)また、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に向かう途中にここを通り、船賃の代わりに自分の着物の片袖を与えたという伝説があります。 平成13年10月31日建立 石巻市教育委員会 石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、この街道から北部への道として、涌谷・登米道、気仙道が……

説明の全文を読む(約290字)

古くから歌枕の地として知られ、松尾芭蕉もこの地を訪れています。「みちのくの袖のわたりのなみだ川こころのうちに流れてぞ住む」相模(後拾遺和歌集)また、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に向かう途中にここを通り、船賃の代わりに自分の着物の片袖を与えたという伝説があります。 平成13年10月31日建立 石巻市教育委員会 石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、この街道から北部への道として、涌谷・登米道、気仙道が分かれていました。金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、金華山への参詣の道として利用されました。一関街道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り奥州街道と接続する道でした。

帰り道に、宿に近い住吉公園によった。「袖の渡」の歌枕でもある。源義経が藤原秀衡を頼って平泉へ向かう途中、ここから船に乗って一関に向かう時、船賃の替わりに自分の片袖を船頭に与えたという。

石巻~登米

5月11(新暦6月27日)

北北上運河 石井閘門 水押3丁目 石巻市
北北上運河 石井閘門 水押3丁目 石巻市

石巻から一関街道で登米をめざす。途中これという歌枕がなく単調な一日になりそうだ。四平衛宅からすぐ東を通る県道33号にでて、石巻バイパスとの交差点をこえた次の十字路を左折して住吉中学校の北側をとおっていくと、右手に旧北上川の流れがみえてくる。ここから川沿いの道を北上し、愛宕山の東麓を通過して鹿又にいたる。ここで旧北上川は西方向に大きく湾曲しているが、もともと北上川の流れは西からそのまま東進して追波湾にそそいでいた。それを石巻湾へ付け替えたものである。

本町 鹿又 石巻市
本町 鹿又 石巻市

天王橋手前の堤防に大小の石碑が横なぐりの雪をうけて寒さに耐えていた。明和元年(1764)銘の庚申塔、天保5年(1834)の金毘羅大権現碑など、ここが古い道筋であったことを伝えている。天王橋で旧北上川をわたり、飯野川橋で現北上川をわたって左岸に出る。芭蕉が旧北上川を渡ったときは新北上川はなく柳津までは陸続きであった。その後現北上川の開削工事で飯野川から柳津まで芭蕉も通った古い道の多くが消失した。

新旧両北上川にかこまれた巨大な中洲のような桃生(ものう)地区は、8世紀半ばの対蝦夷前線基地となっていたところである。724年に多賀城が築かれて以来徐々に前線は北上し、759年には桃生城が築かれた。近くの涌谷で日本ではじめて金が発見され、蝦夷の土地がますます注目を集めていた頃のことである。多賀城から胆沢城完成の802年にいたるちょうど中間にあたる。

「心細き長沼」跡 合戦谷 成田 石巻市
「心細き長沼」跡 合戦谷 成田 石巻市

元禄2年(1689)5月11日、石巻を発った松尾芭蕉とその門人の河合曾良が、この街道(一ノ関街道)を通り、登米の町に止宿した。その道中のありさまを紀行文「奥の細道」の中で 「袖のわたり、尾ぶちの牧、まのの萱原などよそめにみて、遥なる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(登米)という所に一宿して、平泉に到る」 と述べている。同行した曾良も「随行日記」に「鹿又一里余り渡し有り、飯野川へ。三里に遠し。此……

説明の全文を読む(約500字)

元禄2年(1689)5月11日、石巻を発った松尾芭蕉とその門人の河合曾良が、この街道(一ノ関街道)を通り、登米の町に止宿した。その道中のありさまを紀行文「奥の細道」の中で 「袖のわたり、尾ぶちの牧、まのの萱原などよそめにみて、遥なる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(登米)という所に一宿して、平泉に到る」 と述べている。同行した曾良も「随行日記」に「鹿又一里余り渡し有り、飯野川へ。三里に遠し。此の間、山あい長き沼ありーーーー云々」と書き、飯野川と柳津の間に「長い沼」があったと書き止めている。芭蕉らが「心細き長沼」と評した沼は、昔この地、合戦ヶ谷部落の西に横たわっていた「合戦ヶ谷沼」のことである。古地図によると、その沼は東西300m、南北1500mほどの細長い大沼であった。山間を貫き南北に伸びる街道の脇にひっそりとたたずまう大沼の風景は、文字通り「心細い」荒涼たるものであったろう。今は大正末期に行なわれた新北上川開さく工事により河川と変わり、その姿はなく、わずかに の上流峡谷の地形に往時の面影をしのぶのみとなった。 昭和60年10月1日 河北地区教育委員会 宮城県文化財保護協会

桃生城跡のほぼ真東の位置に北上川大堰が設けられている。そのすぐ下流の堤防に芭蕉公園があって、「奥の細道」に述べられている「心細き長沼」についての説明板が建っている。北上川が開削される前、北上川大堰の上流辺りに幅300m、長さ1.5kmの細長い大きな沼があった。そこの地名をとって「合戦谷(かせがい)沼」とよばれていた。今は北上川の一部に吸収されてしまったが、山の狭間に深いよどみをつくってかっての沼の面影を宿しているように見える。

松尾芭蕉ゆかりの地 宮下 柳津
松尾芭蕉ゆかりの地 宮下 柳津

元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥人った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。 飯野川から三里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今 「奥のほそ道の碑」 の建っている付近である。さらに……

説明の全文を読む(約360字)

元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥人った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。 飯野川から三里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今 「奥のほそ道の碑」 の建っている付近である。さらに北へと旅をつづけた一行は、戸伊摩(登米町)に一宿し一関へ向かった。 芭蕉らのたどった当時の一関街道は、明治末期から昭和初期にかけて施工された北上川改修事業の際、水没したり河川敷あるいは埋め立てられて跡かたもなく、桃生・本吉郡境の橋本坂と、柳津まで同行した宿四平へ、今一人と別れた町はずれのみが、わずかに往時の面影を残している。

新北上川の開削口、気仙浜街道と一関街道との交差点手前に小公園が造られていて「松尾芭蕉ゆかりの地」と題したパネル板と、そばには立派な「おくの細道の碑」が建てられている。その脇を通って国道から山にむかって一本の道がでている。両側には切り出された木材が山積みされて、その奥に明耕院の甍がみえる。

明耕院・古道 字宮下 柳津 津山町 登米市
明耕院・古道 字宮下 柳津 津山町 登米市

元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥人った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。 飯野川から三里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる 明耕院黒門 を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今「奥のほそ道の碑」の建っている付近である……

説明の全文を読む(約370字)

元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、江戸を発ち「奥のほそ道」の旅に奥人った芭蕉と門人曽良は、その年の5月11日(陽暦6月27日)、石巻をあとに北上川沿いに北へ向かった。 飯野川から三里余りの山峡に足を踏み入れた旅の一行は、本吉郡南方柳津村(現在の津山町)の南入り□に当たる 明耕院黒門 を通り、宮下鎮守の森のたもとに辿り着いたと思われる。そこは今「奥のほそ道の碑」の建っている付近である。さらに北へと旅をつづけた一行は、戸伊摩(登米町)に一宿し一関へ向かった。 芭蕉らのたどった当時の一関街道は、明治末期から昭和初期にかけて施工された北上川改修事業の際、水没したり河川敷あるいは埋め立てられて跡かたもなく、桃生・本吉郡境の橋本坂と、柳津まで同行した宿四平へ、今一人と別れた町はずれのみが、わずかに往時の面影を残している。

芭蕉はその道をやってきたのだという。明耕院の山門を黒門というのだろう。傍に樹齢400年という榎がそびえたっている。門前の道はさらにつづき雪がのこる杉木立の山中へ消えていった。芭蕉がそこから出てきたからには、その山道はずっと南の方向につづいていたはずである。

町並み 柳津本町 津山町 登米市
町並み 柳津本町 津山町 登米市

柳津の町を通る。家並みは新しくもなく古くもない。街を出ると堤防をはしる国道の東側に旧道が残っていて、田舎の集落をいくつか通り抜けて登米大橋の手前で国道にもどった。大橋にいたる日根牛(ひねうし)堤防には約2kmにわたる桜並木がつづいている。

登米~一関

5月12(新暦6月28日)

芭蕉翁一宿之跡碑 登米町 登米市
芭蕉翁一宿之跡碑 登米町 登米市

元禄2年5月11日(1689・陽暦6月27日)、芭蕉は石巻を立ち、平泉へ赴こうとして、北上川沿いに登米(登米郡登米町へ至り、その夜は登米で宿泊した。そして翌12日、一ノ関へ向かったのである。(中略) 登米は、伊達家の一門、伊達式部(2万1千石)の城下町である。曾良の「旅日記」の「儀左衛門、庄左衛門」は不明であり、「宿不借」の詳細も知られていない。河東碧梧桐の六朝風の書体の「芭蕉翁一宿之跡」の碑は、……

説明の全文を読む(約250字)

元禄2年5月11日(1689・陽暦6月27日)、芭蕉は石巻を立ち、平泉へ赴こうとして、北上川沿いに登米(登米郡登米町へ至り、その夜は登米で宿泊した。そして翌12日、一ノ関へ向かったのである。(中略) 登米は、伊達家の一門、伊達式部(2万1千石)の城下町である。曾良の「旅日記」の「儀左衛門、庄左衛門」は不明であり、「宿不借」の詳細も知られていない。河東碧梧桐の六朝風の書体の「芭蕉翁一宿之跡」の碑は、もと検断屋敷跡に建てたものである。北上川の堤防工事で、屋敷跡が堤防の一角となってしまったのである。 以下略

橋を渡った右手の土手に「芭蕉翁一宿之跡」の碑が建っている。石巻を出た芭蕉はここで一泊した。予定していたところに断られ、検断の庄左衛門宅に頼みこんで泊めてもらった。土手からは白壁の土蔵がならぶ登米の景観をみることができる。登米の町は今でこそ明治村と呼ばれて多くの武家屋敷蔵造りの商家がのこる観光の町になっているが芭蕉の頃はなにもなかったのか、町をみて歩いた形跡もなく翌朝そそくさと旅立った。

弥勒寺 中田町上沼 登米市
弥勒寺 中田町上沼 登米市

弥勒寺は、修験道の開祖・役の行者により7世紀ころ草創され、弥勒菩薩は弘仁年間(810~824年)空海が奥羽巡錫の折り安置したと伝えられる。長徳年間(995~999年)に再建され、山号を長徳山弥勒寺と号す。弥勒菩薩(如来形)坐像(昭和28年8月24日県指定)は、仏師春日の作、脇仏・阿難尊者立像は運慶、迦葉尊者立像は湛慶の作と伝えられる。宗派は真言宗智山派。毎年8月15・16日には、弥勒尊大祭が盛大に……

説明の全文を読む(約230字)

弥勒寺は、修験道の開祖・役の行者により7世紀ころ草創され、弥勒菩薩は弘仁年間(810~824年)空海が奥羽巡錫の折り安置したと伝えられる。長徳年間(995~999年)に再建され、山号を長徳山弥勒寺と号す。弥勒菩薩(如来形)坐像(昭和28年8月24日県指定)は、仏師春日の作、脇仏・阿難尊者立像は運慶、迦葉尊者立像は湛慶の作と伝えられる。宗派は真言宗智山派。毎年8月15・16日には、弥勒尊大祭が盛大に開催されている。 平成5年3月31日 中田町教育委員会

米谷大橋が見えてくる辺りで北上川は大きく蛇行している。やがて錦桜橋の西方で国道346号(西郡街道)と交差し、まもなく街道はこれまで沿ってきた北上川と別れ土手を下りて北西の方向に進んでいく。中田町上沼集落にある弥勒寺によった。役の行者により7世紀ころ草創されたという古刹である。弥勒寺寺山の東山麓にのこるのんびりした旧道をたどり、国道をよこぎって長根集落をS字状にぬけて国道にもどると、まもなく粧坂で宮城県登米市から岩手県一関市に入る。

金華山公園・行人塚 一本木 花泉町 一関市
金華山公園・行人塚 一本木 花泉町 一関市この公園地帯は江戸時代中期から私達の先祖が祭祀を行なった霊地です。 この地を汚すことなく文化財愛護の心を育て、地域民の交流や安らぎの場として「金華山公園」と名付け集落民各位のご協力により建設したものです。 平成9年6月30日 金華山公園建設世話人 一向坊行人塚は頂上に、一本木行人塚は南斜面にある。

一本木の街道沿いに金華山公園という小丘があり行人塚や奥の細道パネルが建っている。そこに描かれた「芭蕉・曾良の足跡マップ」には、これから通る涌津の宿場から花泉駅の裏側を通って金沢宿にぬける旧道の道筋が示されていた。

やがて、街道は平地におりて涌津の集落に入っていく。東北本線の花泉駅から1kmほど手前が元宿場町であった。街道沿いには海鼠壁の蔵や、明治調の洋風石造りの建物など、往時の古い家並みが残っている。中でも海鼠壁の正面に旭日の彩色絵と鶴亀の浮き彫りをほどこした珍しい店蔵が目を引いた。国道は涌津郵便局のまえで旧道風に鉤の手に曲がっていくが、そこを逆に直進して花泉駅にむかう道筋がある。「芭蕉・曾良の足跡マップ」で示していた旧道がそれであることを忘れていた。

旧金沢宿 金沢 花泉町 一関市
旧金沢宿 金沢 花泉町 一関市

宿場町「金沢」 (前略) 金沢の町、及ひ最寄りの町の町づくりは、 天正16年(1588)一関市地主町 慶長5年(1600)涌津町割 慶長14年(1609)金沢町割 元和2年(1616)日形町割 元和5年(1619)有壁町割 天和3年(1683)金沢新町町割 がなされました。当初、町づくりと共にどんな、役所等が置かれたのか、明確ではありませんが花泉町史掲載の陸中国西磐井郡金沢絵図によると 大肝入廨所……

説明の全文を読む(約740字)

宿場町「金沢」 (前略) 金沢の町、及ひ最寄りの町の町づくりは、 天正16年(1588)一関市地主町 慶長5年(1600)涌津町割 慶長14年(1609)金沢町割 元和2年(1616)日形町割 元和5年(1619)有壁町割 天和3年(1683)金沢新町町割 がなされました。当初、町づくりと共にどんな、役所等が置かれたのか、明確ではありませんが花泉町史掲載の陸中国西磐井郡金沢絵図によると 大肝入廨所(会所)・代官宿所・大蔵場・検断所・お札場・伝馬所・問屋場・肝入宅・八幡社・宝寺院・廨所道・丁切・上戸・宿たつみや・宿もういしや・宿大林屋・宿大門屋・小迎・そりめ・南浦等の名称がみられます。 街道の中央には堀溝が掘られ清水が絶えず流れ、馬の飲み水や防火、生活用水としても利用されました。さらに並木なども植えられて景観を保つようにも工夫されていました。 田村藩成立後[天和2年(1682)]は、領地を西岩井(一関に宮城県の有壁・片馬合を含む)・流・東山の三つの地域に分け統轄者として郡代が置かれました。 郡代-代官-大肝入-肝入・検断-組頭-農民と支配体制が整えられました。 そして、一関大町、東山北小梨と共に、金沢町に流大庄屋役所(大肝入廨所(会所))が置かれました。 また、六の日には市日か開かれ、六日、十六日、二十六日には近在の人々が集まり大変な賑わいをみせました。 尚元禄2年(1689)5月11日(陽暦6月28日)松尾芭蕉この道を通る。 寛政6年(1794)8月20日(陽暦9月13日)谷文晁この町に宿す。 の記録が残されています。 そしてまた今も、昔の面影を残す町並みと廨所道・お札場・上戸などが伝承として残されています。 平成10年9月 「宿場町 金沢」 復元整備事業推進委員会

花泉駅前をかすめ金流川(かなれがわ)をわたると県道48号との丁字路に「宿場町金沢(かざわ)入口」の看板が立っている。右側の路傍に丸石の道標がおかれているが、文字はまったくよめない。「道、右ハいしのまき、 左ハうすきぬ」と刻まれているようだ。看板のある丁字路を左折して金沢宿にはいる。右手の大きな宿場案内板が建っていて当時の宿場町絵図が描かれている。

郵便局のところを右折して宿場をでる。水路を渡ったところを右折して金沢宿の北側を迂回してきた国道342号にでる。一関街道はここを左折して西に向かい、大門の三叉路を右にとって一関へでた。また単に奥州街道にでるなら、三叉路を左にとって有壁宿へでるのが近道である。芭蕉はそのいずれもとらなかった。この日は合羽も通るほどのひどい雨で金沢宿の西方にある川が増水して渡れなかったからである。やむをえずそのまま北上して山越えの道をいくことにした。今地図を見ても一関街道をよこぎる大きな川はみあたらないが、街道の南をながれる有馬川でも洪水をおこしたのだろうか。

芭蕉碑 上飯倉 一関市
芭蕉碑 上飯倉 一関市曾良随行日記原文 十二日 曇。 戸今を立。 三リ、雨降出ル。 上沼新田町(長根町トモ)三リ、阿久津(松島ヨリ此処迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。 三リ、皆山坂也。 一ノ関黄昏ニ着。 合羽モトヲル也。 宿ス。 碑ノ建立ハ上飯倉部落32戸全部ノホカニ道路改良工事ニ関係シタ二社ト報道関係1社カラ多大ノ協力ヲ得テ実現シタモノデアル 以下略

飯倉をすぎて、五合田の曲がり角に芭蕉行脚の碑が立っている。リンゴの直売店が建つ十字路をこえてすこしいくと右手に大平不動尊の小さなブロック造りの祠があり、その道向かいにも芭蕉行脚の道の標柱が立っている。やがて細田の大きな十字路にさしかかる。バス停には「牧沢集会所前」とある。直進する「流通団地」行きの道路と左折する道路の間に、左斜めにのびる二本の道がある。山間にはいっていく右側がいかにも旧道らしい雰囲気をたたえているが、途中の古老に聞いたところでは、この道は「奥の細道」ではなかった。元の十字路にもどり、もう一つの斜め道をいく。集落をでたところで、結局左折していった車道に合流した。

芭蕉行脚の碑 関ヶ丘 一関市
芭蕉行脚の碑 関ヶ丘 一関市

松尾芭蕉と一関 (前略) 曾良日記によると 5月12日 宮城県登米町を出発、途中花泉町涌津から雨が強くなったので馬に乗り、金沢を経て合羽も通る雨のなか夕暮れに一関の宿場に着きました。5月13日 天気も良く平泉に藤原三代の栄華などを見て、一関に戻り、宿の主の心遣いに触れ二泊目を迎えます。5月14日 一関を立ち、岩出山に向かいました。旧暦5月12日芭蕉と曾良は金沢からこの道を通り、一関で二夜を過ごしま……

説明の全文を読む(約280字)

松尾芭蕉と一関 (前略) 曾良日記によると 5月12日 宮城県登米町を出発、途中花泉町涌津から雨が強くなったので馬に乗り、金沢を経て合羽も通る雨のなか夕暮れに一関の宿場に着きました。5月13日 天気も良く平泉に藤原三代の栄華などを見て、一関に戻り、宿の主の心遣いに触れ二泊目を迎えます。5月14日 一関を立ち、岩出山に向かいました。旧暦5月12日芭蕉と曾良は金沢からこの道を通り、一関で二夜を過ごしました。この道は、昭和61年「芭蕉行脚の道」として日本の道百選に選定されたので芭蕉来関3百年を機会に修景道路として整備したものです。 平成元年(1989)整備 一関市

矢ノ目沢集落の西端を北上して国道284号を横切る。角に「日本の道百選 奥の細道 沢」と書れた大きな標柱がたっている。交差点をわたるとすぐに「矢ノ目沢」バス停十字路があり、ここにも手前に標柱と、左に曲がったところに「芭蕉行脚の道」碑がある。この交差点をまっすぐに進んでいき「ニコニコハウス」という福祉施設の前にきて、道は行き止まりのようにみえるが、その建物の裏側についている細道をたどると、関ヶ丘住宅地を見下ろす崖縁にでる。崖下の住宅団地におりる坂道は「道百選」に選ばれたときに整備された。降りたところに碑と説明板が建っている。

かっぱ崖古道 沢 一関市
かっぱ崖古道 沢 一関市

関ヶ丘住宅団地の西端の道をすすんでいくと、まもなく馴染みある「奥の細道」標柱がたっていて、そこから丘を下っていく旧道が残っている。このあたりが「カッパ崖」と呼ばれている地域である。崖下で沢川沿いの車道に合流するところにも「奥の細道」の説明板が建っていた。そこから芭蕉は、まっすぐ「富士通ゼネラル」の横を通って一関駅西口にでた。その道筋は駅や線路によって失われている。

一関・平泉

芭蕉最北の宿 二夜庵跡(金森邸) 地主町 磐井橋東詰 一関市 岩手県
芭蕉最北の宿 二夜庵跡(金森邸) 地主町 磐井橋東詰 一関市 岩手県

(前略)春日部~日光~黒羽~須賀川~仙台~松島~石巻を経て、45日後にようやく一関に入り、平泉視察のため二泊した宿がこの金森邸である。その後、日本海側へと旅立ったが、芭蕉が宿泊したことから”二夜庵(ふたやあん)”と呼ばれることとなった。この年、芭蕉46才、曾良41才。 曾良日記をもとに、一関の三日間を描いて見ると 5月12日 くもり 戸今(登米)を立っておよそ10キロから雨が降り出す。上沼新田町(……

説明の全文を読む(約650字)

(前略)春日部~日光~黒羽~須賀川~仙台~松島~石巻を経て、45日後にようやく一関に入り、平泉視察のため二泊した宿がこの金森邸である。その後、日本海側へと旅立ったが、芭蕉が宿泊したことから”二夜庵(ふたやあん)”と呼ばれることとなった。この年、芭蕉46才、曾良41才。 曾良日記をもとに、一関の三日間を描いて見ると 5月12日 くもり 戸今(登米)を立っておよそ10キロから雨が降り出す。上沼新田町(中田町)から安久津(花泉町涌津)と歩いて来たものの、雨が強くなりここで馬に乗った。馬子に引かれ、山坂ばかりの道を通って一関に入った。その道順は金沢~大門~飯倉~南光病院わき~関ヶ丘下~ゼネラルわき~吸川~駅前~大町~地主町であり、合羽もしみとおる大雨であった。夕刻に二夜庵に着く。 5月13日 前日とは打って変わって晴天。午前10時、奥州街道を一路平泉に趣く。高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、金色堂、泉城、秀衡屋敷、金鶏山、無量光院などを見て夕刻、一関に帰る。二夜庵の主人は風呂を用意して二人を待っていた。 5月14日 この日も天気は良く、予定通り一関を立ち大町~台町~宮沢を経て宮城県の一迫~岩出山(泊)に向かっている。 このあと裏日本を行脚し、象潟~酒田~新潟、市振~金沢~福井~敦賀~大垣、伊勢長島まで、全日程5ヶ月余の旅であった。 夏草や 兵どもが 夢の跡 芭蕉 五月雨の 降りのこしてや 光堂 芭蕉 卯の花に 兼房みゆる 白毛かな 曾良 昭和57年11月21日 建立 製作 社団法人 一関青年会議所

駅前交差点の東脇に「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されている。豪雨のなか夕方に一関宿にたどりついた芭蕉は磐井橋袂の金森家に二泊している。金森家は地主町で代々造り酒屋を営んでいた一関きっての大地主であった。堤防に「明治天皇御行在所跡」の碑が建っているところからそれなりの格式をもった豪商だったのだろう。二泊もした一関だのに、芭蕉は「戸伊摩(登米)と云所に一宿して、平泉に到る」と、まったく素通りの気分である。曾良がようやく、両日共に「宿ス」とだけ記しているだけで、これも愛想がない。二人の心は石巻をたったときから平泉にあって、登米も一関も必要に迫られて宿泊した宿場町以上の意味をもっていなかった。翌朝、天気も回復して平泉日帰り旅行に出かけていった。

資料26

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂

5月13日(新暦6月29日)

浄土庭園 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
浄土庭園 毛越寺 平泉町 西磐井郡 岩手県

奥州街道の宿場町である山目を経て平泉に入る。芭蕉が寄らなかったところをまずみてしまおう。平泉駅前の信号を左折して500mほどの所にある毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)の時代に多くの伽藍が造営された。堂塔は40を数え中尊寺をしのぐほどの規模といわれている。建物は焼失したが大泉が池を中心とする浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されている。毎年5月の第4日曜日には「曲水の宴」が行われ平安時代の優雅な情景が再現される。

芭蕉句碑 平泉町 西磐井郡 岩手県
芭蕉句碑 平泉町 西磐井郡 岩手県元禄2年(1689)高館を訪れて詠んだ、「夏草や兵どもが夢の跡」を刻む。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、芭蕉の甥碓花坊也寥禅師による建碑。右の碑は文化3年(1806)に地元俳人素鳥たちによって建てられた副碑。

本堂近くの境内には「夏草や兵どもが夢の跡」を刻んだ句碑が二つ並んでいる。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、右の碑は文化3年(1806)に地元俳人たちによって建てられたものである。

達谷窟(たっこくのいわや) 平泉町 西磐井郡 岩手県
達谷窟(たっこくのいわや) 平泉町 西磐井郡 岩手県征夷大将軍坂上田村麿公東征の霊蹟で殺生禁断地、國指定史蹟達谷窟に関する最古の記録は『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日の条であり、(中略)古来奥州で最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。 以下略 平成18年正月 別当

毛越寺からさらに西へ数キロいったところに達谷窟(たっこくのいわや)とよばれる名勝がある。坂上田村麿創建の霊蹟で褐色の岩窟に建てられた毘沙門堂は異彩を放っている。坂上田村麿は窟に立てこもる屈強な蝦夷を征伐した。曾良は「タツコクガ岩ヤヘ不行」と記している。すこし離れているからであろう。

伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県
伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県

悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをとも……

説明の全文を読む(約320字)

悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをともない館を出て、束稲山を越え長い北への旅に出たのである」 と伝えられている(佐々木勝三著『義経は生きていた』より)この「伝説義経北行コース」は、こうした伝説の残る地点のいくつかを結んだものであり、この館が起点である。 岩手県観光連盟

平泉に着いて二人は奥州街道に沿って中尊寺に向かったと思われる。芭蕉が「秀衡が跡は田野に成て」と、平泉散策の第一歩を記したのが伽羅御所跡だった。右手に立つ伽羅御所跡の標識にしたがって路地をはいっていくと三差路角の生垣に解説板が立っている。伽羅御所は三代秀衡、四代泰衡が居住した館であった。周囲は住宅と畑があるのみで、遺構は見当たらない。説明文だけ引用しておこう。

この付近は「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらごしょ)」跡であります。「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。 しかし鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。 文治5年8月(西暦1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。 住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、800年の歳月はわすかに内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。元禄2年5月(西暦1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)『奥の細道』を旅した芭蕉が「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句を詠んだ。平成7年 4月 平泉町観光協会

柳之御所跡 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県
柳之御所跡 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県

この遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書『吾妻鏡』に記載される「平泉館」に比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられている。南西側の低地は猫間が淵と呼ばれている。 継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。 わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す遺存状態の良好な遺跡として、平泉の文化遺産……

説明の全文を読む(約270字)

この遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書『吾妻鏡』に記載される「平泉館」に比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられている。南西側の低地は猫間が淵と呼ばれている。 継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。 わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す遺存状態の良好な遺跡として、平泉の文化遺産の中でもとくに重要である。 指定名称:史跡 柳之御所・平泉遺跡群 指定年月日:平成9年3月5日(追加指定:平成16年9月30日ほか)

街道にもどりすぐ先の広い道を右にたどると今度は大規模な発掘調査が行なわれ多くの遺構・遺物が発見された国指定史跡、柳の御所跡に至る。北上川のほとりにあって無量光院の東側に位置する。藤原氏が政務をおこなった政庁、平泉館(ひらいずみのたち)跡と考えられている。建立時期はあきらかではないが、寺院の無量光院・居所の伽羅御所・政庁の柳御所を含めて平泉の町を最終的に整備した三代秀衡の事業であったと思われる。日が傾いた跡地には焚き火の煙がたなびいていた。

無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県
無量光院跡 平泉花立 平泉町 西磐井郡 岩手県

無量光院は三代藤原秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽浄土はあり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の頂上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描……

説明の全文を読む(約220字)

無量光院は三代藤原秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽浄土はあり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の頂上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。

街道のすぐ先、左手に残る無量光院跡に人だかりがあった。測量する人、地面を掘り返す人、土を運ぶ人、ただ傍観する人。未だに発掘調査は完了していないと見える。この広大な跡地は三代秀衡が宇治平等院鳳凰堂をモデルに極楽浄土を北の地に再現しようとした跡である。

伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県
伝説義経北行コース起点 高館 平泉町 西磐井郡 岩手県

悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをとも……

説明の全文を読む(約320字)

悲劇の名将と世にうたわれた は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い「義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説では 「文治5年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをともない館を出て、束稲山を越え長い北への旅に出たのである」 と伝えられている(佐々木勝三著『義経は生きていた』より)この「伝説義経北行コース」は、こうした伝説の残る地点のいくつかを結んだものであり、この館が起点である。 岩手県観光連盟

義経堂 大沢 平泉町 西磐井郡 岩手県
義経堂 大沢 平泉町 西磐井郡 岩手県

ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治5年(1189年)閏四4月30日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばるこの地は、「衣河館」だった……

説明の全文を読む(約420字)

ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治5年(1189年)閏四4月30日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経31歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。ここには、天和12年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。 は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。 束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で 「ききもせす 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」 と詠じた。 また、元禄11年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ はこの場所といわれている。 平成6年4月 平泉町観光協会

街道がJRと接近してきたあたりで、右におれて義経終焉の地高館をたずねる。子供のときに見た中村錦之助の牛若丸以来の義経ファンであるから胸の高まりを禁じえない。芭蕉もそうだったろう。なだらかに曲がる北上川を見下ろす高台で、悲劇の武将源義経はその波乱の人生を終えた。忠実な弟分として偉大な貢献をしながら兄の恨みをかって、疎まれ貶められた末に攻められた。誤解か、歴史の必然か、それとも政子の陰謀か。義経はその出生から最期まで、謎と伝説に包まれた人物であった。義経堂にいる人物は必要以上に眉がながく、口ひげも福笑いの部品のように単調で、とてもあの義経とは思えない。中村錦之助の牛若丸はじつに美しかった。初恋の人に出会うべきか、永遠の夢の中にしまっておくべきか。芭蕉は世の無常に涙を落とした。

夏草や 兵共が 夢の跡

卯の花清水 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県
卯の花清水 平泉柳御所 平泉町 西磐井郡 岩手県

文治5年うる4月、高館落城のとき、主君義経とその妻子の、悲しい最後を見とどけ、死力を尽くして奮闘し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66、元禄2年5月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の二句を残した。白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名……

説明の全文を読む(約300字)

文治5年うる4月、高館落城のとき、主君義経とその妻子の、悲しい最後を見とどけ、死力を尽くして奮闘し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66、元禄2年5月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と、「卯の花」の二句を残した。白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名づけて愛用してきた。 行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇きをいやしそこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。 昭和50年卯月30日 平泉町観光協会

中尊寺道踏切のそばに芭蕉も寄った「卯の花清水」がある。竹樋から清らかな水が流れ出ている。その上に「この地に湧水があって、卯の花清水と命名しておりましたが、後年水が枯れ今は水道を使用しております。 平泉町」との立て札があった。水がだめでも卯の花はと、「夏は来ぬ」を思い出しながら、その場にいたおばさんに訊ねると、「白い花だよなあ。もう終わったのじゃあ」とあたりを見回してくれた。曾良の句碑がある。

卯の花に兼房みゆる白毛かな

弁慶の墓 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県
弁慶の墓 平泉衣関 平泉町 西磐井郡 岩手県武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来 文治5年(1189)義経の居城高館焼打ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて立往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた 色かえぬ松のあるじや 武蔵坊

踏切をわると国道4号に合流する。これまでの古の風景とは変わってここは観光門前町である。合流点三角地帯に竹垣に囲まれて大きな墓碑が立つ。武蔵坊辨慶の墓である。弁慶はこの場所に葬られて五輪塔が建てられたという。墓石自体は塚上の松の根元にある小さな石である。五輪塔の一部であろう。

いよいよ平泉黄金文化の本丸、中尊寺をたずねる。毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。鬱蒼とした杉木立の中を月見坂とよばれる参道を登っていく。この道は古代の東山道の道筋といわれており、中尊寺の奥から衣川関に降りていた。芭蕉が「衣が関」と記した場所は月見坂の入口あたりと考えられている。山中の広大な境内に多数のお堂や歌碑が見られる。西行はここを二度も訪れた。

金色堂覆堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
金色堂覆堂 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県重要文化財 旧覆堂 金色堂を風雪から護るため正応元年(1288)に鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂で、古くは「鞘堂」と呼称。 芭蕉をはじめ多くの文人墨客、参詣の人はこの堂内に入り、薄明の中に金色堂を拝観したわけである。昭和38年に新覆堂が建設されて、旧位置より移築。
経蔵 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
経蔵 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県重要文化財 創建時の経蔵は、「供養願文」には「二階瓦葺」とある。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられてきたが、古材をもって再建されたものであろう。荘厳は歳月に洗い流され、金色堂とは異なった趣がある。本尊は騎師文殊菩薩像。経棚にあった紺紙金字一切経(国宝)は、讃衡蔵に保管。

中尊寺は毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。覆堂内にある金色堂は天治元年(1124)の造立で、中尊寺創建当時のままの優美な姿を伝えている。金色堂が覆堂(鞘堂)によって保護されるようになったのは室町中期のころで、昭和40年(1965)には新覆堂が完成した。旧覆堂は経蔵の北側に保存されている。

芭蕉像・句碑 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
芭蕉像・句碑 中尊寺 平泉町 西磐井郡 岩手県
衣川 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県
衣川 向館谷起 (むかいだてやぎ) 衣川区 奥州市 岩手県

ここ衣川では、世の中が貴族中心から武家中心へと変わりつつあった今から1000~800年ほど前、重要な事件がいくつも起きた場所です。衣川から北の北上川流域には6つの郡があり(奥六郡)、ここから北約20kmに位置する 胆沢城 に設置された鎮守府の支配を受けていました。今から約1000年前、鎮守府の下級官人として勢力を蓄えた安倍氏は、各地に柵とよばれる拠点を設置しながら奥六郡の実質的な支配者となっていき……

説明の全文を読む(約520字)

ここ衣川では、世の中が貴族中心から武家中心へと変わりつつあった今から1000~800年ほど前、重要な事件がいくつも起きた場所です。衣川から北の北上川流域には6つの郡があり(奥六郡)、ここから北約20kmに位置する 胆沢城 に設置された鎮守府の支配を受けていました。今から約1000年前、鎮守府の下級官人として勢力を蓄えた安倍氏は、各地に柵とよばれる拠点を設置しながら奥六郡の実質的な支配者となっていきます。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には「安倍頼時は衣川に屋敷を構えた。子弟の家も軒を連ね、家来の家は屋敷の門を囲むように建てられた」とあり、衣川が安倍氏の政治的本拠地だったようです。しかし、 前九年合戦(1051~62)で源頼義・義家により安倍氏が滅ぼされた ため、それらは失われてしまっています。ただ、その後奥州藤原氏の時代でも重要な施設は衣川におかれていたようで、例えば源義経が身を寄せ、最期を遂げた衣河舘はこの周辺に存在していたようですし、最近では大規模な土塁と堀を持ち、大量のかわらけが出土した接待舘遺跡が発見されています。このように、衣川は時代の日本史の転換期における重要な舞台のひとっで、長者ヶ原廃寺跡もその中に位置づけられるのです。

旧覆堂のそばに芭蕉の像と文学碑が建っている。芭蕉は旧覆堂内に入ってまばゆいばかりの金色堂をみた。奥州の平泉に京の文化を花咲かせ、永久の浄土を実現しようとした藤原3代の夢の跡である。芭蕉は衣川まで足をのばした後一関宿にもどり、翌朝奥州山脈を越えて日本海側にでる旅につく。行程としてはまだ半分も来てはいないが、奥州街道の北限をきわめて往路の旅を終えた気分になっているのではないか。

(2007年11月)

前ページへ 次ページへ