今様奥の細道 22区間のうち10番目

今様奥の細道(10)

岩ヶ崎-岩出山-小黒崎・美豆の小島-尿前の関-中山越-堺田・笹森 (迫街道→出羽街道中山越)

宿場おおよその位置いま読んでいるところ 点を押すと、Google マップで場所を開けます。地図: 国土地理院

一関

資料27

南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

蚤虱馬の尿する枕もと

元禄2年(1689)5月14日(新歴6月30日)、奥州藤原三代の栄華に想いを馳せはかなく散った悲運の英雄義経を偲んで涙した平泉を後にして、芭蕉は踵を返して南へ向かった。これより北に歌枕がないわけではない。高館を義経終焉の地として受けいれた芭蕉は、平泉以北に義経の足跡がないことを知っていた。芭蕉がこれより南に下り岩出山から西へおれて奥羽山脈を越え北陸路にでる行程は、義経がかって京から北陸路を経て平泉へ向かった道を逆にたどる旅路でもあった。奥の細道と義経紀行は大図として重なっているのである。

一関

5月14日(新暦6月30日)

台町追分 台町 一関市 岩手県
台町追分 台町 一関市 岩手県左 奥州街道 右 迫街道

旧奥州街道(国道342号)と台町で分かれ南西に延びて岩ヶ崎(栗駒町)、真坂(一迫)の宿場を経て岩出山で出羽街道中山越に合流する道を岩手では迫(はさま)街道とよぶ。芭蕉はこの道をたどって岩出山に出た。

奥の細道 柳沢 真柴 一関市 岩手県
奥の細道 柳沢 真柴 一関市 岩手県見返り風景 前方(進行方向に向かって後方)に国道4号高架が見える

一関宿の南はずれ、光明寺への案内標識が立つ信号丁字路のすぐ先に右斜めに出る細道(車両進入禁止)がある。ここが迫街道の起点である。坂をあがっていくと右手に一関藩主田村家の菩提寺大慈山祥雲寺があり山門前には「松尾芭蕉行脚の道(岩出山に至る)」の標柱が立つ。

やがて「なべ倉」バス停手前の「迫街道一里塚跡(新山)」を経て国道4号のガードをくぐった少し先に「芭蕉行脚の道」の白い標柱が立っている。奥の細道、元禄2年(1689)5月14日の行程を示すものである。

旧迫街道 蔵主沢 真柴 一関市 岩手県
旧迫街道 蔵主沢 真柴 一関市 岩手県日本の道百選 奥の細道旧道入口(女ころし坂)

まもなく蔵主沢で道が二手に分かれ、その間に山中に入っていく山道が残っている。入口に「日本の道百選 奥の細道(蔵王沢)」がある。これが迫街道(奥の細道)の旧道で山を越え東北自動車道の西側で刈又一里塚に続いていた。この道は途中で消失しているため、右側の県道で迂回する。

旧迫街道 苅又 萩荘 一関市 岩手県
旧迫街道 苅又 萩荘 一関市 岩手県東北自動車道ガードをくぐって旧道は車道の向こう側に続く

東北自動車道のガードをくぐって左折、山間の舗装道路を南に向かってしばらく行くと左手に自動車道のもう一つのガードが見えてくる。蔵主沢から山に向かった旧道が山を下りこのガード下に出ていた。車道との交差点角にいつもの「日本の道百選 奥の細道」標柱と刈又一里塚の説明板が建っている。一見広くて整備された道の先は二股になっており旧道は右の上り坂をゆく。入口に「芭蕉行脚の道」の標識がひん曲がって倒れている。柳沢で見たきれいな白い標柱はてっきり木柱だと思っていたが、どうやらトタン製四角柱のようだ。

ぬかるみがまじる山道となり深い雑木林に入っていく。この上り坂は「ひじまがり坂」とよばれているらしい。有壁からの旧道にも「ひじまがり坂」があった。横V字形に折れる鋭角の曲がり道の呼称だが、ここまでにそんな折れ道があったか、記憶にない。

奥の細道碑 苅又 萩荘 一関市 岩手県
奥の細道碑 苅又 萩荘 一関市 岩手県

峠の気配がするあたり、右手に「おくのほそ道」の冒頭を刻む文学碑がある。

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也・・

苅又一里塚 苅又 萩荘 一関市 岩手県
苅又一里塚 苅又 萩荘 一関市 岩手県

一里塚は、慶長九年(1604年)徳川幕府の命によって、全国の街道に一里毎に土を盛り里程標として築造されたものである。 この一里塚は迫街道に造られたもので、奥州街道を分岐し宮城県境を越え、岩ケ崎、迫、岩出山を経て、仙台、山形方面に通じ藩政時代は奥州街道に次いで栄えた。 築造は江戸時代初期のもので、二つとも鉢を伏せた原形をとどめている。 旅人の休憩場所、駕寵屋、乗馬賃などの基準点であり道路交通史上、生……

説明の全文を読む(約230字)

一里塚は、慶長九年(1604年)徳川幕府の命によって、全国の街道に一里毎に土を盛り里程標として築造されたものである。 この一里塚は迫街道に造られたもので、奥州街道を分岐し宮城県境を越え、岩ケ崎、迫、岩出山を経て、仙台、山形方面に通じ藩政時代は奥州街道に次いで栄えた。 築造は江戸時代初期のもので、二つとも鉢を伏せた原形をとどめている。 旅人の休憩場所、駕寵屋、乗馬賃などの基準点であり道路交通史上、生活文化史を知るうえで責重な存在である。 一関市教育委員会

その先に、お椀を伏せたような一対の丸い塚があらわれた。人も通らぬ見捨てられた山道で修験者のように毅然として長年の孤独に耐えてきた姿は神々しくもある。原形をとどめる一里塚を山中にみることじたいが稀有な例である。

岩ヶ崎

旧道はこの先、岩手県と宮城県の県境に沿って山を下り一関CC駐車場脇に出ていた。駐車場脇から旧道が復活している。ゴルフ場への導入路を下ってゆくと、県道との交差点手前に「奥州上街道 吉目木坂(よしめきさか)」の標識と数基の石塔がある。ここはもう宮城県である。街道の呼び方も迫街道は姿を消して「奥州上街道」にかわった。

赤児(あかちご)大橋 赤児館前 金成 栗原市 宮城県
赤児(あかちご)大橋 赤児館前 金成 栗原市 宮城県芭蕉行脚の道「赤児大橋」 仙台藩御領分絵図 元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)天気吉シ、俳聖芭蕉が門人曽良とともにこの地を歩む。「奥の細道」の旅に出かけたのは、元禄2年3月27日(陽暦5月16日)芭蕉 46歳(数え年)、西行がなくなってから500年目に当たる。行程600里(約2360km)半年間にわたる芭蕉にとっては最大の旅であった。 平成10年1月26日 金成町教育委員会。

交差点を直進して、牧場がみえる高原の快適な道をゆくとやがて峠を越えて平地にでる。右からきた道と合流した先で小川(金流川)を越える。橋の脇に「芭蕉行脚の道 赤児大橋」の標識が立つ。

旧奥州上街道 赤児矢待沖 金成 栗原市 宮城県
旧奥州上街道 赤児矢待沖 金成 栗原市 宮城県元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)天気吉シ、俳聖芭蕉、門人曽良とともにこの地を歩く。

この先、右手にあぜ道が真直ぐにのびていて森の中に消えている。農道の途中に「芭蕉行脚の道」の標柱が立つ。これが旧道で、森の中を1kmほど県道に沿って西南にのびて町道片馬合普賢堂線の前で崖となって断絶している。この出口にも「芭蕉行脚の道」の標識と詳しい説明板が立っていて旧道であることを示している。

赤児塚 赤児新山前 金成 栗原市 宮城県
赤児塚 赤児新山前 金成 栗原市 宮城県

栗原郡誌によれば、平泉藤原秀衝は非常に歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば歌曲を舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいて、容貌が閑麗で、その舞も群をぬいて優れていたので衆人からいつも讃えられ秀衡も特に目をかけ賞めていた。他の舞童たちからはこれを妬み、ひそかに人手にかけて殺害しここに埋めたという。春風はいつも紅衣を着用していたことから後の人々が里の名を赤児と称したといわれる。また赤児……

説明の全文を読む(約360字)

栗原郡誌によれば、平泉藤原秀衝は非常に歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば歌曲を舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいて、容貌が閑麗で、その舞も群をぬいて優れていたので衆人からいつも讃えられ秀衡も特に目をかけ賞めていた。他の舞童たちからはこれを妬み、ひそかに人手にかけて殺害しここに埋めたという。春風はいつも紅衣を着用していたことから後の人々が里の名を赤児と称したといわれる。また赤児新山神縁起によれば元慶3年(878)8月17日に鎮守府将軍小野春風の妻が日野丹波という修験者の新山五神の加護により一子春若丸を恵まれたという。しかし不運にもその子が病死したので悲しんで墓としたことを記している。考古学的には葺石を上面に敷き詰めた経塚で、時代は平安末期から鎌倉初期といわれている。 昭和61年10月 金成町教育委員会

一方、赤児大橋から矢待沖バス停で県道182号に出て右折していくと、まもなく右手に八幡社、道が大きく右にまがるところに赤児塚がある。奥州藤原秀衡は歌舞を好み、そのなかで舞の上手な春風という少年を寵愛していた。他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたという。里人は春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから「赤児塚」と呼ぶようになった。

「金成野外活動センター」の案内標識が立つ町道との十字路交差点を直進して一路栗駒をめざす。なだらかな下り坂から町並が見えるようになってきた。しばらくいくと市街地にはいり県道4号と合流、その後四日町信号を左折、一筋目を右折して広い八日町の通りを西進、栗駒岩ヶ崎保育所の裏側で駅前通りに突き当たる。ジグザグの町並は宿場当時と同じ形で残っている。

奥州上街道 六日町 岩ケ崎 栗駒 栗原市 宮城県
奥州上街道 六日町 岩ケ崎 栗駒 栗原市 宮城県

保育園南の丁字路からわずかであるが右手に松並木がのこり昔の面影を伝えている。「奥の細道 岩ヶ崎鶴丸城跡」の標柱と、「鶴丸城跡」の説明板が立っている。街道はさらに一筋南の通りにはいって六日町を通り抜け国道457号を左折、茂庭町を通って岩ヶ崎大橋で三迫川をわたる。

二迫川 袋島巡 鶯沢 栗駒 栗原市 宮城県
二迫川 袋島巡 鶯沢 栗駒 栗原市 宮城県

国道457号は真直ぐに南下し、尾松郵便局の交差点で右折して西に分かれていく。上街道は県道17・42号となって島巡橋で二迫川を渡る。

旧奥州上街道 青ノ沢前 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県
旧奥州上街道 青ノ沢前 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県前方は志登ヶ森 旧道は森を縦断する。

県道はまもなく二手にわかれ、県道42号は南東方向へ、奥州上街道である県道17号は右に折れて西に向かう。700mほど行ったところに「史跡 奥州上街道入口」標柱が立つ丁字路にさしかかる。他の側面には「真坂を経て岩出山に至る。 約1000mの地点に芭蕉衣掛の松がある」と記してある。ここを左折するとすぐに「芭蕉衣掛けの松 直進900m先」の標柱が立つ。この道が旧街道、祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道である。

雷神社入口 志登ヶ森 山崎 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県
雷神社入口 志登ヶ森 山崎 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県
芭蕉衣掛けの松 西原 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県
芭蕉衣掛けの松 西原 片子沢 栗駒 栗原市 宮城県

芭蕉が門人曽良を供に元禄2年5月16日(旧暦3月27日)江戸を旅立ちし、6月29日平泉で藤原三代の盛衰に涙し、一ノ関に再泊、翌30日一ノ関から上街道を岩出山へ向かった。岩ケ崎を経て真板への途中、ここ志登ケ森の頂上に着いた二人は、松の枝に衣を掛け、汗ばんだ肌に風を受けてしばし休息した。 松の根元の碑は昭和18年、芭蕉250年祭に建立したものである。南面に「芭蕉衣掛の松 通敬無一道人」 北面に「芭蕉は……

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芭蕉が門人曽良を供に元禄2年5月16日(旧暦3月27日)江戸を旅立ちし、6月29日平泉で藤原三代の盛衰に涙し、一ノ関に再泊、翌30日一ノ関から上街道を岩出山へ向かった。岩ケ崎を経て真板への途中、ここ志登ケ森の頂上に着いた二人は、松の枝に衣を掛け、汗ばんだ肌に風を受けてしばし休息した。 松の根元の碑は昭和18年、芭蕉250年祭に建立したものである。南面に「芭蕉衣掛の松 通敬無一道人」 北面に「芭蕉は平泉の古跡を探りて道すがら5月14日(旧暦)ここに立ち寄りてこの松の樹に衣を掛けて息いければ芭蕉衣掛の松とぞ称しける」と彫られてある。 ここは昔、藩主の領内巡視の「お遠見場」で北に束稲山、東に石越観音、西から南に栗駒山、花渕山、舟形山、築館薬師山、涌谷箟岳山が望見される眺望絶佳の地である。 惜しい事に衣掛の松は先年虫害に倒れ、平成4年に二代目の松が移植された。 平成4年11月 一迫町教育委員会 栗駒町教育委員会 宮城県文化財保護協会

森の入口に「芭蕉衣掛けの松 ←徒歩20分」の立て札。左方向に森を入っていくと右手に雷神社参道入口に赤い鳥居がある。山道をのぼりやがて峠から車道との合流点におりていく左手に松の切り株を覆う東屋があった。ここで芭蕉は衣を松の枝に掛けて一休みしたという。この峠付近は眺望絶佳のところで、藩主の領内巡視の「お遠見場」で知られる。

旧奥州上街道 北沢上大又 一迫 栗原市 宮城県
旧奥州上街道 北沢上大又 一迫 栗原市 宮城県

上街道旧道と広域農道大又-割山線との合流点 志堂(志登)が森 元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、一関からこの街道(当時一里塚の設けられた藩道)を過ぎて真坂(一迫町)経由、岩出山へと向かったのである。「曽良旅日記」には、その折のことを、 一 十四日天気吉・・・真坂ニテ雷雨ス 乃晴、頓テ又曇リテ折々小雨スル也 としるしている。江戸時代の街道は、 や志……

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上街道旧道と広域農道大又-割山線との合流点 志堂(志登)が森 元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、一関からこの街道(当時一里塚の設けられた藩道)を過ぎて真坂(一迫町)経由、岩出山へと向かったのである。「曽良旅日記」には、その折のことを、 一 十四日天気吉・・・真坂ニテ雷雨ス 乃晴、頓テ又曇リテ折々小雨スル也 としるしている。江戸時代の街道は、 や志堂(志登)が森を中心に稜線づたいにつづいていた。また峠付近は、御遠見場と称して、仙台藩主がこの街道を通行する際は、必ず休息して領内を遠望する場所とされていた。 後年、この街道は廃道となったが、反面このことは、旧道を保存する結果となった。現在頂上には「芭蕉衣がけの松」と伝える巨松がそびえているが、この松を中心に、当時の自然の環境がよく保たれている。 栗原郡のこの一帯は平安時代には姫松荘といわれ、藤原氏の荘園であた。江戸時代は、各村に分かれていたが、明治以降は姫松村となり、現在は栗原郡栗駒町・一迫町・築館町に含まれている。志堂(志登)が森は、栗駒町と一迫町の境にあたっている。元禄2年当時、真坂(一迫町)は、冨塚出雲重長(城は、上真坂上台)の所領であったが、享保3年(1718)領地没収となり、その後白河氏(千石余)の所領となり幕末まで続いた。現在の真坂と岩ヶ崎(栗駒町)を結ぶ街道は、この地方では「往還」と呼ばれている。

車道を右に進むとすぐ左手に「奥州上街道」の標識が立つ旧道が続いている。再び山道に入って祠堂ヶ森をぬけ、広域農道大又-割山線に出る。出口に「奥州上街道」、「奥の細道」の標柱に並んで、「祠堂ヶ森」の詳しい説明板が設けられている。

広域農道を右に折れて県道17号に出、次の宿真坂に向かう。

秋葉神社 真坂南町 一迫 栗原市 宮城県
秋葉神社 真坂南町 一迫 栗原市 宮城県

一迫川をわたり長崎川を渡ったところで県道17号から分かれて右の旧街道に入っていく。真坂宿は北から本町、中町、荒町、南町と続く。南町の右手に芭蕉の時雨塚が建つ秋葉神社がある。この塚は、寛政12年(1800)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで「時雨塚」としたものである。

時雨塚 秋葉神社 真坂南町 一迫 栗原市 宮城県
時雨塚 秋葉神社 真坂南町 一迫 栗原市 宮城県元禄2年(西暦1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の旅を慕いて、地元の俳人午夕たちが寛政12年(西暦1800年)に建立した碑である。芭蕉及び、弟子の許六、それに地元の俳人午夕のそれぞれの句が刻んである。 今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを 野は仕付けたる麦の新土 許六 春も時にとりてやしぐれ塚 午夕

今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを

野は仕付けたる麦の新土 許六

春も時にとりてやしぐれ塚 午夕

曽良随行日記に「真坂ニテ雷雨ス」とある。時雨塚を、この時の芭蕉雨宿りの場所と結び付けたいが、付近にそれを暗示するものは見当たらなかった。

真坂宿をでた街道は再び県道17号に合流しやがて二股で県道59号を左に分岐して、自らは南西に向かう。街道は栗原市一迫から大崎市岩出山にはいる。

岩出山

街道は堂の沢から天王寺一里塚まで、県道17号の北方に旧道が断続的に残っている。旧岩出山町はこれらの旧道を昭和53年(1978)から4年にわたり「歴史の道」として整備・保存事業を行なった。

千本松長根 黒松 上真山 岩出山 大崎市 宮城県
千本松長根 黒松 上真山 岩出山 大崎市 宮城県

「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ」とあります。その古道の面影を残しこの尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消しましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。 宮城県 岩出山……

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「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ」とあります。その古道の面影を残しこの尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消しましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。 宮城県 岩出山町

真山御上バス停付近に「歴史の道」の全体像を示した案内板がある。石畳で整備された入口から杉木立の山中にはいり県道に沿って1.2kmの山道をいく。杉木立の中を歩いていくと県道とをつなぐ丁字路をすぎたあたりに「潜り松古墳群」の案内板がある。石段をおりて県道に出る。

丁字路を右折してしばらくいくと千本松長根入口に臨時駐車場が用意されている。民家の軒先を通って石畳を上がっていくと、見事な赤松並木が現れる。杉のように真直ぐに伸びた姿勢のよい松木立だ。この道は源頼朝も通ったという古道である。

千本松長根東屋 黒松 上真山 岩出山 大崎市 宮城県
千本松長根東屋 黒松 上真山 岩出山 大崎市 宮城県奥の細道碑 「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」

並木道の中間地点に東屋が設けられそばに「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」と刻まれた「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して建立された。

松並木の終わりに「歴史の道上街道案内図」と、磯良神社(オカッパサマ)への案内標識が立っている。矢印に従って「鼻こくり坂」とよばれる急な坂を下ると林道にでる。左折してしばらくいくと蛇行する林道を端折る形で150mほどの短い山道が残っている。山から出てくると農道の十字路があって、直進すると再び200mほどの旧道を経て県道に出る。

県道17号を西に歩いていくと、町道との丁字路にさしかかる。西:岩出山、東:一迫、北:上街道の道路標識が立つ。右折して町道に入る。このあたり、岩出山葛岡には古代東山道の駅家玉造駅があったと考えられている。葛岡高田の集落から南に下る舗装道をたどると小松川にかかる高見橋の手前に「上街道」の標石がある。橋をわたって「葛岡第一生活センター」の前を右折する。

山に入って行き、二股の左の草道が古道である。約500mほどいったところ、右手に狼塚がある。かってはここにお堂があって、毎年3月3日に狼祭りが行なわれていたという。

天王寺一里塚 上野目九十九沢 岩出山 大崎市 宮城県
天王寺一里塚 上野目九十九沢 岩出山 大崎市 宮城県(前略)天王寺一里塚は、全国でも珍しく街道の両側に対になって現存しており、貴重な文化財です。県道改修の際、上り線、下り線を分離してそのままの姿で保存しています。

古道は牧場経営主の敷地を通り抜けて県道17号十文字丁字路交差点に出る。

「歴史の道上街道」もおわりに近づき、まもなく天王寺一里塚に至る。一里塚は左右共に保存するため、県道改修の際には一方通行単線道路を二本つけた。

旧奥州上街道終点 天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県
旧奥州上街道終点 天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県中山越え出羽街道との合流点

一里塚からほどなく天王山に残る逆くの字形の旧道を経て、県道を横切って右斜めの坂を下っていくと、上街道の終点天王寺追分に出て出羽街道中山越に合流する。

天王寺追分 天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県
天王寺追分 天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県

昔の街、出羽街道と上街道の分岐点。大正の初期までは茶屋があり、馬を乗り換えた場所です。俳聖松尾芭蕉と曽良は、小黒ヶ埼と美豆(みつ)の小島を尋ねようと、ここを西に折れ一栗(ひとつぐり)の宿まで足を運んだが日が暮れかかったので岩出山に泊まったと曽良日記に記されています。ここのある山神塔は、江戸時代に建てられたもので道標を兼ねています。 宮城県 岩出山町 陸奥上街道 上街道(松山街道)と出羽街道(水戸街……

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昔の街、出羽街道と上街道の分岐点。大正の初期までは茶屋があり、馬を乗り換えた場所です。俳聖松尾芭蕉と曽良は、小黒ヶ埼と美豆(みつ)の小島を尋ねようと、ここを西に折れ一栗(ひとつぐり)の宿まで足を運んだが日が暮れかかったので岩出山に泊まったと曽良日記に記されています。ここのある山神塔は、江戸時代に建てられたもので道標を兼ねています。 宮城県 岩出山町 陸奥上街道 上街道(松山街道)と出羽街道(水戸街道)の分岐点・・・芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日9に上街道と別れ小黒崎・みずの小島を訪れようとして出羽街道を西に向かったが、途中から引き返し岩出山に泊まった。おくの細道には「南部道遥かに見やりて岩手(出)の里に泊まる」とある。

分岐点には道標を兼ねた山神塔のほか、「おくのほそ道」の案内板、上街道の石柱などが建てられている。ここで「奥州」でなくて「陸奥」上街道となっている。ここには大正初期まで「たまを茶屋」という茶店があって、鳴子温泉に往来する旅人で賑わっていたという。

旧出羽街道中山越え 西天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県
旧出羽街道中山越え 西天王寺 上野目 岩出山 大崎市 宮城県天王寺追分

出羽街道の北西方向を眺めてみる。芭蕉一行はここから小黒崎・美豆の小島に寄ろうとすこし鳴子方面に歩をすすめたが日が暮れて引き返し、岩出山に泊まることにした。ここから岩出山の市街地まで、芭蕉がどのようにたどっていたのか、わからない。

とりあえず今回は県道17号で国道47号の要害交差点をわたり県道226号をたどって街中に入ろうと思う。町の中央を縦走する広い通りが県道226号で、出羽街道の道筋であろう。仲町、本町の区間が一段と幅広く整備されている。

芭蕉宿泊の地 二ノ構 岩出山 大崎市 宮城県
芭蕉宿泊の地 二ノ構 岩出山 大崎市 宮城県

おくのほそ道と岩出山 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸を出発し、歌枕を訪ねる旅に向いま した。一ケ月余りで現在の宮城県に入り、仙台、松島などを経て、現在の岩手県、一関、平泉に至りました。5月14日、一関を立って南下した芭蕉は、その日、ここ岩出山に宿泊し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る」と書き残しています。 この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出……

説明の全文を読む(約480字)

おくのほそ道と岩出山 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸を出発し、歌枕を訪ねる旅に向いま した。一ケ月余りで現在の宮城県に入り、仙台、松島などを経て、現在の岩手県、一関、平泉に至りました。5月14日、一関を立って南下した芭蕉は、その日、ここ岩出山に宿泊し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る」と書き残しています。 この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出山町真山地区に残っており、現在は「国指定史跡陸奥上街道」として整備され、いにしえを偲ぶことができます。 芭蕉に同行した門人、曾良の日記によると、14日のうちに小黒ヶ崎、美豆の小島(岩出山町と鳴子町の境)を見ようと足を進めましたが、二里(約8km)ほど先であるため、岩出山に戻り宿泊し、翌15日に訪れたことがわかります。 当時の岩出山の様子については「岩手山。やしきも町も平地。上の山は政宗の初の居城なり。杉茂り、東の方、大川なり。玉造川という。岩山なり。」と記しています。 なお、芭蕉が宿泊したのは石崎屋という旅篭で、現在の岩出山交番所付近にあったといわれています。

旧岩出山宿町並 二ノ構 岩出山 大崎市 宮城県
旧岩出山宿町並 二ノ構 岩出山 大崎市 宮城県南より仲町、本町方面

仲町交差点北東角の交番あたりに旅籠石崎屋があり、元禄2年(1689)5月14日芭蕉と曽良が一泊した。一筋北の右手ポケットパークに芭蕉像と奥の細道案内板、岩出山町道路元標などが建っている。芭蕉は当初岩出山から出羽街道を南に下り中新田(現加美町)迄戻り、そこから中羽前街道(銀山街道)(国道347号)をたどって小野田経由で尾花沢にでる計画だった。しかし、その行程は遠回りになるだけでなく難所があることを知らされて急遽鳴子経由に変更した。翌朝芭蕉は岩出山のどこにも寄らずそそくさと出羽越えに発った。

小黒崎・美豆(みづ)の小島

5月15日(新暦7月1日)

江合川・岩出山大橋 新上川原 岩出山 大崎市 宮城県
江合川・岩出山大橋 新上川原 岩出山 大崎市 宮城県
奥の細道案内標識 上野目要害 岩出山 大崎市 宮城県
奥の細道案内標識 上野目要害 岩出山 大崎市 宮城県国道47号・県道17号交差点

昨夜来た道筋を逆にたどり岩出山大橋で江合川(えあいがわ)を渡る。橋を渡って左折、上野目深山の後藤酒店前を右折して国道47号要害信号を横断して県道17号に移る。角に奥の細道、上街道(迫街道)の案内標識が建っている。

興国山天王寺 上野目天王寺 岩出山 大崎市 宮城県
興国山天王寺 上野目天王寺 岩出山 大崎市 宮城県

推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺のーつであると伝えられている。当時の七堂伽藍は焼失し、元暦元年(1184)に、平泉藤原秀衡によって再建され、運慶作の聖観音像と聖徳太子像を安置した。 天正18年(1590)の大崎一揆の際に、再度火災にあい寺院は焼失したが、仏像は岩手沢城に移され、翌年伊達攻宗が米沢から岩手沢城に移った際に再建され、仏像も本寺に戻った。しかし明治38年(1……

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推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺のーつであると伝えられている。当時の七堂伽藍は焼失し、元暦元年(1184)に、平泉藤原秀衡によって再建され、運慶作の聖観音像と聖徳太子像を安置した。 天正18年(1590)の大崎一揆の際に、再度火災にあい寺院は焼失したが、仏像は岩手沢城に移され、翌年伊達攻宗が米沢から岩手沢城に移った際に再建され、仏像も本寺に戻った。しかし明治38年(1905)にまたも火災にあい、聖観音像と聖徳太子像を失った。現在は室町時代に作られた如意輪観音と四天王像が、町の有形文化財に指定され安置されている。 境内には、正和、建武、康暦等の鎌倉・室町時代の年号板碑がある。

下鎌集落の手前で左に直角に折れ西に進んでいくと右手に追分の名前となった天王寺がある。推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。三度の火災にあって七堂伽藍も運慶作の聖観音像と聖徳太子像も焼失した。

天王寺追分に戻ってきた。ここから本日の行程である。出羽街道中山越は天王寺追分をそのまま真っ直ぐに進み、鳴子を目指す。街道は右手に延びる丘陵の麓に沿ってのどかな集落を縫っている。

一栗城跡 下一栗宿 岩出山 大崎市 宮城県
一栗城跡 下一栗宿 岩出山 大崎市 宮城県

室町時代末期に、奥州探題の大崎氏の家臣である一栗兵部隆春が築いて居城とした東西約600m、南北約400mの範囲に、中館(本丸)、東館、小館、西館が馬蹄形状に配置され、それぞれが深い谷や断崖を防備に利用している。中館には一栗兵部、東館には兵部の家来千田雅楽之丞、小館には兵部の家来半田土佐守、西館には兵部の祖父一栗放牛が居住していた。天正18年(1590)お大崎一揆の際には、兵部の一族がこの城に立てこ……

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室町時代末期に、奥州探題の大崎氏の家臣である一栗兵部隆春が築いて居城とした東西約600m、南北約400mの範囲に、中館(本丸)、東館、小館、西館が馬蹄形状に配置され、それぞれが深い谷や断崖を防備に利用している。中館には一栗兵部、東館には兵部の家来千田雅楽之丞、小館には兵部の家来半田土佐守、西館には兵部の祖父一栗放牛が居住していた。天正18年(1590)お大崎一揆の際には、兵部の一族がこの城に立てこもり、伊達政宗の軍に抗戦したが、翌年に大崎氏と共に滅亡し廃城となる。江戸時代には、大崎氏の元家臣、四釜氏が居住した。 岩出山町教育委員会

左手にトタンで一部補修した茅葺屋根の農家をみて一栗城跡に差し掛かる。室町時代末期、大崎氏家臣の居城だった。

芭蕉は岩出山に一泊する前日、天王寺追分から小黒ヶ崎をめざしてこのあたりまで来ていたのだが、日が暮れて前進を断念、岩出山に泊ることにしたものである。

街道碑 下宮白山 池月 岩出山 大崎市 宮城県
街道碑 下宮白山 池月 岩出山 大崎市 宮城県出羽海道中山越は、仙台城下から吉岡、岩出山、中山を経て山形に至る道でした。松山街道は一関(岩手県)で奥州街道から分かれ、岩ヶ崎、一迫を経て岩出山に至り出羽海道中山越に接続する道でした。松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅で、平泉(岩手県)からこれらの道を通り岩出山を経て尾花沢(山形県)に向いました。

池月小学校前に街道碑がある。学校の前の道が出羽街道中山越と考えそうだが、旧道はもうすこし手前で斜めに南下し、池月駅の東方で線路を横切って駅前集落を通り抜け国道47号の池月信号交差点に出ていたようである。その跡をさぐってみると、それらし道が線路まで残っていた。誰も通らない廃道である。民家の間を縫って駅前通りを斜めにぬける道が残っている。これが旧道跡かどうか定かではない。

旧下宮宿町並 下宮町 池月 岩出山 大崎市 宮城県
旧下宮宿町並 下宮町 池月 岩出山 大崎市 宮城県

下宮宿は国道池月信号を右折してJR線路までの短い区間に作られた。古い家が残っていない池月駅周辺だが、この通りだけは昔を偲ばせる家並をみることができた。この旧宿場通りは小僧街道とよばれている。踏み切りをわたったところで右から池月小学校前の道が合流してくる。

旧出羽街道中山越 上宮舘下 池月 岩出山 大崎市 宮城県
旧出羽街道中山越 上宮舘下 池月 岩出山 大崎市 宮城県

旧道は踏切りから小僧街道をすこし北に進み、花岳院の参道入り口で左折する。寺を回りこむようにして西に方向を転じてのびていく道は惚れ惚れするような街道である。時々孤立した人家があるだけで集落すら通らない。

芭蕉像・小黒ヶ崎 境松 鳴子温泉 大崎市 宮城県
芭蕉像・小黒ヶ崎 境松 鳴子温泉 大崎市 宮城県

素龍本おくのほそ道本分より抄 南部道遥にみやりて岩手の里に泊る。小黒崎・.みつの小島を過ぎて、なるこの場より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す。大山をのぼって日既に暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。 蚤風馬の尿する枕元 曽良随行日記よりの抄 十五日小雨ス右ノ道遠ウ難所有之由故、道ヲカヘテ、宮、……

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素龍本おくのほそ道本分より抄 南部道遥にみやりて岩手の里に泊る。小黒崎・.みつの小島を過ぎて、なるこの場より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す。大山をのぼって日既に暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。 蚤風馬の尿する枕元 曽良随行日記よりの抄 十五日小雨ス右ノ道遠ウ難所有之由故、道ヲカヘテ、宮、かじハ沢、此宿へ出タル、格別近シ。此間、小黒崎・水ノ小鳥有。名生貞ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中二岩鳥二松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ票ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。

2kmほどいくと小黒ヶ崎に至る。観光センター駐車場で芭蕉がまぶしそうに空を見上げている。小黒ヶ崎山を至近距離から眺めていたのであろう。

小黒ヶ崎 境松 鳴子温泉 大崎市 宮城県
小黒ヶ崎 境松 鳴子温泉 大崎市 宮城県

そばに大きな案内板があって、奥の細道本文と曽良随行日記からの抜粋が記されている。池月からはなだらかな丘陵に見えていた山が国道のすぐ傍まで迫ってくると、木々の一本一本が明瞭に眺められて秋の錦が織りなす小黒ヶ崎山は美しい迫力を見せていた。暖色に混じって純緑色の松の木がその存在を目立たせている。どこでも名勝は春か秋にすぐる季節はないが、特に小黒ヶ崎山はその季節に限るといわれる。芭蕉がたずねたときは梅雨が明けようかという蒸し暑い日。山はただ緑一色という単調な装いであった。

歌碑 美豆の小島 竹原 鳴子温泉 大崎市 宮城県
歌碑 美豆の小島 竹原 鳴子温泉 大崎市 宮城県古今和歌集 巻第二十 東歌 をぐろ崎 みつの小島の 人ならば 都のつとに いざといはましを

そこから僅か行ったところで左に入る細道がある。道なりにたどっていくと江合川の川原にもうひとつの歌枕がある。美豆の小島といって、川中島に巨岩がありその上に生えている松が風情ひとしおであると愛でられた。

川原の駐車スペースに歌碑がある。

をぐろ崎 みつの小島の 人ならば 都のつとに いざといはましを

美豆の小島 竹原 鳴子温泉 大崎市 宮城県
美豆の小島 竹原 鳴子温泉 大崎市 宮城県

美豆の小島は水の小島、みづの小島とも書き、10世紀初めにつくられた古今和歌集や13世紀初めの続古今和歌集にも出てくる歌枕の名所です。松尾芭蕉が門人の河合曽良とともにここを通ったのは、1689年7月1日(元禄2年旧暦5月15日)、尿前の関に向う途中のことでした。それまで多くの歌に詠まれてきた美豆の小島でしたが、その場所をここと特定したのはこの時の曽良の日記がはじめてのものです。曽良によると、川中に岩……

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美豆の小島は水の小島、みづの小島とも書き、10世紀初めにつくられた古今和歌集や13世紀初めの続古今和歌集にも出てくる歌枕の名所です。松尾芭蕉が門人の河合曽良とともにここを通ったのは、1689年7月1日(元禄2年旧暦5月15日)、尿前の関に向う途中のことでした。それまで多くの歌に詠まれてきた美豆の小島でしたが、その場所をここと特定したのはこの時の曽良の日記がはじめてのものです。曽良によると、川中に岩の島があり、松が3本、そのほか小木が生え、この時は江合川右岸と川原続きになっていたようjです。さらに以前は中洲であったとも書かれています。美豆の小島は川の流れによってその形や場所を少しずつ変えていましたが、1890年(明治23年)の洪水で、荒廃してしまいました。現在の鳥居は大正時代に建てられたものです。 小黒崎みつの小島にあさりする 田鶴そなくなり渡たつらしも (続古今和歌集 四条天皇) 人ならぬいはきもさらにかなしきは みつのこじまの秋の夕ぐれ (続古今和歌集 順徳院)

「小黒崎美津の小島が人ならば、都の土産に、共に参ろういざと言うだろうに 」という意味らしい。現代訳されてもまだわからない。

水流の変遷によって岩の相対的位置は岸辺であったり川中であったりと変わった。今曽良によれば、当時小島は向こう岸に接していた様である。生えている松は勿論新しい。そんなことを勘案しても現代の美豆の小島は昔に劣らず趣きあるように見えた。

国道にもどて次ぎの宿、鍛冶谷沢を目指す。川渡駅前通りの商店街を通り抜け、県道253号を越えて200mほどいったところの三叉路「鍛冶谷宿駅跡」と東北大学付属農場が併記された矢印標識が立っている。その三叉路をUターン気味に折れて坂を登っていく。「第一羽後街道踏切」を渡って、なおゆるやかな坂を上がったところが旧鍛冶谷沢宿である。

鍛冶谷澤駅跡 町 鳴子温泉 大崎市 宮城県
鍛冶谷澤駅跡 町 鳴子温泉 大崎市 宮城県江戸時代の往還道や主要な脇街道には宿駅が設けられ、旅人の利便が図られた。この鍛冶谷沢駅も元和年中(1615~23)に設置されたもので旅籠、休憩所、茶店が設けられ、出羽海道玉造五駅(岩出山・下宮・鍛冶谷沢・尿前・中山)の宿駅として人馬の補充・継立が行われたところで、現在も街時の面影が残されている。

手民家の生垣の隙間に立派な湯殿山碑にならんで、「鍛冶谷澤駅跡」の碑があった。どのあたりから宿場が始まっていたのか、よくわからない。踏切までもどり線路の南側についている細道を西に進んだ。鍛冶谷澤集会所を通り過ぎて鳴子中学校前で広い車道に出た。宿場跡からこの地点への近道があったのが鉄道の敷設で消失したのだろうと思われる。

沿道にちらほらと旅館が目に付くようになってきた。

旧道 出羽街道中山越 赤這~岩淵前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
旧道 出羽街道中山越 赤這~岩淵前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

旧街道は江合川左岸に出てくる。東北電力池月ダム取水口をすぎた辺りに民家に向って右斜めに上がる細道がある。これが旧道だろう。民家の玄関先をすぎると杉並木の峠道さながらの情緒ある場所を通る。道は車道におりて川とホテル紫雲峡のために途絶している。左におれて堤防道を進み、市民病院鳴子温泉分院病院脇の道にはいって病院裏手の敷地を西に進む。紫雲峡で消失した道筋の延長線上に当る。

洞川院 末沢 鳴子温泉 大崎市 宮城県
洞川院 末沢 鳴子温泉 大崎市 宮城県南部道遥かにみやりて岩手の里に泊る。・・・・(紀行文)元禄2年陽暦6月30日(1689)岩出山に一泊した松尾芭蕉は翌7月1日曽良と共に小黒ヶ崎美豆の小島の景勝地を指して山沿いに赤這、末沢と鳴子温泉病院そして、この洞川院の前の道を通っていく。 曽良旅日記 「尿前、取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有、鳴子の湯有、澤子の御成ト伝、関所有、断六ヶ敷也。・・・・」

職員宿舎第3号棟前を通ってパイプ手摺の橋をわたると洞川院の前に出る。寺の入り口に奥の細道標柱があって、旧道であることを確認できる。旧道は裏通り風情の道を進んで国道108号に突き当たる。この国道108号が、鳴子大橋の南詰で国道47号と分かれてきた羽後街道である。出羽街道の旧道は国道108号をよこぎって建物の隙間を通り抜け、左にまがって村本旅館の手前で舗装された堤防道に出る。

まもなく道は砂利道となり中屋敷で二股にさしかかる。前方右手にジャンボの里右にとって堤防からおりる。草むらの中で道が二つにわかれているが、右にまがって岩淵前集落に向う。車道につきあたり左折し小さな集落を通り抜けると道は江合川につきあたる。道は左にまがって再び堤防道になる。

岩淵渡し跡付近 岩淵前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
岩淵渡し跡付近 岩淵前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

道なりに南にくだり左に曲がると右手河川敷にかかるように二軒の人家がある。犬がうるさく吠えた。人家の先で右におりる道があり、草道をたどっていくと深い草むらの空き地に出た。わずかに畑が耕されている様子である。樹木と草にさえぎられて前方の様子がよく見えないが、この先が渡し場になっていて対岸に尿前の関所があったはずだ。芭蕉はここから綱渡しで江合川を渡っていった。

尿前の関・中山越え

対岸へは鳴子大橋までもどらなくても、数ヶ所に設けられている釣客用の歩道橋で渡ることができる。二股近くから川に下る細道にはいっていくと水面まで1mほどもない低さに架けられた橋があった。鳴子温泉自体は出羽街道沿いになく、芭蕉も寄っていかなかった。

尿前の関 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
尿前の関 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

義経伝説 弁慶の船引き 陸奥の国に入った義経一行は尿前の関守館に旅装束をとき、しばらくぶりに安らぎの一夜を明かした。山の幸・川の幸でもてなしを受け、川下の川原湯に案内された。北の方はことのほか喜ぱれ朝な夕な亀若丸と共に入浴して、長途の疲れと産後の回復にしばし留まることになった。毎日の送り迎えは弁慶の日課となった。 以前、上鳴子には船渡・船引という地名があったが、これは北ノ方の毎日の入浴に弁慶が流れ……

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義経伝説 弁慶の船引き 陸奥の国に入った義経一行は尿前の関守館に旅装束をとき、しばらくぶりに安らぎの一夜を明かした。山の幸・川の幸でもてなしを受け、川下の川原湯に案内された。北の方はことのほか喜ぱれ朝な夕な亀若丸と共に入浴して、長途の疲れと産後の回復にしばし留まることになった。毎日の送り迎えは弁慶の日課となった。 以前、上鳴子には船渡・船引という地名があったが、これは北ノ方の毎日の入浴に弁慶が流れを漕いで船を引いたことからでた地名だという。 その温泉は川原湯(現在の姥ノ湯)だといわれ、亀若丸を湯にいれて「この地、もはや藤原秀衛の国なれば泣き玉うともはばかることなしと申しければ、始めて泣き玉う」と。 故、「泣き子の湯」といい、瀬見の湯は「なかずの湯」といったという。 鳴子町史より

国道47号で大谷川を渡った先で国道と分かれて右に下りていくと林の中に尿前の番所跡にたどり着く。芭蕉は対岸から船でここへ渡ってきた。ここで二人はトラブる。通行手形を所持していなかったのだ。関所通過に手形が要るのは常識である。岩出山で急遽軽井沢越えをやめて中山越えにしたのだが、そのとき尿前関用の手形を用意しなかった。

芭蕉は本文で「関守にあやしめられて、漸として関をこす。」と記し、曽良は「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。(説明しただけでは通行はむずかしい。出手形を用意するべきだった」と、当たり前のことを書いて悔いている。袖の下を払って通してもらったのだろう。

番所旧宿場跡 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
番所旧宿場跡 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

尿前番所は関守遊佐氏の屋敷内に造られ、出羽街道はこの屋敷の中を通っていた。屋敷は土塀がめぐらされ、長屋門、役宅など10棟もの建物でなっていた。復元された門をくぐるとこけむした石段がつづき、奥に芭蕉立像と文学碑が立つ。跡地の左手に石畳の道があって数軒の民家が立ち並んでいる。

尿前の関跡 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
尿前の関跡 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
出羽街道中山越・尿前坂入口 湯元 鳴子温泉 大崎市 宮城県
出羽街道中山越・尿前坂入口 湯元 鳴子温泉 大崎市 宮城県

奥羽山脈中の、最低部を切り開いて造られた、多賀城より出羽柵への、最短の街道である。元慶の乱(878)の後、出羽と陸奥の境目にあり、軍事上の要所である尿前に、岩手の関が設けられ、寛文10年(1670改めて、尿前境目番所を設け、往来を厳しく取締った。元和年中(1615~23)国境から岩出山までに、尿前・鍛冶谷沢・下宮・岩出山の4駅が置かれ、後更に中山の宿にも駅が置かれた。元禄の仙台領絵図に「鳴子村より……

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奥羽山脈中の、最低部を切り開いて造られた、多賀城より出羽柵への、最短の街道である。元慶の乱(878)の後、出羽と陸奥の境目にあり、軍事上の要所である尿前に、岩手の関が設けられ、寛文10年(1670改めて、尿前境目番所を設け、往来を厳しく取締った。元和年中(1615~23)国境から岩出山までに、尿前・鍛冶谷沢・下宮・岩出山の4駅が置かれ、後更に中山の宿にも駅が置かれた。元禄の仙台領絵図に「鳴子村より境まで難所、10月より3月迄積雪、馬足不叶」とあり、ここより尿前までは難所つづきで、、元禄2年(1689)松尾芭蕉が曽良と共にこの街道を難儀して境田に向っている。享保12年(1727)秋田亀田領主がこの街道を通り、文化(1805)以後は、出羽の秋田・庄内・新庄等の家中が江戸への往来にこの道を頻繁に利用した。元禄古図によると、国境より宿まで32町28間とあり、それより尿前までは約1里の道のりである。

家並みがつきたところにも関所跡の標識がある。石畳の道を引き返す。大根や垣を吊るした軒下が秋色の深まりを感じさせる。

やっとの思い出関所を出て芭蕉と曽良は急な尿前坂に向かう。左方にある薬師神社前に自然石の芭蕉句碑があった。表には「芭蕉翁」と大きく刻まれているだけで、「蚤虱馬の尿する枕元」の句は裏面にある。明和5年の古い句碑である。

薬師坂 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
薬師坂 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

ロープを手繰りながら階段を上がる。国道47号を横切ってやや左によったところから第二段の石階段坂を上がる。この坂は薬師坂とよばれて、尿前の坂よりもさらに急で長い。東屋のある平地に出た。きれいに整備された道を右に100mほどいくと、右手に芭蕉に思いを寄せた斎藤茂吉の歌碑があり、さらにその奥に宝珠の頭だけを地上に置いた薬師堂跡がある。

奥の細道旧道 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
奥の細道旧道 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県薬師堂跡先の二股を右に入る。 この先坂を下って舗装道に出て右折

道はすぐ先で二つに分かれ、出羽街道・奥の細道は右であるとの標識がある。旧道は鳴子トンネルの上を跨ぐ恰好で、鳴子スキー場の裾を通って山道を下り、先にわかれた町道の延長線に出る。小深沢入口の標識がある。

小深沢への道 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
小深沢への道 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

右におれて車道をたどっていくと右手に内山伊右衛門の墓を通り過ぎて一旦国道に出る。すぐに鳴子こけしを乗せた「奥の細道入口」の標識が立ち、となりには小深沢0.2kmの案内標識があった。小深沢までの200mの道は難所のイメージにほど遠いなだらかな下り道である。すでに国道は沢に近い位置に来ていたからであろう。「おくのほそ道」遊歩道として大々的に整備されただけあって、快適な道である。

小深沢 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
小深沢 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県小深沢は出羽街道の中で、けわしい沢の一つで、深い谷底へ下りて越さねばならない九十九折の道である。元禄2年(1689)5月芭蕉と曽良が通った頃は、谷底へ下りて6曲がりの坂を上り下りする難所であった。元禄古図に「小深沢、歩渡幅2間、深さ2寸、小深沢坂長さ46間、難所御座候」と書かれている。

小深沢の橋を渡ってから本格的な難所がはじまる。つぎの大深沢までにきつい山登りがある。九十九折の道を登る。振り返ると色とりどりに染まった木々の合間から下方に赤い橋脚の橋が見えた。

ふるさとの森 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
ふるさとの森 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県ふるさとの森 奥の細道 大深沢入り口まで7分

息が切れたところからしばらく平坦な道が続き錦秋の山道歩きを楽しむ余裕が出てきた。このあたり「ふるさとの森」とよばれて、一角に前田夕暮の歌碑が説明抜きでぽつねんとある。

「大深沢1.0km」の表示がある。

「ふるさとの森 奥の細道 大深沢入り口まで7分」の表示がでてくる。

7分ほど歩いて入り口にやってきた。白塗りのパイプで柵が設けてある。

大深沢 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県
大深沢 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県

陸奥より出羽に通ずるこの街道中、鳴子村には、玉造川歩渡・大谷川歩渡・尿前坂・苗からし坂・小深沢坂・小深沢歩渡・大深沢坂・大深沢歩渡・きね坂・いさこ坂・陣ヶ森坂・軽井沢坂等の坂や歩渡が多く、この街道中最もけわしい道筋である。中でも大深沢は、安永風土記(1773)に「出羽江之街道尿前通等一之難所、坂沢ニ而登り下り十丁軍用之所ニ御座候」と記載され出羽街道中最大の難所である。この街道は陸奥と出羽の最低部を……

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陸奥より出羽に通ずるこの街道中、鳴子村には、玉造川歩渡・大谷川歩渡・尿前坂・苗からし坂・小深沢坂・小深沢歩渡・大深沢坂・大深沢歩渡・きね坂・いさこ坂・陣ヶ森坂・軽井沢坂等の坂や歩渡が多く、この街道中最もけわしい道筋である。中でも大深沢は、安永風土記(1773)に「出羽江之街道尿前通等一之難所、坂沢ニ而登り下り十丁軍用之所ニ御座候」と記載され出羽街道中最大の難所である。この街道は陸奥と出羽の最低部を通る、多賀城より秋田方面への最短通路であったので、往来は頻繁でありまた軍用上大きな意義をもっていた。大深沢には中世の奥羽騒乱の際に陣地が設けられている。戊辰の役(1868)の際には、岩出山領主伊達氏を始め、仙台藩士や家中が、尿前に本陣を置き、小深沢・大深沢・中山宿・陣ヶ森・関沢・羽州笹森・向町に詰番所を構え警備を行った。

しばらく歩いてようやく下り坂が始まった。道は落ち葉で埋まって心地よい。下り道も九十九折で、階段を慎重に下りて橋がみえる沢にたどり着いた。水の流れは小深沢よりも小さいくらいである。休む間もなく上り始める。二山越える難所ということである。小深沢からの上りに比べればいくらか楽に思えた。

大深沢出口・国道に合流 星沼 鳴子温泉 大崎市 宮城県
大深沢出口・国道に合流 星沼 鳴子温泉 大崎市 宮城県

上り坂はやがて峠道となりまもなく山中を抜けて集落に出る。出口右手に自然石の「青面金剛童子碑」があった。車道をたどると道は二手に分かれる。車道脇に赤い鳥居があって水子地蔵の祠がある。旧街道はその道を行かずに、右側の民家脇を通り抜ける。下に国道47号が見えてきた。

国道を次ぎの宿場中山に向う。沿道には中山平温泉の旅館が点在して、湯煙があちこちで気まぐれに立ちゆれている。硫黄の臭いが漂ってくる気がする。

中山宿駅跡 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県
中山宿駅跡 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県玉造5宿駅(岩出山・下宮・鍛冶谷澤・尿前・中山宿)の一つで、鳴子村尿前の、肝入・検断、遊佐平八郎・平右衛門父子の尽力によって、寛永2年(1625)に設けられ、検断がおかれた。幕末には「東西1町1間、南北33間 、戸数10戸、人口46」の規模であったといわれている。

中山平温泉駅前から1kmほどいったところに国道47号「仙台から81km」の標識が立つ。宿の沢をわたったところを右に折れると集落入り口に「中山宿駅の跡」、「奥の細道 中山宿」の二つの標識が立っている。中山宿は玉造郡5宿のなかで最も遅くに設けられた宿場である。設立に当っては鳴子村の肝入遊佐氏が大きな貢献をした。

標識の先を左にまがるともう家並みが終わる。山道への入り口に石碑が二基ある。右側が嘉永6年(1853)建立の遊佐大明神碑である。鳴子村尿前の肝入・検断遊佐平左衛門の偉業を讃えるものである。

山神社 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県
山神社 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県

義経伝説 中山宿の山神 義経一行が陣ケ森で山猿の歓待を受け一夜を明かして中山宿の里へと下ったところ、炭焼き源三の女房おせんという女が難産で難渋していることを聞いた。亀割峠で北の方の産婆役を務めた十郎権頭兼房がその役を買って出、弁慶が栗の木で錫杖を作り、西方浄土を伏し拝んで、諸仏諸菩薩の中でも大慈大悲の深い観世音菩薩を祈り呪文を唱えると、おせんは無事に女子を出産しました。源三をはじめ里人は涙して一行……

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義経伝説 中山宿の山神 義経一行が陣ケ森で山猿の歓待を受け一夜を明かして中山宿の里へと下ったところ、炭焼き源三の女房おせんという女が難産で難渋していることを聞いた。亀割峠で北の方の産婆役を務めた十郎権頭兼房がその役を買って出、弁慶が栗の木で錫杖を作り、西方浄土を伏し拝んで、諸仏諸菩薩の中でも大慈大悲の深い観世音菩薩を祈り呪文を唱えると、おせんは無事に女子を出産しました。源三をはじめ里人は涙して一行に合掌したという。後年、その大慈悲を人々に分かつため、弁慶の作った栗の錫杖を本尊として山神社を建立した。中山では規模の大きい社殿で、祭礼には昔は角力と神楽が奉納され3夜2日行われたが、現在も安産の神として信仰が厚く、妊婦を持つ母親は10月10日の願をかけ、安産を祈願しており、お礼参りも盛んである。 鳴子町史より 鳴子町観光協会

旧中山宿集落 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県
旧中山宿集落 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県

すぐ先には鳥居の奥に山神社がある。鳥居の足元に青面金剛碑、すこしはなれた小祠には立派な金精神が祀られている。ここからふりかえると旧中山宿集落が一望できる。両手ですくいあげられそうなこじんまりとした集落である。

杉並木 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県
杉並木 川端 鳴子温泉 大崎市 宮城県

間伐されてすずしげな杉木立の中を行く。鳴子の深沢遊歩道と同じくこの道も奥の細道遊歩道として整備された道であるが、鳴子からここまで足を延ばす人はそう多くはなさそうで、深閑とした空気に包まれている。杉林をぬけると景色はひろがりを見せて、砂利道を進んでいくうち道沿いに別荘かペンション風の明るい人家が建っていた。平坦な道が続いて、開けた右方に対して左側にまとまった林が現れる。やがて農道を右に分けて軽井沢に下る山道の入り口にたどり着いた。

旧出羽街道中山越 軽井沢 西原 鳴子温泉 大崎市 宮城県
旧出羽街道中山越 軽井沢 西原 鳴子温泉 大崎市 宮城県

ながい下り坂だが、大深沢のような急な勾配ではなく、難所という険しさを感じさせなかった。紅葉の山道を楽しみながら下りていくと、谷川のせせらぎが聞こえてきて軽井沢にかかる短い橋が見えてきた。水流は豊かで清冽である。橋の上流に小規模な淵が形成されて、緻密な水平の岩相が露出している。清水の流れを見つめながらしばらく休んだ。

旧出羽街道中山越 宮城・山形県境付近
旧出羽街道中山越 宮城・山形県境付近

ここから先、義経所縁の甘酒地蔵と三界万霊塔などをみて比較的平坦で歩きやすい道を進む。道は幅広く落葉を敷きつめた絨毯の上を歩いているような心地よさである。

やがて左手に一軒の家が見え、その先の小川をわたる。この小川は大谷川で、江戸時代新庄藩と伊達藩の藩境をなしていた。

出羽街道中山越の最大の難所である尿前坂からここまでの山越えについて芭蕉も曽良もほとんど記録に残していない。芭蕉は「大山をのぼつて日既暮ければ」と極めて冷静で、曽良にいたっては「一リ半、中山」とまるで書き捨てるような冷めかたである。関所でいじめられ、3回、4回の険しい上り下りで心身ともに疲労困憊し、かなりやる気をなくしていた。

堺田

5月15日(新暦7月1日)-5月17日(新暦7月3日)

出羽街道中山越旧道 堺田 最上町 最上郡 山形県
出羽街道中山越旧道 堺田 最上町 最上郡 山形県

細道は国道47号を横切って再び山道に続いている。足元をよくみると落葉の下に石畳が敷かれていた。石の古さからみて遊歩道で整備されたものだろう。

封人の家(旧有路家住宅) 堺田 最上町 最上郡 山形県
封人の家(旧有路家住宅) 堺田 最上町 最上郡 山形県

一重寄棟造りの茅葺で桁行24.755m、梁間9.999m、平面積269。18㎡(約81坪)の大型民家である。山形県東北部に、江戸時代から見られた広間型民家の代表例として、重要文化財に指定された最上町の建造物。この住宅は創建後、300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であった。昭和46~48年の解体復元工事によって、創……

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一重寄棟造りの茅葺で桁行24.755m、梁間9.999m、平面積269。18㎡(約81坪)の大型民家である。山形県東北部に、江戸時代から見られた広間型民家の代表例として、重要文化財に指定された最上町の建造物。この住宅は創建後、300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であった。昭和46~48年の解体復元工事によって、創建当時そのままの姿が現在に伝えられている。住宅内部は床の間、いりの座敷、中座敷、ご座敷、納戸の5部屋と水屋、土間(内庭)、ろうじ及び内馬屋に分かれている。建物の大きさ、3つもある出入り口、畳敷きで天井のある床の間といりの座敷、3つの内馬屋と広い内庭などが、庄屋役の外に問屋と旅宿の機能も兼ね、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史上の多様な役割を物語っている。通称の「封人の家」とは、国境を守る役人の家という意味であるが、この名称は俳聖松尾芭蕉の『おくの細道』に由来する。元禄2年(1689)5月15日(太陽暦7月1日)、門人の曽良を伴い仙台領を抜けた芭蕉は、その夕暮れ時に堺田村にたどりついた。芭蕉師弟は、梅雨時の風雨のために、その晩から2泊3日にわたって「封人の家」に逗留した。そのゆかりの宿がこの住宅である。芭蕉は「封人の家」に滞在中、「 蚤虱馬の尿する枕もと 」という句を詠んだ。この句には、この住宅の構造そのものと、かって馬産地であった最上町の歴史的地域性が読み込まれている。 昭和61年10月 山形県最上町

国道に沿って北上し、まもなく合流する。堺田集落の家並みがはじまるとすぐ右手に大きな茅葺の建物がどっしりと構えていた。堺田村の庄屋、有路(ありじ)家の住宅である。有路家は藩境の守役(封人)を勤める傍ら宿場の問屋も兼ねていた。二人はここに泊めてもらった。

芭蕉句碑 封人の家 堺田 最上町 最上郡 山形県
芭蕉句碑 封人の家 堺田 最上町 最上郡 山形県蚤虱馬の尿する枕もと

中へ入ると愛想のよい管理人のおじさんが早速お茶を出してくれた。ほどなくご婦人の一団が囲炉裏に仲間入りしたのを機に座を離れて屋内を一周する。昭和46年に解体・復元されたという大型農家の建物はつかわれている木材が太くて黒光りした光沢を放ち、重厚な趣のある建築物である。芭蕉が休んだのは中座敷だったらしい。土間をへだてて馬屋があり、その一つによくできた張子の馬が首を出していた。馬の放尿が強烈な勢いであることは知っている。臭いもそれに劣らず強烈であったのだろう。馬が目の前にいると錯覚するほどだった。芭蕉一流の誇張で一句を詠んだ。家の西側に句碑がある。

蚤虱馬の尿する枕もと

あくる日は大雨でもう一晩ここに泊り三日目の17日(新暦7月3日)に堺田を発った。

国分大明神 冨澤 最上町 最上郡 山形県
国分大明神 冨澤 最上町 最上郡 山形県隣りが笹森番所跡
旧笹森宿 富沢 最上町 最上郡 山形県
旧笹森宿 富沢 最上町 最上郡 山形県

笹森は国道から山側の高台にかけて集落がある。入り口に大きな屋根の民家がある。右手高台の一角に国分大明神があり、その隣りに笹森の口留番所があった。番所跡の標識などは見当たらない。

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行うところで、村人が武器を所持して自宅でその任に当たっていた。笹森では佐藤家が世襲で番人を勤めたという。二人はここを無事通過した。

旧道 冨澤 最上町 最上郡 山形県
旧道 冨澤 最上町 最上郡 山形県

集落の中ほどで芭蕉は南に折れて明神川を渡る。渡ったところに追分標識があって、「笹森口留番所跡・堺田」方面と、「新屋・明神」方面の二方向を示している。「新屋・明神」方面は明神川に沿って田圃の中を通っていく。雑草が深いあぜ道をしばらくいくと道は二手にわかれる。川沿いの道は前方で通行不能状態のようで、左の道を選んで進む。

旧道(笹森ー明神間) 冨澤 最上町 最上郡 山形県
旧道(笹森ー明神間) 冨澤 最上町 最上郡 山形県

曲折しながら小さな水路にかかる橋をわたり、右折左折するうち明神橋がみえるところまできた。

新屋聖観音 富澤 最上町 最上郡 山形県
新屋聖観音 富澤 最上町 最上郡 山形県

新屋聖観音は、古くから新屋の村人の守り神として祀られてきた観音様である。ご神体の聖観音像は像高約40cm、一本造りの立像で、微笑をたたえ優しい面相をしているものの、全体的に粗削りで素朴な彫り物である。作者と製作年はともに不明であるが、そう古い彫り物ではない。新屋聖観音の由来について、小国開闢の伝説に登場する主税介(田沢内匠介の弟)が祀ったとの言い伝えもあるが、疑問である。「新庄領村鑑」の記載とか堂……

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新屋聖観音は、古くから新屋の村人の守り神として祀られてきた観音様である。ご神体の聖観音像は像高約40cm、一本造りの立像で、微笑をたたえ優しい面相をしているものの、全体的に粗削りで素朴な彫り物である。作者と製作年はともに不明であるが、そう古い彫り物ではない。新屋聖観音の由来について、小国開闢の伝説に登場する主税介(田沢内匠介の弟)が祀ったとの言い伝えもあるが、疑問である。「新庄領村鑑」の記載とか堂宇内に納められた文化元年(1804)の「覚」(木札)から見て、この観音様が祀られたのは宝暦年間(1751~1764)から文化元年までの間と言えそうである。文化期からの新屋聖観音の信仰を伝えるものとして、文化10年(1813)奉納の絵馬、文政年間(1818~1830)建立の石灯籠などがある。新屋の人々は、長い間、この聖観音を「金神様」として崇めてきたという。昭和51年以後、新屋に人家はなくなったが、その後も例年、8月18日に新屋にゆかりある人びとによって祭りがたてられ、聖観音信仰が絶えることなく続いている。また、観音堂内には小国西国三十三観音の第24番、11面観音も合祀されており、三十三観音参り、あるいは7観音参りの信者も少なくない。 昭和61年10月 山形県最上町

ちょっとした十字路があって右は国道につながっている。その十字路を左にたどっていくと杉木立の下に新屋聖観音があった。新屋の守り神として信仰されていたが、今となっては新屋の集落自体がなくなって、廃村の象徴となってしまった。この前を通っているのが旧道なのか定かではない。明神集落へ通じているのであればこれが奥の細道なのかも知れない。

(2010年10月)

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